ミシガン、インディアナ、イリノイ、ウィスコンシン州内で従属した先住民たちは、ヨーロッパ系のアメリカ人によって、まだ価値を知らなかった地域にある州内の居留地に次々と強制移住させられていきます。1832年にブラックホーク(Black Hawk)が率いるソーク・アンド・フォックスの反乱 (Sauk and Fox uprising)というブラックホーク戦争(Black Hawk War)が起こり、若き日のエイブラハム・リンカン(Abraham Lincoln)を含む地元の民兵によって鎮圧された以外は、ほとんど抵抗がなくなりました。
1832年、チェロキー族(Cherokees)は、戦ではなく裁判所に訴え、ウースター対ジョージア(Worcester v. Georgia)という訴訟で最高裁判所で勝訴します。この裁判で、州は、アメリカ先住民の土地に規制を加える権利はないとされますが、ジャクソン大統領は、ジョージアを支持して、この判決を軽んじ無視します。
政府はミシシッピ川以南のインディアン準州、後のオクラホマ州への定住政策を強引に進め、1830年にこの政策が法制化されると、南東部の先住民たちは「涙の道(Trail of Tears)」に沿って西へと追いやられることになります。しかし、セミノール族は抵抗し、フロリダの湿地帯で7年にわたる第二次セミノール戦争(Second Seminole War)を戦い、結果として1842年に降伏します。この第二次セミノール戦争は、アメリカ独立戦争からベトナム戦争の間で合衆国が関わった戦争では最も長く続いた戦争でした。後に先住民たちはこれを「インディアンのベトナム戦争」(Vietnam War by Seminole) と呼んでいます。
ヘンリー・ソロー(Henry David Thoreau)もエマーソンを師と仰ぎ、薫陶を受けた思想家です。エマーソンやソローらの改革者たちは、同じ志を持つ理想主義者と団結して新しい社会モデルを実践し、主張することに矛盾を感じませんでした。エマーソンらの精神は、同じような考えを持つ独立した個人による社会活動を通じて復活し、強化されることになったのです。
千年王国説(Millennialism)という、キリストの再臨を前に、世界はまもなく終わり、罪を清めなければならないという教えは、チャールズ・フィニー(Charles G. Finney)などの信仰復興運動家(revivalists) が説いたものです。この教えは、「世俗的完全主義」と対峙するものでした。世俗的完全主義とは、世界の仕組みを実現可能な形に変えることによって、あらゆる形の社会や個人の苦しみを取り除くことができるという考えです。
それゆえに、千年王国説によってさまざまな十字軍(crusade)や十字軍兵士などが誕生したのです。公教育が最も大事であると説いたホレス・マン(Horace Mann)は、マサチューセッツ州教育委員会の教育委員からアンティオキア大学 (Antioch College)の学長になり、学生たちに「人類のために何らかの勝利を収めるまでは、死ぬことを恥と思え」と説きました。ホレス・マンは政治家でもありましたが、「アメリカの教育の父」(Father of American Education)と呼ばれるほど、公教育の普及に尽力した人物です。
そのような反対を克服する一つの方法は、運命とされたり、社会から見放され、虐待されてきた人々の状態を改善することでした。例えば、サミュエル・ハウ(Samuel Howe)が率いた聴覚障害者への教育運動や、ボストンの企業家トーマス・パーキンス(Thomas Perkins)やジョン・フィッシャー(John D. Fisher)による盲人教育機関の設立があります。パーキンスは、キリスト教のビジネスマンにとって、自分の事業に対する神の祝福に感謝を示すために慈善事業を行うことは良い方法だと考えていたのです。また、ドロシー・ディックス (Dorothea Dix)は、神と科学に対する敬虔な信者であった独立宣言の署名者ベンジャミン・ラッシュ (Benjamin Rush)の先例にならって、精神障害者の酷い扱いを改善するための活動を行っていきます。
パーキンス盲学校(Perkins School for the Blind)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンの郊外にある、視覚や聴力障害、他の障害を合わせ持つ人たちのための学習センターです。卒業生には、ローラ・ブリッジマン(Laura Bridgman)、アン・サリバン(Anne Sullivan)、ヘレン・ケラー(Hellen Keller)がいます。
著名なフランス人政治思想家で法律家、外務大臣を務めたアレクシス・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)は、ジャクソン大統領時代のアメリカに渡り、諸地方を見聞しては自由・平等を追求する新たな価値観をもとに生きる人々の様子を克明に観察します。そして、アメリカ社会は驚くほど平等主義的であると感じていきます。結社による社会活動が盛んなことにも、トクヴィルはアメリカを旅行して驚嘆しています。フランスでは、結社はたいてい特権集団であり、自由な職業活動の敵でした。ところが、アメリカでは、結社が自由を促進し、デモクラシーを支えていると観察します。
一般に、都市に住む1パーセントの富裕層は、大陸の東北に位置する大都市の富の約2分の1を所有していましたが、人口の大部分はほとんど、あるいは全く富を持っていませんでした。長年「庶民の時代(Age of the Common Man)」と言われていたのですが、やがて豊かになると、裕福で名声のある家に生まれることがほとんどとなりました。1830年以降、西部の街でも、貧富の差は激しくなりました。庶民はこの時代に暮らしていましたが、時代を支配していたわけではありませんでした。同時代の人々は、富豪は存在せず、アメリカ人の生活が民主的であると思い違いし、新世界でも旧世界と同様に富、家族、地位が影響力を発揮していることに気づかなかったようです。
トクヴィルはアメリカで9カ月間の視察旅行をします。このときの体験をもとに書いたのが『アメリカのデモクラシー』(Democracy in America)という本です。「アメリカはデモクラシーの最も発達した国であり、デモクラシーこそ人類の共通の未来である以上、アメリカはフランスの未来である」と書いています。この書物は近代民主主義思想の古典といわれています。「民主主義においては、人々は自分達にふさわしい政府を持つ」とは彼の言葉です。
1686年4月9日、ピエモンテを治めていたサヴォイア公(Duke of Savoy)は新たな布告を発し、ワルドー派に対し8日以内に武装を解除し、街を退去するよう命じます。ワルドー派の人々はその後6週間にわたって勇敢に戦いましたが、2,000人のワルドー派が殺害されます。さらに多くの信者がトレント公会議(Council of Trent)のカトリック神学(Catholic theology)を受け入れ改宗します。さらに8,000人が投獄され、その半数以上が意図的に課せられた飢餓または病気により6か月以内に死亡していきます。
1893年、29人のワルドー派入植者からなる小グループが牧師のチャールズ・アルバート・トロン(Dr. Charles Albert Tron)に率いられて、イタリアからノースカロライナの新天地に移住することにします。 彼らはイタリアから鉄道でフランスに渡り、その後蒸気船ザーンダム号(Zaandam)に乗ってニューヨークに向かいます。彼らは故郷の思い出と郷愁を抱きながら、豊かで肥沃な農地への期待を持ちます。ニューヨークから列車でノースカロライナへ向かいます。1893年5月29日に目的地のノースカロライナ州に到着します。1893年6月に18人の新しい入植者グループが、1893年8月に別の14人グループが、1893年11月に 161人のグループがバーク郡に到着します。しかし、彼らの豊かな農場と繁栄への夢は、寒い冬と貧しい家屋、岩の多い土壌という現実によって打ち砕かれます。
そうした試練は、彼らの神への強い信仰、勤勉、そして忍耐によってこれらの障害は克服され、ノースカロライナ州にコミュニティが設立されるのです。それが現在のヴァルデイズなのです。ヴァルデイズでは毎年夏に「From This Day Forward」という野外劇(outdoor drama)が催されます。ワルドー派の人々の長い迫害や辛い信仰生活など苦難の歴史を演じる内容です。