ナンバープレートを通してのアメリカの州 その五 アラスカ州–The Last Frontier

北極圏に位置し、現在でも連邦の中で最も人口密度が低い州なのがアラスカ(Alaska)ですが、面積においてアメリカ最大の州です。州都はジュノー(Juneau)。最大の都市はアンカレッジ(Anchorage)です。年間の平均気温はなんと2.5度です。

 かつてアンカレッジはヨーロッパやアメリカに飛ぶときは最短距離の航路にあたりました。航空機の性能で給油で立ち寄った懐かしいところです。給油の間、ターミナルで待つのはすっかり過去の話となりました。2008年の大統領選挙で共和党の副大統領候補に州知事だったMs Sara Palinが指名されました。

 アラスカの歴史です。ロシアは、フランス・オスマン帝国・イギリスを中心とした同盟軍を相手にクリミア戦争(Crimean War)を起こします。その後の財政難などの理由による資金調達のため、1867年に720万ドルでアラスカをアメリカに売却した歴史があります。今思えばアメリカは帝政ロシアから安い買いものをしたものです。

 ですが当時は「巨大な冷蔵庫を買った」などと非難されたとか。地下資源、森林、漁業資源などが豊かなところです。それにもましてアメリカにとっては国防、軍事上の重要な位置にあるのがアラスカです。そのためか、大地の65%が連邦政府の管理にあります。ほとんどが不毛の地ですから、埋蔵量が豊富な原油の採掘地帯以外は誰も所有しないのです。

Map of Alaska

 人口比率として白人が70%。その大半はアイルランド(Irland)、ノルウエー(Norway)からの移民とされています。以外と少ないのがネイティブ・アメリカン(Native American)やアラスカ・ネイティブ(通称エスキモー)で15.6%を占めています。原油の採掘については、アラスカ・ネイティブの間で開発容認派と反対派の賛否両論で部族村落が対立していることが多いとされています。

 最近はアメリカ本土やカナダから南東アラスカへ大勢の観光客が訪れます。いわゆるクルージングです。300万以上の湖が点在し、動物も植物も手つかずの大自然のままです。ナンバープレートには「The Last Frontier」(最後の秘境)とあります。かってはThe Great Landとも表記されました。灰色熊のグリズリー(Grizzly)が描かれていて、私には喉から手が出そうな一枚です。

 2024年に当選したトランプ大統領は、デンマーク領であるグリーンランドを購入したいと主張し物議を醸しています。アラスカもグリーンランドも戦略上、地下資源の開発でも有望なのです。

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ナンバープレートを通してのアメリカの州 その四 アーカンソー州-The Natual State

アーカンソー州Arkansas)は、アメリカの南部に位置しているのですが、意外と白人人口が多いのが特徴です。たとえば1905から1912頃にはヨーロッパからの移民が多数やってきます。ドイツ、スロバキア( Slovak)は平原に 、アイリッシュ(Irish)もコミュニティを形成していきます。ドイツからの移民の多くはルーテル教会の信徒といわれます。

Arkansas State on USA Map. Arkansas flag and map. US States.

 アーカンソーの州都はリトルロック(Little Rock)。私は高校一年のときこの町の高校でおきたアフリカ系アメリカ人生徒の排斥運動を知りました。20世紀になると、黒人の人権問題が大きく燃焼し、しばしば白人と黒人の対立が先鋭化していきます。1954年のブラウン対教育委員会裁判(Brown vs. Board of Education)によって、それまで行なわれていた公立学校における白人と黒人の分離教育が違憲となります。

 1957年にリトルロック・セントラル高校の分離教育化が決定すると、当時のアーカンソー州知事は州兵を学校に送って黒人学生の登校を阻止します。アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)大統領は遂に陸軍の空挺師団の部隊を派遣し黒人学生を登校させるという事態に発展していきます。

 南部と北部における経済・社会・政治には大きな違いがあったといわれます。互いに対立するようになります。南部は農業中心の州で構成され、黒人奴隷労働に依存したプランテーションが盛んでした。とりわけ綿花の生産が盛んで、多くの黒人奴隷が働いていました。綿花はヨーロッパに輸出していました。特にイギリスを中心とした綿花の輸出は南部の利益だったのです。さらに自由貿易を唱え、北部とは大きな対立点でもありました。

 他方、北部では急速な工業化が行われており、農業と違って黒人奴隷を労働力として必要としていませんでした。さらに近代化し都市化する北部が人口の面でも政治・経済・文化の面でも南部を圧倒し、やがてアメリカが北部中心の国となっていきます。それとともに奴隷制廃止などに対する南部の抵抗も広がります。そして1861年に南北戦争(American Civil War)が勃発します。戦争は4年間に及びます。

 アーカンソー州は別な意味で日本と深いつながりがあります。フルブライト奨学金(Fulbright Fellowships)の創立者フルブライト(William Fulbright)の出身地だからです。1939年には34歳の若さでアーカンソー大学(University of Arkansas)学長に任命されます。当時、アメリカ合衆国内最年少の学長といわれました。1945年に世界大戦が終わると、上院議員となったフルブライトは、アメリカと世界各国との教育交流の計画を議会に提出します。そして国務省教育文化局(Bureau of Educational and Cultural Affairs)の出資により、フルブライト奨学金(Fulbright Scholarships)を設立します。

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ナンバープレートを通してのアメリカの州 その三 アイオワ州–American Heartland

アイオワ州(Iowa)のナンバープレートには、穀物を保存するサイロや納屋が印刷されています。トウモロコシと小麦の生産で有名なアイオワが今回の話題です。北はミネソタ州、東はウィスコンシン州及びイリノイ州、南はミズーリ州、そして西はネブラスカ州及びサウスダコタ州に囲まれています。州都で最大の都市ははデモイン(Des Moines)です。

 アイオワには、東がミシシッピー川(Mississippi River)、そして西はミズリー川(Missouri River)が流れています。豊かな農産物などがこの川を使って運ばれています。アイオワは結構なだらかな丘陵が折り重なって農作物の生産に適しています。

アイオワ州のロゴ

 アメリカの中西部は「コーンベルト」と呼ばれトウモロコシの一大生産地です。アイオワはその中で生産量が全米でトップを誇ります。車でどこまで走っても穀倉地帯が広がります。大豆、豚の生産量も全米第一位となっています。従って、穀物市場の金融や流通、そしてバイオテクノロジー研究開発などでも盛んな州です。その研究の中心は、アイオワ大学(University of Iowa)とアイオワ州立大学(Iowa State University)です。

アイオワのあたりは、「アメリカの心臓部」(American Heartland)とも呼ばれて、恐らく世界一の農業地帯であります。アメリカは工業国ではありますが、なんといっても主役は農業です。トウモロコシと小麦の生産高からは、アメリカは農業国と呼ぶにふさわしいといえます。アメリカは全世界の穀物市場を押さえています。それは人工衛星などによって穀物の作柄状況を早期に把握し、先物価格や取引量などを定めるからです。情報を有する国が世界をリードするのです。

 ところでアメリカの小学校では、アメリカの探検と開拓の歴史を学びます。そこに登場するのは、フランスからきたジャック・マークエット(Jacques Marquette)とルイス・ジョリエ(Louis Jolliet) という探検家です。この二人が中西部を探検したのは1670年代の頃です。マークエットはもともとフランスの宣教師でした。一方ジョリエはカナダ、ケベック生まれのフランス人でした。この二人の探検家は一緒に主にミシシッピー川とその支流を使いアイオワ、ウイスコンシン、ミシガン、イリノイなどを調べメキシコ湾(Gulf of Mexico)にも到達します。ジョリエの名声は、彼の名前を付けた町の存在に現れています。

ナンバープレートを通してのアメリカの州 その二 スイカやポテト

アメリカのナンバープレートは、州や郡ごとに独自のデザインで発行されており、非常に色彩豊かです。各州の特徴を表現するキャッチフレーズのほかに、追加の手数料を支払えば自分のカラフルなナンバープレートを作ることもできます。通常2年ごとにナンバープレートのデザインは変わります。ですから一つの州には沢山のプレートがあり、蒐集家を喜ばせます。この国の多様性を感じる機会がここにもあります。

 農産物や果物にまつわるキャッチフレーズを見てみましょう。その代表は「Peach State」といわれるジョージア州(Georgia)です。ここにはスイカやメロンも有名です。ルイジアナ州(Louisiana)は「Sugar State 」” 砂糖の州”です。少々地味ですが、「Famous Potatoes」のアイダホ州(Idaho)です。ここのジャガイモは大きいので知られています。1970年に沖縄に赴任したとき、市場で始めてアイダホポテトを知りました。

 観光や産業にあたるキャッチフレーズもあります。ミズリー州(Missouri)のナンバープレートのモットーは「Show Me State」です。さしずめ、「皆に見せたい州」といった感じです。この州の印象からすると少々違和感のあるモットーではあります。メーン州(Maine)は「Vacation Land」、そして「Aloha State」はもうお分かりですね。「Heart of Dixie」と呼ばれるのがアラバマ州(Alabama)です。Dixieとは南部という意味で、ジャズの本場というわけです。

 私の第二の故郷であるウイスコンシン州(Wisconsin)のは「America’s Dairyland」「アメリカの酪農の中心」というものです。北海道のような緯度にありまして、酪農に適したところです。土地があまり肥沃ではないのです。車で田舎道を走ると糞尿の匂いが充満します。「ウイスコンシンの香水」だと揶揄されています。最後は、アラスカ州(Alaska)です。「The Last Frontire」、最後の開拓地というフレーズで知られています。次回からはアルファベット順に州の特徴を紹介していきます。

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ナンバープレートを通してのアメリカの州 その一 モットー

我が家の小さな倉庫にアメリカ留学中に集めた80枚のナンバープレートがあります。ナンバープレートはライセンスプレート(License Plate)というのが正しい呼び方です。どうしてナンバープレートに興味をもったかといいますと、そのデザインにあります。州の形をしたもの、州の特産物や自然のイラストを入れたもの、州の歴史やスポーツ、イベントを思い起こさせるものなどがあります。州の名前は必ず入るのですが、キャッチフレーズやモットーが付いています。ナンバーは3から7文字程度のアルファベットと数字で構成されます。中には「Kiss Me」というのがあります。自分で文字を選んでつけることができるのです。この場合は、ちょっぴり費用がかかります。

States & License Plates


 ナンバープレートにあるキャッチフレーズは、人、歴史、自然、特産物、観光などに分けることができます。まずは人からまいりましょう。イリノイ州(Illinois)はエイブラハム・リンカーン大統領が生まれた地です。「Land of Lincoln」と呼ばれています。ノースカロライナ州(North Carolina)は、ライト兄弟(Wright Brothers)が最初に飛行機に乗ったところです。それで「First in Flight」というフレーズで知られています。

 インディアナ州(Indiana) は「Hoosier State」”不器用な人の州”というのは滑稽です。オクラホマ州(Oklahoma) は「Boomer State」、”一時的な人気者の州”というものです。開拓時代を思わせます。”トウモロコシの皮を剥く人の州 ”「Cornhusker State」というのはネブラスカ州(Nebraska) 、トウモロコシ畑が続く大平原の州です。

Fun of License Plate

 次ぎに歴史です。アメリカで最初に定められた州はデラウエア州(Delaware)で「First State」。合衆国憲法が起草されたことを記念する州はコネチカット州(Connecticut)で「Constitution State」と呼ばれています。面白いのは、「Live Free or Die.」 “自由を、さらば死を“とうたうのがニューハンプシャー州(New Hampshire)です。マサチューセッツ州(Massachusetts)は「Spirit of America」というキャッチフレーズです。これは、独立の精神を意味するようです。「Empire State」という少々いかついのはニューヨーク州(New York)です。

 自然といえば、モンタナ州(Montana)は「Big Sky Country」“蒼穹の空”とも呼ばれています。「Peace Garden Stateはノースダコタ州(North Dakota)、コロラド川が何億年もかけて削った谷「Grand Canyon」はアリゾナ州(Arizona)です。海のような五大湖を控えるミシガン州(Michigan)は「Great Lakes」です。バーモント州(Vermont)は「Green Mountain State」。「Garden State」というのはニュージャージー州(New Jersey)、「Ocean State」といえばロードアイランド(Rhode Island)となります。いずれも大西洋岸にある小さな州です。フロリダ州(Florida)は「Sunshine State」”太陽が一杯”というところです。{続く)

囲碁にまつわる言葉 その29 【手談】

囲碁は互いの読み合いの文化です。相手の応手を考え三手や十手先まで読むのです。これはまさに戦そのものです。敵を知ることによって、戦術を考えるのです。どこが弱いか、強いかを探します。真正面から攻めず陽動作戦も採り入れます。どこが主戦場であるかを見極めるのです。

手談の布石

—–【手談】——–
盤上に打たれた石が相手に何かを語りかけているかのように感じるところから、囲碁が「手談」といわれる由縁です。

左下の【手談】は次のような無言の会話です。
・黒1 「下辺に白の模様を作られるのはいやです」
・白2 「いや、模様は作りません。左辺に地を作りますので、三三に入って生きてください」
・黒3 「隅で閉じ込められるのいやです。中央に出ます」
・白4 「分かりました。では下辺に地を作らせて貰います」
・黒5 「では、白2を頂戴します」

囲碁にまつわる言葉 その28 【坐隠】

「坐隠談叢―囲碁全史」という本が新樹社から1955年に発行されます。この本は、10,800円というのですから驚きです。囲碁ファンには堪らないものでしょうが、私には手がでません。金額はともかく、内容が理解できるかどうかです。

—–【坐隠】——–
中国の逸話集に「世説新語」というのがあるそうです。六朝時代の南朝宋時代に編集され、貴族・文人・僧侶などの逸話が集められています。[坐隠]とは、囲碁に夢中になって、盤にのめり込むような姿で座っている様子です。いかにも隠遁者に通じるもので、そうした人々の別称となっています。

囲碁にまつわる言葉 その27 【橘中の楽】

日本では、橘は固有のカンキツ類で、実より花や常緑の葉が注目されたようです。実は酸味が強く生食用には向かないため、マーマレードなどの加工品にされます。マツなどと同様、常緑が「永遠」を喩えるということで喜ばれたのです。橘は文様や家紋のデザインに用いられ、文化勲章は橘をデザインしています。【橘中の楽】という故事ですが、昔の出来事のことです。多くの故事は中国の古典にある話といわれています。

橘中之楽

橘の花

—–【橘中の楽】——–
「幽怪録」という中国の物語からの話です。四川省で橘(たちばな)の庭園を持っていた男が、あるとき霜が降りたあとで、橘の実を収穫します。最後に樽のような大きな実が二つ残り、それらを割って見ると、中に仙人が二人ずつ入っています。この仙人達は、橘の実の中で碁を打って楽しんでいたのです。この話から囲碁は、「橘中の楽」とも呼ばれるようになったそうです。橘とはミカンのことです。さしずめ、桃太郎のような故事ともいえそうです。

囲碁にまつわる言葉 その26 【爛柯】

「親の死に目に会えない」といって碁を打つ人に反省を促す言葉があります。碁打ちは時の経過を忘れがちで、囲碁愛好者なら誰でも身に覚えがあることです。今は、時計を使って「長考」を止めさせる工夫をしています。アマの3対局は一時間以内で終わらせたいものです。「爛」とは腐る、「柯」とは斧の柄のことです。

—–【爛柯】——–
【爛柯】とは、囲碁に没頭してしまい時間の経過を忘れるという用語です。中国南朝の梁王朝時代に作られた「述異記」というに載っている物語からの話です。「述異記」は、梁王朝の任昉が撰したとされる山川等地理に関する異聞や、珍しい動植物に関する話などを多く集めた小説といわれます。

あるとき、王質という木こりが洞窟の中で、童子たちが集まって、碁を打ちながら歌をうたっているのを見つけます。木こりがその歌に聴き入っていると、子どもたちはナツメの種のようなものをくれます。それを食べた後は、飢えをまったく感じません。しばらくたって、ふと「斧の柯を視みれば、爛尽す(手に持った斧の柄を見てみると、腐ってぼろぼろになっていた)」。びっくりして自分の村に戻ってみると、何十年かが過ぎ去っていて、知り合いはすべて亡くなっていたということです。こうした時間の喪失感というテーマは、浦島太郎でも使われています。

囲碁にまつわる言葉 その25 【方円】

「水は方円の器に従う」という諺があります。水は容器の形によってどんな形にでもなります。器とは、環境とか周囲の状況のことで、水は人を指し、人は交友や環境次第で善にも悪にも感化されるという喩えです。

—–【方円】——–

百舌鳥耳原中陵(仁徳天皇陵)


[方円]という用語は本来は、古代中国で世界観を示す言葉だったといわれます。我が国でも各地に古墳時代の天皇の墓である「前方後円墳」があり、世界観上での調和を表す形とされてきました。正方形の碁盤と円形の碁石から囲碁の別称にも用いられるようになります。四角い盤上で丸い碁石で戦うゲームを「方円」と洒落たわけです。世界観といえば宇宙流という武宮正樹九段が愛用した布石があります。あまり地にこだわらず厚く打ち、攻めを重視し中央を目指す戦術です。

囲碁にまつわる言葉 その24 【烏鷺】

平成21年の碁楽連だより209号に、同会員の三浦隆郎氏が「囲碁の別称」という随筆を投稿しています。「囲碁」の別称はいくつかあります。「烏鷺(うろ)」、「手談(しゅだん)」「方円(ほうえん)」「坐隠(ざいん)」といった言葉です。囲碁をして、故事来歴や伝説に由来するものから形(デザイン)をあらわすものを指します。

2012年に白泉社から発行された囲碁漫画「星空のカラス」全8巻に囲碁が大好きな13歳の少女、烏丸和歌が登場します。プロ棋士だった祖父から碁を教わり、年齢も性別も関係なく人とつながれる碁の楽しさを知ります。そんなある日、若手天才棋士の鷺坂総司に出会います。鷺坂の全身を傾ける対局に感銘を受けた和歌は、自分もプロ棋士になることを決意します。2人の主人公の名前は囲碁を意味する「烏鷺」から由来しています。

天才棋士の鷺坂総司

—–【烏鷺】——–
烏鷺(うろ)とは、囲碁の別称で、黒石と白石を烏と鷺に例えたものです。碁の対局は「烏鷺の争い」ともいわれます。「烏鷺」とは、「カラス」と「サギ」のことです。カラスは黒色を象徴し、サギは白色を象徴する鳥なので、「烏鷺」という言葉に用いられています。「烏鷺の争い」は「囲碁で勝負をすること」という意味の諺です。「烏鷺」は、単に「黒色と白色」を表す言葉としても用いられます。

囲碁にまつわる言葉 その23 【武士道】

碁老連初代会長の熊崎正一氏は、囲碁の位置づけに関して「国の認識を”ゲーム、娯楽”から”伝統的文化”へと修正させよう」と奮闘されます。囲碁は他の娯楽と違って武士道に通じており、その普及は道徳の普及でもあるという主張です。1899年にニューヨークで英文の「Bushido:The Soul of Japan」が出版されます。原題は『武士道』といい、新渡戸稲造が武士道を論じた書物です。西洋の騎士道に対比させ、武士道を西洋の騎士道にも匹敵する高潔な精神と主張しています。

佐賀藩鍋島家の家臣・山本常朝が口述した『葉隠』には、「武士道とは死の教えである」とあります。死の強要ではなく、死の覚悟を不断に持することによって、生死を超えた「自由」の境地に到達する精神というように解釈されています。さらに「奉公の至極の忠節は、主に諫言して国家を治むること」ともあります。主君が誤った方向に進んでいるならば、主君を諫めることが大事だというのです。藩主に仕える者の心構えのことです。これはかなり思い切った主張といえそうです。

新渡戸稲造夫妻

—–【武士道】——–
囲碁は昔から武士の間で嗜まれ、強い人を集めて城で碁を打っていたようです。平時にはたっぷりと時間があったからでしょう。武士は美徳を大事にし、行動の道徳性が尊敬されていました。「敵に塩を送る」という逸話ですが、敵の弱みにつけこまないで、逆にその苦境から救うことも武士道の例といえましょう。

もともと囲碁は、伝統的文化として定着したはずですが、武士道とか道徳という精神性は、戦後の改革によって「娯楽」に追いやられます。そのことは、総務省が発行しているの「日本標準産業分類」をみると理解できます。この分類の大項目に「娯楽業」があり、その下部に「遊技場」という中項目があり、その中に、ビリヤード、マージャンクラブ、パチンコホール、ゲームセンターに交じって「囲碁・将棋所」が配置されています。

囲碁にまつわる言葉 その22 【長考】

碁の大会では時計を使い、大会を円滑に進めようとします。時計のお陰で高段者同士でも一局一時間くらいで終わります。長考するのは次のような状態の時です。
1. 局面で次の一手がわからない時
2. 次の一手でそのあとの展開が全く異なるため迷っている時
3. 有利になりそうになり、読み切ろうとしている時
4. 不利を意識し対応に苦慮している時

1の場合は、良い手を打つのはあまり期待できません。2~4も同様で、着手そのものは平凡なことになりがちです。素晴らしい手は、割合短時間で瞬間的に閃く傾向にあります。棋士は、素晴らしい手を見つけようとして長考するとはいえないようです。

—–【長考】——–
最善手を模索するためにできるだけ多くの選択肢を考慮する様です。「長考に耽る」「長考に沈む」などの姿です。思考型のゲームにおいては、ゲームの目的に適った行為です。トランプや麻雀ではこのようなことはありません。「長考」とは「読み」とも呼ばれ、何手や何十手先の着手を考える行為です。どのような選択肢によって、どのような結果になるかを考える行為です。名人による長考がときに伝説となることがあります。

他方、「長考に耽る」のは、事前に相手の出方を予想できていなかったためともいえる姿ともいえます。「長考」は実際には、迷いに費やす時間のほうが圧倒的に多いのです。この場合は、「長考」は窮余の策に過ぎず、けっして胸を張れる行為ではありません。慣用句に「下手の考え、休むに似たり」と揶揄する言い方もあります。時間を浪費するだけで、なんの効果もないく、相手が考え続けることあざける言い方です。

囲碁にまつわる言葉 その21 【駄目】

今回は【駄目】の考証です。その前に【駄】という漢字についてです。広辞苑によりますと、「乗馬にならぬよくない馬」など、「名詞に冠して粗悪の意をあらわす」とあります。子どもの持つ小銭程度で買える菓子が駄菓子、質の低い馬が駄馬、出来の良くない作品は駄作、洒落にならないような表現は駄洒落など、不出来というのが共通点のようです。

—–【駄目】——–

駄目な箇所


「価値がない」の意の「ダメ」は、囲碁用語から転じたものといわれます。漢字では「駄目」囲碁で、多くの場合、カタカナ表記を使います。「ダメ」は石の周囲または相手の地との境界にあって、双方の地に属さない空点で、ここに石を打っても地は増えません。終局後、相手と交互に石を埋めあいます。地になりそうにない実質のない着点を「ダメ場」と呼びます。

「ダメ」はその他に、不可能なこと、何の役にも立たないこと、してはいけないこと、等の意味があります。「駄目を出す」は、注文を出すとか、仕事のやり直しを命じることです。「駄目を押す」は、くどくどと念を押すことです。

囲碁にまつわる言葉 その20 【純碁】

碁もいろいろな楽しみ方があります。九路盤、十三路盤、そして正式な十九路盤での対局です。そして、純碁という碁の楽しみです。純碁はなんと盤面に置かれた石の数で勝敗を決めます。眼の数ではありません。ただし基本ルールは囲碁と同じです。石が取られないように着手禁止点を2つ残しておく必要があります。離れた所に眼を二つ作ることです。

—–【純碁】——–

純碁の終局図


純碁とは、石埋め碁とも呼ばれ、囲碁の入門用としてプロ棋士の王銘琬が提唱し囲碁のルールを母体としたゲームです。囲碁のゲーム性を保ったままルールを簡明化したものであり、これから囲碁を覚えようとする者がより理解しやすいものとなっています。最初のぶつかり合いが、勝敗を決めます。最終的に、二眼を作ることが肝要です。陣地の境界を自分に有利になるように決めます。

純碁のルール
基本的なルールは通常の囲碁に準じますが、次に挙げるような違いがあります。
石の数を競う
通常の囲碁では、それぞれ地の大きさからアゲハマを引いた目数を比較して勝負を決めますが、純碁では、最終的に盤上に置かれている石の数だけを比べます。盤上の石が置かれていない空所や、アゲハマの数は勝負の判定材料にはなりません。
地の概念がない
終局時、盤上の空所は勝負に直接関係しません。そのため通常の囲碁とは異なり地をいくら囲っていてもそれだけでは点数にはなりません。点数にするためには、通常の囲碁で言う自分の地を埋めていく作業をします。
死活の判定がない
死んでいる相手の石は、終局前に明示的に打ち上げます。終局時に盤上に残っている石は、どのような形であれ点数に数えられます。純碁の勝負の結果は、大抵の場合、通常の囲碁に切り賃のルールをつけた場合の結果とほぼ一致する。

囲碁にまつわる言葉 その19 【碁所】

現在、八王子に数カ所の碁会所があります。2000年代ごろからはネット碁の普及が進み、碁会所に行かず対局相手を探すことが容易になりました。碁会所にとっては厳しいライバルとなっています。店主は席亭と呼ばれ、来客者の棋力の認定とマッチメイキングが主たる仕事です。2010年ごろには「囲碁ガール」という言葉も生まれ、女性向きの雰囲気の碁会所や、囲碁喫茶・囲碁カフェなどもできてきました。多様な碁会所の在り方が模索されています。2008年には、フリーペーパー「碁的」という囲碁ガールのための無料の雑誌が刊行されます。囲碁のお堅いイメージを避け、「囲碁メン 恋の徹底攻略」「碁クササイズ」といった女性ファッション誌のような内容となっています。

—–【碁所】——–
碁所(ごどころ)のいわれは、1588年に豊臣秀吉が時の第一人者であり名人の呼称を許されていた本因坊算砂に20石20人扶持を支給したことに始まるといわれます。役職となって碁打が召し抱えられるのです。徳川家康が囲碁を愛好したことなどから、江戸幕府でも役職の一つとされて、寺社奉行の管轄下で、その職務は御城碁の管理、全国の囲碁棋士の総轄などといわれました。1668年に幕府により安井算知を碁所に任命したのが始まりといわれます。各藩においても、碁技により禄を受けた者を碁所と呼ぶこともあったようです。

本因坊記念館

碁所の定員は1名で50石20人扶持をもらっていました。囲碁家元である本因坊家、井上家、安井家、林家の四家より選ばれ、就任するためには名人の技量を持っていることでした。各家元はこの碁所の地位をめぐって争碁、政治工作などを展開します。水戸藩主徳川斉昭、老中松平康任、寺社奉行なども巻きこんだ本因坊丈和、井上幻庵因碩による抗争は有名であり、「天保の暗闘」として知られています。

日本の政治家の中にも碁を好んでいる人がいます。民主党代表の小沢一郎とか、亡くなりましたが自民党の与謝野馨が有名です。二人は長年の碁敵で対局はしばしば行われたようで、対局直後に自民党と民主党の大連立構想が持ち上がったといわれます。2011年の菅第二次改造内閣では与謝野は、内閣府特命担当大臣〔経済財政政策、少子化対策、男女共同参画〕に就任します。野党議員と碁を打って対立色をほどき、互いに無理をのみ合うことがよくあったようです。

囲碁にまつわる言葉 その18 【御城碁】

「ボケ防止のための啓発囲碁大会」は後に「活きいき囲碁大会」に改名されます。ボケ防止大会は4月より毎週のように、寿同好会の持ち回りで開かれます。さぞかし、参加申し込みの受付や対戦組み合わせなどで忙しかったろうと察します。それ以上に大会会場に碁盤や碁石を運ぶ手間も大変だったはずです。八王子市、八王子教育委員会、日本棋院の他に、町会総連合会、住民協議会などの後援を得て大会を開いています。この後援を得る努力にも敬服します。

京都、寂光寺

—–【御城碁】——–
江戸時代に囲碁の家元四家の棋士により、徳川将軍の御前にて行われた対局が「碁城碁」です。寛永3年とありますから1626年頃に始まり、毎年1回、2、3局が打たれ、1864年に中止となるまでの230年余りに渡って続いた御前対局です。御城碁に出仕することは、家元の代表としてであり、当時の棋士にとって最も真剣な対局でありました。また碁によって禄を受けている本因坊家、井上家、安井家、林家の家元四家にとっては、碁の技量を将軍に披露することの意味もあり、寺社奉行の呼び出しによる形式で行われたようです。実際に将軍が必ず観戦したかどうかは分かりませんが、老中などが列席したこともあったようです。

御城碁は数日に及び、対局者は外出を禁じられました。外出によって仲間による対局の検討がなされるのを避けるためです。その後「碁打ちは親の死に目に会えない」という言葉が生まれたといわれます。徳川家康も碁を好み、文禄から慶長にかけて京都や周辺の碁打ちや将棋指しをしばしば招くようになったようです。また時に御所である禁裏に出掛けることもあったという記録があります。

日海–本因坊算砂

本因坊秀策は「碁聖」の名でも知られていますが、「碁聖」と呼ばれる棋士がもう一人います。第四世本因坊道策がその人です。段位制やを整え、優秀な弟子を数多く育てるなど、元禄時代の囲碁の興隆を支えたといわれます。

囲碁にまつわる言葉 その17 【寝浜】

八王子が輩出したアマチュア棋士の三浦浩氏は、日本アマチュア本因坊決定戦全国大会で最初の優勝を果たします。昭和46年の17回大会でした。この大会の特徴は選手の年齢が大幅に若くなったことで、前回の16回大会では37.5歳、17回大会は30.8歳というそれまでにない若々しい大会だったといわれます。24歳という少壮気鋭の三浦氏が初出場で初優勝という栄冠を獲得します。そして、平成11年の第45回同アマ本因坊決定戦で5度目の優勝を飾ったとき、25歳の対戦相手をして「昔の自分を見るようでした、若さの勢いを感じました」と対局を振り返っています。五強といわれた村上文祥、平田博則、菊池康郎さんらを破っての優勝です。

—–【寝浜】——–
戦国武将が碁を好んだことは知られています。武田信玄は大の囲碁好きだった記録があります。信玄の配下には優れた武将が多かったことで知られています。武田四天王の一人高坂晶信、またの名を弾正も碁に強かったようです。『囲碁百科辞典』の囲碁年表に、「長遠寺に於いて、武田信玄、高坂弾正と対局す」とあります。高坂昌信は、しばしば信玄の相手をしたようです。その棋譜が残っています。

信玄の死により家督を相続したのが武田勝頼です。勝頼は、強硬策を貫き領国拡大方針を継承しますが、1575年の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退します。その戦では、騎馬隊という特殊な兵力を持つ武田軍を信長の鉄砲隊という新たな兵力で打ち破ったといわれます。鉄砲隊が騎馬隊に勝ったとする図式をして、勝頼は、「碁に寝浜(ねばま)をして勝ちたるに同じ」と慨嘆したというのです。
 
「寝浜」とは、囲碁で打ち始める前に、相手の石を隠し持って、作り碁の時に出す悪質な行為を指します。信長の鉄砲隊を「寝浜」であると揶揄するのですが、負けは負けです。「甲陽軍鑑」という信玄と勝頼の2代にわたる武士道、治績,合戦,戦術,刑法等が記された書籍があります。高坂弾正昌信の遺記を基に、後の人々が編纂したらしいです。この中に「寝浜」がでてくるようです。

囲碁にまつわる言葉 その16 【真田昌幸】

平成3年碁老連囲碁大会では、「参加申し込み者は135名に過ぎなかった」とあります。当初は150名から160名を期待していたようです。今の八碁連の大会の参加者数からすればたいした参加者数です。「碁老連顧問会」とか「碁老連研修会」が開かれています。特に、研修会は技術指導員の資質と力量を高めるのが趣旨だったようです。

—–【真田昌幸】——– 

   真田昌幸


戦国武将は好んで囲碁をたしなんでいたことが記録されています。戦に備えて碁を打ち、英気を養い作戦を考えていたに違いありません。真田昌幸のその一人です。NHK大河ドラマ「真田丸」では昌幸の息子、信繁(幸村)が主人公でした。この二人の囲碁対局のシーンがよく登場したのは記憶に新しいところです。

真田昌幸は、「第一級の武将」「理性に富んだ武将」と讃えられることが多く、戦では「勝つ戦略よりも負けない戦略」を信条としたと伝えられています。策略に長けていたともいわれます。昌幸は、元々は武田信玄の側仕えである近習の一人です。昌幸には信繁の他に信之という息子がいました。関ケ原での合戦が近くなると、東軍につくか西軍につくかを選ぶ時、真田の家を絶やさぬため、信之には徳川方、信繁には豊臣方につくようにさせたという逸話があります。犬伏の地で行われたので「犬伏の別れ」といわれています。

囲碁にまつわる言葉 その15 【大局観】

碁老連だよりには、「ボケ防止のための囲碁大会」のための八王子全市の町会、団地自治会、及び老人会などに回覧用チラシ約13,000枚を配付して啓発運動を展開したとあります。特に級位者の参加者が非常に少なかったので、その対策を考えていたようです。本来なら、囲碁人口としては一番多いはずなのは級位者の人たちです。しかし、級位者は碁を打つ機会がなかったようです。その理由を、会長の熊沢正一氏は次ぎのように述べています。
1 現在、町会や団地内の囲碁部では参加者が有段者中心となっており、このクラスになると敬遠されるようだ
2 町会や団地内で碁を打っていても、若い人たちはどんどん昇格するが老人は取り残されてしまいがちなので、厭になってやめてしまう者が多い
3 以前は各地で老人同好者が集まり、碁会を開いていたようだが、最近ではゲートボールに走る者が多い
4 勤務先の職場で碁を打っていた人たちは、退職後、教授値では碁の相手がみつからない
5 碁会所では、級位者は相手に選ばれないので、気落ちしてしまい永続しない

以上のような分析は、今の八王子囲碁連盟の現状にもあてはまります。

大局観

—–【大局観】——– 
囲碁、将棋、チェスなどのボードゲームで、的確な形勢判断を行う能力が大局観です。部分的なことに囚われずに全局的な視点から判断するということです。囲碁は他のゲームに比べて大局観で次の一手を決める割合が高いのです。常に全体を見て総合的に判断できる人が囲碁の強い人といわれます。

大局観を育てるためには、5つの要諦があるといわれます。1つは、方針となる理念・信条を確認すること、2つには、方向を示す具体的目標であるビジョンを描くこと、3つには、ビジョン達成の行く手を阻む変化を適確に予見し、精査すること、4つには、目標達成のために必要な戦略を練り上げていくこと、そして5つには、状況によってシナリオからはずれた場合、何らかの対応策を用意すること、といわれます。

大局観を育てるには、「鳥の目」、「魚の目」、「虫の目」といわれる3つの目をも持つことだともいわれます。鳥の目とは、高所から広い範囲を見渡すこと、すなわち「鳥瞰」することです。マクロな視点ともいわれます。次ぎに魚の目というのは、物事の流れや変化といった「動き」を捉える視点のことです。虫の目とは、細部に注目するミクロな視点でみる、ということです。物事の全体を見るという用語に「俯瞰する」とか「俯瞰像」がありあます。大局観と同義です。英語で大局観は「perspective、strategy 、tactics」ということになります。