ザイム真理教というカルト

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「ザイム真理教」とは「経済成長よりも、財政健全化という帳簿上の収支合わせを神聖視し、そのために増税を行い続ける主義」を主張する財務省への強烈な皮肉を込めた呼び名です。この言葉は、昨今の物価高や実質賃金の低下の中で、「なぜ政府は減税をして国民を助けないのか?」という不満を持つ人々の間で強く支持されています。

「真理教」という強い言葉で呼ばれるには、単なる政策論争ではないことが分かります。財務官僚が有力な政治家やメディア関係者に対して頻繁に「ご説明」と称するレクチャーを行い、「日本は1000兆円以上の借金を抱えていて財政が破綻します」「国の借金○○○兆円、国民一人当たり800万円の借金」なととマスコミにも喧伝し危機感を植え付けていると言われるのです。いわば洗脳といわれる行為、これがレクチャーです。財政が破綻するので増税するというの財務省のロジックです。財務省は、分が悪くなると「少子高齢化が進み、年金、医療などの社会保障の財源が足りなくなるので消費増税が必要」という論点に軸足を移すのです。これに反論するためには、政治家はもっと勉強しなければならないはずです。

政府が必要な支出はしっかり行い、景気を良くすることを唱道する政治家や学者は冷遇され、財務省の「教義」に従う者だけが出世したり、メディアで重用されたりする構造があります。結果として積極財政という異論を排除することに傾倒するのです。「自国通貨建て国債の日本は財政破綻しない」という経済学的事実ー現代貨幣理論(Modern Money Theory: MMT)を無視し、頑なに緊縮財政を続ける姿勢が、論理を超越した「教理や信条」に見えるために「真理教」と呼ばれるのです。

「ザイム真理教」という用語を使ったのは経済アナリストで、2025年1月に亡くなった森永卓郎氏です。その著書『ザイム真理教』を通じて、日本の財務省が長年にわたり行ってきたとされる「財政破綻の危機を煽る情報操作」と、それによって日本経済がデフレから脱却できない現状を厳しく批判したのです。財務省の主張である「国の借金(国債)が巨額であり、このままでは日本の財政は破綻するというデマの流布に対して森永氏は、「日本は財政破綻しない」と看破します。

ザイム真理教

森永氏の反論は、政府の国債は自国通貨建てであり、通貨発行権を持つ国が資金繰りで破綻することはないということです。これは世界の常識となっています。日本は世界最大の対外純資産国であり、国全体として見れば「金持ち」の状態です。財務省は、政府が保有する株や土地、他国への貸付金などの資産を無視し、負債ばかりを強調することで、意図的に危機を煽っているとしています。資産と負債、つまり純資産(資産ー負債)というの貸借対照表(balanced sheet)を軽視しているというのです。

次に、森永氏は、財務省が消費税の増税を最優先事項として推進してきたことを批判しています。「消費増税」といういわば絶対主義への固執に対して批判するのです。財務省の主張は、 少子高齢化に伴う社会保障費を賄うためには、景気に左右されにくい安定財源である消費税の引き上げが不可欠であるというものです。しかし、「消費税は一般財源であり、社会保障目的税にしない、社会保障は保険料中心」というのが世界の趨勢なのです。

消費増税は、デフレ下においては経済活動を冷やし、景気を悪化させる最大の原因となります。税収を増やす方法は増税だけでなく、政府が積極的な財政出動を行い、経済成長を促して税収のパイを大きくする、すなわち税率を変えなくても税収が増えることが本来の道であるとしています。消費税増税は、大企業が優遇される「逆進性」、つまり所得の低い人ほど負担率が高くなる税制であり、格差を拡大させると指摘しています。森永氏は、財務省が推奨する政府の支出を絞る財政健全化=緊縮財政が、日本経済の最大の病巣であるデフレを長期化させていると主張しています。他方、財務省は、 財政赤字削減のため、公共事業費などを削減し、無駄遣いをなくすべきであると主張します。ですが公共事業費で無駄なものとは一体なんでしょうか。

終わりに「ザイム真理教」は「その教義が、単なる政策論ではなく、「教団の活動」として強力に実行されているという点です。信徒への「洗脳」、すなわち財務官僚による「レクチャー」が、政治家やメディアに対して行われ、財政破綻の恐怖が刷り込まれているのです。まるで「呪い」をかけるオカルトのようにきこえます。財務省に都合の良い御用学者をメディアに登場させ、オールドメディアで消費増税や緊縮財政の必要性を国民に説かせている事実もあります。さらに財務省の意に沿わないリフレ派や現代貨幣理論に沿った経済学説を「異端」と指摘し、特に報道される機会が奪われているのです。いわば情報統制を行っているともいえます。なお、現代貨幣理論とは、通貨発行権を持つ国は、自国通貨建ての債務であれば、財政破綻することなくいくらでも返済できるという経済理論です。リフレ派とは、デフレ脱却と景気回復のため、日本銀行による積極的な金融緩和などを通じて緩やかな物価上昇(リフレーション)を目指すべきだと主張する経済学者やエコノミストのグループです。

結論として、森永氏は財務省が自らの権威と予算を維持するために、国民に「未来への不安」を煽り、経済成長の芽を摘み続けていると強く訴えています。「社会保障のための消費増税」という理論的に間違ったことをごまかして、強引に増税を推し進めようとすると国民の反感と怒りを見放されて支持を失うのです。

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消費税減税か2万円給付金か

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生成AIに2つの質問、『消費税の減税はなぜ経済を活性化するのでしょうか。二万円の給付と消費税の減税はどちらが家庭にとって有効でしょうか。』という問いを投げてみました。そうすると消費税の減税は、経済を活性化させる効果があるという回答がありました。

 次に、生成AIに対して2万円の一律給付と消費税減税、どちらが家庭に有効か?という問いを出しました。生成AIは、「一概にどちらが絶対に良い」とは言えないが、世帯の収入や消費傾向によって異なると考えられるという回答です。例えば、2万円給付 vs 消費税減税(例:10%→5%)です。

 消費税減税の場合、年間どれくらいの差になるかです。たとえば、年間300万円の消費をする家庭で比べてみましょう。消費税10%では税額は30万円で、消費税5%では税額は15万円で差額15万円となります。この場合、2万円給付よりも消費税減税の方が効果が大きいです。ただし年間消費が少ない世帯では、2万円給付の方が得になることもあります。

 終わりに、どちらが家庭にとって「有効」かです。短期的な生活支援が必要な家庭には2万円給付が即効性があり、助かります。しかし、長期的には、税金や社会保険料を差し引いた後に自由に使える可処分所得の増加を望む家庭には、消費税減税の方がより大きな恩恵があります。そして、国全体での経済活動に焦点をあてるマクロ経済政策という観点では、消費税減税の方がより波及効果が高いといえます。2万円給付の原資つまり財源は、もともとは国民の税金なのです。国の2023年度税収、還付増でも2.5兆円も上振れしているのです。2万円給付とは「税金を取り過ぎました。お返しします。」と言うべきでしょう。

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医療費の4兆円削減案

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現在、自民党は与党内で日本維新の会などと社会保障制度改革の議論を進めています。その中で高齢者の医療費窓口負担の3割への割合拡大や、市販薬と成分がほぼ同じ処方薬であるOTC類似薬の保険適用見直しなどが議論されています。OTC類似薬とは、湿布薬や保湿剤、解熱鎮痛薬、抗アレルギー薬など約7000品目あります。 ただし、現時点で「国民全員が3割負担になる」といった決定的な事実や既に制度が変更されたという真偽情報はありません。現在は保険適用で、患者の自己負担は薬価の1~3割で済みます。保険が適用除外となると、市販薬の購入費用が過度にかさんだり、治療の遅れにつながったりするとし、患者団体や日本医師会が反対しています。

厚生労働省より引用

 ついでですが「高齢者」とは、65歳以上を指す言葉が一般的です。しかし、日本の平均寿命が延びている現状から、65歳から74歳を「前期高齢者」、75歳以上を「後期高齢者」とする区分もあります。後期高齢者になると、4分の1にあたる人が要介護認定を受けており、入院や長期療養が増えるのも事実ですが、後期高齢者の半数以上が趣味やレジャーを楽しんでいるともいわれています。

 社会保障制度改革の議論のポイントについてです。現在、6歳から69歳までの現役世代の医療費窓口負担は、所得に関わらず原則3割です。これは今後も維持される見込みです。議論の焦点は高齢者の負担割合です。その議論の主な焦点は、高齢化に伴う医療費全体の増加を抑えるため、特に70歳以上の窓口負担割合を引き上げるというものです。11月5日の財務省の審議会では「70歳以上の医療費を原則3割負担にすべき」という提案が出されましたが、厚生労働大臣は「現実的ではない」と否定的な見解を示しています。

 現在、75歳以上の一定所得以上の人は既に2割または3割負担となっています。この「一定所得」の基準を見直すことなどが検討されています。前述の湿布薬や保湿剤、解熱鎮痛薬など、市販薬と成分が似ているOTC類似薬の処方について、医療保険の適用を維持しつつ患者の自己負担を追加する方向で議論が進んでいます。これは自民党と維新の会の連立合意に含まれた項目です。維新の会が訴える医療費4兆円削減に連動するような高齢者の負担増を意味します。

 しかし、これらの負担増の議論に対して、患者団体や日本医師会、共産党などからは、患者の経済的負担が大きくなり、治療の遅れにつながる可能性、受診抑制が発生する可能性などといった懸念の声が上がっています。

 私的なことですが、私は心不全のために2週間入院し、退院後も11種類の薬を服用し運動療法を受けています。医療費が2割から3割負担となると大変だな、、と懸念する日々です。安心して病気ができる国、安心して年をとれる国になることを皆が願っています。

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税収入の仕組みと税収弾性値

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「責任ある積極財政」というスローガンが政界で話題となっています。この対極にある立場が「財政均衡」とか「基礎的財政収支」、別称「プライマリーバランス(PB)の黒字化」です。これまで財務省は、政府財政においては、債務残高がGDPの2倍を超えていると警告しています。「将来世代に負担を先送りする」という懸念が、財政均衡とか財政規律を強調する理由です。PBを均衡するためには、安定して徴収できる消費税を増やす、つまり増税という施策を要するというのです。

日本経済新聞より引用

 他方、「責任ある積極財政」論では、景気の回復には積極的な投資が必要であり、それによって供給を喚起し需要を促進すれば、各種の税収は増えて、政府の財政はバランスがとれるという主張です。積極的な投資とは、主に建設国債などの発行のことです。各種の発表によりますと、近年は、財務省の予測をよそに税収入が予想を上回っていると報じられています。財務省は税収入を予測するために「税収弾性値」という指標を用いてきました。

 税収弾性値とは、経済成長に対する税収の伸び率を表す指標です。具体的には、名目GDP成長率が1%増加したときに、税収が何%増加するかを示す数値です。この値が高いほど、経済成長に連動して税収が増加する効果が大きいことを意味し、財政再建に有利だとされます。

 長年、財務省が税収弾性値「1.1」という数値を使って、税収入を予測してきました。税収弾性値を低く設定しておけば、「社会保障の自然増分を稼ぎ出す成長を期待することも難しい、従って増税する必要が生まれる」という説明です。社会保障費の必要性を十分喧伝しておけば、後は自ずと「増税するしか無い!」という結論が導かれることとなるのです。これが財務省が「1.1」を捨てない理由です。

 最近の分析では、近年の日本では税収の伸びが伝統的な見積もりより大きく、実質的な税収弾性値はもっと高い可能性がある、という指摘があります。例えば、第一生命経済研究所(DLRI)の最新レポートでは、1998年度以降のデータから弾性値の平均を計算したところ、約 2.13 という値が発表されています。今年度の名目経済成長率により、政府や内閣府の見通しベースで税収は約77.8兆円ですが、約80.5兆円を超えると予想されています。

厚生労働省・総務省より引用

 税収増加の理由としては、法人税収の景気感応度が極端に高いからだといわれています。景気により企業利益はGDPより振れ幅が大きくなります。法人税は利益に直接かかるため、景気がよいと跳ね上がります。好況になると税収急増となりやすいく、 特に企業部門の好況が続いた2013〜2019では弾性値2以上が普通に起っていたのです。2024年度の決算確定では約 2.5兆円、2025年度の補正段階では約 2.9兆円の「上振れ」とな予想されています。

 財務省は「景気変動のリスク」を考慮し、税収を常に保守的(低め)に見積もる傾向があります。これに対し、近年の物価高(インフレ)による消費税増収や、企業業績の好調による法人税増収が、弾性値「1.1」ベースによる見積もりを大きく超えるペースで進んでいるため、結果として毎年数兆円規模の上振れという埋蔵金が発生する構造になっています。

 財務省が頑なに「税収弾性値1.1」という低い数値を使い続けるのには、大きく分けて①実務的な保守性というリスク管理と、②政治的な意図である財政規律というの2つの側面があります。実務的な理由としては、財務省にとって最も避けたい事態は、税収を多く見積もりすぎて、実際の税収が足りなくなる歳入欠陥です。歳入欠陥によって赤字国債への依存が生じるからです。予算を組んだ後に税収が足りなくなると、年度の途中で赤字国債を追加発行して穴埋めをしなければなりません。これは財政当局として最も恥ずべき失態とみなされるようです。そのため、景気が予想より悪化しても大丈夫なラインとして、過去の長期平均的かつ低めの数値である税収弾性値「1.1」を採用しているのです。

 次に、財務省には政治的な理由として政治家の「バラマキ」を防ぎたいという意図があります。ここが本質的な理由とされることが多いようです。もし財務省が税収弾性値が高く、景気が良くなれば税収は大きく増えることを公式に認めてしまうと、次のような圧力が政治家からかかります。つまり、増税は不要という論理が加速:し、経済成長すれば税収は勝手に増えるのだから、消費増税などの痛みを伴う改革は不要であるという議論が強まります。税収が増えると歳出を拡大するという圧力がかかります。「将来これだけ税収が増えるなら、今のうちに国債を発行してでももっと予算を使おう」という、一種バラマキのような圧力が強まります。

 財務省としては、「弾性値は低くして税収は簡単には増えない」という前提を維持することで、「だから無駄遣いはできない」「財政再建が必要だ」という緊張感を保ちたいという力学が働くのだろうと察します。財布の紐を固くしておきたいという気持ちは分からないではありませんが、政府の財政は家計のそれとは全く違うことを理解すると、財務省の主張は的外れであることが分かります。

 まとめですが、税収を低く見積もっておいた方が、財務省にとって都合が良いのです。予算が不足する懸念がなくなるからです。上振れした税は使い勝手の良い財源になります。それを後から補正予算で配れば、政治的な恩を売れるとか借金返済に回せるのです。財政が厳しいと主張することによって増税や支出削減の正当性を保てるというのが財務省の意図なのです。

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ウクライナ和平交渉と宥和政策

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最近のウクライナ情勢における大国間での和平交渉について、いろいろな提案と駆け引きが続いているようです。この交渉過程から1941年頃のイギリスのチェンバレン首相(Neville Chamberlain)のナチス・ドイツに対する宥和政策(appeasement)のことが思い起こされます。私なりにトランプ大統領をチェンバレンと、プーチン大統領(Vladimir Putin)とヒトラー(Adolf Hitler)とを対比するとどのようなことが見えてくるのか、果たしてこのような比較は妥当かどうかを、過去の史実に基づいた枠組みから考えてみます。

2022年ゼレンスキー大統領と東欧諸国首脳との会談

 トランプ、チェンバレン、プーチン、ヒトラーの関係は非常にセンシティブで、人物の評価というより政策姿勢や外交スタイルの比較をすることにとどめます。まずは、チェンバレンの宥和政策とトランプのロシアへの和平提案(peace proposal)の共通点です。双方とも「対話により緊張を下げられる」という前提で行動しているようです。チェンバレンは、ミュンヘン会談(Munich Conference)などでヒトラーとの直接対話により戦争を回避できると考え、譲歩を通じて安定を作ろうと努力しました。他方、トランプは「敵対よりも個人的関係による交渉が有効」と繰り返し主張し、プーチンとの関係改善を強調していることが伺えます。いずれも「強硬路線よりも首脳間交渉の重視」という構図が見えてくるようです。

 国際政治では、国家が自国の安全保障と国益を最優先する現実主義が見られます。チェンバレンは当時のイギリスの軍備が未整備で時間稼ぎをした面もあり、「実力が整うまで対立を避けたい」という現実的な動機があったといわれています。ヒトラーには、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約(Treaty of Versailles)で取り上げられ、チェコスロバキア領(Czechoslovakia)となったズデーテン地方(Sudetenland)を取り戻したいという意図がありました。トランプも「アメリカ第一主義」に基づき、ロシアより中国を競争相手と見なす優先順位から、ロシアとは緊張を高めたくないという発言を繰り返してきました。トランプの譲歩や対話が必ずしも弱腰ではなく、戦略的な判断をしているということも伺えます。

 チェンバレンの宥和政策は、チェコスロバキアやフランスの不安を生みます。それは彼らの軍事力が十分整わず、侵略で主権を脅かされるような提案だったからです。他方、トランプのロシアへの相対的で好意的姿勢は、NATO加盟国、特に東欧のポーランドやバルト三国(Baltic States)の不安を招いています。トランプの「敵との対話」が周辺国の警戒感を高めた点は、チェンバレンの宥和政策の影響に類似しています。同盟国の不安を招いているという共通点です。

 ただし共通点以上に違いの方が大きい点もあります。それは国際環境が全く異っていることです。1930年代は多くの国が軍備を拡張し、国際秩序が崩れつつある状況がありました。現代は核抑止や集団的防衛機構、国際機関が存在し、第二次大戦前とは構造が違っています。トランプは実際に「譲歩合意」を結んだわけではありません。他方チェンバレンはミュンヘン協定(Munich Agreement) によって具体的に領土を譲る合意を結んだのです。トランプはプーチンと象徴的な友好姿勢を示しているようですが、正式な「宥和協定」を結んだわけではありません。

 個人独裁者 vs 民主国家の価値観の違いが存在します。チェンバレンの相手は急速に拡張する全体主義国家で、目的も明確に領土拡大だったのです。他方、現代のロシアは権威主義的ですが、ナチス・ドイツの統治機構や外交方針と同一視はできません。

 ヒトラーの侵略性というイデオロギーは特異であり、現代の国家思想と直接比較するのは困難です。ナチス・ドイツは領土拡張と人種主義的政策を国家目的にしていました。他方プーチンのロシアは侵略や人権侵害が国際的に非難されていますが、ナチスと同一視する理由を探すのは難しいといえましょう。 トランプの政策はアメリカ国内政治の影響が強く、チェンバレンとは同列に置くことはできません。チェンバレンは国家総力戦の瀬戸際で判断せざるを得なかったのですが、トランプは主として「アメリカ第一主義」や来年11月に行われる中間選挙という背景で行動しているようです。

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感謝祭と「追悼の日」

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アメリカの感謝祭(Thanksgiving) が近づきました。感謝祭は国民的行事で、11月第4木曜日は祝日で4日間の連休となっています。一般には 1621年、マサチューセッツ州(Massachusetts)のプリマス(Plymouth)植民地での「収穫祭」 に由来するとされています。イギリスから北米に移住してきた清教徒:ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)は、過酷な冬を越え、先住民(Indigenous) ワンパノアグ族(Wampanoag)から農作物の栽培方法や狩猟を教わり、翌年に豊かな収穫を得ました。その収穫を祝い、ピルグリムとワンパノアグ族が共に祝宴を開いたという物語が「感謝祭の起源」として広く知られています。ただし、この「友好」の物語は後世、理想化された部分が多いとも指摘されています。

感謝祭

 感謝祭の意義は以下のような文化的意味を持ちます。すなわち家族・親族が集まる日です。感謝祭はクリスマス以上に、家族が一堂に会する日とされます。 遠く離れて暮らしている家族も、感謝祭の日には家族と共に過ごすために家に帰ろうと努めます。遠方から来ている友人を招く機会でもあります。宗教色は薄れつつありますが、一年の恵みに感謝する日が感謝祭で、健康な生活などに感謝する日としての性格を持っています。

 こうした感謝祭の一方で、アメリカ先住民は感謝祭に反対しています。ここが最も重要な点です。一部の先住民団体や支持者は、感謝祭を 「反省すべき歴史を美化する行事」 ととらえ、毎年この日を「追悼の日」(National Day of Mourning) を開催しています。「追悼の日」の背景には先住民の苦難の歴史が隠されるという側面があります。感謝祭の「友好の物語」とは対照的に、実際には白人による土地の奪取や植民地拡大、民族の虐殺が行われたという歴史もあるのです。開拓が進むにつれて先住民の文化・言語・宗教の破壊が進み、先住民社会は壊滅的な被害を受けます。この重大な歴史的事実が、感謝祭における「和やかな物語」によって覆い隠されいるという批判があります。

追悼の日

 多くのアメリカ人にとって感謝祭は「アメリカの始まり」とか「国民的伝統」といった肯定的な意味を持ちます。しかし先住民は、植民地化と虐殺の始まりの象徴でもあり、祝うどころか追悼すべき日と考えているのです。感謝祭では、先住民の存在が「善良な協力者」、「友情の相手」として単純化されたり象徴化されて描かれることが多いですが、感謝祭は、多様な部族の歴史事実や政治的複雑さ、その後の戦争や迫害を無視した象徴であると批判されるのです。

 先住民コミュニティはアメリカ国内の各地に存在します。インディアン居留地(Indian Reservation) で、アリゾナ州北東部とユタ州(Utah)やニューメキシコ州(New Mexico)にまたがるナバホ・ネイション(Navajo Nation)や、ワイオミング州中西部のウインド・リバー・インディアン居留地(Wind River Indian Reservation)、ショショーニ族(Eastern Shoshone)などがあります。ウイスコンシン州には、フォレスト郡ポタワトミ・コミュニティー (Forest County Potawatomi Community)があります。居留地では、現在も貧困率の高さ、健康格差、教育機会の不足、伝統的土地の権利問題などが存在しています。「感謝祭を祝う余裕などない」という声もあります。差別や不平等が現代にも続いているのです。

 まとめとして、アメリカでは感謝祭は「収穫と恵みに感謝する国民的行事」として深く根づいてはいます。他方で、先住民コミュニティの一部にとっては、植民地化の痛ましい歴史が始まった象徴であり、祝うことに強い抵抗感があるのです。感謝祭を理想化された物語ではなく、歴史の複雑性と先住民の視点に目を向けることが重要だと考えられます。

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岐路に立つ大学の今

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日本の国公立大学や私立大学が「岐路に立つ」という状況は、18歳人口の減少や社会ニーズの急変、財政基盤の弱さが重なって起きています。文部科学省によれば、2025年の私立大学の定員充足率は80%を下回り、23.7%の大学は定員割れとなっています。女子大学における新入生募集の停止、共学化、家政学部の統廃合、授業料の値上げなどは以上のような状況を反映しています。学部の再編とか入学定員の削減といった単なる“形の変更”では問題は解決しなような状況です。そこでこれからの大学振興のために、今後特に政策面・大学側の取り組み・社会との連携、そして大学の自助努力など視点から、岐路に立つ大学の実情を考えていきます。

まず、国の政策として必要な状況があります。第一に大学には持続的な財政支援の強化が必要であることです。国公立大学運営費交付金の減少が研究力低下を招いているため、安定的な基盤経費の確保が必須な状況です。過度な競争的資金偏重ではなく、基礎的な教育と研究を支える資金が重要です。教育国債の発行などによって、教育財源を確保するもの大事なのですが、文部科学省はこうした対応を積極にやろうとしていません。

 大学自身が進めるべき改革もあります。学部や学科の「中身の再構築」という課題です。家政学部や文学部のような伝統学部も今や、データサイエンスといったAIや実践的スキル・社会課題解決を組み合わせることの需要が高まっています。例えて言えば、家政学 × 食品科学 × SDGs、文学 × 文化政策 × デジタルアーカイブといった統合の編成です。

 次に専門職大学や地域連携型大学への支援ということです。地方の人口減少に対応し、地域医療・地域産業・観光・防災など地域課題に基づく学部再編を促す政策が必要です。地域産業と連携した共同研究などの実務的教育の支援です。さらに、リカレント教育とわれる社会人教育への本格投資の重要性です。社会人が学び直しやすい制度、例えば学費補助、オンライン履修の法的整備を拡充し、大学の新たな役割を確立することです。

 さらに、共学化や定員調整だけでなく、大学の「独自価値」を強化しなければなりません。多くの大学が似たような学部編成では差別化が困難であります。地域との密着性や国際連携など、「ここでしか得られない経験」の設計が大学存立の鍵となるでしょう。

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辻邦生はどのような文学者か

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日本近代文学の中でも独特の位置を占める文学者で思想家の一人が辻邦生(1925–1999)です。歴史小説や芸術小説、思想小説を著し、深い哲学的思索を物語に展開することで知られています。私も「背教者ユリアノス」という歴史小説などを読んで辻文学の一端を知ることができました。この作品は「存在の輝き」とか「時への意識」、「人間の理性や精神の関係」といったテーマで貫かれています。

山梨県立美術館のポスターから

 本稿では、彼がどのような文学者で哲学者であったかについて、その創作や思想の原点を探ってみることにします。第一の特徴として、辻は「存在の輝き」を描く作家であったということです。その文学の核心には、世界に触れたときに立ち上がる「顕現」(epiphany)への鋭い感受性だったといわれます。顕現とはもともと、1月2日から8日の間の日曜日である主日に、すべてのキリスト教会で行われる祝祭のことで、「突然のひらめきや悟り」を意味します。物語の中では人物が風景や芸術作品に対して深い 「覚醒」 を経験する場面が多く、そこに読者を投入させてくれます。

 第二は、辻は歴史と精神を重ねる「精神史小説」の書き手であったことです。例えば「安土往還記」「西行花伝」「春の戴冠」などでは、歴史的人物の精神の高揚とか、その背後にある時代の意識や芸術創造の苦悩を重厚な修辞で描き、歴史小説という枠を超えた精神史的文学を創造したと評価されています。

 第三に、辻はフランス思想・現象学の祖ともいわれるメルロ・ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)などの影響を受け、身体性とか知覚の哲学に心酔したようです。それは、東京大学でフランス文学を専攻し、のちにソルボンヌ大学(Sorbonne University)で学んだことも実存主義思想の形成にあったといわれます。中世やルネサンス文化論らによって、彼の作品には「見ること」、「世界と身体の関係」、「芸術的創造の根源」といったテーマが一貫して流れています。

Arthur Rimbaud

 第四に、辻は後に言葉の力を信じた「言語の芸術家」とも評され、「言葉は世界の形を与える力である」と考え、極めて緻密で音楽的な文体を追求した作品を残しています。ポール・ヴァレリー(Paul Valery)とかアルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud)の既存の文学を鋭く批判する詩からも影響を受けています。ランボーは伝統的な秩序を捨て、精神・道徳、身体の限界を超え、未知を体系的に探求しようとした反逆や革命の詩人といわれています。

 最後に、辻の哲学や創作の原点はいくつかの核心的経験があることを追加しておきます。それは、画家や音楽家といった芸術家を理解し、彼らに深い共感を抱いていたことです。芸術創造の瞬間に垣間見える精神の高揚を感じとり、「存在の輝き」を最も経験するのです。時間意識を文学の主題としました。流れる時間の中で人がどう意味をつかむのかを示唆し、その考察が多くの長編小説の軸になっています。

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高市内閣の人事と特徴

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高市早苗内閣の人事が波紋を呼んでいます。この話題を取り上げます。積極財政派といわれる政治家の片山さつきや城内実が経済や財政面での閣僚に任命されました。人事、特に 片山財務相+城内経済財政相ライン の登用が「財務官僚を震え上がらせた」と言われています。これは単なる人事の話ではなく、日本の財政運営の主導権争いという構造的な問題に絡んでいます。

 財務官僚が最も恐れるのは「政治主導による財政拡張」です。財務省は、戦後一貫して 財政規律=プライマリーバランス(PB) 黒字化路線を日本の国是のように守ってきました。それは一種の官僚的な信念であり、同時に権力の源泉でもあります。

高市早苗内閣の閣僚

 官僚は絶えず「財政規律を守らなければ国は破綻する」と言って、各省庁や政治家の“バラマキ要求”を抑えるのが自分たちの使命だと信奉してきました。つまり、財務官僚にとって“緊縮財政”はイデオロギーであり、支配の道具でもあったのです。ところが、今回登用された片山や城内はともに明確に 「積極財政」、「脱・PB黒字主義」 を掲げてきたのです。このラインが財務省の上に立つということは、「財務官僚が握っていた国家財政のアクセルとブレーキを政治側が奪う」という構図になるのです。これが、財務官僚にとって最大の“恐怖”です。

これまで、財務省は税収の弾性値を使って税収入をあらかじめ予測してきました。弾性値とは名目GDPまたは所得・消費などの課税ベーが1%変化したとき、税収が何%変化するかを表す指標のことです。2010年代の弾性値は、約1.1 前後、コロナ後回復期は法人税が急増し一時的に 1.3〜1.5程度、そして2023〜2024年度は景気鈍化という局面で 1前後に戻っています。

「積極財政」は官僚制の財政規律という論理をひっくり返すことにもつながります。これまでの財務省ロジックつまり、低い弾性値を使い、税収を慎重に見積もる、歳出要求は抑える、国債発行は最後の手段とする、そしてPB黒字化を最優先するという論理です。積極財政という仕組みは、官僚にとって極めて都合が良い方針なのです。なぜなら「財源がない」を理由に、すべての各省からの政策提案を査定し、場合によっては差し戻してきたのです。

¸ 加えて積極財政派の論理というのは、経済を成長させれば税収は増える、政府支出は経済政策の一部であり、国債発行も経済成長のためのツールであるという考え方です。つまりPB黒字化よりも国民生活と成長を優先するという政策なのです。このように積極財政とは、財務省の予算査定権限を弱めるという、これまでの財務省自体の正統性を揺るがす思想でもあるのです。これを大臣というトップが主導すれば、省内の力学が崩れるために「官僚は震える」という表現が使われるのです。

 繰り返しますが、具体的に財務省が震えるのは次のことだろうと考えられます。つまり、PB目標の廃止・棚上げです。 財務省が掲げてきた「財政再建の旗」が降ろされるのです。さらに政策判断の正統性が失われ、内部の理論体系が崩れることです。高市首相の人事は「財務省支配からの独立宣言」ともいえそうなパラダイムシフトです。この2人が財政と経済の要職を握ると、官僚たちは「もう、予算の主導権を握れない」と感じるかもしれません。「財務省が支配してきた戦後の官僚国家モデルの終焉」 という構造変化です。

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責任ある積極財政の課題

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どのような政策にも懸念とかリスクは考えられます。「責任ある積極財政」も例外ではありません。積極財政とは、主に国債の発行による景気上昇の財政政策です。その場合、財政赤字や国債残高の増加という側面があります。すでに政府債務は非常に大きい状態にはあらいます。財務省が間違って唱えてきた将来世代へのツケとか負担という懸念が言われています。ここで勘違いをしてはいけないことは、国債は政府の借金であり、国民の借金ではないということです。

 国債の償還にあたっては、金利が上昇した場合、国債費の利払いが急増し財政を圧迫することも考えられます。どのような場合に金利が上昇するかについては諸説がありますが、将来的な可能性としてあることです。私には金利上昇理由がなになのかは分かりません。

 国債による資金の利用は、どのような公共投資に充当するかであります。例えば、高速道路や整備新幹線の延長、老朽化した上下水道の工事、国土強靱化対策、宇宙開発など科学技術への投資といった積極財政が「バラマキ」に流れると、効果の薄い支出で財政負担だけが増える心配もあります。インフラへの投資などは質の確保や将来の需要予測が難しいこともあり、無駄な投資のリスクが存在するのも確かです。

 政府が公共事業を増やしたり給付金を出したりすると、家計や企業の支出が増えます。つまり、経済全体としてモノ・サービスを「買いたい量」が増えるのです。労働者が確保できないとか、原材料が高騰しているとか、入手困難である場合、生産設備が不足している局面で追加の財政出動は、懸念される事態ともなりかねません。需要が増えて物価が上がり生活を圧迫する可能性もないではありません。

日本経済新聞より引用

 一度積極財政を採用すると、政治的理由で支出削減が困難になり、景気が好調でも財政が引き締まらないという問題も起こりえます。それを防ぐためには費用対効果を厳密に審査し、場合によって支出削減にも英断を求めることです。

 まとめとして、責任ある積極財政の基本的な考え方は、短期では需要不足を補い、長期では成長の基盤を整えることで結果的に財政も健全化する”というものです。積極財政はメリットもリスクも大きい政策であり、最も重要なのは「何に、どのくらい、どの期間」投資するかという政策設計の精度にあると考えられます。

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責任ある積極財政とは

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高市政権は「責任ある積極財政」の推進を主張しています。その理由や根拠、さらに課題などを2回にわたって考えていきます。デフレや低成長からの脱却が「責任ある積極財政」の目指すところです。長期的な物価停滞が続き、実質賃金の伸び悩みを解消し、国内の需要不足を補うには、民間需要が弱い局面で政府が支出を増やす積極財政が必要と考えられています。大手企業の多額の剰余金が滞る状況では、財政出動がインフレを呼ぶのではなく成長に結びつきやすいというのです。

戦時国債

 次に、安全保障・災害対策・社会基盤への投資が必要と考えられています。防衛力強化、災害インフラ、エネルギー安全保障、デジタル化など、国として不可避な支出項目が増えています。これらは民間投資では賄えない領域であり、政府の支出が不可欠と考えられるのです。

 さらに税収は経済成長によって増えるという考え方にたっていることです。財政再建を「歳出削減・増税」ではなく「経済成長による税収増」で達成するという立場です。経済成長率が高まれば、GDP比の債務負担が相対的に低下するという論理です。増税は、国民の実質賃金を下げる懸念があります。積極財政の財源は国債によって賄われなければなりません。

 日本国債の性質は自国通貨建てで、低金利の状態にあります。日本は自国通貨建て国債で返済不能リスクは低く、中央銀行が市場の混乱を抑制できるという事情があります。国債市場は安定しており、国債の消化主体の多くが民間金融機関や日銀であるため、財政破綻リスクは相対的に小さいといわれています。国債の償還は、借換債でおこなわれており、財政破綻、いわゆるデフォルトの懸念はありません。

 現下の世相では、少子化や技術革新などへの“未来投資”が不可欠だといわれています。教育投資、科学技術、スタートアップ支援等は短期の採算性が弱いため、政府支援によって成長基盤を作るべきだ、という考えです。民間投資ではこうした取り組みは困難なのです。

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アメリカの大学スポーツは一大興業

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大学スポーツは今や最高潮です。その活動は、全米大学体育協会( National Collegiate Athletic Association-NCAA)という巨大な組織によって統括されており、プロリーグに匹敵するほどの人気と注目度を誇ります。特にアメリカンフットボールとバスケットボールは絶大な人気があり、全国中継される試合には5万人規模の観客が集まります。大きな大学はフットボール用の巨大なスタジアムを擁し、室内スタジアも1万人を収容します。 今はアイスホッケーの他に、バレーボールが多くの観客を集めています。

 NCAAは、約1,100校以上の加盟校と50万人以上の学生アスリートを擁する巨大な統括団体です。人気のスポーツといえば、男子ではアメリカンフットボールが圧倒的で、次いでバスケットボール、アイスホッケーなどと続きます。これらの人気スポーツのテレビ中継は非常に頻繁に行われます。

 優秀なアスリートを集めるために、各大学はスカウト職員を揃え、各州にある大学同窓会などのネットワークも利用し、ここぞと思われる高校生に注目して大学への勧誘をします。時に、交通費や謝礼を渡すなどの違反行為が報道されています。大学に入学すると、学費や生活費をカバーするスポーツ奨学金(athletic scholarship)が提供されます。これは、スポーツと学業の両立を目指す学生にとって重要な支援となります。

ウィスコンシン大学のキャンプランダール・スタジアム

 大学スポーツは競技力の向上だけでなく、将来のキャリア形成にも大きな影響を与えます。アスリートは、最高レベルの競技環境の中で大学での専門的な学びを両立させることが求められます。NCAAの規則では、アスリートの学業成績が悪いと退学させることを義務づけています。ですから学業不振なアスリートには支えるチューターがいます。大学スポーツは、プロへの登竜門となっています。多くのプロアスリートは、NCAAでキャリアをスタートさせています。大学スポーツはプロリーグへの重要なパイプ役となっているのです。

 アメリカの大学スポーツは、教育システムの一部でありながら、興行としても非常に大規模に運営されているのが特徴です。 大学スポーツは、各大学にとって巨大な収入源となっています。毎年数千億円が動きます。試合が全国中継となると、放映権料などにより大学は多いに潤い、収入のないスポーツ活動、たとえば陸上競技やサッカー、レスリング、テニスなどの運営を支えるのです。

 アメリカの大学スポーツにには、「ポータル(転校)制度があります。この仕組みは、「トランスファーポータル」と呼ばれ、学生アスリートが所属チームを転校する際に、自分から他大学のコーチにアピールするために、NCAA加盟校関係者のみがアクセスできるシステムのことです。

 優秀なアスリートの中には、もっと強い大学のチームに転校したいという希望を持つものがいます。また、あまりアスリートとしての活動の機会が少ないとか、コーチや他の同僚と関係に不満などがあるアスリートは、このシステムに登録し、自分を評価してくれる大学を探すのです。シーズン中、アスリート起用に不満があり、所属の大学チームではなく他のチームに行って出場時間が欲しいなど、求めるものを追求していく精神がアスリートに強いのです。

 これまでは、大学の監督は高校から才能あるアスリートをスカウトすることだけに集中していれば良かったのですが、時代は完全に変わりました。大学アスリートは収入を求めて、自分が活躍できそうな他の大学へ転校していくのです。こうしてみますと、「トランスファーポータル」によって大学もまたフリーエージェント制度でチームを移籍していくプロと変わらなくなりました。とまれ、プロと大差ないのがアメリカの大学スポーツなのです。

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伝統「芸術」から「科学」へ

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AlphaGoや後続のLeela ZeroなどのAIは、統計的に勝率が高い手を選びます。これにより人間が感覚やバランスを重視していた定石よりも実利重視により、相手に多少地を与えても全体のバランスで勝つという打ち方が増え、AI定石という新しい定石が誕生しました。AlphaGo以後、多くのトッププロがAIとともに研究を深め、これまでの定石辞典が書き換えられています。プロの対局でもAlphaGo由来の打ち方が主流になり、実際の対戦の棋譜が大きく変化しました。

肩つき

 少し話題を変えて、1954年製作の「十二人の怒れる男」というアメリカ映画がありました。ある裁判で一人の陪審員が他の11人の陪審員たちに、固定観念に囚われずに証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを提案します。やがて少数意見が多数意見となり無罪評決となるというストーリーでした。イスラエルでは会議をするとき、もし出席者7人のうち6人が賛成する発言をしたとき、7人目の人は無条件に反対意見を述べなければならないというのです。多数とは違う少数意見は、それ自体に価値があるという考え方があります。

 この陪審員の評決に関するエピソードを囲碁に当てはめてみますと、固定観念を捨てるとき思わぬ妙手が生まれることがある、ということかもしれません。最近は常識にない手を数々打ち出し、定石の考え方が変わって、新しい定石が生まれています。こうした変化には、固定観念から離れて新しい手を考えて打とうという姿勢があるからです。そういえば「定石を覚えて二目弱くなり」という定石信奉者を皮肉った川柳があります。イスラエルの格言にもう一つ。「何も打つ手がないときにも、ひとつだけ必ず打つ手がある。それは勇気を持つことである。」 私たちには後学のために役立ちそうな含蓄のある言葉です。

ダイレクト33

 AlphaGoなどの登場によって、定石の固定観念から脱皮し「定石は変わった」といえそうです。囲碁の定石は不変のものではなく、AIの登場で大きく進化しています。AlphaGoが示した新しい打ち方は、「AI定石」として現代囲碁の基盤になっています。AlphaGo以降、囲碁は伝統文化という「芸術」から「科学」へと一歩進んだといえるでしょう。

「アルファ碁」によって定石は変わった

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私の「道落」の一つが囲碁。強いとはとてもいえないのですが、碁の深さや難しさに魅了されつつ、毎日練習するのを日課としています。囲碁には「定石」といわれる昔から度重なる研究と対局によって生まれた石の形があります。定石とは対戦者が最善を尽くして「部分的」に互角に分かれる石の形のことです。どちらかが有利な形となるなら、それは定石とはいいません。私も定石を何度も練習しています。ですがいざ実戦となるとその手順を間違えることがしばしばあります。対戦相手は定石にないような手を打ってきます。高段者は新しい定石を学び低段者を翻弄します。

 2016年1月、Googleの完全子会社であるイギリスのGoogle DeepMind社が開発した、ディープラーニング(deep learning) の技術を用いた人工知能(AI)のコンピュータソフト「アルファ碁(AlphaGo)」が、2013年から2015年まで欧州囲碁選手権を3連覇した樊麾二段と対局しました。結果は5戦全勝し、それに基づく研究論文がイギリスの科学雑誌ネイチャー(Nature0)に掲載されました。囲碁界でコンピュータがプロ棋士に互先で勝利を収めたのは史上初のことでした。DeepMind社は「人間の棋譜を一切使わず、ルールだけを教えられた状態」からコンピュータ囲碁を強くする研究として「アルファ碁ゼロ(AlphaGo Zero)」を開発したのです。

 さて、AlphaGoにまつわる話題です。それが、「定石と固定観念」というフレーズです。これが人工知能とどう結びつくかです。 囲碁はある程度の知識が無いと盤面を見ても優劣を判断できないのですが、囲碁AIによる形勢判断を数値で表示することで優劣を分かりやすく見せることが可能となりました。NHK杯テレビ囲碁トーナメントでも第69回(2021年度)から、AIによる%表示の形勢判断が画面上部に表示されるようになりました。

 AlphaGoは従来のプロ棋士たちが「常識」として使ってきた定石の多くに対して、「必ずしも最善ではない」、「もっと勝率の高い手がある」ということを示しました。例えば、小目からの三々侵入です。かつては三々侵入は、中盤で打つものとされていましたが、AlphaGoは序盤から打つことで実利を先に確保する戦術を示しました。さらに、星の構えにおけるアプローチの順番や角の処理についても、今まで不利とされた打ち方が、AIによって再評価されました。

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「経験」と体験との違い

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森有正についての第三稿です。森は言葉には、それぞれが本当の言葉となるための不可欠な条件があるといいます。それはその条件に対応する「経験」であるというのです。経験とは、事柄と自己との間の抵抗の歴史であると主張します。福祉を論ずるにせよ、平和に論ずるにせよ、その根底となる経験がどれだけ苦渋に充ちたものでなければならないかを想起することです。その意味で経験とは体験とは似てもつかないものであると主張します。体験主義は一種の安易な主観主義に陥りやすいと警告するのです。

 「人間は他人がなしとげた結果から出発することはできない。照応があるだけである。これは文化、思想に関してもあてはまる。確かに先人の築いたその上に築き続けるということは当然である。しかし、その時、その継続の内容は、ただ先人の達したところを、その外面的成果にひかれて、そのまま受けとるということではない。そういうことはできもしないし、できたようにみえたら必ず虚偽である。」

 「変化と流動とが自分の内外で激しかったこの十五年の間に、僕のいろいろ学んだことの一つは、経験というものの重みであった。さらに立ち入って言うと感覚から直接生れてくる経験の、自分にとっての、置き換え難い重み、ということである。」

 「経験ということは、何かを学んでそれを知り、それを自分のものとする、というのと全く違って、自分の中に、意識的にではなく、見える、あるいは見えないものを機縁として、なにかがすでに生れてきていて、自分と分かち難く成長し、意識的にはあとから それに気がつくようなことであり、自分というものを本当に定義するのは実はこの経験なのだ。」

 「自己の中の生活と経験とが発展し進化されて、おのずからその経験そのものが、平和を、自由を、人間形成を定義するようにならなければ、すべてが軽薄になり混濁してくる。経験が体験と違うのは、そしてそれについての一つのもっとも根本的な点は、前者が絶対的に人為的に、あるいは計画的に、作り出すことが出来ない、ということである。」

 「日本では、自由とか、平和とか、民主主義とか、そういう言葉そのものにつかまってしまって、それらの言葉の持つ真の意味を考えない。どうも、事態がすべて逆転している。これは非常に不幸だと思います。現在、言葉というものが、非常にむなしいものになっているとしたら、それは、経験の裏づけを失った、沈黙の重みをになったものでなくなってしまった、ということでしょう。」

 このように森有正は、経験という意味を深く追求することによって、真理であると思われることを一度真剣に、徹底的に疑う勇気が生まれるというのです。

 この本に「思索の源泉としての音楽」という章があります。森はオルガン演奏をこよなく愛した人です。特にバッハ(Johann Sebastian Bach)のパッサカリア(Passacaglia)やグレゴリアン聖歌(Gregorian Chant)に心酔していました。こうした音楽の本質は、人間感情についての伝統的な言葉を、歓喜、悲哀、憐憫、恐怖、憤怒、その他を、集団あるいは個人において究極的に定義するものだとします。人間は誰しも生きることを通して自分の中に「経験」が形成されると森はいいます。自己の働きと仕事とによって自分自身のものとして定義される、それが経験だというのです。この仕事は、あらゆる分野にわたって実現されるもので、文学、造形芸術などとともに音楽もその表れだといいます。

 この著作は森有正の人となり、生き方、フランス文化や日本文化に対するに関する思索や洞察、さらには音楽の意義に至るまで、その言葉や音楽の定義力の強烈な純粋さのようなものが織りなすエッセイとなっています。私の考え方の一つの道しるべのようなものとなった、かけがえのない一冊です。

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フランスの教育と森有正

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著書「遙かなノートル・ダム」の中で、森有正は次のようにフランスの中等教育の特徴を指摘します。

 「フランスの教育の要点は、知識の集積と発想機構の整備の二つである。知識の集積とは記憶が主要な役割を果たす。それは実に徹底していて、中等教育の歴史科をとってみると、先史時代から現代まで第六学級から卒業までの七年間に膨大な量を注入する。知識は内容を省略せず、各時代の主要問題、政治、外交、経済、社会、文化を中心に、しかも頻繁なコントロールや宿題、さらに作文によって生徒自身の表現能力との関連において記憶されるようになっている。日本の中学や高校の教科書の五倍くらいの量である。」

 「フランスにおいては、自国の言葉の学習に大きい努力が払われている。小学校に入る6歳くらいから、大学に入る18歳くらいまで行われるバカロレア(Baccalaureate)という国家試験まで、12年間にわたり緻密に行われる。その目的は単に本を読むことを学ぶだけでなく、作文すなわち表現力を涵養するために行われる。漠然と感想を綴ることではなく、読解、文法、語彙、読み方にわたって低学年から教育が行われ、その定義と正しい用法が作文によって試されるのである。文法にしても、しかじかの規則を覚えることではなく、その規則の適用である短い文章を書くことが無数に練習される。読本の読解ももちろん行われる。学年が進むと、文法的分析に論理的文体論的分析が加わる。そして作文はいつも全体を総括的にコントロールするものとして、中心的位置を占めている。

 このようにフランス教育の中心課題が知識の組織的蓄積であって、そこから自分の発想を磨くという眼目を忘れてはならないと説きます。それは単なる知識の詰め込みではないということです。

 森は、人間の中心課題として経験と思考、伝統と発想、そして言葉の重みを提起します。日本人は英語の単語や語句をたくさん知り、難しい本を読むことができても、書くとなると正しい英語を一行も綴れないことを話題とします。それは、自分の中の知識に対する受動的な面と能動的な面との均衡の問題であると指摘します。たくさんのことを覚えても、記憶してもそれが自分の中にそのまま停止しているから文章を綴れないのだ、というのです。単なる作文の練習をしてもどうなるものではなさそうです。英語でもフランス語でも本当に正しい語学を身につけるためには、その国の人の間に入って経験を積むほかはないと断言するのです。

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オルガン奏者の森有正

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偶然ですが、私が一度会ったことのあるフランス文学者で哲学者が森有正です。森に会ったのは、1965年6月頃の札幌ユースセンタールーテル教会です。そこで働いていたとき、森が教会に入ってきて名刺を示し「オルガンを弾かせて欲しい」というのです。教会にはアメリカのルーテル教会青年リーグから寄贈された約400本のパイプのオルガンが設置されて礼拝やコンサートで使われていました。私はそのとき、彼が学者でオルガン愛好家であることを知りませんでした。後に「遙かなノートル・ダム」に出会ったとき、彼の深い思索や文明批評に触れて、その学識に接することになります。

 彼を呼び捨てにするのは少々ためらいますが、森は哲学者というよりもフランス文学者といったほうが適当かと思われます。彼は、明治時代の政治家で初代文部大臣となった森有礼の孫で、東京帝国大学文学部哲学科で卒論を『パスカル研究』として発表します。やがて1948年東京大学文学部仏文科助教授に就任します。第二次世界大戦後、始まった海外留学の第一陣として1950年フランスに留学し、デカルト(Rene Descartes)やパスカル(Blaise Pascal)を研究し、そのままパリに留まります。東京大学を退職しパリ大学東洋言語学校で日本語や日本文化を教えていきます。同じくフランス文学者の辻邦生とは子弟のような関係があったようです。

 パリでの長い生活で森は数々の随想や紀行などを著します。人々の息づかいが伝わるような濃密な文体で知られています。読みこなすのは容易ではありません。晩年は哲学的なエッセイを多数執筆して没します。森有正選集全14巻の第4巻が「遙かなノートル・ダム」です。彼はフランスの教育制度や内容にも深い関心を示します。著者の経験と思索の中には、フランスの教育に触れる箇所があります。それは別の稿で取り上げます。

辻邦生の世界

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フランス文学者や哲学者といわれる人々は、一種独特の気風や感性の持ち主のようです。当然といえば当然ですが、彼らは長らくフランスで生活し、風土や人々に触れ、そこから日本とは異なる啓示のようなものを経験したようです。その代表が辻邦生であり森有正です。辻は、日本の小説家・文芸評論家として、戦後日本文学界の中でも、知的で格調高い作風を持つ作家として知られています。そのことは、主な作品から伝わってきます。

辻邦生(学習院大学史料館より)

 辻の小説家としての特徴についてです。彼は、フランスの文学者、ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire)、ジッド(André Paul Gide)、プルースト(Marcel Proust)などから影響を強く受けてできました。その主張は、芸術性や精神性、死生観、自己探求といった重厚なテーマであり、一般大衆小説とは一線を画します。非常に文体が緻密かつ格調高く、哲学的な要素も多いので読み応えがあるというか、難しさもあります。

 辻の人となりです。学習院大学、東北大学、東京大学などで教鞭をとり、文学教育にも尽力します。文学おいて非常に自分に厳しく、欲望や快楽を我慢し、感情に流されずに冷静に物事に取り組む態度や生き方を求めます。そして美と死をめぐる探求を生涯のテーマと、晩年まで一貫して「芸術文学」を追求した数少ない作家といわれます。

 彼の主な作品を短く紹介します。
『背教者ユリアヌス』(1964年)→ 古代ローマの皇帝ユリアヌスを題材に、理想と現実のはざまで葛藤する人間を描いた代表作の一つである。
『嵯峨野名月記』(1975年)→ 京都・嵯峨野を舞台に、芸術と死をめぐる精神の遍歴を描く。
『春の戴冠』(1980年)→ ルネサンス期の画家サンドロ・ボッティチェリを主人公にした長編。美と芸術の意味を問う。
『一九三四年冬──パリに死す』(1982年)→ 留学先のパリでの日本人青年の死を描き、人生の不条理や美のはかなさをテーマにしている。
『若き日と文学と』(2019年)→ 北杜夫との端正でユーモアに溢れ、青春の日々を振り返る。
『地中海幻想の旅から』(2018年)→生涯を通じて旅を愛する多幸感に溢れるエッセイである。

 辻の作品を概観しますと哲学や創作の原点は、「美と死をめぐる精神の遍歴」、そして「生の意味を芸術に昇華しようとする知的・精神的欲望」にあるといわれます。彼の以上のような労作から哲学の根底にあるものが浮かび上がってきます。それは、次のようないくつかの観点からいえます。

 第一に、死と向き合うことから始まった文学を紹介していることです。辻は、若いころに戦争を体験しており、死の現実を強く意識するようになります。戦後の焼け跡の中で「人間とは何か」「生きるとは何か」という根源的問いに直面し、それを文学を通して問い直すことを自身の使命としていたことが作品から伝わってきます。彼は以下のように語っています。

私にとって小説とは、死の不在と向き合うための形式であり、死を超えるための構築物である。

生の「かけがえのなさ」とは、「死」に限られた自己の有限性をはっきり意識することでもあるからだ。しかし人はそれを通して、「より深い生」を生きることを決意するにいたる。それは遠くへの旅立ちではなく、むしろ自分の内部への、あるいは日常の「もの」たちへ向かっての、旅であるというべきかもしれない。

 つまり、彼の文学は、「死に対して美をもって応答する」試みであり、その象徴的な回答が「芸術の永遠性」にあると思われます。

 彼の創作の二つ目の柱は、「ヨーロッパ的教養と精神の継承」です。フランス留学での体験は、彼にとって決定的でした。ボードレール、ジッド、プルースト、マラルメ(Stéphane Mallarmé)、カミュ(Albert Camus)といった作家の作品を通じて、「個の精神の尊厳」「生の意味」「美と知性の融合」などを思索します。特にプルーストの『失われた時を求めて』の影響は強く、辻文学における時間・記憶・芸術の主題に深く関わっています。西洋の芸術や歴史を舞台にした作品、例えば「背教者ユリアヌス」、「春の戴冠」などは、彼の知的で精神的探究の結晶とも言われています。

 第三に、辻はまた、「物語る」という行為そのものに深い意味を見出しました。「人は、物語ることによって死を越える。記憶も人生も、物語ることで意味が与えられる。」
つまり、日常の一瞬を切り取り、それに形を与えることで、儚い人生が芸術に昇華される――それが辻邦生の創作の根本です。彼はこれを「生の詩化(ポエジー)」と呼んでいます。

 第四に、 フランス文学の影響を受けながらも、辻は後年、日本文化・風土の中に精神的な根を張ろうとします。日本的なるものへのまなざしです。「嵯峨野名月記」などに見られる、京都・嵯峨野の静謐なたたずまいに精神性を見つけ「無常」や「幽玄」など、日本的な美意識と西洋的知性との融合を図ろうとしたかのようです。辻は、西洋的論理と日本的情緒の架橋を目指し、「世界文学としての日本文学」を創ろうとしていたとも言えます。

 終わりに、辻の哲学や創作の原点は、フランス文学や哲学を通じた内的探究にあり、戦争体験から生まれた死と向き合う哲学といえます。そして芸術と物語によって人生を「美」に昇華するという難しい遍歴です。日本的情緒を理解し、西洋との融合を通じて独自の精神世界を構築しようとした文学者といえます。

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生成AIの活用

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私は、これまで教育統計などを使うことを生業としてきました。種々の調査や実験から得られるデータを統計的に解析して、なんらかの結論を導き論文とすることでした。特に利用したのが多変量解析法です。多くの変数間の関連性を分析し、データの傾向を要約したり、将来の数値を予測したりするための統計的手法の総称です。因子分析もその一つで、データの裏にある本質的な因子を統計的に推定する手法です。

 コンピュータ上での統計アプリなしに仕事はできません。そして、今は拙い文筆活動をしながらエッセイを書くときは、文法を含む修辞や用語の使い方を確認したり、間違いを探すために、AI 文法チェックというものを使っています。AI 文法チェックは、いろいろなワープロアプリやコンテンツ管理システムに埋め込まれています。自分が作る原文の質を高め、思いがけない洗練?された文章を作成してくれています。

 アメリカの大学では、ChatGPTとかGoogle Geminiなどの生成AIの活用は急速に広がっています。その際、学生と教授の間でこのツールを使うときは、学術的な誠実さ(academic integrity)を守ることが最も重要とされています。生成AIを許容される使い方では、問題となることと推奨されことがあります。

ChatGPT ロゴ

 学生が生成AIを使い方で、問題となる使い方から始めます。まず、論文本文を丸ごと生成AIに書かせることです。論文の中で、出典を確認せず、AIが出力した「フェイク引用」をそのまま使うことです。従って、提出物にAI使用の記載をせず、あたかも自分の考えとして提出することです。今、多くの大学では、AIの使用は「明記すること」を義務づけています。

 学生が生成AIの利用を許容される好ましい使い方のことです。まず、論文のテーマに関する基本的な背景情報を提供してくれます。さらに論文のアイデア出し、論文テーマを決めるための問いかけをしてくれます。そして、導入→本文→結論という流れの構成案の提案してくれます。当然ながら、文章を校正し改善してくれることです。文法ミスや語彙の修正などは生成AIの得意とすることです。そして、よりアカデミックな表現への書き換えをしてくれます。科学論文では、コーディングや数式処理のサポートをし、計算の手順を教えてくれ、プログラミングのデバッグをサポートしてくれます。引用すべき文献のキーワード探しも補助してくれます。ただ、実際の引用元は自分で確認が必要となります。

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マサチューセッツ州とリベラル・アーツ

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ハーヴァード大学に関するエピソードです。1962年の夏にハーヴァード大学から50名位の男声合唱団が札幌にやってきました。全員学部生です。1858年に創立されたアメリカで最も古い男声合唱団です。そのとき、北海道大学構内にあるクラーク会館において我が北大合唱団がジョイントで歌う機会に浴しました。合唱団の指揮者はエリオット・フオーブス(Elliot Forbes)という人でした 

 たった一回の練習で本番を迎えました。両隣で歌った学生の声量が豊かだったのに驚きました。演奏会後、私は団員に話しかけることができませんでした。会話力の不足でした。これが後に大きな転機となりました。ハーヴァード大学に長男を訪ねる機会ができたことです。彼はウィスコンシン大学から宇宙素粒子の研究で学位を得た後、ハーヴァード大学でポスドク(post doc)としてNASAからの研究費で4年間研究に従事しました。

 ハーヴァード大学男声合唱団と一緒に歌った曲名は黒人霊歌の「This Old Hammer Killed John Henry」といいました。曲の歌詞ですが、黒人奴隷ジョン・ヘンリー(John Henry)は、ウエストヴァージニア州(West Virginia)でハンマーをふるいトンネルの掘削にあたる、「このハンマーは俺を殺すのだ、主よ!」という内容です。その歌詞の一部を紹介してみます。

This old hammer killed John Henry
But it won’t kill me, Lord
No, it won’t kill me
When John Henry was a baby on his mama’s knee
He picked up a hammer and steel
He said “This hammer’s gonna be the death of me, Lord, Lord
This hammer’s gonna be the death of me”This old hammer killed John Henry
But it won’t kill me, Lord
No, it won’t kill me
When John Henry was a baby on his mama’s knee
He picked up a hammer and steel
He said “This hammer’s gonna be the death of me, Lord, Lord
This hammer’s gonna be the death of me”

 私がマサチューセッツ州で強調したいのが、リベラル・アーツ(Liberal arts) 教育機関—単科大学のことです。リベラル・アーツ・カレッジが多いのがアメリカの大学の大きな特徴の一つです。 古典、哲学、文法、修辞学などの一般教養とか基礎知識を身につけ、総合大学へ進むのです。リベラル・アーツ・カレッジに入学するのも容易ではありません。学費も高いのです。

 マサチューセッツ州にある有名な単科大学です。ウィリアムズ大学(Williams College)、アムハースト大学、ウェルズリー大学(Wellesley College)、スミス大学(Smith College)、ホーリークロス大学(College of Holy Cross)、マウントホリヨーク・カレッジ(Mount Holyoke College)があります。大学ランキングで、研究開発型大学40傑に5校(12.5%)、リベラル・アーツ・カレッジ40傑に6校(15%)が入っているのです。マサチューセッツ州の人口は644万です。国内人口の2%に満たない州で、こうした大学の数と質は驚異的なことです。

 マサチューセッツ農科大学、現マサチューセッツ大学アムハースト校を長男家族とで訪ねました。長男の家は、マサチューセッツ州西部にあるプリンストン(Princeton)という小さな街にあります。築後70年以上の白い建物で、ベランダをつける等のコロニアルスタイルです。ここから車で一時間くらいのところにアムハースト校があります。ところで、マサチューセッツ州西部には、植民地時代に交易で栄えたスプリングフィールド郡(Springfield Country)とか四季折々の自然が魅力のバークシャー郡Berkshire Countyなどがあります。世界中の音楽ファンが憧れる「タングルウッド音楽祭」(Tanglewood Music Festival)が開催される会場もバークシャーにあります。小澤征爾が指揮したボストン交響楽団の演奏は、タングルウッド音楽祭の主要な催し物でした。

 アムハースト校のホームページにリベラル・アーツ教育を次のように謳っています。

A liberal-arts education develops an individual’s potential for understanding possibilities, perceiving consequences, creating novel connections and making life-altering choices. It fosters innovative and critical thinking as well as strong writing and speaking skills. The liberal arts prepare students for many possible careers, meaningful lives and service to society.

綜合的な教育支援の広場