無関心や傍観の帰結 その三 ハイネと『白薔薇は散らず』

 2017年11月18日に本ブログにて「心に残る一冊 その35 白薔薇は散らず」という拙稿を投稿しました。162頁の小さな佳作です。この本の原題は「Die Weisse Rose」。翻訳の出版社は白水社で定価が150円とあります。1961年、私は北海道大学の一年次にドイツ語を勉強し始めました。そのとき出会った本です。日本語や英語と違い、名詞にジェンダーがあるのがドイツ語です。表題から薔薇という単語が女性名詞であることも納得したものです。

Hans Scholl, right

 第二次大戦下のドイツで国家社会主義政権への抵抗運動を始め、やがて処刑されたハンス・ショル(Hans Scholl)と妹ゾフィー・ショル(Sophie Scholl)の記録です。ヒトラーが政権をとった時、ハンスは15歳、ゾフィーは12歳。そして二人はヒトラー青年団(Hitler Youth)に加入します。この青年団はナチスによる学校放課後における地域の青少年を教化する組織です。第二次世界大戦が始まると、ハンスも戦争に狩り出され、ロシア戦線にも出征します。

 ハンスはやがて、ドイツ人でユダヤ系の詩人であるハインリッヒ・ハイネ(Heinrich Heine)の詩などが禁じられたことなど、ナチスの理念と行動に疑念を抱くようになります。ハイネは、ドイツ・ロマン派を代表する詩人で思想家です。自由と平等を理想とする政治思想を強く抱き、検閲制度や専制政治、宗教的抑圧に反対していきます。彼の思想は、詩的感性と鋭い社会批評、政治的関心、自由主義的な立場を融合させたといわれます。ハイネは検閲や迫害を逃れてフランスへ亡命し、ドイツ国外から母国を批評した先駆者ともいわれます。ナチスが彼の書を焚書した際に「本を焼く者は、やがて人をも焼くことになる」という名言が伝えられています。

Heinrich Heine

 ミュンヘン大学(Ludwig-Maximilians-Universität München) 医学部の学生になったハンスは、友人や哲学教授のクルト・フーバー(Kurt Huber)を相談役として、「個人の権利と自由、各人の自由な個性の発達と自由な生活への権利」を主張していきます。そして反戦運動のメンバーとして会議に参加することとなります。地下での抵抗と反戦の訴えを「白薔薇通信」というチラシで密かに訴えます。この運動は、政治的な結社でも武装闘争でもありませんでした。

 ミュンヘン市内やミュンヘン大学構内で配布された白薔薇通信は次のような文章で始まります。

「何よりも文化民族にとって相応しからぬ事は、抵抗することもなく、無責任にして盲目的な衝動に駆り立てられた専制の徒に「統治」を委ねることである。現状はまさに、誠実なドイツ人は皆自らの政府を恥じているのではないか?」

 白薔薇通信の最後のビラの一説です。

Sophie Scholl and Hans Scholl

「言論の自由、信教の自由、そして犯罪者的暴力国家から市民を擁護すること、これが新しきヨーロッパの基礎である。諸君、抵抗運動を支持せよ。このビラを複写し配布されよ!」

「愕然としてわが民族はスターリングラードの人的消耗を眺めている。33万人のドイツ男子は第一次大戦伍長の天才的戦略によって無意味かつ無責任に、死と破滅に駆り立てられた。(略) 我が民族は国家社会主義によるヨーロッパの奴隷化に抗して、進軍を開始せんとする、自由と名誉の新しき信念に身をたぎらせつつ。」

   参考書 ハインリッヒ・ハイネ 【歌の本】 岩波新書

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無関心や傍観の帰結 その二 ドイツ教会闘争とは

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ドイツ教会闘争(Kirchenkampf)とは、ドイツのプロテスタント教会(protestant church) が1933年から1945年に至るまで、ナチスが国民統制を強化する一環として教会の組織や教義への干渉に抗して行った闘争を言います。この運動は、単なる宗教的な争いではなく、政治的・倫理的な闘争でもありました。

 闘争は、やがてナチスの非人道的政策そのものに対する批判にまで発展します。1933年に宰相に就任したヒトラーは、最初は教会に対して宥和的な態度を示しました。まもなくナチズムに迎合するドイツ・キリスト者(Deutsche Christen)を介して、教会への干渉を始めます。特にプロテスタント教会を国家に従属させようとするのです。ドイツ・キリスト者は、ナチズムの思想である民族主義、反ユダヤ主義をキリスト教と融合させようとする人々です。さらに「アーリア的キリスト教」(Aryan Christianity) を提唱し、旧約聖書の排除やユダヤ人イエス・キリストを否定するのです。

Dr. Dietrich Bonhoeffer

 その干渉とは、それまでドイツ国内にある領邦教会を一元化して帝国教会を作り、その上に帝国監督を据えることを企ることでした。さらにユダヤ人排除政策であるアーリア条項(Aryan Clause)を教会関係の立法に導入しようとします。ニーメラーらは、告白教会というナチスの干渉に抵抗したプロテスタントの信徒や牧師のグループに所属していました。彼らは、帝国教会などの設立を教会秩序の破壊であると抗議し、牧師緊急同盟を組織し、多くの参加者を得て運動を開始します。やがて各領邦教会で勢力を持つドイツ・キリスト者に抗して告白会議が組織されます。

 1934年5月にルール(Ruhr)地方の工業都市、バルメン(Barmen)で第一回告白教会全体会議が開かれ、有名なドイツ福音主義教会の現状に対する神学的宣言が採択されます。この宣言はバルメン宣言(Barmen Declaration)と呼ばれます。バルメン宣言の中心は、キリストは唯一の主であり、国家や指導者に絶対服従すべきではないとする立場です。バルメン宣言の代表的な人物はニーメラーの他に(Karl Barth) 、ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)などの神学者でした。

 社会情勢の深刻化にともない、告白教会内部における非妥協的な全国常任議員会と保守的な領邦教会の人々の対立が次第に深まっていきます。さらに、政府は告白教会に対しての弾圧の度を強め、1935年に教会省を設けて、教会問題に直接介入してきます。告白教会は当時のドイツにおける唯一の抵抗の拠点として、良心の声を上げ続けます。1936年頃からは、単にj純粋な教会問題だけでなく、ナチスによる人間的破壊の事実に対して抗議の声をあげます。

 しかし、ニーメラーらの指導者をはじめ牧師や教会役員に対する逮捕投獄が相次ぎ、闘争は危機的状況に陥ります。ことに1939年の第二次対大戦の勃発により、組織的抵抗としての教会闘争は不可能になり、戦いは地下運動的なものに移行せざるをえなくなります。

Die Zionskirche in Berlin-Mitte, von Nordwesten aus gesehen.

 ドイツ教会闘争が今日の世界へ及ぼしたと考えられる貢献です。まず、政教分離と信教の自由への警鐘ということです。教会が国家権力に取り込まれる危険性を示した事例として、現代の政教分離の重要性を強調する事例になっていることです。この闘争は、倫理的勇気と良心のモデルとして評価されています。ニーメラーやボンヘッファーのような人物は、今日においても良心に従って不正に立ち向かう道徳的模範とされています。特に全体主義や権威主義が台頭する現代において、個人が信念に基づいて行動する重要性を再確認させているのです。

 もう一点は、ナチズムと宗教の関係に関する歴史的教訓ということです。宗教が国家権力に利用された結果、信仰が本来持つ倫理的・批判的な力を失う危険性が明らかになったことです。そのため、宗教界においても権力との距離や政治的関与についての慎重な議論が現在も続いています。

なによりも文化民族にとってふさわしからぬことは、抵抗することもなく、無責任にして盲目的衝動に駆り立てられた専制の徒に統治を委ねることである。現状はまさに、誠実なドイツ人はみな自らの政府を恥じているのではないか? (白薔薇は散らず)

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無関心や傍観の帰結 その一 マルティン・ニーメラー

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ドイツの福音主義(Evangelical) 神学者で元海軍軍人、古プロイセンルター派の合同福音主義教会(united Evangelical Church) にマルティン・ニーメラー(Martin Niemöller)という牧師がいました。彼は反ナチス運動家として知られ、『ナチスが共産主義者を攻撃したとき』(Als die Nazis die Kommunisten holten)に記した詩が知られています。それを解説いたします。

Ds. Martin Niemöller

 元東大教授で政治学者であった丸山眞男は、「現代における人間と政治」という自身の論文の中で、ニーメラーが記した詩を次のように訳しています。

  • ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。
  • それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。
  • それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。
  • さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。

 ニーメラーはこのように告白し、ナチスの迫害が「共産主義者→社会主義者→労働組合員→ユダヤ人→私」と続いて始まったと述懐します。ドイツ共産党は1933年2月から3月にかけて弾圧・解体され、社会民主党員の多くがほぼ同時期に強制収容所に収容されます。労働組合は同年5月に解体されていきます。それでも1924年以降、ニーメラーは ナチス党に投票し、1933年のヒトラー内閣成立も歓迎します。

 1933年4月にナチスドイツは職業官吏再建法(de:Gesetz zur Wiederherstellung des Berufsbeamtentums)を発布し、その第3条で「アーリア系でない官吏は退官させることができる」と謳います。ドイツ国民をアーリア人種の一民族として賛美し、他方でユダヤ人や黒人、インドを発祥の地とする少数民族のロマ族、いわゆるジプシー(Gypsy)を「非アーリア人」として貶めることになります。これが「アーリア条項」(Aryan Clause)」と呼ばれるものです。ユダヤ人の迫害、ホロコースト(Holocaust)が始まったのは1933年といわれます。

ニーメラーの牧師館

 やがてニーメラーは告白教会(confession church)の創立者の一人となり、ドイツにおける福音主義教会のナチス化に強く反対するようになります。そしてニーメラーの発言や礼拝説教は次第に野党的なものになります。さらに教会外に対しても反ナチス運動を開始します。教会内には、ナチス支持勢力であったドイツ・キリスト者との対立が生じていたのです。ナチス政権は、ドイツ・キリスト者信仰運動を利用して,その宗教政策を推進しようとします。これに対してプロテスタント教会内に抵抗運動が起こり、1934年5月ニーメラーらの指導により「牧師緊急同盟」が結成されます。これが「ドイツ教会闘争」と呼ばれた運動です。そのために1937年に逮捕され禁固7か月という判決が下されます。保釈後、秘密警察ゲシュタポ(Gestapo) によって再度拘束され、ザクセンハウゼン強制収容所(Sachsenhausen concentration camp) に収監されていきます。

 最終的には、ニーメラーは告白教会内においてラディカルな路線を選ぶのですが、ユダヤ人が収容され始めた時期や、カトリック教会への攻撃が本格化した時期を体感できなかったと述懐しています。それが、「自分は共産主義者でも社会主義者でもユダヤ人でもなかった。それ故何も行動しなかった。」と告白しているのです。

 このニーメラーの告白は、もし私たちが社会的な課題に注視し関心を持たないならば、いつの間にか正義や自由は危険な状態になるというのです。今日の政治、経済、社会に横たわる問題に積極的に向き合い、関わっていくことの重要性を伝えています。

【なによりも文化民族にとってふさわしからぬことは、抵抗することもなく、無責任にして盲目的衝動に駆り立てられた専制の徒に統治を委ねることである。現状はまさに、誠実なドイツ人はみな自らの政府を恥じているのではないか?】  (白薔薇は散らず)より引用

参考書:丸山眞男『増補版 現代政治の思想と行動』未來社
    丸山眞男『日本の思想』 岩波新書
    インゲ・ショル 『白薔薇は散らず』 白水社
  

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ポリティカル・コレクトネスとメディア

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ポリティカル・コレクトネス(PC) の3回目の話題です。再度PCの意味を復習します。PCとは、人種、性別、宗教、障害、性的指向などに関する差別や偏見を避け、すべての人に対して尊重と配慮を持った言葉や態度をとることを意味します。つまり、他人を不快にさせたり、傷つけたりしないように、より中立で配慮のある言い方を心がける社会的姿勢です。

 PCという用語に関する今日の議論は、学問と教育におけるリベラル偏向に対する保守派の批判に端を発しています。保守派はそれ以来、この用語を「言葉狩り」に対する主要な攻撃手段として利用してきた経緯があります。2020年に発表されたある調査によりますと、アメリカの大規模な州立大学の学生は、教員が概して寛容で、多様な視点の自由な表現を奨励していると答えています。とはいえ、大多数の学生は政治的な見解を表明することの顛末を懸念し、「政治的見解を表明することへの不安や自己検閲は、保守派であることを自認する学生の間でより顕著である」と指摘されています。

 ヨーロッパの一部の保守派評論家は、「政治的正しさ」と多文化主義は、ユダヤ・キリスト教的価値観(Judeo-Christian values)を弱体化させることを最終目的とした陰謀の一部であると主張しています。この理論は、政治的正しさはフランクフルト学派(Frankfurt School)の批判理論に由来し、その支持者たちが「文化マルクス主義」と呼ぶ陰謀の一部であると主張しています。ちなみに、フランクフルト学派とは、ヘーゲル(Georg Hegel)の弁証法とフロイト(Sigmund Freud) の精神分析理論をマルクス主義と融合させてマルクス主義の問題点の克服と進化を試みた学派といわれます。2001年、保守派評論家のパトリック・ブキャナン(Patrick Buchanan)は著書『西洋の死』(The Death of West)の中で、「政治的正しさは文化マルクス主義である」と述べ、「そのトレードマークは不寛容である」と述べています。

 アメリカでは、この用語は書籍や雑誌などのメディア界で広く使用されています。イギリスでは主に大衆紙での使用に限られているといわれます。多くの著述家や大衆メディア関係者、特に右派は、メディアの偏向と見なすものを批判するためにこの用語を使用しています。ジャーナリストのロバート・ノヴァク(Robert Novak)は、エッセイ「ニュースルームにPCは必要ない」の中で、新聞社が言語使用方針を採用し、偏見の印象を与えることを過度に避ける傾向があると批判しました。彼は、言語におけるPCは意味を破壊するだけでなく、保護されるべき人々を貶めると主張しています。

 作家のデイビッド・スローン(David Sloan)とエミリー・ホフ(Emily Hoff )は、アメリカではジャーナリストがニュースルームにおけるPCへの懸念を軽視し、PC批判を古くからある「リベラルメディアの偏向」というレッテルと同一視していると主張していいます。作家のジョン・ウィルソン(John Wilson) によると、無関係な検閲については左翼の「政治的正しさ」勢力が非難されているとも主張します。タイム誌は、アメリカのネットワークテレビにおける暴力反対運動が「PC警察の監視の目」のせいで「主流文化が用心深くなり、清潔になり、自らの影を恐れるようになった一因になっている」と述べています。さらに、テレビ番組を標的とした抗議活動や広告主のボイコットは、一般的にテレビにおける暴力、セックス、同性愛の描写に反対する運動をする右翼の宗教団体によって組織されているとも主張します。

 PCは、差別や偏見を避け、公平な言葉や行動を促進することを目的とする社会的態度や言語使用のスタイルです。 差別や偏見の是正や公共の場での言語の改善、職場や学校での安心感の向上など、肯定的な社会的影響が指摘されています。他方、言論の自由との衝突、自己検閲や過敏反応、さらに表層的な対応にとどまることなど、否定的または懸念される社会的影響も論議されています。

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ポリティカル・コレクトネスと用語の言い換え

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ポリティカル・コレクトネス(PC) の2回目の話題です。PCの考え方により、用語が言い換えられる例はいろいろあります。放送用語や差別用語などで見られます。以下は、従来の用語と中立の用語のいくつかの例です。

  • 看護婦・看護士 → 看護師  2002年に保健師助産師看護師法改正で使われ、男性も職業に就いているためです。
  • 障害者 → 障がい者 「害」の字が使われていることに不満がある人の感じる悪い印象を回避するため、2001年に東京都多摩市が最初に採用しました。
  • 助産婦 → 助産師  2002年、保健師助産師看護師法改正されました。ただし現行では資格付与対象は女性に限定されています。
  • スチュワーデス → キャビンアテンダント (CA)  1996年に日本航空が従来の呼称を廃止し、他社も追随しました。世界の航空会社では男性も従事しています。
  • 土人 → 先住民  1997年に北海道旧土人保護法が廃止されました。
  • トルコ風呂 → ソープランド  トルコ人留学生の抗議により1984年に改称されました。しかし実態は?
  • 保健婦 → 保健師  2002年に保健師助産師看護師法が改正され名称が変更されました。
  • 母子健康手帳 → 親子手帳  いまも母子健康手帳という名称は使われています。
  • 保父、保母 → 保育士  1999年に児童福祉法改正されました。男性も職業に就いているためです。
  • 父兄参観 → 保護者参観  「父兄」は放送禁止用語です。
  • 肌色 → うすだいだい、ペールオレンジ  特定の色を「肌色」と呼ぶことは差別的な意識を助長したりする可能性があると指摘されています。
  • 特殊教育 → 特別支援教育  学校教育法の一部改正により、2001年に知的な遅れのない発達障害も含めた対象の拡大します。
Black lives matter.

 PCの考え方は、メディアにも影響を与えてきました。その一つが「放送禁止用語」とか「放送自粛用語」の誕生です。この現象は、法による明文化された放送禁止用語は存在せず、単なる放送事業者の表現の自主規制となっています。放送に用いない、あるいは放送に用いることに一定の制限を設ける判断と規制を行うことは、それぞれの国の歴史的経緯などが反映されています。国家として法令に「放送禁止用語」を定めている国もあれば、まったく自主的なものとしている国もあります。かつて太平洋戦争前・戦争中の日本では、国によって放送禁止用語が作られました。

 メディアでは、差別の糾弾を回避する手段が常にとられています。その一つが差別用語の言い換えや差し替えです。「言語表現」というのは、単語を並べた文章によるものであり、差別的とされる単語のみを言い換え、差し替えたとしても、文章そのものが差別を目的とするものであれば意味がありません。これがいわゆる「言葉狩り」批判の根拠となっているのです。これが「ポリティカル・コレクトネス」にあたるのです。当然なことですが、差別的とされる単語に限らず、多くの人が不快感などを覚える単語の使用は好ましくはありません。

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ポリティカル・コレクトネス

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「ポリティカル・コレクトネス(political correctness: PC)」、略して「ポリコレ」という用語は、歴史的にも社会的にも多面的な背景を持っており、単に「リベラルな言葉や行動」を表すラベルではありません。以下では、その由来や展開、批判、そして現代的な使われ方について詳しく説明します。

 以下、「ポリティカル・コレクトネス」をPCと記述します。PCとは、人種、性別、宗教、障害、性的指向などに関する差別や偏見を避け、すべての人に対して尊重と配慮を持った言葉や態度をとることを意味します。つまり、他人を不快にさせたり、傷つけたりしないように、より中立で配慮のある言い方を心がける社会的姿勢です。

 PCという用語の起源です。20世紀初頭、ソ連邦やマルクス主義運動の内部で、「政治的に正しい(politically correct)」という表現は、党のイデオロギーに忠実であるかを問う意味合いで使われました。つまり、「党にとって正しい態度や発言をしているか」という意味です。皮肉や批判の意味は強くなく、むしろ「正統性」を示すものです。

アメリカでは、1980年代以降、特にアメリカの大学キャンパスなどで、差別や偏見のない表現や態度を推奨する動きが強まり、「ポリティカル・コレクトネス」という言葉がリベラルな価値観と結びついて用いられるようになりました。その例は、人種・性別・性的指向・身体的障害などに配慮した言葉の使用があります。例えば、”fireman” → “firefighter”、”stewardess” → “cabin attendant”、”カメラマン” → “フォトグラファー”という按配です。

 次にPCには、批判や反発が存在します。言論の自由の抑圧であるとして、PCを過度に追求することで、自由な意見表明が難しくなるという懸念です。その例は、冗談や風刺も差別とされ、自己抑制 (self-censorshipが広がるという指摘です。

 さらにPCには偽善的であり形式的な配慮があると指摘されています。実質的な平等や社会改革よりも、表面的な言葉遣いにこだわり過ぎるという批判です。単に「言い換え」をすることで社会問題を解決したかのように見せてしまうのです。さらに、逆差別や過剰な被害者意識を助長しているという批判もあります。PCが行き過ぎると、マジョリティに対する抑圧や皮肉な差別が起きる、という保守派の主張もあります。その例は、「白人男性」、「金髪女性」という属性だけで偏見の対象にされる場合などです。

 PCは、リベラルのラベルなのかという問いがあります。 PCは本来、社会的に弱い立場にある人々への配慮として始まったもので、リベラルな政治哲学である多様性尊重、平等、包摂(diversity, equity, inclusion: DEI)と親和性があります。ただし、現代ではそのリベラル性自体が問題視されたり、アイロニカルに使われることも多いのも事実です。1990年代以降、保守派の政治家や評論家が、PCを「過剰な正義感」や「左派の言葉狩り」として揶揄する文脈で使うようになりました。皮肉や批判的用法として定着しています。たとえば、「それはポリコレのせいで言えないんだよ」という言い回しには、PCの抑圧的側面への不満がこもっています。

 今やPCは単なる言葉遣いの問題を超えて、「文化戦争(culture wars)」の象徴的な争点にもなっています。左派(リベラル)にとっては、PCは社会正義のために必要な倫理的配慮があるとし、社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された政策、または対策などを表すことだと主張します。他方右派(保守)にとっては、PCは自由な議論を妨げる魔女狩りのような検閲文化の一部であるというのです。現代におけるこの言葉の議論は、学術界や教育界におけるリベラルな偏見を前提とした保守派の批判に端を発しています。

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インクルーシブ教育への疑問

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統合(インテグレーション)と「完全な包括(インクルーシブ)」には違いがあります。インテグレーションでは、障害のある子どもは、同世代の障害のない仲間たちと隣同士で学習します。合衆国では、1975年に制定された全障害児教育法(PL94-142)の下で特別な支援教育を受ける権利を認められる子どもは、1週間のうち3分の2以上を通常学級で学習することができます。子どもたちは、終日通常学級にいなければならないというわけではなく、作業療法、理学療法、言語療法などの支援を受けるために「取り出し」(pull-out)の対象になることもあります。1990年に全障害児教育法は個別障害者教育法(Individuals with Disabilities Education Act : IDEA)へと名称が変更されます。

 他方、完全な包括の下では、個別障害者教育法の対象となる子どもたちは、文字通り1日中、通常学級に在籍することになります。必要な応対は「入り込み」(pull-in) を通じて行われます。つまり、専門家が教室にやってきてそこで支援を行うのです。完全な包括ではありませんが、障害のあるほとんどの子どもたちにとって妥当な取り組みであると考えられている節があります。中には自閉症、知能障害、難聴の子ども、複合障害児などの子どもたちの中には、こうした環境では適切な教育を提供できないかもしれません。

連邦政府の教育省のエンブレム

 通常学級に在籍することは、人権の尊重であるという考えが根強くあります。高等学校まで学校は障害のあるすべての子どもたちに完全な包括を提供できるように再構築するべきであると考えるのです。連邦政府の教育省によれば、個別障害者教育法の実施に関する最新の調査では、該当する子どもの約半数がほとんどの時間を通常学級で過ごしているといわれます。ただし、障害種別に見ると、その割合は非常にばらつきがあり、言語障害の子どもの90%以上が包括的な教室に在籍しています。しかしその一方で、通常学級に通う自閉症の子どもたちは、わずか29%に留まっています。つまり、教育的対応は、子どもがどこに在籍するべきかではなく、それぞれの子どもに固有な必要性によってなされるべきであるという考え方があるからです。

 インクルーシブ教育に反対する人々もいます。特別支援学校・学級を「分離教育」と捉え、障害のない子どもと同じ教室で受けさせることが正しいとする立場への反対です。障害ない子と障がいのある子を同じ教室で教えることが正しいと考える人々を批判するのです。何でもかんでも両方を一緒に教育する、という考えには反対するのです。「多様な個性の子どもが同じ場で学び、子どもは主体的に授業に参加するのが正しい」という考えを「ポリティカル・コレクトネス的」 (politically correct)として批判するのです。次稿では、「ポリティカル・コレクトネス」という話題を取り上げます。

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インクルーシブ教育と私の経験

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今でこそインクルージョン(inclusion)やインクルーシブ教育という用語は珍しくありません。もとはといえばメインストリーミング(mainstreaming)とかインテグレーション(integration)という用語と同義に近いものです。我が国では統合教育と呼ばれました。かつて私は那覇で設立した「丘の上幼稚園」で障がいのある幼児を受け容れたことがありました。そのことで沖縄が本土復帰して2年後の1974年、当時の文部省から幼児の統合教育の実践で研究指定を受けたのです。インクルージョンの「さきがけ」だったのではないかと密かに自負しています。

 ウィスコンシン大学での研究を終えてから、国立特殊教育総合研究所に就職してからも欧米のインクルージョン実践の経緯は、逐次調べては論文にまとめていきました。アメリカの個別障害者教育法もインクルージョンを全面に押し出していました。ですが、我が国の普通学校と特殊教育諸学校の分離体制は堅固であり、インクルージョンは大分先になるように考えておりました。その間、欧米の先進的な取り組みを現地で調査したり、合衆国が発表する年次報告書などを紹介することによって、分離教育に風穴を開けることができるのではないかと考えていきました。文部省の特殊教育課長補佐と一緒にアメリカのナッシュビル(Nashville)やカナダのトロント(Toronto)などの学校を訪問しては、インクルージョンの実践を調査したものです。

No Child Left Behind Act signed.

 もう一つは、裁判事例によって保護者や親の会を味方につけることでした。1986年頃だった記憶しますが、北海道は留萌市の中学校において、新設の固定学級(特殊学級)への配属を拒否した保護者と生徒が市教を相手に訴訟を起こした事例があります。原告の保護者は、娘を通常学級で学ばせたいという要求でした。留萌市教育委員会は、「原告の主張する親の選択権は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由に認められる権利というべきであって、心身障害児をどの学級に入級させるかという教育措置については、親にこれを選択する権利はなく、当該校長の権限に属する事項である」と反論したのです。

 この裁判の経過は北海道新聞の記者から聞いておりました。記者からの電話を受けながら裁判の進行は気を揉む展開となりました。そして判決は原告の敗訴。その記者より判決内容についてコメントを求められました。そこで「生徒と保護者の意思を無視する固定学級での学びを強いるのは、時代錯誤、時代遅れの判決である」と記者に伝えました。

 その私のコメントが、文部省の役人と筑波大学のM教授のものと一緒に翌日の北海道新聞に掲載されました。もとより文部省の立場は、判決は妥当なものであるというものです。M先生のコメントは中庸な内容だったと記憶しています。それを読んだ北海道教育庁の役人が、文部省の特殊教育課に知らせたらしいのです。そして文部省から研究所にそのことで問い合わせがあったようです。翌日私は研究所の上司から呼び出されて聴取を受け、その経緯を説明させられました。「時代に逆行する判決である」と伝えたと答えました。文部省直轄機関の一研究員が「お上」に逆らったのです。その聴取では、今後は報道機関からの問い合わせには事務を通すようにという軽躁なものでした。お咎めも始末書もありませんでしたが、しばらくは蟄居を余儀なくされました。時はインクルージョンの情報がじわじわ浸透し、研究所もこの趨勢に抗うことが困難であると判断していたようです。

 2013年3月に川越市が脳性麻痺の子どもを特別支援学級で受け容れると発表しました。その顛末というのは、埼玉県教育委員会が、保護者の要求に対して、「特別支援学級では医療行為ができない、もし受け容れるとすれば保護者の同伴を要求する」というものでした。しかし、保護者は、共働きでなければ生活が成り立たないと主張します。川越市教育委員会は、すでに就学が2年も遅れている実情に鑑みて、2人の看護師をつけその子どもを受け容れるということになりました。一体、特別支援教育とはなんなのか、という問題提起をする事案でありました。

 どうも私には権威に対するアレルギーのようなものがあります。苦労して勉強してきたこと、ヤワな鍛えられ方をしてこなかったという自負と自信も強く、前例とか組織の体質には疑問を抱くのでどうしても上司とは軋轢を生みがちになるのです。保護者と子どもの側に立つのが教育の基本ですから、どのような強圧的な指導が入っても終局的にはそれを論破していくことができる自負がありました。行政というのは慣例や慣行に対して内からも外からも疑問を差し挟むことが困難な体質があります。留萌の裁判事案がそうでした。多くの学校管理者などにある「つつがなくお勤めを果たす」という内向きの姿勢が、時代の趨勢に応じて変化することを難しくしているのです。

 保護者が就学が遅れたことを理由に都道府県教育委員会を訴えるとすれば、恐らく被告は敗訴するはずです。これがもしアメリカで起こった事案とすれば教育委員会は100%、間違いなく敗訴します。それほど保護者や子ども権利は法律で保護されているのです。

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インクルーシブ教育とは

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近年日本でもよく耳にする「インクルーシブ教育」(Inclusive Education)とは一体なんでしょうか? インクルーシブ(inclusive) とは日本語で「包括的な」や「包み込む」と訳され、日本ではインクルーシブ教育は、「障がいの有無に関わらずすべての生徒が受け入れられる教育環境」という意味で用いられています。以前は「統合教育」「メインスツリーミング」という用語が使われていました。分離教育の対となる用語です。障がいのある生徒が、障がいのない生徒と同じ教室で学ぶことで得られる利点はたくさんあります。例えば次のようなものです。

 さらに、インクルーシブ教育は障がいのない生徒にも同様のメリットがあることが明らかになっています。また、私たちが理解しておかなければならないことは、インクルーシブ教育は単なる教育方法のことではなく、ある信条に支えられた「思想」とか「文化」のことを指しているのです。

 実は、インクルーシブ教育には各国共通の定義というものが存在しません。アメリカでは「最も制約の少ない環境 (Least Restrictive Environment、以下LRE)」と表現されます。他方1980年代以降インクルーシブ教育が発展したイタリアでは「すべての生徒が歓迎される環境」と定義されています。どのような定義にも、「生徒たちは彼らの障がいや特性に関わらず、学年に応じた教育が受けられるべき」であり、「教育関係者のバイアスによってそれらが阻まれるべきではない」という信条が込められています。

 アメリカの特別支援教育は、この「インクルーシブ教育の文化」がベースとなっています。このベースにより、障がいのある生徒たちは可能な限り、障がいのない生徒たちと一緒に過ごすことができるように考えられています。学校はもちろん、大学でもそうです。先日のアメリカの海軍大学の卒業式で車椅子の学生が、満場の拍手を受けて証書を貰っていました。また、日本においても、生徒や保護者に限らず学校教育に関わるすべての人々が上記の信条を共有していくことが、「インクルーシブ教育への転換」に必要な条件なのです。

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学生ビザ(F-1)取得の新規受け付けを一時停止

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アメリカの政治専門サイト「ポリティコ」(Politics, Policy, Political News: POLITICO) は5月27日、トランプ政権が各国の大使館などに対して、合衆国内の大学への留学を希望する人たちの学生ビザ(visa) 取得に向けた新規受け付けを一時停止するよう指示したと報じました。この対象となるのは、一般的な学生向けの「F-1ビザ」と語学研修などの「Jビザ」と伝えています。「面接予約の停止は追って案内があるまで続く」と発表しています。ただし、すでに受け付けた面接予約はそのまま進めてよいとしています。

 合衆国の大学は8~9月にかけて新年度が始まります。留学希望者は今の時期からビザ申請を本格化させるのです。CNNテレビは「タイミングは偶然ではない。収入を留学生に頼る多くの大学に打撃を与えるためだ」との専門家の意見が伝えられています。トランプ政権は、反ユダヤ主義的な投稿を行ったり、親パレスチナの抗議活動に参加したりした学生のビザを取り消すなど、締め付けを強めています。ルビオ(Marco A. Rubio)国務長官も「ビザは固有の権利ではなく、与えられた特典だ」と述べ、審査を厳格化する考えを表明しています。5月20日の上院公聴会では、彼は現政権発足後に300件以上の学生ビザなどを取り消したと明らかにしています。

F-1 Visa

CNNニュースによりますと、トランプ大統領は5月28日にハーヴァード大学(Harvard University) は受け入れる留学生の数に上限を設け、割合を15%程度にすべきとの考えを示しました。ホワイトハウスで記者団に「ハーヴァード大学などに進学したいアメリカの学生の中には、外国人留学生がいるために入れない者がいる」などと述べ、「留学生の受け入れ上限を設け、31%ではなく15%程度にすべき」と主張しています。ハーヴァード大学によると、2024年度の全学生に占める留学生の割合は27.2%と発表しています。

 全米の大学にいる海外留学生は110万人で、そのうち中国人留学生は27万7,000人で25%を占めます。インド人留学生の次いで2番目にあたります。トランプは、28日にハーヴァード大学の中国人留学生の受け入れ資格認定を取り消すと発表しました。トランプ政権とハーヴァード大学はこのところ対立を深めています。留学生の行動についての全記録の提出や多様性に関する監査の許可などの要求を同大学がほぼ拒否したことから、政権は報復的な措置を取っています。

 こうしたトランプ政権とハーヴァード大学などとの対立を受けてか、京都大学は5月27日、トランプ政権によるハーバード大学の留学生受け入れの停止措置を受け、同大学で学べない留学生が出る事態になった場合、学生らを受け入れる方針を明らかにしました。東京大学もハーヴァード大学で学べない留学生が出るような場合、一時的に受け入れる方向で検討していることが分かりました。「ハーヴァード大学の学生に限らず、他の大学の学生でも、国籍などに関わらず、困難な状況にある若者に学びを継続できるように貢献していきたい」とコメントしています。文部科学省がこの日、各大学に出した留学生の受け入れの検討を求める依頼を受け、「アメリカの大学に在籍する留学生を受け入れるために、具体的な検討を始めている」としています。日本学生支援機構にアメリカ留学中の学生らを対象にした相談窓口を設けることも明らかにしました。若手の研究者の受け入れについても準備を始めています。

 大阪大学も5月28日、トランプ米政権によるハーヴァード大学の留学生受け入れの停止措置などを受け、アメリカ国内での学業や研究が困難になった留学生や研究者を、一時的に受け入れる方針を発表しました。渡航に必要な手続きの支援や学費の免除など、具体的な支援策を検討しているのだそうです。同大学院医学系研究科は独自に6億~10億円の財源を確保し、国籍を問わず最大約100人の研究者を受け入れる体制を整える方針と発表しています。同医学系研究科長は「世界中から優秀な研究者が集まるアメリカでいま大変なことが起きている。素晴らしい研究が継続できないことは人類全体の損失と言える。支援は未来の学術的・国際的発展のため大切なこと。安心して最先端研究に取り組める環境を提供します。」などのコメントを発表しました。関西大学も同日、合衆国内の大学に在籍する留学生や研究者を出身国に関係なく受け入れる方針を明らかにしています。

  果たして京都大学、東京大学、大阪大学などの留学生受け入れ用意は、首尾良く展開するかは見守る必要がありそうです。

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教育省を停止または廃止できるか

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 以前、この欄で「大統領令と連邦教育省の閉鎖」という話題を取り上げました。このようにトランプ政権やその他の保守派政治家が「アメリカ連邦教育省(Department of Education)の廃止」を謳っていますが、結論からいえば大統領が単独で教育省を廃止することはできません。これは、連邦議会(Congress) の承認が必須だからです。連邦教育省は、1979年に制定された連邦法(Department of Education Organization Act)に基づいて設立されました。この法律を変更または撤廃しない限り、教育省を廃止することはできません。教育省の設立は法律に基づくものであることです。教育省を廃止するには、以下のようなプロセスが必要です。

 下院か上院の議員が教育省廃止の法案を提出をします。もし上下両院で可決されるとします。それを大統領が署名すれば廃止が決まります。しかし、議会が廃止の法案を否決するとします。それに対して大統領が拒否権を発動することも考えられます。その場合、議会が再可決することによって大統領の拒否権を覆すことができます。このことによって教育省は存続することになります。このように、教育省の廃止は立法プロセスを経なければならず、議会の多数派の支持がなければ実現は不可能です。ただし、大統領は連邦政府の予算案に影響力を持っており、教育省の予算を大幅に削ることで、機能を弱体化させるという戦略は理論的には可能です。しかしこれも、最終的には議会が予算案を承認しなければならず、やはり議会の支持が不可欠です。

 過去にも教育省の廃止が議論されたことはあります。レーガン政権と第一トランプ政権のときです。ですが実際に廃止されたことは一度もなく、政治的にも現実的ではないと広く考えられています。教育は州の権限が強い分野ではありますが、連邦政府が教育支援や規制、例えば特別支援教育、タイトルIX(Title IX)、学生ローンなどに果たす役割も多く、完全廃止は非常に困難です。

 特別支援教育の分野でに有名な立法は「障がい者教育法 (Individuals with Disabilities Education Act: DEA)」です。通称、「Public Law 94-142」といわれています。障がいのある生徒一人ひとりのニーズを満たすために特別にデザインされた教育で、無償で提供されています。次にタイトルIXとは、1972年に制定されたアメリカの連邦法で、連邦政府から財政援助を受ける教育機関における性別に基づく差別を禁止するものです。具体的には、教育プログラムや活動への参加を性別を理由に排除したり、その恩恵を拒否されたり、差別を受けたりすることを禁じています。

 連邦政府が提供する学生ローンは「Direct Loan」と呼ばれています。大学などの高等教育の学費を賄うために学生自身や保護者が借り入れるローンです。奨学金と異なり将来返済義務があります。2023年9月に新型コロナのパンデミック(pandemic)の影響を受けた学生たちを救済するため3年前にトランプ政権が始め、バイデン政権が継続してきた連邦学生ローンの返済猶予(repayment deferment)が終了しました。これにより3年間学生ローンの元金と利息の返済を猶予されてきた学生たちの返済が再開されたが、返済が出来ない学生が続出し大きなニュースとなっています。

 結論としては、トランプ大統領が教育省を廃止すると宣言しても、実現には連邦議会の承認が必要です。大統領単独では法的に廃止できません。

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「日本の財政はギリシャよりもよろしくない」

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2025年5月19日の参議院予算委員会でで、石破茂首相が答弁した内容が物議を醸しています。国民民主党議員が「財政的な制約があるから減税を躊躇しているのか? 減税して消費を増やすべきだ。」と迫ったのに対し、首相は次のように答弁しました。

日本銀行

金利がある世界の恐ろしさをよく認識する必要がある。日本の財政状況は間違いなく極めてよろしくない。ギリシャよりもよろしくない状況だ。税収は増えているが、社会保障費も増えている。減税して財源を国債で賄うとの考えには賛同できない。

 消費税率引き下げの是非を巡る議論の中で、減税に反対する文脈で出た発言のようです。しかし、この答弁の内容のタイミングが問題です。現在日銀は長年の金融緩和を巻き戻そうと国債買い入れを段階的に縮小しようとしています。市場参加者がすでに金利上昇に神経質になっています。こうした理由で、首相の答弁は日本の財政問題を再び論点とする結果となっています。「金利がある世界の恐ろしさ」というのは、国債の利回り(金利)懸念しているようです。日本国債の大半は国内で保有され、日銀、銀行、保険会社、年金基金などが購入しています。外国勢は6.4%でしかありません。ユーロ建て国債の大半を外国人投資家が保有し、債務不履行になったギリシャとは事情が違います。

 石破首相は減税を求める世論を翻意させるつもりだったようです。つまり消費税の減税による福祉や教育など公共サービスなどをどのような財源で補うのかという問いに関連しています。しかし、公共サービスの削減には耐えられない国民に向けて語るには、あまりに無責任な発言です。この発言は、風説の流布や偽計、相場操縦などの不正取引を禁止する金融商品取引法第158条に違反するのではないかという専門家の指摘があります。こうした首相の発言は国際問題にも発展しかけないのです。海外メディアも少々騒ぎ出し金融市場が揺れたようです。

 日本とギリシャの財政事情の共通点は債務の大きさです。経済協力開発機構(Organisation for Economic Co-operation and Development: OECD)によれば、日本の債務は国内総生産(gross domestic product: GDP)の240%相当といわれます。ですが日本はドイツに次ぐ債権国で、資産から負債を引くと、対外純資産は543兆500億円となっています。総資産は1京3288兆円であり、政府の純資産は潤沢なのです。現在の日本国債が抱える問題は、需要と供給の不均衡にあります。財政投資が少ないために増税によって政策経費を賄おうとし、資金が市場に出回らず、個人の所得も増えないのです。政府の財政状況は、貸借対照表の資産と負債との対比で把握すべきなのですが、首相のように国債とGDPとの対比だけで説明するのは間違いなのです。国際通貨基金(IMF)の資料では、日本の財政状況を資産と負債でみれば、G7の中で2番目に良いと発表されています。ちなみに貸借対照表から見える財政状況が最も良い国はカナダ、次に日本、ドイツ、アメリカと続きます。

為替の変動

 石破首相のような不用意な発言は以前にもありました。2010年、当時の菅直人首相も同様にギリシャ型の財政危機に言及し、増税を呼びかけたことで国民に衝撃を与えました。そして、ギリシャの財政状況は今や大きく改善され、ムーディーズ(Moody’s Corporation) は2025年3月にギリシャを投資適格級に格上げしています。ムーディーズとは2大格付け会社の一つで、企業や債券などの信用力を調査し、信用格付けを行っています。仮に首相がユーロ圏危機時のギリシャを念頭に置いていたとしても、その比較自体が誤りであることに変わりはありません。

 石破首相の不用意な発言は国債利回りへの圧力を強め、介入を現実味あるものにするかもしれません。アメリカの信用格付けがムーディーズ によってまたも格下げされかもしれないのです。ムーディーズによる日本国債の格下げは2011年8月と2014年12月に行われています。財務省はこうしたムーディーズの日本国債の格下げは根拠を欠くとして、以下のような意見書で反論しています。

 ・マクロ的に見れば、日本は世界最大の貯蓄超過国である。
 ・国債はほとんど国内で極めて低金利で安定的に消化されている。
 ・日本は世界最大の経常黒字国、債権国であり、外貨準備も世界最高である。

 こうした日本の財政状況にも係わらず、今回の首相の不用意な発言は国債利回りへの圧力を強め、介入を現実味あるものにしてしまっています。首相の資質と識見を欠く日本の財政状況の発言は、トップリーダーとして失格といわなければなりません。

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Memorial Day

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アメリカの最も大事な記念日であり祝日の一つが「Memorial Day」です。戦没将兵追悼記念日といわれています。今年のMemorial Dayは、5月の最終月曜日の26日でした。アメリカのために命を捧げた軍人・軍属を追悼する日です。20世紀では戦没将兵は、第二次大戦、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、アフガン戦争で命を落としました。この日はアメリカ全土で国旗が半旗に掲げられ、軍人墓地や公園では追悼式典やセレモニーが行われました。各地ではパレードが開催され、退役軍人(veterans)やその家族が中心となって、国のために尽くした人々への感謝と敬意を表します。最も盛大なパレードはニューヨーク市のブルックリン(Brooklyn)で、毎年開催されます。1867年以来続き、これをアメリカ最古のパレードといわれています。

無名戦没者の碑

 2000年に連邦議会は国民追悼の法(National Moment of Remembrance Act)を可決し、午後3時に立ち止まって追悼するよう人々に呼びかけました。Memorial Dayの日には、国旗が掲揚され、正午まで厳粛に半旗に下げられます。その後、その日の残りの時間は全譜面に掲げられます。国立メモリアルデー・コンサートNational Memorial Day Concert は、合衆国議会議事堂(Capitol)の西芝生で開催されます。これは必見ものです。是非クリックして楽しんでください。

 街の通り沿いにや家には星条旗が掲げられ、商業施設の広告にも「Memorial Day Sale」の文字が見えます。報道では、退役軍人のインタビューや追悼関連の特集が組まれます。「Remember and Honor(戦没将兵を忘れず敬意を表しよう)」というメッセージが多く見られます。このようにアメリカでは、戦没者の追悼が社会的に“見える形”で行われます。日本とは違い、軍服を着た人が日常に溶け込んでいます。さらに退役軍人が地域のヒーローのように扱われます。学校でも子どもたちは、国旗の意味や国家への忠誠心を学んでいます。小学生から国歌を教えられます。

メモリアルデー・コンサート

 我が国には「終戦記念日」があります。静かに追悼を行う日という印象が強いです。全国的に大きく盛り上がることはありません。その理由は敗戦という歴史のためと思われ、Memorial Dayとは違った響きや内容がとなっています。沖縄には「慰霊の日」があります。沖縄戦での日本軍の組織的な戦闘が終わったとされるためです。「慰霊の日」と「Memorial Day」の違いは、国家に尽くした個人への敬意を表す日ではなく、主に沖縄の庶民や軍属の戦没者に特化した祈りの日であることです。

 Memorial Dayは他方で、アメリカでは夏の始まりを告げる祝日でもあります。家族親戚が集まってバーベキューを楽しむ「家族で過ごす週末」としての意味合いも強いです。この「国のために戦った人への敬意」と「家族や日常の自由を大切にすること」が同居しています。「祈り」と「自由を楽しむ」ことが矛盾ではなく、「自由には代償がある」という歴史的な意識が根付いているのかもしれません。

 アメリカの社会学者のロバート・ベラ(Robert Bellah)は、合衆国には、いかなる宗教宗派や見解にも属さない世俗的な「市民宗教」(civil religion) があり、それがMemorial Dayを特別な行事として取り入れていると解釈します。その源は南北戦争で、それを契機に、死や犠牲、そして再生という新たなテーマが市民宗教に加わったというのです。Memorial Dayはこれらのテーマを儀式的に表現し、人の生と死の動機が国家目標の達成と一致するようにしたのがMemorial Dayのようです。

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日本のポスドク研究者の現状

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ポスドク(Postdoctoral Researcher)とは、大学院博士後期課程の修了後に就く、任期付きの研究職のことを指します。ポスドク研究員とも呼ばれます。日本では、1990年代から始まった「大学院重点化政策」を起点として、博士課程を修了した人材が増加しますが、フルタイム職は増えず、大学院修了後のキャリアパスに問題が生じています。以前であれば、修了後そのまま大学で助手などとして採用され、准教授・教授となることができました。現在では、修了後にポスドクの期間を経たのち、大学教員などとして採用されるのが一般的です。

 このポスドクは多くの問題を抱えています。その最たるものは、期限付き雇用で不安定であるという点です。博士後期課程修了後のキャリア形成過程では避けて通れないポスドクの仕事内容や給与、そしてこの制度や職種が抱えている問題はいろいろあります。現実にはポスドクの期間を数年で終えられず、長期にわたり続けざるをえない状況もあります。このポスドク問題の原因は、1990年代の大学院重点化以降、博士修了者の増加に対して正規職の増加が追い付かなかったところにあるとされています。

 学術研究の道を選んだ多くの博士後期課程修了者が経験するのがポスドクですが。この研究職は、期限付きであるという点に注意が必要です。大学の教授や准教授や一部の助教は、正規職ですが、ポスドクは、1年~5年程度の任期が定められています。稀に、任期が延長される場合はありますが、この任期のうちに一定の研究業績をあげることが求められます。さらに、任期終了前に大学や研究機関の正規職や他のポスドクを探すことを強いられます。

 2019年度の「ポストドクター等の雇用・進路に関する調査」によりますと、ポスドク15,591名のうち、ポスドク後の進路先として、大学教員などへ転出した事例は1,360名(8.7%)、大学以外の研究開発職への転出事例は435名(2.7%)となっています。多くのポスドクは、不安定な職から転出できていないことを示しています。

 ポスドクは任期が決まっているという不安定な中で、一定の成果をあげる必要があります、正規職を含めた職探しも並行する必要がある、という緊張を抱えながらの研究となります。パートタイムのポスドクの場合、年収は100~300万円台で、週あたりの勤務日数や勤務時間が短いため、月に数万円程度になることさえあります。追加で非常勤講師の仕事を複数の大学で掛け持ちをしたとしても、研究時間を確保しながらでは収入は少なめで、勤務が短いので社会保険も適用されないことが多いでしょう。

 フルタイム雇用のポスドクの給料は、年収400万円~600万円程度で社会保険もあります。ですが任期期間中に研究成果を出し、正規職を探す必要があることから、不安定な立場であることには違いありません。大学や研究機関におけるポスドクの例としては、研究活動が主な大学教員、大学独自のポスドク研究員制度、そして日本学術振興会の特別研究員があります。

 大型の研究費を持つ研究所や大学研究室では、研究費を利用した雇用も可能であり、科研費などによりポスドクとして雇用され、研究の推進や成果のとりまとめなどを行う場合もあります。プロジェクト推進のために雇用されることから、基本的にはプロジェクト内容に沿った研究を行うこととなります。

 ポスドク問題の原因は、大学院重点化以降の博士人材の増加に対し、ポストが増加しなかったことであると考えられています。他方で、海外ではポスドク問題というのは日本ほど大きな問題となっていません。この理由の1つとして、博士人材が民間企業などへも就職できている点が挙げられます。企業研究者に占める博士人材の割合は、オーストラリアの17.1%に対し、日本はたったの4.4%となっています。その結果、不安定なポスドク職にある優秀な日本人は海外に職を求める傾向があるのです。私もそうした日本人研究者を知っています。アメリカにはポスドクの協会(National Postdoctoral Association)があり、ポスドク同士の情報交換などで成果を上げています。

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ポスドク研究者と労働組合

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ポスドク研究者の二回目の話題です。ポスドク研究者の分布です。工学博士号取得者の85%は、最初はビジネス界や産業界に就職する可能性が高いといわれます。このように、博士課程の学生やポスドク研究者に非学術職に必要なスキルを提供することは、大学院や研究機関の重要な役割の一つともなっています。「アメリカの技術・教育・科学における卓越性に関する意味ある促進機会の創造法」、別名「アメリカCOMPETES法」は、学際的な履歴、選択した分野における深い知識、そして技術的、専門的、そして個人的なスキルを備えたアメリカの博士号取得科学者・技術者を教育するという使命のために作られます。

アメリカ国立科学財団エンブレム

 この法律は、国立科学財団(National Science Foundation: NSF)に対し、従来の学問分野の垣根を越えた共同研究のための豊かな環境の中で、大学院教育と研修の新たなモデルを確立し、資金を提供することを目的としています。また、学生の参加と準備における多様性を促進し、世界レベルで幅広い包摂性とグローバルな視点を持つ科学・工学系人材の育成に貢献することも目的としています。

 アメリカでは、1990年代半ば以降、生命科学および医科学分野への連邦政府の資金提供が増加したため、生命科学が他の分野よりも大きな割合を占めるようになっています。ある調査によると、ポスドク研究者の54%が生命科学を専攻し、物理科学、数学、工学を専攻した研究者は28%です。2010年には、一時ビザで滞在するポスドク研究者の割合は53.6%に達します。生命科学分野は、一時ビザで滞在するポスドク研究者の割合が最も高く、 2008年では生命科学分野のポスドク研究者の約56%は一時滞在者でした。これらの一時滞在ビザを持つポスドク研究者のうち、5人に4人はアメリカ以外で博士号を取得しています。

 こうした実情から、外国人博士号取得者がアメリカの研究者のポスドク研究のポストを奪っているのではないかという懸念が出されています。外国人博士号取得者の流入は、即戦力となる研究者の供給、ひいては賃金に影響を与えています。ある推計では、外国人ポスドク研究者の供給が10%増加すると、そのポジションの賃金は3~4%低下するという報告もあるほどです。

 2010年、カリフォルニア州のポスドク研究者は、差別やセクハラの疑いがある場合に、正式な苦情処理手続きを通じて苦情を申し立てる権利など、より良い労働条件を確保するため、「UAW Local 5810」という労働組合を結成します。カリフォルニア州では、新規ポスドクは少なくともアメリカ国立衛生研究所(National Institutes of Health: NIH)のポスドク最低賃金(2019年時点で5万ドル)を受け取り、多くのポスドクはNIHのガイドラインにそって年間5%から7%以上の昇給を受けています。

アメリカ国立衛生研究所

 2014年、ボストンのポスドク研究者は、若手研究者の視点から生物医学研究の現状に関する課題のために、「研究の未来」シンポジウムを開催しました。会議には、科学事業に関心を持つ学者とのパネルディスカッション、マサチューセッツ州選出のエリザベス・ウォレン(Elizabeth Warren)上院議員からのビデオメッセージ、トレーニング、資金調達、生物医学労働力の構造、白書の推奨事項を作成するために使用された科学における指標とインセンティブについてのワークショップが含まれていました。 この会議は、ニューヨーク大学(NYU)やシカゴ、サンフランシスコに広がり、ボストンでの2回目の会議では、データ収集、労働経済学、科学への変化を推進するための証拠に基づく政策や若手研究者の将来について議論されたといわれます。

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ポスドク研究者

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本稿は、アメリカにおける博士号(Ph.D.)取得後に任期制の職に就く研究者、ポスドク(post doctoral=ポスト・ドクトラル) の話題です。ポスドクとは、自らのキャリアパスを追求するために必要な専門スキルを習得することを目的として、指導教官の下で研究または学術研修に従事する者を指します。このような研究者の正式な職名は「Postdoctoral Researcher」と呼ばれています。「博士後研究員」と訳されることもあります。ポスドク研究者は、アメリカにおける大学院研究活動を牽引する上で重要な役割を果たしています。

 ポスドクとしての主な研究職の役割は次のようなものです。
1 研究のデザインと実施:自身の研究プロジェクトを立ち上げ、実験を設計し、データを収集・分析します。
2 論文執筆: 研究結果を発表するための学術論文や資金申請書を作成します。
3 指導と共同作業:大学院生やジュニア研究者への指導を行います。
4 人的ネットワークの構築:学会での発表や国際的な研究協力を通じて自身の専門分野での人脈を広げます。

ポスドク研究者の分布(US)

 研究中心の大学や研究機関では、終身在職権(テニュア= tenure)の職を得るために、ポスドク研究が必須となる場合があります。従来は任意であったポスドクの経験は、学術界における終身在職権の競争が過去数十年で著しく激化したため、一部の分野では必須となっています。その理由は、ポスドク研究者の増加に比べて学術界における専門職の供給が少ないためです。それ故、終身在職権を得ることは困難となっています。2008年には、博士号取得後5年以内に終身在職権または終身在職権トラック(tenure track)のポジションを得たポスドク研究者の割合は約39%といわれます。2003年時点ではポスドク研究者の約10%が40歳以上であるという統計もあります。

 ポスドクの期間は通常、特定の研究プロジェクトに取り組みながら、独立した研究者としてのスキルを磨くための重要な段階となります。ポスドクは、学界や研究機関でのキャリアパスを追求する上で次のような経験を積む機会となります。 .
1 専門的スキルの向上: 特定の分野における専門性を深め、独立した研究者としての地位を確立することができます。
2 キャリアアップの機会:ポスドクの経験は、教員職や研究職への道を拓くための登竜門となります。
3 研究資金の獲得:ポスドクの間に研究資金を獲得する能力を高め、将来の研究に向けた財源を獲得します。

 ポスドクのポジションは通常2〜4年であり、契約状況や資金の状況によって異なります。また、Wikipediaによれば、ポスドクの給与も地域や研究機関によって異なり、博士号取得後1~5年におけるポスドク研究者の年収中央値は42,000ドル(588万円)で、終身在職権(テニュア= tenure)を持つポストの平均年収75,000ドル(1,050万円)より44%低い水準です。ポスドクは、博士号取得後のキャリアパスにおいて、専門的なスキルやネットワークを構築するための重要なステップとなっています。

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トランプのハーヴァード大学への締め付けと影響

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今アメリカの大学は夏休み。そこに降ってわいたようなニュースです。数カ月後に授業が始まるまで、入学が許可された海外からの新入生や留学生は、トランプ政権によって「留学生受け入れ資格を取り消されるかもしれない」という事態です。特に、ハーヴァード大学はその騒ぎの渦中にあります。ハーヴァード大学に在籍する留学生は約6,800人。在学中の留学生は転校しなければ、アメリカでの滞在資格を失うかもしれないようです。それに対してハーヴァード大学は5月22日に国土安全保障省(Department of Homeland Security)が出したビザの剥奪?という措置が合衆国憲法修正第1条および適正手続きの権利などを侵害しているとして、マサチューセッツ州の連邦地方裁判所(連邦地裁)に訴状を提出しました。

ハーヴァード大学

 今回のトランプ政権の外国人留学生に対する発表は、2020年に「オンライン授業のみの大学に在籍する留学生は、ビザの維持ができず、アメリカから出国しなければならない」というトランプ政権の方針に関連しています。これはCOVID-19によるパンデミック下での対応でしたが、ハーヴァード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)が提訴し、連邦地裁が一時差し止めの判断を下したという経緯があります。

 日本からの留学生約100人を含め、留学生が約6,800人もいるハーヴァード大学にとって彼らの授業料は、重要な資金源となっているはずです。どの大学も留学生を積極的に受け入れる理由は、多額の授業料収入と優秀な学生を集めたいからです。トランプ政権はその収入源を絶とうとしています。税制上の優遇措置を中止するとも発表しています。それにもまして、ハーヴァード大学をはじめとする大学が「留学生受け入れ資格を取り消される」という事態が起きた場合、頭脳流出(brain drain)が起こる可能性は非常に高いといえます。このような頭脳の流出は、他の英語圏のエリート大学には優位性を与えることになります。

ハーヴァード大学図書館

 少し遡って4月14日にトランプ政権は、ハーヴァード大学に対して、多様性重視のプログラム(Diversity, Equity & Inclusion:DEI)の廃止を迫っています。これは、ハーヴァード大学やコロンビア大学の多様性を重視した学生選抜、反ユダヤ主義の活動に関与した学生への処分を求め「学生・交流訪問者プログラム」(Student and Exchange Visitor Program)の認定の取り消しを伝えるのです。すでに130以上の大学で1,000人以上の留学生のビザが取り消しにあっているという報道もあります。

 ハーヴァード大学の研究に対する政権の圧力は酷いものがあります。ハーヴァード大学に対して、トランプは22億ドル(3,200億円)の助成金を凍結し、マサチューセッツ州の医療研究向けの助成金10億ドル(1,400億円)の差し止めも検討しています。科学誌ネーチャー(Nataure)によりますと、研究プロジェクトが停止されれば、研究者の約1,600人の75%が海外への移動を考えているとあります。さらにアメリカ航空宇宙局(NASA)に対して研究予算の半減を提示しています。海洋大気庁 (National Oceanic and Atmospheric Administration: NOAA)の職員を20%削減する計画も発表されています。そうした事情を背景としてか、ヨーロッパ連合(EU)の委員長を務めているウルズラ・フォンデアライエン(Ursula von der Leyen)は、5億ユーロ(8億1,000万円)という科学者を招聘するパッケージを発表しています。アメリカの有名大学などで働く研究者を招こうという意図です。

ハーヴァード大学の収入
ハーヴァード大学医学部

 アメリカの大学には、世界中から優秀な学生が集まっています。ハーヴァード大学のような大学では、博士課程や研究職に進む留学生も多く、科学技術・医学・経済などの分野で将来有望な人材が多数含まれています。アメリア人のノーベル受賞者の4割は外国移民です。滞在資格が剥奪されれば、彼らは母国か他国、例えばカナダ、イギリス、ドイツなどへ移るでしょう。頭脳流出によるアメリカの研究・技術革新への影響は甚大です。多くのイノベーションやスタートアップは、留学生を含む研究者やエンジニアによって支えられているのです。

 特にSTEM分野(科学・技術・工学・数学)では大学院留学生の存在は欠かせません。彼らがアメリカを去れば、研究開発力の低下や経済競争力の喪失につながります。トランプはこのような現状について一体なにを考えているのかと疑いたくなります、ハーヴァード大学には日本人研究者はおよそ150人が働いています。私の息子もかつてここでポスドクとして3年間働いていました。彼らも日本の硬直した運営組織である大学や研究機関ではなく、海外の研究機関を選ぶと考えられます。 多くの中国人家庭でさえ、子弟をイギリスや香港を進学先として検討し始めているようです。ただ中国の最も裕福な家庭は、他よりもアメリカの大学教育が依然として超富裕層への一定の引力や影響力を持っているといわれています。

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ドイツ語の旅 その8 「恋人」や「愛」

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北海道大学男声合唱団は好んで「恋人」や「愛」を取り上げた曲を歌いました。「恋人」や「愛」に関する曲はドイツロマン主義音楽に共通したモチーフのようです。特に18世紀後半から19世紀初頭にかけて確立し、ロマン派時代に興隆を迎えたといわれます。こうした曲の歌詞はドイツ語を学ぶ者には格好の材料となります。ドイツ語特有の品詞の変化が見られるからです。名詞には男性、女性、中性の3種があり、定冠詞もそれに対応して変化します。動詞も現在不定詞、過去原形、過去分詞という三つの基本形があります。ここで紹介する「Warum bist du so ferne? 」(どうしてあなたは、遠くにいるの?)という曲は、ドイツ語文法の基本となる好例です。それについて紹介します。

ドイツロマン主義の文豪

 曲の歌詞はもちろん詩ですから、短縮形や倒置法が使われています。「O mein Lieb! 」がその例です。「Sterne」は星で女性名詞です。「Mond」は月で男性名詞、「Mondenschein」は月の光で、こちらも男性名詞です。3格なので、「dem Mondenscheine」と表記されています。「lieb 」はもともとliebは愛しいとか大好きなという意味です。名詞化されて使われて「愛しい人」という意味で使われています。名詞化された形容詞は頭文字を大文字化します。比較級は lieber, 最上級は am liebstenとなります。

「süße」は甘いとか甘美な、という形容詞です。英語と同様にドイツ語の形容詞は述語になる場合と名詞の前に置かれて付加語となります。形容詞は不定冠詞と同じように変化します。男性名詞の単数の変化をみます。「Knabe」は子どもとか童という単語ですが、guter Knabe, gutes Knaben, gutem Knaben, guten Knabenという具合です。女性名詞の単数「Frauは妻という意味ですが、その変化は、gute Frau, guter Frau, guter Frau, gute Frau となります。「warum」とは何故、という疑問詞です。

Warum bist du so ferne? どうしてあなたは、遠くにいるの」という曲の歌詞です。

Warum bist du so ferne? どうしてあなたは、遠くにいるの
O mein Lieb!  私の愛しい人よ
Es leuchten mild die Sterne あなたは星のように輝いて
O mein Lieb!  わたしの愛しい人よ
Der Mond will schon sich neigen  月はすでに傾いて
In seinem stillen Reigen.  静かに回っている
Gute Nacht, mein süßes Lieb, おやすみ、甘美な愛しい人よ
O mein Lieb! 私の愛しい人よ

Es rauschen sanft die Wogen 波は柔らかく寄せてくる
O mein Lieb!  私の愛しい人よ
Gleich ihnen fortgezogen,  波は遠ざかっていく 
Bist du Lieb!  あなたは愛そのもの
Ich wandle stumm im Haine  私は木立のなかを静かに歩む
Und klag’s dem Mondenscheine.  そして月の光は訴えている
Gute Nacht, mein süßes Lieb!  おやすみ、甘美な愛しい人よ
O mein Lieb!  私の愛しい人よ

 このような詩は、ロマン主義の疾風怒濤(Sturm und Drang)期の作品としては、少々こそばゆい感じがしないでもありません。畏れ多いですがドイツ語の復習材料としては良いとしましょう。

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ドイツ語の旅 その7 冠詞の変化

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これから暫くドイツ語の文法をおさらいしていきます。品詞といえば名詞が代表でしょう。名詞に付随して性、数、格を表すのが冠詞です。他の品詞を名詞化する働きもあります。定冠詞、der は元来指示代名詞から生まれ、不定冠詞 ein は数詞から転化したものです。定冠詞は種属全体を表す普遍的用法で、不定冠詞は個々の事物を指示する個別的用法があります。以下その例です。 

普遍的用法:Der Mesch is sterblich. 人間は死ぬ存在である。 
    Ein Mensch lebt night ewig. 人間は永遠には生きない。
個別的用法:Dort liegt ein Buch. そこに本がある。
      Wem gehort das Haus? その家は誰のものか。

 定冠詞は次のように変化します。格はそれぞれ1格、2格、3格、4格があります。
  1格 der Vater  父は die Mutter 母は das Buch 本は
  2格 des Vaters 父  der Mutter 母の des Buch 本の
  3格 dem Vater 父に  der Mutter 母に dem Buch 本に
  4格 den Vater 父を  die Mutter 母を das Buch 本を

 冠詞の変化は、英語にはありません。英語にはthe, a,といった定冠詞と不定冠詞がありますが、、、ドイツ語の冠詞は格によって複雑に変化します。これがドイツ語の一つの特徴といえそうです。

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ドイツ語の旅 その6 反ユダヤ主義とナチズム

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ナチズム(Nationalsozialismus)やファシズム(Faschismus) の先駆はドイツの伝統的な右派・保守思想の影響を強く受け、国家主義・民族主義的な政権によって社会を全面的に統制しようとする思想・運動とされています。結束主義(ファシズム)や全体主義の一種で、特徴としては反共産主義、反マルクス主義、反民主主義、反自由主義、反個人主義、反議会主義、反資本主義、反ユダヤ主義(Anti-Semitism)ということです。その意味でナチズムは政治闘争用語です。こうした民族主義的な風潮はドイツ帝国時代から支配層と一般市民層の間に広く浸透していたようです。

Immanuel Kant

 イマヌエル・カントの思想には、啓蒙主義の影響が色濃く反映されていますが、カントはユダヤ教を「啓蒙の妨げ」と見なし、ユダヤ人の社会的な立場について否定的な意見を述べていたことが明らかになっています。特に、彼はユダヤ教を「商業的な宗教」として批判し、普遍的な道徳の発展に寄与しないと考えていたようです。このようにユダヤ教の宗教的な側面や社会的な影響について批判的な見解を持っていたと指摘されています。さらに「ユダヤ教は全人類をその共同体から締め出し、自分たちだけがエホバ(Jehovah)に選ばれた民だとして、他のすべての民を敵視し、その見返りに他のいかなる民からも敵視されたのである」とユダヤ教の選民思想についても批判しています。選民であるという感覚は、しばしば特定のイデオロギー運動と関連しています。

 反ユダヤ主義的な思想を持っていたとされる哲学者には、マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger) がいます。彼は1933年にナチス党に入党し、ナチス政権下で活動し、その思想が反ユダヤ主義的な側面を持つと批判されています。「ドイツ大学の自己主張」と題したフライブルク大学(Albert-Ludwigs-Universität Freiburg)の学長就任演説では、ナチスの理念を支持しナチスを賛美する演説を行い大学の改革も試みています。

Martin Heidegger

 「ドイツ国民に告ぐ(Reden an die deutsche Nation)」という有名な講演をしたのがヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)です。この講演では、フランス文化に対するドイツ国民文化の優秀さを説き、また、ドイツ国民の統一、ドイツ人の内的自由、商業上の独立を主張し、ドイツ国民精神を発揚しドイツの解放戦争を準備する力となったといわれます。彼の国家哲学には、ドイツ民族の独自性を強調する側面があり、後のナショナリズムの発展に影響を与えたとされています。フィヒテは「ユダヤ人から身を守るには、彼等のために約束の地を手に入れてやり、全員をそこに送り込むしかない」とも講演しています。この思想は後のドイツのナショナリズムに大きな影響を与えたとされます。政治学者の今野元は、著書「ドイツ・ナショナリズム:「普遍」対「固有」の二千年史」で 「ドイツ・ナショナリズムとは、ドイツへの帰属意識を前提に、ドイツ的なものの維持・発展を望む思想」と指摘しています。

 もう一人のドイツの哲学者にゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelがいます。彼の哲学も後のドイツ観念論に大きな影響を与えましす。ヘーゲルは国家を「理念の実現」と捉え、歴史を通じて国家が発展していくという思想を展開しました。一部の解釈では、これがナチズムの全体主義的な国家観に利用されたといわれます。ある解釈ではユダヤ人に対する否定的な見解が含まれていると指摘されています。

 終わりにカール・シュミット(Carl Schmitt) という20世紀の法哲学や政治哲学のことです。1933年からナチスに協力し、ナチスの反ユダヤ的な法学理論を支えナチス政権下で活動します。第二次世界大戦後に逮捕され、ニュルンベルク裁判(Nuremberg Military Tribunals)で尋問を受けますが不起訴となります。

 ナチズムを生んだのはドイツ観念論が直接影響したかどうかですが、一定の思想的土壌を提供した可能性があるようです。ヘーゲルの「国家の絶対性」という思想が、民族中心主義や権威主義を正当化する道具として解釈されたともいえます。ドイツ民族の精神的優越性を強調し、後の民族主義に影響を与えたのは否めません。西欧中心主義的気風が強いドイツでは、西欧、なかんずくドイツのものが「普遍」妥当性を持つのは当たり前だと考えられてきたふしがあります。

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