ノースカロライナと迫害されたキリスト教徒

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ノースカロライナ州のバーク郡(Burke County)というところの出身で、現在名古屋に住むRon Scronceという友人がいます。この郡にワルドー派(Waldensians)と呼ばれるキリスト教一派の人々が住む、人口4,689人のヴァルデイズ(Valdese)という小さな街があるのを教えてくれました。なぜこの田舎街にワルドー派の人々が定住したかの経緯は興味深いので、リサーチすることを勧められました。Scronce氏はヴァルデイズの隣りのヒッコリー(Hickory)の出身です。以下はワルドー派の信徒がヴァルデイズにやって来るまでの歴史です。

バーク郡にあるヴァルデイズは、1893年にイタリア北部のピエモンテ州(Piedmont)のコッティ・アルプス(Cottian Alps)という地域からの移民によってつくられます。今この街には、アメリカ最大のワルドー派のキリスト教会があります。その教会名は、ワルドー派長老教会(Waldensian Presbyterian Church)として知られています。ヴァルデイズには他に20もの教会があります。後述しますが、ワルドー派の信徒は最初の新教徒(protestant)とか最古の福音派運動(evangelical movement)を始めた人々といわれています。彼らは宗教改革の中心人者であったマルチン・ルター(Martin Luther)よりも以前に福音主義を掲げていたのです。

ワルドー派は、宗教改革以前に西方キリスト教内の禁欲運動(ascetic movement)として始まった教会伝統の信奉者です。元々は12世紀後半にフランスのリヨンの貧者(Poor of Lyon)として知られ、この運動は現在のフランスとイタリア国境付近にあるコッティ・アルプス地域に広がりました。ワルドー派の創立は、1173年頃に財産を手放した裕福な商人ピーター・ワルドー(Peter Waldo)で、彼は「使徒的貧困」(apostolic poverty)が完全なる生き方であると説いて信者を獲得していきます。

当時のカトリック教会の一派であるフランシスコ会(Franciscans)が「使徒的貧困」に異議を唱え、さらに地元の司教の特権を認めなかったのでワルドー派の会衆はフランシスコ会と衝突します。そのため1215年までにワルドー派は異端と宣言され破門されて迫害が始まります。

ピエモンテの復活祭の迫害

教皇インノケンティウス3世(Pope Innocent III)はワルドー派の人々に教会に戻る機会を与えると宣言します。ワルドー派の信徒は教会に戻りますが、「貧しいカトリック教徒」(Poor Catholics)と呼ばれるようになります。教徒の多くは使徒的貧困を信奉し続けたので、その後数世紀にわたって激しい迫害を受けていきます。

最も激しい迫害は1655年4月24日に起こります。この迫害と虐殺はピエモンテの復活祭(Piedmont Easter)として知られるようになります。推定約1,700人のワルドー派信徒や住民が虐殺され、この虐殺はあまりにも残忍であったため、ヨーロッパ全土で憤りを引き起こしたと記録されています。

初期の粛清でピエモンテから追放されたワルドー派の牧師にヘンリ・アルノー(Henri Arnaud)がいました。彼はオランダから帰国し、ロッカピアッタ(Roccapiatta)という街での集会で感動的な訴えを行い、武装抵抗を支持する多数派の支持を獲得します。迫害団体との休戦協定が切れる4月20日に備えワルドー派は戦闘の準備を整えます。

1686年4月9日、ピエモンテを治めていたサヴォイア公(Duke of Savoy)は新たな布告を発し、ワルドー派に対し8日以内に武装を解除し、街を退去するよう命じます。ワルドー派の人々はその後6週間にわたって勇敢に戦いましたが、2,000人のワルドー派が殺害されます。さらに多くの信者がトレント公会議(Council of Trent)のカトリック神学(Catholic theology)を受け入れ改宗します。さらに8,000人が投獄され、その半数以上が意図的に課せられた飢餓または病気により6か月以内に死亡していきます。

しかし、それでも抵抗するワルドー派の人々はヴォードワ人(Vaudois)と呼ばれ、約200人から300人のヴォードワ人が他の領土に逃亡します。翌年にかけてヴォードワ人は、占拠する土地にやって来たカトリック教徒の入植者とのゲリラ戦を開始します。これらのヴォードワ人は「無敵の人たち」(Invincibles)と呼ばれ、サヴォイア公がついに折れて交渉に同意するのです。「無敵の人たち」は、投獄されている仲間を釈放し、ジュネーブ(Geneva)へ安全に移動する権利を勝ちとります。

やがてサヴォイア公は ヴォードワ人に直ちに退去するかカトリックに改宗することを要求します。この布告により、約 2,800人のヴォードワ人がピエモンテからアルプスを越えてジュネーブに向けて出発しますが、そのうち生き残ったのは 2,490人といわれました。

その後、貧困や社会的差別、人種的な偏見によりヴォードワ人は季節労働者としてフランスのリヴィエラ(Riviera)とスイスに移住します。イタリアのワルデンシア渓谷の故郷の土地は、1690年の戦いの終結以来、増え続ける人口で混雑していました。家族の農場は世代を経て分割され、再分割されていたため、将来の世代に受け継ぐ土地はほとんどありませんでした。そこで南米やアメリカなど他の国に土地を求める決定がなされます。

1892年頃、ノースカロライナ州で土地を売り出すことを知ったワルドー派の2人の先遣隊が、入植が可能かを調べるためにやって来ます。土地の広さは10,000エーカーほどで、一人はこの土地は新しい入植地として適しているだろうと考えます。もう一人は、岩が多すぎて肥沃な土壌が不十分でひどい土地であると考えます。実は後者の見方が正しかったのですが、ワルドー派は集団で土地を購入することに決めるのです。

Outdoor Drama, From This Day Forward

1893年、29人のワルドー派入植者からなる小グループが牧師のチャールズ・アルバート・トロン(Dr. Charles Albert Tron)に率いられて、イタリアからノースカロライナの新天地に移住することにします。 彼らはイタリアから鉄道でフランスに渡り、その後蒸気船ザーンダム号(Zaandam)に乗ってニューヨークに向かいます。彼らは故郷の思い出と郷愁を抱きながら、豊かで肥沃な土地での生活を期待します。ニューヨークから列車でノースカロライナへ向かいます。1893年5月29日に目的地のノースカロライナ州に到着します。1893年6月に18人の新しい入植者グループが、1893年8月に別の14人グループが、1893年11月に 161人のグループがバーク郡に到着します。しかし、彼らの豊かな農場と繁栄への夢は、寒い冬と貧しい家屋、岩の多い土壌という現実によって打ち砕かれます。

そうした試練は、彼らの神への強い信仰、勤勉、そして忍耐によってこれらの障害は克服され、ノースカロライナ州にコミュニティが設立されるのです。それが現在のヴァルデイズとなっています。ヴァルデイズでは毎年夏に「今日ここから前進するのだ」(From This Day Forward)という野外劇(outdoor drama)が催されます。ワルドー派の人々の長い迫害や辛い信仰生活、苦難の開拓の歴史を演じる内容です。

ジョン・カルビン

今日の宗教学者は、中世のワルドー派はプロテスタントの原型と見なすことができると説明します。ワルドー派はプロテスタントと歩調を合わせるようになり、やがてカルビン主義(Calvinism)の伝統の一部となります。ヨーロッパでのワルドー派は17世紀にはほぼ消滅して長老派教会(Presbyterian)に吸収されていきます。
(投稿日時 2024年3月7日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ノースカロライナ州・First in Flight

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ノースカロライナ州(North Carolina)といえばライト兄弟(Orville and Wilbur Wright) です。1903年、世界で初の有人動力飛行に成功したのがノースカロライナです。ナンバープレートには「First in Flight」と記されています。

License Plate of North Carolina

大西洋岸にあるノースカロライナ州は、周りをヴァジニア州、テネシー州、ジョージア州、そしてサウスカロライナ州に囲まれています。首都はラレイ(Raleigh)、最大の都市はシャーロット(Charlotte)です。チャペルヒル(Chapel Hill)という町には、実に綺麗なノースカロライナ大学(University of North Carolina-Chapel Hill)のキャンパスがあります。どの町も樫の木の緑が豊かです。

Map of North Carolina

ノースカロライナ州には、16世紀半ばに最初のヨーロッパ人探検家が到着するまでに、すでに 35,000人から50,000人の先住民族がいました。主に海岸平野のタカロラ族(Tuscarora)とカトーバ族(Catawba)、アパラチア山脈(Appalachian Mountains)のチェロキー族(Cherokee)が住んでいたと推定されています。1524年にジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ(Giovanni da Verrazzano)によって探検され、1585年には新大陸で最初のイギリス人入植地がロアノーク島(Roanoke Island)に設立されます。ロアノーク島は、1663年にカロライナ州の一部となります。

1650年代にヴァジニア州ジェームスタウン(Jamestown, Varginia)のイギリス植民地からヨーロッパの永住者がノースカロライナ州にやって来ます。また、ペンシルバニア州(Pennsylvania)からシェナンドー渓谷(Shenandoah Valley)を通ってピードモント州(Piedmont)に大きな荷馬車道を通ってやって来た人、ヨーロッパから船で来た人もいました。誰もが土地と厳格な階級や宗教的制限からの自由を切望していました。初期のノースカロライナ人は、さまざまな宗教、国籍、経済的および社会的階級を代表する異質な集団でした。

イギリス国教会(Anglican Church)は18世紀初頭に法律によって設立され、聖職者や典礼の権威を強調しました。それに抵抗した信徒、例えば長老派(Presbyterians)、クエーカー教徒(Quakers)、モラヴィア派(Moravians)、ルーテル派(Lutherans)、改革派(Reformed)、バプテスト派(Baptists)、メソジスト派(Methodists)、そして少数のユダヤ人らが新大陸にやって来ます。こうした人々の国籍は、イギリス、スコットランド、アイルランド、ウェールズ、スイス、フランス、ドイツに及びます。こうして白人のヨーロッパ系アメリカ人コミュニティは何世紀にもわたって拡大し、21世紀初頭までにノースカロライナ州の人口の4分の3近くに達します。

1830年代後半、現存する最大の原住民集団であるチェロキー族のほとんどがミシシッピ川(Mississippi River)西方の土地に強制移住させられます。この追放は1838年から1839年にかけて起こり、「涙の道」(Trail of Tears)として記録されています。しかし、チェロキー族やその他の先住民族の一部はノースカロライナ州に残り、21世紀初頭までに約10万人のネイティブ・アメリカンが州に住み、ミシシッピ川以東の州では最大の先住民族人口を構成します。

アフリカ系の奴隷は、初期のノースカロライナ州の人口の重要な部分を占めていました。米、藍、タバコ、綿といった労働集約的な作物は、特に1790年代に綿織機が登場してからは、州内での奴隷制度の拡大を促しました。21世紀初頭、アフリカ系アメリカ人は人口の約5分の1を占めていました。

ノースカロライナ州のヒスパニック系(Hispanic)人口は、いまだ少数派ではあるのですが、急速に増加しています。ヒスパニック系コミュニティの規模は、1990年から2000年の間に2 倍以上に増加します。同州に新たに住むヒスパニック系住民の多くは、主に農業や製造業、あるいは州の軍事施設での職を求めてメキシコからやって来た人々です。

1903年12月に,自転車屋をしながら兄弟で研究を続け、弟のオービルが動力機によって12秒間,約37mを飛行しノースカロライナ州沿岸の砂地に突込みます。ただ兄弟が世界初の本当に操縦可能な飛行機を作って飛行に成功したのは,これからさらに2年後のことです。

奴隷労働に基づく18世紀の農業経済は19世紀まで続きました。1861年に連邦から脱退。南北戦争後、脱退命令を破棄して奴隷制を廃止し、1868年に連邦に再加盟します。1940年代にはフォート・ブラッグ(Fort Bragg)を含む全米最大級の軍事施設が置かれ、経済が発展します。農村部の人口が多いのですが、ラレイ・ダーラム(Raleigh-Durham)地域ではハイテク産業が拡大しています。生産物はタバコ、トウモロコシ、そして家具などの製造業が盛んです。ノースカロライナ州の白人と黒人の生活条件の格差は依然として存在しますが、同州ではますます多くのアフリカ系アメリカ人が教育、芸術、スポーツ、ビジネス、政治の分野で重要な地位を獲得しています。

ノースカロライナ州は科学技術の研究開発が非常に盛んなところです。その中心は研究の三角地帯(Research Triangle)と呼ばれるラレイ、ダーラム、チャペルヒル(Chapel Hill)の三つの町です。三つはちょうど三角形のように点在しています。この地域は東部きっての学術や研究エリアで、150もの企業が集中し「東のシリコンバレー」と呼ばれるほど発展しています。

農業生産品は鶏卵、豚、牛、牛乳の他にタバコ、大豆が主要なものです。他にも織物、化学工業、電子機器、製紙も知られています。意外なことですが、ノースカロライナ州はカリフォルニア州以外で最大の映画制作を行っている州の1つでもあります。

スポーツも盛んな地です。特に大学バスケットボールとフットボールは全米でも有数です。大学間での競争が激しいことにもよります。デューク大学(Duke University)、ウェイクフォレスト大学(Wake Forest University)、ノースカロライナ州立大学(North Carolina State University)、ノースカロライナ大学が競っています。ノースカロライナ大学は、アメリカで最初に生まれた公立大学としても知られています。

ノースカロライナには、「タールのついた踵の州」(Tar Heel State)といって「粘り強い、苦境にもまけない州と人々」という意味のニックネームがついています。1987年に私はチャペルヒルにあるノースカロライナ大学でLDの研究者を訪ねたことがあります。その名前と町並みが印象に残っています。
(投稿日時 2024年3月6日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ネバダ州・The Silver State

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ネバダ州(Nevada)のナンバープレートには「The Silver State」とあります。「Home Means Nevada」と印字されたのもあります。西にカリフォルニア州、北にオレゴン州、東にユタ州(Utah)、南にニューメキシコ州に囲まれています。州都はカーソンシティ(Carson City)。最大の街はラスベガス(Las Vegas)となっています。

この地域に人類が定住したのは2万年以上前のことといわれ、先史時代の居住者の証拠である住居跡や岩絵が残っています。初期の居住者はショショーネ族(Shoshone)やパイユート族(Paiute)、ワショー族(Washoe)です。18世紀にはスペインの宣教師が、1820年代には毛皮商人のジョン・フレモント(John C. Fremont)とキット・カーソン(Kit Carson)による大規模な探検と地図作成が行われる前に到着していました。

Map of Nevada

ネバダ人の大多数はヨーロッパ系の祖先を持ち、そのうちの5分の4以上がアメリカ国内で生まれています。ネバダ人のごく一部は、ピレネー(Pyrenean)の故郷から羊飼いとして徴兵されたバスク人(Basques)に祖先をたどります。主にメキシコとキューバ系のヒスパニック系住民が州住民の約4分の1を占め、南東部に集中しています。アフリカ系アメリカ人は主にラスベガスとリノ(Reno)地域に住んでおり、人口の10分の1以下です。パイユート族、ショショーネ族、ワショー族(Washoe)のネイティブ アメリカンはいくつかの居留地に住んでおり、州の人口のほんの一部を占めています。


ネバダ州は1848年にメキシコからアメリカに割譲された土地の一部で、ユタ準州(Utah Territory)に含まれました。1859年にヴァジニア・シティ(Virginia City)で豊富な銀鉱脈であるコムストック・ロード(Comstock Lode)が発見されると、入植者が増加します。1861年にネバダ準州となり、1864年にはアメリカ36番目の州となりました。大恐慌の時代にギャンブルが合法化され、近代経済への移行が始まっていきます。フーバー・ダム(Hoover Dam)の建設がネバダ州南部の経済を助けます。伝統的な経済基盤である鉱業と農業は、政府活動や観光業によって影を潜めていきます。

ネバダという名前は、スペイン後で雪がかぶった山々という意味の「Sierra Nevada」から由来すると言われます。北部は砂漠地帯、南部や渓谷と山となっています。ラスベガスの北104キロのところに1951年1月11日に設置されたネバダ核実験場(Nevada Test Site)があります。最後の大気圏内実験は1962年7月、地下核実験は1992年9月となります。この地域は合衆国の中でも最も核爆発回数の多かった場所となります。戦後はしばしば新聞紙上でネバダでの核実験の記事が掲載されたものです。

ネバダの主産業は合法化されたカジノ(casinos)を代表とする娯楽産業と鉱業です。最大都市はラスベガスで、世界有数のカジノ街として名高いです。また、州西部のリノ(Reno)もカジノの町として知られています。24時間営業のカジノは、合法ギャンブル業界で最も広く知られている側面です。カジノに付随する重要な施設は、高級ホテル、グルメレストラン、ゴルフ コース、ナイトクラブなどのライブエンターテイメントです。

観光とその関連活動は、鉱業、農業、製造業を合わせたよりも多くの収入をもたらし、労働力の5分の2以上を雇用しています。何百万人もの人々がミード湖(Lake Mead)やタホ湖(Lake Tahoe)その他のレクリエーション地域や景勝地を訪れますが、観光の中心は主にネバダ州に特有のカジノというスポットです。

鉱業はネバダ州経済の中で依然として重要な位置を占めています。金の産出は有名で世界第4位となっています。ネバダ州中部の田舎の郡に特有なのは合法売春(legal prostitution)ですが、これらの地域では近年、売春を非合法化する取り組みが高まっています。

1850年代のカリフォルニア・ゴールドラッシュ(California Gold Rush)で数多い中国人が抗夫としてワショー郡(Washoe County)に入ってきて以来、アジア系アメリカ人が州内に住むようになります。中国人に続いて19世紀後半には日系人が農業労働者としても移住してきます。州を潤していた鉱産資源が底を突き始めると人口流出が深刻となります。州政府は窮余の策として移住者の離婚を認め、定住者の娯楽と産業創出のためにカジノを公認するようになったとあります。

ネバダは乾燥地帯で疫病が少ないため住みやすく、諸税の少なさから都市部での人口増加や企業進出が顕著となっています。主要な宗教グループはモルモン教徒(Mormons)とローマ・カトリック教徒(Roman Catholics)です。プロテスタント(Protestant)にはさまざまな宗派があり、少数のユダヤ人(Jewish)も住んでいます。

州の大半を砂漠が占めており、農業はほとんどみられません。そのため気候は砂漠の影響で夏は乾燥して高温、冬は厳しい寒さが襲います。寒暖の差は合衆国で一番といわれています。
(投稿日時 2024年3月5日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューヨーク州・The Empire State

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ニューヨーク州(New York)のナンバープレートには「The Empire State」と印字されています。戦後しばらく、世界一高い建物といわれたEmpire State Buildingの影響があるようです。なんでも世界一が好きなアメリカのことです。ニューヨークは確かにそのような風格と内容を備えてはいますが、少々いかつい印象もぬぐえません。

License Plate of New York

ヨーロッパの植民地化以前は、アルゴンキン族(Algonquian)とイロコイ族(Iroquois)がこの地域に住んでいました。1524年、ジョヴァンニ・ヴェラッツァーノ(Giovanni Verrazzano)がニューヨーク湾(New York Bay)にやってきます。1609年に、ヘンリー・ハドソン(Henry Hudson)とサミュエル・ド・シャンプラン(Samuel de Champlain)がニューヨーク湾を探検し、やがてオランダ人らが入植を開始します。1664年、ピーター・スタイヴェサント(Peter Stuyvesant)によってオランダの植民地ニューネザーランド(New Netherland)が作られます。しかし、その後やってきたイギリスに降伏し、ニューヨーク湾を放棄します。そしてニューヨークと改名されます。

フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)が起こり、ニューヨーク北部と中部で小競り合いが始まり、この地域におけるイギリスの支配が確立します。アメリカ独立戦争では、タイコンデロガ(Ticonderoga)やサラトガ(Saratoga)など多くの戦いの舞台となります。ベネディクト・アーノルド(Benedict Arnold)によるウェストポイント(West Point)もイギリスへの謀反の舞台となりました。

最終氷河期(Ice Age)の間、後退する氷河が現在のニューヨークの地形を削り出しました。ハドソン川(Hudson River)とモホーク川(Mohawk River)の渓谷の形成により、キャッツキル山脈(Catskill Mountains)とアディロンダック山脈(Adirondack Mountains)を突破するL字型の通路が形成されました。ハドソン川の河口から旅をしていた初期の探検家や入植者は、五大湖やその先へ行くためにこの道をよく利用しました。このルートの大部分を利用して、エリー運河(Erie Canal)が19世紀初頭に建設されました。この運河はハドソン川とエリー湖を結びました。1825年の開港後、貿易が発展し、ニューヨークがアメリカ商業の最前線に立つことになります。

Map of New York

ニューヨークは17世紀初頭のオランダ人入植後、すぐにアメリカ大陸への主要な玄関口になります。1840年代以来、ニューヨーク市はアメリカのるつぼ(melting pot)として膨張し、ヨーロッパ全土から、後にはラテンアメリカ(Latin America)、アジア、アフリカ、その他の世界の地域からの何百万人もの移民にとって機会の場所となってきました。港にあるリバティ島(Liberty Island)には、自由の像(Statue of Liberty)、自由の女神が立っています。

なにを取り上げても話題の尽きない州です。最大の都市はニューヨークですね。州都はニューヨークから300キロも離れた人口10万人足らずのアルバニー(Albany)。ニューヨーク州は正三角形に近い形をしています。ニューヨーク州の境界には五大湖のうちの2つのエリー湖(Lake Erie)とオンタリオ湖(Lake Ontario)があります。カナダのオンタリオ州とケベック州(Quebec)と国境を接し、コネチカット州、ヴァモント州、マサチューセッツ州、ニュージャージー州、そしてとペンシルベニア州と隣接しています。

1800年代後半から1900年代初頭にかけて、エリス島(Ellis Island)は合衆国の主要な移民ステーションとなりました。この島はアッパーニューヨーク湾(Upper New York Bay)にあり、ニューヨーク市の一部であるマンハッタン島の南西約1.6 km、ニュージャージー海岸(New Jersey shore)のすぐ東にあります。


この島は、1770年代に島を所有していたマンハッタンの商人サミュエル・エリス(Samuel Ellis)にちなんで名付けられました。1808年、ニューヨーク州はこの島を連邦政府に売却します。やがて移民センター(immigration center)は1892年に開設されます。それから1924年までの間に1,200万人以上の移民がエリス島に上陸し、そこで医師による検査を受け、入国手続きを受けました。ほとんどの人は入国が許可されますが、重病人や障害者は拒否されました。拒否された移民は祖国に送り返されました。

エリス島は、1924年に移民をより厳しくする法律が議会で可決されると、この島の重要性が低下します。1943年に移民の受付がニューヨーク市本土に移された後も、エリス島は移民問題を抱えた人々の収容所として機能し続けます。やがて1954年にエリス島のセンターは閉鎖されます。この島は1965年に自由の女神国定公園(Statue of Liberty National Monument)の一部となり、1976年に観光客に再開されました。1980年代に政府は島の建物を修復し、現在はエリス島移民博物館(Ellis Island Immigration Museum)となっています。

今やニューヨークは合衆国50州の中で傑出した地位を占めています。その大都市であり港であるニューヨーク市は、アメリカ最大の都市です。長い間この国の文化的および金融の中心地となるこの街は、新生した国の最初の政治的な首都でした。伝統によれば、1784年、ジョージ・ワシントン(George Washington)が初代大統領としてニューヨーク市に就任する5年前に、ニューヨークを「帝国の本拠地」(seat of empire)として構想し、その結果、エンパイア ステート(Empire State)というニックネームが生まれたとも言われています。

1789年に合衆国が共和制になったとき、ニューヨーク州は人口で州の中で5位にランクされました。 新しい国の初期の数年間、この州は急速に成長し、1820 年の国勢調査では第一位に躍り出ました。ニューヨーク州は1960年代半ばまで人口で州のトップであり続けましたが、その後カリフォルニア州に追い抜かれました。それでも、ニューヨークは全米で最も人口の多い州にランクされており、1年間に生産される商品とサービスの合計額州総生産は、一部の国を除くすべての国を上回っています。

ニューヨークの人口のほとんどは都市に集中しています。歴史的に、都市化はエンパイアステートに繁栄だけでなく問題ももたらしました。都市部の混雑した状況により、時には困難な生活環境がもたらされることがあります。現在の社会的不平等に対する州の対応としては、労働者の権利を守る強力な法律、少数派を保護するプログラム、巨額の福祉手当などが挙げられています。

1777年にニューヨークが最初の州憲法を採択し、1797年には州都がニューヨークからアルバニーに移転します。1825年にエリー運河(Erie Canal)が開通し、州西部の開発に拍車がかかります。19世紀にはニューヨーク市でタマニー・ホール(Tammany Hall)という民主党の政治団体の影響力が強まり、票の買収操作による政治腐敗によって市と州との間に緊張が走ったこともあります。かつてはバッファロー(Buffalo)、ロチェスター(Rochester)、シラキュース(Syracuse)など各都市の製造業が経済の中心でありました。現在はニューヨーク市に集中するサービス業が中心となっています。


北東部の森林に覆われたアディロンダック(Adirondack)斜面、中央および西部地域のなだらかな丘陵地帯、セントローレンス川(St. Lawrence River)とオンタリオ湖とエリー湖の草原が、州の大部分の田園風景を形成しています。エリー湖からオンタリオ湖に流れるところにナイアガラの滝(Niagara Falls)があります。この辺りはニューヨーク州とカナダのオンタリオ州との国境になっています。19世紀の終わりまで、ニューヨークは国の主要な農業州でありました。乳製品や果物、野菜の生産では依然として上位にランクされていますが、21世紀の州経済ではサービスと製造業が農業をはるかに上回っています。

ニューヨーク市は世界経済、商業、コミュニケーションの中心地です。多くの企業の本社がここにあります。またショービジネスなど娯楽産業の中心でもあります。年間4700万人の観光客が訪れます。国際連合はじめ公共機関も沢山あります。9・11の影響がいまだに続いてはいますが、急速な回復はニューヨークのバイタリティを感じます。公共交通網も張り巡らされ、多くの交通機関は24時間運行となっています。ニューヨーク市のニックネームは「Big Apple」。その由来は、大恐慌時代に失業者が市内でリンゴ売りをしていたとか、ジャズマンが使い始めたとか、1800年代に街には一番美味しい「リンゴ」(隠語で売春婦)がいたという説などです。

ニューヨークではBBQを賞味したいものです。シシカバブ(shish kebab)です。もともとはトルコからの移民がもたらした料理ですが、ニューヨークにもすっかり定着しました。市内にはたくさんのBBQレストランがあります。私にとってのニューヨークですが、私はセントラルパーク(Central Park)を走り、家内はメトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum- Met)へ、院生はミュージカルを楽しんだようです。友人の教員がBBQレストランに連れて行ってくれたのが思い出です。
(投稿日時 2024年3月3日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューメキシコ州・Land of Enchantment

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ニューメキシコ州(New Mexico)のナンバープレートには「Land of Enchantment」(魅了してやまない地)とあります。晴天に恵まれた気候と風光明媚な観光スポットが観光客を惹きつけます。山々や高原にはバケーション・リゾート(Vacation resorts)がたくさんあります。カールスバッド洞窟(Carlsbad Caverns)やホワイトサンズ国立公園(White Sands National Parks)では、ユニークな自然の驚異が見られます。史跡や手つかずの自然が広がる地域は、他の国立公園地域や州立公園、国定記念物に保存されています。

License Plate of New Mexico

この地域への人類の定住は、おそらく1万年前に及ぶといわれます。15世紀にナバホ族(Navajo)とアパッチ族(Apache)がやってくる前に、プエブロ(Pueblo)インディアンの農耕文明が灌漑システムや断崖住居を発展させます。その遺跡が州内の至る所に残っています。16世紀にメキシコからのスペイン人がこの地域をスペイン領とし、1540年にフランシスコ・バスケス・デ・コロナド(Francisco Vazquez de Coronado)が探検してきました。最初の入植は1610年のサンタフェ(Santa Fe)だったようです。

Map of New Mexico

ニューメキシコ州は最も若い州の1つですが、米国西部で最も古い白人入植地です。ヴァジニア州(Virginia)ジェームスタウン(Jamestown)の設立から3年後の1610年、スペイン人入植者がサンタフェを設立します。スペイン人は16世紀に征服したメキシコから北に来て、リオグランデ川(Rio Grande)の北の土地を「ヌエボ メキシコ」(Nuevo Mexico)、またはニューメキシコ(New Mexico)と呼びました。「メキシコ」という呼び名は、スペイン人が到着したときにそこを支配していたアステカ族(Aztec)の別名である「メキシカ」(Mexica)に由来しています。

1600年代にはキリスト教の宣教師が活躍します。1821年にメキシコの一部となり、米墨戦争(Mexican-American War) 終結後の1848年にアメリカに割譲されます。ニューメキシコ準州は1850年に連邦議会によって設立され、1912年にアメリカの47番目の州となり、フロンティアのイメージを保持していきます。第二次世界大戦は経済と社会の変化に拍車をかけ、ロスアラモス(Los Alamos)を含む研究施設ができます。今日の経済は原材料の輸出と連邦政府の支出に大きく依存しており、石油と天然ガスも重要となっています。観光業はニューメキシコの主要産業となっています。

ニューメキシコを訪れた人の多くは、再びそこに定住し、ネイティブアメリカン、ヒスパニック系(Hispanic)アメリカ人、アングロアメリカンといった多様な人口構成となり、3つの文化が融合しています。この州は、英語とスペイン語の2つの公用語がある唯一の州です。しかし、この巨大な州には依然として人口がまばらです。面積では50州中5位ですが、人口密度では45位にすぎません。

平野の大部分は牛や羊の放牧に使用されています。国土の約5分の1が森林となっています。水が利用できる場所では、ニューメキシコ州の支えて非常に肥沃な土壌がトウモロコシや小麦などの生産を支えています。しかし、重要なダムや灌漑プロジェクトが完了したにもかかわらず、水の保全は依然として州にとって大きな問題となっています。

この州の最大の都市はアルバカーキー(Albuquerque)です。今では伝説的となりましたが、かつてビル・ゲイツ(Bill Gates) がパソコンのOSを開発した町です。現在、人口の45%がヒスパニックです。加えて、今でもネイティブ・アメリカンが全米で第三位を占める位、多く住んでいます。ですが面積からするとアメリカで最も人口密度が低い州といわれています。州都は、かつてメキシコの総督府が置かれていたサンタ・フェです。歴史・芸術・文化の豊かな州都です。観光はサンタ・フェの経済を支えています。温暖な気候や、冬のスキー、夏のハイキングなど野外活動の機会に恵まれています。

芸術の町サンタフェには、ジョージア・オキーフ美術館(Georgia O’Keeffe Museum)があります。アメリカを代表する画家の一人です。彼女は高校時代をウィスコンシンのマディソン(Madison)で育ち、その後シカゴとニューヨーク市で美術を学ます。そこで写真家のアルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz)と結婚しました。1920年代初頭までに、『Black Iris』(1926年)などに代表される、非常に個性的な画風を示します。

オキーフの主題は、動物の頭蓋骨やその他の骨、花や植物の器官、貝殻、岩、山、その他の自然の形態の拡大図などでした。遠近感のない空間を背景にした彼女の神秘的で暗示的な骨や花のイメージは、エロティック、心理的、象徴的なさまざまな解釈にインスピレーションを与えてきました。彼女の後期の作品は、1946年に夫の死後に移住したニューメキシコ州の澄んだ空と砂漠の風景を称賛しています。批評家からは、彼女は最も独創的で重要なアメリカの芸術家の一人とみなされており、彼女の作品は一般大衆の間でも非常に人気があります。

サンタフェのダウンタウンの歴史地区、特に総督府に隣接するプラザ(Plaza)にはメキシカンフードの人気レストランが立ち並んでいます。町並みは日干しの土で作られた建築物アドービ(Adobe)です。砂、砂質粘土とわらなどの素材でつくられる建材です。熱を吸収してもゆっくりと放出するので建物の中は涼しく、ニューメキシコのような暑くて乾いた地に適しているといわれています。ニューメキシコ州は、そびえ立つ山々、赤い岩、不毛の砂漠が広がる風光明媚な高地です。その自然の美しさの中に、歴史的なアメリカ先住民の村、スペインの伝道所、そして初期の祖先プエブロ族が残した素晴らしい崖の住居があります。

Downtown Santa Fe

ナバホ、プエブロ、アッパチインディアンが住む居留地で作られる民芸作品、各地にある大小の博物館の展示物、そして大自然が観光客を魅了しています。ネイティブ・アメリカンとメキシコの文化と芸術を最も身近に接することができる州といえましょう。これらの観光スポットは観光産業の繁栄を支え、この州の「魅惑の国」というニックネームを不動のものとしています。

ニューメキシコは日本にとって忘れることのできない州です。砂漠のど真ん中にある町、ロスアラモスは巨大な研究都市です。国防総省が武器を開発しています。ここで製造された原子爆弾(Little Boy)が博物館に展示されています。複雑な思いのする場所です。私はこれまで二度ニューメキシコ州を訪れました。ウィスコンシンから家族を呼んで再会した所でもあります。
(投稿日時 2024年3月2日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューヨーク州・The Empire State

ニューヨーク州(New York)のナンバープレートには「The Empire State」と印字されています。戦後しばらく、世界一高い建物といわれたEmpire State Buildingの影響があるようです。なんでも世界一が好きなアメリカのことです。ニューヨークは確かにそのような風格と内容を備えてはいるようですが、少々いかつい印象もぬぐえません。

なにをとりあげても話題の尽きない州です。最大の都市はニューヨークですね。州都はニューヨークから300キロも離れた人口10万人足らずのアルバニー(Albany)。州の西端にはナイアガラ瀑布(Niagara Fall)があるのをご存じですか。ニューヨーク州は正三角形に近い形をしています。ニューヨーク州の境界には五大湖のうちの2つのエリー湖(Lake Erie)とオンタリオ湖(Lake Ontario) があります。カナダのオンタリオ州とケベック州(Quebec)と国境を接し、コネチカット州、ヴァモント州、マサチューセッツ州、ニュージャージー州、そしてとペンシルベニア州と隣接しています。

ヨーロッパの植民地化以前は、アルゴンキン族(Algonquian)とイロコイ族(Iroquois)がこの地域に住んでいました。1524年、ジョヴァンニ・ヴェラッツァーノ(Giovanni Verrazzano)がニューヨーク湾(New York Bay)にやってきます。1609年に、ヘンリー・ハドソン(Henry Hudson)とサミュエル・ド・シャンプラン(Samuel de Champlain)がニューヨーク湾を探検し、やがてオランダ人らが入植を開始します。1664年、ピーター・スタイヴェサント(Peter Stuyvesant)によってオランダの植民地ニューネザーランド(New Netherland)が作られます。しかし、その後やってきたイギリスに降伏し、ニューヨーク湾を放棄します。そしてニューヨークと改名されます。

フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)が起こり、 ニューヨーク北部と中部で小競り合いが始まり、この地域におけるイギリスの支配が確立します。アメリカ独立戦争では、タイコンデロガ(Ticonderoga)やサラトガ(Saratoga)など多くの戦いの舞台となります。ベネディクト・アーノルド(Benedict Arnold)のウェストポイント(West Point)もイギリスへの謀反の舞台となりました。

ニューヨークは合衆国50州の中で傑出した地位を占めています。その大都市であり港であるニューヨーク市は、アメリカ最大の都市です。長い間この国の文化的および金融の中心地となるこの都市は、新生した国の最初の政治的な首都でした。伝統によれば、1784 年、ジョージ・ワシントン(George Washington)が初代大統領としてニューヨーク市に就任する5年前に、ニューヨークを「帝国の本拠地」(seat of empire)として構想し、その結果、エンパイア ステート(Empire State)というニックネームが生まれたとも言われています。

1789年に合衆国が共和制になったとき、ニューヨーク州は人口で州の中で5位にランクされました。 新しい国の初期の数年間、この州は急速に成長し、1820 年の国勢調査では第一位に躍り出ました。ニューヨーク州は1960年代半ばまで人口で州のトップであり続けましたが、その後カリフォルニア州に追い抜かれました。それでも、ニューヨークは全米で最も人口の多い州にランクされており、1年間に生産される商品とサービスの合計額州総生産は、一部の国を除くすべての国を上回っています。

ニューヨークの人口のほとんどは都市に集中しています。歴史的に、都市化はエンパイアステートに繁栄だけでなく問題ももたらしました。都市部の混雑した状況により、時には困難な生活環境がもたらされることがありました。現在の社会的不平等に対する州の対応としては、労働者の権利を守る強力な法律、少数派を保護するプログラム、巨額の福祉手当などが挙げられています。

ニューヨークは17世紀初頭にオランダ人入植者によって植民地化されました。ニューヨークはすぐにアメリカ大陸への主要な玄関口になります。1840年代以来、ニューヨーク市はアメリカのるつぼ(melting pot)として機能し、ヨーロッパ全土から、後にはラテンアメリカ(Latin America)、アジア、アフリカ、その他の世界の地域からの何百万人もの移民にとって機会の場所となってきました。港にあるリバティ島(Liberty Island)には、自由の像(Statue of Liberty)、つまり自由の女神が立っています。ホームレスや抑圧されている人々にとっての避難所と自由の象徴です。

最終氷河期(Ice Age)の間、後退する氷河が現在のニューヨークの地形を削り出しました。ハドソン川(Hudson River)とモホーク川(Mohawk River)の渓谷の形成により、キャッツキル山脈(Catskill Mountains)とアディロンダック山脈(Adirondack Mountains)を突破する L 字型の通路が形成されました。ハドソン川の河口から旅をしていた初期の探検家や入植者は、五大湖やその先へ行くためにこの道をよく利用しました。このルートの大部分を利用して、エリー運河(Erie Canal)が19世紀初頭に建設されました。この運河はハドソン川とエリー湖を結びました。1825年の開港後、貿易が発展し、ニューヨークがアメリカ商業の最前線に立つことになりました。

1777年にニューヨークが最初の州憲法を採択し、1797年には州都がニューヨークからアルバニーに移転します。1825年にエリー運河(Erie Canal)が開通し、州西部の開発に拍車がかかります。19世紀にはニューヨーク市でタマニー・ホール(Tammany Hall)という民主党の政治団体の影響力が強まり、票の買収操作による政治腐敗によって市と州との間に緊張が走ったこともあります。かつてはバッファロー(Buffalo)、ロチェスター(Rochester)、シラキュース(Syracuse)など各都市の製造業が経済の中心でありました。現在はニューヨーク市に集中するサービス業が中心となっています。

北東部の森林に覆われたアディロンダック(Adirondack)斜面、中央および西部地域のなだらかな丘陵地帯、セントローレンス川(St. Lawrence River)とオンタリオ湖とエリー湖の草原が、州の大部分の田園風景を形成しています。19世紀の終わりまで、ニューヨークは国の主要な農業州でありました。乳製品や果物、野菜の生産では依然として上位にランクされていますが、21世紀の州経済ではサービスと製造業が農業をはるかに上回っています。

ニューヨーク市は世界経済、商業、コミュニケーションの中心地です。多くの企業の本社がここにあります。またショービジネスなど娯楽産業の中心でもあります。年間4700万人の観光客が訪れます。国際連合はじめ公共機関も沢山あります。9・11の影響がいまだに続いてはいますが、急速な回復はニューヨークのバイタリティを感じます。公共交通網も張り巡らされ、多くの交通機関は24時間運行となっています。ニューヨーク市のニックネームは「Big Apple」。その由来は、大恐慌時代に失業者が市内でリンゴ売りをしていたとか、ジャズマンが使い始めたとか、1800年代に街には一番いい「リンゴ」があったという(隠語で売春婦)説などです。

ニューヨークの由緒のある所の紹介です。エリス島(Ellis Island)は忘れることができません。ニューヨーク湾内にあって、19世紀にヨーロッパからの移民が到着したのがこの島です。かつての移民管理局 (Immigrant Station)移民は1800年頃から1954年まで使われ、今は博物館となっています。自由の女神は、合衆国の独立100周年を記念してフランスより寄贈され、1886年に造られました。ヨーロッパからやってきた人々が船上からこの像を眺めて、新天地への憧れを抱いた所といわれています。

ニューヨークではBBQを賞味しないといけません。シシカバブ(shish kebab)です。もともとはトルコからの移民がもたらした料理ですが、ニューヨークにもすっかり定着しました。たくさんのBBQレストランがあります。私にとってのニューヨークですが、私はセントラルパーク(Central Park)を走り、家内はメトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum- Met)へ、院生はミュージカルを楽しみました。友人の教員がBBQレストランに連れて行ってくれたのが思い出です。

休憩ブラック・スピリチュアルズ

注目

霊歌ときくと、「黒人霊歌」という言葉がすぐに浮かびがちです。本稿では、この言葉ではなく、時代の流れにそって「ブラック・スピリチュアルズ」」(black spirituals)という用語を使うことにします。霊歌とは、「北アメリカの白人と黒人の精神的とか霊的な民族音楽や民俗讃歌である」とブリタニカ国際大百科事典(Britannica International Encyclopedia)に掲載されています。霊歌には、白人と黒人の霊歌があるというのです。白人とは、通念として北ヨーロッパ系のアメリカ人といわれます。

まずは白人の霊歌というジャンルです。これは、リバイバル(revival)音楽やキャンプ集会の歌そして、少数の他の讃美歌が含まれます。リバイバル歌とは、信仰復興運動の形式である伝道集会とかクルセード(Crusade)と呼ばれる集会で、信者の信仰が励まされ、未信者が信仰に導かれるように歌われるものです。未信者をある種の高揚状態にさせて回心に導くような想定です。リバイバル歌は、さまざまな背景から生まれたのですが、主に旧約聖書(Old Testament)にある「詩篇」(Psalm)が下敷きとなっています。詩篇は、讃美、祈り、感謝、悔い改め、また神に対する信頼を謳っています。その言葉は神の言葉でありながら、人間の視点で表現されているのが特徴といわれます。20世紀の伝道集会で有名な牧師はビリー・グラハム(Billy Graham)です。世界中で伝道集会を開き、日本でも多くの信者や未信者を集めたことで知られています。

Rev. Billy Graham

キャンプ集会とは、開拓期にキリスト教の長老派(Presbyterian)といわれる教会から始まった集会様式のことで、大規模な野外での天幕集会とか伝道集会を意味します。会衆が詩篇を読めない場合は、指導者が歌詞を一行ずつ読み上げ、会衆は与えられた各行をなじみのあるメロディーに合わせて歌うという手順を交互に行います。ゆっくりと歌われるこの曲は、優雅さに溢れ、各歌手が自分の心地よいピッチレベルで独自に即興で装飾していきます。このスタイルは、20世紀においても辺鄙な地域や白人や黒人の教会でも引き継がれています。

霊歌のもう一つの源です。18世紀の信仰覚醒運動(faith awakening movement)と呼ばれるものです。メソジズム(Methodism)の創始者であるジョン・ウェスレー(John Wesley)らは、教義上の違いからイングランド国教会(Church of England)から訣別します。そして自らが、詩篇のみに依拠しないで讃美歌を作曲していきます。また他からメロディーを引用するなど、世俗的な民謡に合わせて歌を作ります。こうした福音主義の讃美歌の多くはその後に受け継がれていきます。福音主義とはキリストが伝えた福音にのみ救済の根拠があるとする思想のことです。

18世紀後半から19世紀半ばまで、信仰覚醒主義の波が続きました。覚醒主義から生まれたキャンプの集会とリバイバルは、自発的な集団歌唱によって特徴付けられているといわれます。曲の歌い方の典型は男性の高い声で始まり、男性の低音や女性がオクターブ上、または下のオクターブ、または他の快適な音程も加わります。呼び出しと応答のパターンが繰り返され、メロディーは和音で装飾されていきます。歌詞には繰り返しがあり、曲ごとに違っていました。歌手のインスピレーションによって新しい曲が即興で作成されていくのです。曲のテーマには、旧約聖書に登場する「約束の地への帰還」、「サタンの敗北」、「罪に対する姿勢」などの主張が含まれていました。 典型的な繰り返しとしては「ロール、ジョーダン」(Roll Jordan)とか「グローリー、ハレルヤ」( Glory Hallelujah)などが歌われます。 こうして歌われた曲の多くは民俗讃美歌集としてまとめられていきます。

さて本題の「ブラック・スピリチュアルズ」の話題に入ります。以前は「negro spirituals」と呼ばれるのが普通でしたが、現代的な解釈によって「African American spirituals」とも呼ばれるようになりました。ブラック・スピリチュアルズは、主に白人の田舎の民謡から発展してきたといわれます。 例えば、黒人も白人も同じキャンプ集会に参加して、黒人の演奏スタイルがリバイバルソングに逆影響を与えたともいわれます。このように、多くのブラック・スピリチュアルズは白人の民族音楽の伝統にも存在しています。

ヨルダン川

ブラック・スピリチュアルズは、声の質、声の効果、リズミカルな伴奏の種類などで白人霊歌とは著しく異なります。ブラック・スピリチュアルズは礼拝だけでなく労働歌や作業歌としても歌われ、歌詞のイメージは従事していた仕事や作業の姿を反映していることがよくあります。ハンマーソング(hammer song)がそうです。例えばかつて北大合唱団が歌った「This Old Hammer」では、トンネル掘りでずば抜けて優れたハンマー打ちのジョン・ヘンリー(John Henry)が蒸気ドリルと競争して勝つのですが、疲労困憊して倒れるという歌詞です。「Go Down Old Hannah 」という曲は、毎日、厳しい日射しのなかで強制労働をさせられている黒人囚人が太陽に向かって、「もう沈んでくれ、もう登ってくれるな」と叫ぶのです。Hannahとは太陽の呼び名です。

ブラック・スピリチュアルズは自由とか救済を求め、主の御許に導かれるようにと祈る歌でもあります。例えば、「Deep River」はヨルダン川(Jordan River)の向こう岸には自由な故郷があると待望する歌です。生と死の境に「Deep River」があると象徴的に解釈される歌詞となっています。類似する歌に「Michael Row the Boat Ashore」があります。ヨルダン川の向こう岸は約束の地カナンがあり、「そこにたどり着けばこんな辛く苦しく明日の見えない毎日から開放されるのだ、マイケルよ、ボートを漕ぐんだ」という歌詞となっています。

Moses

旧約聖書の「出エジプト記」(Exodus)で、民を率いて脱出し40年にわたって荒野を流浪し「約束の地」にたどり着くモーゼ(Moses)を歌った「Go Down Moses」があります。モーゼの従者であったヨシュア(Joshua)が、指導者として約束の地に入るべくヨルダン川を渡ってエリコ(Jericho)の砦を攻めるのを歌ったのが「Joshua Fit the Battle of Jericho」です。北大合唱団もこの曲を取り上げたことがあります。こうしたブラック・スピリチュアルズは、神への信頼、現実からの脱出、救い、来世での希望、生まれかわり、などが主題となっています。

ブラック・スピリチュアルズは、シンコペーションの多いリズムや「ペンタトニック」(Pentatonic)と呼ばれる五音音階などが特徴です。音楽的には、アフリカと白人の民俗音楽の要素が複雑に絡み合い、アフリカ音楽と白人の民謡の特徴が互いに影響し合った音楽と考えられています。アフリカ音楽の伝統には、多声歌や合唱も含まれていました。リング・シャウト(ring shout)と呼ばれるリーダーと会衆とが掛合いで歌い,興奮が高まるような歌い方、歌と手拍子の伴奏による宗教的な踊りはアフリカ起源のものです。

Hammer Songs

南北戦争後、ブラック・スピリチュアルズは北部のアメリカ人によって取り上げられ、しばしば洗練された合唱団によって歌われ、調和されたバージョンに発展します。と同時に特に農村部や特定の宗派で古い伝統的なスタイルとしてが保存されるようになります。その一つに「ノアの箱舟」(Noah’s Ark)という霊歌があります。これも旧約聖書の「創世記」(Book of Genesis)にある物語です。「ノアの箱舟」は、神が人類の堕落を怒り大洪水に際し、神の指示に従ってノアは箱形の大舟をつくり、家族と雌雄一対のすべての動物を引き連れ、よって人類や生物は絶滅を免れるという物語です。

この曲の演奏を聴くと、19 世紀から 20 世紀初頭にかけて、プロテスタントのキリスト教の讃美歌やリバイバル集会の霊歌、さまざまなポピュラースタイルなど、ヨーロッパ系アメリカ人の音楽の伝統が感じられます。曲はリフレインを伴う詩的なものであり、ノアの個人的な宗教的な体験を描写し、救いの重要性を強調していることが伝わります。歌手のジェシー・ノーマン(Jessye Norman)やマリアン・アンダーソン(Marian Anderson)らが霊歌も歌っていました。

Gospel Singers

Jessye Norman

次ぎに「ゴスペル・ソング」(Gospel Song)のことです。霊歌と間違えやすいのですが、異なった音楽ジャンルといわれます。「ゴスペル」とは福音書とか福音的という意味です。19 世紀の信仰覚醒に根ざしたアメリカ発祥のプロテスタント音楽が「ブラック・ゴスペル・ソング」です。霊歌が白人の教会音楽と黒人音楽の融合のジャンルであるのに対して、ゴスペルは黒人の心情表現やリズムに、アフリカ的なシンコペーションなどの特徴があるといわれます。リング・シャウトと同じような意味の「コール・アンド・レスポンス」(Call and Response)、つまり掛け合いを使い、コンサートなどでは、演奏者の呼びかけに対して観客が応えるといった按配です。

現代のブラック・ゴスペル・ソングもスピリチュアルなものの産物であり、世俗的な黒人音楽である労働歌やブルースに対するスピリチュアルな音楽と同様に密接な関係があります。伝統的な手拍子による伴奏に加えてジャズのリズムや楽器が含まれることが多く、ダンスも含まれます。こうして何十年にもわたって、白人と黒人の両方の伝統が、歌の出版、コンサートや録音、宗教礼拝のラジオやテレビの放送を通じて広められてきました。

Mahalia Jackson

1992年のコメディ映画に「天使にラブ・ソングを、」(原題 Sister Act)がありました。この中で、沢山のゴスペル・ソングが歌われました。「Oh Happy Day」、「I’ll Follow Him」、「Hail Holy Queen」、「You Can’t Beat God Giving」といった曲目です。ウーピー・ゴールドバーグ(Whoopi Goldberg)が演じたのはシスターの見習いで聖歌隊の指揮者です。礼拝では教会の伝統的な聖歌を歌い始めるのですが、途中から一転アフリカ的なシンコペーションに手拍子を加え、軽快なリズムで会衆を驚かせるのです。この映画は、日本のゴスペル音楽の普及に大きな貢献をしたと思われます。

20 世紀後半、ゴスペル音楽は人気の商業ジャンルに発展し、アーティストが世界中をツアーしました。世界で最も影響力のあるゴスペル歌手に後に「ゴスペルの女王」といわれマヘリア・ジャクソン(Mahalia Jackson)がいます。彼女は公民権運動にも積極的に関わり、マーチン・ルーサー・キング牧師(Rev. Martin Luther King, Jr)の葬儀で歌い、後にジョン・F・ケネディ大統領(John F. Kennedy)の就任式でも歌唱します。彼女を抜きにしてゴスペル・ソングの音楽史に与えた影響を語ることはできないでしょう。

(投稿日時 2024年3月01日)  成田 滋

ナンバープレートから見えるアメリカの州ニュージャージー州・Garden State

注目

ニュージャージー州(New Jersey)のナンバープレートには、自然豊かな地を示す「ガーデンステート」(Garden State)とあります。平等の州 (Equality State)とか、なぜかカウボーイ州 (Cowboy State)というニックネームを持っている州です。

License Plate of New Jersey

ニュージャージーは、ニューヨーク(New York)のハドソン川(Hudson River)の対岸、そしてデラウエア(Delaware)の北東、西はペンシルバニアに接しています。州都はトレントン(Trenton)となっています。ニューヨークの隣なので、多くの人が電車で通勤しています。フィラデルフィアもそうです。最大都市はニューアーク(Newark)でアトランティック・シティ(Atlantic City)は東海岸随一のカジノシティ(Casino City)として知られています。その向かいにはマンハッタン(Manhattan)が見えます。現在は最も都市化が進み、混雑した州の一つでもあります。しかし、北東部の都市の密度は、北西部の険しい丘陵地帯、南東部の広大な松林(pine forest)、および州南中央部の起伏に富んだ緑豊かな馬の国とははっきりと対照的です。ニュージャージー州は重要な産業の中心地ですが、環境汚染、汚れと騒音、渋滞した道路やスラム街という代償を払ってきました。ニュージャージー州は、都市と田舎、貧しいものと裕福な人、保守的なものと進歩的なもの、偏狭なところと国際的なものが奇妙に混ざり合っています。そのようなわけで、合衆国の中で最も多様性を示す州の一つといわれています。

独立戦争と南北戦争の間に、運河や後の鉄道建設に後押しされ、著しい工業化が進みます。18世紀に農業が盛んだったことからガーデンステートと呼ばれるようになりましたが、経済は主に製造業が中心で、多くの研究施設や研究所が位置しています。アトランティック・シティに代表される観光業も重要な経済となっています。

Map of New Jersey

ニュージャージー州の歴史です。イギリスから最初に独立した13州のうちの一つでもあり、その歴史は古いです。ヨーロッパの植民地化以前、この地域にはデラウェア(Delaware)インディアンの部族が住んでいた。ジョヴァンニ・ヴェラッツァーノ(Giovanni Verrazzano)とヘンリー・ハドソン(Henry Hudson)によって発見されたのですが、最初に入植したのはオランダとスウェーデンの商人たちでした。

やがてイギリスのジャージー島(Jersey Islands)からの移民が増加し、1649年に名前がNew Jerseyとなります。そこから長らくイギリスの植民地となります。独立戦争の頃、ニュージャージーは依然としてイギリスの支配下にありました。植民地軍とイギリス軍がこの州をまたいで大きな戦いが繰り広げられます。1776年、ジョージ・ワシントン将軍がデラウェア川を渡った後に率いた戦いを含め、アメリカ独立戦争ではトレントンとプリンストン(Princeton)の戦いなど数々の戦いの舞台となりました。そのため、州のニックネームはやがてThe Crossroads of the Revolution(革命への交差路)といわれます。

ニュージャージー州の地域で最も特徴的なのは、200kmにも及ぶ長い海岸線です。その大部分は、浅瀬(lagoons)によって本土から隔てられ、また潮の入り江によって互いに隔てられている細長い防波島で構成されています。州の南端にあるケープ メイ(Cape May)は、国内で最初の避暑地の1つであり、そのコミュニティとモンマス郡(Monmouth)のロングブランチ(Long Branch)はどちらも19世紀には大統領の休養地として知られました。有名なザ・ショア(The Shore)と呼ばれるところは、アズベリー・パーク(Asbury Park)の都会的な派手さから、ディール(Deal)やマントロキング(Mantoloking)の豪華な地域として良く知られています。

ワイルドウッド(Wildwood)やアトランティック・シティなどのリゾートでは、ナイトライフが楽しめますが、アバロン(Avalon)、オーシャンシティ(Ocean City)、ビーチヘブン(Beach Haven)などの他の海辺の町は家族向けのリゾートです。家族向けのジャージー・ショア(Jersey Shore)は、ゲートウェイ国立保養地(Gateway National Recreation Area)の一部であるサンディフック(Sandy Hook)と南の州立公園であるアイランドビーチ(Island Beach)の2つの公園で見ることができます。その辺りの砂丘は粗くてもろい草で覆われており、ミサゴ(osprey)がそこに巣を作っています。湿地には野生生物が生息し、木々は風や塩水しぶきによってねじれています。ニュージャージー州の5分の2以上が森林なのです。

ニューヨーク市都市圏の北東部5つの郡には、ニュージャージー州の人口のほぼ5分の2が含まれています。州の6つの最大都市のうち、ニューアーク、ジャージーシティ(Jersey City)、パターソン(Paterson)、エリザベス(Elizabeth)の4つがそこにあります。 ニューアーク、ハドソン郡、エリザベスの複合施設は、多くの旅行者にとっては商業生活で活気に満ちた、果てしなく続く工業都市のように見えます。

ニュージャージーが生んだ有名な人物としてトーマス・エディソン(Thomas Edison)が挙げられます。電球や蓄音機を発明し、生涯で1,093の特許登録をしたといわれます。学校教育はたったの3か月しか受けず、残りはホームスクールで学んだ人です。12歳までに聴力をすっかり失っています。余談ですが、私たちがジャージーと呼んでいる服は、ジャージー島で17世紀以来作られてきた漁夫のシャツに由来しています。
(投稿日時 2月29日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州デラウェア州・The First State

注目

デラウェア州(Delaware)の紹介です。合衆国の建国に関わった13植民地のうちで最初に憲法を批准したのがデラウェア州です。1787年のことです。ナンバープレートには「First State」とか「Centennial State」と誇るように記されています。デラウェア族が住んでいたことからこの州名がつけられます。

License Plate of Delaware


デラウェアですが東はニュージャージー州、北はペンシルバニア州、西はメリーランド州と接しています。東海岸のチェサピーク湾(Chesapeake Bay)とデラウェア湾に面し、ロードアイランド州(Rhode Island)に次いで2番目に面積が小さい州です。州都はドーバー(Dover)です。

デラウェア州における先住民の歴史に少し触れます。デラウェア州は、ヘンローペン岬(Cape Henlopen)からロングアイランド(Long Island)西部までの大西洋岸を占領したアルゴンキン語(Algonquian)を話す北米インディアンの連合でした。植民地化される前は、彼らは特にデラウェア川流域に集中しており、この流域にちなんで連合が名付けられました。しかし、デラウェア族は伝統的に自分たちを「本物の人々」(real people)を意味するレナペ(Lenape)とかレニ・レナペ(Lenni Lenape)と呼んでいました。

Map of Delaware

伝統的に、デラウェア州は主に農業に依存しており、狩猟と漁業も経済への重要な要素でした。夏の農村地域には数百人が住んでいて、冬には小さな家族の集団が僅かの領土を旅して狩りをしていした。デラウェア州の人々は、母系に基づく3つの氏族のいずれかのメンバーでした。ロングハウス(longhouse)と呼ばれるグループが自治コミュニティの中核を形成していました。

デラウェア族はウィリアム・ペン(William Penn)に最も友好的なアメリカ先住民でした。ペンは宗教家でクエーカー教徒であり後にペンシルベニア植民地総督を務めた人物です。デラウェア族は悪名高いウォーキング・パーチェス(Walking Purchase)という条約によって報酬を得ます。この条約の文書は署名がないか、承認していないが、あるいはあからさまな偽造であったといわれています。条約は、レナペ族の土地を収奪し、イロコイ族(Iroquois)に割り当てられた土地への定住を強制するものでした。やがてヨーロッパの植民者に侵略され、1690 年以降はイロコイ族に支配された彼らは段階的に西に流れ、オハイオ州のサスケハナ川(Susquehanna)、アレゲニー川(Allegheny)、マスキンガム川 (Muskingum)、インディアナ州のホワイト川(White River)に逗留します。

60年間の避難生活を経て、オハイオ川の向こうに住むデラウェア州の人々は部族同盟を再燃させ、イロコイ族からの独立を主張し、進入してくる入植者に抵抗していきます。彼らはフレンチ・インディアン戦争(Frenchi-Indian War)でイギリスの将軍エドワード・ブラドック(Edward Braddock)を破り、当初は独立戦争では北軍を支援するのです。1795年のグリーンビル条約(Treaty of Greenville) で、彼らはオハイオ州の土地を譲渡し種族の多くは散り散りになります。1835年までに一部はカンザスに再び集ますが、ほとんどは186 年にオクラホマ州に移されます。21世紀初頭のデラウェア州の子孫の数は16,900人以上でした。

デラウェア最初の白人定住地は、1638年にスウェーデン人がフォート・クリスティーナ(Fort Christina)、現在のウィルミントン(Wilmington)に築きます。1655年にニュー・スウェーデン(New Sweden)は、ニュー・アムステルダムのオランダ軍(Dutch of New Amsterdam)に、1664年にはイギリス軍に占領されてしまいます。その後、デラウェアは1682年にウィリアム・ペンに割譲されるまでニューヨークの一部でした。

1704年に独自の議会が認められたものの、1776年まではペンシルベニア州が統治していました。1787年に合衆国憲法を批准した最初の州であり、全米で2番目に小さいのですが、人口密度は最も高い州の一つとなっています。主要産業は化学製造業で、次いで食品加工業となっています。デラウェア州で最も重要な交通幹線はチェサピーク・デラウェア運河(Chesapeake Delaware Canal)で、外洋航路のために水深が深くなり、フィラデルフィア(Philadelphia)とボルチモア(Baltimore)間の水路が短縮されます。

デラウェア州で有名なのは、大財閥企業デュポン・ド・ヌムール社(DePont de Nemours)であす。フランスの貴族ピエール・デュポン(Pierre DePont)が州最大の都市ウィルミントンに火薬工場を作り、やがてアメリカ有数の化学企業となります。ついでに「Pierre」とはギリシャ語で「石」という意味です。英語ではPeter、スペイン後ではPedroと発音されます。

この州には多くの法人が登録されています。法人税が安いため籍だけを置く会社が多いというのです。アメリカならではの話題です。
(投稿日時 2024年2月28日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州テネシー州・Volunteer State

注目

テネシー州(Tennessee)のナンバープレートには「Volunteer State」とあります。米英戦争の時代、1815年のニューオーリンズの戦い(Battle of New Orleans)で志願兵が傑出した働きをしたと記録されています。この戦いでイギリス軍を破り、ルイジアナやテネシーが植民地から解放されていきます。「Volunteer State」のフレーズはそれに由来しています。

License Plate of Tennessee

16~17世紀にスペイン、フランス、イギリスの探検家たちがこの地を訪れたとき、チカソー族(Chickasaw)、チェロキー族(Cherokee)、ショーニー族(Shawnee)などの原住民が住んでいました。最初の定住は1770年頃で、1785年までノースカロライナ州の一部でしたが、入植者たちが分離独立し、自由州フランクリン(Franklin)が形成されます。ノースカロライナは1789年に領有権を放棄し、テネシーは1796年にアメリカ合衆国16番目の州となります。1861年に連邦(Union)から離脱し、南北戦争の激戦地となったシロー(Shiloh)、チャタヌーガ(Chattanooga)、ストーンズ・リバー(Stones River)、ナッシュビル(Nashville)の戦いがここで起こります。

テネシー州名の由来です。18世紀初頭、イギリス人交易業者がモンロー郡(Monroe)で「タナシ」(Tanasi)というチェロキー族の町に出くわしたことが原型のようです。州境でケンタッキー州、ミズーリ州、ヴァジニア州など8つの州と接しています。最大の都市はメンフィス(Memphis)ですが、州都はナッシュビル(Nashville)となっています。「チュチュトレイン」のチャタヌーガ(Chattanooga)もこの州にあります。産業では、タバコ、綿花、そして大豆などの農産物が有名です。

Map of Tennessee

18 世紀に多くの数のヨーロッパ人が現在のテネシー州に移住し始めました。この地域にはすでにさまざまな先住民族が住んでおり、注目すべきは西のチカソー族(Chickasaw)と東のチェロキー族(Cherokee)です。しかし1830年代、ほとんどの先住民は州を離れ、いわゆるインディアンカントリー(Indian Country)と呼ばれたオクラホマ州の居留地に移住することを余儀なくされます。そのような理由で今日、ネイティブアメリカンは人口のほんの一部にすぎません。

最初のヨーロッパ人入植者は主にスコットランド系アイルランド人とイギリス人の祖先でした。ドイツ人も多く含まれていました。ヨーロッパ人はアフリカ系黒人の奴隷を連れてきましたが、19 世紀のテネシー州中西部での綿花栽培の拡大により、黒人の人口は大幅に増加します。しかし、20世紀になると、多くのアフリカ系アメリカ人がテネシー州を離れ、相当数の白人アメリカ人がテネシー州に移住してきます。21 世紀初頭、テネシー州の人口の約5分の4は白人で、約6分の1はアフリカ系アメリカ人となりました。

テネシー州には、1770年代の白人入植時にこの地域に定住していたチェロキー族とチカソー族を中心としたネイティブ アメリカンの豊かな伝統が息づいています。スモーキー山脈(Smoky Mountains)地域に住んでいたチェロキーは、白人の侵入にもかかわらず、テネシー州東部に独特の遺産を残しました。辺境の課題に対応して、テネシー州の白人入植者は強い独立した姿勢を示し、それがしばしば州政や国政に現れていきます。1812年の南北戦争の英雄であり、第7代アメリカ合衆国大統領であるテネシー州のアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)は、1830 年代の民主党を庶民の党へと導きます。1840年代にテネシー州出身で合衆国の大統領となったジェームス・ポーク(James K. Polk)も同様です。南北戦争と独自の再建によって大きく分断されたテネシー州は、強固な民主党南部の一部となりますが、多くの地域では豊かさや魅力の面で他の州より遅れていました。19 世紀後半の実業家の夢は、第二次世界大戦と中央政府の支出によって新たな種類の産業活動が促進され、20世紀後半に実現していきます。

1929年10月24日、通称暗黒の木曜日(Black Thursday)にアメリカで起こった株式市場の暴落で始まった世界恐慌で、失業者の雇用を生み出す必要が起こります。そこで1933年にテネシー川流域開発公社(TVA)が設立されます。これがテネシー計画(Tennessee projects)です。TVAは理事会によって統治される公開企業でテネシー川の流域全体を管轄し、アラバマ(Alabama)、ジョージア(Georgia)、ケンタッキー(Kentucky)、ミシシッピ(Mississippi)、ノースカロライナ(North Carolina)、テネシー、バージニア(Virginia)の7つの州の一部をカバーしていきます。

ニューディール政策(New Deal)の主要な公共事業プロジェクトの1つとして議会によって設立されたTVAは、地域の慢性的な洪水を制御するためのダムシステムを構築し、航行を改善するために水路を深くし、川沿いの港湾施設の開発を進めていきます。このプロジェクトにより、川の交通量が大幅に増加し、安価な電力が供給され、慢性的に低迷していた地域経済の産業発展が促進されるのです。

テネシーはカントリーウエスタン(Country Western)の発祥の地です。エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)もここの出身。彼が主に音楽活動を行ったのがメンフィスです。ナッシュビルにも沢山の南部のライブを楽しめるところがあります。その響きはBluegrassと呼ばれるアコースティック音楽のジャンルです。演奏にはギター、マンドリン、フィドル(ヴァイオリン)、ギターなどの楽器が使われます。アパラチア南部に入植したスコッチ・アイリッシュといわれる北アイルランドやスコットランドから移住した人たちの伝承音楽をベースにしているようです。

Bluegrassはアップテンポの曲が多く、楽器には速弾きなどの即興演奏(インプロヴァイズ)もあります。もちろん、ブルース感を表現する弾き方やハーモニーにも特徴があります。ナッシュビルへ行ったら必ず本場のBluegrassを楽しむべきです。戦後大いに流行った恋の歌にテネシーワルツ(Tennessee Waltz)があります。歌っていたのはパティ・ページ(Patti Page)で、日本では江利チエミが歌っていました。懐かしいですね。

さらにTVAによってもたらされた豊富な電力を活かしたマンハッタン計画(Manhattan Project)が推進されます。東テネシーは核分裂中性物質の生産と分離を行う拠点となります。その場所としてオークリッジ(Oak Ridge)が選ばれ、オークリッジ国立研究所(Oak Ridge National Laboratory)が 建設されます。この研究所では、基礎研究から応用の研究開発まで、多方面にわたって活動が始まります。クリーンで豊富なエネルギーの研究、自然環境の保全の研究、安全保障に関する研究などです。そのお陰でオークリッジの町は経済や文化で重要な役割を果たしています。


アパラチア山脈を中心とするグレート・スモーキー山脈国立公園(Great Smoky Mountains National Park)は、ハイカーが押し寄せるところです。公園の95%は森で、その1/4は原生林といわれます。生物相が極めて豊かで、112キロのアパラチア自然歩道やハイキングコースが整備され、年間900万の人々がここで休暇を楽しむようです。

私にとってのテネシーはナッシュビルにあるバンダービルト大学(Vanderbilt University)を数回訪れたことです。ここにあるピーボディ教育学部(Peabody School of Education)は研究と教員養成でアメリカ有数の大学として知られています。
(投稿日時 2024年2月26日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州テキサス州・The Lone Star State

注目

テキサス州(Texas)のナンバープレートには「The Lone Star State」とあります。メキシコからの独立という願いとして、テキサスの州旗に白い星を一つあしらったといわれています。これがLone Starの由来です。テキサスは面積、人口ともに全米で2番目に大きい州です。 北部のレッド川(Red River)はオクラホマ州との州境の3分の2を占め、東部はアーカンソー州と一部接しています。サビーン川(Sabine River)がルイジアナ州との州境の大部分を形成しています。

License Plate of Texas

テキサス(Texas)という名前は、カド(Caddo)族の言葉で「友人」または「同盟者」を意味します。「友人」や「同盟者」は「テイシャ(Teja=táysha)と呼ばれたようです。1500年代にスペインの探検家たちが到着した時、カド族はこの地域に住んでいた先住民の一つでした。探検家たちはtejasまたはtexasと綴り、この地域にこの名前をつけたといわれます。

1528年にスペイン人が到着した時、アパッチ族を含むネイティブ・アメリカンはこの地域に住んでいました。最初の入植は1685年にフランス人によって試みられ、フランス人はこの地域をルイジアナの一部と主張します。1803年、アメリカはルイジアナ購入でフランスの領有権を獲得しますが、1819年の条約でスペインに譲渡します。そして1821年のメキシコ独立によりメキシコの一部となります。

Map of Texas

1836年、テキサス人はメキシコからの独立を宣言すると、メキシコ共和国軍とテキサス分離独立派(テキサス反乱軍)の間で戦争が始まります。その最も激しかったのがアラモの戦い(Battle of the Alamo)といわれます。1836年2月23日から3月6日の13日間にテキサス側の拠点とされ戦闘の舞台は、アラモ伝道所(Fort Alamo)です。

大統領兼将軍であるサンタ・アナ(Antonio Santa Anna)の部下であったマルティン・デ・コス(Martín Perfecto de Cos)はサンアントニオ包囲を命じられます。テキサス反乱軍はアラモの任務を防衛の根拠地を強化していきます。テキサス正規軍の部隊はウィリアム・トラヴィス大佐(William Travis)が指揮し、ジェームズ・ボウイ大佐(James Bowie)が守備側の最大の分遣隊である民兵を指揮します。約150人の兵士と約20門の大砲からなる部隊がメキシコ軍の進軍を待っていました。

戦争初期の交戦に参加したテキサス人の多くは故郷に戻っていたため、守備の拠点であるゴリアド(Goliad)とサンアントニオの守備隊の大部分は、冒険を求めて北部から到着した志願兵で構成されていました。彼らは開拓者として土地を獲得するという期待から、アラモに惹かれた人々でした。その中には、伝説的な人物で、かつてはテネシー州議会議員でもあったデイビー・クロケット(Davy Crockett)もいました。

アラモ守備陣の援軍への要請は、トラビスが送ったテキサス人とアメリカ人に支援を求める手紙に強く反映されていました。しかし、戦闘前に追加部隊が到着したのはわずか約30名であったようです。アラモの守備兵の実際の数の推定はさまざまで、通常は183人から189人位だったといわれます。

サンタアナ軍は2月23日にアラモに到着し、メキシコ軍の包囲と攻撃が始まります。砲撃は3月6日のメキシコ軍の攻撃まで続き、アラモの守備兵は全員死亡します。非戦闘員の女性、子どもや奴隷数名は生き残り、撤退を許可されました。サンアントニオ(San Antonio)中心街の一角にアラモ伝道所の遺跡があります。1960年にジョン・ウエイン(John Wayne)が製作・監督した「The Alamo」という映画が作られました。

テキサス州は国内のどの州よりも農場が多いことで知られます。東テキサスの肥沃な土地は、南北戦争前に綿花農家を惹きつけ、南北戦争後の数年間、綿花は州の主要作物となります。機械化農業が発展するにつれ、綿花生産はテキサス州西部のハイプレインズ(High Plains) へと移り、灌漑と肥料が豊作をもたらし、綿花生産におけるテキサス州の全国的な地位を不動のものとします。ときには、干ばつによる不作が続き、作物の多様化が進んでいきます。灌漑の導入により、リオ・グランデ・バレー下流(Rio Grande Valley)では大規模な野菜と果物の生産が行われるようになります。20世紀半ば以降、テキサスはソルガム(sorghum)、ピーナッツ、トウモロコシの主要生産地ともなります。

牛、羊、ヤギの飼育では他州をリードしています。国内で生産されるモヘア(mohair)のほぼすべては、テキサスのアンゴラ山羊からとれます。19世紀の広大な内陸部の牧畜帝国は、沿岸部に移行する傾向となり20世紀には綿花の生産が盛んになります。商業漁業はテキサス州の経済に大きく貢献しており、メキシコ湾岸の60以上の港から小さな船団が出漁しています。ブラウンズビル(Brownsville)は国内最大級のエビトロール船団の中心地となっています。エビ漁は経済的にテキサス漁業の最大かつ最も重要な産業です。

テキサス州は、石油と天然ガスの生産量と石油精製能力では依然として他州をリードしています。メキシコ湾や内陸部に油田が多く、エクソンモービル(Exxon mobil)などの石油会社の本社があります。電子機器、航空宇宙部品、その他のハイテク製品の製造はますます重要性を増しています。アメリカン航空(American Airline)、コンチネンタル航空(Continental Airline)、AT&Aなど多くの企業の本拠地となっています。カリフォルニア、ニューヨークと並ぶ商業や経済の中心です。

現在の州都はオースチン(Austin)ですが、近年特に人気が高い町がリバー・ウォーク(River Walk)のあるサンアントニオ(San Antonio)です。リバー・ウォークは小さな河の両岸にレストランが並んでいます。散歩、船下りにも楽しいところです。今や年間1,000万人以上が訪れる全米有数の観光都市としても知られています。研究者を集める多くの学会もここで開かれています。

オースチンの学校を見学したことがあります。引率の教師はピックアップトラックで案内してくれました。サンアントニオは学会発表で行ったのですが、発表を終えてからアラモ砦を見学し、夕食場所のリバー・ウォークへ向かいました。
(投稿日時 2024年2月26日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ジョージア州・Peach State

注目

ジョージア州(Georgia)のナンバープレートには桃(peach)がデザインされています。この州はスイカ、メロンなどの果物が多いのです。特に桃は有名なので「Peach State」、「桃の州」と呼ばれています。ここの桃は、日本の桃とは違い、少し堅めの肉感がします。甘みも結構ありますが、日本の桃とは比べられません。そのかわり安価で助かります。ナンバープレートのデザインは明るくのどかなものです。ジョージア州のモットーに「南部の帝国」(The Empire of the South)というのもあります。

ジョージア州名は、植民地設立の勅許をイギリスの軍人ジェームズ・オグルソープ(James Oglethorpe)に与えたイギリス国王ジョージ二世(George II)に由来します。悲劇もあります。1830年、アンドリュー・ジャクソン大統領(Andrew Jackson)がインディアン移民法に署名します。そして東部にいた多くのインディアンを現在のオクラホマ州にあった居留地に移住させる決定をします。これにはジョージアにいた全ての部族も含まれていました。1835年にチェロキー族(Cherokee)連合に対して行われた強制移住です。約15,000名のチェロキーのうち4,000から5,000名が途上で死亡したといわれます。この逃避行は「涙のトレイル」(Trail of Tear)と呼ばれました。その途中でインディアンは「Amazing Grace」という讃美歌を歌って気分を高めたともいわれます。

ジョージア州の居住パターンは、物理的な地理と同じくらい多様性に富んでいます。州の先住民族は、1500年代初頭のヨーロッパ人との接触の時点で、すでに豊かで複雑な村ベースの文明を確立していました。1700 年代にイギリス人入植地はマスコギー(Muskogee)と呼ばれていた先住する先住民部族との文化的対立を引き起こし、その世紀後半から1800年代初頭にかけて白人入植者が着実に西に移動するにつれて激化しました。元々の英国植民地の1つであり、最初に合併した州の1つであるジョージア州は、アメリカ独立戦争後に、米と綿花を栽培し、増加する黒人奴隷人口に大きく依存するプランテーション社会として台頭しました。

Map of Georgia

20世紀になると、ジョージア州の主要都市が拡大し、ジョージア州の人口は徐々に田舎の性格を失います。1980年代から90年代にかけて、州の南西部と中央部にある古い綿花地帯の多くは人口が減少していきます。しかし、これらの損失は、80kmも離れたアトランタ郊外での大幅な利益によって大幅に相殺されていきます。大西洋岸のサバンナ(Savannah)とブランズウィック(Brunswick)周辺の地域も急速な成長を遂げています。南部諸州の中で、ジョージア州は1970年代以降、フロリダに次ぐ人口増加が一般的となり、1990年代にはその増加はフロリダを上回りました。

Rev. King Center


ジョージア州等の南部の諸州は「バイブル・ベルト」(Bible Belt)という名称で呼ばれます。「福音派プロテスタント」というキリスト教の宗派が社会と政治において特に強い役割を担っている地域のことを指します、住民も一般的に社会に対して保守的であり、他の地域の人々よりも教会への出席率が高いのです。主にプロテスタントであり、アフリカ系アメリカ人コミュニティでは特にバプテスト教会とメソジスト教会が強い州となっています。

南部のアトランタ(Atlanta)はジョージア州最大の都市であり州都です。21世紀初頭には、州の繁栄は主にサービス業を基盤とするようになります。その中心は、アトランタとその周辺がその大部分を占めます。特にアトランタは、州の主要な公益企業、銀行、食品・飲料、情報技術産業の本拠地であり、企業本社の立地としてはまさに国内有数の都会となっています。アトランタの先進的なイメージと急速な経済・人口成長に後押しされ、ジョージア州は20世紀後半には、全体的な繁栄と全国的な社会経済規範の浸透で、深南部(Deep South)の他の州を大きく引き離していきます。コカコーラやCNN、保険会社アフラック(Aflac)の本社などがあることでも知られています。

ジョージア州は映画の舞台でもあります。「風と共に去りぬ」(Gone with the Wind)を書いたマーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)の記念館-The Margaret Mitchell House-がダウンタウンにあります。マーチン・ルーサー・キング(Martine Luther King Jr.)牧師が説教していたエベネゼル・バプティスト教会(Ebenezer Baptist Church)、そして師の功績を称えるThe King Center博物館は必ず立ち寄るべきところです。政治では第39代大統領となったジミー・カーター(Jimmy Carter)がでたところです。

大西洋側に前述したサバンナの港町があります。植民地時代は、サバンナは綿花のヨーロッパへの輸出港でした。今も貯蔵倉庫が建ち並び、多くのレストランなどに改装されています。マスターズ・トーナメント(Masters Tournament) のゴルフ大会が開かれるのがオーガスタ(Augasta)です。メンバーは世界中に約300名、会員になるためには数10年程待たなければならないそうです。

ちょっと寄り道ですが、コーカサス山脈(Caucasus Mountains)に囲まれ、黒海に面する国に「ジョージア」があります。もともとはソ連邦の一部で「グルジア」(Gruziya)と呼ばれていました。合衆国のジョージア州とは全く関係がありません。一度、ネブラスカ大学の友人からメールが来て、「今、ジョージアにいて学生に特別講義をしている」というものでした。てっきり南部のジョージア州だと思いましたが、首都のトビリシ(Tbilisi)にいるとのことで了解しました。

グルジアは1783年にロシアの保護を求め、1801年にロシア帝国に併合されます。1917年のロシア革命(Russian Revolution)の後、この地域は短期間独立します。1921年にソビエト政権が樹立され、1936年にグルジアはソビエト連邦の正式加盟国となります。1990年、ソビエト・グルジアで史上初めて行われた自由選挙で非共産主義連合が政権を獲得し、1991年にグルジアは独立を宣言し、海外からは「ジョージア」と呼ばれるようになります。2003年にジョージアのエドゥアルド・シェワルナゼを大統領辞任に追い込んだ暴力を伴わない革命が起こります。これは通称「バラ革命」と呼ばれます。現在はロシアとの対立路線をとることが多いといわれます。独裁者ヨセフ・スターリン(Joseph Stalin)は「グルジア」の出身でした。

ジョージアは黒海(Black Sea)の南東海岸、コーカサス山脈内に位置している共和国です。グルジアは1783年にロシアの保護を求め、1801年にロシア帝国に併合されました。1917年のロシア革命(Russian Revolution)の後、この地域は短期間独立しました。1921年にソビエト政権が樹立され、1936年にグルジアはソビエト連邦の正式加盟国となりました。1990年、ソビエト・グルジアで史上初めて行われた自由選挙で非共産主義連合が政権を獲得し、1991年にグルジアは独立を宣言します。

私は、アメリカ留学のために英語の研修を2か月受けました。その場所はジョージア州のステイトボロ(Stateboro)という小さな町にあるカレッジです。家族を引き連れての2か月の滞在でした。国際ロータリー財団(Rotary International Foundation)からの50名くらいの奨学生と一緒に、短期間でしたが南部の人々の親切さ(Southern Hospitality)と温暖な気候を満喫しました。

ジョージアに来て始めていろいろなことを知りました。コンビニもそうで、セブンイレブン(Seven-eleven)が大きなスーパー店の側にあるのです。タバコの競り市に行ったときです。人々がしゃべっていることが全く分かりません。南部訛り(Southern Drawl)というのを体験しました。いわば南部アクセントです。南部訛りは、ゆっくりとした話し方で、母音を引き伸ばすように話します。アクセントの配置にも特徴があります。例えば「police」の発音は、「ポ・リース」と、リースの部分を伸ばして発音するのが一般的です。イギリス英語と少し似ていて、carやfarの最後のrをはっきりと発音しない特徴もあります。そのせいもあってか、私の英語には南部訛り(Southern Drawl)があるようです。

毎日3時頃になると決まってスコールが通り過ぎます。市営ブールで遊ぶ子ども達はプールから出なければなりません。それと、午後にはスイカやメロン、ピーチを積んだトラックがきます。スイカはラクビーボールのような形です。滞在していたアパートの前にピーカン(peacon)の木がありました。くるみに似ているナッツで、始めて賞味しました。実に美味しかったのを覚えています。
(投稿日時 2024年2月25日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州サウスカロライナ州・Smiling Faces, Beautiful Places

注目

サウスカロライナ州(South Carolina)のナンバープレートには「Smiling Faces, Beautiful Places」とあります。このモットーは他には見られないほど輝いて珍しいです。北部でノースカロライナ州、南部と西部でサバンナ川(Savannah River)を境に位置するジョージア州、及び東部で大西洋と接している、いわば南部の州です。州都で最大の都市はコロンビア(Columbia)です。サウスカロライナ州は温暖な気候に恵まれています。イギリスの植民地下の影響が、建物などにもその面影があちこちに残っています。ウスカロライナ州は広い海岸平野と、内陸のなだらかな山麓地帯(piedmont)から成ります。

License Plate of South Carolina

17世紀後半に白人ヨーロッパ人がこの地域に定住するまで、先住民は現在のサウスカロライナ州に何千年も住んでいました。ヨーロッパとの接触後、人口は急速に減少しましたが、数千人のアメリカ先住民が今でも州内に住んでいます。カトーバ族(Catawba)とピーディー族(Pee Dee)は、サウスカロライナ州のアメリカ先住民グループの中で最大ではありませんが、連邦と州の両方から認められています。カトーバ族は、サウスカロライナ州の北中部に居留地を有する唯一のネイティブ・アメリカン・グループです。

1521年にサウスカロライナ州を最初に訪れたヨーロッパ人は、イスパニョーラ島(Hispaniola)出身のスペイン人探検家サント・ドミンゴ(Santo Domingo)でした。1526年、ルーカス・バスケス・デ・アイヨン(Lucas Vásquez de Ayllo)は、1526年にサウスカロライナ州に最初の白人ヨーロッパ人入植地と考えられる拠点を定めますが、このスペイン植民地は数カ月以内に崩壊します。ジャン・リボー(Jean Ribaut)率いるフランスのプロテスタントは、1562年にポート・ロイヤル(Port Royal)の地域を占領しようと試みましたが失敗します。数年後の1566年にスペイン人が戻り、近くのパリス島(Parris Island)にチャールズフォート-サンタエレナ(CharlesFort-Santa Elena)を建設しました。ここは1587年まではスペインの重要な拠点でした。チャールズ・フォート-サンタエレナ遺跡は、フランス人の入植地の考古学的遺跡が含まれていて、1562年に定住し、翌年に放棄されます。後のスペインの遺跡には、放棄されたチャールズ要塞の遺跡の上に直接建てられた砦が含まれています。この砦と他の近くの建造物非常に良い保存状態なので、初期のフランスとスペインの植民地生活を理解する上での重要性から、2001年に国定歴史建造物に指定されます。

1665年、初代クラレンドン伯爵(Clarendon)のエドワード・ハイド(Edward Hyde) と他の7人のイギリス貴族は、チャールズ2世(Charles II)から緯度29度から36度30分の広大な領土にカロライナ植民地を設立するという勅許状を受け取ります。これら8人の譲受人はカロライナの領主所有者として知られ、土地を自由に処分することができました。イギリス人は1670年にこの地域で最初の定住地をアルベマール ポイント(Albemarle Point)地域のアシュリー川(Ashley River)西岸に作りました。10年後、政府とほとんどの住民はチャールズ・タウン(Charles Town)に建設され、それが今日のチャールストン(Charleston)となります。

植民地は次第に成長し、1720年までに人口は約19,000人になり、ほぼ海岸沿いに定住しました。先住民との貿易と鹿皮の輸出が主な収入源であり、1710年以降は海軍の物資であるテレビン油、タール、その他の松製品が盛んに輸出されました。

Map of South Carolina

1729年、植民地は北と南の2つの州に分割されました。ジョージア州は1731年に南部から切り離されて設立されます。王室統治下でサウスカロライナ州は繁栄し、アメリカと藍色の染料であるインディゴ(indigo)の輸出がその富の増大に貢献しました。この貿易の成功に基づいて、チャールストンは黄金時代を迎えます。次第に洗練された文化的な都市として認識されるようになりました。

ペンシルベニア州から陸路に流入したスコッチ系アイルランド人(Scotish Irelander)の入植者が1760年以降に内陸部で急増し、その後の政治的代表の要求により、海岸側のローカントリー(Low Country)のプランテーション所有者と内陸側のアップカントリー(Up Country)の小規模農民との間で紛争が発生しました。アメリカ独立戦争中にイギリス軍がチャールストンを占領しますが、サウスカロライナ州では、主にイギリスからの自由を要求する愛国者と王室を支持する忠誠派の間の内戦が起こりました。アメリカの2つの大きな勝利は、キングス・マウンテン(Kings Mountain)とカウペンズ(Cowpens)での戦いです。

18世紀後半から19世紀初頭にかけて綿花プランテーションが拡大したため、数万人のアフリカ人が奴隷としてこの若い地に運ばれてきます。南北戦争の後、特定の地域の解放された奴隷は自分たちが働いていた土地を所有することができました。それによって何世代にもわたって自分たちの伝統とコミュニティを定着させることができました。

サウスカロライナ州の海の島々(Sea Islands)の大部分は20世紀になっても地元のアフリカ系アメリカ人の手に残り、21世紀初頭になっても黒海の島民(Black Sea Islanders)の中には英語から派生したガラ語(Gullah)を話すことができる人もいました。ガラ語とは、プランテーション時代にまで遡る西アフリカの言語です。19 世紀後半には、サウスカロライナ州の総人口の約5分の3が黒人でしたが、特に20世紀の大移住の間、大部分が都市化された州への北方への大量の移住により、この割合は大幅に減少しました。20世紀後半以来、アフリカ系アメリカ人はサウスカロライナ州の人口の約10分の3を占めています。

アメリカ独立戦争の間、いくつかの軍事作戦がサウスカロライナで戦われました。イギリスから最初に独立した13州のうちの一つがこのサウスカロライナ州となっています。1788年にサウスカロライナは合衆国憲法を批准した8番目の州となり、1860年には連邦から離脱した最初の州となりました。1860年に共和党のリンカーンが大統領となります。そして黒人差別の撤廃政策などを訴えます。それに反対したサウスカロライナ州は連邦から離脱し、アメリカ連合国(Confederate States of America: CSA)を結成します。これに賛同した州はミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州です。そして南北戦争(Civil War)が始まります。

南北戦争の最初の行動は、CSA軍によるサムター要塞(Fort Sumter)攻撃で起こりました。4年間続いた戦争は合衆国の北軍の勝利となります。この戦争では、両軍合わせて50万人近くの戦死者を出し、民間人死者を合わせると70~90万人に上るとされています。これは今日に至るまで、戦争における合衆国史上最大の死者数といわれます。連合国は1868年に連邦に再加盟します。しかし、1895年の憲法改正で州のほぼすべての黒人の権利が剥奪され、人種隔離の厳格な政策が1960年代半ばまで続きました。サウスカロライナは合衆国の繊維製造業のリーダーであり、大規模な産業基盤を持っています。観光業は第2位の産業となっています。農業も経済に貢献しており、主な作物はタバコ、大豆、綿花などです。


南部の人種差別の強い州ではありましたが、最近は海外企業の招致に積極的で経済発展に著しい面をみせ、人口の増加が著しい州となっています。チャールストンは聖なる市(The Holy City)としても知られています。当初の13植民地の中で、信教に対する寛容さを認めていた数少ない都市という歴史があります。そのためでしょうか、合衆国南部で最古のユダヤ教正統派のシナゴーグ(synagogue)(会堂)があります。チャールストンには一大海軍基地もあります。

「Smiling Faces, Beautiful Places」というライセンスプレートのフレーズは珍しいです。この言葉だけでどの州の車かはわからないですね。椰子の木が真ん中にあるので、南部の州だろうとは想像できます。
(投稿日時 2024年2月24日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州コロラド州・Centennial State

注目

コロラド州(Colorado) のどのナンバープレートにも、背景にロッキー山脈(Rocky Mountains) が描かれています。「生命を尊重しよう」(Respect Life)というフレーズをあしらったものもあります。森羅万象、自然が豊かな州だからこその言葉です。独立して100年後の1876年に合衆国に州として認められたので「Centennial State」というニックネームがついています。コロラドは山岳地帯の州です。南北にロッキー山脈が貫き、州全体の平均標高が合衆国で一番高いところです。州の東側は大平原(グレートプレーンズ)が広がります。州都であり最大の都市は、デンバー(Denver)です。

License Plate of Colorado

スペイン語はコロラド州の地理に深く刻み込まれています。州名はスペイン語のコロラド、「赤」または「血色の良い」(red or ruddy)に由来しています。コロラド州の20の大きな川はリオス(ríos)と呼ばれ、多くの都市、村、山脈や山頂にはスペイン語の名前が付いています。

コロラド州の開発は16世紀半ばからのスペインの探検と入植から始まり、やがてリオ・グランデ(Rio Grande)上流沿いに恒久的な入植地がふえてきます。南北戦争以前、測量技師たちは踏破路、峠、領土境界を決めていきます。技師たちはインディアンの先導によって、川とその主な支流を地図化していきました。モルモン教徒も1847年にユタ州の大盆地に入植し、ユタ州とアリゾナ州のコロラド川の支流渓谷に移動し、後の科学的調査に参加していったという歴史があります。

Map of Colorado

コロラド州におけるネイティブ・アメリカン(Native American)文化の影響は強いです。アメリカ先住民の地名は英語の語彙を豊かにしました。ネイティブ・アメリカンの民話、音楽、ダンスはアメリカ文化の一側面として認められています。さらにネイティブ・アメリカンの食べ物や芸術作品は、コロラド州の一体性という感覚に貴重で、かつユニークな貢献をしてきたといわれます。メサ・ベルデ国立公園(Mesa Verde National Park)にある先祖代々のプエブロ文化(Pueblo culture)別名アナサジ(Anasazi)の崖の住居は、初期のネイティブ・アメリカン・コミュニティの重要な遺跡の1つです。

この国立公園で、著名な先史時代の崖の住居を保存するために1906年に設立されました。1978年に世界遺産(World Heritage)に指定されました。210平方キロメートルの高台地帯を占め、最大13世紀までの数百のインディアンの村遺跡が含まれています。最も印象的なのは、張り出した崖の下に建てられた高層アパート(multistoried apartments)です。遺跡以外にも、この公園には壮観で険しい景色がいくつかあります。

公園は、海抜2,600メートル以上の大きな砂岩台地の一部を占めており、南に緩やかに傾斜しています。過去 200万年にわたる河川の浸食により、台地に深い峡谷が削り取られ、峡谷の間に細長い高台地(high tableland)、つまりメサが残されました。水の浸食により、崖の住居が位置するの峡谷の壁の砂岩に、さまざまなサイズの隙間や床の間が形成されました。これらのメサの頂上には、風に吹かれて肥沃で赤みを帯びた黄土が堆積しています。気候は半乾燥で、年輪の調査によれば、過去 600 年間ほとんど変化がありません。この地域の植物は半乾燥気候に適応しています。公園内にはクマやピューマmountain lionsが数頭、小型哺乳類が多数生息しています。

平原インディアンの主であるアラパホ族(Arapaho)とシャイアン族(Cheyenne)は、探検家、貿易商、罠猟師を平原全体に案内しました。彼らは、小川、自然の道、淡水と薪の水源、自然保護地域、水牛の餌場を知っていました。グレートベースン(Great Basin)のグループであるユート族(Ute)もロッキー山脈(Rocky Mountains)の知識に詳しく、それを広めるのに貢献しました。

しかし、アメリカ先住民は、メキシコから金銀の求めてやってきたスペイン人探検家によって追われます。メキシコ人はアメリカによる攻撃を恐れ、1840年代に北のアーカンソー川(Arkansas River)にまで及ぶ巨額の土地補助金(land grants)を発行してスペイン国境を強化します。これらの助成金に基づいて、コロラド州に非先住民族の最初の定住地が設立され、1851年には記録に残る最初の灌漑(irrigation)が行われました。

デンバーは標高が約1マイル(約1600メートル)なので、マイル・ハイ・シティー(Mile High City)の愛称で呼ばれています。デンバー市内には多くの日系人が住んでいます。その数、約1万4千人といわれ、 「ロッキー時報」(Rocky Times)という日本語の新聞が発行されているのもうなずけます。

コロラド州の商業や経済は多様です。金融センターであるデンバーを中心に、科学研究及びハイテク産業が集中しています。他の産業は食品加工、輸送設備、機械、化学製品、稀少資源の開発そして観光業となっています。

州都デンバーから車で一時間ほど南に下ると、ロッキーでも一段と高く聳える「パイクスピーク」(Pikes Peak)がみえます。その山麓には炭酸泉が多数あり、飲泉が結核に効くとされたことから、19世紀にはマニトウ・スプリングス(Manitou Springs)などの保養地がつくられます。その山麓の台地には、アスペン(Aspen)などの綺麗な街並みが広がります。コロラド・スプリングス(Colorado Springs)も全米で知られる町です。ここは都市の規模に比べて物価が安く、アメリカでも最も住みやすい町の一つといわれています。

この住み心地の良さを支えるのは、巨大な国防総省の施設によってもたらされる経済効果です。ロッキーの山中には、北米航空宇宙防衛軍(North American Aerospace Defense Command: NORAD)や軍事衛星による監視や弾道ミサイル防衛を担う戦略基地が掘られています。北米航空宇宙防衛司令部とアメリカ宇宙コマンド(US Space Command) は、ピーターソン空軍基地(Peterson Air Force Base)に本部を置いています。近くのシャイアンマウンテン(Cheyenne Mountain)の空洞化した内部には、NORADや他の機関の指揮統制施設があります。1966年以来、ここは航空宇宙防衛と軌道天体の追跡のための主要基地となっています。ランパート山脈(Rampart Range)を背景に米空軍士官学校(U.S. Air Force Academy)もあります。

私は小さいとき、「コロラドの月」というアメリカ民謡をしばしば聞いたことがあります。進駐軍の放送から聞こえてきたものです。ネット上で歌詞を調べると次のようにあります。
 「コロラドの月の夜に
   想い出は いやます
    恋の日の しのばれて
     さびしさに 涙す
     むすびし 恋も
       あだに 君はいずこぞ
  コロラドの 月の夜に
   なれも 我をば待てる」
という恋歌です。当時はそんなことを知るべくもありませんでした。そしてデンバーを訪ねたのは学会発表の1987年です。その時、コロラド大学(University of Colorado)の看護学科の准教授の案内で市内の学校を見学しました。
(投稿日時 2024年2月23日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州コネチカット州・Constitution State

注目

コネチカット(Connecticut)とはなんとも響きの良い地名です。ナンバープレートには「Constitution State」(憲法の州)とあります。最初の憲法の基を作った州です。合衆国の北東部、北大西洋岸は、前にも紹介したように、ニュー・イングランド(New England)と呼ばれていますね。ここに小さな州がいくつかあります。その内の一つがコネチカット州です。首都はハートフォード(Hartford)となっています。東にはロードアイランド州(Rhode Island)、北にはマサチューセッツ州、西にはニューヨーク州と隣接しています。

License Plate of Connecticut

コネチカット州はイギリスの統治時代、13の植民地の一つでした。1639年に植民地としては最初の「基本法規」(Fundamental Orders)というのを制定します。これはやがてコネチカットで最初の憲法となります。この憲法は合衆国の初代憲法に大きな影響を与えます。その後コネチカットはイギリスから独立を宣言する最初の13州の一つとなります。

1840年代に始まったアイルランド人の移民と南北戦争後のフランス系カナダ人(French Canadians)の移民は19世紀を通して続きました。19世紀後半、外国人移民の主な流入源は南ヨーロッパと東ヨーロッパ、つまりイタリア、ポーランド、オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)、ロシアでした。各移民グループは州の特定の地域に集まる傾向がありました。ニューヘブン(New Haven)とその郊外にはイタリア系移民の子孫が多数住み、ノーガタック渓谷(Naugatuck valley)にはポーランド人(Poles)が集中しており、北東部にはフランス系カナダ人が住んでいます。

Map of Connecticut

第二次世界大戦後のコネチカット州へのアフリカ系アメリカ人の移民も同様の傾向を示し、ほとんどが五大都市に住んでおり、ニューヘブンとハートフォードの住民のほぼ5分の2を占めています。プエルトリコ人(Puerto Ricans)は自分たちの島や近くのニューヨーク市からコネチカット州の都市中心部に移住しています。

現在、ヨーロッパ系の人々はコネチカット州の総人口の約4分の3を占めており、アフリカ系アメリカ人とヒスパニック系(Hispanic)の人々はそれぞれほぼ 10分の1を占めています。残りの大部分を占めるのは、アジア人と少数のアメリカ先住民および太平洋諸島人(Pacific Islanders)です。州人口の半分以上がローマ・カトリック教徒です。プロテスタント、正教会(Orthodox)、その他のキリスト教徒と少数のユダヤ人が残りの半分を占めるといわれます。

コネチカット州の産業ですが、農業はもとより酪農、製造業、漁業も盛んな州です。ロブスターや貝も知られています。ジェット機エンジン、ヘリコプターや航空機の部品、素材産業、原子力潜水艦の建造と関連の軍事産業、精密機械、化学薬品の製造が盛んです。企業ではスポーツ放送のESPN、ボーイング(Boeing)とエアバスのエンジンを開発するゼネラル・エレクトリック(GE)、シコルスキーヘリコプター(Sikorsky Aircraft)の本社などがあります。

州や民間の団体は、コネチカット州の歴史的に重要な所や著名な人物に関連した施設を多数管理しています。これらの中で注目に値するのは、グロトン(Groton)のフォート グリスウォルド州立公園(Fort Griswold State Park)、イースト・グランビー(East Granby)にあるオールド・ニューゲート刑務所(Old New-Gate Prison)と銅山(Copper Mine)、ハートフォードのハリエット・ビーチャー ストウ(Harriet Beecher Stowe) とマーク・トウェイン (Mark Twain)の家などです。

多分最もよく知られているのは、ミスティック(Mystic)にあるミスティック・シーポート博物館(Mystic Seaport Museum)でしょう。この博物館は、ミスティック川(Mystic River)沿いにある19エーカーの敷地にあり、再現されたニューイングランドの海岸沿いの村、稼働中の造船所、展示ホール、最先端の工芸品保管施設が含まれています。博物館には、国定歴史建造物(National Historic Landmark)に指定されている4隻の船舶を含む500隻以上の歴史的な船舶が収蔵されており、特に現存するアメリカ最古の商船である1841年の捕鯨船チャールズ W. モーガン号(Charles W. Morgan)がその代表です。ここには、ニューイングランドの小さな港が、すべての船や店舗とともに再現されています。

コネチカット州はアウトドア愛好家にはたまらない地です。何マイルにもわたるトレイルをハイキングしたり、合計約650平方キロメートルにわたる30か所の州立森林または90か所の州立公園でキャンプをしたりできます。色鮮やかな紅葉は、コネチカット州とその他のニューイングランド地方に多くの観光客を惹きつけます。ロングアイランド湾(Long Island Sound)ではスポーツフィッシング、特に青魚釣(bluefish)りが人気です。

ニューヨーク州やマサチューセッツ州はコネチカット州より税率が高いので、他州で働く州民はコネチカット州の所得税を払わなくて済む仕組みとなっています。

1701年の植民地時代にイェールカレッジ(College of Yale)が創設されます。コネチカット州ニューヘイブン(New Heaven)に本部があります。もともとは教会の牧師や公務員を養成するのが目的でした。現在のイェール大学(Yale University)です。合衆国で植民地議会に認可を受けた大学としては、ハーヴァード大学、ウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William & Mary)に次いで3番目に長い歴史を持ちます。私にとってのコネチカットは、ハートフォードに出掛けて教育とテクノロジーの学会で研究発表したことです。
(2024年2月22日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ケンタッキー州・Bluegrass State

注目

ケンタッキー州(Kentucky)のナンバープレートには「Bluegrass State」とあります。草原を遠くから眺めると青紫色のつぼみが一面広がり、「青い草」に見えたので名付けられたとあります。ブルーグラス・ミュージック(Bluegrass Music)です。スコットランドやアイルランドの音楽を基にしています。アップテンポの曲が時代と共に多くなり、速弾きなどのインプロヴァイズ(即興演奏)もあります。お隣テネシー州でもこの音楽は盛んです。

License Plate of Kentucky

ケンタッキー州は、1769年にダニエル・ブーン(Daniel Boone)や他のヨーロッパの開拓者が到着するまで、長い間、さまざまなネイティブ・アメリカンの人々の本拠地でした。その名前の由来ですが、一説は、チェロキー族(Cherokie)が狩猟を行っていたこの地域を「カトブ」と呼び、先祖伝来のこの狩り場を売却することに反対し、「暗い血にまみれた大地」を買おうとしていることを警告してそう呼んだという説です。他の説にはイロコイ語(Iroquois)で「草原(prairie)」を意味する言葉に由来しているというものです。

1792年にケンタッキー州がアパラチア山脈以西では初で15番目の州としてとして認められるまでに、73,000 人近くの入植者が集まりました。1800年までにこの数は約22万人に増加し、その中には約4万人の奴隷も含まれていました。

Map of Kentucky

ケンタッキーはイリノイ州、インディアナ州、オハイオ州、ミズーリ州に囲まれ、オハイオ川とミシシッピ川で州境をなしています。東側にはアパラチア山脈が聳えていて、豊かな自然に恵まれています。この州はなんといっても「ブルーグラスの州」と呼ばれ、肥沃な土壌からの多くの農産物がとれます。州都はフランクフォート(Frankfort)。最大の都市はルイビル(Louisville)となっています。

ケンタッキー州というと、炭鉱、バーボン郡(bourbon) にちなんで命名されたといわれるバーボン・ウイスキー、登山家、違法酒の蒸留業者、夏のベランダでミント・ジュレップ(mint juleps)をすすりながら白衣を着た大佐や女性、ケンタッキーダービー(Kentucky Derby)などで知られています。肥沃なブルーグラスは馬の飼料として栄養価が高いので、馬の生産が盛んになったと言われます。

バーボン・ウイスキーの主原料は51パーセント以上のトウモロコシ・ライ麦・小麦・大麦などで、これらを麦芽で糖化させ、さらに酵母を加えてアルコール発酵させるのです。バーボンという名前はフランスの「ブルボン朝」(Bourbon dynasty) に由来するという説もあります。その他タバコの生産も盛んです。

ケンタッキー州には、興味深いことに独特の地域と特徴が混在しています。レキシントン(Lexington)周辺のなだらかなブルーグラス(Bluegrass)地域にある、白いフェンス、パドック(paddocks)、タバコ畑、牧草地がどこまでも続く風景は、ケンタッキー州の立場を反映しながら、南北戦争前の南部とのつながりを彷彿とさせるような、ゆったりとして上品な生活様式を示唆しているといわれます。その反面、タバコや麻が名産だったので、奴隷制度の中心ともなりました。奴隷市場が置かれ、川を下って運ばれる奴隷の出発地がルイビルだったのです。

対照的に、ケンタッキー州の最北端は、主にドイツの伝統があり、郊外の開拓への傾向があり、オハイオ州シンシナティの大都市へ向いていることことから、州と北部の都市部とのつながりが特徴的となっています。ケンタッキーは自動車産業も盛んです。フォード、GM、トヨタの工場があります。トヨタはアメリカで最もポピュラーな車「カムリ」をジョージアタウン(Georgetown)という街で組み立てています。

ケンタッキー州は、過去と未来を見つめる州として、西部への拡大の岐路として、そして1861年から1865年までの南北戦争中に忠誠心が分かれたことがあげられます。南北戦争の大統領である北軍のエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)と反対側の南軍の大統領となったジェファソン・デイビス(Jefferson Davis)は両方ともケンタッキー州生まれです。

ケンタッキーといえば、スティーブン・フォスター(Stephen Foster)がいます。1848年に、アンクル・ネッド(Uncle Ned)やオー・スザンナ(Oh! Susanna)などのバラードのいくつかが出版されます。曲が知られるようになると、彼は作曲活動に従事します。さらにクリスティ・ミンストレルズ(Christy Minstrels)のために曲を書くよう依頼されます。その中で最もよく知られているのが「オールド・フォークス・アット・ホーム」(Old Folks at Home)とか「スワニー・リバー」(Swanee River)で、1851年にエドウィン・クリスティ(Edwin P. Christy)の名前で発表し、彼は1879年までクリスティの名前で活動を続けます。

1852年にニューオーリンズ(New Orleans)への旅行中に、フォスターはケンタッキー州に立ち寄り、バーズタウン(Bardstown)という街の近くにあるフェデラル・ヒル(Federal Hill)に住むいとこの家を訪れます。そこで彼は「My Old Kentucky Home」を書いたと言われています。この曲はケンタッキー州の州歌になりました。フェデラル・ヒルには州のフォスター記念碑があります。

フォスターは、生涯経済的にはあまり恵まれなかったようです。1857年に曲のすべての権利を1,900ドルで出版社に売却します。利益は主に出版社と出演者に支払われたようです。1860年に彼はニューヨーク市に移ります。やがて妻と別居し、貧しく気ままに暮らします。そして1864 年1月13日にニューヨークで亡くなります。

彼は生前に約200曲を残しています。ほとんどの曲は、自分で歌詞と音楽の両方を書いています。最も人気のある曲の中には、「Old Black Joe」、「Jeanie with the Light Brown Hair」、「Come Where My Love Lies Dreaming」、「Beautiful Dreamer」などがあります。さらに賛美歌も作曲しています。彼は「アメリカの音楽の父」と呼ばれています。

「My Old Kentucky Home」の一節です。
  Oh, the sun shines bright in the old Kentucky home
 ’Tis summer, the darkies are gay
The corn top’s ripe and the meadows in the bloom
While the birds make music all the day

ケンタッキー州政府は、南部の心の温かさという概念に基づいて、他から州内により多くの人々を惹き付けようと考え、「こんなに友好的だ」(”It’s that friendly”)というスローガンを提唱したこともあるようです。州境地域にある「ケンタッキー州にようこそ」(Welcome to Kentucky)という看板に、(Unbridled Spirit)「自由奔放な精神」というフレーズも印字されています。

ケンタッキー州は、民主党は19世紀半ば以来、州政と連邦政界の両方をほぼ支配してきました。実際、2002年にアーニー・フレッチャー(Ernie Fletcher)がケンタッキー州知事に選出されたとき、彼は36年ぶりに共和党員として当選しました。大統領選挙では、1896年、1924年、1928年の例外を除いて、州は南北戦争後、ほぼ1世紀にわたって民主党に投票してきました。しかしながら、1950年代以降、同州は連邦レベルで共和党を支持する傾向にあり、現在も共和党支持州の一つとなっています。

私と家族はかつてジョージアからウィスコンシンへ向かう途中、ケンタッキーをとおりました。「ケンタッキーの我が家」のメロディが浮かんだのはいうまでもありません。ですが公式な州歌であることを知ったのは、ずっと後のことではあります。
(投稿日時 2024年2月21日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州カンザス州・Great Plains

注目

カンザス州のナンバープレートのデザインはその州を表します。プレートには小麦の穂が配置されています。カンザス州は地図を見ますと合衆国の「真ん中」にあります。そのためでしょうか「America’s Heartland」と印字されています。北側はネブラスカ州、東側はミズーリ州、南側はオクラホマ州、そして西側はコロラド州となっています。州都はトピカ市 (Topeka)、州最大の町はウィチタ市 (Wichita)です。カンザス・シティ(Kansas City)もミズーリ川沿いにある活気のある町です。

License Plate of Kansas

カンザス州は「大平原」(Great Plains)に位置し、東部の大草原から西部の高原まで915m以上の標高がある州です。アメリカの「大平原というのは、この州がもっとも当てはまるのではないかと思えるくらいの景色が広がります。平原をさす単語に「prairies」というのもあります。大平原はまさに一大穀倉地帯です

ヨーロッパ人が入植する以前は、カンザ(Kansa) 、オセージ(Osage)、ポーニー(Pawnee)、ウィチタ(Wichita)といったインディアンが居住していました。最初のヨーロッパ人探検家はフランシスコ・バスケス・デ・コロナド(Francisco Vázquez de Coronado)で、1541年にメキシコから金鉱を求めてやってきました。ラ・サール(La Salle)は1682年にこの地域をフランス領とします。

カンザス州は1803年にフランスからのルイジアナ購入の一部としてアメリカが獲得します。19世紀初頭、連邦政府は東部インディアンをカンザスに移住させます。1854年のカンザス・ネブラスカ法(Kansas-Nebraska Act)によりカンザス準州が創設され、白人入植地として開放されます。カンザス準州は、ジョン・ブラウン(John Brown)が引き起こした奴隷制をめぐる「カンザスの流血」(Bleeding Kansas)という紛争の舞台となります。1861年、カンザス州は34番目の州として連邦に加盟します。南北戦争後、鉄道の開通により牛の町が発展し、テキサスの牛飼いたちはウィチタやアビリーン(Abilene)まで牛の群れを率いて、鉄道の起点に到達します。大平原で農作業をする農民が増え農業が重要になります。

カンザス州(Kansas)の初期入植者は主に奴隷制度に反対するイギリス人の血を引くニューイングランド人(New Englander)でした。南北戦争後、鉄道が建設されると、多くの中央ヨーロッパ人は、線路を敷設する仕事と、仕事が終わったら自由に土地をもらえるという約束に惹かれます。現在も主にロシア人(Russian)、ボヘミア人(Bohemian)、ドイツ人(German)、またはスカンジナビア人(Scandinavian)を祖先とする人々が住む小さなコミュニティが州内に点在しています。元の言語はほとんど消滅しましたが、教会の礼拝は依然としてドイツ語またはスウェーデン語で行われており、いくつかのコミュニティでは毎年、古い民俗、食べ物、言語を取り上げた祭りが開催されています。1870 年代には主に深南部出身のアフリカ系アメリカ人が多数到着し、州北西部にニコデモ(Nicodemus)と呼ばれる農業集落を設立しました。

現在、ヒスパニック系少数派は少数ですが増加しており、人口の10 分の1以下であり、アフリカ系アメリカ人の割合はわずかに減少しています。この州は主にプロテスタントであり、メソジスト(Methogist)、バプテスト(Baptest)、ルーテル派(Lutheran)の大規模なコミュニティがあります。事実上、アーミッシュ(Amish)やダンカード同胞団(Dunkard Brethren)などの稀なグループを含む、ほぼすべての宗派が州内にあります。ダンカード同胞団とは、再洗礼主義(Anabaptism)のキリスト教宗派です。この宗派は新約聖書を唯一の信条として信奉しています。キリスト教の平和主義に強い立場をとっており、メノナイト(Mennonite)やクエーカー教徒(Quaker)と並ぶ歴史的な3つの平和教会の1つといわれます。

農業と製造業はどちらもカンザス州の経済に大きく貢献しています。前者はカンザス州に多くの原材料を供給しています。農場と牧場の生産により、カンザス州は米国の州の中で小麦とソルガム穀物で第 1 位となっています。野生の干し草、牛肉、豚でも上位にランクされています。カンザス州は、小麦製粉において国内のリーダーを続けており、加工牛肉のトップ生産者の一つです。

製造および加工工場では、さまざまな品物が生産されます。ウィチタはキャンプ用品の大手メーカーです。また、暖房および空調機器、スノーモービル、その他多くの製品も製造しています。ウィチタは一般航空機の生産において世界第 1 位であることに加えて、軍用機の重要な製造拠点でもあります。州内の他の工場では、ベビーフード、ペットフード、プレハブ住宅 (prefabricated houses)、トレーラーハウス、タイヤ、塗料、食器洗浄機などを生産しています

カンザス州はかつて国内で最も共和党的(Republican)な州として知られていました。1861年に最初の議会が女性に学校選挙で投票する権利を与えたのもカンザス州です。カンザス州では1912年に普通選挙が認められました。カンザス州は、公職に就いている女性の割合が各州の中で上位にランクされています。州の著名な共和党員には大統領も含まれています。ドワイト・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)や、かつて大統領候補だったアルフ・ランドン(Alf Landon)知事とボブ・ドール(Bob Dole)上院議員がいました。同州には現在、かなりの数の民主党支持者が存在し、無所属票も増加しています。

カンザス州は、アルコール飲料の禁止を憲法で採択した最初の州です。この禁止条項は1880年に州憲法に追加され、1948 年まで廃止されませんでした。1986 年に有権者は、事業の少なくとも 30 パーセントを食品販売で行う施設での酒類の販売を許可する憲法改正案を承認しました。同じ選挙でパリミューチュエル賭博(pari-mutuel wagering)と州宝くじが承認されます。パリミューチュエル賭博とは、賭け金を一旦プールして、そのうち一部を開催者等が経費分として取り、残りの金額を当選者に賭け金に応じて配分するやり方です。

1950年代には、アメリカの15の州で学校の隔離が義務付けられていました。しかし、カンザス州はこれらの州の一つではなかったのです。その代わりに、学校の隔離は地域の裁量で小学校のみで許可されていていました。こうした事情で、差別反対の裁判が起こります。1896年のプレッシー対ファーガソン裁判(Plesy v. Ferguson)です。この裁判では隔離は認められますが、黒人と白人は平等に施設が利用できるようにすべきだと裁決されました。

さらに裁判が続きます。リンダ・ブラウンとその家族は、カンザス州トピカの教育委員会を訴えます。ブラウン対トピカ教育委員会裁判(Linda Brown v. Board of Education of Topeka)という裁判です。この裁判でブラウンは勝訴し、判決はプレッシー対ファーガソン判決を覆すものでした。この事件は、公民権運動における画期的な事件として多くの人から賛同を得ます。

その後、黒人と白人の学生を分離した公立学校の設立を定めたカンザス州の州法は、黒人及び有色人種の子どもの平等な教育の機会を否定していると宣言し、「人種で分離した教育機関は本来不平等である」という歴史的な判決が合衆国最高裁判所によって下されます。

カンザス・シティーに一度学会で行ったことがあります。地元の人から「必ずBBQやステーキを食べないと、、」と言われました。ステーキの分厚さや分量はご想像にお任せしますが、「たまげる」はずです。ご当地グルメというやつです。
(投稿日時 2024年2月20日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州カリフォルニア州・The Golden State

注目

カリフォルニア(California) のナンバープレートには「The Golden State」とあります。西部開拓時代のゴールド・ラッシュ(Gold Rush)に由来しているようです。持っている一枚のナンバープレートには「Prison Made」と印字されたのもあります。恐らくは有名なアルカトラズ島ザ(Alcatraz)で作られたものかもしれません(^^) ザ・ロック(The Rock)、囚人島、監獄島などと呼ばれています。「Museums Are for Everyone」というフレーズもあります。博物館はどこにもあると訴えたいのでしょう。

License Plate of California

日本人に最も馴染みのあるカリフォルニア州は南北に長い形をしていて、北はオレゴン州に東はネバダ州・アリゾナ州に、最南端のサンディエゴ(San Diego)からはメキシコと国境を接しています。長い海岸線や高低差によって、海岸と内陸ではかなり気温や気候が異なります。この気候は地中海性気候といわれています。降雨量が少ないのと急激に人口が増えたために水資源の不足がしばしば取りあげられています。

カリフォルニアという名称のいわれですが、16世紀初頭のスペインの小説『Las sergas de Esplandián』(エスプランディアンの冒険)に「天国のような島で(California) と呼ばれる黄金と珠玉」に由来するという主張が広く支持されています。州都はサクラメント(Sacramento)です。ブドウ畑が広がるナパ・バレー(Napa Valley)から東へ向かうとサクラメントに着きます。西部開拓時代の街角のOld Townは保存されていて当時の開拓時代の気分を味わえます。

The Golden State Plate

1542年から43年にかけて、フアン・ロドリゲス・カブリージョ(Juan Rodríguez Cabrill)がこの地域の領有権をスペインに認めさせたのが、ヨーロッパ人による最初の沿岸進出です。1769年にジュニペロ・セラ(Junípero Serra)によってサンディエゴ(San Diego)に最初の伝道所が設立されます。この地域は、メキシコ戦争でアメリカ軍に占領され、1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約(Treaty of Guadalupe Hidalgo)でアメリカに割譲されるまでスペインに、そして1820年代以降はメキシコの支配下におかれました。

アメリカ人による入植は1841年に始まり、1848年のゴールドラッシによって大きく加速します。カリフォルニアの最初の入植者は、ほとんどがヨーロッパ系の中西部の農民でした。ゴールドラッシュでは、全米やその他の国から数十万人もの富を求める人々が州に流入し、人口構成が変化します。1850年にはカリフォルニア人の半数以上が20代で、典型的には男性で独身でした。1850年には州に住んでいた中国人はわずか数百人でしたが、2年後には住民の10人に1人が中国人になり、ほとんどは最も手軽な単純労働に従事します。

1860年代の鉄道建設ブームの際にアイルランド人労働者が到着します。アイルランド人、フランス人、イタリア人はサンフランシスコに定住する傾向がありました。19 世紀末にロサンゼルスが成長し始めると、多くのメキシコ人、ロシア人、日本人が集まりましたが、主にカリフォルニアの中西部人が再び流入していきます。

20世紀初頭になると、特にアジア人に対する民族差別が強まります。アジア人による土地所有を阻止することを目的とした外国人土地法(Alien Land Law)は、1952年にようやく違憲との判決がでるほどでした。法廷での中国人の証言が無効と宣言されたこともあったようです。アジア人向けの学校は 1936年まで法律で認可されており、中国人排除法が議会によって廃止されたのは1943年のことでした。

中国人に対する差別が激化するにつれ、日本人の移民が奨励され、1900年には12,000人以上がカリフォルニアに入国します彼らは農民として繁栄し、人口に占める割合はわずか2%であったにもかかわらず、192年までに農地の10分の1以上を支配するようになりました。ロサンゼルス(Los Angels)は国内の日本人コミュニティの中心となり、サンフランシスコのチャイナタウン(Chinatown)は国内最大の中国人居住地となります。

日本人に対する差別は第二次世界大戦までくすぶります。当時は約93,000人の日系アメリカ人が州内に住んでいました。彼らの約5分の3は二世といわれ、アメリカ生まれの国民でした。残りのほとんどは一世で、議会が1924年に移民の流入(influx)を止める前に移民してきた高齢者でした。移民を禁じる排日移民法(Anti-Japanese Immigration Law)が制定されます。一世は帰化の資格がなく、第二次世界大戦中は敵性外国人(enemy aliens)とみなされます。


1942年初頭、カリフォルニアの日系アメリカ人のほぼ全員、二世と一世はシエラネバダ山脈(Shera Nevada)の東にある隔離された強制収容所(internment camps)に移送され、1945年まで監視下に置かれました。戦争が終わると、彼らは自分たちの財産が没収されていることに気づきます。税金や保管料のために売却され、土地が没収されたのです。長年にわたる訴訟の末、約26,000人の請求者が、評価額の約3分の1で損失を補償されます。日系アメリカ人の約85パーセントは農民でしたが、その後庭師になったり他の職業に就いたりしました。1988年、合衆国議会は抑留されたすべての日系アメリカ人に一人当たり2万ドルの補償金を可決します。

陸軍第442連隊戦闘団

戦後、日系人は戦時中にヨーロッパ戦線で活躍した日系アメリカ人部隊であった陸軍第442連隊戦闘団(Army 442nd Regimental Combat Team)・第100歩兵大隊(100th Infantry Battalion)の存在や、日系アメリカ人議員の努力で、その地位と名誉を回復していきます。1988年には強制収容所での不当な扱いに対して補償法案を通過させ、生存者への金銭的補償を勝ちとります。それに尽力したのがダニエル・イノウエ(Daniel Inoue)、ノーマン・ミネタ(Norman Mineta)といった政治家です。一般に、日系人は経済的には平均より恵まれているといわれますが、グラス・シーリング「見えない天井」という人種差別問題が残されています。日系人は土地や財産を没収さながらも子どもを教育し、現在の地位を獲得した苦労話が幾多きかれます。私の知人である日系二世のチャールズ・コバヤシ氏(Charles Kobayashi)もそうです。苦労して州判事まで上り詰め、今はサクラメントで成長したお子さんやお孫に囲まれて引退生活を楽しんでいます。

カリフォルニアといえばロサンゼルスやサンフランシスコ、サンディエゴなどの大都市ですね。ロサンゼルスはハリウッド(Hollywood)を抱え娯楽産業の世界的中心となっています。サンフランシスコを中心とするベイエリア(Bay Area)は、シリコンバレーをはじめ、全米で最も経済的に進んだところです。農業が盛んなのは中部です。サンディエゴは気候が温暖でアメリカで最も住みよい町といわれています。どこもメキシコの雰囲気が横溢しています。

この州はアメリカでも先進的な行政をするところで知られています。例えば、大気汚染などの問題でメーカー等の産業廃棄物処理・排水規制などの法律が制定されていました。また排気ガス規制など環境関連の規制が全米で最も厳しい州といわれています。ところが財政は厳しいので、かつての知事アーノルド・シュワルツェネッガー(Arnold Schwarzenegger)も頭を痛めたようです。

カリフォルニアは大地震が起こりやすい地帯です。1,300 kmのサンアンドレアス断層(Andreas Fault) は、カリフォルニアの大部分を貫く主要な断層です。この断層に沿った地殻変動は、1906 年のサンフランシスコ地震を含む大規模な地震を引き起こしました。サンフランシスコ・ベイエリア(Bay Area)のヘイワード断層(Hayward Fault)とロサンゼルス都市圏のサンガブリエル(San Gabriel fault)断層帯はいくつかの大地震を引き起こしましたが、壊滅的な地震は州の中心地に発生しました。1994年にロサンゼルス郊外のノースリッジ(Northridge)で、サンアンドレアスの大きな二次断層の1つに沿って大地震が発生しました。今もシエラネバダ山脈(Sierra Nevada)とクラマス山脈(Klamath Mountains)の別個の断層系も地殻変動的に活発です。

高等教育面ですがスタンフォード大学(Stanford University)、カリフォルニア工科大学(California Institute of Technology)、カリフォルニア大学-ロサンゼルス校(University of California, Los Angels: UCLA)など世界のトップをいく研究は知られるところです。産業や経済、科学技術などなんでも全米一、世界一を誇るようで、中西部や東部の人々から羨ましがられるような雰囲気があります。
(投稿日時 2024年2月17日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州オレゴン州・Oregon Trail

注目

オレゴン州(Oregon)のナンバープレートはいろいろなデザインがあります。その一つは、オレゴン街道(Oregon Trail)とか太平洋の魅力(Pacific Wonderland)というフレーズが印字されているものです。オレゴン州旗にある幌馬車は開拓時代のオレゴン街道の終着点を意味し、裏には州の動物であるビーバー(beaver)が描かれています。オレゴン州は太平洋に面し、北はワシントン州、南はカリフォルニア州に接しています。ここは西部開拓の歴史が色濃く残っています。合衆国を大西洋から太平洋まで拡げるという目標のために、1800年代には本格的な開拓が進み、オレゴン街道(Oregon Trail)を経て幌馬車で東部から多くの入植者がやってきました。州都はセーラム(Salem)、最も大きい町はポートランド(Portland)です。

Oregon License Plate

オレゴン名の由来です。1765年にロバート・ロジャーズ少佐(Major Robert Rogers)がイギリス王国に宛てた請願書の綴りが「Ouragon」となっていて、これは西部のコロンビア川(ColumbiaRiver)を指していたという説です。別の説はフランス語の「Ouragan」という暴風、又はハリケーンを意味している言葉からきたという説です。第三の説はスペイン語の「Ouragano」という州の南部で育つ植物の名前から由来したというものです。

オレゴンはスペインの探検家によって最初に発見され、1579年にフランシス・ドレイク(Francis Drake)が、1778年にはジェームズ・クック(James Cook)が訪れます。1792年にロバート・グレイ少佐(Capt. Robert Gray)がコロンビア川を探検し、アメリカがこの地域の領有権を獲得しますが、この地域には多くのネイティブ・アメリカンが居住していました。

オレゴン・トレイル(Oregon Trail)のことです。この街道は19世紀に北アメリカ大陸の西部開拓時代に開拓者達が通った主要道の一つです。街道の長さは3,200 kmに及びます。当時は、カリフォルニアやオレゴンへの旅行を希望する北アメリカ東部のヨーロッパ系の人々は、一般に船で南アメリカの南端を回っていました。その旅は1年近くかかりました。そのため、1802年の合衆国政府のルイジアナ買収の対象となったミシシッピ川西側の広大な領土に足を踏み入れる白人はほとんどいませんでした。この街道が徒歩と馬で移動する罠猟師、毛皮商人(fur traders)、宣教師(missionaryによって利用されるまではいろいろな苦難があったようです。

1805年頃、広大な西部に足を踏み入れた者の一人がフランス系カナダ人で猟師兼探検家のトゥーサン・シャルボノー(Toussaint Charbonneau)でした。彼とショショーニ族(Shoshone)の妻サカガウィア(Sacagawea)は、ルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition)の重要なメンバーでした。この探検隊は、連邦政府によるオレゴンを体系的に探索し、地図を作成し報告する任務を帯びていました。

同じ頃、毛皮商人のジョン・アスター(John Astor)は西部へ向かい、オレゴン州に自身のアメリカン・ファー・カンパニー(American Fur Company)の交易所を設立するために開拓者らとで遠征隊を組織します。人々はミズーリ川の上流をセントルイスから現在のサウスダコタ州にあるアリカラ・インディアン(Arikara Indians)の村まで遡り、その後、平原と山を越えてワイオミング州(Wyoming)とアイダホ州(Idaho)を通ってオレゴン州までの困難な旅に出ます。

アスターの遠征隊は、物資と援助を緊急に必要としていたため、1812年に隊員を東に送り返しました。その旅の途中、ロバート・スチュアート(Robert Stuart)とその仲間たちは、ロッキー山脈中に32 kmの稜線がV字形に深く切れこんでいるワイオミング州南西部のサウスパス(South Pass)を発見します。サウスパスは大陸分水界で最も低く、そして最も便利な交差点でありました。1813年にイギリス人が彼のポストを引き継ぎ、アスターは所有していた土地を売却し、その冒険は挫折しますが、ノースウェスト会社(North West Company)という交易会社に引き継がれます。

西部への最初の宣教師グループは1834年にカンザスシティ(Kansas City)を出発します。ジェイソン・リー(Jason Lee)が率いるメンバーは、ニューイングランドの商人ナサニエル・ワイエス(Nathaniel Wyeth)が率いるグループに加わります。彼らは主にプラット川(Platte River)に沿って進みました。ワイエスはスネーク川(Snake River)沿いに、現在のポカテロ(Pocatello)の近く)にポスト、フォート・ホール(Fort Hall)と交易所を建設しました。このポストは後にハドソン湾会社(Hudson’s Bay Company)に買収されました。ここはやがて、将来の移民のための主要な物資供給拠点となっていきます。ワイエスとリーの一行は、後にオレゴン・トレイルとなる道の全コースを踏破した最初のグループとなります。

こうして、オレゴン州に対する東部での関心が高まっていきます。1840年、ロバート・ニューウェル(Robert Newell)とジョセフ・ミーク(Joseph Meek)は、山男のトーマス・フィッツパトリック(Thomas Fitzpatrick)の案内で小隊を率いてフォート・ホールから出発し、陸路でオレゴンのウィラメット渓谷(Willamette valley)に到達した最初の移民となります。

オレゴン最大の都市はポートランド(Portland)です。名前の通り港町で、札幌市とほぼ同じ緯度にあり、姉妹都市関係を結んでいます。札幌で育った私にはオレゴン州は懐かしさがあります。ポートランドのダウンタウンですが、コロンビア川の支流ウィラメット川 (Willamette River) の川岸は公園となっています。その一角に日本人移民の歴史公園があります。そこに移民の足跡を記すレリーフが立っています。レリーフには、農業と漁業で生計をたてながら子どもを教育する姿、アメリカに同化しようとした努力、大戦中の収容所での苦しい生活、そしてアメリカ人の日本人入植者に対する差別の謝罪の言葉などが彫られています。ポートランドは、肥沃な農地を抱え、周辺の農産物が集まるところでもあります。

オレゴン州人は1988年以降の合衆国大統領選挙で民主党候補者を選んできています。2004年と2006年には民主党が州上院と下院を制し、1990年代後半以降、合衆国下院には民主党議員4人と共和党議員1人を送り出しています。2009年以降、州選出の合衆国上院議員は2人とも民主党員す。ウィラメット渓谷にある都市化された地域の人々が民主党を支持しています。オレゴン州は民主党の牙城となっています。

オレゴン州の生産物ですが、ヘーゼルナッツ(Hazelnut)の生産では世界の4大生産地域の1つで、国内の95%を生産しています。ワインの生産は禁酒法時代以前に遡ります。1970年代以降重要な産業となり、2005年には303か所のワイン醸造所があり、その数では国内第3位といわれます。フランスのアルザス(Alsace)やブルゴーニュ(Burgundy)地方に気候や土壌が似ているといわれます。

1971年に、オレゴン・トレイルを通る幌馬車隊の苦労を追体験する「オレゴン・トレイル」というコンピュータゲームも作られたのはご承知のとおりです。オレゴン・トレイルはネットワーク上で最も人気のあるプログラムとなり、毎月多くのプレイヤーが利用したといわれます。

私は、ポートランドには一度会議で招かれて訪れたことがあります。学校もいくつか見学し、その中でDVによって虐げられた子どもが学ぶ学校を訪ねることができました。
(投稿日時 2024年2月16日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州オハイオ州・Buckeye State

注目

オハイオ州(Ohio)のナンバープレートに関する話題です。州の大都市デイトン(Dayton)は、ライト兄弟(Wright Brothers)が初めて有人動力飛行機を組み立てたところで知られています。そのために、ナンバープレートには「Birthplace of Aviation」(飛行機発祥の地)とあります。別名「バッカイヤ州」(Buckeye)とも呼ばれています。

Ohio License Plate

初期のヨーロッパ人探検家たちは、この地域にマイアミ族(Miami)、ショーニー族(Shawnee)、その他のインディアンたちが住んでいるのを発見します。フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)の後、この地域はフランスからイギリスに割譲されます。やがて1803年に17番目の州となります。19世紀には、その立地、輸送施設、石炭、石油、天然ガスなどの天然資源により、最初の大工業州のひとつとなります。製造業が最も重要な経済活動ですが、州の3分の2近くは依然として農地となっています。

Map of Ohio

ところで、「Buckeye」とは州の木のことです。針葉樹の一種で、なんとなく木形といい大きさといい、北海道に多いカシワに似たところがあります。ドングリも秋になると沢山落ちます。州都で最大の都市はコロンバス(Columbus)です。他の大きな町はクリーブランド(Cleveland)、デイトン、トレド(Toledo), シンシナティ(Cincinnati)です。オハイオ州の経済は、工業製品などの製造業です。オハイオは、五大湖の一つエリー湖(Lake Erie)に面して、その岸は500キロに及びます。この地の利を使って製造業や海運業が盛んです。東はペンシルベニア、南はケンタッキー、イリノイ、西はミシガンに接しています。

オハイオ州の人口動態についてです。1830年以前は、ペンシルベニア州(Pennsylvania)のドイツ人やスイス人(Swiss)が北西部の地域から東中部地域にやって来ました。1830年以降、ドイツとアイルランドから直接入植者がやって来ます。多くのアイルランド人がオハイオ運河(Ohio canals)で働きに来て定住し、鉄道が建設されるとアイルランド人とドイツ人の労働者が定住者として残っていきます。北西部の湿地帯から排水を行ったドイツ人は、その結果生じた農地を開発するために残ります。

1830 年以降、南アイルランドからのローマ・カトリック教徒(Roman Catholic)の移民がクリーブランド(Cleveland)、コロンバス(Columbus)、シンシナティなどの都市に定住し、1850 年までに外国生まれの住民の中でドイツ人に次ぐ数となります。しかし、ドイツ人移民とアイルランド人移民は両方とも広範囲に分散し、ランカスター(Lancaster)といった小さなコミュニティに定住することも多く、そこで都市を設立したペンシルベニアドイツ人(Pennsylvania Germans)に加わっていきます。

Ohio State University

19世紀初頭にには、ウェールズ人(Welsh)が、オハイオ州のいくつかの地域で鉱物資源を開発するために到着します。ウェールズ人は、特に南東部のジャクソン郡(Jackson County)に多く定住します。実際、ジャクソン郡は長い間ウェールズ文化との結びつきがあり、多くのコミュニティでウェールズ語が三世代に渡って存続していきます。

このように1850年では、州の主な人口はスコットランド系アイルランド人でしたが、ドイツ人とイギリス人のコミュニティも重要でした。しかし、1870 年までに、オハイオ州の総人口の14 パーセント、クリーブランドの総人口の 40 パーセントが外国生まれだったといわれます。やがて、それぞれの移民グループが独自の新聞、クラブ、社交生活、教会を設立するにつれて、初期のオハイオ州北部のニューイングランドの性格は変化していきます。

オハイオ州の大学はどこも優れた教育や研究をおこなっています。州都コロンバスにはオハイオ州立大学(Ohio State University)があります。この州の学術研究の中心的な大学です。多くの人材を輩出しています。宇宙飛行士のジョン・グレン(John Glenn)、ニール・アームストロング(Neil Armstrong) もオハイオの出身です。中西部には「Big Ten」という大きな大学の連合があります。ウィスコンシンやミシンガン、イリノイ、ミネソタなどの大学とともにBig Tenの一つとして、オハイオ州立大学は研究開発を競っています。スポーツもまた然りです。

以前どこかのブログでノースカロライナ(North Carolina)を紹介したとき、世界で初の有人動力飛行に成功したのがノースカロライナと紹介しました。飛行機の発明と飛行については、ノースカロライナとオハイオとの論争がありました。これを紹介することとします。

1世紀以上前、オハイオ州のライト兄弟は最初の動力付き飛行機を製造し、世界を変えたいわれます。それ以来、オハイオ州は数多くの先駆的な飛行士の発祥の地であり、数え切れないほどの航空発明の本拠地となってきました。

しかし、1903年12月17日にライト兄弟がノースカロライナNorth Carolinaで初めて飛行を行って以来、ノースカロライナは航空発祥の地であると主張したのです。ノースカロライナは「ファースト・イン・フライト」(First in Flight)をのフレーズを導入し、そう主張したのです。これが州のナンバープレートとなります。オハイオ州は数年後に「航空発祥の地」(Birthplace of Aviation)というプレートを導入し、これに対抗します。ライト兄弟はデイトン出身で、その飛行機を自分たちの自転車屋で製造したのです。議会は2003年にオハイオ州がノースカロライナ上空の航空発祥の地であると宣言し、この論争に終止符を打ちます。造った所と飛ばした所が違うというのが両方の主張のようです。どちらが元祖かは、いろいろな話題で論争しあいますが、このようなライト兄弟の飛行話も可笑味があります。

オハイオ州から7人の共和党員がアメリカ合衆国大統領に選ばれており、「大統領の母」というニックネームはヴァジニア州と分け合うものです。南北戦争では、功績の高い北軍の3将軍がオハイオ州から出ています。後に大統領となったユリシーズ・グラント(Ulysses Grant)、ウィリアム・シャーマン(William Sherman)、フィリップ・シェリダン(Philip Sheridan)という軍人です。

オハイオ州は産業分布や人種構成が全米平均に近く「アメリカの縮図」としても知られています。選挙の度に共和党・民主党両党に勝利者が変動する「スイング・ステート」(Swing State)(振り子の州)として知られ、1964年から2016年までオハイオ州で勝利した者が大統領に当選しています。それ故に「オハイオ州を制するものが大統領選を制す」といわれるほどです。ただし、2020年はトランプがオハイオ州で勝利したものの全米では民主党のジョー・バイデンが勝利し大統領に当選しました。過去に遡り、1960年の選挙では、民主党のジョン・ケネディ(John F. Kennedy)は、オハイオ州で共和党のリチャード・ニクソン(Richard Nixon)破れながらも当選した大統領となります。まさに(振り子の州)の呼び名に相応しい州です。
(投稿日時 2024年2月15日)