定額4%の働かせ放題と給特法の問題

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1971年に名称が変更され施行された「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」が大きな話題となっています。この法律は「給特法」と略されています。給特法は、公立の義務教育諸学校等の教育職員(教員)の給与や勤務条件について特例を定める法律で、教員の仕事の特殊性に基づき、給与や勤務条件について特例を設けています。

 給特法の肝は、教員に残業手当を支給しない代わりに教職調整額を支給すると定められていることです。これを携帯電話料金に譬えていえば、「定額働かせ放題法」で、定額基本料金以外の従量課金はないものの、使用できるアプリ(業務)を四つに限定するというものなのです。この一種の揶揄が労働基準法との対比で論議されているのです。

 第2次世界大戦後、労働基準法が1947年に施行され、週の労働時間は40時間、1日の労働時間は8時間までと決められました。労働基準法には、残業や休日出勤、時間外労働をさせる際には、労働組合または労働者の過半数を代表する人と書面による協定をしなければならないことが定められていました。これがいわゆる「36協定」と呼ばれる労使間の約束事です。公務員にも労働基準法が適用されていました。

 しかし、教員は職務によって拘束時間が大きく異なり、勤務時間を単純に測定することが難しく、残業手当が支払われないようなことが度々起こり、2018年9月の「埼玉教員超勤」という裁判にもなりました。そうした状況を踏まえ、教員に関しては、残業手当は支給しないこととし、代わりに週48時間以上勤務することを想定して、基本給の4%に相当する教職調整額を支給することにしたのです。つまり残業手当は支払わないが、一定額の賃金を上乗せをすることで教員の職務の特殊性に対応しようとしたのです。これが給特法です。

 給特法では、校長、副校長、教頭を除く教員には、時間外勤務手当や休日勤務手当などの残業手当を支給しない代わりに、教職調整額を支給しなければならないことになっています。教育調整額とは、教員の勤務時間の長短を問わず、働いている時間・働いていない時間関係なしに、給料月額4%が支払われるものです。このように給特法は残業手当を支給しない代わりに教職調整額を支給すると定められ、教員に時間外勤務をさせないようにする意図が含まれています。しかし、それでは教員の働き方に即さないとの理由で、給特法では政令で定める基準に従い、条例で定める場合には、教員に時間外勤務をさせることができるとされています。 

 使用者である校長などが教員に時間外勤務を命じることができる仕事は「超勤4項目」といわれます。教員の時間外勤務から「学生の教育実習の指導に関する業務」は外されています。現在、多くの教員が超勤4項目に該当しない時間外労働に従事しています。超勤4項目とは、具体的に以下の業務を指します。

 ・校外実習その他生徒の実習に関する業務
 ・修学旅行その他学校の行事に関する業務
 ・職員会議に関する業務
 ・非常災害の場合、児童又は生徒の指導に関し緊急の措置を必要とする場合

給特法が抱える問題点
 給特法の問題点は、教員が長時間の時間外勤務をしているのにもかかわらず正当な対価を受け取れていないところにあります。一律4%の上乗せ賃金で働いているというよりも、その上乗せ賃金で働かされているのです。文部科学省(文科省)が実施した教員の勤務実態調査によると、かつてよりも在校時間が減少しているものの依然として長時間勤務をしている教員が多いことが判明しています。

 ただし、文科省の立場は、給特法は、教員の職務の特殊性に配慮した法律であり、そもそもその特殊性は、教師は時間外を含め自主的に働くものであるから厳格な時間管理はなじまない、というものです。つまり、この法律は教員の勤務時間に自由な裁量がある程度確保されていることがあるのだ、という立場です。こうしたことも、教員が自発的で創造的に働く意欲をそぐなど、給特法が教員の勤務実態に合わなくなってきている、と指摘されている要因だと考えられます。

 実際の教員の時間外労働は、この超勤4項目に「該当しない」業務が大半を占めています。早朝の登校指導、入試業務、家庭訪問などの校務、さらに近年問題となっている部活動などは、超勤4項目に該当しない業務です。本来であれば、教員に命じることのできない時間外勤務であり、教員はこれらの業務を拒否することができます。

 いくら時間外労働をしても超勤手当が支給されないことから、給特法は携帯電話料金にたとえて「定額働かせ放題法」とも揶揄されています。繰り返しますがそれ故に給特法は「定額働かせ放題法」と呼ばれるのです。

 文科省はそれでも次のように主張します。つまり「現行制度上では、超勤4項目以外の勤務時間外の業務は、超勤4項目の変更をしない限り、業務内容の内容にかかわらず、教員の自発的行為として整理せざるをえない。 このため、勤務時間外で超勤4項目に該当しないような教員の自発的行為に対しては、公費支給はなじまない。」文科省はさらに、「使用者(校長)の指示」がなければ、それは教員の「自発的行為」であり、労働基準法には抵触しない」としているのです。て「定額働かせ放題法」とも揶揄されています。繰り返しますがそれ故に給特法は「定額働かせ放題法」と呼ばれるのです。

 登校指導や家庭訪問、部活動などの業務は、いずれも「使用者から義務づけられ、又はこれを余儀なくされていた業務」に含まれるはずです。そして、これらの業務に従事している時間は労働時間に該当すると考えられます。使用者の指揮命令下に置かれていると評価されるかどうかは、教員の行為が使用者から義務づけられ、又はこれを余儀なくされていた等の状況の有無等から、教員の厳しい勤務実態を勘案して柔軟に判断されるべきものと考えられます。

参考資料リンク
労働基準法
公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法
教員の職務について
教育職員の勤務実態調査
埼玉教員超勤裁判
・高橋 哲「聖職と労働のあいだ」岩波書店、2022年

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ChatGPTの今とこれから

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2025年1月、何年ぶりかで親戚や友人を訪ねるために札幌へ行きました。丁度ボストンから帰郷していた長男と一緒の旅です。東京と違って気温は低く、雪が踏み固められた歩道はツルツルです。長男が生まれた札幌の郊外を訪ねました。かつての自宅付近は開発されて住宅がびっしりと建ち並び、景色は一変しています。自宅跡を探したのですが、住所名が変わりなかなか見つかりません。郵便局があったのでそこで昔の番地を探してもらい、ようやく40年ぶりの自宅付近がわかりました。

 宿では長男は朝晩パソコンでなにやら書き物をしています。聞いてみると、勤務する大学で一次審査を通った教員の終身身分保障制度ーテニュア・トラック(tenure track)のための審査結果を書いているとのことです。アメリカの大学においては、博士号取得後、任期付きの助教授ーアシスタント・プロフェッサーは、テニュアを取得することにより研究や教育自由が保障されると同時に、経済的な安定を得ることができるのです。

 テニュアの審査では、まずは学科での推薦、テニュア委員会の設置、学部での推薦・テニュア委員会での投票、そして副学長意見書を経て学長の裁決となります。この期間、一年がかりの審査となります。もし、テニュア審査でテニュアが認められなかった場合は、基本的には更新不可能な1年間任期付きのアシスタント・プロフェッサー扱いとなり、その後は再び研究者としてテニュアトラックを求めて別の大学で職を探し再挑戦するのです。

 長男が書いているテニュア委員会への審査結果の内容を見せて貰いました。彼は候補者がテニュアにふさわしいという推薦状を書いていました。自分で書いた素稿を正確を期すために生成系のAI技術であるChatGPTを使ったというのです。自分が気がつかなかった語彙や表現のほかに、文章の正確性や一貫性、そして簡潔性などを示ししてくれるのがAIだ、というのです。文法はもちろん理路整然とした文章とするために生成系AI技術はとても参考になるというのです。

ChatGPTエンブレム

 長男は、ChatGPTが驚くほど詳細で、あたかも人間のような回答を生成することができると述べています。ChatGPTを学生への課題に使い、出力結果が優秀な生徒による回答と同レベルであることも確認しています。学術界では人間の生産性を上げることができるという声があり、大学によるとChatGPTのプロンプトエンジニア授業はすでに存在しています。研究論文の査読にもChatGPTが使われる可能性があるようです。ChatGPTは論文の冒頭や一部の節を書くことができるのです。

 今後はもっといえば、ChatGPTによって生成された査読に実在しない研究者も生まれるかもしれないというのです。ChatGPTは一見もっともらしい引用を含むコンテンツを生成できる可能性もあり、ChatGPTを共同著者として挙げていると言われています。このような懸念はChatGPTなどのAIに向けられています。

 私もある学会での2ページの発表論文についてChatGPTで抄録を作らせてみました。ChatGPTは抄録の要件である論文の目的、仮説、被験者、実験方法、そして実験結果を正確に記述していました。研究機関においては学位論文やレポートについては、生成系AIのみを使用して作成することを禁止すべきであります。ですが今後は実際にはAIの利用を検知することは困難になるだろうと察します。その対策としては書面審査だけでなく、対面での口頭審査や筆記試験などを組み合わせ本人が作成したのか検証する必要がありそうです。

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ステルス増税は狡猾な仕組み

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ステルス(stealth)」という言葉が軍事分野で使われています。ステルス戦闘機といった具合です。レーダーで捕捉されにくいという性質があり、これを有する航空機をステルス機、艦艇をステルス艦と呼ばれています。ステルス(stealth)とはこっそりとか密やかという意味です。もとはといえば、「盗む」(steal)が語源となっています。コンピュータ分野では、アンチウイルスソフト類の検出を逃れる技術や、ネットワーク型の侵入検知システムをすり抜けるのもステルス技術といわれます。

B-2 Bomber

 近年、私たちが気づかないうちに税負担が増加する「ステルス増税」が進行しています。ステルス増税とは、税率を直接引き上げるのではなく、控除の縮小、基準の変更、新たな税の導入などを通じて実質的な負担を増やす手法のことを指します。これにより、国民が気づかないうちに手取り収入が減少するのです。政府は財源確保のためにこうした方法を採用することが多く、結果として「収入が減った」「気づかないうちに負担が増えていた」と感じるのです。後述しますが、医療保険料を上乗せして子育て支援金の財源に当てようとしています。不可解な方針です。

 「ステルス増税」については、次のような具体的な事例があります。いずれも気づきにくい所得の低下につながるものばかりです。

(1) 高齢者の介護保険料の見直し
 2024年4月から、高齢者の介護保険料が9段階から13段階に細分化され、所得が高い高齢者の保険料が引き上げられました。前年の所得が420万円以上の65歳以上の方が対象で、最大で年間約15万円の保険料負担となります。

(2) 後期高齢者医療保険料の引き上げ
 少子高齢化の影響で、後期高齢者医療保険料も増額されています。令和4年と5年度の平均保険料は月額6,575円でしたが、令和6年度には7,082円、令和7年度には7,192円になります。

(3) 結婚・子育て資金の一括贈与非課税制度の廃止
 父母や祖父母から子や孫への結婚・子育て資金の一括贈与に対する最大1,000万円の非課税措置が、利用率の低さから廃止が検討されています。

4) 退職金控除の見直し
 現在、退職金に対する控除は勤続年数に応じて計算されていますが、これが見直される可能性があります。控除額が減少すれば、退職金に対する税負担が増加することが予想されます。

(5) 生命保険料控除の廃止検討
 年末調整で利用できる生命保険料控除の廃止または見直しが検討されています。これにより、生命保険料の支払いに対する税負担が増加する可能性があります。

6) 給与所得控除の見直し
 現在、会社員の給与所得控除は給与の30%となっていますが、これが引き下げられる可能性が検討されています。これにより所得税の負担が増えることが予想されます。

(7) 子育て支援金の新設
 少子化対策の財源確保のため、医療保険料に上乗せする形で子育て支援金の徴収が予定されています。具体的には、医療保険加入者一人当たり、2026年度に月250円、2027年度に月350円、2028年度に月450円が徴収される見込みです。

(8) 復興特別所得税の延長
 この税は復興は2011年の東日本大震災からの復興のための施策として設けられ、基準所得額の2.1%が源泉徴収されています。当初は2025年で徴収期間が終了する予定でしたが、2037年まで延長されました。代わりに税率が1%引き下げられたため、政府は『減税した』と強調していますが、2027年からは「防衛増税」として所得税率が1%引き上げられます。

(9) 再生可能エネルギー発電促進賦課金(再エネ賦課金)の値上げ
 再エネ賦課金は、すべての家庭や企業の電気料金に上乗せされています。2030年には再エネ賦課金の単価が「3.5円から4.1円」にまで値上がりすることが予測されています。再エネ賦課金の金額は、電力会社から毎月送られる「検針票」に記載されていますが、なかなか気づきにくい税金です。

(10) 森林環境税の新設
 森林環境税が年に1,000円徴収され始めました。目的が『森林整備およびその促進』と曖昧です。本当に必要かどうかも分からない税ですが、環境対策と言われると反対しづらい心理をついた巧妙な税です。

 これらのステルス増税は、直接的な税率引き上げではないため、気づきにく性質があります。ステルス増税は、消費税のように大きな注目を集めることなく、深く静かに私たちの負担を増やしていきます。特に、「一時的な措置」として導入された税の延長や、新しい税の導入は、知らない間に家計に影響を与える可能性があります。税制は毎年変化するため、政府の発表やニュースを定期的に点検し、どのような影響があるのかを把握しておくことが大切です。

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物価高と電気料金の削減

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今私たちの関心と懸念は物価高です。米価、ガソリン税、消費税、そして電気料金です。その中でも特に私たちの生活で心配なのが電気料金です。電気料金の内訳を調べると、「再生可能エネルギー発電促進賦課金」(再エネ賦課金)という項目があります。

 この再エネ賦課金は、2012年に制定された「再生可能エネルギーの固定価格買取制度」により、日本で電気を使用しているすべての世帯や企業から、例外なく徴収されている料金のことです。発電時にCO2を排出しない再生可能エネルギーの普及や拡大をめざしています。再エネ賦課金は、その名のように再生可能エネルギーの導入を促進するために活用されるという趣旨です。

 どのような電力会社と契約していても、再エネ賦課金の支払額が変わることはありません。場所に関わらず、全国で再エネ賦課金の単価は一律に次のような式で算出されています。          

  再エネ賦課金=使用電気量(kWh)× 単価(円/kWh)

 この賦課金の計算式から分かるように、電気を使えば使うほど賦課金は上がります。再エネ賦課金は意外と取られていて、電気代の10%以上が再エネ賦課金として上乗せになっています。これは一種のステルス増税ともいわれています。単価は、再生可能エネルギーの導入予測から算出されていますが、少し複雑なのでここでは省略します。

再エネ賦課金の推移

 単価は毎年経済産業大臣(経産相)が決定し、2023年度では単価は1.40円/kWhとなり初めて減額となりました。減額になった理由として、化石燃料の価格上昇により電力の使用を国民が控え、結果として再エネ賦課金が減少したのです。右のグラフでも分かるように2024年5月の検針分から適用されている単価は3.49円/kWhとなっています。2025年5月分からも同額となります。いうまでもなく再エネ賦課金を抑える最も確実な方法は節電です。

 毎年度上がっている電気料金支払いの負担は問題視されています。新電力会社に切り替えると電気代の支払い総額が下がるケースがあります。例えば、大手の電力と契約しているとしても、新電力会社からも電力プランを取得し検討するのも一考です。それによっては再エネ賦課金を含めた総額を下げることが可能であると判明しています。

 K民主党は、「再エネ賦課金」の徴収を停止する法案を2024年3月に国会に提出しました。この法案では、電気料金の値下げを実現するために再エネ賦課金の徴収を一時停止するとしています。ただこの法案が成立する見込みは不明です。

 日経の2024年11月の報道によれば、経産省はこうしたK党の主張について「再生エネ賦課金の徴収を停止しても、再生可能エネルギーの導入拡大に必要な経費として国民負担が発生する点にも留意が必要だ」と述べています。政府は、このように当面は再エネ発電コストの低減や電力市場の安定化を進め、将来的な賦課金負担の軽減に取り組む姿勢は見せています。

 今後の物価高対策の見通しですが、この7月には参議院議員通常選挙が予定され、各党とも電気代、米価、社会保険料、ガソリン税、消費税をこれ以上値上げないか、引き下げることを公約に掲げることが考えられます。いずれにしても今般の物価高に備えるには、無駄な支出は避けるなどの節約意識の高揚が大事だと思われます。

 電気料金に関するもう一つの懸念は、酷暑とか猛暑への対策です。日本気象協会は2025年の天気傾向を発表しています。「2025年は寒冬でスタートするものの春の訪れが早く、夏は猛暑傾向が予想され、メリハリのある年となりそう」との予測です。AIによりますと「この夏は、太平洋高気圧の北への張り出しが強まり、全国的に気温は平年より高い予想。 近年続いているような猛暑となる見込み。」との見立てです。猛暑は家計の電気料金にもろに影響してきます。ただLED化したマンションなどの共用部の電灯やエレベーターなど動力に関しては、猛暑であっても電気料金の影響は少ないと思われます。

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ウィスコンシン州最高裁判所判事は民主派が当選

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私は1983年にウィスコンシン大学から学位を貰いました。長男も同じく同大学から学位を得ています。子ども三人やその配偶者も、ウィスコンシン大学より学士から博士号を得ました。それを合わせると9つを数えます。今、孫娘の一人も同大学でコンピュータサイエンスを学んでいます。娘二人の家族は今も州都のマディソンで暮らしています。そんな事情ですから、ウィスコンシンへの思い入れは異常な位なのです。さらにいえば、皆が民主党を支持していることを付け加えます。

ウィスコンシンの州旗 (Wikipediaより)

 2025年4月1日にウィスコンシン州最高裁判所(Wisconsin Supreme Court) 判事の選挙が行われました。今回の選挙は州最高裁判所の判事を10年の任期で選ぶものでしたが、当選したのはマディソンが位置するデーン郡の巡回裁判官(Dane County circuit judge)のスーザン・クロフォード(Susan M. Crawford)です。彼女は、ウォキショー郡​​巡回裁判官(Waukesha County circuit judge)で元州司法長官のブラッド・シメル(Brad Schimel)を破り、裁判所のリベラル派の4対3の多数派を維持することとなりました。なおクロフォードの獲得票は55.05%でした。

 現職判事のアン・ブラッドリー(Ann W. Bradley)は、30年間の裁判所勤務を経て引退することになり、クロフォードを支持すると表明していました。彼女はリベラル派とみなされ、裁判所のリベラル派の4対3の多数派に一貫して投票していた判事です。クロフォードは、ブラッドリーと同様にリベラル派の候補者とみなされ、ウィスコンシン州の民主党と民主党に所属する寄付者から支援を受けて当選しました。他方シメルは保守派とみなされ、ウィスコンシン州の共和党支持者から支援を受けました。

ウィスコンシン州

 この選挙は全国的に大きなメディアの注目を集めました。その理由は選挙戦の費用が総支出額が1億ドルに迫り、史上最も費用のかかる司法選挙となったからです。中でも選挙への関心は、ドナルド・トランプ大統領から指名された政府効率化省(Department of Government Efficiency: DOGE)の長官で億万長者のイーロン・マスク(Elon Musk)は、シメルを支援するために2,500万ドル以上を費やしたと報道されました。これが耳目を集め、選挙戦を大いに賑わす結果となったのです。

 今回の選挙は、州教育長選挙やマディソンの教育長を選ぶ一連の地方選挙と並行して行われました。このように州の判事を含め、議会議員、教育長や教育委員は市民によって選ばれるのです。当然ながら、選挙には多額の資金が必要になります。資金は企業からではなく、支持者の寄付や献金によって賄われるのです。なお、連邦裁判所判事は大統領が指名するのがアメリカの仕組みです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その148 米比戦争とアギナルドの役割

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 1899年2月4日夜、マニラを取り囲んでいたアメリカ軍とフィリピン軍との間で、避けられない衝突が始まります。2月5日の朝、勇敢に戦ってきたフィリピン人は、すべての地点で敗退してしまいます。戦闘が進行する中、アギナルドがアメリカに対して宣戦布告を行い、アメリカは直ちにフィリピンに援軍を送ります。フィリピン政府は北へ逃れていきます。1899年11月になるとフィリピン人たちはゲリラ戦に打って出るのです。

 3年にわたる高い代償を払った戦闘の後、1901年3月23日、フレデリック・ファンストン将軍(Frederick Funston)の率いる大胆な作戦により、アギナルドがルソン島(Luzon)北部のパラナン(Palanan)の秘密司令部で捕えられ、反乱はついに終結します。アギナルドがアメリカへの忠誠を誓い、アメリカ政府から年金を支給され私生活へと引退します。

 1935年、独立に向けてフィリピン連邦政府が設立された。アギナルドは大統領選に出馬しますが、決定的な敗北を喫します。1941年12月に日本軍がフィリピンに侵攻するまで、彼は私生活に戻ります。しかし、日本軍はアギナルドを反米の道具として利用しようとします。彼は演説をし、反米記事に署名します。1942年初めには、当時コレヒドール島(Corregidor Island)で日本軍に抵抗していた米軍守備隊のダグラス・マッカーサー元帥(Gen. Douglas MacArthur)に降伏するようラジオで呼びかけます。同軍は1942年5月に降伏しますが、マッカーサーはすでに退却したあとでした。

 1944年末にアメリカ軍がフィリピンに戻り、1945年にマニラを奪還した後、アギナルドは逮捕されます。日本軍との協力で告発された者たちは、大統領恩赦で釈放されるまで数カ月間投獄されます。1950年、エルピディオ・キリノ大統領(Elpidio Quirino)によってアギナルドは国家評議会のメンバーに任命されます。晩年は退役軍人問題、フィリピンのナショナリズムと民主主義の促進、フィリピンとアメリカの関係改善に力を注ぎます。

 戦後エルピディオ・キリノは公職での活動を続け、独立後初の副大統領に選出され、同年9月に外務大臣を兼任します。そして1948年4月にキリノは大統領に就任します。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その147 フィリピン独立のための闘い

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エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)は中国人とタガログ人(Tagalog)の両親から生まれます。マニラのサン・フアン・デ・レトラン・カレッジ(San Juan de Letran College)に通いますが、母親が経営する農場を手伝うために早々と退学します。1896年8月、彼はカビテ・ビエホ(Cavite Viejo)、現在のカウィット(Kawit)、カビテ市(Cavite cityKawit)に隣接の市長となり、スペインと激しく戦い成功した革命団体カティプナン(Katipunan)の地元リーダーとなります。

 1897年12月、彼はスペイン総督とビアク・ナ・バトー協定(Pact of Biac-na-Bato)と呼ばれる協定に調印します。アギナルドがフィリピンを離れ、永久に亡命する条件は、スペインから多額の金銭の報酬と自由な改革を約束することでありました。香港とシンガポールに滞在していた彼は、アメリカ領事とジョージ・デューイ提督(George Dewey)の代表者とともに、スペインとの戦争でアメリカを支援するためにフィリピンに戻る準備をします。

 1898年5月19日、アギナルドがフィリピンに帰国し、スペインとの闘争の再開を宣言します。1898年6月12日にスペインからの独立を宣言したフィリピン人は、アギナルドを大統領とする暫定共和国を宣言し、9月には革命議会が開かれ、フィリピンの独立が批准されます。しかし、1898年12月10日に締結されたパリ条約により、フィリピンはプエルトリコ、グアムとともにスペインからアメリカに割譲されることになります。

 アメリカとフィリピンの関係は次第に悪化していきました。1899年1月23日、フィリピンは共和国となり、議会とアギナルドが承認したマロロス憲法(Malolos Constitution)が発布されます。そして大統領には、臨時政府総裁であったアギナルドが選ばれるのです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その146 フィリピン共和国のゲリラの活動

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フィリピン共和国政府軍は北へ向かって逃走していきます。1899年11月、フィリピン人はゲリラ戦に打って出ますが、その結果、壊滅的な打撃を受けることになりました。反乱の主要な作戦は最大の島であるルソン島(Luzon Island)で行われましたが、その際、アメリカ軍は先住民のマカベベ(Macabebe)偵察兵の多大な援助を受けます。彼らは、以前スペイン政権に仕えていましたが、その後アメリカに忠誠心を移します。組織的な反乱は、1901年3月23日、フレデリック・ファンストン(Frederick Funston)アメリカ軍大将によるアギナルド(Emilio Aguinaldo)の捕獲で事実上終結します。

 ファンストンは、捕虜となった使者からアギナルドの秘密司令部の場所を知ると、自らルソン島北部の山岳地帯に大胆な作戦を展開します。一握りの将校とともに捕虜のふりをし反乱軍に変装したマカベベ斥候の隊列の護衛のもとで行軍します。援軍を待っていたアギナルドが先頭部隊を迎えると、降伏を要求されて唖然とさせられるのです。ファンストン到着後、アギナルドが「これは冗談ではないのか」叫ぶのですが、マニラへ連行されていきます。

 アギナルドがアメリカに忠誠を誓い、敵対行為の終結を求めますが、ゲリラ活動は衰えることなく続けられます。アメリカ兵士への虐殺に怒ったジェイコブ・スミス(Jacob F. Smith)准将は、無差別の残虐行為で報復し、軍法会議にかけられ退役を余儀なくされます。1902年4月16日、フィリピンのミゲル・マルバール(Miguel Malvar)将軍がサマール島(Samar Island)で降伏した後、アメリカ市民政府は残ったゲリラを単なる盗賊とみなしますが、戦闘は継続されました。シメオン・オラ(Simeón Ola)率いる約千人のゲリラは1903年後半まで敗北せず、マニラ南方のバタンガス州(Batangas)ではマカリオ・サカイ (Macario Sakay)が指揮する部隊が1906年後半まで捕虜になるまで抵抗します。

 アメリカ軍に対する最後の組織的抵抗は、1904年から1906年にかけてサマール島で行われました。そこでは、平和になった村々を焼き払うという反乱軍の戦術が、彼ら自身の敗北につながりました。ミンダナオ島(Mindanao)のモロ族(Moro)の反乱は1913年まで散発的に続きますが、アメリカはフィリピンを明らかに支配し、1946年まで島々の領有を維持することになります。

 アメリカとの戦争に突入したフィリピン共和国政府のアギナルドは、武器の支援を日本に期待します。1899年6月、革命派のマリアーノ・ポンセ(Mariano Ponce)らの代表団を日本に送り、日本政府から武器・弾薬の調達を受けるべく工作を行います。マリアーノ・ポンセはちょうどそのころ日本に亡命していた孫文や蔣介石らに出会い、その紹介で自由民権思想を擁し近代日本の社会運動家であったっっっcや大隈重信、山縣有朋、犬養毅らの民権派にも接近しフィリピン独立の支援を要請します。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その145 第一次フィリピン共和国

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300年以上にわたるスペインによる植民地支配の間、フィリピンでは準宗教的な反乱が頻発していましたが、19世紀末のホセ・リサール(José Rizal)らの著作活動によって、より広範なフィリピン独立運動が活性化していきます。リサールは「ノリ・メ・タンヘレ:わが祖国に捧げる(Noli me tangere)」と「エル・フィリブステリスモ:反逆・暴力・革命ー(El Filibusterismo)」という2つの小説の作家としても有名です。

 フィリピン最初期の近代小説である両作は共にスペイン語で書かれていますが、スペイン圧政下に苦しむ植民地フィリピンの様子が克明に描き出されていて、フィリピン人の間に独立への機運を高めた著作です。スペインは植民地政府の改革に消極的で、1896年に武力反乱が起きます。1896年12月30日、革命ではなく改革を主張したリサールは扇動罪で銃殺されます。彼の殉教は、若き将軍エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)が率いる革命に拍車をかけることになります。

 他方、キューバでもスペイン支配からの独立を目指す動きがありました。1898年3月、ハバナで軍艦USSメインが破壊されたのを受けて、アメリカはスペインに最後通牒を送り、アメリカの仲裁を受け入れてキューバの支配を放棄するように要求します。スペインとの戦争の可能性に備えて、海軍次官のセオドア・ルーズベルトは香港のアメリカ・アジア戦線に警戒態勢を命じます。4月に宣戦布告されると、香港から出撃したジョージ・デューイ提督(Commodore George Dewey)は5月1日朝、マニラ湾でスペイン艦隊を撃破します。ですが3ヵ月後に地上軍が到着するまでマニラを占領することができませんでした。

 さらに、1898年6月12日にフィリピン人は独立を宣言し、アギナルドを大統領とする臨時共和制を宣言します。このように太平洋のアメリカの反対側では、アメリカ反帝国主義者同盟が結成され始めます。この組織は、アメリカのフィリピンへの関与に反対し、あらゆる政治的分野から支持を集め、大衆運動へと発展していきます。そのメンバーには、社会改革者のジェーン・アダムス(Jane Addams)、実業家のアンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie)、哲学者のウィリアム・ジェームズ(William James)、作家のマーク・トウェイン(Mark Twain)など、著名な人物が名を連ねていました。

 1899年8月13日、マニラは無血の「戦い」の末に陥落します。スペインのフェルミン・ハウデネス知事(Fermín Jaudenes)は、自分の名誉を守るために模擬的な抵抗の後、降伏するよう密かに準備していました。アメリカ軍はマニラを手に入れますが、フィリピンの反乱軍はマニラの残りの地域を支配していました。1898年12月にスペインとアメリカの代表が署名したパリ条約により、フィリピンの主権はスペインからアメリカに移ります。しかし、マニラを除く全島を実質的に支配していた新生フィリピン共和国の指導者たちは、アメリカの主権を認めませんでした。他方、アメリカはフィリピンの独立を否定し、紛争は避けられない見通しとなります。

 1899年2月4日夜、マニラ近郊で銃声が響きます。朝になってみると、無謀ともいえる勇敢な戦いをしてきたフィリピン人が、ことごとく敗れていきました。戦闘が続く中、アギナルドが対米宣戦布告を行います。アメリカでは依然として反帝国主義的な感情が強かったのですが2月6日、アメリカ上院は米西戦争を終結させる条約を一票差で批准します。アメリカの援軍は直ちにフィリピンに送られます。フィリピン人の中で最も優秀な指揮官であったアントニオ・ルナ(Antonio Luna)は、その軍事作戦を任されますが、アギナルドの嫉妬と不信に大きく妨げられたようで,アメリカ占領を受け入れる「自治派」によってルナは殺害されます。3月31日にマニラの北に位置する反乱軍の首都マロロス(Malolos)はアメリカ軍に占領されます。

 1900 年 3 月、アメリカ大統領ウィリアム・マッキンリー(William McKinley)は、フィリピンに民政を樹立するため、第 2 回フィリピン委員会を招集します。このとき、アギナルドのフィリピン共和国の存在は都合よく無視します。4月7日、マッキンリーは委員会のウィリアム・タフト(William Taft)議長に、「彼らが設立しようとしている政府は、我々の満足や理論的見解の表明のためではなく、フィリピン諸島の人々の幸福、平和、繁栄のために作られていることを肝に銘じるように」と指示します。フィリピンの独立について明確な記述はありませんが、この指示は後にしばしば独立を支持するものとして引用されます。

 マニラの人の憩いのリサール公園(Rizal Park)にホセ・リサールの像が建っています。彼はスペイン植民地政策に抗議し、フィリピン独立運動に挺身した英雄とされています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その144 米比戦争の開始と結果

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米比戦争 (Philippine–American War) の開始2日前に、マニラ郊外でアメリカ軍とアギナルドの反乱軍との間で戦闘が始まります。ここに本格的な米比戦争が始まります。その後3年間、フィリピン人はアメリカの支配に対してゲリラ戦を展開します。戦闘が終わるまでに、約2万人のフィリピン軍と20万人の民間人が死亡します。アメリカ人の死者は4,300人と推定されていますが、その圧倒的多数は病気によるものといわれます。

 米西戦争 (Apanish–American War) は短期間であり、資源と人命の両方において比較的安価であったといわれますが、両国の歴史における重要な転機となります。スペインにとって、この戦争は直ちに悲惨な結果をもたらしますが、その後、スペイン人の生活は、知的にも物質的にも目覚しい復興を遂げていきます。サルバドール・デ・マダリアガ(Salvador de Madariaga)がその代表作『スペイン:近代史』(Spain: Modern History)の中で次のように書いています。

「スペインはこれまでのような海外での冒険の時代は終わり、これからは自分の未来は自国にあると感じる。何世紀にもわたって世界の果てを彷徨ってきた彼女の目は、ついに自国の領土に向けられたのである。」

 スペインはその後20年間、農業、鉱物資源の開発、工業、交通の分野で大きな進展を遂げます。また、「1898年世代」(Generation of 1898)と呼ばれる優秀な思想家や作家が誕生し、スペインはヨーロッパで何世紀にもわたって享受してこなかった知的、文学的地位を獲得することになるのです。

 戦勝国のアメリカにとって、その結果は全く異なるものでした。アメリカは、この戦争で世界の大国となります。アメリカは、カリブ海(Calibian Sea)と太平洋にまたがる島国を領有し、戦争によって併合が早まったハワイもその一つでした。経済的な動機は、戦争勃発にはほとんど関与しませんでしたが、平和の形成には明らかに貢献します。アメリカのカリブ海、極東アジア、そしてその間の海域での足がかりの獲得は、海外市場へのアクセスを確保するための半世紀にわたる暫定的で断続的な探求のクライマックスとなります。

 米西戦争により、太平洋と大西洋はアメリカが建設した運河でパナマ地峡(Isthmus of Panama)を貫通します。この戦争は、アメリカ海軍への熱意を刺激し、アメリカ海軍は世界の戦艦の中で5、6番目から2番目へと成長します。戦争への備えが不十分で、敵の攻撃による犠牲者よりも、被爆や病気による犠牲者の方がはるかに多かったアメリカ陸軍の抜本的な改革を促したのです。また、アメリカ初の世界志向の大統領、セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の評価も上がりました。戦争終結から数年のうちに、アメリカはカリブ海をアメリカの湖とし、オープンドア政策(Open Door policy)などの極東政治に主導的な役割を果たし、ヨーロッパ情勢に決定的な役割を果たす準備をしていくのです。

 米比戦争はアメリカのアジア侵出の一環として起こった戦争といわれます。アメリカが関わった最初のアジア人との戦争です。列強による中国分割、イギリスの南アフリカ戦争、さらに日露戦争などにつながり、新たな植民地獲得運動の一つともいわれます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その143 和平交渉

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米西戦争(Spanish–American War)は事実上終わります。1898年7月18日、スペイン政府はフランスに和平交渉を要請します。しかし、戦闘が終わる前に、ネルソン・マイルズ将軍(Gen. Nelson A. Miles)が指揮する別のアメリカ軍遠征軍がプエルトリコ(Puerto Rico)を占領します。ワシントンでの休戦交渉は、1898年8月12日の議定書調印をもって終了します。

 この協定は敵対行為を終了させるとともに、スペインがキューバに対するすべての権限を放棄し、プエルトリコとマリアナ(Mariana)海域にあるラドロン諸島(Ladron Islands)の無名の島をアメリカに割譲することを約束するものでした。フィリピンでは、スペインは、島々の最終的な処分を決定する平和条約が締結されるまで、アメリカがマニラ市と港を占拠することに同意します。和平委員会は10月1日までにパリで会合することになっていました。

 マッキンリー大統領とその助言者たちが直面していた大きな問題は、フィリピンにおいてスペインに何を要求するかでありました。マッキンリーがキューバへの介入を提案したとき、地球の裏側にあるフィリピンを手に入れることなど考えてもいなかったことは確かです。また、多くの議会議員や一般市民が、この戦争の結果をそのように考えていたという根拠もありません。しかし、デューイがマニラで劇的な勝利を収めたことで、潜在的な戦略的重要性がにわかに注目されるようになります。ルーズベルトと友人のヘンリー・ロッジ(Henry C. Lodge)上院議員は、アルフレッド・マハン大佐(Capt. Alfred Mahan)のシーパワー(海上権力)理論の信奉者で、マニラ湾に極東におけるアメリカの影響力を大きく高める前哨基地があると考えたのです。

 ヨーロッパ諸国の中国における侵略は、多くのビジネスマンにとってアメリカ市場を脅かすものと思われ、マニラは中国におけるアメリカの利益を守るための拠点として彼らにアピールしていました。プロテスタント教会(Protestant)の指導者たちは、マニラでの勝利をフィリピンでの布教活動への神の召しととらえます。さらに、日英両政府は、アメリカがこの島を保持することを歓迎することを表明します。スペインの支配が回復すれば、キューバが救われたときと同じような混乱が起こるだけと考えられたからです。

 さらに、フィリピンの人々は自治を成功させるために必要な教育、訓練、経験を持っていないと信じられていました。この考えは、1898年6月にエミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)率いるグループがフィリピンを暫定共和国にすると宣言したにもかかわらず根強く、現地の現実を無視していました。アギナルド軍は、マニラ以外の群島をほぼ完全に支配していたのです。

 様々な熟慮とアメリカの民衆感情の評価に揺さぶられ、マッキンリーは長い熟考の末、アメリカがフィリピンのおよそ7,000の島々と700万人の住民を支配する必要があると決断します。この要求は、アメリカがフィリピンの公共建築と公共事業のために名目上2,000万ドルをスペインに支払うという条件で、しぶしぶスペインを同意させます。1898年12月10日に調印されたパリ条約は、この条件にそうものでした。スペインはキューバを放棄し、フィリピン、プエルトリコ、グアムをアメリカに割譲します。この条約はアメリカ上院で強く反対されますが、1899年2月6日に一票差で承認されるのです。

 米西戦争に敗れたスペインでは、かつてのスペイン帝国の栄華が無残に否定されたことに大きな衝撃を受けます。そして知識人の中に自己改革運動が起こり「98年世代」と言われ、復古王制下のスペインの没落を自覚し、精神的な再生をめざしていきます。次稿でそれを取り上げます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その142 スペイン艦隊の壊滅

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 1898年2月25日、ハバナ港での米艦船USS(US Ship)メイン号の破壊からわずか10日後、本格的な敵対行為の開始よりもずっと以前にジョージ・デューイ提督率いるアメリカ・アジア戦隊は警戒態勢に入り、香港に向かうよう命じられます。4月25日にアメリカが宣戦布告をすると、デューイはフィリピン海域にいたスペイン艦隊を捕獲または撃破するよう命じられます。アメリカ海軍は十分な訓練と供給を受けていましたが、これは主にデューイをアジア戦隊の司令官に抜擢した若い海軍次官補セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の精力的な努力によるものでした。

 デューイの艦隊は、4隻の防護巡洋艦(USSオリンピア(旗艦 Olympia)、USSボストン(Boston)、USSローリー(Raleigh)、USSボルチモア(Baltimore))、砲艦USSコンコード(Concord)とUSSペトル(Belt)、武装収入カッターUSSヒューマッカロク(Hugh McCulloch)、現地購入のイギリス補給船2隻から構成されていました。デューイは4月27日に香港の北東にあるミルズ湾(Mirs Bay)に軍を集結し、その3日後にフィリピンのルソン島(Luzon Island)沖に到着します。

 スペイン海軍提督パトリシオ・モントホ(Patricio Montojo)は自分の艦隊をカビテ(Cavite)の東側に東西に並べて停泊させ、北側に向けて陣を張ります。彼の艦隊は彼の旗艦である巡洋艦レイナ・クリスティーナ(Reina Cristina)、曳航された古い木造蒸気船であるカスティージャ(Castilla)、保護巡洋艦イスラ・デ・クバ(Isla de Cuba)とイスラ・デ・ルソン(Isla de Luzon)、砲艦ドン・ファン・デ・オーストリア(Don Juan de Austria)、他数隻で構成されていました。また、モントホはカビテ付近で6門の砲を備えた陸上砲台を支援します。

 4月30日夜、デューイはマニラ湾に入る広い水路であるボカグランデ(Boca Grand)に入ったが、このあたりは、コレヒドール島(Corregidor Island)の北側にある主要海路であるボカチカ(Boca Chica)よりあまり使われていませんでした。これによって彼はボカチカを監視していたコレヒドール島のスペイン軍の砲台を避けることができます。デューイはUSSオリンピアで先導して水路の機雷に対する懸念に対処し、真夜中に小さな要塞島であるエル・フレイレ(El Fraile)を通過しますが、ここから2発の砲弾が発射されます。彼はまたカビテ(Cavite)の砲台から砲撃を受けます。

 デューイは南側にスペイン艦隊を見ると、補給艦とUSSヒューマッカロクに湾に出るように命じ、USSオリンピア、USSボルチモア、USSローリー、USSペトル、USSコンコード、USSボストンと350メートル間隔で列をなして進軍します。午前5時40分頃、スペイン軍から約5,000メートル以内に入った時、デューイはUSSオリンピアのチャールズ・グリッドリー(Charles Gridley)少佐に”グリドレー、準備ができたら撃ってよし”という命令を下します。

 アメリカ艦船はスペイン戦線に沿って東から西に繰り返し通過し、左舷砲台を降ろして徐々に距離を1,829メートルに縮めます。午前7時、スペインの旗艦が近距離で交戦しようとしますが、アメリカの砲撃で追い返されます。スペイン艦隊は非常に苦しい状態となりますが、その深刻さはアメリカ軍司令官には十分に伝わりませんでした。

 午前7時35分、デューイは撤退して部下たちに朝食を与え、指揮官たちと協議を行います。午前11時16分に戦闘が再開すると、スペイン艦隊のレイナ・クリスティーナとカスティーヤは炎上します。こうして残りの作戦はカビテの海岸砲台を沈黙せることでした。スペインの小型船を破壊して戦意を喪失させる任務はUSSペトロール(Petrol)にまかされます。デューイはカビテを占領しその守備隊を捕虜とし、マニラ(Manila)を占領するための陸軍の到着を待ちます。

 1898年12月のパリ条約でキューバの独立は承認され、アメリカはフィリピン・プエルトリコ・グアムを領有します。これによりアメリカがキューバに上陸した地点を戦後に永久租借とします。キューバが社会主義国となってもアメリカは返還せず、グアンタナモ(Guantanamo)を基地として使用し続けています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その141 スペイン領のフィリピンでの戦い

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こうして始まったアメリカとスペインの戦争は、哀れなほど一方的なものでした。スペインは、前述のように、強大な国との戦争に備えることができていませんでした。アメリカ軍も同様に準備不足ではありましたが、戦争の帰趨は海軍力に大きく左右され、この点においてアメリカは完全にスペインを圧倒していました。スペインは、アメリカの北大西洋戦隊を支える4隻の新戦艦であるインディアナ、アイオワ、マサチューセッツ、オレゴンに匹敵するものは何も持っていませんでした。

 フィリピンにおけるスペインの旧式な敵対勢力よりさらに優れていたのは、ジョージ・デューイ提督(George Dewey)のアジア戦隊の巡洋艦でした。海軍次官補セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の情熱や熱意により、アメリカ艦は戦闘演習と射撃訓練を行い、燃料と弾薬を十分に供給されていました。将校と兵士たちは勝利に自信に満ち、スペイン兵士は敗北する運命にあることを悟っていたようです。

 最初の一戦は、1898年5月1日、マニラ湾(Manila Bay)にて始まります。ルーズベルトが指揮官に選んだデューイは夜明け前に戦隊を率いて湾に入り、朝方の交戦で停泊していたスペイン船を艦砲射撃で破壊します。アメリカ人の死傷者はわずか7人の軽傷者でした。デューイは湾の支配を続けながら、マニラ市を占領するために軍隊を派遣します。7月末までにウェスリー・メリット(Maj. Wesley Merritt) が率いる約1万1千人のアメリカ軍がフィリピンに到着し、8月13日にマニラを占領します。

 その一方で、キューバにも注目が集まります。宣戦布告と同時に、パスクアル・セルベラ・イ・トペテ提督(Pascual Cervera y Topete)が指揮する装甲巡洋艦4隻と駆逐艦3隻からなるスペイン艦隊は、カーボベルデ諸島(Cape Verde Islands)から西へ向かって航行していました。その所在は5月下旬にキューバ南岸のサンチャゴ港(Santiago’s harbour)に到着するまで不明でした。ウィリアム・サンプソン少将(William Sampson)率いる北大西洋戦隊とウィンフィールド・シュリー提督(Winfield Schley)が率いるいわゆる飛行戦隊は、サンチャゴ港の入り口を封鎖します。

 ルーズベルトの義勇兵隊、通称「ラフ・ライダーズ」(Rough Riders)と第9・10騎兵隊のバッファロー兵(Buffalo)を含む正規軍と志願兵がタンパ(Tampa)に上陸し、サンチャゴ(Santiago)の東のキューバ沿岸に上陸します。アメリカの目的は、セルベラ(Cervera)を陸軍と海軍の間に閉じ込め降伏させるか、出てきて戦わせることでした。7月1日、エル・カニー(El Caney)とサン・フアン・ヒル(San Juan Hill)の戦いではラフ・ライダーズが活躍し、ルーズベルトが戦争の英雄であるという大衆のイメージに貢献します。

 アメリカ軍はサンティアゴの外郭防御を突破します。しかし、サンティアゴの守備は非常に不安定で、マラリアなどの病気も蔓延していたため、司令官ウィリアム・シャフター(William Shafter)は撤退して増援を待つことを検討します。7月3日、ハバナからの命令を受けたセルベラは、部隊を率いてサンチャゴ港を出港し、海岸沿いを西に脱出しようとしたため、撤退案は撤回されます。その後の戦闘で、アメリカ艦隊の激しい砲火を受け、セルベラの船はすべて焼失または沈没します。アメリカ側の損害は軽微で、2週間後サンチャゴ市はシャフターに降伏します。

 フィリピン内では支配者であるスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されますが、いずれも規模が小さく局地的であり、容易に鎮圧されてしまいます。やがて独立運動が本格的になるのは、19世紀末、フィリピン独立の父とされるホセ・リサール(Jose Rizal)の活躍を待つのです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その140 スペイン政府のジレンマ

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スペインは、悲惨なジレンマに陥ります。スペイン政府は、アメリカとの戦争に備えて陸軍や海軍の準備をしておらず、スペイン国民にキューバを放棄する理由を伝えていませんでした。戦争とは確実に災いを意味します。キューバの降伏は、政府、あるいは王政の転覆を意味するかもしれませんでした。スペインは目の前の藁にすがるしかありませんでした。他方では、ヨーロッパの主要な政府からの支援を求めていました。イギリスを除けば、主要な政府はスペインに同情的でしたが、口先だけの支持しか与えようとはしませんでした。

 4月6日、ドイツ、オーストリア、フランス、イギリス、イタリア、ロシアの代表がマッキンリー大統領(William McKinley)を訪れ、人道の名のもとにキューバへの武力介入を控えるよう懇願してきます。マッキンリーは、もし介入が行われるなら、それは人類の利益のためであると断言します。ローマ教皇レオ13世(Pope Leo XIII)による仲介の努力も同様に無駄でした。他方、スペインは3月27日のマッキンリーの条件を受け入れる方向で進んでいました。ウッドフォード公使(Minister Woodford)がマッキンリーに、時間と忍耐があれば、スペインはアメリカとキューバの反乱軍の双方に受け入れられる解決策を講じることができると進言するほどでした

 スペインはキューバでの再集権化政策を廃止しようと考えます。アメリカの調停を受け入れる代わりに、自治プログラムの下で選出されるキューバ人民委員会を通じて島の平和を求めるというものです。スペインは当初、武装勢力からの申請があった場合のみ休戦を認めるとしていましたが、4月9日に自らの判断で休戦を宣言します。しかしスペインは、マッキンリーがキューバの平和と秩序を回復するために不可欠と考えた独立を依然として認めようとしません。

 マッキンリーは、議会内の戦争派とこれまで一貫して取ってきた立場、すなわちキューバで受け入れ可能な解決策が見つからない場合、アメリカの介入につながるという主張を譲り、スペインの新しい譲歩を報告し4月11日の特別メッセージで議会に「キューバの戦争は止めなければならない」と勧告を出します。大統領は議会に対し、「スペイン政府とキューバ国民の間の敵対行為の完全かつ最終的な終結を確保するために」アメリカの軍隊を使用する権限を求めます。これに対して議会は、4月20日に「キューバ国民は自由であり独立した存在であり、当然そうあるべきである」と力強く宣言します。議会は、スペインがキューバに対する権限を放棄し、軍隊をキューバから撤退させることを要求し、大統領がその要求を実行するためにアメリカの陸軍と海軍を派遣することを承認します。

 コロラド州の上院議員ヘンリー・テラー (Henry Teller)が提案した第4の決議は、アメリカがキューバを領有することを放棄するというものでした。大統領は、現存するが実体のない反乱政府を承認することを盛り込もうとする上院の試みを退けるのです。反乱政府を承認することは、戦争遂行と戦後の平和維持の両方において、アメリカ外交の方針に反すると考えたからであり、平和維持はアメリカの責任であると予見していました。決議案署名の知らせを受けたスペイン政府は、直ちにアメリカと国交を断絶し、4月24日にアメリカに宣戦布告します。合衆国議会も4月25日に宣戦布告を行い、その効力は4月21日に遡及するというものでした。

 スペイン帝国は最盛期にはブラジルなどを除く南アメリカ大陸、メキシコなど中央アメリカの大半、北アメリカの南部と西部、フィリピン、グアム、マリアナ諸島などを領有していました。植民地からもたらされた富によってスペインは16世紀からヨーロッパにおける覇権国的地位を築きます。しかし、1588年のアルマダ(Armada)の海戦で無敵艦隊が英国に敗れて弱体化が始まります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その139 アメリカの介入

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 1897年の秋、スペインの新政府は反乱軍に譲歩を申し出ます。それは、ヴァレリアノ・ウェイラー将軍(Valeriano Weyler)を呼び戻し、再集中政策を放棄し、キューバに選挙で選ばれたコルテス(Cortes: 議会)を認め、限られた自治権を与えるというものでした。しかし、この譲歩は遅すぎました。反乱軍の指導者たちは、もはや完全な独立以外に道はないと叫びます。キューバでは争いが続き、アメリカは介入寸前まで追い込まれる事件が相次ぎます。12月にはハバナ(Havana)でも暴動が起こり、アメリカ国民と財産の安全を守るために戦艦メイン(Maine)がハバナの港に派遣されることになります。

 1898年2月9日、ニューヨーク・ジャーナル紙は、ワシントンのスペイン公使エンリケ・ローム(Enrique Dupuy de Lôme)からの私信を掲載し、マッキンリーを「弱腰で人気取り」と評し、スペインの改革計画に対しては誠意に反するものと非難します。ロームは直ちに解任され、スペイン政府は謝罪します。この事件は、6日後に大きな反響を呼びます。2月15日の夜、ハバナに停泊していたメイン号(USS Maine)が大爆発を起こして沈没し、乗組員260人以上が犠牲になるのです。しかし、この事故の原因は正確には究明されませんでした。

 アメリカ海軍の調査委員会は、最初の爆発は船体の外側、おそらく機雷か魚雷によるもので、戦艦の前部弾倉に着火したことを示す有力な証拠を発見します。スペイン政府はその責任を仲裁に委ねることを申し出ますが、ニューヨーク・ジャーナル紙をはじめとする低俗で扇情的な誇張表現を用いたイエロー・ジャーナリズム の扇動に乗せられ、アメリカ国民はスペインの責任を疑うことなく認めるのです。「メイン号を忘れるな、スペイン地獄へ」(Remember the Maine, to hell with Spain!)というのが、アメリカ国民の叫びでした。

 介入を求める声は、議会では共和党、民主党の双方からでます。ただし共和党のマーク・ハンナ(Mark Hanna)上院議員やトーマス・リード(Thomas Reed)下院議長らは介入に反対します。しかし介入の声は国内でも根強くなっていきました。アメリカの経済界は、全般的に介入と戦争に反対していました。しかし、3月17日、キューバ視察から帰国したばかりのバーモント州選出のレッドフィールド・プロクター(Redfield Proctor)上院議員が上院で行った演説をきっかけに、こうした反対運動は沈静化します。

 プロクター上院議員は、戦争で荒廃したキューバを視察し、和解地での苦しみと死、その他の地域の荒廃、スペインが反乱を鎮圧できないでいることなど、淡々とした言葉で説明しました。3月19日付の『ウォールストリート・ジャーナル』紙は、この演説を「ウォール街の多くの人々を改心させた」と評価するほどでした。宗教指導者たちは、介入を宗教的、人道的な義務であるとして介入を求める声に賛同します。

 スペインが勝利でも譲歩でも戦争を終わらせることができないことが明らかになると、介入を求める民衆の圧力は強まりま す。マッキンリー の対応は、3月27日にスペインに最後通牒を送ることでした。マッキンリーは、スペインに実質的に和解を放棄し、休戦を宣言して反乱軍との和平交渉においてアメリカの仲介を受け入れるように伝えます。しかし、彼は別の書簡の中で、キューバの独立以外は認めないことを明言します。

 湧き起こるキューバへの介入という世論に押されて、やがてアメリカ政府はスペインに宣戦布告します。この陰には、新聞社の経営に利益をもたらすほどの介入といった調子で扇動する新聞があって、新聞社も「死の商人」と化していったといわれます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その138 米西戦争の起源

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 1800年代後半のアメリカの外交政策を取り上げます。1898年に起きたアメリカとスペインの間の紛争である米西戦争(Spanish–American War)により、アメリカ大陸におけるスペインの植民地支配のもとで、アメリカは西太平洋とラテンアメリカの領土獲得を目指します。この戦争は、1895年2月に始まったスペインからの独立を目指すキューバ紛争(Cuban War of Independence)に端を発しています。キューバ紛争は、アメリカのキューバへの推定5000万ドルの投資に損害を与え、通常年間1億ドルとされるアメリカのキューバ港との貿易をほぼ停止させます。キューバの反乱軍側では、戦争は主に財産に対して行われ、サトウキビと製糖工場の破壊につながります。アメリカにとって金銭的利益よりも重要だったのは、アメリカの人道的感情のことでした。

 スペイン人指揮官バレリアーノ・ニコラウ(Valeriano Nicolau)は「残虐者」(slaughterer)と呼ばれ、キューバ人を大都市周辺のいわゆる「再集中地域」に集め、逃亡した者は敵として扱いました。スペイン当局は、和解者のための住居、食料、衛生、医療を十分に用意せず、何千人もの人々が放置され、飢え、病気で亡くなります。このような状況は、ジョセフ・ピューリッツァー(Joseph Pulitzer)の「ニューヨーク・ワールド」(New York World)や、ウィリアム・ハースト(William R. Hearst) が当時創刊した「ニューヨーク・ジャーナル」 (New York Journal) などの新聞でセンセーショナルに報じられ、アメリカ国民に向けて生々しく紹介されます。

 独立を目指す植民地の人々に対して伝統的に同情するアメリカでは、苦しむキューバ人に対する人道的配慮が加わっていきます。他方、アメリカは、反乱軍への砲撃を防ぐための近海パトロールや、アメリカ国籍を取得した後、反乱に参加してスペイン当局に逮捕されたキューバ人からの援助の要請に直面することになります。

 戦争を止め、キューバの独立を保証するための介入を求める国民の声は、アメリカ議会でも支持されるようになります。1896年の春、上院と下院は同時決議で、キューバの反乱軍に交戦権を与えるべきであると宣言します。この議会意見の表明を無視したのがクリーブランド大統領(Stephen Grover Cleveland)です。彼は戦争が長引けば介入が必要になるかもしれないと議会への最終メッセージを送り介入に反対します。次ぎに大統領となったマッキンリーはスペインとの宥和政策を支持します。しかし、マッキンリーは新任の駐スペイン公使スチュワート・ウッドフォード(Stewart Woodford)への指示や議会への最初のメッセージで、アメリカは血生臭い闘争をいつまでも傍観することはできないと明言するのです。

 イエロー・ジャーナリズム(Yellow Journalism) はイエロー・プレス(Yellow Press)とも呼ばれ、事実報道よりも扇情的な記事などを使って読者の関心をひき発行部数を伸ばそうとする行為です。米西戦争をめぐって、ニューヨーク・ジャーナル紙とニューヨーク・ワールド紙の2紙は発行部数競争で熾烈な争いを繰り広げ、無責任なニュースをでっち上げたりもしたといわれます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その137 経済の回復

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 1897 年 3 月 4 日の就任直後、マッキンリー大統領は再び関税を改定すべ多くの品目を自由リストから除外します。それによって輸入関税は全般的にそれまでの最高水準に引き上げられます。さらに金本位制(Gold Standard Act) の維持は1896年の共和党の最大のアピールポイントでしたが、1900年3月になってようやく議会は金本位制法を制定し、財務省には最低1億5,000万ドルの金準備を維持することを義務づけ、その最低額を守るために必要であれば債券の発行を許可することになります。

 1900年当時、金の十分な供給は現実的な問題ではなくなり、このような措置はほとんど期待はずれのものとなります。1893年以降、アメリカでの金の生産量は着実に増加し、1899年までにアメリカの供給量に加えられた金の年間価値は、1881年から1892年までのどの年よりも2倍になりました。この新しい金の供給源の中心は、1896年の夏にカナダ・ユーコン準州クロンダイク地方(Klondike)で発見された金鉱床となります。

 1898年には不況は一段落し、農産物価格と農産物輸出量は再び安定的に上昇し、西部の農民は当面の苦労を忘れ、経済の見通しに自信を取り戻したように見えました。産業界では、反トラスト法にもかかわらず、企業結合の動きが再開され、ニューヨークのJ.P.モルガン(J.P. Morgan) をはじめとする大手銀行が必要な資本を提供し、その見返りとして、大資本が設立した企業の経営に大きな影響力を持つことになっていきます。

 クロンダイク地方で金鉱が発見されると、一獲千金を狙う人々が殺到します。ゴールドラッシュでできた町ドーソン・シティー(Dawson City)は一時人口が3万人以上にまで膨れ上がったとか。その中で幸運にも金を採掘出来たのは約4,000人と言われます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その136 中間選挙とウィリアム・ブライアン

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クリーブランドが党内を掌握できていないことは、議会が銀から関税に目を向けたときに明らかになりました。下院では、大統領の意向に沿って関税率を下方修正する法案が可決されました。しかし、上院では、法案は元の法案とは似ても似つかないほど変更され、いくつかの項目については、マッキンリー関税法よりも高い関税が課されることになりました。1894年8月にようやく関税率の引き下げが可決されましたが、クリーブランドは非常に不満で署名を拒否し、彼の署名なしに法律となった。この法律には所得税の規定がありましたが、1895年に最高裁判所(Supreme Court)によって違憲とされました。

 1894年の中間選挙では、共和党が議会の両院を制覇します。このことは、不況が続くことによる不満の表れでした。また、民主党の大統領と共和党の議会では、1896年の選挙を前にして、国内法の制定が滞ることが確実となりました。

 セントルイス(St. Louis)で開催された共和党大会で、共和党はオハイオ州知事のウィリアム・マッキンリー(William McKinley) を大統領候補に選出します。彼は南北戦争で連邦軍に従軍した経験があり、オハイオ州知事としての実績は、1890年の不人気な関税との関連性を相殺することになります。しかし、マッキンリーの最も親しい友人であり、クリーブランドの裕福な実業家であるマーク・ハンナ(Mark Hanna)が、候補者指名を勝ち取るために最も効果的な支援を表明します。

 シカゴで開かれた民主党大会は、異様な盛り上がりを見せます。クリーブランドの金融政策に敵対するグループが大会を支配し、自党の大統領の政権を賞賛する決議を拒否するという前代未聞の行動に出たのです。党綱領の討論会では、ウィリアム・ブライアン(William Bryan) が銀と農民の利益を雄弁に擁護し、長い喝采を浴びただけでなく、党の大統領候補に指名されたのです。ブライアンは、ネブラスカ州(Nebraska)選出の元下院議員で、36歳という史上最年少で民主党の大統領候補となります。

 ブライアンは精力的に選挙戦を展開します。大統領候補が初めて全国津々浦々の民衆に訴え、一時は勝利するかと思われました。保守派は、ブライアンは危険なデマゴーグであり、繁栄をもたらす健全な経済システムの擁護者と国家の財政的安定を損なう無謀な改革を支持し、不誠実な急進派との対立者であると応戦します。このような主張によって、共和党は自分たちの利益が脅かされることを恐れる実業家たちから多額の選挙資金を調達することに成功します。こうした選挙資金をもとに、共和党は流れを変え、決定的な勝利を収めることになります。南部以外では、ブライアンは西部のシルバー・ステート(Silver State)と呼ばれるネバダ州(Nevada)とカンザス州(Kansas)、ネブラスカ州を制しただけでした。

 本選挙では共和党のウィリアム・マッキンリーに敗れますが、ブライアンは本選挙で36歳という若さで選挙人を獲得します。これは最年少記録となり2024年現在も破られていません。彼は1896年に27の州で500万人の聴衆を集めた全国遊説を初めて考案し演説家としての名声を得た人物です。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その135 アメリカで最も不人気な大統領

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 1893年3月、スチーブン・クリーブランド(Stephen Cleveland)が2期目の大統領に就任したとき、アメリカは金融恐慌の瀬戸際にありました。6年間続いたミシシッピ西部の不況、マッキンリー関税法の施行による外国貿易の衰退、民間債務の異常な高止まりなど、不穏な情勢にありました。しかし、最も注目されたのは、連邦財務省の金準備高でした。政府債務を金で償還するためには、最低1億ドルの準備金が必要だと考えられていました。1893年4月21日、金準備高がこの金額を下回ると、心理的な不安は広範囲に及びます。投資家は保有金を金に換えることを急ぎ、銀行や証券会社は苦境に立たされ、多くの企業や金融機関が破綻しました。物価は下がり雇用は減り、深刻な経済不況が3年以上続きます。

 この金融不安の原因は多岐にわたり複雑でしたが、金準備高に注目すると、財務省の金供給量の回復という一点に関心が集中しがちでした。財務省の資金流出の主な原因は、大量の銀を購入する義務にあると広く信じられていました。そのためには、シャーマン銀買入法(Sherman Silver Purchase Act)を廃止することが必要であるとされました。

 この問題は、経済的なものであると同時に、政治的なものでありました。この問題は両党を二分するものでしたが、銀政策の提唱者の多くは民主党でした。しかし、クリーブランドは、長い間、銀買い入れ政策に反対しており、この危機に際して、財務省を保護するために不可欠な措置として、シャーマン銀買入法の廃止を決意します。そして彼は1893年8月7日に特別議会を招集します。

 新議会は、上下両院とも民主党が過半数を占め、マッキンリー関税の撤廃を支持していました。銀貨の増刷を支持する議員が民主党議員の半数以上を占めていたため、銀の問題に関しては議論になりませんでした。クリーブランドは、議会で廃止を強行することは至難の業でありましたが、あらゆる権力を行使して目的を達成します。シャーマン銀貨購入法は、10月末に銀貨鋳造の補償規定がない法案で廃止されます。クリーブランドは、個人的には大勝利を収めるのですが、党内は分裂し、国内ではその時代で最も不人気な大統領となりました。

 クリーブランドは議会が可決した法案に拒否権を次から次に発動した大統領として知られています。彼は580回以上の拒否権を発動しました。4年の任期を終え、4年後の1893年に再度就任した最初の大統領としても知られています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その134 民衆党( People’s Party)の結成

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好景気の崩壊と農産物の価格下落により、多くの農民は政治的な救済を求めるようになります。この不満は、1888年と1890年に、農民同盟(Farmers’ Alliances)と呼ばれる地方政治団体を通じて表明され、西部の一部と南部で急速に広まります。南部では、南北戦争後、農園制度から小作料徴収制度への移行により、経済問題が深刻化しました。この同盟は地方で勝利を収め、1890年の共和党の退潮に貢献します。1891年、同盟の指導者たちは民衆党( People’s Party)を結成します。

 民衆党の人々-ポピュリストは全国的な政党になることを目指し、労働者や改革派全般からの支持を集めようと考えていました。しかし、実際には、その短い生涯の間では、ほぼ完全に西側農民の政党でしかありませんでした。南部の農民は、白人の票が分散し、それによって黒人が政権を握ることを恐れ、民主党を支持します。ポピュリストは、銀貨の無制限鋳造による流通通貨の増加、段階的な所得税、鉄道の政府所有、収入のための関税、連邦上院議員の直接選挙など、政治的民主主義の強化と農民が企業や工業と同等の経済力を持つための措置を要求します。1892年、ポピュリストはアイオワ州のジェームス・ウィーバー(James Weaver)を大統領候補に指名します。

 1892年の大統領選挙で二大政党が指名したのは、1888年の選挙と同じくハリソン(Benjamin Harrison)とクリーブランド(Stephen Cleveland)です。マッキンリー関税の不評がクリーブランドに有利に働き、西部での不満が共和党に大きく傾いていきます。選挙戦の初めから民主党の勝利が確実視されていましたが、クリーブランドは南部の諸州だけでなく、ニューヨークやイリノイといった北部の重要な諸州でも勝利を収めます。選挙人の得票数は、ハリソン145票に対してクリーブランドは277票でした。ウィーバーは西部4州で、うち3州は重要な銀鉱を有する州を制しますが22票を獲得したに過ぎませんでした。

 アメリカで二大政党に割って入った民衆党( People’s Party)の結成は、経済の不安や混乱に乗じた政治的な現象といえそうです。しかし、その歴史は短いものでした。

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