ナンバープレートから見えるアメリカの州ウェストヴァジニア州・Wild, Wonderful

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ウェストヴァジニア州(West Virginia) は、合衆国東部の州でアパラチア山脈中に位置しており、山岳州(The Mountain State)とか自然の美(Wild, Wonderful)という愛称で知られています。ナンバープレートにこのフレーズが見えます。すべての地域が山岳内にあります。州都で最大の町はチャールストン(Charleston)となっています。北部はペンシルベニア州(Pennsylvania)、北部及び西部はオハイオ州、西部はケンタッキー州(Kentucky)、北部及び東部はメリーランド州(Maryland)、東部及び南部はヴァジニア州と隣りあっています。

License Plate of West Virginia

オハイオ川(Ohio River)が西の州境上部の大部分を形成し、ポトマック川(Potomac River)が北の州境の一部を形成しています。また、グレートカナウハ川(Great Kanawha River)とかシェナンドー川(Shenandoah River)が州を横断しています。ウェストヴァジニア州はアパラチア山脈が横断しており、全体的に起伏の多い土地です。古くからインディアンの狩猟が盛んで、考古学的な痕跡を残したアデナ族(Adena)が住んでいました。その後、イロコイ族(Iroquois)とチェロキー族(Cherokee)に引き継がれていきます。

Map of West Virginia

現在のウェストヴァジニア州に最初にヨーロッパ人が入植したのは、1720 年代にポトマック川(Potomac River)沿いの東部のパンハンドル(Panhandle)に到着したドイツ人でした。 その後、多くのスコットランド系アイルランド人やイギリス人が入植しました。アフリカ系アメリカ人もこの初期の遺産を共有していましたが、険しい地形によりプランテーション農業が制限されていたため、この地域で奴隷にされた人の数は限られていました。南北戦争後、州内の鉄道、鉱業、産業の発展により、南部からの黒人だけでなく、南ヨーロッパ(Southern Europe)や東ヨーロッパ(Eastern Europe)からも多くの労働者が集まりました。

ヴァジニア州東部は急速に入植が進みますが、西部地域は険しい地形のため入植は制限されました。アメリカ独立戦争後、主に非奴隷の入植者が西部に移り住みます。しかし、彼らはヴァジニア州政府への不満を募らせ、南北戦争が勃発すると1861年にヴァジニア州西部の住民は分離独立条例に反対票を投じます。1863年にウェストヴァジニアは35番目の州として連邦に加盟します。

Chapel in West Virginia

現在、アパラチアの多くの地域と同様に、ウェストヴァジニア州もほとんどが白人です。2020年の合衆国国勢調査では、州住民のほぼ10分の9を非ヒスパニック系(non-Hispanic)白人が占めていた。最大の少数民族であるアフリカ系アメリカ人は人口の約4パーセントを占め、ヒスパニック系は2パーセントを占めます。非常に少数のアジア系アメリカ人、ネイティブ・アメリカン、太平洋諸島民もいます。

ウェストヴァジニア州は依然として国内で最も経済的に最も恵まれない州の1つです。都市居住者の割合はここ数十年で増加しましたが、人口の約半数は依然として農村部に住んでいます。地方在住者の多くは、仕事を求めて都市部に通勤しています。アーカンソー州及びミシシッピ州に次いで、1人当たりの収入が3番目に低い州といわれています。さらに平均世帯収入は最低という数字となっています。国勢調査局のデータがそれを伝えています。ウェストヴァジニア州の4年制大学卒の人口の割合は15%であり、合衆国内で最低となっています。貧しい人口が多いことを示しています。

ウェストヴァジニア州経済の主要な資源のひとつは石炭です。1870年代には石炭やガスなどの天然資源がアメリカの成長に貢献し、鉄道の発達により産業が発展していきます。中小規模の石油及び天然ガスも開発されています。アパラチア山脈の全域に硝酸カリウムの採れる洞窟があり、弾薬用に開発されています。ヴァジニア州との州境には「硝石トレイル」があり、硝酸カルシウムを豊富に埋蔵する石灰岩の洞窟が並んでいて産品は政府に買い上げられています。農業は狭い平野に限定されています。山岳地帯のウェストヴァジニアはヨーロッパからの移民が入ってくる前は、ネイティブアメリカンの狩猟の場だったようです。

Small Town of West Virginia

ウェストヴァジニアといえばジョン・デンバー(John Denver)を取り上げたいです。カントリーポップでシンガー兼ソングライターの彼は、好きな山々と素朴な田舎暮らしについての歌を歌います。そして1970 年代半ばに商業的な成功を収めます。彼の最大のヒット曲「Take Me Home, Country Roads」や「Rocky Mountain High」、「Sunshine on My Shoulders」は、フォーク、カントリー、ロックの要素を組み合わせて明るい景色を歌で表現します。

1970 年代半ば、デンバーは環境保護活動にも熱心に取り組み始め、亡くなるまで続けます。1976 年に、非営利の教育研究グループであるウィンドスター財団(Windstar Foundation)を設立します。その後、ハンガー・プロジェクト(Hunger Project)を設立し、ユニセフ(UNICEF)などへも支援していきます。

1981年、彼は最後のポップヒット曲の一つであるオペラ歌手プラシド・ドミンゴ(Placido Domingo)とのデュエット曲「Perhaps Love」をリリースします。デンバーの海外ツアーでは、ソ連、チェルノブイリ(Chernobyl)原子力発電所事故の犠牲者のための慈善コンサートを行ったほか、中国やベトナムにも訪れています。1997年10月12日、自身が操縦していた単発機がカリフォルニアのモントレー湾(Monterey Bay)に墜落し53歳で亡くなります。

John Denver


「Take Me Home, Country Roads」は、デンバーがウェストヴァジニア州をドライブしたときのことをモチーフにしています。

 Country Roads take me home
To the place I belong
West Virginia mountain momma
Take me home Country Roads

田舎道が俺を故郷へ連れて行く 俺が育ったところ ウェストヴァジニアは母なる山  田舎道が俺を故郷へ連れて行く

私のウェストヴァジニア州ですが、家族と2か月の英語研修を受けていたジョージアからウィスコンシンへ移るとき、Interstate 79を通り、モーガンタウン(Morgantown)という町を通りかかりました。州立総合大学、ウェストヴァジニア大学(University of West Virginia)が本部キャンパスを置く大学町となっています。
(投稿日時 2024年2月13日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ウィスコンシン州・America’s Dairy Land

注目

ウィスコンシン州(Wisconsin)のナンバープレートには「アメリカの酪農の地」(America’s Dairy Land)と記されています。そして納屋とサイロが描かれています。ウィスコンシンは北はカナダと国境を接し、東はミシガン湖が広がり、西はミネソタ州、南はイリノイ州に囲まれています。大昔、氷河が覆い、そのため土をけずって大小の湖をつくりました。氷河は石や岩を運びながらなだらかな丘陵もつくってきました。そのために平たい農場は少なく、酪農が盛んになりました。北海道に似た景色が広がります。

ウィスコンシン州のナンバープレート

ウィスコンシンは内陸のために気候の寒暖がはっきりして、夏は30度以上になることもしばしばです。冬の寒さといえば筆舌に尽くしがたいような日が何日も続きます。雪が解けてそれが凍ると道路はつるつるとなります。そのため必ず融雪剤を散布するので、車体の裏側は、錆び付くのです。湖は凍り氷の厚さが20センチになると、車が走ります。湖をクロスカントリースキーで横切り仕事に向かう人もでてきます。スポーツといえばアイスホッケーが盛んで、どの高校にもアイスホッケー部があるほどです。風の強い日は、湖上でアイスヨット(アイスセーリング)もやっています。

酪農の地であるので乳製品で有名な州です。1997年のスーパーボウル(Super Bowl)を制したグリーンベイパッカーズ(Green Bay Packers)の本拠はウィスコンシン。そのときファンがかぶったのが「チーズヘッド」(Cheesehead)というチーズをかたどった帽子でした。「チーズヘッド」という言葉は、部外者が「アメリカの酪農場」の人々をからかう愛称として使用していましたが、ウィスコンシン州の人たちにはそれが流用され、誇りを持って受け入れられています。ゴム製のチーズハットは、スポーツイベントで名誉のバッジとして着用されています。

Map of Wisconsin

沢山のチーズ製造所もあり本当に多くの種類のチーズを楽しむことができます。ワイン、麦酒に欠かせないおつまみです。酪農の地ですから、ステーキもまた格別です。分厚く柔らかいフィレミヨン(filet mignon)は涎がでます。肉を焼いて「テリヤキ・ソース」をかけるのが一般的な食べ方です。

Kikkoman開所の横断幕

テリヤキ・ソースといえば、キッコーマン(Kikkoman Foods)の工場がウィスコンシンのウォルワース(Walworth)にあって、ここのソースが全米の市場を席巻しています。この工場は、1973年に作られます。キッコーマン社がこの地を選んだのは、原料穀物の産地に近く良質の水に恵まれ、空港、鉄道、道路など物流・交通の便もよく、地域の人々の勤勉な労働力も期待できたからといわれます。それ以来「Products of USA」として、世界中のどの施設よりも多くの醸造醤油やソースを生産しています。

ウィスコンシン州の入植者は、ニューイングランド人(New Englanders)、南部人、そして北ヨーロッパからの移民の混合でした。各グループは飛び地に定住し、移植された文化遺産の多くを保持する傾向がありました。今も彼らの伝統はかなりの程度で保たれており、芸術の豊かな多様性と広範な評価を生み出しています。

America’s Dairy Land

州内では、毎年多くの民族グループがお祭りを開催しています。ニューググレラス(New Glarus)のスイス人によるウィリアム・テル・ページェント(William Tell Pageant)では、フリードリヒ・フォン・シラー(Friedrich von Schiller)の戯曲『ヴィルヘルム・テル』(Wilhelm Tell)が上演されます。ノルウェー系の人々が多く住むストートン(Stoughton)では、ノルウェー憲法記念日である5月17日にシュタンデマイ(Syttende Mai)フェスティバルを開催し、マウントホレブ(Mount Horeb)の近くのマウンドの洞窟でノルウェーの歌を披露します。ミルウォーキー(Milwaukee)の毎年恒例のフェスティバルとしては、サマーフェスト(Summer Fest)、ジャーマン・フェスト(German Fest)、ポーランド・フェスト(Polish Fest)、そして国内最古にして最大の多民族フェスティバルであるホリデー・フォーク フェア(Holiday Folk Fair)などがあります。

Holiday Fair in Milwaukee

ウィスコンシン州フェア(Wisconsin State Fair)は、ミルウォーキー郊外のウェストアリス(West Allis)で8月に開催されます。アルトゥーナ(Altoona)のシンダー・シティデイズ(Cinder City Days)からポトシ(Potosi)の消防士ナマズ・フェスティバル(Firemen’s Catfish Festival)まで、ほぼすべての都市で毎年少なくとも1つ以上のフェスティバルが開催されます。

ウィスコンシンは共和党の発祥の地といわれます。1854年3月20日、ウィスコンシン州リポン(Ripon)という小さな街のリトルホワイトスクール(Little White School)で、約30人が参加する最初のアメリカ合衆国共和党郡大会が開催されたのです。ウィスコンシンは共和党と民主党がしのぎを削る州の一つといわれます。南北戦争の時代のウィスコンシン州は共和党を支持する州でした。19世紀後半には民族と宗教の問題で短期間ながら共和党が割れたことがあったようです。20世紀前半はロバート・ラフォレット(Robert La Follette)らが共和党を支配していましたが、後には民主党となる進歩党を復活させます。1945年以後は共和党と民主党が拮抗しています。

ラフォレットの貢献は、開かれた政府、最低保証賃金、党派に拠らない選挙、開かれた予備選挙のしくみ、上院議員の直接選挙、女性参政権および進歩的税制度などをウィスコンシンで広め、その思想は「Wisconsin Ideas」と呼ばれ、ウィスコンシン大学の発展にも影響を及ぼします。しかし、20世紀半ばに政治的な極論に関わり、1950年代には州選出のジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy)上院議員による反共産主義運動が起こります。

「マッカーシズム」(McCarthyism)という用語は、公の場で人々に対して根拠のない告発を行うことに対する「魔女狩り」(witch-hunt)の同義語として、アメリカ政治史で長く残っています。ジョセフ・マッカーシーは、1947年1月から1957年5月に亡くなるまで、ウィスコンシン州選出の上院議員を務めます。上院での彼の経歴は静かで目立たなかったのですが、共和党女性クラブでのスピーチで「国務省に雇用されている57人の「共産主義者らしき者」(known Communists)のリストを持っている」と発表します。マッカーシーは共産主義者らしき者の告訴を繰り返し、その数は205名に増えます。その結果、何年にもわたる上院と下院の破壊活動捜査が始まり、国民と政府に大きな混乱をもたらします。

Joseph_McCarthy

マッカーシーは2期目の初めに上院常任調査小委員会(Senate Permanent Subcommittee)の委員長に就任します。政府における共産主義者の影響力疑惑について広範な調査を行う権限が得られます。マッカーシーは、フランクリン・ルーズベルト(Franklin D.Roosevelt)大統領とハリー・トルーマン(Harry S.Truman)大統領の下でこの国は「20年間にわたる国家反逆」の犠牲になったと非難します。彼は自分が中傷した人物に対する転覆の証拠を一度も提示することができなかったのですが、巧みにでっち上げた告発と容赦ない宣伝によって、多くの人々を公職から追放し、数え切れないほどの人々の評判を傷つけます。

マッカーシーは、「裏切り者」のリストにドワイト・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)大統領を含めるなど、徐々に民主主義の大義に悪影響を及ぼした扇動者として非難されるようになります。中間選挙後、彼は小委員会の委員長を解任され、政界から追われて「魔女狩り」も終焉します。憲政史上悪夢の時代といわれました。

近年の大統領選挙におけるウィスコンシン州は接戦が続いています。2008年の場合はバラク・オバマ(Barrack Obama)が56%の支持を得て勝利しました。2012年もオバマが52%を獲得し、勝利を収めます。2016年には一転して、ドナルド・トランプ(Donald Trump)、ヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)ともに同州で勝利することが大統領選の勝利を意味するほどの接戦となります。選挙前の世論調査では一貫して民主党有利という下馬評でしたが、得票数で上回るも獲得選挙人数で敗北しトランプが大統領となります。しかし、2020年の大統領選挙では、バイデン(Joe Biden)が49.57%、トランプ氏が48.95%という得票率で両者の差は1%前後の大接戦となります。

University of WIsconsin-Madison

2024年2月5日、ウィスコンシン大学(University of Wisconsin)で最初のクラスが開始されてから創立175周年を迎えました1849年2月以来、ウィスコンシン大学は小さな地方の学校から出発し、今や世界的な研究と教育の大学に成長しました。1849年、最初のクラスの学生はわずか20人でした。2023年の秋、UW の学生数は50,000人を超えました。今年の新入生のうち1,000人以上が、「Bucky’s Tuition Promise」 または 「Bucky’s Pell Pathway」という経済的支援パッケージにより奨学資金を受けています。

ウィスコンシン大学は人口と建物が増加しただけでなく、地理的にも成長してきました。その最初の基本計画では、バスコムヒル(Bascom Hill)の東斜面に5つの建物を作ることでした。現在、ウィスコンシン大学マディソン校(Madison)は936エーカー、すなわち東京ドーム81個分の広さのキャンパスがあり、キャンパス内の農学部の温室から640キロ以上離れたスプーナー(Spooner)にある農学(agronomy)および作物生産施設に至るまで、ウィスコンシン州全域に農業研究ステーションがあります。ウィスコンシン州はまた、南極近くの立方キロメートルの氷河をカバーするアイスキューブ天文台(Ice Cube Observatory)などの施設を運営しています。現在ウィスコンシン大学は、マディソンを含む13のキャンパスでの学生教育だけでなく、世界的な影響力を及ぼす研究を展開し、その知識や知見の恩恵を国内や海外に広めています。今年は創立175年目を迎えます。

1848年創立のエンブレム


ウィスコンシンは私の研究の基礎を築き、子どもが教育を受けた忘れられない州です。今も二人の娘が州都であるマディソンで働き、子どもを養育しています。私はウィスコンシン大学日本同窓会で日本の高校生や大学生の留学奨励活動をしています。

ナンバープレートから見えるアメリカの州インディアナ州・The Crossroads of America

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license Plate of Indiana

インディアナ(Indiana)の州都はインディアナポリス(Indianapolis)。ちょうど鉄道や沢山のインターステイツ(Interstates)が交差するところにあります。また「ユニオン・ステーション」(Union Station)が最初に建てられたところとしても知られています。そのため、ナンバープレートには、「アメリカの交差点」という意味の「The Crossroads of America」と印字されています。合衆国の大きな駅はユニオン・ステーションと命名されているのをご存じでしょうか。

北にミシガン州、東にオハイオ州、東にケンタッキー州そして南と西にイリノイ州と接しています。北西部はシカゴ市の巨大な都市圏となっていて、産業が盛んです。その中心がゲーリー市(Gary)です。インディアナポリス市内と周辺では様々な高規格の州間道路(Interstate)が交差し、昔から主要鉄道や州を横切っていた運河の中継点になっているので、まさにアメリカの交差点(The Crossroads of America)が州のモットーの由来になっているわけです。

インディアナ州の簡単な歴史です。かつて考古学者(archeologist)たちは、インディアナ州の南西部にあるエンジェル・マウンズ(Angel Mounds)で、インディアナ地方最古の住民遺跡を発見します。インディアナにはもともと、マイアミ族、ポタワトミ(Potawatomi)、デラウェア族(Delaware)などのアルゴン語(Algonquian languages)を話すインディアンが住んでいました。1679年、フランスの探検家(Sieur de La Salle)はこの地域に入った最初のヨーロッパ人となります。その後、フランスはこの地域を領有しますが、1763年に1763年にグレート・ブリテンに領土を譲渡します。その後 アメリカは1783年の独立戦争終結時にこの土地を獲得します。

Map of Indiana

インディアナにおけるアメリカ最初の入植地は1784年に設立されます。白人入植者たちが自分たちの土地に侵入してきたため、この地域の先住民たちは北西部同盟(Northwest Indian Confederation)と呼ばれる同盟を結成します。1790年代初頭、マイアミ族(Miami)の酋長リトル・タートルLittle Turtleは、同連盟を率い アメリカ軍に勝利します。しかし、1794年に北西部同盟はオハイオ州フォールン・ティンバーズ(Battle of Fallen Timbers)の戦いで敗北してしまいます。もともとインディアンの襲撃を恐れて、入植者たちは長年この地域から遠ざかっていた経緯があります。

1800年にインディアナ準州が誕生します。初代知事ウィリアム・ハリソン(William Harrison)は、この土地を入植地として開放するために大いに貢献します。1811年、彼は インディアンの一団をティピカノー(Battle of Tippecanoeの戦いで破ります。そしてインディアナは1816年に州となります。その後、南北戦争中を通してインディアナでは産業が成長し始めていきます。

1816年に19番目の州として加盟すると人口が増加し1850年からは農業が拡大し、南北戦争後は工業化が進みます。それとともに、19世紀半ばから後半にかけての農業の拡大は、南北戦争を主な原動力とした工業の成長によって急速に影を潜めます。20世紀に入る頃には州の北部は主要な工業部門として台頭していきます。1906年、ミネソタ州メサビ山脈(Mesabi Range)の鉄鉱床、中央アパラチア山脈(Appalachians)の石炭鉱床、インディアナ州南部とイリノイ州の石灰岩資源の中間に位置するゲーリー(Gary)に製鉄都市が設立されます。その後サウスベンドSouth Bendで自動車製造業が発展し、インディアナ州は農業から工業への転換を遂げます。

Farmlands of Indiana

1851年憲法の根底にあった孤立性、独立性、草の根民主主義の精神は、その後もこの州に影響を与え続けます。たとえば、この憲法が制定された当時は、町や村の間隔が数日かかるほど離れていたので、州議会は2年に1度しか開かれませんでした。インフラや交通機関が大幅に改善されたことにより、議会の年次開催が承認されたのは1970年のことです。このような憲法改正に対する「フージャーズ」(Hoosiers)の抵抗の根底には、地域主義を大事にするという思想が広く浸透していることが関わっているといわれます。インディアナの人は、「フージャーズ」(Hoosiers)と呼ばれています。あまり広い農園なので、人々が中西部インディアナ州訛りの英語で「Who’s There?」とか「Who’s Ear?」と叫んだ時の発音が「フージャーズ」と聞こえたようです。

前述のように20世紀の大半はゲーリーでの製鉄業が経済的に重要でした。今も州北西部は合衆国内の最大なスチール生産地域となっており、製造業は自動車、電気設備、化学製品、ゴム、石油及び石炭製品、並びに産業機械となっています。

インディアナ州を飛行機の窓から見たことがあります。まるで真四角に区切られたコーン畑が広がっています。氷河作用を受けなかった部分のようで、肥沃な流域平野と速い水流で特徴づけられています。ホワイトウォーター川(White Water River)の流域平野の土壌は肥沃であり、特にホワイトウォーター・バレー(White Water Valley)は優れた農地で知られています。

工業化の進んだインディアナとはいえ、ホワイトウォーター川流域のあたりは大規模なコーンベルト(Corn Belt)と呼ばれるトウモロコシ栽培や、グレインベルト(Grain Belt)と呼ばれる小麦栽培の地帯です。トウモロコシは養鶏や養豚の飼料となります。飼料は世界中に輸出されています。アメリカは穀物市場を押さえています。その中心がインディアナということです。大豆、鶏卵、メロン、トマト、ブドウ、タバコ、ハッカの生産も盛んです。

Indiana Fields


 
研究開発の中心は、インディアナ大学(Indiana University)、インディアナ州立大学(Indiana State University)、パデユ大学(Purdue University)、ボール州立大学(Ball State University) などの大学です。プロスポーツもカレッジスポーツも全米で強いところです。

インディ500(Indianapolis 500)は、ル・マン(Le Mans)24時間レース、F1モナコ(Monaco)GPと並んで世界3大のモーターレースです。1周2.5マイルのコースを時速150マイル位で200周します。ナンバープレートに「Hoosier Hospitality」というフレーズのもあります。「おもてなしの人々」ということでしょうか。

Indy 500

ナンバープレートから見えるアメリカの州イリノイ州・Land of Lincoln

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イリノイ州(Illinois)のナンバープレートには「Land of Lincoln」と記されています。リンカーンが残した遺産の重要さを強調しています。州都スプリングフィールド(Springfield)です。シカゴ(Chicago)ではありません。エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)が生まれ育った町がスプリングフィールドです。アメリカは一番大きな街が州都になるとは限りません。例えばカリフォルニアは州都がサクラメント(Sacramento)です。サンフランシスコ(San Francisco)やロスアンジェルス(Los Angels)は遥かに大きな都市です。

Map of Illinois

イリノイ州には900もの川が流れ、そのほとんどがミシシッピ川(Mississippi)水系に注ぎ込んでいます。シカゴ川とカルメット川(Calumet)は、もともとはミシガン湖を通ってセント・ローレンス川(St. Lawrenc)に注いでいましたが、運河の建設により、州北部を北東から南西にほぼ二分するイリノイ川を通ってミシシッピ川に注ぐようになりました。オハイオ川は州南端のカイロ(Cairo)付近でミシシッピ川に合流しています。そのような訳で、この付近は「小さなエジプト」(Little Egypt)と呼ばれています。

イリノイの最大の天然資源は、その豊かな黒土です。州の面積の約4分の3を農場が占めています。イリノイ州は例年、大豆とトウモロコシの生産量で上位に入ります。豚肉や乳製品、穀物、家畜の生産でも有名で、家族経営の農場が最も多いが特徴です。州南部3分の1の土壌は、農業にはあまり適していません。

Storm in Illinois

イリノイ州は、石炭の埋蔵量で全米トップクラスです。国内の瀝青炭(bituminous coal)埋蔵量の4分の1を占めています。イリノイ州の瀝青炭埋蔵量は、サウジアラビア(Saudi Arabia)の石油埋蔵量を上回るエネルギーを含んでいるといわれます。石油生産のピークは1940年に達し、それ以降は減少していますが、イリノイ州は石油精製において地域のリーダーであり、エタノール(ethanol)の生産量も全米トップクラスとなっています。

この州は合衆国での有数の工業地帯であり、非電機機器のトップメーカーで、保険業の中心地でもあります。イリノイ州は国内における商工業、交通、政治や財政の中枢的存在となっています。ともあれ、製造業、農業、金融、鉱業、運輸、政府、テクノロジー、観光業を含むサービス業など、州経済は多様性に富んでおり、全米経済の縮図といわれています。このような多様性は、他州にはない特徴です。

イリノイ州や民間の経済団体は、バランスの取れた経済を拡大することに多大な注意を払っているといわれます。例えば、イリノイ州産品の輸出を促進するため、外国の都市、例えば東京などに事務所を置いています。さらに女性や少数民族による事業開発のためのサービスを提供し、新しい技術開発に関する情報を民間企業に広めているのも特筆されます。

Town of Galena, Ill

さて、リンカーンのことです。アメリカ第16代の大統領です。その功績は人種差別運動の先駆者ともいうべき人と言われています。その運度の伏線には、ハリエット・ストウ(Harriet E. Stowe)という小説家が書いたUncle Tom’s Cabinがあります。この作品で、当時の黒人の生活と差別の実態が全米の人々に知れ渡ることになります。差別への関心がやがて、アメリカを二分する南北戦争へ突入していきます。

南北戦争(Civil War)中は政治的に分裂しますが、イリノイ州は連邦(Union)の一部でした。南北戦争は、黒人の解放に大いに関係する出来事です。アメリカ南部は綿花を栽培することが中心。畑には多くの黒人労働者が使われていました。映画「風と友に去りぬ」は、南部が舞台でした。メイド役の黒人女性が、一人娘の死で打ちひしがれる農場主レッド・バトラー(Rhett Butler)を慰めるシーンがありました。帰還する兵士アシュレー(Ashley)を見て、スカーレット・オハラ(Scarlett O’Hara)がかけ寄ろうとするのを押しとどめるのはこのメイドでした。

南北戦争が終わり、リンカーンは二分しかかったアメリカを一つにしようと呼びかけた有名な演説をします。それがゲティスバーグ演説(Gettysburg Address)と呼ばれる奴隷解放宣言です。20世紀になると共和党と民主党が激しく対立し、選挙人票も多かったので、大統領選挙の主要な戦場となっています。

私にとってのイリノイは友人との交わりです。イリノイ大学の教授だったDelwyne Harnisch氏とは長い長いつき合いをしました。
(投稿日時 2024年2月9日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州アリゾナ州・Grand Canyon State

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アリゾナ州(Arizona)のナンバープレートには「Grand Canyon State」(大峡谷)とあります。最近のものには、「環境を護ろう」(Protect our environment)というフレーズも入っています。アリゾナ州はニューメキシコ(New Mexico)、ユタ(Utah)、ネバダ(Nevada)、コロラド(Colorado)、カリフォルニア州(California)と隣接しています。さらに、南はメキシコと長い国境を有しています。今もナバホ(Navajo)、アパッチ(Apache)、ユマ(Yuma)などの部族の居留地が点在しています。サボテンや椰子など砂漠の風景で有名です。州の北部と中央部は松など常緑樹で覆われた高地でもあり、大渓谷の大自然が広がります。地球の裂け目といわれる標高差1.6キロの谷底は観光客を魅了しています。

州名の由来は、バスク語(Basque)で「樫の木のある場所」(place of oaks)を意味するとする学者もいれば、トホノ・オダム(パパゴ)(Tohono O’odham -Papago)インディアンの言葉で「若い、または小さな泉のある場所」(place of the young or little spring).を意味すると主張する学者もいます。

アリゾナの簡単な歴史です。1539年から1542年にかけて現在のメキシコであるヌエバ・エスパーニャ(Nueva Espana)副王領からスペイン人の探検が行われます。1539年、フランシスコ( Francesco)会宣教師マルコス・デ・ニサ(Marcos de Niza)がこの地域を探検します。1692年にはエウセビオ・キノ神父(Eusebio Francisco Kino)が訪れ、1700年に聖ザビエル伝道教会を設立しインディアンに宣教活動を行い、18世紀初期までに一連の伝道所が設置されインディアンの多くをキリスト教に改宗させます。

1821年メキシコがスペインから独立すると現在のアリゾナ地域は「ヌエバ・カリフォルニア(Nueva California)」と呼ばれるメキシコの北西辺境となります。合衆国は1848年の米墨戦争(Mexican-American War)でメキシコシティ(Mexico City)を占領し、後にアリゾナ州となった地域を含めメキシコ北部領域の大半について領有権を主張します。1861年3月にニューメキシコ準州の南部が分離してアリゾナは合衆国の準州となります。「天国に最も遠く、米国に最も近い国」という名言は米墨戦争の後の両国関係を物語ったものとされます。メキシコの政治家、ポルフェリオ・ディアス(Porfirio Diaz)による両国の地政学的位置を示す言葉です。戦争による領土喪失は、メキシコ国民の嫌米感情を抱く背景になっているといわれます。

Cactus and Arizona

アリゾナは非常に複雑な土地といわれます。サボテンとクレオソート・ブッシュ(creosote bushes)で覆われた暑い低海抜砂漠で広く知られていますが、州の半分以上は海抜1,200メートル以上の高地にあり、常緑樹のポンデローサ松(ponderosa pine)の世界最大の群生地があります。アリゾナは水のない砂漠地帯としてよく知られてはいますが、多くの大きな人工湖のおかげで、その評判からは想像できないほど多くの海岸線が広がっています。

グランド・キャニオンやペインテッド・デザート(Painted Desert)などの壮大な地形は、この地域の険しさを示す国際的なシンボルとなっています。ですが、アリゾナの環境は非常に繊細で、ニューヨークやロサンゼルスよりも多くの点で公害の脅威にさらされているといわれます。それ故に「環境を護ろう」というフレーズがナンバープレートに刻印されているようです。

州都はフェニックス(Phoenix)です。非常に暑い夏と温暖な冬として知られています。1990年6月に最高気温摂氏50度を記録したこともあるとか。フェニックスから車で北に走ること2時間。パワースポットといわれるセドーナ(Sedona)に着きます。青空を背にそびえ立つ不思議な形の赤い岩山、そこに立つ教会堂、その前を流れる渓流。数多くのハイキング・トレイルで知られています。赤い岩の山は鉄分を多く含んでいます。その独特の景観からセドーナ一帯は「レッド・ロック・カントリー」(Red Rock Country)と呼ばれています。フェニックスに来たら必ず寄っていただきたい所です。「Sedona」とはイヌイット(Inuit)神話に登場する海の女神という意味だそうです。

Sedona

私は、かつて兵庫教育大学の大学院生とフェニックスの学校を視察しました。ちょうど客員研究員として招いていたハワイ大学教授がアリゾナ州立大学で研究したことがあったので、大峡谷の南にあるセドーナを紹介してくれました。セドーナは奇観で有名な観光地です。

フェニックスの近くには、サンシティ(Sun City)と呼ばれる退職後のコミュニティ、シニアタウン(senior town)があります。冬を温暖な南部などで過ごすアメリカ北部や中西部、カナダなどの人々向けに造られた街です。これらの人々は「スノウバード」(Snowbird)と呼ばれています。

ナンバープレートから見えるアメリカの州アラバマ州・The Heart of Dixie

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アラバマ州(Alabama) は「南部の中心」(The Heart of Dixie)と呼ばれています。ナンバープレートにもこのフレーズが記されています。「God Bless America」というのもあります。Dixieとは南部の意味です。地理的にアラバマ州はその中心ということであり、また誇るべき文化を有することを表すフレーズです。デキシーランド・ジャズ(Dixieland Jazz)もそうです。デキシーランドとはアメリカ南部の諸州を指します。

Map of Alabama

アラバマ州は合衆国の南部に位置する州です。西はミシシッピ州、北はテネシー州(Tennessee)、東はジョージア州(Georgia)と接し、南はフロリダ州と境をなしています。州都はモンゴメリー(Montgomery)。他にバーミングハム(Birmingham)や、宇宙ロケットセンターで知られるハンツビル(Huntsville)といった都市もあります。

God Bless America

アラバマ州の原住民にはチェロキー族(Cherokee)、チカソー族(Chickasaw)、チョクトー族(Choctaw)、クリーク族(Creek)が含まれています。エルナンド・デ・ソト(Hernando de Soto)はこの地を旅し、フランス人は1702年にフォート・ルイ(Fort Louis)に入植地を築きます。1817年にアラバマ準州が誕生し、1819年に合衆国の州として承認されます。しかし、アラバマ州は1861年に連邦から離脱し南部連合(Confederacy)の一部となりますが、1868年に再統合されます。

州の東側はアパラチア高原(Appalachian Plateau)となっていて、鉱物資源が豊富です。ですが主要な産業は農業といえます。生産品は家禽及び卵、牛、植物苗床品目、落花生、綿、トウモロコシ及びモロコシ等の穀物、野菜、大豆、桃となっています。かつては 「綿花の州」(The Cotton State)とういニックネームがこの州についていたほどです。20世紀初頭まで綿花に依存していたアラバマ州は、その後農業生産を多様化します。

アラバマ州の歴史で忘れてはならないのが、公民権運動の展開です。黒人差別が厳しい州であったからです。アラバマ州は合衆国に再統合されても黒人を行政に参加させるための努力は失敗に終わり、1960年代まで隔離主義を貫きます。「ジム・クロウ法」(Jim Crow)という人種分離法がつくられていて、交通機関、駅、トイレ、映画館、学校や図書館などの公共機関、ホテル、レストラン、バーなどで白人と有色人種(the colored)を分離することが正当化されていました。

アラバマ物語

1955年州都モンゴメリーで起こったローザ・パークス(Rosa Parks)逮捕事件が公民権運動の口火を切ったとされます。彼女は当時、白人専用のバスに乗り込んで逮捕されます。これをきっかけに、キング牧師(Martin Luther King)らがモントゴメリー市民に対するバス・ボイコットの運動へ広がります。運動は全米に反響を及ぼし、1956年には合衆国最高裁判所が「バス車内における人種分離(白人専用及び優先座席)を違憲とする判決を出します。そしてようやく、1964年7月に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、長年続いてきた人種差別は法の上で終わりを告げます。

1962年にアラバマ州知事に就任したジョージ・ウォレス(George Wallace)のことです。このときウォレスが掲げたスローガンは「今ここで人種隔離を!明日も人種隔離を!永遠に人種隔離を!」(I say segregation now, segregation tomorrow, segregation forever)という人種差別主義的なものでした。1963年には2人の黒人学生のアラバマ大学(University of Alabama)への入学を阻止するために、自ら大学の門の前に立ちはだかります。これに対してジョン・F・ケネディ大統領(John F. Kennedy)は黒人学生を保護するために州兵を派遣する事態となります。

大統領命令を阻止するウォレス知事

人種的不公正という深刻な社会問題を扱った演劇作品、「アラバマ物語」(原題:To Kill a Mockingbird)がブロードウェイで大ヒットしました。人種差別が根強く残る1930年代のアラバマ州南部の町モンロービル(Monroeville)で、白人女性への性的暴行容疑で逮捕された黒人青年の事件を担当する弁護士アティカス・フィンチ(Atticus Finch)の物語です。女性作家ハーパー・リー(Harper Lee)による1960年出版の小説を原作とした作品です。1961年にはフィクション部門でピューリッツァー賞(Pulitzer Prize)を受賞します。
(投稿日時 2024年2月7日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州アラスカ州・The Last Frontier

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アメリカ本土やカナダから大勢の観光客が訪れるのがアラスカ州(Alaska)です。西南のアラスカへクルージングでやってくるのです。300万以上の湖が点在し、動物も植物も手つかずの大自然のままです。ナンバープレートには「The Last Frontier」(最後の秘境)とあります。「North to the Future」というフレーズのもあります。かつては「The Great Land」とも呼ばれたようです。灰色熊のグリズリー(grizzly bear)が描かれていて、私には喉から手が出そうな一枚です。まだ持っていないのです。

アラスカはシーフード(sea food)の宝庫といわれます。大陸の森林からの栄養分はアラスカ周辺の海を汚染のない豊かな漁場に育てました。大量に発生した植物性プランクトンとそれを食べる動物性プランクトンは、小さな魚と甲殻類の餌となります。さらにそれらが大きな魚や海洋哺乳類、海鳥の餌になるように、アラスカの海では豊かな生態系が長年にわたり培われてきました。2017年の統計によれば、アメリカ全土で水揚げされる水産物の65%をアラスカから、特にサーモンに至っては実に98%がアラスカから生産供給されています。日本が輸入しているシーフードのうち、65%はアラスカ産といわれます。アラスカは、SDGsが採択されるずっと前から、 目標14「海の豊かさを守ろう」を採択しています。アラスカはサステイナブル(sustainable)な漁業を行っているのです。

アラスカという名前は、ウナンガクス語(アリュート語)(Unangax -Aleut)の「alaxsxa」または「aalaxsxix」に由来するといわれます。アラスカは広大な面積を持ち、その物理的な特徴も実に多様といわれます。アンカレッジ(Anchorage)北部のアラスカ山脈には、北米大陸最高峰の標高6190メートルのデナリ山(マッキンリー山)(Denali) (Mount McKinley)がそびえています。州のほぼ3分の1が北極圏内にあり、アラスカの約5分の4は永久凍土で覆われています。樹木のない広大な北極圏の平原のツンドラ(Tundra)は州面積の約半分を占めます。しかも、グリーンランド(Greenland)と南極大陸を除けば世界最大の氷河が広がっています。

Map of Alaska

アラスカ州の南側は、地球上で最も活発な地震帯のひとつである環太平洋地震帯となっています。アラスカには130以上の活火山があり、そのほとんどはアリューシャン列島(Aleutian Islands)と隣接するアラスカ半島にあるといわれます。1964年3月27日にアラスカ中南部で発生したのがアラスカ地震(Alaska earthquake)で、その規模はマグニチュード9.2といわれます。1906年のサンフランシスコ地震の少なくとも2倍のエネルギーが放出されたと記録されています。人口が過疎のため犠牲者は131人といわれます。コディアック島(Kodiak Island)からプリンス・ウィリアム湾(Prince William Sound)にかけて、局地的に25メートルの高さまで地塊が突き上げられた大規模な地震だったといわれます。

アラスカは面積においてアメリカ最大の州です。それに引きかえ、最も人口過少の州です。州都はジュノー(Juneau)。1906年までは、シトカ(Sitka)が州都でした。 最大の都市はアンカレッジです。かつてアンカレッジは日本からヨーロッパやアメリカに飛ぶときは最短距離の航路にあたりました。航空機の性能で給油のために立ち寄った懐かしいところです。給油の間、ターミナルで待つのは過去の話となりました。最近では2008年の大統領選挙で共和党の副大統領候補に州知事だったMs Sara Palinが指名されました。

Alaska bears

ロシアの軍艦、聖ピーター号(St. Peter)に乗ったビタス・ペーリング(Vitus Bering)が1741年7月15日、現在のシトカあたりの陸地を発見したといわれます。その後アメリカは1867年にロシアから720万ドルで購入した歴史があります。当時の国務長官スワード(William H. Seward)はロシアからの買い取りを提案したのです。当時は「巨大な冷蔵庫を買った」とか「スワードの愚行(Seward’s Folly)」と蔑称されるなどと非難されたとか。今で言えばアメリカはロシアから安い買いものをしたものです。領土は決して売ったりするものではないのです。地下資源、森林、漁業資源などが豊かなところです。それにもましてアメリカにとっては国防、軍事上の重要な位置にあるのがアラスカです。そのためか、大地の65%が連邦政府の管理にあります。ほとんどが不毛の地ですから、埋蔵量が豊富な原油の採掘地帯以外は誰も所有しないのです。1968年に油田が発見され、1977年トランス・アラスカ・パイプライン(Trans Alaska Pipeline)が完成すると原油生産による収入で人口が増加に転じ、インフラ整備が進みます。

人口比率として白人が70%。その大半はアイルランド(Ireland)、ノルウェー(Norway)からの移民とされています。以外と少ないのがネイティブ・アメリカンやアラスカ・ネイティブ(通称イヌイット-Inuit)で15.6%を占めています。原油の採掘については、今もアラスカ・ネイティブの間で開発容認派と反対派の賛否両論で部族村落が対立しているといわれています。
(投稿日時 2024年2月6日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州アーカンソー州・The Natural State

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アーカンソー州(Arkansas)のナンバープレートには「Natural State」「自然の州」とあります。州の公式のニックネームは1970年代に観光宣伝用に作られ、今日でも使われています。全米随一の温泉都市であるホットスプリングス(Hot Springs)が知られ、一帯はホットスプリングス国立公園(Hot Spring National Park)となっています。

アーカンソー州は南にルイジアナ州(Louisiana)やテキサス州(Texas)と接し、西はオクラホマ州(Oklahoma)、北はミズーリ州やテネシー州(Tennessee)と隣り合っています。州の地勢ですが、大きく二つに分けられて、山脈や渓谷地帯とミシシッピ川沿いの大平原から成ります。アーカンソー州の地形は多様性に富んでいます。北部と西部のオザーク(Ozark)山脈とワチタ(Ouachita)山脈は、東部の豊かで平坦な河川が流れる農地とは対照的です。州のほぼすべての川は北西から南東に流れ、アーカンソー川とレッド川(Red)を経て、東部の主要な境界を形成するミシシッピ川(Mississippi River)に注いでいます。

その結果、他州からの移民はほとんどなく、州の人口は基本的に均質でした。しかし、2種類の農業経済と関連して、2つの異なる地域文化が生まれたといわれます。物理的に孤立したオザークとワチタの山岳地帯の文化は、主に自給自足農業と小規模な木材製品産業に基づいていました。それとは対照的に、東部と南部の平坦なミシシッピ氾濫原の低地文化は、綿花プランテーションと大規模な小作農による典型的な南部農業システムの基盤となりました。

Map of Arkansas

アーカンソーという名前は、初期のフランス人探検家たちが、この地域の有力な先住民族であるクアポー族(Quapaw)と、彼らが定住した川沿いを指して使ったものといわれます。この呼称は、クアポー族に地元のもう1つの先住民コミュニティであるイリノイ族が当てた言葉であるアカンシー(akansea)が転訛したものと考えられています。州都リトルロック(Little Rock)は州の中央部に位置します。

私は高校一年のときに、リトルロックの高校でおきたアフリカ系アメリカ人生徒の排斥運動を知りました。合衆国最高裁が人種統合を行うよう命令を出したことで、ときの大統領アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)は州兵を派遣して、生徒を護衛し高校に入れるという出来事です。それに抗議して州知事とリトルロック市は、その学校年の残り期間、高校を閉鎖することを決めます。ですが1959年秋までにリトルロック市の高校は完全に人種差別を撤廃します。

The President, First Lady, and Chelsea on parade down on Pennsylvania Avenue.

1992年の大統領選挙戦では、アーカンソー州出身のビル・クリントン(Bill Clinton)は民主党予備選挙に勝利し、前回の選挙に出馬したアル・ゴア(Albert Gore)を副大統領候補に選びます。そしてジョージブッシュ(George Bush)に勝利しこの州出身者として初めて民主党からの大統領に選出されます。

アーカンソーの渓谷

アメリカの南部に位置しているのですが、意外と白人人口が多いのが特徴です。たとえば1905から1912頃にはヨーロッパからの移民が多数やってきます。ドイツ人やスロバキア人(Slovak)は平原に, 、アイリッシュ(Irish)もコミュニティを形成していきます。ドイツからの移民の多くはルーテル教会の信徒といわれます。

ヒストリック・ワシントン州立公園(Historic Washington State Park)では、開拓者の暮らしを学べます。ミュージアム・オブ・ネイティブ・アメリカン・ヒストリー(Museum of Native American History)には、アーカンソー州の先住民が残した陶磁器や道具が展示され子ども達の社会見学と学習の場となっています。産業ですが、主要なものは農業、制材、皮革、観光が盛んです。特に米作は全米一の生産を誇ります。近年は自動車部品やアルミニウムの原料となるボーキサイト(bauxite)の産でも知られています。
(投稿日時 2024年2月5日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州アイオワ州・American Heartland

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アイオワ州(Iowa)のナンバープレートには、穀物を保存するサイロや納屋が背景に印刷されています。トウモロコシと小麦の生産で有名なアイオワが今回の話題です。北はミネソタ州(Minnesota)、東はウィスコンシン州(Wisconsin)及びイリノイ州(Illinois)、南はミズーリ州(Missouri)、そして西はネブラスカ州(Nebraska)及びサウスダコタ州(South Dakota)に囲まれています。州都で最大の都市はデモイン(Des Moines)です。

アイオワ州のナンバープレート

2024年の合衆国大統領選挙を控え、各地で党員集会(Caucus)が開かれます。アイオワ州は、共和党が党員集会を最初に開くことで注目される州でます。2024年1月15日に党員集会が開かれトランプが圧勝しています。この集会とは、政党の大統領候補を決定するための地区レベルによる党員の会議のことです。アイオワ州はなんとなく地味な印象を受けがちですが、政治的には伝統的に民主党と共和党が競うところです。

アイオワには、東がミシシッピ川(Mississippi River)、そして西はミズーリ川(Missouri River)が流れています。豊かな農産物などがこの川を使って運ばれています。アイオワは結構なだらかな丘陵が折り重なって農作物の生産に適しています。

Corn fields

アイオワはヨーロッパからの多くの民族を惹き付けたようです。1800年代にスウェーデン人、ノルウェー人、デンマーク人、オランダ人、およびブリテン諸島(Britain Islands) からの多くの移住者がやってきて農業に携わります。ドイツ人は最大の集団であり、あらゆる郡に入植していきます。特にミシシッピ川沿いが多く大多数は農夫になりましたが、また職人や商店主になった者も多かったようです。さらにある者は新聞を編集し、教師となり、銀行を経営したりして発展します。

アメリカの中西部(Midwest)は「コーンベルト」(Corn Belt)と呼ばれトウモロコシの一大生産地です。アイオワはその中で生産量が全米でトップを誇ります。車でどこまで走っても穀倉地帯が広がります。大豆、豚の生産量も全米第一位となっています。従って、穀物市場の金融や流通、そしてバイオテクノロジー研究開発などでも盛んな州です。

Map of Iowa

アイオワのあたりは、「アメリカの心臓部」(American Heartland)とも呼ばれて、恐らく世界一の穀倉地帯であります。アメリカは工業国ではありますが、なんといっても主役は農業です。トウモロコシと小麦の生産高からは、アメリカは農業国と呼ぶにふさわしいといえます。Heartlandとは「とても大切な地」という意味にもとれます。後に触れますが、カンザス州のプレートにも同じフレーズがあります。

アメリカの小学校では、アメリカの探検と開拓の歴史を学びます。そこに登場するのは、フランスからきたジャック・マークエット(Jacques Marquette)とルイス・ジョリエ(Louis Jolliet) という探検家です。この二人が中西部を探検したのは1670年代の頃です。マークエットはもともとフランスの宣教師でした。一方、ジョリエはカナダ、ケベック生まれのフランス人でした。この二人の探検家は一緒に主にミシシッピ川とその支流を使いアイオワ、ウィスコンシン、ミシガン、イリノイなどを調べメキシコ湾にも到達します。ジョリエの貢献は、彼の名前を付けた町の存在に現れています。

ロバート・ウォラー(Robert Waller)の小説に登場する屋根付き橋のローズマン・ブリッジ(Roseman Bridge)は、アイオワ州のマディソン郡(Madison County)のウィンターセット(Winterset)にあります。また、1989 年に公開されたケヴィン・コスナー(Kevin Costner)主演の映画『フィールド・オブ・ドリームス』(Field of Dreams)で描かれた野球場も同様にアイオワが舞台でした。
(投稿日時 2024年2月3日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州はじめに

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大分前に、このブログでアメリカのナンバープレートのエピソードなどを紹介しました。今回は、それを改訂して州の新しい歴史や出来事を追加して掲載します。ナンバープレートの蒐集は私の趣味の一つです。我が家の小さな倉庫に80枚あまりが積んであります。すべて アメリカ留学中に集めたものです。ナンバープレートはライセンスプレート(License Plate)というのが正しい呼び方です。

各州のナンバープレート

ナンバープレートに興味をもったのはそのデザインにあります。州の形をしたもの、州の特産物や自然のイラストを入れたもの、州の歴史やスポーツ、イベントを思い起こさせるものなどがあります。州の名前は必ず入ります。デザインの中で私の最も好きなのが州のキャッチフレーズやモットーが付いているものです。それに引き替え、我が国のプレートは貧相で魅力がありません。もっと工夫して都道府県の特徴をデザインとして欲しいものです。

各州のナンバープレートにあるキャッチフレーズは、歴史、人、自然、特産物、観光などに分けることができます。例えば、マサチューセッツ州(Massachusetts)は「Spirit of America」というキャッチフレーズです。このフレーズは、この州の建国の歴史と独立の精神を意味しています。アラスカ州のは「The Last Frontier」と印字されています。

アメリカのナンバープレートは、州や郡ごとに独自のデザインを持っています。非常に色彩豊かなものから、地味なものまで様々です。追加の手数料を支払えば自分のナンバープレートを作ることもできます。「Kiss Me」などと書かれたのを見たことがあります。他にも「Prison Made」(刑務所で作られた)というフレーズのもあります。可笑味のあるものです。確かカリフォルニア州(California)のプレートでした。サンフランシスコ(San Francisco)の金門橋(Golden Gate Bridge)付近にあるアルカトラズ島 (Alcatraz Island)で作られたものかもしれません。アルカトラズ島は今や一大観光地となっています。

Alcatraz Island

通常2年ごとにナンバープレートのデザインは変わります。ですから一つの州には沢山のプレートがあり、蒐集家を喜ばせます。この国の多様性を感じる機会がここにもあります。

ナンバープレートの集め方はいろいろです。他の州をドライブしていて自動車の解体屋の前を通るとそこに自分の持っていないのを見かけます。すぐ停めて交渉し、自分でプレートを外したことが何度もあります。家族寮の掲示板に「ウィスコンシン州以外のプレートを望む」という紙を貼っておくと電話がきて自分で外しにいきます。「ついでに新しいのを付け替えて」と頼まれることもありました。これから五十音順にナンバープレートを通して見えるアメリカの各州の歴史や魅力を紹介しましょう。
(投稿 2024年2月1日)

読後感】「ただ一撃」 藤沢周平

したたかに生きる庶民や、うだつの上がらない下級武士などを淡々と描いたのが作家藤沢周平です。その短編作品に「ただ一撃」があります。この小説のあらましです。仕官を望む一浪人の清家猪十郎は、自分を高く売るために履歴書である高名の覚を持参し、庄内藩内にやってきます。そして藩の優れた若侍と試合を所望します。タイ捨流という無双の刀遣いで、腕自慢の連中4名を撃ち込み、手傷を負わせるのです。

初代庄内藩主忠勝は、この野猿のような猪十郎をぶちのめせと家老に命じて不機嫌に去ります。家老たちは苦渋の相談の果てに、かつて兵法堪能だった刈谷範兵衛を5番手の相手に決めるのです。

範兵衛は60歳の隠居の身。毎日嫁の三緒に「お舅さま、洟、洟」と注意される体たらくです。範兵衛の息子,篤之介は三緒の夫ですが、父が兵法の達者であることを知らないので驚きます。

鶴ケ岡城下から半里ほどのところに、小真木野と呼ぶ広大な原野があります。高台のため未だに狐狸が出没するといわれています。範兵衛は対決に備えそこで修行に入ります。通りがかりの者から天狗を見たという噂が流れます。

やがて天狗に間違えられた範兵衛が修行を終えて帰宅し、ぐっすり昼寝をした後三緒と語ります。

 範兵衛 「妻の房枝が死んでから、女子の肌に触れたことがない」
 範兵衛 「男のものはもはや役に立たんようになったかも知れん」
三緒 「もうお年ですゆえ、ご無理でございましょう」

二人で短い会話をしながら範兵衛はいいます。
    範兵衛 「ところがさっき奇妙な夢をみてな」
    三緒  「夢、でございますか」
    範兵衛 「夢の中で、嫁女を犯した」
    範兵衛 「無理かどうか、試したい」
    三緒 「それがお役に立つなら、お試しなさいませ」

こうして範兵衛は嫁の三緒と合意の上で交わるのです。「儀式のようにして行われたそのことの最中に三緒の躰は不意に取り乱して歓びに奔った」のです。翌朝三緒は懐剣で喉を突いて自害します。驚愕した篤之介は飛び込んできて自害を知りますが、範兵衛は眉も動かしません。

試合で範兵衛は清家猪十郎を「ただ一撃」であっけなく勝ちます。それからは、ぼんやり庭や空を眺め、やがて雪が振ると部屋に閉じ籠って、行火を抱いてうつらうつらと眠る日課です。範兵衛は急速に老いていきます。「ただ一撃」とは嫁女三緒との交わりを暗示しているかのようです。

結末の文は憎たらしいほど見事です。江戸時代を舞台として老人の性というきわめて現代的課題に迫ります。現代小説では醜くなりがちな話を持ち前の筆力で、いざとなると大胆な女の可憐さを描くこの作品は秀逸といえましょう。

      (2023年11月5日 大和田囲碁同好会 成田 滋)

読書感】「暗殺の年輪」 藤沢周平

端正で凛とした文体で知られる作家藤沢周平の名作の一つといわれる武家ものの短編小説「暗殺の年輪」を紹介します。

海坂藩士・葛西馨之介が主人公です。成長するにつれ、周囲が向ける冷ややかな笑いの眼を感じるようになります。そして仲間から孤立していきます。剣友仲間に貝沼金吾がいます。あるとき金吾に誘われて貝沼家の奥屋敷へ行くと、3人の家老たちが待っています。一人の郡代が馨之介を見ていいます。
「これが、女の臀ひとつで命拾いをしたという倅か、よう育った。」この野卑で無思慮な一言が馨之介の胸を貫きます。

剣技を見込まれた馨之介は、藩執行部の反対派である家老の水野から、藩政の実権を握る重役の嶺岡兵庫の暗殺を引き受けろと言われます。20年もの昔、父の葛西源大夫は、藩内の派閥争いにからんで中老の嶺岡兵庫の暗殺にかかわり、失敗して横死します。その事件ののち、幼い馨之介の命と家名を救おうとして嶺岡に肌を許したと噂されたのが母の波留です。その秘密を知った馨之介は、母に問い詰めるのです。

波留の顔色はほとんど灰色で、眼のまわりはくすんでいます。まるで老婆のようです。
 母 「お前のためにやったことですよ。」
 馨之介「ずいぶんと愚かなことをなされた。」
 馨之介「そのために、私は20年来、人に蔑まれてきたようだ。」

夫の敵に身を任せ、じっと耐えてだれにも秘密を明かすことなく生きてきた波留は、悲哀を一杯に溜め込み家の守りをやり通すのです。男以上の豪毅さを感じさせてくれます。

浴びるほど酒を呑んだら苛立たしく募ってくる母への憎悪も幾分晴れそうだと、いきつけの飲み屋に行きます。したたかに呑んで家に戻ると血の匂いがします。奥の間の襖を開くと、むせるような血の香がそこに立ちこめています。掌に懐剣を持って自害した母の姿があります。穏やかな死相をしています。馨之介は立ち上がると嶺岡兵庫の刺殺を引き受ける覚悟を決めるのです。

馨之介は汚名を晴らすのですが、やがて父と同じ罠にかかったことを知るのです。それは、剣友仲間の貝沼が水野家老とともに、自らの手が動いた痕跡を消すために馨之介の口をふさごうとする策動です。口をふさげば、馨之介の死が父源大夫の横死に絡む私怨から嶺岡を刺殺したと雄弁に語ることになるのです。

家名を残すための、馨之介の母の哀しい行動が端正な文章で描写されています。軽侮され続ける馨之介が簡潔で無駄なく記述されています。そして汚名を晴らすはずが、策略に乗せられた馨之介の憤りが凛として描かれています。ほの暗く哀切を感じさせる一作です。

            (2023年11月4日  成田 滋)

【風物詩】積極的差別是正措置(Affirmative Action) その八 今後の大学の対応(最終回)

ハーヴァード大学は、現在の差別是正措置を擁護する方針といわれます。各学年の定員はわずか1,600人ですが、数字上は何千人もの同等の資格を持つ志願者がいると指摘します。例えば、2019年のクラスには35,000人の志願者がいましたが、そのうち数学のSATスコアが満点の者は3,700人、言語学のSATスコアが満点の者は2,700人、そして評定平均値が満点の者は8,000人以上でした。ハーヴァード大学の直近の新入生については同様の数字はありませんが、2023年の志願者数は過去4年間でほぼ倍増しています。

大学の入試担当者によれば、人種を考慮せずに黒人やラテン系の学生の数を増やそうとした学校は、他の基準、つまり階級や経済的地位、あるいは高校クラスの上位5%や10%の学生に対する入学保証のようなプログラムでは、これほどうまくいかないことがわかったといいます。「高等教育と公共政策を専門とするテキサス大学(University of Texas)のステラ・フローレス(Stella Florence)教授は、昨年秋にNPRのインタビューに答えています。「人種を一つの考慮要素として使う以外に、学生を人種的に多様化させる方法はない。」

RIce University

ハーヴァード大学のローレンス・バコウ(Lawrence Bacow)学長は声明の中で、「ハーヴァードは今後も、世界中のあらゆる階層の人々が集う活気あるコミュニティであり続けるだろう」と述べます。ヒューストン(Houston) にあるライス大学(Rice University) のレジナルド・デロッシュ学長(Reginald DesRoches) は、この判決に「非常に失望している」としながらも、多様性を追求することに「これまで以上の決意を固めている。法律は変わっても、ライスの多様性へのコミットメントは変わらない。」と彼はキャンパスメッセージで述べています。

College of Holy Cross

人種を考慮した入試を維持するよう裁判所に要請する大学は、イェール(Yale University)、プリンストン(Princeton University)、コロンビア(Columbia University)、ノートルダム(Notre Dame University)、ホーリークロス(College of Holy Cross)で、ハーヴァードとノースカロライナの入試計画を擁護する準備書面を提出しています。

【風物詩】積極的差別是正措置(Affirmative Action) その七 社会的影響

アメリカではすでに9つの州では、公立大学の入試において人種を考慮することを禁止しています。カリフォルニア州、ミシガン州、ワシントン州などでは、高等教育における積極的差別是正措置が廃止されたため、これらの州の主要公立大学ではマイノリティの入学者が激減しました。他にも人種を考慮することを禁止する州はあります。 アリゾナ州、フロリダ州、ジョージア州、ネブラスカ州、ニューハンプシャー州、オクラホマ州です。2020年、カリフォルニア州の有権者は、積極的差別是正措置の復活を求める投票法案をあっさり否決しました。

今回の最高裁の決定は、高等教育だけでなく、全米最初で最古の公立学校であるマサチューセッツ州のボストン・ラテン高校(Boston Latin School)、ヴァジニア州のトーマス・ジェファーソン高校(Thomas Jefferson High School)、ニューヨーク州のブロンクス科学高校(Bronx High School of Science)などの初等・中等教育選抜校にも波紋を広げ、全米に波紋を広げることになりそうです。

Boston Latin School

最終的には、National Football League(NFL)のすべてのコーチ採用決定においてマイノリティ志願者を考慮することを義務づけるルーニー・ルール(Rooney Rule)から、雇用や昇進の決定、学校や職場におけるDEI(Diversity, Equity & Inclusion)プログラムなど、国の経済、教育、社会生活のあらゆる側面に影響が及ぶことが予想されます。ハーヴァード大学のランダル・ケネディ(Randal Kennedy)教授は、「私たちは今後30年間、この問題について戦い続けることになるだろう」と語ります。

Boston Latin School founded in 1635

カリフォルニア大学のカラベル氏は、すでに雇用に関する訴訟が係争中であり、「この判決の論理からすれば、裁判所が定義する人種差別は雇用においても禁止されることになると思います」と指摘しています。ハーヴァード大学の共同弁護人であるビル・リー(Bill Lee)は、昨年秋にニュース社NPRのインタビューで、「この判決は、国全体、教育機関、業界全体にパンドラの箱(Pandora’s box)を開けることになるでしょう」と語っています。

【風物詩】積極的差別是正措置(Affirmative Action) その六 大学の見解

ノースカロライナ大学は、1955年まで黒人の学部生を受け入れませんでしたが、連邦裁判所の命令によって変更します。これとは対照的に、ハーヴァード大学は1978年、最高裁が同校の人種への配慮を、多様な学生を確保するために同校が拠り所とする他の特徴に類似するものとして引用し、差別是正措置プログラムのモデルとなりました。つまり、地理的条件や農家育ちであること、科学からスポーツまであらゆる分野で特別な業績があること、いわゆるレガシー学生であること、ハーヴァード大学同窓生息子や娘であること、などを考慮するというものです。

実際、差別是正措置が廃止されたところでは、マイノリティ、特にアフリカ系アメリカ人の入学者が激減しているのが現実です。2016年と2017年にカリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)の学部長代理を務め、現在はニューヨーク大学(New York University)法学部のメリッサ・マーレイ(Melissa Murray)教授は次のようにコメントします。「アフリカ系アメリカ人の学生数がすぐに減少したのは、入試方針の変更と同時に、アフリカ系アメリカ人の学生がそのような状況下でバークレー校に行きたがらなかったことが重なったのだ」と彼女は言います。「人々はスポットライトを浴びたくないのです。数には一種の安心感があり、そのような状況下で学生を募集するのは、非常に困難でした。」

University of California, Berkeley

バークレー校のジェローム・カラベル(Jerome Karabel)教授は、「この問題は、国家の安全保障に関わる問題であるため、非常に微妙である」といいます。同様の論理が、マイノリティを採用しようとする警察にも適用される可能性があり、事実上白人だけの部隊が黒人の多い町を取り締まることにならないようにするためである、とカラベル教授は指摘します。しかし、全米の大学にとって、多様性はもはや人種を考慮する理由としては受け入れられないだろうという見方をします。

積極的差別是正措置(Affirmative Action) その五 少数派の反対意見

30年間、積極的差別是正措置を推進してきたコロンビア大学(Columbia University)のボリンジャー学長(Lee Bollinger)は、この判決について「悲劇的な気分だ」と語り、「この国は、公民権の偉大な時代を継続するか、それとも “もう十分長いことやってきたから、まったく新しいアプローチが必要だ “という別の見方をするかの二者択一を迫られているように感じる。今は第二の選択だ。」

最高裁判事

この意見は、初のラテン系最高裁判事であるソニア・ソトマイヨール(Sonia Sotomayor)の反対意見と呼応しています。「裁判所は、民主的な政府と多元的な社会の基盤である教育における人種的不平等をさらに根付かせることによって、憲法が保障する平等保護を破壊する」と彼女は主張します。最高裁初の黒人女性判事であるケタンジ・ジャクソン(Ketanji Jackson)も、次のように述べます。「今日、多数派は、”色覚異常はすべての人に “と、法的措置によって宣言した。しかし、法律において人種を無関係とみなすことは、人生において人種を無関係とすることにはならない。」

ホワイトハウスからは、ジョー・バイデン(Joe Biden)大統領が、裁判所の判決に「極めて強く同意しない」と述べ、大学に対し、判決を「最後の言葉」にするのではなく、多様性を実現する他の道を模索するよう促しました。保守派とリベラル派の分裂に加え、積極的差別是正措置をめぐる争いは、有色人種である3名の裁判官の間の深い溝を示しました。ホワイトハウスでカメラの前に現れたバイデンは、全米の大学について「彼らは、アメリカ全体を反映する多様な背景と経験を持つ学生を確保するというコミットメントを放棄すべきではない」と述べ、大学は受験生が「克服した逆境」を評価すべきだと語りました。

ウィスコンシン大学キャンパス

ドナルド・トランプ(Donald Trump)前大統領とバラク・オバマ(Barack Obama)前大統領は、この高裁判決について全く異なる見解を示しています。現在、共和党の大統領選の最有力候補であるトランプ氏は、自身のソーシャル・メディア・ネットワーク(SMN)で、「並外れた能力を持ち、わが国の将来の偉大さを含め、成功に必要なあらゆるものを備えた人々が、ついに報われることになった」と書き込んでいます。

【風物詩】積極的差別是正措置(Affirmative Action) その四 多数派の賛成意見

長年、積極的差別是正措置というプログラムを批判してきたジョン・ロバーツ(John Roberts) 最高裁長官は、全米の大学は入試において人種差別のない基準を用いなければならないとし、多数派の判決を下したのです。ロバーツ長官は、「多くの大学はあまりにも長い間、個人が克服した課題でも、築き上げたスキルでも、学んだ教訓でもなく、肌の色を基準とするという誤った結論を下してきた。我々の憲法の歴史は、そのような選択を容認していない」と主張します。ロバーツ長官は、2003年に積極的差別是正措置の合憲性を再確認した裁判所の判決を指摘し、「当時裁判所の代弁者であったサンドラ・オコナー(Sandra Day O’Connor) 判事が、将来のある時点で終止符を打つ必要があると示唆していたことを指摘していた。その時が来たのだ。」と語ります。

差別是正措置賛成派

全米で二人目の黒人判事で以前から差別是正措置の廃止を訴えていたクラレンス・トーマス(Clarence Thomas) 判事は、今回の判決について、「大学の入学者選抜方針は、無軌道で人種に基づく優遇措置であり、入学者層に特定の人種が混じるように設計されている」と述べます。トーマス判事は、これまでと同様に積極的差別是正措置は、マイノリティに汚名を着せるものであるという長年の見解を繰り返します。「私も人種と差別に苦しむすべての人々に降りかかった社会的・経済的被害を痛感しているが、私はこの国がすべての人は平等につくられ、平等な市民であり、法の下では平等に扱われなければならない、という原則に従うことを永続的な希望として抱いている」とも主張します。

差別是正措置反対派

ですが、最高裁は、大学入試における人種的配慮への扉を完全に閉したわけではありません。ロバーツ長官が言うように、「この決定は、人種がその人の人生にどのような影響を与えたかについて、大学が志願者の意見を考慮することを禁止するものと解釈されるべきではない。」さらに最高裁は、アメリカ陸軍士官学校(Military Academy) は特に、国家安全保障上の利益のために、差別是正措置を継続できる可能性を残すとしています。

反積極的差別是正措置の活動家であるエドワード・ブラム(Edward Blum) は、1965年に制定された画期的な投票権法から高等教育における差別是正措置に至るまで、何十年もの間、あらゆることに反対してきた十字軍といわれた人物ですが、人種優先を理由にいくつかの企業の取締役会に異議を唱えることを計画しており、マイノリティの奨学金プログラムやフェローシップ・プログラム(Fellowship Program)に異議を唱える他の計画も持っているといいます。ブラムは、ハーヴァード大学とノースカロライナ大学というエリートとしての知名度の高い大学を法的ターゲットに選んだようです。

【風物詩】積極的差別是正措置(Affirmative Action) その三 ハーヴァード大学とノースカロライナ大学

アメリカ連邦最高裁判所の判決内容に戻ります。長年の伝統を覆し、最高裁はハーヴァード大学とノースカロライナ大学における人種差別を考慮した積極的差別是正措置(Affirmative Action)を事実上違法と判断しました。イデオロギーによって意見が分かれる中、保守派6名の判事を擁する大法廷は、積極的差別是正措置とは、民族や人種や出自による差別と貧困に悩む被差別集団の進学や就職や職場における昇進において、特別な採用枠の設置するというものです。ハーヴァード大学とノースカロライナ大学は、それぞれ米国最古の私立大学と公立大学です。

Harvard Yard

この判断は、長年支持されてきた数十年の判例を、共和党が任命した判事を含む最高裁の少数派によって覆されたものです。この判決により、公立・私立を問わず、大学やカレッジは、入学資格を持つ志願者の中から、どの志願者を入学させるかを決定する際に、多くの大学が現在でも必要だと主張している人種を考慮する、ということが難しくなります。

University of North Carolina at Chapel Hill

この判決は、女性が人工妊娠中絶を受ける権利が憲法で保障されるプライバシー権であると訴えたロー対ウェイド裁判(Law vs. Wade)を覆した昨年の重大な中絶判決と同様、長年の保守派の法主張が実現したことを示すものです。今回は人種差別を考慮した入学者選抜計画が憲法に抵触し、ほとんどすべての大学がそうであるように、連邦政府から資金援助を受けている大学にも適用されると認定しました。これらの大学は、特に志願者の人種を考慮する傾向が強いトップ校を中心に、入試方法の見直しを迫られることになります。ウィスコンシン大学マディソン校(University of WIsconsin-Madison)のジェニファ・ムヌーキン総長(Jennifer Mnookin)も入試方法を再検討すると表明しています。

合衆国大統領には最高裁長官を指名し、連邦上院の助言と同意を得て任命する強権が与えられています。最高裁は長官と8人の陪席判事で構成されます。最高裁は、人工中絶や同性結婚、銃規制など様々な社会的争点が判断され、国民生活の多岐にわたり影響を与える判断を示します。最高裁判事の構成は個々の大統領の任期を超えて、長くアメリカの社会に影響を及ぼしています。v

【風物詩】積極的差別是正措置(Affirmative Action) その二 日本の教育界における男女定員制

格差是正のためにマイノリティに割り当てを行う手法の一つに「クオータ制(quota)」があります。「quota」とは、ラテン語に由来する英語で「一定程度の割り当て、取り分」(a proportional part or share)といった意味です。日本では輸入の枠を設けるクオータ制度を使って、国内の産業を守っています。企業にも一定の枠で障害者を雇用しなければならない仕組みがあります。

No discrimination!

深刻なクオータ制や男女差別制は、教育界に存在します。全国の公⽴⾼校で唯⼀都⽴⾼校だけが⼊試で男⼥別定員制を設けていることで、女子生徒にとって不利になっている現状が大きな話題となっています。男⼥の合格最低点に差が生じ、⼥⼦のほうが⾼くなる傾向があることが理由とされています。都立高校全日制普通科の男女別合格者は、2021年度の入試は、51.9%が男子枠、48.1%が女子枠を設けていました。これがクオータ制です。しかし、性別で二分して異なる基準を設けることは、科学的妥当性に乏しいと多くの識者はいいます。世間の大きな批判を受けて、都教育委員会は男女定員制を是正するようです。

男女の合格ライン

複数の私立医科大学の入試で、女子の合格基準を男子より厳しく設定したり、点数を操作していたことが発覚した問題があります。医学部医学科の一般入試で、女子受験者の得点を一律に減点し、合格者数を抑えていたことが関係者の話で判明しました。 女子だけに不利な操作は、受験者側に一切の説明がないまま2011年頃から続いていたのです。

2018年8月、文部科学省は医学部がある全国の大学に緊急調査を実施します。その結果、私立の9大学で女子差別や年齢差別などの不適切な入試が確認されます。問題の指摘された私立医科大学のへの私学助成金はいずれもカットされます。2011~2018年度に受験した女性13人が「性別を理由に差別された」として、慰謝料など計約5500万円の損害賠償を求めた集団訴訟で、東京地裁は、大学に対して13人に計約805万円を支払うように命じる判決を出しています。

【風物詩】積極的差別是正措置(Affirmative Action) その一 最高裁判所は違法と判断

これから数回に渡り、アメリカの大学でにおける合格判定を巡る話題を取り上げます。2023年6月29日の木曜日、アメリカ連邦最高裁判所(Federal Supreme Court) は歴史的な判決を下し、ハーヴァード大学(Harvard University)とノースカロライナ大学(University of North Carolina) の入試プログラムを無効としました。大学における人種差別を考慮した積極的差別是正措置(Affirmative Action)を事実上廃止するとしました。日本と違い多民族がモザイクのように混ざる国です。もともと白人が政治や社会、経済を支配した歴史があります。そのため黒人奴隷の解放を巡る南北戦争が起こり、それでも根強く人種差別が続き、1960年代にマーチン・ルーサー・キング牧師らによる公民権運動の高まりによって制度上は人種差別は違法となりました。しかし、社会の至るところに目の見えない差別が今も起こっています。

Affirmative Action and Protesters

大学での学びは、すべての人にとって重要なパスポートのようなものです。高等教育には多額の費用がかかるのはどこも同じです。特に貧富の差が激しいのが多民族国家です。アメリカはその代表といえるかもしれません。学力がついていても、貧しいが故に大学に入ることができないのが少数民族出身(マイノリティ)の若者に多いのです。そこで、大学は積極的差別是正措置という特別な採用枠を設けて、一定程度の学力がある少数民族の若者にも入学を許可しようとする仕組みが1980年代から多くの大学で始まりました。

アメリカの大学への志願者は、学力テストの他に全国レベルで科学からスポーツ、ボランティア活動などあらゆる分野で特別な業績や経験があるかどうかがも審査されます。特異な能力も入学の大事な要件なのです。それから人種などの出自も考慮されて、いわば総合的に調べられて合否の判定がくだされます。興味あることには、志願者が大学の同窓生の子弟であるとか、大学に多額の寄附をする家庭の子弟であるか、ということも合否の結果に反映されます。このようにアメリカの大学ではマイノリティの若者に特定の割合で入学させる仕組みを採用しています。これが積極的差別是正措置といわれる優遇措置です。今回、長年の判例を覆しこの措置が違法であると最高裁判所は決定したのです。

【風物詩】その六「らんまん」から 

毎日朝ドラを観ております。私の親しい友人が高知にいて、彼に案内されて県立牧野植物園を訪ねたことがあります。市内の五台山の広大な敷地にある素晴らしい施設です。牧野富太郎は、東京大学理学部植物学教室への出入りを許され、植物分類学の研究に打ち込みます。自ら創刊に携わった「植物学雑誌」に、新種ヤマトグサを発表し、日本人として国内で初めて新種に学名をつけます。やがて「日本の植物分類学の父」と呼ばれます。「らんまん」は牧野の生誕160年を記念して製作されたようです。

「らんまん」の舞台は明治の後期です。小学校を中退し、やがて東京帝国大学理学部の植物学教室に出入りを許されるという筋書きです。天下の帝国大学という序列の厳しい縦社会の組織で、研究に没頭する涙ぐましい姿が描かれます。いかに研究中心の組織とはいえ、帝国大学を頂点とする封建的な組織というのは、上意下達の軍隊組織のように、秩序を乱すことは許されない洗脳されたような社会です。

私もある国立の研究所で小さな縦社会の裏側を経験したものです。いっぱしの研究者として、業者から支援を受けて物品を供与されたり、海外での学会発表に出掛けることもありました。研究では研究費を獲得することが仕事の1つでした。私は上司からみると組織をはみ出す「出る杭」であったようです。そのため「蟄居」を命じられたことがあります。蟄居とは謹慎のことです。

高知県立牧野植物園

その後研究所を去って、兵庫県にある小さな国立大学で職に就きました。「出る杭は抜かれ捨てられる」ような有様でした。ですが兵庫で始めて組織のなかでも自由な空気を吸うことができました。誰の指図もなく、獲得した研究費を好きなように使えるのです。研究費は税金の一部であります。自己管理が要求される社会ですが、自分の研究が社会にどのように貢献したか、を問われるとあまり自信がないのが少々歯痒いです。

【風物詩】その五 「ありがとう、ご苦労さん、ごめんなさい」

1973年頃那覇市にいたとき、共同住宅の自治会で琉球大学の教官をしていた浅野さんと知り合いました。本土復帰を終えて、私を含め住宅には那覇市内のいろいろな官庁に出向してきた「ヤマトンチュ」がいました。「ヤマトンチュ」とは沖縄方言で、本土からの人といういう意味です。住宅内に琉球の歴史や文化を学ぶなどいくつかのサークルができました。1964年から65年にかけて県内で流行した風疹により聴覚などに障害のある「風疹児」や障害児の勉強グループもできました。

浅野さんの奥さんの旧姓は根間さんといい、琉球大学を卒業後、国費で国立女子大の大学院で障害児教育を研究したということを知りました。私は小さな幼稚園を開設し、そこに知的な障害のある子どもを受け入れることにしました。根間さんの依頼で一人の発達障害の子どもを預かりました。指導の仕方の基礎を学んでいなかったのでお手上げで、暫くして子どもは幼稚園を退園していきました。その頃、「自閉症は増えている」という本を手し、子どもの発達を真剣に学ぶ必要性に駆られました。幸い国際ローターリークラブより奨学金をいただき、ウィスコンシン大学で障害児教育を学ぶ機会が与えられました。それから6年余り経って文科省の特殊教育の研究所に就職しました。

斎場御獄–南城市

最近、浅野さんご夫妻が綴ったブログを発見しました。お二人は現在、本島の東側、知念半島にある南城市にお住まいです。知念半島には。世界遺産の斎場御獄 グスク、神の島といわれる久高島などの史跡に恵まれています。私と同じ年頃のご夫妻のブログの中で興味ある記述がありました。二人はある約束をしたというのです。「ありがとう」「ご苦労さん」「ごめんなさい」という言葉を日常生活で互いに交わそう、というのです。ご主人はこうした言葉は夫婦間で使っていなかったので、最初は大分ためらったとか。今では慣れてスイスイ口からでてくるというのです。示唆に富むエッセイでした。

【風物詩】その四 庭木の剪定

先日、シルバーセンターの人達がきて、マンションの剪定作業をしてくれました。全体で3日間の作業でした。毎年2回で同じ剪定業者なので、作業員の方々とは顔見知りとなっていました。

一階に住む私の庭にきたので、まず剪定して欲しい木とそうでない木を相談します。柿、オリーブ、金柑、無花果は剪定しないように依頼します。こうした木は、7〜8年前に苗木を買ってきて植えたものです。柿などは収穫が終わる秋には、自分で剪定作業をします。この剪定のコツや仕方はYoutubeで学んでいます。木の種類ごとに作業の仕方が丁寧に説明されるので大変参考になります。

剪定ばさみ

作業員の方々によると、剪定の適当な時期は年に夏と冬のようです。夏におこなうのは弱剪定、冬におこなうのは強剪定というのだそうです。弱剪定では、軽めの剪定をおこない、長く成長しすぎた枝や葉を切ることです。それによって風通しや日当たりをよくします。強剪定のおもな目的は、樹高や樹形の調節と生育の促進のためで、高くなりすぎた枝を落とすとか、不用な枝を取り除くことです。樹木は上部のほうが成長しやすく、下にいくにつれて成長スピードが遅くなります。そのため上部の枝を強目に剪定し、下部の枝を弱目に剪定するのがコツといわれます。

【風物詩】その三 野菜作り

今年も野菜作りは収穫の最盛期を迎えました。ミニトマトは10本の苗からたわわに実ってとても老夫婦二人では食べきれません。近所にお裾分けをしています。ゴーヤは西側の窓際に植えて、カーテンのような日蔭としています。ゴーヤは細長いものと、丸みのあるものを植えて収穫し始めました。ゴーヤは琉球にいたとき、はじめて食したものです。茗荷もぼつぼつでてきています。茗荷は刻んで素麺のタレにそえ、ピリッとした香りを楽しみます。

今年はキュウリやゴーヤは種から苗を作りそれを植え替えて,見事に大きくなっています。成長が早いので表面がとげのあるうちに収穫します。キュウリの粕漬けは美味しいものです。茄子は生協店で売っているような立派ななりではありません。水やりは毎日欠かさないのですが、なぜか固いのです。

家庭菜園は楽しい

ハウスものの野菜は、温度や水量が管理され、肥料も調節されているので、立派なものができます。それに対して、家庭菜園は自然の成り行きに任せるので、虫もやってきます。ですが薬は決して使いません。見栄えは色も形も大きさもいまいちですが、無農薬だけは自慢できることです。

庭が狭いので8つのプランターを使い、主に葉野菜の種を植えています。この場合は「元肥入り」や「初期肥料配合」と記載されている培養土を使うようにしています。間引きしてから茎を大きくし、ときどき追肥します。茎ブロッコリーも成長が早いです。葉野菜でサラダなどを楽しんでいます。

【風物詩】その二 「Walkability」と「Mobility」

このところ自転車に乗るときは、ヘルメットを被ります。5年ほど前に購入したものですが、最近の改正道路交通法の施行に関するニュースで、改めて倉庫にあったものを被っています。

乗っている自転車は2台。1台は父親譲りで20年ものの骨董品、もう1台は3段ギアの新車です。ちょっとした買い物のときは骨董品のを、遠出のときは3段のに乗ります。時々近くの自転車店で空気を入れますが、骨董品のは実に頑丈でまだまだ乗れるとのお墨付きをもらっています。最近の自転車は価格は安いのですが、作りがいわば、チャチだそうです。

もっぱら自転車を利用しているので、自動車には滅多に乗りません。駐車場の問題がほとんどないのが自転車です。最近は自転車専用レーンもつくられて、自転車の利用を推進しています。それで思い出すのが、15年前にオランダのアムステルダムに行ったときです。丁度夕食のレストランに行ったのですが、顧客は合羽を着て自転車でやってくるのです。雨の日には自転車は避けるものだ、という先入観があります。オランダのどの街にも自転車道があり、自転車の利用が半端でないことを知りました。自転車道は、自動車道や歩道とそれぞれ物理的に分離しているのです。

アムステルダムの街

「Walkability」とは徒歩か自転車での移動、「Mobility」は自動車を使った移動という意味です。自転車の利用を促進するには、専用レーンや路上に自転車のアイコンを貼る、などの配慮が大事です。「カーボンニュートラル」の実現には、移動は車を控えて、公共交通機関や自転車を使うことが求められています。これは誰しもができる小さな行動です。

【風物詩】その一 コロニアルスタイル

地も空も焼きつくすような凄まじい酷暑のあとに、一夜の小雨がやってきて、八王子の街も急に秋の気配に包まれたようです。時おり吹きすぎる風がいやに涼しく、萎れたキュウリの葉がピンともとどおりになりました。今朝はもう昨日までの夏の陽ざしではありません。梅雨がまだ明けないというのに、妙におかしな天気です。39度を記録したとか。

隣り近所からは、改築か新築らしいのか、柱を組み合わせる小槌の音が響きます。木材の音は、金属音と違い心地よいものです。夏は涼しく、冬は暖かいのが木造の家です。今住んでいマンションは、日蔭の側でも、壁を手でさわると生暖かいのです。すっかり暖まっているのはコンクリートのせいです。

木造の家のことです。長男夫婦はボストンの郊外で築後80年になろうかという家に住んでいます。二人の息子は大学生となり家にはいません。彼らの家はコロニアル・スタイルという17~18世紀にイギリスの植民地のアメリカで発達した建築や工芸の様式です。建物は正面にポーチがつき、大きな窓やベランダがあるのが特徴です。コロニアルとは植民地という意味です。

ボストン郊外の長男宅

数年前に訪ねたとき、丁度断熱材をいれる工事をやっていました。私は二階の寝室の壁に新しい断熱材をいれるを手伝いました。古い材料をかたづけるのも厄介でした。長男はホームセンターで大工に指示された材料を買ってきます。木材はシロアリ対策のためにすべて防腐剤が施されているとのこと。防腐剤は有害なので、勝手に燃やしたりすることは禁止されているようです。大工は、大事な箇所を受け持ち、その他は長男が自分で受け持つという、いわばDIY (Do It Yourself)を地で行くような工事です。

あとで聞いたことですが、長男は息子たちとでガレージの大きなドアを付け替えたというのです。ドアの開閉は、車内からコントローラーで操作します。こんな工事まで自分たちでやるのは、アメリカはでは決して珍しいことではないようです。

【話の泉ー笑い】 その四十七 パントマイム その7 手話とマイム

今回で【話の泉ー笑い】はお終いです。言葉がなかった太古、人々は狩りをするとき、動物の真似をし、身振り手振りで追い詰めたはずです。赤児も母親には体で表現し意思を伝えます

ローマ時代、ルキウス・アンドロニクス(Lucius Andronics)という劇作家・詩人がいました。アンドロニクスは各地で自作の戯曲を演じていましたが、アンコールに応じ過ぎて声が枯れてしまい,奴隷に代わりに歌わせ、自身は体で演じそれが大いに受けてたそうです。Wikipediaによりますと、アンドロニクスは、古代ギリシャの文芸作品をラテン語に翻訳し、古代ローマの劇作及びラテン文学の父と呼ばれます。

中世の後期には、カトリック教会の司祭らは、大勢の文盲の民衆のために、体を使って聖書の教えを伝えたともいわれます。当時、礼拝はすべてラテン語で執り行われ、聖書の朗読もラテン語だったので、会衆は理解できなかったからです。印刷技術も未発達なので、聖書は民衆に流布しませんでした。

最後に、手話とパントマイムの類似点や相違点など触れてこのシリーズを終わります。以下の文章は、酒井邦嘉著の「言語の脳科学」 (中公新書)より引用しました。話題とした「笑い」から少しずれています。

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『ジェスチャーやパントマイムは、送り手がメッセージを身振りで表現して、受け手が視覚を通して理解するという点では手話と共通している。手話では、音声言語以上に、視覚的な情報を加えることが多い。例えば「山田さん」という名前だけでなく、顔の輪郭や太っているかどうかなどの目に見える特徴を豊富に織り込みながら話題にするのが普通である。パントマイムがうまければ、その人の歩き方などの癖を真似することで、手話を使いこなす人らしい、具体的な表現ができるだろう。しかし、手話とパントマイムでは、伝えられるメッセージだけではなく、伝え方そのものが根本的に違う。

パントマイムでは、顔の表情や頭の動きは主に感情を表現することに使われる。他方、日本手話では、手の動きと合わせて、顔の表情や口の形、うなずきなどの頭の動きを同時に使うのが普通である。これは、副詞としての意味を付け加えたり、例えば、「懸命に」、「気楽に」など文節の切れ目や疑問文などの文法的な働きを持たせることができる。

手話は手しか使わないと思ったらそれは大きな誤解である。手を使わない動作を巧みにブレンドすることで、手話ではパントマイムよりも遙かに抽象的なことまで正確に表現できる。』

【話の泉ー笑い】 その四十六 パントマイム その6 その芸術

笑いの芸術、パントマイムのまとめです。「声を用いず身体の動きや顔の表情のみを表現手段とする芸術」がパントマイムです。黙劇とか無言劇です。古代ギリシャで生まれた「ものまね」を中心とした座興的な雑芸と呼ばれました。パントマイムの起源は古代ローマのパントミムス(pantomimus)に求めるのが定説のようです。ギリシャ時代は雑劇といわれましたが「ものまね,身振り」的な要素が強調され、1つの芸能のジャンルとなりました。

紀元後からおよそ5世紀の初めに至るまで、ものまねが卑俗であるとしてキリスト教会からの「道徳的な非難」や名帝といわれたトラヤヌス皇帝(Emperor Marcus Trajan)による禁止令にもかかわらず、古代ローマ人には大いに愛好されたといわれます。ローマ帝国の解体以降は、いわば1つの芸術ジャンルとしては消滅しますが、実体としては種々の雑芸や笑劇の中にその要素が吸収され、西欧演劇の一底流として中世・ルネッサンス期から近代へと生き続けることになります。

ジェスチャー(NHK)

本稿で既に述べましたが、イタリアのコンメディア・デッラルテという旅芸人一座の中にパントマイムの要素を色濃く見ることができます。17、18世紀にフランス宮廷などで行われた神話を題材とする仮面舞踏劇もパントーム(pantomime)と呼ばれています。

19世紀になるとパントマイムは、演劇史の中で全盛期を迎えます。フランスにおいうてピエロに扮した芸人の芸として発達します。その後、エティーヌ・ドクルー(Etinne Docroux)やバロー、マルソーに受け継がれていきます。パントマイムは、音声言語を排除するので、舞台芸術として実践することは、戯曲上演と比べてかなり少ないのが実際です。それでも演劇表現の中で占める普遍性によって、今日でも俳優訓練や養成の一手段として世界各国で重視され、人々に笑いや感動を与え続けています。

【話の泉ー笑い】 その四十五 パントマイム その5 映画「ユダヤ孤児を救った芸術家」

マルセル・マルソーはユダヤ人でした。ドイツ軍のフランス侵攻に伴い、ユダヤ人であることを隠すために姓を「Mangel」から「Marceau」に名前を変えたようです。彼の父はゲシュタポ(Gestapo)によって捕らえられ、1944年にアウシュビッツ強制収容所(Auschwitz Concentration Camp)で亡くなります。若いとき、マルソーは第二次大戦中にナチと協力関係にあったフランス政権に立ち向かうべく、レジスタンス運動に身を投じます。彼はフラン語、英語、ドイツ語に堪能だったようで、一時、連合軍第三軍のジョージ・パットン(General George Patton’s Third Army)の連絡将校として働いたとあります。

沈黙のレジスタンス

このマルソーの実体験を映画化したのが「沈黙のレジスタンス–ユダヤ孤児を救った芸術家」という作品です。第二次世界大戦が激化するなか、彼は兄のアランらとでナチに親を殺されたユダヤ人の子どもたち123人の世話をします。悲しみと緊張に包まれた子どもたちにパントマイムで笑顔を取り戻させます。それでもナチの勢力は日に日に増大し、1942年、遂にドイツ軍がフランス全土を占領します。マルソーらは、険しく危険なアルプスの山を越えて、子どもたちを安全なスイスへと逃がそうとします。

マルセル・マルソー

「戦時中だからこそ、子ども達を笑わせたい」「真の抵抗とは人を殺すことではなく、命を繋ぐこと」と映画の中でマルソーは言います。「芸術とは、見えないものを見えるようにし、見えるものを見えないようにする」とも言います。この考え方はまさに彼のアートそのものであり、彼が子ども達を救おうとしたシーンにも表れています。

【話の泉ー笑い】 その四十四 パントマイム その4 マルセル・マルソー

1998年に日本でも公演したことのあるマルセル・マルソーのことです。彼は、パントマイムという芸術形式における第一人者で、近代パントマイムの歴史で最も有名な演者の一人といわれます。マルソーは、5歳のとき母に連れられてチャーリー・チャップリンの無声映画を見たことがきっかけで俳優を志したと回想しています。やがて演劇や身体を使ったパフォーマンスを学びます。

Marcel Marceau

ちなみに映画『天井桟敷の人々』(Les enfants du Paradis)のバチスト役(Baptiste)で世界的に有名になるジャン・ルイ・バローは、マイム研究家であったエチエンヌ・ドゥクルー(Etienne Decroux)の生徒でした。マルソーはバローが立ち上げた劇団に参加しますが、バローが映画を中心とした活動になり、マルソーはパントマイムを追求するためにバローから離れます。マルソーはこの劇団のパントマイムのバチストで演じた道化役で好感触を得たことを弾みに、最初の無言劇(mimodrame)『プラクシテレスと黄金の魚–Praxitele and the Golden Fish』をサラ・ベルナール劇場(Sarah Bernhardt Theater)という所で公演し高い評価を得るのです。

Marcel-Marceau

1947年には、マルソーの代名詞ともいえるキャラクター「Bip」を名乗ります。「Bip」は白く塗られた顔、よれよれのシルクハット、帽子に力なく飾られた花、ストライプのシャツなどはパントマイムの一般的なイメージとして認知されるほど、大衆にアピールします。言葉を発せず体ひとつで表現されるそのパフォーマンスは高い評価を受け、とりわけ有名な『若さ、成熟、老年そして死』(Youth, Maturity, Old Age, and Death)と呼ばれているパフォーマンスは有名となります。このパフォーマンスについて、評論家は「彼は小説家が何冊書いても表現しきれない世界を2分で表現してしまう」と言ったといわれます。

【話の泉ー笑い】 その四十三 パントマイム その3 道化役とピエロ

コンメディア・デッラルテが衰退すると、その遺産を取り入れた道化芝居がフランスで発達していきます。現在の道化役(ピエロ: pierrot)のイメージ、白塗りでちょっととぼけたキャラクターは、この時期のフランスの道化芝居から生まれたものといわれます。その後、時代の流れとともに19世紀後半にはこのような道化芝居も衰退していきますが、その流れを取り入れたジャン・ルイ・バロー(Jean-Louis Barrault)などが身体技法としてのパントマイムを洗練させていきます。やがてバローの生徒として、マルセル・マルソー(Marcel Marceau)が登場します。マルソーは後に「パントマイムの神様」「沈黙の詩人」と呼ばれ、今日のマイムの大衆化に大きな貢献をしたといわれます。そしてパントマイムを「沈黙の芸術–Art of Silence」として確立するのです。

Street Performance

ピエロとかクラウン(Clown)は、西洋の道化役のことです。原型はイタリアの即興喜劇コメディア・デッラルテの、のろまでずうずうしい居候の道化役ペドロリーノ(Pedrolino)です。17世紀後半にパリのイタリア人劇団によってフランス化され、白いだぶだぶの衣装を着て顔を白塗りにし、円錐形の帽子,黒い仮面、鳥の嘴のような大きい鼻を持ちシルクハットを被った小柄な老紳士プルチネラ(Pulcinella) が登場します。おそらくペドロリーノの後身であるピエロ〈悲しき道化〉だったようです。

Performer and Children

ピエロは、男子名ピエール(Pierre) の愛称を名のって、歌と対話を交互に入れた通俗的な喜劇・舞踊・曲芸などのボードビル (vaudeville)やバレエで活躍します。19世紀にはボヘミヤ(Bohemia) 出身のパントマイムの名優ドビュロー(De Bureauがこの役柄をさらに洗練して、まぬけだが繊細なロマンチストで恋に悩み哀愁に満ちたピエロ像を完成していきます。またサーカスでは、より活動的な役柄であるプルチネッラ (Pulcinella)や即興劇のアルレッキーノ(Arlecchino)の要素が加えられ、イギリスのクラウンとも混ざり合って、ひだ付きの襟飾りと目や口の周りの赤い化粧が強調された道化師となります。そのいずれもが多くの作家や画家の題材にもなり、笑いのキャラクターとして定着していきます。

【話の泉ー笑い】 その四十二 パントマイム その2 コンメディア・デッラルテ

現代のパントマイムといえば、チャーリー・チャップリン(Charles Chaplin)の無声映画を思い浮かべます。サイレント作品「街の灯:City Lights」は、盲目の女性との恋を悲しくも暖かに描き世界中で大ヒットとなったことは、すでにこのシリーズで紹介しました。丁度トーキーの波が押し寄せる頃です。英語圏においては、パントマイムという単語は、主にクリスマスに子ども向けに演じられるコメディ要素の強い伝統的演劇を指すようです。

City Lights

今日私たちが知っているパントマイムに強い影響を与えたものとして、ルネサンス期(Renaissance)のイタリアの即興喜劇で起こったコンメディア・デッラルテ(Commedia dell’arte) が引用されています。デッラルテとは、今で言う旅芸人一座のことです。ヨーロッパ全土を放浪し大道芸を行ったといわれます。ヨーロッパの各地を訪れるのですから、言語の壁を乗り越える必要がありました。そうしてパントマイムの技法が洗練されていったようです。

Limelight

コンメディア・デッラルテは観客を楽しませるために様々な手段を使ったようです。演技は誇張され、やがてラッツィ(Razzi)と呼ばれる独特の笑いのテクニックも編み出されていきます。時にはパントマイムやジャグリング、アクロバットなどの身体表現も交えて演じられます。仮面を使用する即興演劇の一形態で、演じる内容の多くは時代や社会の風刺喜劇が中心であったといわれます。

【話の泉ー笑い】 その四十一 パントマイム その1 その語源

話の泉は、パントマイムという「沈黙の芸術–笑い」へと展開していきます。週末、ヨーロッパやアメリカの大都会の繁華街を歩くと、必ずといってもよいほど大道芸(ストリートパフォーマンス;street performance) に出会います。ジャグリング(juggling)もそうです。台詞ではなく身体や表情で表現する演劇の形態で黙劇とか無言劇とも呼ばれる「パントマイム」(pantomime)も見かけます。

大道芸人

パントマイムでは、実際には無い壁や扉、階段、エスカレータ、ロープ、風船などがあたかもその場に存在するかのように身振り手振りのパフォーマンスで表現します。特異な服装や化粧をして全く身じろぎをしないパフォーマンスにも会い、子ども達を驚かせたり喜ばせたりします。

パントマイムの語源をWikipediaから引用します。パントマイムとは「全てを真似る人」「役者」を意味する古典ギリシア語 「pantomimos」とあります。古代ギリシアの頃のパントマイムは、演劇の一演目という扱いだったようで、今とは違い仮面舞踏に近いものだったといわれます。

「泣き笑いして我がピエロ」(堀口大学)

パントマイムをする人を、パントマイミスト(pantomimist)、マイマー(mimer)、パントマイマー(pantomime)などと呼びます。英語圏ではマイムアーティスト(mime artist)という呼びかたもあるくらいです。イギリスでは18世紀以降、台詞のある滑稽劇として独特の発展を遂げ、クリスマスの風物詩となるくらい人気がでます。

【話の泉ー笑い】 その四十 真打ち「話の泉」 その5 「二十の扉」

「話の泉」の次ぎに生まれたのが、「二十の扉」です。1947年11月から1960年4月まで毎週土曜日の午後7時30分から30分間、NHKラジオ第1放送からの番組です。アメリカで放送されていたクイズ番組『Twenty Questions』(20の質問)をモデルにした番組といわれます。動物、植物、鉱物の3つのテーマから出題された問題に、回答者は司会者に20まで質問ができ、その間に正解を探しだしていきます。質問を扉とみなして20の扉を開けていくという趣向でした。

「二十の扉」の問題はすべてリスナーから寄せられました。リスナーからの問題の投稿は「話の泉」の比ではないくらい多く、1日に2万通を超える日があったと言われています。「話の泉」に比べて、番組を楽しむためのハードルはやや低かったと思われます。「話の泉」が「クイズに付随したトークを楽しむ番組」だとすれば、「二十の扉」は「クイズ的なゲームを楽しむ番組」だったようです。

「話の泉」との差別化を徹底的に図ったこの番組は、ゲーム性をとことん追求していました。企画段階では1か月半、週3回ほどテンポの速さと司会者の応答の仕方の猛練習が行われたことにより、スピーディな進行とエンターテイメント性を兼ね備えた超人気番組になったといわれます。番組終了まで司会を担当したのは藤倉修一というアナウンサーです。彼の功績は非常に大きかったと言えます。

司会者の藤倉修一

「二十の扉」では、観客は答えを知っており、回答者の質問が良い質問をすると、観客から拍手が起きます。そのほか笑いが起きたり、薄い拍手が起きたりします。そしてそれが回答者に対するヒントになります。こうした形で観客も番組に参加していたのです。

レギュラー回答者による通常の放送のほかにも「ゲスト大会」が頻繁に開かれます。歌舞伎、政治家、プロレス、文壇などといった、普段あまりクイズとは縁のなさそうな分野からもゲストを招いて番組を盛り上げたようです。「話の泉」の次ぎに生まれたのが、「二十の扉」です。1947年11月から1960年4月まで毎週土曜日の午後7時30分から30分間、NHKラジオ第1放送からの番組です。アメリカで放送されていたクイズ番組『Twenty Questions』(20の質問)をモデルにした番組といわれます。動物、植物、鉱物の3つのテーマから出題された問題に、回答者は司会者に20まで質問ができ、その間に正解を探しだしていきます。質問を扉とみなして20の扉を開けていくという趣向でした。

二十の扉

「二十の扉」の問題はすべてリスナーから寄せられました。リスナーからの問題の投稿は「話の泉」の比ではないくらい多く、1日に2万通を超える日があったと言われています。「話の泉」に比べて、番組を楽しむためのハードルはやや低かったと思われます。「話の泉」が「クイズに付随したトークを楽しむ番組」だとすれば、「二十の扉」は「クイズ的なゲームを楽しむ番組」だったようです。

「話の泉」との差別化を徹底的に図ったこの番組は、とことんゲーム性を追求していました。企画段階では1か月半、週3回ほどテンポの速さと司会者の応答の仕方の猛練習が行われたことにより、スピーディな進行とエンターテイメント性を兼ね備えた超人気番組になったといわれます。番組終了まで司会を担当したのは藤倉修一というアナウンサーです。彼の功績は非常に大きかったと言えます。

「二十の扉」では、観客は答えを知っており、回答者の質問が良い質問をすると、観客から拍手が起きます。そのほか笑いが起きたり、薄い拍手が起きたりします。そしてそれが回答者に対するヒントになります。こうした形で観客も番組に参加していたのです。レギュラー回答者による通常の放送のほかにも「ゲスト大会」が頻繁に開かれます。歌舞伎、政治家、プロレス、文壇などといった、普段あまりクイズとは縁のなさそうな分野からもゲストを招いて番組を盛り上げたようです。

【話の泉ー笑い】 その三十九 「話の泉」 その4 司会者

放送番組に欠かせないのが司会者です。特にトーク番組はそうです。徳川夢声をはじめとする一癖も二癖もある文化人のレギュラー回答者たちを相手に絶妙な問答を繰り広げ、1946年から1964年の間にかけて、タレントとしての才能も高い人気地位を保ちます。

第1回の放送では徳川夢声が司会を担当します。出場者は、サトウハチロー、中野五郎、中野好夫、堀内敬三でした。徳川夢声はもとより自他共に認める鉄道ファンであり、「話の泉」での共演者からは「彼のモノ知りは非常に本格的なのである」と評されたようです。多くの著名人とのインタビューを通して博識が育まれたようです。司会者と回答者、丁々発止のやりとりが聴衆者に受け入れられます。ということは、この番組は「クイズそのものを楽しむ番組」ではなく「『クイズを出題し、回答したり、内容について話したりして楽しんでいる人』を楽しむ番組」だったとわれます。

中野好夫

徳川夢声は、最初は無声映画の弁士で知られるようになります。しかし、トーキー映画の登場により活弁の仕事が無くなると、ラジオやテレビの司会者・俳優・作家として活躍し、持ち前のユーモアと博識で人々に愛されます。特に吉川英治作「宮本武蔵」の朗読で国民的人気を得ます。

回答メンバーは、自他ともに「雑学」という知識の持ち主と自負?していたようです。「話の泉」のメンバーは諸事に詳しいことが要求されます。そこで「偏学」という用語も使われてきます。メンバーの人々自らもその知識は偏っていると認め、大学教授のようないわゆる学者バカを「偏学」というべきだ、と広言してやまないような文化人です。

堀内敬三


徳川夢声の後を引き継いだ司会者が和田信賢です。一癖も二癖もある文化人のレギュラー回答者たちを相手に絶妙な問答を繰り広げ、タレントとしての才能も高い人気アナウンサーの地位を高め、司会者としての人気は絶頂期を迎えます。後に不世出の名アナウンサーと呼ばれるほどでした。その後は高橋圭三らが担当します。 回答者には、堀内敬三、サトウ・ハチロー、徳川夢声、渡辺紳一郎、山本嘉次郎、大田黒元雄、春山行夫といった当時の知識人・著名人たちです。彼らの当意即妙のユーモアを加えるところに、その知性の高さを聴衆者に感じさせたものです。

【話の泉ー笑い】 その三十八 「話の泉」 その3 知的な推理ゲーム

「話の泉」は、わが国のクイズ番組の嚆矢であり、知的な推理ゲームとして定着し18年間873回続きます。ラジオが全盛期の頃です。そこには、クイズ番組を面白くする要素がありました「話の泉」に含まれる構成要件は次のようなものです。
1 リスナーを巻き込む    本番組の場合は問題投稿・公開放送とする
2 クイズをしている人を見せる   本番組では解答者と司会者の軽妙なトークをいれる
3 難問奇問を選定する   問題のジャンル調整しリアクションのとりやすい問題を選ぶ
4 名司会者を配置する   回答を引き出す助けもする

話の泉-公開放送

今、思えば現在ではわざわざ指摘する必要がないくらい当たり前な構成要件です。ですがテレビと違いラジオ番組ですから、リスナーがイメージを形成するような質問と応答であることが大事でした。聴覚からの情報によって、いかにして笑いを形成するかに関して番組製作者と司会者は苦労したことと察します。

問題は全国から募集し、集まった問題を番組製作者らがしぼります。公開録音の前日に司会者と番組製作者でそこからが13通位を選びます。一般常識、文芸、スポーツ、音楽、科学、社会、地理、歴史など、あらゆる分野に平等に行きわたるように按配したようです。放送されるクイズ問題に正確を期するために、事実関係を確認する「ウラ取り」をしたかどうかです。今のように正確さや厳密さが求められることからすると、放送直前に「ウラ取り」するというのは考証が不足するという懸念が浮かびます。

【話の泉ー笑い】 その三十七 「話の泉」 その2 リスナーが参加する番組 

前回は、クイズ番組の出発点としての「民主化教育」のことに触れました。「話の泉」の製作にあたってはGHQから「リスナーの声が反映された番組」「リスナーが参加する番組」を制作すべし、という指導があったとか。戦前戦中のラジオ放送が軍部の一方的な情報伝達であったことを打破する意図がありました。リスナーの希望や質問を放送に反映するというお触れは、ジオ番組制作において一般的に行われていたGHQからの指導でした。

サトウイチロウ

話の泉」における「リスナーの参加」はどのような形で行われたのかです。リスナーから寄せられた問題に、博学博職の回答者が10秒以内にユーモアを交えて答えるという形式です。司会者のアナウンサーが、リスナーからの難問奇問に対して回答者にヒントを交えて答えを促すのです。リスナーからの出題は1日1,000通を超え、採用されるのは1,300通にたった1通という難関であったようです。採用された問題には30円、回答者が回答できなかった問題には50円の賞金が出されたとあります。

「NHK放送史」HPでは、当時の放送をごく一部ですが聞くことができます。
出題者 「これから並べる数字はいったい何を表しているでしょう。三・三・四。」
回答者A 「三・三・九なら分かるけどなあ」
出題者 「まだ数字をもう一つ言うと分かるんです。前の方を。三・三・四の」
回答者B 「あーそりゃ学校だ。六・三制のね、六・三・三・四でしょ。」
出題者 「はい、よろしゅうございます」
回答者B 「だけどね、私の場合はね、もう少しかかりますな。六・六・六・六くらいかかりますな」

回答者Bはサトウハチローです。最後の言葉は、自分が中学を退学したことを踏まえた「くすぐり」でしょう。クイズの回答に関するやりとりの中で聞かれる、こうした軽妙で珍妙な会話が魅力だったのです。

和田信賢

【話の泉ー笑い】 その三十六 「話の泉」 その1 民主化教育 

戦後間もない頃、クイズ番組がNHKのラジオに登場します。それが1946年から放送された「話の泉」です。当時の呼称は「当てもの」で、一般リスナーからの問題に5人の文化人が10秒で解答するというものでした。

当時の問題「がんもどきの作り方をご存知ですか?」に10秒以内で誰も答えられなかったといわれれます。正解は「豆腐を潰して切り昆布と人参を混ぜて揚げます」。少々難易度が高かった「話の泉」です。ですがこの番組の解答者は、難問もあまり苦にしない博学博識の文化人たちでした。

話の泉ー公開放送

「話の泉」はクイズ番組の原型といわれます。こうしたクイズの内容は、当時のGHQ(General Headquarters)内の民間情報教育局(Civil Information and Educational Section: CIE)の指導を受けて制作されたといわれます。興味深い経緯です。この番組はアメリカの人気ラジオ番組「Information Please」を下敷きにしたといわれます。ラジオ放送しかない時代です。日本を「民主化教育」する目的で、アメリカのクイズ番組が輸入されたといわれます。

話の泉と回答者

しかし、GHQのいう「民主化教育」がどういうものだったのかということは、判明していません。たとえば、Wikipediaでは、クイズ番組を通じて、戦前の家族に見られる家父長的な関係性を突き崩すことを意図した、というような考え方が紹介されています。どうもその意味はすっきりと理解しにくいです。クイズ番組による民主化教育の推進や家父長的な関係性の打破は、少々付け足しのような印象です。

【話の泉ー笑い】 その三十五 落語 その9 外国人に理解されるか

笑いは万国共通の表現です。この感情表現は言葉の理解によって生まれまが、例外はパントマイムです。落語は日本語をよく理解していないと伝わりにくいといわれがちです。そうなると「落語は外国人に通用するのか」という疑問が浮かびます。ご存知かもしれませんが、何人かの噺家さんは、外国人を相手に国内や海外で公演やイベントを開いています。

立川志の春

その内の一人が三遊亭竜楽です。英語だけに留まらず、中国語やフランス語など8カ国の言語を使って落語を行なっている活躍振りです。英語での小噺です。桜の花見にでかけたときに、友人にそのときの情景を語ります。酒がうまかった、串焼き、寿司は美味しかった、通りがかりの女性が綺麗だった、若い少女はセクシーだった、、などなど。そこで友人が聞きます「桜はどうだった?」「I don’t remember,,,,」 まさに花より団子という噺を語ります。

桂かい枝という噺家もいます。師匠である5代目桂文枝さんの高座に惚れ込み、大学を卒業後に入門します。その後外国人に落語を広めるために、英語での公演を21カ国で300回以上も行なっているというのですから驚きです。「動物園」という新作落語です。ある男、動物園で職を見付けます。虎のぬいぐるみを着て子どもや大人を楽しませる役です。台詞の英語も面白いのですが、仕草が絶妙で台詞はいらないほど外国人を笑わせます。

桂三輝

古典落語を本格的に英語で演じる噺家に立川志の春がいます。イェール大学卒業という経歴から英語が得意だったこともあって外国人観客を笑わせています。「藪入り」という演目も筋書きを忠実に演じています。立川志の春は云います。「英語落語は、中学校レベルの英語で楽しめる!」。日本語と英語は文法が違うから、落語の面白さは伝わらないんじゃないの?という問いに対しても「全然そんなことはなくて、、」というのです。「英語に触れる機会として落語がある」というのは含蓄ある言葉です。

また最近では外国人落語家という人も活躍しています。その人が外国人落語家の桂三輝さんです。これでカツラサンシャインと読みます。桂三輝はカナダ生まれですが、いつしか落語に興味を持つようになり、現在ではニューヨークに拠点を置き、落語の活動をしているのです。得意な演目が長助という男の長い名前によって起こる笑いを主題とした古典落語「「寿限無」です。ダイアン吉日という女性噺家もいます。

【話の泉ー笑い】 その三十四 落語 その9 「紙入れ」と間男

洋の東西を問わず、男と女の関係は、落語の最も笑いを誘う話題です。その一演目が「紙入れ」です。間抜けな旦那と抜け目のない妻、その間で悩む小僧の物語です。

得意先の商家のご新造さんから、今夜は旦那が帰らないから遊びに来てくれと、いう手紙を本屋の新吉という小僧がもらいます。世話になっている旦那には悪い気もするのですが、迷った末に出かけて行きます。

「紙入れ」

新造は酒を勧め、今日は泊ってくれといいます。新吉は断りますが、新造はどうしても帰るというなら、留守の間に新吉が言い寄ってきたと旦那に言うと脅すのです。困ってがぶ飲みして悪酔した新吉は隣の間の布団に入ります。すぐ後から長襦袢姿になった新造も布団へ入って来ます。

さあ、という時、表の戸を叩く音、帰らぬはずの旦那が帰って来たのです。あたふたする新吉を尻目に、新造さんは落ち着いて新吉を裏口から逃がすのです。

家に戻った新吉、悪いことはできないものだと反省しているうちに、旦那から貰った紙入れを忘れたことに気づきます。中には新造からもらった手紙が入っています。その夜はまんじりともせず明かします。

翌朝、新吉は恐る恐ると旦那の家に行きます。旦那は新吉が浮かぬ顔をしているのであれこれと尋ねます。女のことだと分かり、あれこれと説教を始めます。新吉も昨夜の顛末を喋り出し、手紙のはさんである紙入れを忘れた、そこの旦那に見つかっただろうかと心配そうに言うのです。そこへ現れた当のご新造さん。

新吉とご新造

・新造 「おはよう新さん、気が小さいのねえ。それは大丈夫と思うわ。だって旦那の留守に若い人を引っ張り込んで楽しもうとするくらいだから、そういう所に抜かりないと思いますよ。新さんを逃がした後に、紙入れがあればきっと旦那に分からないようにしまってあるはずよ。ねえあなた!」
・旦那 「そうりゃあそうだ。よしんば見つかったところで、自分の女房を取られるような野郎だよ。まさかそこまでは気がつかねえだろう」