アメリカ合衆国建国の歴史 その47 大陸議会の開催

1773年12月の「ボストン茶会事件」に対して、イギリス政府は厳しく応じます。1774年にイギリス議会は「強制諸法(Coercive Acts)」と称される懲罰的な一連の法を通過させます。マサチューセッツの自治権を剥奪し、ボストン港を封鎖します。このようなイギリスの植民地政府への介入は、他の地方を脅かす可能性があり、植民地側は団結して行動することによって対抗できるというのが、広く一般的な見解でした。植民地間の多くの協議の結果、大陸議会(Continental Congress)が設立され、1774年9月にフィラデルフィア(Philadelphia)で会合が開かれます。

Thomas Jefferson

ジョージア州を除くすべての植民地議会は、代表団を任命して派遣します。ヴァジニア州の代表団の提案はトーマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)が起草し、後に『A Summary View of the Rights of British America (1774)』として出版されます。ジェファソンは、植民地の立法権の自律性を主張し、アメリカ人の権利の根拠について極めて個人主義的な見解を打ち出します。アメリカ植民地やその他のイギリス帝国の構成国は、王の下に統合された別個の国家であり、したがって王のみに服従し議会には服従しないというこの考えは、ジェームズ・ウィルソン(James Wilson)やジョン・アダムス(John Adams)をはじめとする他の代表者にも共通し、イギリス議会に強い影響を及ぼします。

John Adams

大陸議会で審議されたことは、各コロニーが1票ずつ投票するか、それとも人口との比率で計算した富の額によって投票するかということでした。コロニー毎の投票という決定は、富も人口も十分に把握できないという現実的な理由からもたらされたのですが、それは重要な結果をもたらします。個々の植民地は、その規模に関係なくある程度の自治権を保持し、それは直ちに主権の言語と特権に反映されるというものです。マサチューセッツ州の影響を受け、議会は次にマサチューセッツ州サフォーク郡(Suffolk County)で示されたサフォーク決議案(Suffolk Resolves)を採択し、初めて自然権を公式の植民地論に採用するのです。それまでは、すべての抗議は不文律(common law)と憲法上の権利に基づいていました。しかし、こうした決定はさておいて、世間では慎重なムードが漂っていました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その46 ボストン茶会事件

イギリス当局とのもう一つの深刻な争いはニューヨークで起こります。ニューヨーク議会は、軍隊の宿営地に関するイギリスの要求をすべて拒否します。双方で妥協が成立する前に、イギリス議会は議会を停止させると脅します。このエピソードは、議会が宣言法の言葉、すなわち「いかなる場合においても植民地を拘束し、立法する権限を有する」という条項を援用しようとする不吉なものでした。これまでイギリス議会は、王室からの訓令を除いて、アメリカの植民地における憲法の運用に介入したことはなかったのです。

Boston Tea Party


1773年、ノース公爵が東インド会社(East India Company)をある困難から救おうとしたときにも、イギリスの植民地経済への介入は起こります。紅茶法(Tea Act)は、インドで紅茶を生産していた同社に、植民地での流通を独占させるものでした。同社は、商人による競売での販売制度を廃止し、自社の代理店を通じて茶葉を販売することを計画します。仲買人のコストを削減することで、広く買われている粗悪な密輸茶を安く売りさばくためでありました。この計画は当然ながら植民地の商人たちに影響を与え、多くの植民地人は、この法律はアメリカ人に合法的に輸入された茶を買わせ、その税金を払わせようとする陰謀であると非難しました。課税された茶の樽を拒否すると脅したのはボストンだけではありませんでした。その拒否は最も劇的で挑発的なものとなります。

1773年12月16日、ボストン市民がモホーク族(Mohawk)に扮装して停泊中の船に乗り込み、1万ポンド相当の茶を港に投棄した事件は、「ボストン茶会事件(Boston Tea Party)」として一般に知られています。イギリスの世論は憤慨し、イギリス議会のアメリカの盟友たちは立ち往生します。他の都市のアメリカ商人も混乱します。1774年の春、イギリス議会はほとんど反対もなく、マサチューセッツを秩序とイギリス主義の規律に従わせるための一連の措置を可決します。ボストン港は閉鎖され、マサチューセッツ州政府法では、議会は初めて植民地憲章を実際に変更し、1691年に設立された選挙制の議会を任命制に置き換え、知事と議会に大きな権限を付与します。

Tea Party in Boston Harbor

急進的な思想家の集まりであったタウンミーティングは、政治機関として禁止されます。さらに事態を悪くしたのは、議会はカナダ統治のためのケベック法(Quebec Act)も可決したことです。ニューイングランドの敬虔なカルヴァン主義者たちが恐れたように、フランス系住民のためにローマ・カトリック教の布教も認めていきます。さらに、南部カナダは、行政上の理由からミシシッピ渓谷に連結され、アメリカ西部開拓の支配の可能性を永久に封じ込めようとしました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その45 不平等な扱いとボストン虐殺事件

両陣営の立場は、使用される言葉にも表れています。つまり議会主権の原則は、父権的な言葉で表現され、イギリス人は自分たちを親とし、植民地の人々を子どもと呼びました。社会の安定のためにイギリス議会の言い分を受け入れる植民地の保守主義派(Tories)も、このような用語を使いました。こうした観点から、子どもが親に反抗するのが不自然であるように、植民地の不服従は不自然なのであるという主張でした。これに対して植民地主義者たちは、権利という言葉で反論しました。彼らは、イギリス議会は植民地においては、イギリスでできないことは植民地でも何もできないのだと考えました。なぜなら、アメリカ人はイギリス人のすべての慣習法上の権利によって保護されているからであると主張します。植民地で開かれた1774年9月の第一回議会では、その最初の行動の一つとして、植民地にはイギリスの慣習法を適用する権利があることを確認しました。

Boston Massacre

ヴァジニア州のリチャード・ブランド(Richard Bland)は、1764年に発表した『罷免された大佐(Colonel Dismounted)』の中で、権利とは平等であると主張しました。彼は、植民地時代の不満の根源に言及しています。アメリカ人は不平等な扱いを受けており、それに憤慨しているだけでなく、自分たちの事案を自分たちで処理できなくなることを恐れていました。植民地の人々は、1761年にボストンで援助令状(writs of assistance)(基本的には一般捜査令状)が敷かれたことに法的不平等を感じます。というのはイギリスでは2つの有名な事件において「一般捜査令状」が非合法とされたからでした。タウンゼントは、1767年に植民地における援助令状を明確に合法化します。ディキンソン(Dickinson)は「農民からの手紙 (Letters from a Farmer)」の中でこの問題を取り上げています。

Boston Massacre Memorial

1770年初頭、ノース公爵(Lord North)が首相に就任すると、ジョージ3世(George III)はついに、自分と議会の双方に働きかけることのできる大臣を見つけます。それ以来、イギリス政府は安定を取り戻し始めます。1770年、アメリカの不輸入政策に直面し、タウンゼント関税(Townshend tariffs)は、象徴的な理由で残されていた紅茶税を除き、すべて撤廃されます。ニューイングランドの海岸線では、税関職員が地元の陪審員の支持を得られず、植民地人が反抗する事件が頻発しますが、比較的平穏な状態が戻ります。これらの事件は他の植民地からの共感は得られませんでしたが、ボストンに駐留するイギリス正規軍の増員を要求するほど深刻でした。最も激しい衝突は、タウンゼント税が廃止される直前にボストンで起こります。暴徒の嫌がらせに脅かされたイギリスの小隊が発砲し、5人を殺害した事件は、まもなく「ボストン虐殺事件(Boston Massacre)」として知られるようになります。兵士たちは殺人の罪に問われ、市民裁判にかけられますが、ジョン・アダムス(John Adams)が被告の弁護を担当し、上手に納めていきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その43 印紙税法の廃止

印紙税法の廃止に歓喜した植民地の人々は無数の乾杯をし、大砲の音を鳴らし、宣言法は面目を保つための粉飾であると無視しようと叫びました。しかし、ジョン・アダムス(John Adams)は、『正典と封建法に関する論文』の中で、議会がこのような権力観で武装し、再び植民地に課税しようとすることを警告します。1767年、ウィリアム・ピット(William Pitt)が率いる内閣でチャールズ・タウンゼント(Charles Townshend)が大蔵大臣に就任すると、このような懸念が起こります。問題は、イギリスの財政負担が軽減されていないことでありました。

William Pitt

タウンゼントは、植民地時代の外税と内税の区別を文字通りに解釈し、鉛、ガラス、塗料、紙、家庭の主要飲料である茶など、さまざまな必需品に外税が課されていきます。その結果、植民地の人々は、イギリスは植民地を従属的な地位おこうとする長期的な展望をもっていると考えます。彼らはそれを新たな「奴隷制」と呼ぶようになります。しかし、このような見方は間違っていました。グレンヴィルの政策は、慎重に検討されたパッケージとして設計されていたのでした。グレンヴィルには、いくつかの整理法案を除いて、印紙税法後に植民地に対するさらなる計画はなかったのです。グレンヴィルの後継者たちは、当初の印紙税法の延長線上ではなく、印紙税が廃止されたことを理由にさらなる措置を講じようと画策していきます。

しかし、植民地の人々は怒り狂いました。ペンシルベニアでは、弁護士で立法者でもあったジョン・ディキンソン(John Dickinson)が一連のエッセイを書き、1767年と1768年に『ペンシルベニアの農民からの手紙』として発表し、広く再版され、植民地の統一した反対運動を形成する上で大きな影響を及ぼしました。ディキンソンは、イギリス議会が帝国全体に関わる最高権力者であることには同意しますが、植民地の内政に関する権力は否定し、植民地の忠誠心の基本は上位者への服従ではなく、対等の関係にあることを冷静にほのめかします。

John Dickinson

植民地人が意見で一致することは、行動で一致するよりも簡単なことでした。多くの駆け引きと交渉の末、徐々にイギリス製品に対する広範な非輸入政策が実施されるようになります。こうした際の合意形成は容易ではなく、時には非協力的な言いがかりをつけられ緊張が起こりました。また、この政策は、新たに設置された地方委員会によって執行されなければなりませんでした。その過程で、これまで公務の経験があまりない地方出身者が新たな規律権を握ることになります。その結果、一部の植民地では、内政干渉に対する不満の声が多く聞かれるようになります。こうした状況は、後にさらなる措置が必要となるにつれて、植民地政治の将来に影響を及ぼすことが明白となっていきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その42 印紙税法

印紙税法は植民地の経済活動の重要な部分を攻撃し、貿易取引に影響を与えます。また、植民地で最も明晰で影響力のある弁護士、ジャーナリスト、銀行家の多くに影響を与えます。さらに、イギリス議会が植民地に対して直接賦課した最初の「内国税」でありました。それまでの植民地税は、地方自治体が徴収したり、「外的」輸入税であったので、歳入を増やすというよりも、イギリス帝国全体の利益のために貿易を規制することを主な目的としていたと考えられました。

印紙税法の反対

しかし、こうした印紙税法は暴動を引き起こします。イギリスも植民地もこうした騒ぎなるとは誰も予想していませんでした。ボストンなどの町では暴動が起き、任命された切手販売人は職を辞することを余儀なくされ、合法的な取引はほとんど停止してしまいます。1765年夏、いくつかの植民地はニューヨークの会議に代表団を送ります。そこで印紙税は、選ばれた代表を通じてのみ課税されるというイギリス人の権利を侵害するものとして非難され、あわせてイギリス製品の禁輸措置という提案が採択された。

印紙税法の風刺画

イギリス内閣の交代は、課税政策の変更を促します。イギリス議会は植民地の無法状態を怒りを表すのですが、イギリス商人はイギリスの輸入の禁止を懸念していまた。グレンヴィルの後を継いだロッキンガム侯爵(marquis of Rockingham)は、植民地の抗議に同調するためではなく、国内の理由から印紙税を廃止するように説得し、1766年に廃止が可決されます。しかし同日、議会は宣言法(Declaratory Act)も可決します。宣言法は、議会が「いかなる場合においても植民地を拘束し、立法する権限を有する」と宣言したのです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その41 税を巡る議論

1763年に首相に就任したジョージ・グレンヴィル(George Grenville)は、すぐに植民地での歳入を増やすことで国防費を賄おうと考えます。最初の措置は、1764年のプランテーション法、通常「歳入法(Revenue Law)」または「砂糖法」と 呼ばれるもので、輸入された外国産糖蜜の関税をわずか3ペンスに引き下げる一方、精製糖への高い関税と外国のラム酒の禁止を関連づけたものでした。この政策は、イギリスの財務省のニーズと西インド諸島のプランターおよびニュー イングランドの蒸留業者のニーズのバランスを慎重に考慮したものでした。

この措置は実施されませんでしたが、政府はイギリス人将校を配置した税関のシステムを構築し、副提督裁判所(vice-admiralty court)まで設立します。この裁判所はノバスコシア州(Nova Scotia)のハリファックス(Halifax) に置かれ、ほとんど審理されることはありませんでしたが、原則的には地元の陪審員による裁判なので、イギリスの大事な特権を脅かすものでありました。ボストンはさらに、憲法上の理由から税の増収に反対しなます。こうした不安の声も聞かれますが、植民地は概してこうしたイギリスの措置を容認しました。

Benjamin Franklin


次に議会は、1764年に通貨法を制定し、戦時中から残存する多くの紙幣を流通から撤廃することで、植民地経済の展望に影響を与えます。この措置は、経済成長を制限するためではなく、不健全と思われる通貨を回収するために行われたものですが、戦後の困難な時期に流通媒体を著しく減少させ、さらにこのような状況はイギリス政府の困難を物語るものでした。

Statue of Benjamin Franklin

グレンヴィルの次なる政策は、法的文書、新聞広告、船舶積荷証券など、さまざまな取引に適用される印紙税の徴収でした。植民地は正式に相談を受けますが、代替案を提示することはありませんでした。ロンドンでは、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)も同意見でしたが、正式な異議申し立てを行った後、植民地は以前の税金と同様に新しい税金を受け入れるだろうと考えていました。しかし、1765年の印紙税法(Stamp Act)は、それまでの議会のどんな措置よりも強く深い打撃を与えます。一部の諜報員がすでに指摘していたように、戦後の経済的困難のため、植民地は準備資金が不足していました。ヴァジニア州では、資金不足は深刻で、議会議長で州財務長官のジョン・ロビンソン(John Robinson)は、通貨法によって公式に流通が停止された紙幣を操作して再分配します。

アメリカ合衆国建国の歴史 その40 部族文化の解体と新興宗教

南北戦争後の急激な資本主義の発展のなかで、牧畜業者、鉱山業者、森林業者、鉄道業者、土地投機業者、そして農民は諸部族の保留地の土地と資源に目をつけて保留地そのものを解体しようとしていました。他方、人道主義的改革家は、部族の組織と部族文化を解体し、彼らを農民や市民として文明化し、白人市民社会に同化させることを目指しました。この経済的欲求と文明化のイデオロギーが合致して、1887年に一般ドーズ法(Dawes Act)と呼ばれる土地割当法が制定されます。それは、保留地の一部を部族個人に単純所有地として割り当て、余剰分を白人耕作者に解放すると規定したもので、軍事力による土地収奪から、法により土地奪取へと転換するものでした。

Ghost Dance


Sun Dance

その後の修正立法措置で割り当て地そのものにも賃貸制が導入されて、保留地の土地は急速に部族の手から白人の手に移りました。その結果1887年に1億5800万エーカーであった保留地は1900年には7780万エーカーに、1934年には4900万エーカーに減少しました。1924年にいたって部族に市民権が認められたものの、白人市民と完全に平等になったわけではありませんでした。土地と文化を奪われつつあった西部の諸部族は、救済を宗教にもとめ、ゴーストダンス(Ghost Dance)やサンダンス(Sun Dance)、ペヨーテ信仰(Peyotism)が流行していきます。ちなみに1エーカーとは4047平方メートル位で、東京ドームはおよそ11.5エーカーです。ゴーストダンスとは、先住民族の間におこった千年王国論的な宗教運動で、1870年にネバダ州の先住民パイユート(Paiute)のウォボカ(Wovoka)という予言者によって始められたものです。サンダンスとは、自然復活と和平祈願の最大の儀式で「聖なるパイプ」と煙草が用いられます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その39 リトルビッグホーンの戦い

イギリスと植民地との対立は深刻化し、やがて独立戦争へと展開します。独立革命から南北戦争(1760年〜188年代)後及び、独立戦争で大半の部族がイギリスと同盟し、独立派軍に対抗します。そのうち五大湖周辺の北西部諸部族は、1763年のポンティアック戦争から1794年のフォールン・ティンバーズの戦い(Battle of Fallen Timbers)の敗北まで、本国からの独立革命を遂行しつつあった植民地人に対して、自らの自由と解放のために戦います。

フォールン・ティンバーズの戦いとは、独立派軍よる北西部領土侵略に対抗して、諸部族が大同盟を組んで挑んだインディアン戦争のことです。この戦いは、1812年戦争といわる英米戦争の際にショーニー(Shawnee)部族長テクシム(Tecumseh)によって受け継がれ、彼は部族の大同団結を提唱しますが大望を果たせず、ハリソン将軍( William Harrison)に敗れ戦死します。

Cherokee

同じ頃、南部ではチェロキー族(Cherokee)などが文明化政策を受け入れて農業化、文明化への道を歩み、黒人奴隷制度も導入します。チェロキーはアンドリュー・ジャクソン軍(Andrew Jackson)と戦って敗れ広大な領土を奪われます。こうしてミシシッピー川以東における優位を確立した政府は、1830年にインディアン強制移住法(Indian Removal Act)を制定し、ミシシッピー川以東の諸部族に同川以西への移住を強制します。諸部族は多大の犠牲者を出しながら長い「涙の旅路」(Trail of Tears)を辿ります。セミノール族(Seminole)は強制移住に抵抗し黒人と結束しますが敗北します。「涙の旅路」とは、1838年にチェロキー族を、後にオクラホマ州となる地域のインディアン居留地に強制移動(Population transfer)させたときのことを指します。17,000名のチェロキー族のうち、途中で4,000名以上が亡くなったといわれます。

第7騎兵連隊

1840年代の急激な領土膨張とゴールドラッシュ(gold rush)によって、南西部や大平原、グレートベイスン(Great Basin)や太平洋沿岸の諸部族は、押し寄せる移民者の群れと合衆国軍に始めて向き合うことになります。ゴールドラッシュとは、新しく金が発見された地へ、金脈を探し当てて一攫千金を狙う採掘者が殺到することです。コマンチ(Comanche)、アパッチ(Apache)、ナバホ(Navajo)、シャイアン(Cheyenne)、スー(Sioux)、アラパホ(Arapaho)などの諸部族は果敢な抵抗を開始します。

Battle of Little Big Horn

南北戦争が起こると部族間のみならず、部族内が敵味方に分かれて戦う悲劇を強いられます。戦争中、スー族の討伐やサンドクリーク(Sandcreek)の虐殺など大平原部族への圧力が高まります。サンドクリークの虐殺とは、1864年11月にコロラド地方で、政府軍が無抵抗のシャイアン族とアラパホ族インディアンの村に対して行った無差別虐殺です。

アメリカ合衆国建国の歴史 その38 砂糖法と通貨法

入植者にさらに深刻な影響を及ぼしたのは、イギリスの新たな歳入財政政策でした。イギリス政府は、拡大する帝国を支えるため、もっと多くの資金を必要とすると同時に、国内では納税者の不満の増大に直面していました。植民地が自らの防衛の費用を負担することは、政府にとって十分に妥当な政策だと考えられました。イギリス議会が新たに税金を徴収することによって、植民地の自治を圧迫していきます。

Sugar Act

課税の第一歩として、1733年の糖蜜法(Molasses Act)に代わって、1764年に砂糖法 (Sugar Act)が制定されます。糖蜜法とは、アメリカ植民地に対して外国領産糖蜜・砂糖の輸入に課した高額な関税法のことです。これに代わる砂糖法は、外国製ラムの輸入を違法とし、あらゆる地域から入る糖蜜に控えめな関税を課し、またワイン、絹、コーヒーなど多くのぜいたく品に課税することを定めました。イギリス政府は糖蜜法を精力的に執行します。税関吏は、職務の効果を上げることを命じられます。アメリカ海域を航行する英国の軍艦は密輸業者を捕獲するよう指示され、イギリスの役人は、「家宅捜索令状」によって、疑わしい施設を捜索することができました。

Sugar Cane

砂糖法が課した関税とその執行のための措置は、いずれもニューイングランドの商人たち仰天させます。彼らは、たとえ少額であっても関税を払えば、事業に壊滅的な影響が及ぶと主張します。商人、議会、そして町民会が、この法律に抗議していきます。植民地の弁護士は、「代表なき課税」(Taxation without representation)に対して抗議します。イギリス議会への代表権がないのにイギリスの国税を課税することは不合理と主張します。この「代表なき課税」というスローガンは、多くのアメリカ人に、母国によって抑圧されているという実感を与えていきます。

その後、1764年に、イギリス議会は「今後、国王陛下の植民地で発行される紙の信用証券を貨幣とすることを禁じるため」に、通貨法(Currency law)を制定します。アメリカの13植民地すべての通貨制度を完全に支配しようとするのです。通貨法はジョージ3世の治世中にイギリス政府によって可決された最も影響力のあるものといわれました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その37 新たな植民地制度

フランス・インディアン戦争の後、イギリス政府は、いっそう中央集権的な支配を強め、帝国全体の経費を、より公平に分散させようとします。そしてフランス系カナダ人と北米先住民の利害を考慮するような、新たな帝国の仕組みの必要性を感じていました。一方、長年にわたり高度の独立に慣れていた植民地は、自由の抑制ではなく、自由の拡大を期待していきます。また、フランスの脅威がなくなったため、植民地側は、イギリスの強力な存在は必要でなくなると考えます。こうして自治に熟達し干渉を嫌う植民地人とイギリスは対立することになります。

カナダとオハイオバレー(Ohio Valley) を治めていくために、イギリスにはフランス人と先住民族を疎外しないような政策が必要となります。しかし、イギリス政府と植民地の利害は根本的に対立し、人口が急増し、定住するための新たな土地を必要としていた植民地側は、西のミシシッピ川まで境界線を拡大する権利をイギリスに対して主張していきます。他方、部族との一連の戦争を恐れたイギリスは、もっと漸進的に土地を開拓するべきだと考えます。また、入植者の移動を制限することは、新しい植民地が形成される前に、既存の植民地に対する英国王の支配を確保する1つの手段でもありました。

ジョージ三世

1763年のイギリス国王ジョージ3世(George III)の名で発布した「国王布告」 (Royal Proclamation)により、合衆国とカナダの東部に連なる長大なアパラチア山脈の一部、アレゲーニー山脈(Allegheny Mountains)からフロリダ、ミシシッピ川、ケベックの間にまたがる西部のすべての領土が、先住民のために確保されます。これによってイギリス政府は、13の植民地による西部領土の所有請求を無効とし、西方への拡張を阻止しようとします。このイギリスの措置が、効果的に執行されることはありませんでしたが、入植者にとっては、西部の土地を占有し定住する基本的な権利を無視した高圧的な対応にほかなりませんでした。

フランス・インディアン戦争

アメリカ合衆国建国の歴史 その36 イギリスのカナダ獲得

帝国間の大戦でイギリスがフランスに勝利したのは、非常に大きな犠牲の上に成り立っていました。戦前は年間650万ポンド近くあったイギリス政府の支出は、戦争中は年間約1,450万ポンドに増加します。その結果、イギリスの税負担はおそらく史上最高となり、その多くは政治的に影響力のある地主階級が負担することになります。さらに、カナダという広大な領地を獲得し、諸先住部族に対しても、南と西のスペイン人に対してもイギリスの領土を保持するため、植民地の防衛費はいつまでも続くと予想されました。さらに議会は、マサチューセッツに戦費の補償として多額の資金を与えることを決議しました。そのため、イギリス世論としては、将来的な支払いの負担の一部をそれまで軽い課税と軽い統治のもとにあった植民者自身に転嫁することが合理的であると考えたのです。

アメリカ大陸と領土拡大

戦争の長期化によって、イギリス帝国に広がっていた緩んだ経済状況を強化する必要がありました。戦争の過程でそうした必要性が確認されたとすれば、戦争終結はその好機となったはずでした。カナダを獲得したことで、ロンドンの役人は、フランス占領の脅威から解放された未開拓の西方領土を維持する必要がありました。イギリスはすぐに、諸部族との関係全般を管理するようになります。1763年のイギリス王室の公布により、アパラチア山脈にイギリス植民地からの入植の限界を示す線が引かれ、その先はイギリスが任命した委員を通じて厳密に部族との貿易を行うことができるとされます。この布告は、部族の権利を尊重したものでしたが、ポンティアックを中心とする反乱の防止には間に合いませんでした。

また、ロンドンからすれば、軍隊の駐屯の少ない西部で毛皮蒐集を住民に任せることは、経済的にも商業的にも合理的でした。しかし、イギリス植民地からの入植の限界を示す布告は、2つの理由でイギリスの植民地主義者たちを困惑させます。それは、西部の土地への入植と投機の可能性に制限が設けられたこと、そして西部の支配権を植民地の人々から引き離すことだからです。植民地の野心家たちは、この公布によって自分たちの運命を左右するような権利が失われると考えます。

部族と商人

実際、イギリス政府は、西部開拓の停止が植民地の人々の恨みを買うことを大きく見くびったのです。それがアメリカ独立戦争に至る12年間の危機を引き起こした要因の一つとなります。諸部族が大陸の内陸部に自分たちのための土地を確保しようとする努力は、イギリスが勝利すれば、そのチャンスがあったかもしれません。いざ勝利したアメリカ合衆国を相手にすると部族にとっては全くの努力が報われなくなります。

アメリカ合衆国建国の歴史 その35 フランス・インディアン戦争

やがて先住部族とヨーロッパ人双方の対立は避けられなくなります。入植の初期には、彼らは協力することもありました。例えば、プリマス植民地の入植者をスクワント族(Squanto)が援助したり、ヴァジニア州のジョン・ロルフ(John Rolfe)がパウハタン族(Powhatan)の娘ポカホンタス(Pocahontas)と半公式結婚をしたようにです。部族は、新しい環境で生き残るための技術を入植者に教え、入植者からは金属製の道具、ヨーロッパの布地、そして特に銃器を紹介されそれらをすぐに採用していきます。

諸部族は、ヨーロッパ人の2つの利点である共通の書き言葉の利用や近代的な交換システムに対応すること慣れていなかったので、植民地の役人による諸部族からの土地の購入は、しばしば軽薄な土地の収奪になりがちでした。アメリカ先住部族と公平に接するよう特に努力したウィリアム・ペン(William Penn)とロジャー・ウィリアムス(Roger Williams)は、稀な例外的人物でした。

French and Indian War

先住部族の関与が植民地主義者に与えた影響は、特にカナダをめぐるイギリスとフランス間の争いで顕著でした。フランスは毛皮を五大湖周辺に定住するヒューロン族(Huron)に依存していましたが、ニューヨーク西部とオンタリオ南部に拠点を置くイロコイ族(Iroquois)連合はワイアンドット族(Wyandot)を制圧し、サスケハノック族(Susquehannocks)やデラウェア族といったヒューロン族の同盟者をペンシルベニア州へと追いやることに成功します。この行為により、毛皮貿易の一部がフランスのモントリオールとケベック市からイギリスの支配するオルバニー(Albany) とニューヨークに流失し、イギリスはイロコイに借りを作ることになります。

ヨーロッパと諸部族の同盟は、ルイジアナでフランスの影響を受けたチョクトー族(Choctaws)が、フロリダでスペインの支援を受けたアパラチア族(Apalachees)とジョージアでイギリスの支援を受けたチェロキー族(Cherokees)と戦う方法にも影響を及ぼします。

フランス・インディアン戦争(French and Indian War)は、植民地の人々の軍事的経験と自己の存在の自覚を強化しただけでなく、部族長であるレッド・ジャケット(Red Jacket)やジョセフ・ブラント(Joseph Brant)など、2、3カ国語を操り、ヨーロッパの競争相手との間で交渉できる指導者を輩出することになります。しかし、クライマックスのイギリスとフランス間の闘争は、諸部族にとって災いの始まりでありました。

Pontiac’s Uprising

イギリスが着実に軍事的成功を収め、カナダからフランスを追放すると、諸部族はもはや、ロンドンとパリのどちらの王を支持しても、西方への入植を抑制するという外交カードを使うことができなくなります。このことを知った部族の中には、これ以上の侵攻に対して団結して抵抗しようと考える者も出てきます。1763年、オタワの酋長ポンティアック(Pontiac)が起こした反乱(Pontiac Rebellion)がその例です。しかし、後にヨーロッパ、そしてアメリカの権力に対して先住部族が協力して挑戦したように、これだけで終わりではありませんでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その34 先住民族の反応

この北アメリカの支配をめぐる争いの主役は、もちろんアメリカの先住民族です。現代の歴史家は、アメリカ先住民とヨーロッパ人の出会いを、新世界の発見者が「未開人」の住む荒野を見つけるというような古いレンズで見ることはしません。その代わりに、異なる文化が相互作用し、より良い武器を持ったヨーロッパ人が最終的に現地の人々を征服する、というストーリーを描きます。しかし、その筋書きはお互いが相手から慣習や技術を取り入れるといった調和的なものではなかったのです。

Native American


イギリスは、スペインやフランスの北アメリカ植民地支配とは大きく異なっていました。南西部に広く分布するスペインの帝国は、散在する駐屯地と伝道所に依存して、先住民族を支配下におき、利用しやすいように占有することに成功しました。カナダでは、フランス人は自分たちの側の先住民族を毛皮の収集者として扱い、広大な森林を事実上所有することにしました。イギリスの植民地は、やがてその強みを発揮し、先住民族の所有地から確保した広大な土地を独占的に耕作するために、農業従事者の移住を奨励するようになります。

Native American in Colony

イギリスの植民地の役人は土地の購入から始めましたが、このような取引は、天然資源の集団または個人の「所有権」という概念そのものが異質なる先住民族にとって不利に働くものでありました。先住民族の代表者は必ずしも土地の所有者ではなかったのですが、「売買」が成立した後、先住民族は自分たちが狩猟や漁業の権利を放棄したことに驚き、入植者は先住民族の文化が認めない無条件の支配権を持つようになったのです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その33 パリ条約

1759年、数ヶ月にわたる散発的な戦闘の後、ジェームズ・ウルフ(James Wolfe)が率いる軍隊がモンカルム侯爵(marquis de Montcalm)の率いるフランス軍からケベック(Quebec)を奪取します。これがおそらく戦争の転機となります。1760年の秋には、イギリスはモントリオール(Montreal)を占領し、アメリカ大陸のすべてを実質的に支配することになります。イギリスが他の地域の国々を破るのにさらに2年かかったのですが、アメリカ大陸での覇権争いは決着していきます。

パリ条約よる新大陸

1763年のパリ条約(Treaty of Paris)で、イギリスはカナダ全土、東西フロリダ、アメリカ大陸のミシシッピ川以東の全領土、カリブ海のセントビンセント (St. Vincent)、トバゴ(Tobago)、ドミニカ(Dominic)を領有することになります。当時、このようなイギリスの勝利は史上最大級のものと思われました。アメリカにおけるイギリス帝国を樹立しただけでなく、領土が大きく拡大したのです。

Treaty of Paris, 1783

しかし、この戦争に勝利したことで、イギリスは帝国の最も強力な物質的接着剤のようなものを失っていきます。それは、イギリス帝国のニーズとアメリカの植民地のニーズとが異なるため、両者に深刻な対立が生じていくのです。経済的に強力になり、文化的に異なり、政治的に着実に独立しつつある植民地は、最終的にはイギリスの帝国主義に反旗を翻すことになるのです。

イギリスは北アメリカのヌーベルフランス(Nouvelle-France)と呼ばれていた地域で、東はニューファンドランド島から西のロッキー山脈まで、北はハドソン湾から南のメキシコ湾までに大半を委譲されます。さらにイギリスは、スペイン領フロリダ、西インド諸島のいくつかの島、西アフリカ海岸のセネガル植民地、インドにおけるフランス交易地に対する優越を獲得します。

アメリカ合衆国建国の歴史 その32 イギリスの勝利

フランスは、アメリカにおけるイギリス植民地の人口において、15対1で優っていて、フランス人は彼ら自身を保全するために十分な備えをしていました。彼らはイギリスよりもアメリカに大きな軍事組織を持っていて、その軍隊はよりよく訓練されました。彼らは先住民族との間で軍事同盟を結ぶことに成功していました。

最初の戦の遭遇はフランスが始めました。ジョージ・ワシントン(George Washington)のネセシティ砦(Fort Necessity)で、優勢なフランス軍に降伏し、モノンガヒラ川(Monongahela River)でのエドワード・ブラドック将軍(Gen. Edward Braddock)の全滅、オスウェゴ(Oswego)とウィリアム・ヘンリー砦(Fort William Henry)でのフランスの勝利は、イギリスにとって戦争が短期間で失敗したかのように見えました。しかし、こうした敗北があったにせよ、イギリス軍はアメリカへ兵員と物資の供給を増やすことができました。 1758年までに、軍隊の規模は最終的に満足できる水準に達し、イギリスはより大きな戦略を実行し始めることになります。

Fort Ticonderoga

イギリス軍は、セントローレンス(St. Lawrence)の支配権を獲得するための陸海軍と、タイコンデロガ砦(Fort Ticonderoga)を狙った大規模な陸軍を派遣してシャンプレーン湖(Lake Champlain)のフランス軍を排除する計画を持っていました。ただ、フランス軍に対するタイコンデロガ砦での最初の遠征は惨敗でした。ジェームズ・アバクロンビー将軍(

Gen. James Abercrombie

)は、軍隊が首尾良く配置される前に、15,000人のイギリス軍と植民地軍を率いてフランス軍に対して攻撃したのです。セントローレンスの鍵であるルイバーグ(Louisburg)へのイギリス軍の急襲は成功します。 1758年7月、ジェフリー・アマースト卿(Lord Jeffrey Amherst) は海軍の攻撃を主導し、彼の兵隊は小さな舟艇で海岸に上陸し海岸堡を確立し、ルイバーグの砦を占領しました。

イギリスは土地を開拓し農業を行う農業植民であったのに対し、フランスの北米植民地では先住民との毛皮交易が当初の目的でした。フランス人の支配は、交易路となる河川の「線」や、交易所、宣教師の基地、軍事要塞など「点」が中心でした。農地を広げ面的支配を意図するイギリス人はフランス人を圧倒していきました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その31 イギリスとフランスの角逐

アメリカの植民地は、多くの点でヨーロッパの国々から隔離されていましたが、それにもかかわらず、海外からの外交的および軍事的圧力に絶えず晒されていました。特に、スペインとフランスは常に近くにあり、アメリカ本土での商業的および領土的利権を増やすために、アメリカにおけるイギリスの弱さの兆候を利用するのを待っていました。

帝国間の第一次世界大戦、またはアメリカ人に知られているフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)は、この世紀におけるヨーロッパの主要国間の戦争のもう一つのラウンドでした。最初はウィリアム王戦争(King William’s War)(1689–97年)、次にアン女王戦争(Queen Anne’s War)(1702–13年)、そして後にジョージ王戦争(King George’s War)(1744–48年)で、イギリス人とフランス人は戦いました。先住民族の支配、アメリカ大陸の北にある領土の所有、北西部の貿易へのアクセス、西インド諸島の商業的優位性のためです。

ジャンヌ・ダルク

両国間の争いでは、フランスはスペインに助けられていました。スペインは、イギリスの植民地のすぐ南と西、およびカリブ海に独自の領土を持っていたため、イギリスの拡大を制限するためにフランスと協力することが自分たちの利益であることに気づきました。こうした争いの集大成は、1754年にヨーロッパの大戦で起こりました。アメリカでのイギリスとフランスの間の長い争いは、主にアメリカ大陸という地方の問題であり、アメリカの入植者がイギリスのために戦ってはいましたが、帝国同士の大戦では、アメリカへはイギリス軍のかなりの支援がありました。ウィリアム・ピット(William Pitt)の下でのイギリスの戦略は、彼らの同盟国であるプロイセンをヨーロッパでの戦闘の矢面に立たせることで、それによってイギリスがアメリカに軍隊を集中させるというものでした。

King George’s War

アメリカ合衆国建国の歴史 その30 信仰復興運動(リバイバル)

「信仰復興運動」とか「大覚醒運動」(Great Awakening)として総称される一連の宗教的リバイバルは、1730年代と40年代に植民地を席巻します。その衝撃は、1720年代にオランダ改革派教会の牧師であるセオドア・フレリングハイゼン(Theodore Frelinghuysen)が説教を始めた中部の植民地で最初に起こります。

1730年代初頭のニューイングランドでは、おそらく18世紀で最も学識のある神学者のジョナサン・エドワーズ(Jonathan Edwards)らが、宗教的な熱狂という大衆伝道にかかわっていました。1740年代後半までに、大衆伝道は南部植民地にまで拡大し、サミュエル・デイヴィス(Samuel Davies)やジョージ・ホワイトフィールド(George Whitefield)などの巡回説教者が、特に地方の田舎で大きな影響力を及ぼしました。

Jonathan Edwards

信仰復興運動は、社会の世俗化の進展や、アメリカ社会の主要な教会の商業主義、唯物論的性質に対する反発を示しています。改心を救いの道の第一歩とし、自分の罪深さを認めたすべての人に改宗の経験を味わわせるのです。大覚醒運動の指導者は、意図的に、あるいは無意識のうちに、カルヴァン主義(Calvinism)の神学を大衆的なものとしていきました。カルヴァン主義とは、すべての上にある神の主権を強調する神学体系、およびクリスチャン生活の実践の教えのことです。

信仰復興運動の説教者の多くのテクニックは、人間の罪深い生活の結果への恐れと神の全能性への敬意を聴衆に鼓舞することでした。神の凶暴さという感覚によって、世俗性の拒絶と信仰への復帰が恵みをもたらし、怒る神からの恐ろしい罰から逃れることができる、という目に見えない約束によって人々は慰められることを強調しました。

しかし、信仰復興運動がうたう神学の考え方には、ある矛盾した性質がありました。信仰復興運動のほとんどの指導者はカルヴァン主義神学の主要な信条の一つである予定説(Predestination)を強調しました。この予定説は、人間が自発的な信仰の行為によって自身の努力によって救いを達成することができるという教義とは決定的に対立するものでした。

Evangelist Billy Graham

さらに、完全な信仰への復帰と神の全能性の強調は、啓蒙思想(Enlightenment thought)とは対立する考え方でした。啓蒙思想は、信仰についての大きな疑問を呈するとともに、人間の日常の営為における神の役割は少ないということを主張するものでした。他方、アメリカの信仰復興運動の主要人物の一人であるエドワーズは宗教を合理的に理解しようとして、ジョン・ロック(John Locke)やアイザック・ニュートン(Isaac Newton)などの考えを明確に援用しました。

ここで重要なのは、信仰復興運動によって促進された福音主義の宗教的礼拝のスタイルが、疑問視された教会の宗派の多く、特にバプテスト派とメソジスト派の宗教的教義をアメリカ国民へより理解しやすくするのに役立ったことです。教会の会員数の拡大は、黒人だけでなくヨーロッパ系の人々にも拡大し、福音派プロテスタントの典礼形式は、アフリカやアメリカで行われるの宗教的礼拝の合同(syncretism)を促進することになりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その29 ドイツからの移民と再洗礼派

アメリカのプロテスタントも移民によって多様化していきます。 18世紀初頭に数千人のドイツ人が到着したことで、特にペンシルベニア州西部に、メノナイト(Mennonites)、モラヴィア兄弟(Moravians)、シュウェンクフェルダース (Schwenkfelders)などが実践したドイツの敬虔主義(German pietism)がもたらされました。

新たに再洗礼派(Anabaptists)の教徒もドイツの州から到着し、新しい土地にバプテスト教会の基盤を広げます。 1687年以降に新たな迫害から逃れたフランスのユグノー(Huguenots)は、パッチワークキルトのようなアメリカのキリスト教会にカルヴァン主義(Calvinism)というブランドを加えていきます。ただ、ユグノーは、1650年代にすでにアメリカ大陸に到来していました。

Huldrych Zwingli

ユダヤ人は1654年に当時のオランダのニューアムステルダムに到着し、オランダ西インド会社(Dutch West India Company)から亡命を許可されました。ピーター・ストイフェサント(Peter Stuyvesant)知事は、クエーカー教徒、ルター派、および「教皇主義者」に対する寛大さの前例になると杞憂していました。1763年までに、ユダヤの会堂(synagogues)はニューヨーク、フィラデルフィア、ニューポート(New Port)、ロードアイランド (Rhode Island)、サバンナ(Savannah)、およびユダヤ人の商人の小さなコミュニティが存在する港湾都市に設立されていきました。

Georgetown University and John Caroll

Ulrich Zwingli

1740年代のアメリカ植民地における宗教生活は、すでに独特の色彩を帯びていました。物質的な繁栄が進むと建国当時の苦労が薄れてゆき、当初の熱意は冷めていきます。こうした中で、信仰への揺り戻しが起こります。これがリバイバル(Revival)と呼ばれる信仰覚醒運動です。

アメリカ合衆国建国の歴史 その28 教会の多様性と教派の誕生

マサチューセッツの植民地が開かれた最初の数年間は、教義をどのように解釈するかについての清教徒の意見の不一致が起こり、分裂、亡命、そして新しい植民地の設立につながっていきました。ロードアイランドやコネチカットのように、清教徒主義に反対する人々が近隣の「荒野」の地に移動して新たに始めることができたのはアメリカだけでした。このような経験は最初から宗教の多様性を奨励することになりました。霊的体験を重んじるクエーカー教徒とか「魔女(witches)」と呼ばれたような人々を罰するという厳しい慣習は、17世紀の終わりまでにはなくなりました。

John Carroll

寛容は成長の遅い植物のようなものでしたが、植民地時代の早い段階で、寛容という種をまきがなされました。メリーランド州の創設者であり、生まれつきのカトリックカルバート家(Calvert family)は、1649年の寛容法(Toleration Act)にそって、教区民や他の非聖公会教徒に自由を拡大しました。ローマカトリック教会も設立され、その教勢を伸ばしていきます。カトリック教会で最初の「アメリカ人」の司教(Bishop)となったのがジョン・キャロル(John Carroll)でした。キャロルは教育の発展にも貢献します。高等教育を推進していくのです。

Georgetown University and John Caroll

19世紀にななると、ドイツ、アイルランド、イタリア、ポーランドからの大幅な移民がやってきて、アメリカのカトリックは独自は「メルティングポット(melting pot)」となっていきます。ペンシルベニア州は、ウィリアム・ペンのクエーカー教徒の信仰を共有する抑圧された人々のコミュニティではなく、一般的な兄弟愛のモデルとなる「連邦(commonwealth)」となります。ジョージアは、ラム酒と奴隷制の両方を禁止し、債務者に再度の機会を与えるという理想主義的で宗教的な考えで設立されましたが、どちらの禁止も長くは続きませんでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その27 教会の世俗化と民主化

アメリカ人の良心を形成する上で、宗教が果たした役割は、時には誇張されがちですが、今も重要ことといえます。植民地時代の最初の世紀において、集落が形成されたニューイングランドでは強く宗教が影響を及ぼしました。教会は少しずつ世俗化され民主化されていき、植民地発展の強い原動力となりました。ピルグリムファーザーズ(Pilgrim Fathers)が1620年にメイフラワー・コンパクト(Mayflower Compact)に署名し、「市民団体の政治」を決意し、はっきりと宗教的繋がりを政治的コミュニティの基盤にしました。しかし、もともと乗客リストにはライデン分離主義者(Leiden Separatist)の非会員、つまり「変わり者」と言われた人々がいて、1691年にマサチューセッツに吸収されるまでプリマス植民地での権利の着実な拡大を求めていました。

John Winthrop

清教徒は、ジョン・ウィンスロップ(John Winthrop) がコミュニティ設立の際の説教で、コミュニティを「キリスト教の慈善のモデル」、「丘の上の都市」と呼んで地上における天国にしようとしました。このテーマは、さまざまな形でアメリカの歴史の隅々にいきわたっています。マサチューセッツ州における清教徒主義という伝統的なイメージは、抑圧的で権威的なものですが、見落とされているのは、ウィンスロップと彼の信奉者の間で共有された愛と信仰によって結ばれるべきであるというコンセンサスです。皆が同意したことは正しいというのです。それは信者の間で自らが選んだ神政体制ともいうべきものでした。

しかし、神政的モデルは、参政権が認められていなかった教会の非会員には適用されず、会員を維持する上ですぐに問題が発生しました。自分たちに救いをもたらす「回心」という個人的な経験をした人だけが、教会の正会員になり、子どもたちに洗礼を授けることができました。しかし、第一世代が亡くなったとき、それらの子でもたちの多くは、回心を個人的に証することができなかったので、自分の子孫だけを教会に連れていくだけでした。

Anabaptist immersion

非会員は、最終的に1662年のハーフウェイ誓約(Half-Way Covenant)によって礼拝に出席することを許可されましたが、メンバーシップとしての完全な権利を享受していませんでした。そのような明らかな神学的な屁理屈は、コロニーが拡大し分散することを示しています。会衆がさまざまな町に広がり、他の信仰の崇拝者を呼び込み続けていくにつれ、清教徒の教義の硬直性は、風によって曲がるような有様となりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その25 植民地における文化的媒体

科学以外の分野でのアメリカの文化的成果は、それほど目覚ましくはありませんでした。アメリカ文学では、少なくとも伝統的なヨーロッパの形式のものはほとんど存在していませんでした。文学で最も重要なものは、フィクションでも形而上学でもありませんでしたが、ロバート・ビバリー(Robert Beverley)の著作による「歴史とヴァジニア州の現在の状態」やウィリアム・バード(William Byrd)の「分岐点の歴史」です。こうした書物は1841年まで公開されませんでした。

Robert Beverley

アメリカで最も重要な文化的媒体は、書物ではなく新聞でした。高額な印刷の費用では、最も重要なニュースを除いて書物での伝達は無理でした。したがって、求人広告や作物価格の報告などのより重要な情報が優先され、地元のゴシップや広範な投機的ニュースは後回しとなりました。新聞の次に、年鑑(almanacs) はアメリカで最も人気のある文学形式であり、1739年に刊行されたベンジャミン・フランクリンの「貧しいリチャード」は、この種の範疇で最も有名になりました。 1741年になって、フランクリンのGeneral Magazineが発行され、文芸雑誌がアメリカで始めて登場しました。しかし、18世紀のこうした雑誌のほとんどは購読者を引き付けることができず、わずか数年の発行でほぼすべて廃刊となりました。ワシントンD.C.にある議会図書館(Library of Congress)には、貴重な雑誌として貯蔵されています。

Library of Congress

南部植民地、特にチャールストンは、他の地域よりも住民のための立派な劇場を設立することに関心を持っているようでした。しかし、どの植民地でもヨーロッパの優れた劇場には追いついていませんでした。 ニューイングランドでは、ピューリタンの影響が演劇活動を広げる障害となり、国際的な都市となったフィラデルフィアでさえ、クエーカー教徒によって長い間、舞台芸術の発展が阻害されていました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その24 植民地における文化や科学の発展

17世紀から18世紀にかけてのアメリカの知的文化の発展は、ヨーロッパ諸国のそれと劣ることはありませんでしたが、明らかに異なる特徴もありました。野蛮な方法で土地を収奪するという問題に直面はしましたが、アメリカ人を最も興奮させたのは科学の応用技術でした。科学によって周囲の現象を説明し、それによって現象を利用する方法を見つけていくことでした。この科学的思考は市民社会の問題を解決することができますが、植民地時代のアメリカでは、多くの場合、政治や哲学においてではなく科学技術の応用に重点がおかれてきました。

John Bartram

アメリカが生んだ科学の天才は、ペンシルベニア州出身のジョン・バートラム(John Bartram)でした。彼は、新大陸で重要な植物データを収集し分類します。 1744年に設立されたアメリカ人文科学協会(American Philosophical Society)は、アメリカの優れた学術団体として知られていました。アメリカで最初のプラネタリウムを建設した天文学者はデビッド・リッテンハウス(David Rittenhouse)でした。ニューヨーク州副知事のカドウォールーダー・コールデン(Cadwallader Colden)は、植物学者および人類学者としての業績が、おそらく政治家としての業績を上回っていました。社会改革の多くの分野のパイオニアであり、植民地時代のアメリカの物理学者の第一人者の一人であるベンジャミン・ラッシュ(Benjamin Rush)は、人文科学協会の有力な会員の1人でした。人文科学協会の創設者の一人にベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)がいました。

Benjamin Franklin

彼は、電気の流れに関する実験で主要な理論的進歩を発表した数少ない科学者の一人となりました。他に効率的なストーブの製造とか避雷針の開発などの応用研究でも知られています

アメリカ合衆国建国の歴史 その23 自給から「居座り」へ

ニューイングランドの気候と地形の厳しさの中で、人々の経済的自立への道は貿易、船舶、漁業、または手工業へと向かいました。しかし、キリスト教に関連した第一世代の宗教的な入植者が亡くなると、個人経営による自給農業への渇望はますます強くなりました。その過程で、タウンシップによる土地の共同所有は、小さく割り当てられた家族の庭や、中世のコミュニティのスタイルである一般的な放牧地と果樹園を経営しながら、徐々にフェンスで囲んだ農場を持つようになりました。

利用可能な土地が提供され、それによって自分の生き方を求めることは魅力的なことでした。土地の所有という特権が市民に与えられたため、革命が始まる直前になると、非常に多くの男性入植者が選挙権を獲得していきました。

Sooners

奴隷制はタバコなどの作物の大規模栽培の屋台骨となり、南部植民地で最も堅固に根づいていきました。同時に、小さな面積の土地しか持たない白人もそれらのコロニーに住んでいました。さらに、小規模な奴隷制が北部に移植され、黒人は主に家事労働や未熟練労働に就くことになりました。アメリカでは自由と奴隷制の境界線はまだはっきりと描かれていませんでした。

抜け駆けする開拓者

不安定ながら、土地を取得するための一つの方法は、単に「居座る」ことでした。 入植地の西端では、植民地の管理者は、海岸郡の所有者に役に立つ不法占拠者を警察の権限を使用して追放することはできませんでした。 不法占拠者は、自分たちを無法者と見なすどころか、大きな危険と困難を伴う新しい土地を開拓するための仕事をしていると信じていました。こうして土地に居座ることは、アメリカの初期の歴史を通して西部開拓の恒常的な姿となりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その22 土地、労働力、独立

20世紀初期の歴史学者、フレデリック・ターナー(Frederick Turner)は、彼が1893年に著した「フロンティア・テーゼ」(Frontier Thesis)で、「アメリカの民主主義は自由な土地の豊富さの結果である」と主張しています。この主張は、長年真剣に討議され修正はされてきましたが、豊富な処女地開拓や労働者の不足が原因で、初期の植民地時代おける法制や制約が緩和されていたということがターナーの主張です。イギリスの新世界における「プランテーション」の成功への最も簡単な道が、輸出作物の栽培にあることが明らかになると、農業労働に対する絶え間ない需要が生まれ、奴隷制を除いて、厳格な階層的な社会秩序が危うくなることになります。

Frederick Turner

すべての植民地では、国王、所有者、または公認企業によって直接統治されているかどうかにかかわらず、入植者を引き付けることが不可欠でした。知事が最も豊富に提供したのは土地で、そのため時には数百以上の宗教的なコミュニティに多額の助成金が交付されていきます。時には、連れてきた家族ごとに非常に「頭割の権利」という文字通り一人当たりシステムで裕福な男性に土地が割り当てられました。イギリス人や他のヨーロッパ人は農場を完全に購入する手段を持っていなかったので、大規模な土地を与えられた者とって、農場の単純な売却は賃貸よりも一般的ではありませんでした。

しかし、個人事業主によって必要な道が整備され、それが労働力の移動を容易にしました。年季奉公として知られている契約労働の仕組みもありました。その下で、不謹慎な新移住者は、通常は7年間の土地所有者とのサービス期間でサインし、大西洋を渡って連れてきた船長への乗船賃の返済の見返りに彼を働かせるのでした。そのような移民は「購われた者」(redemptioners)と呼ばれていました。

John Punch

契約期間が終わりになると、年季奉公は多くの場合、まだ未開拓の地域にある50エーカー以上の土地の所有権である「自由会費」で植民地自体から報われることになります。この幾分聖書に書かれてあるような移民の前資本主義システムは、熟練労働者の供給に追加された経済的および社会的ツールである見習いとか徒弟のようなものでした。見習い制度とは、使用人が思春期前の少年を職人になるように「縛り付け」、自分の家に連れて行き、そこで代理親として少年に技術を教えることでした。 女の子は、将来母親となるように「家政婦」とされました。年季奉公と見習いを監督するのが使用人の任務でありました。使用人によって寛大であるか、厳しいかは異なりました。労働が厳しいときは、逃亡する逃亡するのが一般的でした。厳しい雇い主が多かったのは間違いありません。

ヴァジニアに連れて来られた最初のアフリカ人などは、年季奉公として働いていたようです。 1640年代に植民地で最初の黒人奴隷となったジョン・パンチ(John Punch)のことです。パンチは二人の仲間とともにメリーランドに逃亡しますが、捕らえられ裁判にかけられます。彼らは極めて異なる判決を受けます。パンチは終身の奴隷となり、他の二人は期限付きの年季奉公という判決となりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その21 経済的な発展

アメリカ各地は、次第に自給農業に依存することが少なくなり、世界市場向けの製品の栽培と製造に依存するようになります。当初は個人のニーズにしか対応していなかった土地が、経済活動の基本的な源泉となりました。独立した土地所有の農民は、特にニューイングランドと中部植民地に多くいましたが、1750年までに開拓された土地のほとんどは、換金作物(cash crop)の栽培へと転換していきます。ニューイングランドはその土地を輸出用の肉製品の生産のために利用していきます。中部植民地は穀物の主要な生産地でした。1700年までに、フィラデルフィア(Philadelphia) は年間9,450トンを超える小麦と18,000トン以上の小麦粉を輸出しました。もちろん、南部植民地は換金作物の栽培へと密接につながります。

South Carolina

サウスカロライナは、イギリスからの補助金によって、米と藍の生産に目を向けました。ノースカロライナはサウスカロライナほど市場経済を志向していませんでしたが、それでもなお、海軍物資の主要な供給地となりました。ヴァジニア州とメリーランド州は、次第にタバコの生産とそれを購入するロンドンの商人による経済的依存度を高めていきます。多くの場合、土地の一部を小麦の栽培に転用することで農業を多様化しようとした農民は無視されていきます。商人は世界のタバコの価格を完全に握るのですが、それがやがては無残な結果となります。18世紀の間、ヴァジニア州とメリーランド州の土壌は、合理的な単作システムと相まってタバコを収益性の高いものとし、十分な生産性を維持しました。

UNC-Chapelhill

アメリカが自給農業から商業農業へと進化するにつれて、影響力のある商業階層がほぼすべての植民地でその存在を高めました。ボストンはニューイングランドのエリート商人の中心地であり、経済社会を支配しただけでなく、社会的および政治的権力を発揮しました。ニューヨークのジェームズ・デ・ランシー(James De Lancey)やフィリップ・リビングストン(Philip Livingston)、フィラデルフィアのジョセフ・ギャロウェイ(Joseph Galloway)、ロバート・モリス(Robert Morris)、トーマス・ウォートン(Thomas Wharton)などの商人は、職業の範囲をはるかに超えた影響力を発揮しました。

チャールストンでは、ピンクニー(Pinckney)、ラトレッジ(Rutledge)、およびローンズ(Lowndes)の各家が、その港を通過する貿易の多くを支配していきました。強力な商人階級が存在しなかったヴァジニア州でさえ、経済的および政治的権力を持っていたのは、商人と農民の職業を最もよく組み合わさった商業農民でした。こうしてコロニーは、その商業的重要性が高まっていきます。 1700年から10年間に、植民地から毎年約265,000ポンドがイギリスに輸出され、アメリカはイギリスからほぼ同じ量を輸入しました。1760年から1770年の10年間で、その数字は、イギリスに毎年輸出される商品の1,000,000ポンド以上、イギリスから毎年輸入される1,760,000ポンドにまで上昇しました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その20 地域の拡張と領土の増大

合衆国の形成期には、人口増加、居住地域の拡張、領土の増大がほぼ並行して進みます。1790年の第一回国勢調査では約223万キロの領土となり、1863年にルイジアナ州を買収しほぼ2倍の国土となります。さらに1819年にはフロリダを買収し、1830年のインディアン移住法(Indian Removal Act)によりインディアンを強制的に西部に移住させると、1836年のメキシコ領テキサスでのテキサス共和国樹立し1845年のアメリカへの併合を決めます。イギリスとアメリカによって共同で占有されていたオレゴン・カントリー(Oregon Country)の割譲による1846年のオレゴン条約(Oregon Treaty)の締結、および米墨戦争によるメキシコ割譲により、領土は西海岸にまで達します。1845年にテキサス、翌年のオレゴンの併合に続き、1848年にはカリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、アリゾナの大部分、コロラドの一部、ワイオミング、ニューメキシコを含む北アメリカ大陸の南西部がメキシコから割譲されて、領土は大陸の三分の二に増大します。

インディアン移住法

1853年、メキシコ担当大臣ジェームズ・ガズデン(James Gadsden)によるアリゾナ州南部およびニューメキシコ州購入で大陸部の領土拡張は完了します。1790年には、393万人の住民のほとんどが大西洋岸に居住し、植民は東部海岸から内陸に向かって400キロくらいまで進みます。その一部はさらに西方のオハイオ、カナダ、ミシシッピ川水系オハイオ川の支流のひとつであるカンバーランド川(Cumberland River)まで広がっていきます。ニューヨーク州のエルマイラ(Elmira)、ビンガムトン(Binghamton)に人々が居住し始め、ミシガン州デトロイト、マキナック(Mackinac)、ウィスコンシン州グリーンベイ(Greenbay)、プレーリー・ド・シン(Prairie du Chien)、インディアナ州ビンセンス(Vincennes)にも開拓地が置かれます。後にアラスカとハワイも1959年に州に昇格します。

Alaska/Russia

アメリカ合衆国建国の歴史 その19 人口の増大と黒人奴隷

アメリカ植民地の地方行政自治の浸透は、イギリス帝国内における自治の傾向を当然ながら反映したものでした。 1650年の植民地の人口は約52,000人でした。1700年は約250,000人となり、1760年には170万に近づいていきました。 ヴァジニア州は1700年の約54,000人から1760年には約340,000人に増加しました。ペンシルベニア州は1681年の約500人の入植者で始まり、1760年までに少なくとも25万人となりました。さらにアメリカの他の都市も成長し始めました。1765年までにボストンは15,000人に達します。ニューヨークは16,000〜17,000人、植民地で最大の都市であるフィラデルフィア(Philadelphia)は約20,000人でした。

人口増加の一部は、奴隷として連れて来られたアフリカ人移民の結果でした。17世紀には、奴隷の人口はごく少数でした。18世紀半ばまでに南部の入植者は、自分たちの農園によって生み出された利益は、奴隷労働に必要な比較的大きな初期投資を賄えることを知ります。それによって奴隷貿易の量は著しく増加しました。ヴァジニア州では、奴隷人口は1670年の約2,000人から1715年にはおそらく23,000人に跳ね上がり、アメリカ独立戦争の前夜には150,000人に達しました。サウスカロライナの奴隷人口はさらに劇的でした。1700年には、およそ2,500人以下の黒人がいましたが、1765年までに80,000〜90,000人になり、人口比では黒人は白人を約2対1と上回っていました。

奴隷の行方

アメリカ大陸に自発的に移住してきた人々を惹き付けた魅力の1つは、安価な耕作地を利用できることでした。開拓者の西部への移住では、17世紀初頭にはアメリカ全土が開拓地であり、18世紀までには開拓地は海岸線から15〜320 kmの範囲にありました。これはアメリカが発展する歴史の大きな特徴です。1629年から1640年までに、イギリスのピューリタンがアメリカに大量に移住してきました。17世紀を通して、移民のほとんどはイギリス人でした。しかし、18世紀から20世紀になると、主にドイツ、プファルツ州(Palatinate)のラインラント(Rhineland)からのドイツ人の波がアメリカにやって来ました。1770年までに225,000人から250,000人のドイツ人がアメリカに移住し、その70%以上が中部植民地に定住しました。寛大な土地政策と宗教的寛容の精神が彼らの生活をより快適にしました。

奴隷の売買

1713年以降に大規模に始まり、アメリカ独立戦争を過ぎても続いたスコットランドーアイルランド系アメリカ人とアイルランド系移民の人口は、より均等に分布していました。1750年までに、スコットランド系アイルランド人とアイルランド人は、ほぼすべての植民地の西部で見られるようになりました。しかし、ヨーロッパ人がより大きな経済的機会を求めたあらゆる地帯での独立と自給自足の探求は、土地を占有する先住民族との悲劇的な紛争につながりました。ほぼすべての場合、ヨーロッパ人は、土着生活や固有の文化を主張する先住民族を尊重せず、大陸の先住民族を辺境の地へ追いやることになります。

Black lives matter.

アメリカ合衆国建国の歴史 その18 植民地行政とタウンミーティング

チェサピーク社会とカロライナ社会の西部地域には、独自の特徴がありました。統治の伝統は少なく、土地と富の蓄積はそれほど顕著ではなく、社会的階層制はそれほど堅固ではありませんでした。一部の地域では、東部における規制や統治機構に対抗し、それが紛争につながります。ノースカロライナ州とサウスカロライナ州の両方で、東部の支配階級のエリートによる無反応な姿勢に対して、武装した争いが噴出しました。しかし、18世紀の中盤になると多くの人々が富と社会的名声を蓄積し、ノースカロライナ州とサウスカロライナ州は東部の州と同様に発展していきます。

Town Meeting

ニューイングランドの社会はより多様であり、統治機構は南部の機構に比べて寡頭的ではありませんでした。ニューイングランドでは、タウンミーティング(town meetings) といった市民参加の行政が、郡(county)裁判所の狭い基盤を超えて、州政府への関わりを拡大するのに役立ちました。州議会の議員を選出したタウンミーティングは、ほぼすべての自由な成人男性に開かれていました。それにもかかわらず、比較的少数の男性グループがニューイングランドの州政府を支配しました。南部と同様に、高い職業的地位と社会的名声のある男性は、それぞれの植民地の指導的地位に深くつながっていました。ニューイングランドでは、商人、弁護士、そして少ないながら聖職者が社会的および政治的エリートの大部分を占めていました。

中部植民地における社会的および統治的な仕組みは、他のどの地域よりも多様でした。ニューヨークにおいて地主(manor)や大地主が持っていた広範な統治の仕組みは、多くの場合、非常に封建的な制度となっていました。大きな邸宅の入居者は、しばしば邸宅の大土地所有者からの影響を逃れることが不可能であることを理解していきます。司法行政、代表者の選挙、税金の徴収は、しばしば邸宅内で行われました。結果として、大土地所有者は、途方もないほどの経済的および政治的権限を行使しました。

タウンミーティングの様子

1766年に起きた大きな反乱は、大地主に向けられた短期間での爆発であり、中産階級の間で広まった不満の兆候でした。対照的に、ペンシルベニア州の統治機構は、アメリカの他のどの植民地よりも開放的かつ双方向的でした。一院制の立法府は、強力な知事評議会によって科せられた制約から解放され、ペンシルベニアが王立と所有者からの影響から比較的独立していきました。この事実は、初期のクエーカー教徒の入植者の寛容で比較的平等主義的な特徴、その後の多数のヨーロッパ人の移民と相まって、ペンシルベニアの社会的および統治的機構を他のどの植民地よりも民主的なものとしましたが、同時に派閥も形成することになりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その17 植民地行政の成長

イギリスとアメリカとの地理的距離、アメリカ人の王室の役人に及ぼす強力な圧力、そして大規模な官僚機構が抱える非効率性は、王室の権力を弱めていきました。それによって、植民地の問題に対する地方の指導者への支持が高まっていきます。18世紀になると植民地議会は議会の権限を支配し、課税と防衛に影響を与える立法の主要な責任を果たし、最終的には王室の役人への給与を決めることになりました。

州の指導者はまた、知事の権限にも介入するようになりました。知事は規則上では地方公務員の任命を管理し続けるのですが、実際にはほとんどの場合、地方の州の指導者の勧告に自動的に従うようになりました。同様に、王権の代理人である知事評議会は、ロンドンの王立政府の利益よりも下院の指導者の利益を反映する傾向になり、評議会は著名な州の指導者によって支配されるようになりました。

こうして18世紀半ばまでに、アメリカにおけるほとんどの行政権力は、王室の役人ではなく、州の役人の手に集中していきました。こうした州の指導者は、例外なく彼ら構成員の利益をどの王室の役人よりも忠実に大事にしていきました。ですが当時の州の統治は、現代の基準からすれば、到底民主的なものではなかったようです。 一般的に指導者の社会的名声や行政力は、経済的地位によって決定される傾向がありました。植民地時代のアメリカの経済的資源は、ヨーロッパほど不均衡ではありませんでしたが、比較的少数の人々の手によって支配されていました。

North Carolina Beach

ヴァジニア州とメリーランド州のチェサピーク湾(Chesapeake Bay)社会、特にブルーリッジ山脈(Blue Ridge Mountains) の東の地域では、農業生産者が植民地の経済生活のほぼすべての面で支配するようになりました。これらの生産者には、少数の著名な商人と弁護士が加わり、地方政府の最も重要な機関である郡裁判所と州議会の2つを支配しました。自由な成人男性の大部分、すなわち80パーセントから90パーセントの男性が行政のプロセスに参加できたにも関わらず、少数の裕福な人々の手に並外れた権力が集中したのは驚きです。それでもチェサピーク社会の一般市民、およびほとんどの植民地の市民は、彼らが「より良い」と考えていた人々に権限を委ねました。

権力を少数の人々の手に集中させることを可能にした社会倫理は、とても民主的なものとはいえませんでしたが、少なくともヴァジニア州とメリーランド州では、これらの社会の人々が、指導者に不満を持っていたという証拠はほとんど残っていません。一般的に人々は、地元の役人が行政を担うものであると信じていたようです。

Charleston

カロライナ州では、米と藍の生産者である小さな集団が富の多くを独占していました。ヴァジニア州やメリーランド州と同様に、生産者は社会的なエリート集団を構成するようになりました。原則として、カロライナでは、ヴァジニア州とメリーランド州のような寡頭制のような責任ある統治の伝統を持っていなかったため、生産者が不在地主や知事になる傾向がありました。こうした者は、生産現場や政治的責任から離れて、チャールストン(Charleston)で過ごすことが多かったようです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その16  王室による知事の任命

イギリスの王室統治機構に加えて、アメリカにはイギリスの商業帝国の規制を支援したり、植民地の内政の監督責任を持つ多くの王室の役人がいました。しかし、アメリカ諸州の政治における王権の弱点は顕著でした。一部の地域、特に17世紀のニューイングランドの企業植民地や;その他の植民地では、王室に責任のある知事がおらず、王権を行使することはありませんでした。これらの植民地に王室の知事がいないことは、貿易規制の施行に特に悪影響を及ぼしました。

任命される知事

実際、ニューイングランドの政治的および商業的活動に対する王室の統治の欠如から、貿易委員会は1684年にマサチューセッツ湾憲章を覆し、マサチューセッツを他のニューイングランド植民地およびニューヨークとともに、ニューイングランド自治領に統合するようにしました。植民した人々が1688年のイギリスの名誉革命(Glorious Revolution) の混乱に乗じて自治領統治計画を覆すことに成功すると、王室はその利益を守るためにマサチューセッツに王室知事を設置することになりました。

王室任命の知事がいる植民地の数は1650年の1つから1760年に8つに増えました。王室は、その政策が確実に実施されるようにする仕組みを備えていました。枢密院(Privy Council)は、アメリカの各王立知事に、州の権限の範囲を細かく定義する一連の指示を出しました。州知事は、州議会をいつ召集するかを決定し、議会を閉会したり、または解散し、議会によって可決された法律を拒否する権限を有することになっていました。植民地の統治以外の場でも知事の権限は大きいものがありました。

名誉革命

ほとんどの直轄植民地では、州知事は植民地議会の上院の構成、財務長官、司法長官、およびすべての植民地裁判官などの重要な地方公務員を任命できました。さらに、知事は地方行政機関に対して多大な権限も持っていました。地方行政の主要な公務員であった郡裁判所の役人は、ほとんどの直轄植民地の知事によって任命されました。したがって、知事はアメリカのすべての行政機関を直接的、間接的に統治することができました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その15 航海条例と重商主義

アメリカの植民地に対するイギリスの政策は、必然的に国内政治の影響を受けました。17世紀と18世紀のイギリスの政治は決して安定していなかったので、当時のイギリスの植民地政策が明確で一貫して発展しなかったことは驚くべきことではありませんでした。植民地化の前半世紀の間、植民地自体が非常に混乱していたため、イギリスが賢い植民地政策を確立することはさらに困難でした。

政策目的の多様性と植民地の統治構造のために、イギリスがヴァジニア、メリーランド、マサチューセッツ、コネチカット、ロードアイランドが、帝国の全体的な計画にどのような役割を果たすかを予測することはほぼ不可能でした。しかし、1660年までにイギリスは帝国にとって高い利益をもたらす方策で再編成するための最初の一歩を踏み出します。すなわち、1660年に航海条例(Navigation Acts)が成立し、1651年にはその条例を一過的ながら修正し追加したことです。

Boston Tea Party

航海条例によってイギリス本土、またはイギリスの植民地に向かう商品は、原産地に関係なく、イギリス船でのみ出荷すること、それらの船員の4分の3はイギリス人であると規定しました。また、砂糖、綿、タバコなどの「特定物品」はイギリスにのみ出荷され、他の国との貿易は禁止されていました。この規定は、ヴァジニア州とメリーランド州に特に大きな打撃を与えることになります。これらの2つの植民地は、イギリスのタバコ市場を独占し、他の場所でタバコを販売することを禁じられていました。しかし、イギリスだけで生産物のタバコを吸収することはできなかったからです。

Navigation Acts

1660年の航海条例は保護貿易主義ですが、イギリスの商業帝国全体を保護するには不十分であることが判明し、その後、他の航海条例が可決され貿易システムが強化されました。 1663年に議会は、植民地に向かうヨーロッパの商品を運ぶすべての船舶が関税を支払うように、最初にイギリスの港を通過することを要求する法律を可決しました。貿易商が特定の物品を沿岸貿易で植民地から別の植民地に輸送し、それから外国に運ぶことを防ぐために、1673年に議会は、貿易商がそれらの商品がイギリスだけに運ばれることの保証金を支払うことを要求しました。

さらに、1696年に議会はイギリスの商業帝国を監督するために貿易委員会を設立し、植民地総督が貿易規制の施行を保証する枠組みを設置し、航海条例に違反した人々を起訴するためにアメリカに次席的な裁判所を設置します。全体として、こうしたイギリスへの統合を求める施策は成功しますが、他方でかなりの植民地貿易がイギリスの規制を回避していきます。それにもかかわらず、イギリスが17世紀後半から18世紀半ばまでに、アメリカの植民地により大きな商業的、および政治的秩序を確立することに部分的に成功したことは明らかです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その14  ジョージア州

博愛主義者の集まりであるフリーメイソン(Freemason)という友愛結社の会員であったイギリス人軍人のジェームズ・オグルソープ (James Oglethorpe)は、負債のために苦しんでいた人々の移住先を築こうと、ジョージア(Georgia)植民地のサバンナ(Savannah)にやってきます。オグルソープの計画は、投獄された債務者をジョージアに移送し、そこで彼らを労働をによって更生させて、そのことによって所有者は利益を上げることができました。実際にジョージアに定住した人々や貧しい債務者でなかった多くの人々は、非常に制約の多い経済的および社会的システムに遭遇します。

Freemasons

オグレソープと彼のパートナーは、個々の土地所有の規模を500エーカー(約200ヘクタール)に限定し、奴隷制を禁止し、ラム酒の飲酒を禁止し、相続制度によって大規模な土地の蓄積を制限しました。こうした規則は考え方としては高潔でしたが、進取の気性に富んだ入植者と所有者との間にかなりの緊張を生み出しました。さらに、経済は植民地を更に発展させようとする人々の期待に応えていきませんでした。ジョージア州の絹生産は、カロライナ州と同様に収益性の高い作物とはなりませんでした。

Savannah, Georgia

入植者は植民地の政治組織にも不満を持っていました。 土地の所有者は、理想となるような実験を綿密に実施することには主たる関心を持っていましたが、地元に自治組織をつくらせようとはしませんでした。 所有者の政策に対する抗議が高まるにつれ、1752年の王室が植民地の支配権を握ります。 その後、入植者が不満を持っていた奴隷制度をやめさせようとする制限が解除されました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その13  カロライナ州

イギリス帝国は1629年の当初に勅許をだしてカロライナ(Carolina)を植民地化し、そこに助成金を拠出していました。イギリスの基準から並外れた富と権力を持った8名の男性が、実質的にこのカロライナを植民地化し始めたのは1663年でした。所有者はカロライナの温暖な気候で絹を栽培しようとしましたが、絹という貴重な商品を生産するためのあらゆる試みは失敗します。さらに入植者をカロライナに引き付けることは困難であることがわかってきます。

Map of Carolina

先住民族との一連の激しい争が鎮静化した後、人口が大幅に増加し始めたのは1718年になってからでした。入植のパタンは2つありました。ノースカロライナ(North Carolina) は、複雑な海岸線によってヨーロッパとカリブ海(Caribbean)の貿易から大部分が切り離されていましたが、中小規模の農場のコロニーは発展しました。サウスカロライナ(South Carolina) は、カリブ海とヨーロッパの両方と密接な関係が生まれ、米を生産し1742年以降は世界市場向けに藍 (indigo)を生産しました。

ノースカロライナとサウスカロライナへの初期の入植者は、主に西インド(West Indian)の植民地からやってきました。しかし、この移住のパタンは、ノースカロライナ州ではそれほど特徴的ではありませんでした。ノースカロライナ州では、住民の多くがヴァジニア州民が自然に南部へ移住してきたのです。

Lord Antony Shaftesbury

1669年にアンソニー・クーパー(Anthony Cooper)、後のシャフツベリー卿(Lord Shaftesbury) が哲学者ジョン・ロック(John Locke)の助言を受けて起草した基本憲法は、カロライナで最初の政府の枠組みとなります。しかし、制約が多く封建的な内容のためにほとんど効果がありませんでした。基本憲法は1693年に放棄され、土地所有者の権限を弱め、州議会の権限を高める枠組みにとって代わられました。 1729年、主に所有者が権利を守ろうと要求した問題に対処できなかったため、カロライナはノースカロライナとサウスカロライナという別々の直轄植民地に分離しました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その12  ニュージャージー州

ニュージャージー(New Jersey)の成立は、植民地時代のほとんどを通してニューヨークとペンシルベニアの影に隠れていました。 1664年にイギリスの王室によってヨーク公爵に譲渡された領土の一部は、後にニュージャージーの植民地ともなりました。ヨーク公爵は次に、彼の土地のその部分を王の2人の親しい友人であり仲間であるジョン・バークレー(John Berkeley)とジョージ・カーテレット(George Carteret)に与えました。 1665年、バークレーとカーテレットは独自の方針で自治政府を設立しました。しかし、ニュージャージーの助成金をめぐって、ニュージャージーとニューヨークの地権者の間で絶え間ない衝突が発生しました。

John Berkeley

ニュージャージーの法的地位は、バークレーが植民地への半分の関心を2人のクエーカー教徒に売却することによって、さらに複雑になります。その後、この地域は、カーテレットが管理する東ジャージーとペンと他のクエーカー教徒の管財人が管理する西ジャージーに分割されます。 1682年にクエーカー教徒は東ジャージーを購入しました。所有者の多様性と行政の混乱によって、入植者と植民者の双方が所有権の取り決めに反対し、1702年にイギリス王室は2つのジャージーを一つの王立州に統合します。

Old New Jersey

クエーカー教徒は東ジャージーを購入したとき、ペンシルベニアへの水路を保護するために、デラウェアとなる予定の土地も取得しました。その領土は、ペンシルベニア植民地の一部であり、議会が開催される1704年まで続きました。こうしてアメリカ独立戦争まで、ペンシルベニア州知事の統治化となりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その11 ウィリアム・ペンとペンシルベニア州

ペンシルベニア州(Pennsylvania)は、その創設者ウィリアム・ペン(William Penn)のリベラルな政策のおかげもあり、アメリカのすべての植民地の中で最も多様でダイナミックに繁栄することになります。 ペン自身はイングリッシュ・ホイッグ(English Whig)と呼ばれるリベラルでしたが、決して過激な思想の持ち主ではありませんでした。 彼のクエーカー教徒(Society of Friends)としての信仰は、当時の一部のクエーカー教徒の指導者の宗教的過激主義ではなく、信仰における大事な教えである良識と平和主義の自由の尊重など、ホイッグの教義といわれる基本的な信条へ信奉が特徴でした 。 ペンは、新世界で提唱した「聖なる実験」(holy experiment)によって、これらの理想を実現しようとしました。

William Penn

ペンは、1681年にチャールズ2世(Charles II) からデラウェア川(Delaware River) 沿いの土地を父親の王への忠誠に対する報酬として与えられます。 1682年にペンによって提案された最初の「政府の枠組み」は、それぞれ植民地の自由な所有者によって選出される評議会と下院議会から成るものでした。評議会は立法について唯一の権限を持つとされました。下院は、評議会によって提出された法案を承認または拒否することができました。この形態の政府の「寡頭的」性質について多くの反対があり、その後ペンは1682年に第二の政府の枠組みを提案し、1696年には三番目の政府の枠組みを提案します。しかし、どれも植民地の住民を完全に満足させることはできませんでした。1701年に、ようやく議会にすべての立法権を与え、評議会を諮問機能のみを備えた任命機関とする特権憲章(Charter of Privileges)が市民によって承認されました。特権憲章は、他の3つの政府の枠組みと同様に、すべてのプロテスタントに宗教的寛容の原則を保証するとしました。

Penn and Indians

ペンシルベニアは開拓当初から繁栄していました。最初の入植者は、肥沃な土地と重要な商業的特権を受け取り、その後の入植者と間では確執がありましたが、ペンシルベニアの経済的な機会は、他のどの植民地よりも大きいものとなります。 1683年にドイツ人がデラウェア渓谷に移住し、1720年代から30年代にかけてアイルランド人(Irish)とスコットランド系アイルランド人(Scotch-Irish)が大量に流入し続けると、ペンシルベニア州の人口は増加し多様化していきました。平野部の肥沃な土壌は、寛大な政府の土地政策と相まって、18世紀を通して高いレベルで入植者の生活を支えていきました。しかし、土地の開拓という呪文に飢えているヨーロッパの入植者の願望は、ペンが構想していた先住民族への施策とは対立するものでした。ヨーロッパ人入植者が求めていた「経済的機会」の動きは、ペンが設立してきたコロニーの土地をめぐって、すでに占有していた先住民族との間で頻繁な混乱や殺戮という行為に現れました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その10 アメリカ中部のコロニー

ニューネーデルラント (New Netherland) は、1624年にオランダ西インド会社(West India Company)によってオレンジ砦(Fort Orange)、現在のアルバニー(Albany) に設立されます。その設立は、17世紀前半のオランダの拡大プログラムの1つにしかすぎませんでした。 1664年、イギリス人はニューネーデルラントの植民地を占領し、チャールズ2世(Charles II)の兄弟であるヨーク公爵(Duke of York)が、ジェームズ(James)という名前を改名したニューヨーク(New York)を統治下におきました。

Manhattan, New Netherland

毎年、王への贈呈していた40匹のビーバーの毛皮の見返りに、ヨーク公爵と彼の知事理事会は、植民地の支配に強大な裁量が与えられました。ヨーク公爵への助成金は代議員会では協議しましたが、公爵は代議員会を召集することを法的に義務付けられておらず、実際には1683年まで召集しませんでした。植民地に対する公爵の関心は主に経済的であり、政治的なものではありませんでしたが、彼はニューヨークから経済的利益を得るための努力は無駄であることがわかります。先住民族やいろいろな侵入者もどきは、ニューヨークにおいて脱税に成功し、ヨーク公爵や代議員を苛立たせました。実のところオランダ人は、1673年にニューヨークを奪還し1年以上治めるという事態となりました。

Newnetherland

1685年2月、ヨーク公爵は自分自身がニューヨークの所有者であるだけでなく、イングランドの王となっていることも知ります。これにより、ニューヨークの地位は私有化された土地から直轄植民地に変わります。 1688年にニューイングランドとニュージャージーの植民地とともにニューヨークの植民地がニューイングランドの自治権の一部になっていくように、王室による統合化の政策は加速されていきます。 1691年、ロングアイランドに住むドイツの商人であるジェイコブ・ライスラー(Jacob Leisler) は、副知事のフランシス・ニコルソン(Francis Nicholson)の支配に対する反乱を成功させます。 小さな貴族支配階級のエリートへの不満と、植民地をニューイングランド自治領に統合させようとした政府への嫌悪によって生まれた反乱は、王立支配の崩壊を早めることになります。

アメリカ合衆国建国の歴史 その9 東海岸におけるコロニーの建設

東海岸(East Coast)とはアメリカの大西洋岸のことです。マサチューセッツ湾植民地の権威主義的な傾向にもかかわらず、恐らく他の植民地では見られないようなコミュニティの精神がそこでは醸成していきました。マサチューセッツ州の住民が清教徒の道徳の真の原則から逸脱していることを隣人に知らしめたように、その精神が、隣人のニーズに添ったものであるのだと訴えていきました。マサチューセッツ州での生活は、それまでの正統派主義に反対する人々にとっては困難でしたが、社会でゆき渡ってきたコンセンサスの中で生活する人々の賛同や共同体の感覚が次第に浸透していきました。

Return of Roger Williams from England

同時に多くのニューイングランド人はマサチューセッツの支配層によって押しつけられる正統派主義の中で生きることを拒否し、コネチカット(Connecticut)とロードアイランド(Rhode Island) が彼らの不満のはけ口として開拓されていきます。 1633年にマサチューセッツ湾に到着したトーマス・フッカー牧師(Rev. Thomas Hooker)は、すぐに教会員の入国に関する植民地の制限政策と植民地の指導者の寡頭的権力が望ましくないと考えます。マサチューセッツの宗教的および政治的施策に対する嫌悪感と新しい土地を開拓したいという願望に動機づけられて、フッカーと彼の仲間は1635年にコネチカット渓谷 (Connecticut valley)に移動し始めます。1636年までに、ハートフォード(Hartford)、ウィンザー(Windsor)、とウェザーズフォード(Wethersford)の街が造られていきます。 1638年にニューヘブン(New Haven)に別の植民地が設立され、1662年にコネチカットとロードアイランドが1つの憲章の下で合併していきます。

Anne Hutchinson

ロードアイランドの創設に密接に関わったロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)は、植民地で確立されていた正統派主義に服従しないため、マサチューセッツから追放されます。アン・ハッチンソン(Anne Hutchinson)という女性の聖職者もそうでした。ウィリアムズやハッチンソンの見解は、いくつかの重要な点でマサチューセッツの支配層の見解と相対立していました。信仰を告白し、それにより教会の会員になる資格があるという厳格な基準は、最終的に誰もが教会の会員となるということを認めませんでした。しかし、ウィリアムズはやがて教会がその会衆の純粋さを保証できないことを認識することになり、彼は純粋さを基準とした会員の認定をやめ、代わりにコミュニティのほぼすべての人に教会の会員資格を認めるようにしました。さらに、ウィリアムズは明らかにイギリス国教会からの分離と独立の立場をとり、ピューリタン教会はイングランド国教会内にとどまっている限り、純粋さを達成することはできないと説教します。最も重要なことは、ウィリアムズやハッチンソンは、マサチューセッツの指導者が先住民族から土地を購入せずに、土地を占領する権利を有することに公然と異議を唱えたことです。

Enblem of Rhode Island

しかし、ウィリアムズらの主張は受け容れられず、彼は1636年に自ら信じる摂理(Providence)のためにマサチューセッツ湾から撤退することを余儀なくされます。1639年、マサチューセッツの正統派主義の反対者であるウィリアム・コディントン(William Coddington)は、ニューポート (Newport.)に会衆を定住させます。 4年後、牧師のサミュエル・ゴートン(Samuel Gorton)も、支配的な寡頭制に異議を唱えたためにマサチューセッツ湾から追放され、シャウーメット(Shawomet)、後にワーウィック(Warwick)と改名される地帯に移住します。 1644年、これら3つのコミュニティは、ポーツマスの4番目のコミュニティとして1つの憲章の下で合流し、ナラガンセット湾(Narragansett Bay)のプロビデンス・プランテーション(Providence Plantation)と呼ばれる入植地を形成していきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その8 マサチューセッツの独立や分離主義の萌芽

マサチューセッツ湾植民地のクエーカー(Quaker)は、清教徒と同じように主に宗教的拘束から解放されたいとしてアメリカへ航海をしました。ジョージ・フォックス(George Fox)はクエーカー指導者の一人です。クエーカーは、清教徒と異なりイギリス国教会から自分たちが分離することを望んでいました。彼らは模範を示すことによって、教会を改革することを望んでいました。それにもかかわらず、マサチューセッツ湾植民地の指導者たちが何度も直面している問題の1つは、イギリス国教会の汚職疑惑であり、自分たちは国教会から独立したいという独立や分離主義の思想を支持する傾向にありました。

George Fox

このような正統的な清教徒の教義からの逸脱を示唆する思想が広まるにつれて、分離の考えを支持する人々はすぐに改宗を求められるか、コロニーから追放されました。マサチューセッツ湾企業の指導者たちは、彼らの植民地が新世界における寛容の前哨基地になることを決して意図していませんでした。むしろ、彼らは植民地を「荒野のシオン」(Zion in the wilderness)という純粋さと正統性のモデルとしようと考え、すべての背教者(backsliders)が即座に改宗されるべきと主張していました。

植民地の市民による行政は、こうした権威主義的な精神によって統治されていきました。マサチューセッツ湾の初代総督であるジョン・ウィンスロップ(John Winthrop)らは、総督の義務は、彼らの構成員の直接の代表として行動するのではなく、どのような措置が最善の利益になるかを独自に決定することであると信じていました。1629年の当初の憲章は、植民地のすべての権力を会社の少数の株主のみで構成される一般裁判所に与えました。ヨーロッパからの人々がマサチューセッツに入植すると、入植者は多くの権利が剥奪されることを知りこの規定に抗議し、参政権(franchise) を拡大してすべての信徒を含むように主張します。これらの「自由人」は、知事と評議会のために、年に一度、一般裁判所で投票する権利を与えられました。 1629年の憲章は技術的には植民地に影響を与えるすべての問題を決定する権限を一般裁判所に与えましたが、支配階級であるエリートの会員は当初、入植者の数が多いという理由で、一般裁判所の自由人が立法過程に参加することを拒否しました。数によっては裁判所の決定を非効率的にするからだと考えたのです。

John Winthrop, the First Governor of Massachusetts

1634年、一般裁判所は新しい代表者の選出方法を採択します。これによりそれぞれの植民地の自由な人々から代表者が選出されますが。こうして立法に責任を持つ人々が、一般裁判所の2人または3人の代表者と代理人を選ぶことができるようになります。より小さくより権威のある小グループとより大きな代理人のグループの間には常に緊張が生まれました。1644年、この継続的な緊張を反映し、2つのグループは公式に一般裁判所の別々の部屋で討議し、互いに拒否権を持つようになりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その7 マサチューセッツの清教徒

当時、人々が定めた憲章はありませんでした。マサチューセッツ州(Massachusetts)のプリマス・プランテーション(Plimoth Plantation)の創設者らは、ヴァジニア州の創設者と同様に、入植地に資金を提供して利益を追求する支援者からの民間投資に依存していました。プリマスの集落の中核は、オランダのライデン(Leiden)にあるイギリスの入植者が住んでいた飛び地からやってきました。これらのイギリス国教会からの分離を主張する人々は、真の教会は牧師の指導の下での自発的な社会であり、教会の教義の解釈は、個人の考えにあると信じていました。マサチューセッツ湾の入植者とは異なり、こうした清教徒(Puritans)はイギリス国教会を内部から改革するのではなく、国教会から独立することを選択していきます。

Plymouth Plantation

プリマスに入植の最初の年1620年に、清教徒であった入植者のほぼ半数が病気で亡くなりました。しかし、それ以来、イギリスの投資家からの支援が減少したにもかかわらず、入植者の健康と経済的地位は改善していきます。清教徒たちはすぐに周囲のほとんどの先住民族と講和し、入植地を襲撃から守る費用と時間から解放され、強力で安定した経済基盤の構築に時間を費やすことができました。彼らの主要な経済活動である農業、漁業、貿易はどれも彼らに贅沢な生活を約束するものではありませんでしたが、マサチューセッツの清教徒はわずか5年後に自給自足していきます。

清教徒はプリマスでは常に少数派でしたが、それでも、入植の最初の40年間は入植地を統治していました。 1620年にメイフラワー号二世号 (Mayflower II)を下船する前に、ウィリアム・ブラッドフォード(William Bradford)が率いる清教徒の一行は、乗船したすべての成人男性に、ブラッドフォードらによって起草された誓約に服従することの署名を要求しました。このメイフラワーコンパクト(Mayflower Compact)と呼ばれる誓約は、後にアメリカの民主主義を推進する重要な文書として評価されますが、誓約は双方向的な取り決めではなく、清教徒は服従を約束しますが、彼らに希望を約束すものではありませんでした。

Plimoth-Plantation and People

やがてほぼすべての男性住民が州議会の議員と知事に投票することを認められますが、入植地は、少なくとも最初の40年間、少数の男性による統治化にありました。 1660年以降、プリマスの人々は教徒と市民の両方の立場で、徐々に意識を高め、1691年までにプリマス入植地がマサチューセッツ湾(Massachusetts Bay) に併合されたとき、プリマスの入植者は粛々と規律正しく振る舞いました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その6 メリーランドにおけるコロニー

ヴァジニア州の北部に隣接するメリーランド州(Maryland) は、会社組織ではなく1人の所有者によって支配された最初のイギリスの植民地でした。ボルティモア卿(Lord Baltimore)と呼ばれたジョージ・カルバート(George Calvert)は、1632年に王室から土地の付与を受ける前に、多くの植民地化計画に投資していました。カルバートには、土地の付与に伴うかなりの権限が与えられました。彼はイギリスの法律から逸脱しない範囲で、植民地の貿易と政治システムを支配していました。カルバートの息子セシリウス・カルバート(Cecilius Calvert)は父親の死でプロジェクトを引き継ぎ、ポトマック川(Potomac)のセントメアリーズ(St. Mary’s)での定住を推進しました。メリーランドの入植者は、ヴァジニアの一部を与えられ、最初から控えめな方法で定住を維持することができました。しかし、ヴァジニア州と同様に、メリーランド州の17世紀初頭の入植地(コロニー) は不安定で、洗練されていませんでした。入植地は圧倒的に若い独身男性で構成されており、その多くは年季奉公であり、荒れ地での生活の厳しさを和らげる強い家族の形成ができず、不安な状態でした。

State of Maryland

コロニーでは、少なくとも2つの目的を果たすことでした。第一はローマ・カトリック教徒(Roman Catholic)であるボルチモアは、カトリック教徒が平和に暮らせる植民地を見つけたいと渇望していました。第二は植民地が彼に可能な限り大きな利益をもたらすことも熱望していたことです。当初から、プロテスタントはカトリック教徒を上回っていましたが、少数の著名なカトリック教徒は植民地の土地の過度のシェア持つ傾向がありました。土地政策に執着していましたが、ボルチモアはおおむね善良で公正な管理者でした。

Annapolis

しかし、ウィリアム3世(William III)とメアリー2世 (Mary II)がイギリス王位に就いた後、カルバート家の植民地の支配権は奪われ、王室に委ねられました。その後まもなく、王室はイギリス国教会が植民地の宗教になると布告します。 1715年にはカルバート家がカトリックから改宗し、イギリス国教会を受け入れた後、植民地は政府固有の統治下になります。