アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その29 ドイツからの移民と再洗礼派

アメリカのプロテスタントも移民によって多様化していきます。18世紀初頭に数千人のドイツ人が到着したことで、特にペンシルベニア州西部に、メノナイト(Mennonites)、モラヴィア兄弟(Moravians)、シュウェンクフェルダース教会(Schwenkfelders Church)などのドイツの敬虔主義(German pietism)がもたらされます。シュウェンクフェルダース教会とは、カスパー・シュウェンクフェルドCaspar Schwenkfeld von Ossig)が創設し、宗教改革の教えに根ざした小さなキリスト教団体です。当時ヨーロッパでは敬虔主義のキリスト教徒はさまざまな迫害を受けていました。それが新大陸への移民を促進したのです。

Schwenkfelders Church

 新たに再洗礼派(Anabaptists)の教徒もドイツの州から到着し、新しい土地にバプテスト教会の基盤を広げます。 1687年以降に新たな迫害から逃れたフランスのユグノー(Huguenots)は、パッチワークキルトのようなアメリカのキリスト教会にカルヴァン主義(Calvinism)というブランドを加えていきます。ただ、ユグノーは、1650年代にすでにアメリカ大陸に到来していました。

 ユダヤ人は1654年に当時のオランダからニューアムステルダム、現在のニューヨークに到着し、オランダ西インド会社(Dutch West India Company)から亡命を許可されました。当初ピーター・ストイフェサント(Peter Stuyvesant)知事は、ブラジル北部からニューアムステルダムに恒久的な入植を目指し、パスポート無しのユダヤ人を受け容れませんでした。クエーカー教徒、ルター派、および「教皇主義者」に対する寛大さの前例になると杞憂したからでした。しかし、1763年までに、ユダヤの会堂(synagogues)はニューヨーク、フィラデルフィア、ニューポート(New Port)、ロードアイランド (Rhode Island)、サバンナ(Savannah)、およびユダヤ人の商人の小さなコミュニティが存在する港湾都市に設立されていきました。

 1740年代のアメリカ植民地における宗教生活は、すでに独特の色彩を帯びていました。物質的な繁栄が進むと建国当時の苦労が薄れてゆき、当初の信仰への熱意は冷めていきます。こうした中で、信仰への揺り戻しが起こります。これがリバイバル(Revival)と呼ばれる信仰覚醒運動です。

 再洗礼派の教えは、幼児洗礼を否定し、成人の信仰告白に基づく成人洗礼を認めるのです。ルターと並んで宗教改革の初期の立役者の一人、スイス人のフルドリッヒ・ツヴィングリ (Huldrych Zwingli)は再洗礼派の先駆者といわれます。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その28 教会の多様性と教派の誕生

注目

マサチューセッツの植民地が開かれた最初の数年間は、教義をどのように解釈するかについての清教徒の意見の不一致、分裂、亡命、そして新しい植民地の設立につながっていきました。ロードアイランドやコネチカットのように、清教徒主義に反対する人々が近隣の「荒野」の地に移動して新たに始めることができたのはアメリカだけでした。このような経験は最初から宗教の多様性を奨励することになりました。霊的体験を重んじるクエーカー教徒とか「魔女(witches)」と呼ばれたような人々を罰するという厳しい慣習は、17世紀の終わりまでにはなくなりました。ジョージ・フォックス(George Fox)はクエーカー教の指導者でした。

George Fox

 寛容は成長の遅い植物のようなもので、植民地時代の早い段階で、寛容という種をまきがなされました。メリーランド州の創設者であり、生まれつきのカトリックカルバート家(Calvert family)は、1649年の寛容法(Toleration Act)にそって、教区民や他の非聖公会教徒に自由を拡大しました。ローマカトリック教会で、最初の「アメリカ人」の司教となったのがジョン・キャロル(John Carroll)でした。

 19世紀にななると、ドイツ、アイルランド、イタリア、ポーランドからの大幅な移民がやってきて、アメリカのカトリックは独自は「メルティングポット(melting pot)」となっていきます。ペンシルベニア州は、ウィリアム・ペンのクエーカー教徒の信仰を共有する抑圧された人々のコミュニティではなく、一般的な兄弟愛のモデルとなる「連邦(commonwealth)」となります。ジョージアは、ラム酒と奴隷制の両方を禁止し、債務者に再度の機会を与えるという理想主義的で宗教的な考えで設立されましたが、どちらの禁止も長くは続きませんでした。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その27 教会の世俗化と民主化

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アメリカ人の良心を形成する上で、宗教が果たした役割は、時には誇張され、今も重要ことといえます。植民地時代の最初の世紀において、集落が形成されたニューイングランドでは強く宗教が影響を及ぼしました。教会は少しずつ世俗化され民主化されていきますが、強い原動力となりました。ピルグリムファーザーズ(Pilgrim Fathers)が1620年にメイフラワー・コンパクト(Mayflower Compact)に署名し、「市民団体の政治」を決意し、はっきりと宗教的繋がりを政治的コミュニティの基盤にしました。しかし、もともとメイフラワー号の乗客リストにはライデン分離主義者(Leiden Separatist)の非会員、つまり「変わり者」と言われた人々がいて、1691年にマサチューセッツに吸収されるまでプリマス植民地での権利の着実な拡大を求めていました。

 清教徒は、ジョン・ウィンスロップ(John Winthrop) がコミュニティ設立の際の説教で、コミュニティを「キリスト教の慈善のモデル」、「丘の上の都市」と呼んで地上における天国にしようとしました。このテーマは、さまざまな形でアメリカの歴史の隅々にいきわたっています。マサチューセッツ州における清教徒主義という伝統的なイメージは、抑圧的で権威的なものですが、見落とされているのは、ウィンスロップと彼の信奉者の間で共有された愛と信仰によって結ばれるべきであるというコンセンサスです。皆が同意したことは正しいというのです。それは信者の間で自らが選んだ神政体制ともいうべきものでした。

John Winthrop

 しかし、神政的モデルは、参政権が認められていなかった教会の非会員には適用されず、会員を維持する上ですぐに問題が発生しました。自分たちに救いをもたらす「回心」という個人的な経験をした人だけが、教会の正会員になり、子どもたちに洗礼を授けることができました。しかし、第一世代が亡くなったとき、それらの子でもたちの多くは、回心を個人的に証することができなかったので、自分の子孫だけを教会に連れていくだけでした。

 非会員は、最終的に1662年のハーフウェイ誓約(Half-Way Covenant)によって礼拝に出席することを許可されましたが、メンバーシップとしての完全な権利を享受していませんでした。そのような明らかな神学的な屁理屈は、コロニーが拡大し分散することを示しています。会衆がさまざまな町に広がり、他の信仰の崇拝者を呼び込み続けていくにつれ、清教徒の教義の硬直性は、風によって曲がるような有様となりました。

 ジョン・ウィンスロップは、説教者として新世界に移民してきたピューリタン植民者は神との間に神聖なる社会を創るという特別の盟約があると訴えます。1630年4月に初代のマサチューセッツ湾植民地知事にばれた政治家でもあります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その26 高等教育の発展

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植民地時代のアメリカ人が、高い水準の伝統的な文化的な業績を達成できなかったのですが、彼らは少なくとも世界のほとんどの国に劣らないほど、自らの文化を広めることに成功しました。新聞や年鑑は、ヨーロッパの哲学者によって作成された百科全書(encyclopedia)とは同じ知的レベルではありませんが、おそらくヨーロッパのどの文化媒体よりも幅広い聴衆を持っていました。

Harvard University

 ニューイングランドの植民地は、人口増加に追いつくことができなかったのですが、公教育の分野に力を注ぐことになりました。ニューイングランド以外では、教育は子どもたちを私立学校に通わせる余裕のある人々の保護下にありましたが、私立ながら授業料のかからない「チャリティースクール」(charity schools)とか、比較的授業料が安い「アカデミー」(academy)の存在により、アメリカの中産階級の子どもたちが学習する場となりました。

高等教育が広がっていきます。その主要なものとして、ハーヴァード大学(Harvard University)(1636)、ウィリアムとメアリー大学(William and Mary University)(1693)、エール大学(Yale University)(1701)、プリンストン大学(Princeton University)(1747)、ペンシルベニア大学(Pennsylvania University)(1755年以来の大学)、キングスカレッジ(King’s College)(1754年、現在はコロンビア大学(Columbia University))、ロードアイランド大学(Rhode Island College)(1764年、現在はブラウン大学(Brown University)、クイーンズカレッジ(Queen’s College)(1766年、現在はラトガーズ大学(Rutgers University)、およびダートマス大学(Dartmouth College)(1769年)が創設されます。こうした大学は、極めて優れた教育機関となります。こうした大学の特徴として、ほとんどが特定の宗教的な背景がありました。例えば、ハーヴァード大学は会衆派牧師(Congregational ministers)の養成機関であり、プリンストン大学は長老派教会(Presbyterian Church)の庇護のもとで設立されます。

Dartmouth College

注釈」 合衆国の有名な大学は、1600年代後半から1700年代にリベラルアーツ(liberal arts)のカレッジとして発足し、その後総合大学と発展していきます。それもキリスト教会の聖職者を養成する神学校から出発したのが特徴です。

 

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その25 文化的媒体と新聞

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科学以外の分野でのアメリカの文化的成果は、植民時代ではそれほど目覚ましくはありませんでした。アメリカ文学では、少なくとも伝統的なヨーロッパの形式のものはほとんど存在していませんでした。文学で最も重要なものは、フィクションでも形而上学でもありませんでしたが、ロバート・ビバリー(Robert Beverley)の著作による「歴史とヴァジニア州の現在の状態」(The History and Present State of Virginia)やウィリアム・バード(William Byrd)の「分岐点の歴史」(History of the Dividing Line)です。こうした書物は1841年まで公開されませんでした。

アメリカで最も重要な文化的媒体は、書物ではなく新聞でした。高額な印刷の費用では、最も重要なニュースを除いて書物での伝達は無理でした。したがって、求人広告や作物価格の報告などのより重要な情報が優先され、地元のゴシップや広範な投機的ニュースは後回しとなりました。新聞の次に、年鑑(almanac) はアメリカで最も人気のある文学形式であり、1739年に刊行されたベンジャミン・フランクリンの「貧しいリチャードの暦」(Poor Richard’s Almanack)は、この種の範疇で最も有名になりました。 1741年になって、フランクリンのGeneral Magazineが発行され、文芸雑誌がアメリカで始めて登場しました。しかし、18世紀のこうした雑誌のほとんどは購読者を引き付けることができず、わずか数年の発行でほぼすべて廃刊となりました。ワシントンD.C.にある議会図書館(Library of Congress)には、貴重な雑誌として貯蔵されています。

Library of Congress

南部植民地、特にチャールストンは、他の地域よりも住民のための立派な劇場を設立することに関心を持っているようでした。しかし、どの植民地でもヨーロッパの優れた劇場には追いついていませんでした。 ニューイングランドでは、ピューリタンの影響が演劇活動を広げる障害となり、国際的な都市となったフィラデルフィアでさえ、クエーカー教徒によって長い間、舞台芸術の発展が阻害されていました。

注釈」 議会図書館は、世界中から膨大な資料を集めた世界最大の図書館です。現在は、インターネット技術を駆使した電子図書館事業を推進しています。

 

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その24 植民地時代の知的文化の発展

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 アメリカが生んだ科学の天才は、ペンシルベニア州のジョン・バートラム(John Bartram)でした。彼は、新大陸で重要な植物データを収集し分類します。 1744年に設立されたアメリカ人文科学協会(American Philosophical Society)は、アメリカの優れた学術団体として知られていました。アメリカで最初のプラネタリウムを建設した天文学者はデビッド・リッテンハウス(David Rittenhouse)でした。ニューヨーク州副知事のカドウォールーダー・コールデン(Cadwallader Colden)は、植物学者および人類学者としての業績が、おそらく政治家としての業績を上回っていたといわれます。

 社会改革の多くの分野のパイオニアであり、植民地時代のアメリカの物理学者の第一人者の一人であるベンジャミン・ラッシュ(Benjamin Rush)は、人文科学協会の有力な会員の1人でした。人文科学協会の創設者の一人にベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)がいました。彼は、電気の流れに関する実験で主要な理論的進歩を発表した数少ない科学者の一人となりました。他に熱効率のよいストーブの製造とか避雷針の開発などの応用研究でも知られています。

Benjamin Franklin

 アメリカ独立宣言の起草委員の一人であったベンジャミン・フランクリンの名言はいろいろあります。「どんな愚かな者でも他人の短所を指摘できる。そして、たいていの愚かな者がそれをやりたがる」、「時間を浪費するな、人生は時間の積み重ねなのだから」、「 知識への投資がいつの世でも最高の利子を生む」、「友人はゆっくり選べ、変えるにはさらにゆっくりとやれ」、「生きるために食べろ、食べるために生きるな」、「財布が軽けりゃ、心は重い」 次の言葉は含蓄があります。「もし財布の中身を頭につぎこんだら、誰も盗むことはできない。知識への投資がいつの世でも最高の利子を生む」という名言です。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その23 「抜け駆けした者」と不法占拠

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ニューイングランドの気候と地形の厳しさの中で、人々の経済的自立への道は貿易、船舶、漁業、または手工業へと向かいました。しかし、キリスト教に関連した第一世代の宗教的な入植者が亡くなると、個人経営による自給農業への渇望はますます強くなりました。その過程で、タウンシップによる土地の共同所有は、小さく割り当てられた家族の庭や、中世のコミュニティのスタイルである一般的な放牧地と果樹園を経営しながら、徐々にフェンスで囲んだ農場を持つようになりました。

 利用可能な土地が提供され、それによって自分の生き方を求めることは魅力的なことでした。土地の所有という特権が市民に与えられたため、革命が始まる直前になると、非常に多くの男性入植者が選挙権を獲得していきました。

 奴隷制はタバコなどの作物の大規模栽培の屋台骨となり、南部植民地で最も堅固に根づいていきました。同時に、小さな面積の土地しか持たない白人もそれらのコロニーに住んでいました。さらに、小規模な奴隷制が北部に移植され、黒人は主に家事労働や未熟練労働に就くことになりました。アメリカでは自由と奴隷制の境界線はまだはっきりと描かれていませんでした。

Sooners

 不安定ながら、土地を取得するための一つの方法は、単に「居座る」ことでした。 入植地の西端では、植民地の管理者は、海岸郡の所有者に役に立つ不法占拠者を警察の権限を使用して追放することはできませんでした。 不法占拠者は、自分たちを無法者と見なすどころか、大きな危険と困難を伴う新しい土地を開拓するための仕事をしていると信じていました。こうして土地に居座ることは、アメリカの初期の歴史を通して西部開拓の恒常的な姿となりました。

 オクラホマ準州は土地獲得レースを通じて開拓されます。1889年には数千人が未開地に向かう劇的な最初のレースに参加しました。各レースはピストルショットで一斉に未開地へ走ります。号砲を待たず抜け駆けした者はスーナーズ(Sooners)と呼ばれました。

 

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その22 「救済された」移民

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20世紀初期の歴史学者、フレデリック・ターナー(Frederick  Turner)は、彼が1893年に著した「フロンティア・テーゼ」(Frontier Thesis)で、「アメリカの民主主義は自由な土地の豊富さの結果である」と主張しています。この主張は、長年真剣に討議され修正はされてきましたが、豊富な処女地開拓や労働者の不足が原因で、初期の植民地時代おける法制や制約が緩和されていたというのがターナーの主張です。イギリスの新世界における「プランテーション」の成功への最も簡単な道が、輸出作物の栽培にあることが明らかになると、農業労働に対する絶え間ない需要が生まれ、奴隷制を除いて、厳格な階層的な社会秩序が危うくなることになります。

 すべての植民地では、国王、所有者、または公認企業によって直接統治されているかどうかにかかわらず、入植者を引き付けることが不可欠でした。知事が最も豊富に提供したのは土地で、そのため時には数百以上の宗教的なコミュニティに多額の助成金が交付されていきます。時には、連れてきた家族ごとに非常に「頭割の権利」という文字通り一人当たりシステムで裕福な男性に土地が割り当てられました。イギリス人や他のヨーロッパ人は農場を完全に購入する手段を持っていなかったので、大規模な土地を与えられた者とって、農場の単純な売却は賃貸よりも一般的ではありませんでした。

 しかし、個人事業主によって必要な仕組みが整備され、それが労働力の移動を容易にしました。年季奉公として知られている契約労働の仕組みもありました。その下で、新移住者は、通常は7年間の土地所有者とのサービス期間でサインし、大西洋を渡って連れてきた船長への乗船賃の返済の見返りとして彼らを働かせるのでした。そのような移民は「救済された者」(redemptioners)とか「贖われた者」と呼ばれていました。

 契約期間が終わりになると、年季奉公は多くの場合、まだ未開拓の地域にある50エーカー以上の土地の所有権である「自由会費」で植民地自体から報われることになります。この幾分聖書に書かれてあるような移民の前資本主義システムは、熟練労働者の供給に追加された経済的および社会的ツールである見習いとか徒弟のようなものでした。見習い制度とは、使用人が思春期前の少年を職人になるように「縛り付け」、自分の家に連れて行き、そこで代理親として少年に技術を教えることでした。 女の子は、将来母親となるように「家政婦」とされました。年季奉公と見習いを監督するのが使用人の任務でありました。使用人によって寛大であるか、厳しいかは異なりました。労働が厳しいときは、逃亡する逃亡するのが一般的でした。厳しい雇い主が多くいたのは間違いありません。

John Punch

ヴァジニアに連れて来られた最初のアフリカ人などは、年季奉公として働いていたようです。 1640年代に植民地で最初の黒人奴隷となったジョン・パンチ(John Punch)のことです。パンチは二人の仲間とともにメリーランドに逃亡しますが、捕らえられ裁判にかけられます。彼らは異なる判決を受けまが、パンチは終身の奴隷となり、他の二人は期限付きの年季奉公という判決となりました。

注釈」 DNAの検査結果により、元大統領のバラク・オバマ(Barack Obama)は、ジョン・パンチの12代目の子孫といわれます。1950年にノーベル平和賞を受賞したアメリカの政治外交家ラフフ・バンチ(Ralph Bunche)もパンチの父方の子孫といわれます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その21 自給農業から商業農業へ

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アメリカ各地は、次第に自給農業に依存することが少なくなり、世界市場向けの製品の栽培と製造に依存するようになります。当初は個人のニーズにしか対応していなかった土地が、経済活動の基本的な源泉となりました。独立した土地所有の農民は、特にニューイングランドと中西部植民地に多くいましたが、1750年までに開拓された土地のほとんどは、換金作物(cash crop)の栽培へと転換していきます。ニューイングランドはその土地を輸出用の肉製品の生産のために利用していきます。中部植民地は穀物の主要な生産地でした。1700年までに、フィラデルフィア(Philadelphia) は年間9,450トンを超える小麦と18,000トン以上の小麦粉を輸出しました。もちろん、南部植民地は換金作物の栽培へと密接につながります。

 サウスカロライナは、イギリスからの補助金によって、米と藍の生産に目を向けました。ノースカロライナはサウスカロライナほど市場経済を志向していませんでしたが、それでもなお、海軍物資の主要な供給地となりました。ヴァジニア州とメリーランド州は、次第にタバコの生産とそれを購入するロンドンの商人による経済的依存度を高めていきます。多くの場合、土地の一部を小麦の栽培に転用することで農業を多様化しようとした農民は無視されていきます。商人は世界のタバコの価格を完全に握るのですが、それがやがては無残な結果となります。18世紀の間、ヴァジニア州とメリーランド州の土壌は、合理的な単作システムと相まってタバコを収益性の高いものとし、十分な生産性を維持しました。

葉タバコの生産

 アメリカが自給農業から商業農業へと進化するにつれて、影響力のある商業階層がほぼすべての植民地でその存在を高めました。ボストンはニューイングランドのエリート商人の中心地であり、経済社会を支配しただけでなく、社会的および政治的権力を発揮しました。ニューヨークのジェームズ・デ・ランシー(James De Lancey)やフィリップ・リビングストン(Philip Livingston)、フィラデルフィアのジョセフ・ギャロウェイ(Joseph Galloway)、ロバート・モリス(Robert Morris)、トーマス・ウォートン(Thomas Wharton)などの商人は、職業の範囲をはるかに超えた影響力を発揮しました。

  チャールストンでは、ピンクニー(Pinckney)、ラトレッジ(Rutledge)、およびローンズ(Lowndes)の各家が、その港を通過する貿易の多くを支配していきました。強力な商人階級が存在しなかったヴァジニア州でさえ、経済的および政治的権力を持っていたのは、商人と農民の職業を最もよく組み合わさった商業農民でした。こうしてコロニーは、その商業的重要性が高まっていきます。 1700年から10年間に、植民地から毎年約265,000ポンドがイギリスに輸出され、アメリカはイギリスからほぼ同じ量を輸入しました。1760年から1770年の10年間で、その数字は、イギリスに毎年輸出される商品の1,000,000ポンド以上、イギリスから毎年輸入される1,760,000ポンドにまで上昇しました。

「注釈」 アメリカが世界の農業国として発展した基礎は、地政学的に農業に向いた国土が広がること、植民地時代の小麦やトウモロコシ、タバコの生産にあります。それらを消費国へ輸出する港にも恵まれていました。いわゆるサプライチェーンを確保していたのです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その20 割譲と領土の拡大

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合衆国の形成期には、人口増加、居住地域の増大、領土の拡大がほぼ並行して進みます。1790年の第一回国勢調査では約223万キロの領土となり、1863年にルイジアナ州(Louisiana)を買収しほぼ2倍の国土となります。さらに1819年にはフロリダ(Florida)を買収し、1830年のインディアン移住法(Indian Removal Act)によりインディアンを強制的に西部に移住させると、1836年のメキシコ領テキサス(Texas)でのテキサス共和国樹立し1845年のアメリカへの併合を決めます。

イギリスとアメリカによって共同で占有されていたオレゴン・カントリー(Oregon Country)の割譲による1846年のオレゴン条約(Oregon Treaty)の締結、および米墨戦争によるメキシコ割譲により、領土は西海岸にまで達します。1845年にテキサス、翌年のオレゴンの併合に続き、1848年にはカリフォルニア(California)、ネヴァダ(Nevada)、ユタ(Utah)、アリゾナ(Arizona)の大部分、コロラドの一部、ワイオミング(Wyoming)、ニューメキシコ(New Mexico)を含む北アメリカ大陸の南西部がメキシコから割譲されて、領土は大陸の三分の二に増大します。

テキサス共和国の誕生

 1853年、メキシコ担当大臣ジェームズ・ガズデン(James Gadsden)によるアリゾナ州南部およびニューメキシコ州購入で大陸部の領土拡張は完了します。1790年には、393万人の住民のほとんどが大西洋岸に居住し、植民は東部海岸から内陸に向かって400キロくらいまで進みます。その一部はさらに西方のオハイオ、カナダ、ミシシッピ川(Mississippi )水系オハイオ川の支流のひとつであるカンバーランド川(Cumberland River)まで広がっていきます。ニューヨーク州のエルマイラ(Elmira)、ビンガムトン(Binghamton)に人々が居住し始め、ミシガン州デトロイト、マキナック(Mackinac)、ウィスコンシン州グリーンベイ(Green Bay)、プレーリー・ド・シン(Prairie du Chien)、インディアナ州ビンセンス(Vincennes)にも開拓地が置かれます。後にアラスカとハワイも1959年に州に昇格します。

 アメリカの領土拡大政策は成功していきます。1867年にアメリカがロシア帝国から720万ドルでアラスカ(Alaska)を購入したのもその一例です。当時アメリカでは「巨大な保冷庫を購入した」という非難が起こったようです。しかし、後日油田の発見や軍事的な重要性が認識されてアメリカは安い買い物をしたのです。領土は国家主権の基礎にあるものです。我が国の北方四島の返還交渉やウクライナのロシアへの抵抗がそれを例証しています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その19 黒人奴隷と移民の増大

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アメリカ植民地の地方行政自治の浸透は、当然ながらイギリス帝国内における自治の傾向を反映したものでした。1650年の植民地の人口は約52,000人でした。1700年は約250,000人となり、1760年には170万に近づいていきました。 ヴァジニア州は1700年の約54,000人から1760年には約340,000人に増加しました。

 ペンシルベニア州は1681年の約500人の入植者で始まり、1760年までに少なくとも25万人となりました。さらにアメリカの他の都市も成長し始めました。1765年までにボストンは15,000人に達します。ニューヨークは16,000〜17,000人、植民地で最大の都市であるフィラデルフィア(Philadelphia)は約20,000人でした。

 人口増加の一部は、奴隷として連れて来られたアフリカ人移民の結果でした。17世紀には、奴隷の人口はごく少数でした。18世紀半ばまでに南部の入植者は、自分たちの農園によって生み出された利益は、奴隷労働に必要な比較的大きな初期投資を賄えることを知ります。それによって奴隷貿易の量は著しく増加しました。ヴァジニア州では、奴隷人口は1670年の約2,000人から1715年にはおそらく23,000人に跳ね上がり、アメリカ独立戦争の前夜には150,000人に達しました。サウスカロライナの奴隷人口はさらに劇的な増加でした。1700年には、およそ2,500人以下の黒人がいましたが、1765年までに80,000〜90,000人になり、人口比では黒人は白人を約2対1と上回っていました。

Slave Trade

 アメリカ大陸に自発的に移住してきた人々を惹き付けた魅力の1つは、安価な耕作地を手に入れることができることでした。開拓者の西部への移住では、17世紀初頭にはアメリカ全土が開拓地であり、18世紀までには開拓地は海岸線から15〜320 kmの範囲にありました。これはアメリカがさらに発展する歴史の大きな特徴です。1629年から1640年までに、イギリスのピューリタンがアメリカに大量に移住してきました。17世紀を通して、移民のほとんどはイギリス人でした。

 しかし、18世紀から20世紀になると、主にドイツ、プファルツ州(Palatinate)のラインラント(Rhineland)からの人の波がアメリカにやって来ました。1770年までに225,000人から250,000人のドイツ人がアメリカに移住し、その70%以上が中部植民地に定住しました。寛大な土地政策と宗教的寛容の精神が彼らの生活をより快適にしたといわれます。現在も中西部といわれるウィスコンシン、ミシガン、イリノイ、アイオワ、オハイオ、インディアナにはこうした人々の子孫が住んでいます。

Immigrants from Ireland

 1713年以降に大規模に始まり、アメリカ独立戦争を過ぎても続いたスコットランドーアイルランド系アメリカ人とアイルランド系移民の人口は、より均等に分布していました。1750年までに、この両方の人々は、ほぼすべての植民地の西部で見られるようになりました。しかし、ヨーロッパ人がより大きな経済的機会を求めたあらゆる地帯での独立と自給自足の探求という行為は、土地を占有する先住民族との悲劇的な紛争につながりました。ほぼすべての場合、ヨーロッパ人は、土着生活や固有の文化を主張する先住民族を尊重せず、大陸の先住民族を辺境の地へ追いやることになります。

注釈」 今もアメリカでは奴隷制の責任を問う声が広がっています。2008年に下院で、2009年に上院で奴隷制や人種隔離への謝罪を決議しています。奴隷貿易の港だったサウスカロライナ州チャールストンは2018年6月に市として奴隷取引に関与した過去を謝罪しました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その18 タウンミーティング

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チェサピーク社会とカロライナ社会の西部地域には、独自の特徴がありました。統治の伝統は少なく、土地と富の蓄積はそれほど顕著ではなく、社会的階層制はそれほど堅固ではありませんでした。一部の地域では、東部における規制や統治機構に対抗し、それが紛争につながります。ノースカロライナ州とサウスカロライナ州の両方で、東部の支配階級のエリートによる無反応な姿勢に対して、武装した争いが噴出しました。しかし、18世紀の中盤になると多くの人々が富と社会的名声を蓄積し、ノースカロライナ州とサウスカロライナ州は東部の州と同様に発展していきます。

Town meeting

 ニューイングランドの社会はより多様であり、統治機構は南部の機構に比べて寡頭的ではありませんでした。ニューイングランドでは、タウンミーティング(Town meeting) といった市民参加の行政が、郡(county)裁判所の狭い基盤を超えて、州政府への関わりを拡大するのに役立ちました。州議会の議員を選出したタウンミーティングは、ほぼすべての自由な成人男性に開かれていました。それにもかかわらず、比較的少数の男性グループがニューイングランドの州政府を支配しました。南部と同様に、高い職業的地位と社会的名声のある男性は、それぞれの植民地の指導的地位に深くつながっていました。ニューイングランドでは、商人、弁護士、そして少ないながら聖職者が社会的および政治的エリートの大部分を占めていました。

 中部植民地における社会的および統治的な仕組みは、他のどの地域よりも多様でした。ニューヨークにおいて地主(manor)や大地主が持っていた広範な統治の仕組みは、多くの場合、非常に封建的な制度となっていました。大きな邸宅の入居者は、しばしば邸宅の大土地所有者からの影響を逃れることが不可能であることを理解していきます。司法行政、代表者の選挙、税金の徴収は、しばしば邸宅内で行われました。結果として、大土地所有者は、途方もないほどの経済的および政治的権限を行使しました。

 1766年、ニューヨーク市北方の田園地帯で、リビングストン家(Livingston)の荘園を中心に小作人の暴動が拡がりました。この大きな反乱は、大地主に向けられた短期間での爆発であり、中産階級の間で広まった不満の兆候でした。対照的に、ペンシルベニア州の統治機構は、アメリカの他のどの植民地よりも開放的かつ双方向的でした。一院制の立法府は、強力な知事評議会によって科せられた制約から解放され、ペンシルベニアが王立と所有者からの影響から比較的独立していきました。この事実は、初期のクエーカー教徒の入植者の寛容で比較的平等主義的な特徴、その後の多数のヨーロッパ人の移民と相まって、ペンシルベニアの社会的および統治的機構を他のどの植民地よりも民主的なものとしましたが、同時に派閥も形成することになりました。

注釈」 タウンミーティングの伝統は、今も小さな街で見られます。予算とか税金、学校経営、道路や下水整備、ゴミ処理、警察、消防、公園管理、職員の採用など地元の課題が町民の参加で話し合われます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その17 植民地行政の変化

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イギリスとアメリカとの地理的距離、アメリカ人の王室の役人に及ぼす強力な圧力、そして大規模な官僚機構が抱える非効率性は、王室の権力を弱めていきました。それによって、植民地の問題に対する地方の指導者への支持が高まっていきます。18世紀になると植民地議会は議会の権限を支配し、課税と防衛に影響を与える立法の主要な責任を果たし、最終的には王室の役人への給与を決めることになりました。

 州の指導者はまた、知事の権限にも介入するようになりました。知事は規則上では地方公務員の任命を管理し続けるのですが、実際にはほとんどの場合、地方の州の指導者の勧告に自動的に従うようになりました。同様に、王権の代理人である知事評議会は、ロンドンの王立政府の利益よりも下院の指導者の利益を反映する傾向になり、評議会は著名な州の指導者によって支配されるようになりました。

 こうして18世紀半ばまでに、アメリカにおけるほとんどの行政権力は、王室の役人ではなく、州の役人の手に集中していきました。こうした州の指導者は、例外なく彼ら構成員の利益をどの王室の役人よりも忠実に大事にしていきました。ですが当時の州の統治は、現代の基準からすれば、到底民主的なものではなかったようです。 一般的に指導者の社会的名声や行政力は、経済的地位によって決定される傾向がありました。植民地時代のアメリカの経済的資源は、ヨーロッパほど不均衡ではありませんでしたが、比較的少数の人々の手によって支配されていました。

Chesapeake Bay

 ヴァジニア州とメリーランド州のチェサピーク湾(Chesapeake Bay)社会、特にブルーリッジ山脈(Blue Ridge Mountains) の東の地域では、農業生産者が植民地の経済生活のほぼすべての面で支配するようになりました。これらの生産者には、少数の著名な商人と弁護士が加わり、地方政府の最も重要な機関である郡裁判所と州議会の2つを支配しました。自由な成人男性の大部分、すなわち80パーセントから90パーセントの男性が行政のプロセスに参加できたにも関わらず、少数の裕福な人々の手に並外れた権力が集中したのは驚きです。それでもチェサピーク社会の一般市民、およびほとんどの植民地の市民は、彼らが「より良い」と考えていた人々に権限を委ねました。

 権力を少数の人々の手に集中させることを可能にした社会倫理は、とても民主的なものとはいえませんでしたが、少なくともヴァジニア州とメリーランド州では、これらの社会の人々が、指導者に不満を持っていたという証拠はほとんど残っていません。一般的に人々は、地元の役人が行政を担うものであると信じていたようです。

 カロライナ州では、米と藍の生産者である小さな集団が富の多くを独占していました。ヴァジニア州やメリーランド州と同様に、生産者は社会的なエリート集団を構成するようになりました。原則として、カロライナでは、ヴァジニア州とメリーランド州のような寡頭制のような責任ある統治の伝統を持っていなかったため、生産者が不在地主や知事になる傾向がありました。こうした者は、生産現場や政治的責任から離れて、活気溢れる貿易の中心地となっていたチャールストン(Charleston)で過ごすことが多かったようです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その16 王室任命の知事と権限

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イギリスの王室統治機構に加えて、アメリカにはイギリスの重商主義帝国の権威を代表し、植民地の内政の監督責任を持つ多くの王室の役人がいました。しかし、アメリカ諸州の政治における王権の弱点は顕著でした。一部の地域、特に17世紀のニューイングランドの企業植民地やその他の植民地では、王室に責任のある知事がおらず、王権を行使することはありませんでした。これらの植民地に王室の知事がいないことは、貿易規制の施行に特に悪影響を及ぼしました。

 実際、ニューイングランドの政治的および商業的活動に対する王室の統治の欠如から、貿易委員会は1684年にマサチューセッツ湾憲章を覆し、マサチューセッツを他のニューイングランド植民地およびニューヨークとともに、ニューイングランド自治領に統合するようにしました。植民した人々が1688年のイギリスの名誉革命(Glorious Revolution) の混乱に乗じて自治領統治計画を覆すことに成功すると、王室はその利益を守るためにマサチューセッツに王室知事を設置することになりました。

Massachusetts Colony

 王室任命の知事がいる植民地の数は1650年の1つから1760年に8つに増えました。王室は、その政策が確実に実施されるようにする仕組みを備えていました。枢密院(Privy Council)は、アメリカの各王立知事に、州の権限の範囲を細かく定義する一連の指示を出しました。州知事は、州議会をいつ召集するかを決定し、議会を閉会し、または解散し、議会によって可決された法律を拒否する権限を有することになっていました。植民地の統治以外の場でも知事の権限は大きいものがありました。

 ほとんどの直轄植民地では、州知事は植民地議会の上院の構成、財務長官、司法長官、およびすべての植民地裁判官などの重要な地方公務員を任命できました。さらに、知事は地方行政機関に対して多大な権限も持っていました。地方行政の主要な公務員であった郡裁判所の役人は、ほとんどの直轄植民地の知事によって任命されました。したがって、知事はアメリカのすべての行政機関を直接的、間接的に統治することができたのです。

 大英帝国は、北アメリカ大陸の植民地化と統治のために、保護貿易主義をとり、さまざまな行政機構の整備をはかります。しかし、次第にその支配は複雑化し、やがてほころびが出始めます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その15 保護貿易主義と航海条例

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アメリカ植民地に対するイギリスの政策は、必然的に国内政治の影響を受けました。 17世紀と18世紀のイギリスの政治は決して安定していなかったので、当時のイギリスの植民地政策が明確で一貫して発展しなかったことは驚くべきことではありませんでした。植民地化の前半世紀の間、植民地自体が非常に混乱していたため、イギリスが賢い植民地政策を確立することはさらに困難でした。

 政策目的の多様性と植民地の統治構造のために、イギリスがヴァジニア、メリーランド、マサチューセッツ、コネチカット、ロードアイランドが、帝国の全体的な計画にどのような役割を果たすかを予測することはほぼ不可能でした。しかし、1660年までにイギリスは帝国にとって高い利益をもたらす方策で再編成するための最初の一歩を踏み出します。すなわち、1660年に航海条例(Navigation Acts)が成立し、1651年にはその条例を一過的ながら修正し追加したことです。

 航海条例によってイギリス本土、またはイギリスの植民地に向かう商品は、原産地に関係なく、イギリス船でのみ出荷すること、それらの船員の4分の3はイギリス人であると規定しました。また、砂糖、綿、タバコなどの「特定物品」はイギリスにのみ出荷され、他の国との貿易は禁止されていました。この規定は、ヴァジニア州とメリーランド州に特に大きな打撃を与えることになります。これらの2つの植民地は、イギリスのタバコ市場を独占し、他の場所でタバコを販売することを禁じられていました。

 1660年の航海条例は、イギリスの商業帝国全体を保護するには不十分であることが判明し、その後、他の航海条例が可決され貿易システムが強化されました。 1663年に議会は、植民地に向かうヨーロッパの商品を運ぶすべての船舶が関税を支払うように、最初にイギリスの港を通過することを要求する法律を可決しました。貿易商が特定の物品を沿岸貿易で植民地から別の植民地に輸送し、それから外国に運ぶことを防ぐために、1673年に議会は、貿易商がそれらの商品がイギリスだけに運ばれることの保証金を支払うことを要求しました。

Anglo-Dutch Wars

 さらに、1696年に議会はイギリスの重商主義政策を監督するために貿易委員会を設立し、植民地総督が貿易規制の施行を保証する枠組みを設置し、航海条例に違反した人々を起訴するためにアメリカに次席的な裁判所を設置します。 全体として、こうしたイギリスへの統合を求める施策は成功しますが、他方でかなりの植民地貿易がイギリスの規制を回避していきます。それにもかかわらず、イギリスが17世紀後半から18世紀半ばまでに、アメリカの植民地により大きな商業的、および政治的秩序を確立することに部分的に成功したことは明らかです。

 航海条例は、広義には「貿易および航海条例」とも呼ばれ、他国間および自国の植民地でのイギリスの船舶、海運、貿易、および商取引を開発、促進、および規制する一連のイギリス法です。この法律は植民地貿易への外国人の参加を制限しました。やがてオランダなどとの衝突が起こります。英蘭戦争(Anglo-Dutch War)です。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その14 ジョージアのサバンナ

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博愛主義者の集まりであるフリーメイソン(Freemason)という友愛結社の会員であったイギリス人軍人のジェームズ・オグルソープ (James Oglethorpe)は、負債のために苦しんでいた人々の移住先を築こうと、ジョージア(Georgia)植民地のサバンナ(Savannah)にやってきます。オグルソープの計画は、投獄された債務者をジョージアに移送し、そこで彼らを労働によって更生させて、そのことによって所有者は利益を上げることができました。実際にジョージアに定住した人々や貧しい債務者でなかった多くの人々は、非常に制約の多い経済的および社会的システムに遭遇します。

Old Savannah

 オグレソープと彼のパートナーは、個々の土地所有の規模を500エーカー(約200ヘクタール)に限定し、奴隷制を禁止し、ラム酒の飲酒を禁止し、相続制度によって大規模な土地の蓄積を制限しました。こうした規則は考え方としては高潔でしたが、進取の気性に富んだ入植者と所有者との間にかなりの緊張を生み出しました。さらに、経済は植民地を更に発展させようとする人々の期待に応えていきませんでした。ジョージア州の絹生産は、カロライナ州と同様に収益性の高い作物とはなりませんでした。

 入植者は植民地の政治組織にも不満を持っていました。 土地の所有者は、理想となるような実験を綿密に実施することには主たる関心を持っていましたが、地元に自治組織をつくらせようとはしませんでした。 所有者の政策に対する抗議が高まるにつれ、1752年の王室が植民地の支配権を握ります。 その後、入植者が不満を持っていた奴隷制度を廃止しようとする制限が解除されました。

 フリーメイソンとは、中世のイギリスで生まれ、もともと石工職人(mason)から成る団体であったようです。その名残として、石工の道具であった直角定規とコンパスがシンボルマークとして描かれています。当時、建築学や職人の社会的地位は高かったようです。やがて建築に関係のない貴族、紳士、知識人が加入し組織が拡大します。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その13 カロライナへの入植

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イギリス帝国は1629年の当初に勅許をだして、カロライナ(Carolina)の領土に助成金を拠出していました。イギリスの基準から並外れた富と権力を持った8名の男性が、実質的にこのカロライナを植民地化し始めたのは1663年でした。所有者はカロライナの温暖な気候で絹を栽培しようとしましたが、この貴重な商品を生産するためのあらゆる試みは失敗します。さらに入植者をカロライナに引き付けることは困難であることがわかってきます。

Map of Carolina

 先住民族との一連の激しい争が鎮静化した後、人口が大幅に増加し始めたのは1718年になってからでした。入植のパタンは2つありました。ノースカロライナ(North Carolina) は、複雑な海岸線によってヨーロッパとカリブ海(Caribbean)の貿易から大部分が切り離されていましたが、中小規模の農場のコロニーは発展しました。サウスカロライナ(South Carolina) は、カリブ海とヨーロッパの両方と密接な関係が生まれ、米を生産し1742年以降は世界市場向けに藍 (indigo)を生産しました。

 ノースカロライナとサウスカロライナへの初期の入植者は、主に西インド(West Indian)の植民地からやってきました。しかし、この移住のパタンは、ノースカロライナ州ではそれほど特徴的ではありませんでした。ノースカロライナ州では、多くのヴァジニア州民が自然に南部へ移住してきたのです。

Carolina Colony

1669年にアンソニー・クーパー(Anthony Cooper)、後のシャフツベリー卿(Lord Shaftesbury) が哲学者ジョン・ロック(John Locke)の助言を受けて起草した基本憲法は、カロライナで最初の政府の枠組みとなります。しかし、制約が多く封建的な内容のためにほとんど効果がありませんでした。基本憲法は1693年に放棄され、土地所有者の権限を弱め、州議会の権限を高める枠組みにとって代わられました。 1729年、主に所有者が権利を守ろうと要求した問題に対処できなかったため、カロライナはノースカロライナとサウスカロライナという別々の直轄植民地に分離しました。

 1663年に、がアメリカ大陸における新しい植民地を始めるための土地勅許を与え、それがノースカロライナの領域を規定していまする。チャールズ二世はその地を、「カロライナ」と命名します。チャールズのラテン語名はカロラス(Carolus)です。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その12 <span style=”color: crimson; font-size: 2;”>ニュージャージー州の開拓</span>

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現在のニュージャージー州(New Jersey)は、イギリスから最初に独立した13州のうちの1つです。州名はイギリス海峡に位置するチャンネル諸島(Channel Islands)のジャージー島(Jersey Islands)に由来します。ニュージャージーの成立は、植民地時代のほとんどを通してニューヨークとペンシルベニアの影に隠れていました。 1664年にイギリスの王室によってヨーク公爵に譲渡された領土の一部は、後にニュージャージーの植民地ともなりました。ヨーク公爵は次に、彼の土地のその部分を王の2人の親しい友人であり仲間であるジョン・バークレー(John Berkeley)とジョージ・カーテレット(George Carteret)に与えました。 1665年、バークレーとカーテレットは独自の方針で自治政府を設立しました。しかし、ニュージャージーの助成金をめぐって、ニュージャージーとニューヨークの地権者の間で絶え間ない衝突が発生しました。

Map of New Jersey

 ニュージャージーの法的地位は、バークレーが植民地への半分の関心を2人のクエーカー教徒に売却することによって、さらに複雑になります。その後、この地域は、カーテレットが管理する東ジャージーとペンと他のクエーカー教徒の管財人が管理する西ジャージーに分割されます。 1682年にクエーカー教徒は東ジャージーを購入しました。所有者の多様性と行政の混乱によって、入植者と植民者の双方が所有権の取り決めに反対し、1702年にイギリス王室は2つのジャージーを一つの王立州に統合します。

Colony of New Jersey

 クエーカー教徒は東ジャージーを購入したとき、ペンシルベニアへの水路を保護するために、デラウェアとなる予定の土地も取得しました。その領土は、ペンシルベニア植民地の一部であり、議会が開催される1704年まで続きました。こうしてアメリカ独立戦争まで、ジャージーはペンシルベニア州知事の統治化となりました。

 ニュージャージー州はプリマス・プランテーション(Plymouth Plantation)やジェームズタウン(Jamestown)などの植民地とは異なり、宗教に対して寛容な政策をとったことから、他の植民地から多くの開拓者を惹き付けます。植民地時代を通じて農業社会に留まり、田園が残り、土地が肥沃で換金作物を栽培する農業が増えます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その11 ウィリアム・ペンとペンシルベニア州

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ペンシルベニア州(Pennsylvania)は、その創設者ウィリアム・ペン(William Penn)のリベラルな政策のおかげもあり、アメリカのすべての植民地の中で最も多様でダイナミックに繁栄することになります。 ペン自身はイングリッシュ・ホイッグ(English Whig)と呼ばれるリベラルでしたが、決して過激な思想の持ち主ではありませんでした。 彼のクエーカー教徒(Society of Friends)としての信仰は、当時の一部のクエーカー教徒の指導者の宗教的過激主義ではなく、信仰における大事な教えである良識と平和主義の自由の尊重など、ホイッグの教義といわれる基本的な信条へ信奉が特徴でした 。ペンは、新世界で提唱した「聖なる実験」(holy experiment)によって、これらの理想を実現しようとしました。

 ペンは、1681年にチャールズ二世(Charles II) からの勅許によってデラウェア川(Delaware River) 沿いの土地を父親の王への忠誠に対する報酬として与えられます。 1682年にペンによって提案された最初の政府の枠組みは、それぞれ植民地の自由な所有者によって選出される評議会と下院議会から成るものでした。評議会は立法について唯一の権限を持つとされました。下院は、評議会によって提出された法案を承認または拒否することができました。

William Penn

 この形態の政府の「寡頭的」性質について多くの反対があり、その後ペンは1682年に第二の政府の枠組みを提案し、1696年には三番目の政府の枠組みを提案します。しかし、どれも植民地の住民を完全に満足させることはできませんでした。1701年に、ようやく議会にすべての立法権を与え、評議会を諮問機能のみを備えた任命機関とする特権憲章(Charter of Privileges)が市民によって承認されました。特権憲章は、他の3つの政府の枠組みと同様に、すべてのプロテスタントに宗教的寛容の原則を保証するとしました。

 ペンシルベニアは開拓当初から繁栄していました。最初の入植者は、肥沃な土地と重要な商業的特権を受け取り、その後の入植者と間では確執がありましたが、ペンシルベニアの経済的な機会は、他のどの植民地よりも大きいものとなります。1683年にドイツ人がデラウェア渓谷に移住し、1720年代から30年代にかけてアイルランド人(Irish)とスコットランド系アイルランド人(Scotch-Irish)が大量に流入し続けると、ペンシルベニア州の人口は増加し多様化していきました。平野部の肥沃な土壌は、寛大な政府の土地政策と相まって、18世紀を通して高いレベルで入植者の生活を支えていきました。

 しかし、土地の開拓という執念に燃えるヨーロッパの入植者の願望は、ペンが構想していた先住民族への施策とは対立するものでした。ヨーロッパ人入植者が求めていた経済的機会は、ペンが設立してきたコロニーの土地をめぐって、すでに占有していた先住民族との間で頻繁な混乱や殺戮という行為に現れました。

Amish buggy

「注釈」 ペンシルベニア州や中西部、カナダのオンタリオ州などにやって来たドイツ系移民がアーミッシュ(Amish)と呼ばれる人々です。彼らはペンシルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)とも呼ばれるキリスト教徒の共同体で、移民当時の生活様式を保持し、農耕や牧畜によって自給自足の生活をしていることで知られています。ペンシルベニア州はアーミッシュの人口が全米一となっています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その10 ニューアムステルダム

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ニューネーデルラント (New Netherland) は、1624年にオランダ西インド会社(West India Company)によってオレンジ砦(Fort Orange)、現在のアルバニー(Albany) に設立されます。その設立は、17世紀前半のオランダの拡大プログラムの1つにしかすぎませんでした。 1664年、イギリス人はニューネーデルラントの植民地を占領し、チャールズ二世(Charles II)の兄弟であるヨーク公爵(Duke of York)が、ジェームズ(James)という名を改名したニューヨーク(New York)を統治下におきました。毎年、王への贈呈していた40匹のビーバーの毛皮の見返りに、ヨーク公爵と彼の知事理事会は、植民地の支配に強大な裁量が与えられました。

1650年代のニューアムステルダム

 ヨーク公爵への助成金は代議員会では協議しましたが、公爵は代議員会を召集することを法的に義務付けられておらず、実際には1683年まで召集しませんでした。植民地に対する公爵の関心は主に経済的であり、政治的なものではなかったのですが、彼はニューヨークから経済的利益を得るための努力は無駄であることがわかります。先住民族やいろいろな侵入者もどきは、ニューヨークにおいて脱税に成功し、ヨーク公爵や代議員を苛立たせました。実のところオランダ人は、1673年にニューヨークを奪還し1年以上治めるという事態となりました。

 1685年2月、ヨーク公爵は自分自身がニューヨークの所有者であるだけでなく、イングランドの王となっていることも知ります。これにより、ニューヨークの地位は私有化された土地から直轄植民地に変わります。 1688年にニューイングランドとニュージャージーの植民地とともにニューヨークの植民地がニューイングランドの自治権の一部になっていくように、王室による統合化の政策は加速されていきます。 1691年、ロングアイランドに住むドイツの商人であるジェイコブ・ライスラー(Jacob Leisler) は、副知事のフランシス・ニコルソン(Francis Nicholson)の支配に対する反乱を成功させます。 小さな貴族支配階級のエリートへの不満と、植民地をニューイングランド自治領に統合させようとした政府への嫌悪によって生まれた反乱は、王立支配の崩壊を早めることになります。

New Amsterdam

ヨーロッパ人の入植は、オランダ人の毛皮取引商、ヤン・ロドリゲス(Jan Rodriguez)が1614年にマンハッタン(Manhattan)の南端に毛皮貿易のために建てた植民地が始まりとされます。これが後に「ニューアムステルダム」(New Amsterdam)と呼ばれるようになります。

この地図の右方向が北側で、今のニューヨークのマンハッタンのあたりです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その9 ロジャー・ウィリアムズとロードアイランド

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東海岸(East Coast)とはアメリカの大西洋岸のことです。マサチューセッツ湾植民地の権威主義的な傾向にもかかわらず、そこでは恐らく他の植民地では見られないようなコミュニティの精神が醸成していきました。マサチューセッツ州の住民が清教徒の道徳の真の原則から逸脱していることを隣人に知らしめたように、その精神が、隣人のニーズに添ったものであるように訴えていきました。マサチューセッツ州での生活は、それまでの正統派主義に反対する人々にとっては困難でしたが、社会でゆき渡ってきたコンセンサスの中で生活する人々の賛同や共同体の感覚が次第に浸透していきます。

Rhode Island

 同時に多くのニューイングランド人はマサチューセッツの支配層によって押しつけられる正統派主義の中で生きることを拒否し、コネチカット(Connecticut)とロードアイランド(Rhode Island) が彼らの不満のはけ口として開拓されていきます。 1633年にマサチューセッツ湾に到着したトーマス・フッカー牧師(Rev. Thomas Hooker)は、すぐに教会員の入国に関する植民地の制限政策と植民地の指導者の寡頭的権力が望ましくないと考えます。マサチューセッツの宗教的および政治的施策に対する嫌悪感と新しい土地を開拓したいという願望に動機付けられて、フッカーと彼の仲間は1635年にコネチカット渓谷 (Connecticut Valley)に移動し始めます。そうして1636年までに、ハートフォード(Hartford)、ウィンザー(Windsor)、とウェザーズフォード(Wethersford)の街が造られていきます。 1638年にニューヘブン(New Haven)に別の植民地が設立され、1662年にコネチカットとロードアイランドが1つの憲章の下で合併していきます。

 ロードアイランドの創設に密接に関わったロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)は、植民地で確立されていた正統派主義に服従しないため、マサチューセッツから追放されます。アン・ハッチンソン(Anne Hutchinson)という女性の聖職者もそうでした。ウィリアムズやハッチンソンの見解は、いくつかの重要な点でマサチューセッツの支配層の見解と相対立していました。信仰を告白し、それにより教会の会員になる資格があるという厳格な教義は、最終的に誰もが教会の会員となるということを認めませんでした。

Roger Williams

 ウィリアムズはやがて教会がその会衆の純粋さを保証できないことを認識することになり、彼は純粋さを基準とした会員の認定をやめ、代わりにコミュニティのほぼすべての人教会の会員資格を認めるようにしました。さらに、ウィリアムズは明らかにイギリス国教会からの分離・独立の立場をとり、ピューリタン教会はイングランド国教会内にとどまっている限り、純粋さを達成することはできないと説教します。最も重要なことは、ウィリアムズやハッチンソンは、マサチューセッツの指導者が先住民族から土地を購入せずに、土地を占領することに公然と異議を唱えたことです。

 しかし、ウィリアムズらの主張は受け容れられず、彼は1636年に自ら信じる摂理(Providence)のためにマサチューセッツ湾から撤退することを余儀なくされます。1639年、マサチューセッツの正統派主義の反対者であるウィリアム・コディントン(William Coddington)は、ニューポート (Newport.)に会衆を定住させます。4年後、牧師のサミュエル・ゴートン(Samuel Gorton)も、支配的な寡頭制に異議を唱えたためにマサチューセッツ湾から追放され、シャウーメット(Shawomet)、後にワーウィック(Warwick)と改名される地帯に移住します。1644年、これら3つのコミュニティは、ポーツマスの4番目のコミュニティとして1つの憲章の下で合流し、ナラガンセット湾(Narragansett Bay)のプロビデンス・プランテーション(Providence Plantation)と呼ばれる入植地を形成していきます。

Narragansett Bay

 ニューハンプシャー(New Hampshire)とメイン (Maine)の初期の入植者もマサチューセッツ湾の政府によって支配されていました。ニューハンプシャーは1692年にマサチューセッツから完全に分離されますが、1741年になって初めて独自の王立知事が任命されました。メイン州は1820年までマサチューセッツ州の管轄下に入ります。ロードアイランド州はアメリカでもっとも小さい州で鳥取県より少し小さく、その愛称「リトルローディ」(Little Rhody)は、「良いものの包みは小さい」という諺を表しています。

注釈:ロードアイランド州は静かな海岸線や田園地方でも知られ、州都プロビデンスにはアメリカ名門8大学の総称アイヴィーリーグ(Ivy League)の一つであるブラウン大学(Brown University)があります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その8 ジョン・ウィンスロップと分離主義の台頭 

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マサチューセッツ湾植民地のクエーカー(Quaker)教徒は、清教徒と同じように主に宗教的拘束から解放されたいとしてアメリカへ航海しました。ジョージ・フォックス(George Fox)はクエーカー指導者の一人です。クエーカーは、清教徒と異なりイギリス国教会から分離することを望んでいました。彼らはその矜持を示すことによって、教会を改革することを望んでいました。それにもかかわらず、マサチューセッツ湾植民地の指導者たちが何度も直面している問題の1つは、イギリス国教会の汚職疑惑であり、自分たちは国教会から独立したいという独立や分離主義の思想を支持する傾向にありました。

George Fox

 このような正統的な清教徒の教義からの逸脱を示唆する思想が広まるにつれて、分離の考えを支持する人々はすぐに改宗を求められるか、コロニーから追放されました。マサチューセッツ湾企業の指導者たちは、彼らの植民地が新世界における寛容の前哨基地になることを決して意図していませんでした。むしろ、彼らは植民地を「荒野のシオン」(Zion in the wilderness)という純粋さと正統性のモデルとしようと考え、すべての背教者(backsliders)が即座に改宗されるべきだと主張していました。

 植民地の市民による行政は、こうした権威主義的な精神によって統治していきました。マサチューセッツ湾の初代総督であるジョン・ウィンスロップ(John Winthrop)らは、総督の義務は、彼らの構成員の直接の代表として行動するのではなく、どのような措置が最善の利益になるかを独自に決定することであると信じていました。1629年の当初の憲章は、植民地のすべての権力を会社の少数の株主のみで構成される一般裁判所(general court)に与えました。ヨーロッパからの人々がマサチューセッツに入植すると、入植者は多くの権利が剥奪されることを知りこの規定に抗議し、参政権(franchise) を拡大してすべての信徒を含むように主張します。これらの「自由人」は、知事と評議会のために、年に一度、一般裁判所で投票する権利を与えられました。

John Winthrop

 1629年の憲章は技術的には植民地に影響を与えるすべての問題を決定する権限を一般裁判所に与えましたが、支配階級であるエリートの会員は当初、入植者の数が多いという理由で、一般裁判所の自由人が立法過程に参加することを拒否しました。数によって裁判所の決定を非効率的にするからだと考えたのです。

 1634年、一般裁判所は新しい代表者の選出方法を採択します。これによりそれぞれの植民地の自由な人々から代表者が選出されますが。こうして立法に責任を持つ人々が、一般裁判所の2人または3人の代表者と代理人を選ぶことができるようになります。より小さくより権威のある小グループとより大きな代理人のグループの間には常に緊張が生まれました。1644年、この継続的な緊張を反映し、2つのグループは公式に一般裁判所の別々の部屋で討議し、互いに拒否権を持つようになりました。

イギリス国王チャールズ1世から植民地建設の特許を得た新たな移民が清教徒です。清教徒であることが「自由民」の資格だったのですが、清教徒による統治の厳格な正統性が皆に賛成されていたわけではありません。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その7 清教徒とプリマス・プランテーション 

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当時、入植者の間には憲章というものはありませんでした。マサチューセッツ州(Massachusetts)のプリマス(Plymouth)という入植地にプリマス・プランテーション(Plymouth Plantation)が造られます。その創設者らは、ヴァジニア州の創設者と同様に、入植地に資金を提供して利益を追求する支援者からの民間投資に依存していました。プリマスの集落の中核は、オランダのライデン(Leiden)にあるイギリスの入植者が住んでいた飛び地からやってきました。これらのイギリス国教会からの分離を主張する人々は、真の教会は牧師の指導の下での自発的な社会であり、教会の教義の解釈は、個人の考えにあると信じていました。マサチューセッツ湾の入植者とは異なり、こうした清教徒(Puritans)はイギリス国教会を内部から改革するのではなく、国教会から独立することを選択していきます。

Mayflower II

 清教徒はプリマスでは常に少数派でしたが、それでも、入植の最初の40年間は入植地を統治していました。 1620年にメイフラワー号二世号 (Mayflower II)を下船する前に、ウィリアム・ブラッドフォード(William Bradford)が率いる清教徒の一行は、乗船したすべての成人男性に、ブラッドフォードらによって起草された誓約に服従することの署名を要求しました。このメイフラワーコンパクト(Mayflower Compact)と呼ばれる誓約は、後にアメリカの民主主義を推進する重要な文書として評価されますが、誓約は双方向的な取り決めではなく、清教徒は服従を約束しますが、彼らに希望を約束するものではありませんでした。やがてほぼすべての男性住民が州議会の議員と知事に投票することを認められますが、入植地は、少なくとも最初の40年間、少数の男性による統治化にありました。 1660年以降、プリマスの人々は教徒と市民の両方の立場で、徐々に意識を高め、1691年までにプリマス植民地がマサチューセッツ湾(Massachusetts Bay) に併合されたとき、プリマスの入植者は粛々と規律正しく振る舞いました。

Plymouth Plantation

 プリマスに入植の最初の年1620年に、清教徒であった入植者のほぼ半数が病気で亡くなりました。しかし、それ以来、イギリスの投資家からの支援が減少したにもかかわらず、入植者の健康と経済的地位は改善していきます。清教徒たちはすぐに周囲のほとんどの先住民族とで講和し、入植地を襲撃から守る費用と時間から解放され、強力で安定した経済基盤の構築に時間を費やすことができました。彼らの主要な経済活動である農業、漁業、貿易はどれも彼らに贅沢な生活を約束するものではありませんでしたが、マサチューセッツの清教徒はわずか5年後に自給自足していきます。

「注釈」 プリマス・プランテーションは、ボストンの中心街から、南東方向に約56kmのプリマスに位置します。現在は、野外歴史博物館となっています。1620年にプリマスに入植したピルグリムの人々の当時の生活や文化を再現し紹介しています。スタッフは厳しい訓練を受けて、当時の衣装を身にまとい、当時のように畑を耕し、当時の言語を話すなど歴史的考証によって徹底して入植時代を再現しています。ボストンを旅行するときは、必ずこの歴史的遺産を見学することをお勧めします。


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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その6 メリーランドの入植地 

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ヴァジニア州の北部に隣接するメリーランド州(Maryland) は、会社ではなく1人の所有者によって支配された最初のイギリスの植民地でした。ボルティモア卿(Lord Baltimore)と呼ばれたジョージ・カルバート(George Calvert)で              す。彼は1632年に王室から土地の供与を受ける前に、多くの植民地化計画に投資していました。カルバートには、土地の供与に伴うかなりの権限が与えられました。彼はイギリスの法律から逸脱しない範囲で、植民地の貿易と政治システムを支配していました。

 カルバートの息子セシリウス・カルバート(Cecilius Calvert)は父親の死でプロジェクトを引き継ぎ、ポトマック川(Potomac)のセントメアリーズ(St. Mary‘s)での定住を推進しました。メリーランドの入植者は、ヴァジニアの一部を与えられ、最初から控えめな方法で定住を維持することができました。しかし、ヴァジニア州と同様に、メリーランド州の17世紀初頭の入植地(コロニー) は不安定で、整備されていませんでした。入植地は圧倒的に若い独身男性で構成されており、その多くは年季奉公であり、荒れ地での生活の厳しさを和らげる強い家族の形成ができず不安定な生活状態でした。

 コロニーでは、少なくとも2つの目的を果たすことでした。第一はローマカトリック教徒(Roman Catholic)であるボルチモア(Baltimore)は、カトリック教徒が平和に暮らせる植民地を見つけたいと渇望していました。第二は植民地が彼に可能な限り大きな利益をもたらすことも熱望していたことです。当初から、プロテスタントはカトリック教徒を上回っていましたが、少数の著名なカトリック教徒は植民地の土地の過度のシェア持つ傾向がありました。ボルチモアは土地政策に執着していましたが、おおむね善良で公正な管理者でした。

Mary II

しかし、ウィリアム三世(William III)とメアリー二世 (Mary II)がイギリス王位に就いた後、カルバート家の植民地の支配権は奪われ、王室に委ねられました。その後まもなく、王室はイギリス国教会が植民地の宗教になると布告します。1715年にはカルバート家がカトリックから改宗し、イギリス国教会を受け入れた後、植民地は政府固有の統治下になります。

メリーランドという地名の由来は、イングランド王チャールズ二世(Charles II)の母親ヘンリエッタ・マリア(Henrietta Maria of France)にちなんでいます。現在のメリーランド州都はアナポリス(Annapolis)、最大都市はボルティモアです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その5 ヴァジニアにおける植民地化政策

注目

ジェイムズタウン(Jamestown)における企業連合に属するヴァジニア会社の経営者は、もともと富裕な貿易商人や武器商人であり、さらなる新しい投資先を探すのに熱心でした。1607年の設立認可によるヴァジニア・コロニー(Virginia Colony) における最初に2年間は、経営が困難な状態でした。それというのは入植者の協力が得られにくかったことと、慢性的な資本の投資や供給不足が原因といわれます。

Virginia Colony

1607年の設立認可は、ヴァジニア会社の投資者を増やしていきます。取締役の努力によって短期的な投資が増えることになります。しかし、大抵の入植者は、その土地の先住民族が自分たちの生活を保障してくれるものと期待しました。先住民族はそれを頑なに拒否したために、会社経営はなんらの利益を生むことなく投資家も衰退していきます。

 イギリス国王は1612年に新たな認可状を発布し、ヴァジニア会社が投資を促すための宝くじの発行を認めます。破産しかかった会社を救うためです。同年、ジョン・ロルフ(John Rolfe)は始めて高い品質の穀物栽培にとりかかり、それがタバコの生産につながっていきます。トマス・デール卿(Sir Thomas Dale)がやってきて、1611年にヴァジニアの初代の総督となります。ヴァジニアは次第に統制がとれて、地域が安定していきます。当然、高い代償を払ってのことでした。

Jamestown

 デール卿は「権威、道徳、規律」(Laws Divine, Morale, and Martial)という法を定め、入植者の生活に規律を求めます。ヴァジニアの住民は子どもも女性も軍の階級が与えられ、それにそった義務を果たさなければならないというものです。こうした規律に反した者には重い罰則が科せられました。首やかかとを縛られること、むち打ち、そして犯罪人を乗せる船での労役でした。入植者はこうした法律に逆らうことは会社への中傷とみなされ、そうした行為は死刑を宣告されるようなものでした。

 デール卿の布告は、ヴァジニアにおける植民地政策に規律をもたらしますが、新しい入植者を増やすことには役立ちませんでした。ヴァジニアに自費でやってくる入植者を惹き付けるために、会社は20ヘクタールの入植地を与えるとします。自費で来られない者には7年後には20ヘクタールの土地を与えることとします。同時に、ヴァジニアの新しい総督となったジョージ・ヤードリー卿(Sir George Yeardley)は、1619年に代表者を選ぶ選挙を施行すると発表し、その議会組織は、ほとんどヴァジニア会社の取締役会に似たようなものでしたが、後にその組織は権限を拡張し、植民地の自治のための原動力になっていきます。


アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その4 イギリスの植民地化政策

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イギリスもスペインやポルトガルの植民地の成功に続こうと新大陸における植民地化を試みます。1497年にイギリスは、ジョン・キャボット(John Cabot)がノヴァ・スコシア(Nova Scotia)へ航海したことを理由に、アメリカ大陸の机上の国有化を宣言するのです。しかし、それを裏付けるような方策や野望はありませんでした。イギリスは新大陸における国土の拡大ではなく、商業や貿易上の展開に関心がありました。1554年にマスコビー社(Muscovy Company)を設立すると、イギリスの航海者、マーチン・フロビシャー(Martin Frobisher)は1576年から三度にわたり北アメリカ大陸の北方を通って極東への航路(Northwest Passage) の発見を試みます。

 1577年にはc(Sir Francis Drake)は、世界一周の航海に出ます。そして南アメリカの西海岸をまわります。一年後イギリス帝国の愛国者であったハンフリー・ギルバート卿(Sir Humphrey Gilbert)はアメリカ大陸の植民地化を目指して活躍します。ギルバートの努力は、限られた成功に終わり1583年には5隻の船と260名の乗組員ともに北大西洋で遭難します。ギルバートの航海の失敗に続き、新しい航海者が現れます。ウオルター・ラレイ卿(Sir Walter Raleigh)は南アメリカ航路ではなく北アメリカ航路を開拓し新大陸にやってきます。

Sir Francis Drake

 ラレイは今のヴァジニア(Virginia) 沿岸を植民地化する基礎を築き、ロアノーク島(Roanoke Island) を最初の移住地とします。しかし、このコロニー(植民集落)は1587年に原因不明で廃棄されてしまいます。おそらくは疫病のせいだろうと察します。しかし、アメリカ大陸を植民地化しようとする試みは続きます。ロアノーク島でのコロニーに続き、1607年にはジェイムズタウン(Jamestown)にコロニーをつくるやいなや、イギリスの扇動家らは、アメリカ大陸が開拓によって容易に富の増大をもたらすと国民に宣伝していきます。イギリスの地理学者であるリチャード・ハクルート(Richard Hakluyt)さえ、スペインの植民地政策は限定されており、イギリスのアメリカ大陸での植民地は短期間のうちに商業的な反映をもたらすはずだと主張します。

 イギリスは他にも植民地化を進めようとする理由がありました。それはアメリカ大陸から東アジアへのルートが開けるのではないかという予測でした。イギリスの帝国主義者等は新大陸においてスペインの拡大を阻止する必要があると考えます。アメリカを植民地とするのは適当であると考え、イギリス人は宗教的な迫害から人々を解放しようと考えていきます。

大航海時代

 イギリスの中産階級や下層階級の人々は、新大陸は無償、あるいは低価格で土地を獲得し、商業活動を容易に行えるとも考えていきます。宗教からの解放や自由な商業活動という開拓への動機は、確かに歴史学者の関心を集めるのですが、植民地化政策が始まるとともに、なぜかこうした動機は高まることはありませんでした。

  大英帝国の発展は、大航海時代を背景にしてカリブ海地域と北アメリカ植民地がその主体をなし,18世紀のフランスとの植民地争奪戦に勝ってカナダ,インドのベンガル地方(Bengal)へと進出します。一時地球上の土地のほぼ6分の1を自治領や植民地化するというもの凄い勢いでした。


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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その3 ポルトガルやフランスの植民地化政策

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アメリカ大陸におけるイギリスの植民地化政策は、ヨーロッパ人による開拓の序章に過ぎません。1418年にポルトガル人 (Portuguese) が、北アフリカのモロッコ(Morocco)西方、大西洋上にあるポルトサント島 (Porto Santo) へ航海し、それが開拓政策の始まりといわれます。1487年にはポルトガル人は、アフリカの西海岸沿いに位置するモーリタニア(Mauritania)のアルギン(Arguin)、シエラレオ(Sierra Leone)、エルミナ(El Mina)などに交易の拠点をおきます。

1497年にはヴァスコダ・ガマ(Vasco da Gama)がアフリカ南端の喜望峰(Cape of Good Hope)を通り、アフリカの東海岸に到達します。その後、ポルトガルはインドにおける商業圏を築くことになります。1500年には、ペドロ・カブラル(Pedro Alvares Cabral )は、ブラジル(Brazil) を経由してインド洋に達します。ポルトガル人はこうして新大陸へも進出していきます。

Vasco da Gama
Jacques Cartier
Pedro Alvares Cabral

 航海や探検におけるポルトガル人の活躍に続いて、コロンブスのアメリカ大陸への航海後、スペイン人も急速に航海を始めていきます。カリブ海(Caribbean Sea)をはじめ、新スペイン(New Spain)やペルー(Peru)などを征服し、ヨーロッパ諸国の新大陸への関心や羨望を大いに高めます。

フランスは、ヨーロッパにおける戦いでは自国の領土を保全していきますが、スペインやポルトガルのように海外への進出は遅れをとっていました。16世紀初頭になると、フランスの船乗りはニューファンドランド(Newfoundland)に拠点をつくります。1534年にはジャック・カルティエ(Jacques Cartier)は、セントローレンス湾(Gulf of St. Lawrence)の探検に乗り出します。1543年までに、フランスは新大陸での植民地化を断念していきます。16世紀の後半になると、フランスはフロリダ(Florida)やブラジルに植民地をつくろうと試みます。しかし、いずれも失敗に終わり16世紀はスペインとポルトガルの二カ国が新大陸における植民地づくりで覇権を握っていきます。

フランスの新大陸における植民地化の足跡は、各地に残るフランス語の町や村の名前で分かります。例えば、ウィスコンシン州(Wisconsin)だけをみてもPortage, Racine, Prairie du Chien, Prairie du Sac, Radisson, Marquette, Nicoletなど沢山の町にフランス語名が付けられています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その2 先住民族の生活様式と文化

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先住民族の生活様式は各地域における食糧資源によって決定されます。各地域の物質文化も食料、その他の資源に応じて違いがありました。魚や海の哺乳類は、大陸の沿岸に住む人々の食料となり、どん栗などはカリフォルニア先住民族の定番の食料となりました。アメリカバイソン(bison)やバッファロー(buffalo)等、平原に住む動物はそこに定住する先住民族の食料となりました。狩猟や釣りは中西部や東部の先住民族の暮らしの支えとなり、南西部の先住民族は、主としてトウモロコシを食料とし魚や動物は代用食となりました。こうした食料の調達により、釣りや狩猟、植え付けと果実の採取によって、食料獲得の技術を促していきます。

tepees

食糧や資源はそれぞれの地域の資源という文化に依存します。先住民族は人力や犬ぞり、筏、小舟、カヌーなどで物を運びました。16世紀初頭にスペイン人がもたらした馬は、先住民族もすぐに取り入れ、大平原におけるバッファローの捕獲に活躍します。先住民族の諸文化は家の形によっても識別されます。たとえば、エスキモー(Eskimos)はドーム型の氷の家(igloos) 、大平原やプレーリー(prairie)の先住民族は土や毛皮で造った小屋やテント(tepees)、一部の南西部の先住民族ープエブロ(Pueblo) は平屋根の多層式の家屋(Adobe)、更には衣類、工芸、武器、さらに種族の経済的、社会的、宗教的な習慣も各部族によって異なっていきます。

 先住民族は、通常アメリカ・インディアン(America Indians)とかネイティブ・アメリカン(Native Americans)と呼ばれます。本稿では先住民族とか先住民と表記します。衣食住の形態は、先住民族独特のものがあり民族学や民俗学の興味ある話題となります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その1 先住民族とクリストファー・コロンブス

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アメリカ大陸(北米大陸)はクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)の航海以前に何度かにわたって発見されていたようです。コロンブスが上陸した時、彼は「新大陸 (New World)を発見した」と思ったかもしれません。上陸した島は後に命名されたサン・サルバドル島(San Salvador Island)です。ここには先住民のインディオ(Indio)でアラワク族系(Arawak)に属するルカヤン族(Lucayan)が住んでいました。

ルヤカン族

 やがて北米大陸にはアジア系のモンゴロイド(Mongoloid)がアジア大陸からベーリング海峡(Bering Strait)を通って移住してきます。ヨーロッパ人が最初に到達する以前にこうした先住民族は一般にインディアン(Indians)と呼ばれ、大陸の様々な地に定住していました。コロンブス以前からアメリカ大陸に先住民族が定住していたことは動かぬ事実ですから、世界史の上で始めてこの大陸を発見した人物はコロンブスでないことは言うまでもありません。 先住民族らから、「アメリカ大陸の発見はヨーロッパ中心主義に基づいた的外れの見方である」と批判されてきたのも理解できます。

 コロンブスがやって来る前には、現在のアメリカ大陸に1,500万人の先住民族がいたといわれます。先住民族がアメリカの歴史において、どのような役割や影響を及ぼしたかは興味ある話題です。先住民族は多様な部族から成り、その文化や生活においてさまざまな違いがあります。新大陸にやってきたヨーロッパ人がもたらした文明は、やがて先住民族の暮らしや文化によって影響を受けていきます。彼らの食事や香料、物作り、作物作り、戦いの技法、言語、民謡、など民族の独特な文化の注入が、ヨーロッパからの征服者にいろいろな影響を与えていきます。長く続いた白人による西部開拓は、先住民族の激しい抵抗を誘発し、後に合衆国における最も悲劇的な歴史を記すことになります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 はじめに

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この記事は、アメリカ合衆国(アメリカ)建国の歴史を植民地時代を中心に153回にわたり民族、文化、宗教、芸術、科学、政治、経済などについて多角的に振り返るものです。アメリカは、創成期である植民地時代から独立に至る時代を通しての諸文化がその後にも大切に育まれてきた独自の原理をもっていたといわれます。それと同時に、異なる背景を有する人々から構成される国なるが故に、しばしば互いに矛盾した位相を示してきました。

 ヨーロッパ各地からの初期の移民により、18世紀半ばまでに8つの個別のヨーロッパ系アメリカの文化が北アメリカ大陸の南部と東部の周辺で確立してきたといわれます。何世代もの間、これらの異なる文化の発生地域は、お互いに驚くほど孤立して発達し、特徴的な価値観や慣行、方言、理想などを定着させました。個人主義を信奉する地域もあれば、ユートピア的な社会改革を熱心に支持する地域もありました。また神の意志によって自ら導かれていると信じる地域もあれば、良心と探求の自由を擁護する地域もありました。著述家でジャーナリストのコリン・ウッダード(Colin Woodard)は、アメリカはこうした歴史的・文化的な成り立ちが異なる11種類の「国」(ネーション: nation)で構成されていると主張しています。興味ある仮説と思われます。

 初期移民の子孫で、かつてはアメリカ社会の主流といわれたホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント(White Anglo-Saxon Protestants: WASP)のアイデンティテイを抱く地域もあれば、民族、宗教的な多元主義を標榜する地域もありました。平等と民主的参加を尊重する地域もあれば、伝統的な帰属的な秩序への敬意を重視する地域もありました。これらのどこもが今日、創設当時の理想のいくつかを保持し続けています。短い歴史のアメリカですが、多民族国家が有する多文化の発展は、世界史のなかで特異な存在といえると思われます。それが本著を考えるきっかけとなっています。

 1776年の独立宣言によってUnited States of America(USA)と称するようになりました。独立連邦連合体であって、まだ一つの国家ではありませんでした。1787年の合衆国憲法が制定されて一つの国家、アメリカ合衆国となります。この場合でも、アメリカは二重国家制、連邦制をとり、各州stateは一定の範囲で国家として機能することを認められ、その点では、アメリカ合州国と呼んでも差し支えないようです。

 アメリカは建国期より19世紀末までアメリカ大陸に発展することに邁進し、広く国際政治に介入することを控えてきました。その代表がモンロー主義(Monroe Doctrine)で、相互不干渉という孤立主義的でした。アメリカは大洋の向こうにある国々と軍事的なかかわりを持つ必要が薄かったからでした。 また、移民国家であるアメリカに不必要な内紛が起こらないようにするためでもあったからです。

 19世紀末に米西戦争(Spanish–American War)を契機に世界の列強となったアメリカは、第一次大戦、第二次大戦を経て超大国となり、政治、経済、軍事、文化の面で強い発言力を持つようになります。しかし、1960年、70年代に内は人種紛争、外にベトナム戦争と言う挫折を経験し、されに冷戦の終焉により、アメリカは世界の一国として、相対的な地位が下がるのです。その経過を以下の章で説明することにします。

この記事を書くために参考にした文献はEncyclopaedia Britannica、Wikipedia、世界大百科事典、世界史用語集、アメリカ黒人の歴史、などいろいろあります。人名、国名、地名、歴史的な出来事などの固有名詞は主にカタカナ表記とし、英語表記を添えています。中にはフランス語やドイツ語も使っています。各章の中では最初に出てくる固有名詞には英語表記を使い、その後に出てくる同じ名詞はカタカナ表記とします。ご理解ください。

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感謝祭と勤労感謝の日

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 1977年11月26日、高速道路(インターステイト−94)は冷たい風と小雪が舞う天気でした。留学最初の晩秋です。頂戴していた地図を頼ってウィスコンシン州のマディソンからミルウオーキにお住まいのルロイ・ハスという元宣教師宅に着きました。感謝祭の晩餐にお招きいただいたのです。この先生はドイツ系福音派の方で、代々靴屋を生業としていたそうです。私の靴を見て「新しく良さそうな靴だね」と声をかけてくれました。「これはマディソンのモールで買いました」と説明しました。

 ハス牧師は、戦前は中国の内陸で、戦後は日本での伝道に20年あまり従事していました。ですから日本語には全く不自由しません。私も家族もまだ英語の壁がありましたので、くつろぐことができました。感謝祭の宴はさして豪華ではありませんが、賛美歌を歌い短い奨励という感謝祭の意義を語るハス牧師の言葉に聞き入りました。それから夕餉が始まりました。

 エプロンをつけたハス牧師自らが七面鳥の丸焼きにナイフをいれて、細かく切り分けます。この役割はご主人が受け持つのが伝統だそうです。肉は白い部分と灰色の部分に分けられます。白いのは味が鶏肉に似ています。灰色のは少し粘り気があります。皿に盛られた肉が手渡しされてそれを少しずつ自分の大皿に盛りつけます。七面鳥のお腹の中には、スタッフィングという乾燥させた角切りのパン、米、野菜や果物などを混ぜた詰めた中身が入っています。肉からの汁が染みて美味しいものです。

七面鳥の肉にかけるのがグレイビーソース。このソースはマッシュポテトにもかけます。そして肉に添えるのが甘酸っぱいクランベリーソースです。食事が終わるとパイやケーキがデザートとしてでます。どれもミセス・ハス手作りの品です。これにアイスクリームをのっけていただくのが習わしです。

 家の中は暖房が効いてお腹もいっぱいになり心地よい気分です。テレビでは感謝祭の日の恒例行事、アメリカンフットボールが放映されています。皆家族で感謝祭の食事をしているので、視聴率が高いのです。その夜はハス牧師のお宅に家族5人が泊まりました。初めてのアメリカでの感謝祭でした。もうあれから47年が経ちます。ハスご夫妻は既に召されています。

 11月23日が近づきました。勤労感謝の日です。 「勤労を尊び、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」として1948年に制定されました。勤労感謝の日の前身は、古くから日本にある新嘗祭(にいなめさい)という祭りです。これは新米の収穫を神に感謝するための祭りで、おもに皇族が行ってきました。時代を経て、11月23日は神への感謝から労働をするすべての人への感謝の日へとなりました。

 万国に共通することは、実りと収穫という恵みに感謝する行事があることです。収穫へ感謝を示すとは、見えざる手に対して畏敬の念を表すことです。それがどのような神であれ仏であれ、感謝するという行為がなにかの形で現れます。

 なぜ感謝するのかです。それは私たちがなにかに、誰かに支えられていることに気づくからです。仏教では「知恩」という言葉があります。恩を受けていることを知るということです。そこから「布施」という与えることを意味する行為が生まれるといわれます。恩に報いることです。

 「どんなことにも感謝しなさい」という聖句があります。「ありがとう」はわたしたちの生活の土台になるものです。私は、家内にそれを素直に言葉に表わすことができません(..;)。「Thank you」は「Think of you」からきているともいわれます。「あなたのことを考えること、思うこと」が感謝の土台にあるというのです。勤労感謝の日は、大切な人々に心からの「ありがとう」を伝える日です。家族や友人、近所の人たち、働く人たちが私たちを支えてくれることに感謝をする日でもあります。

Turkey
Thanksgiving −The Legend of John Carver

木枯らしの季節 その2 ライデンからプリマスへ

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感謝祭の由来

 北米における感謝祭(Thanksgiving)は、ヨーロッパ(Europe)のオランダ(Netherland)の歴史に遡ることができます。感謝の日の起源について諸説があるようですが、バングス(Jeremy Bangs)という歴史家でライデン・アメリカンピルグリム博物館長(Leiden American Pilgrim Museum)の仮説が有力なようです。バングスはシカゴ大学を卒業し、ライデン大学 (University of Leiden)からPh.D.を取得します。やがてライデン市立ピルグリム文書館 (Leiden Pilgrim Documents Center of the Leiden Municipal Archives)の主任学芸員となり、その後1997年にライデン・アメリカンピルグリム博物館を創設します。

 バングスによると、1573年から74年にかけてスペイン軍がライデン(Leiden)を陥落させようと包囲した史実が基となっています。スペイン軍の包囲からライデンが解放されたことを記念し、感謝礼拝を執り行ったことが感謝祭に発展したのではないかというのです。この祝いが毎年ライデンで開かれる「10月3日祭」 (Oktober Feest)という祭りです。「10月3日祭」 の伝統がアメリカに移住した巡礼始祖と呼ばれるピルグリム(Pilgrim)によって引き継がれたというのは頷けます。


メイフラワー号

 ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)と呼ばれた巡礼始祖を乗せたメイフラワー号 (Mayflower)が イングランド(England)のプリマス (Plymouth)を出帆したのは1620年9月6日。そして11月9日にマサチューセッツ(Massachusetts)、ボストン(Boston) の南に位置するケープコッド(Cape Cod)のあたりに到着します。66日の航海です。しかし、メイフラワー号のピルグリムはもともとニューヨーク(New York)のハドソン川(Hudson River)沿岸を目指していました。そこでケープコッドを離れ南下するのですが、天候が悪くケープコッドに戻ります。ところがケープコッドは塩分を含んだ土地であり、農作物の耕作に不適であるという理由でボストンの東のプリマス(Plymouth)に上陸し、そこにプリマス開拓地(Plimoth Plantation)を定めます。

MayflowerII

 プリマス開拓地はボストンから車まで一時間のところにあります。ボストンに行かれたときは、是非ともこの自然博物館を訪れることを強くお勧めします。プリマスはPlimothとかPlymouthと綴られます。その違いの理由は分かりません。


木枯らしの季節 その1 山口誓子の詩

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 一段と寒くなってきました。「海に出て木枯らし帰るところなし」 という句は詩集「遠星」に所収されている山口誓子の作品です。昭和19年11月に作られたとあります。太平洋戦争は敗戦が濃厚になり、日本軍は特攻とか回天といった命を犠牲にする無残な攻撃を始めます。今のISと同じ戦法です。二度と帰ることのない若者の命を歌ったのがこの句といわれます。誓子のぎりぎりの反戦的な態度だったのでしょう。

 誓子の作品に「凍港」という樺太の情景を叙情的に詠んだ詩集もあります。この句の舞台は、樺太南部の港町、大泊です。明治34年に京都で生まれた誓子は、明治45年に樺太日日新聞社の社長であった祖父の住む樺太へと渡ります。そして、大正6年に大泊中学から京都府立一中に転校するまでの約5年間を樺太で暮らしています。

探梅や遠き昔の汽車にのり
   氷海や月のあかりの荷役そり

 私は樺太の真岡生まれですが、樺太生活や風景になんの記憶もありません。誓子の句から成田家が過ごした樺太という風土の想像を巡らすだけです。誓子が療養中に詠ったのがこの句は、敗戦間近で反戦文学などの流行に警戒していた官憲の検閲にひっかからなかったようです。

お金の価値 その十七 「貝」と通貨と漢字

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八王子市立大和田小学校の図書館で、毎週一回囲碁教室を開いています。子どもがやってくる前に図書の本棚に「お金のねうちは何できまる」という本を見つけました。日頃から家計の状況と政府の財政状況、つまり貸借対照表の見方を勉強しているうちに、「一体お金とか通貨とはなにか」という話題に興味が沸きました。そんなことで、たまたまこの本に目がとまった次第です。

 お金の歴史を3000年前の中国から考えてみます。日本でいえば縄文時代です。当時は米や布、塩がお金の代わりをしていました。計ったり、切ったりして量を自由に調節できました。つまりお金の働きをする物品貨幣でした。

 そして宝と同じ値打ちのある貝が登場します。宝貝というものです。宝貝はお金の役割をするようになり、この貝は安産のお守りとして重宝されてタカラ貝、「子安貝」と呼ばれました。この貝は大きさがほぼ一定なので、銅でこの貝の形をまねたり、後に金メッキを施して貨幣が作られていきます。

宝貝ー子安貝

 中国の戦国時代では、国ごとに異なっていた青銅貨幣に代わって紀元前221年頃に統一王朝である秦の始皇帝が制定した通貨が表れます。半両銭と呼ばれ中国最初の統一通貨といわれます。これは円形の青銅鋳造貨幣で、表面に「半両」の文字が刻まれています。一個の重さが半両、約8グラムで四角い穴がついています。これはロクロを使って銭の縁を削るには、四角い棒を通してずれないようにして回していたからです。

 日本では683年に中国の「開元通宝」をモデルとして「富本銭」が作られました。円形で四角い穴があり、そこに「富本」と刻印されます。 そして708年に「和同開珎」が作られます。当時、武蔵国に銅が発見され、大量の銅貨の鋳造ができるようになったので広まったといわれます。

和同開珎

 銅貨の歴史を簡単に説明しましたが、その後「貝」を部首とした以下のような漢字が沢山作られます。どれもお金とか商売とか貧富など、信用や経済、金融や財政などに関連していることがわかります。「貝」という通貨の原型が、今日まで日本語や社会などに偉大な影響をもたらしていることがわかります。

「貝」を部首として漢字の例:
購、買、貢、貴、資、財、負、債、貯、贈、貿、貸、賀、費、具、貨、貶、販、貫、貼、賄、賂、賤、賠、賛、賦、賜、賞、賢、贄、贔、頼、貞

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お金の価値 その十六 お金と財政赤字にまつわる神話

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お金の価値に関する最後の話題です。日本の経済にはいろいろな神話というか、人々にすり込まれている誤った理解があるといわれます。それは、「借金はいけないのだ、節約して貯蓄が大事なのだ」という声です。これは、家計の場合には当てはまります。ところが家計と政府の会計は全く別な仕組みなのですが、それをごちゃまぜにしているため、政治家、経済学者、国民は「財政赤字は支出過剰の表れなのでこれを改めなければならない」という声になるのです。別な見方からすれば「増税して支出を賄わなければならない」というのです。つまり、政府が社会保障や公共事業をはじめ様々な行政サービスを提供するための経費(政策的経費)を支出し赤字が出たときには、国民のお金いわば税金が必要だというのです。しかしこの見解が正しいのかという疑問が浮かびます。

 財政赤字は、政府が身の丈以上の支出をしている証拠だと信じている人が多いのです。借金が膨らみすぎると破産、差し押さえ、有罪になると心配するのです。こうした誤解は、家計のあり方の延長で長らく教えられてきたのですから、やむを得ないところもあります。いわば教育の問題なので仕方ないのです。ですがこの財政赤字の説明は誤りなのです。

日本銀行

 政府の帳簿に財政赤字が記帳されるのは、支出が税収を上回ったときです。しかし、ここで考えて欲しいのは、借方ー貸方という会計の原則を使うと次のように説明できることです。政府が「国内で100万円を使ったが、税収は90万円だった」とします。この差額は政府赤字と呼ばれます。しかし、この差分は別の見方ができます。政府赤字は誰かの黒字になるということです。つまり赤字は政府から民間へと資金が流れている状態のことです。政府の10万円のマイナスは、常に経済の他の部門で10万円のプラスになるのです。赤字か黒字のいずれかが良い、あるいは悪いということではないのです。

米ドル紙幣

 政府がお金を使い過ぎることで財政赤字が大きくなることもありえます。ここで理解しておくべきことは、過剰な支出とはインフレということです。ですが、財政赤字は大きすぎないように、政府は適切な金融政策を実施しています。巨額の財政赤字の継続は、ハイパーインフレ状態のことです。現在、我が国の財政赤字はインフレではなく、デフレの状態なのです。財政赤字は、子どもや孫の世代の負担になるということが財務省のサイトで公言されています。赤字を垂れ流すのは子や孫にツケを回すということらしいのですが、、、。これもまた家計簿と政府の会計簿をごちゃ混ぜすることから生まれる誤解です。政府の赤字は国民の赤字ではないのです。

 日本銀行のサイトによりますと、多くの国における通貨への信認は、中央銀行が保有する金等の資産によって直接支えられるものではなく、適切な金融政策によって「物価の安定」の実現を図ることを通じて担保されるとあります。日銀は、支払の決済手段である通貨を発行することができるため、一時的に赤字や債務超過となっても、金融政策を行う能力が損なわれることはないのです。通貨の信認とは、発行国の経済状況や政治的状況、地理的状況などから総合的に判断されます。それ故に、円や米ドル、スイスフラン(Swiss Franc)などが安全な通貨とされているのです。

スイスフラン

(投稿日時 2024年11月2日)
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参考資料(順不同)

森永卓郎 「ザイム真理教」三五館シンシャ 2023年
藤井 聡 「公共事業が日本を救う」 文藝春秋社 2010年
藤井 聡 「プライマリーバランス亡国論:日本を滅ぼす国の借金を巡るウソ」 扶桑社 2017年
藤井 聡 「列島強靱化論:日本復活5カ年計画」 文藝春秋社 2011年
藤井 聡 「MMTによる令和「新」経済論:現代貨幣理論の真実」 晶文社 2019年
財務省 「これからの日本のために財政を考える」
 https://www.mof.go.jp/zaisei/reference/reference-03.html
財務省 「日本の借金の状況」
 https://www.mof.go.jp/zaisei/financial-situation/financial-situation-01.html
財務省 「財政はどのくらい借金に依存しているのか」
 https://www.mof.go.jp/zaisei/financial-structure/financial-structure-03.html
檜垣紀雄 「藩札の果たした役割と問題点」 金融研究ß8:1 2019年
井上智洋 「MMT 現代貨幣理論とは何か」 講談社 2019年
ランダル・レイ 「MMT現代貨幣理論入門」 東洋経済新報社 2019年
アダム・ファーガソン(Adam Ferguson)  「ハイパーインフレの悪夢: ドイツ「国家破綻の歴史」は警告する」 2019年
伊藤宣広 「ケインズー危機の時代の実践家」 岩波新書 1990年
ステファニー・ケルトン  「財政赤字の神話」 早川署 2020年
日本銀行 https://www.boj.or.jp/index.html

成田滋のアバター

お金の価値 その十五 ジンバブエのハイパーインフレーション

注目

 アフリカ大陸の南部に位置する共和制国家にジンバブエ(Republic of Zimbabwe)があります。Wikipediaや世界大百科事典などの資料からジンバブエのハイパーインフレーションを紹介することにします。

 ジンバブエはもともとローデシア(Rhdesia)と呼ばれていました。その頃は、ジンバブエはかつて「アフリカの穀物庫」ともいわれるほどの農業が盛んな国だったようです。ですが肥沃な土地の90%はイギリス人が経営していました。1980年にイギリスから独立後、最初の選挙で勝利して首相に就任したのがムガベ(Robert Mugabe)です。1987年に首相職を廃止し、大統領に就きます。大統領の初期は、同国多数派の黒人のために保健制度や教育制度を整備したとして、手腕を評価されます。大統領は初めは黒人と白人の融和政策を進め、国際的にも歓迎されますが、やがて失政、暴言、汚職、拷問、地位を利用した蓄財、選挙不正、病気の流行、食糧不足とあらゆる問題や疑惑が持ち上がります。2000年8月から4,500人の白人所有の大農場を補償なしに強制収用し、共同農場で働く黒人に再配分する「ファスト・トラック」(Fast Track)を実施します。

ジンバブエ

 混乱と腐敗した土地強制収用の結果、主要な外貨獲得産業である農業の生産が落ち込み、食糧危機、外貨不足などにより、経済及び国民生活に深刻な影響をもたらします。2003年には国民の約半数にあたる500万人が国際社会からの食糧援助に頼らざるを得ない事態が生じます。外貨収入源であるタバコ等の換金作物生産が落ち込んだことから外貨が払底し、燃料、電気、機械・部品、生産設備の輸入が困難となり、製造業、鉱工業も大きな影響を受け、失業率は70%を超える等、経済活動及び国民生活に大きな困難が生じました。

 さらに労働者からの賃上げ要求に対応したり、選挙費用を捻出するために、通貨のジンバブエ・ドルを無節操に発行したりします。物資の不足、そしてインフレの進行を決定的にしたのが、2007年6月に出された価格統制令でした。これは、インフレ対策として、政府が「ほぼ全ての製品・サービスの価格を強制的に半額にする」というものでした。しかしながら、これは経済の基本を完全に無視したものといわれました。無理に半額で売らせても、メーカー、小売店は利益にならないからです。利益にならず赤字になり、そのまま倒産してしまうというわけです。

 2007年9月にジンバブエ議会を通過した「外資系企業の株式強制譲渡法案」も、経済の混乱・インフレの進行に拍車をかけました。外資系企業の株式強制譲渡法案は、ジンバブエに進出している外国企業の株式のうち、過半数をジンバブエの黒人に強制的に譲渡しなくてはならないという内容の法案でした。当然ながら、まともなビジネスができないので、外資系企業は一斉にジンバブエから撤退します。これで外国企業は存在しなくなり、ジンバブエの物資不足はさらに深刻化します。

Robert Mugabe

 2017年12月の軍事クーデターでムガベは失脚し、国外追放されるまで、30年にわたって大統領を続けます。首相就任から数えるとムガベ政権は37年に及びました。こうしたインフレ事情に鑑みて、日本は2017年までに累計1000億円以上の経済支援を実施しています。アメリカや旧宗主国のイギリスに次ぐジンバブエの主要援助国の一つとなっています。現在、日本はジンバブエから主にプラチナ、クローム、ニッケルなどの資源を輸入しています。

 旧通貨であるジンバブエ・ドルは2000年代ハイパーインフレーションによって殆どその価値を失い、ジンバブエはより信用のある9種の外貨を法定通貨として定めました。しかし、実際に流通しているのは米ドルと南アフリカ・ランド(South African Rand)という通貨です。南アフリカ・ランドとは、南アフリカ準備銀行が発行する通貨です。ランドの為替レートは1米ドルが17ランドくらいです。

外務省のWebサイトによりますと、ジンバブエは今も国民の現地通貨に対する不信感が払拭できず、米ドルによる経済が続いています。また、2022年末より巨額の対外債務により発生している延滞債務の解消に向けてアフリカ開発銀行を筆頭にドナー国との対話を開始し、2023年には国際通貨基金(IMF)に延滞債務解消を求めています。対外債務を自国通貨で支払えないのが問題なのです。このように対外債務という財政赤字は、通貨の信認にかかっているのです。ドルとか円は世界的に信認されている通貨なので、財政赤字は税ではなく国債などによって賄えるのです。
(投稿日時 2024年11月1日)

お金の価値 その十四 ワイマール共和政のハイパーインフレーション

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 ワイマール共和政の経済状態に触れる前に、インフレーションのおさらいをしておきます。現在、長い間デフレといわれている日本では、身近な日用品や食品、料理品、サービス、ガソリン、電気やガスなどが値上がりしています。この主たる理由は、円安による輸入価格の値上がりや賃金の上昇が原因といわれます。このような円という通貨が安くなるために起こる物価上昇を「コスト・プッシュ・インフレーション」(cost push inflation)と呼ばれています。インフレーションは、国民の総需要が総供給量を上回り物価が上昇すること現象です。しかし、原材料や仕入れ価格、輸送費の上昇を販売価格に上乗せせざるを得ない供給側の問題が現在の「コスト・プッシュ・インフレ」なのです。

hyper inflation on street

 前述のように国民の需要が供給を上回り物価が上昇するがインフレーションです。このことを「ディマンド・プル・インフレーション」(demand pull inflation)といいます。需要(ディマンド)が物価の上昇を誘因するインフレという意味です。この「ディマンド・プル・インフレ」は、賃金の上昇などによって消費者の懐が温かくなり、商品が少々価格が高くても手に入れたい状況のことです。景気が好調な時に起こる現象です。2%位の物価上昇は健全な状態といわれています。

 一般的にコスト・プッシュ・インフレは「望ましくないインフレ」、ディマンド・プル・インフレは「健全なインフレ」と認識されています。現在の原材料や仕入れ価格、輸送費の上昇によって起こっている物価上昇は、「望ましくないインフレ」なのです。

 これまで世界には、いろいろな経済的な危機に見舞われています。その例を二つ紹介します。第一は、1918 年から1933年までのドイツ国家、ワイマール(Weimar)共和政のハイパーインフレーション(hyper inflation)です。ドイツは第一次世界大戦に敗れ、1919年6月に、戦勝国であるフランス、アメリカ、イギリスと、連合国が被った損失と損害に対する責任を実質的に認めるベルサイユ条約(Treaty of Versaillesに署名します。この条約による戦争費用の請求書である賠償金額は、今日の換算で約4,400億ドル、65兆円という額に達しました。この巨額の負担は、ドイツが敗戦後の再建を図る際の大きな経済問題になります。全海外領土と本国の13%を失い、ラインラント(Rhineland)の占領と非軍事化が実施されます。ドイツは賠償の支払いに滞ると、1923年1月にフランスが賠償不払い問題を口実にベルギーとともにルール地方(Ruhr area)の占領に踏み切ります。この占領は、ルール地方は石炭の産出で知られ、工業も盛んな地帯であったからです。

Hyper Inflation with children

 1923年に、ワイマール共和政の通貨パピエルマルク(Papiermark)の価値の暴落が起こります。パピエルマルクとは、「紙のマルク」という意味で、1万マルク紙幣のことです。第一次世界大戦の戦費の負担と、敗戦により課された巨額の賠償により、通貨が乱発されて価値が大幅に下落したのです。マルクの購買力が半日で半分から3分の1になり、賃金や給与は支給直後に物に替えなければならなくなりました。

 小売業や農民は価格上昇を見越して売り惜しみ、物々交換のみに応じるようになります。田舎では豊作にも関わらず、農家がどんな代価を払っても紙幣を受け取ることを断固、拒否したため、収穫は田畑に残ります。食料を手に入れられず、町は飢えて子どもの栄養失調や餓死が続出したといわれます。店舗にはものすごい行列ができ、人々はお金を手に入れるとすぐに、物価が再び上昇する前に、狂ったようにお金を使い始めす。食事をしに行くと、注文してから会計までの間に費用がかさんでしまうことも珍しくなかったといわれます。一般庶民は貯蓄を失なう状態となります。
 
 アダム・ファーガソン(Adam Ferguson)という経済学者は、ワイマール・ドイツにおけるハイパーインフレの原因と現実の姿を次のように記述しています。

「昼夜を問わず、国内の30の製紙工場、150の印刷会社、2,000台の印刷機が働き、紙幣の猛吹雪を絶え間なく増大させ、その下で国の経済は消滅した。」

「カフェーでビールを一杯注文するにも、慎重な人は初めから二杯目を注文しておく。多少なまぬくくなるかもしれないが、その間に値段が上がってしまうといけないからである。」

Carrying money

 ハイパーインフレとなれば、こうした状態になるという例え話です。1922年中には1ドルが162マルクから700マルクまで暴落し、1923年10月のハイパーインフレのピーク時には、1ドルで4兆2,000億マルクが買えるという天文学的数字を記録します。商品の価格は1日あたり21%上昇し、政府は100兆マルク紙幣を導入しました。給料をもらったり、お金を運んだりするのは事実上不可能で、手押し車、かご、スーツケースが必要だったようです。価格を計算して紙幣を数えるのに数分かかる有様になったといわれます。

 1923年10月にザクセン(Saxony)に左翼政府が誕生し、共産党が革命計画を進め、11月にヒットラーによるミュンヘン(Munich)一揆が起こります。同年10月に政府はようやく発行限度を持ち、全産業である農業や商工業の保有資産を担保として、レンテンマルク(Rentenmark)という銀行券を発行します。1レンテンマルク=1兆マルクの比率で回収し、以降は紙幣発行による赤字財政を中止します。これによりインフレは沈静化し、レンテンマルクは安定した通貨価値を持つことに成功するのです。当時この現象は「レンテンマルクの奇跡」と呼ばれます。

 その間、国防軍の力で各地の反乱を鎮めるとともに、経済復興を望むアメリカと革命化を恐れるイギリスの助けを借りて、1924年8月にドーズ案(Dawes Plan)を締結して、賠償問題を暫定的に解決し、ドイツはようやくハイパーインフレを乗り切るのです。ドーズ案とは、アメリカ人の銀行家であるドーズ(C. G. Dawes)が提案したドイツの賠償の支払金額減額による解決案です。賠償不履行による賠償問題は、大戦後の平和にとって不安定材料として懸念されていたのです。ドーズ案は1924年に成立し、アメリカからドイツに多額の資本が流入します。その後、1925年7月にフランスはルール地方から撤退します。
(投稿日時 2024年10月31日)

お金の価値 その十三 インフレーションとハイパーインフレーション

注目

ハイパーインフレーション(hyper inflation)は、物価上昇率が非常に高い状況、さらにその上昇率が加速していく状況のことです。数値による定義は様々ですが、フリードリッヒ・ケーガン(Friedrich Kagan)という経済学者は、ハイパーインフレーションを「月間50パーセントの以上のインフレ率」と定義しました。また、別の学者は、「3年間で累積100%以上の物価上昇」とも定義しています。

インフレーションとは、「膨らんだ状態」という意味です、アメリカの南北戦争時に戦費調達の臨時処置として発行した紙幣の通称が「グリーンバックス」(greenbacks)です。紙幣の裏面が緑色であったのでこう呼ばれました。この紙幣の発行量の膨張に伴って、物価が著しく騰貴したことからインフレーションという用語が定着したといわれます

物価が上昇すると、通貨の流通速度が増します。通貨の購買力が急速に低下するので、誰も通貨をあまり長く持たないで、すぐ使った方がよいという世相になります。明日になると同じ通貨で買えるものが減ってしまうので、賃金は月払いではなく日払いを求めるといった状況も生まれます。現在の日本では、お金をすぐ使わないで貯金しておこう状態です。インフレーションではなくデフレなのです。

アイザワ投資大学より引用

最も一般的なインフレーションの尺度は消費者物価指数(CPI; Consumer Price Index)と呼ばれます。消費者物価指数とは、全国の世帯が購入する財やサービスの価格の変動を測定する経済指標のことです。消費者物価指数は次の簡単な式で表せます。
消費者物価指数(CPI)=(比較時の費用/基準時の費用)×100

例として、一年前に300万円だった物価が今年は315万円になったとしますと、300万円/315万円×100で、消費者物価指数は105となります。

多少のインフレーションは望ましいことであると主張したのが、イギリスの経済学者ケインズ(John Keynes)です。彼は、インフレーションは名目収益を増やすことになり、債務返済を容易にすることで、投資の促進に役立つといいます。その一つの例は、アメリカで1974年に、多額の学生ローンを抱えて大学を卒業した人々は、カーター(James Carter)政権の1970年代後半のインフレーションに感謝したといわれます。というのは、ローンの返済額は名目で固定されていたので、インフレーションによって名目賃金が多かれ少なかれ増えたために、返済が楽になったのです。私も日本育英会、今の日本学生支援機構から借りたローンの返済で同じ経験をした一人です。住宅ローンを固定金利で持っていた庶民が、適度のインフレーションを期待するのと同じことです。

ケインズは、消費を直接的に増やす財政支出政策が最も効果があると主張した学者です。彼の有効需要創出の理論を提唱します。有効需要とは、貨幣の支出に伴って市場に現れる需要のことです。ケインズはは不況時は政府が財政出動し、過剰な生産に応えられるように有効需要を創り出すべきと説いたのです。彼の理論が、大恐慌に苦しむアメリカのルーズベルト大統領(Franklin Roosevelt)によるニューディール政策(New Deal)の強力な後ろ盾となったのは有名です。ニューディール政策により、大規模なダム・道路建設工事などの公共事業をとおして失業者に仕事を与えました。

John M. Keynes

インフレーションとは、物の価格の上昇による貨幣の購買力の低下を意味します。ほとんどの西側諸国や日本はわずかなインフレーションを望んでおり、年間目標を約2%に設定しています。その理由は、消費と企業活動を奨励するという考えからです。ケインズが予測したように、供給が需要に追いつかないときは、供給を促すための投資が必要だという論理です。

後述するドイツ、ワイマール共和国政府は、物の価格の上昇は、紙幣をもっと印刷するだけでこの問題が解決すると把握していたようです。当時の通貨であるドイツマルクに対する対外的信認がなくなり、金融市場での借り入れがほぼ不可能になったため、紙幣の発行と経済不況は悪循環となっていきます。紙幣の印刷の問題は、適度なインフレーションか、制御不能なインフレーションにつながりかねないということです。ドイツマルクに対する対外的信認とは、賠償支払いをドイツマルクで果たそうとしたドイツに対して、フランスなどが「マルクでは駄目だ、ループルとかポンドで払え」ということです。というわけでどの国も、次稿で紹介するワイマールのような事態にならないように通貨の発行や信認に注意を払っているのは当然です。
(投稿日時 2024年10月30日)

お金の価値 その十二 消費税の増税

注目

 現在、消費税の増税や減税について議論されています。この議論は、しばしばその長期、短期的な影響についての両面から注目されています。まず注目しなければならないことです。それは消費税の増税は、消費者の負担増や景気に及ぼす影響と家計への負担を中心とする経済政策に影響を及ぼすことです。増税によって消費者の購買力が一時的に低下する可能性があり、その結果、全体の消費活動が抑制されることが懸念されます。消費の減少は、生産、雇用、所得の低下につながり、結果として経済全体の成長に悪影響を及ぼす可能性があるのです。なお、消費税は間接税です。所得税とか相続税、入湯税などは直接税といわれます。

軽減税率

 家計にとっては、消費税増税は直接的な影響を与えます。日常生活で必要とされる商品やサービスの価格が上昇することで、家計の生活費は増加します。特に、低所得者層や固定収入の家庭では、消費税増税による負担の割合が収入に占める割合が大きくなりがちです。これは、所得が低いほど消費に占める税負担の割合が高くなる逆進性の問題と関連しています。消費税減税や廃止は、こうした問題を解決する方策となるかもしれません。消費者の買い控えは経済全体の成長を妨げる要因となり得ます。

 次に消費税増税の持つメリットです。増税による歳入の増加は、全世代が恩恵を受ける社会保障制度の持続や高齢化社会における医療や介護の資金源となります。また若い世代への教育や子育て支援などにも貢献します。消費税は、いうまでもなく消費者が商品やサービスを購入する際に課せられる税金です。消費者が負担し事業者が納付します。その収入は景気の変動に比較的左右されにくいという特徴があるといわれます。経済状況が変動しても国民の基本的な生活必需品や日常的に利用されるサービスは不可欠であるがゆえに、国民は消費税を黙認し、税収が大きく落ち込むことが少ないのです。

 消費は、国民の実質所得に影響を受けます。総務省が10月5日に発表した5月の家計調査があります。それによりますと、2人以上世帯の消費支出は29万328円と物価変動の影響を除いた実質で前年同月比1.8%減少で、マイナスは2カ月ぶりとあります。その要因として円安の影響で海外旅行が伸びなかったこと、物価高が響いて食料の支出も減ったとあります。消費支出の3割を占める「食料」は3.1%減ということです。消費税が増税されると、この総消費の減少傾向は一段と続くことが容易に予想されます。全面的な消費税の廃止が難しいのであれば、食料品や生活必需品に限って消費税を廃止するのです。ヨーロッパでは「付加価値税」とか「外形標準税」として課税されています。イギリスでは食料品など生活必需品はゼロ税率であり、フランスでも軽減税率適用です。軽減税率とは特定のものを買う場合のみ税率を軽くすることです。

海外の消費税

 厚生労働省が10月8日に発表した「毎月勤労統計調査」では、1人当たりの基本給などにあたる所定内給与は、2023年の8月と比べて3.0%増加し、31年10か月ぶりの高い伸び率となりました。一方で物価の変動分を反映した実質賃金は、物価の上昇に賃金の伸びが追いつかず、昨年8月に比べて0.6%減少しました。実質賃金が上昇しても物価の上昇が続く限り、消費は増えないのです。実質賃金とは、労働者が実際に受け取った給与(名目賃金)から、消費者物価指数に基づく物価変動の影響を差し引いた指数のことです。実質賃金の減少は、当然消費の低下につながります。消費の減少は消費税の低下になり、国の歳入が減ることになります。

 このような状況で、もし消費税増税が実施されれば消費者は購入を控え、全体として国の税による歳入は減ると考えられます。そうすると、いわゆるプライマリー・バランスを達成するために、国の政策の執行に使われる支出も制限されるのは間違いないことです。プライマリー・バランス、つまりに政策的な経費を税収で賄おうとする考え方、そのものが問題なのです。プライマリー・バランス、つまり財政健全化の指標とはデフレを続ける財政方針なのです。
(投稿日時 2024年10月29日)

お金の価値 その十一 国債の種類

注目

 国債には、数多くの種類があります。財務省のWebサイトによれば、大まかに二つの国債があるといわれます。その中でも知られているのが普通国債です。その例は、建設国債、特例国債、復興債、脱炭素成長型経済構造移行債、子ども・子育て支援特例公債、そして借換債です。建設国債とは、財政法第4条第1項にある、公共事業費、出資金及び貸付金の財源を調達するためのものです。特例国債は別名赤字国債と呼ばれ、税などによる歳入が不足すると見込まれる場合に、公共事業費等以外の歳出に充てる財源を調達するものです。例えば、社会保険制度や年金制度で保険で賄えない場合に、赤字国債で補填するといったことです。復興債は、東日本大震災からの復興のための施策に必要な財源のつなぎとして発行されています。子ども・子育て支援特例公債は「子ども・子育て支援法」に基づき、財源を確保するまでのつなぎとして、2024年度から2028年度まで発行されるものです。

国債は国の債券

 借換債は、普通国債の償還にあてる公債です。毎年度多額の国債償還の満期がやってきます。こうした国債のすべてを償還して終わるのではなく、多くは再度国債を発行して借り換えるのです。ここで知っておくべきことは、借換債によって、国の債務が増加するわけではありません。例えとして家計でいえば、借金を返済するために、新たに借金し、前の借金を返すということです。借金額が変わらず長く続くだけのことです。

 かつては赤字国債の発行にあたり毎年度、国会の議決で特例法を制定していました。それでは手続きが煩雑で時間がかかるので、2012年度の途中からは複数年度にわたり適用される特例法に基づいて特例公債が発行されるようになりました。現在は、特例公債の発行期間を2021年度から2025年度までの5年間とし、一般会計の歳出の財源にあてています。個人向け国債については、額面1万円から、1万円単位で、新窓販国債については、額面5万円から、5万円単位で購入可能です。国債は、市場で売買される金融商品なので、満期前でも売却し、換金することが可能です。

 再度申し上げますが、国債の償還等の経理を行う国債整理基金特別会計では、毎年度多額の国債の満期がやってきます。このとき利払い費を含めて国債のすべてを償還して終わるのではありません。多くは再び国債を発行して借り換えるという措置をとります。これを借換国債といい、通常は借換債と呼ばれています。このように借換債の発行によって、国の債務は借り換えという措置によって、増えることはないのです。

昭和の戦時国債

 財務省のサイトによれば、日本では、歳出と歳入の乖離が広がり借金が膨らんでおり、受益と負担の均衡がとれていない状況だと言っています。日本経済をオオカミ少年のように「危ないぞ、危ないぞ」と言っているようなものです。現在の世代が自分たちのために財政支出を行えば、これは将来世代に負担を先送りすることになるというのです。これは本当でしょうか。国の借金は国民の借金ではありません。財務省はさらに「社会保障の給付と負担の不均衡状態をはじめ、借金返済の負担が先送りされることで、将来の国民が社会保障や教育など必要なものに使えるお金が減少したり、増税などによって負担が増加する恐れがある」とも言っています。「社会保障の給付と負担の不均衡状態」になるのは、防衛費の増大などによって生まれるのです。

 財務省は国の借金について次のように解説しています。
 「借金が膨らむと、自由に使えるお金が少なくなってしまい、大きな災害などによって多くのお金が必要となった場合に、すぐに対応できなくなってしまう恐れがあります。」 「国の財政状況の悪化により、国が発行する国債や通貨に対する信認が低下すると、金利が大きく上昇したり、円の価値が暴落して過度な円安になってり、物価が急激に上昇するなどのリスクがあります。」

 こうした借金財政に対して、財務省は長らく「税制健全化」ということをうたい文句としています。それは2025年度に国と地方をあわせたプライマリー・バランス(primary balance :PB)を黒字化すること、そして債務残高対GDP比の安定的な引き下げを掲げています。プライマリー・バランスとは、税収や税外収入から国債の元本返済や利子の支払いに充てられる費用などを除いた歳出との収支を表す指標で、「基礎的財政収支」と呼ばれます。つまり、「収入と支出のバランス」のことで、社会保障や公共事業に代表されるような行政が行うサービスにかかる経費を、消費税等の税収で賄えているかどうかを示しています。

 PB黒字化の達成のために、増税案などが叫ばれています。政府は2022年末に、防衛力の抜本的な強化のための防衛費増額とその財源確保を決めました。その財源には法人、所得、たばこの3税で2027年度までに1兆円強を賄う増税策が含まれました。しかし、増税を通じた財源確保について、自民党内から予想以上に強い反発が出たため、2022年末の与党税制大綱には、防衛増税の実施を盛り込むことができませんでした。未だに「財源はどうする?」と問うマスコミに対して、言い訳に苦心する政治家、財務省の官僚がいます。そして結局は増税論議になるのです。通貨発行権のある国の政府にお金の制約はないのです。

 政府は、自民党内部からの強い反対によって、2024年度には、増税をしないと決め、さらに定額減税実施の方針を決めました。増税による恒久財源確保ができない場合は、防衛費増額を見直しているのです。その場合、赤字国債の発行による防衛費の財源確保の可能性があります。このように国債は、プライマリー・バランスによる「税制健全化」方針の論議にいつも登場する話題です。通貨発行権のある国の政府にお金の制約はないと思うのです。もの・サービスの供給能力が問題であってデフレの中、インフレーションを懸念しては事は始まらないのです。
(投稿日時 2024年10月28日)