図書館司書とは その二 図書館司書から教わったこと

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私は北海道大学と立教大学で学び、その後はウィスコンシン大学(University of WIsconsin-Madison)で学位をとり、国立特殊教育総合研究所と兵庫教育大学で仕事をしました。ですが日本の大学の図書館司書(librarian)の世話になったことは全くありません。コンピュータやネットワークの無い時代。手作業で芋づる式に参考文献を探しました。司書の活用を知らなかったといえばそれまでですが、、、

 今回の話題は図書館司書の専門性と養成についてです。司書は図書館情報学の知識と技術を活かして、図書館利用者のニーズに応える役割を担っています。振り返ると日米の大学の違いは、大袈裟にいえば図書館司書の専門性、図書館の市民の認知度、そして図書館学(library of science)の認識にあるのではないかと考えます。

 ウィスコンシン大学では、オリエンテーションで図書館の利用方法を教わりました。そのお陰で専門職である司書にひとかたならぬお世話になったのです。やがてその専門性には驚いたものです。実に良く熟練しています。とりわけデータベースの活用と検索能力です。もっとも、司書は、大学や公共図書館、専門図書館での雇用条件として図書館学の修士号か博士号を有しなければならないので、その力量は当然のことです。

Wisconsin Historical Society

 我が国とアメリカの司書養成の仕組みや内容を調べると、そこに大きな違いがあることがわかります。まず、我が国では司書となる資格は、図書館法に規定する公共図書館の専門職員となるためとなっています。しかし、公共図書館の大部分では、司書の資格を取得した者を専門職、あるいは正職員として採用する人事制度があるとは限りません。多くの自治体で主流となっているルートが一般行政職(事務職)からの配置換えです。一般的な公務員試験(地方公務員上級・中級など)に合格して採用された職員が、人事異動によって図書館に配属されます。このような措置は、図書館司書の重要性についての理解が雇用する側に不足しているとしかいいようがありません。公立、私立の小中高校に司書教諭がいても正式なルートで司書の資格を有するかどうかも分かりません。

 アメリカの大学で、あるテーマについての小論文とかポジッションぺーパーの課題が与えられたとします。ポジッションぺーパーとは、例えば「羊水検査(Amniocentesis)は必要かどうか」、という課題などに自分の見解を述べる小論文のことです。そのためにはこのテーマにそった医学関連の文献を調べなければなりません。まずは図書館へ行って司書に手伝ってもらうのが一番なのです。

 私が全米の諸々のデータベースがネットワークで繋がっているのを知ったのは45年前です。図書館司書は検索の技量が秀でていて、利用者の要望に応じて全米各地のいろいろなデータベースを調べてくれます。図書館で司書に助言や支援を受けるのがアメリカを含めて海外の大学で学ぶときの要諦です。司書によって検索されたいくつかの参考文献を引用して書き上げた小論文とかポジッションぺーパーでは、確実に「優」をもらえると請け合います。

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図書館司書とは その一 図書館の役割

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知人の一人が公共図書館の司書をしています。彼女からその任務を伺いながら、日本と欧米の図書館司書養成の仕組みや課題を考えました。近年は図書館の果たす役割と情報の関わりが深くなり、両者を一体的に扱う図書館情報学(library and information science)も注目されています。現代の図書館は、知識を提供したりそれを得る場所から、格差や孤独など教育や福祉に関連した社会課題を解決する拠点へと進化しています。

 さらに、デジタルアーカイブによる文化資源の継承という任務も帯びています。歴史的な文書や地域の資料をデジタル化し、世界中からアクセス可能にする活動は、地域のアイデンティティの醸成や研究の活性化に直結しており、図書館の役割は大きくなっています。そこで重要になるのは、情報と人、そして社会を繋ぐことに従事する専門家、図書館司書の養成です。

 日本の図書館司書の養成の仕組みは、主に昭和25年に旧文部省が定めた「図書館法」に基づいて運用されています。現在の司書の養成と資格の取得は「免許」というよりは「講習の修了証」に近い性質を持っています。次稿では、私と図書館司書との小さな関わりを取り上げます。

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「ドチリナ・キリシタン」 その三 万民にわかりやすく

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「どちりなきりしたん1600年長崎版」の序には次のように記されています。誰にでも教理が理解できるように配慮しているという説明です。

「上下、ばんみんにたやすく、このむねをしらしめんがために、こと葉はぞくのみにちかく、儀はデウスのたかきことはり(理)をあらわすもの也」

 「媚びたる言葉」とは、上品ぶった言葉遣いではなく、万民の親しみ理解しやすい「世話体」を使っているという説明です。翻訳者は誠に真摯な態度であることが伝わる解説です。

 仏教文学が伝来以来、数百年を経てようやく日本文学史上に登場してきました。他方キリシタン文学は伝来以来、わずかに20年ほどで開花し、40年ほどである種の成果を上げたのです。仏教が経典などが貴族社会に浸透したのに対して、「ドチリナ・キリシタン」では万民に理解せしむべきとして、「ドチリナ」教育をとおして、文学や思想を受容できるように、庶民的な地盤を形成したといえます。キリシタン宗門の宣教活動が、福音を「上下万民にやたすく知らしめる」という発想があったのです。

Alessandro Valignano

 日本では刊行年や刊行地共に不明の国字本「どちりいな・きりしたん」が文学の最初です。続いて文禄元年(1592年)発行の天草版ローマ字本、慶長5年(1600年)発行の長崎版ローマ字本、同年発行の長崎版国字本「どちりな・きりしたん」の4種類があります。これらの本の収蔵館は順番に、バチカン図書館(Bibliotheca Apostolica Vaticana)、東洋文庫、水戸徳川家、カサナテンセ図書館(Biblioteca Casanatense)となっています。

 まとめですが、「ドチリナ・キリシタン」のローマ字本はヨーロッパ人の日本語学習のため、国字本は日本人信徒の教理学習用として編纂されています。既述したように、国字本は問答体の平易な文章で書かれています。天正18年(1590年)に2度目の来日をしたアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano) がヨーロッパから持ち込んだ活字印刷機により他の数々の書物と共に印刷したといわれています。

 作曲家の千原英喜は「どちりなきりしたん」という5つの作品を残しています。祈りや讃美の普遍性を込めて作曲したことがうかがえる混声と男声合唱曲です。歌い手は、ラテン語の発音にとらわれることなく、翻訳者と作曲家のエートスを汲んで歌って欲しいものです。

参考図書
・どちりなきりしたん 岩波文庫 1950年
・キリシタン南蛮文学入門 海老沢有道 著  1991年
・南蛮寺興廃記 海老沢有道 著 平凡社東洋文庫 1964年
・キリシタン研究 海老沢有道, 井手勝美, 岸野 久【編著】 1993年

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「ドチリナ・キリシタン」 その二 翻訳の難しさ

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この翻訳を読んで、キリスト教の教理書を江戸時代に誰が翻訳したのかを考えました。キリスト教の思想を、それを生んだ世界とは異なる日本の文化圏に移そうとした動機と「言葉」という媒体によってどのように日本語化したです。ポルトガル語(Portuguese)やラテン語(Latin)の辞書もない時代、どのようにして翻訳したのか、実に驚きです、一つの言語から他の言語に翻訳するとき、往々にして別の思想にもなりがちだ、と思うのですが、「どちりいな きりしたん」を読むとそうではないようです。

 翻訳の作業には特有のぎこちなさが生まれるものです。浅学の一人として英語と日本語の翻訳をやっているときですら、そう感じます。しかし、「どちりな きりしたん」には、そのぎこちなさ、不自然さがないなめらかさがあるのです。翻訳に携わった信者のすみずみまでのこころ配りや、おろそかにしない辛苦が伝わってきそうです。

イエズス会宣教師(NHK Oneより引用)

 「ドチリナ・キリシタン」では、すべての人類が神による同じ被造物として霊性を与えられた存在であり、救いにあずかるべき価値と権利とを持つ者とされます。一個の人格は一切の権力の掌握にもまさる尊い存在として確認するキリスト教ヒューマニズムの再認識です。こうした世界観や人間観は、日本の思想史上まったく存在しませんでした。キリシタン大衆が果たして、それらを理解し把握したのでしょうか。そうした疑念があります。

 それまで文字にすら接しなかった農漁民らが、「ドチリナ・キリシタン」というキリスト教理に通暁し、救いに預かり洗礼を受け入れるというだけでも困難なことであったと考えられます。救いとか救済ということは、浄土門的な素養を媒介によって理解することができたのでしょう。浄土門的な救済とは、一言で言えば「自分の力を捨てて、仏の力にすべてをゆだねることで救われる」という考え方です。

事実、現地の文化や習俗を尊重し、それらとの適応を採って布教効果を挙げる方針を採ったイエズス会士らは、多くの仏教的な表現を採用しました。キリスト教の根本的な教理である、在来の日本思想界にない概念は、原語というー本語主義を採ります。創造主のデウス、神の子キリストの受肉、救済、復活、三位一体、という神学的用語は庶民には容易には理解しがたいものであったはずです。それにも関わらずキリシタン教会では、「ドチリナ・キリシタン」にあるように、きわめて行き届いた教理教育を行ったことが伺われます。

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「ドチリナ・キリシタン」 その一 ローマ公教要理

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我が北海道大学合唱団OB会が「どちりなきりしたん」という合唱組曲を歌われるのを聞いて、バチカン図書館蔵の「Doctrina Christam」影印を撮ってみました。1600年刊行とあります。

長崎版「どちりな・きりしたん」

 「ドチリナ・キリシタン」というのは、戦国時代から江戸時代初期にかけて、イエズス会(Jesuits)の宣教師たちが日本での布教のために作成したキリスト教の初歩的な教理書(カテキズム: Catechism)です。もとは、ローマ・カテキズム(The Roman Catechism)というローマ公教要理に依拠しています。江戸時代の禁教期、キリスト教の教えを記した書籍が没収・焼却されるなか、信者たちが口伝、あるいは書き写して守り抜いたものといわれます。キリシタン史研究の権威であったc教授による校注や現代語訳は、難解な古語や宗教用語を理解するための重要な資料となっています。

 「ドチリナ」は「Doctrina」というラテン語で、「教義とか教理」を意味します。「キリシタン」は、もちろんキリスト教徒で切支丹とも呼ばれていました。「ドチリナ・キリシタン」は、当時のキリシタンが知っておくべき基本的な教えをまとめた教理書です。「ドチリナ・キリシタン」は対話の問答体で書かれているのが特徴で、信者が抱く教理への質問に指導者が答える形で進んでいきます。

 その教理とは「十戒: Ten Commandments」という守るべき10の戒律、「主の祈り」や「聖母マリアへの祈り」などの祈祷文、三位一体(Trinity) の教え、七つの大罪(Seven Deadly Sins)についての教義、そして洗礼といった儀式の秘跡のことです。ルーテル教会では、マルティン・ルターが1529年に著した「小教理問答書」(Small Catechism)が使われています。この問答書は、「ドチリナ・キリシタン」にあたります。

 「ドチリナ・キリシタン」を基にした、混声と男声合唱曲があります。千原英喜が作曲し5つの作品からなります。歌詞では、キリスト教の概念を説明するために、天主(デウス)や、おらしよ(オラショ=祈り)といったキリスト教特有の語彙が表れています。海老沢は、これらキリシタン文献を読みやすく書き起こすことを精力的に行った学者です。彼の業績によって、一般の読者も戦国から江戸初期にかけて日本に定着しようとしたキリスト教の精神性や、南蛮文化の深さの一端を知ることができるようになりました。

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キリシタンと共産党員 その四 強固な連帯感

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第二次大戦の終わりに樺太や千島列島の占領、多数の捕虜のシベリヤ抑留と過酷な労働などが、ソビエト共産主義体制の恐ろしさを国民の間に植え付けたのは否めません。海外の共産主義国家、例えば旧ソ連・中国・北朝鮮の印象が国民に今も強固に根付いています。旧ソ連のスターリンによる粛清、現在の中国や北朝鮮における一党独裁や人権問題などが、「共産党=独裁・抑圧」という強力なイメージを作ってしまいました。日本共産党はこれら諸国の党とは一線を画し、自主独立を強調していますが、一般市民から見れば「同じ名称を冠する勢力」として同一視されやすいのが実情です。

サンフランシスコ平和条約による領土の確定

 共産党は非常に規律が厳しく、組織としてのまとまりが強いことで知られています。この強固な連帯感が、外部の人からは「独自の論理で動く集団」とか「何を考えているか分からない」といった一種の不気味さや近寄りがたさを感じさせてしまうことがあります。組織の閉鎖性という側面が国民に忌避感を与えているのです。

他方で、最近では以下のような理由から、一定の支持や評価を得ている側面もあります。草の根の生活相談:として地域の困りごと、介護、税金、労働問題などに対して、非常に親身に相談に乗る党員や地方議員が多いnおも事実です。にも関わらず「過去の過激なイメージ」と「独裁的な海外諸国の印象」が、現在の党の活動以上に大きな壁となって、日本人の心理的な拒絶反応を引き起こしていると言えます。

 日本の「和」の感性からすると、キリスト教は唯一絶対の造物主の存在が厳格すぎると受け止めます。共産党は組織の特有性や共産主義国家の存在が、国民にマイナスの先入観を与えています。一度国民に刻印されたような思考や思想は,長い年月を経ても容易に熔解しないものです。それが「キリシタンは国を売る」という流布であり、「共産党は怖い」という観念なのです。時代を経てもイメージや思想は、しぶとく生き延びるという例証です。

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キリシタンと共産党員 その三 「暴力革命」のイメージ

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次に共産党の停滞の現象についてです。日本において共産党やその党員が一部で忌避感を持たれたり、広く受け容れられるのが難しい背景には、歴史的、政治的、そして社会的な複数の要因が絡み合っています。最も大きな要因の一つは、1950年代前半に日本共産党が採用した「武装闘争方針」の記憶です。「暴力革命」のイメージを世間に与えたのです。当時、火炎瓶などを用いた過激な活動が行われた時期があり、これが当時の人々に強い恐怖心を与えました。

 後に党は「平和革命」の路線に転換しましたが、当時の「過激」、「怖い」というイメージが年配層を中心に根強く残り、世代を超えて語り継がれてきた側面があります。こうした経緯を振り返ると、江戸幕府がキリシタンに対して与えた恐怖が共産党の辿った厳しさの恐れに類似していることが分かります。マインドセットは痕跡であり、容易に払拭されるものではありません。

 共産党の停滞には、日本の伝統的な価値観や「象徴天皇制」という国体との相性も影響しています。共産党は綱領で「君主制の廃止」を掲げていた歴史があます。現在も最終的には「共和制」を理想としてはいます。多くの日本人が抱く天皇制への親愛の情や、一般的な保守的な国民感情と共産主義の理論が共存しないという背景があります。現在は象徴天皇制を容認しつつも、国民の共産党への理解や支持にはハードルがあるといえます。

 現在の日本共産党の公式な党綱領では、ただちに君主制を廃止して共和制を樹立することは求めていません。2004年の綱領改定以降、以下のような立場をとっています。
つまり、憲法の第1条を含む全条項を厳格に守るという立場から、現在の「象徴天皇制」を認めています。ただし、天皇の政治利用や、戦前のような絶対的な権力を持たせる元首化には強く反対しています。

しんぶん赤旗日曜版−2026年5月号

 共産党は本来、「主権在民」の原則を徹底すべきという思想を持っています。そのため、天皇制を継続するかどうかは、「国政の主人公である国民の総意によって解決されるべきだ」としています。もし、将来的に国民が「天皇制は不要」と判断すれば、結果として共和制、あるいはそれに類する体制へ移行するのが望ましいというスタンスです。

 日本共産党は戦前、天皇に絶対的な権力があった明治憲法体制での「絶対主義的天皇制」を激しく批判し、そのために弾圧された歴史を持っています。戦前の体制が軍国主義や破滅的な戦争につながったという強い警戒感があるため、皇統の世襲による権威が政治的に利用されることに対して極めて敏感です。

 しかし、国民の間に天皇制は不要であるという民意が広がる情勢ではありません。今は、天皇制をいかに維持、発展させるかが議論されています。それが、国会で審議中の皇室典範の改正です。

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キリシタンと共産党員 その二 キリシタン禁教令

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戦国時代から江戸時代にかけて カトリック教会の教徒はキリシタンと呼ばれていました。宣教師追放令を含むキリシタン禁教令は、特定の誰か一人が一度だけ出したものではなく、時の権力者たちによって段階的に強化されていきました。1587年(天正15年)に豊臣秀吉によるバテレン追放令がだされます。九州平定を終えた秀吉が、長崎が教会領となっていることや、日本人が奴隷として売買されている実態を知り、バテレンと呼ばれた宣教師の国外追放を命じたのです。ただし、当初は南蛮貿易の利益を優先したため、徹底した禁教には至りませんでした。

切支丹禁札

 1612年(慶長17年)に江戸幕府を開いた徳川家康が、耶蘇教とも呼ばれていたキリスト教の教えが幕府の主従関係をもとにした支配体制を脅かすと判断し、全国にキリスト教の信仰を禁止する命令を出しました。これにより教会が破壊され、修道士や高山右近などの有力なキリシタンが国外へ追放されました。所領や財産を失った右近はのちにフリッピンで病死します。

 第三代将軍家光の時代に、禁教は最も厳格化します。1638年の島原の乱の鎮圧を経て、1639年にはポルトガル船の来航を禁止します。さらに「宗門改」や「踏絵」といった制度を整え、キリシタンを完全に排除する体制を築きました。鎖国とキリシタン禁制が徹底化されキリシタンとわかれば火あぶりの刑に処せられました。「かの伴天連の徒党、件の政令に反し、神道を嫌疑し、正法を誹謗し、義を損なう、邪法にあらずして何ぞや」、「キリシタンは国を売る」と江戸時代の人々はそう思い込まされたのです。

 徳川幕府のみならず、政権の座にある者ははときに自分にとって都合のいい伝説をつくるものです。一つの政治体制が伝説を作って長年宣伝し続ければ、人々は信じてしまうものです。禁教令は300年続きました。その間、誰もがキリシタンは怖ろしい、と思ってしまったのです。翻って今や憲法によって信教の自由が認められていても、300年の旧教に対する圧制の影響は拭い去られていないというべきです。

 キリスト教は一神教であり、他の宗教と共存することは教義上ではありえません。その厳格さが日本人一般の宗教観に適合できなかったというべきです。明治になってキリシタン禁制が解除された後も、バテレン邪宗門の観念は根強く残存し、耶蘇教ーキリスト教撲滅運動は全国的に激しく行われます。

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キリシタンと共産党員 その一 一神教

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世の中であらゆるモノの価格が上がっている一方で、停滞しているか下がっている現象もあまたあります。例えば出生率や人口です。お金そのものの価値や実質賃金も下がっています。ブランドロイヤリティが下がり、代替品の購入が増えています。節約傾向を反映して、「ついで買い」も下がっています。本稿は、社会的、歴史的事情を念頭に、特に宗教や政治に関して下がっている現象、人々の態度や行動を考えることにします。

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会内の最後の晩餐図

人間の精神的な柱である宗教に関していえば、宗教法人の減少や売買といった現象が起こっています。一義的には信徒が減ったことがその原因といえます。キリスト教会を例にとると、信徒の減少によって教会の統合や閉鎖が見られます。こうした減少と他方カルト宗教の台頭という事象は、時代の変容もさることながら人間の生き方のあり方の変化を象徴しているようです。

キリスト教徒が増えない現象を振り返ると、そこには歴史的な経緯もあることがわかります。特に旧教といわれるカトリック教会の歴史を辿るとそこには、日本人の精神にある一神教に対する忌避感や疎外観が関わっているようです。つまり、一神教であるキリスト教の「唯一神のみを信じる規律」は、既存の人々の血縁や地縁の慣習と衝突しやすく、心理的なハードルとなっていると思われます。次稿では、その歴史的な事情を考察します。

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二人の王様のユーモアと風刺のジャブ

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国王即位後、チャール国王の初めてのアメリカ訪問は、多くのアメリカ国民に感銘を与えたようです。上下両院での演説は単なる外交辞令ではなく、今の世界の諸々の課題に共に勇気を持って立ち向かおうとする気概やエスプリが込められていたのです。演説の途中、何度も議員らが敬意や感動、そして称賛の意を表すために立ち上がって拍手を送る姿がありました。

 議員の総立ちにより演説は一時途絶えますが、その間議員らは、今混乱するアメリカの施政について、もう一人のキングに対する疑惑や反感を考えたに違いありません。このキングは、議会における演説では決して民主党議員から総立ちの賞賛を受けたことがなかったのです。共和党議員ですら総立ちになって拍手するのですから、キングは歯ぎしりをしたはずです。

Charles III

 演説中、チャール国王はこのもう一人のキングの名前は出しませんでした。それが相手に対する国王としての矜持と礼儀だったからです。外交では批判する相手を名指しすることはありません。しかし、議員達は、チャール国王の演説の文脈に、数々の荒々しい発言を繰り返すもう一人のキング、ドナルド・トランプ大統領を容易に想像できたのです。

 チャール国王の演説草稿は、もとはといえば歴史学者ともいえそうなスピーチライターが国王と相談して起草したものと思われます。聴衆の心に響くストーリーを構成し演出するため、過去のイギリスとアメリカの関係について考証し、事実に基づいて起草したことが伺えます。

 歴史上、イギリスと植民地であったアメリカはいわば兄弟のような関係がありました。1760年代のイギリスはジョージ3世の施政下にありました。彼は絶対的な主権を維持し、植民地に対して一貫して強硬な為政をしいていきます。彼は、「植民地は本国に従属すべきもの」という信念を持っていました。植民地への「重商主義政策」と、それに伴う「課税強化」です。それに対して植民地側は和解の嘆願をを送ります。ジョージ3世はそれを拒絶し、彼らを「反逆者」と断定するのです。

 1700年代のアメリカ大陸におけるイギリスとフランスの覇権争いは、「北米植民地戦争」と呼ばれます。ヨーロッパ本国での戦争と連動して何度も衝突を繰り返しましたが、最終的にはイギリスの圧倒的な勝利で幕を閉じました。ジョージ3世は対話よりも軍事力を優先し、ドイツから傭兵を雇い入れてまで植民地の施政に介入します。この強硬姿勢が、それまで国王個人を敬愛していた植民地の人々に「国王は暴君である」と認識させ、独立宣言へと突き動かす一因となっていきます。

 ホワイトハウスでの晩餐会で、二人のキングが交わしたウイットに富むジョークも話題となっています。それは、ダボス国際会議でトランプ大統領が、「第二次大戦で、アメリカがなかったならば、欧州諸国はドイツ語を使っていただろう」という演説に対するものでした。チャール国王はそれに言及して「あえて申し上げれば、イギリスがなかったならば、皆さんはフランス語を話していただろう」と植民地戦争で、フランスの影響力を払拭させたのを遠回しに言ったユーモアだったのです。

 今回のチャールズ国王の訪米は、相手への節度ある賞賛を交えながら、イギリスの立場をしなやかに示した機会となったようです。それが議会での演説であり、晩餐会での答礼スピーチに示されています。

Two kings exchange jab of humor and satire.

King Charles’ first visit to the United States since his accession to the throne seems to have impressed many Americans. His speeches to both houses of Congress were not merely diplomatic formalities, but imbued with a spirit and determination to bravely confront the various challenges facing the world today. Throughout his speeches, members of Congress repeatedly rose to their feet and applauded, expressing their respect, admiration, and praise.

The speeches were temporarily interrupted by the standing ovations, during which the members of Congress must have been contemplating the current turmoil in American governance and their suspicions and resentment towards another king. This king had never received such a standing ovation from Democratic members of Congress during his speeches.Even Republican lawmakers rose to their feet and applauded, so he must have been gnashing his teeth.

During his speeches, King Charles did not mention the name of this other king. This was a matter of royal pride and courtesy. In diplomacy, one does not name the target of criticism. However, in the context of King Charles’ speeches, the members of Congress could easily imagine the other king, President Trump, who has made numerous harsh remarks.

King Charles’ speech draft was originally written in consultation with the king by a speechwriter who could be described as a historian. It appears that the speech was based on a thorough examination of past British-American relations, in order to construct and present a story that would resonate with the audience.

Historically, Britain and its colonies, America, had a relationship akin to brotherhood. In the 1760s, Britain was under the rule of George III. He maintained absolute sovereignty and consistently imposed a hardline policy on the colonies. He held the belief that “colonies should be subordinate to the mother country.” This manifested as “mercantilism” and the accompanying “increased taxation” of the colonies. The colonies sent petitions for reconciliation, but George III rejected them, declaring them “rebels.”

The struggle for hegemony between Britain and France in the Americas in the 1700s is known as the “North American Colonial Wars.” These conflicts, linked to wars in Europe, involved repeated clashes but ultimately ended in an overwhelming British victory. King George III prioritized military force over dialogue, even hiring mercenaries from Germany to intervene in colonial administration. This hardline stance led the colonists, who had previously revered the king personally, to perceive him as a tyrant, contributing to the Declaration of Independence.

A witty joke exchanged between the two kings at a White House dinner has become a topic of discussion. It was in response to President Trump’s speech at the Davos conference, where he stated that “if America hadn’t existed in World War II, European countries would have spoken German.” King Charles responded by saying, “If I may say so, if Britain hadn’t existed, you would all have spoken French,” a humorous indirect reference to Britain’s role in eliminating French influence during the colonial wars.

King Charles’s recent visit to the United States appears to have been an opportunity to subtly demonstrate Britain’s position while offering respectful praise to the other side. This is evident in his speeches to Parliament and his reciprocal speech at the dinner in the White House.

福沢諭吉の西郷隆盛観

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西郷隆盛は、幕末から明治維新にかけての日本史において、最もカリスマ的であり、かつ評価が分かれる人物の一人といわれます。彼に対する評価は多面的で、時代や立場によって大きく異なるようです。近代日本を築いた立役者として、維新の英雄として高く評価されています。軍事面での功績: 薩長同盟の締結、王政復古の大号令、そして江戸城無血開城など、決定的な場面で歴史に立ち会っています。

 江戸城無血開城は、後に明治新政府軍となる東征軍と旧幕府との間で行われた一連の交渉過程と江戸城の新政府への引き渡しのことです。徳川宗家の本拠であった江戸城が、同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから明治新政府軍の勢力が一層増すのです。戊辰戦争が新政府側に一気に優勢となる転機となった出来事です。幕府の使者山岡鉄舟の要請に応じた大総督府下参謀の西郷は彼との交渉に応じます。ここで初めて、東征軍から徳川家へ開戦回避に向けた条件提示がなされます。山岡の下交渉を受けて、陸軍総裁であった勝海舟と西郷との江戸開城交渉は、田町にあった薩摩藩江戸藩邸にて行われました。徳川慶喜は江戸城を退出して上野寛永寺で謹慎します。1868年4月、江戸城が東征軍に明け渡され 5月に慶喜は寛永寺から水戸へ隠遁するのです。

西郷隆盛と勝海舟

 特に江戸城無血開城は、戦火による無益な殺生を避けた慈悲深い決断として、今なお高く評価されています。「敬天愛人(天を敬い、人を愛する)」の精神を掲げ、地位や名誉に執着しない姿勢は、多くの人々に尊敬の念を抱かせています。明治政府において廃藩置県をはじめとする重要な改革を主導し、近代国家の基礎作りに貢献しました。

 しかし、明治政府から離脱し、西南戦争の指導者となったことで、別の側面からも評価されています。明治政府の急速な近代化や士族の困窮に対して、政府を去った後の彼は、いわば「時代の抵抗者」としての性格を強めました。西南戦争で敗死したことで、権力から脱落した悲劇の英雄というイメージが定着しました。にもかかわらず敵対した勝海舟でさえ「怖い」と評したほどの圧倒的な存在感や人間的魅力は、多くの弟子や従者を引きつけました。彼が故郷の鹿児島に開いた「私学校」は、彼を慕う多くの若者たちの拠点となりました。

 福澤諭吉の西郷観は興味あります。彼の著書の一つに「丁丑公論(ていちゅうこうろん)」があります。この本は西南戦争で明治新政府に反抗した西郷隆盛を弁護する内容となっています。序論において、福澤は政府が専制になるのは当然の事とし、これに「抵抗する精神」の重要性を説くのです。さらに、「今、西郷氏は政府に抗するに武力を用いたる者にて、余輩の考とは少しく趣を殊にするところあれども、結局その精神に至ては間然すべきものなし」、つまり西郷隆盛は武力で政府に抵抗した点で、自分とは考えが異なるが、その抵抗の精神においては非難すべきものはないと述べて、武力で政府に反抗した点は評価しないにしても、西郷隆盛の「抵抗の精神」を賞賛するのです。

 また、政府が西郷の官位を剥奪した途端に、新聞が一斉に非難を始めたことに対して、「新聞記者は政府の飼犬に似たり」と述べて、新聞の論調が誹謗中傷の一色になったことと、それに迎合する世論に対して反論していくのです。さらに、「そもそも西郷は生涯に政府の顛覆を企てたること二度にして、初には成りて後には敗したる者なり」、すなわち「西郷は生涯に政府の転覆を2度企てて、最初の明治維新は成功し、2度目の西南戦争では失敗した者である」として、西郷を明治維新の功労者であり忠臣として賞賛します。同時に西南戦争の首謀者であって逆賊として非難することは、ダブルスタンダードであると非難するのです。彼の死後、明治政府は彼を逆賊から「正三位」という高位へと名誉回復せざるを得ませんでした。

 最期に、「西郷は天下の人物なり。日本狭しといえども、国法厳なりといえども、豈(あに)一人を容るるに余地なからんや」、すなわち「西郷は偉大な人物である。国の法がいかに激しいものであっても一人の人物を受け入れる余地はなかったのか」と述べて、西郷の人物を惜しみます。いつかこの人物を明治政府の要人として起用する時もあったはずであると結んでいます

参考文献
 ・丁丑公論 福沢諭吉 時事新報社 1901年

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勝海舟と国民国家思想

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勝海舟のことです。幕府は洋式海軍をおこすべく正式にオランダに海軍教師団の派遣を要請します。やがて1857年に教師団がやってきます。その団長がウイレム・ホイセン・カッテンディーケ(Willem Huijssen van Kattendijke)と言う中佐でした。カッテンディーケは、徳川幕府が発注した軍艦ヤーパン号、後の咸臨丸を長崎に回航した武官です。幕府が開いた長崎海軍伝習所の第2次教官となります。彼の貢献は、勝海舟、榎本武揚などの幕臣に、航海術・砲術・測量術など近代海軍教育を精力的に行ったことです。

ウイレム・ホイセン・カッテンディーケ

 勝は既に江戸でオランダ語を学んでいました。幕臣とともに、カッテンディーケの生徒として勝も選ばれるのです。若い海軍士官のカッテンディーケの回想路によれば、勝はオランダ語を非常によく理解し、そして聡明な人間であり、さらには真の革新派の闘士というように非常に強い言葉でほめています。勝は、オランダの憲法を学ぶ機会に浴し、オランダの市民国家思想を学んでいきます。

 日米修好通商条約批准のため、1860年に幕府から遣米使節団がおくられることになります。使節団は米国海軍フリゲート艦のポーハタン号(Pawhatan)に搭乗して太平洋を横断することなります。勝はこれとは別に、日本の国威のために、日本人の操船による随行艦を派遣すべきだと運動し、長崎時代の練習船咸臨丸の艦長として勝は太平洋を横断することになります。

彼がアメリカで最も衝撃を受け、深く学んだのは技術的なことよりも、むしろ「社会の仕組み」や「民主主義」のあり方でした。彼はアメリカから戻り、老中に呼ばれます。そして「アメリカと日本はどういうところが違うのか」と問われます。勝は「アメリカは日本と違って偉い人が上にいます」と答えるのです。老中らの苦虫を噛む姿が浮かびます。日本では徳川将軍家のような家柄が絶対視される時代でした。ジョージ・ワシントンの子孫のことを聞くと、アメリカでは初代大統領の子孫であっても特別扱いはされず、一市民として生活していることを知るのです。この事実に勝は「身分よりも実力や個人の自立が優先される社会」の有りようを強く意識したようです。「徳川家という私的な組織」が日本を支配している状態から勝はアメリカを視察して、政治は「日本全体」、「公」のためにあるべきと考えていくのです。

戊辰戦争での薩摩軍兵士

 勝は幕府の家臣でありながら、「幕府を守る」ことよりも「日本という国を守る」ことを優先しました。彼の最大の功績は、1868年の戊辰戦争において、官軍の西郷隆盛と会談し、江戸無血開城を実現させたことです。戊辰戦争とは慶応4年1868年から1869年にかけて、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中核とする新政府軍と、旧幕府陸軍・幕府海軍が戦った日本近代史上最大の内戦と呼ばれます。新政府軍が勝利し、国内に他の交戦団体が消滅していきます。この内戦において、欧米などの諸外国は局外中立の立場であったが、フランスのレオン・ロッシュ公使(Léon Roches)などが個人的に旧幕府側を支援していました。

 勝は諸藩が対立する中で、幕府・朝廷・諸藩が統一して欧米列強に対抗すべきであるという「公議政体論」に近い考えを持っていたといわれます。彼のこの広い視野に、敵対していた坂本龍馬や西郷隆盛らが勝に心酔したのは、敵味方の垣根を超えた「橋渡し役」として役割を果たしたからでしょう。勝は維新後も参議、海軍卿として、後の海軍大臣などを歴任しました。

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勝海舟と西郷隆盛との対比

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司馬遼太郎からみた小栗上野介の勝海舟と西郷隆盛との対比は興味あることです。司馬は、勝海舟を「時代を泳ぐ政治家・策士」とするなら、小栗は「実務を積み上げる技術者・構築者」であったと評します。司馬は勝の柔軟さを認めつつも、実務能力では小栗が圧倒していたとみています。次に、西郷隆盛との対比です。西郷を「情緒と徳の人」とするなら、小栗は「論理と数理の人」と評価します。明治新政府が西郷的な情緒を削ぎとり、小栗的な官僚機構へ移行していく過程を司馬は冷静に記述しています。司馬にとって小栗上野介は、「不運にも時代に殺されたが、近代化の構想という魂は後の日本を支配し続けた人物」という、非常に敬意を払う描き方をしています。

勝海舟

 1860年の万延元年に小栗は遣米使節団に加わります。日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府が派遣した使節団の「目付」いわゆる監察役としてです。当時のアメリカ大統領ブキャナン(James Buchanan)への謁見や、造船所・工場などの視察を通じて、身分制度に縛られない実力主義や、効率的な経済システム、軍事組織のあり方を深く学びます。帰国した小栗は、外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行といった要職を歴任し、破綻寸前の幕府財政を支えながら、猛スピードで近代化を推し進めました。

 小栗の最大の功績は、日本近代工業の礎となる「横須賀製鉄所」の建設です。フランスの支援を得て、現在の横須賀海軍施設内に「横須賀製鉄所」、後の横須賀造船所を建設したことです。単なる造船所ではなく、ボルト・ナットの製造から金属加工までを行う「工場の工場」を目指したのです。日本で初めて「就業時間」、「賃金制度」、「洋式簿記」などを導入し、近代的なマネジメントを確立したといわれます。

西郷隆盛

 小栗は、株式会社の先駆けとなる「兵庫商社」を設立し、貿易の活性化を図りました。兵庫商社は、幕府の主導により、大坂や兵庫の商人の出資によって設立されました。構成員には、三井のほか、大坂の有力商人の鴻池や加島屋、兵庫からは酒造業者が名を連ねました。小栗は提案書で初めて「商社」という言葉を使ったといわれます。郵便制度、電信、鉄道の設置も提言し、先見の明があったことがわかります。これらは後に明治政府によって実現されました。

 軍制改革と教育面でも小栗は活躍します。すなわち、幕府軍の近代化のため、フランス軍事顧問団を招へいします。外交官や技術者を育成するため、幕末の1865年、慶応元年に横浜仏語伝習所というフランス語学校が開設されます。日本初の官立フランス語学校です。幕臣の子弟を中心に選抜された精鋭たちが集まりました。フランス語の習得はもちろん、西洋の諸科学や文化も教えられていました。この伝習所からは、近代日本哲学の父、西周や法学者の津田真道が育っていきます。ここで学んだ若者やフランス学の伝統は、後の明治政府における司法制度の確立に貢献します。

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ポトマック川の五色桜

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今ワシントンD.C.のポトマック川の五色桜は満開です。もともと五色桜は、現在の東京都足立区の荒川堤に植えられていた桜の総称です。明治時代、ソメイヨシノだけでなく、多種多様な里桜が約78種類も植えられ、その多様な色彩から「荒川の五色桜」として世界的に有名になりました。1912年に日本からワシントンD.C.へ贈られた3,000本の桜の多くは、この荒川堤の苗木から育てられたものでした。

 しかし、本家である日本の五色桜は、その後の不幸な歴史によって絶滅の危機に瀕します。その理由は、工場の排煙や都市開発による環境悪化、荒川の改修工事に伴う伐採、そして第二次世界大戦による被害によります。これにより、東京の五色桜はほとんどが失われてしまいました。

 戦後、かつての美しい五色桜を復活させようという動きが日本で起こりましたが、すでに日本国内には元々の品種が揃っていませんでした。そこで、ワシントンに贈った桜が、当時の血統を保ったまま元気に育っていることに着目し、ワシントンから枝を分けてもらうことになったのです。1952年に荒川堤の改修を機に、初めてワシントンから枝が贈られました。1981年には「レーガン桜」として、さらに大規模な里帰りが行われ、足立区などに植樹されました。

 真珠湾攻撃後の戦時中、ワシントンでは日本への敵対心から桜が数本切り倒される事件が起きました。さらに「桜をすべて引き抜いてしまえ」という過激な意見も出たといいます。しかし、多くのアメリカ市民や関係者が「木に罪はない」「この桜は平和と友情の象徴である」として、桜を守り抜きました。戦時中は「日本の桜」と呼ぶ代わりに「東洋の桜」と呼び方を変えるなどの工夫をして、この美しい景観が維持されたのです。

The Goshikizakura (five-colored cherry blossoms) along the Potomac River in Washington D.C. are in full bloom. Originally, Goshikizakura was a general term for cherry trees planted along the Arakawa River embankment in what is now Adachi Ward, Tokyo. During the Meiji era, not only Somei Yoshino cherry trees but also approximately 78 varieties of other diverse village cherry trees were planted, and their diverse colors made them world-famous as “Arakawa’s Goshikizakura.” Many of the 3,000 cherry trees gifted from Japan to Washington D.C. in 1912 were grown from saplings along this Arakawa River embankment.

(住友林業グループより引用)

However, the original Goshikizakura in Japan faced extinction due to unfortunate circumstances. These included environmental degradation from factory emissions and urban development, felling during Arakawa River improvement work, and damage from World War II. As a result, almost all of Tokyo’s Goshikizakura were lost.

After the war, there was a movement in Japan to revive the beautiful Goshikizakura of yesteryear, but the original varieties were no longer available within Japan. Therefore, noticing that the cherry trees gifted to Washington were still thriving while maintaining their original lineage, it was decided to request branches from Washington. In 1952, during the renovation of the Arakawa River embankment, the first branches were gifted from Washington. In 1981, a larger-scale return of the trees, known as “Reagan Cherry Trees,” took place, with trees being planted in Adachi Ward and other areas.

During the war after the attack on Pearl Harbor, several cherry trees were cut down in Washington due to hostility towards Japan. There were even extreme calls to “uproot all the cherry trees.” However, many American citizens and those involved protected the trees, stating that “the trees are innocent” and “these cherry trees are symbols of peace and friendship.” During the war, efforts were made to preserve this beautiful landscape, such as changing the name from “Japanese cherry trees” to “Oriental cherry trees.”

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「知」の先人達

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江戸時代の末期の文久2年(1862年)に幕命でオランダへ留学し、西洋哲学を日本に紹介した最大の人物が西周です。オランダ最古のライデン大学(Universiteit Leiden)でシモン・フィッセリング(Simon Vissering) に法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学びます。現代の私たちが日常的に使っている多くの哲学用語の生みの親とも知られています。例えば、「哲学」「命題」「定義」「主観」「客観」「帰納」「演繹」「知識」「概念」「理性」「芸術」「科学」「技術」「心理学」「意識」といった訳語を作ったのも西です。西洋の概念を漢字で表現することで、日本人が西洋思想を深く理解するための土台を作りました。

ライデン大学

ライデン大学は、1575年にネーデルラント(オランダ)の指導者ウィレム1世(Willem I)によって設立されます。ヨーロッパでも最も古い大学の1つといわれます。ルネ・デカルト(René Descartes)、レンブラント(Rembrandt van Rijn)、フーゴー・グローティウス(Hugo Grotius)などを輩出しています。

中江兆民もまた岩倉使節団の一員としてフランスに渡り、フランス流の民主主義を日本に輸入しました。岩倉使節団は、明治維新期の明治4年から明治6年まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国の米欧12ヶ国に派遣された使節団です。岩倉具視を特命全権大使とし、首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成されました。その中の一人、中江兆民は「東洋のルソー」と呼ばれ、ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の『社会契約論』を翻訳し、それを『民約訳解』として出版し、自由民権運動の理論的支柱となります。

中江兆民

近代的な法律学を輸入した人物に穂積陳重がいます。彼はイギリスとドイツに留学し、日本の民法起草に携わりました。医学面では北里柴三郎がいます。ドイツ留学にしコッホ(Heinrich Robert Koch)に師事して、細菌学や血清療法を導入します。ペスト菌の発見や血清療法の確立など、日本の近代医学や公衆衛生を世界レベルに引き上げるのです。建築の分野に辰野金吾がいます。イギリスに留学しジョサイア・コンドル(Josiah Conder)に学び、後に赤レンガの東京駅などを設計した建築家です。科学の分野では高峰譲吉がイギリスに留学し化学工業の基礎を築き、アドレナリンを発見するのです。芸術の分野に黒田清輝がいます。フランスに留学し印象派の明るい作風を日本画壇に持ち込み、後に「洋画の父」と呼ばれるのです。

1867年のパリ万博は、当時の世界最新のテクノロジーや芸術、そして各国の文化が一堂に会した「文明の祭典」といわれました。日本にとっては、江戸幕府が公式に参加した最初の万博であり、日本文化が初めて西洋に本格的に紹介された歴史的なイベントとなります。パリ万博を視察した渋沢栄一は1867年から約1年半にわたってパリを中心にヨーロッパを歴訪します。この滞在は、後に「日本資本主義の父」と呼ばれる彼の基盤を築く決定的な体験となります。株式会社制度を学び、帰国後は第一国立銀行、現在のみずほ銀行など500以上の企業設立に関わります。日本の近代化には、信頼の拠点となる銀行が不可欠であると考えたのです。

渋沢は、経済活動だけでなく、社会福祉を向上する制度にも注目したようです。その例は、病院、孤児院、盲学校などの医療、福祉施設を視察し、「富は個人が独占するものではなく、社会に還元すべきもの」という考えを深めていきます。これが、彼が晩年に社会公共事業や教育に力を注ぐ原動力となったといわれます。 フランスにおいて、生活インフラと都市機能の発達を見聞します。例えばガス灯、鉄道、水道、郵便、そして最新の科学技術など、近代都市を支えるインフラを理解していくのです。

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日本近代化の先駆者達

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江戸末期から明治初期にかけて、多くの先覚者たちが、いわば命がけで海を渡りました。やがて彼らが持ち帰った「西洋の衝撃」は、停滞していた旧体制を打破し、近代国家の日本を形作る力強い原動力となっていきます。当時の交通機関の未発達な状況で、海外渡航は大変な苦労だったことが想像できます。それでも不安ながら大望を抱いた指導者らは、祖国日本の発展のために大きな期待をいだいて出発したに違いありません。

幕末の先駆者たちは、開国へと目覚めていきます。江戸幕府が派遣した使節団や密航に近い形で渡欧した若者たちは、やがて日本の「近代化」の種を蒔きに貢献していきます。その最たる人物は福澤諭吉です。幕府の遣欧使節団に加わりアメリカを見聞していきます。福沢は 帰国後、西洋の日常習慣や社会制度をわかりやすく解説した『西洋事情』を執筆し、ベストセラーとなります。慶應義塾の創設や「天は人の上に人を造らず…」で知られる『学問のすゝめ』を通じて、個人の独立自尊こそが国を強くすると説きました。

西洋事情

 1863年に長州藩から派遣された5人の若者たちは、密航同然でイギリスへ渡航します。帰国後は倒幕運動の中心となります。後に長州五傑と呼ばれたのが、井上馨、後の初代外務大臣、伊藤博文、後の初代内閣総理大臣、山尾庸三、後に「工学の父」と称され、工部省の設置に尽力、井上勝、後に「鉄道の父」と呼ばれ、日本の鉄道建設を指揮、そして遠藤謹助で後に造幣局長を務め、「造幣の父」と呼ばれます。当時はまだ江戸幕府による鎖国令の下、海外渡航は死罪に値する禁忌でしたが、彼らは密航という形でイギリスへ渡航したのです。

 長州五傑に続き、1865年に薩摩藩から密使としてイギリスへ送られた一行は総勢19名でした。森有礼は初代文部大臣となり、日本の近代教育制度を確立します。五代友厚は大阪経済の父と呼ばれ、大阪株式取引所などを設立します。寺島宗則は「電気通信の父」と呼ばれ、外交官としても活躍します。長澤鼎という人物は、 唯一日本に帰らず、カリフォルニアで「カリフォルニアのブドウ王」として成功するのです。忘れてはならない人物は新島襄です。長州五傑に先立つ1年前、1864年に函館からアメリカへ密航します。帰国後同志社大学を創設します。

 岩倉使節団は、1871年から約1年10ヶ月にわたって欧米諸国を視察します。明治政府の威信をかけた総勢100名を超える大規模な使節団といわれます。その一行の中の主要メンバーとして特命全権大使となったのが岩倉具視です。「維新の三傑」と呼ばれ、長州派のリーダーであった木戸孝允もいました。薩摩派のリーダーであった大久保利通も加わっています。帰国後は殖産興業を牽引した人物です。

不平等条約の風刺画

 この使節団には、現地で学ぶための留学生や各分野の専門家も多く同行しました。後に大日本帝国憲法の起草に参画した金子堅太郎、後に外務大臣や内大臣を歴任した牧野伸顕、そして日本初の女子国費留学生となる津田梅子です。当時彼女は6歳だったようです。長期間の米国生活を経て帰国後、日本の女子教育の遅れに衝撃を受けた彼女は、女子英学塾、現在の津田塾大学を創設し、女性の地位向上と高等教育に一生を捧げていきます。

 こうした使節団は、幕末に結ばれた不平等条約の改正を求めて交渉するのですが、国力不足のために改正は成りませんでした。それでも、政治、経済、教育、軍事、文化などあらゆる分野に直接触れて、日本を近代化するための知見を得て帰国します。

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貨幣論 その6  経済や財政上の用語

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少し専門的な分野の経済や財政にまつわる略語を説明します。テレビや新聞などのオールドメディア、SNSなどでの新興メディアでしばしば登場する財政上の略語です。財政均衡とか健全財政をうたい、増税を意図する財務省や与党や野党の一部の議員、積極財政というかけ声で、内需の拡大やデフレ回復を叫ぶ学者や議員の双方がしばしば使う略語を紹介します。

P.M.:Primary Balance
 プライマリー・バランスと呼ばれ「基礎的財政収支」と訳されています。税収や税外収入と、国債費(国債の返済や利子)を除く歳出との収支のことです。簡単に言うと、社会保障や公共事業などの政策的経費を税収などで賄えているかを示す指標です。財務省が使いたがる略語です。経済が不況で需要不足の状態の場合、基礎的財政収支の赤字を拡大する積極財政で民間部門に資金を供給して、経済を活性化する財政政策が求められるのです。今はそうした時期なのです。プライマリー・バランス黒字化目標を旗印に増税と緊縮財政に突き進む財務省への批判として、「ザイム真理教」とか「財務省、亡国論」と呼ぶ者が増えています。

MMT:Modern Monetary Theory
 MMTは現代貨幣理論と呼ばれています。この話題は既に前稿で取り上げています。通貨発行権を持つ国家は債務返済に充てる通貨を自在に創出できることから、「財源確保のための徴税は必要ではない」、「財政赤字で国は破綻しない」、「インフレにならない限り国債はいくら発行しても問題はない」と主張するのです。MMTはケインズ(John M. Keynes) 経済学の流れを汲むマクロ経済学理論のひとつで、「政府の財源は税と債券発行によって調達すべき」、「赤字拡大が続けば国は破綻する」という主流派経済学の見方に対抗しています。

BS: Balance Sheet
 貸借対照表と呼ばれています。ある時点における企業の資産状況を示す書類です。企業がどのくらいの資産を保有し、その財産を調達するためにどのくらいの負債を負い、どのくらいの純資産があるのかを表す財務諸表のことです。資産、負債、純資産の3つの要素で構成され、左側に借方として資産、右側に貸方として負債と純資産を記載します。銀行は企業に融資するとき、企業の貸借対照表を見て、企業の返済が可能かを判断します。大切な財務諸表といえます。決算に際して作成する決算書と財務諸表のひとつで、企業の保有資産と負債、純資産が表形式で示されています。

CEFP: Council on Economic and Fiscal Policy
 経済財政諮問会議の略語です。この諮問会議は、日本の内閣府に設置され重要政策に関する事案を協議します。この会議では、最終的に経済財政運営と改革の基本方針、いわゆる骨太の方針がとりまとめられ、予算方針に反映されます。会議の成員は、議長と10人以内の議員から成ります。民間有識者数を議員の4割以上確保することが法により定められています。ですが、議員の内2人は日本経団連幹部であり、経団連の利害が強く反映されているのではないかという批判があります。

FTA: Free Trade Agreement
 「自由貿易協定」と呼ばれるもので、2か国以上の特定の国・地域の間で、貿易自由化のために締結する協定のことを指します。自由貿易協定のメリットは「関税の軽減・免除」にあります。日本は’通商交渉ではWTO体制下の多国間主義に重きを置いていました。しかし、多国間主義の限界を認め、他国との競争条件を等しくするために、積極的な二国間・地域間交渉に乗り出さざるを得なくなりました。それまではFTAに対する取り組みは、欧米諸国と比較すると遅れていました。グローバル経済が拡大するなかで、日本がFTAを締結していないことで、海外ビジネスにおいて日本企業が不利益をこうむるケースも発生していました。そのような状況から、日本政府もFTAを推進する意識を強く持つことになります。FTAを相手国と締結することで、協定の内容および交渉によって、段階的な関税の軽減・免除ができるようになり、お互いのメリットを追求した貿易ができる可能性が高くなりました。
 ただし、FTAの協定内容によっては、従来は守られていた産業が衰退してしまったり、自国の特定産業が育たなくなってしまうデメリットもでてきます。その例は、アメリカやオーストラリアからの畜産物の輸入により、国内の酪農家が影響を受けたことです。

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貨幣論 その5 MMT(現代貨幣理論)とは

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現代貨幣理論(Modern Monetary Theory: MMT) の最も根本的な主張は「自国通貨を発行できる政府は、財政的に破綻することはない」という点です。このことを本稿では取り上げます。通貨主権国は財源の制約を受けないというMMTの核となる考え方は、日本やアメリカのように自国の通貨、すなわち日本なら円、アメリカならドルを発行できる国は、税収や国債発行に依存しなくても、必要であれば無制限に自国通貨を生み出すことができるという点です。

(角川書店より引用)

 従来の考え方、つまりこのブログのどこかで取り上げたザイム真理教が基盤とする考えによれば、政府は、税金や借金(国債)で資金を集めてからでないと支出できないとし、財源の制約があると主張します。他方MMTの考え方:政府は、支出することによって通貨(お金)を創造している、そのため、お金を調達する能力には制約がない、これにより、自国通貨建てで国債を発行している限り、債務不履行(デフォルト)は論理的にあり得ないと主張します。

 政府がいくらでもお金を生み出せると聞くと、「無制限に支出してよい」と誤解されがちですが、MMTはそうではありません。MMTは、財政支出の制約となるのは「財源(お金)」ではなく、「インフレ率」であると主張します。政府支出の限界、つまり政府が支出を拡大しすぎると、国内の人・モノ・設備などの実物的な資源が不足し始めます。インフレの発生とは、モノやサービスを生み出す力経済の供給能力の限界を超えて政府がお金を使いすぎると、需要が供給を大幅に上回り、物価が急激に上昇します。この現象はハイパーインフレといわれます。したがって、MMTは、「インフレ率が許容できない水準に達しない限り、財政赤字は問題ない」という立場をとります。

 次に、税の役割は「財源確保」ではないという立場です。MMTでは、税金の役割を以下のように捉えます。税の役割とは、政府の活動に必要な財源を調達することであり、民間からお金を回収し、インフレを抑制する役割があると主張します。政府の国債によって集めた資金を効率的に使うこと、インフレ率が目標内に収まる範囲で、完全雇用達成のために必要な支出を行うことが税の役割であるというのです。すなわち税金は、政府が市場からお金を吸い上げ、過剰な需要を減らして景気を調整するためのツールであると位置づけるのです。

櫂歌書房より引用)

 MMTの観点から見ると、現在の日本経済は以下のようになります。巨額の国債に関しては、自国通貨建てであり、実質的な債務不履行リスクはないため、過度に心配する必要はないのです。日本の現状は、供給力に対して需要が不足する長期間のデフレにあり、インフレの心配がほぼない状況といわれます。MMTの政策への提言として、増税や緊縮財政は経済を冷やすため行うべきではなく、インフレ率が上がるまで、公共投資や国民への給付金などの積極的な財政赤字の拡大する財政出動をすべきであるという考え方です。

 高市政権は、現代貨幣理論に厳密に沿った政策をとっているかは分かりませんが、積極的な財政出動を公約に掲げ実行しつつあります。今回の衆議院議員選挙で自民党が大勝したのは、現代貨幣理論にそった「責任ある積極財政政策」を国民が支持した結果だと考えられます。

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貨幣論 その4 商品貨幣論とは

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商品貨幣論の論拠は、「お金の価値はもともと商品そのものの価値から生まれる」という考え方です。古典派経済学や一部の貨幣史研究で広く語られてきた説明です。本稿では商品がなぜ貨幣として考えられたか、その考えがなぜ論拠として不十分といわるかを整理します。

 商品貨幣論の根拠は、主に 歴史観や交換の理論、金属貨幣の存在から説明されます。要は物々交換から貨幣が生まれたという説明です。大昔は米と魚などで物々交換をしていました。しかし交換することは運搬や時間がかかり誠に不便でありました双方の欲求が一致しないと交換は成立しません。必そこに交換しやすい商品が媒介になるという状況になります。それが塩であったり貝であったりするのです。こうして、最終的に 金銀などが 自然に貨幣化するのです。

1923年発行のレンテンマルク硬貨

 金銀は保存性や希少性、そして分割可能で持ち運びやすいという特徴があり、商品として価値があるため貨幣になったと説明されました。金貨は金として価値があり、銀貨は銀として価値があるからです。アメリカの人類学者でデヴィッド・グレーバー(David Graeber)は、「負債論─貨幣と暴力の5000年」という著作のなかで、人類学研究では、純粋な物々交換社会はほぼ確認されていないと主張します。つまり、歴史的に多くの貨幣は国家の税制度と結びついて成立したというのが定説となっています。例えば国家が税を貨幣で支払わせるとか、国家が貨幣を発行することにより貨幣需要が生まれるという立て付けです。

 ところで現在の貨幣の大半は、銀行預金であり電子マネーであり中央銀行が発行する通貨です。これらの通貨は、商品価値を持たないのです。貨幣価値 ≠ 商品価値という式となります。その代わり、現代の多くの研究では貨幣 = 債務(I owe you: IOU)と考えられています。IOUは通常、債務を認める非公式の信用証書のことであり、 貨幣とは「誰かの支払い義務」ということになります。つまり、IOUとは、自分が相手に対して何か(お金、物品、サービス)を渡す義務があることを認める債務の承認であり、貸し手側から見れば、そのメモは「将来何かを受け取れる権利(債権)」ということです。私たちが銀行に預けている「預金」は、実態としては「銀行が預金者に対して発行したIOU」となります。通帳の数字は、銀行があなたに対して「あなたが求めた時に、いつでもその額の現金を支払う義務があります」と約束している証拠です。

 商品貨幣論には深刻な欠陥が指摘されています。その一つは、前述してきたように貨幣が交換手段を起源として生じたという歴史的な根拠がないことだといわれます。もっとも商品貨幣論には、紙幣がどうして貨幣として流通しうるのかを説明できないという見方があります。金貨や銀貨であれば賃金属片としての価値があるとはいえなくもないのですが、紙幣は紙片に過ぎず、その経済的価値はほぼないに等しいのです。一万円札の印刷代は20円といわれるほどです。そこで主流派経済学者は紙幣の存在を商品貨幣論によって説明するために、人々が紙幣に貨幣として価値があると信じているから、紙幣は貨幣として価値があるという論法を持ち出さざるをえなるのです。

 しかし、この論法は紙幣を貨幣として受け入れる々人々がいるからだ、ということを暗黙のうちに前提しています。商品貨幣論には貨幣が計算単位であることについて誤解があるようです。主流経済学の理論では、金貨などの賃金属片の価値は市場における交換によって定まり、それが価値の標準となり計算単位となると主張します。タバコ一箱を例にとりますと、市場における交換を通じてその価値が定まり、それが標準となり計算単位となればタバコ一箱でも貨幣になりうるというのが商品貨幣論です。

 市場には無数の商品があり取引されています。無数の交換レートが発生しうるというのが商品貨幣論です。しかし、現実の貨幣経済における取引はそのようになっていません。これは商品貨幣論が誤りであることを示しているのです。ちなみに、かつて金本位制という貨幣の価値を金の価値に固定することで安定させようとする時代がありました。紙幣の価値を金の保有量と結びつけ、銀行券をいつでも金と交換できることを保証する制度でした。しかし、日本は1931年12月に金本位制を停止し、金兌換がなくなりました。貨幣と金の交換価値は政治的な権威によって決定されたのです。市場が決めたのはありません。その後、1942年に日本銀行法によって管理通貨制度へ移行し、今日の通貨制度の基礎が作られました。商品貨幣論は消滅したといえます。

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貨幣論 その3 信用創造とは

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銀行がどのようにお金を作り出すか、という過程は私どもの直感とは少し異なるため、非常に興味深い話題です。一般的には「誰かが預けたお金を、銀行が別の人に貸し出している(又貸し)」と思われがちです。しかし、現代の貨幣論、特にイングランド銀行(Bank of England) などの中央銀行も認めている見解では、「貸し出しによって預金が生まれる」と考えます。これを「信用創造(credit creation)」と呼びます。

 信用創造のステップですが、銀行が私に融資をする際、金庫から現金を取り出して渡すわけではありません。私が銀行から100万円を借りる契約をすると、銀行は私の通帳に「1,000,000」と数字を書き込みます。キーボードの入力で済むのです。この瞬間、世の中に新しい預金というマネー、100万円が誕生します。銀行の貸借対照表には借方に資産として「貸付金」が、貸方に「預金」として同額計上されます。信用創造とは、銀行は元手となる現金を持っていなくても、借り手の「返済能力」という信用を担保に、記帳だけでお金を作り出せるのです。無からの創造という立て付けなのです。

やさしい経済学と哲学から引用)

 市中銀行は無限にお金を作れるわけではありません。そこには一定のルールがあります。預金準備率という制約で、それが「準備預金制度」です。市中銀行は、預金の一定割合、例えば1%などを「準備預金」として中央銀行、日本なら日銀に預けなければならないという決まりがあります。これは中央銀行への預け入れと呼ばれます。この比率があるため、銀行が作り出せるお金の総額には理論上の上限が生じます。

 信用創造の連鎖は次にようになります。A銀行に100万円が預けられるとします。準備率が10%ならA銀行は10万円を日銀に預け、残り90万円をB会社に貸し出します。B会社がその90万円を支払いに使い、受け取った会社C会社がそれを乙銀行に預けるとしてます。乙銀行は9万円を日銀に預け、残り81万円を貸し出すという連鎖となります。このように、連鎖的に預金が膨らんでいくプロセスを指して「信用創造」と呼ぶこともあります。

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