この人を見よー内村鑑三 その三十四 「代表的日本人」の序文

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少し遡りますが、日清戦争当時、内村鑑三が記した「代表的日本人」の中に「国土と国民」というエッセイがあります。この一文は、代表的日本人とは何かという問いの下敷きになっているものです。日本の国土の特色が国民性を創りあげ、代表的な日本人を輩出したという主張です。それを紹介することとします。

 内村は次のような序文から始めます。

「偉大」とは日本に縁のない言葉であろうか? 四千万人の日本人の多くは、大西洋岸に住まいする二千七百万人の異教徒のように「大方愚か」で「改宗」させねばならぬ「哀れな異教徒」であり、独創性がなく、他のまねをするよりほかに能のない国民、多民族に滅ぼされるために作られた「劣等な民族」であろうか?このように指摘するのは、生かじりの批評家であり、善意は持ちながら「真理の異教徒的反面」を知らぬ感傷的なキリスト教徒、すなわち宣教師である。

ゲルマン民族

 我らの国民性を公正に観察した人たちが、ひとしく述べるところを受け継げば、我々も、典型的な日本人とは「日本の国土が精神と化した者」であると内村は言うのです。それは、日本人が人種として偉大であるというのではありません。それは国土の構造が、雄大というよりは、むしろ画のようであり、繊細で愛らしく、美しいのと同様であるというのです。

ヘブライ民族

 ヘブライ民族(Hebrew) の深さ、ゲルマン民族(germanic) の重厚さは、我々のものとは違うかもしれません。しかし、ギリシャ人の有する感受性、イタリア人特有の明るさこそは、日本人にも共通する性格であるというのです。ギリシャ人、イタリア人と同様に、日本人は、人生の明るい面をみるように創られており、世界における日本の天職もこの方面にあるというのです。

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この人を見よー内村鑑三 その三十三 コロンブスと彼の功績

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1893年に内村鑑三は、「コロンブスと彼の功績」という著述を記しています。自身の信仰であるキリスト教的信仰に照らして、歴史上の人物や出来事を評価しています。彼にとって重要なのは、神の意志に従い、信仰をもって行動したかどうかという点のようです。本稿は、なぜ内村がクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)を評価するのかを具体的に説明することにします。

 コロンブスは、大航海時代の探検家、航海者、コンキスタドール(Conquistador)、そして奴隷商人です。コンキスタドールとは、スペイン語で「征服者」を意味し、特に15世紀から17世紀にかけてスペインからアメリカ大陸へ渡り、原住民の国家を征服したスペインの兵士を指します。

ジェノヴァのコロンブス像

 定説ではコロンブスはイタリアのジェノヴァ(Genoa)の出身です。やがて、彼は積極的にスペイン語やラテン語などの言語や天文学・地理、そして航海術の習得に努めます。仕事の拠点であるリスボン(Lisbon)でパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ(Paolo dal Pozzo Toscanelli)というイタリアの地理学者、天文学者、数学者と知り合う機会を得て、手紙の交換をしています。当時はトスカネッリはすでに地球球体説を主張していました。

 コロンブスは、「東方見聞録」の語り手であるマルコ・ポーロ(Marco Polo)の考えを取り入れ、トスカネッリの地球球体説を合わせて、ここに西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出したといわれます。また、現存する最古の地球儀を作ったマルティン・ベハイム(Martin von Behaim)とも交流を持ち意見を交換した説もあります。ベハイムはポルトガル王に仕えたドイツ人の天地学者、天文学者、地理学者、探検家でした。大航海時代には、ポルトガルが様々な海図を買い漁っていることはよく知られています。従って、ポルトガル王ジョアン2世(Joao II)と親交のあったベハイムが地図や海図を売っていたことも考えられます。これらの収集情報や考察を経てコロンブスは西廻り航海が可能だとする理論的な根拠に行き着くのです。

 ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)は、ポルトガル王国の探検家で、熟達した航海術と外交手腕を買われヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人といわれます。こうした探検の先駆者らによって、コロンブスは航海の成功きた期待するとともに、その使命を「神の導き」によるものと信じていました。内村はこの点に強く共鳴し、コロンブスが「神の召命」に従って新世界を発見した人物として評価します。信仰による探検という意気込みに感じるものがあったようです。

イザベル一世とコロンブス

 内村は、偉人の条件として「高い道徳性」と「信仰に基づく行動」を重視しており、コロンブスが困難を乗り越えつつも信仰を貫いた点を賞賛します。内村は、コロンブスの新大陸発見を「神の摂理の一部」と捉えています。つまり、単なる地理的発見ではなく、神が人類史において新たな展開を与えるために用いた人物として見ているのです。世界史的使命を成就したのがコロンブスというわけです。

 特に、コロンブスの航海によってキリスト教がアメリカ大陸に伝わったことを、福音の拡大という視点で肯定的にとらえています。コロンブスは、多くの人々に反対されながらも自らの信念を貫き、航海に出ました。内村はこのような「信念による行動力」を高く評価します。内村自身も、日本でキリスト教を信じるという少数派の立場に立ち、自らの信仰を貫いていたため、コロンブスに自己を重ねて見ていた節もあります。

 内村がコロンブスを高く評価しているのは、彼が単なる探検家としてではなく、神の召命に従い、信仰をもって偉業を成し遂げた人物として見ていたからです。彼にとってコロンブスは、信仰と勇気と使命感によって「神の御業を歴史に実現した人」であり、そうした生き方をこそ人間の理想像として評価しているのです。

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この人を見よー内村鑑三 その三十二 「日蓮上人」

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『代表的日本人』のなかで、内村鑑三は日蓮上人をその一人に挙げています。内村は自らのキリスト教信仰に生涯をかけて生きた人物であり、信仰のために社会的・経済的損失を厭わなかった人物です。日蓮もまた「南無妙法蓮華経」の信仰を絶対視し、命の危険にさらされながら、流罪や迫害にも屈しませんでした。このような「信仰のために命を懸ける姿勢」に、内村は強く共鳴したようです。1261年には、「立正安国論」などの過激な発言により鎌倉幕府によって拘束され、伊豆国伊東に流罪になります。

 日蓮は仏法による国の立て直し、いわゆる立正安国を唱えます。そこでは、法然の「専修念仏」を批判の対象に取り上げます。「専修念仏」とは南無阿弥陀仏と唱えることです。貴族階級から民衆レベルまで広がりつつあった「専修念仏」を抑止することが自身の仏法弘通にとって不可欠と判断するのです。こうして他宗を激しく批判・否定する等の過激な発言を行い、鎌倉幕府3代執権の北条泰時が制定した御成敗式目第12条「悪口の咎」の最高刑で1271年に佐渡へ流罪となるほどです。そして1274年に佐渡流罪を赦免され鎌倉に戻ります。赦免の理由は、蒙古襲来の危機が切迫してきたためであるといわれます。

 内村は「無教会主義」を提唱し、組織や権威に頼らず、個人として神との関係を築くことを重視しました。日蓮もまた、当時の仏教宗派や権力者に阿ることなく、自己の信念に従って独自の宗教運動を展開しました。権力や世間の流れに迎合しない道徳的・精神的な独立は、内村にとって理想的な宗教者像だったと思われます。日蓮は単なる宗教者ではなく、国家と社会への責任感を持った「宗教的社会改革者」だったようです。このように、信仰と社会との関係を重視する姿勢に、内村は宗教者の理想像を見たのです。

本立寺(品川区)

 内村は旧約聖書の預言者たちに強い影響を受けており、「真理を語る者」としての預言者的使命に強い共感を抱いていました。日蓮もまた、迫害を受けつつ真理を訴える姿が、預言者に通じるものと映りました。内村は、日蓮を「日本の預言者」として見ており、その生き様に「真理のために生き、真理のために死す」という信仰者の理想を重ねていたと思われます。信仰に対する絶対的な忠誠心と不屈の精神が二人に共通するものといえそうです。

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この人を見よー内村鑑三 その三十一 「西郷隆盛」

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内村鑑三が『代表的日本人』の中で西郷隆盛に深く共鳴した理由は、彼が西郷に理想的な道徳的人格とキリスト教的精神を見出したからです。以下にその具体的な理由を整理します。

 内村は西郷の生涯を通して示された誠実さ、正義感、そして自己犠牲の精神に強く共鳴しました。特に西郷が私利私欲を求めず、常に公のために尽くした姿勢を理想的な「日本的キリスト者」として評価しました。 西郷は明治政府で高い地位にありながらも、権力に固執せず辞職し、最終的には西南戦争で命を落とします。高い道徳性と誠実の生き方は、内村にとって「信仰による義」の実践でした。

 西郷は形式的な宗教ではなく、内面において深い敬神の念を持っていた人物でした。これは内村の「無教会主義」と非常に親和的でした。内村は、西郷の精神性を「自然なキリスト教精神の体現」と見なしました。西郷が語ったとされる「天を敬い、人を愛す」という言葉は、内村の宗教観と重なります。神を畏れる宗教性に共鳴したのです。

 西郷は子弟の教育にも尽力します。設立した私学校は、当初は西郷隆盛によって不平士族の暴発を抑えるための教育機関となります。教務は主に漢文の素読と軍事教練でした。設立の真の目的は不平士族の暴発を防ぐ事にあったとされます。そのため入学できるのは士族、それも元城下士出身者に限られました。しかし、やがて生徒が暴発して西南戦争の直接的原因が生まれ、薩軍の軍事拠点となります。今は、門と壁のみが史跡として残されています。

私学校の門

 内村は、日本の歴史や文化の中にもキリスト教的価値である愛、誠実、謙遜などが内在していると考えており、西郷はその好例だと捉えていました。西郷はキリスト教徒ではありませんが、その人格や生き方がキリスト教的倫理にかなっていたのです。 日本的精神とキリスト教精神の融合を感じたのです。

田原坂の戦い

 要約しますと、西郷は常に民衆に寄り添い、彼らの幸福を第一に考えたといわれます。これもまた内村が理想とするリーダー像に一致します。特権階級ではなく「庶民の中の英雄」としての西郷の姿に、内村は強く感銘を受けるのです。内村にとって西郷は、宗教的・道徳的・社会的に理想的な人物像であり、日本人としてキリスト教の精神を体現した「代表的日本人」だったのです。

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この人を見よー内村鑑三 その三十 「二宮尊徳」

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内村鑑三は敬虔なキリスト教徒であり、無教会主義の指導者でもありました。彼は江戸時代後期の経世家、農政家、思想家であった二宮尊徳の生き方や思想に、キリスト教の精神、特に「隣人愛」や「奉仕精神」と共通するものを見出したようです。わたしどもは、一般に二宮尊徳を「二宮金次郎」と呼んでいました。小学校の庭に薪を背負いながら本を読んで歩く姿の像がありました。内村は、キリスト教精神との親和性を見いだしたのです。尊徳の報徳思想である「徳に報いる」「徳をもって徳に報いる」は、利他的な行動を重視する点でキリスト教的な倫理観と通じると考えます。貧しい農民のために尽くし、荒廃した村を再興していった尊徳の姿は、「行動する信仰者」として、内村の理想像と一致するようです。

 内村は、単なる信仰の言葉や理念ではなく、それを実際の生活と社会に活かすことを重視しました。尊徳は神仏に対する敬虔さという信仰心を持ちながらも、現実的で有用な農業・経済の改善策を実行した人物でした。信仰と実践の一致を強調します。尊徳は、貧しい農民に働く意義を説き、勤労・倹約・積善によって村々を再建します。このように、道徳と経済を両立させた姿勢は、内村が唱える「信仰と行動の一致」すると言うのです。

 内村は、日本人が持つ伝統的な美徳と、普遍的なキリスト教的倫理が両立可能であることを示そうとしました。尊徳は、日本の伝統的価値観である孝、忠、誠、節などに基づきながら、それを普遍的な道徳である倫理・経済・教育へと昇華させた人物でした。尊徳の生き方に日本的精神と普遍的道徳の融合を見いだしたのです。 

一円札の二宮尊徳

 彼は武士ではなく農民出身でありながら、実践的知恵と倫理によって国家に貢献します。これは、身分や出自に関わらず、人格によって人は偉大になれるという内村の思想と重なります。内村が尊徳に深く共鳴した理由は、「信仰と実践を一致させた人物として、また日本的精神とキリスト教的倫理を調和させる模範」として尊徳を見たからです。そのため、内村は尊徳を「代表的日本人」として世界に紹介するにふさわしい人物と考えるのです。

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この人を見よー内村鑑三 その二十九 「上杉鷹山」

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上杉鷹山は、江戸時代中期の米沢藩、現在の山形県の藩主で、名君として広く知られる人物です。鷹山の主な特徴と功績の一つに米沢藩の財政再建があります。鷹山が家督を継いだ当時、藩は深刻な財政難に直面していました。彼は倹約を徹底し、贅沢を禁じ、自らも質素な生活を実践したといわれます鷹

上杉鷹山

 鷹山の功績は、農業改革、織物業の奨励、養蚕など地場産業を興して藩の立て直しをしたことです。教育機関「興譲館」を再興し、人材育成に力を注ぎました。人を育てることで藩を支えようとしたのです。民を思う政治姿勢、つまり自ら農民の暮らしに寄り添い、領民の幸福を第一に考える政治を行ったといわれます。鷹山は「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」という有名な言葉を遺しています。これは努力と行動の大切さを説くものです。

 内村が鷹山を『代表的日本人』に選んだ理由です。鷹山は私利私欲を捨てて民のために尽くした人物です。内村はこれを「真の道徳的指導者」の在り方として高く評価しています。「無私の精神」に共鳴しているのです。鷹山は理想を語るだけでなく、それを自らの行動で示しました。この実践的な姿勢は、内村が理想とした「信仰と行動の一致」と合致します。実践に裏打ちされた信念の持ち主です。鷹山の自己犠牲的な生き方は、キリスト教の愛や犠牲の精神とも通じるものがあり、内村の宗教観とも深く重なります。

 明治の近代国家形成の中で、内村は「道徳的リーダー」の必要性を訴えていました。鷹山はその理想像としてふさわしいと考えたのです。鷹山は「民のために尽くした、自己犠牲的な名君」であり、内村はその高潔で実践的な生き方に深く共鳴しました。『代表的日本人』において内村は、鷹山のような人物こそ、日本が誇るべき真のリーダー像であると示そうとしたのです。

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この人を見よー内村鑑三 その二十八 「中江藤樹」

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内村鑑三は「代表的日本人」の一人としてが中江藤樹を紹介しています。藤樹の生き方に感動した理由は、宗教的信条の違いを超えて、藤樹の「誠実な生き方」「内面的道徳の実践」「自己犠牲の精神」に深く共鳴したからです。その経緯を調べてみましょう。

 藤樹は、近江国出身の江戸時代初期の陽明学者です。最初は朱子学に傾倒しますが、次第に陽明学の影響を受け、その説く所は身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく農民、商人、職人にまで広く浸透し江戸の中期頃から、自然発生的に「近江聖人」と称えられました。

中江藤樹

 内村はキリスト教を日本に紹介するにあたって、形式や教義よりも「内面の信仰」や「誠実な生活」を重視しました。彼の「無教会主義」も、形式的な教会制度より「個人の内なる信仰」を大切にする立場です。 藤樹も、儒教者でありながら、朱子学などの形式的儀礼よりも「孝」を中心とした心の道徳を説き、自己の行動でそれを実践しました。たとえば、母のために職を捨てて故郷に帰った話などは、単なる儒教の教義ではなく、実生活に根ざした徳行の表れです。こうした藤樹の内面の誠実さと道徳の実践に内村は共鳴したのです。

 自分の信仰を行動で示すことを内村は何より重視しました。言葉での信仰告白よりも、「どのように生きるか」が大切だと考えます。藤樹も、儒学者としての教えを、日常生活の中で一貫して実行しました。村人に無償で教えを説き、困っている人には自分の米を分け与えるなど、まさに「信ずるところを実行する」生き方をしていました。藤樹の「儒教の信仰と行動の一致」にキリスト教的人格を見たのです。

 内村は「真のクリスチャンは名乗るものではなく、生き方に現れる」と考えました。彼にとって、藤樹はたとえキリスト者でなくても、その「神に近い生き方」を体現している人物だったのです。彼はこうした人物を「無名の聖徒(anonymous saint)」と呼ぶことがあります。つまり「名前はクリスチャンではないが、行いにおいて神に近い人」という意味です。宗教の枠を超えた「神に近い人格」の藤樹に共鳴したのです。

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この人を見よー内村鑑三 その二十七 「代表的日本人」

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この著作は内村が英語で書いたものです。原題は「Reprezentative Men of Japan」といいます。内村の語学力を示す作品です。相当の語学がなければ著すことは出来ません。この著作はもともと「日本及び日本人」(Japan and Japanese)という作品が下敷きとなっています。その後、「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」(How I became a Christian)も著し、ドイツ語やデンマーク語に翻訳され、ヨーロッパ大陸で多くの読者を得たといわれます。

 「代表的日本人」では五人の評伝が記されています。五人とは中江藤樹、上杉鷹山、二宮尊徳、日蓮上人そして西郷隆盛です。この本の目的は,「わが国の主要人物を正しく評価し、この国民特有の多くの美点、この国民の優れた特質を外国に知らせる」とあります

。日本人の美点や特質は、盲目的な忠誠心や好戦的愛国心として海外に知られているものとは異なる特質であるというのです。このことを世界に向かって明らかにし、さらに進んでクリスチャンを含めて世界の人々は、むしろ彼ら日本人に学ばねばならないと次のように説こうとします。

最近わが国の偉人の伝記を読んでいますが、その中の幾人かは実に偉大であり、クリスチャンと呼ばれる多くの人より、はるかに偉大であり、英雄的で慈悲深く、誠実で真摯です。私はずっと以前から彼らを、異教徒とか、神に棄てられし輩とか呼ぶことを差し控えてきました。異教徒を「哀れむ」ところのクリスチャンたちは、少しく自分で自分を哀れまんがために、「異教徒」の偉人について、大いに学ばねばならぬのです。

 生涯を二つのJ(イエスと日本)に捧げることを終生の目的、また喜びとした比類のない愛国者が内村です。この目的と意気込みとをもって、真の日本人がいかに偉大であったか、彼らの美点たり、特質たる勇気、愛、誠実、真摯などがどのような性質のものであり、かつどれほどすぐれていたか、なにゆえにそれらは、いわゆるキリスト教信者のそれにさえまさるのであるか、などを語り、説き、明らかにしたのがこの「代表的日本人」という著作です。

 内村の日本観と日本人観は、著者が終生堅持して変わらなかった根本的な精神に基づくもので、それゆえに宣教師やその追随者らから偶像信者、異教徒、ユニテリアンなどと非難されるのです。しかし、内村は屈しません。著者のこの精神と確信は微動だもしなったのです。

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この人を見よー内村鑑三 その二十六 伝記愛好家としての内村

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内村鑑三信仰著作全集の6巻には、「代表的日本人」、「コロンブスと彼の功績」、そして「ルーテル伝講演集」が収録されています。これを読みますと内村はこよなき伝記の愛好家だったように伺えます。その姿勢は終生変わらなかったようです。その基になったのは若き頃、トマス・カーライル(Thomas Carlyle)の「クロムウェル伝」(Oliver Cromwell’s Letters and Speeches)を愛読して影響を受けたからだと言われます。

Oliver Cromwell

 オリヴァ・クロムウェルは、イギリスの内戦であった清教徒革命期(Puritan Revolution)において、強い信仰心に基づいて行動した人物といわれます。内村は、クロムウェルの中に「神の義を地上に実現しようとする者」の姿を見たようです。クロムウェルは、聖書に根差した信念をもとに革命を主導し、イングランドに共和制を樹立した人物です。これは「信仰が現実を動かす」という内村の思想と重なります。信仰と行動が一体であることを理想とした内村にとって、クロムウェルの人生は「信仰をもって現実に働きかけることの模範」となったようです。

 「クロムウェル伝」を書いたカーライルことです。彼の歴史観は、「英雄崇拝思想(Hero Worship)」に基づいており、歴史を動かすのは神に選ばれた「英雄」であると説きます。内村は、自身の思想の中で「真の英雄」とは何かを模索しており、クロムウェルに「信仰によって世界を動かした英雄」の典型を見たようです。内村はこのような人物に深く心を動かされ、「信仰的行動者」としてのクロムウェル像をカーライルの筆致から強く受けとったことが伺えます。

 内村は明治・大正という急速な近代化・西洋化が進む時代に生きる中で、道徳や信仰が軽んじられる風潮に強い危機感を抱いていました。クロムウェルのように、「信仰によって国のかたちを作る」人物像は、信仰と倫理に基づいた国家や社会の理想像として、内村にとって励ましとなったのです。単なる宗教的観念ではなく、信仰を現実に生かすべきであるという内村の「無教会主義」のエートスとも一致しています。カーライルが描いたクロムウェルは、制度や権威よりも、神の導きを第一とする信仰者であるということです。これは内村鑑三の理想の宗教人像と重なります。

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この人を見よー内村鑑三 その二十五 免罪符とは

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マルティン・ルター(Martin Luther) は、元々保守的な人で、同時に学問の人であったと言われます。それゆえに、明白な背理には耐えられず、良心の持ち主であったようです。彼は明白な虚偽には服従することができず、当時の教会が背理と虚偽とをもって彼に迫まらなかったならば、彼は永久に沈黙を守っただろうと言われます。

 当時のローマ天主教会(Roman Catholic Church) は、教会はドイツ人を侮り、教会の命令さえあれば、彼らはなんでも服従する者であると信じていたようです。ドイツにルターのごとき者の存在を知りませんでした。ゆえに時の法王レオ十世がローマに「聖ペテロ」の大会堂を建築せんとするや、レオ十世はドイツ人の信仰心を利用し、人々の間に免罪符(贖宥状)を販売し、もって大いに資金を募らんとしたのです。

免罪符の販売

 マインツ(Mainz)の大司教、アルベルト・フォン・ブランデンブルク(Albert von Brandenburg)は、大いにこの免罪符の発行に賛成し、自らもその利益に預からんとし、彼の監督管内において広く免罪符を奨励します。アルベルトはドイツの枢機卿(Cardinal)であり選帝侯(Elector)でもあり、長年マクデブルク大司教(Archbishopric of Magdeburg)を務めた人物です。 彼は悪名高い免罪符の販売を通じて、マルティン・ルターの宗教改革のきっかけを作り、その強力な反対者となりました。

 免罪符の直接の販売の任に当たったのは、ドイツのドミニコ会修道士(Dominican friar)であり説教者でもあったヨハン・テッツエル(Johan Tetzel)という僧侶でした。彼はローマ教皇庁が約束した50 パーセントの手数料を受けとり、この販売に並々ならぬ関心を抱いていたといわれます。テッツエルはポーランドとザクセン(Saxony) の異端審問官(inquisitor)に任命され、後にドイツにおける免罪符の大弁務官(Grand Commissioner for indulgences)となる人物です。

 免罪符とはそもそもなんであるかです。免罪符は、ローマ法王庁によって発行される券、いわば手形で、これに多くの宗教的な利益が付いていました。アルベルト監督の説明によれば、免罪符は次のようなものでした。

この券を贖うものは、罪の完全なる赦免を得、神の恩恵にあずかり、煉獄より赦免せらるるを得べし。しかして、人は自身これらの恩恵にあずかるを得るのみならず、あるいは彼の友人、あるいは親戚にして、今や死して煉獄に鍛錬の苦痛をなめる者といえども、もし地上にありて彼らに代わりて、これを贖う者ある時は、彼らは直ちに試練の火を去りて、天堂の安息に入るを得べし。

 テッツエル大弁務官も次のように伝えるのです。

代金の寄進と同時に、霊魂は煉獄の外に飛び去るべし。免罪符の功徳はキリストの十字架のそれに等し。この券を贖うものは、たとえ聖母マリアを辱むるの罪を犯すことありといえども、その罪よりまぬかるを得べし。

 憐れむべき無知の民は喜んで券を購い、これによって、自己と死者との罪の赦免を得んとしたのです。迷信に乗じて起こる腐敗が、当時の中世の暗黒時代に起こったのです。やがて教会における免罪符の乱用は、ルターが「95ヶ条の論題」を執筆する大きな要因となるのです。

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この人を見よー内村鑑三 その二十四 ヴォルムス帝国議会と免罪符

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1921年6月に内村鑑三は、「ルーテル講演集」を発表します。この年を遡る400年前の1521年は、マルティン・ルター(Martin Luther)にとって重要な年となります。その理由は、神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire)のヴォルムス帝国議会(Diet of Worms)がヴォルムスで開かれ、ルターがここで異端として教会から破門された年だからです。ルターの信仰を大帝カール第五世(Karl V)の前において堅く宣言した年とも言われます。このヴォルムス帝国議会では、ルターが1517年の『95か条の論題』(95 Theses)を発表したことに端を発していたといわれます。

Dr. Martin Luther

 ヴォルムス帝国議会の開催に先立ち、1519年にはライプツィヒ論争(Leipzig Debate)というの起こります。この論争は、ルターに対して神学者として著名であったヨハン・エック(Johann von Eck)はルターの『95か条の論題』反論するものでした。ルターは、教皇や公会議の権威否定の発言により、教皇レオ十世(Leo X)と決別します。レオ十世は、1517年にサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano) 建設資金のためにドイツでの贖宥状(しょくゆうじょう)、別名「免罪符」の販売を認めます。後に、ルターによる宗教改革の直接のきっかけになったのがこの免罪符の発行にあったといわれます。

 贖宥状は、信徒がカトリック教会への金銭的寄進や善行を行うことで、自己の犯した罪の現世的な処罰が軽減または免除されるとされました。教皇庁の財政難を補う手段として贖宥状の販売が盛んに乱用されたます。カトリック教会は、救われたい人間の自由意志が救済のプロセスに重要な役割を果たすとする「自由意志説」に基づいた救済観を認め、教会が行う施しや聖堂の改修など、教会の活動を補助するために金銭を出すことを救済への近道として奨励するのです。この贖宥状問題が宗教改革を引き起こすことになるのです。

 ルターは『95か条の論題』を発表し、宗教改革に乗り出します。その主張は、農民層だけでなく、ドイツの諸侯にも受けいれられて、ルター派の勢力は急速に拡大していきます。それに対して、1519年に神聖ローマ帝国カール五世は、ドイツの各領邦や諸侯、高位のカトリック聖職者の支持を確保するために、問題化しつつあったルター派と教会の対立を調停する必要に迫られます。そこで開かれたのがウォルムス帝国議会です。議会では、新たな帝国の枠組みなどについて話し合った後に、ルターの身の安全を保障してルターを議会に召喚します。カール五世は、宗教改革により帝国が解体することを恐れ、ルターに『95か条の論題』の撤回を求めますが、ルターは自説をまげず、教皇と公会議の権威を認めないことを明言し最後に「ここに我は立つ」(Here I Stand) と宣言したと言われます。

 議会はルターを異端と断定して追放し、その著作の販売・購読を禁止する決定をします。決定はカール五世の名によってヴォルムス勅令として発布されます。『95か条の論題』は、はルターが1517年10月31日に、自身が神学教授を務めているヴィッテンベルク(Wittenberg)の教会の門に貼り出したとされています。文書は主に贖宥状の販売を糾弾する内容になっていたとされています。実際にはラテン語で書かれていたので、一般市民には全く内容はわからないものでした。通説によれば、ルターがこの掲示によって教会を批難したのは勇気ある大胆な行動で、すぐさまドイツ語に印刷されて出回り、ドイツ中に大きな論争を巻き起こしたといわれています。以下の引用は95か条の一部です。

ヴォルムス帝国議会

教皇の贖宥によって人間は全ての罪から赦免され、救われるというあの贖宥説教者たちは誤っている。贖宥状で自分たちの救いが確かであると信じる人たちは、その教師たちと共に、永遠の罪を定められるであろう。

 『95か条の論題』に関して、後世の歴史家や神学者らの中には、ルターが行ったことは当時多くの一般市民に教会の不正を周知する目的ではなく、学問的な討論を呼びかけたに過ぎなかったと論評する者もいました。この時点では、ルター自身も一般庶民に大きな影響を及ぼすことになるとは考えていなかったのではないか、というのが現代の学術界の定説となっています。

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この人を見よー内村鑑三 その二十三 「Boys Be Ambitious!」

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1927年9月27日の午後2時から、内村鑑三は母校北海道大学の中央講堂において「Boys Be Ambitious!」と題する講演をします。講演には約2,000余り名の聴衆が集まったと記述されています。当時は、中央講堂では講演会の他に音楽会、演劇などが上演されていました。現在は中央講堂をありません。

 中央講堂の前には、今も古河記念講堂と呼ばれる登録有形文化財が建っています。全体的にフランス・ルネサンス風にまとめられており、建物の各部に華麗な意匠が見られます。白亜の建物です。古河講堂は、古河家寄付記念事業によって建てられた教室です。足尾銅山で利益を上げていた古河財閥が足尾鉱山鉱毒事件の償いの意味を含めて寄贈したといわれます。

北海道大学構内

 私が1961年に北海道大学に入学したとき、古河講堂は教養部の本部となっていて、学生部の他に授業でも使われていました。古河講堂の前は広々とした中央ローンが広がり、ウイリアム・クラークの胸像が建っています。古河講堂の玄関前には、大きな掲示板があって、休講の知らせが貼りだされ学生はその知らせを待っていたものです。休講がしばしばありましたが、学生はなんの不満もいだかなかったのんびりした頃です。今思えば休講を期待するなど、少々不甲斐なさを感じます。

 内村の中央講堂での講演は、札幌農学校の一期生であった佐藤昌介総長の紹介で始まります。佐藤は1886年にジョンズ・ホプキンス大学(Johns Hopkins University)で農学のPh.D.を取得し、やがて事実上の単科大学であった札幌農学校を帝国大学へと昇格させるために尽力した人物です。その後北海道帝国大学の初代総長となり、「北海道大学育ての親」と呼ばれています。

 この講演当時、内村のご子息内村祐之氏は北大医学部教授として精神医学教室を創設していました。講演内容にそのことが記されています。講演は、佐藤総長の招待だったのかどうかの記述はありませんが、内村は子息と家族との再会も楽しんだことが推測されます。

 中央講堂での講演内容は多岐にわたり、特に「Boys Be Ambitious!」の講解は興味ある内容です。それは、この言葉はウイリアム・クラークの独作ではなく、当時マサチューセッツ州に広がっていた清教徒主義(ピューリタニズム)の精神として広く知られていたというのです。「 Ambitious!」とは「大志」というよりも「大望」がふさわしいと語ります。そして、「Boys」とは20歳以下の青年を指すのみにならず、「men」「gentlemen」「old men」であってもなんら不思議でないというのです。つまり「アンビションを抱く者」、「前途の希望に邁進する者」であり、自分自身もまだアンビションを持っているから「Boys」であると宣言するのです。この講演の内容は内村鑑三信仰著作全集の20巻に収録されています。

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この人を見よー内村鑑三 その二十二 信徒としての自らへの問い

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 「わが信仰生涯」「卓上談話」の二篇は、ごく晩年の内村が家庭の団らんの間で語ったことを著者の子息である内村祐之氏夫人が綴ったものです。そこでは、キリスト信者とはなにか、自分はキリスト信者かを自問自答している場面があります。それは自身の信者観であり、著者の信仰を具体的に語るものです。「いかにしてキリスト信者たるを得んか」は、田舎の少女達に語ったもので、「クリスチャンたることは易しいことであり、それにはまず真正の人間に立ち帰り、他人を喜ばせんことを思って、自分を楽しませんことを思わぬ人となることである」と語ります。「クリスチャンになることは、神に信頼することであり、彼に万事を引き渡すことである」とも言います。信仰がその根本においていかに純真であり、純粋であることか示すのです。

「幸福なるは、いたって容易である。心の中に人を愛すればよい。キリストにあっていかに愛せられる時、人は誰でも人を愛したくなる。すなわち愛するの幸福な道は信じるの道である。幸福とは人に愛せられることではなく神に愛されることである。最も幸福なことは、人に善をなして、その人に悪しく言われることである。」

 なんという逆説的な言葉でしょうか。内村鑑三は時に矛盾の人、謎の人と不可解視されるのは、こうした人生を超越するのような幸や不幸を意に介しない態度にあったのではないか、、、、超絶的なこの信仰者をどうすれば理解できるかは、深い読み解く力が必要です。このような思想は、かつで内村が学んだマサチューセッツ州(Massachusetts)が生んだ思想家、ラルフ・エマーソン(Ralph Emerson)やデビッド・ソロー(Henry David Thoreau)の超絶主義(transcendentalism)の感化を受けたことは容易に理解できます。

 旧約聖書(The Old Testament) のミカ書(Book of Micah) の6章8節があります。「人はただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくださって、あなたの神とともに歩むことではないか。」人は信仰に直面するとき、どのように判断し、どのように行動するかを決定するのは、彼の持つ価値体系によらねばなりません。それ以外のもの、外部の権威、信徒批判とか、その他なんであれ、自分自身の内心の確信以外のものによって、動かされるものではありません。内村鑑三の生き方や信仰はそれを示しているように思われます。

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この人を見よー内村鑑三 その二十一 「今のキリスト者」

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内村鑑三のキリスト信徒としての厳しさやキリスト教観は、多くの文学者や宣教師、邦人牧師が離れていくほど独特の特質を持っていました。その根本にはピューリタニズムの伝統、すなわち清教徒主義があったと考えられます。内村はカルヴァン主義(Calvinism)の影響を強く受け、カトリック教会をはじめ既存の教派から離脱し、聖書を重視し、禁欲や勤勉を説くなど、生活全般にわたる厳格な倫理観の持ち主だったといわれます。

ルターとカルヴァン

 ところでカルヴァン主義とは、プロテスタントの一派である改革派(reformer)の教義で、神の絶対的な主権と人間の罪深さを強調します。特に「予定説」(predestination theory)と呼ばれる、救われる人とそうでない人が神によってあらかじめ選ばれているという考え方が特徴的です。さらに現世での禁欲的な生活と、神に選ばれたという確信を得るための職業への従事を重視します。

 「内村鑑三信仰著作全集の19巻」に「今のキリスト者」という信仰生涯の論説があります。「今の日本のキリスト信者ほど当てにならない者はない。彼らは何がゆえに自身をキリスト信者なりと呼ぶのか。少しも分からない。」どこかの教会で洗礼を受ければそれでキリスト信者となったと思うのは間違いであると言うのです。また慈善事業に従事すれば、それでキリスト信者であるとも言えないという断定するのです。「キリスト信者とは、その名のとおり、聖書に明白に示してある主イエス・キリスト信ずるものである。その根本的協議において、パウロ、ペテロ、ヨハネと信仰を友にするものである」と言うのです。

「キリストをもって一の大人物のように見なしている者がたくさんいる。しかしながら、キリストをもって釈迦のさらに大なる者であると思う者は、いまだ聖書に明白に示してあるキリストをわからない者であると言わねばならない。」

 内村は日本人の中にある儒教的な思想を指摘して次のように言います。「我々はことに儒教とキリスト教との区別を認めるものである。もちろん二者いずれも善を勧め悪を懲らすものたるに相違ない。しかしながら、儒教はどこまでもこの世の宗教であって、それゆえに儒教を宗教と称うることはできない。一方、キリスト教はどもまでも天の宗教である。」

「かく言えば、人は余ひとりがキリスト信者を気取って、他はみなことごとく、これを排斥するように思うなれども、それは決してそうではない。キリスト信者とは、名誉の名のように思うているのがそもそも真正のキリスト信者でない一番のよい証拠である。キリスト信者は罪人の一種である。自身の罪深きを認めて、神の赦免を乞わんがためにキリスト十字架にすがる者である。」

「人の前に自分の罪人なるを表白し得ない者は決してキリスト信者ではない。しかるを、キリスト信者となりしとて文明的君子となりしように思う人は、いまだキリスト教の初歩も知らない人であると言わなければならない。」

宗教改革者

 内村が、このようなキリスト信者の現状を伝えたのは1901年ー明治34年です。極端なナショナリズムが台頭し、思想が漠然としている日本の現状にあっては、キリスト信者は孔子の弟子とキリストの弟子とを区別することが必要であると断言するのです。

 この明治34年頃は、日本は近代化を加速させる時期です。第5回内国勧業博覧会が開催され、八幡製鉄所が操業を開始するなど殖産興業政策が推進された年です。思想的には、新島襄より洗礼を受けた安部磯雄ら公娼制度の廃止や産児制限など、初期の女性解放運動にも積極的に関与し、社会民主党を結成します。安部は内村同様に日露戦争では非戦論を唱えるのです。しかし結社が禁止となり思想的な弾圧が始まります。大陸では、宗教的秘密結社である義和団による排外主義運動である義和団事変が起こったのも1901年です。

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この人を見よー内村鑑三 その二十 いかにして大文学を得んか

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内村鑑三は清教徒主義に基ずく厳格な宗教学者とか伝道者と言われています。しかし、彼の経歴にはもう一つの側面があることを知らねばなりません。彼の著作を調べますと、独自のキリスト教思想の醸成には、彼の豊かな文学や哲学への造詣にあったことが分かります。その読書意欲や多言語の習得は、彼の独特の思想の形成に貢献したことです。

 これは内村の文学観、文学の定義を言ったものと思われます。このような文学観にもとづいて文学を論じ、日本文学に警告と指針を与えようとしたものが「なにゆるに大文学は出でざるか」、「いかにして大文学を得んか」という二篇です。

William Wordsworth

 「大文学なきのみならず、中文学なし、小文学なし。しかり、もし文学とは思惟の創作を言うならば、今日の日本に文学ありと言うを得るや」と断じ、文学を定義して「文学とは高尚なる理想の産なり。文字を美術的に並べたてたとして文学にはあらざるなり。ゆえに理想なきところには文学はあらざるなり。そもそも大文学なるものは世界的思想の成体なり」として日本に真の文学のないのはこの思想の欠如のためであると断定するのです。実に驚くべき考え方です。

 それでは、どうすれば大文学を得られるかとの問いに答えて、「文学は天賜なり」というのです。文学者は文体を修めること、世界文学の攻究、自然の観察、品性の修養などにつとめねばならない」とします。文体については、「われに言わんと欲する事実ありて、これを言い表すの語に乏しからずとて、文体は文字や文章の工夫ではなく思想である」とし、世界文学を学ぶには、先ず第一に聖書を学ばねばならないと主張するのです。さらに聖書、ダンテ(Dante)、ゲーテ(Goethe)、ワーズワース(Wordsworth)、テニソン(Tennyson)などを引用して、自然観察の重要性を強調し、「大文学は気魄なり、人たることなり、人の面をおそれざることなり。正義をありのままに実行することなり。世論と称するとどの叫びに耳を傾けざることなり。富を求めざることなり、爵位を軽んずることなり。これ大文学者の特性として最も貴重なるものなり。」と主張します。

 「古人の大著を究むるにあり。自然に真理を探るにあり。自己を清うして天来の思想に接するにあり。これ余の信ずる、大文学を得るのみちなり。余はこの大問題をつくせしとは言わず。しかも余の論ぜしところの全く無益ならざるを信ず。」という主張は、かれの思想家としての矜持を言ったものと思われます。

Les Misérables

 このような内村の西欧的な、きわめて広義で格調の高い文学観が、当時の青年にとり、いかに清新なおとづれ(Good News)として響き渡ったことは想像に余りあるといえます。国木田独歩、小山内薫、有島武郎、正宗白鳥、志賀直哉など無数の文学青年が内村を見上げ、あるいは親しくその教えを受けるに至ったのも決して理由のないことではありません。近世日本文学史における内村の寄与と影響とは極めて注目に価するものがあります。

 しかし内村のいう文学は実は思想文学であり、キリスト教文学であり、むしろ道徳文学、信仰文学でありました。ゆえに一般の文学観とは全く異なり、市井の文学者の期待や要求を満足させることはできなったのです。のみならず厳しい清教徒的な信仰と生活の上に立つ文学には、日本の文学者には到底堪えることができなかったのです。そのため、やがて彼らはほとんど例外なく、内村の主張に失望し、反抗して、彼のもとを去っていくのです。キリスト教によって文学の人となった内村の文学が、彼のキリスト教とは別にして理解され、喜ばれるはずはなかったのです。内村の文学観は日本のみならず現代の世界においては、すでに前時代的なものとなっていくのです。

 しかし、内村は終生このキリスト教の文学観を捨てませんでした。多くの青年文士が内村のもとを去り、同時にキリスト教をも棄ててしまうことを悲しみつつも、内村は決してその文学観を棄てず最後まで文学を愛し、文学のうちに生きたのです。内村は大文学のなんたるかを論じるとともに、自ら生涯を費やしてその大文学を綴り続けたのです。そして、文学とは本来聖い、高い、麗しい魂と心のうたであることを聖書観に基づいて証しようとしたのです。

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この人を見よー内村鑑三 その十九 トーマス・カーライル

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内村鑑三や新渡戸稲造らの門下生に、後の東京大学総長矢内原忠雄や無教会派のキリスト教独立伝道者である畔上賢造等がいます。畔上は内村の弟子といわれた伝道者です。彼らに多大な影響を与えたのが、19世紀のスコットランドの著作家・評論家のトーマス・カーライル(Thomas Carlyle)です。カーライルは「世界の歴史は英雄によって作られる」と主張したことでも知られています。

Thomas Carlyle

 彼の言う「英雄」とは歴史に影響を与えた神、預言者、詩人、僧侶、文人、帝王などを指すようです。例えば内村は「後世への最大遺物」において、「勇ましい高尚なる生涯」が「後世への最大遺物」になる例として、カーライルが友人ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)の晩年の内妻、ハリエット・テイラー(Harriet Taylor Mill)により誤って燃やされてしまった「フランス革命史」の膨大な完成原稿を書き直したエピソードを挙げ、「私はカーライルという人については全体非常に尊敬を表しております」と書いています。

 内村は1893年8月に京都へ移り、そこで著作活動を始めます。「基督信徒のなぐさめ」といった著作を世に出します。この著作に「無教会」という言葉を使うのです。その間カーライルに心酔し、全著作を読んだといわれます。そうしたきっかけで「カーライルを学ぶの利と害」という講演もしたほどです。あたかも内村が「カーライルを語るときは、自分自身を語っているのかのようだった」という評論もあります。内村がカーライルを学ぶ利として誠実、労働尊重、貧民(平民) 、愛護の三点をあげ、害として不平等をあげています。

 特にカーライルが「クロムウェル伝(Oliver Cromwell’s Letters and Speeches)」で、政治の理想を描いているという指摘は、彼の強いクロムウェル崇拝が感じられます。クロムウェルはイングランドの政治家、軍人で、イングランド共和国初代護国卿(Lord Protector)となった人物です。カーライルは「英雄論」(On Heroes, Hero-Worship, and the Heroic in History) でクロムウェルを英雄の一人としてとり上げ、フレデリック・ハリソン(Frederic Harrison)は軍人としてのクロムウェルを「我が国の歴史に一人二人を数えるだけである」と高く評価します。クロムウェルは強い回心の経験し、生涯ピューリタン(Puritanism)を貫いた人物です。

Ralph W. Emerson

 イギリスなどヨーロッパでは20世紀以降は、カーライルの思想は時代遅れと評され、彼の反ユダヤ主義的言動はナチスへの影響も含めて批判の的となっています。イングランドの歴史家、アンソニー・フルード(James A. Froude) はカーライルのユダヤ人嫌悪を「ドイツ的」(Teutonic)と評するほどでした。にもかかわらず、カーライルはヴィクトリア朝絶頂期の大英帝国において、その時代を代表する優れた著述家・言論人としての名声を確立します。

 アメリカに眼を向ければ、カーライルの最も重要な弟子は、エマーソン(Ralph W. Emerson)といわれます。宗教的、社会的信念から離れ、汎神論的象徴主義による評論「自然」(Nature)を発表し、これが彼を中心とする超絶主義運動(Transcendentalism)の指導者となった哲学者です。超絶主義は、客観的な経験論よりも、主観的な直観を強調します。その中心は、人間に内在する善と自然への信頼であるとする思想です。エマーソンはしばしば「アメリカのカーライル」と称せられるほどでした。イギリスの哲学者ジョン・ミュアヘッド(John H. Muirhead)は、ドイツ観念論を受け入れたカーライルをして、「哲学的懐疑主義を拒絶し、当時の哲学思想の発展において、イギリスとアメリカにおいて他の誰にも及ばないほどの影響力を発揮した」と記しています。

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この人を見よー内村鑑三 その十八 交友の歓喜

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この内村のエッセイの書き出しは「新年に入りてより、四人の珍客は我が輩の小さな書斎に入りきたった。我が輩は謹んで彼らを優遇礼待せんとす。」となっています。この珍客とはもちろん、レンブラント、ベートーヴェン、ルーテル、そしてカントです。

Rembrandt H. van Rijn

『内村鑑三信仰著作全集』全25巻の第9巻目は、「なにゆえに大文学は出でざるか」「宗教と文学」「詩人ウォルト・ホイットマン」など、内村の文学観や人生観、および宗教観を語る内容となっています。その中に「交友の歓喜」と題するエッセイがあります。内村は、レンブラント(Rembrandt H. van Rijn)、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)、ルーテル(Martin Luther)、そしてカント(Immanuel Kant)の4人を心の友としていることを語ります。内村はこうした偉大な人物が世界人であることに感銘するのです。

Ludwig van Beethoven

「レンブラントは画界におけるカルビンと称せられし者であって、新教的思想を筆と色とで表し者である。彼は好んで商人、職工等、いわゆる下層の民と称せられたる者を描いた。彼はもちろん、彼の霊魂の救い主イエス・キリストを描いた。彼はいまの平民主義者のように、神を無視し、キリストをあざけるような者ではなかった。彼は平民主義をその根本において解した者である。彼の理想はの平民は、いうまでもなくナザレの大工イエスである。彼はこの人を神の子として拝した。ゆえに自身が平民の画家となったのである。」

Martin Luther

内村の第二の珍客、ベートーヴェンについてです。「彼の肖像をみて、彼が音楽の人であるとはどうしても思えない。彼の眼は怒っている。どうしても調和の人ではない。不平の人である。憤怒の人である。」内村は「もちろん、自身は音楽を解しない。ゆえに美術的に彼を評価することはできない。しかしながら余は少しく彼の人物を知る。風波多かりし彼の生涯を知る。余は余の小さなる生涯が少しく、彼の大なるそれに似ている事を感謝する。」と書きます。

第三の珍客、ルーテルについてです。「彼のサクソン的(Saxson) な容貌、百姓面と称せんばかりの顔、眼は暴風の後の平静を示し、太りたる手は何物かを握るごとし、けだし聖書なるべし。」「ああ、ルーテルよ、余はなんじを知りし以来、なんじを忘れざるなり。余の小さななる生涯は多くはなんじの大なる生涯にならって成りしものなり。余はなんじの事業をもって余の事業となさんと欲す。」「使徒パウロ(St.Paul)と聖アウグスチン(St. Augustine)となんじ、余は今やまたなんじの接近を要すること切なり。しかして、余がもしなんじと余との救い主なる神イエス・キリストの命にそむくがこときことあらんには、なんじその鋭き眼をもって余を責めよ。」

Immanuel Kant

内村は「第四の珍客はカント先生である」と書いています。「豪気なるカント先生、近世のソクラテス(Socrates)、しかもソクラテスよりも大なる哲学者。先生の哲学の大なるは先生の哲学のためでないことを、先生をして哲学者として立たしめしその精神、これが先生の偉大なるゆえであって、また先生の哲学の偉大なるゆえである。」「先生は自由と真理と信仰とのために堅固なる地位を設けたもうた。先生は哲学者としてよりは人類の友として貴くある。」

内村はこれら四人を心の友として仰ぎ見ていることが伝わります。著者がいかに博愛と心温かい世界人であったことが明らかです。内村は終生、一切の派閥に加わらず、独立の生涯を貫いたのは当然でありました。この四人の大先輩に関する記述によって、内村の伝道の精神、すなわち信仰の精神が理解できそうです。

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この人を見よー内村鑑三 その十七 詩人ウォルト・ホイットマン

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アメリカの詩人、随筆家、ジャーナリストにウォルト・ホイットマン(Walter Whitman)がいます。超越主義(Transcendentalism) から写実主義(Realism)への過渡期を代表する人物の一人で、アメリカ文学において最も影響力の大きい作家の一人でもあります。独自の詩の創始者とされ、しばしば「自由詩の父」と呼ばれています。詩集『草の葉』(Leaves of Grass) の原型となる作品は、すでに1850年に着手しており、生涯、手を加え続けることとなります。ホイットマンが書こうとしたのは、真にアメリカ的な叙事詩であり、聖書の韻律を利用した自由詩の形式を用いたことで知られています。

 ホイットマンは理神論(Deism)に深く心酔していました。理神論とは、神の存在を認めつつ、啓示や奇跡を否定し、理性によって神を理解しようとする立場です。特定の宗教が他の宗教よりも重要だといった考えを否定し、全ての宗教を対等に扱うのです。主要な宗教を一覧にし、その全てを尊重し受け入れるという姿勢を示します。この感覚は「祖先とともに」 (With Antecedents) で更にはっきりと示されています。この中で彼は「自身はすべての理論、神話、神、半神を受け入れる / 古い語り、聖書、系図は、一つ残らず、真実だとみなす」と記しています。1874年、心霊主義運動(Spiritualism)のために詩を書くように依頼されたホイットマンは、自分は無神論者であり、すべての教会を認めるが、どれ一つとして信じないと言います。

Leaves of Grass

 さて、内村はどうしてホイットマンと出会ったかです。内村は日本にホイットマンを紹介した最も古い人といわれます。彼はホイットマンの詩と人とに深く傾倒していいました。題材、形態、表現などすべての面で一切、詩の伝統と形式と常識とを無視して、大胆に自由に歌う自然児の彼の詩に心酔し、人生と宇宙と、社会と国家と、教育と政治と、予言と宗教と、あらゆるものの真理が歌い上げられていることを理解するのです。また、無理解と不遜と貧困のうちにも、臆せずたじろがず、高貴に大胆に、自由の精神に生き抜いた自由の勇者の人と生涯とに、限りなき尊敬と愛慕とを寄せたのです。ホイットマンの詩はそのまま内村の詩であり、ホイットマンの人と生涯と自由とは、そのまま内村の人と生涯と自由であったといわれます。

Walter Whitman

 内村は晩年までホイットマンの詩句を引用し、つばの広い帽子を送られると「ホイットマンのかぶっていたような帽子だ」といって喜んだという逸話が残っています。ホイットマンはいつもつばの広い帽子をかぶっていました。大自然児ホイットマンと著者との間には血が通っていたようです。ホイットマンの信仰は万有神教とか自然神教とか呼ぶべきもので、キリスト教の正統信仰とは見なしがたいものではあります。にもかかわらず、正統信仰中の正統信仰を厳に守る内村が、ホイットマンの信仰までも賞賛することは、異様に映ります。しかし、内村はホットマンの人と生涯に同感し同情しながらも、その度を超えているのではないと思われます。ホイットマンの信仰自由の精神は、実は、そのまま内村の信仰自由の精神だったといえるのです。

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この人を見よー内村鑑三 その十六 アマースト大学へ

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1885年の秋、ペンシルヴァニア州立精神薄弱児養護院を辞して、マサチューセッツ(Massachusetts)にあるアマースト大学(Amherst College)へ向かいます。この理由は先輩であった新島襄の勧めと紹介によるものです。新島は、1864年7月に密出国してアメリカに渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けてアマースト大学やアンドーヴァー神学校(Andover Theological Seminary) で学びます。そして、改革派教会(Reformed churches)(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」(American Board)の準宣教師となった人です。

1850年代のアマースト大学

 内村がアマースト大学へ編入しようとした理由は、この大学が当時はキリスト教宣教師養成の一翼を担っていたからだと言われます。ウイリアム・クラークもこの大学で教鞭をとり、学生の中に同大学初の日本人留学生として同志社大学の創始者新島がいたのです。徹底した少人数教育のため卒業生数は少ないのですが、著名な卒業生を多数輩出していることで知られています。

 「ニュー・イングランド(New England)へは、私はぜひとも行ってみなければならなかった。私のキリスト教はもとニュー・イングランドから来たものであり、従ってニュー・イングランドはそのキリスト教が引き起こしたわが内心の苦悶に対して責任を持つからである。」このように内村は言います。内村がこの地へ行ったのは、アマースト大学の総長ジュリアス・シーリー(Dr. Julius H. Seelye) に会うためでした。彼はすでに日本にいたときから、この総長の著書を読んで、その敬虔さと学識を知っていたのです。内村は、古びてよごれた服をまとった惨めな姿で(内村談)、わずか7ドルをポケットに入れて大学町に行くのです。そして総長邸の玄関に立つのです。新島が総長にあらかじめ自分の名前を紹介してくれていました。

 扉が開いて大きな体躯、獅子を思わせるような双の眼に光る涙、並外れて強く暖かい握手、もの静かな歓迎と同情の言葉で内村を迎えてくれるのです。これは彼に会う前に密かにわが心に描いていたものではないというのです。内村は、彼が心から喜んで差し出す援助の手にわが身を任せることを約して彼のもとを辞するのです。そして、学校の寄宿舎の一室を無料で貸し与えられるのです。親切な総長は小使いに言いつけて、必要品を整えさせてくれました。「私は寄宿舎の一番高い階の一室に落ち着き、全能の神が彼ご自身が示してくださるまでは断じてこの場所から動くまいと決心した。」

Amherst College

 アマースト大学では歴史学の教授、ドイツ語の教授らから様々な知見を得たことを書いています。特に聖書註解学の教授との出会いは印象に残ります。彼は内村のために旧約聖書歴史学と有神論との特別講義をします。彼の講義の唯一の学生だった内村は連続三学期、規則ただしく討論研究をします。その教授は、内村の中にある儒教その他の善い異郷精神を引き出し、それを聖書の基準に照らして比較考察したといわれます。

 しかし、哲学では内村は全然失敗であったと言います。東洋流の演繹的な自分の心は、知覚、概念、その他に関する厳粛な帰納的方法と全く相容れなかったというのです。我々東洋人は真理を確立するにあたり、倫理よりは視覚に頼ることの方が多い。自分がニュー・イングランドの大学で教えられたところによれば、哲学は、この東洋人の懐疑と霊的幻想とを解決するにはあまり役立たないと主張します。ユニテリアンその他の理知的な宣教師が、東洋人は理知的な民だから理知的にキリスト教に改宗させねばならぬと考えたのは最大の誤りだったとも考えるのです。

 「東洋人は詩人であって科学者ではない。三段論法の迷路は、われらが真理の神にいたるための道ではない。ユダヤ人は「一連の啓示」によって真の神に関する知識に達したという。そしてそれはアジア人すべてを通じて言えることだ。」と内村は宣言するのです。

Dr. William Clark

 アマースト大学総長ほど内村を感化し変化させた者はいなかったようです。礼拝堂で、彼が立ち上がり賛美歌を指示し、聖書を読み祈るだけで十分でした。「私はこの尊敬すべき人を一目見たさに、一度として礼拝をさぼらなかった。」総長はあるとき、宣教師大会、いわゆる外国伝道集会に招いたのです。内村は、そこはキリスト教国のクリスチャンらしさを示すもので、こうした大会は異教徒の国にはないと観察します。内村は皮肉をこめて次のように言います。

 「万余の知識人の男女が三つも四つもの大きな会場に満ちあふれて、どうすれば他国民に福音のさいわいを味わさせ得るかについて聞こうとしている光景は、それだけですでに深い感動を与えるものであった。これらの人々にとり異邦人伝道事業は、ショーにする値打ちがあることだけは確かだった。そして、それは疑いもなく、あらゆる宗教的ショーの中でももっとも高貴な最も神聖なショーであった。」

 外国伝道の根拠は、異教徒の暗黒をクリスチャンの光明と比較対照して描き出すことにあると考えられていました。外国伝道のための雑誌、評論、新聞などはいずれも、異教徒の不道徳や堕落や愚かな迷信などの記事を満載していました。「もし君たちがそれほど立派な人々なら、そんなところへ宣教師を送る必要はない」という言葉に対して、内村は「いいえ、みなさん、こうした高潔な人たちこそ、他の国の人々以上にキリスト教を憧れ求めているのです」と答えたというのです。内村は言います。「異邦人に対するあれみ以上の高い動機に基づかぬキリスト教外国伝道は、援助を送る側も送られる側も多く傷つかぬうちに、全部引き上げる方がよいと信じる。」  

 内村が全生涯をかけて伝道に捧げながら、外国宣教師をはじめ、そこからの補助を一文も受けず、独立の清い節度を貫く姿勢が表れています。かくいっても幾多の内外の友人の愛の援助、献金があったことを告白しています。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その五 宥和政策の理由と失敗

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ミュンヘン会談の結果、ズデーテン地方のドイツへの割譲が決定され、チェンバレンは帰国後、「我々の時代の平和(Peace for our time)」と宣言します。チャーチルは当時、政権の中枢にはいませんでしたが、下院議員として会談後すぐに強い批判を展開します。特に有名なのは1938年10月5日のイギリス下院での以下のような演説です。

あなた方は戦争を避けるために屈辱を選んだ。しかし、屈辱を受けた上で戦争がやって来るだろう。
“You were given the choice between war and dishonour. You chose dishonour and you will have war.”

 このチャーチルの言葉は、先日のトランプがプーチンとの会談で示したロシアの譲歩に似ています。停戦はウクライナのゼレンスキー大統領の態度如何であると言って、プーチンになんらの警告も出さなかったのです。しかも会談中にロシアのウクライナの都市への爆撃が続くという有様です。


ズデーテン地方

 この発言は、チェンバレン政権がヒトラーに譲歩したことを「屈辱(dishonour)」と断じ、それが結局は戦争を防ぐどころか助長する結果になるだろうと警告するのです。チャーチルは、チェンバレンが国民にたいして述べた「平和」は幻想であり、ミュンヘン会談の後に宣言されたその和平は一時的なものであり、根本的な解決になっていないと断定します。そして「ヒトラーの要求は止まらない。彼はズデーテン地方だけで満足することはなく、次の侵略を計画している。その侵略がやがて起きる。」と予測します。ヒトラーの野望に対しては、力による抑止が必要であるとし、ヒトラーその野望を止めるには譲歩ではなく、早期の軍備強化と集団安全保障体制が必要だと主張します。

 結果的にチャーチルの見解は的中し、1939年3月、ドイツはチェコスロヴァキア全土を占領し、1939年9月にポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発するのです。チャーチルの警告は現実のものとなり、宥和政策の失敗が明確になります。チャーチルはミュンヘン会談における宥和政策を「屈辱的で危険な譲歩」と位置づけ、戦争を防ぐどころか逆に招く結果になると強く批判しました。彼の見解は当時は少数派でしたが、後に歴史的に正しかったと評価されています。

チェンパレンの我々の時代の平和

 チェンバレンが宥和政策を選んだ主な理由はいくつか指摘されています。それには第一次世界大戦の記憶と反戦世論がありました。イギリスを含むヨーロッパ諸国では、第一次世界大戦の記憶が生々しく、戦争による莫大な犠牲に多くの人が苦しんでいました。大戦後、「二度と戦争は起こしてはならない」という強い世論が形成されており、政府に対しても戦争回避の姿勢が求められていました。特にイギリスでは、「平和のためなら多少の譲歩はやむを得ない」と考える国民が多かったのです。

 宥和政策を選んだもう一つの理由は、軍備の不備と準備不足がありました。1930年代のイギリスは、世界恐慌という経済不況の影響もあり、軍備の再建が進んでいませんでした。特に空軍・陸軍ともに、ドイツとの全面戦争を即座に戦える状態ではなかったようです。チェンバレンは、今戦うよりも、時間を稼ぎ軍備を整えることが現実的と考えていたとも言われます。こうして、複数の歴史的、政治的、社会的要因が絡んでおり、チェンバレンの宥和政策は、「弱腰」ではなく、当時の状況下で「最善の現実的選択」と考えられた部分もあります。

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