食料品消費税ゼロの問題

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いくつかの政党は選挙公約として食料品の消費税をゼロにする、と訴えています。食料品が非課税となると、モノが安くだろうと消費者は喜ぶかもしれません。ですが外食業者の食堂やレストランは困るといわれます。よくいわれる懸念は、外食業者は「税率の差があることで不利な競争にさらされる」といわれます。それは次のような理由からです。

 第一は、値段の面で不利になることです。もし食料品(スーパーの食品など)の消費税が0%になって、外食業者が今まで通り10%の課税のままだと、スーパーで買って家で食べる → 税0%、食堂で食べる → 税10%という差がはっきり出ます。すると消費者は「同じ料理なら、家で食べたほうが安い」となりやすく、外食を控える人が増える可能性があります。

 第二は「持ち帰り」との競争がさらに厳しくなることです。日本ではすでに持ち帰り、食品販売の軽減税率、店内飲食の通常税率という区別があります。食料品が完全に非課税になると、弁当を買って帰る → 税0%、店内で食べる → 税ありという差がもっと大きくなります。結果として、店内飲食をやめて持ち帰り中心になり、そもそも外食産業が縮小するという圧力が強まります。

 第三は、仕入れ税額控除の問題です。食堂やレストランは、食材、設備、光熱費などを課税仕入れとして購入しています。でも、もし最終的に売る料理が「非課税」や「低税率」扱いになると、仕入れで払った消費税を十分に回収できないケースが出てきます。これは利益を圧迫します。

 第四は政策の「線引き」が不公平に見えることです。事業者側から見ると、食べる行為は同じ、料理内容も同じなのに「家で食べるか、店で食べるか」だけで税負担が大きく変わるのは不合理、という不満もあります。

 まとめると食料品の消費税がゼロになると食堂やレストランが困ると言われるのは、値段で不利になり客が減りやすい、持ち帰りとの競争が激化する、仕入れ税額控除の面で損をしやすい、税制上の不公平感が強まるからなのです。

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「中道」と「中庸」

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新しい政治政党が誕生しました。その名は「中道改革連合」というのだそうです。「中道」とは右派(保守)と左派(革新)の中間に位置する立場というように解釈されます。この新党の綱領や政策を見ると、現実的で実務的、折衷的な政策を重視しがちで、「どちらの主張も一部取り入れる」とか「極端には寄らない」という意味合いが感じられます。というわけで「どちらの主張も一部取り入れる」「極端には寄らない」ということで、政治に使うと「妥協主義」とか「波風を立てない」という印象を持たれることもあります。

 「極端には寄らない」ことの例は、減税も必要だが社会保障も重視するとか、規制緩和は進めるが、弱者保護も同時に行うというように受けとれます。政治的ポジションを示す言葉なので「中道改革連合」という党名は「右でも左でもなく、現実路線で改革する政党ですよ」という自己定義になります。

四字熟語辞典オンラインより引用

 「中道」に似た言葉に「中庸」があります。なぜ政党名は「中庸」ではなく「中道」なのかという素朴な疑問が生まれます。「中庸」の出典は儒教の古典である「四書」の一つ『礼記』のなかに『中庸』が見いだされます。wikipediaによりますと、『礼記』は孔子の孫にあたる 子思の作と伝えられています。

 「中庸」の「中」とは、偏らない、私心や感情に振り回されていない最適点、状況に応じて変わる「一点」と解釈されます。真ん中で止まる、という意味ではありません。次に「庸」の本来の意味は、常とか普段、持続するという意味で、一時的でなく、日常として実践し続けると解釈され、 偏らない最善の判断を、日常的に実行し続けることのが「中庸」であるとされます。

 「中庸」は君主や官僚、知識人に求められる統治のための倫理でした。理由は明白で、感情に流されない極端な政策をとらない長期的な秩序を保つための思考法だったからです。民衆向けの道徳というより、支配者の自己修養的な手引きだったようです。

 少し脇道にそれますが、日本社会で中庸が「事なかれ主義」と捉えられることもあります。その理由は、「中庸」という「高度な判断倫理」が、社会の運営上で「衝突回避の作法」に置き換えられていった、というのが大きいといわれます。儒教の「中庸」は状況を見極める高度な判断力で結果として調和(和)を生むという思想です。日本社会は「対立を処理する制度」が弱く、結果として 波風を立てないことが善しとされ、対立は「空気」で収める価値観が強化されました。従って、日本での「中庸」は責任回避と相性が良く、「中庸」が事なかれ化すると、誰も決断しなくていいとか、誰も悪者にならない、失敗の責任を拡散するという具合に、組織にとっては非常に都合がいいのです。でもその代償として、問題の先送りや改革の遅れとか、不満の内面化が慢性化したことは否めない事実です。

「中道改革連合」に戻ります。「中道」とは政治的に立場は中間ですが、行動や改革はできる印象があります。他方、「中庸」とは 消極的で優柔不断、現状追認に聞こえやすいことがあります。本来、「中庸」は「ちょうどいい」ではなく、状況ごとに変わる「最適解」を見極め続ける知的態度であり、妥協ではなく、むしろ高度な判断力と自制心を要求する思想とも言い換えることができます。だから政治のスローガンには向きにくいので、選挙や政党名では圧倒的に「中道」が選ばれるのだと思われます。

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「ポピュリズム」とは何か

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衆議院の解散による総選挙を前に、各党の綱領や政策が発表されました。自分の党の支持を訴えるためでしょうか、他党の政策が「ポピュリズム」 (populism)だと批判したり揶揄しています。一体「ポピュリズム」とは何なのかを考えるのが本稿の趣旨です。

 「ポピュリズム」 とは単なる大衆迎合と片づけられがちですが、哲学や政治学的にはかなり奥行きのある概念といわれます。ラテン語の「人民 (populus)」が語源で、「ポピュリズム」の英語はそのまま populismと表記されます。日本語では「人民主義」とか「大衆迎合主義」と訳され、一般大衆の感情や要求に訴え、既存のエリート層や体制を批判する政治思想や運動を指します。左右極端を問わず現れ、しばしば「庶民とエリート」という対立構造で語られるのが特徴です。

ウォールストリートに掲げられた抗議の看板:99%とは大衆を意味します。

 ポピュリズムとは何かという基本定義ですが、政治学での一般的な定義は、だいたい次のようなものです。すなわち「純粋で同質的な〈人民〉」 vs. 「腐敗した〈エリート〉」という二項対立を軸にした政治を捉える思想や言説、政治スタイルです。特徴的なのは、「人民の一般意志」を強調することです。政治家、官僚、専門家、メディアといった既存のエリートへの強い不信を持ち、「自分という指導者が人民の声を直接体現する」という主張です。ポピュリズムは完全なイデオロギーではなく、右にも左にも結びつく「薄い思想(thin-centered ideology)」とされることも多いようです。

 ポピュリズムの哲学的背景や思想的系譜を辿ってみましょう。哲学的に重要なのがフランスの思想家であるジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)です。彼は、人民は本来、共通善を見抜く「一般意志」能力を持つ存在であるとし、「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」に基づいて自由を束縛し、不平等という弊害が拡大していくにつれて悪が社会に蔓延していくのだと述べます。ルソーはこうした仮説に基づいて、文明化によって人民が本源的な自由を失い、社会的不平等に陥った過程を追究し現存社会の不法を批判します。そこから人民は一つの意志を持つことによって、人民の意志を歪めるエリートを糾弾していくのです。このルソー的な民主主義理解はポピュリズムという発想に繋がると考えられます。

Jean-Jacques Rousseau

 ポピュリズムには、テクノクラシー(technocracy)という専門技術知への不信とか理性万能主義への反発という側面があります。これは「啓蒙思想 vs. 生活世界の常識」という構図や「抽象理論 vs. 体感的な正義」という対立構図で示され、「専門家よりも普通の人の感覚を信じる」という態度が正当化されるという反啓蒙・反エリート主義のことを示すようです。

 政治学でのポピュリズムの理論があります。ジョージア大学(University of Georgia) の国際関係学部准教授であるカス・ミュデ(Cas Mudde)は、「ポピュリズムとは、善良な人民と腐敗したエリートが対立し、前者の民意が実現されるべきだというイデオロギーである」と定義します。そして人民とエリートという2つのカテゴリーを均質なものとみなし、エリートは腐敗している一方、人民はすべて同じ利益と価値を持っていると捉えます。その二つの主な対立は道徳的なもので、道徳的な意味での善であるか悪であるか、という点が問われるというのです。ポピュリズムとは「人民中心主義」、「反エリート主義」、「一般意志の道徳的正当性」、「善悪の道徳化」という視点が特徴とされますが、エリートとは不正や腐敗にまみれ、人民とは道徳的に正しいという単純化が起きやすいということも指摘します。

 アルゼンチン出身の政治理論家であるエルネスト・ラクラウ(Ernesto Laclau)は、ポピュリズムを否定的に捉えません。社会には本来、未解決の要求が蓄積するのであって、それらを「人民」という言葉で束ねる政治的実践がポピュリズムであり民主主義の活性化装置になりうると主張します。これは、左派ポピュリズムといわれています。ラクラウは、ポピュリズムとは、「排除された声を政治化する技術」であると定義しています。

 ポピュリストが主張する「人民」とか「大衆」とは必ずしも現実の選挙における「多数派」と結びつくわけではありません。既存の利益団体や職能団体に属さず、政治的に正当に代表されていないと感じている農民や単純労働者などの層の不満を吸い上げ、既得権益を持つ過度に保護されているとされるエリートを非難するものです。このことから、ポピュリズムは反エスタブリッシュメント(anti-establishment)とか非主流派の政治と呼称されることもあります。

 最後にポピュリズムが生まれる条件のことです。それは既存政党への不信、代表制の機能不全、格差拡大・グローバル化の敗者意識、移民やアイデンティティにおける文化的不安、SNSによる直接関与というメディアの特性を利用して、特に「自分の声が政治に届いていない」という感覚を発散し、それが強いほどポピュリズムは支持されやすい傾向にあることを覚えておきたいです。

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合成の誤謬とは

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 「私はラーメンが好きで、刺身を食べるのも好きだから、ラーメンに刺身を加えて食べるのも好きに決まっている」といった推論は成立するでしょうか。この話では食べ物同士という要素間の相性を無視しています。別の例ですが、会社が同時にリストラや賃金カットなどの費用削減をして利益を上げても経済全体が縮小し、さらに会社の業績が悪化することが往々にして起こるといわれます。

 このように全体の一部の事実を全体の事実であると推論すると非形式的な誤り、誤謬が生まれるということです。「木を見て森を見ず」という状態への警鐘があります。経済活動では、ミクロ(個別)では正しく合理的とされる行動が、マクロ(全体)で見ると逆効果になり、望まない結果を招いてしまうことです。

John Maynard Keynes

 今の日本はコスト・プッシュ型のインフレであるといわれます。原材料費や人件費などの生産コストが上昇し、企業がそのコスト増を製品やサービスの価格に転嫁する状態です。実際、これまで100円だった多くの商品が120円や150円に値上がりしています。つまり100円という貨幣の価値が下がっているのです。そこで、買い物を控えて貯蓄に回そうと考えます。不況時に個人が節約すると、全体の消費が落ち込み、かえって景気を悪化させ、所得が減って貯蓄を取り崩す羽目になる状況も生まれかねません。これが貯蓄の逆説のようなことで、自分だけ貯蓄するのは合理的ですが、全員がそうすると消費が減り、景気が悪化し、結果的に全体の貯蓄額が減るという現象が生まれるのです。

 公共政策を考えると、歳出削減という財政引き締めを国も地方自治体が主張したとしますと、国全体で見ると経済が縮小し、所得税や法人性などの税収が減る可能性があります。このようにミクロの最適化がマクロの全体最適に繋がらないことを示します。この考えを「合成の誤謬(Fallacy of composition)」と主張したのが、イギリスの ジョン・ケインズ(John Maynard Keynes)という経済学者です。彼は、この合成の誤謬を踏まえ、不況時には政府が支出を増やして消費の落ち込みを補うべきだと主張するのです。「鷹の目」という大局観で全体を俯瞰し、個別の行動が社会の全体に与える影響を考慮することの重要性を説いているように思えます。 この概念は、経済だけでなく、システム開発や組織運営など多くの分野で応用される考えです。

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Free At Last !

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本日、1月第3月曜日はアメリカの祝日の一つ、「 Martin Luther King Jr. Day」(キング牧師記念日)です。1983年にキング牧師の功績を称え、その生誕を記念する祝日を制定する法案がレーガン大統領政権下で可決され署名されました。キング牧師の暗殺から15年後のことです。キング牧師の演説 「I Have a Dream」(私には夢がある)は世界中の学校の教科書に載ったといわれるほど明快で力強い響きがあります。

 1963年8月、ワシントン大行進(Civil Rights March on Washington)で行われたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の「私には夢がある」演説は、アフリカ系アメリカ人の公民権と経済的権利を熱烈に要求し、奴隷解放宣言(Emancipation Proclamation)と憲法にもかかわらず、国家が平等の約束を果たせていない現状を浮き彫りにしました。キング牧師は、人種隔離のない未来のアメリカ、つま肌の色ではなく人格で人々が判断される未来のアメリカというビジョンを明確に示し、統合と友愛というこの夢を実現するために非暴力による抗議を訴えたのです。この演説は公民権運動(Civil RIghts Movement) にとって決定的な瞬間となり1964年の公民権法(Civil Rights)成立のきっかけとなりました。

Rev. Martin Luther King Jr.

 

 ワシントン大行進でキング牧師は、解放から100年経った今でも黒人アメリカ人は差別に直面し、基本的自由を奪われていると主張し、それを「残高不足」(bad check)と記された「不渡り小切手」(insufficient funds)と呼びました。そして平等の夢としてキング牧師は、自分の子どもたちとすべての人々が偏見なく調和して共に暮らす国家の姿を鮮やかに描きました。それを次のように訴えます。

I have a dream that my four little children will be not judged by the color of their skin but the content of their character.

ワシントン大行進 (沖縄タイムズより引用)

 キング牧師は非暴力抵抗を訴え、信奉者たちに尊厳を保ち、憎しみを避けるよう促し、彼らの闘争を平和的手段による正義を求める運動へと変容させます。人種差別と不正義を終わらせるための即時の行動を呼びかけ、アメリカ全土の山々から「自由の鐘を鳴らせ!(Let freedom ring)」、そして「必ずや自由を」(Free at last!)という力強い合唱で演説を締めくくります。このフレーズは、自由を求める全国的な要求を象徴するものとなりました。

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国債の60年償還ルールとは

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1947年にできたのが財政法です。国の予算の編成・執行・決算など、財政運営の基本原則を定めたものです。その中に、建設国債と特例国債の償還については、借換債を含め、全体として60年で償還し終えるという、いわゆる60年償還ルールの考え方が採られています。 この規定は、特別会計に関する法律第42条第2項にあり、国債整理基金特別会計において、一般会計から繰り入れる国債償還費の特例について定めており、前年度期首の国債総額の1.6%に相当する額を一般会計の歳出に計上するという仕組みがとられています。要は国債の60年償還ルールは「財政規律を保つために作られた制度」です。その運用については、国債償還費が、国家予算の中で20%前後という非常に大きな割合を占めていて、理論的・実務的には「不要ではないか」という批判が強くあります。

 なぜ「60年」なのかという制度の成り立ちについてです。このルールには歴史的な背景があり、戦前・戦中の 無制限な国債発行 によって ハイパーインフレがあり、それへの反省として、戦後に「国債はきちんと返すものだ」という強い規律意識から作られたといわれます。国債の60年償還という建前の理屈としては公共投資の効果は長期に及ぶので、受益世代と負担世代を一致させるため、永久に借金を回し続けるのは無責任であるという考えがあるのです。その「長期」の目安として60年が採用されたのです。しかし、 60年に明確な経済学的根拠があるわけではありません。

 日本の国債はどう償還されているかです。ここが本質です。国債が満期になると新しい国債を発行してロールオーバー(rollover)と呼ばれる借り換えが行われます。この時、現金で完済されることはなく、「償還しているように見せているだけ」です。次に60年ルールの実態です。国は毎年「償還費」を予算に計上しています。しかしその財源の多くは 新規国債で賄われています。会計上の自己規制に過ぎないのです。

戦前の国債証券

 60年償還ルールが「不要では?」という批判が長く続いています。その主な批判点の第一は、 二重計上に近い状態であり、償還費は 借り換えで償還するというのが実態なので実質的コストではないのです。第二は償還費によって政策の余地を不必要に圧迫し、例えば教育や福祉、防衛、少子化対策などの「本来の支出」が削られていることです。そして見かけ上「財政が厳しい」ということを財務省や政治家がいっているのです。第三は、日本は通貨発行権を持ち円建ての国債を発行しており、日銀が最終的な国債の買い手になれるのです。国債という借金は政府のものであり、企業や家計の借金とは性質が全く違うのです。

 償還ルール完全に無意味なのか?という問いも出ています。このように主張する者は、政治家の無制限なバラマキを抑制し、財政規律という「心理的な歯止め」や説明上の市場への安心感を与えているともいわれます。いわゆるプライマリー・バランスが大事だというのです。ですが今日の日本は低金利であり慢性的デフレ・需要不足が続いており国債の消化に問題はないのです。財務省などがいう規律のコストが、便益を上回っている可能性が高いのです。

 結論ですが、償還ルールは不要ではないでしょうか」という問いが続いています。理論的には:不要、あるいは大幅な見直しが必要といわれています。というのは、制度的には:過去の無制限な国債発行というトラウマに基づく慣習が残っていると言えます。実際には償還費を一般会計から切り離し、インフレ率や経済成長率を基準に運用するという考えです。「永久国債」的な考え方を部分導入するといった改革案は、学界や実務の両方で繰り返し提案されています。

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モラル・ハザード(Moral Hazard)

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いくつかの英語やラテン語のフレーズを取り上げています。前回はペルソナ・ノン・グラータでした。今回は「Moral Hazard」、モラル・ハザードです。モラル(Moral) とは道徳、倫理、良心といわれるのはご存じの通りです。人間関係や社会で守るべき善悪の判断基準や規範といえます。そしてハザード(Hazard) とは「危険」とか「危険の原因」という意味です。ある人や組織が、リスクの結果を自分で十分に負担しなくてよい状況にあるとき、本来よりも無責任で危険な行動をとってしまうことを指します。主に保険・金融・医療などの分野で使われる用語です。

 Wikipediaによりますと「本来、「モラル・ハザード」には道徳的な意味合いはない」とあります。そもそも、英語の “moral” には「道徳的」のほかに「心理的」「教訓的」といった用法もあり、モラルが「道徳」を意味するかどうかも一概には言えないというのです。つまり“moral” を “subjective” (主観の)という意味で使う場合もあるというのです。

 モラル・ハザードの基本的な考え方は、リスクを取る人と損失を被る人が異なるときに起こりやすいものです。例えば「失敗しても誰かが助けてくれる」とか「自分は損をしない」という意識が行動を変えてしまう場合です。その具体例としては、自動車保険とか火災保険、医療保険などがあげられます。自動車保険に入っている人が、時に保険加入後に運転が雑になることもあります。なぜモラル・ハザードが発生するかといえば、事故を起こしても保険会社が修理費を払ってくれるので「多少無理な運転をしても大丈夫」という心理が働くのです。モラル・ハザードの防止のために「ノンフリート等級制度:Non-Fleet Grade System」があります。一年間事故がなければ翌年は等級が下がり、保険料が下がるという仕組みです。このインセンティブにより安全な運転を心掛けようとします。

弁護士無料相談サイトから引用

 医療保険にもその例があります。医療費がほぼ2割負担の制度であれば、必要性の低い受診や検査が増えるかもしれません。自己負担が少ないため、医療サービスを過剰に利用してしまうこともあり得ます。また、医師または薬剤師が不必要に多くの薬を患者に与え、利益を増やそうとする場合もあるでしょう。金融や企業の状況からいうと、「大企業は潰れることがない、いざとなれば政府が救済する」と考え、銀行や企業が過度なリスク投資を行うことも考えられます。なぜモラル・ハザードになるかといえば、失敗しても最終的に国や納税者が負担するという期待があるためです。

 雇用や労働の例でいえば、成果に関係なく給与が保証されていると、努力を怠る人が出てきて生産性が低くなる可能性があります。また、外回りの営業マン(エージェント: agentt)が、上司(プリンシパル: principal)の目を盗んで、勤務時間中に仕事を怠る場合とかです。頑張らなくても同じ報酬が得られるため、行動のインセンティブが歪むのです。一部の社会主義国で見られるといわれます。

 私たちは、相互に相手方の信頼を裏切らないよう誠実に行動すべきであるということを知っています。原則は信義誠実(good faith and fair dealing)と呼ばれて民法1条2項で「信義誠実の原則(信義則):正直・誠実な行動を求める」と規定されています。要約しますとモラル・ハザードとは、信義誠実に反する姿勢や行動ということになります。

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ペルソナ・ノン・グラータ

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2025年11月上旬、高市早苗総理の国会答弁で中国・台湾情勢に関して「武力行使を伴う場合は存立危機事態になり得る」と発言したことが報じられました。これについて、中国側の在大阪総領事が自身のSNSで暴力性が強い書き込みをして物議を醸しました。投稿は外交官として極めて不適切かつ暴力的な表現として日本国内外で大きな批判を受け、その後削除されたとのことです。

 自民党外交部会などは中国総領事に対する非難決議を採択し、場合によっては「好ましからざる人物」として国外退去を求めるべきとの決議もだす顛末となりました。外交官のうち、接受国である受け入れ国がその国に駐在する外交官として入国できない者や、外交使節団から離任する義務を負った者を指す外交用語に「ペルソナ・ノン・グラータ(Persona Non Grata)」があります。この意味は、「好ましからざる人物」「厭わしい人物」「受け入れ難い人物」という意味の言葉です。この用語はラテン語といわれ、英語では「person not welcome」となります。ウィキペディアによりますと「ペルソナ・ノン・グラータ」では、personaは人物を意味し、nonは〜でない、そしてgrataは歓迎されるという意味です。

 「ペルソナ・ノン・グラータ」は外交関係に関するウィーン条約第9条にある外交官規定にそって同第23条で謳われています。すなわち、派遣国に対しその者を本国に呼び戻すこと、または任務の終了を求める権利があり、派遣国はそれに応じる義務を負うという規定です。もし、接受国が「ペルソナ・ノン・グラータ」と認定すれば、国外退去を要求する措置がとられます。

カウナスの旧日本領事館の建物

 過去に幾多の「ペルソナ・ノン・グラータ」が各国で発動された事例があります。日本が発動を受けた例は、戦前のヨーロッパです。1937年に外交官であった杉原千畝に起こったことです。1939年からリトアニア(Lithuania)のカウナス(Kaunas)領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たち、その多くはユダヤ人の窮状に同情し、1940年7月から8月29日にかけて大量の通過査証であるビザ(Visa)を発給したことで知られています。

 杉原は反革命なロシア人との交流を理由にソ連より、やむなくリトアニアに赴任します。その後ソ連によるバルト諸国併合により領事館が閉鎖となり、当時ドイツ領であったプラハ(Prague)へ移ります。その後東プロイセン(russia)のケーニヒスベルク(Königsberg)へ異動となります。今度はナチス・ドイツにより拒否されルーマニア(Romania)のブカレスト(bucharest)へ異動となったという経緯です。

 外務省の方針に反してナチスから逃れてきた多くのユダヤ人避難民に日本通過ビザの発給したのが杉原氏です。戦後、外務省から新しいポストがないことを理由に、杉原に退職通告書が送られます。少なくとも彼の行為が「好ましくない独断行動」と見られていた可能性は高いといわれます。彼も「ペルソナ・ノン・グラータ」とされたのです。しかし、2000年になって当時の河野洋平外務大臣の顕彰演説によって、日本国政府による公式の名誉回復がなされるのです。

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弁証法は経済や財政論議に何故通じないのか

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Aという考えとBという考えがぶつかり合い、その違いを確認し検証する対話からどちらかを超えたCという考えが生まれます。こうして新しい思想が形成されます。これは弁証法といわれます。少し難しく言えば、対立する二つの意見や主義、つまりテーゼ(These)とアンチテーゼ(Antithesis)をぶつけ合い、その矛盾を乗り越えて、より高次元で包括的な新しい理解や結論であるジンテーゼ(Synthesis)を生み出す発展の論法が弁証法、または三段論法です。

 弁証法の英語は「dialectic」です。文字通り対話術と訳することができます。弁証法とは古代ギリシャの問答法に起源を持ち、特にドイツの哲学者、ヘーゲル(Wilhelm Friedrich Hegel)によって体系化されたといわれます。現実世界の発展過程そのものや、矛盾から革新を生むための対話術として、学問分野だけでなくビジネスなどでも活用されています。

Wilhelm Friedrich Hegel

 ヘーゲルの弁証法の基本的な流れをおさらいしてみます。まずテーゼですが、ある一つの立場を直接的に肯定する段階であり、矛盾とか対立についての自覚はありません。ところがある一つの立場が否定され、二つの立場が矛盾したり対立するアンチテーゼが提起されるとします。人々は、そこから折衷案とか両者をより高い次元のレベルへと発展させたり収斂するように考えます。これが「止揚」(Aufheben)がという思考の論法で、発展させた新たな結論が生まれることが期待されます。このジンテーゼが新たなテーゼとなり、再びアンチテーゼと対立し、さらに高いジンテーゼへと発展していく螺旋的な発展を繰り返すのです。

 しかし、私たちの日常的な会話や社会問題の捉え方の大半は弁証法に添うような生成的なものではありません。双方の違いが明らかになるだけで、ある結論にも到達しない場面を見聞きします。例えば政治における政策論議や経済現象における事実の解釈や理論の対立です。両者がボールを投げるばかりで相手のボールを受け取らないような論議です。人間は互いに了解可能だという前提から出発するのが哲学なのですが、政治や経済における実学では、了解しあうようでも容易に意見や思想が一致することはないようです。

 なぜ立場の違いを克服しようとしないのでしょうか。この現象を経験したのがドイツ系ハンガリー人の医者で、手洗いなどの消毒法の先駆者として知られセンメルヴェイス・イグナーツ (Ignaz P. Semmelweis)です。彼は産褥熱の発生数を調査し産科医が次亜塩素酸カルシウムで手を消毒することで劇的に産婦の死亡率を下げることが出来ることを発見するのです。しかし、この方法は当時の医学界に受け入れられず、むしろ嘲笑したり憤慨する医師さえいたのです。このように当時の医学者の従前の考えに固執し、それに反する新事実を反射的に拒絶したり排除したりする傾向は後に「センメルヴェイス反射」 (Semmelweis Reflex)と呼ばれるのです。

Ignaz P. Semmelweis

 センメルヴェイス反射という現象は現在の日本でも見られます。それは我が国の国債を巡る議論です。国債残高は、2024年度末には1,105兆円に上ると見込まれています。国民一人当たり900万円の借金だというのです。この状態について、「政府の借金 (債務) は将来世代への負担の先送りだ」とよくいわれます。借金まみれの日本の財政は破綻するというデマです。これは一部の経済学者や一般の人々の常識となっているようです。ですが国債は政府の債務なのであり、国民の負債ではありません。従って国債残高が増えたとしても孫世代が税金で返す必要なんて全くありません。

 流布される常識に反する事実が提唱されると、単純に信じようとしないというだけでなく、その相手に対して強い攻撃性を持つ傾向が生じるものです。今でも、世間では相手に対して不名誉なレッテルを貼ることで信憑性を落とそうとしたり、データや新たな論文などを受け入れないという認知バイアスが見られます。歴史を振り返っても、天動説と地動説の対立がどうして起こったかはセンメルヴェイス反射によって説明できます。

 立場の違いを克服しようとしない現象が日本の経済や財政政策の論議に見られます。新自由主義(ネオリベラリズム) という「政府による個人や市場への介入を最低限とすべき」と提唱する経済学上の主張と「慢性的な投資不足で民間部門に貯蓄余剰がある場合、財政再建や緊縮財政政策を行うのではなく、これを埋め合わせる財政出動を行うべきだ」とする現代貨幣理論(Modern Monetary Theory: MMT)です。前者は平時から財政規律を守ること、すなわち国民や企業からの税収によってプライマリーバランス(PR)を黒字化するという立場であり、後者は自国通貨を発行する権限のある政府は、中央銀行が財政赤字分の国債を買い続け、国民負担なく財政出動が可能だとする立場です。私の疑問と問いは、弁証法の考え方によってこの二つの立場を止揚する展望、ジンテーゼはなぜ生まれないのかということです。

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恭賀新禧 2026年

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 「月日は百代の過客にして、行き交ふ年も又旅人也」と芭蕉が『奥の細道』の冒頭で歌っています。ほとんどの人が高校時代に口ずさみました。Wikipediaで復習しますと「百代」とは永遠、「過客」とは旅人という意味だそうです。人に会うたびに、「本当に昨年はあっという間でしたね」という会話になります。時間は止まることがありません。そして今年は午年、偶然にも私の年です。亡き両親に感謝。

八王子市在住 原田朋栄氏作 (引用許諾済)

 大晦日の午後、駐車場脇に植えている花に水をやっていましたら、一階にお住まいの方から声をかけられました。ちょっとした立ち話をしていると、かつてシカゴで働いていたそうで、ウィスコンシン州のことも話題となりました。実は、私の3人の子どもと5人の孫はウィスコンシン州、マサチューセッツ州、ニューハンプシャー州、そしてモンタナ州に住んでいます。と言うわけで、私の一家は、日本を離れて各地に散らばる「ディアスポラ(Diaspora)」なのです。ディアスポラとは、古代ギリシア語で「離散」を意味するようです。世界史では、ユダヤ人が故郷を追われ離散した歴史、例えばバビロン捕囚などに由来すると言われます。

 今日、日系何々人と呼ばれる人々は、アメリカ、イギリス、カナダ、ブラジル、フリッピンなどで暮らしています。日系人初のアメリカ連邦議員となったダニエル・イノウエ氏とか2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏といった有名な人から、無数の名もなき人々まで、それぞれの地においてコミュニティを形成し、彼の地で貢献してきました。いわば現代のディアスポラです。

 マディソンで小中高の教育を受けた子どもはそのまま大学へ進み、今はアメリカ国籍を得て仕事をし家族を育てています。と言うわけで、我が家は堂々と「ディアスポラ」の一員と名乗ってよいと思われます。生前の父から私の家系を聞いたことがあります。元々は平家の落人で青森県の弘前付近に身を隠したようです。時代を経て両親は樺太へ移住し、戦後は北海道の美幌に引き揚げます。それから名寄、稚内、深川、旭川、札幌、下田と転々とし八王子で亡くなりました。「流浪の民」というわけです。私も血筋をひいているようで、埼玉から大学院に通い、それから琉球で幼児教育をやり、国際ロータリークラブなどから奨学金をもらいウィスコンシン州都のマディソンへ行きました。そこで学位を取得してからは横須賀と兵庫県の加東市で働きました。奇しくも両親と同じく八王子を終の住処としています。やがてこれから向かう処は決まっています(^0^)

と言うわけで我が成田家は「ディアスポラ」の誇りと矜持を抱いて今年も過ごしたいです。2026/01/02

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「経済」の意味を考える

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英語の 「economy」の語源は、ギリシャ語のオイコノミアで、家の管理すなわち家政を意味するものでした。オイコス(Oikos=家)とノモス (Nomos=法律、摂理)が結び付いてできました。 これが、近代になって国家レベルでの「political economy」という言葉が現れました。哲学者井上哲次郎はこれを理財学と呼びました。そういえば現在の財務省に理財局というのがあります。

 「経済(学)」がエコノミーもしくはポリティカル・エコノミーの訳語として定着するには若干の論議があったようです。例えば西洋哲学、論理学等の導入者として、多くの術語を考案した西周は1870年に刊行した『百学連環』で、エコノミーとポリティカル・エコノミーの区別を重視して前者に「家政」、後者については国家の「活計」を意味するものであり、幕末・明治初期の啓蒙思想家・法学者であった津田真道は訳語「経済学」では活計の意味を尽くしていないとして「制産学」の訳語を与えています。このように個人もしくは企業の家計・会計と国家規模の経済運営を分けて考える立場はしばらく影響力を持ち、後者については「理財」の訳語が用いられることもありました。

西 周

 西周の「百学連環」にある「児童を学問の輪の中に入れて教育する」で、その講義した内容は、政治学や数学など、様々な学問分野の概要を連続して講義したもので、一般教養に相当するものでした。これは西洋近代学術(Science、Wissenschaft) のことでした。これを「百学連環」といったのは西洋のEncyclopediaからきているので、西洋の諸学問を一貫した体系のもとに組織的に講述しようとする試みだったと言えそうです。

 西周はオランダ留学から多くのことを学びます。特にサイモン・フィセリング(Simon Visseling)というライデン大学(Universiteit Leiden) 教授からうけた五科の学習、さらに西洋の諸学の在り方、学問の方法を学ぶのです。西周が学んだ「五科」とは、性法学(自然法、哲学)、万国公法学(国際法)、国法学(憲法、国家法)、経済学(政治経済学)、政表(統計学)といわれます。フィセリングは1850年にライデン大学法学部の統計学担当教授に就任します。筆者はフィセリングの統計学を解説するに先立ち,彼の教授就任講演「経済学の基本原理としての自由」を取り上げ,そこで利己心と隣人愛,科学と信仰という一般的には対立状態にあるものが両立的に受容され,オランダ的中庸論がフィセリングの思想としてあったことを確認しています。フィセリングは1879年大蔵大臣に就任します。その経済思想は古典的自由主義で自由貿易論に立っていた学者です。

 1800年代の後半になり、新たに交流が始まったイギリスなどから古典派経済学の文献が輸入されるようになります。「経済」の語は新たに”economy”の訳語として用いられるようになります。1862年に刊行された堀達之助らの『英和対訳袖珍辞書』では”economy”を「家事する、倹約する」とし、「political economy」という語をあてます。この語は古典派経済学において「経済学」を意味する語であり「経済学」の訳語を与えています。なお、堀達之助は江戸末期までオランダ通詞を勤め、後に日本で最初に刊行された英和辞典を著し、英語研究の基礎を築いた人物といわれます。

 ついで日本における最初の西洋経済学入門書として知られる1867年刊の神田孝平訳の『経済小学』では「経済学」を「ポリチャーエコノミー」と読ませています。神田孝平は開成所教授としてオランダ語翻訳本から『経済小学』の初版をだすのです。同年末に刊行された福沢諭吉の『西洋事情外篇』巻でも同様の用法として「経済学」の語が見えます。なお前年1866年刊の『西洋事情初篇』巻には「経済論」の語があります。

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インボイス制度とは

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私の教え子が数年前から淡路島でオリーブを育てて、ようやく実の搾りにこぎつけました。土地は淡路島の東岸で、1日6時間以上の直射日光があり、温暖で乾燥気味な土地柄です。彼は10月中旬に実を収穫し、地域の搾油所に持ち込んで100本余りの瓶詰めを終え販売し始めました。そのことを聞いたので私は3本を購入しました。

 私がオリーブの木を始めて見たのは、香川県の小豆島を訪れたときです。小豆島のオリーブ生産の歴史は明治時代に始まります。オリーブの木を導入したのが1908年頃といわれます。明治政府の農商務省は、オリーブを国産化するために全国3か所の香川県、鹿児島県、和歌山県で試験栽培を始めます。ですが、この中で安定して育ったのが小豆島だけでした。小豆島は瀬戸内海式気候で、雨が少なく、日照時間が長く、そして冬が比較的温暖であります。いわば、地中海沿岸と似た環境だからです。この頃から島の特産作物として栽培が定着し始めます。淡路島も瀬戸内海式気候で、病害が比較的少なく、海に囲まれた環境による風通しの良さに恵まれています。冬の寒さが厳しすぎないことも好条件なのです。

 本題は、オリーブ生産と販売に関連するインボイス制度です。教え子は、現在売上高が1,000万円以下の小規模事業者です。小規模事業者は、消費税の納税義務が免除され、免税事業者と呼ばれます。免税事業者のポイントとは、消費税を国に納めなくてよいことです。消費税を含めた価格で販売しても違法ではありません。オリーブの苗木、肥料、瓶を購入したのですから既に仕入税という消費税を払っています。従って仕入税額控除を受ける権利があるのです。私が購入したオリーブは、一本2,000円でした。教え子は、売上税である消費税の相当額、例えば2,000円のうちの10%、200円を国に納める必要がないのです。100本という瓶詰めのオリーブ販売高が1,000万円に達していなければ、彼は消費税の申告が不要なのです。

 売上高が1,000万円以上になるとどうなるでしょう。ここに適格請求書等保存方式と呼ばれるインボイス(invoice) 制度が登場します。インボイスとは2023年10月スタートの制度で、仕入税額控除を適用するために適格請求書の保存が必要という仕組みです。インボイスとは、「この取引には確かに〇円の消費税が含まれています」と税務署に登録した事業者が発行する請求書のことです。仕入税額控除とは二重課税を解消する仕組みです。

(Nojima より引用)

 インボイス制度で何が変わったかという問いですが、今までどの事業者から仕入れても、仕入れに含まれる消費税を控除できたのです。免税事業者から買っても問題はありませんでした。インボイス制度後は、インボイスを発行できるのは「課税事業者」だけです。免税事業者はインボイスを発行できません。そのため、免税事業者から仕入れると仕入税額控除ができなくなるのです。

 免税事業者はどうすべきか?という疑問が生まれます。その場合、免税事業者の選択肢は2つあります。第一は課税事業者になり、登録番号を取得してインボイスを発行することです。当然、消費税を申告し納税する必要が生まれます。課税事業者になると、仕入税額控除を受けている取引先と取引を継続しやすくなります。しかし、免税事業者のままでいるとインボイスを発行できないために、取引先は仕入税額控除ができず、コスト増となります。結果として値引きを要求されたり、取引の停止を食らったりする心配があります。このようなインボイス制度の仕組みを見ていくと、この制度を巡る税の仕組みは結構複雑で消費者も事業者も混乱するのです。インボイス制度を廃止するのが解決策だと思われます。

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閑話休題:水と木

北海道大学(北大)男声合唱団のかつての同僚から、どのようにして北大の中心に小川が復活したかの便りを貰いました。北大正門から道なりに歩きますと「中央ローン」という一面芝生の広場にでます。まわりには多くの楡の木(エルム)がそびえています。その中心に流れるのが「サクシュコトニ川」です。呼び名のもとはアイヌ語だったようです。エコ・キャンパス創成の一環として、大学と札幌市が水辺の復活事業を行ったのです。キャンパスに安らぎをもたらしたのが、「サクシュコトニ川」です。

中央ローン(ようこそSapporoから引用)

 「日本で最も広い大学キャンパス」を挙げるなら、一般的には 北大が一番とされます。キャンパスに川を持つ大学はそう多くありません。北大は幸いなことに、その数少ない例の一つです。川がキャンパスを流れるには水がなければなりません。北大のキャンパスはどこも楡の大木で囲まれています。枝を大きく広げる雄大な樹形が特徴です。硬くて粘りがあり、家具、建材などに使われ耐朽性が強く水に強い特徴を持っています。北海道のシンボルツリーとなっています。木といえば観光客の楽しみはキャンパスのはずれにあるポプラ並木を散策することです。

 札幌の中心街にある北海道庁の隣の北大附属植物園のあたりに湧き出ていた池 (メム)が「サクシュコトニ川」となります。そこから北大構内をゆったりと流れて農場の北端から琴似発寒川に出ていたといわれます。昭和30年頃から急速に湧水量が減り、その後はポンプ揚水の地下水が細々と循環しているだけの川もどきになっていたようです。そこで北大のキヤンパスに生命の活力を与えるべく、「水と緑のネットワーク」というルネサンス・プロブエクト事業によって「サクシュコトニ川」に新しい水が補給されて流れが再生したようです。

畜舎(ようこそSapporoから引用)

 2月の「さっぽろ雪まつり」が終わり雪解けが進む3月にはふきのとうや福寿草が、5月下旬、街はライラック(lilac)に彩られます。ライラックは別称としてリラ(リラの花)とも呼ばれています。北大構内ではクロユリの群生地が見頃を迎えます。秋は赤柏や楓の紅葉、銀杏の黄金色が美しい北大構内の散策などをお勧めします。市内の川沿いの遊歩道のないところにはケモノ道が今も残っているようです。

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食料品消費税ゼロで価格は下がるのか?

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お店で買い物をしたとき貰うレシートには、消費税が外税で表示されています。これを見ると「自分たちは消費税を払っている」と思うのも無理もありません。私たちが負担した「消費税分」はそのまま税務署に納められているのではありません。実は我が国の消費税法の五条では納税義務者は事業者であると規定しています。

 店の事業者が税務署に納める金額は、年間売上高に10%(一部8%)を掛けた額から、年間仕入高や人件費などの経費、車などの固定資産の購入費に含まれている消費税分を差し引いて算出されます。これは「仕入税額控除方式」と呼ばれています。つまり消費税は、物品やサービスにかかる税金(間接税) ではなく、事業者の生む付加価値に課税する直接税的なものです。法律的には裁判所によって「税金ではなく、物価の一部」だという判決が確定しています。

(国税庁サイトより引用)

 アメリカの小売売上税(sales tax) の場合、税金分を消費者が払う義務があります。店はそれを預かり、一定期間まとめてそっくりそのまま州当局に納めるという単純で分かりやすい預かり税という間接税です。日本の消費税はこれとは全く異なる税金です。消費者から見える表の顔,、つまり外税と事業者が仕入税額控除方式によって納めるという裏の顔を持つ、不透明な税金だと言われます。 

次に、食料品のゼロ税率という提案についての見解です。まず最初に指摘すべきことは、食料品の消費税ゼロによって価格が下がる保証は全くないということです。消費税の納税額が仕入税額控除方式によって算出されるため、正確な納税額がいくらになるかは決算が終わるまで分からないからです。そのため、食料品の値段を8%下げることに不安を感じる事業者が多いのです。事業主は、価格を決めるのは自分達ですから、従来の税込み価格で販売したくなるだろうと思います。

 消費税法には消費税分を価格に転嫁する規定はありません。価格に転嫁する法的義務も保証もないのです。価格は市場の原理、つまり需要と供給の関係で決まります。売れ筋は高く売り、売れなければ安くせざるを得ません。最終的な価格の決定権は事業者にあるのですから、食料品がゼロ税率になっても価格を引き下げる義務はないのです。食料品の消費税ゼロにしても、食料品の値段が8%下がる保証など全くありません。

(財務省サイトより引用)

 一般の人々は「消費税率が5%から8%に、8%から10%に引き上げられたとき、物価が税率分上がったではないか。だから税率を5%に下げれば、税率分下がるに決まっている」と反論する者がいるかもしれません。ですが税率引き上げのつど引き上げられた価格というのは、消費税分ではなく、「単なる便乗値上げ」なのです。その最たる例は新聞です。新聞購読料は軽減税率の対象となりましたが、大手のY新聞は軽減税率実施を察知した9カ月前の2019年1月から、セット料金4,037円を4,400円に引き上げました。便乗値上げの最たる例です。残念ながらこの値上げは法律違反ではありません。

 消費税の税率が引き上げられれば、事業者は堂々と「便乗値上げ」を実行します。事業者は決して「便乗値下げ」をしません。もし値下げがあった場合には、同業者間の競争に勝つためにやむを得ず事業者が価格を下げた結果か、あるいは市場の原理でそうなったかなのです。

 食料品ゼロ税率となると不利益となる人々がでてきます。それは外食産業といわれます。飲食店は年間売上高に10%を掛けた金額から仕入税額控除をします。食材仕入れにかかる消費税がゼロ税率になると控除額が激減します。控除額が減ると消費税の納税額が上がるのは当然で、極端な場合、利益が赤字であったも消費税を納めなければなりません。

 そこで飲食店側が食材仕入業者に消費税分仕入価格を下げろと要求したとします。ですが食材仕入業者が下げなければならない規定も義務もありません。価格を下げるか維持するかは需要と供給の関係か両者の力関係で決まるのです。弱い立場にあれば、飲食店側は下げてほしいという要求を取り下げるだけです。ひどい場合、飲食店は消費税倒産という事態になりかねません。

 このように、食料品ゼロ税率は経済社会を混乱に陥らせる手品のようです。にもかかわらず、政治家は「食料品ゼロ税率は家計が助かる」などと誤った宣伝をして支持を集めようとしています。こうした宣伝にだまされてはいけません。以上のように理解しますと、消費税は事業者間、事業者と消費者との間に価格転嫁の争いを持ち込むような仕組みとなっています。政府はこのような事態に「高みの見物」をしているようです。経済学者の湖東京至氏は、「食料品の消費税率を0%にすることには問題がある」という立場を繰り返し示しています。氏の主張の核心は、「一見弱者に優しい政策に見えて、実際には不公平かつ非効率で、税制全体の歪みが大きい」というのです。

 「消費税・社会保障一体化」という台詞も曲者です。消費税率の引き上げによる増収分を、年金・医療・介護・少子化対策といった社会保障の安定財源に充てるという、あたかも国民を「なるほど、、、」と思わせるのは詐欺のようなものです。なぜなら社会保障は消費税ではなく、保険料が財源のはずなのです。急速な少子高齢化を促進したのは、非正規雇用の増加による将来不安とか、子どもを欲しい数だけ持ちにくいといった社会になっているからです。こうした課題を解決しないで、増税で社会保障を賄うというのは本来ならば筋違いなのです。結論ですが、消費税というのはなかなか正体をつかみにくい制度です。もう少し国民に分かりやすく説明すべきではないでしょうか。

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「税」という漢字

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今、国会では盛んに増税、減税、そして廃止論が論議されています。どうしてこのような事態になっているかが気になり、税金の歴史やその正体とはなにかを調べています。

 古代エジプト時代にはすでに、賦役の提供を中心とした租税、ギリシア、ローマでは財産税と間接税の芽生えもあったといわれています。確か中学生のとき飛鳥時代に大宝律令という法律によって、「租・庸・調」という税や労役をかける税のしくみのことを習いました。「租は男女の農民に課税され、税率は収穫の約3%位」だったようです。

『世界古典文学全集』より引用

 「税」という漢字の意味です。文字通り漢字の「税」はのぎへん(ノ木へん)の「禾」と「兌」から成ります。漢和辞典によりますと、「禾」は穂を実らせた穀物の象形だと言われています。そして、「禾」「の「ノ」の部分は、穀物の穂が垂れている様子とあります。税の右側の「兌」は、もともと抜き取るとか脱ぐという意味と言われます。そうしますと、「税」とは実った稼ぎを抜きとる、という意味ということになります。

 私たちは通常何気なく「税を払う」とか「税を納める」という言い方をします。ですが、この二つの表現は明確に異なります。「税を払う」とは、例えばペットボトルの水を買ったときにその一部の10円を払うことです。他方「税を納める」とは、決められたこと、例えば収入があれば、所得税法などで規定された額を納める、ということです。納めるのは、何らかのモノー対価が手にはいらない場合の行為です。少し難しくいえば、政府は所得から税を集める租税債権を持ち、税を納める者は債務者となります。この場合、債務者は政府からの反対給付はありません。つまり対価はないということです。

 社会保険料の場合を考えてみます。「保険料を払う」か「保険料を納める」のどちらでしょうか。社会保険金は病気や事故の時に支払われるものです。「保険料を払う」ことによって対価としての給付ー保険金を受けることができるのです。ですからこの場合は、モノを買うときのように「保険料を払う」というのが正しいと思われます。いずれにせよ、私たちはこの世に暮らす限り、税から逃れることはできないようです。

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ザイム真理教というカルト

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「ザイム真理教」とは「経済成長よりも、財政健全化という帳簿上の収支合わせを神聖視し、そのために増税を行い続ける主義」を主張する財務省への強烈な皮肉を込めた呼び名です。この言葉は、昨今の物価高や実質賃金の低下の中で、「なぜ政府は減税をして国民を助けないのか?」という不満を持つ人々の間で強く支持されています。

「真理教」という強い言葉で呼ばれるには、単なる政策論争ではないことが分かります。財務官僚が有力な政治家やメディア関係者に対して頻繁に「ご説明」と称するレクチャーを行い、「日本は1000兆円以上の借金を抱えていて財政が破綻します」「国の借金○○○兆円、国民一人当たり800万円の借金」なととマスコミにも喧伝し危機感を植え付けていると言われるのです。いわば洗脳といわれる行為、これがレクチャーです。財政が破綻するので増税するというの財務省のロジックです。財務省は、分が悪くなると「少子高齢化が進み、年金、医療などの社会保障の財源が足りなくなるので消費増税が必要」という論点に軸足を移すのです。これに反論するためには、政治家はもっと勉強しなければならないはずです。

政府が必要な支出はしっかり行い、景気を良くすることを唱道する政治家や学者は冷遇され、財務省の「教義」に従う者だけが出世したり、メディアで重用されたりする構造があります。結果として積極財政という異論を排除することに傾倒するのです。「自国通貨建て国債の日本は財政破綻しない」という経済学的事実ー現代貨幣理論(Modern Money Theory: MMT)を無視し、頑なに緊縮財政を続ける姿勢が、論理を超越した「教理や信条」に見えるために「真理教」と呼ばれるのです。

「ザイム真理教」という用語を使ったのは経済アナリストで、2025年1月に亡くなった森永卓郎氏です。その著書『ザイム真理教』を通じて、日本の財務省が長年にわたり行ってきたとされる「財政破綻の危機を煽る情報操作」と、それによって日本経済がデフレから脱却できない現状を厳しく批判したのです。財務省の主張である「国の借金(国債)が巨額であり、このままでは日本の財政は破綻するというデマの流布に対して森永氏は、「日本は財政破綻しない」と看破します。

ザイム真理教

森永氏の反論は、政府の国債は自国通貨建てであり、通貨発行権を持つ国が資金繰りで破綻することはないということです。これは世界の常識となっています。日本は世界最大の対外純資産国であり、国全体として見れば「金持ち」の状態です。財務省は、政府が保有する株や土地、他国への貸付金などの資産を無視し、負債ばかりを強調することで、意図的に危機を煽っているとしています。資産と負債、つまり純資産(資産ー負債)というの貸借対照表(balanced sheet)を軽視しているというのです。

次に、森永氏は、財務省が消費税の増税を最優先事項として推進してきたことを批判しています。「消費増税」といういわば絶対主義への固執に対して批判するのです。財務省の主張は、 少子高齢化に伴う社会保障費を賄うためには、景気に左右されにくい安定財源である消費税の引き上げが不可欠であるというものです。しかし、「消費税は一般財源であり、社会保障目的税にしない、社会保障は保険料中心」というのが世界の趨勢なのです。

消費増税は、デフレ下においては経済活動を冷やし、景気を悪化させる最大の原因となります。税収を増やす方法は増税だけでなく、政府が積極的な財政出動を行い、経済成長を促して税収のパイを大きくする、すなわち税率を変えなくても税収が増えることが本来の道であるとしています。消費税増税は、大企業が優遇される「逆進性」、つまり所得の低い人ほど負担率が高くなる税制であり、格差を拡大させると指摘しています。森永氏は、財務省が推奨する政府の支出を絞る財政健全化=緊縮財政が、日本経済の最大の病巣であるデフレを長期化させていると主張しています。他方、財務省は、 財政赤字削減のため、公共事業費などを削減し、無駄遣いをなくすべきであると主張します。ですが公共事業費で無駄なものとは一体なんでしょうか。

終わりに「ザイム真理教」は「その教義が、単なる政策論ではなく、「教団の活動」として強力に実行されているという点です。信徒への「洗脳」、すなわち財務官僚による「レクチャー」が、政治家やメディアに対して行われ、財政破綻の恐怖が刷り込まれているのです。まるで「呪い」をかけるオカルトのようにきこえます。財務省に都合の良い御用学者をメディアに登場させ、オールドメディアで消費増税や緊縮財政の必要性を国民に説かせている事実もあります。さらに財務省の意に沿わないリフレ派や現代貨幣理論に沿った経済学説を「異端」と指摘し、特に報道される機会が奪われているのです。いわば情報統制を行っているともいえます。なお、現代貨幣理論とは、通貨発行権を持つ国は、自国通貨建ての債務であれば、財政破綻することなくいくらでも返済できるという経済理論です。リフレ派とは、デフレ脱却と景気回復のため、日本銀行による積極的な金融緩和などを通じて緩やかな物価上昇(リフレーション)を目指すべきだと主張する経済学者やエコノミストのグループです。

結論として、森永氏は財務省が自らの権威と予算を維持するために、国民に「未来への不安」を煽り、経済成長の芽を摘み続けていると強く訴えています。「社会保障のための消費増税」という理論的に間違ったことをごまかして、強引に増税を推し進めようとすると国民の反感と怒りを見放されて支持を失うのです。

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消費税減税か2万円給付金か

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生成AIに2つの質問、『消費税の減税はなぜ経済を活性化するのでしょうか。二万円の給付と消費税の減税はどちらが家庭にとって有効でしょうか。』という問いを投げてみました。そうすると消費税の減税は、経済を活性化させる効果があるという回答がありました。

 次に、生成AIに対して2万円の一律給付と消費税減税、どちらが家庭に有効か?という問いを出しました。生成AIは、「一概にどちらが絶対に良い」とは言えないが、世帯の収入や消費傾向によって異なると考えられるという回答です。例えば、2万円給付 vs 消費税減税(例:10%→5%)です。

 消費税減税の場合、年間どれくらいの差になるかです。たとえば、年間300万円の消費をする家庭で比べてみましょう。消費税10%では税額は30万円で、消費税5%では税額は15万円で差額15万円となります。この場合、2万円給付よりも消費税減税の方が効果が大きいです。ただし年間消費が少ない世帯では、2万円給付の方が得になることもあります。

 終わりに、どちらが家庭にとって「有効」かです。短期的な生活支援が必要な家庭には2万円給付が即効性があり、助かります。しかし、長期的には、税金や社会保険料を差し引いた後に自由に使える可処分所得の増加を望む家庭には、消費税減税の方がより大きな恩恵があります。そして、国全体での経済活動に焦点をあてるマクロ経済政策という観点では、消費税減税の方がより波及効果が高いといえます。2万円給付の原資つまり財源は、もともとは国民の税金なのです。国の2023年度税収、還付増でも2.5兆円も上振れしているのです。2万円給付とは「税金を取り過ぎました。お返しします。」と言うべきでしょう。

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医療費の4兆円削減案

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現在、自民党は与党内で日本維新の会などと社会保障制度改革の議論を進めています。その中で高齢者の医療費窓口負担の3割への割合拡大や、市販薬と成分がほぼ同じ処方薬であるOTC類似薬の保険適用見直しなどが議論されています。OTC類似薬とは、湿布薬や保湿剤、解熱鎮痛薬、抗アレルギー薬など約7000品目あります。 ただし、現時点で「国民全員が3割負担になる」といった決定的な事実や既に制度が変更されたという真偽情報はありません。現在は保険適用で、患者の自己負担は薬価の1~3割で済みます。保険が適用除外となると、市販薬の購入費用が過度にかさんだり、治療の遅れにつながったりするとし、患者団体や日本医師会が反対しています。

厚生労働省より引用

 ついでですが「高齢者」とは、65歳以上を指す言葉が一般的です。しかし、日本の平均寿命が延びている現状から、65歳から74歳を「前期高齢者」、75歳以上を「後期高齢者」とする区分もあります。後期高齢者になると、4分の1にあたる人が要介護認定を受けており、入院や長期療養が増えるのも事実ですが、後期高齢者の半数以上が趣味やレジャーを楽しんでいるともいわれています。

 社会保障制度改革の議論のポイントについてです。現在、6歳から69歳までの現役世代の医療費窓口負担は、所得に関わらず原則3割です。これは今後も維持される見込みです。議論の焦点は高齢者の負担割合です。その議論の主な焦点は、高齢化に伴う医療費全体の増加を抑えるため、特に70歳以上の窓口負担割合を引き上げるというものです。11月5日の財務省の審議会では「70歳以上の医療費を原則3割負担にすべき」という提案が出されましたが、厚生労働大臣は「現実的ではない」と否定的な見解を示しています。

 現在、75歳以上の一定所得以上の人は既に2割または3割負担となっています。この「一定所得」の基準を見直すことなどが検討されています。前述の湿布薬や保湿剤、解熱鎮痛薬など、市販薬と成分が似ているOTC類似薬の処方について、医療保険の適用を維持しつつ患者の自己負担を追加する方向で議論が進んでいます。これは自民党と維新の会の連立合意に含まれた項目です。維新の会が訴える医療費4兆円削減に連動するような高齢者の負担増を意味します。

 しかし、これらの負担増の議論に対して、患者団体や日本医師会、共産党などからは、患者の経済的負担が大きくなり、治療の遅れにつながる可能性、受診抑制が発生する可能性などといった懸念の声が上がっています。

 私的なことですが、私は心不全のために2週間入院し、退院後も11種類の薬を服用し運動療法を受けています。医療費が2割から3割負担となると大変だな、、と懸念する日々です。安心して病気ができる国、安心して年をとれる国になることを皆が願っています。

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税収入の仕組みと税収弾性値

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「責任ある積極財政」というスローガンが政界で話題となっています。この対極にある立場が「財政均衡」とか「基礎的財政収支」、別称「プライマリーバランス(PB)の黒字化」です。これまで財務省は、政府財政においては、債務残高がGDPの2倍を超えていると警告しています。「将来世代に負担を先送りする」という懸念が、財政均衡とか財政規律を強調する理由です。PBを均衡するためには、安定して徴収できる消費税を増やす、つまり増税という施策を要するというのです。

日本経済新聞より引用

 他方、「責任ある積極財政」論では、景気の回復には積極的な投資が必要であり、それによって供給を喚起し需要を促進すれば、各種の税収は増えて、政府の財政はバランスがとれるという主張です。積極的な投資とは、主に建設国債などの発行のことです。各種の発表によりますと、近年は、財務省の予測をよそに税収入が予想を上回っていると報じられています。財務省は税収入を予測するために「税収弾性値」という指標を用いてきました。

 税収弾性値とは、経済成長に対する税収の伸び率を表す指標です。具体的には、名目GDP成長率が1%増加したときに、税収が何%増加するかを示す数値です。この値が高いほど、経済成長に連動して税収が増加する効果が大きいことを意味し、財政再建に有利だとされます。

 長年、財務省が税収弾性値「1.1」という数値を使って、税収入を予測してきました。税収弾性値を低く設定しておけば、「社会保障の自然増分を稼ぎ出す成長を期待することも難しい、従って増税する必要が生まれる」という説明です。社会保障費の必要性を十分喧伝しておけば、後は自ずと「増税するしか無い!」という結論が導かれることとなるのです。これが財務省が「1.1」を捨てない理由です。

 最近の分析では、近年の日本では税収の伸びが伝統的な見積もりより大きく、実質的な税収弾性値はもっと高い可能性がある、という指摘があります。例えば、第一生命経済研究所(DLRI)の最新レポートでは、1998年度以降のデータから弾性値の平均を計算したところ、約 2.13 という値が発表されています。今年度の名目経済成長率により、政府や内閣府の見通しベースで税収は約77.8兆円ですが、約80.5兆円を超えると予想されています。

厚生労働省・総務省より引用

 税収増加の理由としては、法人税収の景気感応度が極端に高いからだといわれています。景気により企業利益はGDPより振れ幅が大きくなります。法人税は利益に直接かかるため、景気がよいと跳ね上がります。好況になると税収急増となりやすいく、 特に企業部門の好況が続いた2013〜2019では弾性値2以上が普通に起っていたのです。2024年度の決算確定では約 2.5兆円、2025年度の補正段階では約 2.9兆円の「上振れ」とな予想されています。

 財務省は「景気変動のリスク」を考慮し、税収を常に保守的(低め)に見積もる傾向があります。これに対し、近年の物価高(インフレ)による消費税増収や、企業業績の好調による法人税増収が、弾性値「1.1」ベースによる見積もりを大きく超えるペースで進んでいるため、結果として毎年数兆円規模の上振れという埋蔵金が発生する構造になっています。

 財務省が頑なに「税収弾性値1.1」という低い数値を使い続けるのには、大きく分けて①実務的な保守性というリスク管理と、②政治的な意図である財政規律というの2つの側面があります。実務的な理由としては、財務省にとって最も避けたい事態は、税収を多く見積もりすぎて、実際の税収が足りなくなる歳入欠陥です。歳入欠陥によって赤字国債への依存が生じるからです。予算を組んだ後に税収が足りなくなると、年度の途中で赤字国債を追加発行して穴埋めをしなければなりません。これは財政当局として最も恥ずべき失態とみなされるようです。そのため、景気が予想より悪化しても大丈夫なラインとして、過去の長期平均的かつ低めの数値である税収弾性値「1.1」を採用しているのです。

 次に、財務省には政治的な理由として政治家の「バラマキ」を防ぎたいという意図があります。ここが本質的な理由とされることが多いようです。もし財務省が税収弾性値が高く、景気が良くなれば税収は大きく増えることを公式に認めてしまうと、次のような圧力が政治家からかかります。つまり、増税は不要という論理が加速:し、経済成長すれば税収は勝手に増えるのだから、消費増税などの痛みを伴う改革は不要であるという議論が強まります。税収が増えると歳出を拡大するという圧力がかかります。「将来これだけ税収が増えるなら、今のうちに国債を発行してでももっと予算を使おう」という、一種バラマキのような圧力が強まります。

 財務省としては、「弾性値は低くして税収は簡単には増えない」という前提を維持することで、「だから無駄遣いはできない」「財政再建が必要だ」という緊張感を保ちたいという力学が働くのだろうと察します。財布の紐を固くしておきたいという気持ちは分からないではありませんが、政府の財政は家計のそれとは全く違うことを理解すると、財務省の主張は的外れであることが分かります。

 まとめですが、税収を低く見積もっておいた方が、財務省にとって都合が良いのです。予算が不足する懸念がなくなるからです。上振れした税は使い勝手の良い財源になります。それを後から補正予算で配れば、政治的な恩を売れるとか借金返済に回せるのです。財政が厳しいと主張することによって増税や支出削減の正当性を保てるというのが財務省の意図なのです。

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ウクライナ和平交渉と宥和政策

注目

最近のウクライナ情勢における大国間での和平交渉について、いろいろな提案と駆け引きが続いているようです。この交渉過程から1941年頃のイギリスのチェンバレン首相(Neville Chamberlain)のナチス・ドイツに対する宥和政策(appeasement)のことが思い起こされます。私なりにトランプ大統領をチェンバレンと、プーチン大統領(Vladimir Putin)とヒトラー(Adolf Hitler)とを対比するとどのようなことが見えてくるのか、果たしてこのような比較は妥当かどうかを、過去の史実に基づいた枠組みから考えてみます。

2022年ゼレンスキー大統領と東欧諸国首脳との会談

 トランプ、チェンバレン、プーチン、ヒトラーの関係は非常にセンシティブで、人物の評価というより政策姿勢や外交スタイルの比較をすることにとどめます。まずは、チェンバレンの宥和政策とトランプのロシアへの和平提案(peace proposal)の共通点です。双方とも「対話により緊張を下げられる」という前提で行動しているようです。チェンバレンは、ミュンヘン会談(Munich Conference)などでヒトラーとの直接対話により戦争を回避できると考え、譲歩を通じて安定を作ろうと努力しました。他方、トランプは「敵対よりも個人的関係による交渉が有効」と繰り返し主張し、プーチンとの関係改善を強調していることが伺えます。いずれも「強硬路線よりも首脳間交渉の重視」という構図が見えてくるようです。

 国際政治では、国家が自国の安全保障と国益を最優先する現実主義が見られます。チェンバレンは当時のイギリスの軍備が未整備で時間稼ぎをした面もあり、「実力が整うまで対立を避けたい」という現実的な動機があったといわれています。ヒトラーには、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約(Treaty of Versailles)で取り上げられ、チェコスロバキア領(Czechoslovakia)となったズデーテン地方(Sudetenland)を取り戻したいという意図がありました。トランプも「アメリカ第一主義」に基づき、ロシアより中国を競争相手と見なす優先順位から、ロシアとは緊張を高めたくないという発言を繰り返してきました。トランプの譲歩や対話が必ずしも弱腰ではなく、戦略的な判断をしているということも伺えます。

 チェンバレンの宥和政策は、チェコスロバキアやフランスの不安を生みます。それは彼らの軍事力が十分整わず、侵略で主権を脅かされるような提案だったからです。他方、トランプのロシアへの相対的で好意的姿勢は、NATO加盟国、特に東欧のポーランドやバルト三国(Baltic States)の不安を招いています。トランプの「敵との対話」が周辺国の警戒感を高めた点は、チェンバレンの宥和政策の影響に類似しています。同盟国の不安を招いているという共通点です。

 ただし共通点以上に違いの方が大きい点もあります。それは国際環境が全く異っていることです。1930年代は多くの国が軍備を拡張し、国際秩序が崩れつつある状況がありました。現代は核抑止や集団的防衛機構、国際機関が存在し、第二次大戦前とは構造が違っています。トランプは実際に「譲歩合意」を結んだわけではありません。他方チェンバレンはミュンヘン協定(Munich Agreement) によって具体的に領土を譲る合意を結んだのです。トランプはプーチンと象徴的な友好姿勢を示しているようですが、正式な「宥和協定」を結んだわけではありません。

 個人独裁者 vs 民主国家の価値観の違いが存在します。チェンバレンの相手は急速に拡張する全体主義国家で、目的も明確に領土拡大だったのです。他方、現代のロシアは権威主義的ですが、ナチス・ドイツの統治機構や外交方針と同一視はできません。

 ヒトラーの侵略性というイデオロギーは特異であり、現代の国家思想と直接比較するのは困難です。ナチス・ドイツは領土拡張と人種主義的政策を国家目的にしていました。他方プーチンのロシアは侵略や人権侵害が国際的に非難されていますが、ナチスと同一視する理由を探すのは難しいといえましょう。 トランプの政策はアメリカ国内政治の影響が強く、チェンバレンとは同列に置くことはできません。チェンバレンは国家総力戦の瀬戸際で判断せざるを得なかったのですが、トランプは主として「アメリカ第一主義」や来年11月に行われる中間選挙という背景で行動しているようです。

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