国政選挙の予測 その五 メディアの多様化

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 最近のいろいろな報道は放送や新聞メディアの他に、SNSといったインターネット上で人々がつながり、コミュニケーションや情報共有を行うためのプラットフォームが頻繁に使われています。インターネットの活用は今後ますます広がり、やがてインターネットでの電子投票も進むかもしれません。投票形式が多様化すると、投票率もアップすることが期待されています。しかし、電子投票に躊躇するのは、高齢者などの支持が強い与党とか一部の野党です。電子投票は家や職場から投票できるのですから、本来ならば投票所が遠い田舎に住む人々にとっては便利なはずです。ですが、これにより投票率が高まると、それを歓迎しない党があるので、未だこの方法は実現していないのです。新しいことをやりたがらないのが今の行政です。それでもインターネットの利用は今後もますます浸透するので、時代の趨勢に逆らうことは困難になるでしょう。

ポスター掲示板

 今年の都知事選挙で大いに支持を伸ばした候補者がいました。SNSを大いに駆使してそれまで浮動票といわれた若者などに支持されたといわれます。実際は、今回の国政選挙でもYoutube上での政見放送やPRが盛んに行われています。こうした手法は、今のNHKで実施されている各党の政見放送よりははるかに、視聴者が高いと思われます。紙などのチラシを配布するという方法はやがて廃れていくでしょう。候補者のポスターを貼る掲示板もやがては姿を消すはずです。ポスターでは候補者の政策が全くつたわらないのです。時代遅れな手段といえましょう。改正公職選挙法では、「政治活動、例えば新聞紙又は雑誌による広告、テレビ、ラジオ等による政治活動は、選挙運動期間中、誰でも自由に行うことができる」に加えて、「インターネット上でのすべてのメディアで政治活動を行うことができる」となりました。

選挙七つ道具

 「インターネット等を利用する方法」とは、「放送を除く電気通信の送信により、文書図画をその受信をする者が使用する通信端末機器の映像面に表示させる方法」です。改正公職選挙法第142条の3第1項にウェブサイト等を利用する方法も規定されています。具体的には、インターネットのほか、社内LANや赤外線通信などであっても、「インターネット等を利用する方法」に含まれるとされました。

 インターネット上では、各地の街頭演説の様子が映し出されています。全国の街頭演説の様子がわかるのですから実に便利な時代になりました。候補者がどんな考えで政策を訴えているのかが机上のパソコンやスマホ画面でわかるのです。このようなテクノロジーは、高齢者や僻地に住む人々に大きな恵みとなるはずです。

 選挙運動用の自動車からの候補者の連呼行為は実にうるさく、迷惑な行為です。政策などは全く語られず、ただただ候補者名を連呼するだけです。選挙事務所の看板類では、「ちょうちん1個及び立札・看板の類を通じて3個」といった笑いがでるようなことが規定されています。こうしたアナログの規制は、時代遅れです。候補者のノボリやポスターにはQRコードなどが印刷されると、その人の訴えたい政策が有権者に伝わるはずです。しかし、こうのような提案を与党などは採用しようとしません。公職選挙法を変えるのを躊躇しているのです。それには理由があります。投票率が高くなると困るからなのです。
(投稿日時 2024年10月24日)

国政選挙の予測 その四 選挙制度とゲリマンダー

注目

2016年6月19日以降の国政選挙から、選挙年齢が「満18歳以上」に引き下げられました。現在の日本では、満18歳以上の有権者は全人口の80%以上を占めています。かつては選挙権はごく一部の限られた人たちだけが持てる権利でした。1890年までは、投票資格は 「満25歳以上の、直接国税を15円以上納める男子」に限られていました。その数は、全国の人口のたった1%だったといわれます。

 1994年3月4日に公職選挙法が改正され、衆議院選挙に小選挙区比例代表並立制が導入されました。それで思い出すのは、「ゲリマンダー」(Gerrymander)という巧妙というか狡猾ともいえる区割りの戦術です。選挙において特定の政党や候補者に有利なように選挙区を区割りするやり方です。本来的に、その選挙区割りが地理的レイアウトとして変わった形をしています。一選挙区から一人しか当選しない小選挙区制を採用している場合、特定の政党に投票する傾向の強い地区を分割します。別の政党に投票する傾向が強い選挙区にその分割した地区を吸収させることによって、特定の投票を無効化することができるのがゲリマンダーです。つまり、選挙区割りを変えることで一方の側に有利な選挙結果を生み出すのです。

ゲリマンダーという用語の由来についてです。Wikipediaによりますと、1812年頃マサチューセッツ州(Massachusetts)のエルブリッジ・ゲリー(Elbridge Gerry)という知事が、自分の所属する政党に有利なように選挙区を区割りした結果、幾つかの選挙区が不自然な形となります。そのうちの一つがサラマンダー(salamanderートカゲ)のような異様な形をしていたことから、ゲリーとサラマンダーを合わせた造語「ゲリマンダー」が生まれたといわれます。こうした区割りのことをゲリマンダリング(Gerrymandering)とも呼ばれます。

Gerry-Mander

 小選挙区制はこのゲリマンダーの考えを元に作られています。「日本にある全47都道府県ごとに人口比で割り当てられた定数289人の議員数の人を選挙で選ぶ」という方法です。しかし、小選挙区では一人しか当選しないので、多くの票が死票となります。それを防ぐために比例代表制も併設されています。比例代表は「全11のブロック(北海道・東北・北関東・南関東・東京都・北陸信越・東海・近畿・中国・四国・九州)に分かれた選挙区で、定数の176人を選挙で選ぶ」という方法です。

 小選挙区制のメリットとしては、以下の3点が挙げられます。「安定した政権をつくれる」、 「有権者との距離が近くなる」、 「 選挙費用の負担が小さい」。ところが小選挙区制は、支持者の多い、大きな政党にとって有利な選挙になります。そのため政権与党が頻繁に入れ替わることがなく、政局が安定する傾向にあります。また小選挙区制では選挙の活動エリアが狭くなるため、候補者と有権者1人ひとりとの距離が近くなり、向き合える時間が増えます。その結果、地元の意向をくみ取った政策を実現することができるようになります。さらに、候補者にとっては、選挙費用を安く抑えることができるというメリットもあります。小選挙区制の選挙では、選挙運動による候補者へのアピールは、選挙区内だけで済みます。したがって、活動範囲が限定的になり、選挙費用の負担も小さくなるというわけです。

 小選挙区制のデメリットは、「死票が多くなる」、「一票の格差が生じる」、「地元への利益誘導」といったことです。死票とは、選挙で落選した候補者へ投票された票のことです。得票数が2位以降の候補者に投票された多くの票は無駄になり、少数意見が反映されにくくなります。また、選挙区の人口が異なるために、有権者の持つ一票の価値が平等ではなくなってしまう「一票の格差」も深刻な問題です。小選挙区制の区割りは、各都道府県の人口に応じて決められています。

 しかしそれでも、人口の多い都市部と人口の少ない地方では、一票の価値に差が生じてしまいます。さらに、小選挙区制の選挙区エリアは小さいため、地元の有権者の支持を一定数集めることができると、当選の確率が大きく上がります。このような仕組みを利用し、地元の自治体や企業に利益誘導を行うことで、選挙区における支持基盤を固めようとする候補者が出てくることが懸念されるのです。ついでですが、アメリカの上院議員の選挙では、各州は定員が2人と定められているため、ゲリマンダーは生じません。

 衆議院では、一つの選挙区から原則3~5人を選出する中選挙区制を長らく採用してきたため、元来の意味でのゲリマンダーはほとんど発生しませんでした。その理由は、第一に人口変動が生じても各選挙区の定数を増減させることによって概ね対応でき、区割りを変更する必要性が小さかったこと、第二に各選挙区の規模が大きく、概ね市区町村などの境界に従って設定されていたため、恣意的な区割りを行う余地がもともと少なかったことからです。1980年までは「地方区」ならびに全国一円の「全国区」として固定されていました。この選挙制度の運用上はゲリマンダーの危険性は存在しませんでした。ついでですが、1983年以降は「小選挙区」と「比例区」となりました。

 地方議会では、市区町村は原則として単一選挙区とし、都道府県では原則として市・郡を基本単位として区分された選挙区です。政令指定都市は行政区を基本単位として区分されています。従って、衆議院と同様に、ゲリマンダーはほとんど発生しないといえます。
(投稿日時 2024年10月23日)

国政選挙の予測 その三 知名度や認知度

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 先日ある選挙区での街頭演説会に出会いました。この候補は、いわゆる「裏金議員」の一人でした。聴衆は多く、歩道橋にも人が溢れるほどです。演説場所は開始前から物々しい雰囲気で、荷物チェックに多数の警察官やSPが目を光らせる厳戒態勢です。この候補は衆議院議員として長く務めますが、2024年5月の政治倫理審査会へ出席しなかったことから、世間からは説明責任を果たしていないと指摘されていました。それでも地元では非常に知名度が高いといわれる人です。

 候補者の演説を聴いていると、地元に自分がどれほど貢献してきたかを高らかにうたい、一住民として気恥ずかしくなるほどです。どうして候補者というのは、自分を過剰にPRするのでしょうか。選挙は、自分の信念や公約を有権者に訴えるものであるはずです。政治改革、経済や外交の課題についての考え方を聴衆は期待しているのです。しかし、演説は終始いかに地元で汗を流してきたかを叫ぶだけです。

街頭演説

 長らく国政を務めると知名度は絶大なはずです。なにも大袈裟は街頭演説は必要ないはずですが、どうも裏金議員の烙印を押され、おまけに公認を得られないというのですから、ご本人は必死に活動するほかないのでしょう。周りの応援演説者は地元の議員や首長で、演説内容はこれまた候補者がいかに地域に貢献したか、という話題で満載です。なにか、田舎の蛸壺のような選挙でさっぱり心に響きません。拍手をするのは、街頭演説車の前に陣取る者だけ。あとは白けたような表情の人々です。国政選挙ですから、政治とカネ、外交と安全保障、経済、少子高齢化、一極集中と過疎化、所得、物価、社会保障など、国が劣化しつつある問題などについての大所高所からの演説を期待したいのです。

 知名度とは、人、企業、ブランド、商品などの「名前」が知られている度合いのことで、 アンケートで「名前を聞いたことがある」「名前は知っている」と回答する人が多ければ多いほど、知名度が高いといわれます。しかし、一般的な知名度は大抵、マスコミらによる宣伝活動やCMなどによって操作される煽動型情報であることも多いのです。知名度より認知度が大事だといわれます。有権者や消費者が人、商品、サービスの内容や価値を理解できている度合いのことです。多額の裏金議員であるとか、ある特定の宗教団体との癒着があったという報道により、知名度は広がっても認知度や支持率とは一致しないのも確かです。投票率が知名度を反映するというのも確かです。選挙では特に重視されるのが、俗に「地盤、看板、カバン」の三バンです。このうちの看板が知名度のことを指します。

Growth of Popularity

 人気は知名度や認知度と違い、世間からの受けのことを指します。多くの人に好まれことを意味します。しかし、人気とは流行であり、その時代の嗜好をも意味します。人気が高いからといって人望があるとは限りません。「人気が一挙にガタ落ち」というのは知名度が高いといわれる裏金議員にも当てはまりそうです。

 投票日が近くなると、新聞などで当落の予想が行われますが、例えば誰が当選するかについて人気投票があるとします。この場合、公職選挙法では、選挙に関する人気投票の公表を禁止しています。ただ、調査員が面接調査をし、その結果を公表するのは、人気投票には当たらないと解釈されています。選挙期間中に、個々の選挙区の情勢記事を報じることによって、有権者の投票行動が影響を受けることは確かです。その報道により、投票に出かけるか、出かけないかは有権者に委ねられることです。
(2024年10月22日)

国政選挙の予測 その二 最新の世論調査結果

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 2024年10月に発足した石破新内閣について時事通信社が実施した調査の結果を引用します。それによると、「末期、石破政権の船出」という見出しで、「支持するは28.0%、支持しないは30.1%」とあります。調査は10月11日から14日に、全国の18歳以上の男女2,000人を対象に個別面接方式で実施し、有効回答率は58.6%で1,172人からの回答とあります。こうした結果は、衆議院の解散時期をはぐらかしたり、総裁選時の発言を翻したり、裏金議員の公認問題の対応が批判されたりしたことが有権者の回答に反映したようです。ただし、「全国の18歳以上の男女2,000人」をどのようにして抽出したかが分かりません。ここが調査結果が正確か否かの分岐点となります。

内閣支持率の推移

 次に、NHKは10月12日から3日間で行った石破新内閣についての世論調査を引用します。それによりますと、「10月発足した石破内閣を「支持するは44%、支持しないは32%」とあります。NHKの調査方法ですが、全国の18歳以上を対象にコンピュータで無作為に発生させた固定電話と携帯電話の番号に電話をかける「RDD」という方法で世論調査を行っています。そして調査の対象となったのは、5,489人で、46%にあたる2,515人からの有効回答です。

 この二つの調査結果には大きな違いがあります。支持するは28.0%と44%、支持しないは30.1%と32%という按配です。支持しないはほぼ同じ率ですが、支持するが大きく分かれていることが気になります。この違いは、一つは、1,172人と2,515人という標本数の違いと、標本の選び方にあります。時事通信社がどのようにして回答者を選んだのかが不明なことです。それに対してNHKはコンピュータで無作為に抽出したとあります。ただ時事通信社は個別面接方式で回答を得たのに対して、NHKは固定電話と携帯電話によって回答を得たことにも注目すべきと思われます。

 調査方法に関する考察です。NHKと同様に朝日新聞でもRDD方式を採用しています。RDD調査の先進国はアメリカです。ABC、 CBS、ピュー・リサーチセンター(Pew Research Center)などもRDDを使っています。電話による調査は、対面にくらべて安価で便利ではあります。ですが、携帯電話しか持たない人が増え、固定電話調査だと有権者全体をカバーできないという問題があります。これをカバレッジ誤差(coverage error)といいます。

スマートフォン保有率

 選挙調査は選挙区単位の調査となります。そのため電話番号には地域情報が必要となります。電話番号に地域の情報を持たない携帯電話に対しては調査が行えないので、地域情報を持つ固定電話に対してのRDD調査となります。少々不便で集計に際しては誤差が生じるる可能性があります。対面と電話では、どちらか正確な情報を得られるかです。私の考えでは、対面での回答のほうが電話よりも正確ではないかと思われます。

 最後に、選挙調査では、選挙の序盤より終盤の方が、回答率が高く正確な情報が得られます。これは二つの要因が考えられます。一つは、序盤調査という経験を通して、電話オペレータの電話調査でのトークのスキルが上がること、二つ目は、選挙投票日に近づくにつれ有権者の選挙に対する意識が高くなり、投票行動がほぼ確定するからです。
(投稿日時 2024年10月20日)

国政選挙の予測 その一 過去の選挙の投票率

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国内や海外でのいろいろな選挙戦が各種のメディアで報道されています。そして、選挙戦の予測が伝えられています。選挙結果予測するためには、多角的な分析が必要です。そのために必要となるのが予測のパラメータ(変数)です。パラメータに沿って、予測を裏付ける資料とか過去のデータを集めると選挙の内実が理解できます。

 予測にはいろいろな見方や立場から、様々な組織や団体が世論調査をします。調査というのは、母集団であるすべての有権者に対して行うのは不可能ですから、どうしてもサンプルといわれる標本を抽出しなければなりません。その際、人口構成から同じ比率でどの位のサンプルを抽出するかなど、最も難しい作業が待っています。

 選挙予測の正確さを期するために、次の9つのパラメータが有力でないかと思われます。すなわち「過去の選挙投票率」、「最新の世論調査結果」、「知名度や人気」、「選挙制度」、「メディアの報道」、「経済や景気動向」、「地域の人口動態」、「投票率」、「戦略とキャンペーン」です。もちろん他にもあるかもしれません。「過去の選挙投票率」から選挙の予測を考察していきましょう。

過去の選挙投票率
 過去の選挙における有権者の投票行動は、投票後の統計から分かります。これは変えようがありませんので、最も信頼できるパラメータといえます。選挙における年代別投票率とか都道府県の投票率、各党が獲得した投票率などです。投票率は選挙結果に大きく影響します。

 過去のアメリカ大統領選挙の結果を振り返ってみます。1980年の大統領選挙では 「小さな政府」 という明確な保守主義を掲げた共和党のドナルド・レーガン(Donald Reagan)が当選します。後に「レーガノミクス」と呼ばれる大幅減税と積極的財政政策を実施し、経済の回復と共に双子の赤字をもたらしたといわれます。外交面では、イラン革命やニカラグア(Nicaragua)でのサンディニスタ(Sandinista)政権成立によって親米独裁政権が失われ、この失地を挽回すべく強硬策を貫き「強いアメリカ」を印象付けた大統領です。

 その後、1989年にはジョージ・W.ブッシュ(George Busch)が、1993年にはビル・クリントン(Bill Clinton)が選ばれます。クリントンは“ニュー・デモクラット”(New Democrat)を旗印に民主党を中道寄りに導き、「大きな政府の時代は終わった」と、新しい民主党の理念を訴えて当選します。2001年には、ジョージ・ブッシュ Jr.が選ばれます。彼の支持者は、宗教的右派、社会的保守派など共和党の枠を越える保守層でした。

 2009年のバラク・オバマ(Barack Obama)の当選では、「オバマ連合」”が健在であることが明らかになりました。オバマ連合とは民主党リベラル派とヒスパニック系、アフリカ系などの少数派、さらに浮動票といわれていた若者層のことです。

 2017年にはドナルド・トランプ(Donald Trump)が勝利し、在任中の4年間は「アメリカ第一」を前面に出して政権を運営し、不法移民がアメリカの労働者の職を奪っているとして激しく非難しました。さらにTPP(環太平洋パートナーシップ)協定やNAFTA(北米自由貿易協定)についても国益にならないと否定的な見解を示して支持をえました。主に労働者の浮動票を集めて当選したのです。

 最近では2021年にジョー・バイデン(Joe Biden)が黒人や女性、ヒスパニックの支持を得て当選します。選挙戦では、こうしたマイノリティと呼ばれる人々の投票率が大きく伸びたことが分かっています。ちなみにヒスパニック系アメリカ人の有権者は、ニューメキシコ州では35%、カリフォルニア州では27%、テキサス州では21%強、フロリダ州では18%強、アリゾナ州では12%、ニュージャージー州では10%強に達しています。こうした人々の多くは浮動票と呼ばれがちでした。激戦州(Swing State)と呼ばれる州の選挙では、浮動票が選挙結果を左右したといわれます。2024年の大統領選挙戦では、過去の投票率や投票結果を参照しながら、さまざまな予測がたてられるのはお分かりのとおりです。

“Swing Vote”

 浮動票の投票行動が、どのように選挙に与えたかを描くアメリカ映画があります。2008年制作の「Swing Vote」というコメディ映画です。トレーラーハウスに住む飲んだくれの父親とその父の世話をやく小学生の娘モリーが主人公です。「選挙で投票なんかしたって、貧乏は変わらない」というダラダラの父親に対して、モリーは「自分たちの一票には力がある」と語ります。大統領選挙が近づき、モリーは同行して父親の有権者登録を手伝います。そして、投票日には自分と一緒に投票所に行くことを約束させるのです。しかし、投票前日に父親は飲み過ぎて、投票所に現れません。そこで、モリーは投票用紙を持って父親に代わり、こっそりと投票しようとするのです。この一票こそが、やがて次期大統領を決めるものとなる、という非常に真面目なストーリーの映画です。

ウィスコンシン州とマッカーシズムの終焉 その四

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 1954年の陸軍とマッカーシーの公聴会が大々的に報道されます。同年、マッカーシーによって不当にも糾弾されていたワイオミング州(Wyoming)選出の上院議員レスター・ハント(Lester C. Hunt)が自殺します。この事件でマッカーシーの支持と人気は急落していきます。1954年12月、上院は67対22でマッカーシーを非難する決議を可決し、マッカーシーはこうした懲戒処分を受けた数少ない上院議員の一人となります。マッカーシーは共産主義と社会主義に反対する運動を続けますが、その後48歳で死去します。マッカーシーの死亡診断書には死因として「急性肝炎、原因不明」と記されました。

Joseph_McCarthy

 マッカーシーの伝記作家たちは、上院での彼への非難の後、彼は悪い方向に変わったという点で一致しています。肉体的にも精神的にも衰え、「以前の自分とはかけ離れた青白い亡霊」(pale ghost of his former self)になっていたといわれます。マッカーシーは肝硬変(cirrhosis of the liver)を患い、アルコール中毒(alcohol abuse)で頻繁に入院していたと報告されています。上院補佐官やジャーナリストを含む多数の目撃者が、上院で彼が酔っ払っているのを見たとも報告しています。そして、ジャーナリストのリチャード・ローヴェレ(Richard Rovere)は次のように書いています。

 「彼は常に大酒飲みで、不満の時期にはこれまで以上に飲むこともあった。しかし、常に酔っていたわけではない。彼は何日も何週間も禁酒していた 。彼にとっては、ウイスキーの代わりにビールを飲むことを意味した。晩年の問題は、酒に我慢できなくなったことだった。2杯目、3杯目を飲むと気が狂いそうになり、すぐには立ち直れなかった。」

おわりに
 リチャード・ロービア(Richard H. Rovere)が書いた『上院議員 ジョー・マッカーシー』という著作に次のようなフレーズがあります。「多くの点でアメリカが生んだもっとも天分豊かなデマゴーグだった。われわれの間をこれ程大胆な扇動家が動きまわったことはかつてなかったj。社会学者のタルコット・パーソンズ(Talcott Parsons)は「マッカーシズムは一部の既得権益分子に支持された運動であり、同時に上流階級に対する民衆の反抗である」と説明したことも知られています。マッカーシズムが果たして民衆の反逆であったかは理解しかねますが、いずれにせよ、第二次大戦後の冷戦の副産物であったといえるようです。

参考資料
・Senator Joe McCarthy (1959) Richard H. Rovere
・Affidavit of February 23, 1954, Talcott Parsons

(投稿日時 2024年9月24日)

ウィスコンシン州と陸軍への調査やハリウッドへの追求 その三

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 1953 年秋、マッカーシーの委員会はアメリカ陸軍に対する不可解な調査を開始します。これはマッカーシーが陸軍通信部隊の研究所の調査を開始したことから始まります。彼は陸軍の研究者の間に危険なスパイ組織があるというニュースでいくつかの見出しを飾ります。しかし、数週間の公聴会の後、彼の調査は何も成果をあげることができませんでした。国務省の外交政策に関わった中国学者オーエン・ラティモア(Owen Lattimore)、元陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル(George Marshall)らもマッカーシーからにらまれます。マッカーシーの赤狩りは政界だけではありませんでした。ハリウッドの映画界のスターであったチャーリー・チャップリン(Charles Chaplin)、ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda)、グレゴリ・ペック(Gregory Peck)、さらには物理学者のロバート・オッペンハイマー(Robert Oppenheimer)も遡上にあげられます。

チャーリー・チャップリン

Julius Robert Oppenheimer

 陸軍とマッカーシーの公聴会が開かれます。1954 年初頭、米陸軍はマッカーシーとその主任顧問ロイ・コーンが、マッカーシーの元補佐官でコーンの友人で、当時陸軍に兵卒として勤務していた デイビッド・シャイン(David Schine)に有利な待遇を与えるよう陸軍に不当に圧力をかけたと告発します。共和党の上院議員カール・ムント(Karl Mundt)が委員長に任命され、陸軍とマッカーシーの公聴会は 1954年4月に開催されます。公聴会は36日間続き、ABCとテレビネットワーク会社のデュモント(DuMont)によって生放送され、推定2000万人が視聴します。32人の証人と200万語の証言を聞いた後、委員会はマッカーシー自身はシャインのために不適切な影響力を行使しなかったが、コーンは過度に執拗または攻撃的な努力を行った、と結論付けます。

マッカーシズムの後退
 マッカーシーにとって、委員会の結論の出ない最終報告書よりもずっと重要だったのは、この公聴会に関する報道が彼の人気にマイナスの影響を与えたことです。聴衆の多くは彼を横暴で無謀で不誠実だとみなし、新聞でも毎日の公聴会の要約もしばしば不利な報道がなされます。公聴会の終盤、スチュアート・サイミントン(Stuart Symington)上院議員はマッカーシーに対して怒りと予言に満ちた発言をします。マッカーシーから「あなたは誰も騙せません」と言われると、サイミントン議員は「上院議員、アメリカ国民は6週間もあなたを見てきました。あなたもまた、誰も騙せません」と答えたといわれます。1954年1月のギャラップ世論調査(Gallup Poll)では、回答者の50%がマッカーシーに対して肯定的な意見を持っていました。6月にはその数は34%に減少します。同じ世論調査で、マッカーシーに対して否定的な意見を持つ人は29%から45%に増加していきます。

 共和党員や保守派の間では、マッカーシーを党と反共産主義にとっての不安な人物だととみなす人が増えていきます。ジョージ・ベンダー(George H. Bender)下院議員は「共和党に対する不満が高まっている。マッカーシズムは魔女狩り(witch-hunting)、市民の自由の否定と同義語になっている」と指摘していきます。長年にわたり頑固な反共産主義者として名声を博してきた記者フレデリック・ウォルトマン(Frederick Woltman)さえも、ニューヨーク・ワールド・テレグラム紙(New York World-Telegram)にマッカーシーを批判する5回シリーズの記事を書きます。ウォルトマンはマッカーシーが「反共産主義の大義にとって大きな重荷になっている」と述べ、「事実や事実に近いことを極端にねじ曲げて、その分野の権威を反発させている」と非難するのです。

リコール運動と非難決議
 やがてマッカーシーに対するリコール運動が始まります。リコールは無謀だという批判にもかかわらず、「ジョーは去らねばならない」という運動は勢いづき、他の共和党指導者、民主党員、実業家、農家、学生を含む多様な連合の支持を得ていきます。ウィスコンシン州憲法は、リコール選挙を強制するために必要な署名数は、選挙で集められた署名数の4分の1を超えなければならないと規定していました。反マッカーシー運動は 60日間で約 404,000の署名を集める必要がありました。労働組合や州民主党からの支援がほとんどなかったため、大まかに組織されたリコール運動は、特に陸軍とマッカーシーの公聴会が同時に行われていた間、全国的な注目を集めました。

 マッカーシーは非難を受けた後も、さらに 2 年半、上院議員としての職務を続けます。しかし、大物公人としての彼の経歴はもはや通用しなくなります。上院の同僚たちは彼を避け、上院議場での彼の演説は、ほとんど人がいない議場で行われたり、あからさまに無関心な態度で受け取られたりしました。かつては彼の公の発言をすべて記録していた報道機関は彼を無視し、外での講演依頼はほとんどなくなりました。ついにマッカーシーの政治的脅迫から解放されたアイゼンハワーは、閣僚にマッカーシズム(McCarthyism)は今や「マッカーシズム」(McCarthywasm)であると皮肉を言うほどでした。

 それでも、マッカーシーは共産主義と社会主義を非難し続けました。彼はソ連との首脳会談に大統領が出席することに対して警告し、「暴政と殺人の大義を推進することなく、暴君や殺人者に友情を示すことはできない」と述べます。彼は「共産主義者との共存は不可能であり、名誉あることではなく、望ましいことでもない。我々の長期目標は、地球上から共産主義を根絶することであるべきだ」と宣言するほでした。上院での最後の行動の1つとして、マッカーシーはアイゼンハワー大統領によるウィリアム・ブレナン(William J. Brennan)の最高裁判所判事への指名に反対します。これは、ブレナンが直前に行った演説でマッカーシーの反共産主義調査を「魔女狩り」と評したからです。しかし、マッカーシーの反対は支持を得ることができず、彼はブレナンの承認に反対票を投じた唯一の上院議員となります。
(投稿日時 2024年9月19日)  成田 滋

ウィスコンシン州とジョセフ・マッカーシー その一

はじめに
 ウィスコンシン州の政治で忘れられないのは、極右と呼ばれた上院議員の存在です。その人物は、ジョセフ・マッカーシー(Joseph R. McCarthy)。1947年から1957年に48歳で死去するまで、ウィスコンシン州選出の共和党上院議員(Republican U.S. Senator)を務めたアメリカの政治家です。1950年以降、冷戦の緊張により共産主義による破壊活動が国内に広まるのではないかという恐怖がアメリカで高まっていた時期に頭角を現した政治家です。これから四回にわたり、合衆国の政治でマッカーシーがどのような影響を与えたかを考えていきます。

 冷戦状態が高まるにつれて、多数の共産主義者とソ連のスパイやシンパがアメリカ連邦政府、大学、映画業界などに潜入していると主張し、いわばレッドパージ(red purge)しようとしたのがマッカーシーです。1950年にマッカーシーの行為に関連して作られた「マッカーシズム」(McCarthyism)という用語は、反共産主義活動に適用されるようになりました。今日では、この用語はより広い意味で、扇動的で無謀で根拠のない非難、および政治的反対者の性格や愛国心に対する公的な攻撃を意味します。最終的に、マッカーシーは、彼が非難されるべきかどうかを調査するために設置された委員会への協力を拒否し、委員を攻撃したとして1954年に上院から非難され政界から追われます。

Joseph R. McCarthy

マッカーシーの経歴
 ウィスコンシン州グランドシュート(Grand Chute)生まれのマッカーシーは、1942年に海兵隊(Marine Corps)に入隊し、急降下爆撃機中隊の情報報告担当官を務めます。第二次世界大戦の終結後、少佐に昇進します。砲手観測員として12回の戦闘任務に志願します。これらの任務は概ね安全で、後に彼の英雄的行為の主張のいくつかは後に誇張または偽りであることが判明し、「テールガンナー・ジョー」(Tail-Gunner Joe)というあだ名がつけられ揶揄されたようです。テールガンナーとは爆撃機の最後尾に備えられた攻撃機を狙う機関砲の射手のことです。

 マッカーシーは1944年、現役軍人(active duty)でありながらウィスコンシン州で共和党上院議員候補指名選挙に立候補しますが、現職のアレクサンダー・ワイリー(Alexander Wiley)に敗れます。太平洋戦争が終結する1945年9月の5か月前の1945年4月に海兵隊を退役した後、マッカーシーは巡回裁判所判事(circuit court judge)に無投票で再選されます。その後、ウィスコンシン州共和党の政治ボスであるトーマス・コールマン(Thomas Coleman)の支援を得て、1946年の共和党上院議員予備選挙でより組織的な選挙活動を開始します。この選挙でマッカーシーが挑んだのは、ウィスコンシン進歩党の創設者で、ウィスコンシン州知事兼上院議員のロバート・M・ラフォレット・シニア(Robert M. La Follette Sr)の息子で、3期務めたロバート・M・ラフォレット・ジュニア(Robert M. La Follette Jr)上院議員でした。

(投稿日時 2024年9月12日) 成田 滋

ウィスコンシン州とマッカーシズム その2

注目

 マッカーシーは選挙運動で、真珠湾攻撃のときラフォレットは46歳だったにもかかわらず、戦争中に入隊しなかったとしてラフォレットを攻撃します。また、マッカーシーが祖国のために戦っている間にラフォレットは投資で莫大な利益を上げたと主張します。実際、マッカーシー自身も戦時中に株式市場に投資し、1943年に4万2000ドル、現在の価値で73万9523ドルに相当の利益を上げていました。マッカーシーがそもそも、その投資資金をどこから得たのかは謎のままとされています。ラフォレットの投資はラジオ局への部分的な投資で、2年間で4万7000ドルの利益を上げたといわれます。

Harry Truman

 1944年まで民主党員だったマッカーシーは、1946年に共和党員として上院議員選挙に立候補し、ウィスコンシン州共和党予備選挙で現職のロバート・ラフォレット・ジュニアを破り、当時の民主党候補ハワード・マクマリー(Howard McMurray)を61%対37%の差で破り上院議員となります。上院議員として3年間目立った活躍はありませんでしたが、1950年2月にマッカーシーは、国務省(State Department)に雇用されている「共産党員とスパイ組織のメンバー(members of the Communist Party and members of a spy ring)」のリストを持っていると演説し、突如全国的に有名になります。

赤狩りの開始
 1950年の演説の後の数年間、マッカーシーは国務省(State Department)、ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)大統領の政権、ボイス・オブ・アメリカ(Voice of America)、および米軍への共産主義者の浸透についてさらに非難しはじめます。彼はまた、共産主義、共産主義者への共感、不忠、性犯罪などさまざまな容疑を使って、政府内外の多くの政治家やその他の個人を攻撃していきます。これには、同性愛(homosexuals)の疑いのある人々に対する同時進行の「ラベンダーの恐怖」(Lavender Scare)も含まれていました。当時、同性愛は法律で禁止されていたため、同性愛は脅迫の危険を高めるとも考えられていたのです。「ラベンダーの恐怖」とは、共産主義者を標的にした赤狩りの一環として、政府内の同性愛者とおぼしき人間を粛清する大規模な取り組みのことです。いわば、アンチゲイパージ(Anti-Gay Perge)のことです。

ハリウッドの赤狩り反対運動

 新聞コラミストであったジャック・アンダーソン(Jack Anderson)によると、マッカーシーの選挙資金はラフォレットの10倍で、その多くは州外からの資金だったとされます。マッカーシーへの票はラフォレットに対する共産党の恨みによるものでした。ラフォレットが戦争中に不当利得を働いたという指摘は大きなダメージとなり、マッカーシーは予備選挙で勝利します。この選挙運動中にマッカーシーは戦時中のニックネーム「テールガンナー・ジョー」を宣伝し始め、「議会にはテールガンナーが必要だ」というスローガンを掲げて選挙戦を展開します。ジャーナリストのアーノルド・ベイクマン(Arnold Beichman)は後に、マッカーシーが「共産党が支配する全米電気・ラジオ・機械労働組合(CIO)の支援を受けて上院議員に初当選した」と述べます。同組合は反共産主義者のラフォレットよりもマッカーシーを推薦したのです。民主党の対立候補ハワード・マクマリー(Howard J. McMurray)との総選挙では、マッカーシーは61.2%の得票率で勝利します。

 1953年1月に上院議員としての第2期の初めに、マッカーシーは政府事業(Government Operations)に関する上院委員会の議長になりました。いくつかの報告によると、共和党の指導者たちはマッカーシーの手法を警戒し、内部のセキュリティ小委員会ではなく、この比較的平凡なパネルとされていた共産主義者の調査に関与している委員会に権限を与えました。上院多数党の指導者ロバート・タフト(Robert A. Taft)の言葉によれば、政府事業に関する委員会には、調査に関する上院恒久小委員会(Senate Permanent Subcommittee)が含まれており、この小委員会の任務は、マッカーシーが政府の共産主義者の彼自身の調査にそれを使用できるようにするのに十分な柔軟性を備えていたといわれます。マッカーシーは、ロイ・コーン(Roy Cohn)を最高顧問に、27歳のロバート・ケネディ(Robert F. Kennedy)を小委員会の助言補佐官に任命します。
(投稿日時 2024年9月16日) 成田 滋

ウィスコンシン州のフランク・ロイド・ライト

注目

 アメリカの建築家、フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wight)はウィスコンシンの出身です。フランスのル・コルビュジエ(Le Corbusier)、ドイツのミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe)とともに「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる世界的に著名な建築家です。建築好きな人に限らず、多くの人々は彼の作品には魅了されています。

Frank Lloyd Wight

 ウィスコンシン州の田舎で育ったライトは、ウィスコンシン大学で土木工学(civil engineering)を学び、その後シカゴでジョセフ・シルズビー(Joseph L. Silsbee)のもとで短期間、その後アドラー・アンド・サリバン社(Adler & Sullivan)でルイス・サリバン(Louis Sullivan)のもとで徒弟として働きます。ライトは 1893年にシカゴで自身の事務所を開き、1898年にはイリノイ州オークパーク(Oak Park)の自宅にスタジオを構えます。

 ライトは、建築家はもちろん、デザイナー、作家、教育者でもありました。70年間の創作活動で800以上の建築物を設計します。ライトは20世紀の建築運動において重要な役割を果たし、作品を通じて世界中の建築家に影響を与えます。「タリアセン・フェローシップ」(Taliesin Fellowship)という建築塾で何百人もの弟子を指導します。 「タリアセン」とは、ウイスコンシンのスプリング・グリーン(Spring Green)という町にある工房であり、弟子や学生と自給自足の共同生活を営みながら、建築の教育と実践を行なったところです。スプリング・グリーンは、州都マディソンの西約55キロにありウィスコンシン川沿いに位置する1,566人の街です。

 ライトは、人間と環境との調和を考えた設計を信条としており、これを有機的建築(organic architecture)と呼びます。この哲学は、1935年に設計されたフォーリング・ウオーター(Fallingwater)という建物に示され、「アメリカ建築史上最高の作品」と呼ばれています。この建物は、ペンシルベニア州のピッツバーグ(Pittsburgh)から南東に80キロほどの地に今も建っています。ニューヨーク市マンハッタン(New York, Manhattan)にある「グッゲンハイム美術館」(Solomon R. Guggenheim Museum)も傑作の一つとされています。「かたつむりの殻」と形容される螺旋状の構造をもった建築で、美術館施設の概念を根本から覆した作品として知られています。

Solomon R. Guggenheim Museum


 ライトは、後にプレーリー派(Prairie School movement)と呼ばれるようになった建築運動の先駆者です。プレーリー派とは、屋根を低く抑えた建物が地面に水平に伸び広がる設計手法で、草原様式とも呼ばれています。建物は自然に調和するというのが彼の信条です。都市構想である電化、機械的機動性、有機的建築というブロードエーカーシティ(Broadacre City)の考え方による、コンパクトで魅力に満ちた小住宅であるユーソニアン住宅(Usonian home)のコンセプトも考案し、アメリカの都市計画のビジョンを示します。また、独創的で革新的なオフィス、教会、学校、高層ビル、ホテル、美術館、その他の商業プロジェクトの設計も手がけていきます。マディソン市にあるユニテリアン教会(Unitarian Church)も独特な設計で有名です。

Unitarian Church, Madison,WI


 ライトの設計では、内装要素である鉛ガラスの窓、床、家具、さらには食器などが構造物に取り入れられています。ライトは数冊の本と多数の記事を執筆し、アメリカやヨーロッパで人気の講師でもありました。ライトは1991年にアメリカ建築家協会から「史上最も偉大なアメリカ人建築家」として認められます。2019年、彼の作品の一部が「フランク・ロイド・ライトの20世紀建築」(20th-Century Architecture of Frank Lloyd Wright)として世界遺産に登録されるのです。

Fallingwater


 ライトの建築物は我が国でも見られます。兵庫県芦屋市の丘の上にある「ヨドコウ迎賓館」は、1918年に灘五郷の造り酒屋、櫻正宗の八代目当主山邑太左衛門の別邸として設計されました。西池袋に所在する「自由学園明日館」は、1997年に国の重要文化財として指定され、歴史ある建物となっています。世田谷区にある旧林愛作邸もライトの設計によるものです。旧知であった帝国ホテル初の日本人支配人、林愛作の住宅です。

帝国ホテル、明治村

 最後に紹介するのは、博物館明治村にある「帝国ホテル中央玄関」です。1923年に、4年間もの大工事を経て2代目として開業した帝国ホテル・ライト館です。ライトが日本で初めてホテルの建築を手がけ、彼の代表作の一つとも言われています。旧帝国ホテル解体と保存は、株式会社帝国ホテル、日本建築学会、帝国ホテルを守る会、博物館明治村らによって17年間もの歳月を要して実現します。”東洋の宝石”と称される帝国ホテルのデザインは、まさに造形美の粋といわれ、現在は愛知県犬山市の博物館明治村でその雄姿を見ることができます。
(投稿日時 2024年9月9日) 成田 滋

ウィスコンシン州の政治とロバート・ラフォレット

注目

 ウィスコンシン州の政治の歴史を取り上げることにします。20世紀になるとウィスコンシン州にロバート・ラフォレット(Robert M. La Follette)という政治家が登場します。やがて彼は州知事となります。1916年にはウィスコンシン州では女性参政権運動家の選挙運動が認められ、さらに合衆国憲法第19修正条項(Nineteenth Amendment)を批准した最も早い州の 1つとなりました。この条項は、女性の参政権を認め、性別による選挙における差別を禁止するものです。

Robert M. La Follette

 20世紀初頭は、ラフォレットが推進した進歩主義政治の出現が注目されました。1901年から1914年にかけて、ウィスコンシン州の進歩主義共和党は、国内初の包括的な州全体の予備選挙制度、初の有効な職場傷害保障法、および初の州所得税を創設し、実際の収入に比例した課税を行いました。

 第一次世界大戦中、ウィスコンシン州は中立の立場にありました。その理由はウィスコンシン州の共和党員、進歩主義者、および州人口の 30~40パーセントを占めるドイツ人移民が多かったことからです。そのためにウィスコンシン州は「反逆者州(Traitor State)」というあだ名をつけられ、国内にいる多くの過激な愛国者(hyper patriots)によって非難されるという経過を辿りました。

 ヨーロッパで戦争が激化する中、ウィスコンシン州の反戦運動のリーダーであるラフォレットは進歩派の上院議員のグループを率いて、商船に銃を装備するというウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)大統領の法案を阻止しました。しかし、エマニュエル・フィリップ(Emanuel L. Philipp)やアーヴィン・レンルート(Irvine Lenroot)などウィスコンシン州の共和党政治家の多くは、アメリカの忠誠心を二分していると非難されていきます。

 州内に戦争に公然と反対する人々がいたにもかかわらず、戦争が始まると、多くのウィスコンシン州民は中立を破棄します。やがて企業、労働者、農場はすべて戦争による繁栄を享受していきます。118,000人以上の若者が兵役に就き、ウィスコンシン州は米軍が実施した全国徴兵(national drafts)に最初に応募した州となります。

Woodrow Wilson

 進歩的な州の発展原理であるウィスコンシン・アイディア(Wisconsin Idea)は、このときウィスコンシン大学エクステンション・システム(statewide expansion)を通じてウィスコンシン大学の州全体への拡張の推進力となります。その後、ウィスコンシン大学の経済学教授ジョン・コモンズ(John R. Commons)とハロルド・グローブス(Harold Groves)は、1932年にウィスコンシンが米国初の失業手当プログラムを作成するのに貢献します。同大学の他のウィスコンシン・アイディアを支持する学者は、ニューディール政策(New Deal’s)の1935年社会保障法(Social Security Act)となる計画を考案します。この計画を推進したのはウィスコンシンの法律学者であったアーサー・アルトマイヤー(Arthur J. Altmeyer)で、彼は重要な役割を果たします。

第一次世界大戦のヨーロッパ戦線

 第二次世界大戦直後、ウィスコンシン州民は、国連の創設、ヨーロッパの復興支援、ソ連の勢力拡大などの問題で分裂していました。しかし、ヨーロッパが共産主義陣営と資本主義陣営に分裂し、1949年に中国共産主義革命が成功すると、共産主義の拡大から民主主義と資本主義を守ることを支持する方向に世論が動き始めていきます。
(投稿日時 2024年9月8日) 成田 滋

ウィスコンシンは多民族のるつぼ

注目

 2022年のウィスコンシン州で実施されたアメリカ人コミュニティ調査(American Community Survey)によりますと、ヨーロッパ系の祖先が最も多かったのは5つのグループで、ドイツ系(36%)、アイルランド系(10.2%)、ポーランド系(7.9%)、イギリス系(6.7%)、ノルウェー系(6.3%)となっています。ドイツ系は、メノミニー(Menominee)、トレンパロー(Trempealeau)、ヴァーノン(Vernon)といった郡を除く州内のすべてで最も一般的な祖先となっています。ウィスコンシン州は、ポーランド系の住民の割合がどの州よりも高いのも特徴です。その他、ウィスコンシン州の人口の7.6%はヒスパニック(Hispanic)やラテン系(Latino)です。最大のヒスパニック系の祖先グループは、メキシコ系(5.1%)、プエルトリコ系(1.1%)、中央アメリカ人(0.4%)、キューバ系(0.1%)で、0.9%がその他のヒスパニック系またはラテン系の起源であるといわれています。

民族のお祭り

 ウィスコンシン州はもともと、民族的に多様性に富んでいる州です。フランスの毛皮商人が活躍した時代が過ぎた後、次の移住者の波は鉱山労働者で、その多くはコーンウォール人(Cornish)で、州の南西部に定住します。コーンウォール人とは、イングランド南西端に位置する地域から移民でやってきた人々です。次の波はニューイングランド(New England)とニューヨーク州北部からのイギリス系移民である「ヤンキー(Yankee)」が支配的でした。州成立初期には、彼らは州の重工業、金融、政治、教育を支配していました。1850年から1900年の間、移民は主にドイツ人、スカンジナビア人で最大のグループはノルウェー人(Norwegian)、アイルランド人(Irish)、ポーランド人(Polish)でした。20世紀には、多くのアフリカ系アメリカ人とメキシコ人がミルウォーキー(Milwaukee)に定住し、ベトナム戦争の終結後にはモン族(Hmongs)の流入が特徴的です。

ノルウェー人の独立記念祭

 モン族は中国からラオスまで国境をまたいで拡がっている民族ですが、ベトナム戦争により、アメリカに避難してきた人々です。ウィスコンシン州のアジア系人口の約33%はモン族であり、ミルウォーキー(Milwaukee)、ウォソー(Wausau)、グリーン ベイ(Green Bay)、シュボイゲン(Sheboygan)、アップルトン(Appleton)、マディソン(Madison)、ラクロス(La Crosse)、オークレア(Eau Claire)、オシュコシュ(Oshkosh)、マニトワック(Manitowoc)に重要なコミュニティがあります。ウィスコンシン州では 61,629人、つまり人口の約 1%がモン族であると自認するほどです。

 さまざまな民族グループが州のさまざまな地域に定住しました。ドイツ人移民は州全体に定住したのですが、最も集中していたのはミルウォーキーで付近です。ノルウェーからの移民は北部と西部の林業と農業地帯に定住しました。アイルランド、イタリア、ポーランドからの移民は主に都市部に定住していきました。グリーンベイの北部に位置するメノミニー郡(Menominee County)はアメリカ東部で唯一、ネイティブアメリカン(Native American)が多数を占める郡となっています。

モン族の人々

 アフリカ系アメリカ人(African American)は、特に1940年以降、ミルウォーキーに移住します。工業が盛んなので就労が容易だったからです。ウィスコンシン州のアフリカ系アメリカ人人口の86%は、ミルウォーキーやラシーン(Racine)地域に住んでいます。

 終わりにウィスコンシン州の住民のうち、71.7%はウィスコンシン州で生まれで、23.0%はアメリカの他の州で生まれ、0.7%はプエルトリコ、アメリカの島嶼部で生まれたか、またはアメリカ人の両親のもとで海外で生まれ、4.6%は外国生まれという調査結果となっています。まさに人種のるつぼがウィスコンシンなのです。
(投稿日時 2024f年9月6日)  成田 滋

ウィスコンシン州の地理的な特徴

注目

 ウィスコンシン州の地理や地図を紹介することにします。日本人の多くは、「一体、ウィスコンシンってどこにあるの?」と聞き返すでしょう。それも仕方がありませんね。ミシガンやイリノイ(Illinois)に比べて知名度はいまちといったところです。ですが、最近の2025年大統領選挙戦の報道で一躍その名が知られています。

Map of Wisconsin

サイロ

 ウィスコンシン州は、アメリカ中西部に位置し、五大湖(Great Lakes)地域と中西部北部(Upper Midwest)の両方にまたがっています。州の総面積は169,630 km2です。ちなみに日本378,000 km2です。ウィスコンシン州は、北はモントリオール川(Montreal River)、スペリオル湖(Lake Superior)とミシガン州、東はミシガン湖(Lake Michigan)、南はイリノイ州、南西はアイオワ州(Iowa)、北西はミネソタ州(Minnesota)と接しています。ミシガン州との国境紛争は、1934年と1935年の2つのウィスコンシン州対ミシガン州訴訟で解決しました。ウィスコンシン州の境界には、西はミシシッピ川(Mississippi River)とセント・クロワ川(St. Croix River) 、北東はメノミニー川(Menominee River)が流れています。

 五大湖とミシシッピ川の間に位置するウィスコンシン州には、多様な地形が広がっています。州は 5つの地域に分かれています。北部のスペリオル湖低地は、スペリオル湖に沿った一帯を占めています。そのすぐ南の北部高地には、61 万ヘクタールのチェワメゴン・ニコレット国有林(Chequamegon-Nicolet National Forest)を含む、針葉樹と広葉樹が混在する広大な森林があり、数千の氷河湖と州最高地点のティムズヒル(Timms Hill)があります。

 中央平原には、豊かな農地に加えて、ウィスコンシン川のデルズ(Dells)のようなユニークな砂岩層があります。南東部のイースタンリッジ(Eastern Ridges)とローランド地域(Lowlands)には、ウィスコンシン州の大都市の多くが集まっています。尾根には、ニューヨークから伸びるナイアガラ断崖(Niagara Escarpment)、ブラックリバー断崖(Black River Escarpment)、マグネシアン断崖(Magnesian Escarpment)などがあります。南西部のウェスタンアップランド(Western Upland)は、ミシシッピ川沿いの多くの断崖を含む、森林と農地が混在する険しい地形となっています。この地域はドリフトレス・エリア(Driftless Area)の一部であり、アイオワ州、イリノイ州、ミネソタ州の一部も含まれています。全体として、ウィスコンシン州の陸地面積の46%は森林に覆われています。

なだらかな平原と酪農

 ウィスコンシン州には、30億年以上から数千年にわたるさまざまな地質構造と堆積物があり、ほとんどの岩石は数百万年前のものといわれます。最も古い地質構造は、6億年以上前の先カンブリア時代(Precambrian)に形成され、その大部分は氷河堆積物の下にあります。バラブー山脈(Baraboo Range)の大部分はバラブー珪岩(Baraboo Quartzite)とその他の先カンブリア時代の変成岩で構成されています。この地域は、最も最近の氷河期であるウィスコンシン氷河期には氷河に覆われていませんでした。ラングレード郡(Langlade County)には、アンティゴ・シルト・ローム(Antigo silt loam)と呼ばれる砂・シルト・粘土がほぼ等分の土壌が堆積しています。郡外ではあまり見られない土壌といわれます。

Summer of Wisconsin

 氷河が後退するとき、谷を削りながら時間をかけて流れ、削り取られた岩石・岩屑や土砂などが土手のように残ります。この岩石や岩屑のことをモレーン(moraine)といいます。ウィスコンシンの平原は氷河の影響でなだらかになっていますがモレーンが多いのです。酪農が盛んになったのは、気候の他にこうしたモレーンのために土壌が小麦やトウモロコシなどの大規模農業に敵さず、人々は酪農に従事することになります。
(2024年9月4日) 成田 滋
 

ウィスコンシンの経済発展

 ウィスコンシン州の経済は、州成立初期から多様化していきます。鉛採掘が衰退する一方で、農業が州の南半分で主要な職業となります。穀物を市場に輸送するために州全体に鉄道が敷かれ、ミシガン湖畔の都市ラシーン(Racine)の J.I.ケース会社(J.I. Case & Company) のような産業が農業機器の製造のために設立されました。ウィスコンシン州は 1860年代に一時的に国内有数の小麦生産地となりました。

盛んだった林業

 他方、森林が密集したウィスコンシン州北部では製材業が主流となり、ラクロス(La Crosse)、オークレア(Eau Claire)、ワソー(Wausau)などの都市に製材所が出現しました。しかし、これらの経済活動は環境に悲惨な影響を及ぼしてしまいます。19世紀末までに、集約農業は土壌の肥沃度を破壊し、製材業は州の大部分の森林を伐採しました。これらの状況により、小麦農業と製材業はともに急激に衰退します。

レッドオーク

 1890年代初頭、ウィスコンシン州の農家は、土地をより持続可能かつ収益性の高い方法で利用するために、小麦栽培から酪農生産へと転換します。多くの移民がチーズ作りの伝統を受け継いでいき、この伝統とウィスコンシン大学(University of Wisconshin)のスティーブン・バブコック(Stephen Babcock)が率いた酪農研究が相まって、ウィスコンシン州は「アメリカの酪農地帯」という評判を築くのに役立ちます。

 他方、アルド・レオポルド(Aldo Leopold)などの自然保護論者は、20世紀初頭に州の森林の再生を支援し、より再生可能な製材および製紙産業への道を開き、北部の森林地帯でのレクリエーション観光を促進します。20世紀初頭には、ヨーロッパからやってきた膨大な移民労働者によって、ウィスコンシン州で製造業も急成長します。ミルウォーキー(Milwaukee)のような都市の産業は、醸造や食品加工から重機製造や工具製造まで多岐にわたり発展します。やがてウィスコンシン州は1910 年までに総生産額で米国の州の中で第8位にランクされます。

Aldo Leopold


(投稿日時 2024年9月3日) 成田 滋

ウィスコンシンの歴史−毛皮貿易

注目

 イギリスはフレンチ・インディアン戦争中(French and Indian War)にウィスコンシンを次第に勢力を拡大し、1761年にグリーンベイ(Green Bay)を支配し、1763年にはウィスコンシン州全体を支配します。フレンチ・インディアン戦争とは、1754~1763年まで、北米大陸でのイギリスとフランスの戦争で、フランス軍がインディアン諸部族と結んで、イギリス植民地軍を攻撃したのでイギリス側でこのように呼んでいます。植民地を巡る両国の最初の戦いです。

シングルヒルの戦い

 フランスと同様、イギリス人も毛皮貿易以外にはほとんど関心がなかったといわれます。ウィスコンシンの毛皮貿易産業における注目すべき出来事は、1791年に2人のアフリカ系アメリカ人がミシガン州境(Michigan)にあるマリネット(Marinette)にあるメノミニー族(Menominee)との間で毛皮交易所(fur trading post)を設立したことです。

 最初の永住者は、ほとんどがフランス系カナダ人(French Canadians)、一部のアングロ・ニューイングランド人(Anglo-New Englanders)、少数のアフリカ系アメリカ人解放奴隷で、彼らはウィスコンシンがイギリスの支配下にあったときに到着します。チャールズ・デ・ラングラード(Charles de Langlade)が一般に最初の入植者といわれ、1745年にグリーンベイに交易所を設立し、1764年にそこに永住します。入植は1781年頃にプレーリー・デュ・シン(Prairie du Chien)で始まります。プレーリー・デュ・シンは、ウィスコンシン州南西部にあり、ミシシッピ川に沿い,ウィスコンシン川との合流点から上流約 5kmに位置しています。 17世紀後半には軍事上,交易上の要地で,フランスやイギリスはそれぞれ砦と毛皮の交易所を設置していました。「Prairie du Chien」とは「平原のシダ植物」という意味です。

French and Indian War

 現在のグリーンベイ(Green Bay)にある交易所のフランス人居住者は、その町を「ラ・ベイ」(La Baye)と呼んでいました。しかし、イギリスの毛皮商人は、春先に水と海岸が緑色に染まることから、ここを「グリーンベイ」と呼んでいました。古いフランス語の呼び名は徐々に使われなくなり、最終的にイギリスの「グリーンベイ」という呼び名が定着しました。

 この地域がイギリスの支配下に入ったことは、フランス人居住者にほとんど悪影響を及ぼしませんでした。イギリスはフランスの毛皮商人の協力を必要とし、フランスの毛皮商人はイギリスの好意を必要としていたからです。フランスがこの地域を占領していた間、毛皮取引の許可証はほとんど発行されず、一部の商人グループにのみ発行されていましたが、イギリスはこの地域からできるだけ多くの金を儲けようと、イギリス人とフランス人居住者の両方に毛皮取引の許可証を自由に発行しました。

毛皮貿易

 当時、ウィスコンシン州における毛皮取引はイギリスの支配下で最高潮に達し、州で最初の自給自足の農場も設立されたほどでした。1763年から1780年まで、グリーンベイは繁栄したコミュニティとなり独自の食料を生産し、人々は優美なコテージを建て、ダンスや祭りを開催するほどでした。
(投稿日時 2024年9月2日)  成田 滋

ウィスコンシンの歴史−地名の由来

注目

 ウィスコンシンという語の由来についてです。ヨーロッパ人が入植した当時、この地域に住んでいたアルゴンキン語(lgonquian-speaking)を話すネイティブアメリカン(Native American)のグループの一つが、ウィスコンシン川に付けた名前に由来するといわれています。フランスの探検家ジャック・マーケット(Jacques Marquette)はウィスコンシン川(Wisconsin River)に到達した最初のヨーロッパ人で、1673年に到着し、日誌の中でこの川をメスコウジング(Meskonsing)と呼びました。その後、フランスの著述家がメスコウジングからウイスコンシン(Ouisconsin)に綴りを変え、時が経つにつれてこれがウィスコンシン川と周囲の土地の両方の名前になったといわれます。19世紀初頭に大量に到着し始めた英語を話す者は、綴りをウイスコンシンからウィスコンシンに英語化したようです。ウィスコンシン準州(Wisconsin Territory)の議会は、1845年に現在の綴りを公式に制定します。

Wisconsin in 1718

 ウィスコンシンを表すアルゴンキン語(Algonquian word) とその本来の意味は、どちらも不明瞭なようです。解釈はさまざまですが、ほとんどは川とその岸に並ぶ赤い砂岩に関係しています。有力な説の 1 つは、名前の由来はマイアミ語(Miami word)の「赤い」という意味の(Meskonsing) で、ウィスコンシン川がウィスコンシン デルズ(Wisconsin Dells)の赤みがかった砂岩を流れる様子に由来しているというものです。他の説には、名前の由来は「赤い石の場所」、「水が集まる場所」、「大きな岩」を意味するオジブワ語(Ojibwa)のさまざまな言葉の 1つであるという説もあります。いずれにせよ、どれも定説とはなっていません。

 ウィスコンシンの地を訪れた最初のヨーロッパ人は、フランスの探検家ジャン・ニコレット(Jean Nicolet)です。1634年にヌーベルフランス(New France)のサミュエル・ド・シャンプラン総督(Samuel de Champlain)の使者のニコレが、グリーンベイ(Green Bay)近くのレッド バンクス(Red Banks)に上陸しました。ジョージアン湾(Georgian Bay)から五大湖(Great Lakes)を通って西にカヌーで渡ってきたのです。さらにピエール・ラディソン(Pierre Radisson)とメダル・デ・グロセイリエ(Médard des Groseilliers)は1654年から1666年にグリーンベイを再び訪れ、1659年から1660年にはチェワメゴン湾(Chequamegon Bay)を訪れ、地元のネイティブアメリカンと毛皮の取引を行います。

Seal of Wisconsin

 1673年、ジャック・マーケットとルイ・ジョリエはフォックス・ウィスコンシン水路(Fox-Wisconsin Waterway)を通ってプレーリー・デュ・シン(Prairie du Chien)近くのミシシッピ川(Mississippi River)までの旅を記録した最初の人物となります。毛皮商人のニコラス・ペロー(Nicholas Perrot)などのフランス人は17世紀から18世紀にかけてウィスコンシン州で毛皮貿易を続けますが、フランスは1763年のフレンチ・インディアン戦争後(French and Indian War)でイギリスがこの地域を支配するまでウィスコンシン州に恒久的な入植地を作りませんでした。それでも、フランス人貿易業者は戦争後もこの地域で働き続け、1764年のシャルル・ド・ラングラード(Charles de Langlade)を皮切りに、イギリス統治下のカナダに戻るのではなくウィスコンシン州に永住した者もでてきました。

Cornish house


(投稿日時 2024年8月30日)成田 滋

ウィスコンシン州の大統領選挙戦渦中

注目

 今回のアメリカ大統領選挙戦では、民主党と共和党の論争が熾烈になってきています。それは、両党が最も重要視する州の選挙結果が大統領選挙戦の鍵となるからです。その州とはペンシルベニア(Pennsylvania)、ミシガン州(Michigan)、ウィスコンシン州(Wisconsin)、ミネソタ州(Minnesota)です。このあたりはアッパー・ミッドウエスト(Upper Midwest)と呼ばれ、農業、酪農、工業、製造業などが盛んで、アメリカの心臓部(America’s Heartland)とも呼ばれる地帯です。住む人々は、いわゆる中間層といわれ結構学歴の高い人々も多いところなので、両党ともこうした有権者に支持を訴えるのに懸命です。

Swing State

 アメリカ合衆国は50の州からなります。こうした50州は、歴史的に民主党や共和党の棲み分けがはっきりしている地盤となっているので、カマラ・ハリス(Kamara Harris)とドナルド・トランプ(Donal Trump)はこうした州ではほとんど選挙運動を行いません。例えばカリフォルニア州は民主党の地盤であり、テキサス州は共和党の地盤なのです。こうした岩盤となっている状態は、歴代の大統領選挙戦や連邦議会選挙ではっきりしています。

 合衆国には「選挙人団制度」があります。ちなみにカリフォルニア州(California)の選挙人は55名、ヴァモント州(Vermont)は3名という具合に、人口比によって選挙人数が決められています。州で最も多くの票を獲得した候補者が、その州の全ての選挙人票を獲得する方式で、これを「勝者総取り」と呼ばれています。全米の選挙人の総数は538人であり、大統領に選ばれるためには270の選挙人票を得る必要があります。つまり、一般投票で最も多い票を集めた正副大統領候補のコンビが、その州の選挙人票をすべて獲得します。

 最近の選挙戦報道で盛んに名前が出てくるウィスコンシン州を取り上げることにします。ウィスコンシン州は私が留学し学位を貰った思い入れの強い地でもあります。この州は、大統領や議員を選ぶ連邦選挙で民主党候補か共和党候補のどちらかが勝利するスイング州(swing state)とみなされています。どちらかに転ぶ(swing)かが分からない激戦区なのです。例えば、2020年の大統領選挙ではジョー・バイデン(Joe Biden)はわずか0.63%の差でウィスコンシン州を制します。その前の2016年の選挙ではトランプは0.77%というわずかな差でウィスコンシン州を制します。この選挙では、ウィスコンシン州民が1984年以来初めて共和党大統領候補に投票した時だったのです。元々ウィスコンシン州は、1992年から2012年までの各大統領選挙で民主党が勝利した州なのです。

 民主党の党カラーはブルーです。民主党群の州は、ブルーウォール(blue wall)と呼ばれ、ウィスコンシンもその一部でした。2012年、共和党大統領候補のミット・ロムニー(Mitt Romney)は、現職大統領バラク・オバマ(Barack Obama)に対抗する副大統領候補として、ウィスコンシン州の南部にあるジェーンズビル(Janesville)出身のポール・ライアン(Paul Ryan)下院議員を選びます。ロムニーはマサチューセッツ州知事などを歴任しますが、全国的には穏健派と見なされ、モルモン教会員であることや全国的な知名度の低さもあって、党内外で影響力の強い保守派の支持獲得が課題となっていました。そこで中西部の票を集めるために、ロムニーはライアンを副大統領候補として指名したのです。

 州全体では、ウィスコンシン州は二大政党の間で定期的に主導権が交代する競争が激しいところです。 2014年の総選挙後、州知事、副知事、州司法長官、州財務長官はすべて共和党員で、国務長官は民主党員でした。しかし、2018年には民主党が州憲法上の全役職を選挙で制します。現在の知事は、民主党員トニー・エヴァース(Tony Evers)ですが、この結果は、ウィスコンシン州では1982年以来初めてのことでした。

 ウィスコンシン州の住民はウィスコンシン人(Wisconsinites)と呼ばれています。ウィスコンシン州の農村経済では酪農とチーズ製造が伝統的な産業です。州のライセンスプレートには1940年以来「アメリカの酪農地帯(America’s Dairyland)」と記されています。「チーズヘッド(cheeseheads)」というあだ名が付けられています。非居住者の間では軽蔑的に使われることもあるようです。チーズのくさび形をした黄色いフォームで作られた「チーズヘッドハット」が作られるようになり、全米で知られるようになりました。フットボールや野球の試合、選挙集会などで人々はこれをよくかぶるのが見られます。

Cheese Head

 ウィスコンシン州では、州民の伝統を祝うため、数多くの民族フェスティバルが開催されています。サマーフェスト(Summerfest)、オクトーバーフェスト(Oktoberfest)、ポーランドフェスト(Polish Fest)、イタリア祭り(Festa Italiana)、アイルランド祭り(Irish Fest)、シッテンデ・マイ(Syttende Mai)というノルウェー憲法記念日を祝う祭りです。シェボイガン(Sheboygan)のブラット(ソーセージ)祭(Brat Days)、モンロー(Monroe)とメクオン(Mequon)のチーズ祭 (Cheese Days)、アフリカン・ワールド・フェスティバル(African World Festival)、インディアン・サマー(Indian Summer)、ウィスコンシン・ハイランド・ゲームズ(Wisconsin Highland Games),など、数多くのフェスティバルが開催されています。この州は、多民族から構成されていることの表れでもあります。

ロバート・ショウ合唱団の思い出

注目

 私の合唱経歴は、稚内中学校にいたとき、廊下でプロレスをやっていたときです。音楽の近藤艶子という先生から呼び出されて合唱クラブで歌おうというのです。突然の出来事です。それから稚内高校の合唱部、「響声クラブ」にも誘われて歌いました。周りから「狂声クラブ」と冷やかされていました。それでも道北の合唱コンクールで旭川市まで行ったこともあります。

 高校2年のとき、親父の転勤で旭川西高校に転入しました。そこの音楽教師は、音楽時間にはもっぱらレコードを聴かせるのです。そのとき知ったのがロバート・ショウ合唱団(Robert Shaw Chorale)やロジャー ワグナー合唱団(Roger Wagner Chorale)です。この先生の名前は忘れましたが、その後旭川西高校の合唱部は、道内の合唱コンクールで最優秀賞をとったことを知りました。私はこの合唱部には所属しませんでした。

Robert Shaw

 その後、ロバート・ショウ合唱団などの演奏を聴いたのはもっぱらSP盤のレコードや録音テープからです。1960年代の前半ですから、まだそんな時代です。合唱団は、国内外ツアーやRCAビクターのレコーディングのために臨時で結成され、レパートリーの要求に応じて30人から60人ほどの団員がいたようです。ショウはアトランタ交響楽団・合唱団(Atlanta Symphony Orchestra Chorus)の音楽監督に就任したりします。合唱団は存続期間中はバッハ(Johann Sebastian Bach)からフォークミュージック、ブロードウェイ劇場の曲までレパートリーが広く、ロジャー・ワグナー合唱団C(Roger Wagner Chorale)と並んでアメリカで最も有名で広く尊敬されるプロの合唱団の1つとなります。

 私はウィスコンシン大学での留学中に州都マディソン(Madison)にあるマウント・オリーブルーテル教会(Mt. Olive Lutheran Church)の聖歌隊で6年間、礼拝や復活祭、クリスマスのコンサートで歌う機会がありました。聖歌隊員は初見で楽譜を読め、男性の声の太さに驚いたものです。いろいろな演奏会を楽しむ機会に恵まれた留学生時代でした。

Classic by Robert Shaw

 ロバート・ショウ合唱団に戻ります。音色の均一性、深みのあるボーカルと絶妙なバランス、フレージングの優雅さ、活力あるリズムなどで有名でした。メンバーの多くはジュリアード音楽院(Julliard School)やニューヨーク周辺の音楽院(conservatories)から採用されます。ショウの指導力、高い水準の録音、そして合唱団構成における人種的な統合、そしてなによりも合唱音楽に世間の注目を集めたことで知られ、その音楽活動において多くの賞を受賞しています。

 1954年にはNBC交響楽団(NBC Symphony)指揮者であったトスカニーニ(Arturo Toscanini)はヴェルディ(Giuseppe Verdi)のテ・ディウム(Te Deum)をロバート・ショウ合唱団との共演で演奏しますが、そのときトスカニーニは合唱団を非常に高く評価したといわれます。合唱団は、文化交流プログラムの一環として米国国務省の支援を受けて、1956年にヨーロッパと中東の21か国、南米、1962年にはロシアツアーなどを行っています。

 ロバート・ショウ合唱団はクラシック音楽のレパートリーで有名なのですが、それだけではありません。彼の録音データ目録であるディスコグラフィー(discography)に収録される104のレコーディングには、船乗りの歌(Sea Shanties)、グリークラブ(Glee Club)の歌、宗教音楽や霊歌、ミュージカルの曲、アイルランドの民謡、そして最も有名なのは、発売以来ずっとベストセラーであり続けている1957年11月にリリースされたアルバム「クリスマス賛美歌とキャロル」(Christmas Hymns And Carols)があります。この演奏は1964年8月に全米レコード協会(RIAA)によってゴールド認定を受けます。さらにビルボードのトップポップアルバムチャート(Billboard’s Top Pop Album Chart)で最高5位を記録するほどヒットします。

 北大合唱団では、Sea Shantiesの「Shenandoah」とか「A Roving」などを歌ったことを覚えています。アメリカでは、帆船の水夫によって親しまれた音楽のようでしたが、やがて当時人気があった行進曲や陸のフォークソングがシャンティのレパートリーに選ばれていきます。「Shenandoah」がその代表といえましょう。

The King’s Singers


 ロバート・ショウ合唱団は、1965年に活動を永久に停止します。今や、規模の大きな合唱団に代わって小さな合唱やアカペラグループたとえば、アメリカでは、VOICES8とかChanticleer、PENTATONIX、イギリスでは、King’s Singersなどが広く知られています。Youtubeで曲を聴くとそのメンバーの交代が見られます。

(投稿日時 2024年8月23日)   成田 滋

大統領選挙戦報道に見られるフレーズ

注目

 アメリカの大統領選挙戦に見られるニュース報道の中から、普段あまり見かけることが少ないフレーズや語彙を取り上げて英語を復習すると同時に、アメリカの大統領選挙戦の様子を見てみます。

 ドナルド・トランプ(Donal Trump)とカマラ・ハリス(Kamala Harris)は副大統領候補を指名し、各州で選挙戦を展開しています。ますます熱を帯びてきた選挙戦をメディアは取材し、国内や海外に提供しています。両陣営の選挙戦を伝えるニュースからは、そのヘッドラインを見ると記事の内容が理解できます。

 すでに共和党大会は7月18日に終わり、トランプは副大統領候補として連邦上院議員のJ.D.ヴァンス(JD Vance)を指名しました。ハリスはミネソタ州知事のティム・はウォルツ(Tim Walz)を指名しています。民主党大会が8月19日に開かれハリスが正式候補者が決まります。そして投票日の11月5日を迎え、正式に大統領が決まるという日程です。二人とも激戦州とされる7州を遊説しています。この選挙戦では二人が所属する連邦議会の議員や激戦となる州の知事、市長、そして業界の有名人などがそれぞれを応援していて、さながら総力戦の様相となっています。こうした人々の応援演説は、なかなか興味のある内容となっています。

Statue of Liberty

 ブルームバーグ・ニュース(Bloomberg News)とモーニング・コンサルト(Morning Consultant)の最新世論調査によりますと、ハリスの支持率は選挙戦の結果を左右する可能性のある激戦7州全体で見ると48%であり、トランプの47%を上回っているようです。ですが今のところ選挙戦は予断を許さない状況に変わりはないようです。調査を行ったアリゾナ、ジョージア、ミシガン、ネバダ、ノースカロライナ、ペンシルベニア、ウィスコンシン各州でのハリス、トランプ両氏の差は統計上の誤差の範囲内といわれます。どちらに転ぶかはわからないというのが誤差の意味です。

 ただ、バイデン(Joe Biden)に代わってハリスが民主党大統領候補として選挙戦に臨んでいることは、新たな熱狂を生んでいることが調査で明らかとなっています。激戦州では民主党の重要な支持層が勢いづき、投票率が伸びる可能性が示されています。それは、ペンシルベニア州やミシガン州知事の応援演説などからも伺われます。

 それでは、選挙戦の状況をニュースのヘッドラインから見ていくことにしましょう。
Trump melts down as Harris surges in polls.
 このヘッドラインのキーワードは「melt down」と「surges」にあります。トランプの優勢が溶け出して、ハリスのうねり(surge)が高まっていると主張するのです。

 トランプは実業家で作家でもあるメアリー・トランプという姪からも批判を浴びています。それが次の発言です。
The Trump campaign is going up in smoke. Even more crazy, it the complete meltdown of Donald Trump, which he seems to get crazier by the day! Mary gives her take, as she know him unlike anyone else!
 トランプ陣営は煙のように消え去りつつあるといいます。「in smoke」がそれです。さらに狂っている、という指摘です。完全な崩壊は、「complete meltdown」に表れています。「meltdown」は福島の原発停止で何度も聞いたことのある用語です。

 彼女のトランプへの批判について報道は次のようにも伝えています。
Mary Trump Just Hit Her CRAZY Uncle Donald Where it Hurts Most!
 狂った叔父ドナルドの一番痛いところを突いたという意味です。親族であっても言うべきことは言うという姿勢の言葉です。

 トランプはその言動に対して、内と外から多くの批判を浴びています。常識では考えられないような発言が、何故か受けるのですから不思議です。それは岩盤層といわれる多くの支持者がいるからです。
He’s done. His brain is fried.
 トランプは彼は終わった。脳が焼け焦げているというもの凄く強い表現です。

 7月15日の共和党全国大会において、トランプが銃撃されたときの彼の右腕を上げた姿が映し出されたのを見て、多くの識者は、これでトランプが優勢になったと報道していました。その後、8月中旬現在、トランプの支持率は低迷しているようです。固定した支持者がいるのですが、中間層と無党派層の人々の取り込みに苦戦している報道が目につきます。
Arizona, Georgia and Nevada move in Harris’ direction.
 この三つの州はハリスの方向に傾いている、という意味です。

Wall Street is all in on Kamala Harris.
 大手の新聞がどちらを支持するかは気になるとことです。ウオール・ストリート紙はハリスに全面的に賭けていると主張しています。賭けているとは、選挙戦で勝利するのではないかと予想しているのです。

Donald Trump

Losing again? Trump rattled as Harris builds on Obama coalition.
 また負けるのか?とトランプは動揺(rattle)している、という意味です。ハリスがオバマの連合を強化しているからのようです。次のような見出しも同じような見方として考えられます。

Losing again? Trump rattled as the ‘Harris Effect’ surges in key states.
 また負けるのか?というのは、主要な州で「ハリス効果」が高っているので動揺している、という意味です。

15 NEW YORK Billionaires BACKING Kamala Harris’s 2024 Campaign.
 ニューヨークの15人の億万長者がハリスの2024年選挙キャンペーンを支持を表明したという文章です。

Trump WILL LOSE – His INSANITY is to Blame!
 トランプは負けるだろう。それは彼の狂気(INSANITY)が原因なのだ、という強い主張です。

Trump faced a rebellion of campaign staff after car-crash interview.
 トランプは、自動車事故のインタビュー後に選挙スタッフの反旗に直面した、との報道ですが、その真意はよくわかりません。

Trump LOSES IT over EMPTY SEATS at AWFUL Atlanta Speech.
 アトランタでの選挙戦演説の際に空席(EMPTY SEATS)が続いたことで、ひどい演説したという意味です。

Trump stumped by Harris-Walz because he can’t fathom public service.
トランプがハリス・ウォルツにケチをつけた(stumped)のは、彼が公務を理解できないからだというのです。「fathom」とは見抜くとか理解するという意味の動詞です。

 次に、ペンシルベニアの州知事でハリスの副大統領候補の人であったシャピロ(Josh Shapio)のフィラデルフィア(Philadelphia)での応援演説からです。彼の力強い演説内容は評価されています。
We’re not going back.
 我々は後戻りすることはない、というわかりやい言葉です。トランプ政権の政策に後戻りはしないという表明です。

He is a weirdo.
 シャピロ知事は演説でトランプを名指して、彼は変人(weirdo)だ、と糾弾します。「weirdo」スラングです。「weird」という関連用語がありますが、これは「変な」、「おかしな」という意味です。

 次の演説の一部は、参考になりそうなフレーズです。仕事をテキパキとやるときに使われます。
I focus on getting shit done for all of you.
 「getting shit done」は略してGSDとも使われます。シャピロは知事としての任務を素早く片付ける人間であると自慢するのです。ピッツバーグ市で長さ約136mの道路橋が崩落し、それを素早く修復したことを指しているようです。「shit」は普段は使わない言葉ですが、、、

Donald Trump Is a Psychopath & He Will Be Stopped.
 トランプは、妄想・幻覚・乱雑な思考と発語・非現実的で奇妙な行動の人間で精神病質(psychopathy)であるというのです。だから辞めさせたほうが良いという意味です。次の見出しも同じようトランプの状態を指しています。

Trump Has MENTAL COLLAPSE as ENTIRE LIFE CRUMBLES.
 トランプは精神的に崩壊し、人生全体が崩れている(CRUMBLE)、というのですから辛辣です。

‘Wuss’: George Conway on why Trump is ‘scared’ to debate Kamala Harris.
 「臆病者」:ジョージ・コンウェイというコンメンテーターが、トランプがカマラ・ハリスとの討論を「恐れている(scared)」理由を、臆病だからだというのです。「Wuss」という用語は通常は会話では使ってはいけないです。

 CNNニュースのヘッドラインからです。
‘He’s afraid’: Sen. Mark Kelly on Trump’s racial attacks against Harris. Trump is a desperate and scared old man.
 マーク・ケリー(Mark Kelly)上院議員は、トランプの人種問題に関する攻撃的な発言に対して、トランプは絶望し(desperate)、怯えている(scared(老人だ、と看破します。ケリーはアリゾナ州選出の上院議員で、ハリスの副大統領候補の一人でした。

 しかし、トランプもハリスに対しては黙っていません。次のごとく歯にも着せないように攻撃します。
Meet the Real Kamala. Weak.Failed. Dangerously Liberal.
 カマラに会ってみたまえ、本当のカマラはひ弱で失敗している。彼女は危険なリベラルなのだ、というのです。

 トランプはさらに次のようにハリスを批判します。
She is a radical left lunatic, and the worst border czar and vice president in history!
 彼女は極左の狂人で、史上最悪の国境担当大臣であり副大統領だ!「lunatic」とは狂ったということを指し、「czar」とは皇帝という意味ですが、ここでは大臣としておきます。国境とはメキシコとの国交のことです。彼女はバイデン政権でメキシコとの国境問題を担当していました。

 ニューヨークタイムズ紙ではコンメンテーターが次のように書いています。
In recent days, he has referred to Harris as incompetent, nasty, and not smart. Behind closed doors, he has reportedly reflected to her, repeatedly using the B-word.
 トランプは公然とハリスを無能、意地悪、そして賢くないなどと呼んでいます。「Behind closed doors」とは、密室という意味です。「B-word」のBとは「Bitch」という女性を罵る時に使われる表現です。”いやな女”という意味です。

 このところ支援団体だけでなく、労働組合や宗教関連団体、シンクタンクなどが立場を鮮明にしています。
Union Chief Shawn Fain discuses his breaking endorsement of Kamala Harris and gives his two top VP picks for the ticket: Kentucky Governor Andy Beshear and Minnesota Governor Tim Walz.
 自動車労働組合委員長のショーン・フェインは、ハリスの支持を表明し、副大統領候補としてケンタッキー州知事アンディ・ベシア氏とミネソタ州知事ティム・ウォルツの2人を挙げています。彼の予想どおり、ハリスはウォルツを副大統領候補に指名しました。「VP picks for the ticket」とは、くだけた表現で「副大統領候補のチケット」のことです。

UAW files federal labor charges against Donald Trump and Elon Musk after threatening workers on X interview.
 SNSのX(旧ツイッター)とのインタビューで自動車労働組合は、労働者を脅迫したとしてトランプとイーロン・マスク(Elon Musk)に対して連邦労働訴訟を起こします。連邦の労働者権利の保障を侵害しているというのです。ただ、こうした訴訟は、一種のネガティブキャンペーンのようなところがあるようです。

 トランプは、次のような地球温暖化の懸念に対して不可解な持論を述べています。
You know, the biggest threat is not global warming where the ocean is gonna rise 1/8 of an inch over the next 400 years. The biggest threat is not that, the biggest threat is nuclear warming. Because we have five countries now that have significant nuclear power.
 知ってのとおり最大の脅威は、今後400年間で海面が1/8インチ上昇するというのは、地球温暖化ではない。最大の脅威はそれではなく、核による温暖化であり、現在、5つの国が大規模な原子力発電所を保有しているためだと主張します。1/8インチとはたったの3ミリのことです。

 それに対してコンメンテーターは、次のように揶揄するのです。
NOAA data:Sea level near Mar-a-Lago increases 1/8 inch every 9 months.
アメリカ海洋大気庁(NOAA)によれば、トランプが住むフロリダ州のマール・ア・ラゴ付近の海面は9か月ごとに1/8インチ上昇するのだ、と反論しています。つまりトランプの主張は全く科学的根拠がなく出鱈目だという指摘です。

 CNNニュースに次のようなコラムがあります。
Donald Trump is behind. He trails in the pivotal postindustrial swing states and is treading water in the Southern and Sun Belt states.
 「treading water」とは足踏みしている、とか伸び悩んでいるという意味です 「treadmill」という運動器具があります。ジムにある動くベルトの上を足踏みする器具ですね。「pivotal」とは重要な、決定的な、という意味で使われています。

 政治に特化したアメリカのニュースメディア、ポリティコ(POLITICO)は、ロバートと名乗る者からトランプ陣営の内部文書を受け取ったと報じています。
POLITICO received internal Trump documents from ‘Robert.’ Then the campaign confirmed it was hacked. The campaign suggested Iran was to blame. POLITICO has not independently verified the identity of the hacker or their motivation.
 トランプ陣営は、この報道を受けてハッキングされたことを確認しています。ポリティコはハッカーの身元や動機を独自に確認していないのですが、陣営はイランが原因であると示唆しています。このような報道もネガティブキャンペーンの色合いが強いです。「Iran was to blame」という表現は、イランのせいだ、という意味です。

It’s just madness’: Inside Trump’s laundry list of increasingly bizarre claims
 「それはただの狂気だ」:トランプの主張はまるで洗濯物のようなリストのような、ますます奇妙な内容だ、という表現です。「laundry list」という表現は、面白いですね。わかりやすい言葉で、汚れた着物のリストのようだというのです。誠に正鵠を得ている表現です。

 放送ネットワークNBCとマイクロソフトが共同で設立したMSNBCニュースのアンカーマンであるLawrence O’Donnellが次のように報道しています。
.Lawrence: Everything out of Trump’s mouth is ‘real garbage’ and it should be treated as such.
 トランプの口から出てくるものはすべて「本物のゴミ」であり、そのように扱われるべきだ、というのです。「garbage」というのは誠にきつい、厳しい形容です。

 2012年大統領選挙での共和党の候補であり、上院議員であったミット・ロムニー(Mitt Romney) の演説の中に次のようなフレーズがあります。
Watch Mitt Romney’s full speech: ‘Trump is a phony, a fraud.’
 これまた厳しい形容です。トランプは偽者(phony)であり、詐欺師(fraud)だというのです。

 ペンシルベニア州ウィルクス・バリで行われたドナルド・トランプの悲惨な演説についてリポートしています。
MeidasTouch reports on Donald Trump’s disastrous speech in Wilkes-Barre, Pennsylvania where he spent a lot of time talking about how he believes he is better looking than VP Kamala Harris.
 トランプは、自分が副大統領のカマラ・ハリス氏よりもかっこいいと思っていると長々と語っていたというのです。

 最後にドナルド・トランプとイーロン・マスクの会話です。
Donald Trump conversation with Elon Musk
I saw a picture of her on Time Magazine today. She looks like the most beautiful actress ever to live. It was a drawing, and actually, she looked very much like a great first lady, Melania. She looked, she looked, didn’t look, she didn’t look like Camilla. That’s right. But, of course, she’s a beautiful woman, so we’ll leave it at that, right.

 タイム誌で彼女の写真を見たが、彼女は史上最も美しい女優のようである。しかし、それは写真ではなく絵だったが、実際、彼女は偉大なファーストレディのメラニアにとてもよく似ている。彼女はカミラ夫人に似ていない。その通りだ。

Kamara Harris on Time magazine

 メラニアとは、トランプ夫人のこと、カミラ夫人とはチャールズ国王の奥方です。さすがに女性の容姿を語るのはまずい、と思ったのか「so we’ll leave it at that, right」といって「この話はこれで終わりにしよう」と切り上げます。一体全体、カマラ・ハリスを自分の夫人、そして国王妃と比べるのが大統領候補者としての演説なのでしょうか。

 両陣営もネガティブキャンペーンをしがちなのが気になります。もう少し、世界情勢に関する政治状況や国内政策について二人の見解が欲しい感じがします。経済問題とか人種差別問題、不法移民の問題などたくさんあるはずです。次の候補者討論会は9月10日となり、FOXニュースで全世界に放映されます。両陣営は、虚々実々の駆け引きをしているようですが、

(投稿日時 2024年8月20日)  成田 滋

森有正の「遥かなノートル・ダム」

注目

 私がかつて一度会ったことのある哲学者が森有正です。呼び捨てにするのは少々ためらいますが、彼は哲学者というよりもフランス文学者といったほうが適当かと思われます。彼は、明治時代の政治家で初代文部大臣となった森有礼の孫で、東京帝国大学文学部哲学科で卒論を『パスカル研究』として発表します。やがて1948年東京大学文学部仏文科助教授に就任します。第二次世界大戦後、始まった海外留学の第一陣として1950年フランスに留学し、デカルト(Rene Descartes)やパスカル(Blaise Pascal)を研究し、そのままパリに留まります。東京大学を退職しパリ大学東洋言語学校で日本語や日本文化を教えていきます。

 私が森有正に会ったのは、1965年6月頃の札幌ユースセンター教会です。そこで働いていたとき、森が教会に入ってきて名刺を示し「オルガンを弾かせて欲しい」というのです。教会にはアメリカのルーテル教会青年リーグから寄贈された約400本のパイプのオルガンが設置されて礼拝やコンサートで使われていました。私はそのとき、彼が学者でオルガン愛好家であることを知りませんでした。後に「遙かなノートル・ダム」に出会ったとき、彼の深い思索や文明批評に触れて、その学識に接することになります。

森 有正

 森はパリでの長い生活で、その間数々の随想や紀行などを著します。人々の息づかいが伝わるような濃密な文体で知られています。読みこなすのは容易ではありません。晩年は哲学的なエッセイを多数執筆して没します。森有正選集全14巻の第4巻が「遙かなノートル・ダム」です。彼はフランスの教育制度や内容にも深い関心を示します。著者の経験と思索の中には、フランスの教育に触れる箇所があります。

 「フランスの教育の要点は、知識の集積と発想機構の整備の二つである。知識の集積とは記憶が主要な役割を果たす。それは実に徹底していて、中等教育の歴史科をとってみると、先史時代から現代まで第六学級から卒業までの七年間に膨大な量を注入する。知識は内容を省略せず、各時代の主要問題、政治、外交、経済、社会、文化を中心に、しかも頻繁なコントロールや宿題、さらに作文によって生徒自身の表現能力との関連において記憶されるようになっている。日本の中学や高校の教科書の五倍くらいの量である。」

 「フランスにおいては、自国の言葉の学習に大きい努力が払われている。小学校に入る6歳くらいから、大学に入る18歳くらいまで行われるバカロレア(Baccalaureate)という国家試験まで、12年間にわたり緻密に行われる。その目的は単に本を読むことを学ぶだけでなく、作文すなわち表現力を涵養するために行われる。漠然と感想を綴ることではなく、読解、文法、語彙、読み方にわたって低学年から教育が行われ、その定義と正しい用法が作文によって試されるのである。文法にしても、しかじかの規則を覚えることではなく、その規則の適用である短い文章を書くことが無数に練習される。読本の読解ももちろん行われる。学年が進むと、文法的分析に論理的文体論的分析が加わる。そして作文はいつも全体を総括的にコントロールするものとして、中心的位置をしめている。」

 このようにフランス教育の中心課題が知識の組織的蓄積であって、そこから自分の発想を磨くという眼目を忘れてはならないと説きます。それは単なる知識の詰め込みではないということです。

 森は、人間の中心課題として経験と思考、伝統と発想、そして言葉の重みを提起します。日本人は英語の単語や語句をたくさん知り、難しい本を読むことができても、書くとなると正しい英語を一行も綴れないことを話題とします。それは、自分の中の知識に対する受動的な面と能動的な面との均衡の問題であると指摘します。たくさんのことを覚えても、記憶してもそれが自分の中にそのまま停止しているから文章を綴れないのだ、といういうのです。単なる作文の練習をしてもどうなるものではなさそうです。英語でもフランス語でも本当に正しい語学を身につけるためには、その国の人の間に入って経験を積むほかはないと断言するのです。

森有正選集

 言葉には、それぞれが本当の言葉となるための不可欠な条件があるといいます。それはその条件に対応する「経験」であるというのです。経験とは、事柄と自己との間の抵抗の歴史であるというのです。福祉を論ずるにせよ、平和に論ずるにせよ、その根底となる経験がどれだけ苦渋に充ちたものでなければならないかを想起することです。その意味で経験とは体験とは似てもつかないものであると主張します。体験主義は一種の安易な主観主義に陥りやすいと警告するのです。

 「人間は他人がなしとげた結果から出発することはできない。照応があるだけである。これは文化、思想に関してもあてはまる。たしかに先人の築いたその上に築き続けるということは当然である。しかし、その時、その継続の内容は、ただ先人の達したところを、その外面的成果にひかれて、そのまま受けとるということではない。そういうことはできもしないし、できたようにみえたら必ず虚偽である。」

 「経験ということは、何かを学んでそれを知り、それを自分のものとする、というのと全く違って、自分の中に、意識的にではなく、見える、あるいは見えないものを機縁として、なにかがすでに生れてきていて、自分と分かち難く成長し、意識的にはあとから それに気がつくようなことであり、自分というものを本当に定義するのは実はこの経験なのだ。」というのが森が強調したいことでもあります。

「変化と流動とが自分の内外で激しかったこの十五年の間に、僕のいろいろ学んだことの一つは、経験というものの重みであった。さらに立ち入って言うと感覚から直接生れてくる経験の、自分にとっての、置き換え難い重み、ということである。」このように経験という意味を深く追求することによって、真理であると思われることを一度真剣に、徹底的に疑う勇気が生まれるというのです。

オルガン演奏の森有正

 この本に「思索の源泉としての音楽」という章があります。森はオルガン演奏をこよなく愛した人です。特にバッハ(Johann Sebastian Bach)の音楽やグレゴリアン聖歌(Gregorian Chant)に心酔していました。こうした音楽の本質は、人間感情についての伝統的な言葉を、歓喜、悲哀、憐憫、恐怖、憤怒、その他を、集団あるいは個人において究極的に定義するものだとします。人間は誰しも生きることを通して自分の中に「経験」が形成されると森はいいます。自己の働きと仕事とによって自分自身のもとして定義される、それが経験だというのです。この仕事は、あらゆる分野にわたって実現されるもので、文学、造形芸術などとともに音楽もその表れだといいます。

 この著作は森有正の人となり、生き方、フランス文化や日本文化に対するに関する思索や洞察、さらには音楽の意義に至るまで、その言葉や音楽の定義力の強烈な純粋さのようなものが織りなすエッセイとなっています。私の考え方の一つの道しるべのようなものとなった、かけがえのない一冊です。

参考資料
『バビロンの流れのほとりにて』 (講談社) 1968年
『遥かなノートル・ダム』(筑摩書房) 1967年
『経験と思想』(岩波書店) 1977年

(投稿日時 2024年8月18日)  成田 滋