心に残る名曲 その六十八 グリークと「北欧のショパン」

私は1971年に家族とともに沖縄に出掛けました。そして那覇で「丘の上幼稚園」を開設しました。本土復帰の翌年の1973年のときです。幼稚園は那覇市外を見下ろすことのできる上之屋というところにありました。園庭の隣りには市の泊浄水場がありました。

那覇は、赤いデイゴやハイビスカスと紺碧の空、そしてエメラルドの海で朝が始まります。幼稚園の朝はいつも同じ音楽を流しました。それがグリーク(Edvard Hagerup Grieg)の有名な組曲「ペール・ギュント(Peer Gynt Suite)」の第一曲である「朝(Morning Mood)」でした。オーケストラの伸びやかで爽やかな旋律が園庭に広がりました。

「北欧のショパン」と呼ばれるのがノルウェー(Norwegian)の作曲家グリークです。数多くのピアノ小品を残したからです。1843年にベルゲン(Bergen)生まれます。やがて壮大なクラシック音楽の数々を世に送り出していきます。本人も卓越したテクニックのピアニストとしても著名で、沢山の自作をヨーロッパ各地で演奏したようです。

「ペール・ギュント」は、数あるグリーグの作品の中で最も知られています。同じノルウェーの劇作家ヘンリク・イプセン(Henrik Johan Ibsen)の戯曲が「ペール・ギュント」です。グリークはその付随音楽として作曲します。

 

心に残る名曲 その六十七 チャイコフスキーと日本人 その十三 ドン・コサック合唱団とアメリカ

ドン・コサック合唱団の名称は、ドン川からつけられています。この川はモスクワの南東から始まり、南西へと向かい約2,000kmを流れる大河です。ところでコサックの生き方を題材とした「静かなるドン」があります。ミハイル・ショーロホフ(Mikhail Sholokhov)の作品です。彼はソビエトを代表する作家といわれます。ロシア革命に翻弄され、黒海沿岸のドン地方に生きるコサック達の物悲しい生きざまを描いています。

ソフィア(Sofia)からオーストリア(Austria)の首都ウィーン(Vienna)へと演奏の旅を続けます。1923年7月にウィーンで開いた演奏会は大賛辞をもらい、その後一万回の演奏会へ続きます。1926年にはオーストラリア(Australia)での演奏旅行をし、そのときサーヴァ・カマラリ(Savva Kamaralli)というリードテナー(lead tenor)がオーストラリアに定住することを決意するという出来事もあります。1930年にはアメリカでの演奏旅行を始め、1936年には団員全員がアメリカの市民権を取得することになります。

ドン・コサック合唱団の指揮者はセルゲイ・ジャーロフ(Serge Jaroff )です。腕を少し動かし、手の平と指で団員に指示を与えます。指揮者にありがちなダイナミックな指揮と違い、少しも派手ではありません。団員一人ひとりが豊かな声量を有しているので大袈裟な身振りは必要がなかったようです。

 

心に残る名曲 その六十六 チャイコフスキーと日本人 その十二 ドン・コサック合唱団

第二次大戦後、日本にも何度も訪れ演奏会を開いたドン・コサック男声合唱団のことです。この合唱団はいわば男声合唱の世界では先駆的なグループといえるでしょう。その後、ロバート・ショウ合唱団(Robert Shaw Chorale)、ロジェ・ワグナー合唱団(Roger Wagner Chorale)、ノーマン・ルボフ合唱団 (Norman Luboff Choir)などが結成されます。ドン・コサック合唱団は1930年代から50年代にかけてアメリカで人気を得ます。コサックの衣装をまといロシアの聖歌やオペラ曲、軍歌、民謡などをアカペラで歌いました。

歴史を1920年代に戻しましょう。コサック隊は帝政ロシアの側について農民運動などを鎮圧していくのですが、内紛でボルシェビキによって組織された赤軍との争いでコサック隊は完全に制圧されます。そのため隊員は各地に逃れていきます。コサック隊員はイスタンブールの近くにあったシリンジア(Cilingir)というトルコの捕虜収容所で合唱団を組織するのです。これがドン・コサック男声合唱団の始まりです。そして教会での礼拝で歌い、やがてギリシャのレムノス島(Lemnos)という淋しい街に移動します。その島を領有していたのはイギリス軍ですが、野外コンサートでは大変な人気を得ます。その合唱団の指揮をしていたのが元ロシア帝国軍人、セルゲイ・ジャーロフ(Serge Jaroff)です。

その後、ドン・コサック男声合唱団はブルガリア(Bulgaria)のバーガス(Burgas)という街に移ると、そこでロシアの公使から教会附属の合唱団になるように勧められます。教会は貧しく、テント生活をしていた隊員を十分に支えることができませんでした。隊員は歌う傍ら働くことを余儀なくされます。そして、首都のソフィア(Sofia)でようやく宿舎が与えられるのです。1923年6月にソフィアの大聖堂アレキサンダー・ネフスキ教会 (Alexander Nevsky Cathedral)で公のデビュを果たすのです。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

 

 

 

 

心に残る名曲 その六十五 チャイコフスキーと日本人 その十一 ボリシェヴィキの一党独裁

ロシア帝国は官尊民卑の風潮が強く、至るところで官等、制服、勲章がものをいう時代だったと云われます。身分制度による差別がやがて農民や労働者の蜂起につながっていきます。運動はさらに内戦状態へと移ります。

多数派と呼ばれたボリシェヴィキは、戦時共産主義と呼ばれる極端な統制経済策をとります。この理由はこの内戦を戦い抜くためという大義がありました。あらゆる企業の国営化、私企業の禁止、強力な経済の中央統制と配給制、そして農民から必要最小限のものを除く、すべての穀物を徴発する穀物割当徴発制度などから成っていました。

この政策は戦時の混乱もあって失敗に終わります。ロシア経済は壊滅的な打撃を受け、農民は穀物徴発に反発して穀物を秘匿し、しばしば反乱を起こします。また都市の労働者もこの農民の反乱によって食糧を確保することができなくなり、深刻な食糧不足に見舞われるようになります。1921年には、工業生産は大戦前の20%、農業生産も3分の1にまで落ち込んだと云われます。

この内戦と干渉戦はボリシェヴィキの一党独裁を強めていきます。ボリシェヴィキ以外のすべての政党は非合法化されます。レーニンによって十月革命直後の1917年12月に人民委員会議直属の機関として設立された秘密警察組織チェーカ(Cheka)は裁判所の決定なしに逮捕や処刑を行う権限を与えられます。1918年8月には左翼社会革命党の党員がレーニンに対する暗殺未遂事件を起こします。これをきっかけに革命勢力や反政府勢力、共産主義政府が起こすテロである「赤色テロ」を宣言して対抗します。他方、復古勢力や政府が起こすテロは「白色テロ」と呼ばれました。秘密警察組織

退位後監禁されていたニコライ2世とその家族は、1918年7月、反革命側に奪還されるおそれが生じたために銃殺されます。ロマノフ王朝の完全な消滅です。

心に残る名曲 その六十四 チャイコフスキーと日本人 その十 ステンカ・ラージン

ロシアの工業も農民の労働力に大きく依存していました。農民は、工場に買われた占有農民、工場に編入された編入農民に分かれます。いずれもほとんどが出稼ぎ農民だったといわれます。19世紀末にも工業や建設の労働者の大半は出稼ぎ農民でありました。やがて重工業の熟練労働者を中心に完全な都市労働者の階層がうまれ、労働運動に影響を及ぼしていきます。

農民運動は民族運動と結びつき、大量の農民逃亡が起こります。それを押さえ込むために、帝政ロシア政府は各地で暗躍し始めたコサック兵(Cossacks)の取り込み政策を行い成功していきます。コサックとは、没落した欧州諸国の貴族、逃亡した農奴、遊牧民の盗賊で形成された独特の軍事的共同体のことです。18世紀以降から帝政ロシアによる自治剝奪後に国境警備や領土拡張の先兵、国内の民衆運動や革命の鎮圧などを行っていきます。

日本でも知られるロシア民謡に『ステンカ・ラージン(Stenka Razin)』があります。コサックの指導者の一人で、モスクワの総主教や金持ちの商人の積荷を積んだ船団を撃破するなど、農民だけでなく下層階級の支持を受けるようになります。やがてステンカ・ラージンは、帝政に対して蜂起し、ロシアの貴族や官吏を追放し、階級の存在しない平等な「コサックの国」の樹立を宣言します。カスピ海にも乗り出したステンカ・ラージンは、ペルシアの沿岸を荒らしていきます。そして遂にはペルシア艦隊を撃滅し、いわばステンカ・ラージンは手のつけられない存在となっていきます。ステンカ・ラージンは反政府の武装蜂起を公然と開始します。

ドン・コサック(Don Cossacks)のことです。はロシア帝国の軍隊として働き、数々の戦争に参加しし、露土戦争やクリミア戦争での活躍が知られています。名称は、根拠地を流れるドン川に由来するといわれます。祖国戦争でも7万のドン・コサック兵がナポレオン軍と闘います。モスクワ総主教がラージンを破門したと聞いたドン・コサックもラージンに叛旗を翻します。

ドン・コサックは、軍役のほかに警察業務を担当していたことから、体制派とか帝政派の支持者、民衆の弾圧者、また革命への反逆者というイメージが強く形成されたようです。ロシア内戦期にも、ドン・コサック軍は皇帝への忠誠を守り、その結果、ボリシェヴィキとの戦争で赤軍に敵対します。そのため、革命時期には内紛によりドン・コサックは白軍と赤軍に分かれ、白軍は敗れていきます。白軍には革命への反逆者としての汚名が残ります。

心に残る名曲 その六十三 チャイコフスキーと日本人 その九 身分制度と農奴

ロシア革命の歴史を辿りますと、この国の複雑な身分制度が大きな要因になっていることがわかります。ロシア帝国は住民の身分的な編成を特徴としています。農村共同体の維持や強化、身分別選挙なで身分差別は維持されていました。

人頭税の導入も特徴といわれます。ロシア社会は大きく二つに分けられます。僧侶と貴族、名誉市民は人頭税と徴兵を免除されていました。19世紀末には、人口の7割以上がロシア教会に所属していました。独身の黒僧(修道士)と家族持ちの白僧に分かれ、主教などの教会上層部は黒僧によって占められていました。貴族は世襲貴族と一代貴族があり、後者は軍隊や官庁で一定の官位に昇進した者です。さらに上位に昇進すると世襲貴族となります。

ロシア帝国は農業国です。人頭税もはじめは都市住民が3%、残りの97%は農民が負担していました。農民の2割は国有地で、3割は教会領に住んでいました。国有地の農民は自由農でこれに対して貴族所領の農民は「農奴(serf)」と呼ばれていました。農奴制は18世紀になると強化拡大され、世紀末には農民の6割、総人口の約55%が農奴でありました。領主による扱いも家畜並みだったようです。

19世紀後半には、人口の増加で土地が不足が深刻化し、農業危機が起きます。農村の過剰人口はシベリアなどの辺境や国外へと大量に移住していきます。やがて農民運動が起きるのです。

心に残る名曲 その六十二 チャイコフスキーと日本人 その八 ロシア革命と僧侶ラスプーチン

ロシア革命の経過は、調べれば調べるほど複雑です。革命と新しい国作りには産みの苦しみがあるということでしょう。現在放映されている大河ドラマ「西郷どん」もそうです。国を愛し、故郷を愛し、人を愛し続ける闘士が登場します。たくましさと生命力がいずれの革命の指導者に感じられます。チャイコフスキーはこうした思想の変化をどのように感じていたでしょうか。

ロシアでは内戦中が起こります。覇権争いです。ロシアの反革命分子の政府も宣言されます。旧軍の将校が各地で反革命軍として軍事行動を開始します。総称して白軍と呼ばれます。複雑なのは緑軍のように、多数派と呼ばれたボリシェヴィキにも白軍にも与しない軍も生まれるのです。ソヴィエト政府はブレスト=リトフスク条約(Treaty of Brest-Litovsk)締結後に軍事人民委員となっていたトロツキー(Lev Davidovich Trotsky)は赤軍を創設して戦っていきます。

臨時政府は、ケレンスキ(Aleksandr Kerenskii)が法相として入閣し、自由主義者中心の内閣となります。臨時政府から退位を要求されたニコライ2世は、弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ(Mikhail Aleksandrovich)大公に皇位を譲ったものの、ミハイル大公はこれを拒否し、皇帝(ツァーリ)につくものが誰もいなくなります。皇帝夫妻に取り入って権勢をふるっていた伝説的な僧侶、ラスプーチン(Grigorii Rasputin)が皇族や貴族のグループによって暗殺されたりします。そしてロマノフ(House of Romanov)朝は崩壊します。

心に残る名曲 その六十一 チャイコフスキーと日本人 その七 交響曲第4番ヘ短調作品36

チャイコフスキーの作品に戻ります。交響曲第4番ヘ短調です。最初の金管楽器によるファンファーレのような響きが、この交響曲の素晴らしさを暗示しています。曲頭のホルンとファゴットのファンファーレのモチーフは全曲の主想旋律となります。このファンファーレは運命のファンファーレとも呼ばれ、本楽章の展開部以降にしばしば登場します。楽章終盤では立て続けに登場し、楽章終結に向けて大いに曲の緊迫感を高めます。また第4楽章の終盤にもそっくり再来して曲の雰囲気を一転させることになります。

序奏部のあとは、暗く悲劇的な第1主題が弦で提示され提示部が始まります。ムラビンスキ指揮の(Evgeny Mravinsky)レニングラード・フィルハーモー交響楽団、現在のサンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団(Saint Petersburg Philharmonic Orchestra)の演奏は聞き応えがあります。

ムラビンスキは1903年、帝政期サンクトペテルブルクにて、非常に高い地位を有する貴族であり法律家の父と、歌手であり音楽に対し造詣の深い母との間にうまれます。また、父方の伯母も有名な歌手であった。6歳の時からピアノを学びはじめます。しかし1917年の ロシア革命により一家は財産を没収され、アパート一室での雑居生活を強いられたようです。1924年にレニングラード音楽院、今のサンクトペテルブルク音楽院(St Petersburg Conservatory)に入り直し、作曲と指揮を学び才能を開花していきます。

心に残る名曲 その五十九 チャイコフスキーと日本人 その五 ロシア革命とシベリア出兵

ニコライ2世は軍にデモやストの鎮圧を命じ、特に帝政期の国会であったドゥーマ(Duma)には停会命令を出します。しかし鎮圧に向かった兵士は次々に反乱を起こして労働者側につきます。1917年2月、労働者や兵士は、民主主義革命をめざすべきであると主張する少数派のメンシェヴィキ(Men’sheviki)の呼びかけに応じてペトログラード・ソヴィエト(Petrograd Soviet)を結成し、ドゥーマの議員は国会議長である十月党のもとで臨時委員会をつくって新政府の樹立へと動きます。

Constituent Assembly propaganda in Teatralny proezd.


メンシェヴィキという穏健派に対抗したのが、ボルシェヴィキ(Bol’sheviki)です。その指導者はレーニン(Vladimir Lenin)です。ボルシェヴィキとは多数派という意味です。ボルシェヴィキは、暴力革命を主張し、徹底した中央集権による組織統制を叫びます。その伝統は、やがてソビエト連邦共産党へと引き継がれていきます。

1918年5月、捕虜としてシベリアにとどめおかれていたチェコスロバキア(Czechoslovakia)軍団が革命軍に対して反乱を起こします。これに乗じてアメリカや日本がシベリアに出兵します。日本は。12,000名の将兵をウラジオストクに派遣します。「囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分だったのですが、ロシア革命に対する干渉戦争でもあり、社会主義を封じるという狙いもあったようです。ですが実際には帝国時代の外国債券や露亜銀行などのさまざまな外資を保全する狙いがあったのがシベリア出兵でした。

心に残る名曲 その五十八 チャイコフスキーと日本人 その四 ロシア革命と領土拡大政策

ロシアの歴史です。広大な国土、さえぎるもののない平原、長くゆったりと流れる大河、厳しい気候と国民性は関連しています。音楽もそうだろうと思われます。

1991年に解体したソビエト連邦は地球上の全陸地面積の1/6を占め、アメリカの1.8倍、世界一の広さです。8割はウラル山脈(Ural Mountains)の東側、シベリアと極東です。ウラル山脈によって東西に分かれ、この国が広いユーラシア平原(Eurasian Steppe)にまたがることが異民族との絶えざる戦争を引き起こしてきました。18世紀末にはアリューシャン列島(Aleutian Islands)からアラスカ(Alaska)まで領土を拡大します。

ロシアが世界の大国として登場するのは、18世紀前半のピュートル1世の時代です。北欧の雄、スエーデンを破りロシアは帝国となり、バルト海のほかにサンクト・ペテルブルグ(Sankt Peterburg)を築いて、念願であった海への出口を獲得するのです。

18世紀後半には、エカチェリーナ(Ekaterina)2世の時代に、クリミア(Crimea)半島にあったモンゴル地方政権のクリム・ハン国(Krym Khanstvo)を滅ぼし、さらにポーランドの分割を行い領土を拡大していきます。19世紀初めに、世界最強を誇ったナポレオンの大軍を破りヨーロッパの列強に加わります。

しかし、膨大な軍備への支出にあわせ、国民の中に食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」という要求やデモが盛んになり、各地でストライキが起こります。1917年2月にはペトログラード(Petrograd)で国際婦人デーにあわせて女性労働者がストライキに入り、デモを行います。他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモとストは全市に広がります。デモ隊の要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大していくのです。革命はすぐそこに迫ってきます。
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心に残る名曲 その五十七 チャイコフスキーと日本人 その三 ロシア革命と講和条約

日露両国はアメリカの第26代大統領のセオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日ポーツマス条約(Treaty of Portsmouth)に調印し講和します。講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置されます。ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置されることになります。

ロシア帝国はヨーロッパ各地でも領土の覇権を巡る戦いを続けています。日露戦争は極東におけるいわば小さな戦いともいえるものでした。しかし、満州や朝鮮、南樺太の利権を手放し、海軍の弱体化と相まって、帝国の衰退が始まるのです。革命への機運が労働者や農民の中から高まっていきます。

1912年4月、バイカル(Baikal)湖北方のレナ(Rena)金鉱でストライキが起こり、労働者に対して軍隊が発砲し、多数の死者がでます。レナ金鉱事件と呼ばれました。全国に抗議ストが広がり、労働運動は活性化していきます。1914年7月に第一次世界大戦が勃発すると愛国主義が高まり、弾圧も強まって労働運動はいったん収まるのですが、戦争が生活条件の悪化をもたらし始めると労働運動は復活していきます。

復習ですが、ロシア革命とは1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称とされます。特に史上初の社会主義国家樹立につながったことに重点を置く場合には、十月革命のことを意味し、広義には1905年のロシア第一革命も含めた長期の諸革命運動を意味するとブリタニカ国際百科事典にあります。
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心に残る名曲 その五十六 チャイコフスキーと日本人 その二 ロシア革命と日露戦争

日露戦争は、1904年の2月から1905年9月に、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部、及び日本海を主戦場として起こった当時としては未曾有の大戦争です。

新生日本にとっては、のるかそるかの戦いだったのですが、ロシアにとってはアジアの片隅で起こった領土争いという意識だったようです。その裏側では、戦争遂行に膨大な物資の輸入が不可欠であった明治政府の厳しい苦悩がありました。なぜなら、日本の勝利を懐疑的に見守る当時の国際世論の下にあって、戦費となる外貨調達に非常に苦心したのです。調達に奔走したのは日本銀行副総裁の高橋是清です。

先の日清戦争によって、多くの戦費を使い海外に流失します。戦争ほど金のかかるものはないのです。この時点で日銀の保有正貨は5千2百万円であり、約1億円を外貨で調達しなければならなかったといわれます。外国公債の募集には担保として関税収入を当てることにします。期間10年据え置きで最長45年、金利5%以下の条件で公債の募集を始めます。当時は、世界中の投資家が、日本の敗北を予想して資金が回収できなくなると判断したようです。

こうした苦境のなかで、額面100ポンドに対して発行価格を93.5ポンドまで値下げるとことし、日本の関税収入を抵当とする好条件でイギリスの銀行家たちから外債引受けの成算をえるのです。さらに、帝政ロシアを敵視するアメリカのドイツ系ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフ(Jacob Henry Schiff)の知遇を得て、ニューヨークの金融街から500万ポンドの外債引き受けに成功します。

ロシア国内では、反ユダヤ主義(Antisemitism)が高まっていきます。そのことによってユダヤ系の人々への大迫害ーポグロム(pogrom)が吹き荒れます。帝政ロシアにおける組織的なユダヤ人の大虐殺の事態をシフは知ったようです。
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心に残る名曲 その五十五 チャイコフスキーと日本人 その1 ロシア革命と「坂の上の雲」

「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」 司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、この文章で始まります。日本とロシアの関係を調べるとき、日露戦争は日本の近代国家の形成にどのような影響を与えたかを知る貴重な材料となります。

「坂の上の雲」は、日露戦争の開戦から講和にいたる歴史小説です。司馬が云うのですが、明治の時代は日本がまだきわめてまともな時であったと書いています。明治維新から日露戦争までの30余年を「これほど楽天的な時代はない」とも評しています。近代化によって日本史上初めて国民国家が成立し、「庶民が国家というものにはじめて参加しえた集団的感動の時代」とさえ司馬は云うのです。

「坂の上の雲」の主人公は、日本陸軍の騎兵部隊の創設者である秋山好古、その実弟で海戦戦術の創案者である秋山真之、真之の親友で明治の文学史に大きな足跡を残した俳人正岡子規の3人です。3人とも四国は松山の出身であります。秋山兄弟や子規に代表される若者達は新興国家の成長期に青春時代を送ります。なんとかして高等教育を受け、「個人の栄達が国家の利益と合致する昂揚の時代」に生きるのです。

維新から日露戦争までの30余年を「これほど楽天的な時代はない」と云ったのは、若い人々が、血縁や身分や貧富の差に縛られることなく、自らが国家を担う気概を持ち、政治や軍事、学問など各々の専門分野において邁進できた時代です。
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心に残る名曲 その五十二  チャイコフスキーと日本人 その四 弦楽四重奏曲第1番ニ長調 作品11

弦楽四重奏曲第1番ニ長調 作品11は、ロシアの作曲家チャイコフスキー(Peter Ilyich Tchaikovsky)によって、1871年2月に作曲された弦楽四重奏曲です。第2楽章「アンダンテ・カンタービレ(Andante cantabile)」の冒頭は有名です。いろいろな編曲家によって用いられムード音楽でも使われるくらい有名で親しまれています。「アンダンテ・カンタービレ」はチャイコフスキーがウクライナ(Ukraine)で聴いた民謡に題材を得ているとされます。

第1に続いて第2の旋律も有名です。そして第1の旋律に戻ります。弦楽四重奏とはヴァイオリンが二台、そしてビオラとチェロ加わります。アンダンテ(andante)とは速度記号のことで、ゆったりとした歩くくらいの速度で弾かれます。カンタービレ(cantabile)とは「流れるように」という意味の音楽記号です。五分ほどの短い曲ですが、しみじみとした感傷が残る曲です。

心に残る名曲 その五十三 チャイコフスキーと日本人 その四 交響曲第6番 「悲愴」

1893年に書かれたチャイコフスキー(Tchaikovsky)の最後の交響曲です。初演は1893年10月28日、作曲者自身の指揮によって演奏されたとあります。本人が語るように、レクイエム(requiem)的な暗さで序奏部が始まります。序奏部は主部の第1主題に基づいたものである。やがて第1主題がヴィオラとチェロの合奏でなされ、両パートの奏者の半分のみでどこか弱弱しく演奏されます。第1楽章はアダージョで始まり、暗いため息の序奏が流れます。その後速度を増して第1主題の切迫感を印象付けると、ゆるやかなテンポになり、美しい第2主題が登場する。チャイコフスキーの作品の中でも特に親しまれている名旋律の一つです。その第1句は五音音階による民族的な響きで、甘美でやるせなく、また切ない印象を与えます。

「悲愴」と「悲壮」は意味が違うようです。「悲愴」「悲しくも痛ましい」、「悲壮」は「悲しくも勇ましい」となるようで、フランス語「Simphonie Pathétique」から日本語「悲愴」への翻訳も適当なような印象を受けます。
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ヨセミテ国立公園での休暇 その10 ラフティング(Rafting)

川下りはラフティング(Rafting)と呼ばれます。ヨセミテ峡谷を流れるのがMerced Riverです。誠に長閑した流れで時速3キロくらいでしょうか。ラフティングの醍醐味は、周りの巨大な岩壁が次々に現れ、景色が大きくかわることです。ハーフドーム(Half Dome)、カトリック岩壁(Cathedral Rocks)、エルカピタン(El Capitan)、グレーシャポイント(Glacier Point)などが眼前にひろがります。

2人から4人がゴムポートに乗り込みます。4歳以下の子どもは乗れません。急流下りとは違い、静かな流れにまかせてゆっくり下っていきます。ボートはそのままではぐるぐる回ってしまいます。ときどきパドルで方向を操作します。約2時間くらいかけて4マイルくらいを下ります。途中にはキャンピングの家族らが水遊びをしています。ラフティングはその年の降雪量によって水かさが異なります。時々、浅瀬に乗り上げてそこから脱出するのに悪戦苦闘します。6月末から8月末までの二月がシーズンとなります。

ヨセミテ国立公園での休暇 その9 John Muir Trail

ジョン・ミューアトレイル(John Muir Trail)の紹介です。ミューアの偉大な貢献に対して付けられた名称です。アメリカなどは人名が場所、公園、建物などに付けられるのが目だちます。それから多額の寄附した人々に感謝して付けられることが多いです。

ジョン・ミューアトレイルの長さは、 211マイル(338キロ)。 ヨセミテ峡谷から端を発して、シエラネバダ(Sierra Nevada)山脈のホイットニー山(Mt Whitney) に至る遊歩道です。ホイットニー山の標高は4,418メートルあります。全米の最高峰といわれています。

ヨセミテ峡谷からジョン・ミューアトレイルを歩くには、入山日の24週間前までに許可を得なければなりません。これも自然保護や山火事予防のためとなっています。

ホイットニー山への指定区域内への日帰り登山にも人数制限がありあります。1日100人と定められていて、5月から10月の入山予約はその年の2月に応募が締め切られ、4月に抽選が行われます。自然は、人間のまえには極めて脆弱なのだ、という精神があります。

それでもミューアは云います。
“Climb the mountains and get their good tidings.”
山に登ることは、良い知らせをいただくことだ

ヨセミテ国立公園での休暇 その7 自然保護の父–John Muir その2 ヨセミテ峡谷の形成

話題は少し前後します。掲載の順序を間違えました。

ミューアは、金属部品工場で事故にあい、殆ど失明しそうになります。幸い治癒してから次のように怪我を述懐しています。
God has to nearly kill us sometimes, to teach us lessons.
「神は時として人々を殺めようとするが、同時に教訓を与えてくれる」

仕事を辞するとミューアは徒歩でインディアナポリスからメキシコ湾(Gulf of Mexico)へ向かいます。さらにブラジルのアマゾン川流域の熱帯雨林を目指そうとするのですが、病のため断念しニューヨークへ行きます。そこから船でパナマ(Panama)へ、さらに船と汽車でサンフランシスコ(San Francisco)にやってきます。

サンフランシスコでのエピソードです。一人の大工と出会い「このごみごみした街から逃れるにはどの道をいけばよいか?」と尋ねます。「どこへ生きたいのか?」と大工が云います。ミューアは「どこか自然の豊かな所だ、」と答えたといいます。

それから数週間をかけて歩きながら、見事な大自然と出会うのです。1868年、ミューアは始めてヨセミテを訪れます。一週間の滞在だったのですが、翌年再び訪れて林業の仕事を見つけます。さらにシェーラネバダ(Sierra Nevada) 山脈のふもとにあるトールムネ平原(Tuolumne Meadows)にて、月30ドルで2,000頭余りの羊の放牧を手伝います。その間、多くのスケッチ画を残し、”My First Summer in the Sierra”という最初の本を書きます。間もなく、ヨセミテ峡谷のヨセミテ滝の側にあった製材所で定職に就きます。それ以来、ヨセミテ峡谷の自然との生活が始まります。

当時の著名な地質学者達は、ヨセミテ峡谷は地震によって形成されたと主張していたのですが、ミューアは氷河によって削られてできたと反論します。この主張はやがて認められるという有名なエピソードが残っています。
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ヨセミテ国立公園での休暇 その8 自然保護の父–John Muir その3 国立公園に格上げ

ジョン・ミューア(John Muir)はヨセミテの大自然に魅了されたばかりでなく、自然の驚異と人間の営みについての原稿や著作を発表していきます。New York Tribune, Scribner’s, Harper’sといった出版社が原稿を引き受け、自然や環境についての著作が世の中にでるのです。科学界からも注目され、彼の出版物は世間でも広く読まれるようになります。著作はミューアが自分の足で歩き観察したことが題材となっています。

こうして作家、植物学、地質学にも精通したミューアは、シエラネバダ山脈の地形が氷河作用に深く関わっていることを発表します。1848年から1855年代ゴールドラッシュ(Gold rush)の頃で、西部開拓の人口が急増します。人々は、豊かな森に豊富な水をたたえたヨセミテの地で森林伐採やダム建設を計画していきます。ミューアはこうした世相の流れに真っ向から異議を唱えていきます。

1890年、イエローストーン(Yellowstone)が唯一の国立公園でした。そのころヨセミテ公園は州立公園だったのです。ミューアは、国立公園への格上げの運動を始めます。彼の著作が多くの人々の賛同を得ます。さらに支援団体が議会に対して格上げのロビー活動をしていきます。

他方、森林業の団体は、保護する資源は無駄遣いになっているとして格上げに反対するのです。こうした反対活動にもかかわらず、ヨセミテとセコイア(Sequoia)は国立公園として指定され、自然保護の対象となっていきます。

1901年には、ミューアは自然保護団体の人々とルーズヴェルト(Theodore Roosevelt)大統領にホワイトハウスの執務室(Oval Office)で会い、自然保護地域の拡大を訴えるのです。1903年にルーズヴェルトとミューアはヨセミテ峡谷でキャンピングをし、一帯の148ミリオンエーカー(6029平方キロ)の森を保護の対象とします。ルーズヴェルト政権下では全米の国立公園の数が二倍になるのです。国立公園の理念を確立させたのがルーズヴェルトといわれている所以です。
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ヨセミテ国立公園での休暇 その6 自然保護の父–John Muir その1 ウィスコンシン大学での学び

アメリカのナチュラリスト(naturalist)の草分けとか「自然保護の父」と呼ばれたジョン・ミューア(John Muir)を数回にわたり紹介することにします。

ミューアは、1838年にスコットランド(Scotland)のダンバー(Dunbar)という街で生まれます。後年、1892年、彼がンフランシスコ市に創設した「Sierra Club」という自然保護団体の資料によりますと、ミューアは幼少から冒険好きでいつも野外で遊んでいたといわれます。海岸沿いにあった小さな学校で学びます。

1849年に家族と共に移民としてアメリカに渡ります。落ち着いたところはウィスコンシン(Wisconsin)の真ん中あたりにあるポーテージ(Portage)の近くにあるHickory Hill Farmという小さな街です。

やがてミューアはウィスコンシン大学に入り、哲学、科学、文学などに触れることになります。丁度、その時代の思想家、哲学者であり作家、詩人であったエマーソン(Ralph Emerson)やソーロ(Henry D. Thoreau)から深い感化を受けます。しかし、学びでの途中でウィスコンシン大学を退学し、インディアナポリス(Indianapolis)にあった金属部品工場で仕事に就きます。その間の経緯はよくわかりません。