森有正の「遥かなノートル・ダム」

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 私がかつて一度会ったことのある哲学者が森有正です。呼び捨てにするのは少々ためらいますが、彼は哲学者というよりもフランス文学者といったほうが適当かと思われます。彼は、明治時代の政治家で初代文部大臣となった森有礼の孫で、東京帝国大学文学部哲学科で卒論を『パスカル研究』として発表します。やがて1948年東京大学文学部仏文科助教授に就任します。第二次世界大戦後、始まった海外留学の第一陣として1950年フランスに留学し、デカルト(Rene Descartes)やパスカル(Blaise Pascal)を研究し、そのままパリに留まります。東京大学を退職しパリ大学東洋言語学校で日本語や日本文化を教えていきます。

 私が森有正に会ったのは、1965年6月頃の札幌ユースセンター教会です。そこで働いていたとき、森が教会に入ってきて名刺を示し「オルガンを弾かせて欲しい」というのです。教会にはアメリカのルーテル教会青年リーグから寄贈された約400本のパイプのオルガンが設置されて礼拝やコンサートで使われていました。私はそのとき、彼が学者でオルガン愛好家であることを知りませんでした。後に「遙かなノートル・ダム」に出会ったとき、彼の深い思索や文明批評に触れて、その学識に接することになります。

森 有正

 森はパリでの長い生活で、その間数々の随想や紀行などを著します。人々の息づかいが伝わるような濃密な文体で知られています。読みこなすのは容易ではありません。晩年は哲学的なエッセイを多数執筆して没します。森有正選集全14巻の第4巻が「遙かなノートル・ダム」です。彼はフランスの教育制度や内容にも深い関心を示します。著者の経験と思索の中には、フランスの教育に触れる箇所があります。

 「フランスの教育の要点は、知識の集積と発想機構の整備の二つである。知識の集積とは記憶が主要な役割を果たす。それは実に徹底していて、中等教育の歴史科をとってみると、先史時代から現代まで第六学級から卒業までの七年間に膨大な量を注入する。知識は内容を省略せず、各時代の主要問題、政治、外交、経済、社会、文化を中心に、しかも頻繁なコントロールや宿題、さらに作文によって生徒自身の表現能力との関連において記憶されるようになっている。日本の中学や高校の教科書の五倍くらいの量である。」

 「フランスにおいては、自国の言葉の学習に大きい努力が払われている。小学校に入る6歳くらいから、大学に入る18歳くらいまで行われるバカロレア(Baccalaureate)という国家試験まで、12年間にわたり緻密に行われる。その目的は単に本を読むことを学ぶだけでなく、作文すなわち表現力を涵養するために行われる。漠然と感想を綴ることではなく、読解、文法、語彙、読み方にわたって低学年から教育が行われ、その定義と正しい用法が作文によって試されるのである。文法にしても、しかじかの規則を覚えることではなく、その規則の適用である短い文章を書くことが無数に練習される。読本の読解ももちろん行われる。学年が進むと、文法的分析に論理的文体論的分析が加わる。そして作文はいつも全体を総括的にコントロールするものとして、中心的位置をしめている。」

 このようにフランス教育の中心課題が知識の組織的蓄積であって、そこから自分の発想を磨くという眼目を忘れてはならないと説きます。それは単なる知識の詰め込みではないということです。

 森は、人間の中心課題として経験と思考、伝統と発想、そして言葉の重みを提起します。日本人は英語の単語や語句をたくさん知り、難しい本を読むことができても、書くとなると正しい英語を一行も綴れないことを話題とします。それは、自分の中の知識に対する受動的な面と能動的な面との均衡の問題であると指摘します。たくさんのことを覚えても、記憶してもそれが自分の中にそのまま停止しているから文章を綴れないのだ、といういうのです。単なる作文の練習をしてもどうなるものではなさそうです。英語でもフランス語でも本当に正しい語学を身につけるためには、その国の人の間に入って経験を積むほかはないと断言するのです。

森有正選集

 言葉には、それぞれが本当の言葉となるための不可欠な条件があるといいます。それはその条件に対応する「経験」であるというのです。経験とは、事柄と自己との間の抵抗の歴史であるというのです。福祉を論ずるにせよ、平和に論ずるにせよ、その根底となる経験がどれだけ苦渋に充ちたものでなければならないかを想起することです。その意味で経験とは体験とは似てもつかないものであると主張します。体験主義は一種の安易な主観主義に陥りやすいと警告するのです。

 「人間は他人がなしとげた結果から出発することはできない。照応があるだけである。これは文化、思想に関してもあてはまる。たしかに先人の築いたその上に築き続けるということは当然である。しかし、その時、その継続の内容は、ただ先人の達したところを、その外面的成果にひかれて、そのまま受けとるということではない。そういうことはできもしないし、できたようにみえたら必ず虚偽である。」

 「経験ということは、何かを学んでそれを知り、それを自分のものとする、というのと全く違って、自分の中に、意識的にではなく、見える、あるいは見えないものを機縁として、なにかがすでに生れてきていて、自分と分かち難く成長し、意識的にはあとから それに気がつくようなことであり、自分というものを本当に定義するのは実はこの経験なのだ。」というのが森が強調したいことでもあります。

「変化と流動とが自分の内外で激しかったこの十五年の間に、僕のいろいろ学んだことの一つは、経験というものの重みであった。さらに立ち入って言うと感覚から直接生れてくる経験の、自分にとっての、置き換え難い重み、ということである。」このように経験という意味を深く追求することによって、真理であると思われることを一度真剣に、徹底的に疑う勇気が生まれるというのです。

オルガン演奏の森有正

 この本に「思索の源泉としての音楽」という章があります。森はオルガン演奏をこよなく愛した人です。特にバッハ(Johann Sebastian Bach)の音楽やグレゴリアン聖歌(Gregorian Chant)に心酔していました。こうした音楽の本質は、人間感情についての伝統的な言葉を、歓喜、悲哀、憐憫、恐怖、憤怒、その他を、集団あるいは個人において究極的に定義するものだとします。人間は誰しも生きることを通して自分の中に「経験」が形成されると森はいいます。自己の働きと仕事とによって自分自身のもとして定義される、それが経験だというのです。この仕事は、あらゆる分野にわたって実現されるもので、文学、造形芸術などとともに音楽もその表れだといいます。

 この著作は森有正の人となり、生き方、フランス文化や日本文化に対するに関する思索や洞察、さらには音楽の意義に至るまで、その言葉や音楽の定義力の強烈な純粋さのようなものが織りなすエッセイとなっています。私の考え方の一つの道しるべのようなものとなった、かけがえのない一冊です。

参考資料
『バビロンの流れのほとりにて』 (講談社) 1968年
『遥かなノートル・ダム』(筑摩書房) 1967年
『経験と思想』(岩波書店) 1977年

(投稿日時 2024年8月18日)  成田 滋

オルテガの「大衆の反逆」

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はじめに

 インターネットやSNSの隆盛で、歩きながらも自転車に乗りながらも絶えずスマホを見つめる多くの現代人がいます。そうした人々の選挙行動が今回の都知事選挙で話題となりました。SNSを駆使しすっとんきょうな政見放送で多くの若者から支援を受けた候補者、学歴詐称の疑いがあり公務と称して選挙運動をした候補者、離党しておきながら既成政党の固定した支持者をあてにした候補者、さらには掲示板ポスターの乱雑さ、候補者の名前を間違えると無効になる、という誤った報道が飛び交いました。本来ならば、選挙公約や争点が一体なになのかを吟味して投票すべきという常識が通じないような、まさに意外性に富むようなかまびすしい選挙でありました。

 果たしてSNSでつながった人々は自主的に判断し行動し、選挙に参加したのでしょうか。こうした匿名の集団は通常「大衆」と呼ばれます。そんな大衆が示す行動の特徴や問題を今から一世紀近く前に、鋭い洞察をもって描き大衆社会論の嚆矢となった一冊の本があります。スペインの政治学者で哲学者でもあるオルテガ・イ・ガセット(Jose Ortega y Gasset)が著した「大衆の反逆」(La rebelion de las masas)です。大衆社会論とは、特に産業革命以降の近代社会において、中間層としての大衆が社会にもたらした影響の大きさに関する社会学的論考といわれます。

ガセット オルテガ 

大衆とは

 社会のいたるところに存在する大衆は「他人と同じことを苦痛に思うどころか快感に感じる」とオルテガは言います。急激な産業化や大量消費社会の波に洗われ、人々は自らのコミュニティや足場となる場所を見失っているとも主張します。その結果、もっぱら自分の利害や好み、欲望だけをめぐって思考・行動をし始めるというのです。20世紀にはいり、自分の行動になんら責任を負わず、自らの欲望や権利のみを主張することを特徴とする「大衆」が誕生します。圧倒的な多数を占め始めた彼らが、現代では社会の中心へと躍り出て支配権をふるうようになったとオルテガは分析し、このままでは私たちの文明の衰退は避けられないと警告します。

 大衆は「みんなと同じ」だと感じることに、苦痛を覚えないどころか、それを快楽として生きている存在だとオルテガは分析するのです。彼らは、急激な産業化や大量消費社会の波に洗われ、自らのコミュニティや足場となる場所を見失い、根無し草のように浮遊を続け、他者の動向のみに細心の注意を払わずにはいられないのです。大衆は、世界の複雑さや困難さに耐えられず、「みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険性にさらされ、差異や秀抜さは同質化の波に飲み込まれていく」というのです。こうした現象が高じて「一つの同質な大衆が公権力を牛耳り、反対党を押しつぶし、絶滅させていくところまでやってくる」のです。

大衆の反逆


リベラリズムの台頭と頽廃

 オルテガは、こうした大衆化に抗して、自らに課せられた制約を積極的に引き受け、その中で存分に能力を発揮することを旨とする自由主義:リベラリズム(Liberalism)をとりあげます。そして、「多数派が少数派を認め、その声に注意深く耳を傾ける寛容性」や「人間の不完全性を熟知し、個人の理性を超えた伝統や良識を座標軸にすえる保守思想」を、大衆社会における民主主義の劣化を食い止める処方箋として提示します。

 彼は、歴史的な所産である自由主義の本質は、大衆化に抗して野放図に自由だけを追求するものではない、そこには「異なる他者への寛容」が含意されているとします。多数派が少数派を認め、その声に注意深く耳を傾けること、「敵とともに共存する決意」にこそリベラリズムの本質があり、その意志こそが歴史を背負った人間の美しさだというのです。そして、自らに課せられた制約を積極的に引き受け、その中で存分に能力を発揮することこそが自由の本質だと主張します。

 彼によれば民主主義の劣化は「すべての過去よりも現在が優れているといううぬぼれ」から始まるといいます。過去や伝統から切り離された民主主義は、人々の欲望のみを暴走させる危険があると警告します。オルテガは、現在の社会や秩序が、先人たちの長い年月をかけた営為の上に成り立っていることに気づくべきだともいいます。数知れぬ無名の死者たちが時に命を懸けて獲得し守ってきた諸権利と死者たちの試行錯誤と経験知こそが、今を生きる国民を支え縛っており、いわば民主主義は死者たちとの協同作業によってこそ再生されるというのです。しかし、19世紀の支配的思想としてのリベラリズムが頽廃していくことを正面から問題とするのです。

保守思想

 オルテガは現代人が人間の理性を過信しすぎてきたといいます。合理的に社会を設計し構築していけば、世界はどんどん進歩してやがてユートピアを実現できるという楽観主義が蔓延しているというのです。しかし、どんなに優れた人でも、エゴイズムや嫉妬からは自由になることはできません。人間は知的にも倫理的にも不完全で、過ちや誤謬を免れることはできないのです。こうした人間の不完全性を強調し、個人の理性を超えた伝統や良識の中に座標軸を求めるのが「保守思想」です。

 オルテガが唱えるこの保守思想とは何かです。「自らとは異なる意見や少数派の意見に丁寧に耳を傾け、粘り強く議論を積み重ねる」「自らの能力を過信することなく、歴史の叡知を常に参照する」「短期的な目先の利益だけのために物事を強引に進めない」「敵/味方といった安易なレッテル貼りに組しない『懐疑する精神』を大切にする」「大切なものを守っていくために『永遠の微調整』を行っていく」。このようにオルテガは、世界中にある危機に瀕した民主主義を再生するための重要な示唆を与えています。

「社会の行く末を左右するような決定が、丁寧に議論されないまま、いつの間にか決まってしまっている」「大きな不祥事が生じても誰も責任をとろうとしない」「それどころか不都合な事実については誰もが口を閉ざし、事実が隠蔽されてしまう。」オルテガは現代の日本の政界で起こっている出来事を予見していたようです。

「熱狂を疑え」

 オルテガは「本物の保守」と「偽物の保守」を見極めなければならないと主張します。そのためには、「熱狂を疑え」という姿勢を肝に銘じなければなりません。大衆とは、自分自身に特殊な価値を認めず、自分を「すべての人」と同じだと信じ、それに喜びを見出すあらゆる人間のことです。大衆は非凡なもの、特殊な才能を持ったものを排除しようとします。自己の願望や理想が満足してしまえば、もはやそれ以上は何も望まなくなり、過去への敬意も未来への展望も失ってしまうのです。オルテガ「大衆の反逆」で取り上げようと考えたのは、上述のような危機感の中で、次のような言葉に示されています。「敵とともに生きる! 反対者とともに統治する!」「敵とともに生きる! 敵とともに統治する!」この言葉に込められたオルテガの洞察は、「保守思想」の根幹ともいうべき思想です。

 大衆の時代である現代、人々は自分と異なる思考をもつ人間を殲滅しようとしているようです。自分と同じような考え方をする人間だけによる統治が良い統治だと思い込んでいます。それは違う、とオルテガは言うのです。自分と真っ向から対立する人間をこそ大切にし、そういう人間とも議論を重ねることが重要なのだという考えです。「組織のために有益な批判を行った人をも徹底的に冷遇する」「反対派の意見には一切耳を傾けず、鼻で笑うような対応をする」「多数派という立場にあぐらをかいて、丁寧な議論をすっ飛ばし、数の論理だけで強引に物事を進めていく」のは、独裁に近い有体だというのです。

 国家を国家たらしめているのは、理想を実現しようとする意志そのものであり、不断の努力なしに国家は存在しえないことを大衆は忘れているのです。「ヨーロッパ人」は新たなプロジェクトとして、ヨーロッパをひとつの国民国家とするべく取り組むべきなのです。大衆がついに社会的権力の座についたことが今日のヨーロッパ社会において、最も重要な事実となりました。しかし、残念なことに大衆というのは、自分自身を指導することもできなければ、もちろん社会を支配統治することもできないのが現状です。ヨーロッパが大衆化したということは、その民族や文化が危機に直面していることを表しています。かつて大衆は、社会という舞台における背景的な存在でした。だが今や舞台の前面に躍り出てきていますが、舞台に特定の主役はいないのが現状なのです。

平均人としての大衆

 大衆とは、すなわち「平均人」のことで、これは数の多寡に限らないのです。大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めず、自分は「すべての人」と同じだと信じ、それに喜びを見出すすべての人間を指します。逆に大衆ではない者とは、たとえ自らの能力に不満を覚えていたとしても、常に多くを自らに求める者です。つまり人間というのは、次の2つに分けられます。自分の人生に最大の欲求を課すタイプと、最小の欲求を課すタイプです。優れた少数者は前者、大衆は後者に当たるのです。彼らを分けるのは、生まれの出自ではなく。その資質や精神性にあるのです。

 大衆は今や社会の主役となり、かつては少数者のみのものだった施設を占領し、楽しみを享受しています。そのこと自体はかまわないとしても問題は、大衆が享楽の面だけではなく、政治の面にも進出してきていることです。近年の政治的変革とは、すなわち大衆の政治権力化という現象です。かつてデモクラシーは自由主義と法を強く重んじ、大衆はその運営を専門家たちに一任していました。ですが今の大衆は、物理的な圧力をもってして、自分の希望と好みを社会に押し付けようとしているという批判です。

 こうした変化は政治だけでなく、その他の知的な分野でも起こっています。今日の大衆が論文を読むのは、そこから何かを学ぼうとするからではなく、自分の持っている平俗な知識と一致しない場合にその論文を断罪するためなのです。しかも始末が悪いことに、今日の大衆は、おのれが大衆の一人であることを承知しつつ、だからこそ大衆であることの権利を高らかにうたい、いたるところでそれを貫こうとしています。大衆は今、いっさいの非凡なるもの、特殊な才能を持ったものを退けようとしています。彼らと違う考えのものは、社会から締め出される恐れすらあるのが、現代の不安な事実なのです。

大衆の反逆

 19世紀の文明は、「大衆」人間が過剰の世界に安住することを可能にする文明でありました。彼らは、そこでありあまる手段、すばらしい道具、卓効ある薬、豊かな便宜、快適な権利に取り囲まれて、そこの底辺にひそむ苦悩はもちろん、それらを発明し、それらを将来に保証する仕事がどれほど困難であるかにも目をつむってきました。

「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質化」された「大衆」の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだというのです。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからなのです。

 20世紀にはいり、圧倒的な多数を占め始めた大衆は、社会の中心へと躍り出て支配権をふるうようになったとオルテガは分析します。そして、このままでは私たちの文明の衰退は避けられないと警告します。20世紀のヨーロッパの思想的現状は、かつて被指導者であった「大衆」人間の大群が、世界を支配する決心をし、指導者になりつつあるという傾向です。「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ、無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。これが大衆の反逆という現象です。

(投稿日時 2024年8月16日)    成田 滋

事例研究は価値の低い研究なのか

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 なんらかの研究や教育に携わる人々は、日常のさまざまな分野、例えば子どもの発達や教育の営みを描き、それを特定の方法によって成果をまとめ発表しています。そのとき、どのようにして多数のエピソードやデータを集め、それをいかに分析して結論を導いたかを説明します。

研究論文:原著と事例報告

 通常の場合、論文は研究の目的、対象、方法、結果などを順序立てて読者に分かりやすい説明するのが一般的です。こうした方法は、統計手法を用いて、ある仮説を検証し一般化とか普遍化を求めようとします。このような研究の枠組みでは、多数のサンプルより集められたデータは、複数の観察者による観察結果の一致率などの指標によって信頼性が保証されるといわれます。こうした手法は通常、行動科学という分野などで使われる定量的研究とか仮説検証的研究といわれます。統計学の知識を活用することによって、見えないものが見え、理解しにくいことが理解できるようになるのです。

How to write research papers?

 事実、多くの教育学や心理学関連の学会誌は、仮説検証の実証的研究を「原著」(Original article)として扱っています。ただ、人の心を解明しようとするはずなのに、統計の手法にこだわったり誤用したりして、人の特徴や心の状態が見えてこない研究もあるのは否めません。数量化されれば、実証的であるとか、数字でデータ化されたものが客観的であるとか真実であると思いこむのは危険なことです。

 他方で、事例研究(Case study)とか症例研究といった一つの事例をいくつかのエピソードによって提示し説明する方法があります。事例報告とも呼ばれ、それぞれの症例の特徴を詳細に記述し、一般的な事実になるための仮説を提唱し、特別な事例の発表を通じて一般化しきれない個別の事例に光を当てるという研究です。事例からの特徴的な事柄などをエピソードとして記述するのは、それを数値化することが難しいがゆえに、「定性的研究」とか「質的研究」とも呼ばれます。「グラウンデッド・セオリー・アプローチ」(Grounded Theory Approach)とも呼ばれます。

 グラウンデッド・セオリーでは、インタビューや観察などを行い、得られた結果をまず文章化し、特徴的な単語などをコード化しデータを作ることです。その上で、コードを分類し分析するのです。この定性的研究は、データを収集した後は各自が自分で考え、印象批評をするのですが、具体的な分析手法はありません。

研究論文の読み方

 定性的研究の定性とは定量と真逆の意味があり、物事が数値化できない要素のことで、その部分に着目し、特徴を分析し、それが読み手に「なるほど」と「了解される」ことを目指すのです。了解されるとは、一般性とか公共性ということであり、普遍性とは異なります。定性的研究は、これまで一般化や普遍化が目指されていない以上、単なる一事例の提示にすぎない、と低い評価しか与えられないままに推移してきた経緯があります。

事実、多くの心理学関連の学会誌は、仮説検証の実証的研究を「原著」として扱い、事例研究を掲載しないままできたか、掲載する場合でも実証的研究より一段低い研究とみなし、「事例報告」(Case report)の名称で学会誌の末尾に掲載するという扱いをしてきました。行動科学における数量的、定量的な実証的な研究においてはもちろん、臨床研究においてさえ、事例の価値は低く見積もられてきました。なぜなら、一つの事例は、個別の指導事例の域を出ず、そこから一般化することが難しい、従って価値が低いという暗黙の理解があったからです。

事例報告の信頼性

 エピソード記述に代表される質的研究の方法論には、仮説検証の実証的研究に対応するような信頼性があるかどうかが問われています。単一事例を扱う観察では、そこで起こる現象の再現が難しいために、仮説検証と同じ手続きを使うことはできないのです。ビデオ録画を通して行動のエピソードが測定できるのではないか、という反証があるかもしれませんが、測定者が一人である場合、観察者が記述の主体となり記録そのものの信頼性が問われるのはやむを得ません。臨床心理学や精神医学系の学会誌も事例研究が中心に組まれていますが、その事例の扱い方は事例そのものに密着して、事例に語らしめる、というように事例そのものに価値があるという扱いをするといわれます。

質の高い論文とは


研究論文の分類

 原著論文は一般的な事実を導き出すことを目指し方法の妥当性,信頼性が問われます。ですが原著論文の定義は、大学や研究機関、文献情報サイトによって異なっていて、原著論文の定義は一つではありません。例えば、日本看護研究学会のサイトによりますと「学術上および技術上価値ある新しい研究成果で、原著論文ほどまとまった形ではないが、早く発表する価値のある論文も原著である」としています。

 医学中央雑誌刊行会によれば、症例報告は原著論文とするとしています。新規性・有用性・客観性、独創性のあるもので、講演または会議録でも、原著的内容、形式を有するものも原書論文としています。

 日本看護研究学会は、研究論文を「実践報告」と「実践研究」に分類し、前者を子ども等への働きかけとその結果をまとめたものとし、後者を子ども等への働きかけとその結果から、相関関係、因果関係を読み解き、新たな事実や事象、さらに問題点の提起や方法の提案などが提示されたものと規定しています。研究が独創的であり、新しい知見や理解が論理的に示されているものが研究論文というのです。

 日本特殊教育学会の機関誌では、仮説検証的な実証研究を原著とし、事例研究は原著より一段低い研究とみなし、学会誌の末尾に掲載しています。日本心理学会は、原著論文を問題提起と実験,調査,事例などに基づく研究成果,理論的考察と明確な結論をそなえた研究とし、掲載は10ページ以内としています。他方、研究報告は、すでに公刊された研究成果に対する追加,吟味,新事実の発見,興味ある観察,少数の事例についての報告,速報性を重視した報告,萌芽的発想に立つ報告とし、6ページ以内にまとめることを要求しています。このように論文作成に際して、ページを限定すること自体に論文に対する差別があると言わざるをえません。

 大学などの研究機関の教員公募にあたっては、審査の対象となるレジュメの中で論文数や刊行図書数がカウントされます。その際、原著数が多い者ほど有利になります。事例研究や研究報告は、原書と比べて質的な上下関係があるわけではありませんが、選考にあたっては一段低く評価されるのが現実なのです。特に教育学や心理学関連の論文の扱いは残念ながらそうした現実があります。

(投稿日時 2024年8月11日)   成田 滋

ボンヘッファーの「抵抗と信従」

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 ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)の「抵抗と信従」(Widerstand und Ergebung: Resistance and Surrender)という著作を紹介します。ボンヘッファーは、ドイツ古プロイセン合同福音主義教会(Die Evangelische Kirche der altpreußischen Union)の、ルター派の牧師です。20世紀を代表するキリスト教神学者の一人として知られ、反ナチ主義者でもありました。第二次世界大戦中にヴァルキューレ作戦(Operation Walkure)と呼ばれたヒトラー暗殺計画に加担し、別件で逮捕された後、刑務所内で著述を続けます。その後、暗殺計画は挫折し、ドイツ降伏直前の1945年4月9日に強制収容所で処刑されます。

Dietrich Bonhoeffer

 1933年7月には、ユダヤ人の公職からの追放を目的とした「職業官吏再建法」が制定されます。これは「非アーリア人種」や「政治的に信用のできない者」を公務員から追放することによって公務員数を削減する趣旨の法律です。教会にもいわゆる「アーリア条項」 (Arierparagraph)が適用されるようになります。これはユダヤ人また、ユダヤ人以外の「非アーリア人」を、組織や職業、その他の公共生活の側面から排除するために使われた最初の法制度です。アーリア(Aryan)という言葉は、中立的な概念を表す用語として生まれたのですが、思想的、または悪意のある目的のために適用され、操作されて過激な意味を持つようになります。

 その後、ドイツ的キリスト者 (Deutschen Christen) と呼ばれる親ナチス勢力の追随者がドイツのプロテスタント教会で支配的になりますが、こうした動きに対抗し、9月21日、ボンヘッファーはマルティン・ニーメラー(Martin Niemöller)らと牧師緊急同盟を結成します。これが後の告白教会(Bekennende Kirche)の結成に繋がるのです。ここから告白教会の牧師は、ナチスに対する反対運動を開始します。この牧師緊急同盟にはドイツの福音主義教会牧師の約3分の1が加入します。しかし、アーリア条項に反対した当時の教会指導者たちとボンヘッファーが全く同一の考えを持っていたわけではないといわれます。教会指導者らにとってアーリア条項に反対すべき主要な理由は、教会の自由が侵害されるという点でありました。ボンヘッファーは、ナチスの福音派の牧師らの姿勢について、その問題の重大性を深く認識し彼らと袂を分かっていきます。

堅信礼を受ける少年らと

 1933年以来、告白教会の路線にそって教会的な抵抗を続けてきたボンヘッファーは、1940年頃から国防予備軍を中心とする政治的抵抗運動に身を投じます。彼がこの抵抗運動の中で演じた役割は3つあります。第一は牧師として抵抗運動の精神的な支柱となることでした。第二は告白教会の若い世代の教会的で神学的な指導者として、ヒトラー打倒の陰謀計画が成功した暁に平和的で民主的なドイツにおいて、奉仕すべき教会の再建を検討することでありました。第三は1930年頃から抱いていたエキュメニカル(Ecumenical)な交わりを通して、特に抵抗派が望んでいたイギリスとの政界との繋がりをつけ、ヒトラー打倒とその後に来たるべきドイツの再建のために不可欠とされていたイギリスとの和平への保証、及びその条件の確認と、抵抗派への理解と支持を求める働きという任務を負っていたからでした。

 しかし、ボンヘッファーがヒトラー打倒について協力を仰いでいたミュンヘンの実業家シュミットフーバー(Schmidhuber)が秘密国家警察(ゲシュタポ)に逮捕されると、シュミットフーバーはヒトラー打倒計画の情報を明かすのです。こうして1943年4月にボンヘッファーもゲシュタポに逮捕されるのです。本書「抵抗と信従」には多くの手紙が網羅されています。そのほとんどが刑務所内で書かれたものです。すべて、正規の検問を経て書かれた両親宛の手紙は、彼の獄中生活の比較的明るい面をつたえています。「運命にたいする迅速で自覚的かつ内面的な和解」とか「ある無自覚的で自然な馴れ」といった自省的な思索も感じられます。獄中にありながらも、旺盛な読書力によって神学的な思索や聖書研究に没頭し、神学、哲学、歴史、文学、自然科学に渡る書物を読破していきます。詩をや音楽を愛し、自由な生きた人間としてのボンヘッファーの姿があります。

ボンヘッファーが牧会したシオン教会

 獄中でリューマチや腹痛で苦み、さらには爆撃の恐怖、別離と孤独、釈放への憧れなどが混ざり合いながらも、そこにユーモアによって苦悩を克服したかのような書簡が綴られています。「十年後」という書簡ですが、これはヒトラーが帝国宰相の地位につき、ドイツの全体主義運動に乗り出してから十年後に書いたものです。この十年間のヒトラー支配下の自己を含めて、ドイツ人の精神的な状況を省察しています。
 「悪の一大仮面舞踏会が、一切の観念を倫理的観念を支離滅裂な混乱に陥れた」
 「市民的勇気の欠如を嘆く訴えの背後に、一体何が潜んでいるのだろうか。近年われわれは多大な勇気や犠牲的行為をみた。しかし、市民的行為というものはほとんどどこにも見られなかった。」
 「ドイツ人は今日始めて自由な責任とは何であるかということを発見し始めている。」
 「愚鈍であるが、知的には非凡なほど活動的な人間がおり、愚鈍とはおそ別ものでありながら、知的には全く愚鈍な人間がいる」
 
 ナチスの全体主義思想下による国民の影響について、ボンヘッファーは、良心は葛藤を避けるために自律を放棄して他律に陥り、それが大衆のヒトラー崇拝となったというのです。ゲシュタポの探索を目を逃れて後に発見された少数の友人あての書簡で、以上のようにドイツにおける時代の精神状況をとらえ、抵抗運動を分析していることに着目すべきと考えられます。

 次ぎに「獄中報告」です。これはベルリン市内にあった陸軍刑務所で書かれエーベルハルト・ベートゲ(Eberhard Bethge)という友人に送られたものです。獄中の待遇一般や食事、作業、空襲警報、個別的なことなどです。特に留置者の空襲の際の叫声や怒号は経験した者しかわからないだろうと記しています。こうした手紙はすべて事前に当局によって検閲されていました。

 「両親への手紙」は、刑務所内から正規の検問とルートを経て、ほとんど10日に一度の割合でベルリンに住む両親に送られてものです。拘留生活のこと、日課、誕生日のお祝いの言葉、姪の結婚への祝い、獄中からの結婚式のための説教、などです。「あなた方二人は、これまでの生活を他に比べようもない感謝を持って振り返るべき理由を十分に持っているに違いありません。神はあなた方の結婚を結びつけて、離し給うことはありません。」

ウエストミンスター寺院の彫像 右端がボンヘッファー

 「ある友人への手紙」は親友であったベートゲへの書簡です。1940年以来、彼が一切の表現の自由を当局から剥奪されて以降は、告白教会のための、また抵抗運動のための多忙な生活を割いて原稿を書き続けます。昼間は、倫理学についての書物を書いたり、告白教会の常議委員会のための神学的な原稿を書き、夜は政治活動に携わっていたようです。こうした執筆は逮捕と投獄によって中断されます。

 本著の最後の章である「生命の微」は、神への感謝の祈りに満ちています。そのほんの一部を紹介します。

  神よ、私はあなたの永遠へと身を沈めながら
  私の民が自由の中に歩みいるのを見る。
  罪を罰し、喜んでこれを赦し給う神よ
  私はこの民を愛した。
  この民の恥と重荷とを負い、
  その救いを見たことにまさる歓びはない。
  私を支え、私を捕らえ給え!
  私の杖は倒れて地に落ちた。
  信実なる神よ、私の墓を備え給え。

 ナチスドイツの敗北直前に刑死するまで、数年間の過酷な獄中生活から紡ぎ出された著作で、戦後のキリスト教神学に絶大な影響を与えたのがディートリヒ・ボンヘッファーです。彼の死は、まるでキリストを木の十字架の上にかけたローマの政治の継続の姿です。それでも「キリストのように、人間は他者のために存在している」と記述した後で「教会が他者のためにここに存在している場合ならば、教会は教会に他ならない存在である」とも主張し、キリスト教会がナチス政権に賛同し、自己存続のためだけに活動することに警告するのです。まるで、

参考資料
「抵抗と信従」ボンヘッファー選集(全9巻) 倉松功・森平太訳 新教出版社、1962年
「告白教会と世界教会」 ボンヘッファー選集(全9巻) 森野善右衛門訳 新教出版社、1962年
「服従と抵抗への道」森平太 新教出版社、2004年
                            
(投稿日時 2024年8月3日) 成田 滋

ハンナ・アーレントのイェルサレムのアイヒマン

注目

はじめに
 本著は、アドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)を訴追したイェルサレムの法廷を傍聴した哲学者ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)が「ニューヨーカー誌」(New Yorker)に投稿したものです。副題として「悪の陳腐さについての報告」が添えられています。「人間の皮をかぶった悪魔」 「自覚なき殺戮者」 「ナチスの歯車として与えられた命令を従順にこなし、ユダヤ人大虐殺に加担した男」などと呼ばれたのが元ナチス親衛隊員だったアイヒマンです。

逃亡と逮捕
 戦後、アイヒマンは主にナチス幹部の逃亡支援のために結成された「オデッサ」(ODESSA)などの組織の助力や、元ドイツ軍人や元ナチス党員の戦犯容疑者の逃亡に力を貸していたローマの修道士の助力を得て、国際赤十字委員会から難民としての渡航証の発給を受けます。そして1950年7月ペロン(Juan Peron)政権の下、元ナチス党員などの主な逃亡先となっていたアルゼンチン(Argentine)のブエノスアイレス(Buenos Aires)にやってくるのです。

Jerusalem

 イスラエル諜報特務庁(モサド:Mossad) の工作員が1960年5月11日にブエノスアイレスでアイヒマンを拉致し、5月21日イスラエルへ連行します。そしてイェルサレムの法廷は、「アイヒマンがユダヤ人問題の最終的解決」(Holocaust) に関与し、数百万人におよぶ強制収容所への移送に指揮的役割を担ったとして起訴します。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われる裁判が開かれ、同年12月に有罪判決を受け処刑されるのです。

 以上のようなアイヒマン逮捕と裁判劇は、各国から論争を呼びます。アイヒマンの拉致とイスラエルへの移送が発覚すると、アルゼンチン政府はイスラエルに抗議します。アルゼンチンの主権を侵害して強制的に連行された者を裁くことは,国際法に抵触するものであり,裁判所の管轄権を超えるものであるという立場を主張するのです。しかし、イスラエルとアルゼンチンの間には犯罪人引き渡し条約が結ばれていなかったため、国家を介した引き渡しができず、イスラエルは強硬手段によって移送し、起訴したのです。

 いかなる主権国も自国の犯罪者を裁く権利があります。そこでドイツもまたドイツ国籍であったアイヒマンを引き渡すように請求する権利がありました。しかし、ここでもアルゼンチンと同様にドイツとイスラエルの間には犯罪者引き渡し条約がありませんでした。このときのドイツの首相はアデナウアー(Konrad Adenauer)でした。

裁判経過 
 裁判に際してアイヒマン側の弁護士、ロバート・セルヴィアティス(Robert Servatius)らは,次の2つの理由に基づきイェルサレムの裁判所の管轄権を否定する主張をします。すなわち、被告人が犯した犯罪は,イスラエル国境の外において,しかもイスラエルが国家として成立する以前に,イスラエル国民でなかった人々に対して行われたものであったこと、またその犯行はイスラエル外で行われ、これを処罰しようとするイスラエルの法律は国際法に反すると主張します。他方、裁判官は法廷において、イスラエル国家はユダヤ人の国家として創設され承認され、それ故にユダヤ民族に対しなされた犯罪についての裁判権を有することを強調します。

 アイヒマンは、裁判を通して自分は告発されている罪の遂行を幇助および教唆したことだけは認めるのですが、決して自分では犯行そのものを行っていないと一貫して主張していきます。自分は法廷で真実を語ろうとして最善をつくしたが、法廷は自分を理解しなかった、自分は決してユダヤ人を憎む者ではなかったし、人間を殺すことを一度も望まなかったと陳述します。自分の罪は服従のためであり、服従は美徳として讃えられているとも主張します。自分の美徳はナチスの指導者に悪用されされたというのです。自分は支配層には属していなかった、自分は犠牲者なのであり、指導者達のみが罰に値するのだ、自分は皆に言われているような残酷非常の怪物ではない、自分はある誤解の犠牲者なのだ、という主張です。

 アーレントは、裁判を傍聴しながら、アイヒマンは自らの昇進には恐ろしく熱心だったということのほかに、彼にはなんなの動機もなかったと言明します。この熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなく、大体において彼は何が問題なのかをよく心得ており法廷での陳述においてナチス政権の命じた「価値転換」について語っています。彼は愚かではなく、完全な無思想性の持ち主だというのです。これは愚かさとは決して同じではない、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったことが陳腐であり、それのみか滑稽であるというのです。このような現実離反と無思想性は、人間のうちに恐らくは潜んでいる悪の本能に他ならないと指摘します。価値転換とは哲学者ニーチェ(Friedrich Nietzsche)の言葉で、 従来の価値序列を転換することによって、これまで禁止されたり軽蔑されていた価値観の回復をはかるという意味です。ナチスが、 従来の体制の価値観を転換したということです。

Hannah Arendt

裁判の合法性
 ナチズムとは民族を軸に国民を統合しようとする国民主義と、マルクス主義や階級意識を克服して国民を束ねる共同体主義を融合した全体主義的支配思想です。その本質とは、全ての組織を官僚制のもとにおき、人間を官吏に据え行政措置の中の単なる歯車に変えて、非人間化することです。アイヒマンはその中に組み込まれたのだと主張します。

 全てのドイツ系ユダヤ人は、1933年からのヒットラーによる警察権力の組織によってドイツ国民を呑み込み独裁国家としてユダヤ人を賤民としてしまった国家統制の波を非難します。そして、自分も同じ事情のもとでは悪い事をしたかもしれないという反省は寛容の精神をかきたてはするだろうが、今日キリスト教の慈悲を引き合いに出す人々は、この点について奇妙に混乱しているようだと アーレントは指摘します。独立国家であったカトリック教会のバチカン(Vatican)はヒトラー政府の正当性を公式に認知した最初の国となります。さらに、ドイツ福音教会(Evangelische Kirche in Deutschland)の戦後の声明はこう述べています。「わが国民がユダヤ人に対して行った暴行については、我々は不行為と沈黙によって同罪であることを慈悲の神の前で告白する」

 この声明に対してアーレントは、「もしキリスト教徒が悪に報いるに悪をもってしたなら、慈悲の神の前に罪有りとなる、数百万のユダヤ人が何かの罪を犯した罰として殺されたとすれば、教会は慈悲にそむいた罪を犯したことになるだろう。このように教会が自ら告白しているように、単なる暴行についてのみ同罪だとするのであれば、これを裁くべきものはどうしても正義の神だと考えなければならい。」と疑問を呈するのです。

 アイヒマンは、市民社会のほとんどすべての原理を徹底的に否定する独裁国家の行為を実行したにすぎなく、彼の身に起こったことは、今後また誰に起こるか判らないし、文明世界全体がこの問題に直面しているといいます。アイヒマンはいわば身代わりの贖罪者となったというのです。そしてアーレントは、当時のドイツ連邦政府は自分で責任を負うまいとして国際法に背いて、アイヒマンをイェルサレムの法廷に委ねたのだと批判します。

 アーレントは、「アイヒマンは愚かではなかったし、まったく思考していないこと、これは愚かさとは決して同じではない。それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。このことが「陳腐」であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してみてもアイヒマンから悪魔的な、または鬼神に憑かれたような底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、やはりこれは決してありふれたことではない。」と回顧します。

Movie,Hanna Arendt


 アイヒマンが告発されたのは贖罪山羊が必要だったからであり、それも単にドイツ連邦共和国のためにだけでなく、起こったことすべてと、それを起こるのを可能にしたすべてのこと、つまり反ユダヤ人主義と全体主義支配のみならず人類と贖罪のために必要だったのだというのです。アーレントは、そうではなく正義のためにこそ開かれねばならなかったのがこの裁判であると主張します。

 オランダの思想家グロティウス(Hugo Grotius)は、自然法の理念にもとづいた正義の法によって為政者や軍人を規制する必要があると考え、また国家間の紛争にも適用される国際法の必要を説いています。判決では「犯行によって傷つけられた人間の名誉もしくは権威を守り、罰が行われなかったことによってその人間の権威失墜が生じないために、刑罰というものは必要である」というのです。このグロティウスの自然法の理念は、イェルサレム法廷の合法性を支えると同時に、アーレントの正義のためにという主張にも添うものです。

 イェルサレムの法廷が主張したのは、ホロコストは人種差別、追放、大量殺戮(ジェノサイト:genocide)であり、ユダヤ人の身においてなされた人道に対する罪だったことからして、ユダヤ人が犠牲者であったという限りユダヤ人の法廷が裁判を行うことは正当であるとします。しかし、ホロコストにはナチスによって作られた全国組織であるユダヤ人全国連盟やユダヤ人評議会員や長老らがナチスに協力したことが判明しています。こうしてユダヤ人自身が自民族の破壊に協力したことも事実として認めるべきだとアーレントは主張します。それに対して同じユダヤの知識人らは、アーレントはアイヒマンの責任を小さく評価し、ユダヤ人の責任に光をあてようとしているとして厳しく非難します。しかし、アーレントはアイヒマンの罪責を緩和しているのでは決してありませんでした。

おわりに
 ユダヤ人虐殺という罪が人道に対する罪である限り、それを裁くには国際法廷が必要だというのがアーレントの主張なのです。それに呼応するかのように、哲学者カール・ヤスパース(Karl Jaspers) も「ユダヤ人に対する罪は人類に対する罪でもあり、従って判決は全人類を代表する法廷によって下され得る」としてイェルサレムでの裁判の違法性を指摘するのです。圧倒的な組織と統制管理の時代にあって、どのようにして一人の凡庸な市民が想像を絶する罪の実行者になり得たかをアーレントは報告します。そうした平凡な悪人、陳腐な悪の出現がわれわれの時代の特徴的な現象であると警告するのが本著です。

資料
 『全体主義の起原』 みすず書、1972年
 『人間の条件』 中央公論社、1973年
 『精読 アレント全体主義の起源』 講談社、2023年
 『イェルサレムのアイヒマン–悪の陳腐さについての報告』 みずず書房 1994年

ハンナ・アーレントの人間の条件

注目

はじめに

いくつかの政治思想史の著作、例えば「現代政治の思想と状況」という東京大学法学部教授であった丸山眞男の著作を読むと、我が国の政治学や政治思想史には、依然としてマルクス(Karl Marx)主義の影響が強く、今日までマルクス主義が及ぼした思想の展開はきわめて大きいことがわかります。ですがアーレント(Hannah Arendt)の「人間の条件」を読みますと、マルクス主義に対する痛烈な批判が展開されていることがわかります。今日の高度経済成長の社会には、機械に代わられた単純労働の価値が下がり、手仕事や余暇活動といった新たな生活様式が登場しました。効率とか能率によって人生の価値を高めようとする風潮が生まれました。マルクス以後は労働を不当に尊重し、社会問題の解決が人生の目的であるかのような妄想が続いてきました。アーレントはこうした時代の趨勢には対して問題を提起します。

Karl Marx

現代では、労働が仕事や活動に対して圧倒的な優位を保っているとし、労働の優位の政治的表現が社会主義であり、その最も選れた理論家がマルクスでありました。アーレントはこの労働の優位性が現代社会の最大の危機があるとし、マルクスの理論と対決するのです。そして、労働の優位の世界の矛盾と限界を明らかにしていきます。彼女が労働優位の社会として批判の対象としたのは、社会主義社会だけではありません。自由主義社会もまた労働優位と経済重視の社会であり、その点では社会主義社会と全く同じだと主張します。「人間の条件」においてアーレントは自由主義社会と社会主義社会双方を含む現代社会全体を根底的に批判したのです。

Hannah Arendt

労働観

マルクスは言います。「労働と生殖は、繁殖力をもつ同一の生命過程の二つの様式である。人間の活動力のなかで、終わりがなく、生命そのものに従って自動的に進む活動力は労働だけである。」「労働は生命のリズムと密接に結びついている」。現在社会では、機械のリズムは、生命の自然のリズムを著しく拡大し、それを強めるであろう「労働」とは生命維持のためになされる労苦に満ちた無限の営み(activity)となり、それは西欧政治思想の伝統において長らく忌避と軽蔑の対象とされてきました。ところが近代以降には「労働」の地位が急上昇し、むしろ労働こそが人間にとって本質的な営みであると見なされるようになりました。

労働は「自然によって押しつけられた永遠の必要」であり、人間の活動力の中で最も人間的で生産的である一方、マルクスによれば、労働者階級を解放することではなく、むしろ、人間を労働から解放することを課題にしています。つまり、労働が止揚されるときにのみ、「自由の王国」が「必然の王国」に取って代わるというのです。これが彼の革命の思想です。

アーレントは、西欧政治思想の伝統から継承された「労働と政治からの二重の解放」というユートピアを読みとり、このユートピアを強制的に実現しようとする試みが、全体主義支配という否定的に描かれたディストピア(dystopia) をもたらすものであると主張します。このような全体主義への絶えざる危機意識こそがアーレント思想の核心であり、そこに彼女の批判精神が現れていると思われます。

世界の中の日本の状況

時代は下り、20世紀の世界情勢を概観的に見渡してみます。1994年以来、すでに社会主義はソ連と東欧において決定的な後退を経過します。しかし、自由主義もまた全面的に勝利したとはいえない状況にあります。アメリカを始めとする自由主義社会も貧富の格差といった矛盾を抱え、日本を含む多くの自由主義諸国はいまだに明るい展望を持ち得ていません。日本の国内政治状況を振り返ってみます。田中角栄首相の金脈批判からロッキード事件がありました。これらは政界を大きく揺さぶる事件でした。そして今回のパーティ券にともなう裏金事件です。それにも関わらず、自由民主党の揺るぎないような一党優位体制は依然として続いています。

55年体制とは、自由民主党と日本社会党との二党を基軸とする体制です。しかし、その体制は崩壊し、本格的な多党化時代が到来し、保守と革新という伝統的な対立も消滅しています。こうした中にあっって現状の打破のための議論が起こってはいますが、選挙制度とか政治資金規正などの技術論に終始し、現代の政治が直面している危機の本質に目を向けることはありません。アーレントの「人間の条件」という著作は、現代社会を根底的に批判することを通じて現代政治とはなにか、その問題点とはなにかを鋭く抉り出していることです。

政治は利害の調整、特に経済的利害の調整に関わるものとされています。政策の研究が終始され、その内容はほとんどが経済問題とされます。そこに関わるのは職業政治家で、普通の市民が政治に参加する活動はいかにして容易になるかが問われています。しかし、こうした話題は世間はあまり関心がありません。精々選挙をとおして示すだけです。翻ってアーレントは、政治参加を保障し、拡大するという課題は政治の中心おかねばならないと主張し、なによりも市民の政治参加が重大であるかを強調しています。

おわりに

オートメーションに代表される現代の機械生産は、大量消費社会を実現しました。しかし、生命そのものに従って自動的に進む労働には、本来終点がないのですから、消費社会はますます膨張せざるをえないでしょう。この過程に横たわる危険な信号の一つは、経済全体がかなり消費経済になっているということです。物が市場に現れた途端に、今度をそれを急いで貪り食い、投げ捨ててしまわなければならない、いわゆる投げ捨て文化が批判されています。こうした大量消費社会が直面する環境汚染や資源枯渇の問題もまた、労働優位の社会の当然の帰結にほかならないのです。こうした問題を根本的に解決するためには、労働の優位を覆させなければならないというのがアーレントの主張です。

参考資料
 ・現代政治の思想と状況 丸山眞男著 未来社 1962年 
 ・日本政治思想史研究 丸山眞男著 東京大学出版会、1952年
 ・丸山眞男集(全16巻別巻1) 岩波書店 1995~1997年
 ・人間の条件 ハンナ・アーレント著 志水速雄訳 筑摩書房 1999年

(投稿日時 2024年7月30日)

大統領選挙戦「離脱声明」の英語

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 今回のアメリカ大統領ジョセフ・バイデン(Joseph Biden)の選挙戦からの「離脱声明」は、高校生や大学生の英語の勉強に役立つ記事です。そのことを本稿で取り上げます。

 「離脱」という表現にあたる英語の単語はいろいろとあります。離脱とは、終了や撤退、脱落とか撤収、断念とか辞退という言葉に置き換えることもできます。そしてそれに相応しい、いろいろな英単語や文章が浮かびます。そこで、New York TimesやBBC(British Broadcasting Corporation)の報道で「離脱声明」をどのように表現しているかを振り返ってみます。

 「Biden tells staff leaving race was right thing to do.」 この文章では選挙戦から離脱するという意味で「leaving」を使っています。「leaving」という意味は、病気や高齢のために離脱するという中立的な表現であります。やむを得ず離脱するというニュアンスがあります。次のように「end」を使う報道もあります。「Biden ends failing reelection campaign.」ここでの「end」は、どのような理由にせよ、バイデンは選挙戦を辞めたという中立的な表現です。受験で登場する「put an end」も同じような響きがあります。

バイデン大統領とハリス福大統領

 次ぎに「abandon」も使われています。「Biden abandoned his campaign for a second term under intense pressure from fellow Democrat. 」 文字通り選挙戦から離脱したというという報道です。民主党内からの強い圧力により二期目の再選から撤退したのです。側近や民主党員、そして世論から見放されている、という場合は「President Biden has been abandoned by his aides, Democrats, and the public.」となります。

 「撤退」といえば「withdraw」が状況を表現する適当な単語かもしれません。「Biden withdraws from race in presidential earthquake.」大揺れの大統領選挙運動から撤退、という意味で使われています。撤退という単語は戦争状況でも使われます。「It will be two years on the 30th since US troops withdrew from Afghanistanを.」 アメリカ軍がアフガニスタン(Afghanistan)から撤退してこの30日で2年が経過するという表現ですが、「withdraw」がピッタリします。「Will Russian troops soon withdraw from Ukraine?」ロシア軍は間もなくウクライナから撤退するでしょうか?

 「選挙戦から脱落」という表現は「Biden drops out of presidential race and endorses Harris.」という文書に現れています。大統領選挙運動から脱落し、ハリス(Kamala Harris)副大統領を候補者として応援するというのです。「drop out 」という易しい単語はしばしば使われます。退学するとか、不登校になるという場合も使われ、馴染み深い表現ですが、少々耳目を集める表現でもあります。アメリカのメディアは、読者に判りやすい「drop out 」を使いがちです。しかし、BBCには、こうした直截的な表現は見当たりません。

 BBCのヘッドライン・ニュースでは、次のような文章も見られます。「US President Joe Biden standing down from 2024 presidential race, endorses Kamala Harris.」ここでは、「standing down」という熟語ですが、退任するとか退くという意味で、2024年大統領選から撤退、ハリス氏を支持、となっています。

 もう一つのBBCのヘッドラインは次のように報道しています。
「Biden says he quit presidential race to unite party and country.」 「quit」という動詞は現在形も過去形も同じです。「Biden stepped aside as the Democratic candidate for November’s election and endorsed his Vice President Kamala Harris.」 「step aside」も撤退とか退くという表現です。覚えておきたい熟語です。

 7月21日にバイデン大統領は「Fellow Americans」と題する声明を発表し、その中で次のように述べています。「I believe it is in the best interest of my party and the country for me to stand down and to focus solely on fulfilling my duties as President for the remainder of my term.」 自分は退任し、残りの任期中は大統領としての職務を全うすることに専念することが、私の党と国にとって最善の利益であると信じるという、凛とした表現となっています。

バイデン大統領は7月24日に大統領オフィスから選挙戦撤退の理由を国民に伝えます。そして民主党の大統領候補として副大統領のカマラ・ハリスを次のような表現で推薦します。「She’s experienced. She’s tough. She’s capable」 この文章では、並列(parallelism)という修辞法を使い、短い文章によって視聴者に強く印象づけています。

 文章や表現上での単語の選び方や修辞は大切です。メッセージを読む人や聞く人の心に残る動詞を考えるのが要諦なのです。

政党の離合集散と今日の政治状況

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現在、野党と呼ばれる政党が乱立している。これらの党は、積極的な主義で集まったものではなく、反自民党、非自民党とか反立憲民主党、非共産党なものが寄り集まってできた党である。いわば自民党でもない、共産党でもないという消極的な理由から成立するというところに特色がある。もう一つの特色は保守的なインテリの党であることだ。きわめて目先がきき、是々非々を掲げ、先走りする傾向から生まれてくる。

こうした特色と自民党とを対比すれば、自民党は日本の保守勢力の大本山として、どっしりと居座っているのをみるとよくわかる。新しい政党のイデオロギーは動揺し、右にも左にも流れる。この傾向がよい方向に働くと反動性に対峙する政策をだすし、悪い方向に働くとファッシスト的になる。こうしたいわば先物買いとか便乗主義の良い例が憲法改正とか安全保障、エネルギーといった話題である。

新しい野党は日本の保守勢力のなかで時代に敏感な動きをする。その中には保守勢力の最も急進的な傾向の分子もいれば、穏健保守といわれるリベラルな分子もが包摂されている。立憲民主党と国民民主党が合流するとか、しないといったことが話題となっている。両党はもともと、旧民進党の議員を中心に結成された。旧民進党の母体は旧民主党であり、旧民主党は政権を奪取する前は、新党さきがけや、その他、いくつもの細かな政党が一つになってできた政党である。

日本では、過去何度か新党ブームが起こり、党が割れたり、くっついたりを繰り返してきた。1989年、平成になって最初の参議院選挙が行われ、「マドンナ旋風」により、日本社会党が歴史的な勝利を収め、参議院と衆議院で多数党が異なる「ねじれ国会」状態となる。そこから、国会議員による権力を巡っての熾烈な争いが発生し、新党ブームが巻き起こりる。結果的に、自民党と共産党以外すべての政党が連立し、細川護熙が率いる日本新党が政権を握る。しかし、細川内閣・羽田内閣はわずか10ヶ月で下野し、自社さ連立政権に代わる。

政権を失った非自民連立政権は、さらに1994年から「小選挙区比例代表並立制」に対応するために、勢力を結集し、新進党を結成する。しかし、結局は、1997年にいくつもの細かな政党に分裂してしていく。分裂した新進党は、民政党などを経て、民主党の結成につながる。2005年が郵政選挙の年で、この前後は小泉フィーバーで、政権が安定していく。そういう時期は、小さな政党は、生まれず、少し目立った新党としては2005年に郵政民営化に反対する議員によってできた国民新党ぐらいであった。

民主党は2009年に政権を奪取する。その後の3年余りで3人の総理を出し、政権発足当初の「事業仕分け」をやる。当初こそ「日本にも二大政党制が」と期待されたが、2012年の選挙で大敗し下野する。下野した後、民主党は再び党勢を盛り返したいものの、思うように復活できていない。みんなの党からの移籍や、党名の変更、都民ファーストの会、希望の党との連携など、様々な合従連衡がここでも起こる。結果同じような面子が、何度も離合集散を繰り返している。

2015年には日本維新の会が設立され、自公連立政権に対しては、是々非々の立場をとっている。維新の会は、立憲民主党をはじめとするいわゆる野党共闘とは距離を置いている。しかし、維新の会は地域政党の枠を越え、国政でも存在感を見せようとし、公務員制度や二重行政にメスを入れる「身を切る改革」で幅広い支持を得る一方、大阪都構想や万博、IRなどの巨大プロジェクトで混迷を極めている。しかも、政治資金規正法をめぐる与党との慣れないによる内部抗争などが懸念されている。

我が国の政党は長らく一強多弱状態が続いている。それ故に政権に道徳的緊張感がなくなって久しい。裏金問題はその典型である。昨今「立・共」、「維・国」という主要野党の色分けが定着しそうだが、「見果てぬ夢」がいまの野党再編論や二大政党論ではないか。健全な野党がいないと政治というのは正常に機能しないと思われる。今回の都知事選挙では、旧来の喧しい選挙運動に新しいうねりを起こした。それは、野党の共闘とか一本化といた戦術は通用しないということである。それは現在の野党が依然として一部の支持者に依存することへのアンチテーゼだと思われる。20代、30代の年代の投票率が上がったのは、これまで政治に不信を抱いたり、無関心だった若者が投票に参加したからである。

ただし、インターネットやSNSの隆盛で、常に他者の動向に細心の注意を払わずにはいられなくなっている者も大勢いる。本当に自主的に判断し投票したかは問われなければならない。自らに課せられた責任を自覚し、その中で存分に能力を発揮しようとするならば、若い無党派層による「ネオ市民党」とか「新市民党」といった新しい政党の誕生が期待できるかもしれない。この党は、既成政党とは大いに異なるものになることにも期待したい。

(投稿日時 2024年7月22日)    成田 滋

アメリカ共和党全国大会がミルウォーキーで

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現在、米共和党の全国大会がウィスコンシン州の最大都市であるミルウォーキーで開かれています。東部ペンシルベニア州で演説中に狙撃され負傷したD.トランプは予定通り大会に出席して、その存在意義を高めています。注目されていたのは、トランプが誰を副大統領候補として指名するかでした。そして7月15日の党大会初日に、オハイオ州選出の上院議員である39歳のJ.D.バンスを指名しました。

オハイオ州は、製造業などの衰退で「さびついた工業地帯(rust belt)」と呼ばれる地域で白人労働者層が多く、共和党も民主党も大統領選挙戦では、「オハイオは接戦州」として重要視しています。過去の大統領選挙でも両党とも中西部の「労働者と農家」に重点を置く選挙戦を展開してきました。オハイオ州は、産業分布や人種構成が全米平均に近く「アメリカの縮図」として知られ、歴史的には7人の大統領を産んだ州です。

共和党全国大会

オハイオ州は両党の支持率がきっ抗し、選挙の度に勝利者が変動(swing)するので、「スイングステート(Swing State)とも呼ばれています。トランプが2016年に、得票率の差わずか1ポイント未満で勝利した州です。1964年以降は、「オハイオ州で勝利した者が”必ず”大統領になる」というジンクスが出来上がったのです。トランプがオハイオ州選出の上院議員J.D.バンスを指名したのは、合点がいきます。

全国大会が開かれているウィスコンシン州は共和党の発祥の地といわれます。1854年3月に、同州リポンという小さな街のリトルホワイトスクールで、約30人が参加する最初のアメリカ共和党郡大会が開催されたのです。南北戦争の時代のウィスコンシン州は共和党を支持する州でした。ウィスコンシン州は「酪農の地」と呼ばれ、白人農家や酪農家が多く共和党の地盤でした。20世紀前半は上院院議員であったR.ラフォレットらが共和党を支配していましたが、後には民主党となる進歩党を復活させます。爾来、ウィスコンシンは共和党と民主党がしのぎを削る州の一つとなっています。

ラフォレットの貢献は、開かれた政府、最低保障賃金、党派に拠らない選挙、開かれた予備選挙のしくみ、上院議員の直接選挙、女性参政権および進歩的税制度などをウィスコンシンで広め、その思想は「Wisconsin Ideas」と呼ばれ、ウィスコンシン大学の発展にも影響を及ぼします。そして、1950年代には州選出のJ.マッカーシー上院議員による悪名高き「マッカーシズム」(McCarthyism)と呼ばれた反共産主義運動が起こります。

近年の大統領選挙におけるウィスコンシン州は接戦が続いています。2008年の場合はB.オバマが56%の支持を得て勝利しました。2012年もオバマが52%を獲得し、勝利を収めます。2016年には一転して、トランプ、H.クリントンともにウィスコンシンで勝利することが大統領選の勝利を意味するほどの接戦となります。選挙前の世論調査では一貫して民主党有利という下馬評でしたが、得票数で上回るも獲得選挙人数で敗北しトランプが大統領となります。しかし、2020年の大統領選挙では、バイデンが49.57%、トランプが48.95%という得票率で両者の差は1%前後の大接戦となりました。

ウィスコンシン州もオハイオ州も大統領選挙ではいつも全米の耳目を集める州です。その理由は以上のような地政学的、及び歴史的な経緯によって、政治に高い関心を持つ州だからです。

(投稿日時 2024年7月16日)  成田 滋

ルール・オブ・ローと政治資金規正法

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「法の支配」と訳されるルール・オブ・ロー(Rule of Law)は、全ての権力に対する法の優越を認め、基本的に権力に対する歯止めという考え方です。市民の権利や自由を保障することを目的とする立憲主義のことです。それは、今回の政治資金規正法の根本原理である国民の不断の監視と批判のもとに置かれるということに示されています。これまでの改正論議は、政府自民党のパーティ券の裏金づくりという行為に法という衣をまとわせることが、あたかも民主主義的な法治主義であるかのような印象を国民に与えたのではないでしょうか。

裏金づくりに関わった議員は、追求されると表向きは法に従っているとか、法に則っていると釈明しています。今度の政治資金規正法は、既成の事実を作り、法をそれに合わせて解釈しさえすればよいという意図がいろいろな箇所にみられます。例えば10年後に明細書や領収書を開示するとか、収支報告書の「確認書」の作成を議員に義務づけるとか、政策活動費の幹事長の行う支出との領収書、使途公開は項目にとどめるとか、政治資金の透明性を外部監査で明らかにする、などと説明し、誰が、いつ、どの様に実施するかなど、具体的な内容は政府与党の裁量や解釈にまかされるのです。

その他、「政策活動費」の支出をチェックする第三者機関の制度設計などは検討事項となっています。制度設計などと謳って、実効性のある仕組みを先延ばしするような意図が現れています。こうした抜け穴を野党は追及したのですが、この法律は所詮多数に無勢で成立してしまいました。唾棄したくなるような結末です。

法を実体に合わせて解釈することができるように与党が画策したのが、今回の政治資金規正法です。権力というのは、表向きには法に従って統治していると姑息に主張します。裏金作りの問題が一時的に世論は沸き立ったのですが、政治資金規正法の成立によって、国民は、「まあしょうがない」 ということで事態が終息していくような空気が漂うのを感じます。

民主主義とは、権力の掌握者を統制するための、これまで考えられてきた唯一の機構です。選挙民が権力の側の政治資金規正法の発議に現れた美辞麗句に反発する能力を失ったときに、民主主義は崩壊する危機があると考えます。
  
                    成田 滋
  (投稿日時 2024年7月14日) 

東京都知事選挙を考える

注目

 インターネットやSNSの隆盛で、歩きながらも自転車に乗りながらも絶えずスマホを見つめる多くの現代人がいます。そうした人々の選挙行動が今回の東京都知事選挙で大きな話題となりました。SNSを駆使しすっとんきょうな政見放送で多くの若年層から支援を受けた候補者、学歴詐称の疑いがあり公務と称して選挙運動をした候補者、離党しておきながら既成政党の固定した支持者をあてにした候補者、さらには56名の候補者の掲示板ポスターの乱雑さ、候補者の名前を記入し間違えると無効になる、という誤った報道、本来ならば選挙公約や争点が一体なになのかを吟味して投票すべきという常識が通じないような、まさに意外性に富むかまびすしい選挙でありました。

 投票率が前回の都知事選挙に比べ5.6%上がり60.6%になったとか。都民が選挙に関心を持っていたことが現れたようです。その理由はなぜかということですが、一過的な現象だったのかどうかです。今回、若年層が投票行動を示したのを評価する声もあります。政治に関心がないと、有権者の声は政治に届きにくくなります。職業政治家は投票に来てくれる世代、政治に関心がある世代を優先した政治を行う傾向があります。今回の都知事選挙によって、若者たちに目を向けた政策を考えるようになるはずです。

ポスター掲示板


 
 政治の大きな不祥事が生じても誰も責任をとらず、それどころか不都合な事実については職業政治家が口を閉ざし、事実が隠蔽されてしまっています。日本で今、起こっている出来事をみていると、Adoの楽曲「うっせぇわ」は人々の気持ちや不満を表現しているようです。この歌から怒りの感情や嫌悪感が伝わります。「人でなく、政策で選べ」といった文句が「うっせぇわ」でかき消されたのが今回の都知事選挙でした。
(投稿日時 2024年7月11日)  成田 滋

ハンナ・アーレントと全体主義の理解

注目

はにめに

『Hannah Arendt』という映画を観たことがありますか?この映画は、1951年に出版された「全体主義の起原」(The Origin of Totalitarianism)という著作を基にした作品です。この名著を執筆したのは、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)で、ナチスによる迫害を逃れてアメリカに亡命したユダヤ系ドイツ人の政治哲学者です。ナチスの全体主義(totalitarianism)はいかにして起こり、なぜ誰にも止められなかったのか、アーレントはそれを、歴史的考察により究明しようとしました。この本は、歴史をさかのぼって探求する内容で、中々理解するのが難しい作品です。

アーレントが大学を卒業して間もない頃にドイツに台頭したヒトラーを党首とするナチス党(Nazi)は、ドイツが疲弊した原因がユダヤ人にあるとし、ユダヤ人が資本主義を牛耳り、経済領域で不公平な競争を行っていると主張するのです。そしてユダヤ人を絶滅させる「最終解決」(final solution) を掲げ反ユダヤ主義政策(antisemitism)をとります。ユダヤ人はユダヤ教で結びついており、階級社会からも独立していました。こうした状況から、ヒトラー政権下ではユダヤ人は目の敵にされてしまいます。

Hanna Arendt

全体主義とは

全体主義とは何かという定義ですが、平凡社の世界大百科事典によりますと、〈個〉に対する〈全体〉の優位を徹底的に追求しようとする思想・運動とあります。その用例として、イタリアのファシズム(Fascism)、ドイツのナチズム(Nazism)、ソビエトのスターリン(Joseph Stalin)体制、中国の一党独裁体制の基本的な特質を表現する概念とされています。アーレントによれば、全体主義とは、単なる主義でも思想でもなく,それに基づく運動/体制/社会現象を含むといわれています。全体主義はその内容は問われなく、どんなものでも任意に選ばれるというのです。

様々な「社会的な俗情」例えば、嫉妬,貪欲,恐怖心等に基づいて選定されます。その後,その俗情を隠蔽するために、ご都合主義的な理屈が無意識的にねつ造されたり,ご都合主義的なイデオロギーとなります。やがて理論が無意識的に選ばれ,テロをちらつかせ、プロパガンダに利用されていきます。当然ながら論理的,倫理的な一貫性が不在となり、必然的に人々は思考停止になり、体制側は様々な工夫を重ねながら,より効率的に全体主義を敷衍していくというのです。

アーレントは、全体主義は、専制や独裁制の変形でもなければ、野蛮への回帰でもないと主張します。20世紀に初めて姿を現した全く新しい政治体制だというのです。その形成は、国民国家の成立と没落、崩壊の歴史と軌を一にしています。国民国家成立時に、同質性や求心性を高めるために働く異分子排除のメカニズムである「反ユダヤ主義」と、絶えざる膨張を続ける帝国主義の下で生み出される「人種主義」(racism)の二つの潮流が、19世紀後半のヨーロッパで大きく広がっていきます。

Movie,Hanna Arendt

反ユダヤ主義とは

反ユダヤ主義とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する憎悪や敵意、偏見や迫害のことで、ユダヤ人を差別し排斥しようとする思想といわれます。人種主義とは、人種間に根本的な優劣の差異があり、優等人種が劣等人種を支配するのは当たり前であるという思想です。その起源としては、近代以降、人種が不平等なのは自明であり、社会構造の問題は人種によって決定づけられるとしたことです。フランスにおける貴族という特権階級を正当化する目的が、最初期の人種主義とされます。

国民国家の誕生と帝国主義

歴史のおさらいですが、絶対王政が崩壊しフランス革命が起き、アメリカ独立革命という「市民革命」が起ききます。こうして国家主権は国民が持つという意識が生まれたのです。また、国民は、言語・文化・人種・宗教などを共有する一体のものと意識され、国民としての一体感が形成されます。そして国民が憲法などによって主権者であると規定され国民主権が確立したのが「国民国家」(nation state)なのです。単一民族で成り立っている国民国家はほとんど無く、アメリカのように多くは民族的特質の多様な人びとが国民国家を形成しているので「多民族国民国家」とも呼ばれます。

アーレントによると、19世紀のヨーロッパは文化的な連帯によって結びついた国民国家となっていきます。国民国家とは、国民主義と民族主義の原理のもとに形成された国家です。国民主義では、国民が互いに等しい権利をもち、民主的に国家を形成することを目指しました。また民族主義は、同じ言語や文化をもつ人々が、自らの政治的な自由を求めて、国境による分断を乗り越え一つにまとまることを目指す考え方です。

同時に19世紀末のヨーロッパでは原材料と市場を求めて植民地を争奪する「帝国主義」が広がります。さらに、自分たちとは全く異なる現地人を未開の野蛮人とみなし差別する新たな人種主義が生まれます。他方、植民地争奪戦に乗り遅れたドイツやロシアは、自民族の究極的な優位性を唱える「汎民族運動」(pan-ethnic movement)を展開します。 汎民族運動とは、民族的な優越と膨脹を主張するイデオロギーのことです。中欧・東欧の民族的少数者たちの支配を正当化する「民族的ナショナリズム」を生み出します。そして国民国家を解体へと向かわせ、やがて全体主義にも継承されていくのです。

やがて20世紀初頭、国民国家が衰退してゆく中、大衆らを民族的ナショナリズムの潮流を母胎にし、反ユダヤ主義的のような擬似宗教的な「世界観」を掲げることで大衆を動員していくのが「全体主義」であるとアーレントは分析します。全体主義は、成熟し文明化した西欧社会を外から脅かす「野蛮」などではなく、もともと西欧近代が潜在的に抱えていた矛盾が現れてきただけだというのです。

アイヒマン裁判と悪の陳腐さ

何百万人単位のユダヤ人を計画的・組織的に虐殺したことがどうして可能だったのか?アーレントはその問いに答えを出すために、雑誌「ニューヨーカー」(New Yorker) の特派員としてイスラエル(Israel)に赴き「アイヒマン裁判」を傍聴します。アドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)はユダヤ人移送局長官として、収容所へのユダヤ人移送計画の責任者といわれました。アーレントは、実際のアイヒマンは、組織の論理に従い与えられた命令を淡々とこなす陳腐な小役人だったのを目の当たりにし驚愕します。自分の行為を他者の視点から見る想像力に欠けた凡庸な人間だったというのです。「悪の権化」のような存在と目された彼の姿に接し、「誰もがアイヒマンになりうる」という可能性をアーレントに思い起こさせるのです。

Adolf Eichmann

映画の中で、学生たちを前にして、毅然とした反論を行うアーレントが見られます。誰もが悪をなしうるというのです。「悪」をみつめるとき、「それは自分には一切関係のないことだ」、「悪をなしている人間はそもそもが極悪非道な人間だ。糾弾してやろう」と思い込み、一方的につるし上げることで、実は、安心しようとしているのではないか? アーレントはさらに言います。『ナチは私たち自身のように人間である』ということだ。つまり悪夢は、人間が何をなすことができるかということを、彼らが疑いなく証明したということである。言いかえれば、悪の問題はヨーロッパの戦後の知的生活の根本問題となるだろう…

こうしてアーレントは「エルサレムのアイヒマン–悪の陳腐さについての報告」(Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil)というニューヨーカー誌への寄稿のなかで「誰もがアイヒマンになりうる」という恐ろしい事実を指摘します。「Banality」とは、考え・話題・言葉などが退屈で陳腐なこと、という意味です。彼女は言います。『彼は愚かではなかった。完全に平凡で全く思想がない――これは愚かさとは決して同じではない――、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした要因だったのだ。』

アーレントへの批判

ニューヨーカー誌でこの報告が発表されると、アーレントは痛烈に批判されます。つまり『エルサレムのアイヒマン』は、ユダヤ人やイスラエルのシオニスト(Zionist)たちから「自分がユダヤ人であることを嫌うユダヤ人がアイヒマン寄りの本を出した」というのです。このような非難に、アーレントは、裏切り者扱いするユダヤ人やシオニストたちに対して、「アイヒマンを非難するしないはユダヤ的な歴史や伝統を継承し誇りに思うこととは違う。ユダヤ人であることに自信を持てない人に限って激しくアイヒマンを攻撃するものだ」と反論するのです。

アーレントは、「全体主義」とは、外側にある脅威ではなく、どこにでもいる平凡な大衆たちが全体主義を支えてきたということです。私たちは、複雑極まりない世界にレッテル貼りをして、敵と味方に明確に分割し、自分自身を高揚させるようなわかりやすい「世界観」に、たやすくとりこまれてしまいがちです。そして、アイヒマンのように、何の罪の意識をもつこともなく恐るべき犯罪に手をそめていく可能性を誰もがもって全体主義の芽は、人間一人ひとりの内側に潜んでいるのがアーレントの主張です。全体主義は、人間関係を成り立たせる共通世界、共通感覚を破壊して、人々からまとま判断力を奪う、人々はイデオロギーによる論理の専制に支配されるというのです。

おわりに

アーレントの研究は、現代社会を省察する上で次のような示唆を与えています。経済格差が拡大し、雇用・年金・医療・福祉・教育などの基本インフラが不安視される現代社会は、「擬似宗教的な世界観」が浸透しやすい状況にあり、たやすく「全体主義」にとりこまれていく可能性があるというのです。擬似宗教的な世界観とは、前述したように反ユダヤ主義のような人種差別思想です。世の中が不安になると、人々は物事を他人任せにし、全体主義が登場する要因になるのです。アーレントは、「大衆が独裁者に任せきることは、大衆自らが悪を犯していることである」と唱えました。こうした過ちを再び犯さないためにも、私たちは政治に関心をもち、積極的に参加していくことが必要だとアーレントは示唆するのです。

参考書
 『全体主義の起原』 みすず書、1972年
 『人間の条件』 中央公論社、1973年
 『精読 アレント全体主義の起源』 講談社、2023年

投稿日時 2024年7月7日        成田 滋

ダグ・ハマーショルドの「道しるべ」

注目

1961年9月、私は北海道大学一年のときに国連事務総長のダグ・ハマーショルド(Dag Hammarskjold)が飛行機事故で亡くなったのを知りました。アフリカへの紛争調停に赴く途中だったようです。このニュースを今も鮮明に記憶しています。イスラエルとアラブ諸国との停戦合意、国連緊急軍(UNEF)の創設、スエズ動乱の平和的解決の支援など、その高い外交手腕が評価された事務総長です。中立を掲げていたスウェーデン出身の外交官ならではの功績ではなかったでしょうか。国内では、政治家として社会民主党内閣で財政や経済問題と取り組んだといわれます。ですが政治的な独立性を主張し、どの政党にも属さなかったというのは興味深いことです。特定の主義や思想に偏るのを避けたのでしょう。

Dag Hammerskjold

今、ハマーショルドが書いた「道しるべ」という思索の翻訳を読んでいます。英語の題名は「Markings」で訳者は、元国際基督教大学総長であった鵜飼信成です。興味あることですが、著者は事務総長として取り組んだ外交上の諸問題や紛争の解決などについては一切触れていません。あくまで自己の内省を記録しています。この著作の冒頭で「これは私の、私自身との、そして神との交渉についての白書(white book)である」とあります。政治と宗教と社会の関係の中から、政治を省いているのです。政治というのはどうしてもドグマや教義、支配や強制ということが関わってきます。著者は、自己の分析や内省においては、政治の話題は雑音になるとでも主張しているかのようです。

ハマーショルドが直面したアフリカや中東の状況は、極めて重大な局面にあったと思われます。第二次大戦後の世界で最も注目すべき現象の一つは、新興独立国の成立です。こうした国々成立の歴史的な要因はいろいろな見方があるようです。その最たるものは、人々が個人の自由と独立を要求するのと同様に、国家や民族にとってもその自由と独立の要請が高まったということです。歴史的にみますと、その最も先駆的な役割を果たしたのは、アメリカの自由と独立だと考えられます。イギリスの植民地であった大西洋沿岸の13州が、本国の圧政に耐えかねて立ち上がる新興独立国家の原初的な形態を示したと思われます。

United Nation, New York

アフリカにおける諸国の独立運動は、宗主国であったイギリスやフランス、ベルギー、ポルトガルなどの列強とアフリカ各地の新興国との対立でありました。ハマーショルドは、事務局長として戦後のアフリカ大陸における自由と独立運動とそれに付随した紛争の調停に邁進します。1960年は、アフリカの17か国が一斉に独立を達成し、この年は「アフリカの年」と呼ばれます。1960年10月に国際連合総会において、ガーナのエンクルマ大統領が演説し、アフリカの独立への支援と、南アフリカにおけるアパルトヘイトの不当を訴え、大きな反響を呼びます。同年12月の総会で「植民地独立付与宣言」を反対票なしで可決するのです。そこではすべての植民地支配は人権の侵害であり、すべての人々は自己決定権を有すると宣言したのです。

しかしながら、植民地時代にヨーロッパの列強によって人為的に引かれた境界線がほぼそのまま残され、独立後の国境紛争や部族紛争が絶え間なく起こるのです。形式的には独立を達成したものの独裁政権が権力の座にすわり、経済支援に名を借りた欧米資本主義による間接支配と言う形の新植民地主義が起こります。ハマーショルドは列強と独立国との間の仲介に傾注するのです。やがて、アフリカ諸国は第三世界を形成し、東西冷戦での米ソの対立を牽制する力となります。ハマーショルドは、新植民地主義の台頭には警戒し、アフリカ諸国の民族自決の姿勢を肯定します。それが欧米諸国からは警戒されていたようです。これが、事務総長として「地球上で最も不可能な仕事」と呼ばれる調停で、この仕事に奔走します。ハマーショルドが飛行機事故で亡くなったとき、事故には列強が関与したのではないかという噂もありました。その真意は究明されずに終わります。

「道しるべ」からは、個人的な信仰の証しが伝わってきます。もう一つ興味深いことは、芭蕉の『奥への細道』に傾倒していたようで、彼の内省的な散文には俳句の影響が見られるとの指摘です。あわせてNew York Timesの書評も読みました。「Meditations of a Man of Action」 (瞑想と行動の人)とあります。稀代の思想家であり文学者であり宗教哲学者でもあったようです。
(投稿日時 2024年6月30日)     成田 滋

ルール・オブ・ローと政治資金規正法

注目

法の支配と訳されるルール・オブ・ロー(Rule of Law)は、全ての権力に対する法の優越を認め、基本的に権力に対する歯止めという考え方です。市民の権利や自由を保障することを目的とする立憲主義のことです。それは、今回の政治資金規正法の根本原理である国民の不断の監視と批判のもとに置かれるということに示されています。これまでの改正論議は、政府自民党のパーティ券の裏金づくりという行為に法という衣をまとわせることが、あたかも民主主義的な法治主義であるかのような印象を国民に与えたのではないでしょうか。

Rule of Law

裏金づくりに関わった議員は、追求されると表向きは法に従っているとか、法に則っていると釈明しています。今度の政治資金規正法は、既成の事実を作り、法をそれに合わせて解釈しさえすればよいという意図がいろいろな箇所にみられます。例えば10年後に明細書や領収書を開示するとか、収支報告書の「確認書」の作成を議員に義務づけるとか、政策活動費の幹事長の行う支出との領収書、使途公開は項目にとどめるとか、政治資金の透明性を外部監査で明らかにする、などと説明し、誰が、いつ、どの様に実施するかなど、具体的な内容は政府与党の裁量や解釈にまかされるのです。

その他、「政策活動費」の支出をチェックする第三者機関の制度設計などは検討事項となっています。制度設計などと謳って、実効性のある仕組みを先延ばしするような意図が現れています。こうした抜け穴を野党は追及したのですが、この法律は所詮多数に無勢で成立してしまいました。

法を実体に合わせて解釈することができるように与党が画策したのが、今回の政治資金規正法です。権力というのは、表向きには法に従って統治していると姑息に主張します。裏金作りの問題が一時的に世論は沸き立ったのですが、政治資金規正法の成立によって、国民は、「まあしょうがない」 ということで事態が終息していくような空気が漂うのを感じます。

民主主義とは、権力の掌握者を統制するための、これまで考えられてきた唯一の機構です。選挙民が権力の側の政治資金規正法の発議に現れた美辞麗句に反発する能力を失ったときに、民主主義は崩壊する危機があると考えます。
   (投稿日時 2024年6月28日) 
                         成田 滋

憲法改正論議を考える洞窟の比喩

注目

学者や政治家の間には、憲法改正の是非は結局国民自身が決めるべき問題であるという、それ自体もっともな主張によって、自分の態度表明を明らかにしなことが見られます。実際は自分の立場は決まっているのですが、現在それを表明するのは具合が悪いので、もう少し世論がそちらのほうに動いてくるのを待とう、あるいはもっと積極的に世論をその方へ操作誘導してから後にしようという戦術があるようです。また形勢を観察して大勢の決まる方に就こうとする日和見派もあるようです。

憲法改正問題は次の総選挙において大きな争点の一つとなると思われます。その結果によっては来るべき憲法第九条の改正が、国民投票において最後の審判が下されるべき話題となるはずです。いうまでもなく国民がこの問題に対して公平な裁断を下しうるためには最小限、いくつかの条件が満たされていなければなりません。第一は通信手段や報道のソースが偏らないこと、第二に異なった意見が一部の職業政治家、学者、評論家といった階層の人々の前にだけでなく、あまねく国民の前に公平に紹介されること、第三に以上の条件の成立を阻む、もしくは阻む恐れのある団体の示威行為、破壊活動防止法の発動、公安機関の登場を阻むことです。

真摯な動機から憲法改正を国民の判断に委ねようと主張する人々は、必ず以上のような条件を国内に最大限に実行する道徳的責任を感じなければなりません。憲法の護持や改正を謳う人々が、以上のような条件を無視し、もしくは無関心のままに国民の判断を云々するなら、国民は正しい判断ができるかは疑わしいと思われます。

現在、新聞やテレビ、インターネット上のニュースソースが偏っていたり、必ずしも嘘をついているとはいえないまでも、さまざまな意見が紙面や解説で公平な取り扱いを受けないことが見受けられます。全体主義国の独裁や海洋進出への批判などが多出するなか、アメリカの外交政策の批判やグローバリズムの問題はあまり取り上げないとか問題視しない状態、別な表現でいえば言論のフェアプレイによる討論を阻んでいる諸条件に対して、特段の異議を唱えることなしに、ただ、世論や国民の判断をかつぎだしてくるのは、早計であるといわざるをえません。現在の大手の新聞やマスコミの記事の取り上げ方にフェアプレイの姿勢が欠如していることを重々承知のうえで、逆にそれを利用して目的を達成しようという魂胆を持った政治家がいるのも事実なのです。

そこで注目したい報道がありました。2024年5月3日の東京新聞の社説です。私たち国民は、この10年間、囚人のように洞窟に閉じ込められ、政権が都合よく映し出した影絵を見ているのではないかというのです。これは、ギリシャの哲学者プラトン語る「洞窟の比喩」というエピソードを引用しています。囚人たちがいる洞窟の壁に影絵が映ります。囚人はその影絵こそ真実だと思っています。ある1人が洞窟の外に出ます。そこで見る世界は洞窟の影絵とは似ても似つかないのです。その者が洞窟の奥に戻り、囚人たちに自分が見た世界を語ります。でも洞窟の囚人たちは誰もその話を信じようとはしません。政権が都合良く推し進める風景が影絵なのですが、それを信じこまされているというのです。国民は、ようやく洞窟の外に導かれて数々の忌々しい影絵の実体を知ることになりました。

現在、職業政治家が使う言い回しの一つが「大国間競争や地域紛争で世界秩序が一段と不安定し不確実性が高まっている」ということです。確かに国際秩序は危機に瀕しているといわれます。大きな原因は、アメリカの国際社会への関与が弱まりつつあること、中国等の最大貿易国が強大な経済力に持つようになったことです。中国は海洋進出を続け、国際法違反を繰り返しています。加えて深刻な問題はロシアのウクライナ侵略などは、紛れもない国際法の違反行為です。こうした情勢を錦の御旗のように掲げて、防衛力の抜本的な増強、すなわち「国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」に備えるとしています。それを憲法第九条改正の根拠とするのです。

新憲法の精神を誉め、宣伝した学者や子ども達にその精神を教えてきた教育者の中には、今や「あれはGHQによって押しつけられたものである」と言う者がいます。国際情勢などにあまり関心も知識もない人ならともかく、少なくとも人並み以上にそうしたことに通じているはずの政治家や学者、評論家、教師などが「当時はまだ米ソがそれほど対立していなかった」という理由から戦争放棄の条項を説明し、今やそうした状況は変化しているという「事情変更の原則」を持ち出して憲法改正の伏線にしようとしているのです。

ところが第二次大戦の終了と同時に冷戦の火蓋は既に切られていました。その代表が1946年3月のウィストン・チャーチル(Winston Churchill)の演説です。「バルチック海のステッティンからアドリア海のトリエストにいたるまで、大陸を縦断する鉄のカーテンが降りている」と警告するのです。「全体主義と闘う世界中の自由な国民を支援する」という共産主義封じ込め政策であるトルーマン・ドクトリン(Truman doctrine)が宣明されたのは1947年3月です。アメリカ大統領トルーマンが、共産主義または全体主義的イデオロギーに脅かされているあらゆる国へ経済的、軍事的援助を提供すると宣言したのです。

ちなみに、現行の憲法草案要綱が内閣から発表されたのは1946年3月、その後審議修された結果、8月に衆議院を通過、貴族院での学者や政府当局者との論戦ののち、衆議院が再修正に同意し、かくて同年11月3日に公布され、翌1947年5月3日に施行されるのです。このように冷戦の真っ直中に憲法は施行されたのです。憲法の前文にある一切の武力を放棄し「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」と謳ったのは決して四海波静かな世界においてではなく、米ソの抗争が今日ほどではないにしても、その緊張状態が世界的規模において繰り広げられることが十分に予見される情勢の下において施行されたのです。こうした冷戦の開始と進行にも拘わらず、敢えて非武装国家として新しいスタートを切ったところにこそ現行憲法の画期的な意味があったといえましょう。
成田  滋
(2024年5月10日)
                  shigerunarita@gmail.com

ナンバープレートから見えるアメリカの州ワシントンD.C・Taxation without Representation

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アメリカ合衆国のライセンスプレートを通して、各州の紹介をしてきました。このブログの最終回は合衆国の首都ワシントンD.C. (District of Columbia)です。ワシントンD.C. を紹介するには多くのページを必要とします。なにから始めたらよいか迷うほどです。まずはワシントンD.C.のナンバープレートからいきましょう。

License plate of Washington D.C.

プレートには「Taxation without Representation」とあります。このフレーズですが、D.C.は他の州とは違って、上院や下院への議員を選ぶ権利が住民にはないのです。にも関わらず高い住民税を払っています。これまで何度も議会に抗議したり訴訟を起こして、選挙権の獲得運動がありました。しかしいまだに実現していません。そこでD.C.はナンバープレートに抗議のフレーズを入れているのです。「税金払えど選挙権なし」という意味が込められています。他の州には、このような主張を込めたものは見当たりません。興味あるナンバープレートです。

首都のワシントンは、連邦直轄地という特別区で、東海岸のメリーランド州とヴァジニア州に挟まれたポトマック川河畔(Potomac River)に位置しています。各州とは別に、首都としての役割を果たすため、連邦の管轄する区域が与えられていて、合衆国三権機関である大統領官邸(White House)、連邦議会(Capitol)、連邦最高裁判所(Supreme Court)が所在し、多くの連邦省庁が集中しています。いわば日本の霞ヶ関のようなところです。

バージニアやメリーランド州などと隣接するこの街は世界の政治の中心の一つです。国権の最高機関である大統領府(White House)、連邦議会議事堂(Capitol)、連邦最高裁判所(Supreme Court)や中央官庁などの行政機関が集まるほか、国立公文書館(National Archives and Records Administration)、日本銀行にあたる連邦準備制度(Federal Reserve System)、世界銀行(World Bank)や国際通貨基金(IMF)の本部、各国大使館などが置かれています。

街の中心はナショナル・モール(National Mall)と呼ばれています。モールの中心にはワシントン記念塔があります。モールの両端にはリンカーン記念館(Lincoln Memorial)と連邦議会議事堂が鎮座しています。スミソニアン協会(Smithsonian Institution)が運営する多くの博物館や美術館がモール内にあります。どれも質・量ともに世界でもトップクラスであります。加えて、多くの国立記念建造物や碑が建てられています。例えば、第二次世界大戦記念碑、朝鮮戦争戦没者慰霊碑(Korean War Memorial)、硫黄島記念碑(Iwo Jima Memorial)、ベトナム戦争戦没者慰霊碑(Vietnam War Veterans Memorial)、アルバート・アインシュタイン記念碑(Albert Einstein Memorial)など数えられないほどです。

スミソニアンの博物館の中でも最も来場者が多いのが国立自然史博物館(National Museum of Natural History)といわれます。子ども達に人気なのが国立航空宇宙博物館(National Air and Space Museum)でしょう。いつも家族連れや団体で一杯です。このほかに国立アメリカ歴史博物館(National Museum of American History)、国立アメリカ・インディアン博物館(National Museum of the American Indian)、国立アフリカ美術館(National Museum of African Art)、ハーシュホーン博物館と彫刻の庭C(Hirshhorn Museum and Sculpture Garden)、芸術産業館(Arts and Industries Building)などです。是非訪ねていただきたいのはユダヤ人の虐待とその歴史を遺品や写真などで紹介するホロコスト博物館(Holocaust Museum)です。どの館も安い入場料あるいは無料で見学できます。午前と午後に一つずつ見学しても一週間は確実にかかります。

モールのすぐ南にタイダル・ベイスン(Tidal Basin)という池があります。ここにはかって日本から贈られた桜並木があります。3月末は花見客で一杯となる合衆国で有数の桜の名所となっています。毎年桜のピークは4月1日と予想されています。日本とアメリカの友好の歴史を物語る場所でもあります。1912年に日米の平和と親善の象徴として日本から3000本が贈られたものです。この寄贈は、紀行作家のシドモア女史(Eliza Scidmore)、当時のタフト大統領(William Taft)の夫人ヘレン・タフト(Helen Taft)、尾崎行雄東京市長を始め日米双方の多くの方々の尽力によって実現したものといわれます。

ワシントンD.C.の設計に携わってのは、ピエール・ランファン(Pierre Charles L’Enfant)というフランス生まれの建築家です。連邦都市建設計画のコンペに当選し、基本計画案を作成した人として知られています。ランファンはジョセフ・ラファイエット(Joseph La Fayette)と共にアメリカ植民地にやってきた移民です。独立戦争ではヨークタウンの戦いなどに一緒に参加してイギリス軍と戦った技師で軍人です。1791年、ランファンはバロック様式を基に基本計画を作成します。開かれた空間と景観作りを最大限に重視し、環状交差路から放射状に広い街路が伸びるという設計となっています。

Pierre Charles L’Enfant

興味深いのは、バラエティに富んだ建築物がワシントンD.C.にあることです。アメリカ建築家協会が選ぶ2007年の「アメリカ建築傑作選」では、10位までにランクされた建物のうち6つがワシントンD.C.にあることです。ホワイトハウス、ワシントン大聖堂(Washington Cathedral)、トマス・ジェファーソン記念館(Thomas Jefferson Memorial)、連邦議会議事堂、リンカーン記念館、ヴェナム戦争戦没者慰霊碑(Vietnam Veterans Memorial)といった建築物です。どれも第一級の気品を備えています。

ワシントンD.C.には、ジョージ・ワシントン大学(George Washington University)、ジョージタウン大学(Georgetown University)、ハワード大学(Howard University)などもあります。ハワード大学は、全米屈指の名門歴史的黒人大学となっています。白人系やアジア系の学生も入学できる超難関の大学です。現合衆国副大統領のカマラ・ハリス(Kamala D. Harris)、元連邦下院議員のアンドリュー・ヤング(Andrew Young)、アフリカ系アメリカ人として初めての連邦最高裁判事のサーグッド・マーシャル(Thurgood Marshall) らも卒業生です。
(投稿日時 2024年6月4日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ワシントン州・Evergreen State

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ワシントン州(Washington)は雨が多いところです。松などの常緑樹が多い見事な森林が発達しています。全米有数の林業の州です。ナンバープレートには「Evergreen State」とあります。Evergreenとは松の木のことで、別名クリスマスツリー(Christmas Tree)とも呼ばれます。最大都市はシアトル(Seattle)、州都はオリンピア(Olympia)です。このあたりは West Coast(西海岸)とも呼ばれています。日本人にはなじみのある州です。

License plate of Washington State

ワシントン州といえばシアトル。どこか神戸に似ています。入り江と呼ばれるフィヨルド群(Fjord)からなるピュージェット湾(Puget)の東部には、シアトル、タコマ(Tacoma)、エヴェレット(Everett)などの大都市が連なります。プロ野球のマリナーズ(Mariners)の本拠地、マイクロソフト(Microsoft)の本社も近くにあります。航空機会社のボーイング(Boeing)の本社と工場があります。

州都オリンピアは兵庫県の田舎町、加東市とも姉妹都市です。誠に不釣り合いです(^^) シアトルから生まれたのがStarbucks珈琲ですね。これを始めて飲んだときは、そのコクと香りに驚いたものです。ワシントン州は製材、製紙業のほか、アルミニウム、食品加工が盛んでもあります。大豆、トウモロコシ、ジャガイモなどの栽培でも知られています。

ワシントン州の歴史ですが、日本との関係が深いのをご存じですか。戦前、日本から沢山の移民がこの地にやってきたのです。戦前、戦後、日系アメリカ人は偏見により辛い生活を余儀なくさせられます。そのことを記した小説に「Snow Falling on Cedars–ヒマラヤ杉に降る雪」 というのがあります。この小説を書いたのはデイヴィッド・グターソン(David Guterson)です。舞台は戦前で、ワシントン州の島における日系アメリカ人に対する人種差別を題材としています。この小説は、1995年にウイリアム・フォークナー賞(Faulkner Awards)をもらいます。この賞はアメリカの主要な文学賞の一つで、毎年優れた小説作品に贈られます。フォークナー(William C. Faulkner)はアメリカを代表する小説家です。実は、この小説を紹介してくれたのは私の長男の嫁Kateです。彼女は今教師をしながら童話を書いています。。

ワシントン州内のベインブリッジ(Bainbridge Island)という島には、ここに住んでいた日系人276名が強制収容へ送られたこと記憶し、人種差別が今後「二度と起こらないように」と祈念した屋外展示があります。

この小説の荒筋です。1954年、ワシントン州のピュージェット湾(Puget Sound)の北、ファン・デ・フーカ海峡(Strait of Juan de Fuca)に浮かぶサンピエドロ島(San Piedro Island)に住んでいた日系アメリカ人のカブオ・ミヤモトが、島で親しまれていた漁師カール・ハイン(Carl Heine) を殺害したという容疑で第一級殺人罪に問われます。1954年9月16日、カールの死体は網にかかったまま海から引き上げられ、水没した彼の腕時計は1時47分で止まっていました。大戦後の根強い反日感情の中で裁判が行われます。

裁判を取材するのは、唯一の地元紙「サンピエドロ・レビュー」(San Piedro Review)の編集者イシュマエル・チェンバース(Ishmael Chambers)です。彼は元米海兵隊員で、太平洋のタラワの戦い(Battle of Tarawa)で日本軍と戦って片腕を失い、仲間の死に直面していました。彼は日本人への憎しみを抱き、カブオの妻ハツエへとの愛と、カブオが本当に無実なのかどうかという良心とで葛藤するのです。イシュメルがハツエと恋に落ちたのは、高校が一緒の時です。二人は密かに交際し、互いに情を通じ合っていました。

検察側には、町の保安官アート・モラン(Art Moran)と検事アルヴィン・フックス(Alvin Hooks)、弁護側は老練なネルス・グドモンドソン(Nels Gudmondsson)です。カールの母エッタ・ハイン(Etta Heine)を含む数人の証人は、カブオが人種的な理由でカールを殺害したと証言します。カブオはかつて日系人部隊第442連隊戦闘団で戦いますが、日本海軍による真珠湾攻撃後、祖先の血筋を理由に偏見を受けてきました。ヨーロッパ戦線で若いドイツ人を殺害したことへの因果応報を感じながら裁判に臨みます。

カブオ・ミヤモトに対する殺人容疑の裁判には、町の検死官ホレス・ウォーリー(Horace Whaley)や、カールにイチゴ畑を売っている老人オーレ・ジャーゲンセン(Ole Jurgensen)も加わります。裁判では、このイチゴ畑が争点となります。この土地はもともとハイン・シニア(Carl Heine Sr.)が所有していたもので、ミヤモト夫妻はハイン家の土地にある家に住み、ハイン・シニアのためにイチゴを摘んでいました。カブオとカールは子どもの頃、仲良しでした。カブオの父親は、やがてハイン・シニアに2.8ヘクタールの農地の購入を持ちかけます。妻のエッタは反対しますが、カールは賛成し支払いは10年払いとなります。

しかし、最後の支払いが終わる前に、真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発し、日本人の血を引く島民はすべて強制収容所に移されることになります。ハツエとその家族であるイマダ夫妻は、カリフォルニア州のマンザナー収容所(Manzanar camp)に収容されることになります。母から反対でハツエはイシュマエルと別れ、マンザナーにいたカブオと結婚するのです。

1944年、ハイン・シニアが心臓発作で亡くなり、エッタ・ハインがジャーゲンセンに土地を売却します。戦争が終わって帰ってきたカブオは、土地の売買を反故にしたエッタを激しく憎みます。ジャーゲンセンが脳卒中で倒れ、農場を売却することになったとき、カブオが到着する数時間前に、カールが土地を買い戻そうと声をかけてくるのです。裁判では、家族間での土地争いの確執がカブオのカール殺人の動機であると主張されるのです。

編集者のイシュメルはポイント・ホワイト灯台(Point White lighthouse)にあった海事記録を調べます。そこでカールが死んだ夜、カールが釣りをしていた海域を貨物船SSウエスト・コロナ号(SS West Corona)が、彼の時計が止まるわずか5分前の午前1時42分に通過していたことが判明します。イシュメルは、カールが貨物船の航跡の勢いで海に投げ出された可能性が高いことを知るのです。彼は、ハツエに振られた恋人としての苦い思いを抱えながらも、次ぎのような情報を得るのです。

それは、カールが船漁灯を切るために船のマストに登ったとき、貨物船の波によってマストから叩き落とされて頭を打ち、海に落ちたという結論を裏付ける証拠です。審議の結果、カブオの殺人容疑は晴れるのです。ハツエはカブオと結婚して以来避けていたイシュマエルに感謝し、イシュマエルはハツエへの愛にピリオドをうちます。そして彼の抱いていた不可知論という哲学は、やがて無神論へと変わっていくのです。

(投稿日時 2024年5月30日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ロードアイランド州・The Ocean State

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ロードアイランド州(Rhode Island)のナンバープレートには「海洋の州」(The Ocean State)とあります。その名のように多くのオーシャンフロント・ビーチがあります。州内の陸地の奥深くまでナラガンセット湾(Narragansett Bay)が入り込んでいることから、観光用パンフレットでよく使われるフレーズとなっています。この州は合衆国東北部、ニューイングランド地方(New England)にある小さな州です。独立時の13州の1つで、全米50州の中で面積が最小の州です。州都および最大都市は港湾や学術都市であるプロビデンス(Providence)です。「Providence」とは、キリスト教における、“すべては神の配慮によって起こっている”という概念を意味し、「摂理」や「神の意思」と訳されます。

License plate of Rhode Island

この地域の原住民はナラガンセット(Narragansett)インディアンです。1636年、マサチューセッツ(Massachusetts)から追放されたロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)とその信奉者たちによってヨーロッパ人が最初に入植します。彼らが設立したプロビデンス・プランテーション(Providence Plantation)は由緒のある開拓部落です。ロードアイランド州の起源となった植民地集落の名前です。1663年、チャールズ2世(King Charles II )がウィリアムズに勅許を与えます。フィリップ王戦争(Philip’s War)でニューイングランド植民地に正式に加わることはなく、多くの入植地が焼き払われ、大きな被害を受けることになります。

Roger Williams

フィリップ王戦争とは、1675年6月から翌年8月まで、ニューイングランドで白人入植者とインディアン諸部族との間で起きたインディアン戦争のことです。 フィリップ王とはワンパノアグ族(Wampanoag)酋長メタコメット(Metacomet)のことで、白人入植者は酋長をそのように呼んでいました。興味あることです。

アメリカ独立戦争のきっかけとなったイギリスの関税法との戦いでは、ロードアイランドは最前線に立ちます。連邦の原初州であり、1790年に憲法を批准した13番目の州でありましたが、権利章典(Bill of Rights)が含まれて初めて批准に同意することになります。1842年のドールの反乱(Dorr’s Rebellion)が起こります。地元の少数のエリートが、政府を支配していたロードアイランド州から広範な選挙権を剥奪し、型破りな民主主義を押し付けようとする試みでありました 。トーマス・ドール(Thomas Door)が主導し、選挙権を剥奪された人々を動員して州選挙規則の変更を要求したのがこの反乱です。土地を所有しない白人男性にも参政権が拡大されるまで、州独自の憲章が有効でありました。

1790年にサミュエル・スレイター(Samuel Slater)がポータケット(Pawtucket)に建設した綿織物工場は、アメリカの産業革命を引き起こします。製造業は現在も経済にとって重要であり、製品には宝石や銀製品、織物や衣類、電気機械や電子機器などがあります。ロードアイランド州の農業生産は野菜、酪農製品及び卵です。産業は機械、造船及びボート製造、ファッション装身具、加工金属製品、電気設備、並びに観光業となっています。

州とプロビデンスにはアイビーリーグ(Ivy League)の一つブラウン大学(Brown University)があります。創立は1764年です。アメリカ独立以前です。創立当初はバプティスト教会の教育機関でした。アイヴィーリーグの大学創立にはどれも宗教的な背景があります。Brown大学は人種や性別に関わらず、またバプティスト以外の教徒の子弟も受け入れることが伝統となっています。第18代の大学総長として始めて黒人であるRuth Simmonsが選ばれます。アイビーリーグの大学では非常に珍しいことです。

アイビーリーグでは、コロンビア大学(Columbia University)がニューヨーク市にあるだけで、他の有名な大学はボストンを除いてロードアイランドなどの地方にあるのは興味あることです。優れた大学の教育研究はどこででもできるということです。
(投稿日時 2024年5月27日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ワイオミング州・Equal Rights State

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ワイオミング(Wyoming)州のナンバープレートには「平等の州 (Equality State)」とか「カウボーイ州 (Cowboy State)」と印字されています。北にモンタナ州、東にサウスダコタ州とネブラスカ州、南にコロラド州、西にユタ州とアイダホ州と境をなしています。州都はシャイアン市(Cheyenne)です。全米で最も人口が少な州です。ワイオミングとは、アルゴンキン語族(Algonquian)の言葉で「大平原」を意味します。州の東側3分の1はハイプレーンズと西側3分の2はロッキー山脈東部の山岳地帯と丘陵の牧草地帯が広がります。

License plate of Wyoming

ワイオミング州の歴史です。18世紀にヨーロッパの探検家たちが初めて訪れたとき、ワイオミングには、すでにショショーネ族(Shoshone)を含む平原インディアンが住んでいました、オレゴン・トレイル(Oregon Trail)とオーバーランド・トレイル(Overland trails)が横切っていました。ルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition)は、この地域を通過しませんでしたが、探検隊の一人、ジョン・コルター(John Colter)は探検隊から外れて ワイオミングで過ごしたといわれます。

ワイオミングは 1868年にワイオミング準州(Wyoming Territory)が設立されるまで、アメリカのいくつかの準州に分かれていました。やがて1868年にワイオミングは準州となります。1869年に女性参政権を採用し、1889年には憲法に女性参政権を盛り込んだ最初の州となりました。州のニックネームは平等の州『Equality State』と少々地味なフレーズです。それには次のような事実があります。すなわち1870年、ララミー(Laramie)という街では女性が初めて陪審員(jury)を務め、同年ララミーではメアリー・アトキンソン(Mary Atkinson)が女性初の令状や逮捕、差し押さえを執行する裁判所職員(court bailiff)となり、同年サウスパスシティ(South Pass City)ではエスター・モリス(Esther Morris)が女性初の治安判事(justice of the peace)になります。1925年に全米で最初の女性知事としてネリー・ロス(Nellie Ross)が就任します。これら女性に与えられた権利の故に、ワイオミング州は「平等の州」と呼ばれるようになりました。

Esther Morris

一体、どうしてワイオミング州では女性が活躍するようになったかは不明です。通常、ワイオミングのような田舎の州は農業や酪農に従事する人々が多く、考え方は伝統的で保守的なのです。しかし、女性参政権を主張していたモリスを指導者に選ぶという大らかさが州民にあったからだろうと察します。「ワイオミングというアメリカ合衆国で最も若くまた最も裕福な準州の1つが、言葉だけでなく行動で女性に平等な権利を与えた」というのは、エスター・モリスの才能に依ったことも事実のようです。

ワイオミングには、アメリカでも特に有名な3つの国立公園、イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)、グランドティトン国立公園(Grand Teton National Park)、氷河国立公園(Glacier National Park)があります。こうした国立公園は、アウトドア愛好家や冒険家に大人気です。ワイオミング州では広大な美しい大地をクマ、バイソン、エルク(elk)、コヨーテ(coyote)などの野生動物が生息して大事に保護されています。氷河国立公園は「大陸の王冠」(Crown of the Continent)と呼ばれ、今も26野氷河が存在しています。グランドティトン国立公園は、1953年に制作された西部劇映画「シェーン」(Shane)のロケ地となったところです。流れ者シェーンと開拓者一家の交流や悪徳牧場主との戦いを描いた世紀の名作です。シェーンを演じていたのは名優のアラン・ラッド(Alan Ladd)でした。

近代の経済では家畜が依然として重要ですが、 観光業も重要となっています。州の主要な産業は鉱業と農業。鉱業ではウラニウム、天然ガス、メタンガス等を産出し鉱業の影響力もますます大きくなっています。農業では小麦や大麦、馬草、サトウキビが主たる生産物です。
(2024年5月24日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ルイジアナ州・マルティニーク島と小泉八雲

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小泉八雲は、ギリシャで生まれたアイルランド系のイギリス人です。アイルランドからフランス、アメリカ合衆国、西インド諸島、そして日本にやってきます。ジャーナリストとして各地で出会った人々との交流や習慣を紀行文や随筆で記し、多くの小説も書き、後に日本では英語教師や英文学者として活躍したことで知られています。フランス語にも精通し1887年から2年間、カリブ海(Caribbean)に浮かぶ島でフランス領西インド諸島のマルティニーク島(Martinique)で過ごします。そこで執筆したのが「仏領西インドの2年間」(Two Years in French West Indice)です。本稿は、各国を放浪し異国情緒にあふれる人種、伝統、風俗・習慣に触れながら八雲がどのようにこの島の人々の生きざまを捉えていたか考えることとします。

小泉八雲の著作

これまでルイジアナ州に住むクレオール(Creole)の人々の文化や風俗をとりあげてきました。人種を問わず植民地で生まれた者はクレオールと呼ばれています。特にフランス人・スペイン人とアフリカ人・先住民を先祖に持ち、フランスからのルイジアナ買収以前にルイジアナで生まれた人々とその子孫とその文化を指すともいわれます。付け加えるならば、クレオールとはもともとは、片方の親がヨーロッパ系で、もう片方の親がアフリカ系の子どものことを指していましたが、今日では、両方の系統が混じっている人々のことを指し、「黒人と白人の混血者」と説明されるようです。

マルティニーク島

八雲がなぜ、マルティニーク島に渡ったのかは分かりませんが、この島がフランスの植民地であり、多様な人種が混ざり合っていることに関心があったのかもしれません。西洋文明の社会に疑問をいだき、それに飽き足らず異国文化への関心を深めていったようです。八雲はマルティニークでは、クレオールの人々と交流し民話を調べ、その植民地体験を豊かな文章で書き残しています。事実、八雲も自分の出自が混血であったために、人種の多様性の豊かさに魅了されたことが「仏領西インドの2年間」の著作に表れています。

さて、西インド諸島の名は、1492年10月にクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)が上陸したバハマ諸島(Bahamas Islands)のサン・サルバドル島(San Salvador Island)付近を、インドに到達したと誤解したことに由来しているといわれます。西インド諸島の主要部を構成する諸島の一つがフランスの海外県であるマルティニーク島です。マルティニーク島は、1502年のコロンブスの第四次航海により発見されます。意図していた金や銀を産出せず、さらにカリブ人が頑強な抵抗を続け、ヨーロッパ人の侵入を退けます。しかし、1635年にセント・キッツ島(Saint Kitts)を拠点にしたフランス人のピエール・デスナンビュック(Pierre dEsnambuc)が上陸し、これによってフランスが主導権を握り植民地化します。

クレオール人

フランスの植民地化が進むと、マルティニーク島はアフリカから奴隷貿易で連行された黒人奴隷によるサトウキビ・プランテーション農業で経済的に発展します。大西洋における三角貿易によって今のハイチ(Haiti)であるサン=ドマング(Saint-Domingue)やグアドループ(Guadeloupe)と共にフランス本国に多大な利益をもたらしていきます。かつてマルティニーク島にいた先住民は、ヨーロッパ人による虐殺やヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病により全滅し、現在は純粋な先住民は1人もいないといわれます。

マルティニーク島には、アフリカから奴隷として連れて来られた黒人とヨーロッパ系白人と、アフリカ系の特に黒人との混血のムラート(Mulatto)と呼ばれるクレオール人、華僑、インド人、レバノン(Lebanon)、シリア(Syria)、パレスチナ(Palestina)から移民したアラブ人(Arab)なども少数ながら存在します。住民の多くはフランス語とクレオール語を話しますが、クレオール語は少数言語となっています。

八雲は「仏領西インドの2年間」という著作のなかで、マルティニーク島というのは、画趣に富むところだと記述しています。とりわけ有色人の女性の服飾、頭の飾りなどの珍しさや華やかさ、有色人の娘に見られる肉体的な変化が特徴的であるというのです。そして、こうした特徴は南フランスの南部や西南部の田舎の風俗に類似していると指摘します。最初に入植してきたフランスの農民と西アフリカの奴隷という先祖の人種が、両者ともに風土と環境という諸条件によってこうした特徴が形成されたのだという見立てです。

やがてマルティニーク島では、初期の入植者の子孫は父祖に似なくなり、クレオールの黒人は祖先を改善し、混血のムラートは植民地自体の平穏さを危うくするほどの肉体力と精神力を次第に発揮していきます。八雲は「白人と黒人との間に生まれた混血種は文明にはきわめて同化しやすい。肉体的なタイプとして、個人、特に一般女性のなかに、人類最高の美しい標本を提供している」とも断言するくらい、女性の美を観察しています。

しかし、八雲は植民地全般に古き良き社会の崩壊が始まることを指摘します。植民地支配下で民族意識が高まり、自主独立の機運が高まってきたからです。至る所に熱帯の廃墟や深い憂愁、かっては甘藷で黄金色をなしていた広大な段々畑が、雑草と蛇によって捨てられているというのです。人の住んでいない農場の家屋、雨によってえぐられ谷間のようになった草ぼうぼうの道、何百年にわたり育った森林の木々に代わって徐々にはえだしたバナナの樹が目立つというのです。砂糖が安価に売られていた時分の楽園をしのばせる美しさはかろうじて残ってはいるが、、、、

そして有色人の女の姿も変わったというのです。男に対して自分を卑下したり隷属的なところが大分薄れ、自分の立場の道義的に正しくないことを以前より理解していると観察します。彼女らの愛人や保護者であるクレオール白人が他へ移住し、同時に黒人の支配が強くなってきたからです。加えて生活の困難が不断に増してきます。彼女らは、次第に募る人口の増加によって社会の酷薄と憎悪も増してきているのを知ってくるのです。それにも関わらず彼女達の心根の良さ、外国人に対する寛容さについて「彼女達は生まれながらの慈善団体の尼だ」という指摘です。有色人女性達の道徳的資質を褒めているのです。

有色人女性に関するこうした賛辞は法外なものではないと八雲は確信します。ところがこれに反して、有色人男性に対するクレオールの意見はあまり好ましくないというのです。それは政治上の事件と情熱が有色人男性の性質を正当に評価することを困難にしているからだろうというのです。フランス領植民地全体の有色人の歴史は全部同じで、つまり彼らが社会的に平等になろうと躍起になろうとするのを恐れている白人からは信用されないし、黒人からもそれ以上に信用されないのです。混血のムラートは両方の人種に敵意をいだき、両方の人種から恐れられているらしいのです。

マルティニーク島では、一定の期間義勇兵として軍隊に勤務した者には全部に自由を与えて彼らを操縦していくことを試み、その一部は成功します。ただし、どんな時にもムラートと黒人とを一緒に働かせることは不可能であることがわかります。ムラートは解放される一世紀も前から、すでに都市労働者及び職工の熟練者階級を形成していたからです。

有色人女性は人生に目的を持ち、自分の境遇を向上させること、子どもには高等教育を授けること、そしてわが子には、なんとかして偏見の呪いをかけさせたくないと願っています。白人には依然としてすがってはいますが、それは白人を通して、なんとか自分の立場を改善したいと願っているからです。彼らは両方の人種間の和解というようなことを達成する望みをもっているようだともいいます。

クレオール人全体の信念は「失われた国」という繰り返される叫びの中に集約されています。白人はだんだんと本国へと移住し、植民地は繁栄を失いつつあります。「それでもこの太陽の国の女性は、欺きのために死ぬようなことはない、苦しみがあれば、小鳥のように歌でその苦しみを吐きだしてしまうほど強い」と八雲は断言するのです。
(投稿日時 2024年5月22日)