アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その55 ダニエル・シェイズの反乱

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比較的保守的であった憲法は、民主化が進む政治の潮流を食い止めることはほとんどできませんでした。それまでのエリート層は新しい政治勢力と闘わなければなりませんでしたが、その過程で、新体制でいかに組織化していくかの方策を学んでいきます。ところが行政権力は弱体化していき、多くの選挙が毎年行われ、その任期は限られました。立法府は、新たに入植し政治経験の少ない新しい議員をすぐに容認していきました。

 さらに、新しい州政府はすべての階層に影響を与える大きな問題に取り組まなければなりませんでした。財政上の必要から紙幣が発行されました。戦後、いくつかの州で紙幣の発行が再開されますが、紙幣はインフレを招く 傾向があり、激しい論争になることが多かったのです。イギリスに忠誠であった人々にどう対応するかについても、戦後の激しい政治論争のテーマとなりました。アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)のような、財産と権利の回復を求める人々の抗議にもかかわらず、多くの州でこうした忠誠者は追い出され、彼らの財産は差し押さえられ、競売という形で再分配され、投機の機会を提供することになりました

 多くの州は経済的な不況に見舞われていきます。正統派の支配下にあったマサチューセッツ州では、戦後の不況下で厳しい課税が行われ、多くの農民が借金を負わされました。1786年末、借金を返せなくなった農民たちは、独立戦争の将校ダニエル・シェイズ少佐(Capt. Daniel Shays)のもとに、裁判を阻止するために蜂起します。シェイズの反乱は、1787年初頭、州内で挙兵した軍隊によって鎮圧されます。しかし、この反乱は国内の富裕層に恐怖を与えます。さらに、共和制という仕組みは不安定であるという古典的な通説を正当化するような出来事でもありました。この出来事は、アナポリスでの予備会議を経て、フィラデルフィアで開催される連合規約の改正会議に代表を送るようにという強い刺激を各州議会に与えることになります。

 シェイズの反乱とは、1786年と1787年に州と地方税収の執行に異議を唱えたアメリカの農民のグループによる一連の激しい抗議行動です。マサチューセッツの革命の闘士、ダニエル・シェイズの名前に由来します。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その54 参政権と代表権

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新しい政府を形成することの難しさは連邦だけでなく、個々の州にも影響を及ぼすものでした。各州は、慣習または既存の議会のいずれかで策定された独自の憲法を確立しました。これらの憲法の中で最も民主的なのは、ペンシルベニア州の仮想革命の産物であり、高度に組織化された急進的な派党が革命危機の機会をとらえて権力を持っていきました。参政権は納税者に与えられ、ほぼすべての成人男性が納税していました。西部の郡の人口を取り込むために代表権が提案されました。そして一院制の立法府が設立されました。憲法への忠誠の誓いは、しばらくの間は政敵や宣誓をしなかったクエーカー教徒を除外しました。他の州の憲法は、伝統的な支配エリートの確固たる政治的優位性を反映していました。

 権力や幅広い参政権と代表権は、財産資格によって制限され、一部の階層の人々のものとなりました。州知事は、場合によっては大富豪である必要がありました。上院議員は裕福であるか、有権者も裕福であるかによって選出されました。しかし、このような条件は不変ではなく、有力な土地持ちのエリートを抱えていたヴァジニア州では、このような制限を設けることはありませんでした。いくつかの州は職務のための宗教的資格を要求しました。政教分離は一般的な概念ではなく、バプテストやクエーカー教徒などの少数派は、マサチューセッツ州とコネチカット州で批判に晒されることになりました。

 エリート層の影響は、この時代の最も重要な変革の一つであり、ほとんど意識されたり意図されることなく、その影響が及ぶことになりました。それは、立法機関において人口に比例した代表権を与えるという原則が受け入れられたことにありました。人口の多い地域と財産の多い地域が一致していれば、人口比例代表制は可能であり、魅力的でもありました。人口が多い地域の大商人や地主は、政治的プロセスにおいて何らかの支配力を保持しながら、政治的優位性を発揮し続けることができました。この原則は、新しい連邦憲法の下で、下院と選挙人である有権者の配分を決めることとなりました。

 連邦規約が不十分であることは、各州が批准する以前から人々に知られていました。大陸会議は徴税権を持たず、各州の自発的な拠出金に依存していたこと、各州の通商や貿易に関してなんらの権限も持たなかったことが致命的といわれました。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その53 連邦規約と国家主権

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議会は連邦規約を強制する力を持たず、戦時中の債権者への返済がひどく遅れていました。1782年にはメリーランド州、1785年にはペンシルベニア州が、大陸議会が自国民に対して負っている債務を返済する法律を可決したとき、各州の議会の存在理由の一つが崩れ始めていました。輸入品に賦課金を課すことによって歳入を増加させるために、各州が必要な権限を議会に与えるための2つの提案がなされます。いずれも全会一致の同意が得られず、議会の提案は失敗に終わります。

  輸入税は港で徴収され、港は各州に属するので国の権限が及ばないのです。輸入税を国が取得することができないのは、州主権の概念を超えているという理由からです。この徴税方法は、連邦議会の弱点であり、そして連邦規約の下での州間の結びつきの弱点を鋭く指摘するものでした。

 連邦規約は、国家主権についての強い方針を反映しています。第2条は、個々の州に主権を明示的に留保し、別の規約は、ある州が他の州なしで戦争に入る可能性さえ想定していました。規約は新しい国民国家の創設ではなく、主権者間の条約を表していたため、根本的な改訂は全会一致でのみ行うことができました。その他の主要な改訂には、9つの州の同意が必要でした。しかし、国家主権の原則は人工的な基盤に基づいていました。州が単独で独立を達成することはできなかったのですが、議会は、州が独自の政府を形成することを推奨することと、集団的独立を宣言することの両方において最初の一歩を踏み出しました。

 国内で最も重要なことは、1787年までに議会は新しい領土を組み込むための手順を確立することで、そのためにいくつかの条例を制定したことです。 条例の批准を遅らせたのは西部の土地請求をめぐる紛争でした。最終的には、西部の請求権を持つ州、主にニューヨークとヴァジニアがそれらを連邦政府に譲渡します。1787年の北西部条例(Northwest Ordinance) はオハイオバレー(Ohio Valley)の領土の国有化、段階的和解とによる国と新しい州との最終的な承認につながります。また、奴隷制の導入​​も廃止しましたが、既存の奴隷制の存在は除外しませんでした。

 各州は常に戦争の困難さに直面するときは、議会に指導性を求めていました。しかし、戦争の危険が過ぎ去ると、不協和によって分離に繋がる危険がありました。議会は、新旧両方の利益を代表し影響力のある議員からの信用を失いました。州はお互いに独自の関税障壁を設定し、彼らの間で争っていました。同一の領地の帰属を巡りペンシルベニアとコネチカットで、競合する入植者の間で仮想の戦争が勃発しました。1786年までに、情報に通じた者が集まり、連邦が3つ以上の新しいグループに分裂する可能性について話し合っていました。こうした動きは、アメリカ連邦内部での戦争につながる可能性がありました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その52 第二回大陸会議と課題

 1775年5月に第2回大陸会議がフィラデルフィアに召集されたとき、革命の成功は見通せませんでした。そのため議会は不測の事態に備えなければならず、2つの並行した問題に直面することになります。第一は、戦争遂行のためにどのように組織化するかであり、第二は、緊急性は低いものの、先送りすることができない議会と州の法的関係をどのように定義するかでした。

 1775年6月、議会は軍服姿で登場したワシントンを最高司令官に任命するとともに、軍隊の召集を決定しました。そして、議会は厄介な財政問題に取り組みます。課税を嫌うのはアメリカ人の共通した感情であり、議会はまず国内融資を調達しようとしました。しかし、この作戦が成功しなかったのは、その成果が極めて疑わしいという理由があったからでした。同時に、会議では通貨を発行する権限も与えられました。これは国内戦費調達の最も重要な方法となり、戦争が進むにつれて、議会は大陸通貨をどんどん発行することになります。

 イギリス発行の通貨は急速に価値が下がり、州政府の発行する通貨と競争しなければならなくなりました。大陸陸軍(Continental Army)は、委託代理人との商品引き換えに渡す証書を発行していました。これがさらなる通貨の供給源となりました。フランスやオランダをはじめとする海外からの借款も重要な収入源となりました。

 1780年、アメリカ議会は、それまでの通貨をすべて停止し、40対1の比率で新たに通貨を発行することにしました。フィラデルフィアの商人ロバート・モリス(Robert Morris)は、1781年に財務長官に任命され、「フィナンシェ(Financier)–金庫番」と呼ばれるようになり、アメリカの複雑な財政難を解決に導いていきます。モリスの個人的な財政は国の財政と表裏一体なので、反対視されることも多かったのですが、モリスは自らの財力を使って、緊急に必要な海外からの融資を確保することにも成功します。

 1781年、モリスはイングランド銀行(Bank of England)を手本にした最初のアメリカ銀行の設立許可を得ます。この銀行は、急進的な平等主義者からは、非共和的な特権の乱用として攻撃されましたが、やがてアメリカの強固な財政基盤を作ることになります。

 戦争の資金調達と組織化の問題は、議会が抱える州との関係を規定する問題と重なることでした。州の連合体に過ぎない議会は、個人に課税する権限を持ちませんでした。1777年に議会が採択し、実施した政府組織計画である連合規約は、すべての州によって1781年までに正式に批准されます。議会は州に対して支払い能力に応じて賦課する権限を与えていました。しかし、再選を目指す州議会議員たちは、この方法を採用することを躊躇します。その結果、多くの州が常に多額の滞納をし、特に戦時中の緊急事態が収まった後は、議会はその経費や戦時中の債務を返済する能力が損なわれました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その51 アメリカ共和制の基礎

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当時、アメリカが強大なイギリスを相手に勝利できるかどうかは全く見通せない状態でした。散在する植民地は、固有の統一性をほとんど持たず、集団行動の経験も浅いなかで軍隊を創設し維持しなければなりませんでした。大陸議会以外に共通の制度を持たず、大陸の財政の経験もほとんどなかったからです。アメリカ人はフランスの援助なしには戦争に勝つことはできませんでした。フランス王政は、反英ではあっても親米ではありませんでした、フランスは、アメリカ人が戦場で何ができるかを注意深く見守っていたのです。フランスは、アメリカの独立宣言後すぐに武器、衣料、借款の提供を陰ながら始めますが、アメリカとの正式な同盟が結ばれたのは1778年になってからでした。

 アメリカの課題の多くは独立の達成後も続き、何年もあるいは何世代にも及ぶアメリカ政治の悩みでした。しかし、他方で植民地には、あまり顕著ではありませんでしたが貴重な力の源泉がありました。事実上、すべての農民が自分の武器を持っており、一晩で民兵隊(militia)を結成することができていました。個人の武器の所持はこのときから始まっていたのです。根本的には、アメリカ人は長年にわたって、主にイギリスの新聞から基本的に同じ情報を受け取っており、それが植民地の新聞に同じ形で転載されていたからです。その結果、主要な公共問題に関して、極めて広範な意見が形成されるようになりました。もう一つの重要な要因は、アメリカ人が数世代にわたって、選挙で選ばれた議会を通じて自らを統治してきたことです。その結果、議会は委員会政治において高度な経験を積んできていました。

 この制度的積み上げ(institutional memory)という要素は、自治の意識を形成する上で非常に重要なものとなりました。人は習慣的な方法に愛着を持つようになりました。特に課題を処理する習慣的な方法としては、イギリスやヨーロッパ大陸で発表された共和制の理論を取り入れ、それが関係者の中に浸透していき、重要なイデオロギーの基礎を形成することになりました。さらに、植民地の視点から見ると植民地の自治は、17世紀半ばにイギリス議会が内戦を戦い、1688年から1689年にかけての名誉革命(Glorious Revolution)によって再確立されたことを示すものとなりました。植民地の人々は、自治の考え方がイギリス政府の原則と連続しており、一貫性があるように考えられたのです。

 また、このような自治の経験が、植民地の指導者たちに事案への対応を教えてきたことが重要でした。1774年に また、このような自治の経験が、植民地の指導者たちに事案への対応を教えてきたことが重要でした。1774年に大陸議会が開かれたとき、代表者は適正な手続きについて議論する必要はありませんでした。すでにそれを知っていたからです。議会の権威は正統性の伝統に根ざしており、選挙にあたってもそれまでの慣行が使われました。有権者は、やがて廃止される植民地議会から新しい議会や州の大会へとさしたる困難もなく賛同することになります。が開かれたとき、代表者は適正な手続きについて議論する必要はありませんでした。すでにそれを知っていたからです。議会の権威は正統性の伝統に根ざしており、選挙にあたってもそれまでの慣行が使われました。有権者は、やがて廃止される植民地議会から新しい議会や州の大会へとさしたる困難もなく賛同することになります。

ジョージ・ワシントン大統領の業績

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その50 パリ条約

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北アメリカにおける軍事的な評決は1782年のイギリス–アメリカ和平予備条約(Anglo-American peace treaty) に反映され、それは1783年のパリ条約(Treaty of Paris)に盛り込まれます。ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)、ジョン・アダムズ(John Adams)、ジョン・ジェイ(John Jay)、ヘンリー・ローレンズ(Henry Laurens)がアメリカ側委員を務めました。この条約により、イギリスは西側のミシシッピ川を含むおおまかな境界線を持つアメリカ合衆国の独立を承認します。イギリスはカナダを保持しましたが、東フロリダと西フロリダはスペインに割譲します。また、アメリカ人のイギリス人に対する私的債務の支払い、アメリカ人のニューファンドランド漁業権、大陸議会から各州への忠誠者の公正な扱いを支持する勧告などの条項が挿入されます。

Treaty of Paris ©Public Domain

 イギリスに忠誠を示す多くの人々は新天地に残りますが、約8万人もの保守派のイギリス人はカナダ、イギリス、イギリス領西インド諸島に移住します。その多くはイギリス兵として従軍し、アメリカ各州から追放された者たちでした。戦時中や戦後、忠誠を示すイギリス人はアメリカ各州から危険な敵として厳しく扱われました。彼らは一般に市民権を奪われ、しばしば罰金を科され、財産を没収されることもしばしばありました。その最も危険な者は、通常、死刑を宣告されました。イギリス政府は、4,000人以上の亡命者に財産の損失を補償し、およそ330万ポンドを支払いました。また、土地や年金の支給、再起を図るための任用も行いました。アメリカに残ったあまり忠誠的でない保守派の人々は、イギリスからの独立を受け入れ、一世代を経た後にはアメリカの愛国者と見分けがつかないほどになります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その49 フランスの参戦

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 1777年、バーゴイン将軍(Gen. John Burgoyne)率いるイギリス軍は、ニューヨーク州アルバニーを目標にカナダから南下していきます。バーゴインは7月5日にタイコンデロガ砦を占領しますが、アルバニーに近づくと、ホレイショ・ゲイツ将軍(Generals Horatio Gates)とベネディクト・アーノルド将軍(Benedict Arnold)が率いるアメリカ軍に二度も敗北し、1777年10月17日、サラトガ(Saratoga)で降伏を余儀なくされます。その年の秋にニューヨークからチェサピーク湾(Chesapeake Bay)に上陸したハウは、9月11日にブランディワイン・クリーク(Brandywine Creek)でワシントン軍を破り、9月25日にはアメリカの首都フィラデルフィア(Philadelphia)を占拠します。

Independence Hall, Philadelphia(library of Congress)

 10月4日にペンシルベニア州ジャーマンタウン(Germantown)でまずまずの成功を収めた後、ワシントンは冬の間、11,000人の部隊をペンシルベニア州バレーフォージ(Valley Forge)に集結させます。バレーフォージの環境は荒涼としており、食料も不足していましたが、プロイセン人(Prussian)のフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・スチューベン男爵(Baron Friedrich Wilhelm von Steuben)が、アメリカ軍に作戦や武器の効率的な使用法などの貴重な訓練を施します。1778年6月28日、ニュージャージー州モンマス(Monmouth)現在のフリーホールド(Freehold)でのワシントンの攻撃の成功に、フォン・スチューベンの援助は大きく貢献しました。この戦いの後、北部のイギリス軍は主にニューヨーク市とその周辺に留まることになります。

 フランスは1776年から密かにアメリカに対して財政的、物質的援助を行っていましたが、1778年に艦隊と軍隊の準備を始め、6月についにイギリスに対して宣戦布告をします。アメリカの北方での行動はほぼ膠着状態にあったため、フランスの主な貢献は南方で行われ、イギリス領サバンナの包囲やヨークタウンの決定的な包囲などの作戦に参加しました。コーンウォリスは1780年8月16日にサウスカロライナ州カムデン(Camden)でゲイツ率いる軍隊を撃破しますが、10月7日にサウスカロライナ州キングズマウンテン(Kings Mountain)、1781年1月17日にサウスカロライナ州カウペンズ (Cowpens)で大きな打撃を受けます。

 コーンウォリスは1781年3月15日にノースカロライナ州ギルフォード・コートハウス(Guilford Courthouse)で大勝した後、ヴァジニア州に入り、ヨークタウンに基地を置いて他のイギリス軍と合流します。しかし、ワシントン軍とフランスのロシャンボー伯爵(Count de Rochambeau)が率いる軍隊はヨークタウンを包囲し、1781年10月19日にコーンウォリスと7,000人以上の軍隊を降伏させます。

 その後、アメリカでは陸上での戦闘は停止しますが、公海での戦争は続きました。1775年に大陸海軍が創設されたが、アメリカ軍の海での活動は小さな武装攻撃に終始し、1780年以降の海戦は主にイギリスとアメリカのヨーロッパの同盟国との間で戦われました。それでもアメリカの武装攻撃はイギリス諸島に集中し、戦争末期には1,500隻のイギリス商船と12,000人の船員を捕獲していきます。1780年以降、スペインとオランダはイギリス諸島周辺の海域の大部分を支配するようになり、イギリス海軍の大部分はヨーロッパに留め置かれることを余儀なくされます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その48 チャールズ・コーンウォリス卿

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ジョージ・ワシントン

こうしてアメリカ独立戦争は、植民地問題をめぐるイギリス帝国内の内紛として始まりましたが、1778年にフランス、1779年にスペインが参戦したことにより、国際紛争となります。イギリスと戦争中であったオランダは、アメリカに対して財政支援を行い、独立を公式に承認していきます。植民地でのアメリカ人は州の民兵と大陸軍を編成し、農民を中心に常時約2万人の兵士が戦いました。これに対してイギリス軍は、訓練された信頼できる職業軍人で構成され、約42,000人の正規軍と、約30,000人のヘッセン(Hessian)からのドイツ傭兵で補っていました。

タイコンデロガ要塞(Wikipedia)

 レキシントンとコンコードでの戦闘の後、反乱軍はボストン包囲を開始しますが、アメリカのヘンリー・ノックス将軍(Gen. Henry Knox)がタイコンデロガ要塞(Fort Ticonderoga)から捕獲した大砲を持って到着し、1776年3月17日にゲージ将軍(Gen. Gage)の後任ウィリアム・ハウ将軍(Gen. William Howe)をボストンから退却させることで終了します。リチャード・モンゴメリー将軍(Gen. Richard Montgomery)率いるアメリカ軍は、1775年秋にカナダに侵攻し、モントリオールを占領し、ケベックへの攻撃を開始しますが失敗しモンゴメリーはそこで戦死します。アメリカ軍は春にイギリスの援軍が到着するまでケベックを包囲し、その後タイコンデロガ砦に退却します。

  イギリス政府は、ハウ将軍の弟リチャード・ハウ(Lord Howe)提督を大艦隊でニューヨークに派遣し、アメリカ人と交渉し、彼らが服従すれば恩赦を保証する権限を与えます。アメリカ人がこの和平の申し出を拒否すると、ハウ将軍はロングアイランドに上陸し、8月27日にワシントンが率いる軍を破り、マンハッタン (Manhattan)に退却させます。ハウ将軍はワシントンを北に引き寄せ、10月28日にホワイトプレーンズ( White Plains)近くのチャタートンヒル(Chatterton Hill)で彼の軍隊を破ます。ワシントンがマンハッタンに残した守備隊を襲撃して捕虜と物資を奪取します。

 チャールズ・コーンウォリス卿 (Lord Charles Cornwallis)は、ワシントンのもう一つの守備隊であるフォートリー(Fort Lee)を占領し、アメリカ軍をニュージャージーからデラウェア川西岸に追いやり、ニュージャージーの前哨基地で冬の間、兵舎を確保します。クリスマスの夜、ワシントンはこっそりとデラウェアを横断し、トレントン(Trenton)のコーンウォリスの守備隊を攻撃し、1,000人近くを捕虜とします。コーンウォリスはすぐにトレントンを奪還しますが、ワシントンは脱出し、プリンストン(Princeton)でイギリスの援軍を撃破します。ワシントンのトレントン-プリンストン作戦は独立への意気を鼓舞し、独立のための戦争を継続させていきます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その47 レキシントン・コンコード

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1775年4月19日、イギリス軍のトーマス・ゲージ将軍(Gen. Thomas Gage)がマサチューセッツ州コンコード(Concord)にあるアメリカ反乱軍の拠点を破壊するためにボストンから軍を派遣します。そしてレキシントンとコンコード(Lexington and Concord)で植民地の民兵(militia)とイギリス軍との間で戦闘が起こります。この衝突は、5月にフィラデルフィアで開催された第2回大陸会議に報告されました。植民地の指導者たちの多くは、まだイギリスとの和解を望んでいましたが、このニュースは代表者たちをより急進的な行動へと駆り立てました。

 大陸が戦争状態になるような気配となります。主にディキンソン(Dickinson)の主張によりイギリス国民に向けた更なるアピールが行われる一方で、大陸議会は軍隊を調達し、武器をとる理由と必要性に関する宣言を採択し、国内調達と外交問題に対処する委員会を任命します。1775年8月にはイギリス国王は反乱を宣言し、その年の終わりにはすべての植民地貿易が禁止されました。それでも大陸軍司令官ジョージ・ワシントン(Gen. George Washington)は、イギリス軍を大臣軍(ministerial forces)と呼び、内戦であって国家を分裂する戦争ではないと主張しました。

 1776年1月、トマス・ペイン(Thomas Paine)の不遜な小冊子「コモンセンス」の出版は、突然楽観的な展望を破り、独立を話題とします。この小冊子は10万以上の部数に達し、「アメリカの独立」という戦いの目的を明らかにし、植民地人の戦意を鼓舞します。ペインは、アメリカがイギリスのジョージ3世の臣民であろうとする限り、自由は勝ち取れない、専制者ジョージ3世の奴隷となるか、独立するかのいずれかしかなく、独立によってのみ自由になれるのは「常識」(Common Sense) である、と主張したのです。

 ペインの雄弁で直接的な言葉は、人々の思いを代弁していました。植民地の人々にこれほど影響を与えた小冊子は、かつてありませんでした。大陸議会がフランスとの同盟を緊急に秘密裏に交渉する一方で、保守派が解決を望む地方で権力闘争が勃発しました。

 1774年11月の総選挙でノース公が圧倒的多数を占めたイギリスでは、世論が硬直化し、大陸との和解への希望が薄れていきました。イギリスの強硬姿勢に直面し、植民地の権利の定義にこだわる人々には他の手段がなくなります。ジョン・アダムスによれば約3分の1相当数の植民地出身者が、あらゆる不利を覚悟しながらイギリス王室への忠誠を望んではいましたが、少数派となっていきました。イギリス軍が集結した場所では、軍は忠誠心のある人々の支持を得ますが、軍が移動すると人々のイギリスへの忠誠心は弱体化を露呈していきます。

Minutemen in Concord

 国内での最も劇的な革命運動はペンシルベニアで起こります。フィラデルフィアを中心に国内に同盟者を持つ強力な急進派が、独立そのものをめぐる論争の過程で権力を掌握したのです。1776年の春、独立を求める世論が植民地を席巻します。第二回の大陸議会は、植民地が独自の政府を樹立することを勧告し、独立宣言の起草案を作る委員会を設置します。

 この起草案は、トーマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)によって書かれ、委員会で修正されて出来上がります。起草案2つの部分から成り、前文では、自然権に基づく合衆国の主張と平等原則を掲げ、後文では、イギリス議会に対する長文の不満でありました。7月2日、議会は独立を決議し、7月4日には独立宣言を採択します。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その47 レキシントン・コンコード

 1775年4月19日、イギリス軍のトーマス・ゲージ将軍(Gen. Thomas Gage)がマサチューセッツ州コンコード(Concord)にあるアメリカ反乱軍の拠点を破壊するためにボストンから軍を派遣します。そしてレキシントンとコンコード(Lexington and Concord)で植民地の民兵(militia)とイギリス軍との間で戦闘が起こります。この衝突は、5月にフィラデルフィアで開催された第2回大陸会議に報告されました。植民地の指導者たちの多くは、まだイギリスとの和解を望んでいましたが、このニュースは代表者たちをより急進的な行動へと駆り立てました。

 大陸が戦争状態になるような気配となります。主にディキンソン(Dickinson)の主張によりイギリス国民に向けた更なるアピールが行われる一方で、大陸議会は軍隊を調達し、武器をとる理由と必要性に関する宣言を採択し、国内調達と外交問題に対処する委員会を任命します。1775年8月にはイギリス国王は反乱を宣言し、その年の終わりにはすべての植民地貿易が禁止されました。それでも大陸軍司令官ジョージ・ワシントン(Gen. George Washington)は、イギリス軍を大臣軍(ministerial forces)と呼び、内戦であって国家を分裂する戦争ではないと主張しました。

 1776年1月、トマス・ペイン(Thomas Paine)の不遜な小冊子「コモンセンス」の出版は、突然楽観的な展望を破り、独立を話題とします。この小冊子は10万以上の部数に達し、「アメリカの独立」という戦いの目的を明らかにし、植民地人の戦意を鼓舞します。ペインは、アメリカがイギリスのジョージ3世の臣民であろうとする限り、自由は勝ち取れない、専制者ジョージ3世の奴隷となるか、独立するかのいずれかしかなく、独立によってのみ自由になれるのは「常識」(Common Sense) である、と主張したのです。

 ペインの雄弁で直接的な言葉は、人々の思いを代弁していました。植民地の人々にこれほど影響を与えた小冊子は、かつてありませんでした。大陸議会がフランスとの同盟を緊急に秘密裏に交渉する一方で、保守派が解決を望む地方で権力闘争が勃発しました。

 1774年11月の総選挙でノース公が圧倒的多数を占めたイギリスでは、世論が硬直化し、大陸との和解への希望が薄れていきました。イギリスの強硬姿勢に直面し、植民地の権利の定義にこだわる人々には他の手段がなくなります。ジョン・アダムスによれば約3分の1相当数の植民地出身者が、あらゆる不利を覚悟しながらイギリス王室への忠誠を望んではいましたが、少数派となっていきました。イギリス軍が集結した場所では、軍は忠誠心のある人々の支持を得ますが、軍が移動すると人々のイギリスへの忠誠心は弱体化を露呈していきます。

 国内での最も劇的な革命運動はペンシルベニアで起こります。フィラデルフィアを中心に国内に同盟者を持つ強力な急進派が、独立そのものをめぐる論争の過程で権力を掌握したのです。1776年の春、独立を求める世論が植民地を席巻します。第二回の大陸議会は、植民地が独自の政府を樹立することを勧告し、独立宣言の起草案を作る委員会を設置します。

 この起草案は、トーマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)によって書かれ、委員会で修正されて出来上がります。起草案2つの部分から成り、前文では、自然権に基づく合衆国の主張と平等原則を掲げ、後文では、イギリス議会に対する長文の不満でありました。7月2日、議会は独立を決議し、7月4日には独立宣言を採択します。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その46 イギリスに対する抗議

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大陸会議の目的は、イギリス政府に圧力をかけ、植民地のあらゆる不満を解消し、かつての調和を取り戻すことにありました。そこで議会は、輸入をしないこと、あまり消費をしないこと、米の収穫や輸出などに関して、綿密で段階的な経済圧力計画を作ることでした。ニューイングランドやヴァジニアの代表の中には、独立を視野に入れて発言する者もいましたが、大多数の代表は協議した措置を国王やイギリス国民へ訴えることによって、今後こうした会議を開く必要がないことを期待し散会します。同時にイギリスへの訴えが失敗した場合には、翌年の春に第二回目の議会を招集するという決議もします。

 大陸会議で達成された団結の裏には、植民地社会における深い分裂がありました。1760年代半ば、ニューヨークの北部では土地暴動で混乱し、ニュージャージーの一部でも暴動が発生します。さらにひどい混乱はノースカロライナとサウスカロライナの奥地で起こり、辺境の人々は、自分たちは課税の対象であるが代表されていないと感じながら、議会の保護がないままほっとかれます。

 1771年にノースカロライナのアラマンス・クリーク(Alamance Creek)で起こった投石による暴動は、レギュレーターの反乱(Regulator Insurrection)として知られ、その終結後、首謀者は反逆罪とされて処刑されます。都市部ではこうした深刻な混乱はありませんでしたが、経済的機会や明確な地位の不平等に対する激しい社会的緊張と憤りが見られるようになります。

 ニューヨークの地方政治は、王室と繋がるデランシー家(DeLanceys)と、そのライバルであるリビングストン家(Livingstons)の二大勢力間の激しい対立によって引き裂かれます。イギリスとの関係を巡る政争は、これらの派閥の国内での地位に影響を与え、やがてデランシー家を衰退させていきます。もう一つの現象は、バプテストを筆頭とする政権への反対を示す宗教派の急速な台頭です。彼らは政治的な主張はしないのですが、その説教のスタイルは、宗教的な反対だけでなく政治への参加を促す信仰を表明するものとなりました。

 こうした争いや騒動には、これといった整合性はありませんでしたが、植民地社会の指導者の多くは、イギリスに対する抗議であっても、破壊的な立場に立つことには慎重でした。抗議活動が革命的な方向に進むと、国内での影響が大きくなることを懸念したからです。ですが破壊的な要素を秘めた主義や主張は、後戻りすることのできない可能性があると考えられました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その45 大陸議会の開催

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植民地政府へのイギリスの介入は、植民地の他の各地を脅かす可能性があり、団結して行動することによって対抗できるというのが広く一般的な見方でした。植民地間の多くの協議の結果、大陸議会(Continental Congress)が設立され、1774年9月にフィラデルフィア(Philadelphia)で会合が開かれます。ジョージア州を除くすべての植民地議会は、代表団を派遣します。ヴァジニア州の代表団の提案はトーマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)が起草し、後に『A Summary View of the Rights of British America (1774)』として出版されます。

 ジェファソンは、植民地の立法権の自律性を主張し、アメリカ人の権利の根拠について極めて個人主義的な見解を打ち出します。アメリカ植民地やその他のイギリス帝国の構成国は、王の下に統合された別の国家であり、したがって王のみに服従し議会には服従しないという考えは、ジェームズ・ウィルソン(James Wilson)やジョン・アダムス(John Adams)をはじめとする他の代表者にも共通し、イギリス議会に強い影響を及ぼします。

 大陸議会で審議されたことは、各植民地が1票ずつ投票するか、それとも人口との比率で計算した富の額によって投票するかということでした。植民地毎の投票という決定は、富も人口も十分に把握できないという現実的な理由から提案されたのです。個々の植民地は、その規模に関係なくある程度の自治権を保持し、それは直ちに主権や特権に反映されるというものです。マサチューセッツ州の影響を受け、議会は次にマサチューセッツ州サフォーク郡(Suffolk county)で示されたサフォーク決議案(Suffolk Resolves)を採択し、初めて自然権を公式の植民地論に採用するのです。すべての抗議は不文律(common law)と憲法上の権利に基づいていました。しかし、こうした決定はさておいて、世間では対立を警戒する慎重なムードも漂っていました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その44 ボストン茶会事件

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植民地人とイギリス当局とのもう一つの深刻な争いはニューヨークで起こります。ニューヨーク議会は、軍隊の宿営地に関するイギリスの要求をすべて拒否します。双方で妥協が成立する前に、イギリス議会は植民地議会を停止させると脅します。このエピソードは、議会が宣言法の言葉、すなわち「いかなる場合においても植民地を拘束し、立法する権限を有する」という条項を援用しようとするものでした。これまで、イギリス議会は、王室からの訓令を除いて、アメリカの植民地における憲法の運用に介入したことはなかったのです。

 1773年、ノース公爵が東インド会社(East India Company)をある困難から救おうとしたときにも、イギリスの植民地経済への介入は起こります。紅茶法(Tea Act)は、インドで紅茶を生産していた同社に、植民地での流通を独占させるものでした。同社は、商人による競売での販売制度を廃止し、自社の代理店を通じて茶葉を販売することを計画します。仲買人のコストを削減することで、広く買われている粗悪な密輸茶を安く売りさばくためでありました。この計画は当然ながら植民地の商人たちに影響を与え、多くの植民地人は、この法律はアメリカ人に合法的に輸入された茶を買わせ、その税金を払わせようとする陰謀であると非難しました。課税された茶の樽を拒否すると脅したのはボストンだけではありませんでした。その拒否は最も劇的で挑発的な行動となります。

 同年12月16日、ボストン市民がモホーク族(Mohawk)に偽装して停泊中の船に乗り込み、1万ポンド相当の茶を港に投棄した事件は、「ボストン茶会事件(Boston Tea Party)」として一般に知られています。イギリスの世論は憤慨し、イギリス議会のアメリカの盟友たちは困惑します。他の都市のアメリカ商人も混乱します。1774年の春、イギリス議会はほとんど反対もなく、マサチューセッツを秩序とイギリス主義の規律に従わせるための一連の措置を可決します。ボストン港は閉鎖され、マサチューセッツ州政府法では、議会は初めて植民地憲章を実際に変更し、1691年に設立された選挙制の議会を任命制に置き換え、知事と議会に大きな権限を付与します。

 急進的な思想家の集まりであったタウンミーティングは禁止されます。さらに事態を悪化させたのは、議会はカナダ統治のためのケベック法(Quebec Act)も可決したことです。ニューイングランドの敬虔なカルヴァン主義者(Calvinism) たちが恐れたように、フランス系住民のためにローマ・カトリック教の布教も認めていきます。さらに、南部カナダは行政上の理由からミシシッピ渓谷に連結され、アメリカ西部開拓の支配の可能性を永久に封じ込めようとしました。

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その43 不平等な扱いとボストン虐殺事件

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議会への代表権をめぐる論争での両陣営の立場は、使われている言葉にも表れています。議会主権の原則は、父権的な言葉で表現され、イギリス人は自分たちを親とし、植民地の人々を子どもと呼びました。社会の安定のためにイギリス議会の言い分を受け入れる植民地の保守主義派(Tories)も、このような用語を使いました。こうした観点から、子どもが親に反抗するのが不自然であるように、植民地の不服従は不自然なのであるという主張でした。これに対して植民地主義者たちは、権利という言葉で反論しました。彼らは、イギリス議会は植民地においては、イギリスでできないことは植民地でも何もできないのだと考えました。なぜなら、アメリカ人はイギリス人のすべての慣習法上の権利によって保護されているからであると主張します。

 植民地で開かれた1774年9月の第一回議会では、その最初の行動の一つとして、植民地にはイギリスの慣習法を適用する権利があることを確認しました。イギリスの慣習法は「コモン・ロー」(Common law)と呼ばれ、中世から国王裁判所で蓄積された判例を基に、国内の共通の法として体系化されたものです。「国王と言えども法に従うべきである」という原則に立つものです。

 ヴァジニア州のリチャード・ブランド(Richard Bland)は、1764年に発表した『罷免された大佐』(Colonel Dismounted)の中で、権利とは平等であることだと主張しました。彼は、植民地時代の不満の根源に言及しています。アメリカ人は不平等な扱いを受けており、それに憤慨しているだけでなく、自分たちの事案を自分たちで処理できなくなることを恐れていました。植民地の人々は、1761年にボストンで援助令状(writs of assistance)(基本的には一般捜査令状)が敷かれたことに法的不平等を感じます。というのはイギリスでは2つの有名な事件において「一般捜査令状」が非合法とされたからでした。タウンゼントは、1767年に植民地における援助令状を明確に合法化します。ディキンソン(Dickinson)は「農民からの手紙」 (Letters from a Farmer)の中でこの問題を取り上げています。

 1770年初頭、ノース公爵(Lord North)が首相に就任すると、ジョージ3世(George III)はついに、自分と議会の双方に働きかけることのできる大臣を見つけます。それ以来、イギリス政府は安定を取り戻し始めます。1770年、アメリカの不輸入政策に直面し、タウンゼント関税(Townshend tariffs)は、象徴的な理由で残されていた紅茶税を除き、すべて撤廃されます。ニューイングランドの海岸線では、税関職員が地元の陪審員の支持を得られず、植民地人が反抗する事件が頻発しますが、比較的平穏な状態が戻ります。これらの事件は他の植民地からの共感は得られませんでしたが、ボストンに駐留するイギリス正規軍の増員を要求するほど深刻でした。

 最も激しい衝突は、タウンゼント税が廃止される直前にボストンで起こります。暴徒の嫌がらせに脅かされたイギリスの小隊が発砲し、5人を殺害した事件は、まもなく「ボストン虐殺事件(Boston Massacre)」として知られるようになります。兵士たちは殺人の罪に問われ、市民裁判にかけられますが、発砲した兵士8人と隊長は裁判にかけられ兵士2人が軽い罪に問われたほか全員無罪となります。ジョン・アダムス(John Adams)が被告の弁護を担当し、穏健な判決に導きます。彼は後に合衆国第二代目の大統領となります。

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その42 憲法上の相違

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 1760年代は、本国からの独立を望む植民地出身者はほとんどおらず、独立を想像することすらできませんでした。ただディキンソン(John Dickinson)は自分のエッセイの中で、明らかに苦しみながらも誠実に独立の可能性をほのめかしていました。植民地における激しい議論は、時に感情的にはなりましたが、政治機構を変えようとするものではなく、法解釈をめぐる議論でありました。植民地側の主張の核心は、イギリスの臣民として、イギリス内の臣民と同じ特権を受ける権利があるということでした。植民地人は、憲法上、自分たちの同意なしに課税されることはなく、課税を決定するイギリス議会にも代表者がいなかったため、イギリス本国の政治に同意していなかったのです。

 マサチューセッツ湾直轄植民地の法律家で政治活動家のジェームズ・オーティス(James Otis)は、2つの長い小冊子の中で、このような但し書きをつけて、すべての主権を議会に譲渡しました。しかし、議会が植民地に対する合法的な立法権を持っているかどうかについて疑問を持つ者も現れ始めます。1760年代後半には、フィラデルフィアに住むスコットランド移民の弁護士ジェームズ・ウィルソン(James Wilson)が、このテーマで小論を執筆し疑念を表明します。

Charles Townshend

 タウンゼンド諸法(Townshend round of duties)の目的は、植民地からの税収増をもって現地の総督と判事の俸給に当て、植民地のルールから総督や判事を独立させること、法の徹底による貿易統制をより効果的に推進できる体制を整えること、本国の国内法に応じようとしないニューヨーク植民地を処罰すること、本国議会が植民地に対する課税権を有するというものでした。しかし、植民地の人々は、イギリス内の臣民と同じ特権を受ける権利があることを主張し、タウンゼンド諸法に強く反対するのです。

 1770年にタウンゼント諸法(Townsend round of duties)が廃止されたため、ウィルソンはこの小論を非公開とし、1774年に新たな問題が発生した際に「英国議会の立法権の性質と範囲に関する考察」として発表します。この中で彼は、議会の合法的な主権はイギリスの海岸で止まっているのだという植民地で集めていた意見を全面的に表明していくのです。

 議会への代表権に関する植民地の訴えに対するイギリスの公式回答は次のような内容です。すなわち植民地は、投票権を持たない大多数のイギリス国民が投票権を持つ人々によって代表されているのと同じ意味で、植民地人も議会において事実上代表されているというものでした。これに対してオーティスは、イギリス国民の大多数が投票権を持っていないのであれば、彼らが投票権を持つべきだ、とからかいます。何度か提案された植民地からの議員という提案は、時間と距離の問題、そして植民地の人々にとって植民地の議員は十分な影響力を持ち得ないという理由から、解決策にはなり得ませんでした。

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その41 印紙税法の廃止

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印紙税法の廃止に歓喜した植民地の人々は大いに喜び、大砲の音を鳴らし、宣言法は面目を保つための粉飾であるので無視しようと叫びました。しかし、ジョン・アダムス(John Adams)は、『正典と封建法に関する論文』の中で、議会がこのような権力観で武装し、再び植民地に課税しようとすることを警告します。1767年、イギリスでウィリアム・ピット(William Pitt)が率いる内閣でチャールズ・タウンゼント(Charles Townshend)が大蔵大臣に就任すると、このような懸念が起こります。問題は、イギリスの財政負担が軽減されていないことでありました。

 タウンゼントは、植民地時代の外税と内税の区別を文字通りに解釈し、鉛、ガラス、塗料、紙、家庭の主要飲料である茶など、さまざまな必需品に外税が課されていきます。その結果、植民地の人々は、イギリスは植民地を従属的な地位おこうとする長期的な展望を持っていると考えます。彼らはそれを新たな「奴隷制」と呼ぶようになります。実はグレンヴィルの政策は、慎重に検討されたパッケージとして設計されていたのでした。グレンヴィルには、いくつかの整理法案を除いて、印紙税法後に植民地に対するさらなる計画はありませんでした。グレンヴィルの後継者たちは、当初の印紙税法の延長線上ではなく、印紙税が廃止されたことを理由にさらなる措置を講じようと画策していきます。

John Dickinson (Wikipediaより)

 しかし、植民地の人々はイギリス製品の禁輸運動を行うなどして抵抗します。ペンシルベニアでは、弁護士で立法者でもあったジョン・ディキンソン(John Dickinson)が一連のエッセイを書き、1767年と1768年に『ペンシルベニアの農民からの手紙』(Letters From a Farmer in Pennsylvania)として発表し、全植民地的に名声を博し、植民地の統一した反対運動を形成する上で大きな影響を及ぼしました。イギリス議会への抗議運動になるがディキンソンは、イギリス議会が帝国全体に関わる最高権力者であることには同意しますが、植民地の内政に関する権力は否定し、植民地の忠誠心の基本は上位者への服従ではなく、対等の関係にあることを冷静にほのめかします。

 植民地人が意見で一致することは、行動で一致するよりも簡単なことでした。多くの駆け引きと交渉の末、徐々にイギリス製品に対する広範な非輸入政策が実施されるようになります。こうした際の合意形成は容易ではなく、時には非協力的な言いがかりをつけられ緊張が起こりました。また、この非輸入政策は、新たに設置された地方委員会によって執行されねばならなかったので、公務の経験があまりない地方出身者が新たな権限を持つことになります。その結果、一部の植民地では、内政干渉に対する不満の声が多く聞かれるようになります。こうした状況は、後にさらなる措置が必要となるにつれて、植民地政治の将来に影響を及ぼすことが明白となっていきます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 

その40 印紙税法

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植民地の多くの土地所有者は、公式に流通が停止された紙幣の復活という大盤振る舞いの恩恵を受けました。しかし、重商主義政策の一環として、1765年にイギリスは北米植民地にアメリカ駐屯軍費の一部を負担させるため,イギリス議会が同地発行の新聞,証書などに最高10ポンドの印紙を貼ることにした印紙税法を制定します。この印紙税法は植民地の経済活動の重要な部分を打撃し、貿易取引に影響を与えます。また、植民地で最も明晰で影響力のある弁護士、ジャーナリスト、銀行家の多くに影響を与えます。さらに、イギリス議会が植民地に対して直接賦課した最初の「内国税」でありました。内国税というのは、本来イギリス国内でさまざまなモノやサービスに課せられる税のことです。それを植民地にも持ち込もうとするのです。

 しかし、こうした印紙税法は暴動を引き起こします。イギリスも植民地もこうした騒ぎになるとは誰も予想していませんでした。ボストンなどの町では暴動が起き、任命された切手販売人は職を辞することを余儀なくされ、合法的な取引はほとんど停止してしまいます。1765年夏、いくつかの植民地はニューヨークの会議に代表団を送ります。そこで印紙税は、選ばれた代表を通じてのみ課税されるというイギリス人の権利を侵害するものとして非難され、あわせてイギリス製品の禁輸措置という提案が採択されます。

 イギリス本国政府による印紙法の押しつけに対する反対運動は、植民地の抵抗運動を一段と強めていきます。さらにこうした抗議運動が植民地の枠を越えて拡がり、植民地13州の議会が連帯して印紙法会議を開催します。そこで、「代表なくして課税なし」というイギリス議会の原則に照らし、植民地代表のいないイギリス議会には植民地への課税することはできないと決議し、印紙法の撤廃をイギリス政府に請願します。

 イギリス内閣の交代は、課税政策の変更を促します。イギリス議会は植民地の無法状態に怒りを表すのですが、イギリス商人はイギリスの輸入の禁止を懸念していまた。グレンヴィルの後を継いだロッキンガム侯爵(Marquis of Rockingham)は、植民地の抗議に同調するためではなく、国内の理由から印紙税を廃止するように説得し、1766年に印紙法の廃止が可決されます。しかし同日、議会は宣言法(Declaratory Act)も可決します。宣言法は、議会が「いかなる場合においても植民地を統治し、立法する権限を有する」と宣言したのです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その39 税と通貨を巡る議論

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1763年にイギリス首相に就任したジョージ・グレンヴィル(George Grenville)は、すぐに植民地での歳入を増やすことで国防費を賄おうと考えます。最初の措置は、1764年のプランテーション法、通常「歳入法(Revenue)」または「砂糖法」と呼ばれるもので、輸入された外国産糖蜜の関税をわずか3ペンスに引き下げる一方、精製糖への高い関税と外国のラム酒の禁止を関連づけたものでした。この政策は、イギリスの財務省のニーズと西インド諸島のプランターおよびニュー イングランドの蒸留業者のニーズのバランスを慎重に考慮したものでした。

 この関税措置は実施されませんでしたが、政府はイギリス人将校を配置した税関のシステムを構築し、副提督裁判所(vice-admiralty court)まで設立します。この裁判所はノバスコシア州(Nova Scotia)のハリファックス(Halifax) に置かれ、ほとんど審理される案件はありませんでしたが、原則的には地元の陪審員による裁判なので、イギリスの大事な特権を脅かすものではありました。植民地のボストンは、憲法上の理由から税の増収には反対します。こうした不安の声も聞かれましたが、植民地は概してこうしたイギリスの措置を容認しました。

 次にイギリス議会は、通貨法(1764年)を制定し、フレンチ・インディアン戦争中から残存する多くの紙幣を流通からほかすことで、植民地経済の展望に影響を与えます。この措置は、経済成長を制限するためではなく、不適正と思われる通貨を回収するために行われたものですが、戦後の困難な時期に流通通貨を著しく減少させます。このような状況はイギリス政府の対処能力の問題であることを示すものでした。

 グレンヴィルの次なる政策は、法的文書、新聞広告、船舶積荷証券など、さまざまな取引に適用される印紙税の徴収でした。植民地は正式に相談を受けますが、代替案を提示することはありませんでした。ロンドンでは、正式な異議申し立てを行った後、植民地は以前の税金と同様に新しい税金を受け入れるだろうと考えていました。ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)も同意見でした。しかし、印紙税法(Stamp Act)(1765年)は、それまでの議会のどんな措置よりも強い打撃を与えます。一部の諜報員がすでに指摘していたように、戦後の経済的困難のため、植民地は準備資金が不足していました。特にヴァジニア州の資金不足は深刻で、議会議長で州財務長官のジョン・ロビンソン(John Robinson)は、通貨法によって公式に流通が停止された紙幣を流通させて再分配します。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その38 イギリスのカナダ獲得

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帝国間の大戦でイギリスがフランスに勝利したのは、非常に大きな犠牲の上に成り立っていました。戦前は年間650万ポンド近くあったイギリス政府の支出は、戦争中は年間約1,450万ポンドに増加します。その結果、イギリスの税負担はおそらく史上最高となり、その多くは政治的に影響力のある地主階級が負担することになります。さらに、カナダという広大な領地を獲得し、諸先住民族に対しても、南と西のスペイン人に対してもイギリスの領土を保持するため、植民地の防衛費はいつまでも続くと予想されました。さらに議会は、マサチューセッツに戦費の補償として多額の資金を与えることを決議しました。そのため、イギリス世論としては、将来的な支払いの負担の一部をそれまで軽い課税と軽い統治のもとにあった植民者自身に転嫁することが合理的であると考えたのです。

 戦争の長期化によって、イギリスは広がっていた緩んだ経済状況を強化する必要がありました。戦争の過程でそうした必要性が確認されたとすれば、戦争終結はその好機となったはずでした。カナダを獲得したことで、ロンドンの政治家は、フランス占領の脅威から解放された未開拓の西方領土に責任を持つ必要がありました。イギリスはすぐに、先住民との関係全般を管理するようになります。

 1763年のイギリス王室の公布により、アパラチア山脈(Appalachian Mountains)にイギリス植民地からの入植の境界を示す線が引かれ、その先はイギリスが任命した役人を通じて厳密に先住民との貿易を行うことができるとされます。この布告は、先住民の権利を尊重したものでしたが、酋長ポンティアックを中心とする反乱の防止には間に合いませんでした。

 また、ロンドンからすれば、軍隊の駐屯の少ない西部で毛皮蒐集を住民に任せることは、経済的にも商業的にも合理的でありました。しかし、イギリス植民地からの入植の限界を示す布告は、2つの理由でイギリスの植民地主義者たちを困惑させます。それは、西部の土地への入植と投機の可能性に制限が設けられたこと、そして西部の支配権を植民地の手から引き離すことだからです。植民地の野心家たちは、この公布によって自分たちの運命を左右するような権利が失われたと考えます。

 実際、イギリス政府は、西部開拓の停止が植民地の人々の恨みを買うことを大きく見くびったのです。それがアメリカ独立戦争に至る12年間の危機を引き起こした要因の一つとなります。先住民族が大陸の内陸部に自分たちのための土地を確保しようとする努力は、イギリスの政策立案者にとっては、依然として利権を守るチャンスがあったかもしれません。ですが勝利したアメリカ合衆国を相手にすると全く効果がなくなります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その37 インディアン市民権法と新宗教の勃興

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南北戦争後の急激な資本主義の発展のなかで、牧畜業者、鉱山業者、森林業者、鉄道業者、土地投機業者、そして農民は、部族の保留地の土地と資源に目をつけて保留地そのものを解体しようとしていました。他方、人道主義的な改革家は、インディアン部族の組織と部族文化を薄め、彼らを農民や市民として文明化し、白人市民社会に同化させることを目指しました。この経済的欲求と文明化のイデオロギーが合致して、1887年に一般土地割り当てのドーズ法(Dawes Severalty Act)が制定されます。それは、保留地の一部を先住民個人に単純所有地として割り当て、余剰地を耕作者に解放することと規定したものでした。同法によって先住民に割り当てられた総面積の数倍もの土地が白人に割り当てられました。軍事力による土地収奪から、法により土地奪取へと転換するものでした。

 その後の修正立法措置で割り当て地そのものにも賃貸制が導入されて、保留地の土地は急速に部族の手から白人の手に移りました。その結果、1887年に1億5800万エーカーであった保留地は1900年には7780万エーカーに、1934年には4900万エーカーに減少しました。1924年のインディアン市民権法(Indian Citizenship Act) によって、先住民に合衆国の市民権が与えられますが、白人市民と完全に平等になったわけではありませんでした。土地と文化を奪われつつあった西部の諸部族は、救済を宗教にもとめ、ゴーストダンス(Ghost Dance)やサンダンス(Sun Dance)、ペヨーテ信仰(Peyotism)が流行していきます。

 ゴーストダンスとは、先住民族の間におこった千年王国論的な宗教運動で、1870年にネバダ州の先住民パイユート(Paiute)のウォボカ(Wovoka)という予言者によって始められたものです。サンダンスとは、自然復活と和平祈願の最大の儀式で「聖なるパイプ」と煙草が用いられます。先住民は、煙草を吹かすことで「大いなる神秘」と会話するといわれます。ペヨーテ信仰は、伝統的なアメリカ先住民の信仰とキリスト教の混交に基づくもので、今もアメリカ、カナダ、メキシコにて最も広く根付いている土着の宗教といわれます。

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