給付付き税額控除とは その1 4つの利益

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この制度が導入されると、国民には以下のような具体的な社会的なメリットが生まれます。
1)  低所得層や非課税世帯にも確実に支援が届くことです。2024年に行われた定額減税では、減税しきれない世帯に対して別途「調整給付金」を配るなど、手続きが非常に複雑でした。給付付き税額控除が恒久的な制度として定着すれば、所得が低い世帯にもワンストップで自動的に現金が給付され、格差の是正や生活の安定につながります。

2)  消費税の「逆進性」が和らぎます。消費税は、所得の低い人ほど「収入に対する税負担の割合」が大きくなるという問題、つまり逆進性を抱えています。給付付き税額控除によって基礎的な生活費にかかる消費税分を計算し、低所得層に還付することで、実質的な税負担を公平にすることができます。消費税の逆進性とは、所得が低い人ほど収入に対する税負担の割合が重くなる性質のことです。所得の多い人ほど高い税率が適用される累進課税とは逆に、所得に関わらず一律の税率が課されるため、生活必需品の支出割合が高い低所得層に重くのしかかる点が問題視されています。

(読売新聞より引用)

3)  「年収の壁」を意識せず、就労インセンティブ、つまり働く意欲が高められます。アメリカの勤労所得税額控除などでは、「働いて収入が増えるほど、国からの給付額、あるいは減税額が手厚くなる」という設計が一般的です。「これ以上働くと社会保険料や税金で損をするから労働時間を抑えよう」という、いわゆる「年収の壁」による働き控えを抑え、働けば働くほど手取りがなめらかに増えていく安心感が得られます。

4)  子育て世帯などへの重点的な上乗せが可能となります。一律10万円給付などの一律の現金給付とは異なり、税のシステムと連動しているため、子どもの数に応じて控除額を増やすといったカスタマイズが容易です。これにより、本当に支援が必要な現役の子育て世帯にピンポイントで手厚い支援を届けることができます。

 今後の課題もあります。国民にとってメリットの多い制度ですが、マイナンバー等による正確な所得把握という課題です。国が資産も含めて誰がいくら稼いでいるかを正確に、リアルタイムで捕捉する必要があります。そのため、行政のデジタル化やマイナンバー制度との連携、さらには数兆円〜十数兆円規模となる財源をどう確保するかが、制度の本格導入に向けた大きな議論の焦点となっています。

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給付付き税額控除とは

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給付付き税額控除とは、一言で言えば「減税」と「現金給付」をセットにした仕組みのことです。従来の減税である所得控除や通常の税額控除は、税金を多く納めている人ほど恩恵が大きく、所得が低くて納税額が少ない人や、非課税世帯には恩恵が及びにくいという弱点がありました。この弱点を克服し、すべての所得層に公平に支援を届けるために考案されたのがこの制度です。

 給付付き税額控除が、具体的に国民にどんな利益があるのかです。次のように所得によって具体的な仕組みを説明します。もし1人あたり「5万円」の給付付き税額控除が導入された場合、所得の状況によって以下のように3つのパターンに分かれます。

(毎日新聞より引用)

1) 所得が高く、所得税を10万円納めている人の場合
 10万円の税金から5万円が差し引かれ、実際の納税額は6万円になります。
2) 所得が低く、所得税を1万円だけ納めている人の場合
 まず税金の1万円がゼロになります。引ききれなかった残りの4万円は現金でに振り込まれます。
3) 所得税が非課税(0円)の人の場合
 引くべき税金がそもそもないため、5万円がそのまま全額現金で給付さまれます。

 このように、税金を治めているかどうかにかかわらず、全員が一律で同じ4万分の経済的支援を受けられるのが給付付き税額控除に最大の特徴です。

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図書館司書とは その八 ウィスコンシン大学のiSchool」の実習と評価

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図書館情報学(Library and Information Studies: LIS)の学生は120時間の実習を受けなければなりません。実習要件の目的は、学生が教室で学んだ知識、スキル、思考習慣を職場環境で統合し、応用できるようにすることです。実習を受け入れる機関は、学生に専門的な実務経験の基礎と実際の職場環境で専門家と交流する機会を提供するのです。

 実習を開始する前に、各学生は基本と応用となる科目を履修し、実務経験に適した科目も修了している必要があります。例えば、目録作成実習といった科目を事前に履修する必要があります。目録作成実習とは次のような内容です。

 このコースは、一般フィールド・プロジェクト(Field Project) と呼ばれる科目で、学習理論、教育学/成人教育学、授業計画、評価など、指導に関連するより焦点を絞った内容が含まれています。この特別セクションの学生は、以下の活動を行います。

 卒業要件の一つとしてPLO評価要件(Program Level Learning Outcomes : PLO) という科目もあります。学生は各学期毎にアドバイザーとPLO評価の進捗状況について話し合う必要があります。学期末の約6週間前に、最低要件を満たしているかを確認するために審査が行われます。PLO評価は合否判定方式となっています。

 PLO評価は、iSchoolの学生に次ような機会を提供します。

成果物自体は、学習成果が評価要件にどれだけ合致しているかという点のみで評価され、学生の振り返りの質が重視されます。最終学期に発表された期限までに最低15のポートフォリオ要件を完了しない場合、卒業手続き書類の処理が遅れる可能性があります。

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図書館司書とは その七 ウィスコンシン大学の図書館司書の養成

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アメリカの大学における図書館司書の養成はどこでも共通しています。それは、アメリカ図書館協会(American Library Association: ALA)の指針に沿って大学の修士課程において、図書館司書養成課程を設定する仕組みとなっていることです。大学が自由に養成課程を作り、司書を養成することはできないのです。アメリカ図書館協会は、1924年に認定制度を開始し、全米各地の大学における図書館情報学修士課程に指針を与えています。民間組織が大学のカリキュラムを認定するのは、イギリスでも同じです。もっともイギリスの司書制度がアメリカに導入されたのです。

 ウィスコンシン大学マディソン校(University of Wisconsin-Madison) の図書館情報学修士課程も図書館協会の認定を受けて図書館司書を養成しています。課程を修了すると卒業生は図書館情報学修士として図書館司書となります。ウィスコンシン大学の図書館情報学修士課程は、情報学部(iSchool)にあり、革新的な情報専門家を目指す人材を養成しています。図書館情報学修士課程は、キャンパスまたはオンラインで受講可能です。36単位のプログラムには、必修科目が最小限に抑えられており、図書館学、デジタルアーカイブ、情報技術とユーザー・エクスペリエンス、データ/情報管理と分析、情報組織化の5つの専門分野から、学生は柔軟に選択できるようになっています。

 ウィスコンシン大学の図書館情報学修士課程は、多様化し技術革新が進んでいます。グローバル化した社会において、情報の作成、収集、整理、保管、分析、検索、配布、利用を行う情報サービスを開発、提供、評価する能力を養成するとあります。フルタイムの学生は通常2年間で修士課程を修了し、パートタイムの学生は3~4年間で修了します。学生は、学位取得の一環として、大学が義務付けている実習(practicum)を通して実践的な経験を積むことができます。

(大学図書館より引用)

 実習期間中、学生は図書館利用者と専門家の両方と交流し、彼らは将来のロールモデルとなる可能性が生まれます。受け入れ先の図書館職員は、新鮮なアイデアを持つ学生との交流によって、しばしば刺激を受けるといわれます。実習は、学生が教室で学んだ知識、スキル、思考習慣を実際の職場環境で統合し、応用する機会を提供するものです。なお、実習先は学生自身のキャリア目標に基づいて選択できるようになっています。

 2022年の秋学期から修士課程に所属する学生は、iSchoolの修士課程カリキュラムで36単位を取得しなければなりません。履修要件には、コア科目3科目、技術科目1科目以上、マネジメント科目1科目以上、図書館情報学基礎科目群から2科目、多様性・公平性・包摂性(diversity-equality-inclusion: DEI)科目1科目、専門教育の総仕上げとなる実習、およびプログラムレベル学習成果(Program Learning Outcomes: PLO)評価が含まれます。

 36単位カリキュラムの詳細は、ウィスコンシン大学大学院ガイドの「図書館情報学修士課程」にあります。キャンパスプログラムまたはオンラインプログラムのいずれかを選択し、「要件」を選択すると、必須科目が表示されます。

 キャンパスおよびオンラインのiSchool修士課程の学生は、修士号取得の一環として、ウィスコンシン大学マディソン校リーダーシップ認定証を取得できます。認定証の取得によってキャリアパスがさらに広がります。アメリカは、認定証を取得するとそれがすぐに就職や給与にプラスに反映されるのが特徴です。

 今やデジタルライブラリーの構築が進展しています。iSchool修士課程ではユーザー中心の情報技術の設計、開発、管理を行う能力を身につけることができます。就職先としては、ユーザー・エクスペリエンスとウェブデザイン、デジタルヒューマニティーズ、デジタル資産管理・キュレーション、データベース・データ管理、IT研修・指導など多様な職業の選択肢が広がるのです。

iSchoolは、ウィスコンシン大学マディソン校内の図書館、アーカイブ、情報機関、ウィスコンシン歴史協会、ウィスコンシン州内の大学、公共図書館システム、マディソン都市圏学区、そして地域および全国規模の企業や非営利団体と提携し、すべての修士課程学生に指導付きの実習またはフィールドワークを提供しています。 図書館情報学修士課程を修了した学生は、以下のプログラムレベルの学習成果を達成することになります。

 1. 社会、法律、政策、倫理に関する情報問題について理解を得る。
 2. 情報または情報媒体を、使いやすさとアクセス性を考慮して整理するために、適切なツール、標準、またはベストプラクティスを用いる。
 3. 調査や意思決定のために、プログラム、サービス、またはシステムを評価するための適切な研究方法論を設計する。
 4. 情報組織の管理に重要な専門能力について理解する。
 5. 情報専門職にとって重要な情報技術に関する能力を示す。
 6. 授業で学んだ概念、原則、または理論を、実習、応用的な業務経験、または実践的な授業課題を通して広く定義される現場実践に適用する。
 7. 情報組織、利用、サービス、または専門職を取り巻く構造的な不平等、特に特権と疎外との関連について理解を示す。

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図書館司書とは その六 イギリスの図書館司書の養成

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イギリスにおける図書館司書の養成は、アメリカと同様に大学院レベルでの専門教育が主流です。同時に独自の認定団体や「見習い制度」を通じた多様なルートが存在するのが特徴です。

図書館情報専門職協会(CILIP) による認定
 イギリスで最も重要な役割を果たしているのが、図書館情報専門職協会(Chartered Institute of Library and Information Professionals:CILIP)です。プロの司書を目指す人の多くは、CILIPが認定した大学院の修士課程(MAやMSc)を修了します。こうした民間の専門機関が大学での司書養成課程を認定するのはアメリカと同じです。学位取得の後に、実務経験を積みながら、CILIPの「認定資格(Chartership)」を取得することで、名実ともにプロの司書として認められます。

修士号取得へのパス
 一般的には、以下のステップを踏むのが王道とされています。学士号を取得していることが前提ですが、その専攻は問われません。実務経験(Graduate Traineeship)も重視されます。修士課程に入る前に、1年間程度、図書館で「研修生」として働くことが推奨されています。これにより、現場の理解を深めてから専門科目の習得に入ります。イギリスの修士課程はフルタイムで通常1年間で、集中的に図書館情報学を学び、資格を認定してもらいます。

多様なキャリアパス(見習い制度など)
 大学院を経ないルートも整備されています。Apprenticeships(アプレンティスシップ)という制度があり、働きながら学び、資格を取得する「見習い制度」が導入されています。レベル3(アシスタント級)からレベル7(修士相当)まであり、学費負担を抑えつつキャリアを築くことが可能です。経験による認定もあり、適切な学位を持たなくても、長年の実務経験とスキルの証明によってCILIPの認定資格を目指す道も開かれています。

大英図書館

資格のランク(Professional Registration)
CILIPはスキルの習熟度に応じて3つの段階を設けています。
 ・認定 (Certification: ACLIP):   補助的・初級レベル。
 ・通常資格 (Chartership: MCLIP):  標準的な専門職レベル(最も一般的)。
 ・特別研究員の資格 (Fellowship:FCLIP):   業界への多大な貢献が認められた最高位のレベル。

図書館の種類と要件
 学校司書については教員免許は必須ではありませんが、CILIPの資格を持つことが強く推奨されます。就職にはCILIPの資格は有利に働きます。大学の場合は、専門図書館: 学術的背景や法学・医学など特定の分野の専門知識がより重視されます。

 イギリスの図書館司書養成システムは、伝統的な「徒弟制度」の名残と現代的な「専門職大学院」の仕組みが融合しており、より柔軟にキャリアをスタートできる点が特徴と言えます。これはアメリカにはない独特な養成制度です。

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図書館司書とは その五 アメリカの図書館司書の養成

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アメリカにおける図書館司書(librarian)の養成は、専門職としての地位を確立するため、以下のような非常に明確なアカデミック・パス(academic pass) が定められています。それを紹介することにします。

1 専門職としての学位(Library and Information Science:ALA認定修士号)
 アメリカでプロの司書として働くためには、大学院でALA(アメリカ図書館協会–American Library Association: ALA)が認定した修士号を取得することが必須条件となっています。学位名は 一般的には MLIS (Master of Library and Information Science) や MLS (Master of Library Science) と呼ばれます。アメリカ図書館協会は各大学におけるALA認定の修士課程プログラムの質を厳格に審査し認定しています。この「ALA認定」を受けていない学位では、多くの図書館で採用の舞台に上がることができません。

    ワシントン大学Suzzallo Library

    2 修士課程への入学条件
     日本では大学の学位単位で資格が取得できますが、アメリカではまず4年制大学を卒業して学士号を取得している必要があります。ただし、学部時代の専攻は問われません。文学、歴史、科学、コンピューターサイエンスなど、多様なバックグラウンドを持つ人が集まるのが特徴です。コミュニティカレッジ(community college)などの単科大学卒ではALAの認定を受けることはできません。

    3 学習内容と専門性
     アメリカの大学では修士課程は通常1年半から2年です。司書として認定されるには、以下のような高度な専門知識を学びます。

      ・情報組織化: 分類法、メタデータ、データベース設計。
      ・情報サービス: レファレンス技術、情報リテラシー教育。
      ・管理・経営: 図書館経営、予算管理、人事、コミュニティ分析。
      ・テクノロジー: データサイエンス、デジタルアーカイブ、プログラミングの基礎。

      4 職種に応じた追加要件
       勤務する図書館の種類によっては、修士号に加えてさらなる資格が必要になる場合があります。学校司書 (School Librarians)は、 州ごとに定められた教員免許や、学校図書館メディア専門職としての認定が必要となります。大学図書館・専門図書館での採用のためには、法学、医学、音楽など特定の専門分野の知識や、場合によってはその分野の博士号や別の修士号を併せ持つことが求められます。

      5 継続教育(Professional Development)
       テクノロジーの進化が速いため、学位取得後もワークショップやアメリカ図書館協会学会員として年次大会などへの参加を通じた継続的な学習が強く推奨されています。こうした大会参加で実践発表とか論文発表を続けると、給与が一ランク上がるなどキャリアアップの重要なステップとなります。

         まとめますと、アメリカでは図書館司書は「学部の単位で取れる資格」ではなく、「大学院レベルの専門職学位(プロフェッショナル・ディグリー; professional degree)」として確立されている点が最大の特徴と言えます。

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        図書館司書とは その四 司書養成の疑問と課題

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        諸情報の収集と無料での提供という観点からすれば、現代の図書館はそれなりの役割を果たしてはいます。ですが情報通信技術(ICT)の更なる発展や、デジタルトランスフォーメーション(DX)というの顧客ニーズに即した新たな価値やサービス提供など デジタル化による迅速な意思決定の変化などを図書館司書も学ぶべき時代となっています。

         司書養成の基本となることは、図書館学の理解です。我が国の図書館法が、この学問分野をどのように規定し、司書の養成に反映しているかです。平成24年度から司書養成科目の新カリキュラムが全面的に改定されています。しかし、以下のような疑問や課題が浮かびます。

         司書養成大学や司書講習の機会が、以上のような現代的な変化に対応するプログラムになっているかどうかです。たったの約2ヶ月間で24単位を履修するというのは、驚くべきことです。しかも、講習による単位の履修にともなう評価や評定が明確でないことです。実習の評価を誰がするのかも不明です。前稿で引用した筑波大学の司書養成のカリキュラムでは、「インターンシップは選択科目ですが,司書を目指す人は就職先として希望する館種の図書館を実習先に選択して受講するよう強く勧めます。」とあります。インターンシップと実習の違いは、明確ではありませんが、図書館における働きの経験のない学生にインターンシップや実習を必須としないのは理解できかねることです。

         次に、卒業時に自動的に資格が取得でき、認定試験などがないことです。受講すれば単位がもらえるのであれば、誰もが司書の資格をとれます。講習を受けた者の資質や能力が不明なまま資格を与えるのは無責任というべきです。図書館学という科学に対する侮辱ともいうべきです。

         司書養成の講習に関する話題です。講習は、本来現職の図書館職員向けのものとされているため単位認定が甘く、「暇と講習料さえあれば取得できる資格」といわれるほど講習内容が貧相でおざなりな講習会といわれています。本当かどうかは不明ですが、、、我が国の司書に関する根本的な課題とは、司書の専門性と役割を重視しない風土、そして図書館学の未熟さにあると考えられます。

         現在の日本の公立図書館には、非正規である会計年度任用職員や業務委託によって運営されているところがあります。司書の資格を持っていても正規雇用となるケースが少なくないといわれます。注意すべきこととしては、「司書資格を持っていること」と「図書館員として採用されること」は別です。公立図書館では、自治体の公務員試験に合格する必要があります。

        鎌倉市中央図書館より引用

         ただし、「司書職」として社会人経験者枠、障害者枠、就職氷河期世代枠など、特別枠を設けている自治体は実際に存在します。神奈川県は2026年度に障害者枠での採用選考を実施します。長野県の飯田市は社会人採用枠で司書を募集しています。鎌倉市は、30年ぶりに専門職として司書の正職員を採用し、2人の新任司書が4月から市立中央図書館で働き始めています。しかし、多くの自治体では一般行政職として採用し、後に図書館へ配属します。大学の場合は、職員採用試験や、国立大学法人等職員採用試験を受ける必要があります。

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        図書館司書とは その三 専門職となるために

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        我が国で図書館司書という専門職として認められるためのルートは、以下のように大きく分けて3つあります。

        1. 大学・短大で単位を修得する。
           司書資格をとるための最も一般的なパスで、大学や短期大学に在学中、自分の専攻とは別に「司書課程」を履修し、卒業と同時に資格を得る方法です。対象者は 大学生や短大生となります。文部科学省が指定する生涯学習概論、図書館概論、情報資源組織論など合計24単位を履修します。司書養成課程がある主な大学は筑波大学など、全国で約190校あります。
        2. 司書講習を受講する。
           すでに大学を卒業している人や、図書館で一定の実務経験がある人が、短期間で集中して単位を修得する方法です。対象者は大学や短大卒業者、または3年以上「司書補」としての実務経験がある高卒者です。夏季集中講習は毎年7月〜9月頃に実施されます。講習の実施校は文部科学大臣が委嘱した明治大学、富士大学、鶴見大学、愛知学院大学、桃山学院大学、別府大学、聖徳大学、玉川大学などです。各大学によって、対面・オンライン併用、オンデマンド等履修の方法が異なります。
        3. 通信制大学で単位を修得する。
           働きながら自分のペースで資格を取りたい人に選ばれる方法です。対象者は社会人、他大学の在学生などで、司書講習と同じカリキュラムをレポート提出・スクーリング・試験を受けて単位を修得します。 司書になるためには、以下のような専門的な科目群を学びます。
          ・基礎科目: 図書館概論、図書館情報技術論、図書館制度・経営論
          ・サービス関連: 情報サービス論(レファレンス)、児童サービス論
          ・資源の整理: 情報資源組織論(目録作成や分類)、情報資源概論
          ・活用と演習: 情報サービス演習、情報資源組織演習  

           司書および司書教諭の資格取得カリキュラムを提供している日本を代表するといわれる筑波大学は、本格的に図書館情報学を学べる環境となっています。筑波大学における図書館司書の資格要件では、次のように説明されています。

        「図書館に関する科目に指定されたうち 14 科目を履修することで司書の資格を取得できます。専門科目は主専攻をまたがって開講されており,いずれの主専攻を選択しても,無理なく司書資格の取得が可能です。司書資格は公共図書館のための資格であり,他の館種では必須ではありませんが,図書館関係の専門職を目指す人には司書資格の取得を勧めます。「インターンシップ」は選択科目ですが,司書を目指す人は就職先として希望する館種の図書館を実習先に選択して受講するよう強く勧めます。」

        「インターンシップ」は選択科目であるという説明は、選択しなくてもよいという意味です。「司書を目指す人は就職先として希望する館種の図書館を実習先に選択して受講するよう強く勧めます」という文言も気になります。実習先を選択しなくても、実習をしなくてもい、という曖昧な説明です。筑波大学たるものがこのような体たらくでよいのでしょうか。

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        図書館司書とは その二 図書館司書から教わったこと

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        私は北海道大学と立教大学で学び、その後はウィスコンシン大学(University of WIsconsin-Madison)で学位をとり、国立特殊教育総合研究所と兵庫教育大学で仕事をしました。ですが日本の大学の図書館司書(librarian)の世話になったことは全くありません。コンピュータやネットワークの無い時代。手作業で芋づる式に参考文献を探しました。司書の活用を知らなかったといえばそれまでですが、、、

         今回の話題は図書館司書の専門性と養成についてです。司書は図書館情報学の知識と技術を活かして、図書館利用者のニーズに応える役割を担っています。振り返ると日米の大学の違いは、大袈裟にいえば図書館司書の専門性、図書館の市民の認知度、そして図書館学(library of science)の認識にあるのではないかと考えます。

         ウィスコンシン大学では、オリエンテーションで図書館の利用方法を教わりました。そのお陰で専門職である司書にひとかたならぬお世話になったのです。やがてその専門性には驚いたものです。実に良く熟練しています。とりわけデータベースの活用と検索能力です。もっとも、司書は、大学や公共図書館、専門図書館での雇用条件として図書館学の修士号か博士号を有しなければならないので、その力量は当然のことです。

        Wisconsin Historical Society

         我が国とアメリカの司書養成の仕組みや内容を調べると、そこに大きな違いがあることがわかります。まず、我が国では司書となる資格は、図書館法に規定する公共図書館の専門職員となるためとなっています。しかし、公共図書館の大部分では、司書の資格を取得した者を専門職、あるいは正職員として採用する人事制度があるとは限りません。多くの自治体で主流となっているルートが一般行政職(事務職)からの配置換えです。一般的な公務員試験(地方公務員上級・中級など)に合格して採用された職員が、人事異動によって図書館に配属されます。このような措置は、図書館司書の重要性についての理解が雇用する側に不足しているとしかいいようがありません。公立、私立の小中高校に司書教諭がいても正式なルートで司書の資格を有するかどうかも分かりません。

          アメリカの大学で、あるテーマについての小論文とかポジッションぺーパーの課題が与えられたとします。ポジッションぺーパーとは、例えば「妊婦の羊水検査(Amniocentesis)は必要かどうか」、という課題などに自分の見解を述べる小論文のことです。羊水検査で胎児に染色体異常はないかが分かるのです。ですが異常が見つかったときの親の心理的なストレスも生まれます。そのためにはこのテーマにそった医学や心理関連の文献を調べなければなりません。まずは図書館へ行って司書に手伝ってもらうのが一番なのです。

         私が全米の諸々のデータベースがネットワークで繋がっているのを知ったのは45年前です。図書館司書は検索の技量が秀でていて、利用者の要望に応じて全米各地のいろいろなデータベースを調べてくれます。図書館で司書に助言や支援を受けるのがアメリカを含めて海外の大学で学ぶときの要諦です。司書によって検索されたいくつかの参考文献を引用して書き上げた小論文とかポジッションぺーパーでは、確実に「優」をもらえると請け合います。

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        図書館司書とは その一 図書館の役割

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        知人の一人が公共図書館の司書をしています。彼女からその任務を伺いながら、日本と欧米の図書館司書養成の仕組みや課題を考えました。近年は図書館の果たす役割と情報の関わりが深くなり、両者を一体的に扱う図書館情報学(library and information science)も注目されています。現代の図書館は、知識を提供したりそれを得る場所から、格差や孤独など教育や福祉に関連した社会課題を解決する拠点へと進化しています。

         さらに、デジタルアーカイブによる文化資源の継承という任務も帯びています。歴史的な文書や地域の資料をデジタル化し、世界中からアクセス可能にする活動は、地域のアイデンティティの醸成や研究の活性化に直結しており、図書館の役割は大きくなっています。そこで重要になるのは、情報と人、そして社会を繋ぐことに従事する専門家、図書館司書の養成です。

         日本の図書館司書の養成の仕組みは、主に昭和25年に旧文部省が定めた「図書館法」に基づいて運用されています。現在の司書の養成と資格の取得は「免許」というよりは「講習の修了証」に近い性質を持っています。次稿では、私と図書館司書との小さな関わりを取り上げます。

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        キリシタンと共産党員 その四 強固な連帯感

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        第二次大戦の終わりに樺太や千島列島の占領、多数の捕虜のシベリヤ抑留と過酷な労働などが、ソビエト共産主義体制の恐ろしさを国民の間に植え付けたのは否めません。海外の共産主義国家、例えば旧ソ連・中国・北朝鮮の印象が国民に今も強固に根付いています。旧ソ連のスターリンによる粛清、現在の中国や北朝鮮における一党独裁や人権問題などが、「共産党=独裁・抑圧」という強力なイメージを作ってしまいました。日本共産党はこれら諸国の党とは一線を画し、自主独立を強調していますが、一般市民から見れば「同じ名称を冠する勢力」として同一視されやすいのが実情です。

        サンフランシスコ平和条約による領土の確定

         共産党は非常に規律が厳しく、組織としてのまとまりが強いことで知られています。この強固な連帯感が、外部の人からは「独自の論理で動く集団」とか「何を考えているか分からない」といった一種の不気味さや近寄りがたさを感じさせてしまうことがあります。組織の閉鎖性という側面が国民に忌避感を与えているのです。

        他方で、最近では以下のような理由から、一定の支持や評価を得ている側面もあります。草の根の生活相談:として地域の困りごと、介護、税金、労働問題などに対して、非常に親身に相談に乗る党員や地方議員が多いnおも事実です。にも関わらず「過去の過激なイメージ」と「独裁的な海外諸国の印象」が、現在の党の活動以上に大きな壁となって、日本人の心理的な拒絶反応を引き起こしていると言えます。

         日本の「和」の感性からすると、キリスト教は唯一絶対の造物主の存在が厳格すぎると受け止めます。共産党は組織の特有性や共産主義国家の存在が、国民にマイナスの先入観を与えています。一度国民に刻印されたような思考や思想は,長い年月を経ても容易に熔解しないものです。それが「キリシタンは国を売る」という流布であり、「共産党は怖い」という観念なのです。時代を経てもイメージや思想は、しぶとく生き延びるという例証です。

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        キリシタンと共産党員 その三 「暴力革命」のイメージ

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        次に共産党の停滞の現象についてです。日本において共産党やその党員が一部で忌避感を持たれたり、広く受け容れられるのが難しい背景には、歴史的、政治的、そして社会的な複数の要因が絡み合っています。最も大きな要因の一つは、1950年代前半に日本共産党が採用した「武装闘争方針」の記憶です。「暴力革命」のイメージを世間に与えたのです。当時、火炎瓶などを用いた過激な活動が行われた時期があり、これが当時の人々に強い恐怖心を与えました。

         後に党は「平和革命」の路線に転換しましたが、当時の「過激」、「怖い」というイメージが年配層を中心に根強く残り、世代を超えて語り継がれてきた側面があります。こうした経緯を振り返ると、江戸幕府がキリシタンに対して与えた恐怖が共産党の辿った厳しさの恐れに類似していることが分かります。マインドセットは痕跡であり、容易に払拭されるものではありません。

         共産党の停滞には、日本の伝統的な価値観や「象徴天皇制」という国体との相性も影響しています。共産党は綱領で「君主制の廃止」を掲げていた歴史があます。現在も最終的には「共和制」を理想としてはいます。多くの日本人が抱く天皇制への親愛の情や、一般的な保守的な国民感情と共産主義の理論が共存しないという背景があります。現在は象徴天皇制を容認しつつも、国民の共産党への理解や支持にはハードルがあるといえます。

         現在の日本共産党の公式な党綱領では、ただちに君主制を廃止して共和制を樹立することは求めていません。2004年の綱領改定以降、以下のような立場をとっています。
        つまり、憲法の第1条を含む全条項を厳格に守るという立場から、現在の「象徴天皇制」を認めています。ただし、天皇の政治利用や、戦前のような絶対的な権力を持たせる元首化には強く反対しています。

        しんぶん赤旗日曜版−2026年5月号

         共産党は本来、「主権在民」の原則を徹底すべきという思想を持っています。そのため、天皇制を継続するかどうかは、「国政の主人公である国民の総意によって解決されるべきだ」としています。もし、将来的に国民が「天皇制は不要」と判断すれば、結果として共和制、あるいはそれに類する体制へ移行するのが望ましいというスタンスです。

         日本共産党は戦前、天皇に絶対的な権力があった明治憲法体制での「絶対主義的天皇制」を激しく批判し、そのために弾圧された歴史を持っています。戦前の体制が軍国主義や破滅的な戦争につながったという強い警戒感があるため、皇統の世襲による権威が政治的に利用されることに対して極めて敏感です。

         しかし、国民の間に天皇制は不要であるという民意が広がる情勢ではありません。今は、天皇制をいかに維持、発展させるかが議論されています。それが、国会で審議中の皇室典範の改正です。

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        キリシタンと共産党員 その二 キリシタン禁教令

        注目

        戦国時代から江戸時代にかけて カトリック教会の教徒はキリシタンと呼ばれていました。宣教師追放令を含むキリシタン禁教令は、特定の誰か一人が一度だけ出したものではなく、時の権力者たちによって段階的に強化されていきました。1587年(天正15年)に豊臣秀吉によるバテレン追放令がだされます。九州平定を終えた秀吉が、長崎が教会領となっていることや、日本人が奴隷として売買されている実態を知り、バテレンと呼ばれた宣教師の国外追放を命じたのです。ただし、当初は南蛮貿易の利益を優先したため、徹底した禁教には至りませんでした。

        切支丹禁札

         1612年(慶長17年)に江戸幕府を開いた徳川家康が、耶蘇教とも呼ばれていたキリスト教の教えが幕府の主従関係をもとにした支配体制を脅かすと判断し、全国にキリスト教の信仰を禁止する命令を出しました。これにより教会が破壊され、修道士や高山右近などの有力なキリシタンが国外へ追放されました。所領や財産を失った右近はのちにフリッピンで病死します。

         第三代将軍家光の時代に、禁教は最も厳格化します。1638年の島原の乱の鎮圧を経て、1639年にはポルトガル船の来航を禁止します。さらに「宗門改」や「踏絵」といった制度を整え、キリシタンを完全に排除する体制を築きました。鎖国とキリシタン禁制が徹底化されキリシタンとわかれば火あぶりの刑に処せられました。「かの伴天連の徒党、件の政令に反し、神道を嫌疑し、正法を誹謗し、義を損なう、邪法にあらずして何ぞや」、「キリシタンは国を売る」と江戸時代の人々はそう思い込まされたのです。

         徳川幕府のみならず、政権の座にある者ははときに自分にとって都合のいい伝説をつくるものです。一つの政治体制が伝説を作って長年宣伝し続ければ、人々は信じてしまうものです。禁教令は300年続きました。その間、誰もがキリシタンは怖ろしい、と思ってしまったのです。翻って今や憲法によって信教の自由が認められていても、300年の旧教に対する圧制の影響は拭い去られていないというべきです。

         キリスト教は一神教であり、他の宗教と共存することは教義上ではありえません。その厳格さが日本人一般の宗教観に適合できなかったというべきです。明治になってキリシタン禁制が解除された後も、バテレン邪宗門の観念は根強く残存し、耶蘇教ーキリスト教撲滅運動は全国的に激しく行われます。

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        キリシタンと共産党員 その一 一神教

        注目

        世の中であらゆるモノの価格が上がっている一方で、停滞しているか下がっている現象もあまたあります。例えば出生率や人口です。お金そのものの価値や実質賃金も下がっています。ブランドロイヤリティが下がり、代替品の購入が増えています。節約傾向を反映して、「ついで買い」も下がっています。本稿は、社会的、歴史的事情を念頭に、特に宗教や政治に関して下がっている現象、人々の態度や行動を考えることにします。

        サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会内の最後の晩餐図

        人間の精神的な柱である宗教に関していえば、宗教法人の減少や売買といった現象が起こっています。一義的には信徒が減ったことがその原因といえます。キリスト教会を例にとると、信徒の減少によって教会の統合や閉鎖が見られます。こうした減少と他方カルト宗教の台頭という事象は、時代の変容もさることながら人間の生き方のあり方の変化を象徴しているようです。

        キリスト教徒が増えない現象を振り返ると、そこには歴史的な経緯もあることがわかります。特に旧教といわれるカトリック教会の歴史を辿るとそこには、日本人の精神にある一神教に対する忌避感や疎外観が関わっているようです。つまり、一神教であるキリスト教の「唯一神のみを信じる規律」は、既存の人々の血縁や地縁の慣習と衝突しやすく、心理的なハードルとなっていると思われます。次稿では、その歴史的な事情を考察します。

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        二人の王様のユーモアと風刺のジャブ

        注目

        国王即位後、チャール国王の初めてのアメリカ訪問は、多くのアメリカ国民に感銘を与えたようです。上下両院での演説は単なる外交辞令ではなく、今の世界の諸々の課題に共に勇気を持って立ち向かおうとする気概やエスプリが込められていたのです。演説の途中、何度も議員らが敬意や感動、そして称賛の意を表すために立ち上がって拍手を送る姿がありました。

         議員の総立ちにより演説は一時途絶えますが、その間議員らは、今混乱するアメリカの施政について、もう一人のキングに対する疑惑や反感を考えたに違いありません。このキングは、議会における演説では決して民主党議員から総立ちの賞賛を受けたことがなかったのです。共和党議員ですら総立ちになって拍手するのですから、キングは歯ぎしりをしたはずです。

        Charles III

         演説中、チャール国王はこのもう一人のキングの名前は出しませんでした。それが相手に対する国王としての矜持と礼儀だったからです。外交では批判する相手を名指しすることはありません。しかし、議員達は、チャール国王の演説の文脈に、数々の荒々しい発言を繰り返すもう一人のキング、ドナルド・トランプ大統領を容易に想像できたのです。

         チャール国王の演説草稿は、もとはといえば歴史学者ともいえそうなスピーチライターが国王と相談して起草したものと思われます。聴衆の心に響くストーリーを構成し演出するため、過去のイギリスとアメリカの関係について考証し、事実に基づいて起草したことが伺えます。

         歴史上、イギリスと植民地であったアメリカはいわば兄弟のような関係がありました。1760年代のイギリスはジョージ3世の施政下にありました。彼は絶対的な主権を維持し、植民地に対して一貫して強硬な為政をしいていきます。彼は、「植民地は本国に従属すべきもの」という信念を持っていました。植民地への「重商主義政策」と、それに伴う「課税強化」です。それに対して植民地側は和解の嘆願をを送ります。ジョージ3世はそれを拒絶し、彼らを「反逆者」と断定するのです。

         1700年代のアメリカ大陸におけるイギリスとフランスの覇権争いは、「北米植民地戦争」と呼ばれます。ヨーロッパ本国での戦争と連動して何度も衝突を繰り返しましたが、最終的にはイギリスの圧倒的な勝利で幕を閉じました。ジョージ3世は対話よりも軍事力を優先し、ドイツから傭兵を雇い入れてまで植民地の施政に介入します。この強硬姿勢が、それまで国王個人を敬愛していた植民地の人々に「国王は暴君である」と認識させ、独立宣言へと突き動かす一因となっていきます。

         ホワイトハウスでの晩餐会で、二人のキングが交わしたウイットに富むジョークも話題となっています。それは、ダボス国際会議でトランプ大統領が、「第二次大戦で、アメリカがなかったならば、欧州諸国はドイツ語を使っていただろう」という演説に対するものでした。チャール国王はそれに言及して「あえて申し上げれば、イギリスがなかったならば、皆さんはフランス語を話していただろう」と植民地戦争で、フランスの影響力を払拭させたのを遠回しに言ったユーモアだったのです。

         今回のチャールズ国王の訪米は、相手への節度ある賞賛を交えながら、イギリスの立場をしなやかに示した機会となったようです。それが議会での演説であり、晩餐会での答礼スピーチに示されています。

        Two kings exchange jab of humor and satire.

        King Charles’ first visit to the United States since his accession to the throne seems to have impressed many Americans. His speeches to both houses of Congress were not merely diplomatic formalities, but imbued with a spirit and determination to bravely confront the various challenges facing the world today. Throughout his speeches, members of Congress repeatedly rose to their feet and applauded, expressing their respect, admiration, and praise.

        The speeches were temporarily interrupted by the standing ovations, during which the members of Congress must have been contemplating the current turmoil in American governance and their suspicions and resentment towards another king. This king had never received such a standing ovation from Democratic members of Congress during his speeches.Even Republican lawmakers rose to their feet and applauded, so he must have been gnashing his teeth.

        During his speeches, King Charles did not mention the name of this other king. This was a matter of royal pride and courtesy. In diplomacy, one does not name the target of criticism. However, in the context of King Charles’ speeches, the members of Congress could easily imagine the other king, President Trump, who has made numerous harsh remarks.

        King Charles’ speech draft was originally written in consultation with the king by a speechwriter who could be described as a historian. It appears that the speech was based on a thorough examination of past British-American relations, in order to construct and present a story that would resonate with the audience.

        Historically, Britain and its colonies, America, had a relationship akin to brotherhood. In the 1760s, Britain was under the rule of George III. He maintained absolute sovereignty and consistently imposed a hardline policy on the colonies. He held the belief that “colonies should be subordinate to the mother country.” This manifested as “mercantilism” and the accompanying “increased taxation” of the colonies. The colonies sent petitions for reconciliation, but George III rejected them, declaring them “rebels.”

        The struggle for hegemony between Britain and France in the Americas in the 1700s is known as the “North American Colonial Wars.” These conflicts, linked to wars in Europe, involved repeated clashes but ultimately ended in an overwhelming British victory. King George III prioritized military force over dialogue, even hiring mercenaries from Germany to intervene in colonial administration. This hardline stance led the colonists, who had previously revered the king personally, to perceive him as a tyrant, contributing to the Declaration of Independence.

        A witty joke exchanged between the two kings at a White House dinner has become a topic of discussion. It was in response to President Trump’s speech at the Davos conference, where he stated that “if America hadn’t existed in World War II, European countries would have spoken German.” King Charles responded by saying, “If I may say so, if Britain hadn’t existed, you would all have spoken French,” a humorous indirect reference to Britain’s role in eliminating French influence during the colonial wars.

        King Charles’s recent visit to the United States appears to have been an opportunity to subtly demonstrate Britain’s position while offering respectful praise to the other side. This is evident in his speeches to Parliament and his reciprocal speech at the dinner in the White House.

        福沢諭吉の西郷隆盛観

        注目

        西郷隆盛は、幕末から明治維新にかけての日本史において、最もカリスマ的であり、かつ評価が分かれる人物の一人といわれます。彼に対する評価は多面的で、時代や立場によって大きく異なるようです。近代日本を築いた立役者として、維新の英雄として高く評価されています。軍事面での功績: 薩長同盟の締結、王政復古の大号令、そして江戸城無血開城など、決定的な場面で歴史に立ち会っています。

         江戸城無血開城は、後に明治新政府軍となる東征軍と旧幕府との間で行われた一連の交渉過程と江戸城の新政府への引き渡しのことです。徳川宗家の本拠であった江戸城が、同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから明治新政府軍の勢力が一層増すのです。戊辰戦争が新政府側に一気に優勢となる転機となった出来事です。幕府の使者山岡鉄舟の要請に応じた大総督府下参謀の西郷は彼との交渉に応じます。ここで初めて、東征軍から徳川家へ開戦回避に向けた条件提示がなされます。山岡の下交渉を受けて、陸軍総裁であった勝海舟と西郷との江戸開城交渉は、田町にあった薩摩藩江戸藩邸にて行われました。徳川慶喜は江戸城を退出して上野寛永寺で謹慎します。1868年4月、江戸城が東征軍に明け渡され 5月に慶喜は寛永寺から水戸へ隠遁するのです。

        西郷隆盛と勝海舟

         特に江戸城無血開城は、戦火による無益な殺生を避けた慈悲深い決断として、今なお高く評価されています。「敬天愛人(天を敬い、人を愛する)」の精神を掲げ、地位や名誉に執着しない姿勢は、多くの人々に尊敬の念を抱かせています。明治政府において廃藩置県をはじめとする重要な改革を主導し、近代国家の基礎作りに貢献しました。

         しかし、明治政府から離脱し、西南戦争の指導者となったことで、別の側面からも評価されています。明治政府の急速な近代化や士族の困窮に対して、政府を去った後の彼は、いわば「時代の抵抗者」としての性格を強めました。西南戦争で敗死したことで、権力から脱落した悲劇の英雄というイメージが定着しました。にもかかわらず敵対した勝海舟でさえ「怖い」と評したほどの圧倒的な存在感や人間的魅力は、多くの弟子や従者を引きつけました。彼が故郷の鹿児島に開いた「私学校」は、彼を慕う多くの若者たちの拠点となりました。

         福澤諭吉の西郷観は興味あります。彼の著書の一つに「丁丑公論(ていちゅうこうろん)」があります。この本は西南戦争で明治新政府に反抗した西郷隆盛を弁護する内容となっています。序論において、福澤は政府が専制になるのは当然の事とし、これに「抵抗する精神」の重要性を説くのです。さらに、「今、西郷氏は政府に抗するに武力を用いたる者にて、余輩の考とは少しく趣を殊にするところあれども、結局その精神に至ては間然すべきものなし」、つまり西郷隆盛は武力で政府に抵抗した点で、自分とは考えが異なるが、その抵抗の精神においては非難すべきものはないと述べて、武力で政府に反抗した点は評価しないにしても、西郷隆盛の「抵抗の精神」を賞賛するのです。

         また、政府が西郷の官位を剥奪した途端に、新聞が一斉に非難を始めたことに対して、「新聞記者は政府の飼犬に似たり」と述べて、新聞の論調が誹謗中傷の一色になったことと、それに迎合する世論に対して反論していくのです。さらに、「そもそも西郷は生涯に政府の顛覆を企てたること二度にして、初には成りて後には敗したる者なり」、すなわち「西郷は生涯に政府の転覆を2度企てて、最初の明治維新は成功し、2度目の西南戦争では失敗した者である」として、西郷を明治維新の功労者であり忠臣として賞賛します。同時に西南戦争の首謀者であって逆賊として非難することは、ダブルスタンダードであると非難するのです。彼の死後、明治政府は彼を逆賊から「正三位」という高位へと名誉回復せざるを得ませんでした。

         最期に、「西郷は天下の人物なり。日本狭しといえども、国法厳なりといえども、豈(あに)一人を容るるに余地なからんや」、すなわち「西郷は偉大な人物である。国の法がいかに激しいものであっても一人の人物を受け入れる余地はなかったのか」と述べて、西郷の人物を惜しみます。いつかこの人物を明治政府の要人として起用する時もあったはずであると結んでいます

        参考文献
         ・丁丑公論 福沢諭吉 時事新報社 1901年

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        勝海舟と国民国家思想

        注目

        勝海舟のことです。幕府は洋式海軍をおこすべく正式にオランダに海軍教師団の派遣を要請します。やがて1857年に教師団がやってきます。その団長がウイレム・ホイセン・カッテンディーケ(Willem Huijssen van Kattendijke)と言う中佐でした。カッテンディーケは、徳川幕府が発注した軍艦ヤーパン号、後の咸臨丸を長崎に回航した武官です。幕府が開いた長崎海軍伝習所の第2次教官となります。彼の貢献は、勝海舟、榎本武揚などの幕臣に、航海術・砲術・測量術など近代海軍教育を精力的に行ったことです。

        ウイレム・ホイセン・カッテンディーケ

         勝は既に江戸でオランダ語を学んでいました。幕臣とともに、カッテンディーケの生徒として勝も選ばれるのです。若い海軍士官のカッテンディーケの回想路によれば、勝はオランダ語を非常によく理解し、そして聡明な人間であり、さらには真の革新派の闘士というように非常に強い言葉でほめています。勝は、オランダの憲法を学ぶ機会に浴し、オランダの市民国家思想を学んでいきます。

         日米修好通商条約批准のため、1860年に幕府から遣米使節団がおくられることになります。使節団は米国海軍フリゲート艦のポーハタン号(Pawhatan)に搭乗して太平洋を横断することなります。勝はこれとは別に、日本の国威のために、日本人の操船による随行艦を派遣すべきだと運動し、長崎時代の練習船咸臨丸の艦長として勝は太平洋を横断することになります。

        彼がアメリカで最も衝撃を受け、深く学んだのは技術的なことよりも、むしろ「社会の仕組み」や「民主主義」のあり方でした。彼はアメリカから戻り、老中に呼ばれます。そして「アメリカと日本はどういうところが違うのか」と問われます。勝は「アメリカは日本と違って偉い人が上にいます」と答えるのです。老中らの苦虫を噛む姿が浮かびます。日本では徳川将軍家のような家柄が絶対視される時代でした。ジョージ・ワシントンの子孫のことを聞くと、アメリカでは初代大統領の子孫であっても特別扱いはされず、一市民として生活していることを知るのです。この事実に勝は「身分よりも実力や個人の自立が優先される社会」の有りようを強く意識したようです。「徳川家という私的な組織」が日本を支配している状態から勝はアメリカを視察して、政治は「日本全体」、「公」のためにあるべきと考えていくのです。

        戊辰戦争での薩摩軍兵士

         勝は幕府の家臣でありながら、「幕府を守る」ことよりも「日本という国を守る」ことを優先しました。彼の最大の功績は、1868年の戊辰戦争において、官軍の西郷隆盛と会談し、江戸無血開城を実現させたことです。戊辰戦争とは慶応4年1868年から1869年にかけて、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中核とする新政府軍と、旧幕府陸軍・幕府海軍が戦った日本近代史上最大の内戦と呼ばれます。新政府軍が勝利し、国内に他の交戦団体が消滅していきます。この内戦において、欧米などの諸外国は局外中立の立場であったが、フランスのレオン・ロッシュ公使(Léon Roches)などが個人的に旧幕府側を支援していました。

         勝は諸藩が対立する中で、幕府・朝廷・諸藩が統一して欧米列強に対抗すべきであるという「公議政体論」に近い考えを持っていたといわれます。彼のこの広い視野に、敵対していた坂本龍馬や西郷隆盛らが勝に心酔したのは、敵味方の垣根を超えた「橋渡し役」として役割を果たしたからでしょう。勝は維新後も参議、海軍卿として、後の海軍大臣などを歴任しました。

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        勝海舟と西郷隆盛との対比

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        司馬遼太郎からみた小栗上野介の勝海舟と西郷隆盛との対比は興味あることです。司馬は、勝海舟を「時代を泳ぐ政治家・策士」とするなら、小栗は「実務を積み上げる技術者・構築者」であったと評します。司馬は勝の柔軟さを認めつつも、実務能力では小栗が圧倒していたとみています。次に、西郷隆盛との対比です。西郷を「情緒と徳の人」とするなら、小栗は「論理と数理の人」と評価します。明治新政府が西郷的な情緒を削ぎとり、小栗的な官僚機構へ移行していく過程を司馬は冷静に記述しています。司馬にとって小栗上野介は、「不運にも時代に殺されたが、近代化の構想という魂は後の日本を支配し続けた人物」という、非常に敬意を払う描き方をしています。

        勝海舟

         1860年の万延元年に小栗は遣米使節団に加わります。日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府が派遣した使節団の「目付」いわゆる監察役としてです。当時のアメリカ大統領ブキャナン(James Buchanan)への謁見や、造船所・工場などの視察を通じて、身分制度に縛られない実力主義や、効率的な経済システム、軍事組織のあり方を深く学びます。帰国した小栗は、外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行といった要職を歴任し、破綻寸前の幕府財政を支えながら、猛スピードで近代化を推し進めました。

         小栗の最大の功績は、日本近代工業の礎となる「横須賀製鉄所」の建設です。フランスの支援を得て、現在の横須賀海軍施設内に「横須賀製鉄所」、後の横須賀造船所を建設したことです。単なる造船所ではなく、ボルト・ナットの製造から金属加工までを行う「工場の工場」を目指したのです。日本で初めて「就業時間」、「賃金制度」、「洋式簿記」などを導入し、近代的なマネジメントを確立したといわれます。

        西郷隆盛

         小栗は、株式会社の先駆けとなる「兵庫商社」を設立し、貿易の活性化を図りました。兵庫商社は、幕府の主導により、大坂や兵庫の商人の出資によって設立されました。構成員には、三井のほか、大坂の有力商人の鴻池や加島屋、兵庫からは酒造業者が名を連ねました。小栗は提案書で初めて「商社」という言葉を使ったといわれます。郵便制度、電信、鉄道の設置も提言し、先見の明があったことがわかります。これらは後に明治政府によって実現されました。

         軍制改革と教育面でも小栗は活躍します。すなわち、幕府軍の近代化のため、フランス軍事顧問団を招へいします。外交官や技術者を育成するため、幕末の1865年、慶応元年に横浜仏語伝習所というフランス語学校が開設されます。日本初の官立フランス語学校です。幕臣の子弟を中心に選抜された精鋭たちが集まりました。フランス語の習得はもちろん、西洋の諸科学や文化も教えられていました。この伝習所からは、近代日本哲学の父、西周や法学者の津田真道が育っていきます。ここで学んだ若者やフランス学の伝統は、後の明治政府における司法制度の確立に貢献します。

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        ポトマック川の五色桜

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        今ワシントンD.C.のポトマック川の五色桜は満開です。もともと五色桜は、現在の東京都足立区の荒川堤に植えられていた桜の総称です。明治時代、ソメイヨシノだけでなく、多種多様な里桜が約78種類も植えられ、その多様な色彩から「荒川の五色桜」として世界的に有名になりました。1912年に日本からワシントンD.C.へ贈られた3,000本の桜の多くは、この荒川堤の苗木から育てられたものでした。

         しかし、本家である日本の五色桜は、その後の不幸な歴史によって絶滅の危機に瀕します。その理由は、工場の排煙や都市開発による環境悪化、荒川の改修工事に伴う伐採、そして第二次世界大戦による被害によります。これにより、東京の五色桜はほとんどが失われてしまいました。

         戦後、かつての美しい五色桜を復活させようという動きが日本で起こりましたが、すでに日本国内には元々の品種が揃っていませんでした。そこで、ワシントンに贈った桜が、当時の血統を保ったまま元気に育っていることに着目し、ワシントンから枝を分けてもらうことになったのです。1952年に荒川堤の改修を機に、初めてワシントンから枝が贈られました。1981年には「レーガン桜」として、さらに大規模な里帰りが行われ、足立区などに植樹されました。

         真珠湾攻撃後の戦時中、ワシントンでは日本への敵対心から桜が数本切り倒される事件が起きました。さらに「桜をすべて引き抜いてしまえ」という過激な意見も出たといいます。しかし、多くのアメリカ市民や関係者が「木に罪はない」「この桜は平和と友情の象徴である」として、桜を守り抜きました。戦時中は「日本の桜」と呼ぶ代わりに「東洋の桜」と呼び方を変えるなどの工夫をして、この美しい景観が維持されたのです。

        The Goshikizakura (five-colored cherry blossoms) along the Potomac River in Washington D.C. are in full bloom. Originally, Goshikizakura was a general term for cherry trees planted along the Arakawa River embankment in what is now Adachi Ward, Tokyo. During the Meiji era, not only Somei Yoshino cherry trees but also approximately 78 varieties of other diverse village cherry trees were planted, and their diverse colors made them world-famous as “Arakawa’s Goshikizakura.” Many of the 3,000 cherry trees gifted from Japan to Washington D.C. in 1912 were grown from saplings along this Arakawa River embankment.

        (住友林業グループより引用)

        However, the original Goshikizakura in Japan faced extinction due to unfortunate circumstances. These included environmental degradation from factory emissions and urban development, felling during Arakawa River improvement work, and damage from World War II. As a result, almost all of Tokyo’s Goshikizakura were lost.

        After the war, there was a movement in Japan to revive the beautiful Goshikizakura of yesteryear, but the original varieties were no longer available within Japan. Therefore, noticing that the cherry trees gifted to Washington were still thriving while maintaining their original lineage, it was decided to request branches from Washington. In 1952, during the renovation of the Arakawa River embankment, the first branches were gifted from Washington. In 1981, a larger-scale return of the trees, known as “Reagan Cherry Trees,” took place, with trees being planted in Adachi Ward and other areas.

        During the war after the attack on Pearl Harbor, several cherry trees were cut down in Washington due to hostility towards Japan. There were even extreme calls to “uproot all the cherry trees.” However, many American citizens and those involved protected the trees, stating that “the trees are innocent” and “these cherry trees are symbols of peace and friendship.” During the war, efforts were made to preserve this beautiful landscape, such as changing the name from “Japanese cherry trees” to “Oriental cherry trees.”

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        「知」の先人達

        注目

        江戸時代の末期の文久2年(1862年)に幕命でオランダへ留学し、西洋哲学を日本に紹介した最大の人物が西周です。オランダ最古のライデン大学(Universiteit Leiden)でシモン・フィッセリング(Simon Vissering) に法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学びます。現代の私たちが日常的に使っている多くの哲学用語の生みの親とも知られています。例えば、「哲学」「命題」「定義」「主観」「客観」「帰納」「演繹」「知識」「概念」「理性」「芸術」「科学」「技術」「心理学」「意識」といった訳語を作ったのも西です。西洋の概念を漢字で表現することで、日本人が西洋思想を深く理解するための土台を作りました。

        ライデン大学

        ライデン大学は、1575年にネーデルラント(オランダ)の指導者ウィレム1世(Willem I)によって設立されます。ヨーロッパでも最も古い大学の1つといわれます。ルネ・デカルト(René Descartes)、レンブラント(Rembrandt van Rijn)、フーゴー・グローティウス(Hugo Grotius)などを輩出しています。

        中江兆民もまた岩倉使節団の一員としてフランスに渡り、フランス流の民主主義を日本に輸入しました。岩倉使節団は、明治維新期の明治4年から明治6年まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国の米欧12ヶ国に派遣された使節団です。岩倉具視を特命全権大使とし、首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成されました。その中の一人、中江兆民は「東洋のルソー」と呼ばれ、ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の『社会契約論』を翻訳し、それを『民約訳解』として出版し、自由民権運動の理論的支柱となります。

        中江兆民

        近代的な法律学を輸入した人物に穂積陳重がいます。彼はイギリスとドイツに留学し、日本の民法起草に携わりました。医学面では北里柴三郎がいます。ドイツ留学にしコッホ(Heinrich Robert Koch)に師事して、細菌学や血清療法を導入します。ペスト菌の発見や血清療法の確立など、日本の近代医学や公衆衛生を世界レベルに引き上げるのです。建築の分野に辰野金吾がいます。イギリスに留学しジョサイア・コンドル(Josiah Conder)に学び、後に赤レンガの東京駅などを設計した建築家です。科学の分野では高峰譲吉がイギリスに留学し化学工業の基礎を築き、アドレナリンを発見するのです。芸術の分野に黒田清輝がいます。フランスに留学し印象派の明るい作風を日本画壇に持ち込み、後に「洋画の父」と呼ばれるのです。

        1867年のパリ万博は、当時の世界最新のテクノロジーや芸術、そして各国の文化が一堂に会した「文明の祭典」といわれました。日本にとっては、江戸幕府が公式に参加した最初の万博であり、日本文化が初めて西洋に本格的に紹介された歴史的なイベントとなります。パリ万博を視察した渋沢栄一は1867年から約1年半にわたってパリを中心にヨーロッパを歴訪します。この滞在は、後に「日本資本主義の父」と呼ばれる彼の基盤を築く決定的な体験となります。株式会社制度を学び、帰国後は第一国立銀行、現在のみずほ銀行など500以上の企業設立に関わります。日本の近代化には、信頼の拠点となる銀行が不可欠であると考えたのです。

        渋沢は、経済活動だけでなく、社会福祉を向上する制度にも注目したようです。その例は、病院、孤児院、盲学校などの医療、福祉施設を視察し、「富は個人が独占するものではなく、社会に還元すべきもの」という考えを深めていきます。これが、彼が晩年に社会公共事業や教育に力を注ぐ原動力となったといわれます。 フランスにおいて、生活インフラと都市機能の発達を見聞します。例えばガス灯、鉄道、水道、郵便、そして最新の科学技術など、近代都市を支えるインフラを理解していくのです。

        総合的な教育支援の広場

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