アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その125 ラザフォード・ヘイズ大統領

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 1877年にラザフォード・ヘイズ(Rutherford Hayes)が第19代大統領に選出されます。1881年までの在任期間中、彼は選挙に必要な南部で争われた票を確保するために、南部の人々が主張する公約を着実に実行に移します。彼は南部に駐留していた連邦軍を撤退させ、テネシー州の元上院議員デイヴィッド・キー(David Key)を郵政長官として閣僚に任命します。

 ヘイズは、こうした融和的な態度によって、南部の多くの保守派が将来的に共和党を支持するようになることを期待します。しかし、南部の人々の最大の関心事は白人至上主義の維持であり、そのためには民主党が南部の政治権力を独占する必要があると考えていきます。その結果、ヘイズの政策は、南部での共和党の復活ではなく、事実上消滅することになります。

 ヘイズの南部への働きかけは一部の共和党員を苛立たせます。連邦公務員の支持に対する彼の政策は、党にとってより直接的な課題でありました。1877年6月、ヘイズは連邦政府職員による政治活動を禁止する大統領令を発布します。ロスコ・コンクリング(Roscoe Conkling)上院議員の友人二人がこの命令に背くと、ヘイズは二人をニューヨーク港管理局のポストから解任します。コンクリングと共和党の仲間たちは、1879年に彼らの仲間の一人であるアロンゾ・コーネル(Alonzo Cornell)をニューヨーク州知事に当選させ、1880年にはもう一人のチェスター・アーサー(Chester Arthur)を共和党の副大統領候補として指名し、ヘイズに対する軽蔑の念を表していきます。

 ヘイズが直面した最も深刻な問題の一つは、インフレの問題でした。ヘイズをはじめとする多くの共和党員は、健全な通貨政策を堅く支持していましたが、問題は党派的というよりむしろ通貨政策の問題に起因していました。一般に農業地帯である南部と西部ではインフレに好意的でしたが、北東部の産業・金融グループは、インフレは債権者の犠牲の上に債務者を利するとして反対します。

 1873年、米国議会は銀貨の鋳造を中止します。この行為は、後に銀を愛する人々から「73年の犯罪(the Crime of ’73)」と呼ばれるようになりました。1879年1月以降、南北戦争の戦勝国紙幣を金で償還することを定めた法律を廃止し、銀貨の鋳造を再開するようにインフレ論者が議会を説得するキャンペーンを開始します。その結果、通過した法律(Bland–Allison Act) には、銀貨の鋳造を再開し、さらに重要な点として、ジョン・シャーマン(John Sherman)財務長官に対して、毎月200万ドル以上400万ドル以下の銀塊を市場価格で購入することを義務付けるというものでした。

インフレ反対派は、財務長官が、グリーンバックの償還を求める財務省の要求に応えられるよう、十分な金準備高を確保するための準備を入念に行っていることに安心します。また、長い不況からようやく回復する兆候もインフレ反対派を安心させるものでした。こうして政府の財政は安定し、グリーンバックの償還期日が来ても、財務省に金との交換を求めるという大きな要求は生まれませんでした。

 南北戦争の費用捻出のため、1861年に発行された緑色の裏面の無利子証書の約束手形がグリーンバックです。その色から「greenback」というニックネームが付きました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その124 国内政治の動き

19世紀最後の四半世紀のアメリカにおける支配的勢力は、政治的というよりもむしろ経済的、社会的なものでした。このことは、政治的リーダーシップの無力とか、インフレを求める農民運動の継続を除いては、政治に深い対立をもたらす問題が存在しないことを反映したようです。政治的に著名な人物はいましたが、彼らは政治的な行動計画の代弁者としてではなく、個人的な基盤の上に立って人気を得ていました。

 この時期の大統領で真に党の指導者は見当たらず、1893-97年の2期目の大統領グローバー・クリーブランド(Grover Cleveland)以外は、傑出した大統領はいませんでした。ウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)やジェイムズ・ブライス(James Bryce)といったアメリカ政界を鋭く観察していた政治家すらさえも、偉大な人物が大統領になることはないと考えていたようです。また、両政党の大統領候補の指名大会では、政敵が少ないといった無難な候補者を選ぶのが普通となりました。

 それでもウィルソンはヨーロッパでの第一次世界大戦への参戦を決断し、大戦末期にはウラジーミル・レーニン(Vladimir Lenin)の「平和に関する布告」(Dekret o mire)に対抗して「十四か条の平和原則」を発表、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰し、国際連盟の創設に尽力した大統領です。「十四か条の平和原則」とは、公正かつ民主的な平和の実現のため、民族自決に基づいて無併合・無賠償を原則として戦争を即時停止するといった内容の宣言です。

 共和党は、南北戦争から世紀末にかけて、1884年と1892年を除くすべての大統領選挙で勝利し、同時期の3つの議会を除くすべての議会で上院の過半数を占め多数党となります。しかし、民主党は1875年から1895年までの10回の議会のうち8回で下院の過半数を獲得していきます。共和党は1870年から1890年以降まで党内分裂に直面し、1876年以降の選挙戦のたびに南部全域を野党に譲らざるを得なかったのですが、政権与党となりました。

 共和党には、連邦を分離独立から守り、奴隷制を廃止した政党であるという自負がありました。他の政策の主張が失敗したときも、共和党の指導者は戦争の記憶を蘇らせることによって北部と西部の票を掘り起こすことができました。共和党の有利なことは、国家の継続的な産業発展は、民主党政権よりも共和党政権の方がより確実であるという信念が国民に次第に広まっていたことです。経済的に不利な年を除いて、戦争の記憶と共和党の経済プログラムへの信頼は、北部と西部のほとんどの州で共和党が勝利することに表れます。

 民主党はリベラル、大都市、人種的マイノリティーである黒人、ヒスパニック(Hispanic)、アジア系、労働組合、貧困層など大都市が集まる東海岸や西海岸などを基盤としています。共和党は農業地帯、伝統的なキリスト教派、労働者、白人支持層の多い南部や中西部を基盤としています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その123 労働組合と騒動

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労働組合にとって最も大きな打撃となったのは、組合が間接的にしか関与しなかったのですが、悲劇的な出来事です。それは1886年のメーデーに呼びかけられたストライキの1つに、シカゴのマコーミック農耕機器製作会社(McCormick Harvesting Machine Company)に対するものでした。5月3日、ヘイマーケット広場での騒動(The Haymarket Riot) です。ピケットラインで争いが起こり、警察が治安を回復するために介入し、数人の労働者が負傷したり死亡したりします。

 組合幹部は5月4日夜、ヘイマーケット広場で抗議集会を開きますが、集会が終わると、極右たちが占拠して扇動的な演説を始めました。警察がすぐに介入し、爆弾が爆発して警官7人が死亡、多数の負傷者が出ます。8人の極右が逮捕され、訴追され殺人の罪で有罪になります。そのうち4人は絞首刑、1人は自殺します。残りの3人は、1893年にジョン・アルトゲルド知事(Gov. John Altgeld)によって恩赦されます。知事は、彼らが偏見に満ちた雰囲気の中で有罪判決を受けたとし、有罪であると確信することは不可能であると認めざるをえなかったのです。

 世論はヘイマーケットの悲劇について組織労働者を非難し、多くの人が組合の活動には暴力が伴う可能性があると確信していきます。騎士団は1886年に失った信頼を回復することはなく、今世紀に入るまで、組織労働者が一般大衆の共感を得ることはほとんどありませんでした。組合員総数が最大となった1885-86年の数字に再び達したのは1900年になってからでした。組合活動は依然として活発であり、1889年から世紀末まで毎年1,000回以上のストライキが行われました。

 騎士団の力が弱まるにつれ、労働組合運動の指導者はアメリカ労働総同盟(American Federation of Labor: AFL)に移ります。労働総同盟は1881年に最初に組織され、1886年に再編成された地方労働組合とクラフト・ユニオン(craft unions)の緩やかな連合体でした。数年間、騎士団とAFLの間には名目上の協力関係がありましたが、両者の基本的な組織と理念の違いが協力を困難なものにしました。労働総同盟は熟練労働者のみにアピールし、その目的は労働時間、賃金、労働条件、組合の承認など、組合員にとって直接関係のある要求が主体でした。

 労働総同盟はストライキとボイコットを中心とする経済的手段に依存し、州や地方の選挙キャンペーンを除いては政治活動を避けていきます。労働総同盟の中心人物は、ニューヨークの葉巻製造業者であったサミュエル・ゴンパーズ(Samuel Gompers)で、1886年から1924年に亡くなるまで会長を務めます。

 現在の労働運動の担い手は10〜30代の青年で、労働組合=ユニオンの頭文字をとって「ジェネレーションU」(Generation U)という言葉すら生まれています。「すべての職場に労働組合を」というスローガンを掲げています。アマゾン(Amazon)とスターバックス店(Starbucks)での組合の結成も続いています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その122 労働組合の台頭

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産業の発展に伴い労使間の緊張が高まり、アメリカでは初めて全国的な労働組合が誕生します。1869年にフィラデルフィア(Philadelphia)にて結成された労働騎士団(Knights of Labor)は、会員数、影響力ともに地域的な規模を超えた最初の有力な労働組織でした。雇用主から労働者を保護する秘密結社として始まりました。騎士団は、あらゆる生産者集団の利益が平等となるよう、すべての労働者だけでなく、生産者と分類される人々を組合に加入させようと努めていきます。彼らは、様々な大義を唱え、その多くは産業よりも政治的なものであり、経済的強制力よりも政治や教育によって目的を達成することを叫んでいきます

 1873年から1878年にかけての不況で多くの労働者が苦しみ受け、全国的な鉄道ストライキは失敗します。ヘイズ大統領 (President Hayes)がピッツバーグ(Pittsburgh)とセントルイス(St.Louis)での混乱を鎮圧するために連邦軍を送ったことで、騎士団の仲間に大きな不満が生まれます。1879年、鉄道員でペンシルベニア州スクラントン(Scranton)市長のテレンス・ポーダリ(Terence Powderly)が、全国組織の委員長に選出されます。彼は、積極的な行動計画よりも協調を重視しますが、騎士団の実質的な支配は、目的を達成するためにストライキやその他の経済的圧力をかけることをいとわず、大きな影響力を有するようになります。

 1884-1885年、騎士団はその影響力のピークに達し、ユニオン・パシフィック鉄道(Union Pacific)、サウスウェスト・システム鉄道(Southwest System)、ウォバシュ鉄道(Wabash railroads)に対するストライキが大きな反響を呼び、賃金の引き下げを阻止することに成功します。当時、彼らは全国で70万人近い組合員を擁していました。1885年、労働者の力が明らかに増大していることに注目した議会は組合の要求に応じ、特定の雇用主のもとで働く契約を結ぶ移民のアメリカへの入国を禁止するようになります。

 1886年は、労使関係で大きな問題を抱えた年となります。1,600件近いストライキがあり、約60万人の労働者が参加します。8時間労働は、労働者の要求の中で最も顕著な項目でした。しかし、このうち約半数はメーデー(May Day)に招集されたもので、参加や不参加の労働者に分かれ、また熟練者と非熟練者の内部対立もあって、騎士団の人気と影響力は低下していきました。

 やがて1955年にアメリカ労働総同盟(AFL)と産業別組合会議(CIO)が合同します。現在アメリカ・カナダの53単産が加盟し、組合員は1000万人を超えるアメリカ唯一の労働組合の中央組織です。支持政党は民主党となっています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その121 海外貿易

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アメリカの対外貿易は、輸出額で判断すると国内産業の成長に歩調を合わせていました。金や銀の再輸出を除けば、1877年のアメリカからの年間輸出額は約5億9000万ドルでしたが、1900年には約13億7100万ドルにまで増加します。輸入額も伸びは鈍いものの、漸増していきます。金と銀を含めると、アメリカが貿易収支を悪化させた年は全期間で一年しかありませんでした。世紀末になると、輸出の輸入に対する超過額は明らかに増加していきます。

 アメリカの輸出の大部分は、引き続き農産物が占めていました。綿花、小麦、小麦粉、肉製品などは、常に年間輸出額が最も大きい品目でした。非農業製品では、石油が最も重要でしたが、世紀末には機械類が輸出品目の上位を占めるようになります。

 外国貿易の拡大にもかかわらず、アメリカ商船業界はこの時期大きな犠牲を強いられます。アメリカ旗を掲げた全商船の総トン数は驚くほど一定していましたが、外国貿易に従事するトン数は急激に減少し、南北戦争前夜の240万トン以上から1898年の72万6000トンという最低値まで低下してしまいます。この減少は、南北戦争中に数百隻の船が破壊を避けるために外国船籍に移されたことに原因しています。その後、造船や修理のコスト面での不利や、アメリカ製の船しか登録しないというアメリカの方針が、第一次世界大戦までの成長を妨げていきます。

 アメリカは世界最大の農産物輸出国であり,日本は最大の農産物輸入国です。日本が輸入している穀物・大豆の8割は米国産でトウモロコシは主に畜産の飼料用として大量に輸入しています。アメリカは今も世界一の農業国なのです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その120 ロックフェラーとトラスト

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トラスト

アメリカでは、産業の地理的な分散が進み、産業立国への転換が進んでいきます。しかし、この動向は、競合する企業が統合され、業界全体を支配する大規模なユニットになる動きに比べると、あまり注目されませんでした。1882年、ロックフェラー(John Rockefeller)とその仲間たちが、オハイオ州法に基づきスタンダード・オイル・トラスト(Standard Oil Trust)を設立したとき、この統合への動きは特に注目されました。

 トラスト–信託は、新しいタイプの産業組織であり、競合する企業の株式の支配的な数の議決権を少人数のグループに託すことで、彼らが支配する企業間の競争を阻止することができるものでした。株主は、配当を多く受け取ることができ、利益を得たと思われます。信託は数年間、独占企業設立の手段として人気を博し、1890年までにウイスキー、鉛、綿実油(cottonseed oil)、塩なども信託会社の許に入ります。

 1892年、オハイオ州の裁判所は、この信託が同州の独占禁止法に違反するとの判決を下します。スタンダード・オイルはその後、ニュージャージー州のより緩やかな法律の下で、持株会社として再び法人化していきます。その後、持ち株会社や完全な合併が独占企業の設立のために好まれるようになります。信託という用語は、独占企業の一般的な表現として一般に残るようになります。

 この時期の最も有名な企業合併は、1890年のアメリカ煙草会社(American Tobacco Company)と1891年のアメリカ砂糖精製会社(American Sugar Refining Company)の設立でした。アメリカ砂糖精製会社は、特に競争を抑制することに成功し、瞬く間にアメリカ国内の精糖のほとんどを支配するようになります。

 ロックフェラーは、1870年にスタンダード・オイル社(Standard Oil )を創業し、ピーク時はアメリカの石油の90%をコントロールしトラストを結成します。引退後は、資産の大部分を使い医療・教育・科学研究促進などを目的とした財団を創設した慈善家でもありました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その119 製造業の発展

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 1800年代は、産業が地理的に広く発展していたことも特筆されます。マサチューセッツ(Massachusetts)からペンシルベニア(Pennsylvania)にかけての東海岸は、引き続きアメリカで最も工業化の進んだ地域で、さらに五大湖に隣接する州や南部の一部地域でも製造業が大きく発展していきます。

 鉄鋼業は、このような企業の新しい拡散のパタンを反映していきます。鉄鋼業の3分の2は、ペンシルベニア州西部とオハイオ州東部の地域に集中していました。しかし、1880年以降、ミネソタ州北部のバーミリオン山脈 (Vermilion Range)、1892年メサビ山脈(Mesabi Iron Range)、テネシー州、アラバマ州北部での鉄鉱山の開発に続き、シカゴ周辺で鉄鋼業が拡大し、アラバマ州北部とテネシー州に製鉄所が建設されます。

 中西部の製造業のほとんどは、農業と密接に関連した企業であり、1860年以前に設立された産業の拡大版といえます。1875年以降、食肉加工業はその製品価値から見てアメリカの主要産業のひとつとなりますが、その大部分はシカゴに集中しており、ほぼ中西部の独占的産業といえるものでした。製粉、醸造、農業機械や木材製品の製造も中西部の重要な産業となります。

 南部への産業進出は、繊維産業が先鞭をつけます。綿花工場は新南部のシンボルとなり、ヴァジニアからジョージア、アラバマに至るピードモント地方(Piedmont)に工場や工場町が生まれます。1900年までには、全米の綿紡績のほぼ4分の1が南部で行われ、南部の工場は、ニューイングランドの老舗の競合他社よりも急速に事業を拡大していきます。南部での製材業の発展はさらに目覚ましいものでしたが、あまり一般には知られていませんでした。世紀末には、南部は製材業で全土をリードし、年間供給量のほぼ3分の1を占めるまでになったのです。

 アメリカ中西部はアメリカの「Heartland」(心臓部)と呼ばれ、鉄鋼業、食肉加工業、自動車業、農業、酪農、金融業などでアメリカ経済を支えています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その118 産業の振興と企業の進出

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 1878年になると、アメリカは1870年代半ばの長い不況を脱し、再び繁栄の時代に入ります。この20年間で、工業生産量、産業従事者数、製造工場数はすべて2倍以上に増加します。1879年に約54億ドルだった生産財の年間総生産額は、1899年には約130億ドルにまで増加し、この産業発展の規模をより正確に示す指標となりました。1880年から1900年にかけて、アメリカにおける鉄鋼の年間生産量は約140万トンから1100万トン以上に増加します。世紀末には鉄鋼生産でイギリスを抜き、世界の銑鉄供給の4分の1以上を占めるに至ります。

 このような急激な産業活動は、さまざまな要因によってもたらされました。西部では鉱山や木材などの資源が開発され、輸送手段の改善に対する需要が高まり、東部では金銀鉱山が新たな投資資金源となります。特に西部と南部での鉄道建設とそれに伴う鋼鉄レールの需要は、鉄鋼業の拡大に大きな力となり、1880年には9万3262マイル(15万151キロメートル)未満だったアメリカの鉄道走行距離は、1900年には約19万マイル(31万キロメートル)へと増加します。

 ベッセマー製鋼法や平炉法(Bessemer and open-hearth processes)などの技術的な進歩は、製品の改良と生産コストの低減につながります。電話、タイプライター、ライノタイプと呼ばれる鋳植機(linotype)、蓄音機、電灯、キャッシュレジスター、エアブレーキ、冷凍車、自動車など、一連の大発明は新しい産業の基盤となり、その多くがビジネスに革命を起こします。また、トロリーカー、ガス、電力、電話などの普及により、自然独占の重要な公益事業が確立され、州や自治体から認可されたフランチャイズによってのみ運営されるようになります。また、会社組織の普及は、事業に対する大規模な資金調達の機会を提供し、ヨーロッパの投資家を中心とした新しい資本を呼び寄せます。

 こうした産業活動の上に、色彩豊かで精力的な企業家らがいました。彼らは、必ずしも賞賛されないまでも人々の注目を集め、アメリカにおける新しい指導者層の象徴のようにみえました。この多数のグループの中で最もよく知られているのは、石油のジョン・ロックフェラー(John Rockefeller)、鉄鋼のアンドリュ・カーネギー(Andrew Carnegie)c(Cornelius Vanderbilt)、リーランド・スタンフォード(Leland Stanford)、コリス・ハンティントン (Collis Huntington)、ヘンリー・ヴィラード(Henry Villard)、ジェームズ・ヒル(James Hill)などの鉄道建設者やプロモーターといった企業家です。

 船舶や鉄道の大実業家であったヴァンダビルトは、テネシー州のナッシュビルにあるヴァンダビルト大学(Vanderbilt University)の創始者です。南部屈指の研究と教育で秀でた最難関の私立大学でもあります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その117 先住部族政策

西部の広大な土地は、特定の先住部族が独占的に居住するために法律で保護されていました。しかし、1870年になると、これらの土地に大勢の探鉱者、牧畜業者や農民、大陸横断鉄道員が侵入し、一連の野蛮なインディアン戦争が勃発し、政府の先住部族政策に重大な疑問が投げかけられるようになります。インディアン局の役人の多くは、部族との直接交渉の責任を怠り、その職務を遂行しようとはしませんでした。多くの西部の人々や一部の陸軍将校は、部族問題の唯一の満足できる解決策は、白人が欲しがっているすべての土地から部族を追い出すことであるとまで主張したのです。

 南北戦争後間もなく、改革者たちは先住部族が最終的にアメリカ社会に同化できるようなプログラムを採用することを提唱します。1869年、改革派はグラント大統領と議会を説得し、政府と先住部族との関係を監督する非政治的なインディアン委員会(Board of Indian Commissioners)を設立します。しかし、この委員会は政治的な反対にあい、ほとんど成果をあげることができませんでした。改革者たちは次に、農民として定住生活をする準備ができていると思われる部族の各家族の長に、特定のエーカーの土地の所有権を与えるという法案を提案しました。議会はこの提案に反対しますが、土地を欲しがる西部の人々が、このように土地を分配すれば、膨大な余剰地が生まれ、公有地に追加できると考えます。

 この法律は、大統領に農民としての新しい生活様式を受け入れられると考えられる部族に対し、各家族の長に160エーカー(65ヘクタール)の所有権を、部族の単独メンバーにはより小さな割り当てを与える権限を与えたものでした。この土地は、25年間は先住部族に譲渡することができず、また、先住部族に市民権も与えられるというものでした。改革派は、部族にアメリカ社会で尊厳ある役割を果たす機会をようやく与えたと喜びながらも、部族文化に保存すべき価値があることを見逃してしまいます。他方、土地開発業者たちは、ドーズ法の適用を早め、より多くの土地を占拠し投機するよう歴代大統領に強い圧力をかけていきます。

 ドーズ法とは先住民族の指定居留地(Indian Reservation)の民族的所有地を解体し、個々に個人所有地として割当て,先住民族を独立の自営農民として市民社会に同化させることをねらいとした法律です。同時にそれ以外の余剰地を白人に提供することを主な内容としています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その116 鉄道網の整備

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 1862年、合衆国議会は、ミシシッピ渓谷(Mississippi Valley)と太平洋岸を結ぶ最初の鉄道となる2つの鉄道の建設を承認します。一つは、アイオワ州カウンシルブラフ(Council Bluffs)から西へ向かうユニオンパシフィック(Union Pacific)鉄道、もう一つは、カリフォルニア州サクラメント(Sacramento)から東へ向かうセントラルパシフィック(Central Pacific)鉄道でした。これらの鉄道を早く完成させるため、議会は土地交付と融資という形で手厚い補助を行います。建設は議会の予想より遅れますが、1869年5月、ユタ州プロモントリー(Promontory)で、盛大なセレモニーとともに、2つの路線が出会うことになりました。

 他方、他の鉄道会社も西へ向かって建設を始めていましたが、1873年のパニックとそれに続く不況により、多くの路線で建設が遅れたり中止されたりします。1877年以降に繁栄が戻ると、いくつかの鉄道会社は建設を再開または加速していきます。1883年までに、ミシシッピ渓谷と西海岸を結ぶ3つの鉄道が完成します。ノースパシフィック(Northern Pacific)鉄道はセントポール(St. Paul)からポートランド(Portland)まで、サンタフェ(Santa Fe)鉄道はシカゴからロサンゼルス(Los Angels)まで、サザンパシフィック(Southern Pacific)鉄道はニューオーリンズ(New Orleans)からロサンゼルスまでを繋ぎます。サザンパシフィック鉄道はポートランド(Portland)からサンフランシスコまでとサンフランシスコからロサンゼルスまでの路線を購入または建設していきます。

 中西部から太平洋岸までの鉄道建設は、南北戦争後の四半世紀における鉄道建設業者の最も壮大な成果となります。南部諸州の鉄道網が整備され、ミシシッピー以西のほぼすべての重要な地域とシカゴを結ぶ鉄道が建設されたことも、国民経済の発展において重要な出来事となりました。

 西部もまた鉄道の建設と同時に発展し、鉄道の重要性がこれほどまでに認識された地域はありませんでした。鉄道は、その地域に活力を与えると同時に、運行を停止することで地域社会を停滞させることもありました。鉄道会社は、自らの都合のよいように運賃価格を決め、顧客を差別し、可能な限り輸送を独占しようとしました。州や地方の政治に介入して、有力者を当選させ、不利な法案を阻止し、さらには裁判所の判決に影響を与えるなど強力な地位を利用していきます。

 アメリカの鉄道は200年ほどの歴史を持ちます。アメリカ全土の鉄道は各私鉄会社が運営をしていましたが、戦後、航空業や自動車輸送が発達し、鉄道業の需要が減少、多くの鉄道会社が廃業に追い込まれました。今、アメリカで電車移動といえば高速鉄道のアムトラック(Amtrak)があります。

 ニューヨークからボストンの距離は約350キロを3時間半で走り、料金は往復で250ドルです。飛行機より割高ですが便利です。道路優先の交通政策は、道路維持のための費用や道路混雑、大気汚染の問題を生んでいるので、鉄道交通が見直されています。人気のあるのはロサンゼルス~シカゴ間です。大陸を横断し大自然を眺めながらのんびり旅行を楽しめるのです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その115 大平原での牛の放牧

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南北戦争末期、北部の牛肉価格は異常なほど高騰します。その頃、テキサスの平原では、何百万頭もの牛が放牧されていました。特に、牛の世話をするカウボーイを数人雇い、春になると牛を市場まで連れて行くだけの資金があれば、綿花を耕作するよりも牛の世話のほうが大きな利益を生むかもしれないと考えたのです。

 当時は、牛を市場へ出荷することが大きな課題となっていました。カンザス・パシフィック(Kansas Pacific)は、1867年にカンザス州アビリーン(Abilene)まで西部鉄道路線を完成させ、この問題を解決します。アビリーンは、年間を通して牛が放牧されるテキサスの最も近い地点から300キロメートルも離れていました。しかし、テキサスのカウボーイたちは、毎年春に牛の群のうち市場に出す準備ができた部分を陸路でアビリーンまで運ぶという方法を採用します。そこで彼らは東部の食品加工業者(packinghouse)の代表に牛を売ります。

 牛の放牧は予想以上に繁盛し、イギリスの保守的な投資家からも資金を得ることができます。1880年代には、放牧は平原地帯を北上し、ダコタ州まで拡大します。その間に、入植者の増加という新たな脅威が現れましたが、カンザス州ダッジシティ(Dodge City)からコロラド州ラジュンタ(La Junta)までのサンタフェ鉄道(Santa Fe Railway)の建設により、牧畜業者は入植者より先に西へ移動することができました。

 ダッジシティはアビリーンに代わって、牧畜業者と買い手の年次会合の中心地となります。高地の大平原を開拓する入植者との散発的な衝突はありましたが、1886年から1887年の冬に一連の猛吹雪が大平原をかつてないほど激しく襲い、数十万頭の牛が死に、多くの業者が破産に追い込まれました。まだ牛と資本を持っていた業者は、放牧地を放棄し、家畜を保護できる西の土地に所有権を得て、開拓のフロンティアがやってこない土地で牧畜業を復活させていきます。このような新しい土地への移住は、この地域とシカゴや太平洋岸を結ぶ他の鉄道の建設によって可能になったともいわれています。

 映画「荒野の決闘」「OK牧場の決闘」(Gunfight at the O.K. Corral)で知られるようになる街がダッジシティです。アープ四兄弟の次男ワイアット・アープ(Wyatt Earp)が保安官を務めた街でもありました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その114 アラスカの購入と西部開拓

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1867年、国務長官ウイリアム・スワードが議会を説得して、ロシアからアラスカを720万ドルで購入し、アメリカは大陸進出を完了します。ロシア領だった辺境の地アラスカを購入したスワード国務長官へは、「スワードの愚行」といった非難が浴びせられたようです。だれもこの地が豊かな地下資源や戦略上の重要な地域だったとは予見できなかったようです。後にスワードの先見性が再評価されます。領土というのは売買してはいけないという教訓です。アラスカの購入は、クリミア戦争(Crimean War)で疲弊したロシア帝国が苦しい経済状態に追い込まれたことがきっかけでした。

 その後、西部開拓は急速に進み、ミシシッピー以西に住むアメリカ国民の割合は、1880年の約22パーセントから1900年には27パーセントに増加します。世紀を通じて新しい州が加わり、1900年にはアメリカ本土でまだ州認定を待っている準州は3つだけとなりました。オクラホマ、アリゾナ、ニューメキシコの3州です。

 1890年、国勢調査局(Bureau of the Census)は、西部開拓の最前線を示す連続した線がもはや引けないと指摘します。西部への人口移動は続いていたものの、フロンティアは過去のものとなっていきました。農場から都市への人々の移動により、より正確に将来の人口動態を予測することができるようになりました。1880年、国勢調査局によりますと、アメリカ国民の約28パーセントが都市と指定された地域に住んでいましたが、1900年には40パーセントに上昇します。この統計から、アメリカでは農村の勢力が衰退し、工業化社会が始まったことがうかがえます。

 エイブラハム・リンカンは、かつて西部を “国家の宝庫 ” (national treasury)と表現しました。カリフォルニアで金が発見されてからの30年間、探鉱者たちは西部のすべての州や土地で金や銀を発見します。南北戦争後の時代には、豊かな大発見はほとんどありませんでした。その中でも最も重要なのは、ネバダ州西部コムストックロード(Comstock Lode)での非常に豊かな銀の発見です。銀は1859年に初めて発見されますが、その後より広範囲に開発されていきます。1874年には、サウスダコタ州のブラックヒルズ(Black Hills) で、1891年にはコロラド州のクリプルクリーク(Cripple Creek)で金が発見されます。

 金や銀が発見されると、すぐに鉱山町ができ、探鉱者たちの生活や娯楽を満たしていきます。鉱脈のほとんどが地表に近いところにあれば、探鉱者たちはすぐにそれを採掘して立ち去り、そこには良き時代を思い起こすようなゴーストタウンが残ります。

 鉱脈が深ければ、必要な機械を購入する資本を持つ組織的なグループが地下の富を採掘するために動き出します。鉱山の町は地元の産業の中心地として安定を取り戻していきます。こうした町は、最初は鉱夫のニーズを満たすために発展し、後に余剰生産物を西部の他の地域に輸出するために拡大し、鉱業から農業地域の商業の中心地として、確固たる地位を築いた例もあります。その例がコロラド州のデンバー(Denver)です。初期のデンバーでは、区画が鉱夫に供与されたり、鉱夫相手のギャンブルや酒場、家畜や商品取引で地域経済が賑わったといわれます。鉄道網の発達もデンバーの商業を発展させます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その113 アメリカ社会の転換

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 1880年のアメリカ大陸の人口は5,000万人をわずかに超えていました。1900年には7,600万人弱となり、50%以上増加しますが、それでも19世紀のどの20年間をみても人口増加率は緩やかでした。ミシシッピー以東のほとんどの州は、全国平均をわずかに下回る増加率でした。 1880年のアメリカ大陸の人口は5,000万人をわずかに超えていました。1900年には7,600万人弱となり、50%以上増加しますが、それでも19世紀のどの20年間をみても人口増加率は緩やかでした。ミシシッピー以東のほとんどの州は、全国平均をわずかに下回る増加率でした。

 人口増加の多くは、今世紀末の20年間にアメリカに流入した900万人以上の移民によるものです。共和国初期から1895年までは、移民の大半は北欧か西ヨーロッパからでした。しかし、1896年以降、移民の大半は南欧や東欧からやってきます。移民が政治的権力を持ち、暴力や産業紛争を引き起こしていると考える敏感なアメリカ人は、新しい移民がアメリカ社会に容易に同化できるはずがないという懸念を抱きます。こうした懸念は、アメリカへの入国資格を必要とする移民の数を制限する法律を求める運動へと発展します。やがて20世紀初頭には北欧や西ヨーロッパからの移民を優遇する割当法(quota)を制定することになります。

 それまでは、移民に対する大きな規制といえば、1882年に合衆国議会で可決された中国人労働者のアメリカへの移民を10年間禁止する「中国人排斥法」(Chinese Exclusion Act)くらいでした。この法律は、10年以上にわたる西海岸の中国人排斥運動であると同時に、あらゆる移民を受け入れるというアメリカの伝統的な考え方に、変化をもたらすものでした。

 カリフォルニアからの圧力に応え、議会は1879年に排斥法を可決したのですが、1868年の「バーリンゲーム条約」(Burlingame Treaty)によって中国人に保証された権利を奪うものであるという理由で、ヘイズ大統領(President Hayes)が拒否権を行使します。バーリンゲーム条約とは、1868年7月にアメリカの国務長官ウイリアム・スワード(William Seward)と清朝の使節団の代表で駐清公使であったバーリンゲーム(Anson Burlingame)との間で調印され、アメリカへ無制限の中国人移民を許可する条約です。

 1880年にこの条約の条項は改正され、アメリカは中国人の移民を一時停止することができるようになります。中国人排斥法は1892年にさらに10年間更新され、1902年には中国人移民の一時停止が無期限とされます。中国人の初の大規模な移住は、1848年から1855年にかけてのカリフォルニア・ゴールドラッシュに始まり、その後も大陸横断鉄道の建設の使役に従事します。合衆国史上で移民に対する最も重い使役の一つといわれます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その112 ブッカー・ワシントンとアトランタ妥協案

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 1880年代から90年代にかけて、多くのアフリカ系アメリカ人は、南部白人からの容赦ない敵意と増大する憎悪に直面します。そこで彼らは、唯一の賢明な道は表立った対立を避け、何らかの形の融和を図ることであると考えます。この方針の最も有力なアフリカ系アメリカ人の代弁者は、アラバマ州のタスキーギー研究所(Tuskegee Institute in Alabama)の所長であったブッカー・ワシントン(Booker Washington)でした。彼は、政治、哲学や文学を教えながら、より良い農民や職人になる方法を学ぶようにと仲間のアフリカ系アメリカ人に強く促したのです。タスキーギー研究所は、今はタスキーギー大学(Tuskegee University)となっています。

 ワシントンは、倹約と産業、そして政治を避けることで、アフリカ系アメリカ人は次第に白人の隣人から尊敬されるようになると考えていました。1895年、アトランタ綿花合衆国・国際博覧会(Atlanta Cotton States and International Exposition)の開会式での演説で、ワシントンは自分の立場を詳しく説明し、この演説は「アトランタ妥協案」(Atlanta Compromise)として知られるようになります。

 アトランタ妥協案とは、南部の白人たちがアフリカ系アメリカ人の基礎教育、いくらかの経済的機会、法制度下における正義を認め、また白人たちが南部の企業に投資しフリカ系アメリカ人の教育慈善団体に資金提供を行うことを承認することです。当時、農村部のコミュニティに暮らす南部のアフリカ系アメリカ人たちは、差別、人種隔離、権利の剥奪、さらに組織化されていない雇用体制に従わざるを得ない状況にありました。

 彼は、アフリカ系アメリカ人のために連邦政府が介入する望みに期待せず、南部の改革は内部からもたらされねばならないと主張します。黒人も白人も、「社会的平等の問題を煽ることは最も愚かなこと」であり、社会生活において南部の人種は指のように分離していても、経済的進歩においては手のように一体化していることを認識すれば変化をもたらすことができると主張するのです。

 南部の白人に好意的に受け入れられたワシントンの提案は、南部の黒人にも多くの支持者が現れ、彼らは彼の教義のなかに、圧倒的な白人の力との正面からの悲惨な対決を避ける方法を見出したのです。ワシントンの展望が、秩序正しく勤勉で質素なアフリカ系アメリカ人の世代を生み出し、ゆっくりと中流階級の地位へと導いていったかどうかは不明でした。再建後のほとんどの期間、南部全域に深刻な経済不況が広がっていたからです。

 貧しい白人も貧しい黒人も、絶望的に貧しかったこの地域では、地位が向上する機会はあまりありませんでした。1890年までに南部は、一人当たりの所得、公衆衛生、教育など、アメリカ国内のあらゆる指標で最下位となります。つまり、1890年代の南部は、貧しく遅れた地域であり、南北戦争の惨禍から立ち直ることも、再建時代の再調整に順応することができていなかったのです。

 ブッカー・ワシントンの名言からです。
 「成功とは、人生において得た地位によって測るのではなく、成功するために打ち勝った障害によって測るべきことを私は学んだ。教育は人生とは別個のものでもなければ、システムや哲学でもない。それはいかに生き、いかに働くかを直接的に教えるものである。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その111 新しい南部の復興とジム・クロウ法

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南部におけるアフリカ系アメリカ人の投票は、救済系と保守系の対立の犠牲となりました。ジョージア州のトム・ワトソン(Tom Watson)のような一部のポピュリストの指導者は、南部の貧しい白人と貧しい黒人は、大農場主やビジネスマンとの闘いに利害関係を持つと考えたのですが、ほとんどの小規模の白人農民は、保守政権の維持に役立ったアフリカ系アメリカ人に対して執念深い憎しみを抱きます。1890年にミシシッピ州が新憲法制定会議を開いたのを皮切りに、1908年にジョージア州が憲法を改正するまで、旧連合国のすべての州がアフリカ系アメリカ人の選挙権を剥奪しようと動いたのです。

 合衆国憲法は、人種差別を全面的に禁止しているため、南部の州は、有権者に憲法のあらゆる条項を読解できる能力を要求し、アフリカ系アメリカ人を排除します。地元の登録機関は、この識字条件を白人には免除しますが、黒人が懸命に投票しようとすると厳格に識字条件を要求します。ルイジアナ州はさらに工夫を凝らし、憲法に「既得権条項(grandfather clause)」を追加し、1867年1月に議会が南部でアフリカ系アメリカ人の参政権を課す前に、投票権を有していた白人やその息子や孫をこの識字テストから免除するようにしたのです。他の州では、投票するために厳しい財産上の資格を課したり、複雑な投票税を制定したりします。

 社会的にも政治的にも南部の人種問題は、保守的な政権に挑戦する農民運動の高まりとともに悪化していきます。1890年には、南部保守系の勝利により、アフリカ系アメリカ人の地位は法律によって明確に定義され、従属的で完全に隔離された地位に追いやられてしまいます。「ブラックコード」とよばれる法的制裁がアフリカ系アメリカ人に課せられただけでなく、非公式、非合法、そしてしばしば残忍な手段が、彼らを特定の場所に留めるためにとられたのです。

 ジム・クロウ法(Jim Crow Laws)と呼ばれる人種差別的内容を含む南部諸州の州法により、一般公共施設の利用を禁止したり制限したりします。そのため、南部では年間平均188件ものリンチが起こります。ジム・クロウ法は、黒人の一般公共施設の利用を禁止、制限した州法の総称です。病院、バス、電車、レストラン、結婚、交際、学校などで分離や隔離が実施されます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その110 南部ポピュリズムの台頭

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南部諸州の共和党政権は、1870年には早くも崩壊し始め、1877年にはすべて倒壊します。その後13年間、南部はフランス王室のように、自分たちが経験した革命から何も学ばず、何も忘れていないとされるブルボン家(Bourbons)と呼ばれる白人民主主義者、別名白人エスタブリッシュメントの指導下におかれたのです。ブルボン家とは王国の中心に広大な所領を有し,強い独立性を保っていた貴族です。南部全体としては、この政治の特徴は正確とも公正ともいえませんでした。南部のほとんどの州では、新しい政治指導者たちは農場主だけでなく、鉄道、綿織物、都市の土地投機に関心を持つ南部の新興財界の代表でもあったのです。

 人種問題に関しても、南部の新しい政治指導者たちは、ブルボンというラベルから想像されるほど反動的ではありませんでした。南部の2州を除くすべての州で白人が多数派であったにもかかわらず、保守政権はアフリカ系アメリカ人の権利を剥奪しようとはしませんでした。彼らの抑制的な姿勢は、連邦政府のさらなる介入を恐れたこともあったのですが、主に、詐欺、脅迫、操作や調整のいずれによってもアフリカ系アメリカ人有権者をコントロールできるという保守派指導者たちの確信から生まれていました。

 実際、アフリカ系アメリカ人の票は、南部の実業家や農場主を優遇し、小規模な白人農民を犠牲にし、これらの政権にとって大きな価値を持つものでした。これらの「救済者政府」(Redeemer government)は、貧しい人々のためになる州政府のプログラムを大幅に削減し、あるいは廃止したりしました。1890年、南部の一人当たりの公教育費はわずか97セントで、国全体では2.24ドルでした。また、州の囚人、精神障害者、盲人のケアもないがしろにされ、公衆衛生のための措置も拒否されました。同時に、こうした保守的な政権はしばしば驚くほどに腐敗し、公務員の横領や脱税は、再建時代よりもさらに多発していました。

 農場主の支配に憤る白人の小農民、アラバマ州中央部からミシシッピ州北東部にかけて広がるブラックベルト(Blackbelt)の選挙区で投票できない丘陵地帯の住民、支配者との抗争に敗れた政治家たちは、南部の保守政権を打倒しようと何度も試みました。1870年代には、彼らは無党派層やグリーンバック(Greenback)労働者層の候補者を支援しましたが、目立った成功は収められませんでした。1879年、ヴァジニア州にレドジャスター党(Readjuster Party)が設立されます。党名は、その支持者が同州の巨額の資金負債を再調整し、小規模農民の税負担を軽減しようとしたことから名付けられました。

 レドジャスター党は議会を支配し、1880年にはそのリーダーであるウィリアム・マホーン将軍(Gen. William Mahone)を合衆国上院議員に選出しました。しかし、1890年になると、それまで農業改革に専念していた有力な農民同盟が政治活動の禁止を解除し、保守の覇権に対抗するようになります。この年、農民同盟の支援を受けたベンジャミン・ティルマン(Benjamin Tillman)がサウスカロライナ州知事に、ジェームズ・ホーグ(James Hogg)がテキサス州知事に選出され、ここに南部ポピュリズムの全盛期が到来します。

 ポピュリズムとは、人々によるエリートや既得権益層への意義の申し立てが特徴とされます。広義には現状の経済・社会課題に対する不満を表します。指導者が人々の感情に訴え扇動して大衆迎合の政治に堕していくことです。西部や南部の農民を中心に結成された人民党(People’s Party; Populist Party)は、農家の立場を引き上げようと、上院議員の直接選挙、累進所得税、労働環境等を訴えます。禁酒党(Prohibition Party)は、宗教的道徳思想を背景に、禁酒運動を推進して全国的に禁酒法を成立させていこうとします。また禁酒党は女性の政治参加の流れを促したともいわれています。ですがいずれも政治主流とはなりえませんでした。

 グリーンバック(Greenback)とは労働者という低所得者の代名詞で、ドル紙幣の呼称でもあります。憲法発布後、最初に登場したこのドル紙幣は 1861~1865年の南北戦争時で、不換通貨として悪評高いのですが 1862年から3度にわたって発行されます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その109 ユリシーズ・グラントの時代

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グラント大統領(Ulysses S. Grant)の二期にわたる政権では、共和党の勢力が徐々に衰えていきます。政治家としてのグラントは消極的で、戦場で発揮したような輝きは全くありませんでした。彼の政権は、彼が忠実に擁護した部下の不誠実さによって汚点を残すことになります。ウィリアム・サムナー(William Sumner)、ベンジャミン・ウェイド(Benjamin Wade)、タデウス・スティーブンス(Thaddeus Stevens)といった人種差別に厳しく反対する急進派の指導者が亡くなり、共和党の指導者はロスコー・コンクリング (Roscoe Conkling)やジェームズ・ブレイン(James Blaine)といった、初期の共和党に見られたような理想主義的熱意を持たない者の手に移ってしまいます。ブレインは政教分離原則を促進するために、宗教学校に公的資金を使うことを禁じる憲法修正条項を提案した政治家でもありました。

 南北戦争を機に、共和党は南部の黒人に、民主党は北部の労働者や新移民に、それぞれ新たな支持層を広げていきます。そして、それぞれが全国政党として連邦の政治に責任を持つ態勢を作り上げていきます。両党は大統領権力をめぐって激しく競いますが、南部再建が大きな争点となります。

 南部の急進派政権を強化するための努力は、次第に失敗を重ねるようになります。人種による投票差別を禁止する1870年の修正第15条の採択は、南部ではほとんど効果がありませんでした。テロ組織と農場主からの経済的圧力が、アフリカ系アメリカ人を投票所から遠ざけたからです。また、共和党が可決した3つの強制排除法(Force Act)は、大統領に人身保護令状を停止する権限を与え、テロ組織に重い罰則を課すのですが、長期的には成功しませんでした。これらの法律は、クー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan: KKK)を解散させることには成功しますが、KKKメンバーと彼らの戦術によってこれまで以上に白人を民主党陣営へと向かわせることになります。

 急進的な再建とグラント政権に対する北部の幻滅は、1872年の自由共和党(Liberal Republican Party)の運動で明らかになります。その結果、奴隷制廃止運動と多くの改革運動も提唱したホレス・グリーリー(Horace Greeley)が大統領に指名されることになります。グラントは圧倒的に再選されますが、国民の感情は1874年の議会選挙で示され、南北戦争勃発以来初めて民主党が下院を支配することになります。

 グラントが三期目を目指していたにもかかわらず、ほとんどの共和党員は1876年までに候補者と再建計画の両方を変更する時期がきたと認識し、オハイオ出身のラザフォード・ヘイズ(Rutherford B. Hayes)が指名され、第19代合衆国大統領となります。ヘイズは、高い理念と南部への深い共感を持っていた穏健派の共和党員でした。ヘイズの指導によって共和党の急進派の支配が終ります。

 1876年の大統領選挙をめぐる状況です。ヘイズは、たとえ南部に少数の急進派政府が残るとしても、南部白人と協力する意思を強める姿勢をとります。多くの不正が行われた選挙で、民主党候補のサミュエル・ティルデン(Samuel Tilde)は一般投票の過半数を獲得しますが、15人の委員からなる選挙委員会によって僅差でヘイズの勝利となります。

 ヘイズの陣営は、この行き詰まりを解決するために、南部の民主党議員と協定を結び、南部から連邦軍を撤退させ、南部の支援を民主党に分け与え、南部が要求する堤防や鉄道建設への連邦補助金の提供に賛成することを約束することとなりました。北部はアフリカ系アメリカ人を保護するために南部の選挙に干渉しなくなり、南部の白人が再び州政府を支配することになります。

 ヘイズは能力主義の政府、人種に関係ない平等な待遇、および教育による改良を叫びます。1877年の鉄道大ストライキを鎮圧するよう連邦軍に命じ、再建が終了すると連邦軍の南部撤退を命じます。ヘイズは「黒人の権利は、南部白人に委ねたほうが安全である」と発言したりします。

 グラント大統領は1879年6月に日本を訪問します。明治天皇はグラント夫妻の訪日を歓迎し、浜離宮内の延遼館を夫妻の宿舎として提供します。天皇とグラント将軍の会見は、天皇自らが浜離宮を訪問するという前例のない形で行われたといわれます。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その108 白人至上主義者の秘密結社

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議会による再建計画のもとで南部の諸州に設立された政府は、従来の決まり文句とは異なり、かなり誠実で効果的な行政を行いました。この時期は「黒人の再建」と呼ばれることもありましたが、南部の急進派政府は、アフリカ系アメリカ人に支配されることはありませんでした。黒人の知事はおらず、黒人の上院議員も2人、下院議員も数人しかおらず、黒人が支配する議会は1つしかありませんでした。アフリカ系アメリカ人が政権を握ったとしても、その能力や誠実さは白人と同様であったと思われました。

 このような急進派の政府は確実に資金を必要としましたが、戦後の復興や、ほとんどの南部の州でたとえば公立学校の設置のために、多額の州による支出が必要だったのです。汚職はいろいろありました。例えば、1871年のニューヨーク行政を破綻させたツイード・リング(Tweed Ring)といった職員の汚職グループが摘発されました。リング(William Tweed)という役人が首謀した汚職です。しかし、実際に起こったスキャンダルから言えることは、共和党員が民主党員よりも酷いとか、黒人が白人よりも罪深いということといったことではありませんでした。

 アパラチア山岳地帯の南部白人の一部と豊かな低地の農場主は、新政府においてアフリカ系アメリカ人とその北部生まれの「カーペットバガー」(carpetbagger)と呼ばれた政治に関心のある者に協力することを望んでいました。そのような人々は「スカラウグ」(scalawags)といわれ、ヤクザ者扱いを受けていました。

 南部白人の大部分は、アフリカ系アメリカ人の政治、市民、社会の平等に猛烈に反対し続けました。彼らの敵意は、いわゆる「高慢な黒人」を罰し、彼らの協力者である白人を南部から追い出そうとするクー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan)のようなテロ組織を通じて見られることがありました。民主党は、南部で徐々に勢力を回復し、北部が急進派政権の支援に疲弊し、南部から連邦軍を撤退させるときを待っていたのです。

 表面的には,黒人も白人と平等の地位を得たようにみえます。しかし、クー・クラックス・クラン(KKK)という白人至上主義者の秘密結社は、黒人に対するリンチを数多く引き起こします。白いガウンと覆面を着け、十字架を燃やして有色人種を脅迫する儀式は知られました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その107 南部の復興

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南部では、復興期は無秩序を伴いながらも再建しようとしました。南部の白人は、アフリカ系アメリカ人を無視しようとし、市民権をほとんど拡大せず、社会的平等を断固拒否していました。他方、アフリカ系アメリカ人は完全な自由と、何よりも自分たちの土地を欲していました。必然的に両者の間に衝突が頻発しました。暴動に発展したものもあり、アフリカ系アメリカ人の指導者個人に対するテロ行為が目立ちました。

 こうした混乱の中で、南部の白人と黒人は、農場を再び稼働させ、生計を立てる方法を模索し始めていきます。実際、再建時代の最も重要な出来事は、大々的に宣伝された政治的な争いではなく、南部社会で起こったゆっくりとした、ほとんど気づかないほどの変化でありました。アフリカ系アメリカ人は合法的に結婚できるようになり、従来型の安定した家族単位を築きました。彼らは静かに白人教会から離脱し、独自の宗教組織、黒人教会を形成し、それがアフリカ系アメリカ人社会の中心的存在となっていきます。土地もお金もないため、ほとんどの自由民は白人の主人のために働き続けなければなりませんでした。しかし、彼らはギャングとなったり、奴隷のように農園主によって看守されて暮らすことを嫌悪するようになりました。

 南部の大部分では、小作は次第に労働の仕組みとして受け入れられるようになります。資本不足の農園主は、現金での賃金を支払う必要がないため、この制度を好みました。アフリカ系アメリカ人は、借りた土地に個々の小屋で住むことができ、何を植えるか、どのように耕すかについてある程度の自由があったので、この制度を好みました。しかし、再建時代を通じて、この地域全体は絶望的に貧しく、1860年代後半に相次いだ凶作と1870年代の農産物問題は、白人と黒人の双方に打撃を与えます。

 「もはや奴隷ではなくなった」黒人は依然として農場の労働力として重要でした。債務や契約で拘束されている場合を除き、どの農場で働くか、どこを生活の場とするかの選択する権利を持っていました。1877年に連邦軍が南部を撤退し「再建」の時代が終わると、様々な形で黒人差別が合法化されていくことになります。差別は陰に陽に根強く残ります。それが1960年代の公民権運動まで続きます。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その106 在職任期法と弾劾決議

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アンドリュ・ジョンソン大統領や北部の民主党員、および南部の白人は、共和党の再建計画に拍車をかけます。大統領は1866年8月にフィラデルフィアで開催された全国連合大会(National Union Convention)で新しい政党を組織しようとします。8月から9月には、大統領は自分の政策を広め、共和党の指導者を攻撃するために、北部や西部の多くの都市を訪れます。大統領の強い要請により、テネシー州を除く南部のすべての州が圧倒的多数で修正第14条を拒否します。

 1866年秋の選挙で勝利した議会の共和党員は、1866年から1867年の会期中に、南部を再建するためのより厳しい第二の計画作りに動きます。過激派の共和党員と穏健派の共和党員の間の長く激しい論争の後、党指導者は最終的に1867年の第一次再建法に関して妥協案を作成します。3つの補則的な再建法へと拡大され明確化されます。こうしてこの法律は、南部でこれまで構築した政体を一掃するのです。

 この法律は、旧南軍を連邦軍の支配下に戻し、新しい憲法制定会議の選挙を要求し、採択された憲法にアフリカ系アメリカ人の選挙権と元南軍指導者の公職からの追放を要求するのです。この法律の下で、旧アメリカ連合国のすべての州に新しい州政府が樹立されたのです。ただし、テネシー州は既に再連邦への復帰が認められていました。そして1868年7月までに、議会はアラバマ、アーカンソー、フロリダ、ルイジアナ、ノースカロライナ、サウスカロライナから上院議員と下院議員を選出することに同意します。1870年7月までに、残りの南部諸州も同様に再編され、連邦へ編入されていきます。

 議会の共和党員はジョンソン大統領に疑問を呈し、彼が度重なる拒否権を可決した再建法を大統領が施行すること疑い、可能な限り彼の権限を剥奪しようとします。議会は大統領の軍事命令はすべて軍の最高司令官であるユリシーズ・グラント(Ulysses Grant)を通じて発令することを要求します。それによって軍に対する大統領の統制を制限しようとします。そして、在職任期法(Tenure of Office Act)によって、任命される閣僚を解任する大統領の権利を制限します。

 ジョンソン大統領は、南部における急進的な法律の執行を阻止するために極力努力しますが、共和党のより極端なメンバーは大統領の弾劾を要求します。大統領が1868年2月に急進的な陸軍長官エドウィン・スタントン(Edwin Stanton)を内閣から解任する決定を下します。しかし、その解任は明らかに在職任期法に反していたため、共和党の弾劾手続きの口実となります。下院は大統領の弾劾に投票し、長引く裁判の後、上院はわずか1票差でジョンソンは大統領の座を保つことができます。この一連の騒動により議会とジョンソンの対立は決定的なものになり、政権はレームダック化l(ame duck)し退任します。レームダックとは、選挙で敗れて任期が残りのいわば死に体のことです。

 修正第14 条とは、連邦議会で採決された憲法の修正条項です。大事な内容は市民権を出生または帰化したものと明記し、黒人の市民権を認めたことです。黒人にも市民権を与え、黒人に投票権権を与えない州には不利益を与えるという内容でもあります。