【話の泉ー笑い】その十六 ギャグと駄洒落

日本では『うちのオカンが~』と自分の母親を話題にするパターンが多くあります。「おかあはん」の変化した言葉で、関西系方言といわれます。自分の身内の者を低く言って笑いにするのです。笑いに関わらず、子どもが小さい時にママ友やパパ友同士で『うちの子なんて全然ダメで』と言い身内のものを卑下するのも同じ構造です。海外では家族をそのように卑下するような言い方はしません。日本特有の「ウチとソト」の文化が現れています。身内を下げるのが謙譲の美徳とされるような文化が笑いにも反映しています。「ウチ」と「ソト」との厳格な区別があり、それを日本人はそれが当たり前だと思っているために、「ウチの人」身内の人、を卑下しても抵抗がないのです。「ソト」とは関係がないと思うから卑下できるのです。

Gag

「洒落」と「駄洒落」の違いです。洒落のなかにも上手下手があり、程度の良くないものに関して「駄洒落」と言われます。国語辞典では「つまらぬしゃれ、まずしいしゃれ」とあります。言葉遊びの「洒落」は知識と教養を示す気の利いたものなのですが、これに価値を認めることのないカウンターカルチャーからの揶揄を込めて『駄』の文字を冠して「駄洒落」となったという説があります。

「駄洒落」は英語で“Pun”と呼びます。語呂合わせ、ギャグ(Gag)は子どもも作れます。例えば、「鶴がツルっとすべった」、「電話に出んわ」、「ワニが輪になる」、「チーターが池におっこちーたー」、「布団が吹っ飛んだ」といった短いギャグです。「ラクダに乗るとらくだ」、「イクラはいくら」など子どもでも明日からすぐ使えるギャグはあります。

なぞなぞなども駄洒落の一種です。
 ・みそ汁の中で泳いでいるカメはなに?【答え:ワカメ】
 ・いつもクシャミをしている鳥はなに?【答え:白鳥(ハクチョン!】
 ・ネズミが通っている学校はなに?【答え:中(チュウ)学校】

駄洒落

一つの単語に複数の意味があるものや、同じ発音でスペルが異なる単語を使ったジョークです。
 ・お医者が居なくて気のドクター
 ・何も欲しがらない国 イラン
 ・お風呂好きの街 ニューヨーク
 ・せんべい好きの街 パリパリ

言葉を面白おかしく組み合わせて楽しむダジャレは、子どもの創造的な思考を育み、親子のコミュニケーションを深めるのに役立つかもしれません。親父ギャグは、中高年男性の、場を和ませたい、相手と距離を縮めたい、また自分のユーモアをアピールしたいという心理から生まれるようです。
 ・牛がわらって、うっしっし
 ・神社で飲むジンジャエール
 ・ダジャレを言うのは誰じゃ?
 ・本は面白い、ホント?
 ・オオカミがトイレで叫んだ,おお、紙がない

親父ギャグとは、国語辞典によれば「年輩の男性が口にする、時代感覚からずれた面白くない冗談やシャレ」とあります。「ユーモアをアピールしたい」、「世の親父連中は自身の溢れんばかりの知識と教養を持ってオヤジギャグを披瀝したがる」との中高年男性の心理が合わさり、「親父ギャグ」は誕生したといわれます。

【話の泉ー笑い】その十五 チャーリー・チャップリンと「偉大なる独裁者」と「街の灯」

「偉大なる独裁者」製作の経緯です。イギリスがドイツに宣戦布告した6日後の1939年9月に撮影を開始します。チャップリンは、政治メッセージを伝えるためのより良い方法として話し言葉によるセリフを使うことにします。 ヒトラーについてのコメディを作ることは非常な論議をかもすと考えられました。ですがそうしたリスクにあえて、「ヒトラーは笑われなければならないから、私は決心した」と後に書いています。チャプリンは主人公のトランプ(Tramp)に代わって「ユダヤ人の床屋」を演じ、ナチ党のファッシズムや人種差別に苦悩する姿をコミカルながらも生々しく描いています。映画では二重演技において、ヒトラーを模した「アデノイド・ハインケル(Adenoid Hynkel)」独裁者を演じています。この作品には、ベンジーノ・ナパロニ(Benzino Napaloni)という名でイタリアの独裁者ムッソリーニ(Benito Mussolini)に扮した軍人も登場します。

Great Dictator

「偉大なる独裁者」は1940年10月に公開されます。この映画は膨大な宣伝効果を生み、『ニューヨーク・タイムズ』の評論家は「その年に最も待ち望まれた映画」と呼びます。そして当時の最大の収益を上げたようです。チャップリンは映画を6分間の演説で締めくくり、床屋のキャラクターを外してカメラを直接見つめ、戦争とファシズムに対する抗議を訴えます。映像と音声が同期した映画–トーキー(Talkie)はこの映画が最初といわれます。トーキーそのものの爆発性を逆用して、世界人類の敵、ヒトラーとファシズムを糾弾するのです。

このあからさまな演説がチャップリンの人気低下の引き金になったとも指摘されています。政治的な問題を議論する際に繊細さを欠くのは無神経とみなされて嫌われたようです。それにもかかわらず、ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)もフランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt) もこの映画を気に入り、公開前にプライベート上映で鑑賞したといわれます。ルーズベルトはその後、1941年1月の大統領就任式でチャプリンを招き、映画の最後の演説をラジオで読ませ、その演説は祝賀会のヒットとなったといわれます。「偉大なる独裁者」は、作品賞、脚本賞、主演男優賞を含むアカデミー賞5部門でノミネートされます。

City Lights

次ぎに、彼の最高傑作とされる映画は「街の灯(City Lights)」といわれます。この作品では、ヒロインとして盲目の花売り娘と浮浪者チャーリーが登場します。二人が交わす言葉と肌の触れ合いの触覚を通じて愛を育んでいくのです。チャップリンは初めてこの映画全編に音楽を付けています。そして映画の全編で「ラ・ヴィオレテーラ(La Violetera)(すみれの花売り娘)」というシャンソンが愛のテーマとして幾度も登場します。

無声映画からトーキーへの変遷について、興味深いエピソードがあります。チャップリンはもともと音声やトーキー映画に反対し、映画は純粋に視覚的な芸術形式である、と信じていたようです。「トーキーは世界最大の芸術であるパントマイムを滅ぼそうとしている」とも述べています。ですが映画では視覚とともに聴覚に訴えるという演出になっていることです。「街の灯」は平面に映し出される無声映画のゆえに、言葉も触覚も間接的にしか表現することができできなかません。その矛盾を乗り越えるためにチャップリンが選んだ手段が、すなわちシャンソン曲のラ・ヴィオレテーラをBGMに選ぶことだったといわれます。

【話の泉ー笑い】その十四 チャーリー・チャプリンと笑い

イギリスの映画俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサーがチャーリー・チャップリン(Charlie Chaplin)です。無声映画時代に名声を博したコメディアンでもあります。山高帽に大きなドタ靴、ちょび髭にステッキという浮浪者風の扮装のキャラクターで、踊り、歌、ものまね、パントマイムで単なる笑劇から風刺劇へと変化させます。喜劇は感傷的な人道主義にとどまりがちですが、資本主義に対する小市民の反抗の表現ともいわれます。「小さな放浪者(Little Tramp)」「街の灯(City Lights)」を通じて世界的な人気者になります。ドタバタにペーソス(Pathos)といわれる哀感や悲哀を組み合わせた作風が特徴的です。哀れな兵隊のペーソスと風刺を込めて描いた「担え銃(Shoulder Arms)」、脱獄囚が囚人服を脱ぎ捨てて牧師の服を教会で説教し、やがて再逮捕されるとメキシコへ追放されるとう風刺が加わった短編「偽牧師(The Pilgrim)」などもそうです。

作品の多くには自伝的要素も含まれています。「ライムライト(Limelight)」では、中年を過ぎてから酒を呑む日々を送っていた道化師のカルヴェロ(Calvero)と美しきバレリーナのテリー(Thereza Terry)との恋を描きます。社会的及び政治的テーマが取り入れられた作品に「モダン・タイムス(Modern Times)」にがあります。現代資本主義と近代的テクノロジーのもとでの人間疎外を告発し、後に〈赤〉という嫌疑を受けてアメリカから追放されるきっかけとなります。チャップリンは「モダン・タイムス」を「私たちの産業生活のある局面に対する風刺」として発表します。世界恐慌に耐えるトランプ(Tramp) とゴダード(Goddard)という女性を主人公としています。政治的言及と社会リアリズムを採用した映画であり、多くの注目を集めた作品となります。 今日、「モダン・タイムス」は、イギリス映画協会(British Film Institute) によってチャップリンの「偉大な長編」の1つと評価しています。

Charlie Chaplin

1940年代、チャップリンはさまざまな批判を受けながらも作品を製作し続け、アメリカでの人気にも大きな影響を与えていきます。その第一は、チャップリンが政治的信条を大胆に表明するようになったことです。1930年代の世界政治における軍国主義的なナショナリズムの高まりに深く懸念し、チャップリンはこの問題を作品で取り上げずにはおれないと考えていきます。次回は「偉大なる独裁者(The Great Dictator)」を取り上げます。

【話の泉ー笑い】その十三 British Joke ブリティッシュ・ジョーク その3 まとめ

イギリスのユーモアは、日常生活の不条理を狙った風刺の要素を強く含んでいるといわれます。共通の中味として、毒舌、侮辱、自虐、駄洒落、陰口、機知、イギリスの階級制度のタブーなどがあります。これらはしばしば、イギリスのユーモア感覚全体にある鈍感、皮肉、ぶっきらぼうといったデッドパン(Deadpan)な表現を伴うといわれます。デッドパンとは、「ある事の可笑しさに対して「何とも思っていない」または「何も感じていないよう」に無表情で反応する喜劇」の一種です (Wikipedia)。意図的でないものとして使われ、ドライ・ユーモア(dry humour)、乾いたユーモア、とぼけたユーモアともいわれます。ジョークはあらゆる話題に及び、そのテーマに制約はありません。

Charlie Chaplin

ドライ・ユーモアは知識人やインテリのユーモアと混同されることが多いようです。台詞や身振りから笑うのではなく、観客が台詞、身振り、文脈の中から笑いを探さなくてはなりません。分からなければ笑えない。他方、デッドパンという言葉は無表情という身振りに限定して使われ、ブラックコメディ(Black Comedy)とかポーカーフェイス(Poker Face) もあてはまります。笑っている時よりも無表情のほうが観客に受けが良いようです。世界中から愛されたコメディアン、チャーリーチャップリン(Charles S. Chaplin)の無声映画がその代表です。イギリスにはテレビでの多くのコメディシリーズがあります。そうした作品は海外の視聴者にも受け入れられ、イギリス文化を代表するかのように国際的に浸透しています。

Sir Charles Chaplin

【話の泉ー笑い】その十二 British Joke ブリティッシュ・ジョーク その2 笑いの例

「オォダァァ、オォダァァ!(Order, order)(静粛に、静粛に!)と独特のだみ声で叫んで、議員らを鎮め、イギリスのEU離脱、ブレグジット(Brexit) 論争を最前線で取り仕切ってきた下院議長(House of Common)のジョン・バーコウ(John Bercow) という人をご存知でしょうか。首相、議員の間に立って議事を進行してきた言動は真剣さとと共に笑いを作り上げる手腕があった議長です。「静粛に!」という叫びを1万回以上も使ったのもブリティッシュ・ジョークの一つといってもよいでしょう。

John Bercow

それでは、ブリティッシュ・ジョークの7つの特徴や種類を例文とともに取り上げ、一緒に笑っていきましょう。

最初は「Irony 」といわれる自虐的な表現の笑いです。本当はそうではないのですが、実際とは真逆のことをあえていうのです。例として、天気なら楽しみにしていたキャンプにいくはずだったのに、大雨で中止になってしまった場合の一言です。
Great!! I can watch TV all day in the living room where there are no mosquitoes.
「いいんじゃないか、一日中居間でテレビを観られる。蚊に悩まされることがない。」

次ぎに結婚カウンセラーの話題です。
 Patricia is a marriage counselor. Her and her husband is going to divorce.
「結婚カウンセラーのパトリシアは、近々夫と離婚するらしい。」

第二は「Sarcasm」といわれる他虐的な笑いです。誰かの感情を傷つけるため、または何かを批判するために、ユーモアを混じえながら、明らかに真逆のことを意味することを言う笑いです。LINEでメッセージを送った相手から、5日後にようやく連絡が返ってきたときの相手への一言です。
 Thank you for your quick response.!
 「早速の返事に多謝!」

House of Common

部下に頼んでいた仕事が指示していた内容と違っていて、自分がやったほうが速いと憤懣やるかたない状況で相手に一言
 Great!! I wanted to do this by myself.
 「OK、 OK、自分でやれば良かったな、、、」

第三は、「Dry Humor」とか「Deadpan」といわれる笑いです。とぼけたユーモア、ニコリともせずに言うユーモア、平然と皮肉を込めて言うユーモアなどといわれます。ポーカーフェイス{Poker Face)で言うのです。次ぎの例は、パブがガラガラの状態で店主と客の会話です。
 You’re very prosperous today.
 「今日は大繁盛だね!」
 Well, I’d be happy to, as long as you drink a lot.
 「あんたが沢山飲んでくれればね。」

第四は、「Self Deprecation」です。これは「fun of oneself」ともいって自分自身を卑下したり、謙遜する場合の笑いです。例えば、なにかの大会で優勝したとき、「たまたま勝っただけだ」とか「運が良かったか」、あるいは「自分より強い選手がいたのだか、、」というように謙るのです。
 If you are a recent winner of a competition or challenge, you use language like “I don’t deserve this” or “there were better participants than me” as a form of compensation to less-lucky participants.

第五は、「Innuendo」といって、 当てこすりとか、ほのめかし という笑いです。性的な話題ながら、曖昧なあるいは煙に巻くようなさりげない言い回しで、誰かの性格や正直さや能力などに悪い印象をもたらすことです。ケンブリッジ辞典 (Cambridge Dictionary) には次のような説明があります。「なにか性的とか不愉快な表現ながら、それを直截的にはいわない」
 A remark or remarks that suggest something sexual or something unpleasant but do not refer to it directly)

シェクスピアの悲劇「オセロ」のなかでイアーゴという悪党が、オセロの妻、デズデモアのことをオセロに告げ口をし、オセロが逆上して彼女を殺し、やがて自分も自殺する場面です。
 Iago, the villain in Shakespeare’s Othello, who defamed Desdemona and was responsible for her murder and Othello’s suicide, was a master of innuendo.

第六は、「Banter」といって 冗談、 冷やかし、からかいといった笑いです。
 They had some good banter down the pub last night.
昨日パブで楽しい冗談の言い合いをしていた。

Bob and Jim exchanged friendly banter.
ボブとジムはお互いにからかっていた

House of Common

第七は、「Pun play on words」という 駄洒落とか言葉遊びの笑いです。
 All passengers got scared when a guy in a plane stood up and shouted “HI, JACK !”
 機内にてある男が立ち上がり『ハイ、ジャック』と叫ぶと、乗客はみな恐れをなした場面です。

Haste makes waste.
 3つの単語が韻を踏んだ笑いです。日本語では「急がば回れ」ですね。

 Which is stronger, Tuesday or Saturday?
 火曜日と土曜日、強いのはどっち?
平日は”Week day”で、”Week day”を”Weak day”(弱い日)と掛けているため、正解は”Saturday”というわけです。

次のジョークは分かりやすいです。紅茶とシャッツをかけた笑いです。
 What do people like to wear in England?
 Tea-shirt

以上のジョークのジャンルのどこに含まれるかは分かりませんが、イギリスの欧州連合-EU(European Union)からの脱退(Brexit)にひっかけた政治的なジョークがいろいろあります。「Brexit」とは、イギリスのEU離脱を指す用語です。
 How will Christmas dinner be different after Brexit?
 No Brussels!
ベルギーの首都はブリュッセル(Brussel)です。Brussel sproutsは芽キャベツですから、ですから脱退後のクリスマス晩餐には芽キャベツは入らないという笑いです。

次ぎもジョークもイギリスのEU脱退を冷やかしています。
 What’s driving Brexit? From here it looks like it’s probably the Duke of Edinburgh.
最初の文の drive の意味は「駆り立てる、動かす」です。Whatが主語の疑問文なので、文字通りに解釈すると、「何がBrexitを駆り立てているのか?」まるで交通事故レベルで、 エディンバラ公が運転しているとしか思えないくらいひどい、という意味です。エディンバラ公がかつて事故を起こしたことがあることにひっかけています。

【話の泉ー笑い】その十一 British Jokes ブリティッシュ・ジョーク その1 その特徴

ブリティッシュ(British)とはイギリス人とかイギリス英語のことを指します。「イングランド」を指していた言葉がなまって「イギリス」となったとも言われます。Britishといえば「ブリテン(Britain)の人、ブリテンの」ということです。Britain (British)は地理的な観点からの呼称というのが一般的な考え方です。United Kingdom(UK)という呼び名もあります。これは「イングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランド」の4つからなる連合国家(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)を指す為政上の名称です。少々ややこしい呼び名なので、通常はUKという略称を使います。前置きはこの位ですが、「イギリス」とは日本だけで通用するといいたかっただけです。

Great Britain

ロシアの小咄に比べてブリティッシュ・ジョークは少々お高い雰囲気で、大笑いはできないようです。紳士、淑女の国だからでしょうか。イギリスには様々な国籍の人が集まるため、外国語訛りの英語や、奇異な外国の風習などが外国人ネタが多いようです。形式や権威への批判もジョークの対象となります。対象に権威があればあるほど面白みが増すもので、例えばアメリカ大統領をはじめ世界各国の首脳や英国王室、聖書や神もジョークのネタにされます。権力や権威に反抗的で機知に富み、強い皮肉や自虐的であることがブリティッシュ・ジョークの特徴とされます。

British Jokes

例えば「イギリスのテーブルの上にはマナーはあるが、料理はない」(There are manners but not good food on the table in England.)というのがあります。伝統や形式を重んじがちなことを皮肉っています。イギリスのジョークにはダジャレなど言葉を題材にしたネタが多いことで知られています。これもシェイクスピア(William Shakespeare) などの文学者や演劇文化を通じて培われた言葉遊びが基になっているようです。大喜利チックなコメディアンが大袈裟に転んだりするドタバタものは少ないようです。

外国語の理解力というと、複雑な長い文章を読みこなせるようになるとか、難しい表現を覚えるとか、そうしたことに注意が向きがちです。しかし、実は最も難しいのは、時代や文化的背景の部分です。ブリティッシュ・ジョークは、イギリスの地理や歴史、時事的な話題を知っていると原文を理解することができるものです。そうすると面白さや可笑味も伝わるのです。

ブリティッシュ・ジョークを一応分類すると次のようになりそうです。
 「Irony 」 自虐的な笑い
 「Sarcasm」 真逆のことを意味する笑い
 「Dry Humor」 ポーカーフェイス的な笑い
 「Self Deprecation」 謙遜し卑下する場合の笑い
 「Innuendo」 ほのめかしの笑い
 「Banter」 他虐的な笑い(からかい)
 「Pun play on words」 言葉遊びの笑い

【話の泉ー笑い】その十 エスニックジョーク その5 ロシアのアネクドート

私が残念に感じていることは、ロシア語を勉強していないために、ロシア語の駄洒落をオチに使っているものが理解できないことです。ロシア語の動詞、俗語、隠語が分からないのです。ですからどうしても翻訳された政治的な小咄などに偏りがちになるのは仕方ありません。私の長女はアメリカに帰化したロシア人と結婚していますが、彼からロシア語のオチを学ぶには時間が足りません。多くの識者がロシアの事情を知っていて、ロシアのアネクドートを正確に翻訳しオチを紹介してくれているのは有り難いです。

その1
「歯科医院に対する恐怖感を無くすためにはどうしたらよいか?」
「簡単だ。歯科医院がお前が口を開ける唯一の場所だと思うことだ」

その2
マッチ工事が火事になった。燃え残ったのは、マッチだけだった。
(「ノルマ」があったので、手抜きして製造する工場もあった。このマッチ工場も手抜きしてたから「火のつかないマッチ」を作っていたというオチ。)

その3
ある幼稚園で海外使節団を迎えることになり、保母は園児たちに「ソ連のものは世界一です!」と答えるように教育した。
保母「おもちゃはどう?」
園児「ソ連のものは世界一です!」
保母「食べ物はどう?」
園児「ソ連のものは世界一です!」
しばらくして園児たちが泣きながら言った「ソ連に行きたいよう!」

Leonid Brezhnev

その4
ある女優がブレジネフを表敬訪問した。
ブレジネフ「君の願い事ならなんでも叶えてあげよう」
女優「じゃあ、亡命希望者には一人残らず出国を許可してくださいません?」
ブレジネフ「おいおい、君は私と二人っきりになりたいのかい?」

その5
「アメリカでは国民がテレビを観る(watch)」
「ソビエト・ロシアではテレビが人民を見張る(watch)!」

Nikita Khrushchev

その6
アメリカ人「ソ連にもアメリカのような言論の自由があるって本当か?」
ロシア人「その通り。ホワイトハウスの前で、お前が『くたばれ、レーガン!』って叫んでも罰せられないのと同じ」
ロシア人「モスクワの赤の広場の前で『くたばれ、レーガン!』って叫んでも罰せられん」

その7
「嘘にはどんなのがあるか?」
「嘘には四つある。普通のと、厚かましいのと、統計と、人から聞いたってやつだ」

その8
国歌に関するプーチン大統領とのインタビューから
インタビューア「国歌吹奏のときは、必ず起立することになるのでしょうか」
プーチン「各人には選択の自由が与えられる。起立しないなら坐ることになる」
(坐るとは動詞で牢屋に入るという意味とかけている)

その9
「世界で最も中立的な国はどこか?」
「ロシアだな、今や自国の内政問題にすら干渉しないのだから」

その10
ロシア人は見知らぬ人をとにかく警戒する。このためか「ロシア人がこの世で2番目に信用しないのはアメリカ人だ」
(1番警戒するのはロシア人というのがオチ)

【話の泉ー笑い】その九 エスニックジョーク その4 共産主義とアネクドート

ロシアのウクライナ侵攻が始まった直後の2022年3月には、連邦法第32-FZ号というものが施行され、これに基づいて「軍の信用の毀損」が処罰の対象となります。ロシア軍やプーチン政権を批判したり揶揄すること(アネクドート)を封じるためと考えられます。アネクドートには、いくつかの系統があって共産主義に対するもの、独裁者スターリンに対するもの、秘密警察に関するもの、政治家に対するもの、軍関係のもの、物不足に対するもの、ノルマに関するもの、強制収容所に対するものなどなど、アネクドートを通してソ連の政治体制を馬鹿にしています。ソ連の政治的な特殊性がオチに反映されています。最近はプーチンの指導性を揶揄するものが増えています。

その1
KGB「お前の職業は?」
容疑者「著作者です」
KGB「ふん、労働者じゃないのか・・・両親は何をしていた?」
容疑者「裕福な商人でした」
KGB「しかもブルジョワか。お前の妻は?」
容疑者「貴族の娘です」
KGB「資本主義の犬め!名を名乗れ!」
容疑者「カール・マルクスと申します」

Russian Anecdote

その2
有名なガガーリンの帰還を祝うパーティーにロシア正教のモスクワ総主教も参加していた。
総主教「宇宙を飛んでいたとき、神の姿を見たか?」
ガガーリン「見えませんでした」
総主教「わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように。」
暫くしてフルシチョフがガガーリンに同じことを尋ねた。総主教との約束を思い出したガガーリンは先ほどとは逆のことを答えた。
ガガーリン「見えました」
フルシチョフ「同志よ、神の姿が見えたことは誰にもいわないように」

その3
「どうしてソ連は月に宇宙飛行士を飛ばさなかったのか?」
「未帰還者が出る恐れがあるから」

その4
アエロフロート(ソ連航空)の機内
スチュワーデス「お食事をお召し上がりますか?」
乗客「なにが食べられるのか?」
スチュワーデス「イエスかノーかでどうぞ」

Sinking_Boat

その5
神父「ウオッカは人類最大の敵だ、そんなものにどうして好きになれるんかね?」
農民「でも聖書に書かれている、汝の敵を愛せよと」

その6
ある時、スターリンが誘拐されてしまった。誘拐犯から犯行声明が届いた。
「身代金1000万ルーブル払え‼︎ もし払わなければ、スターリンを生きて返すぞ!」

その7
ある男が強制収容所に送られてきた。囚人たちが聞きいた。
「お前は懲役何年の刑だ?」
「20年だ。何も悪いことはしていないのに…」
「そんなことはあるまい。無実の罪の相場は懲役10年だぜ」

その8
「今度政府が懸賞付きで政治ジョークを募集するらしいぜ」
「へぇ〜、それで1等賞は何がもらえるんだい?」
「シベリアへの長期休暇さ」

その9
市民がパンを買うためには、長い行列に並ばなければならない。ついに、男の1人が怒ってこう叫んだ。
男「もう我慢ならない、俺はゴルバチョフを殴りに行く」と。しばらく経って、ショボンとした顔のその男が帰ってきた。並んでいた人はみな聞いた。
市民「殴ってきたのか?」
男「あっちにも列が出来てた」

その10
「我が国の強制収容所がとても待遇が良いと聞いた。本当か?」
「本当だ。5年前、友人の記者がその真相を確かめるべく強制収容所に調査に行った。気に入ったらしく、いまだに帰って来ないから」

その11
スターリンが川遊び中、川に落ちて溺れたところをたまたま助けた農民がいた。
スターリン『褒美をあげよう、何がいいか?」
農民「あんたを助けた事を国家機密にして欲しい」

【話の泉ー笑い】その八 エスニックジョーク その4 共産主義とロシア文学

ロシア文学の一部といえるかどうかは分かりませんが、ロシアの小話はロシア史の激変に敏感に反応しているようです。その時々の社会的、政治的な問題を強烈に反映しているといわれています。大日本百科事典によれば、ロシアは西欧諸国と比べると、歴史的な連続性を欠き、そのため安定した統一のとれた多様な文化を生み出すことができなかったともいわれます。その代わりに、豊かな口承文学であるフォークロー(folklore) が民衆の間に代々伝承され保持されてきました。「ブイリーナ」と呼ばれるロシアの民衆叙事詩、おとぎ話、伝説、歌謡は洗練された響きを持つと評価されているようです。

収容所群島

イワン四世(Ivan IV)からピュートル大帝(Peter the Great)、そしてスターリンに至る専制、弾圧、粛清のもとで人民はあえぎました。社会の後進性、立ち後れた制度、農奴制といった社会的な矛盾に人々が苦しむという歴史的状況はロシア文学は切り離せまないようです。社会評論や政治的発言の場がなかったことから、文学が唯一の演壇となったといわれます。識者らは、文学批評を通して文学作品を解説し、検閲の目をかすめて政治的、社会的発言をその中にしのび込ませる方法をとったのです。そのようにして、文学は「ロシア帝国の法と反体制との闘争の最も重要な果たし合いの場となった」といわれます。

1973年にフランスで発刊されたソ連の作家、アレクサンドル・ソルジェニーツィン(Alexander Solzhenitsyn)の「収容所群島」という記録文学はその代表といえそうです。当然ながらソ連では禁書扱いとなりました。ソルジェニーツィンは1970年にノーベル文学賞を受賞し、1974年に市民権を剥奪されて西ドイツへ国外追放されますが、ソ連崩壊後の1994年に帰国します。

Aleksandr Solzhenitsyn

1956年、第20回共産党大会の秘密会議においてフルシチョフ(Nikita Khrushchev)がスターリン批判の演説を行い、いわゆる「雪解け」時代に入ります。国内では非スターリン化が推進され、粛清の犠牲者の名誉回復、言論などの取締りの緩和により国情が変わります。ソルジェニーツィンは7月に流刑から解放され無罪となりました。

【話の泉ー笑い】その七 エスニックジョーク その3 スターリンとソ連

ソ連邦解体後のロシアは言論が統制され表現の自由も制限されているといわれます。おおっぴらに政府に対する不満は言えません。そこで人々は不満を「アネクドート」に変え、うっぷんを晴らしていたようです。当時の政治状況などを知っているとジョークの意味が分かってきます。アネクドートとは、主にソビエト連邦で発達した政治的風刺を持つジョーク、小咄です。アネクドートの語源は、ギリシア語のアネクドトン、「公にならなかったもの」とWikipediaにあります。

Joseph Stalin

ソビエト連邦は憲法で「言論の自由」を謳っていましたが、現実には反社会主義活動にはチェーカー→KGBのような秘密警察による弾圧が常に行われてきた言論統制社会でありました。「アネクドート」の語源の通りこのような風刺的ジョークもソ連崩壊まではおおっぴらに語られるものではなく、地下で語り継がれてきたと言われています。そのような圧政社会であったからこそ、不満のはけ口として皮肉めいたジョークが多く作られることになったと考えられます。しかしながらロシア・ソビエト連邦社会主義共和国刑法第58条違反(反革命罪)と見なされる可能性があり、10年の懲役、あるいは最悪の場合は死刑に処される可能性さえあったようです。つまり「命がけの危険なスポーツ」的な楽しみ方をされていたといわれます。

ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)の時代には、体制批判を含むアネクドート、すなわち「政治的アネクドート」を語ることは、極めて危険であったようです。それでも面白可笑しい小話は瞬く間に人々の間に広まります。ロシアにおけるユーモアは開放感をもつ文化として、またエリート層に対する対抗と冷やかしの手段として花開いていくのです。

【話の泉ー笑い】その六 エスニックジョーク その2 ロシアの小咄

国々の文化が理解できるようになれば、海外ドラマや洋画を見た時に外国人の笑いのツボがわかるようになります。感覚的にわかるというよりは論理的にわかるというレベルです。笑いの違いは文化の違いなので、これはいささか仕方ありません。もちろん第一は、語学の問題があります。相当勉強していないと外国語での笑いは理解しにくいことがあります。第二が文化の違い、そして第三が笑いの構造の違いです。この三つを知っていると笑えること請け合いです。

ロシア人ほどジョーク好きの民族はいないといわれます。「ソ連が残した良き遺産はジョークだけ」という人もいます。ロシアではジョークのことを「アネクドート」(anekdot)。政治的で滑稽な小咄です。ナンセンスなQ&A式ジョークがよく知られています。ぎゃははって笑えるのはアメリカンジョークかもしれませんが、深いのはロシアの「アネクドート」。以下、日本語で紹介されているいくつかの「アネクドート」です。

◆モスクワの赤の広場で、ウォッカを飲み過ぎた酔っ払いが叫んでいた。
<プーチンは大バカ野郎だ、プーチンは大バカ野郎だ!> 
たちまちのうちにKGBが飛んできて酔っ払いは連行されていった。即日裁判で、禁固22年が言い渡された。その内訳は、2年が元首を誹謗した罪、20年が国家の機密を暴露した罪であった。
酔っ払いが1年目の刑期を終えた頃、プーチンがアメリカを公式訪問した。まもなくこの酔っ払い男は釈放された。それは国家機密がもはや機密ではなくなったからだ。
◆「プーチンの政策の本質とは何か? 進歩か、それとも欺瞞か?」  
 「それは欺瞞の進歩だ」
◆「ロシア式ビジネスって何か?」 
 「ウォッカのケースを盗んで、売って、その金で飲むことだ。」
◆「10月革命は何を市民にもたらしてくれたのか?」 
  「以前は金持ちは店の正面から入り、市民は裏口から入った。今では市民は店の正面から入り、金持ちは裏口から入る」
◆ロシアの学説 「アダムとイブはロシア人だった!」
「着るものもなく、移動も許されず、食べるものはリンゴだけ、まさにロシア人のことではないか。」
◆プーチンがクレムリンのトイレに入ると、こんな落書きがしてあった。
  「プーチンの人殺し」  プーチンは「プーチン」のところを「チェチェン人」と書き換えてトイレから出た。
◆KGBのイワンとドミトリーの会話。
  「本当のところ、わが国の上層部についてどう思うかい?」
  「君と同じだよ。」
  「やっぱりそうか・・・・・・。悪いが君を逮捕するよ。」
◆スターリンが船遊びをしていて、川に落ちて溺れた、それを近所の農民が助けた。
   そして、スターリン「何かしてほしいことはあるか」
   農民「へい、わたすが、殿下を助けたことを内緒にしてくださいまし」

スターリンの葬送狂騒曲


◆スターリンが占い師に尋ねた。
  「私の寿命はどれくらいだ?」
  「わからない。しかし、おまえは最も大きな祝祭日に死ぬだろう」
  「それはいつだ」
  「おまえが死ぬ日がそうだ」
◆ソ連の戦車マニュアル
  ① 我が祖国の技術を信じよ
  ② 性能に疑問が生じた時は①を読め
◆ソ連の工業化はめざましく発展した。
  もうすぐソ連の殆ど全ての椅子が電気イスになることだろう。
◆BBCの特派員とブレジネフとの会話
  特派員「ソビエトでは労働者の生産性に何か問題はございませんか?」
  ブレジネフ「どいつもこいつも働いているフリばかりしておる」
  特派員「そういう労働者に、どう対処していらっしゃいますか」
  ブレジネフ 「彼らに賃金を払うフリをしておる」

Anekdot

【話の泉ー笑い】その五 エスニックジョーク その1 お国柄

人種や国の文化、行動パターンの違いを分かり易くステレオタイプ化して説明する小噺をエスニック・ジョーク(Ethnic Jokes)と言います。「人種偏見のジョーク」(Racism Jokes)と紙一重なので注意が必要です。エスニック・ジョークの世界では、あくまでも偏見ではなくユーモアの範囲内ですが、人種は次のようなステレオタイプで表現されがちです。

Be Careful!

まずはエスニック・ジョークの典型から。国際会議で「コロナの対応になにが必要か」を討議していました。各国の代表から次のキーワードが出されました。
The international conference discussed “What is Needed Now for the Corona Disaster?
 An American said. Courage.
 The German said. Rules.
 The Frenchman said. Love.
 The Japanese said. Technology.
 Finally, the Russian said. Vodka.
   アメリカ人=勇気
   ドイツ人=規律
   フランス人=愛
   日本人=テクノロジー
   ロシア人=ウオッカ


人種や国籍から次のようなステレオタイプ化した見方があります。もちろん一般化は出来ませんが、ある程度理解しうる指摘です。
   アメリカ人=独善的、傲慢、自慢好き
   イギリス人=紳士的、堅苦しい
   ドイツ人=真面目
   フランス人=好色、グルメ
   イタリア人=情熱的
   ロシア人=酒好き、物がない
   日本人=勤勉、会社人間、高品質へのこだわり

◆天国と地獄
 問1.天国とはどんな世界か?
 答1.コックが中国人
     政治家がイギリス人
     エンジニアが日本人
     銀行家がドイツ人
     恋人がイタリア人

 問2.それでは地獄とはどんな世界か?
 答2.コックがイギリス人
     政治家が日本人
     エンジニアが中国人
     銀行家がイタリア人
     恋人がドイツ人

◆最後の望み
 問.地球滅亡の前日に思うことは?
 .イタリア人:「愛人とともに過ごそう」
    日本人  :「仕事を今日中に終わらせよう」
    ロシア人 :「今日は二日酔いを気にせずに飲もう」
    ドイツ人 :「まだ24時間、1,440分、86,400秒もあるではないか!」
    アメリカ人 :「ケセラセラ、、なるようになる、、、」

Funny Racist

【話の泉ー笑い】 その四 アメリカン・ジョーク

今回は英語圏の定番ジョークである「ノックノック・ジョーク」(Knock, knock joke)というものをご紹介しましょう。なぜノックなのかというと、ドアの内側にいる人と、ダジャレを言うドアの外にいる訪問者という設定があるからです。その他、「ブロンド・ジョーク」(Blond Joke)「エスニック・ジョーク」(Ethnic Joke)、親父ギャグ(dad joke)などがあります。アメリカン・ジョークには日本で言うところの大喜利チックなニュアンスがあります。これぞアメリカンジョークの特徴です。

その1:先日、日本の首相がニューヨークの国連で英語でスピーチをしました。
The other day the Japanese Prime Minister made a speech in English at the United Nations in New York.
Right after the speech, one representative from Europe said, “I didn’t know that the Japanese language is so similar to English.”
このジョークは皮肉っぽい印象です。揶揄しているといってもよさそうです。日本の首相の英語力を笑っているのです。

その2:患者と医者の会話です。
患者: Doc, why are you wearing gloves?
医者: I don’t want to leave any finger prints.
このジョークはアメリカの文化を理解していると、なるほど、と合点がいきます。医者を揶揄しているのです。

その3:手術前の患者と医者の対話です。
患者: Oh doctor, I’m just so nervous. This is my first operation.
医者: Don’t worry. Mine too. 
こちらも高額な収入を得ている医者に対する一種の嫉妬のようなジョークです。頭の回転が速いんだ、と感心してしまうほどのスムーズなアメリカン・ジョークを繰り出せる人が多くいます。

Doctor and Photoshop

Doctors and Internet

その4:A naked women robbed a bank. Nobody could remember her face.
このジョークは、文化的な背景を無視できるどの国の人にも理解できる笑いです。でも女性の前では使わないほうが無難です。

その5:ブロンド女性に嫉妬するところがあります。
A brunette and a blonde were walking in the park, chatting.
Suddenly, the brunette said in a sad voice, “Poor little bird.
Poor little bird is dead.”
Hearing this, the blonde looked up at the sky and said, “What?
Where, where, where?”
ブルネットとブロンドがお喋りしながら公園を歩いていた。
すると突然、ブルネットが悲しい声で言った。
「かわいそうに、小鳥が死んでいるわ。」
それを聞いたブロンドは、空を見上げて言った。
「えっ、どこ、どこ?」

Blonde Jokes

その6:「ブロンド女性はおつむが弱い」というステレオタイプの考え方があります。
How many blonde jokes are there in the world?
Zero! Because they are all true.
この世にブロンド・ジョークなるものはいったい幾つある?
ゼロ! だってあれはみ~んなホントだから。

その7:ブロンド女性とブルーネット女性との会話
A blonde tells a joke to a brunette:
– You know why I am more beautiful than you?
– Because you have blonde hair?
– No, because I study at Harvard!
オチはハーヴァード大学でした。

【話の泉ー笑い】 その三 ノンセンス文学と「ボケ」と「ツッコミ」

イギリスには「ノンセンス文学」(Non-sense)という笑いを表現する伝統があります。風刺やパロディ(parody)が社会批判の役割を持った攻撃性の強い笑いものとすれば、こちらは比喩や言葉遊びーおかしみー要素が強いのが特徴です。「ノンセンス」の多くは本質的にはユーモアに属するようですが、「意味をなさないこと」によって成立するユーモアで満たされる文学です。民謡や童謡、民話や民衆劇、言葉遊びといった口承を起源とするもので、今も広く読まれるマザー・グース(Mother Goose)やナーサリーライム (Nursery Rhyme)として慕われています。言葉の操作による意味と無意味との戯れが見られるのも特徴です。社会的緊張から間隔をとり、つかの間の自由と解放を求めるのです。こうした話で登場する笑いは心理的安全弁の役割を果たしているといえましょう。

ブラック・ユーモア(Black Humor)はブラック・コメディ(Black Comedy)とかダーク・コメディ(Dark Comedy)呼ばれ,、倫理的に避けられるタブーや市民のモラルである一般的な見方や考え方に挑発をしかけ、笑いをさそうものです。人間社会の生死・戦争・差別・偏見・政治など倫理的に避けられるタブーを笑い飛ばそうとして、風刺的な描写で笑いをさそいます。ブラックユーモアは多くの国で親しまれていますが、特にイギリスで好まれており、様々な文化で優れた作品例が育まれてきた歴史があります。前述したスウィフトがその典型です。

McDiabetes

Big Mac


ジョーク(Joke) については学術的な研究も行われています。マービン・ミンスキー(Marvin L. Minsky)という人工知能の研究者は、一般大衆向けに書かれた著書の『心の社会』の中で、笑いは人間の脳に対して特殊な機能を持つと述べています。彼によれば、ジョークと笑いは脳が無意味を学ぶメカニズムと関係するとのことです。同じジョークを繰り返し聞くとあまり面白くなくなるのはこの学習のためといわれます。

喜劇、落語、漫才、川柳、漫談、ユーモア、駄洒落、風刺などの笑いは、人々が求める需要に応じて供給される商品のような性格が強いようです。綾小路きみまろの漫談がそうです。種の笑いは社会的制裁や批評機能を強めていくよりも、前述してきたような社会的安全弁の役割を持っています。笑うことで全身の内臓や筋肉を活性化させたり、「体内で分泌されるモルヒネ」といわれるエンドルフィン(endorphins)を血液中に大量に分泌させるなどの他に、免疫力を高める効果もあることが証明されつつあります。

【話の泉ー笑い】 その2 文学に登場する笑い

グリム童話(Grimm Fairy Tales) をはじめ、ヨーロッパの伝承話には、笑いを忘れた人間をテーマとする類話があります。生まれてこのかた、一度も笑ったことのない人間がいて、それを笑わせた者が大きな幸せを得るというストーリーです。笑わない人は病人だからで、笑いには精神的な治療の力があるということを言いたいのです。

ボッカチオ(Giovanni Boccaccio)のデカメロン(Giovanni Boccaccio)にも笑いが登場します。大流行したペストから逃れるためフィレンツェ(Florence)郊外に引きこもった男3人、女7人の10人が退屈しのぎの話、ユーモアと艶笑に満ちた恋愛話や失敗談などを語り合うという趣向が描かれています。出されたネタ(お題)に対して演者が回答し合うのです。恐ろしい病が流行し、心がふさがれる状況では、切実に笑いが必要であったのです。

ミゲル・セルバンテス(Miguel de Cervantes)のドン・キホーテ(Don Quixote)は、主人公の時代錯誤的なこだわりと同時に、従士サンチョパンサの対比で、無垢な心と世間的処世知とのコントラストが笑いを誘う物語です。奇行を繰り返すドン・キホーテにサンチョパンサは何度も現実的な忠告をしますが、大抵は聞き入れられず、主人とともにひどい災難に見舞われるのです。無学なサンチョパンサですが、様々な諺をひいたり機智に富んだ言い回しをして読者に笑いを与えてくれます。

Don Quixote and Sancho Panza

笑いを通して賢と愚、正気と狂気、破壊と創造といった両義的な価値を問題としたのが作家のジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)です。アイルランドのジャガイモ飢餓(Potato Famine) や不在地主に対する強烈な風刺を描いたことで知られる作家です。食糧問題を解決するために、貧民の赤子を1歳になるまで養育し、アイルランドの富裕層に美味な食料として提供する「穏やかな提案」という作品を書いています。「穏健なる」は実は反語表現でして、その内容はスウィフトの諷刺文書の中でも最も強烈な傑作と評価されています。笑いという仮装の下に政治に対する鋭い批判を込めたのです。

Gullivers Travels

「ガリバー旅行記」(Gulliver’s Travels)もそうです。不毛な科学、不死の追求、男性性、動物を含めた弱者の権利等、今日の数多くの議論がこの作品では予見されている優れた内容といわれます。その一例ですが、卵の割り方の対立によって、小人国に大きな内紛が起こったことが語られています。「卵の割り方程度でどうしてそんな争いを起こすのか?」と馬鹿馬鹿しく記すのです。「ガリバー旅行記」は、人間を人間でない世界の中に置くことで、人間に対する深い洞察をしているのが興味深いところです。

【話の泉ー笑い】 その1 笑いの定義

これから【話の泉ー笑い】と題して、笑いの極意を探求していきます。【話の泉】とは、1946年12月から1964年3月まで約18年間NHKラジオ第一で放送された番組です。サトウ・ハチローや徳川夢声、堀内敬三らの解答者が、自らの持っている雑学の知識を披瀝し、うんちくを傾けて笑いを誘うトーク番組でした。私は1950年代の後半からこの放送をよくきいていたものです。

「笑い」とは、人間関係の中で最も頻繁に現れる感情表現の一つです。対人関係では、怒り、不満、威圧、からかい、批判,風刺などで緊張が生まれます。それでもなお関係を改善する役割を果たすのが笑いといわれます。吹っ切れた爽快さもあります。関係を損なうかわりに、笑いは関係を修復してくれるのですから、不思議なものです。反面、本人が本当におかしくてそのまま笑ってよい場合もあります。居合わせる人々への配慮から、抑えた笑いもあります。このような場面での振る舞いは、対人関係における文化的現象といえます。私たちはいつの間にか、対人関係から笑いというスキルを習得していきます。

Barack Obama

時、所、場合において適切な笑いがあり、成人も老人も、年令により、また男、女らしさの笑いもあります。社会的地位や職業によっても笑いの型があります。笑いは必ずしも意識的に生まれるというよりは、むしろ共感による同一化によって学習されたものといえそうです。

イギリスの哲学者、トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)は、人間は未来の自己保存について予見できるので、つねに自己保存のために他者より優位に立とうとする存在だと主張します。そして笑いとは他人の弱点、あるいは以前の自分自身の弱点に対して、自分の中に不意に優越感を覚えたときに生じる突然の勝利、それが笑いだというのです。精神分析学者のジークムント・フロイド(Sigmund Freud)は、「ジョークとその無意識に対する影響」という著作の中で、制約されていた衝動が突然満たされたときに生じる心的状態が笑いだと書いています。

ホッブスがいう笑いの定義の背後には、彼が生きた17世紀ヨーロッパい社会があります。身分制度の社会で階級的なルール、エチケットが支配する宮廷やサロン、社交界では、そこで笑いものになることは、命取りになりかねなませんでした。つまり笑いには社会的制裁としての役割もありました。滑稽は不名誉よりも人の名誉を損なうものでした。

それでも笑いは、やがて社会的な地位を築いていきます。社会的制裁としての役割に限らず、笑いは有効な批評の機能も備えていきます。ヨーロッパの笑い話や阿呆文学には、しばしばおかしみや滑稽を通して教会のドグマや身分制社会のびずみ、人間性そのものに鋭い疑問を投げかけています。笑いは中世的なモラルや処世の秘訣を教えるための楽しい手段でした。他方、笑いは性的なことを含め、世の中のさまざまなタブーに挑戦する機会を与えてきたのも事実です。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その76 アメリカの自治領 その五 アメリカ領サモア

アメリカ合衆国の州に付けられている愛称を取り上げて歴史や地理を辿ってきました。76回の今回で終わりとします。アメリカ領サモア(American Samoa)は、太平洋の南西、ハワイとニュージーランドの中間に位置するサモア群島は紀元1000年以上前から人々が暮らしていましたが、ヨーロッパ人によって発見されたのは18世紀になってからです。主都はパゴパゴ(Pago Pago) 5つの島とローズ環礁(Rose Atoll)など2つの珊瑚礁からなります。

サモアは、ポリネシア文化を体験できる場所といわれ、トゥトゥイラ島(Tutuila Island)、タウ島(Ta’u Islands)オフ島(Ofu Island)の各島の一部は、アメリカンサモア国立公園(National Park of American Samoa)に指定されています。

Market

サモアを巡る列強による争いの歴史です。サモアでのキリスト教宣教活動は、ロンドン宣教師協会(London Missionary Society)のジョン・ウィリアムズ(John Williams)がクック諸島(Cook Islands)とタヒチ(Tahiti)から到着した1830年後半に始まります。 19世紀後半までに、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカの船舶は、パゴパゴ港を石炭燃料船と捕鯨のための給油所として評価し、サモアに日常的に停泊していたようです。1839年にアメリカ合衆国の探検隊がこの島々を訪れたという記録もあります。

1889年3月、ドイツ帝国海軍部隊がサモアの村に入り、その際、アメリカ人の財産を破壊します。その後、3隻のアメリカ軍艦がアピア港(Apia)に入港し、そこにいた3隻のドイツ軍艦と交戦する準備をしていました。しかし、交戦する前に台風が来て、アメリカとドイツの軍艦は大破します。そのために両軍はやむなく休戦したとあります。

Samoa

20世紀に入り、国際的な対立は、1899年にドイツとアメリカがサモア諸島を2つに分割する三国間条約によって決着します。 東部の島々はアメリカの領土となり、現在アメリカ領サモアとなっています。西部の島々はドイツ領サモアとして知られるようになります。こうした協議は、1887年のワシントン会議、1889年のベルリン条約、1899年のサモアに関する英独協定の3つです。アメリカは、東部の小さな島々を正式に併合し、そのうちの一つには有名なパゴパゴ港(Pago Pago)があります。アメリカ海軍がサモア東部を所有した後、パゴパゴ湾の既存の捕鯨基地は、アメリカ海軍ツツイラ基地(Tutuila)として拡張されます。

アメリカ領サモアは合衆国議会により自治法 (Organic Act) が制定されていない非自治的領域 (unorganized territory)となっています。1967年7月1日に発効した憲法によって自治政府が成立し、領内の行政執行権は準州知事が、立法権は自治領議会が担っています。住民はアメリカの国籍を持ちますが、市民権はありません。なんとも不思議なことです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その75 アメリカの自治領 その四 北マリアナ諸島

北マリアナ諸島(Northern Mariana Islands)は、サイパン島(Saipan)やテニアン島(Tinian)、ロタ島(Rota)などの14の島から成るアメリカ合衆国の自治領です。主都は、サイパン島のススペ(Susupi)です。小笠原諸島の南側に連なるミクロネシア最北端の島や北から南へ15の島が並びます。

Map of Saipan

マリアナ諸島の歴史です。東南アジアから渡って来たチャモロ人(Chamorro)が定住し、古代にはタガ王朝(Taga Dynasty)が成立します。1521年にマゼランがグアム島にやってきます。1668年からカトリックの布教が始まります。当時のスペイン皇后マリアンナ(Mariana)を記念して命名されたのがマリアナ諸島です。1565年には全島がスペインの支配下に入りますが、チャモロ人の反乱は絶えず、スペインーチャモロ戦争が勃発します。1698年には全島民がグアムに強制移住させられるという歴史を辿ります。

戦前のサイパン

1898年、米西戦争の結果マリアナ諸島はカロリン諸島(Caroline Islands)とともにドイツ領となり、第一次世界大戦後、日本の国際連盟委任統治領となります。当時は「南洋諸島」と呼ばれた地域です。日本の委任統治下で、サイパン、テニアンではサトウキビ農場の開発に成功します。サイパン島では1934年に砂糖生産のために南洋興発という会社が設立され、砂糖キビを運搬する鉄道も敷設され1944年まで使われます。今も砂糖王公園(Sugar King Park)があります。

助けられた避難民

太平洋戦争中、サイパン島やテニアン島は住民を巻き込んだ日米の地上戦が展開されました。統治下のパラオ諸島(Palau Islands)に優る繁栄をします。1978年、他のミクロネシア地域から離脱し、自治政府をつくり1986年アメリカの自治領となります。北マリアナ諸島の住民は、アメリカの市民権を有しています。マリンスポーツ、キューバ・ダイビングなど観光が主な産業で日本人旅行者も絶えません。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その74 アメリカの自治領 その三 グアム

マリアナ諸島(Mariana)の南端に位置し、ミクロネシア(Micronesia) では最大の島がグアム(Guam)です。その大きさは淡路島よりやや小さいようです。南北に細長く、北部は高原で南部は密林に覆われています。1521年に世界一周途上のマゼラン(Magellan) によって発見され、1668年に正式にスペイン領となります。米西戦争の結果、1898年にアメリカ領となります。1941年から3年間は日本軍が占領します。現在は、太平洋の交通の要所で、軍事的、経済的な重要性を有しています。今はアメリカの準州で主都はアガニア(Agana)となっています。住民はチャモロ族(Chamorro)です。

チャモロの家族

グアムにおいて最初に宣教活動をしたのはフランシスコ派のカトリック教会です。イエズス会のディエゴ・ルイス・デ・サン・ビトレス神父(Diego Luis San Vitores)は1668年からグアム島で約4年間、布教に献身し殉教した伝説的な人物です。ビトレスは、グアムの中に会堂を建てます。その最も大きく最も格式が高いのがハガニア大聖堂(The Dulce Nombre de Maria parish)です。場所は、グアムの首都ハガニアにあるスペイン広場の東側に位置しています。1672年にビトレスは、酋長の子どもに洗礼を強行したとして殺害されます。それが契機となり、グアムやマリアナ諸島は、チャモロとスペイン軍の間の戦争が勃発し、それが終結するまでに 20 年以上かかったといわれます。

Map of Guam

隣接する北マリアナ諸島が信託統治を経て1978年に実質的なコモンウェルス(Common Wealth)と呼ばれる準州となります。その動きを受けて、グアムでは1980年代から1990年代前半にかけて、プエルト・リコや北マリアナ諸島と同様の自治のレベルを付与したコモンウェルスに向けた推進運動が起こります。しかし、連邦政府はグアム準州政府の提案したコモンウェルスへの変更を拒否します。運動は徐々にアメリカ本国からの政治的独立、国家としての独立、唯一の独自領土として北マリアナ諸島との連合、あるいは現在合衆国の一州となっているハワイとの連合に軸足を置いているといわれます。日本、アメリカによる統治を経て、現在もアメリカの未編入領土であるグアムは、未だにコロニアリズム的状況(Colonialism)から脱却できていないといえそうです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その73 アメリカの自治領 その二 プエルト・リコ

プエルト・リコ(Puerto Rico)は、カリブ海(Caribbean Sea)北東に位置する合衆国の自治的・未編入領域でコモンウェルス(Common Wealth)という政治的地位にあります。プエルト・リコ本島、ビエケス島(Vieques)、クレブラ島(Culebra)、モナ島(Mona)などから成ります。主都はサン・フアン(San Juan)となっています。多くの島から成るプエルト・リコでは、今でも建築、食べ物、音楽、言語にさまざまな形でスペインの伝統が色濃く残っています。英語も広く話されており、島全体でアメリカドルが流通しています。

Map of Puerto Rico

1493年11月のクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)による到着以来、スペインやアメリカを始めとするヨーロッパ人によって開発が進められ現在に至っています。スペイン語でプエルトは「港」、リコは「豊かな」(rich port)を意味しヨーロッパ人の到来以前は、この島は先住民のタイノ族(Taíno)によってボリケン (Borikén)、またはボリクアス (Boricuas) と呼ばれていました。ボリケンとは「勇敢なる君主の地」(Land of the Valiant Lord)を意味します。現在のプエルト・リコの名称は、一説にコロンブスがサン・フアンに入港した時に「Qué Puerto Rico!」(なんと美しい港か!)と叫んだことに由来するといわれています。

El Morro Castle

1898年の米西戦争後、アメリカに併合されてからはポルト・リコ (Port Rico, Rich Port) と地名表記も英語化されますが、プエルト・リコ人の感情に配慮して1932年にプエルト・リコ (Puerto Rico) と表記されるようになりました。スペインではプエルト・リコは「魅力溢れる島」(island of enchantment)と呼ばれます。

パリ条約によって完全にアメリカ合衆国の領土となったプエルト・リコ内では、フォラカー法(Foraker Act)によって1900年7月にプエルト・リコ民政府が成立し、1898年3月に生まれた自治政府は解体されます。プエルト・リコは知事を合衆国大統領が任命する直轄領となりました。このため、プエルト・リコでは主権を求める完全・独立派や合衆国への編入派が今もしのぎを削っています。

島内にはいろいろな史跡があります。サン・ファンにあるエル・モロ砦(Castle El Morro)はスペイン軍が、フランス、イギリス、オランダやカリブの海賊達などの敵対勢力から、サン・ファンの街を守るために建てたカリブ最強の砦と言われた要塞です。1539年頃建設が始まり、1790年頃に完成したという記録があります。今は、ユネスコの世界遺産となっています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その72 アメリカの自治領 その一 北ヴァージン諸島

州の愛称をたどってアラバマ州からワイオミング州、そしてワシントンD.C.までやってきました。合衆国の州に準ずる地域、あるいは本土未編入の自治領的な仕組みは、コモンウェルス(Common Wealth)とか、準州と呼ばれます。アメリカでは自治が認められている地域がいくつかあります。北ヴァージン諸島(Virgin Islands)、プエルトリコ(Puerto Rico)、グアム(Guam)、北マリアナ諸島(Northern Mariana)、サモア(Samoa) といった地域です。今回からは、順番にこうしたアメリカの自治領を紹介します。まずは北ヴァージン諸島です。

カリブ海(Caribbean Sea)の東端から東南端にかけて分布する諸島である小アンティル諸島(Lesser Antilles)がヴァージン諸島といわれます。その西側半分は約50の島々からなるアメリカ領で、東側半分は約60の島々からなるイギリス領となっています。アメリカ領とイギリス領に人が住むそれぞれ3つある主な島以外は、ほとんど無人島です。

Virgin Islands in Caribbean Sea

北ヴァージン諸島のような自治領とは、その地域の政治や行政などを主権国家の許可を得ずに行うことができる体制です。国家は主権を持っていますが、自治領は主権は持っていません。主権というのは、「領土・領海・国民・国家体制」などを支配する権限のことを指します。北ヴァージン諸島の人口は102,000人ほどで、サトウキビ栽培を中心に農業従事者が多いのですが、近年は観光への投資が盛んなところとなっています。火山島と珊瑚礁が多く、亜熱帯に属しますが貿易風のおかげでしのぎやすい地帯といわれます。

観光客が訪れる主要な島はセント・トーマス島(Saint Thomas)、セント・クロイ島(Saint Croix)、セント・ジョン島(Saint John)の3島で、主都はセント・トーマス島のシャーロット・アマリー(Charlotte Amalie)です。セント・トーマス島には、ブラックビアーズキャッスル(Blackbeard’s Castle)とか 99 段の階段といった見どころがあります。空中トラムのスカイライド(Skyride)も知られています。セント・クロイ島のクリスチャンステッド(Christiansted)では、デンマークがこの地域に及ぼした影響を18 世紀の建築物の街並みから体感できるといわれます。

Harry Belafonte

北ヴァージン諸島は、少々大袈裟ですが「アメリカの楽園」とかカリプソ音楽(calypso)の発祥地などといわれます。カリプソはカーニバルで発達した音楽ジャンルで、リズムは4分の2拍子となっています。カリプソの歌詞は、島の生活に関連するあらゆる話題に及ぶようです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その71  ワシントンD.C.

合衆国首都のワシントン.(Washington District of Columbia)は、通称ワシントンD.C.と呼ばれています。D.C.は連邦直轄地という特別区で、東海岸のメリーランド州とヴァジニア州に挟まれたポトマック川河畔(Potomac River)に位置しています。各州とは別に、首都としての役割を果たすため、連邦の管轄する区域が与えられていて、合衆国三権機関である大統領官邸(White House)、連邦議会(Capitol)、連邦最高裁判所(Supreme Court)が所在し、多くの連邦省庁が集中しています。いわば日本の霞ヶ関のようなところです。

Washington Memorial and Cherry Flowers

ワシントンD.C.には、他にも多くの記念建造物やスミソニアン博物館(Smithsonian Museum)などが立ち並んでいます。172か国の大使館に加え、世界銀行(World Bank)、国際通貨基金 (IMF)、米州機構 (OAS)、米州開発銀行(IDB)、汎アメリカ保健機関 (PAHO) の本部も置かれています。労働組合、学術などロビイストの各種団体本部もこの地に居を構えています。連邦政府の所在地として国際的に強大な政治的影響力を保持する世界的都市で、また金融センターとしても重要な街です。首都としての機能を果たすべく設計された計画都市ともいわれています。

Smithsonian Castle

ワシントンD.C.の設計に携わってのは、ピエール・ランファン(Pierre Charles L’Enfant)というフランス生まれの建築家です。連邦都市建設計画のコンペに当選し、基本計画案を作成した人として知られています。ランファンはジョセフ・ラファイエット(Joseph La Fayette)と共にアメリカ植民地にやってきた移民です。独立戦争ではヨークタウンの戦いなどに一緒に参加してイギリス軍と戦った技師で軍人です。1791年、ランファンはバロック様式を基に基本計画を作成します。開かれた空間と景観作りを最大限に重視し、環状交差路から放射状に広い街路が伸びるという設計となっています。

Washington National Cathedral

興味深いのは、バラエティに富んだ建築物がワシントンD.C.にあることです。アメリカ建築家協会が選ぶ2007年の「アメリカ建築傑作選」では、10位までにランクされた建物のうち6つがワシントンD.C.にあることです。ホワイトハウス、ワシントン大聖堂(Washington Cathedral)、トマス・ジェファーソン記念館(Thomas Jefferson Memorial)、連邦議会議事堂、リンカーン記念館(Lincoln Memorial)、ヴェナム戦争戦没者慰霊碑(Vietnam War Veterans Memorial)といった建築物です。どれも第一級の気品を備えています。

ワシントンD.C.には、ジョージ・ワシントン大学(George Washington University)、ジョージタウン大学(Georgetown University)、ハワード大学(Howard University)などもあります。ハワード大学は、全米屈指の名門歴史的黒人大学となっています。白人系やアジア系の学生も入学できる超難関の大学です。現合衆国副大統領のカマラ・ハリス(Kamala D. Harris)も卒業生です。

Rev. Martin Luther King, Jr.

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その70 『Equality State』とワイオミング州

アメリカで最も人口が少ないワイオミング州(Wyoming)は、手つかずの自然が非常に多く残っている州でもあります。ワイオミングとはアルゴンキン語族(Algonquian)インディアンの言葉で「大平原」を意味し、州の東側3分の1はハイプレーンズ(High Plain)と呼ばれ、広大なグレートプレーンズの西部にあたる標高の高い平原地帯が広がっています。

Yellowstone National Park

白人の到来以前、プレーリーに大群をつくって生息していたバイソン(bison)をねらい、18世紀の中頃からフランス人毛皮商人が、フォートララミー(Fort Laramie)と名付けた交易所が作られます。19世紀の中頃、白人の侵入に対するインディアンの怒り高まります。レッドグランド(Red Grand)に率いられたスー族(Sioux)とシャイアン族(Cheyenne)の戦士たちが1876年まで合衆国軍隊と戦うという歴史が残っています。1990年に作られた映画「ダンス・ウイズ・ウルブス」(Dances with Wolves)は、その事実を取り上げた作品です。

Dances with Wolves

ワイオミングには、アメリカでも特に有名な2つの国立公園、イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)とグランドティトン国立公園(Grand Teton National Park)があります。この2つの国立公園は、アウトドア愛好家や冒険家に大人気です。ワイオミング州では広大な美しい大地をクマ、バイソン、エルク(elk)、コヨーテ(coyote)などの野生動物が生息して大事に保護されています。グランドティトン国立公園は、1953年に制作された西部劇映画「シェーン」(Shane)のロケ地となったところです。流れ者シェーンと開拓者一家の交流や悪徳牧場主との戦いを描いた世紀の名作です。

イエローストーンには熱湯を噴出する間欠泉や、カラフルな熱水泉が点在しています。間欠泉ではオールドフェイスフル(Old Faithful Geyser)が世界的に有名です。「faithful」とは「忠実に」を意味し、一定間隔で忠実に噴出することを指します。熱水泉ではグランド・プリズマティック・スプリング(Grand Prismatic Spring)が特に人気があります。

Dances with Wolves

州のニックネームは平等の州『Equality State』と少々地味なフレーズです。それには次のような事実があります。すなわち1870年、ララミー(Laramie)という街では女性が初めて陪審員を務め、同年ララミーではメアリー・アトキンソン(Mary Atkinson)が女性初の廷吏となり、同年サウスパスシティ(South Pass City)ではエスター・モリス(Esther Morris)が女性初の治安判事になります。1925年に全米で最初の女性知事としてネリー・ロス(Nellie T. Ross)が就任します。これら女性に与えられた権利の故に、ワイオミング州は「平等の州」と呼ばれるようになりました。

一体、どうしてワイオミング州では女性が活躍するようになったかは不明です。通常、ワイオミングのような田舎の州は農業や酪農に従事する人々が多く、考え方は伝統的で保守的なのです。しかし、女性参政権を主張していたモリスを指導者に選ぶという大らかさが会った州民にあったからだろうと察します。「ワイオミングというアメリカ合衆国で最も若くまた最も裕福な準州の1つが、言葉だけでなく行動で女性に平等な権利を与えた」というのは、エスター・モリスの才能に依ったことも事実のようです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その69 『Easy Rider』が今に伝えるもの

ウィスコンシン州の紹介が、ハーレー・ダビッドソンに移り、映画『Easy Rider』へ行き着くという不可解な展開です。舞台は1965年前後のアメリカ社会です。この映画は、アウトローと呼ばれた若者の生き方を通じて、支配的だった白人至上主義、権威主義等によって現実に起きている問題の不可思議さ、残酷さを表現するというコンセプトで作られています。こうした問題提起を行ったアメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品群は広く大衆に支持され、現実社会の人権に対する意識の高まりに見事に寄与しています。それでは「Easy Rider」のあらすじです。

ワイアット(Wyatt)とビリー(Billy)は自由奔放な青年です。メキシコからロサンゼルスまでコカインを密輸した後、そのコカインを売って大金を手に入れます。ワイアットの乗るチョッパーバイクの星条旗柄(Stars & Stripes-painted)の燃料タンク内に隠されたプラスチックチューブに現金を詰め込みます。そしてルイジアナ州ニューオーリンズのマルディグラ祭り(Mardi Gras)に間に合うように東へ向かって走ります。チョッパーバイクとは、ヴェトナム戦争によって心が病んでしまった元兵士たちが平和に馴染めず、バイクを盗んで原型がわからないように弄り倒して生まれたスタイルのバイクといわれます。

Steppenwolf

旅の途中、ワイアットとビリーはアリゾナ州の農家でバイクのパンクを修理し、農夫とその家族と食事をするために立ち寄ります。その後、ワイアットはヒッピーのヒッチハイカーを拾い、荒野を走っていくと、大勢の旅人を受け入れているコミューンへとやって来ます。そのコミューンに誘われ、そのまま滞在することになります。リサ(Lisa)とサラ(Sarah) という2人の女性と知り合い、ヒッチハイクのコミューンのメンバーと自由恋愛(free love)を楽しみます。ヒッチハイカーはワイアットにLSDを渡し、「正直な人たち」と共有するように勧めるのです。

その後、ニューメキシコ(New Mexico) でパレードに同乗していた2人は、「無許可パレード」の罪で逮捕され、刑務所に入れられます。そこで2人は、酒に溺れて留置場で一夜を明かした弁護士ジョージ・ハンソン(George Hanson)と知り合います。ワイアットは、アメリカ市民自由連合( American Civil Liberties Union:ACLU)のために働いたことがあるという話をすると、ジョージは2人の出所を助け、ワイアット、ビリーとともにニューオーリンズへ向かうことにします。その夜、キャンプをしながら、ワイアットとビリーはジョージにマリファナ(marijuana)を紹介するのです。アルコール依存症だったジョージは、中毒になってもっと悪い薬物に手を出すことを恐れ試そうとしないのですが、手をだしてしまいます。

Tavan In Lousiana

ルイジアナ州の小さな町の食堂で3人は、アウトローかつ長髪であるためか、地元の人々にじろじろ見られます。店員の女の子たちは、そんな3人を面白がるのですが、地元の男たちや警察官は、彼らを誹謗中傷し嘲笑するのです。3人は騒ぎを起こさずに立ち去り、町の外でキャンプをします。夜中、地元の男たちは寝ている3人を襲い棍棒で殴ります。ビリーが叫び、ナイフを振り回すと、襲撃者たちは立ち去ります。ワイアットとビリーは軽傷を負いますがジョージは撲殺されます。

ニューオーリンズに向かった2人は、ジョージから聞いた娼家を見つけ、そこの娼婦のカレン(Karen)とメアリー(Mary) を連れて、マーディグラ(Mardi Gras)の祭典でパレードが行われる通りを歩き回ります。4人はフレンチ・クオーター(French Quarter)の墓地にたどり着き、そこでヒッチハイカーがワイアットに渡したLSDを吸うのです。

翌朝、田舎道で古いピックアップトラックに乗った地元の男2人に追い抜かれます。トラックの運転手らは、彼らを脅してやるとショットガンを手にします。ビリーとすれ違ったとき、助手席の男が発砲し、ビリーは転倒します。ワイアットがビリーの元へ戻ると、彼は道端に倒れて血まみれです。自分の革ジャンでビリーの傷口を覆い、ワイアットは、Uターンしてきたピックアップに向かって車を走らせます。今度は運転席側の窓からショットガンが再び発射されます。ワイアットのバイクは宙を舞い、バラバラになって炎に包まれます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その68 『Harley-Davidson』とEasy Rider

映画「イージー・ライダー」(Easy Rider) は、1960年代後半からアメリカで作られた反体制的な若者の心情を映したアメリカン・ニューシネマ(American New Cinema)というジャンルの作品です。大衆文化やカウンター・カルチャーの先駆けとなった名作ともいわれ、1965年のヴェトナムへの軍事介入によって、閉塞的な状態になったアメリカ社会に若者たちが抵抗していくのです。やがて反戦運動が全国的な広がりをもつようになり、映画や音楽界にも厭戦ムードが込められていきます。

1960年代のアメリカ社会ではアウトロー(Outlow)の乗り物というイメージの強かったのがハーレー・ダビッドソン(Harley-Davidson)です。それに反戦運動が展開するにつれ、徴兵忌避を生み、ヒッピー(Hippy)とかドラッグ(drug)が横行していきます。このようなアウトローの出現が国家権力への静かな抵抗となり、アメリカン・ニューシネマの大きなコンセプトになった考えられます。

冒頭で主人公らがバイクで疾走するシーンに使われ曲は、ステッペンウルフ(Steppenwolf)というロックバンドが演奏する「あるがままに生きよう」(Born to Be Wild)でした。当時、大衆文化およびカウンターカルチャーでバイク乗りの姿や態度を表現するときに、こうしたロック音楽は効果的であったようです。

Easy Rider

「Easy Rider」とは、「仕事をせずにのんびり生きている人」とか、「簡単に落とせそうな女」というアメリカで使われる隠語です。白人主義者たちから差別されても自由を謳歌しながら生きようとする作品です。こうした映画は「ロード・ムービー」(road movie)とよばれ、旅の途中で起こる様々な出来事が展開されるのです。

さて、燃料タンク、ヘルメット、革ジャンの背中に星条旗が貼り付けながら、麻薬の密売に成功し大金を稼いだ2人のバイク乗りが、真のアメリカを発見しようと出発します。「自由を求める旅」ですが、やがてどこにも見付けられないと嘆いていくのです。次回は、「イージー・ライダー」の中味を取り上げます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その67 『Harley-Davidson』と日本

ハーレー・ダビッドソンの海外での販売の歴史です。アメリカ以外で継続的に営業している最古のハーレー・ダビッドソンディーラーは、1918年にオーストラリアに設立されます。 日本での販売は1912年に始まり、1929年にはハーレー・ダビッドソンの名前で、同社の工具を使用してライセンス生産します。1935年にライセンスのみならず設備まで買い取ることで国産化の目処が立ち、その際に設立されたのが「三共内燃機株式会社」です。

Easy Rider


翌1936年には社名も三共内燃機から「陸王内燃機」に変更されました。そして「陸王」という新車名で日本でハーレー・ダビッドソンを生産します。陸王内燃機は1949年に業務を停止しますが、翌1950年に昭和飛行機が権利を買い取り「陸王モーターサイクル」として復活します。生産された車名は「陸王グローリー号」です。ロータリーチェンジ式や国産初のスイングアーム式など最新の性能を兼ね備えたモデルで当時は人気を呼びました。

Harley Davidson

やがてスーパーカブで王者に上り詰めていたホンダ、スポーツとデザインに秀でていたヤマハ、最初からコスト・パフォーマンスが優れていたスズキが台頭し、陸王も対抗することが出来ず1959年に生産がストップします。ちなみに陸王という名前の由来は一説では、1927年に作曲された慶應義塾大学の応援歌『若き血』から引用したといわれています。「陸の王者ケイオー」をご存じでしょうか。

1993年の創立90周年から、ハーレー・ダビッドソンは「ライドホーム」(Ride Home)と呼ばれるミルウォーキでの祝賀ライドを行っています。この新しい伝統は5年ごとに続き、ミルウォーキの他のフェスティバル、例えばサマーフェスト、ドイツフェスティバル、フェスタ・イタリアーナなどと同様に、非公式に「ハーレー・ホームカミング・フェスト」(Harley Homecoming Fest)と呼ばれるようになっています。110周年記念式典は、2013年8月29日から31日にかけて開催され、120周年記念は、2023年7月13日から16日まで、ミルウォーキで開かれます。

Road Glide

ハーレー・ダビッドソンミュージアム(Harley-Davidson Museum)はミルウォーキでも有数の観光名所となっています。2011年3月の東日本大震災で流されてブリティッシュコロンビアに漂着した”Night Train”と呼ばれたハーレーも展示されています。入場料は8ドルから20ドルくらいです。それにしてもハーレーのズズーンという鼓動には圧倒されます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その66 『Harley-Davidson』とウィスコンシン

ミルウォーキには、ハーレー・ダビッドソン(Harley-Davidson)の本社があります。いわずとしれたオートバイメーカーです。1903年に設立され、歴史的なライバルであるインディアンモーターサイクル(Indian Motor Cycle)と共に世界恐慌を生き延びたアメリカの2大オートバイメーカーの1つです。数々の所有形態、子会社の手配、経済的健全性や製品品質の低下した時期、激しいグローバル競争を乗り越え、世界最大のオートバイメーカーの1つになり、忠実なファンによって広く知られているアイコン的ブランドとなりました。こよなくモーターを愛するファンによって広く知られた象徴的なブランドとなっています。世界各地にオーナークラブやイベントがあります。会社主催のブランドに特化した博物館もあるほどです。

Harley Davidson

ハーレー・ダビッドソンは、チョッパーモーターサイクル(chopper motor cycle)というスタイルを生み出したカスタマイズのスタイルで知られています。チョッパーモーターとは、元々ついているハンドルなどのパーツを切って加工したり、取り除いたりしたバイクのことです。同社は伝統的に700cc以上の排気量を持つ重量級空冷クルーザーモーターサイクルを販売していましたが、より現代的なVRSC型、およびミドルウェイトのストリートプラットフォームを含む提供の幅を広げてきています。ハーレーダビッドソン社製オートバイ最大の特徴は、大排気量空冷OHV、V型ツインエンジンがもたらす独特の鼓動感と外観であり、これに魅せられた多くのファンがいいます。大きく横に張り出したケースも外見上の特徴です。

Harley Davidson Emblem

ハーレー・ダビッドソンはミルウォーキの他にペンシルベニア州ヨーク、ミズーリ州カンザスシティ、ブラジルのマナウス(Manaus)、そしてタイのラヨーン県(Rayong)でオートバイを製造しています。このように、世界中で製品を販売するとともに、ハーレー・ダビッドソンブランドによる商品、例えばアパレル、家庭装飾品、アクセサリー、おもちゃ、オートバイのスケールモデル、ビデオゲームなどのライセンス販売をしています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その65 『マッカーシズム』とウィスコンシン

ウィスコンシンは酪農が主たる産業です。その理由は気候と土壌にあります。五大湖の西部に位置するウィスコンシンは、厳しい冬と快適な夏が特徴です。ここは氷河が土壌の大半をえぐり、排水を妨げ多数の湖と広い湿地を形成してきました。冷涼で湿気の多い気候のため、土壌や痩せて作物の成育には適さないのです。南部だけが飼料作物と酪農に適し、北部はジャガイモやライ麦の生育に限られています。ですから理想的な酪農地域を形成しています。クローバーやアルファルファ(alfalfa)という牧草がとれます。これらの飼料作物の貯蔵用の大きなサイロと巨大な畜舎によって、家畜は長い冬を越すことができます。

このような酪農が盛んなことは、共和党員のジョセフ・マッカーシ(Joseph McCarthy)がなぜウィスコンシンから生まれたかを説明できそうです。ゲルマン系の人々やカトリック系の信者が定住し酪農を発展させてきました。こうした人々は伝統的な考え方を持ち、共和党支持の人々です。これがマッカーシズム(McCarthyism)の底流にあるというのが通説です。

Sen. Joseph McCarthy

マッカーシズムの勃興を促した短期的な理由も指摘されています。ニューディール(New Deal)以降、万年野党の地位に置かれた共和党の党派的な憤まんや、冷戦下の国際緊張の高まり、朝鮮戦争の勃発といった情勢です。ソ連の核開発、中国共産党政権の樹立、ヒス事件(Alger Hiss)やローゼンバーグ事件(Julius and Ethel Rosenberg)といったスパイ事件の相次ぐ摘発で、苛立つ国民の心理に強く訴えます。1952年にマッカーシが再選され、アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)政権が成立すると、マッカーシは、審査委員会の委員長に就任し、CIA、Voice of America(VOA)、陸軍にいたる政府機関まで赤狩りの手を広げていきます。反共目的とした政敵攻撃を進めたのがマッカーシズムという恐ろしい手法です。

Rosenbergs

伝統的に共和党には、反ラディカリズム(Anti-Radicalism)やアメリカ社会の内的一体性を前提として生まれる排外主義的傾向があります。このことは排外主義を煽る「America First」というトランプ現象に現れました。こうした背景がマッカーシズム勃興の根底にあった考える歴史家もいます。アメリカは、今も民主主義や人権の規範について独善的なダブルスタンダード(二重基準)の問題を抱えています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その64  『Badger』とマディソン

Badger(アナグマ) というニックネームは、ウィスコンシン州の豊かな鉛鉱山発掘の歴史に由来します。ホーチャンク(Ho-Chunk)をはじめとする先住民族は、数百年前からウィスコンシン州南西部で鉛を採掘していたのです。ウィスコンシン州の歴史での最も古い領土紛争のいくつかは、植民地化したアメリカ人とヨーロッパ人入植者がこの地域に移り住み始めたときに、この鉱物の豊富な領土をめぐって発生したといわれます。1850年頃にアメリカの鉛消費量の半分以上を採掘していたことから、鉛鉱山周辺では坑道に人が住んでいた時代もありました。それは、初期の鉱夫たちが、貧しかったか、忙しかったか、あるいはその両方であったために、鉛の採掘場に家を建てることができなかったからです。ウィスコンシンの厳しい冬を乗り切るために、彼らは鉱山の中で生活していたのです。地中に穴を掘って動物のように暮らす彼らのことを、人々はアナグマ(Badger) と呼んで嘲笑したようです。

Science Hall

マディソンは1960年代から1970年代にかけてカウンター・カルチャー(Counter Culture)の街としても知られました。カウンター・カルチャーとは、ある時代または社会の主流となっている文化に対し、それを否定する人々によって作り出された反主流の文化のことです。この文化運動は、マディソン市内のダウンタウンにあるミフリン通り(Mifflin St)とバセット通り(Basset St)の周辺に集中し、「ミフランド」(Miffland)と呼ばれていました。この地域には学生やカウンター・カルチャーの若者たちが住み、壁画を描き、共同食料品店などを運営していました。ベトナム反戦活動も盛んになり、ミフリン・ストリート・ブロック・パーティー(Mifflin Street Block Party)という反戦抗議集会が常態化します。しかし、共和党のビル・ダイク(Bill Dyke)市長は、ベトナム戦争に抗議する地元の抗議活動を弾圧したため、学生たちから敵対者とみなされました。1960年代後半から1970年代前半にかけて、何千人もの学生や市民が反ベトナム戦争の行進やデモに参加し、次のような暴力的な事件も起きて、マディソンとカリフォルニア大学バークレー(University of California -Berkley)キャンパスは全米の注目を浴びることになりました。
 ・1967年 ダウ・ケミカル社(Dow Chemical Company)に対する学生の抗議行動で74人が負傷
 ・1969年 アフリカ系アメリカ人の学生と教職員の代表権と権利を確保しようとするストライキで、ウィスコンシン州兵が出動
 ・1970年 ウィスコンシン大学エーモリー体育館(Armory Gymnasium)内にあった陸軍ROTC本部が被害を受けた火災発生
 ・1970年 同大スターリング・ホール(Sterling Hall)の陸軍数学研究センター(Army Mathematics Research Center)で起きた爆弾事件でポストドク研究員が殺害

Red Gym

ミフリン・ストリート・ブロック・パーティーの鎮圧のために3日間もかかったことがあり、何百人もの警官の残業代が必要となり、近くの学生寮を含む学生コミュニティを巻き込むことになります。こうした騒動で、当時市会議員だった学生運動家のポール・ソグリン(Paul Soglin)は2度逮捕されます。やがてソグリンはマディソン市長に選ばれ3期にわたり努めます。

ウィスコンシンは社会改良の革新的な政治でも知られています。それはニューディール政策の先駆となるウィスコンシン理念(Wisconsin Idea)の発祥地です。ウィスコンシン理念の提唱や実践について、上院議員であったロバート・ラフォレ(Robert LaFollette)とその一族が果たした役割は大きいものがありました。しかし、彼のあとに上院議員となったのはマッカーシズム(McCarthyism)で悪名高いジョセフ・マッカーシ(Joseph McCarthy)でした。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その63 『キッコーマン』とウィスコンシン州

ウィスコンシンの土壌と水は農業に最適な環境を作り出していますが、世界最高の乳製品を生産するためには素晴らしい土地や酪農家の献身、酪農の研究と開発などが基礎となっています。ウィスコンシンでつくられる多くの製品は、ウィスコンシン大学などでの研究成果を反映しています。

ウィスコンシン州はアメリカのチーズの約4分の1を生産し、チーズ生産量では全米一位です。牛乳生産量ではカリフォルニア州に次いで第二位、一人当たりの牛乳生産量ではカリフォルニア州とバーモント州に続いて第三位。バター生産では全米の約4分の1を生産し第二位です。トウモロコシ、クランベリー、朝鮮人参、スナップインゲン、加工用豆などの生産で全国一位となっています。ウィスコンシン州の農産物生産の重要性は、ウィスコンシン州の四半期デザインに描かれたホルスタイン牛、トウモロコシの穂、チーズの輪に象徴されています。 州は毎年「酪農の国のアリス」(Alice in Dairyland)を選出し、州の農産物を世界に宣伝しています。

Kikkoman

大豆の生産が盛んなのもウィスコンシン州です。1973年に同州のウォルワース(Walworth)にキッコーマンは初の海外工場を建設し、“Made in USA”の醤油が初出荷されます。工場建設にあたっては、地域社会との共存共栄をめざし、現地社員の登用も積極的に行いました。日本で培われた技術で、現地の力で醤油を作り、“世界に通用する味”としました。通用する味とは、経営の現地化を土台にして育まれた恒久的な定着を意味しています。1998年には、カリフォルニア州フォルサム(Folsom)にアメリカ第二工場もオープンし、醤油の出荷量も順調に成長を続けています。

Kikkoman in Hokkaido

キッコーマンは、ソイソースに代わるいわば代名詞として、アメリカでも定着しています。ただ、キッコーマンのアクセントは「キッコマン」と発音されています。ステーキのために無くてはならないのがソースです。醤油と肉の組み合わせをより容易にするために生まれたのが「テリヤキソース」というわけです。キッコーマンは、1961年にその生産を始めてから現在まで高い人気を維持しており、「TERIYAKI」は、いまではウェブスター(Webster)の辞書にも載っています。大豆のお陰で醤油や豆腐、その他の日本食品が、アメリカ料理の主流に加わりつつあるといっても過言ではありません。

「TERIYAKI」は英語で「glaze-broiled」で「艶を出しの焼き方」という意味です。照り焼きソースはいろいろな種類があるようですが、最近は減塩もの、韓国風のもの、味噌でつくったものなどに人気があるようです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その62 『ビール』とウィスコンシン州

ウィスコンシン州は、シカゴの西、五大湖の左にある州です。最大の街はミルウォーキ(Milwaukee)ときけば、ウィスコンシンという州が少しはイメージが湧くかもしれません。1960年代にビールのコマーシャルで「ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキ」というキャッチコピーがありました。ミルウォーキは、世界三大ビール生産地としてミュンヘン、札幌と肩を並べています。

Silo in Wisconsin

2018年現在、ウィスコンシン州の総人口は約579万人です。第二次世界大戦が終わった1945年以降、常に人口が増え続けています。州名のウィスコンシンはインディアン部族オジブワ族(Ojibwa)の言葉で「赤い石の地」を意味する「Miskwasiniing」がフランス語風になまった言葉が元になっているとされています。州都のマディソン(Madison)は5つの湖の間にある美しい街としてアメリカ国内では有名であり、極めて優れた都市計画のもとに作られています。カリフォルニア大学(University of California)の本校のあるバークリー(Berkley)と比較してリトル・バークリー(Little Berkley)とも呼ばれる大学町です。ウィスコンシン大学マディソン校は生物化学などが有名であり、大学院ランキングブックで社会学部門1位など州立大学としては国内トップクラスとなっています。

Leinenkugel beer

ウィスコンシン州の最大の産業は酪農業です。広大な土地と州内を巡る綺麗な水は酪農に適しており、牛乳やチーズは全米でトップの生産量を誇ります。開拓時代にスイスから移り住んだ人たちによって酪農が始まり、とくにチーズは本場スイス顔負けの品質と言われています。この酪農に対する思い入れは非常に強く、NFLの強豪チームであるグリーンベイ・パッカーズ(Green Bay Packers)のファンはチーズの形をした帽子(cheese head)を被って応援するほどです。州の愛称は「America’s Dairyland」。アメリカの酪農地帯と呼ばれています。

ウィスコンシン州では酪農以外にも水に関連する産業が充実しています。豊富な水資源はミシガン湖(Lake Michigan)、スウペリオル湖(Lake Superior)、ミシシッピ川(Mississippi River)、ウィスコンシン川(Wisconsin River)などを通じて州内を巡っています。同州はこの水資源を生かしたビールの生産が盛んなことは前述しました。小麦の生産が盛んなこと、涼しい気候がビールの醸造に好適なためです。他にもウィスコンシン州は小麦と水に恵まれていると同時に、ドイツ系の移民が開拓したことが関係しています。1800年代にドイツ系移民によって伝統的なビール作りが始まり、同州には次々にビール工場が作られました。同州にミラー(Miller)やシュリッツ(Schlitz)などのドイツ系の名前のメーカーが拠点を構えていました。ミラーはクアーズ(Coors)と合併してから本社がなくなりました。

Milwaukee Tool

ミルウォーキには「Milwaukee Tool」という世界シェアNo. 2の建設工具メーカーがあります。プロユーザー向けの高耐久性の電動工具、アクセサリー、手工具を製造する業界屈指の企業となっています。ドイツ系住民がもたらした機械の職人技が現れています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その62 『The Badger State』とウィスコンシン州

合衆国を巡り巡ってようやくウィスコンシン(Wisconsin)にやってきました。7回にわたりこの州を紹介いたします。多くの読者の方々には、「一体ウィスコンシンってどこにあるの?」と問われるでしょう。私はこの質問を何度もきいてきました。確かにウィスコンシン州の知名度はいまいちの感があります。ニューヨークやカリフォルニアは思い浮かべることができても、ウィスコンシンの位置を言い当てるのは難しいようです。スイスやオランダなどからの移民やニューヨーク州からの移住者が酪農の技術を身につけてやってきた州です、といってもぴんとこないかもしれません。

Map of Wisconsin

ウィスコンシンとは、インディアン語で〈川の集まる所〉という意味だそうです。五大湖とミシシッピ川(Mississippi River)に挟まれたウィスコンシン州には、さまざまな地形があります。州内は5つの地域に分かれています。北はスペリオル湖に沿って広がるスペリオル湖(Lake Superior)低地。南側のノーザンハイランド(Northern Highland)には、150万エーカー(6,100km2)のチェカメゴン・ニコレット国有林(Chequamegon-Nicolet National Forest)を含む広葉樹と針葉樹の混合林、何千もの氷河湖、州の最高地点であるティムズ・ヒル(Timms Hill)があります。湖は洪積世の大陸氷河によるものです。州中央部の中央平原には、豊かな農地に加え、ウィスコンシン川のデルズ(Dells)のようなユニークな砂岩の地層があります。南東部の東部稜線と低地地域には、ウィスコンシン州の大都市が多くあります。

Corn field and Silo

南西部のウェスタン・アップランド(Western Upland)は、森林と農地が混在する起伏に富んだ地形で、ミシシッピ川に面した断崖絶壁も多く見られます。この地域は、アイオワ、イリノイ、ミネソタの一部も含むドリフトレス・エリア(Driftless Area)の一部です。この地域は、最も新しい氷河期であるウィスコンシン氷河期に氷河に覆われることはなかった処です。全体として、ウィスコンシン州の国土の46%は森林に覆われています。氷河の影響は州全体に残っています。その最も顕著なのは、氷河で削り取られた跡です。氷河が谷を削りながら時間をかけて流れる時、削り取られた岩石・岩屑や土砂などが土手のように堆積します。これはモレーン(moraine)と呼ばれます。でずから稲作などには適さなく、牧草などを植えて酪農が盛んとなったのです。

One Day in Wisconsin

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その61 『Mountain State』とウェスト・ヴァジニア州

ジョン・デンバー(John Denver)やオリビア・ニュートンジョン(Olivia Newtonjohn)が歌う「カントリーロード」(Country Road)は、ウェスト・ヴァジニア州(West Virginia)を車で通ったときの風景を歌ったものといわれます。1971年に発売され音楽週刊誌のビルボード(Billboard)で全米2位を記録した大ヒット曲です。歌詞(Lyrics)の最初にでてくる”Almost Heaven, West Virginia”はウェスト・ヴァジニア州自慢の人たちが使う言葉のようで、「まるで天国のようなところ」といった按配です。この曲は2014年に州議会により州歌として認定されています。

ウェスト・ヴァジニア州はアパラチア山脈(Appalachian Mountains)に位置し、国内で最も森に包まれる地形が広がっています。州内全域に広がる起伏の多い山々と丘や渓谷に囲まれていることから、山の州(Mountain State)という愛称がついています。「カントリーロード」の歌詞にある「ブルーリッジ山脈(Blue Ridge Mountains)」はアパラチア山脈に含まれ、州の東部からはその姿を眺めることができます。シェナンドー川(Shenandoah River)も一部流れています。

Country Road by John Denver

アパラチア山脈の全域に硝酸カリウムの採れる洞窟があり、弾薬用に開発されます。ヴァジニア州との州境には「硝石トレイル」があり、硝酸カルシウムを豊富に埋蔵する石灰岩は政府に買い上げられました。石灰岩は有益な採石産業も生んでいきます。この石灰は農業と建設用に使われます。そして19世紀後半、瀝青炭という貴重な資源が見つかります。これが国内の産業革命を加速させ、世界中の海軍の蒸気船に使われていきます。現在も多くの他州で発電するためにウェスト・ヴァジニア州の石炭が使われています。このようにウェスト・ヴァジニア州の主要産業は石炭産業です。国内ではワイオミング州に次ぐ第2位の石炭生産州で、国内全生産量の15パーセントを占めています。「カントリーロード」の歌詞にも「Miner’s lady(炭鉱夫の淑女)」という言葉がでてきます。

州都で最大都市はチャールストン(Charleston)となっています。州第4の都市、モーガンタウン(Morgantown)という治安のよい小都市に、州立総合大学であるウェスト・ヴァジニア大学があります。モーガンタウンはベスト・カレッジタウン(best college town)にランクインしており、生活費や犯罪率が低いエリアとして知られています。

Morgantown, WV

カントリーロードの歌詞の一部です。
Almost heaven, West Virginia
Blue Ridge Mountains, Shenandoah River
Life is old there, older than the trees
Younger than the mountain
Growing like a breeze

Country roads, take me home
To the place I belong
West Virginia, mountain mamma
Take me home, country roads

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その60 『ヒマラヤ杉に降る雪』と ワシントン州(その2)

カブオ・ミヤモトに対する殺人容疑の裁判には、町の検死官ホレス・ウォーリー (Horace Whaley)や、カールにイチゴ畑を売っている老人オーレ・ジャーゲンセン(Ole Jurgensen)も加わります。裁判では、このイチゴ畑が争点となります。この土地はもともとハイン・シニア(Carl Heine Sr.)が所有していたもので、ミヤモト夫妻はハイン家の土地にある家に住み、ハイン・シニアのためにイチゴを摘んでいました。カブオとカールは子どもの頃、仲良しでした。カブオの父親は、やがてハイン・シニアに2.8ヘクタールの農地の購入を持ちかけます。妻のエッタは反対しますが、カールは賛成し支払いは10年払いとなります。

Snow Falling on Cedars

しかし、最後の支払いが終わる前に、真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発し、日本人の血を引く島民はすべて強制収容所に移されることになります。ハツエとその家族であるイマダ夫妻は、カリフォルニア州のマンザナー収容所(Manzanar camp)に収容されることになります。母から反対でハツエはイシュマエルと別れ、マンザナーにいたカブオと結婚するのです。

1944年、ハイン・シニアが心臓発作で亡くなり、エッタ・ハインがジャーゲンセンに土地を売却します。戦争が終わって帰ってきたカブオは、土地の売買を反故にしたエッタを激しく憎みます。ジャーゲンセンが脳卒中で倒れ、農場を売却することになったとき、カブオが到着する数時間前に、カールが土地を買い戻そうと声をかけてくるのです。裁判では、家族間での土地争いの確執がカブオのカール殺人の動機であると主張されるのです。

殺人容疑の裁判

編集者のイシュメルはポイント・ホワイト灯台(Point White lighthouse)にあった海事記録を調べます。そこでカールが死んだ夜、カールが釣りをしていた海域を貨物船SSウエスト・コロナ号(SS West Corona)が、彼の時計が止まるわずか5分前の午前1時42分に通過していたことが判明します。イシュメルは、カールが貨物船の航跡の勢いで海に投げ出された可能性が高いことを知るのです。彼は、ハツエに振られた恋人としての苦い思いを抱えながらも、次ぎのような情報を得るのです。

それは、カールが船漁灯を切るために船のマストに登ったとき、貨物船の波によってマストから叩き落とされて頭を打ち、海に落ちたという結論を裏付ける証拠です。審議の結果、カブオの殺人容疑は晴れるのです。ハツエはカブオと結婚して以来避けていたイシュマエルに感謝し、イシュマエルはハツエへの愛にピリオドをうちます。そして彼の抱いていた不可知論という哲学は、やがて無神論へと変わっていくのです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その59 『ヒマラヤ杉に降る雪』と ワシントン州(その1)

ワシントン州のとある島を舞台とした『ヒマラヤ杉に降る雪』(Snow Falling on Cedars)という作品を2回にわたって紹介します。ワシントン州は、戦前多くの日本人が移住したところです。この小説は、1995年に第15回 ペン/フォークナー賞(PEN/Faulkner Awards)を受賞したデイヴィッド・グターソン(David Guterson)のベストセラー作品です。日系アメリカ人への厳しい偏見と差別が主題となっています。ワシントン州内のベインブリッジ(Bainbridge Island)という島には、ここに住んでいた日系人276名が強制収容へ送られたこと記憶し、人種差別が今後「二度と起こらないように」と祈念した屋外展示があります。

Snow Falling on Cedars

この小説の荒筋です。1954年、ワシントン州のピュージェット湾(Puget Sound)の北、ファン・デ・フーカ海峡(Strait of Juan de Fuca)に浮かぶサンピエドロ島(San Piedro Island)に住んでいた日系アメリカ人のカブオ・ミヤモトが、島で親しまれていた漁師カール・ハイン(Carl Heine) を殺害したという容疑で第一級殺人罪に問われます。1954年9月16日、カールの死体は網にかかったまま海から引き上げられ、水没した彼の腕時計は1時47分で止まっていました。大戦後の根強い反日感情の中で裁判が行われます。

裁判を取材するのは、唯一の地元紙「サンピエドロ・レビュー」(San Piedro Review)の編集者イシュマエル・チェンバース(Ishmael Chambers)です。彼は元米海兵隊員で、太平洋のタラワの戦い(Battle of Tarawa)で日本軍と戦って片腕を失い、仲間の死に直面していました。彼は日本人への憎しみを抱き、カブオの妻ハツエへとの愛と、カブオが本当に無実なのかどうかという良心とで葛藤するのです。イシュメルがハツエと恋に落ちたのは、高校が一緒の時です。二人は密かに交際し、互いに情を通じ合っていました。

Carl and Hatsue

検察側には、町の保安官アート・モラン(Art Moran)と検事アルヴィン・フックス(Alvin Hooks)、弁護側は老練なネルス・グドモンドソン(Nels Gudmondsson)です。カールの母エッタ・ハイン(Etta Heine)を含む数人の証人は、カブオが人種的な理由でカールを殺害したと証言します。カブオはかつて日系人部隊第442連隊戦闘団で戦いますが、日本海軍による真珠湾攻撃後、祖先の血筋を理由に偏見を受けてきました。ヨーロッパ戦線で若いドイツ人を殺害したことへの因果応報を感じながら裁判に臨みます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その58 『Evergreen State』とワシントン州

ワシントン州(Washington)の気候は変化に富んでいます。オリンピック半島(Olympic Peninsula)の深い森林は世界の中でも雨が多い場所であり、北米大陸で唯一の温帯雨林に囲まれています。州内には常緑樹の森があり、年間を通じて豊富な雨が低木や草の緑を保っているので『Evergreen State』という州の愛称はぴたりといえましょう。 他方、カスケード山脈(Casucade Mountains)以東の半砂漠地域では樹木は稀です。

ワシントン州の州都オリンピア(Olympia) という人口は5万人弱の街で、最大都市シアトル(Seattle)の南西約100キロにあます。かつて住んでいた兵庫県の加東市はオリンピアと姉妹提携するという不釣り合いな関係を持っています。念のため、ワシントン州とワシントンD.C.(Disctrict of Columbia)は互いにアメリカ大陸の反対側に位置しています。

Leavenworth, WA

人口構成白人は約64%、ヒスパニック約14%、アフリカ系アメリカ人は全米でも少なく、アジア人が多い州である。日本人はアジア人全体の0.5%といわれますが、シアトルには全米一の日系企業があり、カリフォルニア、ハワイ、ニューヨークに続き4番目に日本人の数が多い州で、駐在員や家族が多く住んでいます。

ワシントン州の一番高い山、レーニア山(Mount Rainier)はシアトル南東部に垂直にそびえ、他州の最高点のいずれよりも多量の氷河に覆われています。1980年5月18日、セントヘレンズ山(Mount St.Helens)の北東斜面が爆発し、この火山の頂部が大きく壊れた。この噴火で森を平らにし、57人の人命を奪い、コロンビア川とその支流を灰と泥で溢れさせ、ワシントン州やその他周辺の州を灰で覆いのは記憶に新しいところです。

Mt. Rainier


ワシントン州内の重要なビジネスには、ジェット航空機の設計および製造会社のボーイング(Bowing)、マイクロソフト(Microsoft)、アマゾン(Amazon)、任天堂米国法人,スターバックス(Starbucks)、コストコ(Costco)、大型百貨店のノードストローム(Nordstrom)などが本社を置いています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その57 『Mother of Presidents』とヴァジニア州

ヴァジニア州(Virginia)はチェサピーク湾(Chesapeake Bay)と大西洋に面し、山麓はピードモンド台地(Piedmont Plateau)が広がります。歴史上特に重要な州です。1607年にイギリスが最初に建設したのがジェームズタウン(Jamestown)、ウイリアムスバーグ(Williamsburg)、ヨークタウン(Yorktown)など開拓初期から独立革命にかけての史跡が極めて多いのが特徴です。

Colonial Williamsburg

北東部は首都ワシントンDCに隣接し、ジョージ・ワシントン(George Washington)ゆかりの史跡、マウントヴァーノン(Mount Vernon)があります。モンティチェロ(Monticello)は、ヴァジニア州シャーロッツビル(Charlottesville)にあり、独立宣言の起草委員および合衆国第3代大統領を務めた、トーマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)の邸宅と歴史的なプランテーションがあったところです。

Village in Virginia

初代大統領はじめ8名の大統領を輩出したので、この州の愛称は「Mother of Presidents」と呼ばれるほどです。州都はリッチモンド(Richmond)です。それまでヴァジニアの主都であったウイリアムスバーグに代わって1779年にヴァジニアの州都となります。リッチモンドは、南北戦争当時は南部連合の首都となりますが、激戦のために市街の大部分は破壊されます。リッチモンドは、化学、食品加工などが盛んで、煙草の集散地でもありフィリップ・モリス(Philip Morris)の工場があります。

Map of Virginia

ヴァジニアは自然にも恵まれた州です。アパラチア山脈(Appalachian Mountains)のシェナンドー国立公園(Shenandoah National Park)は、アメリカメガロポリス(American Megalopolis)からの利用者で賑わう公園です。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その56 『Green Mountain State』とヴァマント州

北はカナダ国境に接するのがヴァマント州(Vermont)です。かつで私は家族と車で州都モントピリア(Montpelier)を訪れたことを思い出します。カナダのモントリオール(Montreal)からの帰りのことです。独立革命のとき、1775年にニューヨーク州ハドソン川峡谷にあったイギリスのタイコンデロガ砦(Fort Ticonderoga)を攻略したのがイーサン・アレン(Ethan Allen)率いる植民地軍「グリーン・マウンテン・ボーイズ」(Green Mountain Boys)です。その活躍が名高く記録されています。その軍名が州の愛称となっています。

Vermont walk

誠に小さな州都で人口は約8千人と、全米の州都の人口の中で最も少ないところです。しかし、歴史的な建築物が並び、絵本に出てくるような街並みが保たれているのが特徴です。小さな街には風情があります。最大の都市はバーリントン(Burlington)ですが、それでも人口は5万に満たないところです。

Berlington

ヴァマント州の名前は,「緑の山地」を意味するフランス語 les Verts Monts から派生したといわれます。州内にグリーン山地があり、州の多くは山岳と森林で占められているので「Green Mountain State」とも呼ばれる所以です。メープルシロップ(Maple syrup)の生産が盛んで、アメリカの35%のシェアを誇り全米一となっています。モース・ファーム(Morse Family Farm)では無料のメープルシロップの試食ができる他、農場と博物館も併設されています。秋に州全体で素晴らしい楓–メープルの紅葉が見られるところとしても有名です。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その55  クレオールと小泉八雲とケージャン

あらゆる文化の基礎となるのが言語です。クレオール語(creole language)とは、意思疎通ができない異なる言語圏の人々が、自然に作り上げられた言語(ピジン言語–pidgin)が、次の世代で母語として話されるようになった言語のことといわれます。英語でいえば、ユー・イェスタデイ・ノー・カム(You yesterday no come )といった按配の会話です。文法構造などが簡略化されて、単語をつなぐだけでも会話が成立します。ピジン語が、日常生活のあらゆる側面を使われると、やがてそれが人々の中で母国語化するのです。

前稿では、フランスの植民地であるカリブ海に浮かぶマルティニク島でのクレオール化に触れました。クレオールの人々は次第に少数派となりますが、排他的な努力をして彼らの文化的優越性を守ろうと努力してきました。今では社会的な勢力を失いましたが、風俗、食物、建設にその文化は生き残っています。宗主国フランスによる支配と同化に対抗するために、クレオールとしてのアイデンティティの確立を叫んだのは、前述のグリッサンの他にラファエル・コンフィアン(Raphael Confiant) といった作家です。コンフィアンは、クレオール文学を通して文化的な同化に対して次のような警鐘を鳴らしています。
「我々は西洋の価値のフィルターを通して世界を見てきた。」
「自身の世界、自身の日々の営み、固有の価値を「他者」のまなざしで見なければならないとは恐ろしいことである。」

小泉八雲記念館

クレオールと小泉八雲(Lafcadio Hearn)との関係についてです。彼は、日本に来る前にアイルランドからフランス、アメリカ合衆国で働き、やがて西インド諸島の仏領マルティニク島に住み着いたことがあります。マルティニクでは、クレオールの人々と交流し民話を調べ、文化の多様性に魅了されつつ、旺盛な取材、執筆活動を続けます。それが〈クレオール物語〉〈仏領西インド諸島の二年間〉といった著作です。彼は西洋文明の社会に疑問を抱き、「非西欧」への憧れが彼の中で育っていたことがわかる著作といわれています。八雲はいかなる土地にあっても人間は根底において同一であることを疑わなかったようです。それがクレオールの文化に傾倒した理由といえましょう。

Lafcadio Hearn

アメリカ少数文化集団の一つにケージャン(Cajun)があります。ルイジアナ南西部に住むフランス系の住民です。ケージャンの呼称は、アカディア人(Acardia)を意味するフランス語の〈Acadien〉がなまってカジャンとなったものを英語式にしたことから由来します。1604年、最初にカナダ南東部アカディア地方に入植したフランス人が、18世紀に英仏間の植民地戦争のフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)のあおりで、各地を転々とし、ルイジアナの低地帯に住み着きます。そして同地域がアメリカに併合の後も周囲から孤立して独自の文化を保ってきました。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その54 ルイジアナとクレオール

クレオール(creole)とは、スペイン語でクリオーリョ(creollo)と呼ばれ、その原義は〈良く育てられた〉といわれます。16世紀にはアメリカ新大陸生まれの純粋のスペイン人を指す言葉として用いられました。その後、拡大解釈され、ヨーロッパ以外のさまざまな植民地で生まれたヨーロッパ人、とくにスペイン人の子孫に用いられました。アフリカから連れてこられた黒人と区別するために、新大陸生まれの黒人がクリオーリョと呼ばれることもあったようです。

クレオールは、アメリカ合衆国では、ルイジアナ地方に植民したフランス人やスペイン人、及びその血を純粋に受け継ぐ者を指します。ニューオーリンズを建設した奴隷労働力の上に優美なフランス的文化を育てた人々がクレオールと呼称されています。クレオールという言葉はしばしば誤用されてきたようです。フランス系やスペイン系と黒人との混血を意味するようになります。

Creole

アメリカ南部のルイジアナ州はもとはフランスの植民地でした。そこに黒人奴隷がサトウキビ農園で働き、白人地主と黒人奴隷との間の、あるいは黒人奴隷の間のコミュニケーションのための言葉が生まれました。それがクレオール語と呼ばれるようになりました。アフリカのさまざまな地域から連れてこられた黒人奴隷は、多くの異なった言語集団に属していたため、彼ら自身の共通の言語を持たなかったのです。そして子ども達はクレオール語を習得していきます。しかし、クレオール語は奴隷の言葉として差別の対象ともなります。クレオール語とは特定のものがあるわけではなく、全世界の旧植民地に広く存在するといわれます。

Creoles

植民地においては、そこで生まれのあらゆるもの、たとえば人、物、習慣、文化などすべてがクレオールと呼ばれるようになっていきます。やがて奴隷解放の機運や運動が起こります。それを促したのはフランス人権思想の影響といわれます。こうしてフランス植民地による奴隷制は、フランス自身の思想によって衰退することになります。そのためアフリカからの労働力を期待できなくなります。やがてアジアの植民地であったインド、中国、レバノンなどから貧しい人々が安い労働力として連れてこられます。こうしていっそう、さまざまな文化要素の混交が起こります。これをクレオール化(Creolization)と呼ばれます。クレオール化を提唱したのは、フランスの植民地の1つ、カリブ海に浮かぶ西インド諸島に位置するマルティニク島(Martinique)生まれの詩人・作家・思想家のエドアール・グリッサン(Edouard Glissant)で、彼のコンセプトは言語、文化などの様々な人間社会的な要素の混交現象を指します。

State Park, Louisiana

フランス領マルティニクの首都はフォール・ド・フランス(Fort-de-France)です。この島にもフランス本国と同様に人権の理念が及んでいきます。知識人の間だけでなく、一般市民レベルでもクレオール語は差別の対象となり、フランス語崇拝が広まっていきます。しかし、フランスへの文化的同化現象は起こりませんでした。1950年代から1960年代にフランス植民地の独立が進んだ時にも、マルティニクは同化されるべき植民地の扱いから脱することが出来ず、現在も植民地のままです。自治権が与えられていきますが、独立の問題を先送りにされています。今でも小・中学校ではクレオール語による教育は排除されています。マルティニク島は、アジアやアフリカの植民地に比べ、人口の大部分が他からの移住から成り立っているため、民族主義的地盤が弱いといわれています。フランスへの人口流失が続き、現地の産業は弱小で、フランスへの経済的な依存が続いています。