高市内閣の人事と特徴

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高市早苗内閣の人事が波紋を呼んでいます。この話題を取り上げます。積極財政派といわれる政治家の片山さつきや城内実が経済や財政面での閣僚に任命されました。人事、特に 片山財務相+城内経済財政相ライン の登用が「財務官僚を震え上がらせた」と言われています。これは単なる人事の話ではなく、日本の財政運営の主導権争いという構造的な問題に絡んでいます。

 財務官僚が最も恐れるのは「政治主導による財政拡張」です。財務省は、戦後一貫して 財政規律=プライマリーバランス(PB) 黒字化路線を日本の国是のように守ってきました。それは一種の官僚的な信念であり、同時に権力の源泉でもあります。

高市早苗内閣の閣僚

 官僚は絶えず「財政規律を守らなければ国は破綻する」と言って、各省庁や政治家の“バラマキ要求”を抑えるのが自分たちの使命だと信奉してきました。つまり、財務官僚にとって“緊縮財政”はイデオロギーであり、支配の道具でもあったのです。ところが、今回登用された片山や城内はともに明確に 「積極財政」、「脱・PB黒字主義」 を掲げてきたのです。このラインが財務省の上に立つということは、「財務官僚が握っていた国家財政のアクセルとブレーキを政治側が奪う」という構図になるのです。これが、財務官僚にとって最大の“恐怖”です。

これまで、財務省は税収の弾性値を使って税収入をあらかじめ予測してきました。弾性値とは名目GDPまたは所得・消費などの課税ベーが1%変化したとき、税収が何%変化するかを表す指標のことです。2010年代の弾性値は、約1.1 前後、コロナ後回復期は法人税が急増し一時的に 1.3〜1.5程度、そして2023〜2024年度は景気鈍化という局面で 1前後に戻っています。

「積極財政」は官僚制の財政規律という論理をひっくり返すことにもつながります。これまでの財務省ロジックつまり、低い弾性値を使い、税収を慎重に見積もる、歳出要求は抑える、国債発行は最後の手段とする、そしてPB黒字化を最優先するという論理です。積極財政という仕組みは、官僚にとって極めて都合が良い方針なのです。なぜなら「財源がない」を理由に、すべての各省からの政策提案を査定し、場合によっては差し戻してきたのです。

¸ 加えて積極財政派の論理というのは、経済を成長させれば税収は増える、政府支出は経済政策の一部であり、国債発行も経済成長のためのツールであるという考え方です。つまりPB黒字化よりも国民生活と成長を優先するという政策なのです。このように積極財政とは、財務省の予算査定権限を弱めるという、これまでの財務省自体の正統性を揺るがす思想でもあるのです。これを大臣というトップが主導すれば、省内の力学が崩れるために「官僚は震える」という表現が使われるのです。

 繰り返しますが、具体的に財務省が震えるのは次のことだろうと考えられます。つまり、PB目標の廃止・棚上げです。 財務省が掲げてきた「財政再建の旗」が降ろされるのです。さらに政策判断の正統性が失われ、内部の理論体系が崩れることです。高市首相の人事は「財務省支配からの独立宣言」ともいえそうなパラダイムシフトです。この2人が財政と経済の要職を握ると、官僚たちは「もう、予算の主導権を握れない」と感じるかもしれません。「財務省が支配してきた戦後の官僚国家モデルの終焉」 という構造変化です。

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責任ある積極財政の課題

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どのような政策にも懸念とかリスクは考えられます。「責任ある積極財政」も例外ではありません。積極財政とは、主に国債の発行による景気上昇の財政政策です。その場合、財政赤字や国債残高の増加という側面があります。すでに政府債務は非常に大きい状態にはあらいます。財務省が間違って唱えてきた将来世代へのツケとか負担という懸念が言われています。ここで勘違いをしてはいけないことは、国債は政府の借金であり、国民の借金ではないということです。

 国債の償還にあたっては、金利が上昇した場合、国債費の利払いが急増し財政を圧迫することも考えられます。どのような場合に金利が上昇するかについては諸説がありますが、将来的な可能性としてあることです。私には金利上昇理由がなになのかは分かりません。

 国債による資金の利用は、どのような公共投資に充当するかであります。例えば、高速道路や整備新幹線の延長、老朽化した上下水道の工事、国土強靱化対策、宇宙開発など科学技術への投資といった積極財政が「バラマキ」に流れると、効果の薄い支出で財政負担だけが増える心配もあります。インフラへの投資などは質の確保や将来の需要予測が難しいこともあり、無駄な投資のリスクが存在するのも確かです。

 政府が公共事業を増やしたり給付金を出したりすると、家計や企業の支出が増えます。つまり、経済全体としてモノ・サービスを「買いたい量」が増えるのです。労働者が確保できないとか、原材料が高騰しているとか、入手困難である場合、生産設備が不足している局面で追加の財政出動は、懸念される事態ともなりかねません。需要が増えて物価が上がり生活を圧迫する可能性もないではありません。

日本経済新聞より引用

 一度積極財政を採用すると、政治的理由で支出削減が困難になり、景気が好調でも財政が引き締まらないという問題も起こりえます。それを防ぐためには費用対効果を厳密に審査し、場合によって支出削減にも英断を求めることです。

 まとめとして、責任ある積極財政の基本的な考え方は、短期では需要不足を補い、長期では成長の基盤を整えることで結果的に財政も健全化する”というものです。積極財政はメリットもリスクも大きい政策であり、最も重要なのは「何に、どのくらい、どの期間」投資するかという政策設計の精度にあると考えられます。

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責任ある積極財政とは

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高市政権は「責任ある積極財政」の推進を主張しています。その理由や根拠、さらに課題などを2回にわたって考えていきます。デフレや低成長からの脱却が「責任ある積極財政」の目指すところです。長期的な物価停滞が続き、実質賃金の伸び悩みを解消し、国内の需要不足を補うには、民間需要が弱い局面で政府が支出を増やす積極財政が必要と考えられています。大手企業の多額の剰余金が滞る状況では、財政出動がインフレを呼ぶのではなく成長に結びつきやすいというのです。

戦時国債

 次に、安全保障・災害対策・社会基盤への投資が必要と考えられています。防衛力強化、災害インフラ、エネルギー安全保障、デジタル化など、国として不可避な支出項目が増えています。これらは民間投資では賄えない領域であり、政府の支出が不可欠と考えられるのです。

 さらに税収は経済成長によって増えるという考え方にたっていることです。財政再建を「歳出削減・増税」ではなく「経済成長による税収増」で達成するという立場です。経済成長率が高まれば、GDP比の債務負担が相対的に低下するという論理です。増税は、国民の実質賃金を下げる懸念があります。積極財政の財源は国債によって賄われなければなりません。

 日本国債の性質は自国通貨建てで、低金利の状態にあります。日本は自国通貨建て国債で返済不能リスクは低く、中央銀行が市場の混乱を抑制できるという事情があります。国債市場は安定しており、国債の消化主体の多くが民間金融機関や日銀であるため、財政破綻リスクは相対的に小さいといわれています。国債の償還は、借換債でおこなわれており、財政破綻、いわゆるデフォルトの懸念はありません。

 現下の世相では、少子化や技術革新などへの“未来投資”が不可欠だといわれています。教育投資、科学技術、スタートアップ支援等は短期の採算性が弱いため、政府支援によって成長基盤を作るべきだ、という考えです。民間投資ではこうした取り組みは困難なのです。

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アメリカの大学スポーツは一大興業

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大学スポーツは今や最高潮です。その活動は、全米大学体育協会( National Collegiate Athletic Association-NCAA)という巨大な組織によって統括されており、プロリーグに匹敵するほどの人気と注目度を誇ります。特にアメリカンフットボールとバスケットボールは絶大な人気があり、全国中継される試合には5万人規模の観客が集まります。大きな大学はフットボール用の巨大なスタジアムを擁し、室内スタジアも1万人を収容します。 今はアイスホッケーの他に、バレーボールが多くの観客を集めています。

 NCAAは、約1,100校以上の加盟校と50万人以上の学生アスリートを擁する巨大な統括団体です。人気のスポーツといえば、男子ではアメリカンフットボールが圧倒的で、次いでバスケットボール、アイスホッケーなどと続きます。これらの人気スポーツのテレビ中継は非常に頻繁に行われます。

 優秀なアスリートを集めるために、各大学はスカウト職員を揃え、各州にある大学同窓会などのネットワークも利用し、ここぞと思われる高校生に注目して大学への勧誘をします。時に、交通費や謝礼を渡すなどの違反行為が報道されています。大学に入学すると、学費や生活費をカバーするスポーツ奨学金(athletic scholarship)が提供されます。これは、スポーツと学業の両立を目指す学生にとって重要な支援となります。

ウィスコンシン大学のキャンプランダール・スタジアム

 大学スポーツは競技力の向上だけでなく、将来のキャリア形成にも大きな影響を与えます。アスリートは、最高レベルの競技環境の中で大学での専門的な学びを両立させることが求められます。NCAAの規則では、アスリートの学業成績が悪いと退学させることを義務づけています。ですから学業不振なアスリートには支えるチューターがいます。大学スポーツは、プロへの登竜門となっています。多くのプロアスリートは、NCAAでキャリアをスタートさせています。大学スポーツはプロリーグへの重要なパイプ役となっているのです。

 アメリカの大学スポーツは、教育システムの一部でありながら、興行としても非常に大規模に運営されているのが特徴です。 大学スポーツは、各大学にとって巨大な収入源となっています。毎年数千億円が動きます。試合が全国中継となると、放映権料などにより大学は多いに潤い、収入のないスポーツ活動、たとえば陸上競技やサッカー、レスリング、テニスなどの運営を支えるのです。

 アメリカの大学スポーツにには、「ポータル(転校)制度があります。この仕組みは、「トランスファーポータル」と呼ばれ、学生アスリートが所属チームを転校する際に、自分から他大学のコーチにアピールするために、NCAA加盟校関係者のみがアクセスできるシステムのことです。

 優秀なアスリートの中には、もっと強い大学のチームに転校したいという希望を持つものがいます。また、あまりアスリートとしての活動の機会が少ないとか、コーチや他の同僚と関係に不満などがあるアスリートは、このシステムに登録し、自分を評価してくれる大学を探すのです。シーズン中、アスリート起用に不満があり、所属の大学チームではなく他のチームに行って出場時間が欲しいなど、求めるものを追求していく精神がアスリートに強いのです。

 これまでは、大学の監督は高校から才能あるアスリートをスカウトすることだけに集中していれば良かったのですが、時代は完全に変わりました。大学アスリートは収入を求めて、自分が活躍できそうな他の大学へ転校していくのです。こうしてみますと、「トランスファーポータル」によって大学もまたフリーエージェント制度でチームを移籍していくプロと変わらなくなりました。とまれ、プロと大差ないのがアメリカの大学スポーツなのです。

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伝統「芸術」から「科学」へ

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AlphaGoや後続のLeela ZeroなどのAIは、統計的に勝率が高い手を選びます。これにより人間が感覚やバランスを重視していた定石よりも実利重視により、相手に多少地を与えても全体のバランスで勝つという打ち方が増え、AI定石という新しい定石が誕生しました。AlphaGo以後、多くのトッププロがAIとともに研究を深め、これまでの定石辞典が書き換えられています。プロの対局でもAlphaGo由来の打ち方が主流になり、実際の対戦の棋譜が大きく変化しました。

肩つき

 少し話題を変えて、1954年製作の「十二人の怒れる男」というアメリカ映画がありました。ある裁判で一人の陪審員が他の11人の陪審員たちに、固定観念に囚われずに証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを提案します。やがて少数意見が多数意見となり無罪評決となるというストーリーでした。イスラエルでは会議をするとき、もし出席者7人のうち6人が賛成する発言をしたとき、7人目の人は無条件に反対意見を述べなければならないというのです。多数とは違う少数意見は、それ自体に価値があるという考え方があります。

 この陪審員の評決に関するエピソードを囲碁に当てはめてみますと、固定観念を捨てるとき思わぬ妙手が生まれることがある、ということかもしれません。最近は常識にない手を数々打ち出し、定石の考え方が変わって、新しい定石が生まれています。こうした変化には、固定観念から離れて新しい手を考えて打とうという姿勢があるからです。そういえば「定石を覚えて二目弱くなり」という定石信奉者を皮肉った川柳があります。イスラエルの格言にもう一つ。「何も打つ手がないときにも、ひとつだけ必ず打つ手がある。それは勇気を持つことである。」 私たちには後学のために役立ちそうな含蓄のある言葉です。

ダイレクト33

 AlphaGoなどの登場によって、定石の固定観念から脱皮し「定石は変わった」といえそうです。囲碁の定石は不変のものではなく、AIの登場で大きく進化しています。AlphaGoが示した新しい打ち方は、「AI定石」として現代囲碁の基盤になっています。AlphaGo以降、囲碁は伝統文化という「芸術」から「科学」へと一歩進んだといえるでしょう。

「アルファ碁」によって定石は変わった

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私の「道落」の一つが囲碁。強いとはとてもいえないのですが、碁の深さや難しさに魅了されつつ、毎日練習するのを日課としています。囲碁には「定石」といわれる昔から度重なる研究と対局によって生まれた石の形があります。定石とは対戦者が最善を尽くして「部分的」に互角に分かれる石の形のことです。どちらかが有利な形となるなら、それは定石とはいいません。私も定石を何度も練習しています。ですがいざ実戦となるとその手順を間違えることがしばしばあります。対戦相手は定石にないような手を打ってきます。高段者は新しい定石を学び低段者を翻弄します。

 2016年1月、Googleの完全子会社であるイギリスのGoogle DeepMind社が開発した、ディープラーニング(deep learning) の技術を用いた人工知能(AI)のコンピュータソフト「アルファ碁(AlphaGo)」が、2013年から2015年まで欧州囲碁選手権を3連覇した樊麾二段と対局しました。結果は5戦全勝し、それに基づく研究論文がイギリスの科学雑誌ネイチャー(Nature0)に掲載されました。囲碁界でコンピュータがプロ棋士に互先で勝利を収めたのは史上初のことでした。DeepMind社は「人間の棋譜を一切使わず、ルールだけを教えられた状態」からコンピュータ囲碁を強くする研究として「アルファ碁ゼロ(AlphaGo Zero)」を開発したのです。

 さて、AlphaGoにまつわる話題です。それが、「定石と固定観念」というフレーズです。これが人工知能とどう結びつくかです。 囲碁はある程度の知識が無いと盤面を見ても優劣を判断できないのですが、囲碁AIによる形勢判断を数値で表示することで優劣を分かりやすく見せることが可能となりました。NHK杯テレビ囲碁トーナメントでも第69回(2021年度)から、AIによる%表示の形勢判断が画面上部に表示されるようになりました。

 AlphaGoは従来のプロ棋士たちが「常識」として使ってきた定石の多くに対して、「必ずしも最善ではない」、「もっと勝率の高い手がある」ということを示しました。例えば、小目からの三々侵入です。かつては三々侵入は、中盤で打つものとされていましたが、AlphaGoは序盤から打つことで実利を先に確保する戦術を示しました。さらに、星の構えにおけるアプローチの順番や角の処理についても、今まで不利とされた打ち方が、AIによって再評価されました。

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「経験」と体験との違い

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森有正についての第三稿です。森は言葉には、それぞれが本当の言葉となるための不可欠な条件があるといいます。それはその条件に対応する「経験」であるというのです。経験とは、事柄と自己との間の抵抗の歴史であると主張します。福祉を論ずるにせよ、平和に論ずるにせよ、その根底となる経験がどれだけ苦渋に充ちたものでなければならないかを想起することです。その意味で経験とは体験とは似てもつかないものであると主張します。体験主義は一種の安易な主観主義に陥りやすいと警告するのです。

 「人間は他人がなしとげた結果から出発することはできない。照応があるだけである。これは文化、思想に関してもあてはまる。確かに先人の築いたその上に築き続けるということは当然である。しかし、その時、その継続の内容は、ただ先人の達したところを、その外面的成果にひかれて、そのまま受けとるということではない。そういうことはできもしないし、できたようにみえたら必ず虚偽である。」

 「変化と流動とが自分の内外で激しかったこの十五年の間に、僕のいろいろ学んだことの一つは、経験というものの重みであった。さらに立ち入って言うと感覚から直接生れてくる経験の、自分にとっての、置き換え難い重み、ということである。」

 「経験ということは、何かを学んでそれを知り、それを自分のものとする、というのと全く違って、自分の中に、意識的にではなく、見える、あるいは見えないものを機縁として、なにかがすでに生れてきていて、自分と分かち難く成長し、意識的にはあとから それに気がつくようなことであり、自分というものを本当に定義するのは実はこの経験なのだ。」

 「自己の中の生活と経験とが発展し進化されて、おのずからその経験そのものが、平和を、自由を、人間形成を定義するようにならなければ、すべてが軽薄になり混濁してくる。経験が体験と違うのは、そしてそれについての一つのもっとも根本的な点は、前者が絶対的に人為的に、あるいは計画的に、作り出すことが出来ない、ということである。」

 「日本では、自由とか、平和とか、民主主義とか、そういう言葉そのものにつかまってしまって、それらの言葉の持つ真の意味を考えない。どうも、事態がすべて逆転している。これは非常に不幸だと思います。現在、言葉というものが、非常にむなしいものになっているとしたら、それは、経験の裏づけを失った、沈黙の重みをになったものでなくなってしまった、ということでしょう。」

 このように森有正は、経験という意味を深く追求することによって、真理であると思われることを一度真剣に、徹底的に疑う勇気が生まれるというのです。

 この本に「思索の源泉としての音楽」という章があります。森はオルガン演奏をこよなく愛した人です。特にバッハ(Johann Sebastian Bach)のパッサカリア(Passacaglia)やグレゴリアン聖歌(Gregorian Chant)に心酔していました。こうした音楽の本質は、人間感情についての伝統的な言葉を、歓喜、悲哀、憐憫、恐怖、憤怒、その他を、集団あるいは個人において究極的に定義するものだとします。人間は誰しも生きることを通して自分の中に「経験」が形成されると森はいいます。自己の働きと仕事とによって自分自身のものとして定義される、それが経験だというのです。この仕事は、あらゆる分野にわたって実現されるもので、文学、造形芸術などとともに音楽もその表れだといいます。

 この著作は森有正の人となり、生き方、フランス文化や日本文化に対するに関する思索や洞察、さらには音楽の意義に至るまで、その言葉や音楽の定義力の強烈な純粋さのようなものが織りなすエッセイとなっています。私の考え方の一つの道しるべのようなものとなった、かけがえのない一冊です。

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フランスの教育と森有正

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著書「遙かなノートル・ダム」の中で、森有正は次のようにフランスの中等教育の特徴を指摘します。

 「フランスの教育の要点は、知識の集積と発想機構の整備の二つである。知識の集積とは記憶が主要な役割を果たす。それは実に徹底していて、中等教育の歴史科をとってみると、先史時代から現代まで第六学級から卒業までの七年間に膨大な量を注入する。知識は内容を省略せず、各時代の主要問題、政治、外交、経済、社会、文化を中心に、しかも頻繁なコントロールや宿題、さらに作文によって生徒自身の表現能力との関連において記憶されるようになっている。日本の中学や高校の教科書の五倍くらいの量である。」

 「フランスにおいては、自国の言葉の学習に大きい努力が払われている。小学校に入る6歳くらいから、大学に入る18歳くらいまで行われるバカロレア(Baccalaureate)という国家試験まで、12年間にわたり緻密に行われる。その目的は単に本を読むことを学ぶだけでなく、作文すなわち表現力を涵養するために行われる。漠然と感想を綴ることではなく、読解、文法、語彙、読み方にわたって低学年から教育が行われ、その定義と正しい用法が作文によって試されるのである。文法にしても、しかじかの規則を覚えることではなく、その規則の適用である短い文章を書くことが無数に練習される。読本の読解ももちろん行われる。学年が進むと、文法的分析に論理的文体論的分析が加わる。そして作文はいつも全体を総括的にコントロールするものとして、中心的位置を占めている。

 このようにフランス教育の中心課題が知識の組織的蓄積であって、そこから自分の発想を磨くという眼目を忘れてはならないと説きます。それは単なる知識の詰め込みではないということです。

 森は、人間の中心課題として経験と思考、伝統と発想、そして言葉の重みを提起します。日本人は英語の単語や語句をたくさん知り、難しい本を読むことができても、書くとなると正しい英語を一行も綴れないことを話題とします。それは、自分の中の知識に対する受動的な面と能動的な面との均衡の問題であると指摘します。たくさんのことを覚えても、記憶してもそれが自分の中にそのまま停止しているから文章を綴れないのだ、というのです。単なる作文の練習をしてもどうなるものではなさそうです。英語でもフランス語でも本当に正しい語学を身につけるためには、その国の人の間に入って経験を積むほかはないと断言するのです。

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オルガン奏者の森有正

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偶然ですが、私が一度会ったことのあるフランス文学者で哲学者が森有正です。森に会ったのは、1965年6月頃の札幌ユースセンタールーテル教会です。そこで働いていたとき、森が教会に入ってきて名刺を示し「オルガンを弾かせて欲しい」というのです。教会にはアメリカのルーテル教会青年リーグから寄贈された約400本のパイプのオルガンが設置されて礼拝やコンサートで使われていました。私はそのとき、彼が学者でオルガン愛好家であることを知りませんでした。後に「遙かなノートル・ダム」に出会ったとき、彼の深い思索や文明批評に触れて、その学識に接することになります。

 彼を呼び捨てにするのは少々ためらいますが、森は哲学者というよりもフランス文学者といったほうが適当かと思われます。彼は、明治時代の政治家で初代文部大臣となった森有礼の孫で、東京帝国大学文学部哲学科で卒論を『パスカル研究』として発表します。やがて1948年東京大学文学部仏文科助教授に就任します。第二次世界大戦後、始まった海外留学の第一陣として1950年フランスに留学し、デカルト(Rene Descartes)やパスカル(Blaise Pascal)を研究し、そのままパリに留まります。東京大学を退職しパリ大学東洋言語学校で日本語や日本文化を教えていきます。同じくフランス文学者の辻邦生とは子弟のような関係があったようです。

 パリでの長い生活で森は数々の随想や紀行などを著します。人々の息づかいが伝わるような濃密な文体で知られています。読みこなすのは容易ではありません。晩年は哲学的なエッセイを多数執筆して没します。森有正選集全14巻の第4巻が「遙かなノートル・ダム」です。彼はフランスの教育制度や内容にも深い関心を示します。著者の経験と思索の中には、フランスの教育に触れる箇所があります。それは別の稿で取り上げます。

辻邦生の世界

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フランス文学者や哲学者といわれる人々は、一種独特の気風や感性の持ち主のようです。当然といえば当然ですが、彼らは長らくフランスで生活し、風土や人々に触れ、そこから日本とは異なる啓示のようなものを経験したようです。その代表が辻邦生であり森有正です。辻は、日本の小説家・文芸評論家として、戦後日本文学界の中でも、知的で格調高い作風を持つ作家として知られています。そのことは、主な作品から伝わってきます。

辻邦生(学習院大学史料館より)

 辻の小説家としての特徴についてです。彼は、フランスの文学者、ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire)、ジッド(André Paul Gide)、プルースト(Marcel Proust)などから影響を強く受けてできました。その主張は、芸術性や精神性、死生観、自己探求といった重厚なテーマであり、一般大衆小説とは一線を画します。非常に文体が緻密かつ格調高く、哲学的な要素も多いので読み応えがあるというか、難しさもあります。

 辻の人となりです。学習院大学、東北大学、東京大学などで教鞭をとり、文学教育にも尽力します。文学おいて非常に自分に厳しく、欲望や快楽を我慢し、感情に流されずに冷静に物事に取り組む態度や生き方を求めます。そして美と死をめぐる探求を生涯のテーマと、晩年まで一貫して「芸術文学」を追求した数少ない作家といわれます。

 彼の主な作品を短く紹介します。
『背教者ユリアヌス』(1964年)→ 古代ローマの皇帝ユリアヌスを題材に、理想と現実のはざまで葛藤する人間を描いた代表作の一つである。
『嵯峨野名月記』(1975年)→ 京都・嵯峨野を舞台に、芸術と死をめぐる精神の遍歴を描く。
『春の戴冠』(1980年)→ ルネサンス期の画家サンドロ・ボッティチェリを主人公にした長編。美と芸術の意味を問う。
『一九三四年冬──パリに死す』(1982年)→ 留学先のパリでの日本人青年の死を描き、人生の不条理や美のはかなさをテーマにしている。
『若き日と文学と』(2019年)→ 北杜夫との端正でユーモアに溢れ、青春の日々を振り返る。
『地中海幻想の旅から』(2018年)→生涯を通じて旅を愛する多幸感に溢れるエッセイである。

 辻の作品を概観しますと哲学や創作の原点は、「美と死をめぐる精神の遍歴」、そして「生の意味を芸術に昇華しようとする知的・精神的欲望」にあるといわれます。彼の以上のような労作から哲学の根底にあるものが浮かび上がってきます。それは、次のようないくつかの観点からいえます。

 第一に、死と向き合うことから始まった文学を紹介していることです。辻は、若いころに戦争を体験しており、死の現実を強く意識するようになります。戦後の焼け跡の中で「人間とは何か」「生きるとは何か」という根源的問いに直面し、それを文学を通して問い直すことを自身の使命としていたことが作品から伝わってきます。彼は以下のように語っています。

私にとって小説とは、死の不在と向き合うための形式であり、死を超えるための構築物である。

生の「かけがえのなさ」とは、「死」に限られた自己の有限性をはっきり意識することでもあるからだ。しかし人はそれを通して、「より深い生」を生きることを決意するにいたる。それは遠くへの旅立ちではなく、むしろ自分の内部への、あるいは日常の「もの」たちへ向かっての、旅であるというべきかもしれない。

 つまり、彼の文学は、「死に対して美をもって応答する」試みであり、その象徴的な回答が「芸術の永遠性」にあると思われます。

 彼の創作の二つ目の柱は、「ヨーロッパ的教養と精神の継承」です。フランス留学での体験は、彼にとって決定的でした。ボードレール、ジッド、プルースト、マラルメ(Stéphane Mallarmé)、カミュ(Albert Camus)といった作家の作品を通じて、「個の精神の尊厳」「生の意味」「美と知性の融合」などを思索します。特にプルーストの『失われた時を求めて』の影響は強く、辻文学における時間・記憶・芸術の主題に深く関わっています。西洋の芸術や歴史を舞台にした作品、例えば「背教者ユリアヌス」、「春の戴冠」などは、彼の知的で精神的探究の結晶とも言われています。

 第三に、辻はまた、「物語る」という行為そのものに深い意味を見出しました。「人は、物語ることによって死を越える。記憶も人生も、物語ることで意味が与えられる。」
つまり、日常の一瞬を切り取り、それに形を与えることで、儚い人生が芸術に昇華される――それが辻邦生の創作の根本です。彼はこれを「生の詩化(ポエジー)」と呼んでいます。

 第四に、 フランス文学の影響を受けながらも、辻は後年、日本文化・風土の中に精神的な根を張ろうとします。日本的なるものへのまなざしです。「嵯峨野名月記」などに見られる、京都・嵯峨野の静謐なたたずまいに精神性を見つけ「無常」や「幽玄」など、日本的な美意識と西洋的知性との融合を図ろうとしたかのようです。辻は、西洋的論理と日本的情緒の架橋を目指し、「世界文学としての日本文学」を創ろうとしていたとも言えます。

 終わりに、辻の哲学や創作の原点は、フランス文学や哲学を通じた内的探究にあり、戦争体験から生まれた死と向き合う哲学といえます。そして芸術と物語によって人生を「美」に昇華するという難しい遍歴です。日本的情緒を理解し、西洋との融合を通じて独自の精神世界を構築しようとした文学者といえます。

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生成AIの活用

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私は、これまで教育統計などを使うことを生業としてきました。種々の調査や実験から得られるデータを統計的に解析して、なんらかの結論を導き論文とすることでした。特に利用したのが多変量解析法です。多くの変数間の関連性を分析し、データの傾向を要約したり、将来の数値を予測したりするための統計的手法の総称です。因子分析もその一つで、データの裏にある本質的な因子を統計的に推定する手法です。

 コンピュータ上での統計アプリなしに仕事はできません。そして、今は拙い文筆活動をしながらエッセイを書くときは、文法を含む修辞や用語の使い方を確認したり、間違いを探すために、AI 文法チェックというものを使っています。AI 文法チェックは、いろいろなワープロアプリやコンテンツ管理システムに埋め込まれています。自分が作る原文の質を高め、思いがけない洗練?された文章を作成してくれています。

 アメリカの大学では、ChatGPTとかGoogle Geminiなどの生成AIの活用は急速に広がっています。その際、学生と教授の間でこのツールを使うときは、学術的な誠実さ(academic integrity)を守ることが最も重要とされています。生成AIを許容される使い方では、問題となることと推奨されことがあります。

ChatGPT ロゴ

 学生が生成AIを使い方で、問題となる使い方から始めます。まず、論文本文を丸ごと生成AIに書かせることです。論文の中で、出典を確認せず、AIが出力した「フェイク引用」をそのまま使うことです。従って、提出物にAI使用の記載をせず、あたかも自分の考えとして提出することです。今、多くの大学では、AIの使用は「明記すること」を義務づけています。

 学生が生成AIの利用を許容される好ましい使い方のことです。まず、論文のテーマに関する基本的な背景情報を提供してくれます。さらに論文のアイデア出し、論文テーマを決めるための問いかけをしてくれます。そして、導入→本文→結論という流れの構成案の提案してくれます。当然ながら、文章を校正し改善してくれることです。文法ミスや語彙の修正などは生成AIの得意とすることです。そして、よりアカデミックな表現への書き換えをしてくれます。科学論文では、コーディングや数式処理のサポートをし、計算の手順を教えてくれ、プログラミングのデバッグをサポートしてくれます。引用すべき文献のキーワード探しも補助してくれます。ただ、実際の引用元は自分で確認が必要となります。

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マサチューセッツ州とリベラル・アーツ

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ハーヴァード大学に関するエピソードです。1962年の夏にハーヴァード大学から50名位の男声合唱団が札幌にやってきました。全員学部生です。1858年に創立されたアメリカで最も古い男声合唱団です。そのとき、北海道大学構内にあるクラーク会館において我が北大合唱団がジョイントで歌う機会に浴しました。合唱団の指揮者はエリオット・フオーブス(Elliot Forbes)という人でした 

 たった一回の練習で本番を迎えました。両隣で歌った学生の声量が豊かだったのに驚きました。演奏会後、私は団員に話しかけることができませんでした。会話力の不足でした。これが後に大きな転機となりました。ハーヴァード大学に長男を訪ねる機会ができたことです。彼はウィスコンシン大学から宇宙素粒子の研究で学位を得た後、ハーヴァード大学でポスドク(post doc)としてNASAからの研究費で4年間研究に従事しました。

 ハーヴァード大学男声合唱団と一緒に歌った曲名は黒人霊歌の「This Old Hammer Killed John Henry」といいました。曲の歌詞ですが、黒人奴隷ジョン・ヘンリー(John Henry)は、ウエストヴァージニア州(West Virginia)でハンマーをふるいトンネルの掘削にあたる、「このハンマーは俺を殺すのだ、主よ!」という内容です。その歌詞の一部を紹介してみます。

This old hammer killed John Henry
But it won’t kill me, Lord
No, it won’t kill me
When John Henry was a baby on his mama’s knee
He picked up a hammer and steel
He said “This hammer’s gonna be the death of me, Lord, Lord
This hammer’s gonna be the death of me”This old hammer killed John Henry
But it won’t kill me, Lord
No, it won’t kill me
When John Henry was a baby on his mama’s knee
He picked up a hammer and steel
He said “This hammer’s gonna be the death of me, Lord, Lord
This hammer’s gonna be the death of me”

 私がマサチューセッツ州で強調したいのが、リベラル・アーツ(Liberal arts) 教育機関—単科大学のことです。リベラル・アーツ・カレッジが多いのがアメリカの大学の大きな特徴の一つです。 古典、哲学、文法、修辞学などの一般教養とか基礎知識を身につけ、総合大学へ進むのです。リベラル・アーツ・カレッジに入学するのも容易ではありません。学費も高いのです。

 マサチューセッツ州にある有名な単科大学です。ウィリアムズ大学(Williams College)、アムハースト大学、ウェルズリー大学(Wellesley College)、スミス大学(Smith College)、ホーリークロス大学(College of Holy Cross)、マウントホリヨーク・カレッジ(Mount Holyoke College)があります。大学ランキングで、研究開発型大学40傑に5校(12.5%)、リベラル・アーツ・カレッジ40傑に6校(15%)が入っているのです。マサチューセッツ州の人口は644万です。国内人口の2%に満たない州で、こうした大学の数と質は驚異的なことです。

 マサチューセッツ農科大学、現マサチューセッツ大学アムハースト校を長男家族とで訪ねました。長男の家は、マサチューセッツ州西部にあるプリンストン(Princeton)という小さな街にあります。築後70年以上の白い建物で、ベランダをつける等のコロニアルスタイルです。ここから車で一時間くらいのところにアムハースト校があります。ところで、マサチューセッツ州西部には、植民地時代に交易で栄えたスプリングフィールド郡(Springfield Country)とか四季折々の自然が魅力のバークシャー郡Berkshire Countyなどがあります。世界中の音楽ファンが憧れる「タングルウッド音楽祭」(Tanglewood Music Festival)が開催される会場もバークシャーにあります。小澤征爾が指揮したボストン交響楽団の演奏は、タングルウッド音楽祭の主要な催し物でした。

 アムハースト校のホームページにリベラル・アーツ教育を次のように謳っています。

A liberal-arts education develops an individual’s potential for understanding possibilities, perceiving consequences, creating novel connections and making life-altering choices. It fosters innovative and critical thinking as well as strong writing and speaking skills. The liberal arts prepare students for many possible careers, meaningful lives and service to society.

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森有正の経験論

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森有正は20世紀日本の重要な思想家・哲学者であり、特に「経験」と「体験」という言葉の違いを通して、人間の内面の深まりや自己のあり方を問い直しました。彼のこの区別は、現代においても大きな意義を持っています。その理由を説明します。森は「経験」と「体験」の違いを、特に以下のような形でこの二つを区別しています。

 体験とは外的な出来事としての出来事や刺激のことで、個人の内面に深くは残らない一過性のものと考えていることです。現象的・表層的・情報的といえます。他方、経験とは体験が自己の存在に深く関わり、内面的な意味や変化をもたらしたと主張します。自己の歴史として刻まれる存在論的、内省的、形成的な意見というわけです 体験が自己の存在に深く関わり、内面的な意味や変化をもたらしたものです。森は、単なる出来事が「経験」になるためには、それが自己の存在に問いを生み、内面を揺さぶり、深く反省される必要があると考えました。

 一体、なぜいま「経験」と「体験」の区別が重要かという現代的意義についての問いが生まれます。「情報」や「刺激」が過剰な時代において、現代はSNSやインターネットにより、日々膨大な「体験的な出来事、例えば旅行・イベント・知識などにさらされています。しかしそれらは一過性で、すぐに消費され、忘れられてしまうものです。森の思想は、「本当の経験とは何か」を問う指針となっているように思えます。「自己の存在に関わるような出来事として、何をどう受け止めていくか」を森は問うています。

森がしばしば引用するノートルダム大聖堂

 「生きる意味の問い」が見失われがちな現代に、森の経験論は、自己と世界の関係を深く見つめる態度に根ざしています。現代のように、スピードと効率が優先される時代では、「自分はなぜここにいるのか」「この出来事は自分にとってどんな意味があるのか」という問いが後回しにされがちです。 森の思想は、「意味を問い、反省し、内面的な成長を促す」経験の大切さを再認識させてくれているようです。

 フランス文学に精通する森は、フランスでの長い生活から、フランスの学校教育や人間形成におけるヒントを提供しています。森は教育哲学にも関心があり、「経験」は人格形成や倫理観に深く関わると考えていました。 今日の教育現場で、「体験型学習」が多く行われていますが、体験が「経験」へと昇華するためには、内省のプロセスが不可欠というわけです。つまり、ただイベントに参加するだけではダメで、それがどう自分の生き方に関わるのかを問う時間や対話が重要になります。森有正の「経験と体験」という思索は「体験を経験に変える力」を私たちに問うています。

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マサチューセッツ農科大学とウィリアム・クラーク

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北米大陸は大西洋岸のニューイングランド(New England)地方の政治、経済、文化、観光の中心地がマサチューセッツ州(Massachusetts)です。州の第二の都市ウースター(Worcester)近くに長男家族が住んでいます。長男はウースターにあるイエズス会経営の単科大学、ホーリークロス大学(College of Holy Cross)で物理学を教えています。

 マサチューセッツ州の中心都市はボストン(Boston)です。ボストン周辺には、メイフラワー号(Mayflower II)がやってきたプリマス(Plymouth)、独立戦争発端の街レキシントン(Lexington)、捕鯨船に助けられたジョン万次郎ゆかりのフェアへブン(Fairhaven)、19世紀のアメリカ文学界を代表する作家の一人、ヘンリー・ソーロー(Henry David Thoreau) が暮らしたコンコード(Concord)、夏の避暑地ケープコッド(Cape Cod)など興味深い歴史に彩られた所が点在しています。

Johnson Chapell, Amherst College

 マサチューセッツ州と北海道の関係といえば、1876年に設立された札幌農学校の初代教頭になったウィリアム・クラーク(Dr. William Clark)を思い起こします。彼はマサチューセッツ農科大学(Massachusetts Agriculture College)の第三代学長でありました。1863年にボストンの西約90マイルの所にあるアムハースト(Armherst)にて創立された大学です。新島襄や内村鑑三がかつて学んだ大学であることは、すでにこのブログで35回に渡って振り返りました。今は、アムハースト校はマサチューセッツ大学(University of Massachusetts)の旗艦キャンパスとなっています。マサチューセッツ大学はアマースト校を含む5つの大学からなる州立大学システム(UMassシステム)です。

 マサチューセッツ州内には121の高等教育機関があります。研究開発型大学の代表としてボストンの郊外ケンブリッジ(Cambridge)にあるハーヴァード大学(Harvard University)とマサチューセッツ工科大学(Massachusette Institute of Technology- IMT)があります。その他USニューズ &ワールド・レポート(US News and World Report)のランキングで常に40位以内にある総合大学として、タフツ大学(Tufts University)、ボストンカレッジ(Boston College)、ユダヤ系のブランダイス大学(Brandeis University)があります。

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この人を見よー内村鑑三 その三十七 「救国論」

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内村鑑三に「救国論」というタイトルの著作はありません。ただ、彼の「代表的日本人」など、キリスト教の精神に基づき、日本と日本人のあり方を問い、独立と精神的進歩を訴える言論活動そのものが「救国論」と言われています。彼は国粋主義的な愛国心に批判的で、むしろ個人の良心に従い、精神的に成熟した日本人の集合体として国を救うことを目指したのです。

 1894年に出版された「代表的日本人」は、日本の歴史上の偉人をキリスト教の精神と照らし合わせながら紹介し、日本人が普遍的な価値観を持つことで、自らを高め、国を救う道を示しました。彼は、Japan(日本)とJesus(キリスト)という二つのJ という愛すべきものを大切にすることを唱え、キリスト教の信仰と日本への愛が両立することを説きました。

 日露戦争に際しては非戦論を唱え、足尾鉱毒事件で田中正造らとで公害問題を告発するなど、政府の政策や当時の風潮に批判的な言動が多く、一部からは「非国民」「国賊」と見なされることもありました。精神的独立の重視し、真の救いは外的な力ではなく、個人の良心に基づいた精神的な独立と自律性にあると考えました。この考え方は、国家の力に依存することなく、日本人一人ひとりが人間として成長することで国が救われるという信念に繋がっています。

父親らと

 内村の「救国論」とは、日本の真の救い(救国)とは、政治や軍事ではなく、個人の道徳的・宗教的な内面の改革によって実現されるべきだという思想を指します。これは、彼のキリスト教信仰、特に無教会主義と深く結びついており、西洋の「国家中心主義」や「権力主義」に対する鋭い批判を含んでいます。明治・大正期における日本の急速な近代化や、軍国主義的な傾向に強い危機感を抱いていました。

 彼の救国論の主張は、「後世への最大遺物」のエッセイで以下のようにまとめられます。

国を救うのは「外的な力」ではなく「内的な力」であり、軍事力や経済力では真の国の安泰は得られない。国の土台を支えるのは「国民一人ひとりの道徳心と宗教的良心」である。「魂の改革」こそが国家の再生につながる。国を救う者は、政治家にあらず、軍人にあらず、実業家にあらず、教育家にあらず、宗教家にして、しかも真の宗教家なり。

キリストの教えという信仰に基づいた人格の養成が国家の礎である。プロテスタントの聖書主義に立脚し、形式的な宗教よりも「信仰の本質」を重視。国家のために命を捧げるよりも、真理のために生きる人格者こそが、結果的に国を救う。真理を行い得る者、義のために命を賭ける者、これこそ救国の士なり。

軍国主義・愛国主義の盲信へ警鐘を鳴らし「愛国」という言葉のもとに行われる国家主義的な動きに警戒。国家を神のように崇拝する「国家神道」的傾向に反対する。

個人の内面的成長が、結果として国の成長につながる。「国家のために個人がある」のではなく、「個人が成長することが国家の救いになる。」

現在のAmherst College

 内村鑑三の救国論の現代的意義ですが、軍国主義の時代や物質文明の危険性を批判し、精神・倫理の再評価の必要性を説いたことです。さらに国家中心の教育ではなく個人の良心を重視し教育の根本に「人格形成」を据えたことです。そして、政治への依存を脱却し、信仰と良心による改革を訴え、草の根的な社会改革の重要性を説いたことです。

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この人を見よー内村鑑三 その三十六 「札幌の子」と戦後改革

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戦後民主主義のオピニオンリーダー(opinion leader)の一人が東京大学総長であった矢内原忠雄です。彼は「続 余の尊敬する人物」岩波書店刊行において内村,新渡戸の二人を師とし、自らを「札幌の子」と言っています。1937年に中央公論の9月号にて「国家の理想」と題する評論を寄せます。矢内原はこれを書いた後にある主張のために,東京帝大教授を追われます。その主張とは、国家が目的とすべき理想は正義であり、正義とは弱者の権利を強者の侵害圧迫から守ることであること、国家が正義に背反したときは国民の中から批判が出てこなければならないことを訴えたのです。この論文は大学の内外において矢内原排撃の格好の材料として槍玉に挙げられます。1936年6月に岩波書店から発行されていた「民族と国家」は、1937年12月、矢内原が辞職した当日に内務省により発禁処分となります。

中央は河合栄治郎、右が矢内原忠雄

 敗戦により矢内原は復帰して、南原繁に次いで二代目の東大総長となります。また戦後最初の文部大臣前田多聞,その後継者安部能成,さらに,天野貞祐,森戸辰雄と戦後歴代の文部大臣がすべて「札幌の子」だったのです。こうした人達は東京帝大経済学部または法学部出身であり,新渡戸の直接の教え子なのです。内村との接点はどこにあったのかです。

 新渡戸教授の家には多くの教え子が押しかけていたのですが,その中にはキリスト教に強い関心をもつ者も少なくありませんでした。新渡戸は彼らに「その勉強がしたいのなら私よりずっと偉いやつがいる」と内村を紹介していたのです。こうして新渡戸→内村ルートを歩いた一群の一人、矢内原は「内村の柏木聖書研究会である「柏会」、聖書之研究の「白雨会」などのグループをつくり,自分たちを「札幌の子」と自認していきます。

 彼らは,新渡戸の直接の後継者として植民政策学講座の教授となった矢内原がそうであったように,二人の師の亡き後それぞれの立場で軍国主義への抵抗を続けます。そして敗戦と共に戦後改革の先頭に立ち,戦後民主主義のオピニオンリーダーとなっていきます。上に挙げた名前以外にも経済学者の大塚久雄,最高裁判所長官田中耕太郎などがいます。彼らの活躍はまさに内村,新渡戸の思想,さらには札幌農学校の精神の力強い復活だったといわれています。

石橋湛山

 「札幌の子」は東大ルート以外からもたくさん生まれました。一例として後に総理大臣となった石橋湛山を挙げておきます。石橋は早稲田大学出身ですが,甲府中学時代の校長だった大島正健の強い影響を受けます。大島は札幌農学校の1期生で「クラーク先生とその弟子たち」と著作を発表し、自ら「札幌の子」と称しました。戦前は気骨のジャーナリストとして知られ「非戦論」、「小国主義」など内村と驚くほど似た主張を展開しています。1956年に総理大臣となりますが,間もなく病気のため総理を岸信介に譲ります。石橋が健康であったならば,その後の日本は今とはずいぶん異なった姿になっていたろうと言われています。

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この人を見よー内村鑑三 その三十五 「興国史談」

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内村鑑三の名著と呼ばれる「興国史談」は、1918年に刊行された彼の歴史講演や論文をまとめたものです。日本の歴史の中から特定の人物や事件を取り上げ、そこに神の摂理(providence)を見出そうとするキリスト教的歴史観に基づいて書かれています。

 この著作の主な論点やテーマはいくつかあります。第一は「興国」とは何かです。単なる経済的、軍事的な発展ではなく、「道義的・精神的な興隆」こそが真の興国であると主張します。国の繁栄とは、国民一人ひとりが倫理的・宗教的に高められることだという主張です。

中田重治らと

 第二は、歴史上の人物を再評価していることです。北条時宗、徳川家康、吉田松陰などの人物を取り上げ、彼らの生き方に内在する「義」や「信仰」に着目します。偉人崇拝ではなく、その精神的側面を重視して評価します。

 第三は、国家と宗教の関係を説きます。神の摂理が歴史を導いているという「摂理史観」(Providence History)を日本史に適用するのが特徴です。忠君愛国とキリスト教信仰は矛盾しないとし、国家の道徳的再生を信仰により促そうとしていることに注目したいです。

 この著作の意義と評価ですが、内村は、西洋的な進歩史観でも日本の儒教的道徳史観でもない、キリスト教的な道義史観に基づき日本史を読み直していることです。これは当時の国粋主義や唯物史観とは一線を画す思想であり、日本の歴史と信仰の新しい接点を模索するものだったといわれます。明治・大正期の日本が急速な近代化と軍国主義に傾く中で、「道徳なき国の繁栄は長続きしない」という警鐘を鳴らした点で意義があるように思われます。道徳と国家の結びつきを再考し、特に日露戦争後の日本に対して、内村は国家の精神的荒廃を批判しています。

 本著は戦前の良心的知識人、特にキリスト教や非戦思想に関心をもつ人々に影響を与えていきます。その代表的人物として賀川豊彦、矢内原忠雄、そして戦後の平和思想にもその精神が受け継がれていることです。賀川豊彦は、大正・昭和期のキリスト教社会運動家であり、関西を中心に戦前日本の労働運動や農民運動、生活協同組合運動などを担い、大正デモクラシーの機運を盛り上げた人物です。矢内原は第16代の東京大学総長となり、1960年に北海道大学の学生に向けて「内村鑑三とシュヴァイツァー」と題する講演をしています。

 「興国史談」は、日本の歴史を「神の目」から見ることで、真の国家的興隆とは何かを問うた思想的な挑戦です。内村は、物質的、軍事的成功ではなく、信仰と道義によって国家が築かれるべきだと説きました。その思想は、国家主義と宗教、歴史と倫理の関係を考える上で、現代にも通じる意義を有していると言えます。

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この人を見よー内村鑑三 その三十四 「代表的日本人」の序文

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少し遡りますが、日清戦争当時、内村鑑三が記した「代表的日本人」の中に「国土と国民」というエッセイがあります。この一文は、代表的日本人とは何かという問いの下敷きになっているものです。日本の国土の特色が国民性を創りあげ、代表的な日本人を輩出したという主張です。それを紹介することとします。

 内村は次のような序文から始めます。

「偉大」とは日本に縁のない言葉であろうか? 四千万人の日本人の多くは、大西洋岸に住まいする二千七百万人の異教徒のように「大方愚か」で「改宗」させねばならぬ「哀れな異教徒」であり、独創性がなく、他のまねをするよりほかに能のない国民、多民族に滅ぼされるために作られた「劣等な民族」であろうか?このように指摘するのは、生かじりの批評家であり、善意は持ちながら「真理の異教徒的反面」を知らぬ感傷的なキリスト教徒、すなわち宣教師である。

ゲルマン民族

 我らの国民性を公正に観察した人たちが、ひとしく述べるところを受け継げば、我々も、典型的な日本人とは「日本の国土が精神と化した者」であると内村は言うのです。それは、日本人が人種として偉大であるというのではありません。それは国土の構造が、雄大というよりは、むしろ画のようであり、繊細で愛らしく、美しいのと同様であるというのです。

ヘブライ民族

 ヘブライ民族(Hebrew) の深さ、ゲルマン民族(germanic) の重厚さは、我々のものとは違うかもしれません。しかし、ギリシャ人の有する感受性、イタリア人特有の明るさこそは、日本人にも共通する性格であるというのです。ギリシャ人、イタリア人と同様に、日本人は、人生の明るい面をみるように創られており、世界における日本の天職もこの方面にあるというのです。

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この人を見よー内村鑑三 その三十三 コロンブスと彼の功績

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1893年に内村鑑三は、「コロンブスと彼の功績」という著述を記しています。自身の信仰であるキリスト教的信仰に照らして、歴史上の人物や出来事を評価しています。彼にとって重要なのは、神の意志に従い、信仰をもって行動したかどうかという点のようです。本稿は、なぜ内村がクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)を評価するのかを具体的に説明することにします。

 コロンブスは、大航海時代の探検家、航海者、コンキスタドール(Conquistador)、そして奴隷商人です。コンキスタドールとは、スペイン語で「征服者」を意味し、特に15世紀から17世紀にかけてスペインからアメリカ大陸へ渡り、原住民の国家を征服したスペインの兵士を指します。

ジェノヴァのコロンブス像

 定説ではコロンブスはイタリアのジェノヴァ(Genoa)の出身です。やがて、彼は積極的にスペイン語やラテン語などの言語や天文学・地理、そして航海術の習得に努めます。仕事の拠点であるリスボン(Lisbon)でパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ(Paolo dal Pozzo Toscanelli)というイタリアの地理学者、天文学者、数学者と知り合う機会を得て、手紙の交換をしています。当時はトスカネッリはすでに地球球体説を主張していました。

 コロンブスは、「東方見聞録」の語り手であるマルコ・ポーロ(Marco Polo)の考えを取り入れ、トスカネッリの地球球体説を合わせて、ここに西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出したといわれます。また、現存する最古の地球儀を作ったマルティン・ベハイム(Martin von Behaim)とも交流を持ち意見を交換した説もあります。ベハイムはポルトガル王に仕えたドイツ人の天地学者、天文学者、地理学者、探検家でした。大航海時代には、ポルトガルが様々な海図を買い漁っていることはよく知られています。従って、ポルトガル王ジョアン2世(Joao II)と親交のあったベハイムが地図や海図を売っていたことも考えられます。これらの収集情報や考察を経てコロンブスは西廻り航海が可能だとする理論的な根拠に行き着くのです。

 ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)は、ポルトガル王国の探検家で、熟達した航海術と外交手腕を買われヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人といわれます。こうした探検の先駆者らによって、コロンブスは航海の成功きた期待するとともに、その使命を「神の導き」によるものと信じていました。内村はこの点に強く共鳴し、コロンブスが「神の召命」に従って新世界を発見した人物として評価します。信仰による探検という意気込みに感じるものがあったようです。

イザベル一世とコロンブス

 内村は、偉人の条件として「高い道徳性」と「信仰に基づく行動」を重視しており、コロンブスが困難を乗り越えつつも信仰を貫いた点を賞賛します。内村は、コロンブスの新大陸発見を「神の摂理の一部」と捉えています。つまり、単なる地理的発見ではなく、神が人類史において新たな展開を与えるために用いた人物として見ているのです。世界史的使命を成就したのがコロンブスというわけです。

 特に、コロンブスの航海によってキリスト教がアメリカ大陸に伝わったことを、福音の拡大という視点で肯定的にとらえています。コロンブスは、多くの人々に反対されながらも自らの信念を貫き、航海に出ました。内村はこのような「信念による行動力」を高く評価します。内村自身も、日本でキリスト教を信じるという少数派の立場に立ち、自らの信仰を貫いていたため、コロンブスに自己を重ねて見ていた節もあります。

 内村がコロンブスを高く評価しているのは、彼が単なる探検家としてではなく、神の召命に従い、信仰をもって偉業を成し遂げた人物として見ていたからです。彼にとってコロンブスは、信仰と勇気と使命感によって「神の御業を歴史に実現した人」であり、そうした生き方をこそ人間の理想像として評価しているのです。

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この人を見よー内村鑑三 その三十二 「日蓮上人」

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『代表的日本人』のなかで、内村鑑三は日蓮上人をその一人に挙げています。内村は自らのキリスト教信仰に生涯をかけて生きた人物であり、信仰のために社会的・経済的損失を厭わなかった人物です。日蓮もまた「南無妙法蓮華経」の信仰を絶対視し、命の危険にさらされながら、流罪や迫害にも屈しませんでした。このような「信仰のために命を懸ける姿勢」に、内村は強く共鳴したようです。1261年には、「立正安国論」などの過激な発言により鎌倉幕府によって拘束され、伊豆国伊東に流罪になります。

 日蓮は仏法による国の立て直し、いわゆる立正安国を唱えます。そこでは、法然の「専修念仏」を批判の対象に取り上げます。「専修念仏」とは南無阿弥陀仏と唱えることです。貴族階級から民衆レベルまで広がりつつあった「専修念仏」を抑止することが自身の仏法弘通にとって不可欠と判断するのです。こうして他宗を激しく批判・否定する等の過激な発言を行い、鎌倉幕府3代執権の北条泰時が制定した御成敗式目第12条「悪口の咎」の最高刑で1271年に佐渡へ流罪となるほどです。そして1274年に佐渡流罪を赦免され鎌倉に戻ります。赦免の理由は、蒙古襲来の危機が切迫してきたためであるといわれます。

 内村は「無教会主義」を提唱し、組織や権威に頼らず、個人として神との関係を築くことを重視しました。日蓮もまた、当時の仏教宗派や権力者に阿ることなく、自己の信念に従って独自の宗教運動を展開しました。権力や世間の流れに迎合しない道徳的・精神的な独立は、内村にとって理想的な宗教者像だったと思われます。日蓮は単なる宗教者ではなく、国家と社会への責任感を持った「宗教的社会改革者」だったようです。このように、信仰と社会との関係を重視する姿勢に、内村は宗教者の理想像を見たのです。

本立寺(品川区)

 内村は旧約聖書の預言者たちに強い影響を受けており、「真理を語る者」としての預言者的使命に強い共感を抱いていました。日蓮もまた、迫害を受けつつ真理を訴える姿が、預言者に通じるものと映りました。内村は、日蓮を「日本の預言者」として見ており、その生き様に「真理のために生き、真理のために死す」という信仰者の理想を重ねていたと思われます。信仰に対する絶対的な忠誠心と不屈の精神が二人に共通するものといえそうです。

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