この人を見よー内村鑑三 その七 洗礼を受ける

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1878年6月2日、内村鑑三はアメリカから来ていたメソジスト派(Methodists)のメリマン・ハリス(Merriman C. Harris)宣教師より洗礼を受けます。内村17歳のときです。ハリス師とは終生の親友となります。

Rev. Merriman C. Harris

 「彼の前に我々がどんな具合にしてひざまずいていたか、また我々の罪の為に十字架につけられしキリストの名を告白せよといわれたとき、堅い決心のうちにもどんなに震えながらアーメンと応えたかを、私は今でもよく覚えている。ところで我々は、日々との前にクリスチャンたることを告白すると同時に、おのおの洗礼名をつけるべきだと考えた。そこで、ウェブスター字典の付録を調べてそれそれ自分にふさわしいと思う名前を選びだした。」 内村は『旧約聖書』の「サムエル記」(Books of Samuel) 20章に登場するダビデ(David)に対するヨナタン(Jonathan)の友愛にいたく動かされていたので、ヨナタンと名乗ることになります。

 「サムエル記」に登場するサウル王(King Saul)は、ダビデがイスラエルの王位に就くことを望んでいるのではないかと疑い、ダビデを殺害しようと目論むのです。しかし、ヨナタンは父の意図を知ると、 ダビデの身に危険が迫っていることを知らせるという記事があります。内村は洗礼の感動を次のように記します。

Gaius Iulius Caesar

 「ルビコン川を渡る」とは、ある重大な決断・行動をすることのたとえです。ルビコン川は、古代ローマ時代、ガリア(Gallia)とイタリアとの境をなした川です。ローマ時代、ルビコン川より内側には軍隊を連れて入ってはならないとされており、違反すれば反逆者として処罰されたのです。しかし、ユリウス・シーザー(Gaius Iulius Caesar)が大軍を率いてこの川渡り、ローマに向かうのです。

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この人を見よー内村鑑三 その六 「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」

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『内村鑑三信仰著作全集』全25巻の第2巻目がこのタイトルとなっています。第一章の「異教」に始まり第十章の「キリスト教国の正味の印象」で終わっています。内村がこの章に記そうとしたのは、自分がいかにしてクリスチャンになったかということです。なぜなったかということではありません。「なぜ、なったか」というのは「回心の哲学」ということですが、これが本題ではないと言います。彼は自分自信を綿密な観察の対象としてきたとも述べます。そしてその観察は、神秘に充ちていることを発見します。

左は新渡戸稲造、右は内村鑑三

 内村は多くの日記を書いています。その日記を「航海日誌」と呼んでいます。自分という憐れな小舟が罪と涙と多くの悲哀とを通過して、上なる天を目指して進む、日ごとの進歩を記録していく、とも言うのです。もう一つの例えは、この日記は「生物学者の写生帳」とも呼んでいることです。一個の霊魂が稲から成長して熟した穀物になるまでの、発生学的成長に関する、形態学上と生理学上のあらゆる変化がここに書き留められているというのです。

 第一章の「異教」は内村の血統から始まります。内村家は代々高崎藩表用役をつとめ禄高は50石で儒教を信じていました。父親は中国聖賢の書物や言葉をほとんどそらんじていたほどです。「自分には聖賢の政治道徳的な教訓はよく理解できなかったが、しかし儒教のおおよその気分は深く心に染みこんでいった」と述懐しています。儒教の「孝は諸徳のもとなり」と教えるのですが、これは「主を恐れることは知識の始まりである」というソロモンの箴言(Proverbs)(1章7節)と似ているといいます。長上に対する服従と尊敬とを強く教え込む東洋思想に言及し、同輩や目下との関係にも触れます。すなわち交友における誠実、兄弟の融和、目下の者に対する寛容さを言うのです。こうした儒教の教訓は、多くの自称クリスチャンに授けられている教訓に比べて少しも劣るものではないと言います。しかし、当時の内村は、武士の家からの多くの欠点や迷信にとらえられていたことも告白しています。

 第二章の「キリスト教への入門」は、ある朝学友が内村を外人居留地への礼拝に誘ったことから始まります。そして日曜日ごとに、教会に通うのですが、当時の内村はこのような常習的行為のもたらす怖ろしい結果を知らなかったのです。自分に英語の手解きをしてくれる英国婦人は、内村の教会通いを喜んでくれるのです。彼にとっては教会通いは「物見遊山」だったのですが、、、。キリスト教は、それを信ぜよと迫られないうちは、内村にとって楽しいものでした。さらに教会の信者の示す親切は彼をいたく喜ばせたのです。小さい時から祖国を他のすべての国にまさって尊び、祖国の神々を拝して他国の神を拝してはならないと教えられてきた内村です。武家たる父親らから異国に興った宗教を信じるものは、祖国に対する反逆、国教に対する背教者となる、と信じ込まされていたのです。

 やがて札幌農学校に入学する内村らに対して、上級生らは下級生を回心させようと試みるのです。周りの同窓生は皆回心していきますが、内村は一人それに抗して「異教徒」として孤立します。学内の世論があまりに強く内村は、ついに「イエスを信じる者の誓約」に署名するのです。当時内村は16歳であり、「加入せよ」との上級生からの力に屈せざるを得なかったようです。こうして、内村のキリスト教への第一歩は自らの意志に反して強制された、言い換えれば、自分の良心に反したものだった、回想するのです。

アマースト大学時代の内村鑑三

 この誓約書はもともと英語で書かれていました。ウイリアム・クラークが書いたものだったのです。誓約書に署名したのは総数30名を超えていたといわれます。新しい信仰のもたらす益は、宇宙には唯一の神がいますのみであることを教えられたと述懐します。キリスト教的一神教が自分のすべての迷信を根本的に断ち切ったと言います。そして自分は「イエスを信じる者の誓約」に強制的に署名させられたことを悲しまなかったとさえ断言するのです。それほど誓約の内容は霊感的(inspiring)だったと回想します。

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この人を見よー内村鑑三 その五 「イエスを信じる者の誓約」

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札幌農学校の第一期生は、初代の教頭となったウイリアム・クラークの薫陶によって受洗しクリスチャンとなります。内村ら第二期生も一期生であった佐藤昌介らの熱心な奨めによって級友とともに改宗を受け入れ「イエスを信じる者の誓約」に署名するのです。

 クラークは元はアメリカ合衆国軍の陸軍大佐であり、科学者でもあったので、教派とか信条、教義などにはこだわらなかったといわれます。当時の札幌の人口は数千人といわれ、札幌農学校が建てられた石狩平野はいわば原始林と原野のような姿だったようです。宣教師も牧師も教会もない時代で、学生は校内で祈祷会や聖書研究会を開いていたようです。皆信仰に充実で励まし合い、まるで初代教会のような集まりだったといわれます。そうした絆に結ばれた彼らの集まりはやがて「札幌バンド」と呼ばれていきます。内村はその信仰の代表者として宣教を始めるのです。

 「札幌バンド」の中心となったキリスト教にいくつかの特徴があります。それはクラークの清教徒的(ピューリタン–puritanism)の信仰態度にありました。ピューリタンという名称は清潔、潔白などを表す「purity」に由来し、転じて頑固者や潔癖者を意味することもあります。「札幌バンド」の第一の特徴は、従って倫理的ということです。クラークは、自ら禁酒し、禁欲主義を教え、日曜礼拝や聖書の学習を徹底させたといわれます。それが「紳士的であれ」(Be gentlemen)という教えに現れています。

 第二の特徴は、聖書的(biblical)ということです。クラークは札幌農学校に数十冊の英語の聖書を持参し、それを学生に読ませては聖書の研究を大事にします。聖書研究会は日常化していきます。聖書的とは、聖書全体、書簡全体、その箇所の前後の文脈に従い、書かれた当時の人々が理解したように聖書を読み理解するヘブル的視点(Hebrish)に立って解釈していくという姿勢です。ヘブル的視点をもう少し説明しますと、古代イスラエル民族、特に聖書のヘブライ語聖書、つまり旧約聖書に記されている思想に基づいた、独特な世界観・神観・人間観・歴史観などを指す概念です。これは、「ギリシャ的思想(ヘレニズム的思想)」といわれる哲学、知的・内省的な追求と対比されます。

 札幌バンドのキリスト教の第三の特徴は、「福音的」(evangelical)ということです。「福音的」とは、聖書を信仰の中心に置き、個人の救いや福音の宣教を重視することを指します。「福音」つまり”良き知らせ”(Good News)を伝えることを使命とすることです。信仰の証としてクラークが学生と共に歌った讃美歌が知られています。「いさおなきわれを」(讃美歌271)、「北のはてなる」(讃美歌271番)といった歌です。学生は教室でも声高々に唱和したようです。

Oldship Church, Massachusetts

 第四の特徴は、「独立的」(independent)ということです。いずれの教派にも属さない教会(単立教会)です。独立とは、他の教派への反抗ではなく、独立することが信仰の自由のために本質的に必要だったと考えたのです。それゆえに教会は必然的に、外国宣教師や宣教師団からの資金提供に依存せずに、日本人信徒による独自の宣教を行うことを是とするのです。「外国人の扶助を借りずして我国に福音を伝播するは我国人の義務なりと知りたる事」と信徒の一人で内村との同期生、宮部金吾は述べています。

 第五の特徴は、「科学的」(scientific)ということです。クラークはキリストの愛を伝えながら、原始林の深い札幌の地において自然科学の研究にも没頭したようです。専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えていきます。ダーウィンの「種の起源」も教科書のように英語で熟読させ、近代科学を敬遠するのではなく、科学をもって聖書の天地創造を理解しようとするのです。

 第六の特徴は、「愛国的」(patriotic)です。「愛国的」「Patriotic」の語源は、ギリシャ語の「patriōtēs」(同国人)に遡ります。父祖の地とか祖国という意味となります。内村は、日本や日本人への強い愛情や誇り、忠誠心を大事にした人です。決して排他的なナショナリズムではなく、キリストによって救われねばならないのが日本人だというのです。札幌農学校を卒業するにあたり、同窓の新渡戸や宮部とともに、「生涯を二つのJ、すなわちイエス(Jesus)と日本(Japan)に捧げよう」と誓うのです。 

 札幌バンドのキリスト教の第七の特徴は、「友愛的」(fraternity)です。友愛とは、友人に対する親しみの情です。友情、友誼という他に対しての深い思いです。内村は、同窓生らと強い絆に結ばれて友愛の精神を育みます。友愛についての個人の責任,個人および社会の福祉のための自発的協同という理念は、キリスト教において人間の神への愛と人間相互の愛「アガペ」(愛)から生まれると信じたのです。

 こうした札幌バンドの特徴が内村鑑三の信仰を形成した精神(エートス)であったといえそうです。

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この人を見よー内村鑑三 その四 「余の北海の乳母」

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 『内村鑑三信仰著作全集』は全25巻からなります。そのうちの19巻に「余の北海の乳母ー札幌農学校」というエッセイがあります。19巻は95篇の論説からなり、信者にとって最も重大な関心事である信仰生活の諸問題について内村がいかに考え、いかに対処したかたを語っています。内村が信仰生涯を論じ、それを語るにあたって、教義や信条に基づいて思考した結果ではなく、自分自身の体験に基づいてそのまま語り、説いていることがわかります。

札幌農学校

内村は、札幌農学校から多くのことを学んだと述べています。例えば、「農学校は余に多くの善き事を教えてくれた。馬について、牛について、豚について、じゃがいもについて、砂糖大根について教えてくれた。これみな貴い知識であることは明らかである。」しかし、私たちにとって次のような驚くような記述もしています。「しかしながら、農学校は最も善き事を教えてくれなかった。」と述懐するのです。

 さらに、「余は札幌農学校の卒業生である。そのことは事実である。しかしながら、余は札幌農学校の「産」ではない。」卒業はしたが、産ではないというのです。そして「神について、キリストについて、永生については、少しも教えてくれなかった。これは余が札幌農学校以外において学んだ事である。」と書いています。これは興味ある記述です。

 内村は次のようにも言います。「余の札幌農学校に対する関係は、子がその母に対する関係ではない。乳児がその乳母に対する関係である。札幌の地を去って、マチューセッツの地、ペンシルヴァニアの丘において、人に由らざる教えを受けた。札幌は余をこの世の人にしてくれたかもしれない。しかしながら、神の子たるの資格を世に授けてくれたところは札幌ではない。余が札幌農学校の産ではないというのは、これがためである。」

  札幌農学校を乳母に譬えて、内村は農学校を女性名詞を使います。

「彼女を囲む天然は日本国第一等である。彼女の南にそびゆるエニワ岳、彼女の東を流るる石狩川、彼女の北を洗う日本海、彼女の西をさすテイネ山、彼女を見舞う渡り鳥、彼女を飾る春の花と秋の実、これありて、余は彼女を囲む天然に養われたる者である。」

「しかしながら、余は摂理の神が余を、余の乳母、札幌農学校に託したまいしを感謝する。余は余の青春時期を北海の処女林の中に経過するの機会を与えられしを感謝する。」

札幌農学校

 内村は札幌農学校に育てられたとは言わず、むしろ農学校を囲む自然に養われた者だ、というのです。このような述懐は、内村が農学校の教育に傾倒し心酔していた、という一般の見方を変える必要があると思われます。

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この人を見よー内村鑑三 その三 ウイリアム・クラークからの薫陶

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内村鑑三が札幌農学校に入学した時には、ウイリアム・クラーク(William Clark) はすでに日本を離れていたので、直接の師弟関係はありません。クラークが札幌農学校に在任したのは1876年のわずか8か月間でした。ですが彼は学生たちにキリスト教的道徳観と「高潔な志を持て」という信念を強く植え付けたといわれます。その象徴が「Be gentleman」、「Boys, be ambitious」という言葉です。内村はこの言葉とその精神を先輩たちから聞き、強く感化されていきます。

 クラークは札幌農学校でキリスト教の集会を行い、多くの学生を洗礼に導きます。彼の影響で、札幌農学校には「バイブルクラス(聖書研究会)」や信仰共同体が形成されており、内村が在学した頃にもその雰囲気が濃厚に残っていたといわれます。クラークが残した「イエスを信ずる者の契約」に一期生佐藤昌介らとともに署名します。佐藤は日本初の農学博士で後に北海道帝国大学初代総長となります。内村はこの環境の中でキリスト教に接し、1878年にメソヂスト監督教会のメリマン・ハリス(Merriman Colbert Harris)より洗礼を受けます。この経験は後の内村の「無教会主義」や独立した信仰姿勢の基礎となったといわれます。彼の生涯を貫いた「良心の自由」や「自己の信仰に忠実に生きる」という姿勢は、クラークの残した理想主義に通じます。

 一期生の佐藤昌介らは、自主独立の教会を持ちたいとの気運が高まります。彼らが教会の独立に熱心だったのは、教派への反抗ではなく、独立することが信仰の自由のために本質的に必要だと考えたのです。当然ながら教会は外国宣教団に依存せずに、日本人信徒による独自の宣教活動を始めます。これが世に言う「札幌バンド」です。

初代の札幌独立教会堂

 内村鑑三は札幌農学校卒業後、農商務省等を経てアメリカへ留学します。1885年、アマースト大学(Amherst College)の三年次に編入し、ジュリアス・シーリー学長(Julius H. Seelye)らの指導で回心を体験し、福音主義信仰に立っていきます。後に同志社大学を創立する新島襄もアマースト大学で学んでいます。帰国後の1890年に第一高等中学校嘱託教員となります。1891年に教育勅語奉戴式で拝礼を拒んだ行為が不敬事件として非難され退職を余儀なくされます。以後著述を中心に活動していきます。

 1900年に『聖書之研究』を創刊し、聖書研究を柱に既存の教派によらない無教会主義を唱えていきます。日露戦争時には非戦論を主張します。田中正造が中心となって反対運動を展開した足尾鉱毒事件では、内村鑑三もその運動を支援します。主な著作は1894年の『日本及び日本人、1895年の『余は如何にして基督信徒となりし乎』を英文で刊行します。その後精力的に著作や伝道活動に専心します。

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この人を見よー内村鑑三 その二 札幌農学校

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内村鑑三と新渡戸稲造は,1876年(明治9年)に開学した札幌農学校に第二期生として入学します。彼らの青春時代の思想形成となった場所です。「文明開化」を旗印に、近代国家をつくりあげようと突き進んだのが明治といわれます。この時代は,司馬遼太郎のいう「この国のかたち」が形成されてゆく時代です。

 かなり多くの日本人が抱いている明治のイメージは,新生日本が世界の強国として成長していく明るく逞しい時代というものです。このイメージを定着させたのが司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』かもしれません。この小説は日露戦争で日本を勝利に導いた軍人秋山真之と秋山好古兄弟を主人公にして,国の目標と個人の目標が一致し,誰もが「坂の上に白く輝く雲を目指して上っていく」希望の時代,いわばこの国の青春時代を描いているようです。

 いわゆる「司馬史観」の近代日本認識では,昭和になると明治期の健康な時代と人が次第に破滅に至る国家主義の道へ向かう歴史です。司馬は、徹底して軍国主義を批判していきます。底抜けに明るい明治から、薄暗い昭和のイメージを司馬は近代日本像として描くのです。昭和の前半が軍国主義の暗い時代であったことは確かですが,明治はそんなに明るい時代だったのかという疑問もあります。昭和の破滅に至る道は明治期にすでに準備されていたともいえそうです。

司馬遼太郎

 「和魂洋才」の危うさを見抜き、軍国主義を批判して日本の真の近代化のために闘った人々がいます。元東大総長の矢内原忠雄は、1940年5月に岩波新書からの『余の尊教する人物』の中で次のように述べています。「内村鑑三と新渡戸稲造とは私の二人の恩師で,内村先生よりは神を,新波戸先生よりは人を学びました。両先生は明治初期の札幌農学校で同級の親友でありましたから,その意味では私も札幌の子であります。」この二人が奇跡のように出会って同級生となった札幌農学校とはどのような学校だったのでしょうか。

 矢内原は、1961年7月、札幌市民会館において北海道大学の学生のために「内村鑑三とシュヴァイツァー」と題してを講演し、「立身出世や自分の幸福のことばかり考えずに、助けを求めている人々のところに行って頂きたい」、そして「畑は広く、働き人は少ない」という聖書の言葉で結んだそうです。初期の札幌農学校はこの二人の外にも日本の近代化にかかわった優れた人物を輩出していますが,この学校は,学士号を授与出来る大学としては東京大学より1年早く,わが国初の大学となりました。かつて蝦夷地といわれた北海道という僻遠の地にそれまでの日本的伝統から解放された近代精神が育っていくのです。

矢内原忠雄教授辞表の報道

 明治に時計を戻します。札幌農学校といえばウイリアム・クラーク(William Clark) をおいて他に出る者はいません。クラークはもともとアメリカの南北戦争(Civil War) を戦った合衆国軍(北軍)の大佐でした。マサチューセッツ農科大学(Massachusetts Agricultural College)、現在のマサチューセッツ大学アマースト校(University of Massachusetts Amherst)の学長であり,熱心なプロテスタンティズムのキリスト者でした。明治政府は,このお雇い外国人に学生の知育,徳育,学術を委ねたのです。当時、マサチューセッツ農科大学はアメリカでも最先端の学府であり,札幌ではそのカリキュラムそのままを英語で学生に講義しました。キリスト教はいうまでもなく、西欧近代精神の骨格をなすものです。我が国では、1873年(明治6年)に正式にキリスト教禁制が解除されます。

 明治政府は国家神道を基盤に置きつつも、近代国家建設のために、西洋の制度や思想を積極的に取り入れようとしていきます。こうした方針は、近代化の方向性と同化していたといえます。教育や国際関係の面でキリスト教をある程度容認していく姿勢をとっていくのです。クラークの教育方針は、キリスト教的倫理、個人の尊厳、勤勉の精神などです。学生はクラークの教育方針に感化されていきます。

 終わりにキリスト教と資本主義の関係です。経済の資本主義化は「近代化」の重要な要素ですが,問題はここでもそれを支える人間の精神です。マックス・ウェーバー(Max Weber)な社会学者が1905年に著した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus) という本にも関連しますが、ここでは札幌農学校にもたらされたプロテスタンティズムのキリスト教は単なる宗教思想としてではなく、日本の近代化につながる精神ーエートス(ethos)であったということです。

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この人を見よー内村鑑三 その一 近代精神

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馬槽の中に』」というタイトルの讃美歌があります。別名(この人を見よ)と呼ばれています。この賛美歌から本稿のタイトルをいただきます。「馬槽の中に 産声上げ、大工の家に 人となりて 貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ」という歌詞です。作詞したのは由木 康という方で、日本の讃美歌の発展の中心的な役割を果たし、賛美歌「きよしこの夜」の訳者として知られています。

 北海道大学の前身、札幌農学校の大先輩というと内村鑑三と新渡戸稲造、植物学者宮部金吾の名前が出てきます。新しい紙幣が出ていますが、これまで使われ今も通用している紙幣は1万円札が福沢諭吉,5千円札が新渡戸稲造,千円札が夏目漱石です。この3人の共通点は何でしょう。そのキーワードは「近代化」です。当然ですが、紙幣の人物を選ぶときには、テーマがあるのです。それ以前の紙幣は聖徳太子,伊藤博文,板垣退助で,このテーマは「憲法」でした。

札幌農学校校舎

 明治期の日本にあって,日本の近代化はどうあるぺきかをそれぞれの立場から真剣に考えたのが福沢、新渡戸、夏目です。この3人が生きていた時代は、日本の近代化の推進であり、物質的で技術的な「文明開化」が先行していたといわれます。それを支える人間の精神が旧態依然とし、当時の人々は「和魂洋才」といって「文明開化」を正当化したのです。それでは本当の近代化は出来ないと考えたことです。

 福沢が1872年に『学問のすすめ』をはじめとする多くの啓蒙書を書いたのも「文明開化」に共通する危機意識からです。夏目は1911年の有名な講演で「現代日本の開化は皮相上滑りの開化である」と言っています。日本の真の文明開化はもっと思想的なものでなければならないと言うのです。福沢も夏目も近代化を訴えるよりも、根源的な「近代精神」を問題にしていたと言ってよいようです。

内村鑑三

 そしてこの問題をさらに徹底して追及したのが新渡戸稲造です。新渡戸は札幌農学校,京都大学,東京大学の教授を歴任した学者,教育者として,また国際連盟の事務次長を務めた国際人として活躍しました。1899年に著書『武士道』を刊行します。流麗な英文で書かれ、長年読まれています。新渡戸がこの本を刊行した時、世界は日本人の道徳を賞賛したといわれます。日本人が近代国家へと歩みを続ける理由に納得したからです。こうした経歴を通して彼が一貫して日本国民に訴え続けたテーマが「近代精神」だったのです。そして彼の力強い同伴者が,札幌農学校の同期生で親友の内村鑑三でした。

 私は内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾の末席の末席、またの末席にいた北海道大学卒業生の一人です。

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忘れ得ぬ人 その九 教育統計のジェームズ・マッカーシー教授

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ウィスコンシン大学ではいろいろな先生から指導を受けました。そのお一人が今回紹介するジェームズ・マッカーシー教授(James McCarthy)です。この先生のご専門は障がい児教育の評価と測定といういわば統計学です。特に単一被験者とか少数被験者の教育や実験計画(single subject experimental design)で得られたデータの分析です。行動科学などの分野での研究では統計が重要視されます。数量的なデータを処理し、何らかの結論を導き出す必要がある場合が多いのです。数量的なデータの処理とは、単純な集計のように事実を数値で要約することか、児童生徒の行動観察やテストの結果から成績表をつけるということもあるでしょう。

Bascom Hall

 障がい児教育の分野では、障がいのない子どもと異なり、子どもの数が少ないのです。例えば、ある科目において1学年遅れのある子どもは、母集団と呼ばれる全2年生の15%位だろうと察します。母集団の成績は、グラフで表すと釣り鐘の形をします。これは通常正規分布といいます。母集団の成績のデータには、最頻値、中央値、算術平均があります。しかし、学習に困難を示す子どものある特性は、正規分布からかなり離れていることが多いのです。

 一例として、ある県における自閉症的傾向を示す子どもの出現率は男子、女子の比は4:1であるとします。そうすると、日本全国にいる同じような行動上の特徴を示す子どもの出現率も4:1での割合で推測できるかもしれません。このような判断をするのを推測統計といいます。別な例で言いますと、2025年7月20日の参議院議員選挙で、投票所での出口調査の結果、投票が締め切られた瞬間に当選確実、と発表できるのは推測統計によるからなのです。この場合の出口での投票者数は標本と呼ばれ、全投票者数は母数と呼ばれます。つまり、標本の結果は母数の結果とほぼ一致するのです。ただし、この場合、標本と母数の誤差は5%以下といわれます。このような統計手法は、『母数による検定』、別名パラメトリック法(parametric) といいます。

University of Wisconsin, Red Gym

 しかし、標本数が限られている場合は、『母数による検定』は使えません。そこでそれに代わる検定として『母数によらない検定』、別名ノンパラメトリック法(non-parametric) があります。マッカーシー教授は『母数によらない検定』の基本的な前提、手法、検定の仕方を詳しく院生に教えてくれたのです。すこし、統計的検定のことを説明します。検定とは、ある種の仮説についての検定であり、この仮説を採択すべきか、棄却すべきかを調べます。その判定基準は適当に定めた確率である危険率によるのです。危険率とは通常.05とか5%が使われます。5%とは20回のうち1回は間違いを起こすことがあるが、それは無視してよいというのが統計です。

マスコットのバジャー

 マッカーシー教授の講義で思い出深いのは、講義の他に統計手法の使い方の実習時間をとってくださったことです。通常、大学では講義で終わりなので、実習時間をとってくれることはありません。それも朝の8時からなのです。必ずベーグルとかクロワッサンを持参して院生に振る舞ってくださるのです。この日は、院生は朝食抜きでやってくるのが通例でした。その他、ミルウォーキー(Milwaukee)での学習障害の学会にも院生を同伴してくださったり、夏はマディソン郊外でのシェークスピア(William Shakespeare)の野外劇にも連れて行ってくれるなど、実に気さくで面倒見の良い先生でした。マッカーシー教授には博士論文の審査委員のお一人にもなっていただきました。後に就職した国立特別支援教育総合研究所時代に『障がい児教育のための統計情報処理入門ーノンパラメトリック法を中心に』という120ページの小冊を刊行できました。これも先生の薫陶によるお陰です。2012年4月に逝去されたことを大学のWebサイトで知りました。

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忘れ得ぬ人 その八 合唱のきっかけ:近藤艶子先生

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ずぶの素人音楽愛好家の一人が私です。いろいろのジャンルの音楽を楽しんでいます。日本の最北端、稚内高校時代に部活の響声クラブで歌い、その後北海道大学男声合唱団で’4年間歌いました。そのこともあり、ウィスコンシン大学に留学していたとき、マディソンにあるマウント・オリーブルーテル教会(Mt. Olive Lutheran Church) の聖歌隊で歌うことにもなりました。

 こうした合唱を始めるきっかけをつくったくださった先生が稚内中学の音楽教師であった近藤艶子先生です。なぜ私を合唱団に入るように声をかけてくださったのかは、さっぱりわかりません。しかし、そのときから、なにも分からず歌を歌い始めることになりました。楽譜の読み方や発声の仕方を学び、男声と女声の混声合唱を始めました。旭川市でのNHK主催の全国唱歌ラジオコンクール、現在の全国学校音楽コンクールの中学校の部にも出場したことがあります。当時、稚内から旭川までは汽車で4時間かかりました。コンクールでは課題曲と自由曲を歌い審査されます。コンクールを控えて何度も練習を重ねたものです。近藤先生はピアノの伴奏をされました。コンクールの成績は全く覚えておりません。多分入賞圏外だったろうと察します。

リコーダ

 大会翌日、部員の一人と旭川市内で映画を見ました。題名は「八十日間世界一周」(Around the World in Eighty Days)といって、後期ビクトリア朝の一貴族が賭けをして、世界を80日間で一周しようと試みる波瀾万丈の物語です。コンクールのことは定かに覚えていないのに、この映画を見たことを覚えているとはなんと近藤先生には失礼なこととお許し願いたいです。私は大の映画きちがいでもあるのです。(差別用語をご容赦ください。)稚内にいたとき、父親と「戦場に架ける橋」(The Bridge on The River Kwai)という有名な作品を見に行ったのも覚えています。タイとビルマ国境にあった捕虜収容所が舞台です。日本人大佐と英国大佐との対立と交流を通じ極限状態における人間の尊厳や名誉、そして戦争の惨さを表現した見事な作品です。

 近藤先生からは、音楽鑑賞の時間にさまざまな西洋音楽を聴かせてもらいました。音楽室には歴代の有名な作曲家の写真が時代別に飾られていました。一番左端にはヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach)が、右端にはルートビッヒ・ベートーベン(Ludwig van Beethoven)が並んでいたものです。この音楽鑑賞をとおして賛美歌やバロック音楽等に接する機会ともなりました。マディソンでにはリコーダの工房があり、そこでローズウッド(rosewood) のアルトリコーダを購入しました。バロック音楽にリコーダは欠かせない楽器です。

 今思えば小さい時から西洋や日本の音楽を聴かせてもらうことは、必ず大人になってからも音楽に対する興味や関心を高める契機となるということです。稚内中学校は創立78年を迎えます。校舎は新築され、私が学んだところに建っています。現在生徒数は95名です。今も音楽教育が受け継がれていることを信じつつ、近藤艶子先生から指導を受けたことを思い出します。先生は、引退後は旭川の郊外にお住まいになり、そこでピアノ教室を開いて後進の指導にあたられていたとお聞きしていました。恐らく鬼籍に入られたこととお察しします。忘れ得ぬお人はいつも記憶に鮮明に残っています。

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忘れ得ぬ人 その七 洗礼を授けてくれたディーン・シュスラー牧師

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 2001年8月17日に私の恩師のお一人であるディーン・シュスラー(Rev. Deane Schuessler)牧師のジューリ・シュスラー夫人(Julie Schuessler)から夫が心臓発作で亡くなったという知らせを頂ました。享年85歳でした。前日は、次男、孫らとでミネソタ・ツインズ(Minnesota Twins)の野球試合を一緒に観戦したとのことでした。長い闘病生活がなかったのがせめてもの幸いだったとジューリさんは書いておられました。

 1965年、私は札幌ユースセンター教会でシュスラー師より洗礼を受けました。ご一緒したのは、現小樽オリーブ教会の牧師らでした。先生より「センターで働きませんか」と誘われて、就職が内定していた商社を断りセンターで青少年活動を任されました。1967年に結婚したときも司式をしてくださり、翌年長男が生まれて洗礼を施してくださいました。

 時は経て、私は1971年に那覇ルーテル教会に派遣され幼児教育を受け持ちました。丁度、ミズリー派ルーテル教会内で神学論争があった頃です。そして1976年に日本ルーテル教団がミズリー派教会(Missouri Synod)からの自給を宣言します。シュスラー師は既に帰国されていましたが、日本各地でなお宣教師をされていた方々が、自給への経緯について心配されていたのを記憶しています。

 私は1978年に国際ロータリークラブからの奨学金をいただき、ウィスコンシン大学に留学しました。その頃、シュスラー師は隣のミネソタ州のルーテル教会から招聘されておりました。一家5人でシュスラー家を訪ねました。「ミネソタ州の州鳥はなにか知っていますか?」と訊かれ思案していると「モスキートです」と片眼でウインクされました。なるほど、外で立ち話をしていると蚊の大群が襲ってきます。ミネソタ州は氷河が残した10,000以上の湖が点在しています。シュスラー師はその後、神学博士号を取得され、いろいろな著作も刊行されました。

 シュスラー師のご昇天にあたり、私は霊的な指導を受けた方々を想い出します。北海道の余市沖で溺れた高校生を助けようとして亡くなられた宣教師師、ジョージア州で車を譲ってくださった宣教師、沖縄幼稚園の園長であった宣教師、そして最初の感謝祭の晩餐に招待してくださった宣教師、前稿で就職のお世話をしてくださったジェームズ・ウィズィ宣教師などです。特にウィスコンシン大学に入るとき、マディソン市内で牧会されていたトマス・ゴーイング師からは、教授を紹介してもらい、そのまま博士課程修了まで指導を受けることができました。シュスラー師の息子のジョエル・シュスラー氏がミネアポリスのコンコーディ大学(Concordia College)で教鞭をとっていました。この大学の教師教育やインターネット活用のカリキュラムなどを見聞できたのも幸いでした。

 振り返りますと、宣教師の方々にお世話になった者で私の右に出る者はいないだろうと思います。長年日本における宣教に邁進されたお一人おひとりの先生方の訃報に接すると、「すべてに時がある」という聖句が心に浮かびます。

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忘れ得ぬ人 その六 福音派の人:ジョン・シルバーネーゲル氏

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ウイスコシンでの生活でお世話になった方のお一人にジョン・シルバーネーゲル(John Silbernagel)夫妻がいます。この方は熱心な福音派のクリスチャンで、マウント・オリーブルーテル教会(Mt. Olive Lutheran Church)の礼拝でお会いしたのがきっかけです。マディソンに着いてから知人にアパートを紹介して貰いました。アパートには家具がありません。最初の礼拝に出席したあと、牧師さんから「なにか不自由している物はありませんか?」と尋ねられました。そこでベッドや毛布、台所用品などが不足していると伝えました。数日後、牧師さん自らがピックアップトラックを運転して家財道具を運んでくれました。会員から集めたものだというのです。

Mt. Olive Lutheran Church

 教会員と会話するといろいろな話題に及びます。かつて横須賀の研究所で障がい児教育の研究をしていたことを話すと、退役した会員がいて「自分もヨコスカに住んだことがある」というのです。別の会員は「タチカワやザマにいた」というのです。共通した話題になると教会員との距離はぐんと縮まるものです。このルーテル教会には私たちのほかに日本人はおりません。そんなわけでなにかと心配してくれるのです。聖歌隊に入り毎週木曜日の練習に参加しました。隊員は初見で新しい賛美歌を歌えるのです。小さい時から日曜学校などで歌っていたのです。

 そのうち、シルバーネーゲル(John Silbernagel)夫妻から「家にあそびにいらっしゃい」というお誘いを受けました。シルバーネーゲル氏も陸軍の将校退役軍人でマディソンの郊外で酪農を経営していました。酪農業はもっぱらご長男らがとりしきっておりました。ご自宅の畑の一画を使いなさいとの申し出で、私はジャガイモ作りを始めました。酪農を営んでいたので、種の植え付け前に堆肥を十分施すことができました。ウィスコンシンは「アメリカの酪農の地」(America’s Dairy Land)と呼ばれるほど酪農が盛んなところです。戦後、北海道の美幌で父親はジャガイモやトウモロコシを育てていたので、それを思い出しました。秋になるとジャガイモが沢山とれました。

 シルバーネーゲル家がある夏に、「旅行に出かけるので、留守番をして欲しい」と頼まれました。邸宅のように広い家です。大きな冷凍庫と冷蔵庫があり買い物は全く必要ありません。子牛半分の肉が整然と並んでいるのです。トウモロコシや肉はもちろん、トマトなどをビン詰してずらりと棚にならべて保存しているのに驚いたものです。地階はビリヤードがあり、おもちゃが一杯揃っていて子ども三人は愉快そうに遊んでいました。

 シルバーネーゲル家の三女ジャネット(Janet)は私の長女と同じ年です。彼女は後にウィスコンシン大学で教授となります。今は、老人ホームで100歳にならんとしている母親を定期的に訪ねているそうです。私の二人の娘が彼女の家を訪ねて交友を暖めたようです。ジャネットとはZOOMで会話しています。

 ウィスコンシン州は大昔、氷河に覆われそれが次第次第に溶けていきました。氷河が溶けながら地面を削っていくと、モレーン(moraine) という石や岩を残していきます。地表はそのためになだらかな丘陵となります。ウィスコンシン州の大地には石や岩が多く、大平原での農業とは違って、大麦やトウモロコシを作れないのです。そのために牛を放牧し乳製品を作る酪農が盛んになります。気候が似たスカンディナビア(Scandinavia) 諸国やドイツ、ポーランドからの移民が住みつくところとなります。伝統的な福音派のキリスト教も持ち込まれ盛んになるのです。福音派とは自由主義神学に対抗して近現代に勃興した、聖書信仰を軸とする神学的・社会的に保守派のムーブメントのことです。保守的な信仰者ともいわれるのが福音派の人々です。

ウィスコンシン州議事堂

 ウイリアム・ハーバーグ(William Herberg)というジャーナリストが一般のアメリカ人を次のように形容します。『アメリカン・ウェイ」(American Way)とは人道主義的で、前向きで、楽観的である。アメリカ人は、世界で最も寛大で慈善的な人々で、進歩、自己啓発、そして熱狂的に教育を信じている。しかし何よりも、アメリカ人は理想主義的だ。』 少々、ステレオタイプな表現に聞こえますが、、、シルバーネーゲル家の人々は、ハーバーグのいう「American Way」を地でいくような存在です。霊的生活の中心としての聖書の教えを守り、伝統を重んじる良きアメリカ人の典型ともいえる方々です。当然ですが政治的には共和党を支持しています。ジョン・シルバーネーゲル氏は享年90歳でした。

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忘れ得ぬ人 その五 日本スタンフォード協会とジェームズ・ウィズィ師

注目

私にとって、戦後日本各地のルーテル教会で牧会されていた宣教師の先生方には格別な思い出があります。多くの宣教師がなぜ海外で活動されたのかは、いろいろな動機や使命感があったのだろうと察します。今も日本には、ノルウェイ、フィンランド、スエーデンなどスカンディナビア諸国からの宣教師が活躍されています。宣教の場所として、戦前は中国大陸が選ばれ宣教活動をしていました。大陸での戦線が拡大するにつれて活動が困難になり、日本を新しい宣教の地として選ぶのです。宣教の母体となったのは、アメリカはセントルイス(St. Louis) にあるミズーリ・シノッド(Missouri Synod)という福音系のルーテル教会です。やがて日本ルーテル教団が設立され、各地で宣教活動が開始されます。私はこうした宣教師に出会い札幌のルーテル教会で洗礼を受けました。

Rev. James Wiese

 日本ルーテル教団の宣教師のお一人がジェームズ・ウィズィ師(Rev. James Wiese)です。この方との出会いを紹介することにします。ウィズィ師は1936年10月に、インディアナ州の農村で生まれます。13歳でコンコーディア・フォートウェイン校(Concordia Fort Wayne)の牧師養成プログラムに入学します。セントルイスのコンコーディア神学校(Concordia Seminary) で神学修士号を取得します。その後、スタンフォード大学(Stanford University) で学校経営と日本研究の修士号も取得した方です。

 神学校卒業後、奥様のリタ(Rita)さんとで日本にやってきます。それから34年間、家族とともに日本で教会の様々な役職を歴任し、セントポール国際ルーテル教会(St; Paul International Lutheran Church)の牧師、日本ルーテル教団立の聖望学園(Holy Hope Schools)のチャプレン(chaplain)兼校長となります。聖望学園はウィズィ師の尽力でセントルイスにあるミズーリ・シノッド教会の婦人会の寄付によって設立された中等教育学校です。後にアメリカンスクール(American School in Japan)の開発部長などを歴任されます。その他、大阪国際学校の初代校長兼理事長、横田米軍基地牧師を務めるという経歴の持ち主です。彼はまた、在日商工会議所、東京国際交流会館、そしてロータリークラブ(Rotary Club) にも積極的に参加します。さらに日本スタンフォード協会(Japan Stanford Association)の会員でもありました。

Concordia Seminary

 ウィズィ師に私はどのような恩があるかを申し上げます。それはウィズィ師が日本スタンフォード協会の会合で横須賀にある国立特殊教育総合研究所の部長に会います。この部長もかつてスタンフォード大学で留学した経験があります。私はウィズィ師に日本のどこかの研究所や大学で仕事をしたいということを伝えておりました。彼はこの部長に私を紹介したのです。しばらくしてこの部長から連絡があり、彼にウィスコンシン大学の学位の写しや成績を手渡しました。そして面接のあとにこの研究所に就職できました。日本スタンフォード協会を通して、ウィズィ師にお世話になったことで、この同窓会の会員は絆が非常に強く、会員同士の信頼が高いということを後で知らされました。蛇足にはなりますが、東京を中心とする我がウィスコンシン大学の同窓会は、極めて凝集力が弱いことを感じます。

 私は10年あまりこの研究所で働き、その後兵庫教育大学に移りました。2012年に院生を連れてカンザスのオマハ(Omaha)の学校視察に行きました。もちろんウィズィ師を頼っての訪問です。オマハ市内の学校訪問で同行してくれたのは師の長男夫妻でした。そのとき、ウィズィ師のご両親や親戚にお会いしたことをお伝えしました。それはジョージアでの語学研修が終わり、ウィスコンシンに向かう途中、私と家族はインディアナ州のレイノルズ(Reynolds)という小さな街に住むウィズィ師のご両親宅に泊まらせていただきました。ウィズィ家は、広大な農地でトウモロコシ栽培を経営していました。地平線まで広がるようなトウモロコシ畑でした。ウィズィ師は帰国後、カンザス州(Kansas) オタワ(City of Ottawa)のフェイス・ルーテル教会(Faith Lutheran Church)、その後テキサス州のオデッサ(Odessa)にあるリディーマー・ルーテル教会(Redeemer Lutheran Church)から招聘を受けて奉仕します。

 2012年にRitaさんよりメールを頂戴し脳腫瘍で入院されていることを知りました。脳腫瘍は手術のしようのない病といわれます。そして天に召されたとの便りを貰いました。享年76歳でした。

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忘れ得ぬ人 その四 ウィスコンシン大学の恩師:ルロイ・アザリンド教授

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ハーレー・ダビッドソン(Harley-Davidson) に颯爽と乗っていた先生の紹介です。お名前はルロイ・アザリンド(Dr. LeRoy Aserlind)といいます。私のウィスコンシン大学(University of Wisconsin) での指導教授であった方です。

 1978年にロータリー財団(Rotary Foundation)が指定するジョージア州(Georgia)での3カ月の英語研修を終わってウィスコンシンへ車で向かいました。『U-Haul』という小さなトレーラーにわずかの家財道具を乗せて出発しました。初めての大陸での長旅でした。『Haul』とは「引っ張る」という意味です。ですから、”You haul”をひっかけた造語が『U-Haul』といわれます。ウィスコンシン州の州都マディソン(Madison) に着きました。ウィスコンシン大学の威厳のある構内に入ったとき、「果たしてここで学位をとれるだろうか、、」という不安がこみ上げてきました。かつて、新潟などで宣教されていたルーテル教会の牧師さんがマディソンで牧会をされていました。この先生には事前にウィスコンシン大学で学ぶことを知らせてありました。この方のお名前はトマス・ゴーイング(Rev. Thomas Going)といいます。ゴーイング牧師は、1958年から2000年の長きにわたり新潟市、加茂市、三条市、そして東京で宣教されます。

Bascom Hall

 ゴーイング牧師は、ウィスコンシン大学教育学部(School of Education) の行動障害学科の一人、アザリンド教授に私を指導してくれるよう依頼してくださっていました。アザリンド教授は1963年にウィスコンシン大学マディソン校で博士号を取得し、その後、リハビリテーション心理学・特別支援教育学科となった行動障害学科の助教授に任命されました。 1968年に准教授、1972年に教授に昇進し、1971年から5年間学科長を務めました。1965年から1970年にかけて、アザリンド教授は米国教育省のプロジェクトを指揮し、発達障害のある生徒の教師を養成する最初のプログラムの一つを提供しました。

 先生は1980年代初頭には、「特別な子ども」と題した特殊教育入門コースの指導を開始し、全国の多くの大学でそのようなコースに採用された教科書の共著者となりました。先生の入門講座は、特別支援教育を専攻する学部生だけでなく他の学生にも好評で、学内で最も受講者数の多い講義の一つとなりました。学生からは、この講座が障害に関する認識と理解に大きく影響したという感想がしばしば寄せられました。

Memorial Union

 アザリンド教授の授業を受けたときです。最初の中間試験がありました。試験問題は多肢選択と記述という問題の組み合わせでした。この結果は惨憺たるもので、先生の部屋のドアに結果の一覧が張り出されていました。私はアメリカの大学での試験問題の対策に慣れていなかったのです。これが私の奮起を促す契機となりました。大学院とはいえ講義は徹底的な詰め込み教育であることを知りました。授業が終わると、すぐさま図書館などで筆記した単語を文章化し暗記することにしました。日本の大学では多肢選択問題で試験することはありません。大抵の場合、短文により記述試験問題が主流です。この日本とアメリカの大学の試験方法の違いを知った機会でした。

 先生の授業は、スライドやビデオを使ったものでした。視覚的に受講生に講義内容の理解を促すという手法は私のその後の兵庫教育大学での授業で大いに役立ちました。当時登場した「PowerPoint」というアプリを使いスライドで授業をしたことが院生に広がりました。彼らの修士論文のプレゼンではこのスライドでの説明です。その時、ある教授はこうしたプレゼンの仕方に反論していたことが懐かしいです。ビデオやスライドを使うことで「百聞は一見にしかず」という言葉を皆が体感することになります。

 アザリンド教授には家族ぐるみでスキーに連れて行ってもらったことも思い出です。ハーレー・ダビッドソンでモンタナへ何度も旅行し、退官後はそこに永住しました。2006年1月9日、モンタナ州(Montana)のリビングストン(Livingstone)のご自宅で、55年間連れ添った奥様マーガレット(Margaret)さんらご家族に見守られながらお亡くなりなりました。

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忘れ得ぬ人 その三 囲碁の達人:吉澤 實氏

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我が国の伝統文化である囲碁は、今や高齢化などによりその愛好者の人口がじわじわ減少しています。八王子囲碁連盟(八碁連)も例外ではありません。そんな中にあって、私は2019年から2021年に八碁連の会長を務めました。その経緯を申し上げますと、2018年に私は新米の理事として会長を補佐する副会長に推薦されました。八碁連は伝統的に副会長が会長になっていました。会長は長らく八碁連の会員であること、高段者であるなどが慣行となっていました。私はいわば八碁連では無名の三段でしたので、その条件にあてはまらなかったのです。にも関わらず会長であった恩方同好会の吉澤實八段は、何故か私を副会長に指名したのです。その理由は今もって分かりません。

 2018年は、八碁連の結成30周年にあたっていました。吉澤会長は設立30周年記念誌を作成しようと提案し、それが総会で承認されました。彼は最初の理事会で私を編集責任者に指名しました。私は過去にいくつかの本を出版してきたので、もとより記念誌の編集にも自信がありました。記念誌を作るにあたり、私は八碁連の未来を志向する構成にする、会員や求道者を読み手とする、八碁連の活動にスポットを当てる、視覚に訴える内容にする、という方針を立てました。それにそっていろいろな人々に原稿を依頼しました。対談の内容も加えました。予算をカバーすることも考えて広告を掲載することにしました。

 やがて依頼原稿が集まり、印刷会社に持参すると記念誌は100ページを超えることがわかりました。印刷会社は折角の記念誌なので表紙をカラー化する提案をしてきました。これでは発行予算を大幅に超過するので、会計理事は原稿数を減らすように提案してきました。私は執筆者には頼み込んで依頼した手前、もし原稿を減らすようなことが理事会で決まれば、理事を辞任するつもりでした。ですが吉澤会長のとりなしで、集まった原稿はすべて掲載することになりました。印刷費がオーバーしたので、当初の発行部数の1,000部から600部にはなりました。幸い広告収入もあり、記念誌一冊の単価が454円となりました。ちなみに20周年記念誌は白黒印刷でページ数は半分、一冊単価が396円でした。

 記念誌の作成とともに、インターネットの活用を提案し八碁連のWebサイトを立ち上げました。そのために「hachigoren.com」というドメイン名を取得しました。Webサイトでは、八碁連の様々な紹介や歴史、八碁連だよりの掲載、各種大会の案内、大会参加申し込みのフォーム、過去のさまざまな資料のアーカイブを保存することとしました。理事の間の連絡を円滑にするために、グループメールを作り理事の間での情報の漏れがないように工夫しました。吉澤会長はそれまで電子メールを使ったことがなかったのですが、婿さんの指導で使い方を習得され、理事の間の情報交換は頻繁になりました。電子メールの利用により、八碁連だよりの原稿の点検も理事の間で行われるようになりました。吉澤会長らは、それまで会長の任期は一年という規約を改正しようと尽力され、総会にて会長を含む理事の任期を三年とすることになりました。

 2019年に会長に就任した私は、吉澤氏には相談役を引き受けていただきました。そしていくつかの試みに挑戦しました。女性の囲碁人口を増やすために、女性囲碁大会を始めることができました。しかし、2020年の1月15日に国内で初めての新型コロナウイルス感染者(COVID-19)が特定され、その流行によって国内は危機的状況を迎えることになりました。八碁連も各種の大会や集会は中止に追い込まれ、会員はネット上での対局などを余儀なくされました。ですが、インターネット上で、ZOOMというアプリを使い「オンライン囲碁セミナー」という研修を毎月開くこともできました。講師には会長を退いた吉澤氏らに依頼して研修を続けることができました。このようにコロナ禍を逆手にとって研修活動ができたのは、インターネットの活用と吉澤氏ら講師陣の活躍によるものでした。

 2022年8月24日に吉澤實氏よりメールを頂戴しました。東京医科大学八王子医療センターに入院との知らせでした。そして吉澤氏と交誼を結ぶ会員とでお見舞いの小冊子をお届けしました。私は若輩ながら次のような言葉を小冊子に添えました。

 私は、いく度となく吉澤實氏に相談し助言を頂戴し、激励を受けて行動してきました。氏の虎の威を借りたことも度々でした。ですが吉澤實氏は2022年11月にご逝去されました。享年84歳であられました。

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忘れ得ぬ人 その二 国際ロータリークラブ:国吉 昇氏

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いつかこのブログで「ドルと沖縄と留学」という拙稿を掲載しました。私が始めて沖縄に赴いたのは1970年。本土復帰の2年前です。那覇市内で幼児教育の一環として幼稚園を設置する仕事を命じられました。まだパスポートと予防注射が必要。1ドルが360円のときでした。当時、幼稚園設置のために琉球政府のお役人とで何度も打ち合わせをやりました。幸い、幼児教育の必要性が高い沖縄でしたので、設置基準を満たさないことに目をつむってくれて、認可にこぎ着けることができました。沖縄は1972年5月15日に本土復帰を果たします。このときは1ドルが300円となりました。

 開園後、園児を募集すると障がいのある2人の幼児が保護者に連れられてやってきました。この2人を担当するのが私の仕事ともなりました。彼らと接しながら、もっと障がい児教育を学ぶ必要を感じていきました。ひよんなことで、ロータリー・インターナショナル(Rotary International) という組織が、障がい児教育の分野で奨学金を出していることを知りました。沖縄には那覇東ローターリークラブがありました。そこで社会貢献活動を担当されていた国吉昇氏と出会いました。

 国吉氏は、戦時中は沖縄地方気象台に勤務されていて、気象情報を軍に提供するという仕事をされていました。悲惨な沖縄戦で九死に一生を得たご体験の持ち主です。ロータリアンとして40年以上も毎週の例会に欠かさず出席していた熱心な会員です。国吉氏は私をロータリーインターナショナル(Rotary International)の奨学生に推薦してくれました。そのお陰で約1万ドルの奨学金を貰うことができました。当時の為替レートでいえば、200万円です。それと共に嘉手納基地の米軍将校夫人クラブ(Officer’s Women Club)からも1,700ドルの奨学金が提供されました。そして1978年に家族を連れてアメリカに向かいました。

 この頃になるとドルと円は変動相場となり、交換レートは円高へと進みました。沖縄の物価はどんどん上がっていきました。復帰前にフィレ・ミヨン(filet mignon) の部厚いステーキが5〜6ドルくらいで、1,500円くらいでしょうか。復帰後はあっというまに3,000円、4,000円へ上がっていきました。沖縄の人は当時ドルで生活していたので、相当のドル預金が目減りしたのです。それを回避しようとして物価が急に上昇したのです。住んでいたアパートの家賃も2倍、3倍に上がりました。沖縄の人々は、「本土復帰とは一体なんだったのか」という疑問を投げかけ始めました。しかし時既に遅しです。沖縄は完全に本土並となりました。沖縄の人は本土復帰によって、国家権力がいかに強大かを思い知らされることになりました。

 ドルの話の続きですが、国吉氏は私の渡米を前に100ドルの餞別をくださいました。始めて見る100ドル札でした。アメリカに行きまして、あるとき買い物の際にこの札を女性のキャッシアに渡すと、彼女はそれを事務所へ持っていきました。通常買い物で100ドル札を出す人はいません。皆小切手を使います。彼女は100ドル札を見たことがなかったのです。その時の円相場は1ドル200円前後で、授業料の支払いなどでわずかの円預金では大変な生活でした。学業がてら私も家内も懸命にアルバイトをしました。このような留学経験は、通貨の価値とか為替相場ということを知る機会となりました。

 時を経て、1982年12月にウィスコンシン大学から学位を貰い、帰国してから横須賀にあった文科省の研究所、兵庫県にある小さな大学で教育と研究に従事することになりました。その間、国吉氏と手紙のやりとりをしながら、1995年に長男とともに沖縄に出かけ、国吉氏と再会できました。2020年の12月に再度那覇を訪れ、那覇東ローターリークラブの例会でお礼を述べ、その後老人ホームに入っておられた国吉氏とお内儀にお会いしました。国吉氏の記憶は大分衰えているようでした。2024年の7月に国吉ご夫妻のご長男からお二人がお亡くなりになったという手紙を頂戴しました。アメリカに留学し学位を得て障がい児教育に従事することができたのは、ひとえに国吉昇氏のご尽力で奨学金を頂戴したお陰でありました。生涯、忘れ得ぬお一人です。

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忘れ得ぬ人 その一 北海道大学の恩師:松沢弘陽教授

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松沢弘陽

これから暫く、これまでお世話になった方、ご迷惑をおかけした方、ご教授を賜った方、親しくお付き合いをしてくださった方などを取り上げます。こうした人々を思い起こしますと、すでに鬼籍に入られた方々のお顔が脳裏を横切ります。私は現在82歳ですから、ご存命の方はほとんどおりません。ですが、お一人おひとりが私と家族のために親身になってお付き合いをしてくださったことを想うと、本当に幸せな時間を持てたと述懐する今日この頃です。

 私が北海道大学に入学したのは1961年4月です。卒業した道立旭川西高校から16名の合格者が北大にやってきます。60年安保の大学闘争が一段落した年です。大学正門には学生団体のけばけばしい立看がずらりと並んでいました。大学に入ると全員教養部というリベラルアーツの部門で、学問の基礎を学びます。私にとって目新し学びは哲学とドイツ語でした。他の教科は高校の復習のようなものでしたが、英語の読解を担当した川村という教授が、「君たちは大学生なのだから英英辞典を使いなさい」と言ったのを今も鮮明に覚えています。

北海道大学古川講堂

 一年半の教養部を終えて法学部に移行しました。政治学を学ぼうと指導教官として松沢弘陽教授にお願いしました。当時、私は松沢先生が、東京大学教授の政治学者、丸山真男氏の一番弟子であったことを知りませんでした。丸山教授は、西欧思想と東洋古典に精通し、戦後民主主義思想の展開に指導的役割を果たした学者です。そして〈丸山学派〉と称される後進の研究者も輩出し、日本政治学や政治思想史の分野での飛躍的な発展に大きく貢献されます。

 松沢先生は、1960年に北海道大学法学部助教授、1965年に同大学教授。1984年に同大学法学部長・大学院法学研究科長を歴任されます。専門分野は、日本における近代日本政治思想史ですが、近代政治思想史全般にも精通された学者です。特に内村鑑三や福澤諭吉の研究が有名で、思想史上の師である丸山教授の業績も広く紹介します。特に1995年に「丸山眞男集」や「内村鑑三全集」全40巻の編集に携わり、いずれも岩波書店から刊行します。その蔵書類を日本女子大学に寄贈する仲立ちをも果たします。また思想の科学研究会の鶴見俊輔らの共同研究「転向」にも参加し、後年は日本政治史も研究対象としていきます。北海道大学を退官された後、放送大学客員教授をはじめ、小樽商科大学、北海道教育大学、札幌大学法学部、北星女子短期大学、東京都立大学法学部、名古屋大学法学部などの非常勤講師を務められます。

北海道大学構内

 私の書棚には丸山真男氏の著作「現在政治の思想と行動」があります。この著作は1956年に未来社から発行され、私が保管するのは1962年刊の第22刷ものです。表紙は大分古びて時代ものになったような装幀ですが、各論文は、講演調、書簡体、対話体と、ヴァラエティにとんだ歯切れのよい文体で綴られています。それに加えて大変読みやすく読者の理解を助けてくれます。「戦後日本社会科学の精神的起点の一つ」といわれる著作で、松沢先生はこの名著の論文の配列、小見出し、追記、補注の作成に携わります。

 松沢先生は、福澤諭吉や内村鑑三に私淑され、1967年に岩波書店から「」福澤諭吉の思想的格闘-生と死を超えて」という著作を刊行されます。私はルーテル教会の札幌ユースセンター教会で結婚式を挙げます。その式に松沢先生は参列してくださいました。

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トランプ政権が名門大学を攻撃する理由

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現在、トランプ政権の中東情勢をめぐる外国人留学生のビザ制限などに対して,名門大学は法廷闘争を展開しています。この闘争は、大学側に有利な展開も予想されています。ハーヴァード大学とマサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology: MIT) は2020年に、トランプ政権の外国人留学生のビザ制限に対し連邦地裁に提訴し、一時的な勝利を収めました。司法はこれまで、政権の移民制限策に対して慎重な姿勢を示してきたため、法廷では大学側の理が通る可能性が高いと見られていました。ただし、政権がさらに法改正や規則の変更で圧力を強めると、再び法的な応酬が繰り返されることになるかもしれません。

Massachusetts Institute of Technology

 トランプ政権のもう一つの狙いは、リベラル勢力への牽制です。ハーヴァード大学は「リベラルの牙城」とされており、トランプ政権にとっては政治的な敵対的な対象でもあります。政権側の真意は、ハーヴァード大学だけでなく、全米の高等教育機関に対する締めつけを強めることで、「エリート主義」への反発を強調し、保守・中間層など政権支持層へのアピール 対中国政策の強化を狙っている可能性があります。

 「エリート主義」への反発ですが、2022年時点で、25歳以上のアメリカの成人のうち、約37.7%が学士号を取得しています。この数字には学士号のみならず、修士・博士号の取得者も含んでいます。そのうち大学院修了者は約14.2%に達するといわれます。ちなみに日本では、大学または大学院を卒業した人の割合は 約25.5%といわれています。 トランプの支持者は、人口の3/4を占める高卒の市民です。「エリート主義」に対するアンチの人々ということです。

 トランプ政権のもう一つの狙いは、主に中国人留学生の排除があるようです。アメリカの大学には、数十万人規模の留学生が在籍しており、その多くが理工系分野で最先端の研究を担っています。特に中国やインドなどからの優秀な学生は、アメリカの研究・産業競争力の源でもあります。同時に、海外からの留学生の増加で肝心のアメリカ人の若者が入学を阻まれているという事情もあります。そうした不満もアメリカ国民の中にはあるのです。

 2023年6月29日、アメリカの連邦最高裁判所は、大学の入学選考において人種を考慮する「積極的格差是正措置」(affirmative action)を違憲としました。この判決により、大学の入試や公的機関の採用で、アフリカ系アメリカ人、ヒスパニック系、先住民などが不利にならないように考慮されることがなくなり、いわゆる白人アメリカ人の入学や雇用が促進されそうです。これはトランプ政権が望んでいることです。

 留学生の受け入れを制限すれば:優秀な頭脳が欧州やカナダなど他国に流出し、アメリカの研究開発力やイノベーションの低下につながるという懸念もあります。また、留学生の学費は大学の重要な収入源であり、大学の財政難といった中長期的な悪影響も懸念されています。今後の展望ですが、選挙と政権交代がカギといわれます。政権と大学の対立の今後を左右する最大の要因は、大統領選の行方です。仮にトランプ氏が続けば、大学や移民への締めつけが強まる可能性が高いです。

 結論として、今後も短期的には政権と大学との法廷闘争が続くと思われます。大学側は議会や世論と他大学の支持を集めて巻き返しを図るでしょう。トランプ政権側は政治的パフォーマンスとして移民対策や留学生などへの締め付けという「強硬姿勢」を貫くことによって、岩盤といわれる層の支持を受けていくだろうと考えられます。トランプ政権とハーヴァード大学などとの対立は、単なる大学の問題にとどまらず、アメリカの移民政策、教育政策、そして国際関係のあり方をめぐる根本的な対立を象徴しているといえそうです。

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トランプ政策と名門大学の抵抗と服従 

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アメリカ東部にある名門私立大学でアイビー・リーグ(Ivy League)の一つ、ペンシルベニア大学(University of Pennsylvania) は2023年12月9日、エリザベス・マギル(Mary Elizabeth Magill学長とスコット・ボク(Scott Bok)理事長の辞任を発表しました。マギル氏は大学内で強まる反ユダヤ主義への対応を巡り、批判されていました。連邦政府は、全国の大学への数十億ドル規模の資金の流れを停止すると脅迫しており、多くの大学は司法省から保健福祉省に至るまで、様々な機関からの調査に直面している。しかし、トランプ政権の大学に対する懲罰的なアプローチは、アイビー・リーグの大学で最も深刻に表れています。昨春、ガザ紛争に反対するキャンパスでの抗議運動の中心地となった同大学は、反ユダヤ主義的行為を容認し無法状態を蔓延させたという非難と学術的・政治的言論を抑圧したという非難に、数ヶ月にわたって対峙してきました。

 トランプ政権が非難のターゲットとしているのは、こうしたアイビー・リーグの大学です。名門ハーヴァード大学(Harvard University)との対立も続いています。政権はハーヴァード大学に対して外国人留学生の受け入れ資格停止を通告し、反発した大学側との法廷闘争に突入しています。背景には「リベラルの牙城」と呼ばれるハーヴァード大学を狙い撃ちすることで他の大学にも「改革」を迫り、さらには中国共産党など外国の影響力を排除する意図が潜むようです。ハーヴァード大学の歴史で最初の黒人学長だったクローディン・ゲイ学長(Claudine Gay)は2024年1月2日に辞任します。その後、就任したアラン・ガーバー学長(A)lan M. Garber)はトランプ政権の政策に訴訟を起こし毅然として立ち向かっています。すなわち、トランプ政権が大学に対し課してきた一連の制裁措置、すなわち連邦研究費の凍結、留学生プログラムの停止、税制優遇の剥奪検討などに対し、訴訟を起こしています。

コロンビア大学エンブレム

 マンハッタン(Manhattan)北部にある同じくアイビー・リーグ大学の一つ、コロンビア大学(Columbia University)は、今年、学生デモで混乱に陥り、結束バンドや暴動鎮圧用の盾を持った警察官が、親パレスチナ派の抗議活動参加者が占拠していた建物に突入する場面もありました。同様の抗議活動は全国の大学キャンパスに広がり、その多くが警察との激しい衝突や数千人の逮捕に至りました。この発表の数日前には、大学当局が、ユダヤ人の生活と反ユダヤ主義に関するキャンパス内での議論中に3人の学部長が中傷的なテキストメッセージを交換したとして辞任したと発表したばかりでした。

 コロンビア大学のミヌーシュ・シャフィク学長(Minouche Shafik)は2024年8月に、イスラエルとハマスとの戦争(Israel-Hamas war)をめぐる抗議活動やキャンパス内の分裂への対応をめぐり、短期間で波乱に満ちた在任期間を終えて辞任しました。ニューヨークの名門大学である同大学の学長は、この間、イスラエルとハマスとの戦争をめぐる抗議活動やキャンパス内の分裂への対応について厳しい批判にさらされてきました。

 次いで暫定学長に就任したカトリーナ・アームストロング(Katrina Armstrong)も、2025年3月までに学内対策に応じた結果、トランプ政権による資金凍結などの圧力からの批判を引き受け、2025年3月28日に辞任発表します。同日に、学長代行としてクレア・シップマン(Claire Shipman) が指名されました。彼女は“学問の自由と開かれた探究を守る”姿勢を表明していますが、下院教育委員会などによる調査も受けてきました。シップマン学長代行も自分の発言でユダヤ人協会から批判され、大学の人事は混迷しています。

University of Virginia

 さらに、ヴァジニア大学(University of Virginia)のジャームズ・ライアン学長(James Ryan)が2025年6月28日に辞表を表明します。ライアンが退任を急いだ決断は、ヴァジニア大学に対する連邦政府の監視が強化されている時期に行われました。ライアンは退任の手紙の中で、「自分が学長職に留任していた場合、大学は多額の資金を失うリスクがあったことを認めます。自分の地位に留まり、連邦政府の資金削減のリスクを冒すことは、空想的なだけでなく、職を失う何百人もの従業員、資金を失う研究者、そして奨学金を失ったりビザを差し押さえられたりする何百人もの学生にとって、利己的で自己中心的に見えるだろう」と述べて辞任するのが最上であるという判断をしたのです。

 コロンビア大を含む、アメリカ東部の八つの有名私立大で構成されるアイビー・リーグのうち、学長が辞任したのは昨年10月以来、ペンシルベニア大学とハーヴァード大学で3例目です。いずれも、中東情勢をめぐる抗議デモの対応で追及を受けています。

2万円給付か消費税減税か

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参議院議員選挙の公示前に、生成AIに『消費税の減税はなぜ経済を活性化するのでしょうか。2万円の給付と消費税の減税はどちらが家庭にとって有効でしょうか。』という問いを投げてみました。そうすると次のように、消費税の減税は、経済を活性化させる効果があるという回答がありました。

● 消費者の負担が減る → 消費が増える
 たとえば、消費税10%の商品を買うと1,100円かかります(商品1,000円+税100円)。消費税が5%に下がれば、1,050円で済みます。減税によって買い物がしやすくなり、「消費の喚起」につながります。

● 企業の販売促進にもつながる
 増税時は駆け込み需要が高まりますが、減税後は消費者の買い控え解消も見込めることです。減税によって、景気低迷時に消費が刺激され、企業の売上が増え、雇用や投資にも好影響が出る可能性があります。

● 間接的に低所得層の負担軽減にもなる
 消費税は、所得が低い人ほど負担が重い「逆進的」なので、減税すれば低所得層ほど恩恵が大きくなります。

 次に、生成AIに対して2万円の一律給付と消費税減税、どちらが家庭に有効か?という問いを出しました。生成AIは、一概に「どちらが絶対に良い」とは言えないが、世帯の収入や消費傾向によって異なると考えられるという回答です。例えば、2万円給付 vs 消費税減税(例:10%→5%)です。

2万円給付の場合:
 ・効果に即効性がある(すぐもらえる)
 ・制限されることが多い(例:低所得世帯のみ)
 ・一時的な負担(1回限り)
 ・効果は限定的で貯蓄に回ることも多い
 ・逆進性対策で低所得層に狙いを定めやすい

消費税減税の場合:
  ・中長期的に毎日の買い物が安くなる
 ・消費が多いほど恩恵が増える
 ・消費する人すべてに及ぶ
 ・消費全体に波及しやすい
 ・定率なので大口消費者も得する

 消費税減税の場合、年間どれくらいの差になるかです。たとえば、年間300万円の消費をする家庭で比べてみましょう。消費税10%では税額は30万円で、消費税5%では税額は15万円で差額15万円となります。この場合、2万円給付よりも消費税減税の方が効果が大きいです。ただし年間消費が少ない世帯では、2万円給付の方が得になることもあります。

 2万円給付と消費税減の実施における政策面での現実的な違いは次のようになります。
2万円給付の場合:
 ・迅速な実行が可能(ただし、年内の配布時期は決まっていない)
 ・一時的な支出(ただし、事務コストや時間、労力がかかる)
 ・短期的な効果

消費税減税の場合:
 ・税制改正が必要 → 時間がかかるといわれる(ただ小売業はしばしば値段を変えている)
 ・恒久的・大規模な減収
 ・長期的な効果あり

 終わりに、どちらが家庭にとって「有効」かです。短期的な生活支援が必要な家庭には2万円給付が即効性があり、助かります。しかし、長期的には、税金や社会保険料を差し引いた後に自由に使える可処分所得の増加を望む家庭には、消費税減税の方がより大きな恩恵があります。そして、国全体での経済活動に焦点をあてるマクロ経済政策という観点では、消費税減税の方がより波及効果が高いといえます。2万円給付の原資つまり財源は、もともとは国民の税金なのです。国の2023年度税収、還付増でも2.5兆円も上振れしているのです。給付とは「税金を取り過ぎました。お返しします。」と言うべきでしょう。2万円の給付で物価は下がりません。2万円の給付はトリックとしか言いようがありません。

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無関心や傍観の帰結 その第十四 ヘイビアス・コーパスの歴史

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 「ヘイビアス・コーパス」という制度は中世イングランド(medieval England) の歴史に起源があります。ラテン語で「人身を差し出せ」という意味の「Habeas Corpus」は、中世のラテン語による法文書の冒頭の語句から来ています。イングランドのコモン・ロー(common law)という慣習法の中で、王の裁判所が地方の牢獄に囚われている人を引き出し、その拘禁が正当かどうかを調べるための命令文書(令状)として発展しました。コモン・ローとは、法制度の重要な特徴である「判例法」を指す言葉です。具体的には、判例に基づいて法が発展していくシステムであり、イギリスの普通法を起源とします。しかし、当初は王の裁判権の拡大が目的であり、個人の自由保護という意識はまだ希薄でした。

チャールズ2世

 この制度が発展したのは13〜17世紀といわれます。1215年の大憲章(マグナ・カルタ: Magna Carta)では、「正当な裁判なく自由を奪ってはならない」という原則が確認され、これが後の「ヘイビアス・コーパス」の精神的基盤となりました。その後、裁判所が不当な拘禁を調査するためにこの令状を使うことが一般化します。特に、16〜17世紀には国王や官僚による恣意的な拘禁に対して、庶民が抗議手段として使うようになります。

 この制度の最も重要な転機は、1679年にイングランド議会(Parliament of England) が「ヘイビアス・コーパス法」を制定したことです。これはチャールズ2世(Charles II)の治世下、国王権力の乱用を防ぐために成立したものです。次のような内容でした。

・裁判なしに長期間拘禁することを禁じる
・裁判官の命令で速やかに被拘禁者を釈放させる
・刑務所や官憲による引き伸ばしや拒否を処罰対象とする

 この制度はやがてイギリス植民地とアメリカへ波及します。イギリスの法制度に従っていたアメリカ合衆国でもこの制度は引き継がれました。つまり合衆国憲法第1条第9節には、「ヘイビアス・コーパス」の特権は、反乱や侵略の際にのみ停止できる」と明記されています。このため、リンカーン大統領(Abraham Lincoln)が南北戦争(Civil War) 時に一時的に停止した例が有名です。

 終わりに、「正当な裁判なく自由を奪ってはならない」という原則は我が国ではどのように規定されているでしょうか。日本国憲法第34条の前段は、「何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない」と定められています。この条文が「ヘイビアス・コーパス」に由来するということは明らかです。しかし、このことの詳細を定めた人身保護規則は適用条件を絞っているため、日本の人身保護手続は公権力に対する拘禁についてはほとんど用いられていません。専ら私的拘禁への救済手続として用いられているのが現状です。

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