聖書の中の女性の生き方 その十一 「サロメ」

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新約聖書の中には、悪女とみなされる女性も登場します。サロメ(Salome)です。サロメはヘロデ・アンティパス(Herod Antipas) 王の継娘です。イザベル(Jezebel)という女性もそうです。彼女はイスラエル王国のアハブ王(King Ahab)の王妃です。イスラエルの神、支配者としてバール(Baal)を信仰した女性です。Jezebelとはヘヴル語で「不貞」とか「糞の山」という意味だそうです。

さて、紀元前37年頃から、パレスティナ・ユダヤ(Palestine-Judea)地区に成立された国家はヘロデ一家による支配によるもので、ヘロデ朝(Herodian Dynasty)と呼ばれます。ヘロデの孫娘にヘロディア(Herodias)がいました。彼女は最初は王位継承者であるヘロデ二世のポエトス(Poetos)と結婚しますが、ポエトスは暗殺されます。そして叔父であるヘロデ・フィリポ(Herod Philip)と結ばれます。その間に生まれたのがサロメです。

このように姻戚結婚を繰り返すヘロディアに対して洗礼者ヨハネ(John the baptist) はモーセ(Moses) の律法に反するとして非難するのです。ヨハネは民衆に人気があり、ヘロデは不人気でした。そこで反乱を恐れたヘロデはヨハネ投獄するのです。

ヘロデの誕生祝いの席で、ヘロデはサロメに列席者の前で踊りをさせます。喜んだヘロデは、酔ったあげくサロメが望むものならなんでも与えると叫びます。サロメの母、ヘロディアは、盆に載せたヨハネの首を求めるようにサロメにいいます。衆人の前で宣言したヘロデは約束を破るわけにいかず、ヨハネの首をはねるように命じるのです。この様子はマタイによる福音書14章(Matthew 14)に記述されています。

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聖書の中の女性の生き方 その十 女性の執事の「プリスキラ」と夫のアクラ

RH-PaulMakingTents_DSC_0050 aquilabella2taglioultralight AandPパウロ(St. Paul) が始めた教会では、女性にいろいろな役目があって、教会の前でみ言葉を取り次ぐ役目さえも女性が果たしていました(第一コリント11章5節-1 Corinthians 11:5))。この教会の中には、寡婦と年とった女性に、特別なディアコニア(diaconia)という奉仕や介護がありました。伝道師アクラ(Aquila) の妻プリスキラ (Priscilla)はパウロの同労者であり、友達でもありました(ローマ書16章3節-Romans 16:3)。この女性はまた、すぐれた執事でもあったようです

まずローマ書16章に出てくるプリスキラとアクラの二人についてです。パウロは、最初にこの二人に会ったのはコリントの教会でした。テモテへの手紙第一(1 Timothy)にもでてきます。やがてこの二人がローマの教会で働き、パウロを助けるのです。新約聖書の中で何度も出てくるのがこの夫婦です。使徒行伝18章2節(Acts 18:2) には、アクラはポント(Pond)生まれのユダヤ人で職業は天幕作りであったと記されています。プリスカもおそらくユダヤ人でしょう。パウロもまた天幕を作る仕事をしていた。天幕は山羊の皮と毛で作られました。プリスキラとアクラと一緒に天幕で暮らしていたと思われます。

ローマ書16章3節の言葉です。
「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスキラとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。」

その他の女性の執事に関する記述ですが、ピリピ人への手紙4章(Philippians 4:2-4)では、ユウオデヤ (Euodia)とスントケ(Syntyche) という女性の同労者の名前が出てきます。この女性たちは福音を広めるためにパウロと協力して戦った、とまで書いてあります。伝道のわざに励んだ女性だったことがうかがわせます。

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聖書の中の女性の生き方 その九 男性優位の社会

76c700313538d1588f0d706f1972dfa4-400x400 e0011664_21492687 1852556-神聖な聖書勉強の女性聖書は登場する人物が描かれた書といわれます。時間を軸とした歴史書のような記述ではありません。よく知られた人物もいれば、なにをしたかがはっきりしない人々も登場します。

旧約時代も新約時代も共通することですが、女性は男性優位の社会にあって時に虐げられ、産みの苦しみを経ても、いつも家族を形成する中心でした。生きることのしたたかさや力強さを伝える存在でもあります。このブログで女性を取り上げている理由は、私たちの興味をかきたてるに十分な特徴と魅力を持った存在であることです。

こうした女性は後世の人々の想像の世界で生き続けただけでなく、芸術という創造のうちに生き続ける存在でもあります。フレスコ画や音楽に、彫刻やステンドグラスに、散文や韻文に残されています。こうした芸術作品が私たちの女性についてのイメージを豊かにしています。

ここで取り上げている女性は人名事典ではなく、人名の索引を少し膨らませた私の「好み」によって選ばれています。聖女といわれるマリア(Maria)もいれば、悪女といわれるサロメ(Salome) もいます。共通することは、どの女性も個性的であり真摯な生き方をしていたということです。

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聖書の中の女性の生き方 その八 女性の按手

Anglicancanada.rel ordinationhands ORD38T按手 (Ordination) はキリスト教会で行われる儀式の一つです。教役者・教職者を任命するとき、司教や監督などが牧者としての権能や必要な賜物を志願者へ授与しその継承を神に誓うことです。もちろん他の宗教も同様な儀式を執り行い、新しい霊的な指導者の出発を祝います。

多くのキリスト教会はいまだに女性の教職を認めていません。この伝統は長らく議論されてきました。その根拠は聖書のいくつかの箇所にある言葉によります。例えば、パウロの手紙は言います。「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。」 (エペソ人への手紙5章21節) さらに「妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい」。キリスト教徒は、皆が互いに従わなくてはなりませんが、男性は女性のかしらとされています。女性は特に男性に従わなければならない、といった言葉です。

なにか男女の序列を聖書は主張しているようですが、そうではありません。かしらの頂点には神があり、人間はその下で秩序を形成しているというのです。戸籍にある筆頭者と考えればよいでしょう。あるいは世帯主ともいってよいでしょう。この両者には違いがありますが、、、教会の大事な役割や仕事を女性に任せることはできないという考えは聖書にはありません。

性別に関係なく「全ての人が生ける石となって祭司とする」と教えられています(ペテロの手紙第一2章5節)。既述してきましたが、旧約聖書や新約聖書の他の箇所でも女性が教会の中で活躍しており、教職者への召命は全ての人に臨む可能性があるということから、女性も教職者として召されると考えるべきであるという考えが浸透していきました。

1853年にイングランド(England) において女性が初めて按手礼を受け、遅れること1933年には日本基督教会が女性の牧師を誕生させます。スウェーデンルーテル教会(Swedish Lutheran Church)は、1958年に女性牧師を按手します。1989年にはマサーチューセッツ(Massachusetts)の聖公会(Anglican Church) が最初の女性主教として按手されます。イングランド国教会(Church of England) では、1994年に女性司祭の叙任が認められ、その後数百人の女性司祭が誕生しています。イングランド国教会は聖公会のことです。

旧約聖書時代では、女性は祭司になれませんでしたが、キリストを信じる者は男女を問わず万人祭司 (Priesthood of all believers)とされます。女性も洗礼を受けることができるようになりました。男尊女卑を撤廃したのは、長い神学論争がありましたが、最後は聖書の教えである神と人間との秩序が、女性に自由と平等をもたらしたといえます。

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聖書の中の女性の生き方 その六 女性の執事「フィベ」

Deaconess-Ministry--element60 3382718003_1623cf6c00 deacon-and-deaconess-clipart-1新約聖書の中に、次のような神と人との順序に関する記述があります。「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である」(第一コリント人への手紙11章3節)。この手紙はパウロ(St. Paul) がコリント(Corinthian) の人々に送ったものです。

コリントは、紀元前5世紀頃にはギリシアの三大都市国家といわれました。アテネ(Athens)やスパルタ(Sparta) と並ぶ古い港湾都市です。今回は、コリント地方のケンクレヤ(Cenchrea)にあった教会の働き人で、女性の執事 (deaconess)  であったフィベ (Phoebe)を取り上げます。ケンクレヤはギリシャのコリントの南東にある町です。

「女のかしらは男であり」というフレーズは、いろいろな議論や誤解を生んできました。旧約や新約聖書の時代には、こうした男女の関係が存在して秩序が保たれていたように思われます。後年、男女平等とかウーマンリブにも影響を与えました。神とキリストに上下関係がないのと同じように、男と女の上下関係を決定するものではなく、役割を示唆した言葉ということを示唆しています。

教会には司祭とか牧師といった聖職者あるいは教職者がいます。神学教育を受けて按手(ordained)された人です。按手とは、教職者の権能や役割を志願者へ授与し、教職者として任命する儀式のことです。聖書の講解、結婚式や葬儀などの式典を担う人です。こうした人は、聖書の神と人の順序の記述にあるように、男性に限られてきました。

教会は教職者だけでなく、それを補佐する者、教会教育や音楽、書記を担当する者などから構成されます。この教職者を補佐する者は「執事」(deacon) と呼ばれています。女性もまた執事(deaconess) として奉仕します。「執事」という言葉は「しもべ」(servant) 、「仕えるもの」を意味するギリシャ語の「diakonos」から由来しています。

ローマ人への手紙やピリピ人への手紙には、パウロが教会で働く女性にあいさつの言葉を送っています。特に、ケンクレアの女性執事、フィベを歓迎するようにということをローマのキリスト教徒に頼んでいます。パウロにとって助けになったとさえ書いてあります(ローマ書16章1節)。

パウロはいいます。「どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。」

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聖書の中の女性の生き方 その五 マリアの賛歌

pontius_pilate Pontius-Pilate 0カトリックであれプロテスタントであれ、最も見られる名前はマリア(Maria)とかメアリー(Mary)でしょう。Mariaという名前はラテン語から由来するといわれます。ギリシャ語ではMariam、ヘヴル語ではMiryamというように使われます。いずれもMariaの類似語です。イングランドでは12世紀以来、Maryの名が最も使われ、その最盛期は16世紀といわれます。

男性の名前でもMariaは大きな影響を与えます。例えば、Marioとか Marionという名前はMariaから由来します。ともあれ、今も最も命名される女性の名前がマリア、Mariaです。ついでに男性といえばヨハネ、Johnといえるでしょう。

Mariaの由来であるMariamとかMaraという言葉です。その意味は苦悩とか苦い水(bitter water)、つまり荒野の旅の果てにたどり着いた死海の苦い水、「Marah」ということだそうです。辛いこととは困難、悲しみ、試練といったことです。マリアもまたその後、幾多の試練に直面します。処女にして懐妊するという出来事、周りの人の目、そしてイエスを生むという重圧に耐えていきます。

イエスがベツレヘム(Bethlehem)で生まれたのはジュリアス・シーザー(Julius Caesar) の養子であった初代ローマ皇帝のアウグストゥス(Augustus)の治世でした。ユダヤの国はローマ帝国の属州であり、エルサレム(Jerusalem) の周辺はローマの総督であったポンティウス・ピラト(Pontius Pilatus)によって統治されていました。ガリラヤ (Galilee)地方は傀儡の王が治めていました。ローマ帝国の支配に対する苛立ちが広まり、民は圧政から解放されることを待ち望んでいたのです。ガリラヤはマリアが天使ガブリエル(Gabriel)から受胎告知を受けたところといわれます。

ルカによる福音書1章46節から50節は「マリヤの賛歌」ーマニフィカート」と呼ばれる有名な聖句で、「マニフィカート」はラテン語でMagnificatと記されます。マリヤの賛歌の冒頭にでてくる“My soul magnifies the Lord.“にある「magnifies」、讃える、崇める、誉むという言葉からきています。マリヤの賛歌は「マリアのカンティクム」 (Canticle of Mary) ともいわれます。Canticleとは賛美歌とか聖歌という意味です。

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聖書の中の女性の生き方 その四 「マルタ」

2fec502f6b548aac5cbbe1fb2404174e img_mouseover3 Martha_and_Mary_by_He_Qi_China新約聖書のルカによる福音書に登場する女性にマルタ (Martha) がいます。イエスと弟子たちが、ベタニア (Bethany)という村にマルタとマリアという姉妹の家を訪ねます。この姉妹にはラザロ(Lazarus)という兄がいます。重い皮膚病を患っていました。ベタニアはエルサレム(Jerusalem)の東2キロ余り、オリーブ山(Mt. Olive) の南東斜面に位置しています。

Marthaとはラテン語では「婦人」とか「女主」といった意味です。マルタとマリアの性格は違います。マリアはいわゆる内向きなのに対してマルタは積極的な性格の持ち主です。

あるときイエスがベタニアを訪れます。マルタとマリアはイエスの来訪を喜びます。マルタは、イエスと弟子達のために甲斐甲斐しく世話をします。ですが、妹のマリアはイエスの足許に座り、イエスの話しに熱心に聞き入っいました。姉のマルタは心穏やかではありません。マリアが手伝ってくれないからです。

マルタはだんだんと苛立ってきます。そして、ついにイエスにその不満をぶつけてしまうのです。

「主よ、わたしの妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(ルカ10:40)

マルタは、イエスはマリアの怠惰を諫めてくれると期待したようです。ところが、イエスはマリアではなく、マルタに向かって次のように言われます。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:41-42)

兄のラザロが亡くなったとき、マルタはイエスに言います。
「主よ、あなたがここにおいででしたら、兄は亡くならなかったでしょう。」(ヨハネ11:20-21)

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聖書の中の女性の生き方 その三 「マグダラのマリア」

top10_conspiracy_jesus images MM Full Relief hi res新約聖書(New Testament) の中には、話題となる女性もいます。その一人がマリア(Maria)です。ガリラヤ湖(Sea of Galilee)沿いの町マグダラの出身であるために「マグダラのマリア」(Mary of Magdala) と呼ばれたといわれます。

マグダラのマリアについて四つの福音書が記述することは、七つの悪霊をイエス (Jesus) に追い出していただき、磔にされたイエスを遠くから見守り、その埋葬を見届けたとあります。そして、復活したイエスに最初に立ち会ったのがマリアです。「すがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから触れないように」 と言われたのです。マグダラのマリアは、イエスの死と復活を見届ける証人であるとされます。

しかしながら、マグダラのマリアには別な解釈もあります。ヨハネによる福音書(Gospel of John) 第8章3節以下に次のような記述があります。マグダラのマリアらしき女性ではないかという説です。

「イエスを試すために、律法学者たちやファリサイ派(Pharisees)の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来た。律法では石打ちの死刑に値する。イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言った。これを聞いて誰も女に石を投げることができず、引き下がった。また、イエスも女の罪を許した。」

ルカによる福音書(Gospel of Luke) 第7章37節にもマグダラのマリアらしき女性が登場します。

「この町に一人の罪深い女がいた。イエスが律法を重視するファリサイ派 の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持ってきて、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」

この女性がどのような罪を犯したのかはわかりません。ですが性的不品行と説明されてきたようです。しかし、彼女は罪から悔悛したことが使徒ヨハネやルカの記述から伺えます。マグダラのマリアはカトリック教会、東方正教会 (Eastern Orthodox Church)、聖公会 (Anglican Church)、ルーテル教会などでは悔い改めた女性として聖なる扱いをされています。

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聖書の中の女性の生き方 その二 「サラ」

Foster_Bible_Pictures_0032-1 tumblr_inline_nvkf8xY6EP1ryni46_400 080624_sarasoju_torinin2004_edited創世記(Book of Genesis)に登場する一人の女性がサラ(Sarah)です。元の名はサライ (Sarai)です。ヘヴル語(Hebrew) で Sarahとは位の高い女性を指し、「プリンセス」とか「高貴な女性」と呼ばれていました。ユダヤ人の間ではSarahは「我等の母サラ」と呼ばれています。

彼女がアブラハム(Abraham)と結婚したのは、まだカルデア地方(Chaldea)のウル(Ur)に住んでいた頃です。カルデアとはメソポタミア (Mesopotamia)南東部に広がる沼沢地域の歴史的な呼称のことです。アブラハムの父であるテラ(Terah)の一族の移住に伴い、故国を離れてカナン(Cannan)の地へと向かいそこで定住していきます。しかし、カナンに大飢饉が起こり、サラとアブラハムはエジプト(Egypt) へ移住します。

創世記 23章1-20節には、サラは90歳で約束の子イサク(Isaac) を生んだとあります。神は、それに10年を加えて、サラは100歳まで生きたと言うのです。加えられた10年は、幼子イサクが立派な少年に育っていく期間で、母親の愛を必要とする大切な10年でありました。

やがて、妻サラが息を引き取ったとき、アブラハムはサラのために二つのことをしたといいます。一つは、サラのために悲しみ泣いたこと、もう一つはマクペラ(Machpelah)の洞窟に墓を買い、そこにサラを丁重に葬ったことです。「我等の母サラ」に対する別れの仕草です。

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聖書の中の女性の生き方 その一 「ルツ」

title-Henry-Koster-The-Story-of-Ruth-Elana-Eden-DVD-PDVD_001 1876Rooke_Thomas_Matthews_The_Story_Of_Ruth2 images話題を変えて、しばらく大昔の聖書時代に生きた女性をとりあげていきます。誠に女性には苦悩や苦労の多い時代です。女性の地位が危うかった時代でもあります。

旧約聖書にある『ルツ記』(Book of Ruth) は全4章という短い物語です。ルツ(Ruth) はモアブ(Moab)人女性です。モアブは、古代イスラエル(Israel) の東に隣接した地域で今のヨルダン(Jordan)といわれます。

飢饉があって、ベツレヘム (Bethlehem) からモアブ人の地に両親、および弟とともに移住していました。やがてマアフロン (Mahlon) と結婚し、義母のナオミ(Naomi) と暮らします。ですが子供ができぬうちにマアフロンは亡くなります。ナオミの夫と息子も他界します。息子の嫁はオルパ (Orpah) といいました。ナオミはベツレヘムに戻ることを決心します。

ナオミはルツとオルパに対して「自分の故郷に帰って再婚し、幸せをつかんで欲しい」といいます。オルパは別れて故郷へ向かいます。だが、ルツは「あなたを見捨ててあなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所へ行き、お泊まりになる所に止まります。あなたの民はわたし民、あなたの神はわたしの神、あなたが死ぬところはわたしも死ぬところ、そこに埋葬してください」(ルツ記1章8節~17節) といってナオミから離れようとしませんでした。

やがてルツはボアズ (Boaz) と結ばれます。ボアズはナオミの夫の兄弟でした。 旧約聖書の時代では、家族同士が結婚する風習がありました。これを「レビラト婚」 (Levirate marriage) と呼ばれていました。死んだ夫の代わりに、その夫の兄弟が結婚する習慣で、兄弟が寡婦の権利や義務を受け継ぐしきたりです。戦の多い社会では、当然のことながら寡婦が発生しやすかったのです。ルツもその一人でした。

ルツはやがてオベト (Obed) を産みます。オベトの子はエッサイ (Jesse) です。エッサイはイスラエル史上最大の繁栄をもたらし、その子孫は、後世理想の王とたたえられたダビデ (David) へとつながっていきます。

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十五 会話にみる人間の生き様

1a07eca re02 d0093936_20573365面白い本に出会うのは誠に眼福の思いがします。「居眠り磐音 江戸双紙」もその一冊です。一冊といっても50巻に及ぶ大作の時代小説です。なんといってもこの小説の魅力は、登場人物の対話にあります。励まし、癒し、笑い、喜び、労り、切なさ、同情、風刺、省察、呆れ、叱責、苦悩、怒り、憎悪、、、父と子の絆、夫婦の愛情、師匠と師弟の信頼、ありとあらゆる感情や挙措が描かれます。そこにしみじみとした余韻が残るのです。是非、お読みいただきたい一作です。

時は江戸も幕末に近い頃。田沼意次が権勢を振るっていた時代です。関前藩の下士、坂崎磐音は藩内の権力争いに巻き込まれ、上意によってかけがえのない友を失い、その一人を殺めることになります。許嫁であった奈緖の兄がその友でした。もはや藩にとどまることができず、江戸に出て長屋に住み鰻割きで生計をたてます。

やがて両替商の今津屋吉右衛門やその大番頭の由蔵から、用心棒として厚い信頼を得ます。佐々木玲圓道場の尚武館で修行し、その人格と剣術の技によって跡継ぎとなります。「居眠り剣法」として名を轟かすようになります。そして今小町と呼ばれた美貌のおこんと結ばれます。

意次らの陰謀により次の将軍となるはずの徳川家基が毒殺されます。家基の護衛の任にあたっていた玲圓はその責任をとって自裁し、玲圓を輔弼していた磐音も深い自責の念に駆られます。道場の尚武館は取り潰されます。

磐音とおこんは江戸を逃れ意次らの刺客に追われながらも、高野山の懐の中で忍びの一派である雑賀衆に助けられなんとか生き延びます。その間に息子の空也が生まれます。塗炭の苦しみを経て江戸に戻り、尚武館を再興するのです。

ざっとですがストーリーを要約してみました。磐音の波瀾万丈ともいえる生き様が描かれているのですが、彼の周りの人物との対話がこの小説の白眉ともいえる部分なのです。皆貧乏でその日その日暮らしをしています。ですがそこに暖かい人情による助け合いがあります。毎日が不安だらけなのですが、懸命に生きようとする知恵と気概があります。

幕藩体制の綱紀が緩み、士農工商というたがは外れてきて、幕府の政治を風刺したり揶揄する余裕が庶民にも生まれます。読売という瓦版、タブロイド紙によって情報が庶民に伝わり、政治にも影響を及ぼすことになります。為政者はメディアを敵に回すことができなくなります。国内だけでなく、密かに海外との交易も盛んになり、情報が大量に出回ります。新しい時代の夜明けが近づきます。

剣の道に生きる磐音もこうした時代の変わり目を感じていきます。ですが、頑なに伝統の剣術を通して道を究めようと、息子の空也や弟子達にその奥義の深さを教えていこうとするのです。

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十四 利次郎と辰平

bushi-04 b0287744_220377 tumblr_nuzqz7vygb1t12pz6o1_500尚武館道場には坂崎磐音の二人の筆頭弟子がいます。磐音が手塩にかけた重富利次郎と松平辰平です。長らく尚武館に住み込み、多くの門下生を指導し、紀伊藩の剣術指南でもある磐音を補佐しています。

磐音は二人が所帯を持ち、暮らしが立つように仕官するのを気にかけています。稽古の後、磐音がなにかを言い出したい思いの二人に問います。

磐音 「どうした、なにか言いたいことがあるのではないか。」
利次郎 「数日前のことです。おこん様より辰平とそれがしに五両ずつ紀伊藩の手伝い料を頂戴いたしました。」
磐音 「ほう、それはよかった。そなたたちの暮らしが立つほどの手当が出せればよいのだが、、」

磐音はおこのんのやりくりの苦労を思った。

利次郎 「辰平もそれがしも思いがけないことで、初めはお断りしました。ですが、おこん様がどうしても亭主どのの気持ちを受け取ってくだされと申され、二人して有り難く頂戴しました。」
磐音 「亭主の気持ちな。相手はこちらの気持ちまで読みおるからのう。」
利次郎 「若先生はご存じないことでしたか、、、」
磐音 「ふっふっふふ、亭主はのう、女房どのの掌で踊らされているくらいが丁度良い。円満ということかのう。」

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十三 お咲

19map01 pcbe-62674 672福岡藩の「下士」、猪俣平八郎がいます。「下士」とは、江戸時代の武士階級で正規の身分を持った者とはいえ、武士の下層に属し、一応は武士ながら畑仕事に従事するほど、生活が困窮していました。「郷士」とも呼ばれていました。

平八郎の幼なじみにお咲がいます。やがて二人は駆け落ちしようと誓い合います。磐音をそれを手助けしようとします。

お咲 「坂崎様、私のわがままでご迷惑をおかけします。」
磐音 「お咲どの、恋を貫くとはおよそそのようなものであろう。苦労は二人になったときから始まるもじゃ。」
お咲 「猪俣さまと連れ添うのは無謀と申されますか。」
磐音 「そうじゃない。好きな相手と添う以上、苦労は致し方ないものだと言うだけじゃ。」

磐音は、自分と昔の許嫁、奈緖とのもの悲しい過去をお咲にきかせます。そして最後に言います。

磐音 「お咲どの、自ら選んだ道じゃ、苦労もあろうが、共白髪まで添い遂げられよ。祈っており申す。」

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十二 竹村武左衛門の娘、早苗

1280px-Des_briques_d'acier_au_katana_-_2016-04-19 Japanese_blacksmith d825ee6d9c1e684d38eb8e63c066e20bもと伊勢は津藩の家臣が竹村武左衛門です。妻の勢津と四人の子供と長屋で暮らしています。酒豪と粗野な言動で家族を困らせています。だが不思議と憎めないのです。竹を割った性格でズケズケとものをいいます。坂崎磐音や品川柳次郎とは用心棒仲間です。

娘の早苗は磐音の尚武館道場で住み込み女中として働いています。息子の修太郎は竹村家の嫡男となるはずなのですが、自堕落な性格で遊び仲間に引き込まれ家族を心配させています。母の勢津は息子を仕官させたいとして、尚武館道場に通わせるのですが修太郎の稽古は休みがち、自他とも剣術(ヤットウ)に向いていないことがわかります。

磐音はあるとき、修太郎を連れて鰻屋に連れて行き職人の働きぶりを見せながら食事をします。その足で、御家人にして名人研ぎ師である鵜飼面助のところにも立ち寄るのです。磐音もまた大事な刀を面助に託しています。

やがて修太郎はあちこちの刀鍛冶などを訪ね歩き、面助に師事したい考えるようになります。そして両親に自分も将来研ぎ師になりたいと相談します。しかし、両親と早苗は半信半疑なのですがしぶしぶ修太郎の申し出を受け入れます。

武左衛門と勢津が息子の刀鍛冶への修行を認めたことを知った磐音は、修太郎を連れて面助の研ぎ場を訪ねます。そして弟子入りを頼むのです。磐音の熱意にほだされたのか、面助は断るわけにいきません。磐音は早苗が弟子入り話で心配する尚武館に戻ってきます。そこにおこんの父、金兵衛もいます。

早苗 「若先生、真にありがとうございました。後は修太郎の忍耐と頑張りだけです。」
磐音 「面助様の研ぎを極めるのは並大抵のことではござらぬ。修太郎どのは時に姉の早苗どのに泣き言を言うてくるやもしれぬ。そのときはきつい言葉で追い返すのではのうて、なにか一つ、成長の証を見つけてな、褒めてやりなされ。」
磐音 「自らが望んだ道、われらも気長に見守っていこうではないか。」
金兵衛 「早苗さん、喜べ。姉があれこれ案じた甲斐があったというものだ。」

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十一 小田平助

jss0 cimg9827 a697佐々木玲圓道場尚武館に小田平助がいます。強い西国訛りで磐音の弟子です。もと西国の大名に仕えた下士だったようです。ゆえあって辞し、諸国を武者修行し、槍折れ術の達人となります。剣にも秀でています。玲圓や磐音に外連味のない真っ直ぐな気質を見込まれ、弟子となります。

尚武館の奥でおこんらを手伝っているのが、武左衛門の娘の早苗です。あるとき早苗は自分も武術の稽古をしてみたいと申し出ます。そこで磐音に稽古をつけてもらうことになります。それを見ていた平助がいうのです。

平助 「大所帯の尚武館、若先生ともなると左団扇かと思うたがくさ、武者修行の者より何倍も働かされるよばい。」
磐音 「小田どの、それがしも深川六間堀の裏長屋に住まいした折りのほうが、自由な時間があったような気がします。」
平助 「若いうちのたい、苦労は買(こ)うちでんせちゅう ばってんくさ、大先生もあれこれ働きなさるたい。若先生も死ぬまで働かんとちがうやろか。」
磐音 「大いにそうかもしれませんね。」
平助 「若先生のよかといえばたい、苦労は苦労と思ちゃらんことたいね。」

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十 竹村武左衛門

ottosei4 cast03 mqdefault「居眠り磐音 江戸双紙」には、個性的な人物が登場します。江戸下町の舞台に人生の縮図が展開されます。威張りくさる武士から賭け事にはしる坊主、吉原の頂点にある花魁大夫から飯盛り屋の女中、武士の首根っこを押さえる商人から金をせしめようとする浪人などです。たがが外れてきた江戸幕府にあって、皆懸命に生き延びようとしています。

もと伊勢は津藩の家臣といわれるのですが、素性は不明。本所の南割下水にある半欠け長屋に住む貧乏浪人が竹村武左衛門です。妻の勢津と四人の子供と暮らしています。南割下水は今の両国あたりから錦糸公園、そして北十間川を経て隅田川に流れていたようです。

稼いだカネは酒に消え、家族や周りを困らせています。だが不思議と憎めないのです。竹を割った性格でズケズケとものをいいます。お金や出世には全く無頓着。磐音や品川柳次郎とは用心棒仲間です。

そんな武左衛門に対して、品川柳次郎の母、幾代の態度は誠に辛辣です。昔、習ったことがあるという薙刀を振るような勢いで武左衛門の粗野な言動を叱責します。そんな幾代が柳次郎に言います。

幾代 「そなたにあの貧乏神どのさえついておられなければ、もう少し早く出世の道が開けたでしょうに。」

柳次郎 「母上、竹村の旦那がおったればこそ、坂崎さんとも知り合い、今津屋、佐々木先生、速水様方のご親切を受けることと相成ったのでえす。貧乏神と思えばそうかもしれません。ですが、母上、竹村の旦那はわれわれにとってどれほど生きる力を授けてくれたことか。」

柳次郎の仲間思いが、厳しい母親へ精一杯の抵抗に現れています。武左衛門の娘、早苗は磐音の紹介で尚武館に住み込み女中として働くことになります。父親の奔放な性格にハラハラする娘です。

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その九 品川柳次郎と母親の幾代

20120330_712041 img_20060414T114114610 img01磐音の用心棒仲間に品川柳次郎がいます。彼は貧乏御家人の次男坊です。江戸時代の御家人の多くは、戦場においては徒士と呼ばれる武士、平時においては勘定所とか普請の勤務、番士もしくは町奉行所の与力や同心としての職務や警備を務めていました。

大都会江戸に住む御家人は、江戸の物価高に悩まされ常に逼迫していたようです。そのため公然と内職をして生計(たっき)を支えることが一般的でありました。本所は北割下水で幕府から拝領していた古い屋敷に住む柳次郎の家も例外ではありません。団扇づくりで家計を助けています。母親の幾代は武家の矜持を失わず品川家を細腕でしっかりと支えています。

ある日、打ちたての蕎麦を土産に、磐音が北割下水の品川宅を訪れます。日がな内職の団扇作りに追われて辟易としていた柳次郎は磐音が用心棒の仕事をもってきたかと期待します。

磐音  「無沙汰の挨拶に寄りました」
柳次郎 「なにかいい仕事はありませんか?」
幾代  「柳次郎!、母と一緒に仕事ができる以上の幸せがありますか」

がっかりする柳次郎に幾代はこのように言いきかせるのです。「母と一緒に仕事ができる、、、」 なんと凜とした仕草でしょうか。

御家人の身分は御家人株と呼ばれるように、家格によって与えられた役ごとに相場がありました。幾代は品川家を存続させようとします。やがて磐音や彼の師匠である佐々木玲圓の剣友、速水左近らの努力で品川家の惣領に柳次郎が決まります。近くに学問所勤番組頭である椎葉家の長女、お有がいます。柳次郎とは幼なじみの仲でした。磐音は、気さくで率直な性格、そして大の母親想いの柳次郎に剣術を教えながら、やがてこの二人の仲をとりもつのです。

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙 その八 由蔵の嘆き

iwane_kirie o0480064012364289734 7a545c24時代小説「居眠り磐音 江戸双紙」の登場人物の会話に、励ましや諭し、赦しや癒しとなる言葉が見られます。それを取り上げながら、人情の機微や綾などを考えています。坂崎磐音は当代、随一の剣術家ですが、「過激さの持つ剣は瞬間的で一時的なもの、人間は心身ともに癒しの要素を持つものを本質的には受け入れる」のだといいます。そして、剣術の鍛錬に求められるのは安らぎと平穏であることを弟子達に教えます。

両替商行司今津屋の大番頭、由蔵はいつも穏やかなのですが、ときに磐音に呆れることがあります。自分が紹介した湯屋での仕事で磐音に損をさせてしまうのです。探索のために磐音は自分の持ち金二両を使います。そして僅かの報酬を貰います。今津屋支配人、林蔵も対して「坂崎さんを他人に紹介するものでない、あれではなんのための紹介だったか、、」と呟くのです。

由蔵 「一両四百文をもらって得々とするのが、どこの世界にいるというのです。商人はそれでは一日で干上がります。」
磐音 「さあ、、さほどのことをしていませんから、、」
由蔵 「呆れた、これには呆れた、」

林蔵 「いかにも坂崎さんらしいではありませんか」
由蔵 「なにを言っているんですか、笑い事ではありませんよ!」

磐音に、由蔵はあとで湯屋へ出掛け、磐音の働きとして五両を貰ってくるのです。由蔵は磐音の他人のために汗をかく損な性分に呆れながらも、情に厚く頼まれると断れない気質にほだされ、おこんと同じようにその人柄と人望に信頼をおいていきます。

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Intermission:  その四 手書きと「もがり」 と生前退位

08syouwa_07 20101015134213a37 201306100434482dd「もがり」という言葉を生まれて始めて知りました。その漢字と意味がわからず家内にもききましたが、それも無駄でした。そこで「字訓」と「新漢和大字典」 をひらき漢字とその意味とをじっくりと確かめました。「もがり」 のきっかけは、先日の「天皇陛下のお気持ちを表明」 です。まだ 「もがり」の漢字を手書きができないのでひらがなを使うことにします。お気持ちを表明の一部を引用すします。

「天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が1年間続きます。」

さて、字訓と新漢和大字典によると「もがり」 という漢字は「殯」とあります。音読みは、「ひん」、訓読みは 「かりもがり」 とあります。「さしおく、むかえる、おくる」 ともあります。字訓では、「かりもがり」 とは、「本葬以前に屍の風化を待つ礼で、板屋に収めてその風化を待つ」とあります。それが「殯礼」と呼ばれ、古く複葬の形式が行われたというのです。新漢和大字典によれは、「歹」は死体のことで、「賓」 は「おそばにおる」という意だそうです。ですから「殯」 とは、「死人をそばにいる客としてしばらく身辺に安置すること」 とあります。

「殯」 とは、古から続く皇室にまつわる葬儀儀礼であることがわかります。死者の最終的な「死」を確認することが「殯」という儀式であることがわかります。「お気持ち表明」には、「個人」という言葉が使われていますが、市井の一個人とは違います。

天皇とは一体どのような存在なのでしょうか。天皇はもはや現人神ではありません。ですが単なる一個人でもありません。選挙権もありません。天皇の人権とはなんなのでしょうか。あらゆることに時があります。区切りがあるのです。私たちは65歳や70歳で定年退職します。天皇陛下がお亡くなりになられるまで、象徴とはいえ皇位を継承するというのは、惨いことではないでしょうか。「天皇の終焉」というお言葉も大胆な表現です。ご自身、「早く自由にさせてくれ、、」という叫びがにじみ出ているように思えてきます。

私は天皇陛下の五年後、生前退位をされ「私」となったお姿を空想するのです。姓をもらい介護保険料を払うお姿です。晴れて選挙権を得て、デイケアセンターに出掛け囲碁を打ち、仲間と風呂に入り政治のことで雑談するお姿です。図書館で調べものをし、疲れたらスタバに入り珈琲を啜り、牛丼屋に入り庶民の暮らしを感じるのお姿です。

識者は生前退位のいろいろな課題を指摘しています。これから長い時間をかけて有識者会議なるものを組織して話し合うとのこと。結論が出る頃、天皇陛下はどうなっているでしょうか。よれよれになっても象徴であられる痛々しいお姿でしょうか。生前退位の規定をできるだけ早急に設けること、そのことこそが天皇陛下のお心を忖度することではないでしょうか。

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Intermission: Can Handwriting Make You Smarter? その三 パソコンと手書きの違い

University_of_Nebraska_seal 1024px-WashUShielding.svg 804px-Princeton_shield.svgパソコンを使い記録することは、記憶という観点からは短期間ならば有効だといわれます。セントルイス(St. Louis) にあるワシントン大学(Washington University in St. Louis) の研究者らが、2012年に学生80人を対象に実施した実験で講義の直後にテストを実施しました。それによりますとパソコンでノートを取っていた学生の方が手書きの学生よりも講義で話された事実を多く思い出し、点数がやや高かったというのです。ただ、こうした優位性は一過的だったということも指摘しています。

他の複数の研究によると、パソコンを使っていた学生は24時間後には記録した内容を忘れてしまうことが多かったというのです。また、大量のノートを見返しても記憶したことを想起するのに有効ではなかったといわれます。記憶が深層にまで及んでいなかったようです。

対照的に、手書きでノートを取った学生は講義内容を長く記憶でき、1週間後でも講義で示された概要をよく覚えていました。この事実について専門家らは、書くというプロセスがより深く情報を記憶に焼き付けると指摘しています。また、手書きのノートはよく整理されているため、復習にもより大きな効果を発揮するといわれます。

心理学者であるプリンストン大学 (Princeton University) のパム・ミュラー(Pam Muller)とUCLAのダニエル・オッペンハイマー(Daniel Oppenheimer)は、2014年に行った3回の実験で、学生にアルゴリズムからコウモリまで幅広い話題を聞かせ、キーボードか手書きでノートを取ってもらいました。学生にはノートを見て復習する機会を与え、講義直後と1週間後に67人にテストを実施しました。

その結果、この二人の研究者は心理科学の専門誌で、手書きでノートをとった学生が記録した単語数は少なかったものの、書く時に題材をより集中して考えたようで、耳にしたことをより深く吸収したようだと述べています。

半面、パソコンを使う学生は機械的にノートを取り、聞いたことを一語一句そのまま打ち込んでいました。問題はパソコンを使う人には逐語的にノートを取る傾向があることです。ネブラスカ大学リンカン校(University of Nebraska-Lincoln)のケン・キウラ (Ken Kiewra) は「皮肉なことに、速く記録することができるのがノートパソコンを使うことの魅力だが、逆にそのことが学習の効果を減らしている」と述べています。

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