“構築された人物像”

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コロンブスを「自由の先駆者たる、アメリカ人の原型(The Prototype American)」という描写は、アメリカ人の抱く理想に合うよう作り上げられた姿であるとされます。歴史上の彼の実像とは似ても似つかないものでした。そこには搾取の影も、植民地支配に伴う残虐な行為の痕跡も、当時の社会や大多数のアメリカ人が恐れ嫌ったカトリック信仰の気配さえも描かれてはいませんでした。そこに描かれたのは、科学や個人主義といった啓蒙時代の価値観を体現し、先住民からもヨーロッパ人からも等しく愛されながら、腐敗した君主たちの犠牲となったコロンブスという「構築された」人物像でした。自由を象徴する輝かしいその姿は、見る者に向けて直接その光を放っていたとも考えられたのです。

 美術評論家のジョアンナ・スパンケ(Johanna Spanke) によれば、こうした経験がコロンブスとイタリア系移民との「象徴的な結びつき」を生み出すことにつながりました。この動きを大きく後押ししたのは、「コロンブスの騎士団(Knights of Columbus)」のような団体でした。アイルランド系アメリカ人の司祭によって設立されたこのローマ・カトリック系の互助組織は、イタリア系のカトリック移民を積極的に受け入れるとともに、連邦レベルでの「コロンブス・デイ」制定を求めて連邦議会への働きかけを行いました。

 合衆国全土で「コロンブス・デイ」を毎年公式に祝う動きが本格化したのは、1907年にコロラド州のジェシー・マクドナルド知事(Jessy McDonald) が同州で初めてこの日を祝うと宣言したことがきっかけでした。続いて1909年にはニューヨーク州がこれに倣い、1910年までには15の州がこのイタリア人探検家を称える記念日を毎年祝うようになっていきました。

 1934年には、フランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)大統領がコロンブス・デイを毎年祝うよう宣言を発しました。ただし、この時点では連邦の祝日とはされていませんでした。コロンブス・デイが正式な連邦の祝日となったのは1968年のことで、リンドン・ジョンソン(Lindon Johnson) 大統領が「統一月曜祝日法(Uniform Monday Holiday Act)」に署名したことによります。

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”名誉あるアメリカの英雄”

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「名誉あるアメリカの英雄であり、準建国の父(quasi-founding father)」とも記述されるコロンブスに関して、歴史家のマイケル・ハッテム(Michael Hattem)は次のように説明しています。「コロンブスはイングランドとのつながりがなかったため、イギリスからの歴史的な独立を主張しようとする人々にとって、極めて都合の良い『アメリカの発見者』となりました。また、コロンブスを称える祝賀行事は、新しいアメリカ共和国の起源となる物語を確立することで、国家としての深い歴史的背景を創り出すことにつながりました。」

 こうして、イタリア人探検家は、建国当初からアメリカ合衆国のあり方そのものに深く組み込まれることになりました。コロンブスという名前の継承です。ジョージ2世(George II)の勅許により設立されたキングス・カレッジ(King’s College)は1784年にコロンビア・カレッジ(Columbia College)、後のコロンビア大学(Columbia University)へと改称されました。その数年後には、サウスカロライナ州(South Carolina) の州都がコロンビア(Columbia)と名付けられました。

「ヘイル・コロンビア(Hail Columbia)」という歌は、1931年に「星条旗(The Star-Spangled Banner)」が正式な国歌となるまで、事実上の国歌として親しまれていました。1790年には、連邦政府の所在地が「コロンビア準州(Territory of Columbia)」と命名されました。現在は「コロンビア特別区(District of Columbia)」となり、その区域内にワシントン市(Washington D.C.)が建設されています。

(Wikipediaより引用)

 それからわずか1年後、コロンブスがバハマに上陸してから300周年にあたる10月12日、セント・タマニー協会(Society of St. Tammany) は、アメリカにおける最初期のコロンブス記念行事の一つを主催しました。そこでは祝宴や「コロンビア合衆国(United Columbian States)」への乾杯が行われたほか、内部から照明が当てられた高さ約4メートルの木製記念碑が設置され、「コロンビアの世紀」の到来が告げられました。スミソニアン国立アメリカ歴史博物館(Smithsonian’s National Museum of American History) の学芸員ティモシー・ウィンクル(Timothy Winkle) によれば、この記念碑はコロンブスを「自由の先駆者たる、アメリカ人の原型」として描いています。

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コロンブス・デイ 10月12日

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10月12日は奇しくも日本もアメリカも国の祝日となっています。日本ではスポーツの日、アメリカではコロンブス・デイとなっています。コロンブス・デイの起源や歴史を辿ると、この祝日については賛否両論があることがわかります。それには歴史の解釈や文化の相違が複雑に絡んでいるからです。Britannica事典やWikipediaを参照しながら、数回に渡りコロンブス・デイにまつわる議論を紹介します。





 1492年10月12日、イタリアの探検家クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus) とその船団は、伝説となったニーニャ号(Niña)、ピンタ号(Pinta)、サンタ・マリア号(Santa María) に乗ってバハマ(Bahamas)に上陸しました。アラゴン(Aragon)とカスティーリャ(Castile)王国の「カトリック両王」(Catholic Monarchs)であるフェルナンド2世(Ferdinand II)とイサベル1世(Isabella I) の支援を受けて航海したコロンブスは、表向きは財宝を求めてアジアへの航路を探していましたが、同時にキリスト教の布教やスペインによる植民地化も目指していました。コロンブスはその後さらに3回にわたってアメリカ大陸への航海を行いました。彼自身はそこをアジアの一部だと考えていました。それから数世紀を経た現在、彼を記念する祝日がいくつかの国で設けられています。

 18世紀後半、アメリカ人はコロンブスをある種の神話的な建国の英雄と見なすようになりました。1830年代までには、彼は「大胆不敵」「冒険心に富む」「革新的」といったアメリカの理想を体現する典型的な人物像として捉えられるようになっていました。19世紀から20世紀にかけては、移民たちが「移民としてのコロンブス」を自らの象徴として掲げ、連帯を深めました。

 クリストファー・コロンブスは「名誉あるアメリカの英雄であり、準建国の父」として知られている」とコロンブスの伝記作家フェリペ・フェルナンデス=アルメスト(Felipe Fernández-Armesto) は記述しています。しかし、アメリカ合衆国の人々には、スペインのために航海し、後に合衆国となる土地に足を踏み入れたことのないイタリア人探検家をなぜ称賛するのか、正確に説明するのは難しいと考える者がいます。

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導入に向けたステップ

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太陽光発電のためには、いくつかの点検事項があります。それは、屋上の状態確認と防水性能のチェックすることです。 直近の大規模修繕の時期や屋上防水の耐用年数を確認しなければなりません。防水工事の直前に設置すると二重の工事費用がかかるため、次回の防水工事のタイミングに合わせる必要があります。

(ホールエナジーより引用)

補助金の調査
 東京都や八王子市などの自治体では、集合住宅向け太陽光発電・蓄電池導入に対して補助金が出ている場合があります。補助金制度の利用で初期費用を大幅に抑えられます。

一括見積もり・事前シミュレーションの取得
 まずは複数の太陽光施工業者やPPA事業者に「39世帯・屋上図面」を提示し、設置可能枚数・年間の発電予測量・収支シミュレーションの作成を依頼することです。

 次に管理組合の総会で提案するための手順や比較表の作成の必要です。マンションの管理組合において、太陽光発電導入のような大きな検討事項をスムーズに決議し推進するためには、「いきなり総会で決議を目指すのではなく、アンケート調査や理事会での段階的な検討(調査報告・決議)を経て合意形成を図る」という手順が最も確実と思われます。

以下に、管理組合での推進手順です。
管理組合での提案・推進手順(4ステップ)
Step 1:  理事会への案件上程と「専門検討チーム」の立ち上げいきなり総会決議を目指さず、まずは理事会で検討を始めることです。
議題: 「屋上太陽光発電の導入に関する調査・検討の件」アクション: 管理会社(レーベンコミュニティ等)へ他マンションの事例ヒアリングや初期見積の取り寄せを依頼。必要に応じて理事会内に有志による検討班を設置します。
 
Step 2:  現状調査と概算シミュレーション(業者ヒアリング)複数の施工業者・PPA事業者から「39世帯規模・屋上図面」をもとにシミュレーションを取得します。チェック項目としては、屋上面積と設置可能容量という架台・パネル重量と屋上の耐荷重を検討するのです。さらに直近の防水工事予定や、次回防水時の架台脱着費用、そして自治体東京都や八王子市の補助金適用可否を調べます。

(エコ発より引用)

Step 3:  住民の意向把握するために、全戸アンケートの実施することです。理事会から全区分所有者へ「アンケート」を実施します。その目的は、住民の初期費用の持ち出し、災害対応への関心、防水への懸念などの懸念事項を事前に把握し、提案内容を絞り込むのです。

Step 4:  総会上程(決議または報告)
第1段階(意見集約総会): まずは「検討報告および今後の調査進捗」を通常総会または臨時総会で報告します。
第2段階(本決議): 確定したプラン・収支シミュレーション・管理規約との兼ね合いを整理し、普通過半数の賛成、または共用部の重大変更にあたる場合は4分の3以上の特別決議として上程します。

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太陽光発電の導入モデル

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二つの生成AIは、マンションにおける主な太陽光発電の導入・活用モデルとして次の3つを提案しています。それを紹介します。

  1. 共用部電力削減モデル
     このモデルは、最もシンプルで高実績だといわれています。マンションのエレベーター、共用灯、給水ポンプなどの共用部電力に太陽光発電を充てる方式です。このモデルの仕組みは、屋上に設置したパネルから共用部の分電盤に接続し、日中の共用部電気代を直接削減します。余った電気は売電するか、蓄電池に溜めます。

 このモデルのメリットは、配線工事がシンプルで初期費用・工事費を低く抑えられることです。39世帯規模でも屋上面積に対してエレベーターや給水等の電力需要のバランスが取りやすい。管理組合の電気代削減に直結し、修繕積立金の温存につながる可能性があります。

 デメリットもあります。それは各戸の専有部の電気代削減には直接還元されません。管理費・修繕積立金の改定抑制という形で間接還元されるのです。

  1. PPAモデル(電力販売契約モデル)
     このモデルは事業者が太陽光設備をマンション屋上に無料で設置し、所有してメンテナンスし、管理組合や居住者が発電した電気を買い取る方式です。

 このモデルは、メンテナンス費用はすべてPPA事業者が負担し、10年から15年程度の契約期間中、通常より安い単価で電気を購入し、契約満了後に設備が管理組合へ無償譲渡されるというものです。

 モデルのメリットは、管理組合の初期費用負担が0円であることです。 機器の不具合や修繕リスクを事業者が負うため、維持管理の手間がかかりません。(防災強化)

 デメリットもあります。屋上面積によっては、事業者が「採算が合わない」と判断して参入を見送る場合もありえます。 契約期間中の途中解約や撤去が難しいことです。さらに 発電した電力の基本は自家消費であり、余った電気の売電収入は得られません。

(朝日新聞より引用)
  1. 非常用電源重視モデル
     太陽光パネルに加え、産業用蓄電池(10〜30kWh程度)または自立運転コンセントをセットで導入する方式です。防災強化の一環となります。この仕組みは、普段は共用部の電気代削減に使いつつ、停電時には自動、または手動で非常用電源に切り替えます。

 メリットとしては、災害による停電時でも、給水ポンプやエレベーターの一時駆動、共用部の非常灯・スマホ充電用電源を確保できることです。マンションの防災性能や資産価値向上につながることです。

 デメリットとしては、蓄電池を導入する場合、初期費用が数百万円単位でかかるので、東京都や地方自治体からの補助金の活用が不可欠といわれます。

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太陽光発電計画はどうか

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私どもの住むマンションには、広い屋上があります。この屋上に注ぐ太陽光を利用するというのは、誰しも思いつくことです。今や新たな利点を有するエネルギー源等として近年利用が増加しており、Wikipediaによりますと、2024年時点では世界の新設発電所の9割以上が再生可能エネルギーを利用しているといわれています。

 燃料価格の上昇や再生可能エネルギー発電促進賦課金(再エネ賦課金)の変動により、電力会社から買う電気料金が高止まりしています。これまでは発電した電気を売ることが主流でしたが、現在は「自分で発電して自分で使う」ことで電気代を削減するという自衛策が注目されています。

(ソーラーパートナーズより引用)

 再エネ賦課金とは、太陽光や風力などの再生可能エネルギーを普及させるため、電力の買取りにかかる費用を電気使用量に応じて国民全体で広く負担する仕組みです。

 そこで太陽光発電の選択ですが、小規模世帯のマンションでの太陽光発電設置は、屋根面積や配線コスト、管理組合での合意形成のハードルに対して、「発電した電気をどのように活用し分配するか」のモデル選びが重要だといわれています。

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GDPデフレーターという指標

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前稿では物価上昇が名目GDPの伸びが大きい要因であることを述べました。その現象を具体的な数字で説明します。例えば、 昨年100個の商品を1個100円で生産 → 1万円、今年は生産量は100個のまま、価格だけ110円に上昇 → 1万1,000円なら、名目GDPは10%増えます。しかし、生産した商品の数量は100個→100個なので、実質的な経済活動は増えていません。現在の日本でもこれに近い現象があり、名目GDPの伸び率だけを見ると、日本経済の実態以上に「成長している」ように見える可能性があります。

 ただし、実質GDPも「ゼロ成長」ではありません。ここも重要です。2026年4~6月期は、実質GDPが前期比+0.4%で、プラス成長でした。さらに2025年度全体でも+0.9%です。したがって、現在の日本を非常に単純化すると、「物価が上昇している。その中で実際の生産・需要も少しずつ増えている。そのため名目GDPの伸びが実質GDPの伸びを大きく上回っている」と捉えると分かりやすいでしょう。

 もう一つ重要なのが「GDPデフレーター」という指標です。国内で生産されたすべての財やサービスの価格水準を示す、経済全体の包括的な物価指数です。名目GDPと実質GDPの差を見るうえで、GDPデフレーターが非常に役立ちます。GDP全体について「価格がどれくらい変化したか」を見る指標です。式としては〔名目GDP ÷ 実質GDP = GDPデフレーター〕となります。目安は100基準として、100より上の場合は 基準年と比べて物価が上昇(インフレーション)している状態となります。したがって現在の日本経済を見るときは、名目GDP → 経済を金額で見た規模、実質GDP → 物価を除いた経済活動の変化、GDPデフレーター → GDPに含まれる価格変化という3つをセットで見ると、かなり理解しやすくなります。

(読売新聞より引用)

 特に現在の日本では、「名目GDPが伸びている=国民の生活がそれだけ豊かになっている」とは限らない、という点が重要です。物価も上がっているため、家計の実感を見るには、実質賃金や実質所得、1人当たりGDPなども併せて見る必要があります。次に、「では、なぜ日本では名目GDPが大きく伸びているのに、生活が豊かになった感じがしないのか?」です。それは、現在の日本では、企業や経済全体が生み出す「円ベースの金額」は増えているが、家計が使えるお金の実質的な購買力が、それに追いついていないからです。

 4.3%という名目GDPの伸びのかなりの部分は、物価上昇による金額の膨張です。これは、「日本で作られるモノやサービスの量が4.3%増えた」という意味ではありません。実際の生産活動の増加を物価変動から切り離して見ると、+0.9%程度です。

 一方、家計は「GDP」ではなく「購買力」で生活するのです。例えば給料が、30万円 → 31万円になれば、名目では3.3%増えています。ところが物価が5%上がっていたら、給料は増えたのに、買えるものはむしろ減っているということが起こります。これが「給料は上がったのに生活が楽になった感じがしない」という現象です。そして日本では「実質賃金」が鍵になるということです。生活水準を考えるなら、GDPよりもむしろ、〔実質賃金 ≒ 名目賃金 ÷ 物価〕という式を見ることが重要です。厚生労働省の分析でも、物価上昇の影響を受け、2024年の実質賃金は前年比0.3%減で、3年連続の減少でした。

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名目GDPと実質GDPの違い

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今日、名目GDPと実質GDPという二つの用語がしばしば報道されているのは、GDPという指標が重要であるからです。この二つの違いを知ることは、一国の経済活動の大きさや成長を測ることが理解できることです。

 名目GDPの基本意味ですが、一定期間内に国内で生み出された「儲け」や付加価値の合計です。その計算方法は、生産された数量に、その時の市場価格をかけて足し合わせます。詳しい世界ランキングの推移などは 世界の名目GDP国別ランキング・推移で示されています。

 次に実質GDPとは、物価の変動の影響を取り除き、実際のモノやサービスの生産量の変化だけを示します。実質GDPは「物価変動を取り除いて測った経済活動の規模」です。実質GDPは、基準となる価格を使って計算し、物価変動の影響を除いたもので、実際に生産量がどれだけ増えたかを見るのに適しています。例えば、生産量が同じでも物価が10%上がれば、名目GDPは約10%増えます。一方、実質GDPは基本的に変わりません。

(日経より引用)

 名目GDPは「その年の価格で測った経済規模」、生産されたモノ・サービスの「数量 × その時の価格」の合計となります。この式からわかることは、物価が上がるだけでも名目GDPは増えることです。つまり物価の変動がそのまま反映されます。物価が上がると、実際の経済規模が変わらなくても名目GDPの数値は大きくなります。名目GDPは、物価の変化を含むその時の価格で計算した経済の規模を示します。ここが実質GDPとの違いです。

 この二つのGDPが重視される理由は、GDPが一国の経済活動の大きさや成長を測る代表的な指標だからです。特に実質GDPは「経済が本当に成長しているのか」を判断する際に重要です。両方のGDPの使い分けとは、 経済の実際の状態を見るときは、実質GDPが重視され、名目GDPは実際の市場規模や国際比較などで使われます。ただし、GDPは国民の幸福度や生活の豊かさそのものを測る指標ではありません。

(日経より引用)

 現在の日本については、「名目GDPはかなり伸びている一方、実質GDPの伸びは小さい」というのが大きな特徴です。つまり、「お金で測った経済規模」は大きく増えているのに、「物価上昇を除いた実際の経済活動」の増加はかなり小さい、という状況です。2025年度の前年比名目GDPは+4.3% 実質GDPは+0.9%となっています。

 なぜ名目GDPの伸びが大きいのかです。大きな要因は物価上昇です。〔名目GDPの成長 ≒ 実質的な成長 + 物価上昇の影響〕という関係なので、実質GDP +0.9% + 物価要因 、これによって名目GDPは +4.3%となっているのです。これは、以前の日本で見られた「物価がほとんど上がらないため、名目GDPも伸びにくい」という状況とはかなり違います。では「日本経済が4%成長している」と考えてよいのか?ここが名目GDPと実質GDPを区別する重要なポイントです。

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損害賠償保険

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私たちは、公的保険の他にいくつかの私的な保険に入っています。健康保険、火災保険、自動車任意賠償保険です。昨年、私は心筋梗塞で生まれて初めて入院したとき、もちろん損害保険会社から保険金が支払われました。その額はそれまで支払ってきた保険料を下回っていました。自動車の接触事故を起こし、修理のために自己負担額も払いました。事故によって保険料は一段上がりました。掛け捨てという性質が保険制度ですからこれを受忍しています。

 損害保険会社の資産や保険料収入の規模を調べると、準備金の他に多額の国債などの金融資産を有していることがわかります。ですから個別の巨額支払いがあっても会社全体がすぐに傾くわけではありません。しかし、大規模な支払いの集中は、損害保険会社の財政状況や経営に深刻な影響を及ぼすこともうなずけます。その理由は、次のような損害保険ビジネスの構造とリスク管理の仕組みにあります。

「準備金」は自由に使える資産ではない: 
 保険会社が保有している巨額の資産や準備金は、将来の保険金支払いに備えて積立が法律で義務付けられている「責任準備金」や「支払備金」が大部分を占めます。負債としての準備金は資産(アセット)として運用されていますが、会計上は「将来必ず支払わなければならない負債」です。準備金の取り崩しリスクもあります。想定を超える大規模な事故や災害が発生し、準備金の想定を超えて賠償額が膨らむと、準備金を取り崩すだけでなく、純自己資本である資産を削ることになります。

(千葉県サイトより引用)

「大数の法則」と「大規模災害・集中リスク」: 
 損害保険は「大数の法則」に基づき、多くの契約者から集めた保険料で一部の事故の被害を補償する仕組みです。大数の法則とは、同じ試行や調査をたくさん繰り返すほど、得られた結果の平均値が本来の正しい値(期待値)に限りなく近づいていくという統計学でいう確率の基本法則です。日常の例でいいますと、コインを100回、200回と回数を増やすと、表が出る確率は理論上の値である「50%(2分の1)」に近づきます。日常的な個別の自動車事故や火災であれば、統計的な予測範囲内に収まるため財政に大きな影響はありません。しかし、以下のような事態が起きると収支のバランスが崩壊します。

 自然災害の巨大化・頻発化の懸念です。東日本大震災や近年の巨大台風のように、一度に数千億円〜数兆円規模の支払いが発生する場合が生じます。ソーシャル・インフレと呼ばれる賠償額の社会的な高騰問題です。賠償訴訟の長期化や認容賠償額の巨額化、インフレによる修理費・資材費の高騰により、1件あたりの支払額が事前に想定した予測を大幅に上回る場合があります。毎年の保険料収入は「平時の予想される支払額と経費」に基づいて計算されているため、賠償額全体が構造的に増加すると、本業である保険引き受けの収支が赤字に転落します。

再保険(Reinsurance)によるリスク分散の限界: 
 実際には、1社で全額を負担しきれない巨大リスクに対しては再保険という保険会社のための保険を手配してリスクを世界中に分散させています。しかし、世界的に賠償額が増加したり巨大災害が相次いだりすると、以下の影響が出ます。再保険料の急騰: 再保険会社に払う費用が跳ね上がり、損保会社のコストを圧迫します。リスクが高すぎる分野、例えば特定地域の洪水リスクやサイバーリスクなどは再保険がかからなくなり、自社でリスクを抱え込めなくなります。引き受け拒否が生じるかもしれません。

(日本損害保険協会より引用)

ソルベンシー・マージン比率(solvency margin)(支払余力)への打撃:
 保険会社には、大災害などの予測を超えたリスクに対する支払能力を示す「ソルベンシー・マージン比率」という健全性指標があります。ソルベンシー・マージン比率とは、一言でいうと「大規模な災害や暴落など、予測を超えた大ピンチが起きたときに、保険会社にどれくらい支払いの体力(余裕)があるか」を示す指標です。日常の「支払能力」ではなく、「めったに起きない超ド級の危機に対する安全網」がどれだけしっかりしているかを測るために使われます。賠償額の増加によって純資産が減少したり、リスク量が膨らんだりするとこの比率が低下します。比率が極端に低下すると、金融庁から業務改善命令や業務停止命令などの早期矯正措置が出されるため、財政健全性の維持は至上命令となります。

  実際に起きる経営上の調整に関する事です。賠償額の増加が継続すると、損害保険会社は自らの健全性を保つために次のような対応をとらざるを得なくなります。
・保険料の値上げ:  収支を合わせるため、契約者が払う保険料を引き上げます。近年の火災保険料や自動車保険料の値上げがこれに該当します。
・補償内容の縮小引受制限:  免責金額(自己負担額)の設定、補償上限の引き下げ、あるいはリスクの高い物件や事業の引き受け自体を断るようになります。

 一見すると損害保険会社は巨額の資産があるためビクともしないように見えますが、その資産の多くは将来の支払いのために拘束されている資金です。賠償額の増加は、保険会社の収支構造を直接圧迫し、最終的には「保険料の値上げ」や「補償の制限」という形で社会や利用者に跳ね返ってくることになります。 

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二人の王様のユーモアと風刺のジャブ

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国王即位後、チャール国王の初めてのアメリカ訪問は、多くのアメリカ国民に感銘を与えたようです。上下両院での演説は単なる外交辞令ではなく、今の世界の諸々の課題に共に勇気を持って立ち向かおうとする気概やエスプリが込められていたのです。演説の途中、何度も議員らが敬意や感動、そして称賛の意を表すために立ち上がって拍手を送る姿がありました。

 議員の総立ちにより演説は一時途絶えますが、その間議員らは、今混乱するアメリカの施政について、もう一人のキングに対する疑惑や反感を考えたに違いありません。このキングは、議会における演説では決して民主党議員から総立ちの賞賛を受けたことがなかったのです。共和党議員ですら総立ちになって拍手するのですから、キングは歯ぎしりをしたはずです。

Charles III

 演説中、チャール国王はこのもう一人のキングの名前は出しませんでした。それが相手に対する国王としての矜持と礼儀だったからです。外交では批判する相手を名指しすることはありません。しかし、議員達は、チャール国王の演説の文脈に、数々の荒々しい発言を繰り返すもう一人のキング、ドナルド・トランプ大統領を容易に想像できたのです。

 チャール国王の演説草稿は、もとはといえば歴史学者ともいえそうなスピーチライターが国王と相談して起草したものと思われます。聴衆の心に響くストーリーを構成し演出するため、過去のイギリスとアメリカの関係について考証し、事実に基づいて起草したことが伺えます。

 歴史上、イギリスと植民地であったアメリカはいわば兄弟のような関係がありました。1760年代のイギリスはジョージ3世の施政下にありました。彼は絶対的な主権を維持し、植民地に対して一貫して強硬な為政をしいていきます。彼は、「植民地は本国に従属すべきもの」という信念を持っていました。植民地への「重商主義政策」と、それに伴う「課税強化」です。それに対して植民地側は和解の嘆願をを送ります。ジョージ3世はそれを拒絶し、彼らを「反逆者」と断定するのです。

 1700年代のアメリカ大陸におけるイギリスとフランスの覇権争いは、「北米植民地戦争」と呼ばれます。ヨーロッパ本国での戦争と連動して何度も衝突を繰り返しましたが、最終的にはイギリスの圧倒的な勝利で幕を閉じました。ジョージ3世は対話よりも軍事力を優先し、ドイツから傭兵を雇い入れてまで植民地の施政に介入します。この強硬姿勢が、それまで国王個人を敬愛していた植民地の人々に「国王は暴君である」と認識させ、独立宣言へと突き動かす一因となっていきます。

 ホワイトハウスでの晩餐会で、二人のキングが交わしたウイットに富むジョークも話題となっています。それは、ダボス国際会議でトランプ大統領が、「第二次大戦で、アメリカがなかったならば、欧州諸国はドイツ語を使っていただろう」という演説に対するものでした。チャール国王はそれに言及して「あえて申し上げれば、イギリスがなかったならば、皆さんはフランス語を話していただろう」と植民地戦争で、フランスの影響力を払拭させたのを遠回しに言ったユーモアだったのです。

 今回のチャールズ国王の訪米は、相手への節度ある賞賛を交えながら、イギリスの立場をしなやかに示した機会となったようです。それが議会での演説であり、晩餐会での答礼スピーチに示されています。

Two kings exchange jab of humor and satire.

King Charles’ first visit to the United States since his accession to the throne seems to have impressed many Americans. His speeches to both houses of Congress were not merely diplomatic formalities, but imbued with a spirit and determination to bravely confront the various challenges facing the world today. Throughout his speeches, members of Congress repeatedly rose to their feet and applauded, expressing their respect, admiration, and praise.

The speeches were temporarily interrupted by the standing ovations, during which the members of Congress must have been contemplating the current turmoil in American governance and their suspicions and resentment towards another king. This king had never received such a standing ovation from Democratic members of Congress during his speeches.Even Republican lawmakers rose to their feet and applauded, so he must have been gnashing his teeth.

During his speeches, King Charles did not mention the name of this other king. This was a matter of royal pride and courtesy. In diplomacy, one does not name the target of criticism. However, in the context of King Charles’ speeches, the members of Congress could easily imagine the other king, President Trump, who has made numerous harsh remarks.

King Charles’ speech draft was originally written in consultation with the king by a speechwriter who could be described as a historian. It appears that the speech was based on a thorough examination of past British-American relations, in order to construct and present a story that would resonate with the audience.

Historically, Britain and its colonies, America, had a relationship akin to brotherhood. In the 1760s, Britain was under the rule of George III. He maintained absolute sovereignty and consistently imposed a hardline policy on the colonies. He held the belief that “colonies should be subordinate to the mother country.” This manifested as “mercantilism” and the accompanying “increased taxation” of the colonies. The colonies sent petitions for reconciliation, but George III rejected them, declaring them “rebels.”

The struggle for hegemony between Britain and France in the Americas in the 1700s is known as the “North American Colonial Wars.” These conflicts, linked to wars in Europe, involved repeated clashes but ultimately ended in an overwhelming British victory. King George III prioritized military force over dialogue, even hiring mercenaries from Germany to intervene in colonial administration. This hardline stance led the colonists, who had previously revered the king personally, to perceive him as a tyrant, contributing to the Declaration of Independence.

A witty joke exchanged between the two kings at a White House dinner has become a topic of discussion. It was in response to President Trump’s speech at the Davos conference, where he stated that “if America hadn’t existed in World War II, European countries would have spoken German.” King Charles responded by saying, “If I may say so, if Britain hadn’t existed, you would all have spoken French,” a humorous indirect reference to Britain’s role in eliminating French influence during the colonial wars.

King Charles’s recent visit to the United States appears to have been an opportunity to subtly demonstrate Britain’s position while offering respectful praise to the other side. This is evident in his speeches to Parliament and his reciprocal speech at the dinner in the White House.

福沢諭吉の西郷隆盛観

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西郷隆盛は、幕末から明治維新にかけての日本史において、最もカリスマ的であり、かつ評価が分かれる人物の一人といわれます。彼に対する評価は多面的で、時代や立場によって大きく異なるようです。近代日本を築いた立役者として、維新の英雄として高く評価されています。軍事面での功績: 薩長同盟の締結、王政復古の大号令、そして江戸城無血開城など、決定的な場面で歴史に立ち会っています。

 江戸城無血開城は、後に明治新政府軍となる東征軍と旧幕府との間で行われた一連の交渉過程と江戸城の新政府への引き渡しのことです。徳川宗家の本拠であった江戸城が、同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから明治新政府軍の勢力が一層増すのです。戊辰戦争が新政府側に一気に優勢となる転機となった出来事です。幕府の使者山岡鉄舟の要請に応じた大総督府下参謀の西郷は彼との交渉に応じます。ここで初めて、東征軍から徳川家へ開戦回避に向けた条件提示がなされます。山岡の下交渉を受けて、陸軍総裁であった勝海舟と西郷との江戸開城交渉は、田町にあった薩摩藩江戸藩邸にて行われました。徳川慶喜は江戸城を退出して上野寛永寺で謹慎します。1868年4月、江戸城が東征軍に明け渡され 5月に慶喜は寛永寺から水戸へ隠遁するのです。

西郷隆盛と勝海舟

 特に江戸城無血開城は、戦火による無益な殺生を避けた慈悲深い決断として、今なお高く評価されています。「敬天愛人(天を敬い、人を愛する)」の精神を掲げ、地位や名誉に執着しない姿勢は、多くの人々に尊敬の念を抱かせています。明治政府において廃藩置県をはじめとする重要な改革を主導し、近代国家の基礎作りに貢献しました。

 しかし、明治政府から離脱し、西南戦争の指導者となったことで、別の側面からも評価されています。明治政府の急速な近代化や士族の困窮に対して、政府を去った後の彼は、いわば「時代の抵抗者」としての性格を強めました。西南戦争で敗死したことで、権力から脱落した悲劇の英雄というイメージが定着しました。にもかかわらず敵対した勝海舟でさえ「怖い」と評したほどの圧倒的な存在感や人間的魅力は、多くの弟子や従者を引きつけました。彼が故郷の鹿児島に開いた「私学校」は、彼を慕う多くの若者たちの拠点となりました。

 福澤諭吉の西郷観は興味あります。彼の著書の一つに「丁丑公論(ていちゅうこうろん)」があります。この本は西南戦争で明治新政府に反抗した西郷隆盛を弁護する内容となっています。序論において、福澤は政府が専制になるのは当然の事とし、これに「抵抗する精神」の重要性を説くのです。さらに、「今、西郷氏は政府に抗するに武力を用いたる者にて、余輩の考とは少しく趣を殊にするところあれども、結局その精神に至ては間然すべきものなし」、つまり西郷隆盛は武力で政府に抵抗した点で、自分とは考えが異なるが、その抵抗の精神においては非難すべきものはないと述べて、武力で政府に反抗した点は評価しないにしても、西郷隆盛の「抵抗の精神」を賞賛するのです。

 また、政府が西郷の官位を剥奪した途端に、新聞が一斉に非難を始めたことに対して、「新聞記者は政府の飼犬に似たり」と述べて、新聞の論調が誹謗中傷の一色になったことと、それに迎合する世論に対して反論していくのです。さらに、「そもそも西郷は生涯に政府の顛覆を企てたること二度にして、初には成りて後には敗したる者なり」、すなわち「西郷は生涯に政府の転覆を2度企てて、最初の明治維新は成功し、2度目の西南戦争では失敗した者である」として、西郷を明治維新の功労者であり忠臣として賞賛します。同時に西南戦争の首謀者であって逆賊として非難することは、ダブルスタンダードであると非難するのです。彼の死後、明治政府は彼を逆賊から「正三位」という高位へと名誉回復せざるを得ませんでした。

 最期に、「西郷は天下の人物なり。日本狭しといえども、国法厳なりといえども、豈(あに)一人を容るるに余地なからんや」、すなわち「西郷は偉大な人物である。国の法がいかに激しいものであっても一人の人物を受け入れる余地はなかったのか」と述べて、西郷の人物を惜しみます。いつかこの人物を明治政府の要人として起用する時もあったはずであると結んでいます

参考文献
 ・丁丑公論 福沢諭吉 時事新報社 1901年

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勝海舟と国民国家思想

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勝海舟のことです。幕府は洋式海軍をおこすべく正式にオランダに海軍教師団の派遣を要請します。やがて1857年に教師団がやってきます。その団長がウイレム・ホイセン・カッテンディーケ(Willem Huijssen van Kattendijke)と言う中佐でした。カッテンディーケは、徳川幕府が発注した軍艦ヤーパン号、後の咸臨丸を長崎に回航した武官です。幕府が開いた長崎海軍伝習所の第2次教官となります。彼の貢献は、勝海舟、榎本武揚などの幕臣に、航海術・砲術・測量術など近代海軍教育を精力的に行ったことです。

ウイレム・ホイセン・カッテンディーケ

 勝は既に江戸でオランダ語を学んでいました。幕臣とともに、カッテンディーケの生徒として勝も選ばれるのです。若い海軍士官のカッテンディーケの回想路によれば、勝はオランダ語を非常によく理解し、そして聡明な人間であり、さらには真の革新派の闘士というように非常に強い言葉でほめています。勝は、オランダの憲法を学ぶ機会に浴し、オランダの市民国家思想を学んでいきます。

 日米修好通商条約批准のため、1860年に幕府から遣米使節団がおくられることになります。使節団は米国海軍フリゲート艦のポーハタン号(Pawhatan)に搭乗して太平洋を横断することなります。勝はこれとは別に、日本の国威のために、日本人の操船による随行艦を派遣すべきだと運動し、長崎時代の練習船咸臨丸の艦長として勝は太平洋を横断することになります。

彼がアメリカで最も衝撃を受け、深く学んだのは技術的なことよりも、むしろ「社会の仕組み」や「民主主義」のあり方でした。彼はアメリカから戻り、老中に呼ばれます。そして「アメリカと日本はどういうところが違うのか」と問われます。勝は「アメリカは日本と違って偉い人が上にいます」と答えるのです。老中らの苦虫を噛む姿が浮かびます。日本では徳川将軍家のような家柄が絶対視される時代でした。ジョージ・ワシントンの子孫のことを聞くと、アメリカでは初代大統領の子孫であっても特別扱いはされず、一市民として生活していることを知るのです。この事実に勝は「身分よりも実力や個人の自立が優先される社会」の有りようを強く意識したようです。「徳川家という私的な組織」が日本を支配している状態から勝はアメリカを視察して、政治は「日本全体」、「公」のためにあるべきと考えていくのです。

戊辰戦争での薩摩軍兵士

 勝は幕府の家臣でありながら、「幕府を守る」ことよりも「日本という国を守る」ことを優先しました。彼の最大の功績は、1868年の戊辰戦争において、官軍の西郷隆盛と会談し、江戸無血開城を実現させたことです。戊辰戦争とは慶応4年1868年から1869年にかけて、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中核とする新政府軍と、旧幕府陸軍・幕府海軍が戦った日本近代史上最大の内戦と呼ばれます。新政府軍が勝利し、国内に他の交戦団体が消滅していきます。この内戦において、欧米などの諸外国は局外中立の立場であったが、フランスのレオン・ロッシュ公使(Léon Roches)などが個人的に旧幕府側を支援していました。

 勝は諸藩が対立する中で、幕府・朝廷・諸藩が統一して欧米列強に対抗すべきであるという「公議政体論」に近い考えを持っていたといわれます。彼のこの広い視野に、敵対していた坂本龍馬や西郷隆盛らが勝に心酔したのは、敵味方の垣根を超えた「橋渡し役」として役割を果たしたからでしょう。勝は維新後も参議、海軍卿として、後の海軍大臣などを歴任しました。

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勝海舟と西郷隆盛との対比

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司馬遼太郎からみた小栗上野介の勝海舟と西郷隆盛との対比は興味あることです。司馬は、勝海舟を「時代を泳ぐ政治家・策士」とするなら、小栗は「実務を積み上げる技術者・構築者」であったと評します。司馬は勝の柔軟さを認めつつも、実務能力では小栗が圧倒していたとみています。次に、西郷隆盛との対比です。西郷を「情緒と徳の人」とするなら、小栗は「論理と数理の人」と評価します。明治新政府が西郷的な情緒を削ぎとり、小栗的な官僚機構へ移行していく過程を司馬は冷静に記述しています。司馬にとって小栗上野介は、「不運にも時代に殺されたが、近代化の構想という魂は後の日本を支配し続けた人物」という、非常に敬意を払う描き方をしています。

勝海舟

 1860年の万延元年に小栗は遣米使節団に加わります。日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府が派遣した使節団の「目付」いわゆる監察役としてです。当時のアメリカ大統領ブキャナン(James Buchanan)への謁見や、造船所・工場などの視察を通じて、身分制度に縛られない実力主義や、効率的な経済システム、軍事組織のあり方を深く学びます。帰国した小栗は、外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行といった要職を歴任し、破綻寸前の幕府財政を支えながら、猛スピードで近代化を推し進めました。

 小栗の最大の功績は、日本近代工業の礎となる「横須賀製鉄所」の建設です。フランスの支援を得て、現在の横須賀海軍施設内に「横須賀製鉄所」、後の横須賀造船所を建設したことです。単なる造船所ではなく、ボルト・ナットの製造から金属加工までを行う「工場の工場」を目指したのです。日本で初めて「就業時間」、「賃金制度」、「洋式簿記」などを導入し、近代的なマネジメントを確立したといわれます。

西郷隆盛

 小栗は、株式会社の先駆けとなる「兵庫商社」を設立し、貿易の活性化を図りました。兵庫商社は、幕府の主導により、大坂や兵庫の商人の出資によって設立されました。構成員には、三井のほか、大坂の有力商人の鴻池や加島屋、兵庫からは酒造業者が名を連ねました。小栗は提案書で初めて「商社」という言葉を使ったといわれます。郵便制度、電信、鉄道の設置も提言し、先見の明があったことがわかります。これらは後に明治政府によって実現されました。

 軍制改革と教育面でも小栗は活躍します。すなわち、幕府軍の近代化のため、フランス軍事顧問団を招へいします。外交官や技術者を育成するため、幕末の1865年、慶応元年に横浜仏語伝習所というフランス語学校が開設されます。日本初の官立フランス語学校です。幕臣の子弟を中心に選抜された精鋭たちが集まりました。フランス語の習得はもちろん、西洋の諸科学や文化も教えられていました。この伝習所からは、近代日本哲学の父、西周や法学者の津田真道が育っていきます。ここで学んだ若者やフランス学の伝統は、後の明治政府における司法制度の確立に貢献します。

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ポトマック川の五色桜

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今ワシントンD.C.のポトマック川の五色桜は満開です。もともと五色桜は、現在の東京都足立区の荒川堤に植えられていた桜の総称です。明治時代、ソメイヨシノだけでなく、多種多様な里桜が約78種類も植えられ、その多様な色彩から「荒川の五色桜」として世界的に有名になりました。1912年に日本からワシントンD.C.へ贈られた3,000本の桜の多くは、この荒川堤の苗木から育てられたものでした。

 しかし、本家である日本の五色桜は、その後の不幸な歴史によって絶滅の危機に瀕します。その理由は、工場の排煙や都市開発による環境悪化、荒川の改修工事に伴う伐採、そして第二次世界大戦による被害によります。これにより、東京の五色桜はほとんどが失われてしまいました。

 戦後、かつての美しい五色桜を復活させようという動きが日本で起こりましたが、すでに日本国内には元々の品種が揃っていませんでした。そこで、ワシントンに贈った桜が、当時の血統を保ったまま元気に育っていることに着目し、ワシントンから枝を分けてもらうことになったのです。1952年に荒川堤の改修を機に、初めてワシントンから枝が贈られました。1981年には「レーガン桜」として、さらに大規模な里帰りが行われ、足立区などに植樹されました。

 真珠湾攻撃後の戦時中、ワシントンでは日本への敵対心から桜が数本切り倒される事件が起きました。さらに「桜をすべて引き抜いてしまえ」という過激な意見も出たといいます。しかし、多くのアメリカ市民や関係者が「木に罪はない」「この桜は平和と友情の象徴である」として、桜を守り抜きました。戦時中は「日本の桜」と呼ぶ代わりに「東洋の桜」と呼び方を変えるなどの工夫をして、この美しい景観が維持されたのです。

The Goshikizakura (five-colored cherry blossoms) along the Potomac River in Washington D.C. are in full bloom. Originally, Goshikizakura was a general term for cherry trees planted along the Arakawa River embankment in what is now Adachi Ward, Tokyo. During the Meiji era, not only Somei Yoshino cherry trees but also approximately 78 varieties of other diverse village cherry trees were planted, and their diverse colors made them world-famous as “Arakawa’s Goshikizakura.” Many of the 3,000 cherry trees gifted from Japan to Washington D.C. in 1912 were grown from saplings along this Arakawa River embankment.

(住友林業グループより引用)

However, the original Goshikizakura in Japan faced extinction due to unfortunate circumstances. These included environmental degradation from factory emissions and urban development, felling during Arakawa River improvement work, and damage from World War II. As a result, almost all of Tokyo’s Goshikizakura were lost.

After the war, there was a movement in Japan to revive the beautiful Goshikizakura of yesteryear, but the original varieties were no longer available within Japan. Therefore, noticing that the cherry trees gifted to Washington were still thriving while maintaining their original lineage, it was decided to request branches from Washington. In 1952, during the renovation of the Arakawa River embankment, the first branches were gifted from Washington. In 1981, a larger-scale return of the trees, known as “Reagan Cherry Trees,” took place, with trees being planted in Adachi Ward and other areas.

During the war after the attack on Pearl Harbor, several cherry trees were cut down in Washington due to hostility towards Japan. There were even extreme calls to “uproot all the cherry trees.” However, many American citizens and those involved protected the trees, stating that “the trees are innocent” and “these cherry trees are symbols of peace and friendship.” During the war, efforts were made to preserve this beautiful landscape, such as changing the name from “Japanese cherry trees” to “Oriental cherry trees.”

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「知」の先人達

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江戸時代の末期の文久2年(1862年)に幕命でオランダへ留学し、西洋哲学を日本に紹介した最大の人物が西周です。オランダ最古のライデン大学(Universiteit Leiden)でシモン・フィッセリング(Simon Vissering) に法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学びます。現代の私たちが日常的に使っている多くの哲学用語の生みの親とも知られています。例えば、「哲学」「命題」「定義」「主観」「客観」「帰納」「演繹」「知識」「概念」「理性」「芸術」「科学」「技術」「心理学」「意識」といった訳語を作ったのも西です。西洋の概念を漢字で表現することで、日本人が西洋思想を深く理解するための土台を作りました。

ライデン大学

ライデン大学は、1575年にネーデルラント(オランダ)の指導者ウィレム1世(Willem I)によって設立されます。ヨーロッパでも最も古い大学の1つといわれます。ルネ・デカルト(René Descartes)、レンブラント(Rembrandt van Rijn)、フーゴー・グローティウス(Hugo Grotius)などを輩出しています。

中江兆民もまた岩倉使節団の一員としてフランスに渡り、フランス流の民主主義を日本に輸入しました。岩倉使節団は、明治維新期の明治4年から明治6年まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国の米欧12ヶ国に派遣された使節団です。岩倉具視を特命全権大使とし、首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成されました。その中の一人、中江兆民は「東洋のルソー」と呼ばれ、ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の『社会契約論』を翻訳し、それを『民約訳解』として出版し、自由民権運動の理論的支柱となります。

中江兆民

近代的な法律学を輸入した人物に穂積陳重がいます。彼はイギリスとドイツに留学し、日本の民法起草に携わりました。医学面では北里柴三郎がいます。ドイツ留学にしコッホ(Heinrich Robert Koch)に師事して、細菌学や血清療法を導入します。ペスト菌の発見や血清療法の確立など、日本の近代医学や公衆衛生を世界レベルに引き上げるのです。建築の分野に辰野金吾がいます。イギリスに留学しジョサイア・コンドル(Josiah Conder)に学び、後に赤レンガの東京駅などを設計した建築家です。科学の分野では高峰譲吉がイギリスに留学し化学工業の基礎を築き、アドレナリンを発見するのです。芸術の分野に黒田清輝がいます。フランスに留学し印象派の明るい作風を日本画壇に持ち込み、後に「洋画の父」と呼ばれるのです。

1867年のパリ万博は、当時の世界最新のテクノロジーや芸術、そして各国の文化が一堂に会した「文明の祭典」といわれました。日本にとっては、江戸幕府が公式に参加した最初の万博であり、日本文化が初めて西洋に本格的に紹介された歴史的なイベントとなります。パリ万博を視察した渋沢栄一は1867年から約1年半にわたってパリを中心にヨーロッパを歴訪します。この滞在は、後に「日本資本主義の父」と呼ばれる彼の基盤を築く決定的な体験となります。株式会社制度を学び、帰国後は第一国立銀行、現在のみずほ銀行など500以上の企業設立に関わります。日本の近代化には、信頼の拠点となる銀行が不可欠であると考えたのです。

渋沢は、経済活動だけでなく、社会福祉を向上する制度にも注目したようです。その例は、病院、孤児院、盲学校などの医療、福祉施設を視察し、「富は個人が独占するものではなく、社会に還元すべきもの」という考えを深めていきます。これが、彼が晩年に社会公共事業や教育に力を注ぐ原動力となったといわれます。 フランスにおいて、生活インフラと都市機能の発達を見聞します。例えばガス灯、鉄道、水道、郵便、そして最新の科学技術など、近代都市を支えるインフラを理解していくのです。

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日本近代化の先駆者達

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江戸末期から明治初期にかけて、多くの先覚者たちが、いわば命がけで海を渡りました。やがて彼らが持ち帰った「西洋の衝撃」は、停滞していた旧体制を打破し、近代国家の日本を形作る力強い原動力となっていきます。当時の交通機関の未発達な状況で、海外渡航は大変な苦労だったことが想像できます。それでも不安ながら大望を抱いた指導者らは、祖国日本の発展のために大きな期待をいだいて出発したに違いありません。

幕末の先駆者たちは、開国へと目覚めていきます。江戸幕府が派遣した使節団や密航に近い形で渡欧した若者たちは、やがて日本の「近代化」の種を蒔きに貢献していきます。その最たる人物は福澤諭吉です。幕府の遣欧使節団に加わりアメリカを見聞していきます。福沢は 帰国後、西洋の日常習慣や社会制度をわかりやすく解説した『西洋事情』を執筆し、ベストセラーとなります。慶應義塾の創設や「天は人の上に人を造らず…」で知られる『学問のすゝめ』を通じて、個人の独立自尊こそが国を強くすると説きました。

西洋事情

 1863年に長州藩から派遣された5人の若者たちは、密航同然でイギリスへ渡航します。帰国後は倒幕運動の中心となります。後に長州五傑と呼ばれたのが、井上馨、後の初代外務大臣、伊藤博文、後の初代内閣総理大臣、山尾庸三、後に「工学の父」と称され、工部省の設置に尽力、井上勝、後に「鉄道の父」と呼ばれ、日本の鉄道建設を指揮、そして遠藤謹助で後に造幣局長を務め、「造幣の父」と呼ばれます。当時はまだ江戸幕府による鎖国令の下、海外渡航は死罪に値する禁忌でしたが、彼らは密航という形でイギリスへ渡航したのです。

 長州五傑に続き、1865年に薩摩藩から密使としてイギリスへ送られた一行は総勢19名でした。森有礼は初代文部大臣となり、日本の近代教育制度を確立します。五代友厚は大阪経済の父と呼ばれ、大阪株式取引所などを設立します。寺島宗則は「電気通信の父」と呼ばれ、外交官としても活躍します。長澤鼎という人物は、 唯一日本に帰らず、カリフォルニアで「カリフォルニアのブドウ王」として成功するのです。忘れてはならない人物は新島襄です。長州五傑に先立つ1年前、1864年に函館からアメリカへ密航します。帰国後同志社大学を創設します。

 岩倉使節団は、1871年から約1年10ヶ月にわたって欧米諸国を視察します。明治政府の威信をかけた総勢100名を超える大規模な使節団といわれます。その一行の中の主要メンバーとして特命全権大使となったのが岩倉具視です。「維新の三傑」と呼ばれ、長州派のリーダーであった木戸孝允もいました。薩摩派のリーダーであった大久保利通も加わっています。帰国後は殖産興業を牽引した人物です。

不平等条約の風刺画

 この使節団には、現地で学ぶための留学生や各分野の専門家も多く同行しました。後に大日本帝国憲法の起草に参画した金子堅太郎、後に外務大臣や内大臣を歴任した牧野伸顕、そして日本初の女子国費留学生となる津田梅子です。当時彼女は6歳だったようです。長期間の米国生活を経て帰国後、日本の女子教育の遅れに衝撃を受けた彼女は、女子英学塾、現在の津田塾大学を創設し、女性の地位向上と高等教育に一生を捧げていきます。

 こうした使節団は、幕末に結ばれた不平等条約の改正を求めて交渉するのですが、国力不足のために改正は成りませんでした。それでも、政治、経済、教育、軍事、文化などあらゆる分野に直接触れて、日本を近代化するための知見を得て帰国します。

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貨幣論 その6  経済や財政上の用語

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少し専門的な分野の経済や財政にまつわる略語を説明します。テレビや新聞などのオールドメディア、SNSなどでの新興メディアでしばしば登場する財政上の略語です。財政均衡とか健全財政をうたい、増税を意図する財務省や与党や野党の一部の議員、積極財政というかけ声で、内需の拡大やデフレ回復を叫ぶ学者や議員の双方がしばしば使う略語を紹介します。

P.M.:Primary Balance
 プライマリー・バランスと呼ばれ「基礎的財政収支」と訳されています。税収や税外収入と、国債費(国債の返済や利子)を除く歳出との収支のことです。簡単に言うと、社会保障や公共事業などの政策的経費を税収などで賄えているかを示す指標です。財務省が使いたがる略語です。経済が不況で需要不足の状態の場合、基礎的財政収支の赤字を拡大する積極財政で民間部門に資金を供給して、経済を活性化する財政政策が求められるのです。今はそうした時期なのです。プライマリー・バランス黒字化目標を旗印に増税と緊縮財政に突き進む財務省への批判として、「ザイム真理教」とか「財務省、亡国論」と呼ぶ者が増えています。

MMT:Modern Monetary Theory
 MMTは現代貨幣理論と呼ばれています。この話題は既に前稿で取り上げています。通貨発行権を持つ国家は債務返済に充てる通貨を自在に創出できることから、「財源確保のための徴税は必要ではない」、「財政赤字で国は破綻しない」、「インフレにならない限り国債はいくら発行しても問題はない」と主張するのです。MMTはケインズ(John M. Keynes) 経済学の流れを汲むマクロ経済学理論のひとつで、「政府の財源は税と債券発行によって調達すべき」、「赤字拡大が続けば国は破綻する」という主流派経済学の見方に対抗しています。

BS: Balance Sheet
 貸借対照表と呼ばれています。ある時点における企業の資産状況を示す書類です。企業がどのくらいの資産を保有し、その財産を調達するためにどのくらいの負債を負い、どのくらいの純資産があるのかを表す財務諸表のことです。資産、負債、純資産の3つの要素で構成され、左側に借方として資産、右側に貸方として負債と純資産を記載します。銀行は企業に融資するとき、企業の貸借対照表を見て、企業の返済が可能かを判断します。大切な財務諸表といえます。決算に際して作成する決算書と財務諸表のひとつで、企業の保有資産と負債、純資産が表形式で示されています。

CEFP: Council on Economic and Fiscal Policy
 経済財政諮問会議の略語です。この諮問会議は、日本の内閣府に設置され重要政策に関する事案を協議します。この会議では、最終的に経済財政運営と改革の基本方針、いわゆる骨太の方針がとりまとめられ、予算方針に反映されます。会議の成員は、議長と10人以内の議員から成ります。民間有識者数を議員の4割以上確保することが法により定められています。ですが、議員の内2人は日本経団連幹部であり、経団連の利害が強く反映されているのではないかという批判があります。

FTA: Free Trade Agreement
 「自由貿易協定」と呼ばれるもので、2か国以上の特定の国・地域の間で、貿易自由化のために締結する協定のことを指します。自由貿易協定のメリットは「関税の軽減・免除」にあります。日本は’通商交渉ではWTO体制下の多国間主義に重きを置いていました。しかし、多国間主義の限界を認め、他国との競争条件を等しくするために、積極的な二国間・地域間交渉に乗り出さざるを得なくなりました。それまではFTAに対する取り組みは、欧米諸国と比較すると遅れていました。グローバル経済が拡大するなかで、日本がFTAを締結していないことで、海外ビジネスにおいて日本企業が不利益をこうむるケースも発生していました。そのような状況から、日本政府もFTAを推進する意識を強く持つことになります。FTAを相手国と締結することで、協定の内容および交渉によって、段階的な関税の軽減・免除ができるようになり、お互いのメリットを追求した貿易ができる可能性が高くなりました。
 ただし、FTAの協定内容によっては、従来は守られていた産業が衰退してしまったり、自国の特定産業が育たなくなってしまうデメリットもでてきます。その例は、アメリカやオーストラリアからの畜産物の輸入により、国内の酪農家が影響を受けたことです。

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貨幣論 その5 MMT(現代貨幣理論)とは

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現代貨幣理論(Modern Monetary Theory: MMT) の最も根本的な主張は「自国通貨を発行できる政府は、財政的に破綻することはない」という点です。このことを本稿では取り上げます。通貨主権国は財源の制約を受けないというMMTの核となる考え方は、日本やアメリカのように自国の通貨、すなわち日本なら円、アメリカならドルを発行できる国は、税収や国債発行に依存しなくても、必要であれば無制限に自国通貨を生み出すことができるという点です。

(角川書店より引用)

 従来の考え方、つまりこのブログのどこかで取り上げたザイム真理教が基盤とする考えによれば、政府は、税金や借金(国債)で資金を集めてからでないと支出できないとし、財源の制約があると主張します。他方MMTの考え方:政府は、支出することによって通貨(お金)を創造している、そのため、お金を調達する能力には制約がない、これにより、自国通貨建てで国債を発行している限り、債務不履行(デフォルト)は論理的にあり得ないと主張します。

 政府がいくらでもお金を生み出せると聞くと、「無制限に支出してよい」と誤解されがちですが、MMTはそうではありません。MMTは、財政支出の制約となるのは「財源(お金)」ではなく、「インフレ率」であると主張します。政府支出の限界、つまり政府が支出を拡大しすぎると、国内の人・モノ・設備などの実物的な資源が不足し始めます。インフレの発生とは、モノやサービスを生み出す力経済の供給能力の限界を超えて政府がお金を使いすぎると、需要が供給を大幅に上回り、物価が急激に上昇します。この現象はハイパーインフレといわれます。したがって、MMTは、「インフレ率が許容できない水準に達しない限り、財政赤字は問題ない」という立場をとります。

 次に、税の役割は「財源確保」ではないという立場です。MMTでは、税金の役割を以下のように捉えます。税の役割とは、政府の活動に必要な財源を調達することであり、民間からお金を回収し、インフレを抑制する役割があると主張します。政府の国債によって集めた資金を効率的に使うこと、インフレ率が目標内に収まる範囲で、完全雇用達成のために必要な支出を行うことが税の役割であるというのです。すなわち税金は、政府が市場からお金を吸い上げ、過剰な需要を減らして景気を調整するためのツールであると位置づけるのです。

(櫂歌書房より引用)

 MMTの観点から見ると、現在の日本経済は以下のようになります。巨額の国債に関しては、自国通貨建てであり、実質的な債務不履行リスクはないため、過度に心配する必要はないのです。日本の現状は、供給力に対して需要が不足する長期間のデフレにあり、インフレの心配がほぼない状況といわれます。MMTの政策への提言として、増税や緊縮財政は経済を冷やすため行うべきではなく、インフレ率が上がるまで、公共投資や国民への給付金などの積極的な財政赤字の拡大する財政出動をすべきであるという考え方です。

 高市政権は、現代貨幣理論に厳密に沿った政策をとっているかは分かりませんが、積極的な財政出動を公約に掲げ実行しつつあります。今回の衆議院議員選挙で自民党が大勝したのは、現代貨幣理論にそった「責任ある積極財政政策」を国民が支持した結果だと考えられます。

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貨幣論 その4 商品貨幣論とは

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商品貨幣論の論拠は、「お金の価値はもともと商品そのものの価値から生まれる」という考え方です。古典派経済学や一部の貨幣史研究で広く語られてきた説明です。本稿では商品がなぜ貨幣として考えられたか、その考えがなぜ論拠として不十分といわるかを整理します。

 商品貨幣論の根拠は、主に 歴史観や交換の理論、金属貨幣の存在から説明されます。要は物々交換から貨幣が生まれたという説明です。大昔は米と魚などで物々交換をしていました。しかし交換することは運搬や時間がかかり誠に不便でありました双方の欲求が一致しないと交換は成立しません。必そこに交換しやすい商品が媒介になるという状況になります。それが塩であったり貝であったりするのです。こうして、最終的に 金銀などが 自然に貨幣化するのです。

1923年発行のレンテンマルク硬貨

 金銀は保存性や希少性、そして分割可能で持ち運びやすいという特徴があり、商品として価値があるため貨幣になったと説明されました。金貨は金として価値があり、銀貨は銀として価値があるからです。アメリカの人類学者でデヴィッド・グレーバー(David Graeber)は、「負債論─貨幣と暴力の5000年」という著作のなかで、人類学研究では、純粋な物々交換社会はほぼ確認されていないと主張します。つまり、歴史的に多くの貨幣は国家の税制度と結びついて成立したというのが定説となっています。例えば国家が税を貨幣で支払わせるとか、国家が貨幣を発行することにより貨幣需要が生まれるという立て付けです。

 ところで現在の貨幣の大半は、銀行預金であり電子マネーであり中央銀行が発行する通貨です。これらの通貨は、商品価値を持たないのです。貨幣価値 ≠ 商品価値という式となります。その代わり、現代の多くの研究では貨幣 = 債務(I owe you: IOU)と考えられています。IOUは通常、債務を認める非公式の信用証書のことであり、 貨幣とは「誰かの支払い義務」ということになります。つまり、IOUとは、自分が相手に対して何か(お金、物品、サービス)を渡す義務があることを認める債務の承認であり、貸し手側から見れば、そのメモは「将来何かを受け取れる権利(債権)」ということです。私たちが銀行に預けている「預金」は、実態としては「銀行が預金者に対して発行したIOU」となります。通帳の数字は、銀行があなたに対して「あなたが求めた時に、いつでもその額の現金を支払う義務があります」と約束している証拠です。

 商品貨幣論には深刻な欠陥が指摘されています。その一つは、前述してきたように貨幣が交換手段を起源として生じたという歴史的な根拠がないことだといわれます。もっとも商品貨幣論には、紙幣がどうして貨幣として流通しうるのかを説明できないという見方があります。金貨や銀貨であれば賃金属片としての価値があるとはいえなくもないのですが、紙幣は紙片に過ぎず、その経済的価値はほぼないに等しいのです。一万円札の印刷代は20円といわれるほどです。そこで主流派経済学者は紙幣の存在を商品貨幣論によって説明するために、人々が紙幣に貨幣として価値があると信じているから、紙幣は貨幣として価値があるという論法を持ち出さざるをえなるのです。

 しかし、この論法は紙幣を貨幣として受け入れる々人々がいるからだ、ということを暗黙のうちに前提しています。商品貨幣論には貨幣が計算単位であることについて誤解があるようです。主流経済学の理論では、金貨などの賃金属片の価値は市場における交換によって定まり、それが価値の標準となり計算単位となると主張します。タバコ一箱を例にとりますと、市場における交換を通じてその価値が定まり、それが標準となり計算単位となればタバコ一箱でも貨幣になりうるというのが商品貨幣論です。

 市場には無数の商品があり取引されています。無数の交換レートが発生しうるというのが商品貨幣論です。しかし、現実の貨幣経済における取引はそのようになっていません。これは商品貨幣論が誤りであることを示しているのです。ちなみに、かつて金本位制という貨幣の価値を金の価値に固定することで安定させようとする時代がありました。紙幣の価値を金の保有量と結びつけ、銀行券をいつでも金と交換できることを保証する制度でした。しかし、日本は1931年12月に金本位制を停止し、金兌換がなくなりました。貨幣と金の交換価値は政治的な権威によって決定されたのです。市場が決めたのはありません。その後、1942年に日本銀行法によって管理通貨制度へ移行し、今日の通貨制度の基礎が作られました。商品貨幣論は消滅したといえます。

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貨幣論 その3 信用創造とは

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銀行がどのようにお金を作り出すか、という過程は私どもの直感とは少し異なるため、非常に興味深い話題です。一般的には「誰かが預けたお金を、銀行が別の人に貸し出している(又貸し)」と思われがちです。しかし、現代の貨幣論、特にイングランド銀行(Bank of England) などの中央銀行も認めている見解では、「貸し出しによって預金が生まれる」と考えます。これを「信用創造(credit creation)」と呼びます。

 信用創造のステップですが、銀行が私に融資をする際、金庫から現金を取り出して渡すわけではありません。私が銀行から100万円を借りる契約をすると、銀行は私の通帳に「1,000,000」と数字を書き込みます。キーボードの入力で済むのです。この瞬間、世の中に新しい預金というマネー、100万円が誕生します。銀行の貸借対照表には借方に資産として「貸付金」が、貸方に「預金」として同額計上されます。信用創造とは、銀行は元手となる現金を持っていなくても、借り手の「返済能力」という信用を担保に、記帳だけでお金を作り出せるのです。無からの創造という立て付けなのです。

(やさしい経済学と哲学から引用)

 市中銀行は無限にお金を作れるわけではありません。そこには一定のルールがあります。預金準備率という制約で、それが「準備預金制度」です。市中銀行は、預金の一定割合、例えば1%などを「準備預金」として中央銀行、日本なら日銀に預けなければならないという決まりがあります。これは中央銀行への預け入れと呼ばれます。この比率があるため、銀行が作り出せるお金の総額には理論上の上限が生じます。

 信用創造の連鎖は次にようになります。A銀行に100万円が預けられるとします。準備率が10%ならA銀行は10万円を日銀に預け、残り90万円をB会社に貸し出します。B会社がその90万円を支払いに使い、受け取った会社C会社がそれを乙銀行に預けるとしてます。乙銀行は9万円を日銀に預け、残り81万円を貸し出すという連鎖となります。このように、連鎖的に預金が膨らんでいくプロセスを指して「信用創造」と呼ぶこともあります。

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