ロータリー財団奨学金と国吉昇氏

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ひよんなことで、ロータリー・インターナショナル(Rotary International) という組織が、障がい児教育の勉強で奨学金を出していることを知りました。ロータリーの会員はロータリアン(rotarian)と呼ばれます。ロータリアンは、それぞれの地域社会および世界社会において人々の福祉や生活の向上を計るためにボランティアとして奉仕することが求められています。平和の推進、母子の健康、疾病との闘い、教育の支援などに貢献する活動です。

 那覇市内には1966年に設立された那覇東ローターリークラブがありました。そこで社会貢献活動を担当されていた国吉昇氏と出会ったのです。この方は、戦時中は沖縄地方気象台に勤務されていて、気象情報を日本軍に提供するという仕事をされていました。悲惨な沖縄戦争で九死に一生を得たご体験の持ち主でした。戦後沖縄ナショナル特機という会社を立ち上げ、同時にロータリアンとして50年以上も毎週の例会に欠かさず出席していた熱心な会員でありました。

 国吉氏は筆者をロータリーインターナショナルの奨学生に推薦してくれました。そのお陰で約1万ドルの奨学金を貰うことができました。それと共に那覇ルーテル教会の宣教師が仲立ちしてくれ、沖縄駐留米軍将校夫人クラブからも1,700ドルの奨学金が提供されました。国吉昇氏は餞別として100ドル札をくださいました。こうしてようやく1978年に家族を連れてアメリカに向かうことになりました。その頃、設立に奔走した丘の上幼稚園は増築され、年長と年少の二組となり、教師も二人となりました。渡米をきっかけに丘の上幼稚園との縁は切れました。

将校婦人倶楽部 沖縄県公文書館より引用

 この頃になるとドルと円は変動相場となり、交換レートは円高へと進んでいきました。それに伴い沖縄の物価はどんどん上がっていきました。復帰前にフィレミヨンの部厚いステーキが4〜5ドルで、1,500円くらいでした。復帰後はあっというまに2,000円、3,000円へ上がっていきました。沖縄の人は当時ドルで生活していたので、相当のドル預金が目減りしたのです。それを回避しようとして物価が急に上昇したのです。住んでいたアパートの家賃も2倍に跳ね上がりました。

 復帰当日の1972年5月15日には 305円まで円高が進んでいました。 米軍統治下の沖縄では通貨として米ドルが使われていたため、円高が進むと県民が持っている現金や預金の価値(円換算での資産)が目減りしてしまうという深刻な問題が生じました。 この事態に対し、日本政府と琉球政府は1971年10月に極秘で「通貨確認」と呼ばれる一斉調査を実施します。そして事前に把握、確認した一定額のドル資産についてのみ、かつての固定レートである 1ドル=360円 と復帰時のレート1ドル=305円との差額、55円分を日本政府が給付金として補償することで、沖縄の人々の生活や資産を守る特別措置が取られました。

 やがて沖縄の新聞やテレビは、「本土復帰とは一体なんだったのか」という疑問を投げかけ始めました。本土復帰前は、琉球独立論も盛んに流布されていました。復帰によって本土からさまざまな制度、人と物がやってきました。中央省庁から役人がやってきて、沖縄はほとんど本土並となりました。沖縄の人は本土復帰によって、中央の国家権力がいかに強大かを思い知らされることになったのでした。

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琉球独立論

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琉球・沖縄の独自性を沖縄の人々に再認識させようとした運動の思想が独立論です。琉球王国時代の豊かな文化や芸術、土着の宗教や言語などに独立論の起源があると考えられます。南方との交易によって琉球にはいろいろな文化がもたらされました。特に最大の交易相手だった中国からは強い影響を受けました。琉歌や組踊りも独特です。他方で書き言葉は主に漢字かな交りの和文を用いていました。しかし、本土復帰と琉球の独立は相反する精神の葛藤であることがやがて鮮明化していきます。

伊波普猷 Wikipediaより引用

 琉球の独自性は、地元の学者やジャーナリストによって研究されていきます。「沖縄学の父」と呼ばれた伊波普猷(いはふゆう)の沖縄研究は、沖縄の言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に渡ります。伊波の後継者といわれたのが外間守善で、生涯を琉球文学や文化研究に捧げます。比嘉春潮もまた沖縄史の研究者であり沖縄の独立を主張した社会運動家でした。仲宗根政善はひめゆり学徒隊の引率教官で、戦後は琉球方言の研究や沖縄の教育行政にあたります。「琉球王朝史」の著者で民俗学者であった川平朝申も琉球・沖縄の独自性を叫んでいた一人です。

沖縄戦後 琉球新報より引用

 川平を含む勇気ある祈りを唱えた平良牧師ら多くの知識人は、当初は米国の施政権下からの脱却を目指していました。本土復帰が決まるとことによって琉球は沖縄県となり、日本への統合が始まります。最終的に「沖縄」が選ばれたのは、中国由来の地名である「琉球」を県名にすることを嫌ったためではないかと考えられています。復帰とともに、本土からヒト、モノ、カネ、そして制度が怒とうのように押し寄せ、日本政府という権力の凄さ、恐ろしさが県民によって理解され始めます。それと同時に沖縄民族(ウチナンチュ)の独自性や精神、文化が揺らぐことの危機意識が高まり、「反復帰」の声が地元の新聞論調にみられるようになります。

 復帰後、「本土復帰は幻想ではなかったのか」と反芻するような声が起こります。だが時は既に遅し。「反復帰」の精神は運動として高まることはありませんでした。沖縄の一部の人々でありましたが、唯一日本からの独立という途方もない発想をした沖縄人に、私は今も畏敬の念を抱く一人であります。

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沖縄の本土復帰

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見えざる手の導きによると思われた1971年から1977年までの沖縄・那覇での生活は、思い出に残るものです。アメリカの施政権下での琉球政府の統治や本土復帰運動の両方を目の当たりにし、小雨が降る1972年5月15日の本土復帰の時を経験しました。この日は奇しくも長男の誕生日でした。琉球独立と、本土復帰の二つの狭間に置かれた沖縄の人々の複雑な思いに触れることができたのは幸いでした。本稿では、いくつかのエピソードを記すことにします。

 沖縄は「琉球」と呼ばれた時代が長く続きました。琉球という地名の由来は、島々が龍に似ていたのでつけられたという説、「沖縄」は沖合い(おき)の漁場(なは)から由来したという説です。私が沖縄で幼児教育を始めるようにとの指示で沖縄へ派遣された1971年は、まだ琉球であり琉球民政府が統治していました。

 繰り返しますが現在の沖縄県は、かつては琉球王朝と呼ばれた一つの独立国でした。1429年に中山王の尚巴志が琉球を統一し、琉球王国を創設します。琉球王国は、明と清の冊封使を受け入れながら、上手に独立を保っていました。やがて清が衰退し、薩摩や明治政府の影響を受けます。この経緯はすでに述べてきたとおりです。

 独立国であった琉球王国は三度潰えていく経緯を辿ります。第一は1872年に明治政府によって琉球藩が設置され,その後琉球藩を廃して沖縄県を設置したいわゆる琉球処分、第二は1945年の琉球列島米国軍政府、後の民政府による統治の開始、そして第三は1972年の沖縄返還、いわゆる本土復帰です。

平良修牧師 琉球新報より引用

 1952年に琉球政府が創設されます。長である行政主席は民政府によって任命されます。沖縄の独立が高まったのは、1966年、第五代琉球列島高等弁務官のフェルディナント・アンガー(Ferdinand T. Unger)の赴任式のとき、日本キリスト教団牧師であった平良修師が沖縄の本土復帰を趣旨とした祈りを捧げたのがきっかけとされます。平良師は祈ります。「神よ、沖縄にはあなたのひとり子、イエスキリストが命をかけて愛しておられる100万の市民がおります。高等弁務官をして、これら市民の人権の尊厳の前に深く頭(こうべ)を垂れさせてください。神よ、願わくは、世界に一日も早く平和が築き上げられ、新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように、せつに祈ります。」 この勇気ある祈りは、今も語り草となっています。

 平良牧師は、東京神学大学と米国のジョージ・ピーボディ大学(Peabody College of Education and Human Development)を卒業し、沖縄キリスト教短期大学長などを歴任し,日本基督教団佐敷教会を牧会します。米国留学中に黒人公民権運動に接しその影響を受けたということが、彼の私記にあります。アンガーは1968年に行政主席を公選とすることを発表します。その主席選挙よって当選したのが沖縄教職員会長などを務めていた屋良朝苗氏です。後に彼は初代の沖縄県知事となります。

 1966年前後は、ヴェトナム戦争が最も激しさを増す時期でありました。琉球からB52をはじめとする爆撃機や戦闘部隊、兵站物資が送られます。その間、ヴェトナム戦争に荒んだ米軍の兵士による婦女暴行事件が起こり、琉球全体に本土復帰の運動が広まります。1970年12月のコザ暴動はその典型で、米国兵士の交通事故を発端として起こった軍の車両や施設に対する焼き討ち事件です。その背景に米施政権下での圧制や人権侵害に対する沖縄人の大きな不満がありました。

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琉球処分

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「琉球処分」とは、明治政府が1872年から1879年にかけて、琉球王国を廃止して完全に日本の領土へ組み込んだ一連の政治的プロセスのことです。それまで独立した王国として独自の文化と歴史を持っていた琉球が、近代日本の一部となる大きな転換点となったのが、琉球処分です。

 なぜ琉球処分が起こり、どのように進んだのかです。まず、なぜ明治政府は「処分」を行ったのかです。その最大の理由は、当時の琉球が持っていた「日中両方への従属」を解消し、近代国家としての国境をはっきりさせるためでした。1609年の島津氏の侵攻以来、琉球は実質的に薩摩藩の支配下にありました。同時に、琉球は中国の皇帝に使節を送り、形式的に「臣下」としての礼を尽くす冊封・朝貢関係も続けていました。

 明治政府は欧米列強に対抗するため、「ここからここまでが日本の領土である」と世界に証明する必要がありました。そのため、清との関係を断ち切らせ、完全な日本領にしようとしたのです。

琉球処分の主な流れ
 琉球処分は、一気に強行されたわけではなく、段階を踏んで進められました。
【1872年】琉球藩の設置(第一段階)
【1874年】台湾出兵(清に琉球民を「日本国民」と認めさせる)
【1875年】清との関係断絶を要求(琉球側は激しく抵抗)
【1879年】沖縄県の設置(第二段階・王国の終焉)

琉球藩の設置(1872年)
 明治政府はまず、国内で「廃藩置県」を行った翌年、琉球王国を「琉球藩」に改めます。最後の国王である尚泰を「藩王」に任命し、華族に列します。これにより、「琉球は日本の一部である」という形にしたのです。

台湾出兵(1874年)
 1871年、台湾に漂着した琉球の島民が、現地の先住民に殺害される宮古島島民遭難事件が起きます。明治政府はこれを口実に1874年に台湾へ出兵します。この際、清との戦後交渉で「被害に遭った琉球民は日本国属民である」という文言を認めさせることに成功し、国際的に琉球が日本領であるという名分を得たのです。

清との関係断絶を要求(1875年)
 政府の処分官である松田道之が沖縄に渡り、「清への朝貢をやめること」、「中国の年号ではなく明治の年号を使うこと」などを厳しく要求します。しかし、清とのつながりや貿易の利益を守りたい琉球王府は、この要求を拒絶し、粘り強く抵抗を続けました。

沖縄県の設置(1879年)
 説得による解決が難しいと判断した明治政府は、1879年3月、松田道之に警察や軍隊を同行させて首里城へ入らせました。そして琉球藩の廃止と「沖縄県」の設置を強制的に通告します。首里城は明け渡され、尚泰王は東京へ移住させられました。ここに、450年以上続いた琉球王国は完全に滅亡することとなったのです。

 琉球処分は、ただちに平和な解決を迎えたわけではありませんでした。王国の滅亡に納得いかない親清派の琉球の士族たちの中には、清に密かに渡って「琉球を救ってくれ」と救援を求める人々(脱清人)が相次ぎました。当然、清も「勝手に琉球を併合した」と明治政府に猛反発します。一時はアメリカの前大統領グラントの仲介で、「沖縄本島側を日本領、宮古・八重山諸島を清の領土とする」という分島案などが話し合われましたが、最終的に調印には至りませんでした。この琉球をめぐる対立は、のちの1894年の日清戦争の一因にもなったといわれます。

首里城の日本政府軍 Wikipediaより引用

 明治政府は、沖縄の士族たちの反発を抑え、社会的な混乱を避けるため、土地制度や厳しい租税などをすぐには変えず、王国時代の古い習慣をそのまま残す政策をとりました。このため、沖縄の近代化や日本の他県並みの権利である国政選挙への参加などが認められるのは、本土よりも大きく遅れることになりました

 琉球処分は、明治政府が「近代国家」としての形を整えるために強行した、琉球王国の解体と沖縄県の設置という日本への強制的な統合プロセスです。この出来事は、独自のアイデンティティを持っていた琉球の人々の意志とは関係なく、外交や国防によって進められたため、現代にまでつながる沖縄の歴史的、政治的な問題の原点とも言われています。

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芸能・文化の発展と保護

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琉球王朝は、中国からの使者をもてなすために組踊など琉球舞踊や「琉球料理」を宮廷文化として高めました。これにより、中国側に対して「礼節と文化に満ちた独自の気高い国である」と思わせることに成功するのです。薩摩に対しては、貿易の利益をもたらす存在として、中国に対しては忠実で文化的な朝貢国として、自らの価値を全方位にアピールし続けたのです。

 独自の文化を磨いた琉球は、幕府の将軍が代わる際などに、江戸へ「慶賀使」や「謝恩使」という使節団を派遣しました。幕府は、異国の衣装をまとった琉球使節団を江戸城に迎えることで、徳川将軍の威光は、日本国内だけでなく琉球にまで及んでいる、というデモンストレーションとして利用しました。使節団が通る東海道などには、使節団を一目見ようと多くの民衆が集まり、日本本土でちょっとした琉球ブームが起きたといわれます。

琉球使節団 AI作成

 この薄氷を踏むような互恵外交は、1609年から1879年の「琉球処分」によって沖縄県が設置されるまで、約270年間も続きました。琉球王国は、大国の狭間で主権を制限され、経済的な搾取に苦しみながらも、したたかな文化的外交を展開することで、自らのアイデンティティと王統を守り抜いたのです。この時代に磨き上げられた宮廷芸能や食文化、礼節の精神が、現代の沖縄文化の大きな骨格となっています。

 琉球独特の「組踊」のことです。組踊は、18世紀初頭の琉球王国で生まれた独自の歌舞劇です。2010年にはユネスコ無形文化遺産にも登録され、現代の沖縄を代表する伝統芸能として大切に守られています。大国の狭間で揺れる琉球王国が、国の威信をかけて創り出した組踊の歴史は興味深いものがあります。

組踊 文化庁サイトから引用

 組踊が生まれた歴史的背景は、1719年、清からやってくる冊封使を歓迎する宴の席でした。時の国王、尚敬の命を受け、おもてなしの総責任者として「踊奉行」に任命されたのが、当時36歳で天才芸術家と呼ばれた玉城朝薫です。朝薫はそれまでに、薩摩への留学や、江戸へ派遣された使節団への随行を通じて、本土の芸能である能、狂言、歌舞伎を深く鑑賞し、その構造を学んでいました。さらに、中国の古典劇である京劇の真髄も理解していました。朝薫のイノベーションといわれる「日本の能や歌舞伎のドラマ性」と「中国の演劇の様式」をベースにしながら、台詞を琉球の古語にし、音楽を三線を中心とした琉球古典音楽に置き換えたのです。これにより、これまでにない全く新しい琉球独自の歌舞劇「組踊」が完成したのです。

 1719年9月9日の重陽の宴で、朝薫の処女作である『二童敵討』と『執心鐘入』が披露されると、中国の使者たちはその洗練された美しさと高い精神性に深い感銘を受け、絶賛したといわれます。こうして組踊は、いわば琉球の外交を支える最強の武器となったのです。陰陽道で縁起の良い「陽」の数字である「9」が重なり目出度いので宴が催されたのです。

 組踊の3つの大きな特徴です。組踊は、大きく分けて「唱え」「踊り」「音楽」の3つの要素で構成されています。

・独特のせりふ回し:「唱え」は現代の演劇のように普通に喋るのではなく、独特の抑揚(メロディ)をつけて語られます。また、言葉の基本は「八・六・八・六」の琉歌の音数律になっており、格調高く美しいリズムを持っています。

・能をベースにした様式美:「踊り」登場人物の動きは、能の影響を強く受けており、極限まで無駄を削ぎ落とした静かで上品な歩き方や手の動かし方の所作が基本です。感情の表現も象徴的で、例えば悲しい時は、顔の前に静かに手をかざす「泣きの手」という所作一つで、深い哀愁を表現するのです。

・ 舞台を支配する生演奏:「地謡」舞台の進行や登場人物の心情は、ステージ上手に座る「地謡」と呼ばれる演奏者たちによって表現されます。三線、箏、笛、篳篥、太鼓の生演奏と唄が、現代の映画音楽のように劇の効果を高め、物語をドラマチックに引っ張っていきます。

組踊り 文化庁サイトから引用

 玉城朝薫が作った作品のうち、特に傑作とされる5つの演目は「朝薫の五番」と呼ばれ、現在でも繰り返し上演されています。この作品は、大きく2つのジャンルに分かれます。ジャンルの主な演目特徴ですが、ストーリー仇討物の『二童敵討』、そして『護佐丸仇討』という親を殺された子どもたちが、機転を利かせて見事に復讐を果たす、忠義と勇気の物語です。日本の「曾我兄弟の仇討ち」などの影響を受けているようです。

『執心鐘入』、『銘苅子』、『女物狂』など人間の愛憎や親子の情愛を描いた人間ドラマもあります。『執心鐘入』は、能の『道成寺』をベースに、恋い慕う男に拒絶された女が「鬼女」へと変貌する、組踊屈指のホラー・サスペンス傑作となっています。

 では、なぜ「男性」だけで演じられたのか?歌舞伎などと同様に、琉球王国の組踊もすべて士族の青年たちによって演じられていました。当時は「公の場で女性が踊ること」が禁じられていたため、女性の役も美しい声と容姿を持った若い男性士族が演じていました。彼らは王府の役人でありながら、外交のために厳しい稽古を重ねた「国家公務員の芸術家」だったのです。

 薩摩の侵攻後、主権を制限されていた琉球王国ですが、組踊という芸能を通じて中国の使者、そして日本に伝えたかったのは、「自分達は武力は小さくとも、これほど高い精神性と礼節、そして豊かな文化を持った誇り高き民である」という強いメッセージを伝えたのです。悲劇的な状況の中でも、決して野蛮に流れず、美を極めることで国を守ろうとした琉球人の智慧とプライドが、この「組踊」という結晶の中に今も息づいているといえましょう。

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なぜ琉球がアジアのハブになれたのか?

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琉球がこれほど栄えた理由は、大きく3つあります。第一は、地理的優位性です。琉球諸島は、日本本土、中国大陸、台湾、そして東南アジアを結ぶ海のルートのちょうど要石に位置しています。季節風を利用して南下・北上する帆船にとって、絶好の寄港地だったのです。第二は、平和外交への徹底です。琉球は強力な軍隊を持たない代わりに、全方位に礼を尽くす外交を展開したことです。独自の外交文書集である『歴代宝案』には、東南アジアの国々と交わした平和的な交易の記録が克明に残されています。第三は、万国津梁という精神です。首里城正殿に掛けられていた有名な「万国津梁の鐘」には、次のような言葉が刻まれています。「琉琉球国は南海の恵まれた場所にあり、韓国、中国、日本の間にある。船を操って万国の架け橋となり、異国の産物が国中に満ち溢れている。」

(冊封使と尚王との会見 AIによる作成)

 やがて、大交易時代の終焉16世紀後半になると、琉球の中継貿易は徐々に衰退へと向かいます。原因は、ポルトガルやスペインなどヨーロッパ勢力の東アジア進出、中国(明)の海禁政策の緩和による民間貿易の活発化、そして日本国内の政情の変化でした。琉球が独占していた「独占的なハブ」としての価値が薄れていったのです。そして1609年、薩摩藩による琉球侵攻を受け、王国は日本の支配下に組み込まれつつ、中国との朝貢貿易も継続するという「二重支配」の歴史へと移り変わっていくことになります。

 1609年に薩摩藩の島津氏が軍勢を率いて琉球に侵攻した際、琉球王国は激しい抵抗の末に降伏しました。これ以降、琉球は「薩摩藩」の支配下に置かれながらも、表面上は独立国家として明、のちに清との朝貢関係を続けるという、世界史的にも極めてユニークな「日中両属」の時代を生き抜くことになります。この複雑な状況下で、琉球がどのようにして王国を維持し、生存を図ったのかです。まず前提として、この二重支配は琉球の意志だけでなく、支配する側の薩摩藩や江戸幕府の強い意向によって作られたシステムでありました。当時、徳川幕府と明・清の間に国交はなかったのですが、中国の高級な生糸や漢方薬などの物資は、日本にとってどうしても必要なものでした。

(薩摩藩が首里城へ AIによる作成)

 そこで薩摩藩と幕府は、「琉球を独立国家のままにしておき、中国と朝貢貿易を続けさせ、その利益を薩摩が吸い上げる」という戦略に変わるのでした。これが成立するためには、「琉球が日本の支配下にあることを中国に絶対に知られてはならない」という絶対条件がありました。もし知られれば、中国は激怒して朝貢貿易をストップさせてしまうからです。

 琉球を独立国家としておくためには、徹底された隠蔽工作が必要でした。中国の使者である冊封使が新しい琉球国王を任命するために首里城へやってくる際、琉球と薩摩藩は総力を挙げて日本色を隠し通したのです。例えば、普段は那覇に駐在している琉球在番奉行などの薩摩の役人は、中国の使者が滞在している間、本島北部の山奥や離島へ完全に身を隠したのです。さらに、那覇や首里の街から、日本の元号が書かれた文書、日本の書籍、日本風の衣服や髪型、さらには日本の寛永通宝など貨幣に至るまで、日本を連想させるものを一切撤去し禁止するという徹底さでありました。

 薩摩藩から琉球へ出す命令書も、中国の使者に見つかるリスクを考慮し、慶長や寛永などの年号ではなく、あえて干支で日付を記載する徹底ぶりでした。琉球国は日本の支配を受けつつも、中国の前では「自分らは独立した琉球王国である」という芝居を完璧に演じ続けたのです。こうして「偽装」を徹底したのです。

 琉球存続のために、琉球の政治家や知識人たちは、ただ利用されるだけでなく、日本にとって『独自の異国』であり続けることこそが、王国の滅亡を防ぐ唯一の道であると見抜いていました。もし琉球が完全に薩摩化してしまえば、中国との貿易資格を失い、薩摩藩のただの島々として完全に吸収されて王統も途絶えてしまうと恐れたのです。そのため、琉球はあえて「中国風の文化や独自の礼節」をより洗練させる道を選んだのです。

 17世紀後半から18世紀にかけて、摂政として活躍した羽地朝秀や蔡温らは、国家の地盤を固める改革を行いました。羽地は、薩摩藩の支配下で財政難と社会の混乱に陥っていた王国を立て直すため、初の正史「中山世鑑」を編纂し、王国の正統性を明文化するのです。同時に綱紀粛正と産業振興を目指す改革「羽地仕置」を断行したのです。 蔡温は、18世紀の琉球王国で三司官、現在の首相に相当する者として活躍した政治家で学者でした。中国の風水や儒教を取り入れた実学を駆使して、治水事業や農政や林政の改革を行い、王府の財政再建と琉球王国の近代化の基礎を築いたといわれます。

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琉球王国の繁栄

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琉球王国が15世紀から16世紀にかけて展開した大交易時代は、東アジアから東南アジアにまたがる壮大な海商ネットワーク時代といえそうです。小さな島国でありながら、なぜそれほどの国際貿易を展開できたのか、その歴史と仕組みは興味深いものがあります。

((AI作成)

大交易時代を支えた「中継貿易」の仕組み
琉球王国の貿易は、自国の産物を売るのではなく、ある国で仕入れた商品を、別の国へ運んで売るという中継貿易でした。その基本構造は、中国の明を中心とした冊封体制と朝貢貿易を巧みに利用したのです。

 琉球王国が明朝からの破格の優遇を受けていた当時、明朝は「海禁」という政策をとり、民間人の海外渡航や貿易を厳しく制限していました。外国が中国と取引するには、明の皇帝に貢ぎ物を届けて臣下としての礼をとる朝貢貿易しか認められていなかったのです。琉球はこの朝貢を熱心に行い、明から他のどの国よりも破格の優遇措置を勝ち取ったのです。

 他国が数年に1回と制限される中、琉球は1年に1回、時にはそれ以上の朝貢が許されました。明の皇帝から、進貢船として航海に耐えうる頑丈な大型木造船を何度も無償で与えられたといわれます。それによって、福建省から造船や航海、外交文書作成に長けた専門家集団ができるのです。それが後に「久米三十六姓」と呼ばれる人々が琉球に移住し、貿易のインフラを支えたのです。久米三十六姓とは、1392年に明の洪武帝によって琉球王国に派遣された、職能集団およびその子孫の総称です。琉球の外交、貿易、学問、文化の発展に計り知れない貢献をした人々であり、現在の沖縄県の歴史を語る上で欠かせない重要な存在といわれています。現在も「久米」という地名が那覇の中心部に残っています。

(AI作成)

具体的に何をどこへ運んでいたのか?
 琉球は、中国から得た特権をフルに活用し、日本、朝鮮、そしてタイ、マレーシア、インドネシアなど東南アジアをダイナミックに結びつけました。シャム、マラッカなどへ:中国から仕入れた高級生糸、絹織物、陶磁器、大量の古銭を運び、現地で高く売却したのです。東南アジアから持ち帰ったもの:薬用や高価な香水となる香木、染料や薬材になる蘇木、胡椒などを仕入れました。

 東南アジアで仕入れた香料や胡椒、中国の生糸を日本や朝鮮に持ち込み、代わりに刀剣、銅、銀、硫黄を手に入れたのです。琉球の活火山である硫黄鳥島で採れる硫黄も重要な交易品であり、それを再び中国への朝貢品として納めたのです。硫黄鳥島は、徳之島の西約65 km、久米島の北東約200 kmの東シナ海に位置し、1959年の噴火により硫黄採掘従事者は島外へ移住し、今は無人島となっています。

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琉球と沖縄の違い

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7年余り私と家族が暮らした「琉球」にはいろいろな思い入れがあります。2026年6月に次女と孫娘とで短い琉球滞在を楽しみました。完成間近な王朝正殿にも立ち寄りました。

「琉球」と「沖縄」は、どちらも同じ南西諸島の地域を指す言葉です。その使い分けは、歴史や文化的な文脈で使われるか、現在のような行政や地理的な文脈で使われるかで大きな違いがあります。琉球の範囲ですが、現在の沖縄県だけでなく、鹿児島県の奄美群島までを含む「琉球弧」という広い地理的・文化的広がりを指すこともあります。

琉球とは?
 琉球は、主に明治時代より前に、この地域に存在した「琉球王国」やその独自の歴史・文化を指すときに使われます。琉球の歴史的背景ですが、1429年から1879年までの約450年間、日本とは異なる独立した王国、琉球王国でありました。その頃、中国や薩摩藩、東南アジア諸国と独自の交易を行っていたのです。そのために、中国の明や清、東南アジアの影響を強く受け、 混ぜ合わせといわれるチャンプルーという独自の文化が発展したのです。そんなわけでジーマーミ豆腐やゴーヤを混ぜた一品「豆腐チャンプルー」を思い出します。

 2019年の火災で焼失し、再建中の首里城正殿など、独自の建築様式があります。全体を彩る桐油や漆塗りの鮮やかな赤の色彩や、屋根の装飾、細部の木組みなどは、紫禁城など中国の宮殿の様式を強く受けています。中国の使者をもてなすために発達した琉球舞踊や宮廷料理である琉球料理も独特です。独自の鮮やかな染物である紅型や琉球漆器も名産物となっています。2026年9月17日、正殿および両廊下の漆塗装がすべて完了し、鮮やかな赤く輝く姿が公開されました。一般公開は11月23日から始まります。

沖縄とは?
 沖縄は、1879年の「琉球処分」によって日本の都道府県、沖縄県になって以降、現在の日本の自治体、地理、現代文化を指す言葉として使われます。明治以降、日本の沖縄県となり、太平洋戦争での壮絶な地上戦、戦後27年間に及ぶ米軍統治を経て、1972年5月15日に日本へ復帰しました。

 沖縄の現代の文化の特徴ですが、伝統的な琉球文化をベースにしながらも、大正・昭和以降の日本本土の文化、そして戦後の米軍統治下で流入したステーキ、タコライス、ポーク缶詰などアメリカの文化が融合しました、独自の現代文化を持っているのです。本島北部や周りの島々は、世界有数の透明度を誇る美しい海とサンゴ礁で囲まれ観光地としての魅力を放っています。三線を取り入れた現代音沖縄ポップスや、活気あるエイサーも沖縄を代表する芸能となっています。

 伝統的な織物や芸能を語る時は「琉球絣(かすり)」「琉球舞踊」と呼び、現在のリゾート地や県産品を指す時は「沖縄の海」「沖縄そば」と呼ぶように、人々は無意識のうちに歴史的な誇りや伝統には琉球という名称を、親しみやすい現在の地域には沖縄というように両方を使い分けています。

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二人の王様のユーモアと風刺のジャブ

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国王即位後、チャール国王の初めてのアメリカ訪問は、多くのアメリカ国民に感銘を与えたようです。上下両院での演説は単なる外交辞令ではなく、今の世界の諸々の課題に共に勇気を持って立ち向かおうとする気概やエスプリが込められていたのです。演説の途中、何度も議員らが敬意や感動、そして称賛の意を表すために立ち上がって拍手を送る姿がありました。

 議員の総立ちにより演説は一時途絶えますが、その間議員らは、今混乱するアメリカの施政について、もう一人のキングに対する疑惑や反感を考えたに違いありません。このキングは、議会における演説では決して民主党議員から総立ちの賞賛を受けたことがなかったのです。共和党議員ですら総立ちになって拍手するのですから、キングは歯ぎしりをしたはずです。

Charles III

 演説中、チャール国王はこのもう一人のキングの名前は出しませんでした。それが相手に対する国王としての矜持と礼儀だったからです。外交では批判する相手を名指しすることはありません。しかし、議員達は、チャール国王の演説の文脈に、数々の荒々しい発言を繰り返すもう一人のキング、ドナルド・トランプ大統領を容易に想像できたのです。

 チャール国王の演説草稿は、もとはといえば歴史学者ともいえそうなスピーチライターが国王と相談して起草したものと思われます。聴衆の心に響くストーリーを構成し演出するため、過去のイギリスとアメリカの関係について考証し、事実に基づいて起草したことが伺えます。

 歴史上、イギリスと植民地であったアメリカはいわば兄弟のような関係がありました。1760年代のイギリスはジョージ3世の施政下にありました。彼は絶対的な主権を維持し、植民地に対して一貫して強硬な為政をしいていきます。彼は、「植民地は本国に従属すべきもの」という信念を持っていました。植民地への「重商主義政策」と、それに伴う「課税強化」です。それに対して植民地側は和解の嘆願をを送ります。ジョージ3世はそれを拒絶し、彼らを「反逆者」と断定するのです。

 1700年代のアメリカ大陸におけるイギリスとフランスの覇権争いは、「北米植民地戦争」と呼ばれます。ヨーロッパ本国での戦争と連動して何度も衝突を繰り返しましたが、最終的にはイギリスの圧倒的な勝利で幕を閉じました。ジョージ3世は対話よりも軍事力を優先し、ドイツから傭兵を雇い入れてまで植民地の施政に介入します。この強硬姿勢が、それまで国王個人を敬愛していた植民地の人々に「国王は暴君である」と認識させ、独立宣言へと突き動かす一因となっていきます。

 ホワイトハウスでの晩餐会で、二人のキングが交わしたウイットに富むジョークも話題となっています。それは、ダボス国際会議でトランプ大統領が、「第二次大戦で、アメリカがなかったならば、欧州諸国はドイツ語を使っていただろう」という演説に対するものでした。チャール国王はそれに言及して「あえて申し上げれば、イギリスがなかったならば、皆さんはフランス語を話していただろう」と植民地戦争で、フランスの影響力を払拭させたのを遠回しに言ったユーモアだったのです。

 今回のチャールズ国王の訪米は、相手への節度ある賞賛を交えながら、イギリスの立場をしなやかに示した機会となったようです。それが議会での演説であり、晩餐会での答礼スピーチに示されています。

Two kings exchange jab of humor and satire.

King Charles’ first visit to the United States since his accession to the throne seems to have impressed many Americans. His speeches to both houses of Congress were not merely diplomatic formalities, but imbued with a spirit and determination to bravely confront the various challenges facing the world today. Throughout his speeches, members of Congress repeatedly rose to their feet and applauded, expressing their respect, admiration, and praise.

The speeches were temporarily interrupted by the standing ovations, during which the members of Congress must have been contemplating the current turmoil in American governance and their suspicions and resentment towards another king. This king had never received such a standing ovation from Democratic members of Congress during his speeches.Even Republican lawmakers rose to their feet and applauded, so he must have been gnashing his teeth.

During his speeches, King Charles did not mention the name of this other king. This was a matter of royal pride and courtesy. In diplomacy, one does not name the target of criticism. However, in the context of King Charles’ speeches, the members of Congress could easily imagine the other king, President Trump, who has made numerous harsh remarks.

King Charles’ speech draft was originally written in consultation with the king by a speechwriter who could be described as a historian. It appears that the speech was based on a thorough examination of past British-American relations, in order to construct and present a story that would resonate with the audience.

Historically, Britain and its colonies, America, had a relationship akin to brotherhood. In the 1760s, Britain was under the rule of George III. He maintained absolute sovereignty and consistently imposed a hardline policy on the colonies. He held the belief that “colonies should be subordinate to the mother country.” This manifested as “mercantilism” and the accompanying “increased taxation” of the colonies. The colonies sent petitions for reconciliation, but George III rejected them, declaring them “rebels.”

The struggle for hegemony between Britain and France in the Americas in the 1700s is known as the “North American Colonial Wars.” These conflicts, linked to wars in Europe, involved repeated clashes but ultimately ended in an overwhelming British victory. King George III prioritized military force over dialogue, even hiring mercenaries from Germany to intervene in colonial administration. This hardline stance led the colonists, who had previously revered the king personally, to perceive him as a tyrant, contributing to the Declaration of Independence.

A witty joke exchanged between the two kings at a White House dinner has become a topic of discussion. It was in response to President Trump’s speech at the Davos conference, where he stated that “if America hadn’t existed in World War II, European countries would have spoken German.” King Charles responded by saying, “If I may say so, if Britain hadn’t existed, you would all have spoken French,” a humorous indirect reference to Britain’s role in eliminating French influence during the colonial wars.

King Charles’s recent visit to the United States appears to have been an opportunity to subtly demonstrate Britain’s position while offering respectful praise to the other side. This is evident in his speeches to Parliament and his reciprocal speech at the dinner in the White House.

福沢諭吉の西郷隆盛観

注目

西郷隆盛は、幕末から明治維新にかけての日本史において、最もカリスマ的であり、かつ評価が分かれる人物の一人といわれます。彼に対する評価は多面的で、時代や立場によって大きく異なるようです。近代日本を築いた立役者として、維新の英雄として高く評価されています。軍事面での功績: 薩長同盟の締結、王政復古の大号令、そして江戸城無血開城など、決定的な場面で歴史に立ち会っています。

 江戸城無血開城は、後に明治新政府軍となる東征軍と旧幕府との間で行われた一連の交渉過程と江戸城の新政府への引き渡しのことです。徳川宗家の本拠であった江戸城が、同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから明治新政府軍の勢力が一層増すのです。戊辰戦争が新政府側に一気に優勢となる転機となった出来事です。幕府の使者山岡鉄舟の要請に応じた大総督府下参謀の西郷は彼との交渉に応じます。ここで初めて、東征軍から徳川家へ開戦回避に向けた条件提示がなされます。山岡の下交渉を受けて、陸軍総裁であった勝海舟と西郷との江戸開城交渉は、田町にあった薩摩藩江戸藩邸にて行われました。徳川慶喜は江戸城を退出して上野寛永寺で謹慎します。1868年4月、江戸城が東征軍に明け渡され 5月に慶喜は寛永寺から水戸へ隠遁するのです。

西郷隆盛と勝海舟

 特に江戸城無血開城は、戦火による無益な殺生を避けた慈悲深い決断として、今なお高く評価されています。「敬天愛人(天を敬い、人を愛する)」の精神を掲げ、地位や名誉に執着しない姿勢は、多くの人々に尊敬の念を抱かせています。明治政府において廃藩置県をはじめとする重要な改革を主導し、近代国家の基礎作りに貢献しました。

 しかし、明治政府から離脱し、西南戦争の指導者となったことで、別の側面からも評価されています。明治政府の急速な近代化や士族の困窮に対して、政府を去った後の彼は、いわば「時代の抵抗者」としての性格を強めました。西南戦争で敗死したことで、権力から脱落した悲劇の英雄というイメージが定着しました。にもかかわらず敵対した勝海舟でさえ「怖い」と評したほどの圧倒的な存在感や人間的魅力は、多くの弟子や従者を引きつけました。彼が故郷の鹿児島に開いた「私学校」は、彼を慕う多くの若者たちの拠点となりました。

 福澤諭吉の西郷観は興味あります。彼の著書の一つに「丁丑公論(ていちゅうこうろん)」があります。この本は西南戦争で明治新政府に反抗した西郷隆盛を弁護する内容となっています。序論において、福澤は政府が専制になるのは当然の事とし、これに「抵抗する精神」の重要性を説くのです。さらに、「今、西郷氏は政府に抗するに武力を用いたる者にて、余輩の考とは少しく趣を殊にするところあれども、結局その精神に至ては間然すべきものなし」、つまり西郷隆盛は武力で政府に抵抗した点で、自分とは考えが異なるが、その抵抗の精神においては非難すべきものはないと述べて、武力で政府に反抗した点は評価しないにしても、西郷隆盛の「抵抗の精神」を賞賛するのです。

 また、政府が西郷の官位を剥奪した途端に、新聞が一斉に非難を始めたことに対して、「新聞記者は政府の飼犬に似たり」と述べて、新聞の論調が誹謗中傷の一色になったことと、それに迎合する世論に対して反論していくのです。さらに、「そもそも西郷は生涯に政府の顛覆を企てたること二度にして、初には成りて後には敗したる者なり」、すなわち「西郷は生涯に政府の転覆を2度企てて、最初の明治維新は成功し、2度目の西南戦争では失敗した者である」として、西郷を明治維新の功労者であり忠臣として賞賛します。同時に西南戦争の首謀者であって逆賊として非難することは、ダブルスタンダードであると非難するのです。彼の死後、明治政府は彼を逆賊から「正三位」という高位へと名誉回復せざるを得ませんでした。

 最期に、「西郷は天下の人物なり。日本狭しといえども、国法厳なりといえども、豈(あに)一人を容るるに余地なからんや」、すなわち「西郷は偉大な人物である。国の法がいかに激しいものであっても一人の人物を受け入れる余地はなかったのか」と述べて、西郷の人物を惜しみます。いつかこの人物を明治政府の要人として起用する時もあったはずであると結んでいます

参考文献
 ・丁丑公論 福沢諭吉 時事新報社 1901年

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勝海舟と国民国家思想

注目

勝海舟のことです。幕府は洋式海軍をおこすべく正式にオランダに海軍教師団の派遣を要請します。やがて1857年に教師団がやってきます。その団長がウイレム・ホイセン・カッテンディーケ(Willem Huijssen van Kattendijke)と言う中佐でした。カッテンディーケは、徳川幕府が発注した軍艦ヤーパン号、後の咸臨丸を長崎に回航した武官です。幕府が開いた長崎海軍伝習所の第2次教官となります。彼の貢献は、勝海舟、榎本武揚などの幕臣に、航海術・砲術・測量術など近代海軍教育を精力的に行ったことです。

ウイレム・ホイセン・カッテンディーケ

 勝は既に江戸でオランダ語を学んでいました。幕臣とともに、カッテンディーケの生徒として勝も選ばれるのです。若い海軍士官のカッテンディーケの回想路によれば、勝はオランダ語を非常によく理解し、そして聡明な人間であり、さらには真の革新派の闘士というように非常に強い言葉でほめています。勝は、オランダの憲法を学ぶ機会に浴し、オランダの市民国家思想を学んでいきます。

 日米修好通商条約批准のため、1860年に幕府から遣米使節団がおくられることになります。使節団は米国海軍フリゲート艦のポーハタン号(Pawhatan)に搭乗して太平洋を横断することなります。勝はこれとは別に、日本の国威のために、日本人の操船による随行艦を派遣すべきだと運動し、長崎時代の練習船咸臨丸の艦長として勝は太平洋を横断することになります。

彼がアメリカで最も衝撃を受け、深く学んだのは技術的なことよりも、むしろ「社会の仕組み」や「民主主義」のあり方でした。彼はアメリカから戻り、老中に呼ばれます。そして「アメリカと日本はどういうところが違うのか」と問われます。勝は「アメリカは日本と違って偉い人が上にいます」と答えるのです。老中らの苦虫を噛む姿が浮かびます。日本では徳川将軍家のような家柄が絶対視される時代でした。ジョージ・ワシントンの子孫のことを聞くと、アメリカでは初代大統領の子孫であっても特別扱いはされず、一市民として生活していることを知るのです。この事実に勝は「身分よりも実力や個人の自立が優先される社会」の有りようを強く意識したようです。「徳川家という私的な組織」が日本を支配している状態から勝はアメリカを視察して、政治は「日本全体」、「公」のためにあるべきと考えていくのです。

戊辰戦争での薩摩軍兵士

 勝は幕府の家臣でありながら、「幕府を守る」ことよりも「日本という国を守る」ことを優先しました。彼の最大の功績は、1868年の戊辰戦争において、官軍の西郷隆盛と会談し、江戸無血開城を実現させたことです。戊辰戦争とは慶応4年1868年から1869年にかけて、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中核とする新政府軍と、旧幕府陸軍・幕府海軍が戦った日本近代史上最大の内戦と呼ばれます。新政府軍が勝利し、国内に他の交戦団体が消滅していきます。この内戦において、欧米などの諸外国は局外中立の立場であったが、フランスのレオン・ロッシュ公使(Léon Roches)などが個人的に旧幕府側を支援していました。

 勝は諸藩が対立する中で、幕府・朝廷・諸藩が統一して欧米列強に対抗すべきであるという「公議政体論」に近い考えを持っていたといわれます。彼のこの広い視野に、敵対していた坂本龍馬や西郷隆盛らが勝に心酔したのは、敵味方の垣根を超えた「橋渡し役」として役割を果たしたからでしょう。勝は維新後も参議、海軍卿として、後の海軍大臣などを歴任しました。

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勝海舟と西郷隆盛との対比

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司馬遼太郎からみた小栗上野介の勝海舟と西郷隆盛との対比は興味あることです。司馬は、勝海舟を「時代を泳ぐ政治家・策士」とするなら、小栗は「実務を積み上げる技術者・構築者」であったと評します。司馬は勝の柔軟さを認めつつも、実務能力では小栗が圧倒していたとみています。次に、西郷隆盛との対比です。西郷を「情緒と徳の人」とするなら、小栗は「論理と数理の人」と評価します。明治新政府が西郷的な情緒を削ぎとり、小栗的な官僚機構へ移行していく過程を司馬は冷静に記述しています。司馬にとって小栗上野介は、「不運にも時代に殺されたが、近代化の構想という魂は後の日本を支配し続けた人物」という、非常に敬意を払う描き方をしています。

勝海舟

 1860年の万延元年に小栗は遣米使節団に加わります。日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府が派遣した使節団の「目付」いわゆる監察役としてです。当時のアメリカ大統領ブキャナン(James Buchanan)への謁見や、造船所・工場などの視察を通じて、身分制度に縛られない実力主義や、効率的な経済システム、軍事組織のあり方を深く学びます。帰国した小栗は、外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行といった要職を歴任し、破綻寸前の幕府財政を支えながら、猛スピードで近代化を推し進めました。

 小栗の最大の功績は、日本近代工業の礎となる「横須賀製鉄所」の建設です。フランスの支援を得て、現在の横須賀海軍施設内に「横須賀製鉄所」、後の横須賀造船所を建設したことです。単なる造船所ではなく、ボルト・ナットの製造から金属加工までを行う「工場の工場」を目指したのです。日本で初めて「就業時間」、「賃金制度」、「洋式簿記」などを導入し、近代的なマネジメントを確立したといわれます。

西郷隆盛

 小栗は、株式会社の先駆けとなる「兵庫商社」を設立し、貿易の活性化を図りました。兵庫商社は、幕府の主導により、大坂や兵庫の商人の出資によって設立されました。構成員には、三井のほか、大坂の有力商人の鴻池や加島屋、兵庫からは酒造業者が名を連ねました。小栗は提案書で初めて「商社」という言葉を使ったといわれます。郵便制度、電信、鉄道の設置も提言し、先見の明があったことがわかります。これらは後に明治政府によって実現されました。

 軍制改革と教育面でも小栗は活躍します。すなわち、幕府軍の近代化のため、フランス軍事顧問団を招へいします。外交官や技術者を育成するため、幕末の1865年、慶応元年に横浜仏語伝習所というフランス語学校が開設されます。日本初の官立フランス語学校です。幕臣の子弟を中心に選抜された精鋭たちが集まりました。フランス語の習得はもちろん、西洋の諸科学や文化も教えられていました。この伝習所からは、近代日本哲学の父、西周や法学者の津田真道が育っていきます。ここで学んだ若者やフランス学の伝統は、後の明治政府における司法制度の確立に貢献します。

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ポトマック川の五色桜

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今ワシントンD.C.のポトマック川の五色桜は満開です。もともと五色桜は、現在の東京都足立区の荒川堤に植えられていた桜の総称です。明治時代、ソメイヨシノだけでなく、多種多様な里桜が約78種類も植えられ、その多様な色彩から「荒川の五色桜」として世界的に有名になりました。1912年に日本からワシントンD.C.へ贈られた3,000本の桜の多くは、この荒川堤の苗木から育てられたものでした。

 しかし、本家である日本の五色桜は、その後の不幸な歴史によって絶滅の危機に瀕します。その理由は、工場の排煙や都市開発による環境悪化、荒川の改修工事に伴う伐採、そして第二次世界大戦による被害によります。これにより、東京の五色桜はほとんどが失われてしまいました。

 戦後、かつての美しい五色桜を復活させようという動きが日本で起こりましたが、すでに日本国内には元々の品種が揃っていませんでした。そこで、ワシントンに贈った桜が、当時の血統を保ったまま元気に育っていることに着目し、ワシントンから枝を分けてもらうことになったのです。1952年に荒川堤の改修を機に、初めてワシントンから枝が贈られました。1981年には「レーガン桜」として、さらに大規模な里帰りが行われ、足立区などに植樹されました。

 真珠湾攻撃後の戦時中、ワシントンでは日本への敵対心から桜が数本切り倒される事件が起きました。さらに「桜をすべて引き抜いてしまえ」という過激な意見も出たといいます。しかし、多くのアメリカ市民や関係者が「木に罪はない」「この桜は平和と友情の象徴である」として、桜を守り抜きました。戦時中は「日本の桜」と呼ぶ代わりに「東洋の桜」と呼び方を変えるなどの工夫をして、この美しい景観が維持されたのです。

The Goshikizakura (five-colored cherry blossoms) along the Potomac River in Washington D.C. are in full bloom. Originally, Goshikizakura was a general term for cherry trees planted along the Arakawa River embankment in what is now Adachi Ward, Tokyo. During the Meiji era, not only Somei Yoshino cherry trees but also approximately 78 varieties of other diverse village cherry trees were planted, and their diverse colors made them world-famous as “Arakawa’s Goshikizakura.” Many of the 3,000 cherry trees gifted from Japan to Washington D.C. in 1912 were grown from saplings along this Arakawa River embankment.

(住友林業グループより引用)

However, the original Goshikizakura in Japan faced extinction due to unfortunate circumstances. These included environmental degradation from factory emissions and urban development, felling during Arakawa River improvement work, and damage from World War II. As a result, almost all of Tokyo’s Goshikizakura were lost.

After the war, there was a movement in Japan to revive the beautiful Goshikizakura of yesteryear, but the original varieties were no longer available within Japan. Therefore, noticing that the cherry trees gifted to Washington were still thriving while maintaining their original lineage, it was decided to request branches from Washington. In 1952, during the renovation of the Arakawa River embankment, the first branches were gifted from Washington. In 1981, a larger-scale return of the trees, known as “Reagan Cherry Trees,” took place, with trees being planted in Adachi Ward and other areas.

During the war after the attack on Pearl Harbor, several cherry trees were cut down in Washington due to hostility towards Japan. There were even extreme calls to “uproot all the cherry trees.” However, many American citizens and those involved protected the trees, stating that “the trees are innocent” and “these cherry trees are symbols of peace and friendship.” During the war, efforts were made to preserve this beautiful landscape, such as changing the name from “Japanese cherry trees” to “Oriental cherry trees.”

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「知」の先人達

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江戸時代の末期の文久2年(1862年)に幕命でオランダへ留学し、西洋哲学を日本に紹介した最大の人物が西周です。オランダ最古のライデン大学(Universiteit Leiden)でシモン・フィッセリング(Simon Vissering) に法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学びます。現代の私たちが日常的に使っている多くの哲学用語の生みの親とも知られています。例えば、「哲学」「命題」「定義」「主観」「客観」「帰納」「演繹」「知識」「概念」「理性」「芸術」「科学」「技術」「心理学」「意識」といった訳語を作ったのも西です。西洋の概念を漢字で表現することで、日本人が西洋思想を深く理解するための土台を作りました。

ライデン大学

ライデン大学は、1575年にネーデルラント(オランダ)の指導者ウィレム1世(Willem I)によって設立されます。ヨーロッパでも最も古い大学の1つといわれます。ルネ・デカルト(René Descartes)、レンブラント(Rembrandt van Rijn)、フーゴー・グローティウス(Hugo Grotius)などを輩出しています。

中江兆民もまた岩倉使節団の一員としてフランスに渡り、フランス流の民主主義を日本に輸入しました。岩倉使節団は、明治維新期の明治4年から明治6年まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国の米欧12ヶ国に派遣された使節団です。岩倉具視を特命全権大使とし、首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成されました。その中の一人、中江兆民は「東洋のルソー」と呼ばれ、ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の『社会契約論』を翻訳し、それを『民約訳解』として出版し、自由民権運動の理論的支柱となります。

中江兆民

近代的な法律学を輸入した人物に穂積陳重がいます。彼はイギリスとドイツに留学し、日本の民法起草に携わりました。医学面では北里柴三郎がいます。ドイツ留学にしコッホ(Heinrich Robert Koch)に師事して、細菌学や血清療法を導入します。ペスト菌の発見や血清療法の確立など、日本の近代医学や公衆衛生を世界レベルに引き上げるのです。建築の分野に辰野金吾がいます。イギリスに留学しジョサイア・コンドル(Josiah Conder)に学び、後に赤レンガの東京駅などを設計した建築家です。科学の分野では高峰譲吉がイギリスに留学し化学工業の基礎を築き、アドレナリンを発見するのです。芸術の分野に黒田清輝がいます。フランスに留学し印象派の明るい作風を日本画壇に持ち込み、後に「洋画の父」と呼ばれるのです。

1867年のパリ万博は、当時の世界最新のテクノロジーや芸術、そして各国の文化が一堂に会した「文明の祭典」といわれました。日本にとっては、江戸幕府が公式に参加した最初の万博であり、日本文化が初めて西洋に本格的に紹介された歴史的なイベントとなります。パリ万博を視察した渋沢栄一は1867年から約1年半にわたってパリを中心にヨーロッパを歴訪します。この滞在は、後に「日本資本主義の父」と呼ばれる彼の基盤を築く決定的な体験となります。株式会社制度を学び、帰国後は第一国立銀行、現在のみずほ銀行など500以上の企業設立に関わります。日本の近代化には、信頼の拠点となる銀行が不可欠であると考えたのです。

渋沢は、経済活動だけでなく、社会福祉を向上する制度にも注目したようです。その例は、病院、孤児院、盲学校などの医療、福祉施設を視察し、「富は個人が独占するものではなく、社会に還元すべきもの」という考えを深めていきます。これが、彼が晩年に社会公共事業や教育に力を注ぐ原動力となったといわれます。 フランスにおいて、生活インフラと都市機能の発達を見聞します。例えばガス灯、鉄道、水道、郵便、そして最新の科学技術など、近代都市を支えるインフラを理解していくのです。

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日本近代化の先駆者達

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江戸末期から明治初期にかけて、多くの先覚者たちが、いわば命がけで海を渡りました。やがて彼らが持ち帰った「西洋の衝撃」は、停滞していた旧体制を打破し、近代国家の日本を形作る力強い原動力となっていきます。当時の交通機関の未発達な状況で、海外渡航は大変な苦労だったことが想像できます。それでも不安ながら大望を抱いた指導者らは、祖国日本の発展のために大きな期待をいだいて出発したに違いありません。

幕末の先駆者たちは、開国へと目覚めていきます。江戸幕府が派遣した使節団や密航に近い形で渡欧した若者たちは、やがて日本の「近代化」の種を蒔きに貢献していきます。その最たる人物は福澤諭吉です。幕府の遣欧使節団に加わりアメリカを見聞していきます。福沢は 帰国後、西洋の日常習慣や社会制度をわかりやすく解説した『西洋事情』を執筆し、ベストセラーとなります。慶應義塾の創設や「天は人の上に人を造らず…」で知られる『学問のすゝめ』を通じて、個人の独立自尊こそが国を強くすると説きました。

西洋事情

 1863年に長州藩から派遣された5人の若者たちは、密航同然でイギリスへ渡航します。帰国後は倒幕運動の中心となります。後に長州五傑と呼ばれたのが、井上馨、後の初代外務大臣、伊藤博文、後の初代内閣総理大臣、山尾庸三、後に「工学の父」と称され、工部省の設置に尽力、井上勝、後に「鉄道の父」と呼ばれ、日本の鉄道建設を指揮、そして遠藤謹助で後に造幣局長を務め、「造幣の父」と呼ばれます。当時はまだ江戸幕府による鎖国令の下、海外渡航は死罪に値する禁忌でしたが、彼らは密航という形でイギリスへ渡航したのです。

 長州五傑に続き、1865年に薩摩藩から密使としてイギリスへ送られた一行は総勢19名でした。森有礼は初代文部大臣となり、日本の近代教育制度を確立します。五代友厚は大阪経済の父と呼ばれ、大阪株式取引所などを設立します。寺島宗則は「電気通信の父」と呼ばれ、外交官としても活躍します。長澤鼎という人物は、 唯一日本に帰らず、カリフォルニアで「カリフォルニアのブドウ王」として成功するのです。忘れてはならない人物は新島襄です。長州五傑に先立つ1年前、1864年に函館からアメリカへ密航します。帰国後同志社大学を創設します。

 岩倉使節団は、1871年から約1年10ヶ月にわたって欧米諸国を視察します。明治政府の威信をかけた総勢100名を超える大規模な使節団といわれます。その一行の中の主要メンバーとして特命全権大使となったのが岩倉具視です。「維新の三傑」と呼ばれ、長州派のリーダーであった木戸孝允もいました。薩摩派のリーダーであった大久保利通も加わっています。帰国後は殖産興業を牽引した人物です。

不平等条約の風刺画

 この使節団には、現地で学ぶための留学生や各分野の専門家も多く同行しました。後に大日本帝国憲法の起草に参画した金子堅太郎、後に外務大臣や内大臣を歴任した牧野伸顕、そして日本初の女子国費留学生となる津田梅子です。当時彼女は6歳だったようです。長期間の米国生活を経て帰国後、日本の女子教育の遅れに衝撃を受けた彼女は、女子英学塾、現在の津田塾大学を創設し、女性の地位向上と高等教育に一生を捧げていきます。

 こうした使節団は、幕末に結ばれた不平等条約の改正を求めて交渉するのですが、国力不足のために改正は成りませんでした。それでも、政治、経済、教育、軍事、文化などあらゆる分野に直接触れて、日本を近代化するための知見を得て帰国します。

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貨幣論 その6  経済や財政上の用語

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少し専門的な分野の経済や財政にまつわる略語を説明します。テレビや新聞などのオールドメディア、SNSなどでの新興メディアでしばしば登場する財政上の略語です。財政均衡とか健全財政をうたい、増税を意図する財務省や与党や野党の一部の議員、積極財政というかけ声で、内需の拡大やデフレ回復を叫ぶ学者や議員の双方がしばしば使う略語を紹介します。

P.M.:Primary Balance
 プライマリー・バランスと呼ばれ「基礎的財政収支」と訳されています。税収や税外収入と、国債費(国債の返済や利子)を除く歳出との収支のことです。簡単に言うと、社会保障や公共事業などの政策的経費を税収などで賄えているかを示す指標です。財務省が使いたがる略語です。経済が不況で需要不足の状態の場合、基礎的財政収支の赤字を拡大する積極財政で民間部門に資金を供給して、経済を活性化する財政政策が求められるのです。今はそうした時期なのです。プライマリー・バランス黒字化目標を旗印に増税と緊縮財政に突き進む財務省への批判として、「ザイム真理教」とか「財務省、亡国論」と呼ぶ者が増えています。

MMT:Modern Monetary Theory
 MMTは現代貨幣理論と呼ばれています。この話題は既に前稿で取り上げています。通貨発行権を持つ国家は債務返済に充てる通貨を自在に創出できることから、「財源確保のための徴税は必要ではない」、「財政赤字で国は破綻しない」、「インフレにならない限り国債はいくら発行しても問題はない」と主張するのです。MMTはケインズ(John M. Keynes) 経済学の流れを汲むマクロ経済学理論のひとつで、「政府の財源は税と債券発行によって調達すべき」、「赤字拡大が続けば国は破綻する」という主流派経済学の見方に対抗しています。

BS: Balance Sheet
 貸借対照表と呼ばれています。ある時点における企業の資産状況を示す書類です。企業がどのくらいの資産を保有し、その財産を調達するためにどのくらいの負債を負い、どのくらいの純資産があるのかを表す財務諸表のことです。資産、負債、純資産の3つの要素で構成され、左側に借方として資産、右側に貸方として負債と純資産を記載します。銀行は企業に融資するとき、企業の貸借対照表を見て、企業の返済が可能かを判断します。大切な財務諸表といえます。決算に際して作成する決算書と財務諸表のひとつで、企業の保有資産と負債、純資産が表形式で示されています。

CEFP: Council on Economic and Fiscal Policy
 経済財政諮問会議の略語です。この諮問会議は、日本の内閣府に設置され重要政策に関する事案を協議します。この会議では、最終的に経済財政運営と改革の基本方針、いわゆる骨太の方針がとりまとめられ、予算方針に反映されます。会議の成員は、議長と10人以内の議員から成ります。民間有識者数を議員の4割以上確保することが法により定められています。ですが、議員の内2人は日本経団連幹部であり、経団連の利害が強く反映されているのではないかという批判があります。

FTA: Free Trade Agreement
 「自由貿易協定」と呼ばれるもので、2か国以上の特定の国・地域の間で、貿易自由化のために締結する協定のことを指します。自由貿易協定のメリットは「関税の軽減・免除」にあります。日本は’通商交渉ではWTO体制下の多国間主義に重きを置いていました。しかし、多国間主義の限界を認め、他国との競争条件を等しくするために、積極的な二国間・地域間交渉に乗り出さざるを得なくなりました。それまではFTAに対する取り組みは、欧米諸国と比較すると遅れていました。グローバル経済が拡大するなかで、日本がFTAを締結していないことで、海外ビジネスにおいて日本企業が不利益をこうむるケースも発生していました。そのような状況から、日本政府もFTAを推進する意識を強く持つことになります。FTAを相手国と締結することで、協定の内容および交渉によって、段階的な関税の軽減・免除ができるようになり、お互いのメリットを追求した貿易ができる可能性が高くなりました。
 ただし、FTAの協定内容によっては、従来は守られていた産業が衰退してしまったり、自国の特定産業が育たなくなってしまうデメリットもでてきます。その例は、アメリカやオーストラリアからの畜産物の輸入により、国内の酪農家が影響を受けたことです。

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貨幣論 その5 MMT(現代貨幣理論)とは

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現代貨幣理論(Modern Monetary Theory: MMT) の最も根本的な主張は「自国通貨を発行できる政府は、財政的に破綻することはない」という点です。このことを本稿では取り上げます。通貨主権国は財源の制約を受けないというMMTの核となる考え方は、日本やアメリカのように自国の通貨、すなわち日本なら円、アメリカならドルを発行できる国は、税収や国債発行に依存しなくても、必要であれば無制限に自国通貨を生み出すことができるという点です。

(角川書店より引用)

 従来の考え方、つまりこのブログのどこかで取り上げたザイム真理教が基盤とする考えによれば、政府は、税金や借金(国債)で資金を集めてからでないと支出できないとし、財源の制約があると主張します。他方MMTの考え方:政府は、支出することによって通貨(お金)を創造している、そのため、お金を調達する能力には制約がない、これにより、自国通貨建てで国債を発行している限り、債務不履行(デフォルト)は論理的にあり得ないと主張します。

 政府がいくらでもお金を生み出せると聞くと、「無制限に支出してよい」と誤解されがちですが、MMTはそうではありません。MMTは、財政支出の制約となるのは「財源(お金)」ではなく、「インフレ率」であると主張します。政府支出の限界、つまり政府が支出を拡大しすぎると、国内の人・モノ・設備などの実物的な資源が不足し始めます。インフレの発生とは、モノやサービスを生み出す力経済の供給能力の限界を超えて政府がお金を使いすぎると、需要が供給を大幅に上回り、物価が急激に上昇します。この現象はハイパーインフレといわれます。したがって、MMTは、「インフレ率が許容できない水準に達しない限り、財政赤字は問題ない」という立場をとります。

 次に、税の役割は「財源確保」ではないという立場です。MMTでは、税金の役割を以下のように捉えます。税の役割とは、政府の活動に必要な財源を調達することであり、民間からお金を回収し、インフレを抑制する役割があると主張します。政府の国債によって集めた資金を効率的に使うこと、インフレ率が目標内に収まる範囲で、完全雇用達成のために必要な支出を行うことが税の役割であるというのです。すなわち税金は、政府が市場からお金を吸い上げ、過剰な需要を減らして景気を調整するためのツールであると位置づけるのです。

(櫂歌書房より引用)

 MMTの観点から見ると、現在の日本経済は以下のようになります。巨額の国債に関しては、自国通貨建てであり、実質的な債務不履行リスクはないため、過度に心配する必要はないのです。日本の現状は、供給力に対して需要が不足する長期間のデフレにあり、インフレの心配がほぼない状況といわれます。MMTの政策への提言として、増税や緊縮財政は経済を冷やすため行うべきではなく、インフレ率が上がるまで、公共投資や国民への給付金などの積極的な財政赤字の拡大する財政出動をすべきであるという考え方です。

 高市政権は、現代貨幣理論に厳密に沿った政策をとっているかは分かりませんが、積極的な財政出動を公約に掲げ実行しつつあります。今回の衆議院議員選挙で自民党が大勝したのは、現代貨幣理論にそった「責任ある積極財政政策」を国民が支持した結果だと考えられます。

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貨幣論 その4 商品貨幣論とは

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商品貨幣論の論拠は、「お金の価値はもともと商品そのものの価値から生まれる」という考え方です。古典派経済学や一部の貨幣史研究で広く語られてきた説明です。本稿では商品がなぜ貨幣として考えられたか、その考えがなぜ論拠として不十分といわるかを整理します。

 商品貨幣論の根拠は、主に 歴史観や交換の理論、金属貨幣の存在から説明されます。要は物々交換から貨幣が生まれたという説明です。大昔は米と魚などで物々交換をしていました。しかし交換することは運搬や時間がかかり誠に不便でありました双方の欲求が一致しないと交換は成立しません。必そこに交換しやすい商品が媒介になるという状況になります。それが塩であったり貝であったりするのです。こうして、最終的に 金銀などが 自然に貨幣化するのです。

1923年発行のレンテンマルク硬貨

 金銀は保存性や希少性、そして分割可能で持ち運びやすいという特徴があり、商品として価値があるため貨幣になったと説明されました。金貨は金として価値があり、銀貨は銀として価値があるからです。アメリカの人類学者でデヴィッド・グレーバー(David Graeber)は、「負債論─貨幣と暴力の5000年」という著作のなかで、人類学研究では、純粋な物々交換社会はほぼ確認されていないと主張します。つまり、歴史的に多くの貨幣は国家の税制度と結びついて成立したというのが定説となっています。例えば国家が税を貨幣で支払わせるとか、国家が貨幣を発行することにより貨幣需要が生まれるという立て付けです。

 ところで現在の貨幣の大半は、銀行預金であり電子マネーであり中央銀行が発行する通貨です。これらの通貨は、商品価値を持たないのです。貨幣価値 ≠ 商品価値という式となります。その代わり、現代の多くの研究では貨幣 = 債務(I owe you: IOU)と考えられています。IOUは通常、債務を認める非公式の信用証書のことであり、 貨幣とは「誰かの支払い義務」ということになります。つまり、IOUとは、自分が相手に対して何か(お金、物品、サービス)を渡す義務があることを認める債務の承認であり、貸し手側から見れば、そのメモは「将来何かを受け取れる権利(債権)」ということです。私たちが銀行に預けている「預金」は、実態としては「銀行が預金者に対して発行したIOU」となります。通帳の数字は、銀行があなたに対して「あなたが求めた時に、いつでもその額の現金を支払う義務があります」と約束している証拠です。

 商品貨幣論には深刻な欠陥が指摘されています。その一つは、前述してきたように貨幣が交換手段を起源として生じたという歴史的な根拠がないことだといわれます。もっとも商品貨幣論には、紙幣がどうして貨幣として流通しうるのかを説明できないという見方があります。金貨や銀貨であれば賃金属片としての価値があるとはいえなくもないのですが、紙幣は紙片に過ぎず、その経済的価値はほぼないに等しいのです。一万円札の印刷代は20円といわれるほどです。そこで主流派経済学者は紙幣の存在を商品貨幣論によって説明するために、人々が紙幣に貨幣として価値があると信じているから、紙幣は貨幣として価値があるという論法を持ち出さざるをえなるのです。

 しかし、この論法は紙幣を貨幣として受け入れる々人々がいるからだ、ということを暗黙のうちに前提しています。商品貨幣論には貨幣が計算単位であることについて誤解があるようです。主流経済学の理論では、金貨などの賃金属片の価値は市場における交換によって定まり、それが価値の標準となり計算単位となると主張します。タバコ一箱を例にとりますと、市場における交換を通じてその価値が定まり、それが標準となり計算単位となればタバコ一箱でも貨幣になりうるというのが商品貨幣論です。

 市場には無数の商品があり取引されています。無数の交換レートが発生しうるというのが商品貨幣論です。しかし、現実の貨幣経済における取引はそのようになっていません。これは商品貨幣論が誤りであることを示しているのです。ちなみに、かつて金本位制という貨幣の価値を金の価値に固定することで安定させようとする時代がありました。紙幣の価値を金の保有量と結びつけ、銀行券をいつでも金と交換できることを保証する制度でした。しかし、日本は1931年12月に金本位制を停止し、金兌換がなくなりました。貨幣と金の交換価値は政治的な権威によって決定されたのです。市場が決めたのはありません。その後、1942年に日本銀行法によって管理通貨制度へ移行し、今日の通貨制度の基礎が作られました。商品貨幣論は消滅したといえます。

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貨幣論 その3 信用創造とは

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銀行がどのようにお金を作り出すか、という過程は私どもの直感とは少し異なるため、非常に興味深い話題です。一般的には「誰かが預けたお金を、銀行が別の人に貸し出している(又貸し)」と思われがちです。しかし、現代の貨幣論、特にイングランド銀行(Bank of England) などの中央銀行も認めている見解では、「貸し出しによって預金が生まれる」と考えます。これを「信用創造(credit creation)」と呼びます。

 信用創造のステップですが、銀行が私に融資をする際、金庫から現金を取り出して渡すわけではありません。私が銀行から100万円を借りる契約をすると、銀行は私の通帳に「1,000,000」と数字を書き込みます。キーボードの入力で済むのです。この瞬間、世の中に新しい預金というマネー、100万円が誕生します。銀行の貸借対照表には借方に資産として「貸付金」が、貸方に「預金」として同額計上されます。信用創造とは、銀行は元手となる現金を持っていなくても、借り手の「返済能力」という信用を担保に、記帳だけでお金を作り出せるのです。無からの創造という立て付けなのです。

(やさしい経済学と哲学から引用)

 市中銀行は無限にお金を作れるわけではありません。そこには一定のルールがあります。預金準備率という制約で、それが「準備預金制度」です。市中銀行は、預金の一定割合、例えば1%などを「準備預金」として中央銀行、日本なら日銀に預けなければならないという決まりがあります。これは中央銀行への預け入れと呼ばれます。この比率があるため、銀行が作り出せるお金の総額には理論上の上限が生じます。

 信用創造の連鎖は次にようになります。A銀行に100万円が預けられるとします。準備率が10%ならA銀行は10万円を日銀に預け、残り90万円をB会社に貸し出します。B会社がその90万円を支払いに使い、受け取った会社C会社がそれを乙銀行に預けるとしてます。乙銀行は9万円を日銀に預け、残り81万円を貸し出すという連鎖となります。このように、連鎖的に預金が膨らんでいくプロセスを指して「信用創造」と呼ぶこともあります。

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貨幣論 その2 インガムの貨幣論

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ケンブリッジ大学(University of Cambridge) の経済社会学者にジェフリー・インガム(Geoffrey Ingham)がいます。主著は 1996年論文「貨幣は社会関係(Money is a Social Relation)」と、2004年著書「貨幣の本質(The Nature of Money)」です。彼の貨幣論は、経済学・社会学・歴史学の学際的視点から貨幣の本質を根底から問い直すものといわれています。というのは、伝統的な商品価値としての貨幣論から訣別する先駆的な理論といわれるからです。その理由は以下のようなことです。

Geoffrey Ingham (ケンブリッジ大学から引用)

 インガムの貨幣論の出発点は、主流派とか新古典派と呼ばれる経済学への根本的批判から始まります。新古典派の貨幣論は、「物々交換」から貨幣が生まれたと説明します。孤立した個人が物々交換の不便を解消するために貨幣を自然発生的に生み出した、と説明します。インガムはこうした立場を歴史的根拠のない「神話」と断じます。人類学や歴史学の検証では、物々交換が貨幣に先行した社会は存在しないことを示しており、むしろ信用(credit )関係こそが貨幣より先に存在したと主張します。

 主流派経済学では貨幣は実物経済に対する「貨幣は中立的なヴェール」にすぎないと見なします。この意味は、「お金は交換の仲立ちをするだけの存在であり、お金の量を操作したところで、国全体の生産力や豊かさという本質は変わらない」というのです。「貨幣を中立的なヴェール」と宣明するのは、方法論的な出発点が物々交換モデルという虚構に基づいているからです。インガムはこれを否定し、貨幣は実物経済を根底から構造化する社会的力だと主張します。インガムの核心的な命題は、「貨幣とは、計算貨幣の単位によって表示された信用と負債の社会関係である」というのです。 貨幣は社会関係であると主張するのです。

 つまり、貨幣は「モノ(商品)」ではなく、人々の間の債権や債務の社会関係そのものと考えるのです。金貨であれ紙幣であれ、その物質的形態は本質ではなく、貨幣が「誰かが誰かに対して何かを支払う義務を負っている」という社会関係を体現していると考えるのです。現実の資本主義経済では、銀行による「信用創造(credit creation」こそが投資と生産を可能にし、貨幣は決して受動的な「ヴェール」ではなく、経済を能動的に形作る構造的な力だという主張です。

 インガムの理論は4つの基本要素からなります。第一は、計算貨幣(Money of Account)という最も根本的な概念です。インガムにとって、貨幣の最も根源的な機能は「計算単位(measure of value)」です。円、ドル、ポンドといった抽象的な価値の尺度が先にあり、その単位で表示された信用や負債が「貨幣」となるというのです。交換を可能にする「媒介手段」より、価値を計測し記録する「計算単位」こそが貨幣の本質だと強調します。これはメイナード・ケインズ(Maynard Keynes) が「貨幣の計算単位は貨幣理論の本源的概念だ」という洞察を継承したものといわれます。

 第二は、信用貨幣論(Credit Theory of Money)です。インガムは、アルフレッド・イネス(Alfred Mitchell-Innes)の貨幣の信用理論を発展させ、貨幣の発行とは負債の創造であり、銀行が貸出を行うとき、銀行の負債(預金)が新たに「創造」されると主張します。この考えは前述した信用創造とも呼ばれています。貨幣を受けとった者は「将来において財・サービスを受け取る権利」を得るのです。

 信用創造の一例を申し上げます。A銀行が100万円を借りたいというB会社に貸し出す際、手元の預金からB会社に又貸しするのではありません。単にB会社の口座に100万円と記帳するだけです。その記帳の瞬間に100万円という預金、すなわち貨幣が創造されるのです。B会社はそれによって収益を上げたとき、借りた額をA銀行に返済すると、100万円という貨幣は消滅するのです。言い換えれば預金通貨という貨幣は、民間銀行と民間企業との間に「信用ー負債」という社会関係が成立することで創造されるのです。その関係が終わると社会関係は解消されるのです。この関係では、100万円という札の束の交換という行為は全く存在しません。

(iLinkより引用)

 すべての貨幣は誰かの負債であります。そしてその「信用度」や「通用力」には階層があります。これは「負債のピラミッド(Debt pyramid)」と呼ばれます。ピラミッドの上に行くほど信用度が高く、決済の最終手段として機能します。ピラミッドの最上層は、政府や中央銀行が発行する貨幣です。紙幣、硬貨、および民間銀行が中央銀行に預けている「日銀当座預金(準備預金)」がピラミッドというわけです。日銀当座預金は、銀行などの金融機関が日本銀行に開設している原則、無利息の口座です。銀行間の決済、現金決済、および法定の準備預金を預け入れるために使用されます。

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