政治教育の意義 その1 教育基本法違反か

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文部科学省が沖縄での研修旅行の計画と実施に関して「教育基本法違反である」と認定したことが主要な新聞の論説やマスコミで議論を呼んでいます。

沖縄タイムスより引用

認定が妥当だと考える立場
 1) 学校が特定の政治的立場の運動に生徒を参加させたり、参加を推奨したりすることは教育の政治的中立性に反する。
 2) 辺野古移設は現在進行形の政治・政策論争であり、一方の立場だけを学ばせるのは問題である、教育基本法が求めるのは「自分で考える力」を養うことであって、特定の結論へ誘導することではない、

認定が妥当ではないと考える立場
 1) 平和学習や基地問題を現地で学ぶこと自体は教育活動として正当であり、社会問題について当事者や運動参加者から話を聞くことは珍しくない。文科省の判断が教育内容への政治的介入になりうる危険がある。
2) 教員が政府や官僚の介入によって社会問題を扱いにくくなる恐れがある。

 特に辺野古問題は政治的に対立が大きく、「どこまでが学習で、どこからが政治活動なのか」の線引きは容易ではありません。

 高校生に対する政治教育の推進は、単に知識を詰め込むことではなく、「社会の一員として自ら考え、主体的に判断し、行動する力」を育むことに本質があります。現在の教育現場では「政治的中立性」への配慮から具体的な議論が避けられがちであるという課題がありますが、専門家や文科省の手引き等は、以下の視点での学習の推進が重要であると指摘しています。次稿で取り上げます。

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政治教育の意義 平和教育と研修旅行

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文部科学省(以下文科省)は2026年5月22日、学校法人同志社に対し、同志社国際高校の研修旅行の事故について事前学習や内容が教育基本法に違反しているとして改善を求める通知を出しました。この事故は、2026年3月に同校の沖縄研修旅行中に辺野古沖で2隻の抗議船が転覆し、女子生徒1名と船長1名が亡くなった痛ましい事案です。

 文科省がこの研修旅行の計画と実施について、「教育基本法違反」と判断したことは、「妥当かどうか」です。それには事実認定と法解釈を分けて考える必要があります。

毎日新聞より引用

 教育基本法の第14条は「政治教育(主権者教育)」に関しての条項です。その第1項は、政治的教養の尊重を謳い、民主主義社会において、主権者となる子どもたちが社会や政治について正しく判断し、参加する力を育むための教養教育は重要視されています。第14条第2項は、政治的中立性の確保: 学校教育の場が、特定の政党の宣伝や主義主張に偏ることを防ぐための規定です。これにより、生徒の思想や良心の自由、教育の公平性が守られています。この二つの項目は、いずれも教育に携わる学校や教員が心掛けるべき方針です。政治の介入を許さないことが大事なのです。

 文科省は事故調査の結果を次のように指摘しています。
 ・安全管理や事前計画に重大な不備があった
 ・辺野古移設問題の学習について、反対運動側の見解に偏っていた
 ・過去の研修旅行資料に「座り込み」参加を呼びかける記述があった
 ・多面的・多角的な見解を十分提示していたことが確認できなかった

 研修旅行で学校側が危険な船に生徒を乗せ、しかも教師が同乗していなかったことは問題点です。しかし、文科省は研修内容そのものを教育基本法14条第2項、政治的中立性との関連で問題視しています。この通知については、大きく2つの見方があります。それを次回に触れることにします。

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給付付き税額控除とは その6 イギリスの社会保障給付制度

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主にイギリスで導入されている低所得者向けの総合的な社会保障給付制度がユニバーサル・クレジット(Universal Credit)です。バラバラだった6種類の福祉手当をオンライン申請で一本化し、「働くほど収入が増える仕組み、つまり就労インセンティブ」を重視している点が特徴です。

 イギリスでは、2013年から段階的に導入が進められている制度です。その具体的な仕組みと特徴は以下の通りです。
1) 制度の主な特徴6つの給付の一本化:
 これまで別々に管理されていた求職者手当、住宅手当、児童税額控除など6つの手当が「ユニバーサル・クレジット」として一つに統合されました。

参考資料: Office for National Statistics

2) 働く意欲の向上と貧困の罠の解消:
 従来は一定時間以上働くと給付金が大きく減額され、かえって手取りが減る「働くほど損をする」構造がありました。ユニバーサル・クレジットでは、収入が増えても給付金が段階的に減っていく仕組みを採用し、働くメリットが生まれるように設計されています。

3) オンラインによる単一窓口:
 原則としてデジタルでの申請と管理が行われ、所得状況に応じて月単位で給付額が自動調整されます。構成される手当基本となる基礎手当に加えて、扶養する子どもの数障害の有無や介護責任住宅費の状況に応じて加算が行われます。

 その他、カナダの制度は、勤労給付(Canada Workers Benefit, CWB)とかカナダ児童手当(Canada Child Benefit, CCB)があり、低所得勤労者や子育て家庭に対して、税額控除と現金給付を組み合わせた支援が行われています。フランスでは、活動手当(Prime d’activité)という働く低〜中所得者に対する給付付き税額控除的制度で、所得に応じて現金給付が行われています。

 日本の社会保障政策の議論においても、この制度はしばしば参考にされています。日本では生活保護や児童手当、就学援助など多くの制度が縦割りで存在しているため、これらを統合し簡素化して、マイナンバーなどを活用する確定申告によって個人の正確な所得資産を把握するなど、制度設計や実施方法を検討しつつあります。こうして以上のような海外制度を参考にして効率的かつ柔軟に給付を行おうとする「日本版ユニバーサル・クレジット構想」が一部の政治家や有識者から提唱されています。

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給付付き税額控除とは その5 アメリカの給付付き税額控除

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給付付き税額控除は、所得税の控除枠を使い切れない低所得層に対して、その差額を「現金給付」として支給する画期的な仕組みです。アメリカの他、税額控除を導入している国は多く、カナダ、イギリス、イタリア、オーストリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スウェーデン、フィンランド、ニュージーランド、韓国等、OECD加盟国で10か国以上にも及んでいます。税額控除は主に「就労促進」や「子育て支援」の文脈で導入されています。

 先行して導入している欧州諸国やアメリカで、勤労所得税額控除:Earned Income Tax Credit (EITC) の運用実績があります。格差是正や労働意欲の向上につながる制度に思えます。勤労所得税額控除とは、低・中所得の勤労者を対象とした「給付付き税額控除」制度です。所得増と貧困削減を目的とし、条件を満たせば税負担の軽減や現金給付を受けられます。

 同時にこの制度には、いくつかの深刻な実務上の問題点や課題も指摘されています。それを大きく分けると、以下の4つの問題点があります。

1) 不正受給と過誤支給:
 税額控除を適用するには「世帯所得」や「家族構成(子どもの同居要件など」を厳密に把握する必要がありますが、これを狙った不正や、制度の複雑さゆえの申請ミスが多発しています。これが現場での最大の悩みの種といわれます。
・所得の過少申告:  自営業者や現金手渡しで給与を受け取る層が、給付金を目当てに所得を低く申告するケース。
・世帯偽装:  給付率が最も有利になるよう、書類上だけで同居や別居のステータスを操作するケース。
・チェックの限界:  アメリカの事例では、支給された税額控除の約25〜30%近くが「適正ではない」というデータもあり、税務当局が短期間でこれらすべてを審査するのは物理的に困難とされています。

2) 制度の複雑化と「行政・申請コスト」の増大:
 公平性を追求して「子どもの数」「共働きかどうか」「資産の有無」など細かな適格要件を付け足していくと、制度がどんどん複雑化します。

 制度が複雑すぎて一般の人が自分で申請できず、有料の申告作成業者に頼まざるを得ない現象が起きています。代行業者の介入という問題です。結果として、「貧困層のための給付金の一部が、手続きの代行手数料として業者に吸い取られる」という本末転倒な事態も起きています。

 行政の縦割り問題もあります。税金を徴収する「税務官庁」と、生活困窮者を支える「社会保障官庁」が、お互いのデータをリアルタイムで連携し一致させるためのシステム構築に莫大なコストがかかります。

3) 就労インセンティブの「逆転現象」:
 この制度は通常、所得が増えるにつれて給付額がグラデーションで減っていくように設計されますが、設計が非常に繊細です。

 働くほど損をする壁があります。 所得が一定ラインを超えた瞬間に、給付金が急激に減額されたり、他の社会保障例えば、住宅手当などが打ち切られたりすると、「これ以上働くと手取りが減るから、労働時間を抑えよう」という貧困の罠といわれる就労抑制が働いてしまいます。

 ヨーロッパ諸国はこの「崖: cliff effect」をなだらかにするために、給付の減額率を緩やかにする工夫をしていますが、その分、今度は中所得層まで給付対象が広がってしまい、財政負担が膨らむというジレンマも抱えています。

4) 正確な「資産・所得の捕捉」という前提:
 ヨーロッパ諸国がこの制度を運用できているのは、国民一人ひとりに紐づいた確実なマイナンバー制度など共通番号制度と、金融口座や資産情報の網羅的な把握が完全に定着しているからです。

 給与所得だけでなく、隠れた金融資産がある人にまで給付が行き届いてしまっては不公平になります。そのため、利子や配当といったすべての所得を国が迅速かつ正確に把握できるインフラが不可欠であり、これが不十分な国ではスタートラインにすら立てないという難しさがあります。

 まとめると給付付き税額控除は「必要な人に過不足なく現金を届ける」という点では優れていますが、それを実現するための「捕捉の難しさ」、「不正の温床」、「行政事務の肥大化」という、非常に重い運用コストと背中合わせの制度であると言えます。

 日本の国会や選挙でもたびたび導入が議論されますが、上記のような「正確な資産把握」や「既存の生活保護制度との整合性」といったハードルが高く、いまだ慎重な姿勢が続いているのは、こうしたヨーロッパやアメリカの苦い教訓があるためです。

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給付付き税額控除とは その4 給付一本化

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現在進行中の国民会議と財務省との議論の落としどころについてです。既に述べてきたような懸念を踏まえ、国民会議や国会の場で財務省を含む政府側が提示している最新の設計図では、当初想定されていた複雑な仕組みをより簡素化する方向へ舵が切られています。

① 「減税」はせず、まずは「給付一本化」へ
 本来の給付付き税額控除は「税金から引き、引ききれない分を現金給付する」という2本立てですが、これを行うと税務署の計算が複雑になりすぎます。そのため、現在の実務者協議では「当面は税額控除はせず、個人の所得に応じた給付に一本化する」という方向で調整が進められています。これにより、事務コストを大幅に抑える狙いがあります。

② 対象を「働いている中低所得者」に限定し高齢者らは対象外
 資産を持っているのに給付されてしまう不正や注意義務や倫理観が薄れるモラルハザードを防ぐため、対象を「現役の働く中低所得層」に絞る方針が強まっています。つまり、年金受給者や生活保護世帯などは原則として対象外とし、「勤労所得」に応じて給付額を変動させる仕組みです。

③ 「年収の壁」の解消と「子育て世帯」への重点配分
 財務省としても、単なるバラマキではなく「労働不足の解消」につながる政策であれば、予算を投じる大義名分が立ちます。そのため、収入が増えるほど手取りがなめらかに増える設計し、働くほど損をする『年収の壁』の解消し、さらに「子育て世帯」には給付額を上乗せして所得上限を引き上げるなど、少子化対策と連動させる形で決着がはかられるかもしれません。

このような議論の経過を調べると、当初の給付付税額控除の設計図は大きく変わり、低所得者など支援が必要な人々は、この仕組みの恩恵を受けられないような情勢です。政争に明け暮れる政治は、庶民の感覚からすればなにか縁遠いような、本末転倒ともいうべき有様です。

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給付付き税額控除とは その3 財務省の意向

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財務省の給付付き税額控除の導入についての意向を掘り下げることにします、財務省は、歴史的にその意義は認めつつも、実務面や財政面の課題が極めて多いため、慎重に精査すべき、というスタンスを長くとっています。「慎重に」とは、本質的にはこの制度を実施したくないという意味です。しかし、2025年後半から始まった政府の「税と社会保障の一体改革」や「国民会議での議論を経て、財務省も含めた政府の具体案が急速に形作られつつあります。

(読売新聞より引用))

 財務省がこれまで懸念してきたポイント及び、現在の具体的な検討の方向性は以下の通りです。財務省が最も懸念していたのは、「不公平な給付とか不正受給」と「財源の確保」です。次に正確な所得や資産の捕捉が難しいという公平性の問題があります。徴税するときはある程度の誤差が許されても、国から現金を配る給付となれば、1円の誤りや不正も厳しく批判されます。特に自営業者の所得、いわゆる「クロヨン問題」や、多額の資産を持ちながら「今年の労働収入はゼロ」という高齢者層に対し、正しく判定して現金を配れるのかという実務上の大きな壁があります。

 「クロヨン問題」とは、職業によって税務署が把握できる所得の割合に不公平があるという問題です。サラリーマンは所得の「9割」を把握される一方、個人事業主は「6割」、農林水産業者は「4割」しか把握されないとされていました。クロヨンとは、それぞれの捕捉率(9:6:4)の頭文字をとったものです。

 給付付税額控除には、事務負担の肥大化があるといわれます。全国民の所得状況をリアルタイムに把握し、税務署や自治体が個別に減税と給付の計算を行うには、多額のシステム投資と人手が必要です。単なる減税ではなく現金給付を伴うため、対象者の線引き次第では数兆円〜10数兆円規模の歳出が毎年発生するといわれます。財政規律を重視し国債の発行に慎重な財務省としては、確実な財源がないまま導入することに強い警戒感を持っています。しかし、システム投資は一過的な措置であり、長期的にはリターンが得られることを考えるべきです。

 財務省のスタンスをまとめると、かつては「所得が捕捉できない」「財源がない」と後ろ向きなのですが、現在は「働く現役世代の支援と就労促進に限定し、実務を極力シンプルにした給付制度」にするのであれば、社会保障改革の一環として本格的に制度化を容認するという現実的な姿勢にシフトしているといえます。

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給付付き税額控除とは その2 社会保障国民会議の考え

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社会保障国民会議(以下国民会議)において「給付付き税額控除」議論が続いています。2026年6月時点、制度導入に向けた具体的な方向性が固まりつつある段階です。ですが、財政規律を重視し財源をいかに確保するかを懸念する財務省との立場の差があります。

財務省の意図と、現在の国民会議における議論の主な違い・特徴は以下の通りです。

  1.  国民会議による現在の設計方針2026年5月以降の実務者会議において示された骨子は、「純粋な税額控除との組み合わせ」から「給付への一本化」への転換という非常に重要な特徴を持っています。

 当初想定されていた「税額控除(納税額の減額)」と「現金給付(差額の還付)」を組み合わせる複雑な仕組みではなく、行政上の簡素化と迅速な支援を優先し、所得連動型の現金給付として実施する方向が示されています。次に世帯単位ではなく、マイナンバー等を活用して「個人単位」で支援を行う方針です。対象と目的ですが、 中低所得の勤労世代を主要な対象とし、「年収の壁」の解消や、就労意欲を阻害しない形での家計支援を目的としています。制度の執行体制としては、公金受取口座を活用し、申請不要の「プッシュ型」給付を目指しています。

  1.  財政規律の側面からは、事務効率を重視する財務省と、「政策効果・スピード・政治的決断」を優先する首相官邸・与党側の国民会議との間での調整という側面があります。

 違いの制度論 vs. 実務論に関してです。財務省は、給付付き税額控除という名称通り「税制」としての整合性や、公平な所得捕捉を重視する傾向があります。一方で、国民会議側は、システム構築に時間のかかる複雑な税額控除制度よりも、「現金を給付する」という実効性を先行させる判断をしています。

 次に政治主導の速度感についてです。高市首相の肝入り政策として、2027年度の本格導入というタイトなスケジュールが引かれており、官邸・与党側は「完璧な税制の構築」よりも「速やかな支援の実現」へ舵を切っています。

 今後の見通しですが、2026年夏前の「中間取りまとめ」を経て、骨太の方針への反映、そして秋の臨時国会への法案提出が目指されています。今後は、この「給付一本化」の案が、税制上の「所得再分配」としてどこまで機能するのか、また社会保険制度との整合性をどう確保するのかが、最終的な制度設計の焦点となるようです。

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給付付き税額控除とは その1 4つの利益

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この制度が導入されると、国民には以下のような具体的な社会的なメリットが生まれます。
1)  低所得層や非課税世帯にも確実に支援が届くことです。2024年に行われた定額減税では、減税しきれない世帯に対して別途「調整給付金」を配るなど、手続きが非常に複雑でした。給付付き税額控除が恒久的な制度として定着すれば、所得が低い世帯にもワンストップで自動的に現金が給付され、格差の是正や生活の安定につながります。

2)  消費税の「逆進性」が和らぎます。消費税は、所得の低い人ほど「収入に対する税負担の割合」が大きくなるという問題、つまり逆進性を抱えています。給付付き税額控除によって基礎的な生活費にかかる消費税分を計算し、低所得層に還付することで、実質的な税負担を公平にすることができます。消費税の逆進性とは、所得が低い人ほど収入に対する税負担の割合が重くなる性質のことです。所得の多い人ほど高い税率が適用される累進課税とは逆に、所得に関わらず一律の税率が課されるため、生活必需品の支出割合が高い低所得層に重くのしかかる点が問題視されています。

(読売新聞より引用)

3)  「年収の壁」を意識せず、就労インセンティブ、つまり働く意欲が高められます。アメリカの勤労所得税額控除などでは、「働いて収入が増えるほど、国からの給付額、あるいは減税額が手厚くなる」という設計が一般的です。「これ以上働くと社会保険料や税金で損をするから労働時間を抑えよう」という、いわゆる「年収の壁」による働き控えを抑え、働けば働くほど手取りがなめらかに増えていく安心感が得られます。

4)  子育て世帯などへの重点的な上乗せが可能となります。一律10万円給付などの一律の現金給付とは異なり、税のシステムと連動しているため、子どもの数に応じて控除額を増やすといったカスタマイズが容易です。これにより、本当に支援が必要な現役の子育て世帯にピンポイントで手厚い支援を届けることができます。

 今後の課題もあります。国民にとってメリットの多い制度ですが、マイナンバー等による正確な所得把握という課題です。国が資産も含めて誰がいくら稼いでいるかを正確に、リアルタイムで捕捉する必要があります。そのため、行政のデジタル化やマイナンバー制度との連携、さらには数兆円〜十数兆円規模となる財源をどう確保するかが、制度の本格導入に向けた大きな議論の焦点となっています。

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給付付き税額控除とは

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給付付き税額控除とは、一言で言えば「減税」と「現金給付」をセットにした仕組みのことです。従来の減税である所得控除や通常の税額控除は、税金を多く納めている人ほど恩恵が大きく、所得が低くて納税額が少ない人や、非課税世帯には恩恵が及びにくいという弱点がありました。この弱点を克服し、すべての所得層に公平に支援を届けるために考案されたのがこの制度です。

 給付付き税額控除が、具体的に国民にどんな利益があるのかです。次のように所得によって具体的な仕組みを説明します。もし1人あたり「5万円」の給付付き税額控除が導入された場合、所得の状況によって以下のように3つのパターンに分かれます。

(毎日新聞より引用)

1) 所得が高く、所得税を10万円納めている人の場合
 10万円の税金から5万円が差し引かれ、実際の納税額は6万円になります。
2) 所得が低く、所得税を1万円だけ納めている人の場合
 まず税金の1万円がゼロになります。引ききれなかった残りの4万円は現金でに振り込まれます。
3) 所得税が非課税(0円)の人の場合
 引くべき税金がそもそもないため、5万円がそのまま全額現金で給付さまれます。

 このように、税金を治めているかどうかにかかわらず、全員が一律で同じ4万分の経済的支援を受けられるのが給付付き税額控除に最大の特徴です。

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キリシタンと共産党員 その四 強固な連帯感

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第二次大戦の終わりに樺太や千島列島の占領、多数の捕虜のシベリヤ抑留と過酷な労働などが、ソビエト共産主義体制の恐ろしさを国民の間に植え付けたのは否めません。海外の共産主義国家、例えば旧ソ連・中国・北朝鮮の印象が国民に今も強固に根付いています。旧ソ連のスターリンによる粛清、現在の中国や北朝鮮における一党独裁や人権問題などが、「共産党=独裁・抑圧」という強力なイメージを作ってしまいました。日本共産党はこれら諸国の党とは一線を画し、自主独立を強調していますが、一般市民から見れば「同じ名称を冠する勢力」として同一視されやすいのが実情です。

サンフランシスコ平和条約による領土の確定

 共産党は非常に規律が厳しく、組織としてのまとまりが強いことで知られています。この強固な連帯感が、外部の人からは「独自の論理で動く集団」とか「何を考えているか分からない」といった一種の不気味さや近寄りがたさを感じさせてしまうことがあります。組織の閉鎖性という側面が国民に忌避感を与えているのです。

他方で、最近では以下のような理由から、一定の支持や評価を得ている側面もあります。草の根の生活相談:として地域の困りごと、介護、税金、労働問題などに対して、非常に親身に相談に乗る党員や地方議員が多いnおも事実です。にも関わらず「過去の過激なイメージ」と「独裁的な海外諸国の印象」が、現在の党の活動以上に大きな壁となって、日本人の心理的な拒絶反応を引き起こしていると言えます。

 日本の「和」の感性からすると、キリスト教は唯一絶対の造物主の存在が厳格すぎると受け止めます。共産党は組織の特有性や共産主義国家の存在が、国民にマイナスの先入観を与えています。一度国民に刻印されたような思考や思想は,長い年月を経ても容易に熔解しないものです。それが「キリシタンは国を売る」という流布であり、「共産党は怖い」という観念なのです。時代を経てもイメージや思想は、しぶとく生き延びるという例証です。

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キリシタンと共産党員 その三 「暴力革命」のイメージ

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次に共産党の停滞の現象についてです。日本において共産党やその党員が一部で忌避感を持たれたり、広く受け容れられるのが難しい背景には、歴史的、政治的、そして社会的な複数の要因が絡み合っています。最も大きな要因の一つは、1950年代前半に日本共産党が採用した「武装闘争方針」の記憶です。「暴力革命」のイメージを世間に与えたのです。当時、火炎瓶などを用いた過激な活動が行われた時期があり、これが当時の人々に強い恐怖心を与えました。

 後に党は「平和革命」の路線に転換しましたが、当時の「過激」、「怖い」というイメージが年配層を中心に根強く残り、世代を超えて語り継がれてきた側面があります。こうした経緯を振り返ると、江戸幕府がキリシタンに対して与えた恐怖が共産党の辿った厳しさの恐れに類似していることが分かります。マインドセットは痕跡であり、容易に払拭されるものではありません。

 共産党の停滞には、日本の伝統的な価値観や「象徴天皇制」という国体との相性も影響しています。共産党は綱領で「君主制の廃止」を掲げていた歴史があます。現在も最終的には「共和制」を理想としてはいます。多くの日本人が抱く天皇制への親愛の情や、一般的な保守的な国民感情と共産主義の理論が共存しないという背景があります。現在は象徴天皇制を容認しつつも、国民の共産党への理解や支持にはハードルがあるといえます。

 現在の日本共産党の公式な党綱領では、ただちに君主制を廃止して共和制を樹立することは求めていません。2004年の綱領改定以降、以下のような立場をとっています。
つまり、憲法の第1条を含む全条項を厳格に守るという立場から、現在の「象徴天皇制」を認めています。ただし、天皇の政治利用や、戦前のような絶対的な権力を持たせる元首化には強く反対しています。

しんぶん赤旗日曜版−2026年5月号

 共産党は本来、「主権在民」の原則を徹底すべきという思想を持っています。そのため、天皇制を継続するかどうかは、「国政の主人公である国民の総意によって解決されるべきだ」としています。もし、将来的に国民が「天皇制は不要」と判断すれば、結果として共和制、あるいはそれに類する体制へ移行するのが望ましいというスタンスです。

 日本共産党は戦前、天皇に絶対的な権力があった明治憲法体制での「絶対主義的天皇制」を激しく批判し、そのために弾圧された歴史を持っています。戦前の体制が軍国主義や破滅的な戦争につながったという強い警戒感があるため、皇統の世襲による権威が政治的に利用されることに対して極めて敏感です。

 しかし、国民の間に天皇制は不要であるという民意が広がる情勢ではありません。今は、天皇制をいかに維持、発展させるかが議論されています。それが、国会で審議中の皇室典範の改正です。

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キリシタンと共産党員 その二 キリシタン禁教令

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戦国時代から江戸時代にかけて カトリック教会の教徒はキリシタンと呼ばれていました。宣教師追放令を含むキリシタン禁教令は、特定の誰か一人が一度だけ出したものではなく、時の権力者たちによって段階的に強化されていきました。1587年(天正15年)に豊臣秀吉によるバテレン追放令がだされます。九州平定を終えた秀吉が、長崎が教会領となっていることや、日本人が奴隷として売買されている実態を知り、バテレンと呼ばれた宣教師の国外追放を命じたのです。ただし、当初は南蛮貿易の利益を優先したため、徹底した禁教には至りませんでした。

切支丹禁札

 1612年(慶長17年)に江戸幕府を開いた徳川家康が、耶蘇教とも呼ばれていたキリスト教の教えが幕府の主従関係をもとにした支配体制を脅かすと判断し、全国にキリスト教の信仰を禁止する命令を出しました。これにより教会が破壊され、修道士や高山右近などの有力なキリシタンが国外へ追放されました。所領や財産を失った右近はのちにフリッピンで病死します。

 第三代将軍家光の時代に、禁教は最も厳格化します。1638年の島原の乱の鎮圧を経て、1639年にはポルトガル船の来航を禁止します。さらに「宗門改」や「踏絵」といった制度を整え、キリシタンを完全に排除する体制を築きました。鎖国とキリシタン禁制が徹底化されキリシタンとわかれば火あぶりの刑に処せられました。「かの伴天連の徒党、件の政令に反し、神道を嫌疑し、正法を誹謗し、義を損なう、邪法にあらずして何ぞや」、「キリシタンは国を売る」と江戸時代の人々はそう思い込まされたのです。

 徳川幕府のみならず、政権の座にある者ははときに自分にとって都合のいい伝説をつくるものです。一つの政治体制が伝説を作って長年宣伝し続ければ、人々は信じてしまうものです。禁教令は300年続きました。その間、誰もがキリシタンは怖ろしい、と思ってしまったのです。翻って今や憲法によって信教の自由が認められていても、300年の旧教に対する圧制の影響は拭い去られていないというべきです。

 キリスト教は一神教であり、他の宗教と共存することは教義上ではありえません。その厳格さが日本人一般の宗教観に適合できなかったというべきです。明治になってキリシタン禁制が解除された後も、バテレン邪宗門の観念は根強く残存し、耶蘇教ーキリスト教撲滅運動は全国的に激しく行われます。

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キリシタンと共産党員 その一 一神教

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世の中であらゆるモノの価格が上がっている一方で、停滞しているか下がっている現象もあまたあります。例えば出生率や人口です。お金そのものの価値や実質賃金も下がっています。ブランドロイヤリティが下がり、代替品の購入が増えています。節約傾向を反映して、「ついで買い」も下がっています。本稿は、社会的、歴史的事情を念頭に、特に宗教や政治に関して下がっている現象、人々の態度や行動を考えることにします。

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会内の最後の晩餐図

人間の精神的な柱である宗教に関していえば、宗教法人の減少や売買といった現象が起こっています。一義的には信徒が減ったことがその原因といえます。キリスト教会を例にとると、信徒の減少によって教会の統合や閉鎖が見られます。こうした減少と他方カルト宗教の台頭という事象は、時代の変容もさることながら人間の生き方のあり方の変化を象徴しているようです。

キリスト教徒が増えない現象を振り返ると、そこには歴史的な経緯もあることがわかります。特に旧教といわれるカトリック教会の歴史を辿るとそこには、日本人の精神にある一神教に対する忌避感や疎外観が関わっているようです。つまり、一神教であるキリスト教の「唯一神のみを信じる規律」は、既存の人々の血縁や地縁の慣習と衝突しやすく、心理的なハードルとなっていると思われます。次稿では、その歴史的な事情を考察します。

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二人の王様のユーモアと風刺のジャブ

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国王即位後、チャール国王の初めてのアメリカ訪問は、多くのアメリカ国民に感銘を与えたようです。上下両院での演説は単なる外交辞令ではなく、今の世界の諸々の課題に共に勇気を持って立ち向かおうとする気概やエスプリが込められていたのです。演説の途中、何度も議員らが敬意や感動、そして称賛の意を表すために立ち上がって拍手を送る姿がありました。

 議員の総立ちにより演説は一時途絶えますが、その間議員らは、今混乱するアメリカの施政について、もう一人のキングに対する疑惑や反感を考えたに違いありません。このキングは、議会における演説では決して民主党議員から総立ちの賞賛を受けたことがなかったのです。共和党議員ですら総立ちになって拍手するのですから、キングは歯ぎしりをしたはずです。

Charles III

 演説中、チャール国王はこのもう一人のキングの名前は出しませんでした。それが相手に対する国王としての矜持と礼儀だったからです。外交では批判する相手を名指しすることはありません。しかし、議員達は、チャール国王の演説の文脈に、数々の荒々しい発言を繰り返すもう一人のキング、ドナルド・トランプ大統領を容易に想像できたのです。

 チャール国王の演説草稿は、もとはといえば歴史学者ともいえそうなスピーチライターが国王と相談して起草したものと思われます。聴衆の心に響くストーリーを構成し演出するため、過去のイギリスとアメリカの関係について考証し、事実に基づいて起草したことが伺えます。

 歴史上、イギリスと植民地であったアメリカはいわば兄弟のような関係がありました。1760年代のイギリスはジョージ3世の施政下にありました。彼は絶対的な主権を維持し、植民地に対して一貫して強硬な為政をしいていきます。彼は、「植民地は本国に従属すべきもの」という信念を持っていました。植民地への「重商主義政策」と、それに伴う「課税強化」です。それに対して植民地側は和解の嘆願をを送ります。ジョージ3世はそれを拒絶し、彼らを「反逆者」と断定するのです。

 1700年代のアメリカ大陸におけるイギリスとフランスの覇権争いは、「北米植民地戦争」と呼ばれます。ヨーロッパ本国での戦争と連動して何度も衝突を繰り返しましたが、最終的にはイギリスの圧倒的な勝利で幕を閉じました。ジョージ3世は対話よりも軍事力を優先し、ドイツから傭兵を雇い入れてまで植民地の施政に介入します。この強硬姿勢が、それまで国王個人を敬愛していた植民地の人々に「国王は暴君である」と認識させ、独立宣言へと突き動かす一因となっていきます。

 ホワイトハウスでの晩餐会で、二人のキングが交わしたウイットに富むジョークも話題となっています。それは、ダボス国際会議でトランプ大統領が、「第二次大戦で、アメリカがなかったならば、欧州諸国はドイツ語を使っていただろう」という演説に対するものでした。チャール国王はそれに言及して「あえて申し上げれば、イギリスがなかったならば、皆さんはフランス語を話していただろう」と植民地戦争で、フランスの影響力を払拭させたのを遠回しに言ったユーモアだったのです。

 今回のチャールズ国王の訪米は、相手への節度ある賞賛を交えながら、イギリスの立場をしなやかに示した機会となったようです。それが議会での演説であり、晩餐会での答礼スピーチに示されています。

Two kings exchange jab of humor and satire.

King Charles’ first visit to the United States since his accession to the throne seems to have impressed many Americans. His speeches to both houses of Congress were not merely diplomatic formalities, but imbued with a spirit and determination to bravely confront the various challenges facing the world today. Throughout his speeches, members of Congress repeatedly rose to their feet and applauded, expressing their respect, admiration, and praise.

The speeches were temporarily interrupted by the standing ovations, during which the members of Congress must have been contemplating the current turmoil in American governance and their suspicions and resentment towards another king. This king had never received such a standing ovation from Democratic members of Congress during his speeches.Even Republican lawmakers rose to their feet and applauded, so he must have been gnashing his teeth.

During his speeches, King Charles did not mention the name of this other king. This was a matter of royal pride and courtesy. In diplomacy, one does not name the target of criticism. However, in the context of King Charles’ speeches, the members of Congress could easily imagine the other king, President Trump, who has made numerous harsh remarks.

King Charles’ speech draft was originally written in consultation with the king by a speechwriter who could be described as a historian. It appears that the speech was based on a thorough examination of past British-American relations, in order to construct and present a story that would resonate with the audience.

Historically, Britain and its colonies, America, had a relationship akin to brotherhood. In the 1760s, Britain was under the rule of George III. He maintained absolute sovereignty and consistently imposed a hardline policy on the colonies. He held the belief that “colonies should be subordinate to the mother country.” This manifested as “mercantilism” and the accompanying “increased taxation” of the colonies. The colonies sent petitions for reconciliation, but George III rejected them, declaring them “rebels.”

The struggle for hegemony between Britain and France in the Americas in the 1700s is known as the “North American Colonial Wars.” These conflicts, linked to wars in Europe, involved repeated clashes but ultimately ended in an overwhelming British victory. King George III prioritized military force over dialogue, even hiring mercenaries from Germany to intervene in colonial administration. This hardline stance led the colonists, who had previously revered the king personally, to perceive him as a tyrant, contributing to the Declaration of Independence.

A witty joke exchanged between the two kings at a White House dinner has become a topic of discussion. It was in response to President Trump’s speech at the Davos conference, where he stated that “if America hadn’t existed in World War II, European countries would have spoken German.” King Charles responded by saying, “If I may say so, if Britain hadn’t existed, you would all have spoken French,” a humorous indirect reference to Britain’s role in eliminating French influence during the colonial wars.

King Charles’s recent visit to the United States appears to have been an opportunity to subtly demonstrate Britain’s position while offering respectful praise to the other side. This is evident in his speeches to Parliament and his reciprocal speech at the dinner in the White House.

福沢諭吉の西郷隆盛観

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西郷隆盛は、幕末から明治維新にかけての日本史において、最もカリスマ的であり、かつ評価が分かれる人物の一人といわれます。彼に対する評価は多面的で、時代や立場によって大きく異なるようです。近代日本を築いた立役者として、維新の英雄として高く評価されています。軍事面での功績: 薩長同盟の締結、王政復古の大号令、そして江戸城無血開城など、決定的な場面で歴史に立ち会っています。

 江戸城無血開城は、後に明治新政府軍となる東征軍と旧幕府との間で行われた一連の交渉過程と江戸城の新政府への引き渡しのことです。徳川宗家の本拠であった江戸城が、同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから明治新政府軍の勢力が一層増すのです。戊辰戦争が新政府側に一気に優勢となる転機となった出来事です。幕府の使者山岡鉄舟の要請に応じた大総督府下参謀の西郷は彼との交渉に応じます。ここで初めて、東征軍から徳川家へ開戦回避に向けた条件提示がなされます。山岡の下交渉を受けて、陸軍総裁であった勝海舟と西郷との江戸開城交渉は、田町にあった薩摩藩江戸藩邸にて行われました。徳川慶喜は江戸城を退出して上野寛永寺で謹慎します。1868年4月、江戸城が東征軍に明け渡され 5月に慶喜は寛永寺から水戸へ隠遁するのです。

西郷隆盛と勝海舟

 特に江戸城無血開城は、戦火による無益な殺生を避けた慈悲深い決断として、今なお高く評価されています。「敬天愛人(天を敬い、人を愛する)」の精神を掲げ、地位や名誉に執着しない姿勢は、多くの人々に尊敬の念を抱かせています。明治政府において廃藩置県をはじめとする重要な改革を主導し、近代国家の基礎作りに貢献しました。

 しかし、明治政府から離脱し、西南戦争の指導者となったことで、別の側面からも評価されています。明治政府の急速な近代化や士族の困窮に対して、政府を去った後の彼は、いわば「時代の抵抗者」としての性格を強めました。西南戦争で敗死したことで、権力から脱落した悲劇の英雄というイメージが定着しました。にもかかわらず敵対した勝海舟でさえ「怖い」と評したほどの圧倒的な存在感や人間的魅力は、多くの弟子や従者を引きつけました。彼が故郷の鹿児島に開いた「私学校」は、彼を慕う多くの若者たちの拠点となりました。

 福澤諭吉の西郷観は興味あります。彼の著書の一つに「丁丑公論(ていちゅうこうろん)」があります。この本は西南戦争で明治新政府に反抗した西郷隆盛を弁護する内容となっています。序論において、福澤は政府が専制になるのは当然の事とし、これに「抵抗する精神」の重要性を説くのです。さらに、「今、西郷氏は政府に抗するに武力を用いたる者にて、余輩の考とは少しく趣を殊にするところあれども、結局その精神に至ては間然すべきものなし」、つまり西郷隆盛は武力で政府に抵抗した点で、自分とは考えが異なるが、その抵抗の精神においては非難すべきものはないと述べて、武力で政府に反抗した点は評価しないにしても、西郷隆盛の「抵抗の精神」を賞賛するのです。

 また、政府が西郷の官位を剥奪した途端に、新聞が一斉に非難を始めたことに対して、「新聞記者は政府の飼犬に似たり」と述べて、新聞の論調が誹謗中傷の一色になったことと、それに迎合する世論に対して反論していくのです。さらに、「そもそも西郷は生涯に政府の顛覆を企てたること二度にして、初には成りて後には敗したる者なり」、すなわち「西郷は生涯に政府の転覆を2度企てて、最初の明治維新は成功し、2度目の西南戦争では失敗した者である」として、西郷を明治維新の功労者であり忠臣として賞賛します。同時に西南戦争の首謀者であって逆賊として非難することは、ダブルスタンダードであると非難するのです。彼の死後、明治政府は彼を逆賊から「正三位」という高位へと名誉回復せざるを得ませんでした。

 最期に、「西郷は天下の人物なり。日本狭しといえども、国法厳なりといえども、豈(あに)一人を容るるに余地なからんや」、すなわち「西郷は偉大な人物である。国の法がいかに激しいものであっても一人の人物を受け入れる余地はなかったのか」と述べて、西郷の人物を惜しみます。いつかこの人物を明治政府の要人として起用する時もあったはずであると結んでいます

参考文献
 ・丁丑公論 福沢諭吉 時事新報社 1901年

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勝海舟と国民国家思想

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勝海舟のことです。幕府は洋式海軍をおこすべく正式にオランダに海軍教師団の派遣を要請します。やがて1857年に教師団がやってきます。その団長がウイレム・ホイセン・カッテンディーケ(Willem Huijssen van Kattendijke)と言う中佐でした。カッテンディーケは、徳川幕府が発注した軍艦ヤーパン号、後の咸臨丸を長崎に回航した武官です。幕府が開いた長崎海軍伝習所の第2次教官となります。彼の貢献は、勝海舟、榎本武揚などの幕臣に、航海術・砲術・測量術など近代海軍教育を精力的に行ったことです。

ウイレム・ホイセン・カッテンディーケ

 勝は既に江戸でオランダ語を学んでいました。幕臣とともに、カッテンディーケの生徒として勝も選ばれるのです。若い海軍士官のカッテンディーケの回想路によれば、勝はオランダ語を非常によく理解し、そして聡明な人間であり、さらには真の革新派の闘士というように非常に強い言葉でほめています。勝は、オランダの憲法を学ぶ機会に浴し、オランダの市民国家思想を学んでいきます。

 日米修好通商条約批准のため、1860年に幕府から遣米使節団がおくられることになります。使節団は米国海軍フリゲート艦のポーハタン号(Pawhatan)に搭乗して太平洋を横断することなります。勝はこれとは別に、日本の国威のために、日本人の操船による随行艦を派遣すべきだと運動し、長崎時代の練習船咸臨丸の艦長として勝は太平洋を横断することになります。

彼がアメリカで最も衝撃を受け、深く学んだのは技術的なことよりも、むしろ「社会の仕組み」や「民主主義」のあり方でした。彼はアメリカから戻り、老中に呼ばれます。そして「アメリカと日本はどういうところが違うのか」と問われます。勝は「アメリカは日本と違って偉い人が上にいます」と答えるのです。老中らの苦虫を噛む姿が浮かびます。日本では徳川将軍家のような家柄が絶対視される時代でした。ジョージ・ワシントンの子孫のことを聞くと、アメリカでは初代大統領の子孫であっても特別扱いはされず、一市民として生活していることを知るのです。この事実に勝は「身分よりも実力や個人の自立が優先される社会」の有りようを強く意識したようです。「徳川家という私的な組織」が日本を支配している状態から勝はアメリカを視察して、政治は「日本全体」、「公」のためにあるべきと考えていくのです。

戊辰戦争での薩摩軍兵士

 勝は幕府の家臣でありながら、「幕府を守る」ことよりも「日本という国を守る」ことを優先しました。彼の最大の功績は、1868年の戊辰戦争において、官軍の西郷隆盛と会談し、江戸無血開城を実現させたことです。戊辰戦争とは慶応4年1868年から1869年にかけて、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中核とする新政府軍と、旧幕府陸軍・幕府海軍が戦った日本近代史上最大の内戦と呼ばれます。新政府軍が勝利し、国内に他の交戦団体が消滅していきます。この内戦において、欧米などの諸外国は局外中立の立場であったが、フランスのレオン・ロッシュ公使(Léon Roches)などが個人的に旧幕府側を支援していました。

 勝は諸藩が対立する中で、幕府・朝廷・諸藩が統一して欧米列強に対抗すべきであるという「公議政体論」に近い考えを持っていたといわれます。彼のこの広い視野に、敵対していた坂本龍馬や西郷隆盛らが勝に心酔したのは、敵味方の垣根を超えた「橋渡し役」として役割を果たしたからでしょう。勝は維新後も参議、海軍卿として、後の海軍大臣などを歴任しました。

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勝海舟と西郷隆盛との対比

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司馬遼太郎からみた小栗上野介の勝海舟と西郷隆盛との対比は興味あることです。司馬は、勝海舟を「時代を泳ぐ政治家・策士」とするなら、小栗は「実務を積み上げる技術者・構築者」であったと評します。司馬は勝の柔軟さを認めつつも、実務能力では小栗が圧倒していたとみています。次に、西郷隆盛との対比です。西郷を「情緒と徳の人」とするなら、小栗は「論理と数理の人」と評価します。明治新政府が西郷的な情緒を削ぎとり、小栗的な官僚機構へ移行していく過程を司馬は冷静に記述しています。司馬にとって小栗上野介は、「不運にも時代に殺されたが、近代化の構想という魂は後の日本を支配し続けた人物」という、非常に敬意を払う描き方をしています。

勝海舟

 1860年の万延元年に小栗は遣米使節団に加わります。日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府が派遣した使節団の「目付」いわゆる監察役としてです。当時のアメリカ大統領ブキャナン(James Buchanan)への謁見や、造船所・工場などの視察を通じて、身分制度に縛られない実力主義や、効率的な経済システム、軍事組織のあり方を深く学びます。帰国した小栗は、外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行といった要職を歴任し、破綻寸前の幕府財政を支えながら、猛スピードで近代化を推し進めました。

 小栗の最大の功績は、日本近代工業の礎となる「横須賀製鉄所」の建設です。フランスの支援を得て、現在の横須賀海軍施設内に「横須賀製鉄所」、後の横須賀造船所を建設したことです。単なる造船所ではなく、ボルト・ナットの製造から金属加工までを行う「工場の工場」を目指したのです。日本で初めて「就業時間」、「賃金制度」、「洋式簿記」などを導入し、近代的なマネジメントを確立したといわれます。

西郷隆盛

 小栗は、株式会社の先駆けとなる「兵庫商社」を設立し、貿易の活性化を図りました。兵庫商社は、幕府の主導により、大坂や兵庫の商人の出資によって設立されました。構成員には、三井のほか、大坂の有力商人の鴻池や加島屋、兵庫からは酒造業者が名を連ねました。小栗は提案書で初めて「商社」という言葉を使ったといわれます。郵便制度、電信、鉄道の設置も提言し、先見の明があったことがわかります。これらは後に明治政府によって実現されました。

 軍制改革と教育面でも小栗は活躍します。すなわち、幕府軍の近代化のため、フランス軍事顧問団を招へいします。外交官や技術者を育成するため、幕末の1865年、慶応元年に横浜仏語伝習所というフランス語学校が開設されます。日本初の官立フランス語学校です。幕臣の子弟を中心に選抜された精鋭たちが集まりました。フランス語の習得はもちろん、西洋の諸科学や文化も教えられていました。この伝習所からは、近代日本哲学の父、西周や法学者の津田真道が育っていきます。ここで学んだ若者やフランス学の伝統は、後の明治政府における司法制度の確立に貢献します。

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ポトマック川の五色桜

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今ワシントンD.C.のポトマック川の五色桜は満開です。もともと五色桜は、現在の東京都足立区の荒川堤に植えられていた桜の総称です。明治時代、ソメイヨシノだけでなく、多種多様な里桜が約78種類も植えられ、その多様な色彩から「荒川の五色桜」として世界的に有名になりました。1912年に日本からワシントンD.C.へ贈られた3,000本の桜の多くは、この荒川堤の苗木から育てられたものでした。

 しかし、本家である日本の五色桜は、その後の不幸な歴史によって絶滅の危機に瀕します。その理由は、工場の排煙や都市開発による環境悪化、荒川の改修工事に伴う伐採、そして第二次世界大戦による被害によります。これにより、東京の五色桜はほとんどが失われてしまいました。

 戦後、かつての美しい五色桜を復活させようという動きが日本で起こりましたが、すでに日本国内には元々の品種が揃っていませんでした。そこで、ワシントンに贈った桜が、当時の血統を保ったまま元気に育っていることに着目し、ワシントンから枝を分けてもらうことになったのです。1952年に荒川堤の改修を機に、初めてワシントンから枝が贈られました。1981年には「レーガン桜」として、さらに大規模な里帰りが行われ、足立区などに植樹されました。

 真珠湾攻撃後の戦時中、ワシントンでは日本への敵対心から桜が数本切り倒される事件が起きました。さらに「桜をすべて引き抜いてしまえ」という過激な意見も出たといいます。しかし、多くのアメリカ市民や関係者が「木に罪はない」「この桜は平和と友情の象徴である」として、桜を守り抜きました。戦時中は「日本の桜」と呼ぶ代わりに「東洋の桜」と呼び方を変えるなどの工夫をして、この美しい景観が維持されたのです。

The Goshikizakura (five-colored cherry blossoms) along the Potomac River in Washington D.C. are in full bloom. Originally, Goshikizakura was a general term for cherry trees planted along the Arakawa River embankment in what is now Adachi Ward, Tokyo. During the Meiji era, not only Somei Yoshino cherry trees but also approximately 78 varieties of other diverse village cherry trees were planted, and their diverse colors made them world-famous as “Arakawa’s Goshikizakura.” Many of the 3,000 cherry trees gifted from Japan to Washington D.C. in 1912 were grown from saplings along this Arakawa River embankment.

(住友林業グループより引用)

However, the original Goshikizakura in Japan faced extinction due to unfortunate circumstances. These included environmental degradation from factory emissions and urban development, felling during Arakawa River improvement work, and damage from World War II. As a result, almost all of Tokyo’s Goshikizakura were lost.

After the war, there was a movement in Japan to revive the beautiful Goshikizakura of yesteryear, but the original varieties were no longer available within Japan. Therefore, noticing that the cherry trees gifted to Washington were still thriving while maintaining their original lineage, it was decided to request branches from Washington. In 1952, during the renovation of the Arakawa River embankment, the first branches were gifted from Washington. In 1981, a larger-scale return of the trees, known as “Reagan Cherry Trees,” took place, with trees being planted in Adachi Ward and other areas.

During the war after the attack on Pearl Harbor, several cherry trees were cut down in Washington due to hostility towards Japan. There were even extreme calls to “uproot all the cherry trees.” However, many American citizens and those involved protected the trees, stating that “the trees are innocent” and “these cherry trees are symbols of peace and friendship.” During the war, efforts were made to preserve this beautiful landscape, such as changing the name from “Japanese cherry trees” to “Oriental cherry trees.”

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「知」の先人達

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江戸時代の末期の文久2年(1862年)に幕命でオランダへ留学し、西洋哲学を日本に紹介した最大の人物が西周です。オランダ最古のライデン大学(Universiteit Leiden)でシモン・フィッセリング(Simon Vissering) に法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学びます。現代の私たちが日常的に使っている多くの哲学用語の生みの親とも知られています。例えば、「哲学」「命題」「定義」「主観」「客観」「帰納」「演繹」「知識」「概念」「理性」「芸術」「科学」「技術」「心理学」「意識」といった訳語を作ったのも西です。西洋の概念を漢字で表現することで、日本人が西洋思想を深く理解するための土台を作りました。

ライデン大学

ライデン大学は、1575年にネーデルラント(オランダ)の指導者ウィレム1世(Willem I)によって設立されます。ヨーロッパでも最も古い大学の1つといわれます。ルネ・デカルト(René Descartes)、レンブラント(Rembrandt van Rijn)、フーゴー・グローティウス(Hugo Grotius)などを輩出しています。

中江兆民もまた岩倉使節団の一員としてフランスに渡り、フランス流の民主主義を日本に輸入しました。岩倉使節団は、明治維新期の明治4年から明治6年まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国の米欧12ヶ国に派遣された使節団です。岩倉具視を特命全権大使とし、首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成されました。その中の一人、中江兆民は「東洋のルソー」と呼ばれ、ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の『社会契約論』を翻訳し、それを『民約訳解』として出版し、自由民権運動の理論的支柱となります。

中江兆民

近代的な法律学を輸入した人物に穂積陳重がいます。彼はイギリスとドイツに留学し、日本の民法起草に携わりました。医学面では北里柴三郎がいます。ドイツ留学にしコッホ(Heinrich Robert Koch)に師事して、細菌学や血清療法を導入します。ペスト菌の発見や血清療法の確立など、日本の近代医学や公衆衛生を世界レベルに引き上げるのです。建築の分野に辰野金吾がいます。イギリスに留学しジョサイア・コンドル(Josiah Conder)に学び、後に赤レンガの東京駅などを設計した建築家です。科学の分野では高峰譲吉がイギリスに留学し化学工業の基礎を築き、アドレナリンを発見するのです。芸術の分野に黒田清輝がいます。フランスに留学し印象派の明るい作風を日本画壇に持ち込み、後に「洋画の父」と呼ばれるのです。

1867年のパリ万博は、当時の世界最新のテクノロジーや芸術、そして各国の文化が一堂に会した「文明の祭典」といわれました。日本にとっては、江戸幕府が公式に参加した最初の万博であり、日本文化が初めて西洋に本格的に紹介された歴史的なイベントとなります。パリ万博を視察した渋沢栄一は1867年から約1年半にわたってパリを中心にヨーロッパを歴訪します。この滞在は、後に「日本資本主義の父」と呼ばれる彼の基盤を築く決定的な体験となります。株式会社制度を学び、帰国後は第一国立銀行、現在のみずほ銀行など500以上の企業設立に関わります。日本の近代化には、信頼の拠点となる銀行が不可欠であると考えたのです。

渋沢は、経済活動だけでなく、社会福祉を向上する制度にも注目したようです。その例は、病院、孤児院、盲学校などの医療、福祉施設を視察し、「富は個人が独占するものではなく、社会に還元すべきもの」という考えを深めていきます。これが、彼が晩年に社会公共事業や教育に力を注ぐ原動力となったといわれます。 フランスにおいて、生活インフラと都市機能の発達を見聞します。例えばガス灯、鉄道、水道、郵便、そして最新の科学技術など、近代都市を支えるインフラを理解していくのです。

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日本近代化の先駆者達

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江戸末期から明治初期にかけて、多くの先覚者たちが、いわば命がけで海を渡りました。やがて彼らが持ち帰った「西洋の衝撃」は、停滞していた旧体制を打破し、近代国家の日本を形作る力強い原動力となっていきます。当時の交通機関の未発達な状況で、海外渡航は大変な苦労だったことが想像できます。それでも不安ながら大望を抱いた指導者らは、祖国日本の発展のために大きな期待をいだいて出発したに違いありません。

幕末の先駆者たちは、開国へと目覚めていきます。江戸幕府が派遣した使節団や密航に近い形で渡欧した若者たちは、やがて日本の「近代化」の種を蒔きに貢献していきます。その最たる人物は福澤諭吉です。幕府の遣欧使節団に加わりアメリカを見聞していきます。福沢は 帰国後、西洋の日常習慣や社会制度をわかりやすく解説した『西洋事情』を執筆し、ベストセラーとなります。慶應義塾の創設や「天は人の上に人を造らず…」で知られる『学問のすゝめ』を通じて、個人の独立自尊こそが国を強くすると説きました。

西洋事情

 1863年に長州藩から派遣された5人の若者たちは、密航同然でイギリスへ渡航します。帰国後は倒幕運動の中心となります。後に長州五傑と呼ばれたのが、井上馨、後の初代外務大臣、伊藤博文、後の初代内閣総理大臣、山尾庸三、後に「工学の父」と称され、工部省の設置に尽力、井上勝、後に「鉄道の父」と呼ばれ、日本の鉄道建設を指揮、そして遠藤謹助で後に造幣局長を務め、「造幣の父」と呼ばれます。当時はまだ江戸幕府による鎖国令の下、海外渡航は死罪に値する禁忌でしたが、彼らは密航という形でイギリスへ渡航したのです。

 長州五傑に続き、1865年に薩摩藩から密使としてイギリスへ送られた一行は総勢19名でした。森有礼は初代文部大臣となり、日本の近代教育制度を確立します。五代友厚は大阪経済の父と呼ばれ、大阪株式取引所などを設立します。寺島宗則は「電気通信の父」と呼ばれ、外交官としても活躍します。長澤鼎という人物は、 唯一日本に帰らず、カリフォルニアで「カリフォルニアのブドウ王」として成功するのです。忘れてはならない人物は新島襄です。長州五傑に先立つ1年前、1864年に函館からアメリカへ密航します。帰国後同志社大学を創設します。

 岩倉使節団は、1871年から約1年10ヶ月にわたって欧米諸国を視察します。明治政府の威信をかけた総勢100名を超える大規模な使節団といわれます。その一行の中の主要メンバーとして特命全権大使となったのが岩倉具視です。「維新の三傑」と呼ばれ、長州派のリーダーであった木戸孝允もいました。薩摩派のリーダーであった大久保利通も加わっています。帰国後は殖産興業を牽引した人物です。

不平等条約の風刺画

 この使節団には、現地で学ぶための留学生や各分野の専門家も多く同行しました。後に大日本帝国憲法の起草に参画した金子堅太郎、後に外務大臣や内大臣を歴任した牧野伸顕、そして日本初の女子国費留学生となる津田梅子です。当時彼女は6歳だったようです。長期間の米国生活を経て帰国後、日本の女子教育の遅れに衝撃を受けた彼女は、女子英学塾、現在の津田塾大学を創設し、女性の地位向上と高等教育に一生を捧げていきます。

 こうした使節団は、幕末に結ばれた不平等条約の改正を求めて交渉するのですが、国力不足のために改正は成りませんでした。それでも、政治、経済、教育、軍事、文化などあらゆる分野に直接触れて、日本を近代化するための知見を得て帰国します。

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