貨幣論 その2 インガムの貨幣論

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ケンブリッジ大学(University of Cambridge) の経済社会学者にジェフリー・インガム(Geoffrey Ingham)がいます。主著は 1996年論文「貨幣は社会関係(Money is a Social Relation)」と、2004年著書「貨幣の本質(The Nature of Money)」です。彼の貨幣論は、経済学・社会学・歴史学の学際的視点から貨幣の本質を根底から問い直すものといわれています。というのは、伝統的な商品価値としての貨幣論から訣別する先駆的な理論といわれるからです。その理由は以下のようなことです。

Geoffrey Ingham (ケンブリッジ大学から引用)

 インガムの貨幣論の出発点は、主流派とか新古典派と呼ばれる経済学への根本的批判から始まります。新古典派の貨幣論は、「物々交換」から貨幣が生まれたと説明します。孤立した個人が物々交換の不便を解消するために貨幣を自然発生的に生み出した、と説明します。インガムはこうした立場を歴史的根拠のない「神話」と断じます。人類学や歴史学の検証では、物々交換が貨幣に先行した社会は存在しないことを示しており、むしろ信用(credit )関係こそが貨幣より先に存在したと主張します。

 主流派経済学では貨幣は実物経済に対する「貨幣は中立的なヴェール」にすぎないと見なします。この意味は、「お金は交換の仲立ちをするだけの存在であり、お金の量を操作したところで、国全体の生産力や豊かさという本質は変わらない」というのです。「貨幣を中立的なヴェール」と宣明するのは、方法論的な出発点が物々交換モデルという虚構に基づいているからです。インガムはこれを否定し、貨幣は実物経済を根底から構造化する社会的力だと主張します。インガムの核心的な命題は、「貨幣とは、計算貨幣の単位によって表示された信用と負債の社会関係である」というのです。 貨幣は社会関係であると主張するのです。

 つまり、貨幣は「モノ(商品)」ではなく、人々の間の債権や債務の社会関係そのものと考えるのです。金貨であれ紙幣であれ、その物質的形態は本質ではなく、貨幣が「誰かが誰かに対して何かを支払う義務を負っている」という社会関係を体現していると考えるのです。現実の資本主義経済では、銀行による「信用創造(credit creation」こそが投資と生産を可能にし、貨幣は決して受動的な「ヴェール」ではなく、経済を能動的に形作る構造的な力だという主張です。

 インガムの理論は4つの基本要素からなります。第一は、計算貨幣(Money of Account)という最も根本的な概念です。インガムにとって、貨幣の最も根源的な機能は「計算単位(measure of value)」です。円、ドル、ポンドといった抽象的な価値の尺度が先にあり、その単位で表示された信用や負債が「貨幣」となるというのです。交換を可能にする「媒介手段」より、価値を計測し記録する「計算単位」こそが貨幣の本質だと強調します。これはメイナード・ケインズ(Maynard Keynes) が「貨幣の計算単位は貨幣理論の本源的概念だ」という洞察を継承したものといわれます。

 第二は、信用貨幣論(Credit Theory of Money)です。インガムは、アルフレッド・イネス(Alfred Mitchell-Innes)の貨幣の信用理論を発展させ、貨幣の発行とは負債の創造であり、銀行が貸出を行うとき、銀行の負債(預金)が新たに「創造」されると主張します。この考えは前述した信用創造とも呼ばれています。貨幣を受けとった者は「将来において財・サービスを受け取る権利」を得るのです。

 信用創造の一例を申し上げます。A銀行が100万円を借りたいというB会社に貸し出す際、手元の預金からB会社に又貸しするのではありません。単にB会社の口座に100万円と記帳するだけです。その記帳の瞬間に100万円という預金、すなわち貨幣が創造されるのです。B会社はそれによって収益を上げたとき、借りた額をA銀行に返済すると、100万円という貨幣は消滅するのです。言い換えれば預金通貨という貨幣は、民間銀行と民間企業との間に「信用ー負債」という社会関係が成立することで創造されるのです。その関係が終わると社会関係は解消されるのです。この関係では、100万円という札の束の交換という行為は全く存在しません。

(iLinkより引用)

 すべての貨幣は誰かの負債であります。そしてその「信用度」や「通用力」には階層があります。これは「負債のピラミッド(Debt pyramid)」と呼ばれます。ピラミッドの上に行くほど信用度が高く、決済の最終手段として機能します。ピラミッドの最上層は、政府や中央銀行が発行する貨幣です。紙幣、硬貨、および民間銀行が中央銀行に預けている「日銀当座預金(準備預金)」がピラミッドというわけです。日銀当座預金は、銀行などの金融機関が日本銀行に開設している原則、無利息の口座です。銀行間の決済、現金決済、および法定の準備預金を預け入れるために使用されます。

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貨幣論 その1 現金よ さらば!

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現在、経済や財政において「貨幣のあり方が変わっている」と言われる背景には、いくつかの重要な要素があります。これらの変化は、特にデジタル化や金融技術(フィンテック:FinTech)、そして中央銀行デジタル通貨(Central Bank Digital Currency:CBDC)などの進展に関連しているようです。フィンテックとは、金融(Finance)と技術(Technology)を組み合わせた造語で、IT技術を活用した革新的な金融サービスや事業領域のことを意味します。具体的に言うと、以下のような貨幣のあり方の進展が挙げられます。

1 デジタル通貨の台頭
 現金や物理的な通貨に代わって、暗号資産(仮想通貨)(crypto-asset)や中央銀行が発行するデジタル通貨が注目されています。例えば、暗号資産のビットコイン(Bitcoin)やイーサリアム(Ethereum)は、従来の貨幣システムとは異なる分散型の仕組みで運営されています。これらは銀行を通さずに直接取引ができるため、従来の金融システムに対する挑戦として位置づけられています。また、中央銀行が発行するデジタル通貨も進行中です。これは国家が管理するデジタル通貨で、現金に代わる形で流通する可能性があります。中国ではすでに「デジタル元」の試験運用が行われています。

    日本銀行のサイトによれば、「暗号資産は、国家やその中央銀行によって発行された法定通貨ではないこと、また、裏付け資産を持っていないことなどから、利用者の需給関係などのさまざまな要因によって、暗号資産の価格が大きく変動する傾向にある点には注意が必要」と喚起されています。暗号資産交換業者は金融庁・財務局への登録が必要となっています。

    NHKサイトから引用

    2 金融政策の変化
     近年、各国の中央銀行は、経済成長を支えるために、利下げや量的緩和(quantitative easing: QE)などの政策を採用しています。これにより、金利が低水準に保たれ、貨幣の供給が増加しています。同時に低金利環境が長期化する中で、伝統的な貨幣政策が限界を迎えつつあるという議論もあります。これに対応するために、新しい金融政策、例えば、直接給付金の支給や特定分野への財政支出の増加が決定され、従来の「通貨の供給量を増やす」という方法に頼らないアプローチが増えてきています。

    3 グローバルな通貨の変動と多国籍取引
     グローバル化が進む中で、特にインターネットを通じた取引やクロスボーダーの商取引が増えており、複数の通貨が同時に流通する状況が広がっています。国際的な支払いに仮想通貨やデジタル通貨が使用されることが増え、各国の通貨政策の影響を受けない形での取引が可能となりつつあります。

     今や世界にある暗号資産の総数は年々増えていく傾向にあり、世界で1千種類以上あるとされています。このように、貨幣のあり方は単に「お金」の形態だけでなく、その流通方法、管理方法、使い方においても大きな変革を迎えており、特にデジタル技術の進化がその中心にあるとされています。これにより、従来の銀行システムや国家が管理する貨幣システムに対する挑戦が高まってきているのです。この変化がさらに進むと貨幣の本質や役割についても再定義される可能性があり、金融業界や政府の政策に大きな影響を及ぼすといわれます。

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    貨幣論の歴史と本質

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    最近私は現金をほとんど使う機会がありません。これまで財布は100円や10円、1円が一杯で膨れていて誠に困りました。今、普段の買い物の支払い、各種の税金や社会保険料、電気やガス料金、公共放送受信料、ネット上での購入支払い、交通機関の利用、年金の受け取りなど、現金での受け渡しなどはなりました。すべてキャッシュレスです。

     世界的にキャッシュレス社会が進んでいます。スマートフォンやカードを使った電子決済が日常化し、現金の使用が減少しています。これにより、貨幣の形態そのものが物理的な「コイン」や「紙幣」から、デジタルな形式に変化しつつあります。例えば、PayPay、LINE PayなどでのQRコード決済や、クレジットカード、デジタル地域通貨、Apple Payなど、物理的な貨幣を使わずに取引が完結する方法が広まっています。これにより、経済活動の速度や効率が格段に上がり、取引コストが下がっているのが現実です。こうした経済社会における貨幣の変容に伴い、本稿では六回にわたり貨幣の本質やその枠割りを探っていくことにします。

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    常識を疑え

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    「事実に基づく報道」というフレーズをしばしば耳にします。公共放送の綱領はそのように謳っています。しかし、このような常識については立ち止まって考える必要があります。本稿はメディア界の常識を考えることにします。

     メディアの常識にはいろいろあります。まず「ニュースは事実を中立・客観的に伝えている」とか「意見が対立する問題では多角的に論点を提示する」といわれます。これは多くの人が無意識に信じている前提ですが、かなり怪しいのです。何故かといえば、報道には必ず次のような工程が入ります。何をニュースにするかという選択、誰が記事を書くのか、次にどの順番で伝えるかという順位、そしてどんな言葉や表現を使うか、最後に誰のコメントを載せるかという手続きです。このような過程では、すでに編集という価値判断が入っています。

     メディアの常識の第二は、「専門家のコメントは信頼できる」という神話です。いろいろな報道や討論系番組が調査や特集型の報道番組があります。よくある構図ですが、そこには特定の立場に近いメディア向けに「使いやすい」人が繰り返し招かれています。政策に近い専門家が呼ばれ、政策を批判する専門家が登場しないのです。テレビ局は「バランスはとった」と主張するようですが、いつも「お抱え」、「お気に入り」のような人間が登場します。このような「常連」からは、論点の深さや前提は検証されないと感じるのです。

     メディアの常識の第三は、「数字やデータは嘘をつかない」というフレーズです。これも強力な常識です。例えば、「2024~2025年時点の政府債務残高対GDP比は250%超で、主要先進国の中で群を抜いて世界最高水準にある」という説明です。しかし、政府の持つ資産を差し引いた「純債務」で見ると、OECD基準では日本はイタリア等より低いのです。つまり、どの数字を使うか、比較対象を何にするかによって見方は異なるのです。

     日本の国会議員は多すぎる、公務員数が多すぎる、公務員の給与は高すぎる、公共投資が多すぎる、といった常識は、国際比較をすれば間違いであることは明らかなのです。「失業率は改善している」という報道があったとします。この場合、非正規や短時間労働を含めると実態は不確実ではないかという疑問が浮かびます。「支持率◯%」と報道されても調査方法や標本の選び方、その母数、質問文の内容が分からないと失業率の報道は信頼できません。

     メディアの常識の第四は、「報道機関は権力を監視する存在である」といわれることです。確かに理念としては正しいようですが、現実はかなり複雑です。報道機関は、政党や政府の監視を受けています。例えば、過激な報道をすると「放送権を取り上げる」と脅されることもあります。結果として本質的に危険な話題は避け、対立を「分かりやすい対立構図」に単純化する傾向が生まれます。

     メディアの常識の第五は、記者クラブ制度による報道内容の均一性ということです。記者クラブは日本の官公庁や企業に大手メディアが常駐し、情報提供や記者会見を独占する特権的構造が、閉鎖的で権力との癒着を招いている問題です。フリーランスや新興メディアを排除し、発表中心の「発表報道」による監視機能低下が問題視されています。取材機会の不平等も長年批判されています。さらに報道機関は、視聴率やクリック数企業や広告主との良好な関係を保たないと番組のスポンサーから降りられます。こうした利益誘導によって迎合的な姿勢をとってしまいます。

    「常識を疑う」とは、メディアを敵視することではなく、距離をとることです。なぜ今これを報じているのか?、誰かの視点が欠けていないか?、逆の立場から見るとどうなる?、というように立ち止まって自問自答することです。いわゆるクリティカル・シンキング(critical thinking) が大切です。

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    合衆国のアファーマティブ・アクションの歴史

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    積極的差別是正措置とか積極的格差是正措置とかの英語は「アファーマティブ・アクション(affirmative action)」といいます。政府または組織が制度的差別に対処しようとする一連の政策と慣行を指します。歴史的にも国際的にも、アファーマティブ・アクションへの支持は、雇用と賃金の不平等の是正、教育へのアクセスの拡大、多様性、社会的平等、社会的包摂の促進、そして不当、損害、または実質的平等とも呼ばれる阻害の是正に役立つ可能性があるという考えによって正当化されてきました。過去の差別により不利益を被ってきた女性、マイノリティ、障害者などに対し、実質的な機会均等を実現するため、雇用や教育の場で特別な優遇措置や優先枠を設ける取り組みのことです。

    BBCより引用

     アファーマティブ・アクション政策の性質は地域によって異なり、厳格な割当制から、参加促進を目的とした奨励のみを目的とするものまで、様々な形態があります。一部の国では、割当制を採用しており、特定のグループのメンバーのために、政府職、政治的地位、学校の空席の一定割合を確保しています。

     割当制を採用していない他の領域では、少数派グループのメンバーは選考プロセスにおいて優先権または特別な配慮を受けています。合衆国では、大統領令による積極的差別是正措置は、当初は人種に関わらず選抜を行うことを意味していました。そして大学入学選抜においては、2003年の最高裁判所のグラッター対ボリンジャー(Grutter v. Bollinger)事件起こります。ミシガン大学ロー・スクールを受験しますが不合格となった原告は、大学側が人種的少数派を優遇し、成績の良い白人応募者を差別すのは、合衆国憲法修正第14条の平等保護条項に違反しているとして訴えます。 最高裁は5対4の僅差でロー・スクールの入試政策は合憲であると裁決したのです。

     2023年に学生公正入学協会対ハーヴァード(Students for Fair Admissions v. Harvard) 事件でこの判決が覆されるまで、この優遇措置は広く実施されていました。この事件は、ハーヴァード大学が入学選考で人種を考慮するアファーマティブ・アクションがアジア系への差別にあたるとして争われた訴訟です。2023年6月、最高裁はこの選考基準が「法の下の平等」に違反し違憲であるという画期的な判決を下すのです。

     合衆国では、以上のように積極的差別是正措置は議論の的となっていて、この問題に関する世論は分かれています。アファーマティブ・アクションの支持者は、それが集団の実質的な平等や社会的経済的に恵まれない集団や歴史的に差別や抑圧に直面してきた人々の権利を促進すると主張します。アファーマティブ・アクションに反対する人々は、それが逆差別の一形態であると主張するのです。アファーマティブ・アクションは、多数派集団内の最も恵まれない人々を犠牲にして、少数派集団内の最も恵まれた人々を利益にする傾向があると主張して反対するのです。

    (Lighthouse Haeaiiより引用)

     ヨーロッパにおける一般的に見られる積極的差別是正措置は、ポジティブ・アクション(positive action)として知られており、これは、少数派集団を特定の分野に参入させることで機会均等を促進するものです。ポジティブ・アクションには多様な手法があり、例えば、各団体、企業、大学、研究機関などの特性に応じて次のような方法をとります。
     (1) 指導的地位に就く女性等の数値に関する枠などを設定する方式で「クオータ制」と呼ばれ性別を基準に一定の人数や比率を割り当てる手法です。
     (2) ゴール・アンド・タイムテーブル(goal and timetable) 方式は、指導的地位に就く女性等の数値に関して、達成すべき目標と達成までの期間の目安を示してその実現に努力する手法のことです。

     わが国における女性の参画は徐々に増加していますが、他の先進諸国と比べて低い水準であり、残念なことにその差は拡大しているといわれます。ただ、史上初の女性内閣総理大臣の登場で男女共同参画の国民感情と不平等解消の諸政策は推進されるかもしれません。

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    外来語の動詞化とノリ

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    このところ若者だけでなく中年の主婦が「あの品物をググってみた」と使うのを耳にします。先日アメリカの友人が、スーパーボウルの話題について「You should be able to google the article of NFL. 」(NFLの記事を検索できるぞ)と書いてきました。今や「 google」も動詞化されているのです。言葉は生き物ですから、多様に変化するのは当然としても、こからどこまでこうした単語が動詞化され、愛嬌とおかしみという「フラ」が生まれるかは興味あることです。

     動詞化にはいくつかの現象があります。第一はサービス名の外来語が動詞化することです。それは特にITとかSNS系が多いことです。前述の「ググる」の他に「ラインする」、「ズームする」、「ウーバーする」、「インスタる」、「ブックする」といった具合です。第二は、若者の言葉が俗語としての動詞化することです。くだけた会話でよく使われます。「バズる」、「ミスる」、「ディスる」、「パニクる」、「メモる」、「トラブる」「ハモる」、「バズる」というように「〜る」をつけて五段動詞化するのが特徴です。ちなみに、「バズる」とは蜂の羽音を表現するざわめき「buzz」という用語からきたものです。

     第三は、表現が意味する行為がはっきりしていて、操作したりアクションすることが想像できることです。「to friend 」という言い方は「友達に追加する」という意味であり、「to DM」は「ダイレクトメッセージを送る」ということです。」このような使い方は、「何をしたか」が説明なしで伝わり動詞にしやすいのです。会話の途中で「とっさに使いたい」という場面が多いのが特徴となります。「あとでググるわ」、「もうフレンドした?」、「それDMして!」というように会話でとっさに使いたいときに出てくるのです。

     第四は、代替語がないとか用語が定着していないと、名前がそのまま動詞になる場合です。例えば、「to photoshop」は「写真を加工する」、「to uber」は「アプリで車を呼ぶ」とか「アプリで配達してもらう」とい按配です。ついでですが、Uberが日本で急速に浸透したのは、コロナによる強制的な生活変化、出前文化との相性、決済環境の成熟、配達員や店舗の参加しやすさということのようです。スマホの普及と共に日本の「宅配文化」と相性が良かったのです。

     日本人はもともと時間厳守や出前、口コミが重視されてきました。言葉の動詞化はそうした文化の合理性とノリの両方で進化しているのが面白いところです。

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    ダイバーシティとは

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    詩人金子みすゞの著作「私と小鳥と鈴と」の中に、有名な「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」というフレーズがありました。本稿は、多様性とか「みんなちがっていい」というダイバーシティという話題です。

    金子みすゞ

    英語の多様性(diversity)の語源は、ラテン語の「diverstias」に由来するといわれます。 diversitas は、動詞 divertere(向きを変える、離れる)から派生した形容詞です。興味あることですが、もともともは「一致可能なものに反すること(Difference)、矛盾とか対立するもの、一致しないもの」といった消極的な意味を有していたとされます。それと同時に「相違、多様、様々な形になる」という意味も併せ持っていたともいわれます。

    17世紀になって、消極的な意味が失われ、現在のように使われるようになった多様性とは、性別、民族、人種、性的指向、年齢、障害、文化、階級、宗教、その他の人生経験など、より広範なコミュニティ全体を反映しているかどうかを指します。2001年11月にユネスコ(UNESCO)の「文化的多様性に関する世界宣言」の第一条では、「生物的多様性が自然にとって必要であるのと同様に、文化的多様性は、交流、革新、創造の源として、人類に必要なものである。この意味において、文化的多様性は人類共通の遺産であり、現在及び将来の世代のためにその重要性が認識され、主張されるべきものである」と規定されています。

    1992年6月に締結された「生物の多様性に関する条約(Convention on Biological Diversity)」の前文は、「締結国は、生物の多様性が有する内在的な価値並びに生物の多様性及びその構成要素が有する生態学上、遺伝上、社会上、経済上、科学上、教育上、文化上レクリエーション上及び芸術上の価値を意識し」という表現を使い次のような多様性をうたっています。

    ■ジェンダーの多様性(Gender diversity):
     特定の集団における男性、女性、およびノンバイナリー(nonbinary)の個人の代表性を意味します。`
    ■年齢の多様性(Age diversity):
     様々な世代の個人を包含できるように年齢分布を示します。
    ■人種的および民族的多様性(Racial and ethnic diversity):
     集団が国民的または文化的伝統を共有する個人で構成されているかどうか、あるいは多様な出身地や背景を持つ個人で構成されているかどうかを評価します。
    ■身体能力の多様性(Physical ability diversity):
     目に見える障害と目に見えない障害のある人々の視点とそうした人々の役割や貢献を考慮することです。
    ■神経多様性(Neurodiversity):
     Neuro(脳・神経)とDiversity(多様性)の2つを組み合わせた造語で、「脳や神経、それに由来する個人レベルでの様々な特性の違いを多様性と捉えて相互に尊重し、それらの違いを社会の中で活かしていこう」という考え方です。特に、発達障害において生じる現象を、能力の欠如や優劣ではなく「人間のゲノムの自然で正常な変異」として捉えるという概念で「ニューロダイバーシティ」と呼ばれています。

    金子みすゞが言わんとしたことは、人種や身体の特徴、感じ方や考え方、そして得意、不得意。これらがみな異なるからこそ、私たちは互いに助け合うことができるということです。「ダイバーシティ」とか「多様性」という概念を先取りした金子みすゞの発想に敬服するものです。私たち一人ひとりの多様さや違いは、この社会全体にとって、必ず意味があり、不可欠なものといえます。

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    サステナビリティとは

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    新しい概念が英語圏から次から次へと入ってくる時代です。IT、ビジネス、国際政治、環境問題などの分野がそうです。今回は、最初から英語で生まれた考え方である「サステナビリティ(sustainability」という用語を取り上げます。

    サステナビリティは「持続可能性」と訳されています。この概念は、現代の環境運動によって注目を集めました。この運動は、資源の利用、成長、消費のパターンが生態系の健全性と将来世代の幸福を脅かす現代社会の持続不可能な性質を非難したことで注目されます。持続可能性は、短期的で近視眼的で無駄な行動に代わる選択肢として提起されています。さらに既存の制度を評価する基準としても持続可能性が取り上げられます。つまり、社会が目指すべき目標として機能するものだと考えられています。

    持続可能性はまた、既存の社会組織の形態を検証し、それらが破壊的な慣行をどの程度促進しているかを判断することにも応用されます。そしてより持続可能な活動の発展を促進するために、どうすれば人間は、現状を意識的に変革する努力することが必要かを問うのです。

    持続可能性は、「持続可能な収穫」、「持続可能な社会」、「持続可能な開発」といった概念の中核を成しています。持続可能な収穫とは、木材や魚など、特定の自己再生可能な天然資源の収穫を指します。小魚はリリースする、漁獲量を制限する、無農薬農業を進める、太陽光、風力、水力など再生可能エネルギーを増やす、など多数あります。このような収穫は、基盤となる自然システムの再生能力によって支えられるため、原則として無期限に維持できるのです。

    持続可能な社会とは、生態学的限界によって定められた境界内で生きることを目指す社会です。電気自動車の普及とか、公共交通の利用などで環境に過度の負担をかける慣行が改革または廃止されることにより、皆が安心して暮らせる継続的な社会を維持することができます。最後に、持続可能な開発とは、現在および将来の世代のニーズに対応し、経済、社会、環境の考慮事項を意思決定にうまく統合する社会発展のプロセスを指します。17の目標とわれるSDGs(Sustainable Development Goals) は、この持続可能な開発を実現するための具体的な課題リストとなっており貧困や教育、ジェンダー、気候変動を含んだ包括的な目標となっています。

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    コルティナ・ダンペッツォと歌劇

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    2026年2月6日、第25回オリンピック冬季競技大会がイタリア北部の都市ミラノ(Milano)とコルティナ・ダンペッツォ(Cortina d’Ampezzo)で開催されました。この大会の開会式を観ながらいくつかの感慨のようなものを覚えました。第一は演出の素晴らしさです。開会式がまるで歌劇を観ているような雰囲気です。歌があり踊りがあり、そして野外劇場のような晴れやかな舞台がありました。第二は歌劇の三大巨匠の曲をふんだんにとりいれてイタリアを演出していたことです。三大巨匠とは、ヴェルディ(Giuseppe Verdi)、プッチーニ(Antonio Puccini)、そしてロッシーニ(Gioachino Rossini)です。第三は、観客の感情を揺さぶる劇的な演出です。開放感、真面目さ、衣装の美しさ、そして悲劇的な演出です。父親が戦場で戦っているという息子が晴れやかな舞台で手を振るウクライナの選手の姿がありました。

    Cortina d’Ampezzo

     コルティナ・ダンペッツォといえば、アルペンスキー回転で猪谷千春が1956年に日本人として冬季オリンピック史上初の銀メダルを獲得した場所です。このとき、オーストリアのトニー・ザイラー(Anton Sailer)が回転・大回転・滑降全てで金メダルを史上初めて獲得したのも思い出されます。1956年といえば私は中学一年生のときです。新聞に載った猪谷の滑りの写真をはっきりと記憶に残っています。猪谷は北海道の国後島で生まれ、大きくなってからニューハンプシャー州にあるダートマス大学(Dartmouth College)で学業と筋力トレーニングをします。ダートマス大学を卒業後、1954年にコロラド州アスペンでの全米大会で優勝、1955年から1957年まで全米大学体育協会(NCAA)の スキー選手権大会の回転競技部門で三連覇するのです。

     歴史的な音楽の先進国がイタリアです。西洋の伝統音楽における代表的な楽器のバイオリンやピアノなどの多くは、イタリア語を母国語とする製造者によってその原型が確立されたといわれます。現在も世界中で通用する音楽関連の専門用語の多くは、イタリア語となっています。今度のオリンピック大会の開会式で音楽をふんだんに取り入れ、音楽の本場はイタリアであることを強調していました。特に劇場型のオペラを思わせる見事な演出から三人の作曲家を取り上げてみます。

     イタリアの特にオペラの歴史において、「三大作曲家」とか三大巨匠と称されるヴェルディ、プッチーニ、そしてロッシーニは、その華麗な音楽とは裏腹に、私生活や作品において極めて「過激」なエピソードを残しています。オペラ王の異名を持つヴェルディはイタリア統一運動の英雄的な存在であり、その頑固さと妥協しない性格が過激さとして表れました。妥協なき芸術性の持ち主で、劇場支配人や歌手の要求を跳ね除け、自身の音楽的信念を強引に押し通したといわれます。代表作として『椿姫(The Lady of the Camellias)』や『アイーダ(Aida)』があります。歌詞の中に革命歌も取り入れているほどです。

     クラシック界の伊達男と呼ばれていたのがプッチーニです。過激な女性関係を持ち、浮気を原動力として作曲すると公言していたとされます。なんとも呑気で天衣無縫な態度です。作風の過激さも知られ、『トスカ(Tosca)』では拷問シーン、『蝶々夫人(Madame Butterfly)』では刀を喉に突き立てて自殺、『ラ・ボエーム(La Boheme)』では不治の病、結核による死など、観客の感情を揺さぶる劇的な展開を惜しみなく表現しました。

     ロッシーニは喜劇の巨匠といわれます。『セビリアの理髪師(The Barber of Seville)』をわずか2〜3週間で書き上げるなど、天才的な作曲速度で知られています。毒舌でも知られ、他の作曲家を批判する際、ブラックジョークを駆使したといわれます。 『セビリアの理髪師』の他に『ウィリアム・テル(William Tell)』などのオペラ作曲家として最もよく知られ、その作品は当時の大衆に非常に人気があったといわれます。

     オペラの他にも、ルネッサンス期(Renaissance)の声楽曲のマドリガル(madrigal)、世俗歌曲のフロットラ(frottola)やイタリア流行歌であるカンツォネッタ(canzonetta)など、我が国でも知られているイタリア音楽の作品形式は幅広いものがあります。イタリアの国歌には、「我らは何世紀にもわたり、虐げられ、嘲れてきた、歩兵隊に参加せよ、我らに死の覚悟あり、イタリアが叫んでいる、、そうだ!」とあります。実に勇ましくミラノ・コルティナのオリンピックはそのイタリア市民の叫びを発散しているかのようです。

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    Free At Last !

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    本日、1月第3月曜日はアメリカの祝日の一つ、「 Martin Luther King Jr. Day」(キング牧師記念日)です。1983年にキング牧師の功績を称え、その生誕を記念する祝日を制定する法案がレーガン大統領政権下で可決され署名されました。キング牧師の暗殺から15年後のことです。キング牧師の演説 「I Have a Dream」(私には夢がある)は世界中の学校の教科書に載ったといわれるほど明快で力強い響きがあります。

     1963年8月、ワシントン大行進(Civil Rights March on Washington)で行われたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の「私には夢がある」演説は、アフリカ系アメリカ人の公民権と経済的権利を熱烈に要求し、奴隷解放宣言(Emancipation Proclamation)と憲法にもかかわらず、国家が平等の約束を果たせていない現状を浮き彫りにしました。キング牧師は、人種隔離のない未来のアメリカ、つま肌の色ではなく人格で人々が判断される未来のアメリカというビジョンを明確に示し、統合と友愛というこの夢を実現するために非暴力による抗議を訴えたのです。この演説は公民権運動(Civil RIghts Movement) にとって決定的な瞬間となり1964年の公民権法(Civil Rights)成立のきっかけとなりました。

    Rev. Martin Luther King Jr.

     

     ワシントン大行進でキング牧師は、解放から100年経った今でも黒人アメリカ人は差別に直面し、基本的自由を奪われていると主張し、それを「残高不足」(bad check)と記された「不渡り小切手」(insufficient funds)と呼びました。そして平等の夢としてキング牧師は、自分の子どもたちとすべての人々が偏見なく調和して共に暮らす国家の姿を鮮やかに描きました。それを次のように訴えます。

    I have a dream that my four little children will be not judged by the color of their skin but the content of their character.

    ワシントン大行進 (沖縄タイムズより引用)

     キング牧師は非暴力抵抗を訴え、信奉者たちに尊厳を保ち、憎しみを避けるよう促し、彼らの闘争を平和的手段による正義を求める運動へと変容させます。人種差別と不正義を終わらせるための即時の行動を呼びかけ、アメリカ全土の山々から「自由の鐘を鳴らせ!(Let freedom ring)」、そして「必ずや自由を」(Free at last!)という力強い合唱で演説を締めくくります。このフレーズは、自由を求める全国的な要求を象徴するものとなりました。

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    恭賀新禧 2026年

    注目

     「月日は百代の過客にして、行き交ふ年も又旅人也」と芭蕉が『奥の細道』の冒頭で歌っています。ほとんどの人が高校時代に口ずさみました。Wikipediaで復習しますと「百代」とは永遠、「過客」とは旅人という意味だそうです。人に会うたびに、「本当に昨年はあっという間でしたね」という会話になります。時間は止まることがありません。そして今年は午年、偶然にも私の年です。亡き両親に感謝。

    八王子市在住 原田朋栄氏作 (引用許諾済)

     大晦日の午後、駐車場脇に植えている花に水をやっていましたら、一階にお住まいの方から声をかけられました。ちょっとした立ち話をしていると、かつてシカゴで働いていたそうで、ウィスコンシン州のことも話題となりました。実は、私の3人の子どもと5人の孫はウィスコンシン州、マサチューセッツ州、ニューハンプシャー州、そしてモンタナ州に住んでいます。と言うわけで、私の一家は、日本を離れて各地に散らばる「ディアスポラ(Diaspora)」なのです。ディアスポラとは、古代ギリシア語で「離散」を意味するようです。世界史では、ユダヤ人が故郷を追われ離散した歴史、例えばバビロン捕囚などに由来すると言われます。

     今日、日系何々人と呼ばれる人々は、アメリカ、イギリス、カナダ、ブラジル、フリッピンなどで暮らしています。日系人初のアメリカ連邦議員となったダニエル・イノウエ氏とか2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏といった有名な人から、無数の名もなき人々まで、それぞれの地においてコミュニティを形成し、彼の地で貢献してきました。いわば現代のディアスポラです。

     マディソンで小中高の教育を受けた子どもはそのまま大学へ進み、今はアメリカ国籍を得て仕事をし家族を育てています。と言うわけで、我が家は堂々と「ディアスポラ」の一員と名乗ってよいと思われます。生前の父から私の家系を聞いたことがあります。元々は平家の落人で青森県の弘前付近に身を隠したようです。時代を経て両親は樺太へ移住し、戦後は北海道の美幌に引き揚げます。それから名寄、稚内、深川、旭川、札幌、下田と転々とし八王子で亡くなりました。「流浪の民」というわけです。私も血筋をひいているようで、埼玉から大学院に通い、それから琉球で幼児教育をやり、国際ロータリークラブなどから奨学金をもらいウィスコンシン州都のマディソンへ行きました。そこで学位を取得してからは横須賀と兵庫県の加東市で働きました。奇しくも両親と同じく八王子を終の住処としています。やがてこれから向かう処は決まっています(^0^)

    と言うわけで我が成田家は「ディアスポラ」の誇りと矜持を抱いて今年も過ごしたいです。2026/01/02

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    閑話休題:水と木

    北海道大学(北大)男声合唱団のかつての同僚から、どのようにして北大の中心に小川が復活したかの便りを貰いました。北大正門から道なりに歩きますと「中央ローン」という一面芝生の広場にでます。まわりには多くの楡の木(エルム)がそびえています。その中心に流れるのが「サクシュコトニ川」です。呼び名のもとはアイヌ語だったようです。エコ・キャンパス創成の一環として、大学と札幌市が水辺の復活事業を行ったのです。キャンパスに安らぎをもたらしたのが、「サクシュコトニ川」です。

    中央ローン(ようこそSapporoから引用)

     「日本で最も広い大学キャンパス」を挙げるなら、一般的には 北大が一番とされます。キャンパスに川を持つ大学はそう多くありません。北大は幸いなことに、その数少ない例の一つです。川がキャンパスを流れるには水がなければなりません。北大のキャンパスはどこも楡の大木で囲まれています。枝を大きく広げる雄大な樹形が特徴です。硬くて粘りがあり、家具、建材などに使われ耐朽性が強く水に強い特徴を持っています。北海道のシンボルツリーとなっています。木といえば観光客の楽しみはキャンパスのはずれにあるポプラ並木を散策することです。

     札幌の中心街にある北海道庁の隣の北大附属植物園のあたりに湧き出ていた池 (メム)が「サクシュコトニ川」となります。そこから北大構内をゆったりと流れて農場の北端から琴似発寒川に出ていたといわれます。昭和30年頃から急速に湧水量が減り、その後はポンプ揚水の地下水が細々と循環しているだけの川もどきになっていたようです。そこで北大のキヤンパスに生命の活力を与えるべく、「水と緑のネットワーク」というルネサンス・プロブエクト事業によって「サクシュコトニ川」に新しい水が補給されて流れが再生したようです。

    畜舎(ようこそSapporoから引用)

     2月の「さっぽろ雪まつり」が終わり雪解けが進む3月にはふきのとうや福寿草が、5月下旬、街はライラック(lilac)に彩られます。ライラックは別称としてリラ(リラの花)とも呼ばれています。北大構内ではクロユリの群生地が見頃を迎えます。秋は赤柏や楓の紅葉、銀杏の黄金色が美しい北大構内の散策などをお勧めします。市内の川沿いの遊歩道のないところにはケモノ道が今も残っているようです。

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    医療費の4兆円削減案

    注目

    現在、自民党は与党内で日本維新の会などと社会保障制度改革の議論を進めています。その中で高齢者の医療費窓口負担の3割への割合拡大や、市販薬と成分がほぼ同じ処方薬であるOTC類似薬の保険適用見直しなどが議論されています。OTC類似薬とは、湿布薬や保湿剤、解熱鎮痛薬、抗アレルギー薬など約7000品目あります。 ただし、現時点で「国民全員が3割負担になる」といった決定的な事実や既に制度が変更されたという真偽情報はありません。現在は保険適用で、患者の自己負担は薬価の1~3割で済みます。保険が適用除外となると、市販薬の購入費用が過度にかさんだり、治療の遅れにつながったりするとし、患者団体や日本医師会が反対しています。

    厚生労働省より引用

     ついでですが「高齢者」とは、65歳以上を指す言葉が一般的です。しかし、日本の平均寿命が延びている現状から、65歳から74歳を「前期高齢者」、75歳以上を「後期高齢者」とする区分もあります。後期高齢者になると、4分の1にあたる人が要介護認定を受けており、入院や長期療養が増えるのも事実ですが、後期高齢者の半数以上が趣味やレジャーを楽しんでいるともいわれています。

     社会保障制度改革の議論のポイントについてです。現在、6歳から69歳までの現役世代の医療費窓口負担は、所得に関わらず原則3割です。これは今後も維持される見込みです。議論の焦点は高齢者の負担割合です。その議論の主な焦点は、高齢化に伴う医療費全体の増加を抑えるため、特に70歳以上の窓口負担割合を引き上げるというものです。11月5日の財務省の審議会では「70歳以上の医療費を原則3割負担にすべき」という提案が出されましたが、厚生労働大臣は「現実的ではない」と否定的な見解を示しています。

     現在、75歳以上の一定所得以上の人は既に2割または3割負担となっています。この「一定所得」の基準を見直すことなどが検討されています。前述の湿布薬や保湿剤、解熱鎮痛薬など、市販薬と成分が似ているOTC類似薬の処方について、医療保険の適用を維持しつつ患者の自己負担を追加する方向で議論が進んでいます。これは自民党と維新の会の連立合意に含まれた項目です。維新の会が訴える医療費4兆円削減に連動するような高齢者の負担増を意味します。

     しかし、これらの負担増の議論に対して、患者団体や日本医師会、共産党などからは、患者の経済的負担が大きくなり、治療の遅れにつながる可能性、受診抑制が発生する可能性などといった懸念の声が上がっています。

     私的なことですが、私は心不全のために2週間入院し、退院後も11種類の薬を服用し運動療法を受けています。医療費が2割から3割負担となると大変だな、、と懸念する日々です。安心して病気ができる国、安心して年をとれる国になることを皆が願っています。

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    ウクライナ和平交渉と宥和政策

    注目

    最近のウクライナ情勢における大国間での和平交渉について、いろいろな提案と駆け引きが続いているようです。この交渉過程から1941年頃のイギリスのチェンバレン首相(Neville Chamberlain)のナチス・ドイツに対する宥和政策(appeasement)のことが思い起こされます。私なりにトランプ大統領をチェンバレンと、プーチン大統領(Vladimir Putin)とヒトラー(Adolf Hitler)とを対比するとどのようなことが見えてくるのか、果たしてこのような比較は妥当かどうかを、過去の史実に基づいた枠組みから考えてみます。

    2022年ゼレンスキー大統領と東欧諸国首脳との会談

     トランプ、チェンバレン、プーチン、ヒトラーの関係は非常にセンシティブで、人物の評価というより政策姿勢や外交スタイルの比較をすることにとどめます。まずは、チェンバレンの宥和政策とトランプのロシアへの和平提案(peace proposal)の共通点です。双方とも「対話により緊張を下げられる」という前提で行動しているようです。チェンバレンは、ミュンヘン会談(Munich Conference)などでヒトラーとの直接対話により戦争を回避できると考え、譲歩を通じて安定を作ろうと努力しました。他方、トランプは「敵対よりも個人的関係による交渉が有効」と繰り返し主張し、プーチンとの関係改善を強調していることが伺えます。いずれも「強硬路線よりも首脳間交渉の重視」という構図が見えてくるようです。

     国際政治では、国家が自国の安全保障と国益を最優先する現実主義が見られます。チェンバレンは当時のイギリスの軍備が未整備で時間稼ぎをした面もあり、「実力が整うまで対立を避けたい」という現実的な動機があったといわれています。ヒトラーには、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約(Treaty of Versailles)で取り上げられ、チェコスロバキア領(Czechoslovakia)となったズデーテン地方(Sudetenland)を取り戻したいという意図がありました。トランプも「アメリカ第一主義」に基づき、ロシアより中国を競争相手と見なす優先順位から、ロシアとは緊張を高めたくないという発言を繰り返してきました。トランプの譲歩や対話が必ずしも弱腰ではなく、戦略的な判断をしているということも伺えます。

     チェンバレンの宥和政策は、チェコスロバキアやフランスの不安を生みます。それは彼らの軍事力が十分整わず、侵略で主権を脅かされるような提案だったからです。他方、トランプのロシアへの相対的で好意的姿勢は、NATO加盟国、特に東欧のポーランドやバルト三国(Baltic States)の不安を招いています。トランプの「敵との対話」が周辺国の警戒感を高めた点は、チェンバレンの宥和政策の影響に類似しています。同盟国の不安を招いているという共通点です。

     ただし共通点以上に違いの方が大きい点もあります。それは国際環境が全く異っていることです。1930年代は多くの国が軍備を拡張し、国際秩序が崩れつつある状況がありました。現代は核抑止や集団的防衛機構、国際機関が存在し、第二次大戦前とは構造が違っています。トランプは実際に「譲歩合意」を結んだわけではありません。他方チェンバレンはミュンヘン協定(Munich Agreement) によって具体的に領土を譲る合意を結んだのです。トランプはプーチンと象徴的な友好姿勢を示しているようですが、正式な「宥和協定」を結んだわけではありません。

     個人独裁者 vs 民主国家の価値観の違いが存在します。チェンバレンの相手は急速に拡張する全体主義国家で、目的も明確に領土拡大だったのです。他方、現代のロシアは権威主義的ですが、ナチス・ドイツの統治機構や外交方針と同一視はできません。

     ヒトラーの侵略性というイデオロギーは特異であり、現代の国家思想と直接比較するのは困難です。ナチス・ドイツは領土拡張と人種主義的政策を国家目的にしていました。他方プーチンのロシアは侵略や人権侵害が国際的に非難されていますが、ナチスと同一視する理由を探すのは難しいといえましょう。 トランプの政策はアメリカ国内政治の影響が強く、チェンバレンとは同列に置くことはできません。チェンバレンは国家総力戦の瀬戸際で判断せざるを得なかったのですが、トランプは主として「アメリカ第一主義」や来年11月に行われる中間選挙という背景で行動しているようです。

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    辻邦生はどのような文学者か

    注目

    日本近代文学の中でも独特の位置を占める文学者で思想家の一人が辻邦生(1925–1999)です。歴史小説や芸術小説、思想小説を著し、深い哲学的思索を物語に展開することで知られています。私も「背教者ユリアノス」という歴史小説などを読んで辻文学の一端を知ることができました。この作品は「存在の輝き」とか「時への意識」、「人間の理性や精神の関係」といったテーマで貫かれています。

    山梨県立美術館のポスターから

     本稿では、彼がどのような文学者で哲学者であったかについて、その創作や思想の原点を探ってみることにします。第一の特徴として、辻は「存在の輝き」を描く作家であったということです。その文学の核心には、世界に触れたときに立ち上がる「顕現」(epiphany)への鋭い感受性だったといわれます。顕現とはもともと、1月2日から8日の間の日曜日である主日に、すべてのキリスト教会で行われる祝祭のことで、「突然のひらめきや悟り」を意味します。物語の中では人物が風景や芸術作品に対して深い 「覚醒」 を経験する場面が多く、そこに読者を投入させてくれます。

     第二は、辻は歴史と精神を重ねる「精神史小説」の書き手であったことです。例えば「安土往還記」「西行花伝」「春の戴冠」などでは、歴史的人物の精神の高揚とか、その背後にある時代の意識や芸術創造の苦悩を重厚な修辞で描き、歴史小説という枠を超えた精神史的文学を創造したと評価されています。

     第三に、辻はフランス思想・現象学の祖ともいわれるメルロ・ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)などの影響を受け、身体性とか知覚の哲学に心酔したようです。それは、東京大学でフランス文学を専攻し、のちにソルボンヌ大学(Sorbonne University)で学んだことも実存主義思想の形成にあったといわれます。中世やルネサンス文化論らによって、彼の作品には「見ること」、「世界と身体の関係」、「芸術的創造の根源」といったテーマが一貫して流れています。

    Arthur Rimbaud

     第四に、辻は後に言葉の力を信じた「言語の芸術家」とも評され、「言葉は世界の形を与える力である」と考え、極めて緻密で音楽的な文体を追求した作品を残しています。ポール・ヴァレリー(Paul Valery)とかアルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud)の既存の文学を鋭く批判する詩からも影響を受けています。ランボーは伝統的な秩序を捨て、精神・道徳、身体の限界を超え、未知を体系的に探求しようとした反逆や革命の詩人といわれています。

     最後に、辻の哲学や創作の原点はいくつかの核心的経験があることを追加しておきます。それは、画家や音楽家といった芸術家を理解し、彼らに深い共感を抱いていたことです。芸術創造の瞬間に垣間見える精神の高揚を感じとり、「存在の輝き」を最も経験するのです。時間意識を文学の主題としました。流れる時間の中で人がどう意味をつかむのかを示唆し、その考察が多くの長編小説の軸になっています。

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    高市内閣の人事と特徴

    注目

    高市早苗内閣の人事が波紋を呼んでいます。この話題を取り上げます。積極財政派といわれる政治家の片山さつきや城内実が経済や財政面での閣僚に任命されました。人事、特に 片山財務相+城内経済財政相ライン の登用が「財務官僚を震え上がらせた」と言われています。これは単なる人事の話ではなく、日本の財政運営の主導権争いという構造的な問題に絡んでいます。

     財務官僚が最も恐れるのは「政治主導による財政拡張」です。財務省は、戦後一貫して 財政規律=プライマリーバランス(PB) 黒字化路線を日本の国是のように守ってきました。それは一種の官僚的な信念であり、同時に権力の源泉でもあります。

    高市早苗内閣の閣僚

     官僚は絶えず「財政規律を守らなければ国は破綻する」と言って、各省庁や政治家の“バラマキ要求”を抑えるのが自分たちの使命だと信奉してきました。つまり、財務官僚にとって“緊縮財政”はイデオロギーであり、支配の道具でもあったのです。ところが、今回登用された片山や城内はともに明確に 「積極財政」、「脱・PB黒字主義」 を掲げてきたのです。このラインが財務省の上に立つということは、「財務官僚が握っていた国家財政のアクセルとブレーキを政治側が奪う」という構図になるのです。これが、財務官僚にとって最大の“恐怖”です。

    これまで、財務省は税収の弾性値を使って税収入をあらかじめ予測してきました。弾性値とは名目GDPまたは所得・消費などの課税ベーが1%変化したとき、税収が何%変化するかを表す指標のことです。2010年代の弾性値は、約1.1 前後、コロナ後回復期は法人税が急増し一時的に 1.3〜1.5程度、そして2023〜2024年度は景気鈍化という局面で 1前後に戻っています。

    「積極財政」は官僚制の財政規律という論理をひっくり返すことにもつながります。これまでの財務省ロジックつまり、低い弾性値を使い、税収を慎重に見積もる、歳出要求は抑える、国債発行は最後の手段とする、そしてPB黒字化を最優先するという論理です。積極財政という仕組みは、官僚にとって極めて都合が良い方針なのです。なぜなら「財源がない」を理由に、すべての各省からの政策提案を査定し、場合によっては差し戻してきたのです。

    ¸ 加えて積極財政派の論理というのは、経済を成長させれば税収は増える、政府支出は経済政策の一部であり、国債発行も経済成長のためのツールであるという考え方です。つまりPB黒字化よりも国民生活と成長を優先するという政策なのです。このように積極財政とは、財務省の予算査定権限を弱めるという、これまでの財務省自体の正統性を揺るがす思想でもあるのです。これを大臣というトップが主導すれば、省内の力学が崩れるために「官僚は震える」という表現が使われるのです。

     繰り返しますが、具体的に財務省が震えるのは次のことだろうと考えられます。つまり、PB目標の廃止・棚上げです。 財務省が掲げてきた「財政再建の旗」が降ろされるのです。さらに政策判断の正統性が失われ、内部の理論体系が崩れることです。高市首相の人事は「財務省支配からの独立宣言」ともいえそうなパラダイムシフトです。この2人が財政と経済の要職を握ると、官僚たちは「もう、予算の主導権を握れない」と感じるかもしれません。「財務省が支配してきた戦後の官僚国家モデルの終焉」 という構造変化です。

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    アメリカの大学スポーツは一大興業

    注目

    大学スポーツは今や最高潮です。その活動は、全米大学体育協会( National Collegiate Athletic Association-NCAA)という巨大な組織によって統括されており、プロリーグに匹敵するほどの人気と注目度を誇ります。特にアメリカンフットボールとバスケットボールは絶大な人気があり、全国中継される試合には5万人規模の観客が集まります。大きな大学はフットボール用の巨大なスタジアムを擁し、室内スタジアも1万人を収容します。 今はアイスホッケーの他に、バレーボールが多くの観客を集めています。

     NCAAは、約1,100校以上の加盟校と50万人以上の学生アスリートを擁する巨大な統括団体です。人気のスポーツといえば、男子ではアメリカンフットボールが圧倒的で、次いでバスケットボール、アイスホッケーなどと続きます。これらの人気スポーツのテレビ中継は非常に頻繁に行われます。

     優秀なアスリートを集めるために、各大学はスカウト職員を揃え、各州にある大学同窓会などのネットワークも利用し、ここぞと思われる高校生に注目して大学への勧誘をします。時に、交通費や謝礼を渡すなどの違反行為が報道されています。大学に入学すると、学費や生活費をカバーするスポーツ奨学金(athletic scholarship)が提供されます。これは、スポーツと学業の両立を目指す学生にとって重要な支援となります。

    ウィスコンシン大学のキャンプランダール・スタジアム

     大学スポーツは競技力の向上だけでなく、将来のキャリア形成にも大きな影響を与えます。アスリートは、最高レベルの競技環境の中で大学での専門的な学びを両立させることが求められます。NCAAの規則では、アスリートの学業成績が悪いと退学させることを義務づけています。ですから学業不振なアスリートには支えるチューターがいます。大学スポーツは、プロへの登竜門となっています。多くのプロアスリートは、NCAAでキャリアをスタートさせています。大学スポーツはプロリーグへの重要なパイプ役となっているのです。

     アメリカの大学スポーツは、教育システムの一部でありながら、興行としても非常に大規模に運営されているのが特徴です。 大学スポーツは、各大学にとって巨大な収入源となっています。毎年数千億円が動きます。試合が全国中継となると、放映権料などにより大学は多いに潤い、収入のないスポーツ活動、たとえば陸上競技やサッカー、レスリング、テニスなどの運営を支えるのです。

     アメリカの大学スポーツにには、「ポータル(転校)制度があります。この仕組みは、「トランスファーポータル」と呼ばれ、学生アスリートが所属チームを転校する際に、自分から他大学のコーチにアピールするために、NCAA加盟校関係者のみがアクセスできるシステムのことです。

     優秀なアスリートの中には、もっと強い大学のチームに転校したいという希望を持つものがいます。また、あまりアスリートとしての活動の機会が少ないとか、コーチや他の同僚と関係に不満などがあるアスリートは、このシステムに登録し、自分を評価してくれる大学を探すのです。シーズン中、アスリート起用に不満があり、所属の大学チームではなく他のチームに行って出場時間が欲しいなど、求めるものを追求していく精神がアスリートに強いのです。

     これまでは、大学の監督は高校から才能あるアスリートをスカウトすることだけに集中していれば良かったのですが、時代は完全に変わりました。大学アスリートは収入を求めて、自分が活躍できそうな他の大学へ転校していくのです。こうしてみますと、「トランスファーポータル」によって大学もまたフリーエージェント制度でチームを移籍していくプロと変わらなくなりました。とまれ、プロと大差ないのがアメリカの大学スポーツなのです。

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    伝統「芸術」から「科学」へ

    注目

    AlphaGoや後続のLeela ZeroなどのAIは、統計的に勝率が高い手を選びます。これにより人間が感覚やバランスを重視していた定石よりも実利重視により、相手に多少地を与えても全体のバランスで勝つという打ち方が増え、AI定石という新しい定石が誕生しました。AlphaGo以後、多くのトッププロがAIとともに研究を深め、これまでの定石辞典が書き換えられています。プロの対局でもAlphaGo由来の打ち方が主流になり、実際の対戦の棋譜が大きく変化しました。

    肩つき

     少し話題を変えて、1954年製作の「十二人の怒れる男」というアメリカ映画がありました。ある裁判で一人の陪審員が他の11人の陪審員たちに、固定観念に囚われずに証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを提案します。やがて少数意見が多数意見となり無罪評決となるというストーリーでした。イスラエルでは会議をするとき、もし出席者7人のうち6人が賛成する発言をしたとき、7人目の人は無条件に反対意見を述べなければならないというのです。多数とは違う少数意見は、それ自体に価値があるという考え方があります。

     この陪審員の評決に関するエピソードを囲碁に当てはめてみますと、固定観念を捨てるとき思わぬ妙手が生まれることがある、ということかもしれません。最近は常識にない手を数々打ち出し、定石の考え方が変わって、新しい定石が生まれています。こうした変化には、固定観念から離れて新しい手を考えて打とうという姿勢があるからです。そういえば「定石を覚えて二目弱くなり」という定石信奉者を皮肉った川柳があります。イスラエルの格言にもう一つ。「何も打つ手がないときにも、ひとつだけ必ず打つ手がある。それは勇気を持つことである。」 私たちには後学のために役立ちそうな含蓄のある言葉です。

    ダイレクト33

     AlphaGoなどの登場によって、定石の固定観念から脱皮し「定石は変わった」といえそうです。囲碁の定石は不変のものではなく、AIの登場で大きく進化しています。AlphaGoが示した新しい打ち方は、「AI定石」として現代囲碁の基盤になっています。AlphaGo以降、囲碁は伝統文化という「芸術」から「科学」へと一歩進んだといえるでしょう。

    「アルファ碁」によって定石は変わった

    注目

    私の「道落」の一つが囲碁。強いとはとてもいえないのですが、碁の深さや難しさに魅了されつつ、毎日練習するのを日課としています。囲碁には「定石」といわれる昔から度重なる研究と対局によって生まれた石の形があります。定石とは対戦者が最善を尽くして「部分的」に互角に分かれる石の形のことです。どちらかが有利な形となるなら、それは定石とはいいません。私も定石を何度も練習しています。ですがいざ実戦となるとその手順を間違えることがしばしばあります。対戦相手は定石にないような手を打ってきます。高段者は新しい定石を学び低段者を翻弄します。

     2016年1月、Googleの完全子会社であるイギリスのGoogle DeepMind社が開発した、ディープラーニング(deep learning) の技術を用いた人工知能(AI)のコンピュータソフト「アルファ碁(AlphaGo)」が、2013年から2015年まで欧州囲碁選手権を3連覇した樊麾二段と対局しました。結果は5戦全勝し、それに基づく研究論文がイギリスの科学雑誌ネイチャー(Nature0)に掲載されました。囲碁界でコンピュータがプロ棋士に互先で勝利を収めたのは史上初のことでした。DeepMind社は「人間の棋譜を一切使わず、ルールだけを教えられた状態」からコンピュータ囲碁を強くする研究として「アルファ碁ゼロ(AlphaGo Zero)」を開発したのです。

     さて、AlphaGoにまつわる話題です。それが、「定石と固定観念」というフレーズです。これが人工知能とどう結びつくかです。 囲碁はある程度の知識が無いと盤面を見ても優劣を判断できないのですが、囲碁AIによる形勢判断を数値で表示することで優劣を分かりやすく見せることが可能となりました。NHK杯テレビ囲碁トーナメントでも第69回(2021年度)から、AIによる%表示の形勢判断が画面上部に表示されるようになりました。

     AlphaGoは従来のプロ棋士たちが「常識」として使ってきた定石の多くに対して、「必ずしも最善ではない」、「もっと勝率の高い手がある」ということを示しました。例えば、小目からの三々侵入です。かつては三々侵入は、中盤で打つものとされていましたが、AlphaGoは序盤から打つことで実利を先に確保する戦術を示しました。さらに、星の構えにおけるアプローチの順番や角の処理についても、今まで不利とされた打ち方が、AIによって再評価されました。

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    「経験」と体験との違い

    注目

    森有正についての第三稿です。森は言葉には、それぞれが本当の言葉となるための不可欠な条件があるといいます。それはその条件に対応する「経験」であるというのです。経験とは、事柄と自己との間の抵抗の歴史であると主張します。福祉を論ずるにせよ、平和に論ずるにせよ、その根底となる経験がどれだけ苦渋に充ちたものでなければならないかを想起することです。その意味で経験とは体験とは似てもつかないものであると主張します。体験主義は一種の安易な主観主義に陥りやすいと警告するのです。

     「人間は他人がなしとげた結果から出発することはできない。照応があるだけである。これは文化、思想に関してもあてはまる。確かに先人の築いたその上に築き続けるということは当然である。しかし、その時、その継続の内容は、ただ先人の達したところを、その外面的成果にひかれて、そのまま受けとるということではない。そういうことはできもしないし、できたようにみえたら必ず虚偽である。」

     「変化と流動とが自分の内外で激しかったこの十五年の間に、僕のいろいろ学んだことの一つは、経験というものの重みであった。さらに立ち入って言うと感覚から直接生れてくる経験の、自分にとっての、置き換え難い重み、ということである。」

     「経験ということは、何かを学んでそれを知り、それを自分のものとする、というのと全く違って、自分の中に、意識的にではなく、見える、あるいは見えないものを機縁として、なにかがすでに生れてきていて、自分と分かち難く成長し、意識的にはあとから それに気がつくようなことであり、自分というものを本当に定義するのは実はこの経験なのだ。」

     「自己の中の生活と経験とが発展し進化されて、おのずからその経験そのものが、平和を、自由を、人間形成を定義するようにならなければ、すべてが軽薄になり混濁してくる。経験が体験と違うのは、そしてそれについての一つのもっとも根本的な点は、前者が絶対的に人為的に、あるいは計画的に、作り出すことが出来ない、ということである。」

     「日本では、自由とか、平和とか、民主主義とか、そういう言葉そのものにつかまってしまって、それらの言葉の持つ真の意味を考えない。どうも、事態がすべて逆転している。これは非常に不幸だと思います。現在、言葉というものが、非常にむなしいものになっているとしたら、それは、経験の裏づけを失った、沈黙の重みをになったものでなくなってしまった、ということでしょう。」

     このように森有正は、経験という意味を深く追求することによって、真理であると思われることを一度真剣に、徹底的に疑う勇気が生まれるというのです。

     この本に「思索の源泉としての音楽」という章があります。森はオルガン演奏をこよなく愛した人です。特にバッハ(Johann Sebastian Bach)のパッサカリア(Passacaglia)やグレゴリアン聖歌(Gregorian Chant)に心酔していました。こうした音楽の本質は、人間感情についての伝統的な言葉を、歓喜、悲哀、憐憫、恐怖、憤怒、その他を、集団あるいは個人において究極的に定義するものだとします。人間は誰しも生きることを通して自分の中に「経験」が形成されると森はいいます。自己の働きと仕事とによって自分自身のものとして定義される、それが経験だというのです。この仕事は、あらゆる分野にわたって実現されるもので、文学、造形芸術などとともに音楽もその表れだといいます。

     この著作は森有正の人となり、生き方、フランス文化や日本文化に対するに関する思索や洞察、さらには音楽の意義に至るまで、その言葉や音楽の定義力の強烈な純粋さのようなものが織りなすエッセイとなっています。私の考え方の一つの道しるべのようなものとなった、かけがえのない一冊です。

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