忘れ得ぬ人 その一 北海道大学の恩師:松沢弘陽教授

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松沢弘陽

これから暫く、これまでお世話になった方、ご迷惑をおかけした方、ご教授を賜った方、親しくお付き合いをしてくださった方などを取り上げます。こうした人々を思い起こしますと、すでに鬼籍に入られた方々のお顔が脳裏を横切ります。私は現在82歳ですから、ご存命の方はほとんどおりません。ですが、お一人おひとりが私と家族のために親身になってお付き合いをしてくださったことを想うと、本当に幸せな時間を持てたと述懐する今日この頃です。

 私が北海道大学に入学したのは1961年4月です。卒業した道立旭川西高校から16名の合格者が北大にやってきます。60年安保の大学闘争が一段落した年です。大学正門には学生団体のけばけばしい立看がずらりと並んでいました。大学に入ると全員教養部というリベラルアーツの部門で、学問の基礎を学びます。私にとって目新し学びは哲学とドイツ語でした。他の教科は高校の復習のようなものでしたが、英語の読解を担当した川村という教授が、「君たちは大学生なのだから英英辞典を使いなさい」と言ったのを今も鮮明に覚えています。

北海道大学古川講堂

 一年半の教養部を終えて法学部に移行しました。政治学を学ぼうと指導教官として松沢弘陽教授にお願いしました。当時、私は松沢先生が、東京大学教授の政治学者、丸山真男氏の一番弟子であったことを知りませんでした。丸山教授は、西欧思想と東洋古典に精通し、戦後民主主義思想の展開に指導的役割を果たした学者です。そして〈丸山学派〉と称される後進の研究者も輩出し、日本政治学や政治思想史の分野での飛躍的な発展に大きく貢献されます。

 松沢先生は、1960年に北海道大学法学部助教授、1965年に同大学教授。1984年に同大学法学部長・大学院法学研究科長を歴任されます。専門分野は、日本における近代日本政治思想史ですが、近代政治思想史全般にも精通された学者です。特に内村鑑三や福澤諭吉の研究が有名で、思想史上の師である丸山教授の業績も広く紹介します。特に1995年に「丸山眞男集」や「内村鑑三全集」全40巻の編集に携わり、いずれも岩波書店から刊行します。その蔵書類を日本女子大学に寄贈する仲立ちをも果たします。また思想の科学研究会の鶴見俊輔らの共同研究「転向」にも参加し、後年は日本政治史も研究対象としていきます。北海道大学を退官された後、放送大学客員教授をはじめ、小樽商科大学、北海道教育大学、札幌大学法学部、北星女子短期大学、東京都立大学法学部、名古屋大学法学部などの非常勤講師を務められます。

北海道大学構内

 私の書棚には丸山真男氏の著作「現在政治の思想と行動」があります。この著作は1956年に未来社から発行され、私が保管するのは1962年刊の第22刷ものです。表紙は大分古びて時代ものになったような装幀ですが、各論文は、講演調、書簡体、対話体と、ヴァラエティにとんだ歯切れのよい文体で綴られています。それに加えて大変読みやすく読者の理解を助けてくれます。「戦後日本社会科学の精神的起点の一つ」といわれる著作で、松沢先生はこの名著の論文の配列、小見出し、追記、補注の作成に携わります。

 松沢先生は、福澤諭吉や内村鑑三に私淑され、1967年に岩波書店から「」福澤諭吉の思想的格闘-生と死を超えて」という著作を刊行されます。私はルーテル教会の札幌ユースセンター教会で結婚式を挙げます。その式に松沢先生は参列してくださいました。

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トランプ政権が名門大学を攻撃する理由

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現在、トランプ政権の中東情勢をめぐる外国人留学生のビザ制限などに対して,名門大学は法廷闘争を展開しています。この闘争は、大学側に有利な展開も予想されています。ハーヴァード大学とマサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology: MIT) は2020年に、トランプ政権の外国人留学生のビザ制限に対し連邦地裁に提訴し、一時的な勝利を収めました。司法はこれまで、政権の移民制限策に対して慎重な姿勢を示してきたため、法廷では大学側の理が通る可能性が高いと見られていました。ただし、政権がさらに法改正や規則の変更で圧力を強めると、再び法的な応酬が繰り返されることになるかもしれません。

Massachusetts Institute of Technology

 トランプ政権のもう一つの狙いは、リベラル勢力への牽制です。ハーヴァード大学は「リベラルの牙城」とされており、トランプ政権にとっては政治的な敵対的な対象でもあります。政権側の真意は、ハーヴァード大学だけでなく、全米の高等教育機関に対する締めつけを強めることで、「エリート主義」への反発を強調し、保守・中間層など政権支持層へのアピール 対中国政策の強化を狙っている可能性があります。

 「エリート主義」への反発ですが、2022年時点で、25歳以上のアメリカの成人のうち、約37.7%が学士号を取得しています。この数字には学士号のみならず、修士・博士号の取得者も含んでいます。そのうち大学院修了者は約14.2%に達するといわれます。ちなみに日本では、大学または大学院を卒業した人の割合は 約25.5%といわれています。 トランプの支持者は、人口の3/4を占める高卒の市民です。「エリート主義」に対するアンチの人々ということです。

 トランプ政権のもう一つの狙いは、主に中国人留学生の排除があるようです。アメリカの大学には、数十万人規模の留学生が在籍しており、その多くが理工系分野で最先端の研究を担っています。特に中国やインドなどからの優秀な学生は、アメリカの研究・産業競争力の源でもあります。同時に、海外からの留学生の増加で肝心のアメリカ人の若者が入学を阻まれているという事情もあります。そうした不満もアメリカ国民の中にはあるのです。

 2023年6月29日、アメリカの連邦最高裁判所は、大学の入学選考において人種を考慮する「積極的格差是正措置」(affirmative action)を違憲としました。この判決により、大学の入試や公的機関の採用で、アフリカ系アメリカ人、ヒスパニック系、先住民などが不利にならないように考慮されることがなくなり、いわゆる白人アメリカ人の入学や雇用が促進されそうです。これはトランプ政権が望んでいることです。

 留学生の受け入れを制限すれば:優秀な頭脳が欧州やカナダなど他国に流出し、アメリカの研究開発力やイノベーションの低下につながるという懸念もあります。また、留学生の学費は大学の重要な収入源であり、大学の財政難といった中長期的な悪影響も懸念されています。今後の展望ですが、選挙と政権交代がカギといわれます。政権と大学の対立の今後を左右する最大の要因は、大統領選の行方です。仮にトランプ氏が続けば、大学や移民への締めつけが強まる可能性が高いです。

 結論として、今後も短期的には政権と大学との法廷闘争が続くと思われます。大学側は議会や世論と他大学の支持を集めて巻き返しを図るでしょう。トランプ政権側は政治的パフォーマンスとして移民対策や留学生などへの締め付けという「強硬姿勢」を貫くことによって、岩盤といわれる層の支持を受けていくだろうと考えられます。トランプ政権とハーヴァード大学などとの対立は、単なる大学の問題にとどまらず、アメリカの移民政策、教育政策、そして国際関係のあり方をめぐる根本的な対立を象徴しているといえそうです。

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トランプ政策と名門大学の抵抗と服従 

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アメリカ東部にある名門私立大学でアイビー・リーグ(Ivy League)の一つ、ペンシルベニア大学(University of Pennsylvania) は2023年12月9日、エリザベス・マギル(Mary Elizabeth Magill学長とスコット・ボク(Scott Bok)理事長の辞任を発表しました。マギル氏は大学内で強まる反ユダヤ主義への対応を巡り、批判されていました。連邦政府は、全国の大学への数十億ドル規模の資金の流れを停止すると脅迫しており、多くの大学は司法省から保健福祉省に至るまで、様々な機関からの調査に直面している。しかし、トランプ政権の大学に対する懲罰的なアプローチは、アイビー・リーグの大学で最も深刻に表れています。昨春、ガザ紛争に反対するキャンパスでの抗議運動の中心地となった同大学は、反ユダヤ主義的行為を容認し無法状態を蔓延させたという非難と学術的・政治的言論を抑圧したという非難に、数ヶ月にわたって対峙してきました。

 トランプ政権が非難のターゲットとしているのは、こうしたアイビー・リーグの大学です。名門ハーヴァード大学(Harvard University)との対立も続いています。政権はハーヴァード大学に対して外国人留学生の受け入れ資格停止を通告し、反発した大学側との法廷闘争に突入しています。背景には「リベラルの牙城」と呼ばれるハーヴァード大学を狙い撃ちすることで他の大学にも「改革」を迫り、さらには中国共産党など外国の影響力を排除する意図が潜むようです。ハーヴァード大学の歴史で最初の黒人学長だったクローディン・ゲイ学長(Claudine Gay)は2024年1月2日に辞任します。その後、就任したアラン・ガーバー学長(A)lan M. Garber)はトランプ政権の政策に訴訟を起こし毅然として立ち向かっています。すなわち、トランプ政権が大学に対し課してきた一連の制裁措置、すなわち連邦研究費の凍結、留学生プログラムの停止、税制優遇の剥奪検討などに対し、訴訟を起こしています。

コロンビア大学エンブレム

 マンハッタン(Manhattan)北部にある同じくアイビー・リーグ大学の一つ、コロンビア大学(Columbia University)は、今年、学生デモで混乱に陥り、結束バンドや暴動鎮圧用の盾を持った警察官が、親パレスチナ派の抗議活動参加者が占拠していた建物に突入する場面もありました。同様の抗議活動は全国の大学キャンパスに広がり、その多くが警察との激しい衝突や数千人の逮捕に至りました。この発表の数日前には、大学当局が、ユダヤ人の生活と反ユダヤ主義に関するキャンパス内での議論中に3人の学部長が中傷的なテキストメッセージを交換したとして辞任したと発表したばかりでした。

 コロンビア大学のミヌーシュ・シャフィク学長(Minouche Shafik)は2024年8月に、イスラエルとハマスとの戦争(Israel-Hamas war)をめぐる抗議活動やキャンパス内の分裂への対応をめぐり、短期間で波乱に満ちた在任期間を終えて辞任しました。ニューヨークの名門大学である同大学の学長は、この間、イスラエルとハマスとの戦争をめぐる抗議活動やキャンパス内の分裂への対応について厳しい批判にさらされてきました。

 次いで暫定学長に就任したカトリーナ・アームストロング(Katrina Armstrong)も、2025年3月までに学内対策に応じた結果、トランプ政権による資金凍結などの圧力からの批判を引き受け、2025年3月28日に辞任発表します。同日に、学長代行としてクレア・シップマン(Claire Shipman) が指名されました。彼女は“学問の自由と開かれた探究を守る”姿勢を表明していますが、下院教育委員会などによる調査も受けてきました。シップマン学長代行も自分の発言でユダヤ人協会から批判され、大学の人事は混迷しています。

University of Virginia

 さらに、ヴァジニア大学(University of Virginia)のジャームズ・ライアン学長(James Ryan)が2025年6月28日に辞表を表明します。ライアンが退任を急いだ決断は、ヴァジニア大学に対する連邦政府の監視が強化されている時期に行われました。ライアンは退任の手紙の中で、「自分が学長職に留任していた場合、大学は多額の資金を失うリスクがあったことを認めます。自分の地位に留まり、連邦政府の資金削減のリスクを冒すことは、空想的なだけでなく、職を失う何百人もの従業員、資金を失う研究者、そして奨学金を失ったりビザを差し押さえられたりする何百人もの学生にとって、利己的で自己中心的に見えるだろう」と述べて辞任するのが最上であるという判断をしたのです。

 コロンビア大を含む、アメリカ東部の八つの有名私立大で構成されるアイビー・リーグのうち、学長が辞任したのは昨年10月以来、ペンシルベニア大学とハーヴァード大学で3例目です。いずれも、中東情勢をめぐる抗議デモの対応で追及を受けています。

2万円給付か消費税減税か

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参議院議員選挙の公示前に、生成AIに『消費税の減税はなぜ経済を活性化するのでしょうか。2万円の給付と消費税の減税はどちらが家庭にとって有効でしょうか。』という問いを投げてみました。そうすると次のように、消費税の減税は、経済を活性化させる効果があるという回答がありました。

● 消費者の負担が減る → 消費が増える
 たとえば、消費税10%の商品を買うと1,100円かかります(商品1,000円+税100円)。消費税が5%に下がれば、1,050円で済みます。減税によって買い物がしやすくなり、「消費の喚起」につながります。

● 企業の販売促進にもつながる
 増税時は駆け込み需要が高まりますが、減税後は消費者の買い控え解消も見込めることです。減税によって、景気低迷時に消費が刺激され、企業の売上が増え、雇用や投資にも好影響が出る可能性があります。

● 間接的に低所得層の負担軽減にもなる
 消費税は、所得が低い人ほど負担が重い「逆進的」なので、減税すれば低所得層ほど恩恵が大きくなります。

 次に、生成AIに対して2万円の一律給付と消費税減税、どちらが家庭に有効か?という問いを出しました。生成AIは、一概に「どちらが絶対に良い」とは言えないが、世帯の収入や消費傾向によって異なると考えられるという回答です。例えば、2万円給付 vs 消費税減税(例:10%→5%)です。

2万円給付の場合:
 ・効果に即効性がある(すぐもらえる)
 ・制限されることが多い(例:低所得世帯のみ)
 ・一時的な負担(1回限り)
 ・効果は限定的で貯蓄に回ることも多い
 ・逆進性対策で低所得層に狙いを定めやすい

消費税減税の場合:
  ・中長期的に毎日の買い物が安くなる
 ・消費が多いほど恩恵が増える
 ・消費する人すべてに及ぶ
 ・消費全体に波及しやすい
 ・定率なので大口消費者も得する

 消費税減税の場合、年間どれくらいの差になるかです。たとえば、年間300万円の消費をする家庭で比べてみましょう。消費税10%では税額は30万円で、消費税5%では税額は15万円で差額15万円となります。この場合、2万円給付よりも消費税減税の方が効果が大きいです。ただし年間消費が少ない世帯では、2万円給付の方が得になることもあります。

 2万円給付と消費税減の実施における政策面での現実的な違いは次のようになります。
2万円給付の場合:
 ・迅速な実行が可能(ただし、年内の配布時期は決まっていない)
 ・一時的な支出(ただし、事務コストや時間、労力がかかる)
 ・短期的な効果

消費税減税の場合:
 ・税制改正が必要 → 時間がかかるといわれる(ただ小売業はしばしば値段を変えている)
 ・恒久的・大規模な減収
 ・長期的な効果あり

 終わりに、どちらが家庭にとって「有効」かです。短期的な生活支援が必要な家庭には2万円給付が即効性があり、助かります。しかし、長期的には、税金や社会保険料を差し引いた後に自由に使える可処分所得の増加を望む家庭には、消費税減税の方がより大きな恩恵があります。そして、国全体での経済活動に焦点をあてるマクロ経済政策という観点では、消費税減税の方がより波及効果が高いといえます。2万円給付の原資つまり財源は、もともとは国民の税金なのです。国の2023年度税収、還付増でも2.5兆円も上振れしているのです。給付とは「税金を取り過ぎました。お返しします。」と言うべきでしょう。2万円の給付で物価は下がりません。2万円の給付はトリックとしか言いようがありません。

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無関心や傍観の帰結 その第十四 ヘイビアス・コーパスの歴史

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 「ヘイビアス・コーパス」という制度は中世イングランド(medieval England) の歴史に起源があります。ラテン語で「人身を差し出せ」という意味の「Habeas Corpus」は、中世のラテン語による法文書の冒頭の語句から来ています。イングランドのコモン・ロー(common law)という慣習法の中で、王の裁判所が地方の牢獄に囚われている人を引き出し、その拘禁が正当かどうかを調べるための命令文書(令状)として発展しました。コモン・ローとは、法制度の重要な特徴である「判例法」を指す言葉です。具体的には、判例に基づいて法が発展していくシステムであり、イギリスの普通法を起源とします。しかし、当初は王の裁判権の拡大が目的であり、個人の自由保護という意識はまだ希薄でした。

チャールズ2世

 この制度が発展したのは13〜17世紀といわれます。1215年の大憲章(マグナ・カルタ: Magna Carta)では、「正当な裁判なく自由を奪ってはならない」という原則が確認され、これが後の「ヘイビアス・コーパス」の精神的基盤となりました。その後、裁判所が不当な拘禁を調査するためにこの令状を使うことが一般化します。特に、16〜17世紀には国王や官僚による恣意的な拘禁に対して、庶民が抗議手段として使うようになります。

 この制度の最も重要な転機は、1679年にイングランド議会(Parliament of England) が「ヘイビアス・コーパス法」を制定したことです。これはチャールズ2世(Charles II)の治世下、国王権力の乱用を防ぐために成立したものです。次のような内容でした。

・裁判なしに長期間拘禁することを禁じる
・裁判官の命令で速やかに被拘禁者を釈放させる
・刑務所や官憲による引き伸ばしや拒否を処罰対象とする

 この制度はやがてイギリス植民地とアメリカへ波及します。イギリスの法制度に従っていたアメリカ合衆国でもこの制度は引き継がれました。つまり合衆国憲法第1条第9節には、「ヘイビアス・コーパス」の特権は、反乱や侵略の際にのみ停止できる」と明記されています。このため、リンカーン大統領(Abraham Lincoln)が南北戦争(Civil War) 時に一時的に停止した例が有名です。

 終わりに、「正当な裁判なく自由を奪ってはならない」という原則は我が国ではどのように規定されているでしょうか。日本国憲法第34条の前段は、「何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない」と定められています。この条文が「ヘイビアス・コーパス」に由来するということは明らかです。しかし、このことの詳細を定めた人身保護規則は適用条件を絞っているため、日本の人身保護手続は公権力に対する拘禁についてはほとんど用いられていません。専ら私的拘禁への救済手続として用いられているのが現状です。

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無関心や傍観の帰結 その第十三 ヘイビアス・コーパスとは

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今アメリカ議会の公聴会で、トランプ大統領の命令で「不法移民摘発」と「国境の内側での犯罪取締」を行う連邦機関が、不法滞在者の摘発し強制送還していることを非難し論議されています。大統領が議会の承認なしに不法滞在者一斉強制送還を命じたのは違法ではないかという指摘です。

抗議デモ

 この大統領の行為に対して、異議を唱える議会議員は、「ヘイビアス・コーパス(Habeas Corpus)」という原則を強調するのです。「ヘイビアス・コーパス」とは、不当に拘束されている人の身柄を裁判所に提出させ、その拘束の合法性を審査させるための令状、またはその制度のことです。Wikipediaによると 「不当な拘束からの解放を目的とする、人身の自由を保障するための重要な制度」とあります。別名、人身保護令状と呼ばれています。ラテン語 Habeās Corpusでは「身柄を提出すべし」あるいは「身柄を持参すべし」を意味します。

 アメリカ合衆国の法制度において、大統領の権限、議会の役割、そして憲法で保障された「ヘイビアス・コーパス」の原則が交錯するこの問題は、合衆国憲法の根幹に関わります。合衆国憲法 第1条 第9節には次のように謳われています。

「公共の安全が要求する場合を除き、「ヘイビアス・コーパス」の特権は停止されてはならない。」

 つまり、戦争・反乱などの非常事態を除いては、政府は勝手に人を拘束できず、裁判所の審査を経る必要があるという強力な人権保障の柱です。大統領は、連邦移民法(Immigration and Nationality Act)などに基づいて、移民・関税執行局(Immigration and Customs Enforcement: ICE)などの連邦機関に不法滞在者の摘発・退去を命じることができます。しかし、大統領の権限は法律に基づいて行使されるべきであり、法の適正手続き(due process)を無視することはできません。仮に、大統領命令で移民を拘束・送還する場合でも、当事者が裁判所に対して「ヘイビアス・コーパス」を請求する権利は奪えません。

 大統領は議会の立法によって権限を与えられた範囲内でのみ行動可能です。退去命令や拘束などを行うにあたり、議会の承認なしに恣意的に行えば、司法手続き違反や人権侵害という憲法違反になる可能性があります。特に、「ヘイビアス・コーパス」の停止は議会の特別承認が必要であり、大統領単独ではできません。

 現在の論点ですが、不法滞在者が「ヘイビアス・コーパス」を通じて不当拘束を訴えることができるかです。答えはイエスです。合衆国憲法の下で、市民でない外国人であってもアメリカ国内にいる限り、一定の憲法上の権利(自由権)は保護されます。

 大統領が議会の承認なしに一斉強制送還を命じた場合、違憲かどうかです。答えは、その可能性が高いといわれます。法の適正手続きを踏まえずに行えば、裁判所により違憲判決が出されることが考えられます。結論からいえば、大統領は議会の定めた法律に基づいてのみ不法移民の摘発・退去を命じることができます。「ヘイビアス・コーパス」の権利は憲法で守られており、大統領が一方的に無視することはできません。議会の承認なしに、その権利を停止したり、大規模強制送還を命じることは、憲法違反の疑いが極めて高くなります。

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無関心や傍観の帰結 その十二 野間宏や大岡昇平と文学活動

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戦況の激化により、表現の自由の統制はさらに強化されていきます。反戦との関連が薄くとも、時局に消極的な内容であれば規制の対象となり、表現の幅はさらに狭くなります。谷崎潤一郎の『細雪』が連載中止に追い込まれたことは、この時代を象徴する事件の一つといわれます。『細雪』はモダニズム時代の阪神間の生活文化を描いた作品としても知られ、全編の会話が船場言葉で書かれています。Wikipediaによれば「上流の大阪人の生活を描き絢爛でありながら、それゆえに第二次世界大戦前の崩壊寸前の滅びの美を内包し、挽歌的な切なさをも醸し出している」といわれます。戦意高揚の出版物が推奨され、そこに多くの紙が配分されたことで、表現活動のためには時局に協力的にならざるをえない状況が作り出されます。このように、終戦までの日本では表現の可能性が政府によって日を追うごとに制限されたのです。

 1945年8月。さまざまな意識をもって戦時下を過ごした文学者は、それぞれの終戦を迎えます。個人の程度の差こそあれ、戦時体制に協力した彼らは強く批判されます。この当時、横光利一が山形での文筆活動から、「夜の靴」を通して敗戦の痛みを表現したことをはじめ、自身の戦争協力を徹底的に反省する者も現れてきます。

横光利一

「夜の靴」の一節です。

「軍人という奴は、どいつもこ奴も、無頼漢ばかりだ。」またか、と初めは思って、私にこの話をした青年は、聞くのを躊躇したそうだ。この青年も復員軍人だ。「捕虜に食わせる食い物なんて、あれや無茶だ。人の食う物じゃない。気の毒で気の毒で、もう見ちゃおれん。」と、日通は云った。軍人を攻撃するのは田舎でも流行だが、これは少し流行から脱れた権幕である。罵倒も飛び脱れた大声だと、反感を忘れ、どういうものかふと人はまた耳を傾ける。「敗残兵が帰って来たア。」

 さらに、戦前・戦中に若年層であった者が「戦後文学」を作り上げていきます。表現方法は多岐にわたりますが、文学者の一部は戦争による日常の崩壊を描き、戦時以前の文学とは異質な文体でもたらされた非日常の経験を表現していきます。兵士として戦地に赴いた野間宏や大岡昇平の著作には、自身の経験を通した新たな表現が見られます。野間は、人を兵隊に変える兵営という軍隊の日常生活の場を舞台とし,軍国主義に一石を投じた「真空地帯」という意欲的な作品を残します。この著作は、彼の出征経験から書かれ、戦後は大きな反響を呼び、戦後文学の記念碑的名作となります。

映画「野火」

 大岡は、「野火」において戦時中のフィリピンのレイテ島での戦争体験を基にし、死の直前における人間の極致を描きます。主人公の田村は肺病のために部隊を追われ、野戦病院からは食糧不足のために入院を拒否されます。彼が目の当たりにする、自己の孤独、殺人、人肉食への欲求、そして同胞を狩って生き延びようとするかつての戦友達という現実は、ことごとく彼の望みを絶ち切っていきます。 ついに、「この世は神の怒りの跡にすぎない」と断じることに追い込まれた田村は、狂人と化していくのです。戦争文学の代表作の一つといわれます。大岡は他に従軍記である『俘虜記』も出版します。

 戦時下の統制により日本の文学は停滞します。戦後、言論の自由が認められた世で生まれたのが戦後文学です。野間や大岡らの「戦後文学」が誕生し、当時に与えた社会的影響は大きく、戦争像を相対化し戦争というものの意味を捉え直させる力があったことは確かです。

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無関心や傍観の帰結 その十一 戦前と戦後の文学活動

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戦時下を生きた日本人は戦争にさまざまな苦労や辛酸をなめてきました。最も苦痛であったことは表現の自由を極端に制限されたことです。自分の意思を表明できませんでした。そうした状況の中で、文学者はどのように戦争に関わったのか、そして敗戦を経験し、戦後社会において戦争をいかに捉え直していったのかは興味ある話題です。

 東北大学の日本文学研究室の仁平政人准教授は、文学者による戦争への反応は多様であり、時期によっても変化するため、唯一の傾向を見いだすことは難しいと指摘します。ただし、日中戦争前の1935年頃、文壇は「文芸復興」が唱えられる状況にあり、戦争を強く意識する者は多くなかったといわれます。「文芸復興」期の中心は太宰治や井伏鱒二らで、「モダニズム」とか「新興芸術派」が醸成され、彼らに戦後の「大衆」の共感を喚起していったこといわれます。

 文芸誌『戦旗』で1929年に小林多喜二が「蟹工船」を発表します。いわゆるプロレタリア文学の代表作とされ、国際的評価も高く、いくつかの言語に翻訳されて出版されました。全体に伏字があったとかで、文芸誌の6月号の編が新聞紙法に抵触したかどで発売頒布禁止処分を受けます。この小説には特定の主人公がおらず、蟹工船にて酷使される貧しい労働者達が群像として描かれている点が特徴的です。1930年7月、小林は「蟹工船」で不敬罪の追起訴となります。

 1938年頃の日中戦争勃発以後、反戦や厭戦をうたう表現は規制され、文学者は個人の思想に関わらず皆、国家との一体化を迫られていきます。この時期、彼らの中には戦地に赴き、文筆活動によって戦況を発信する「ペン部隊」として活動する者がいました。「ペン部隊」は、内閣情報部によって組織され、軍の要請を受けて中国や南方戦線に派遣されました。彼らは、戦地での体験を基に、戦意高揚を目的とした記事や小説を執筆し、新聞や雑誌、書籍などを通じて発表したといわれます。軍の広報活動を担った作家たちのグループには、林芙美子、火野葦平などがいて、戦意高揚を目的とした記事や作品を執筆します。

ペン部隊

 日中戦争に関わった「ペン部隊」の文学者にとって戦争は必ずしも肯定的なものではなかったようです。アジアの解放者を標榜する日本が実質的な侵略戦争を進めていることに彼らが気付いていったからです。こうした考え方を一変させたのが、1941年に始まる太平洋戦争です。これにより、多くの文学者にあった侵略戦争への抵抗意識が消失します。この戦争に、帝国主義的な英米らを相手としたアジア解放のための「聖戦」であるという大義ができ、それまで政府への協力に消極的であった文学者の多くも体制側に与していくのです。

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無関心や傍観の帰結 その十 支那事変と日中戦争

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今NHK連続テレビ小説「アンパンマン」が放送中で12週は「逆転しない正義」となっています。主人公の一人で漫画や絵を愛していた棚井嵩が徴兵されて日中戦争に巻き込まれ、1944年9月福建省にて宣撫班に所属するという舞台です。宣撫班とは、占領の目的や方針などを知らせることで人心を安定させることを任務とする組織です。中国人に嘲笑され歓迎されない兵士と住民とのいさかいが起こります。そこで、老若男女が喜ぶ作戦を考えよ、という命令を受けます。棚井は、一人の子どもに出会い、「紙芝居」にその子どもを主人公として登場させるのです。地元民から共感を得る紙芝居を作るのです。最初の紙芝居のテーマは「双子の島」でした。これが集まった大人や子どもから受けるのです。しかし、戦況は悪化し、食糧の供給路が絶たれ、宣撫班は一日2食を強いられていきます。

1940年時点の日本軍占領地域(赤色部分)

 日中戦争は、中国では中国抗日戦争と呼ばれています。1937年7月7日に中国北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突した事件が戦争の引き金となります。この戦争は、1937年から1945年8月15日まで大日本帝国と蔣介石率いる中華民国国民政府の間で行われた戦争です。日本は宣戦布告は行わず北支事変と称し、戦闘が上海に拡大した後の1937年9月に支那事変と命名します。さらに戦線が拡大していくと、日華事変と呼ぶようになります

 戦争でなく事変と称されたのは、盧溝橋事件後に本格的な戦闘が行われても、1941年12月に大東亜戦争/太平洋戦争が日英米蘭との間で勃発するまで、両国は宣戦布告を行わなかったからといわれます。その理由として、日中両国がアメリカの中立法の発動による経済制裁を回避したかったからであると指摘されています。盧溝橋における銃弾の発砲については、蒋介石国民政府が「何らかの手違いによるものである・・」という旨の声明を出しており、正式な謝罪をします。日本側も、石原莞爾が旧知の仲であるドイツの駐中国大使であるオットー・トラウトマン(Otto Trautmann)に仲介を依頼します。これは「トラウトマン和平工作」と呼ばれました。

蔣介石

 日本側は事態の早期収拾も狙っていました。戦争ともなれば天皇の勅許が必要となりそれを避けたかったようです。一方中国側は、国内での近代兵器の量産体制が整わないままであることから、開戦により軍需物資の輸入に問題が生ずる懸念がありました。ことに軍閥や毛沢東率いる中国共産党との国共内戦の行方も不透明であったことから、中国国民党の蒋介石は「安内攘外(あんないじょうがい)」政策をとり、中国共産党との決着を目指す国内の統一を優先すべき問題と捉えていたといわれます。

 その後、中国共産党の国共合作による徹底抗戦の呼びかけ、及び蔣介石の「最後の関頭」談話における徹底抗戦の決意の表明、中国軍の日本軍及び日本人居留民に対する攻撃と事態は進展し、8月には第二次上海事変が勃発するに及び、戦線は現中国の華中地方、そして中国大陸全土へと拡大し、日本と中華民国の全面戦争という泥沼の様相を呈していきます。第二次世界大戦が勃発すると、蔣介石の重慶政府が英米オランダとともに日本に宣戦布告し、事変が戦争にエスカレートしていきます。東條内閣は1941年12月10日の閣議で支那事変を含めて大東亜戦争と呼ぶことに決定します。

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無関心や傍観の帰結 その九 「戦犯の実録 第二集 半生の悔悟」

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中国人虐殺に日常的に加担した憲兵が「私の行った拷問の記憶が、今も体を硬直させる」と書いて半生の悔悟を証言しています。このことを報じたのは、「しんぶん赤旗日曜版(2025年6月) 」です。その記事を以下に要約します。

1983年に発行されたのが「戦犯の実録 第二集 半生の悔悟」という本です。著者は日本が中国に侵略した1931年、20歳で志願し中国に出兵します。軍人になることが極貧から抜け出す道だったからです。1934年から満州を侵略した関東軍憲兵隊の憲兵となり、出世のために手柄をたてようと中国人へに拷問に明け暮れます。12年間の憲兵生活で、中国人を28名を直接間接に虐殺し、1917人を逮捕して拷問、投獄したそうです。戦後はソ連軍に抑留され、戦犯管理所に収容されます。1956年の特別軍事法廷で罪を認め、恩情措置で起訴免除となって帰国します。

日中戦争 1937年〜1945年

「拷問の毎に中国人のあの苦しい叫びが今も耳朶をかすめ、自責の念に駆られている。「ああ苦しい、耐えきれない」、と呼吸も切り切れに泣き叫び、頭をガンガン板に打ち付けて命乞いする。それを私は、「何をこのチャンコロ虫けらが」、となお拷問を続けた。私の行った罪悪の事実を書いていると今も体が硬直してしまう。」

「殺すことが日常茶飯事だったことです」と証言しています。他の元戦犯たちの証言からも、各地で住民を殺し、村ごと焼き払い、財産も家畜も食糧も奪い尽くしたようです。こうした証言や手記を残すことになったのは、戦前戦中の徹底した天皇制軍国主義が下敷きであったことです。「子どもの白紙の頭にしっかりとウソが詰め込まれた。この皇国教育を受けて戦争に行き、残虐行為をくり返すに至った」と著者は書きます。このような加害者証言は貴重です。著者はさらに言います。「私が身をもって学んだことは、人を殺害してしまうのは、銃剣などの武器だけではないということである。間違った政治、その政治家達が作る法律や政策が、武器よりもはるかに多くの人たちを死に追い込んでしまうということである。」

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無関心や傍観の帰結 その八 『きけ わだつみのこえ』

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戦時中、ドイツ国内に静かに展開していた反ナチ運動が「白薔薇通信」というチラシに記述されたことを書いてきました。このような不戦や反戦運動に加わった学生らは、「消極的抵抗」と呼んでいました。日本では戦前、戦中にこうした軍国主義批判や国粋主義批判の風潮があったとしても、家族や友人の間でさえ公にされることは厳重に禁止されていました。特に学徒といわれた大学生が、繰り上げ卒業となり、兵役に就いた時、自分達が異常な状況に置かれていることを見つめた手記などが明らかにされたのは1947年頃だといわれます。それが「はるかなる山河に」という東京大学の戦没学生39名の日記・手紙・句・和歌・詩・遺書集です。

 「きけ わだつみのこえ」は、「はるかなる山河に」のように東京大学の戦没学生に限られていたという欠点を補うために、広く新聞ラジオを通じて全国の大学高専出身の戦没学生の遺稿を集めて編集されたものです。追い詰められた若い魂が、自然死ではなく、もちろん自殺でもない死、他殺死を自ら求めるように、またこれが「散華」とされるように、訓練され、教育された若い魂の遺稿です。若い生命のある人間として、また夢多い青年として、また十分な理性を備えていた学徒らです。不合理を合理として認め、いやなことを好きなことと思い、不自然を自然と考えねばならぬように強いられ、縛りつけられ、追い込まれた時に、発した叫びが日本戦没学生の手記『きけ わだつみのこえ』から聞こえるのです

東京大学出版会

 残忍で暗黒のような国家組織と軍隊組織のなかで生きた青年の痛ましい記録が『きけ わだつみのこえ』です。このような狂気のような言辞を戦前、戦中に弄して若き学徒を煽てあげていた人々が、今や現に平気で平和を享受し、呑気に政争に明け暮れる政治に邁進しています。このような唾棄すべき現代に対する声なき声の訴えが『きけ わだつみのこえ』です。純粋なるが故に為政者や軍人の煽動の犠牲となり、無数の白骨化した学徒が太平洋の島々、遙か洋上の紺碧の彼方に眠っています。

 人間が追い詰められると獣や機械になるといわれます。人間らしい感情、人間として磨き上げねばならぬ理性を持っている青年が、かくのごとき状態に無理矢理に置かれて、もはや逃れる出る望みが無くなったとき、獣や機械になる直前に『きけ わだつみのこえ』に見られるようなうめき声や絶叫が聞こえてくるのです。戦争というものは、いかなる戦争といえども必ず人間を追い詰めるものです。相手に銃をつきつけると相手も銃をこちらに突きつけるのです。相手が銃を突きつけると相手に銃をつきつけるのが戦争というものです。

 ここに収められた手記や手紙、日記は、普通の条件のもとで書かれたものではありません。戦争下というだけでなく、日本軍隊の徹底した私生活統制が手紙や日記にまで及んで、すべて厳重な検閲のもとに置かれており、自由な表現は原則として行われていませんでした。このような統制は、軍事上の機密を護るということよりも、人身から良心にまで立ち入って拘束し、この制限が全面的に行われていたのです。

 将校や幹部候補生になると、家族への手紙などの検閲は幾分緩和されたといわれます。しかし、兵卒の場合には、検閲は全く極端なまでに徹底されたようです。この事実は「こんな手紙を書いたのが二年兵にでも見つかれば、おそらく殺されるでしょう」という兵士の言葉にそれが表れています。それにしてもこうした厳しい検閲を通り抜けて、不自由な文字で家族のもとに届けられた手紙のなかに、どんなに痛切に学生達の人間らしい苦悩や訴えや疑惑や諦めが語られていることでしょうか。

 最後の出撃や有罪判決後の処刑を前にして、学徒兵の家族宛の別離の手紙までが、型どおりの国粋的用語で書かれるのが普通でした。真情の吐露は「女々しい」として堅く禁じられていました。密かに書いて外出のさいにポストにいれたり、面会にきた友人にこっそりと持ち帰ってもらったという例もありました。それはほぼ例外であったことが指摘されています。『きけ わだつみのこえ』に収めた手記のうち、自由な文字が書かれているのは、まさにそういう例外的なもので、家族や友人によって密かに保存されたものが後に公開されたのです。

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無関心や傍観の帰結 その七 『白薔薇は散らず』 最後のビラ その2

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「白薔薇は散らず」において大学生らが書いた反戦のビラの内容は、神々しいほど格調高く、訴えかけるものです。「消極的抵抗」と呼んでいた彼らの言葉は、武器蜂起の弾丸や暴力以上の威力を持っているようです。「悪い政府をもった国民ほど、憐れなものはない」、「世界中で最も優秀な民族で、他国民はドイツに従うのが当然で劣等民族なのだ」という、当時の国家社会主義のスローガンに言論で次のように反論し、反旗を翻すのです。

大学にまかれた白薔薇通信のチラシ
Sophie Sholl und Hans Scholl

 われわれにとって、合い言葉は唯一である。党と戦うこと!われわれをなお、唖とし沈黙せしめるかの党組織から離脱せよ!親衛隊の上級また下級幹部と党に追従する者らの演壇に背を向けよ!われわれの関心事は真正の学問と純粋な良心の自由である!いかなる嚇かし道具もわれわれを畏怖させることはない、たとえ大学封鎖をもってしても、われわれ各個人の戦いにわれわれの未来、道義的責任を自覚する国民内でのわれわれの自由と名誉とがかかっているからである。

 自由と名誉!10年の久しきにわたってヒトラーとその徒党がこの二つの光栄あるドイツ語を圧搾し脱穀し歪曲すること、一国民の最高価値を豚の群れに投げあたえるディレッタントのみがなし得ることであった。彼らにとり自由と名誉が何を意味するかは、ドイツ民族のすべての物質的精神的自由とすべての道義的本質とを破壊せるこの10年間に十分示されたことである。いかに愚味なドイツ人といえども、彼らがドイツ国民の自由と名誉の名において全ヨーロッパに建立し、また現に建立しつつある怖ろしき血の噴泉によって、今や眼は開かれたのである。

 ドイツの名は永久に恥辱として残るであろう、もしドイツの青年がついに立ち上がり復讐と贖罪をを同時に果たし、加害者を踏みにじり、新しき精神的ヨーロッパを建設することをせぬならば、女子学生諸君!男子学生諸君!われわれにドイツ民族の目は注がれている!国民はわれわれに1823年ナポレオン戦役(Napoleonic Wars)の時とひとしく、1943年にはナチス的恐怖を精神の力で打破することを期待しているのだ。今や東なるベレシナ(Bjaresina)とスターリングラード(Stalingrad)に焔うずまき、スターリングラードの死者たちはわれわれに嘆願の声をおくる!「いざ進めわが民よ、のろしの煙は立ち昇る!」

 わが民族は国家社会主義によるヨーロッパの奴隷化に抗して、進軍を開始せんとする、自由と名誉の新しき信念に身をたぎらせつつ。

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無関心や傍観の帰結 その六 『白薔薇は散らず』 最後のビラ その1

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かつて我が国にも当時のドイツと似たような軍国主義や国家主義を肯定する時代がありました。国家と暴力とが結託して対内的にも対外的に「八紘一宇」というスローガンによって独裁を主張するとき、国民一人ひとりは何をもって抵抗の意思を表明したのかです。現在の日本に、こうした極端な事態が二度と来ないとはいえるでしょうか。まさか独裁という事態になるまいという安心感や楽観はドイツでも日本でもあったはずです。今も平凡な生活にある眼に見えない不合理や不自由が日常化され、常識といういわば尺度にされがちな傾向に疑問が呈されているでしょうか。

岩波文庫の表紙

 1949年10月に『きけ わだつみのこえ』という遺稿集が東大協同組合出版部から出版されます。これは、特に日本の学徒兵の多くが己の学業が心ならずも頓挫し、自分が異常な状況に置かれていることを見つめた内容を記述されているといわれます。この遺稿集に関してある識者は、当時の学生の間では概ね共通した軍国主義批判・国粋主義批判の風潮があったと記しています。「わだつみ」とは海神を意味する日本の古語といわれます。しかし、ドイツの学生らは、暴力を至上とする国家組織を破るものはなにかを問い、あるいは国家と暴力とが結びついて独裁という体制の打破について、白薔薇通信という学生が言う「消極的抵抗」の手段をもって反戦や国家の打倒を訴えるのです。

 「消極的抵抗」とは、生成AIによれば、「ナチス政権の思想や行動に反対の意志を持ちながらも、直接的に戦ったり、大規模な反乱を起こすのではなく、日常生活の中で静かに反対の意を示す行為のことです。武力や暴力によらず、静かで内面的、もしくは控えめな方法で権力に抵抗する行為のこと」とあります。ハンス・ショルらは、1942年6月から7月にかけて4種類のビラを作成し、郵便などで配布します。1943年に入ると、1月に5種類目のビラ「全ドイツ人への訴え」を作成して各地で配布します。さらに、1月末の スターリングラード攻防戦におけるドイツ軍降伏を受け、2月に6種類目のビラ「学友へ」が作成されます。いずれのビラも平易なドイツ語で書かれており、グループが広くドイツ国民に訴えかけようとしたといわれます

  『白薔薇は散らず』には「最後のビラ」が掲載されています。その全文を引用することにします。

男子学友諸君! 女子学友諸君!
愕然としてわが民族は、スターリングラードの。人的消耗を眺めている。33万のドイツ男子は第一次大戦伍長の天才的戦略によって無意味かつ無責任に、死と破滅へ駆りたてられた。総統よ、われわれは君にお礼を言おう!

ドイツ民族の胸中には疑いが醸されている。われわれはなお一ディレッタント(dilettante)にわが軍の運命を委ねたものであろうか?われわれは党派の徒の卑劣なる権力本能に、残るドイツ青年を犠牲としたものであろうか?断じて否!決算の日は来た。ドイツ青年がわが民族のかつて甘受した最も侮蔑すべき独裁制に、決算書をつきつける日なのである。ドイツ青年の名において、われわれはアドルフ・ヒットラーの国家に、人格の自由、このドイツ人にとり最も尊き財宝を返却せよと要請する。われわれは憐れにも彼の欺瞞によりそれを失ったのであった。

あらゆる種類の意見発表に呵責なく弾圧する国家のうちに、われわれは生い育った。ヒトラー青年団、突撃隊、親衛隊は教養の最も実り有るべき年齢にわれわれの生命を制服と革命と麻酔とで束縛すべく試みた。「世界観的訓練」というのが、萌え出でる自己思索を空虚な念仏のもやで窒息せしめるかの軽蔑すべき方法の名であった。総統訓必携なる一書が、かの類似なき悪魔的かつ愚味な思想を持って、ナチス幹部養成所なる未来の党首どもを、羞じらいなき良心なき搾取者、かつ殺害者、目くらみ頭なえた総統幕僚へと育成する。

われわれ「精神労働者」の正当な仕事とは、この新興支配階級に棍棒を作り献ずることなのである。従軍者は養成所上がりの隊長や地方分団指導者の怒号によって生徒扱いの統制をうけ、地方分団長らは淫靡な口実のもとに女子学生の貞操を奪おうとする。しかし、ドイツの女子学生はミュンヘン大学において、貞操汚辱に抗して品格ある一矢を報いた。

ドイツの男子学生は彼女達を支持し、擁護せんと努めた。これこそはわれわれの自由な自己省察を闘いとる第一歩である。精神的価値の創造にはなおほど遠いとしても、われわれの感謝は輝かしき先例を残したこれら男女の学友たちに捧げられるものである!

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無関心や傍観の帰結 その五 クルト・フーバー教授と『白薔薇は散らず』

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 『白薔薇は散らず』の著者は、ハンス・ショル(Hans Scholl)、ゾフィー・ショル(Sophie Scholl)の姉、インゲ・ショル(Inge Scholl)という人です。第二次大戦中の抵抗運動の記録は,我が国でもかなり紹介されています。抵抗文学にもそれがあります。ですが、抵抗組織に関わりのない無力な学生の純粋な苦悩や情熱を、文学や政治の素人が記した記録は知られていません。ドイツ国外亡命者の反ナチ運動やフランスでの抵抗運動とは異なり、ショル兄妹のように国内で絶対権力の打倒を試みたことに畏敬の念を感じます。

 著者インゲ・ショルは、ハンスとゾフィーがナチズムへの疑問を抱き、抵抗運動に挺身するきっかけをつくった一人の教授、クルト・フーバー(Kurt Huber)を引用して次のように記しています。

Professor Kurt Huber

さる若いプロテスタントの神学生を通して私たちは当時、「矯正」案なるものの正体を知りました。国家のためと称して、キリスト教の信仰箇条を完敗させたのち、矯正を実現する計画だったのです。身の毛もよだつ背徳の人権侵害が、戦線にたって筆舌につくせぬ辛酸をを耐えねばならない男性たちの背後で、用心深くたくまれていたのです。

同じく秘密裡に婦女子に対する処置が準備されていました。女性は戦後来るべき恐ろしい人的消耗を計画的かつ破廉恥な人口政策に従って回復すべきだというのです。現に地方分団長ギースラーは、ある大きな学生の集まりで女子学生に呼びかけました。諸子は戦時下無益に大学にまつわりつくことなく、「むしろ総統のために一子をもうけるべきである」と。

学生たちは一人の教授を、いわば発見しておりました。それはある学生の言によれば全学のピカ一教授でした。すなわちフーバー教授、ゾフィーの哲学の先生でした。彼の講義には医学部の学生もやってきました。それで早めに行かないと座席が取れないのでした。題目はライプニッツ(Gottfried W. Leibniz)とその精神論でした。

 精神論の根本は最善説にあるとします。「この世界は最善の世界である」という考え方です。ライプニッツによれば、私たちが生きているこの世界の他にも、別の世界が無数に存在していた可能性があると言います。そしてその中から、神が最善な世界を選び出したと主張します。私たちが生きている世界は、全てが予め計画された調和によって成り立っているのです。ライプニッツはこの考え方を「予定調和」と呼びました。

白薔薇通信記念切手

フーバー教授の授業は名講義だったのです。精神論とは、神の正義を弁護することです。精神論は哲学の大きな難しい一章でした。とりわけ戦争中は難しいのです。なぜと言えば、世界が殺人と苦患に狂うとき、どうしてその中に神の足跡をよみとることが出来ましょう?

けれどフーバーのような偉大な教師がそれに注目することを強調したので、講義はただ忘れがたい時間となったばかりでなく、また光を放って、神そのものを抹殺しようとし神の秩序を無視するだけは決して甘んじないこの現代を、照らしてくれるのでした。ほどなく、ハンスはフーバー教授と相識ることとなり、それ以来教授もまたときどき、彼らのサークルに現れて、一緒に議論しました。彼らの抱いていたすべての問題に、彼も全く同じ熱意で関心を寄せておりました。そして彼の髪はすでに白んでいたのに、学生達と全然隔てがないのでした。

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無関心や傍観の帰結 その三 ハイネと『白薔薇は散らず』

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 2017年11月18日に本ブログにて「心に残る一冊 その35 白薔薇は散らず」という拙稿を投稿しました。162頁の小さな佳作です。この本の原題は「Die Weisse Rose」。翻訳の出版社は白水社で定価が150円とあります。1961年、私は北海道大学の一年次にドイツ語を勉強し始めました。そのとき出会った本です。日本語や英語と違い、名詞にジェンダーがあるのがドイツ語です。表題から薔薇という単語が女性名詞であることも納得したものです。

Hans Scholl, right

 第二次大戦下のドイツで国家社会主義政権への抵抗運動を始め、やがて処刑されたハンス・ショル(Hans Scholl)と妹ゾフィー・ショル(Sophie Scholl)の記録です。ヒトラーが政権をとった時、ハンスは15歳、ゾフィーは12歳。そして二人はヒトラー青年団(Hitler Youth)に加入します。この青年団はナチスによる学校放課後における地域の青少年を教化する組織です。第二次世界大戦が始まると、ハンスも戦争に狩り出され、ロシア戦線にも出征します。

 ハンスはやがて、ドイツ人でユダヤ系の詩人であるハインリッヒ・ハイネ(Heinrich Heine)の詩などが禁じられたことなど、ナチスの理念と行動に疑念を抱くようになります。ハイネは、ドイツ・ロマン派を代表する詩人で思想家です。自由と平等を理想とする政治思想を強く抱き、検閲制度や専制政治、宗教的抑圧に反対していきます。彼の思想は、詩的感性と鋭い社会批評、政治的関心、自由主義的な立場を融合させたといわれます。ハイネは検閲や迫害を逃れてフランスへ亡命し、ドイツ国外から母国を批評した先駆者ともいわれます。ナチスが彼の書を焚書した際に「本を焼く者は、やがて人をも焼くことになる」という名言が伝えられています。

Heinrich Heine

 ミュンヘン大学(Ludwig-Maximilians-Universität München) 医学部の学生になったハンスは、友人や哲学教授のクルト・フーバー(Kurt Huber)を相談役として、「個人の権利と自由、各人の自由な個性の発達と自由な生活への権利」を主張していきます。そして反戦運動のメンバーとして会議に参加することとなります。地下での抵抗と反戦の訴えを「白薔薇通信」というチラシで密かに訴えます。この運動は、政治的な結社でも武装闘争でもありませんでした。

 ミュンヘン市内やミュンヘン大学構内で配布された白薔薇通信は次のような文章で始まります。

「何よりも文化民族にとって相応しからぬ事は、抵抗することもなく、無責任にして盲目的な衝動に駆り立てられた専制の徒に「統治」を委ねることである。現状はまさに、誠実なドイツ人は皆自らの政府を恥じているのではないか?」

 白薔薇通信の最後のビラの一説です。

Sophie Scholl and Hans Scholl

「言論の自由、信教の自由、そして犯罪者的暴力国家から市民を擁護すること、これが新しきヨーロッパの基礎である。諸君、抵抗運動を支持せよ。このビラを複写し配布されよ!」

「愕然としてわが民族はスターリングラードの人的消耗を眺めている。33万人のドイツ男子は第一次大戦伍長の天才的戦略によって無意味かつ無責任に、死と破滅に駆り立てられた。(略) 我が民族は国家社会主義によるヨーロッパの奴隷化に抗して、進軍を開始せんとする、自由と名誉の新しき信念に身をたぎらせつつ。」

   参考書 ハインリッヒ・ハイネ 【歌の本】 岩波新書

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無関心や傍観の帰結 その二 ドイツ教会闘争とは

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ドイツ教会闘争(Kirchenkampf)とは、ドイツのプロテスタント教会(protestant church) が1933年から1945年に至るまで、ナチスが国民統制を強化する一環として教会の組織や教義への干渉に抗して行った闘争を言います。この運動は、単なる宗教的な争いではなく、政治的・倫理的な闘争でもありました。

 闘争は、やがてナチスの非人道的政策そのものに対する批判にまで発展します。1933年に宰相に就任したヒトラーは、最初は教会に対して宥和的な態度を示しました。まもなくナチズムに迎合するドイツ・キリスト者(Deutsche Christen)を介して、教会への干渉を始めます。特にプロテスタント教会を国家に従属させようとするのです。ドイツ・キリスト者は、ナチズムの思想である民族主義、反ユダヤ主義をキリスト教と融合させようとする人々です。さらに「アーリア的キリスト教」(Aryan Christianity) を提唱し、旧約聖書の排除やユダヤ人イエス・キリストを否定するのです。

Dr. Dietrich Bonhoeffer

 その干渉とは、それまでドイツ国内にある領邦教会を一元化して帝国教会を作り、その上に帝国監督を据えることを企ることでした。さらにユダヤ人排除政策であるアーリア条項(Aryan Clause)を教会関係の立法に導入しようとします。ニーメラーらは、告白教会というナチスの干渉に抵抗したプロテスタントの信徒や牧師のグループに所属していました。彼らは、帝国教会などの設立を教会秩序の破壊であると抗議し、牧師緊急同盟を組織し、多くの参加者を得て運動を開始します。やがて各領邦教会で勢力を持つドイツ・キリスト者に抗して告白会議が組織されます。

 1934年5月にルール(Ruhr)地方の工業都市、バルメン(Barmen)で第一回告白教会全体会議が開かれ、有名なドイツ福音主義教会の現状に対する神学的宣言が採択されます。この宣言はバルメン宣言(Barmen Declaration)と呼ばれます。バルメン宣言の中心は、キリストは唯一の主であり、国家や指導者に絶対服従すべきではないとする立場です。バルメン宣言の代表的な人物はニーメラーの他に(Karl Barth) 、ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)などの神学者でした。

 社会情勢の深刻化にともない、告白教会内部における非妥協的な全国常任議員会と保守的な領邦教会の人々の対立が次第に深まっていきます。さらに、政府は告白教会に対しての弾圧の度を強め、1935年に教会省を設けて、教会問題に直接介入してきます。告白教会は当時のドイツにおける唯一の抵抗の拠点として、良心の声を上げ続けます。1936年頃からは、単にj純粋な教会問題だけでなく、ナチスによる人間的破壊の事実に対して抗議の声をあげます。

 しかし、ニーメラーらの指導者をはじめ牧師や教会役員に対する逮捕投獄が相次ぎ、闘争は危機的状況に陥ります。ことに1939年の第二次対大戦の勃発により、組織的抵抗としての教会闘争は不可能になり、戦いは地下運動的なものに移行せざるをえなくなります。

Die Zionskirche in Berlin-Mitte, von Nordwesten aus gesehen.

 ドイツ教会闘争が今日の世界へ及ぼしたと考えられる貢献です。まず、政教分離と信教の自由への警鐘ということです。教会が国家権力に取り込まれる危険性を示した事例として、現代の政教分離の重要性を強調する事例になっていることです。この闘争は、倫理的勇気と良心のモデルとして評価されています。ニーメラーやボンヘッファーのような人物は、今日においても良心に従って不正に立ち向かう道徳的模範とされています。特に全体主義や権威主義が台頭する現代において、個人が信念に基づいて行動する重要性を再確認させているのです。

 もう一点は、ナチズムと宗教の関係に関する歴史的教訓ということです。宗教が国家権力に利用された結果、信仰が本来持つ倫理的・批判的な力を失う危険性が明らかになったことです。そのため、宗教界においても権力との距離や政治的関与についての慎重な議論が現在も続いています。

なによりも文化民族にとってふさわしからぬことは、抵抗することもなく、無責任にして盲目的衝動に駆り立てられた専制の徒に統治を委ねることである。現状はまさに、誠実なドイツ人はみな自らの政府を恥じているのではないか? (白薔薇は散らず)

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無関心や傍観の帰結 その一 マルティン・ニーメラー

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ドイツの福音主義(Evangelical) 神学者で元海軍軍人、古プロイセンルター派の合同福音主義教会(united Evangelical Church) にマルティン・ニーメラー(Martin Niemöller)という牧師がいました。彼は反ナチス運動家として知られ、『ナチスが共産主義者を攻撃したとき』(Als die Nazis die Kommunisten holten)に記した詩が知られています。それを解説いたします。

Ds. Martin Niemöller

 元東大教授で政治学者であった丸山眞男は、「現代における人間と政治」という自身の論文の中で、ニーメラーが記した詩を次のように訳しています。

  • ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。
  • それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。
  • それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。
  • さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。

 ニーメラーはこのように告白し、ナチスの迫害が「共産主義者→社会主義者→労働組合員→ユダヤ人→私」と続いて始まったと述懐します。ドイツ共産党は1933年2月から3月にかけて弾圧・解体され、社会民主党員の多くがほぼ同時期に強制収容所に収容されます。労働組合は同年5月に解体されていきます。それでも1924年以降、ニーメラーは ナチス党に投票し、1933年のヒトラー内閣成立も歓迎します。

 1933年4月にナチスドイツは職業官吏再建法(de:Gesetz zur Wiederherstellung des Berufsbeamtentums)を発布し、その第3条で「アーリア系でない官吏は退官させることができる」と謳います。ドイツ国民をアーリア人種の一民族として賛美し、他方でユダヤ人や黒人、インドを発祥の地とする少数民族のロマ族、いわゆるジプシー(Gypsy)を「非アーリア人」として貶めることになります。これが「アーリア条項」(Aryan Clause)」と呼ばれるものです。ユダヤ人の迫害、ホロコースト(Holocaust)が始まったのは1933年といわれます。

ニーメラーの牧師館

 やがてニーメラーは告白教会(confession church)の創立者の一人となり、ドイツにおける福音主義教会のナチス化に強く反対するようになります。そしてニーメラーの発言や礼拝説教は次第に野党的なものになります。さらに教会外に対しても反ナチス運動を開始します。教会内には、ナチス支持勢力であったドイツ・キリスト者との対立が生じていたのです。ナチス政権は、ドイツ・キリスト者信仰運動を利用して,その宗教政策を推進しようとします。これに対してプロテスタント教会内に抵抗運動が起こり、1934年5月ニーメラーらの指導により「牧師緊急同盟」が結成されます。これが「ドイツ教会闘争」と呼ばれた運動です。そのために1937年に逮捕され禁固7か月という判決が下されます。保釈後、秘密警察ゲシュタポ(Gestapo) によって再度拘束され、ザクセンハウゼン強制収容所(Sachsenhausen concentration camp) に収監されていきます。

 最終的には、ニーメラーは告白教会内においてラディカルな路線を選ぶのですが、ユダヤ人が収容され始めた時期や、カトリック教会への攻撃が本格化した時期を体感できなかったと述懐しています。それが、「自分は共産主義者でも社会主義者でもユダヤ人でもなかった。それ故何も行動しなかった。」と告白しているのです。

 このニーメラーの告白は、もし私たちが社会的な課題に注視し関心を持たないならば、いつの間にか正義や自由は危険な状態になるというのです。今日の政治、経済、社会に横たわる問題に積極的に向き合い、関わっていくことの重要性を伝えています。

【なによりも文化民族にとってふさわしからぬことは、抵抗することもなく、無責任にして盲目的衝動に駆り立てられた専制の徒に統治を委ねることである。現状はまさに、誠実なドイツ人はみな自らの政府を恥じているのではないか?】  (白薔薇は散らず)より引用

参考書:丸山眞男『増補版 現代政治の思想と行動』未來社
    丸山眞男『日本の思想』 岩波新書
    インゲ・ショル 『白薔薇は散らず』 白水社
  

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ポリティカル・コレクトネスとメディア

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ポリティカル・コレクトネス(PC) の3回目の話題です。再度PCの意味を復習します。PCとは、人種、性別、宗教、障害、性的指向などに関する差別や偏見を避け、すべての人に対して尊重と配慮を持った言葉や態度をとることを意味します。つまり、他人を不快にさせたり、傷つけたりしないように、より中立で配慮のある言い方を心がける社会的姿勢です。

 PCという用語に関する今日の議論は、学問と教育におけるリベラル偏向に対する保守派の批判に端を発しています。保守派はそれ以来、この用語を「言葉狩り」に対する主要な攻撃手段として利用してきた経緯があります。2020年に発表されたある調査によりますと、アメリカの大規模な州立大学の学生は、教員が概して寛容で、多様な視点の自由な表現を奨励していると答えています。とはいえ、大多数の学生は政治的な見解を表明することの顛末を懸念し、「政治的見解を表明することへの不安や自己検閲は、保守派であることを自認する学生の間でより顕著である」と指摘されています。

 ヨーロッパの一部の保守派評論家は、「政治的正しさ」と多文化主義は、ユダヤ・キリスト教的価値観(Judeo-Christian values)を弱体化させることを最終目的とした陰謀の一部であると主張しています。この理論は、政治的正しさはフランクフルト学派(Frankfurt School)の批判理論に由来し、その支持者たちが「文化マルクス主義」と呼ぶ陰謀の一部であると主張しています。ちなみに、フランクフルト学派とは、ヘーゲル(Georg Hegel)の弁証法とフロイト(Sigmund Freud) の精神分析理論をマルクス主義と融合させてマルクス主義の問題点の克服と進化を試みた学派といわれます。2001年、保守派評論家のパトリック・ブキャナン(Patrick Buchanan)は著書『西洋の死』(The Death of West)の中で、「政治的正しさは文化マルクス主義である」と述べ、「そのトレードマークは不寛容である」と述べています。

 アメリカでは、この用語は書籍や雑誌などのメディア界で広く使用されています。イギリスでは主に大衆紙での使用に限られているといわれます。多くの著述家や大衆メディア関係者、特に右派は、メディアの偏向と見なすものを批判するためにこの用語を使用しています。ジャーナリストのロバート・ノヴァク(Robert Novak)は、エッセイ「ニュースルームにPCは必要ない」の中で、新聞社が言語使用方針を採用し、偏見の印象を与えることを過度に避ける傾向があると批判しました。彼は、言語におけるPCは意味を破壊するだけでなく、保護されるべき人々を貶めると主張しています。

 作家のデイビッド・スローン(David Sloan)とエミリー・ホフ(Emily Hoff )は、アメリカではジャーナリストがニュースルームにおけるPCへの懸念を軽視し、PC批判を古くからある「リベラルメディアの偏向」というレッテルと同一視していると主張していいます。作家のジョン・ウィルソン(John Wilson) によると、無関係な検閲については左翼の「政治的正しさ」勢力が非難されているとも主張します。タイム誌は、アメリカのネットワークテレビにおける暴力反対運動が「PC警察の監視の目」のせいで「主流文化が用心深くなり、清潔になり、自らの影を恐れるようになった一因になっている」と述べています。さらに、テレビ番組を標的とした抗議活動や広告主のボイコットは、一般的にテレビにおける暴力、セックス、同性愛の描写に反対する運動をする右翼の宗教団体によって組織されているとも主張します。

 PCは、差別や偏見を避け、公平な言葉や行動を促進することを目的とする社会的態度や言語使用のスタイルです。 差別や偏見の是正や公共の場での言語の改善、職場や学校での安心感の向上など、肯定的な社会的影響が指摘されています。他方、言論の自由との衝突、自己検閲や過敏反応、さらに表層的な対応にとどまることなど、否定的または懸念される社会的影響も論議されています。

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ポリティカル・コレクトネスと用語の言い換え

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ポリティカル・コレクトネス(PC) の2回目の話題です。PCの考え方により、用語が言い換えられる例はいろいろあります。放送用語や差別用語などで見られます。以下は、従来の用語と中立の用語のいくつかの例です。

  • 看護婦・看護士 → 看護師  2002年に保健師助産師看護師法改正で使われ、男性も職業に就いているためです。
  • 障害者 → 障がい者 「害」の字が使われていることに不満がある人の感じる悪い印象を回避するため、2001年に東京都多摩市が最初に採用しました。
  • 助産婦 → 助産師  2002年、保健師助産師看護師法改正されました。ただし現行では資格付与対象は女性に限定されています。
  • スチュワーデス → キャビンアテンダント (CA)  1996年に日本航空が従来の呼称を廃止し、他社も追随しました。世界の航空会社では男性も従事しています。
  • 土人 → 先住民  1997年に北海道旧土人保護法が廃止されました。
  • トルコ風呂 → ソープランド  トルコ人留学生の抗議により1984年に改称されました。しかし実態は?
  • 保健婦 → 保健師  2002年に保健師助産師看護師法が改正され名称が変更されました。
  • 母子健康手帳 → 親子手帳  いまも母子健康手帳という名称は使われています。
  • 保父、保母 → 保育士  1999年に児童福祉法改正されました。男性も職業に就いているためです。
  • 父兄参観 → 保護者参観  「父兄」は放送禁止用語です。
  • 肌色 → うすだいだい、ペールオレンジ  特定の色を「肌色」と呼ぶことは差別的な意識を助長したりする可能性があると指摘されています。
  • 特殊教育 → 特別支援教育  学校教育法の一部改正により、2001年に知的な遅れのない発達障害も含めた対象の拡大します。
Black lives matter.

 PCの考え方は、メディアにも影響を与えてきました。その一つが「放送禁止用語」とか「放送自粛用語」の誕生です。この現象は、法による明文化された放送禁止用語は存在せず、単なる放送事業者の表現の自主規制となっています。放送に用いない、あるいは放送に用いることに一定の制限を設ける判断と規制を行うことは、それぞれの国の歴史的経緯などが反映されています。国家として法令に「放送禁止用語」を定めている国もあれば、まったく自主的なものとしている国もあります。かつて太平洋戦争前・戦争中の日本では、国によって放送禁止用語が作られました。

 メディアでは、差別の糾弾を回避する手段が常にとられています。その一つが差別用語の言い換えや差し替えです。「言語表現」というのは、単語を並べた文章によるものであり、差別的とされる単語のみを言い換え、差し替えたとしても、文章そのものが差別を目的とするものであれば意味がありません。これがいわゆる「言葉狩り」批判の根拠となっているのです。これが「ポリティカル・コレクトネス」にあたるのです。当然なことですが、差別的とされる単語に限らず、多くの人が不快感などを覚える単語の使用は好ましくはありません。

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ポリティカル・コレクトネス

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「ポリティカル・コレクトネス(political correctness: PC)」、略して「ポリコレ」という用語は、歴史的にも社会的にも多面的な背景を持っており、単に「リベラルな言葉や行動」を表すラベルではありません。以下では、その由来や展開、批判、そして現代的な使われ方について詳しく説明します。

 以下、「ポリティカル・コレクトネス」をPCと記述します。PCとは、人種、性別、宗教、障害、性的指向などに関する差別や偏見を避け、すべての人に対して尊重と配慮を持った言葉や態度をとることを意味します。つまり、他人を不快にさせたり、傷つけたりしないように、より中立で配慮のある言い方を心がける社会的姿勢です。

 PCという用語の起源です。20世紀初頭、ソ連邦やマルクス主義運動の内部で、「政治的に正しい(politically correct)」という表現は、党のイデオロギーに忠実であるかを問う意味合いで使われました。つまり、「党にとって正しい態度や発言をしているか」という意味です。皮肉や批判の意味は強くなく、むしろ「正統性」を示すものです。

アメリカでは、1980年代以降、特にアメリカの大学キャンパスなどで、差別や偏見のない表現や態度を推奨する動きが強まり、「ポリティカル・コレクトネス」という言葉がリベラルな価値観と結びついて用いられるようになりました。その例は、人種・性別・性的指向・身体的障害などに配慮した言葉の使用があります。例えば、”fireman” → “firefighter”、”stewardess” → “cabin attendant”、”カメラマン” → “フォトグラファー”という按配です。

 次にPCには、批判や反発が存在します。言論の自由の抑圧であるとして、PCを過度に追求することで、自由な意見表明が難しくなるという懸念です。その例は、冗談や風刺も差別とされ、自己抑制 (self-censorshipが広がるという指摘です。

 さらにPCには偽善的であり形式的な配慮があると指摘されています。実質的な平等や社会改革よりも、表面的な言葉遣いにこだわり過ぎるという批判です。単に「言い換え」をすることで社会問題を解決したかのように見せてしまうのです。さらに、逆差別や過剰な被害者意識を助長しているという批判もあります。PCが行き過ぎると、マジョリティに対する抑圧や皮肉な差別が起きる、という保守派の主張もあります。その例は、「白人男性」、「金髪女性」という属性だけで偏見の対象にされる場合などです。

 PCは、リベラルのラベルなのかという問いがあります。 PCは本来、社会的に弱い立場にある人々への配慮として始まったもので、リベラルな政治哲学である多様性尊重、平等、包摂(diversity, equity, inclusion: DEI)と親和性があります。ただし、現代ではそのリベラル性自体が問題視されたり、アイロニカルに使われることも多いのも事実です。1990年代以降、保守派の政治家や評論家が、PCを「過剰な正義感」や「左派の言葉狩り」として揶揄する文脈で使うようになりました。皮肉や批判的用法として定着しています。たとえば、「それはポリコレのせいで言えないんだよ」という言い回しには、PCの抑圧的側面への不満がこもっています。

 今やPCは単なる言葉遣いの問題を超えて、「文化戦争(culture wars)」の象徴的な争点にもなっています。左派(リベラル)にとっては、PCは社会正義のために必要な倫理的配慮があるとし、社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された政策、または対策などを表すことだと主張します。他方右派(保守)にとっては、PCは自由な議論を妨げる魔女狩りのような検閲文化の一部であるというのです。現代におけるこの言葉の議論は、学術界や教育界におけるリベラルな偏見を前提とした保守派の批判に端を発しています。

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