この人を見よー内村鑑三 その三十七 「救国論」

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内村鑑三に「救国論」というタイトルの著作はありません。ただ、彼の「代表的日本人」など、キリスト教の精神に基づき、日本と日本人のあり方を問い、独立と精神的進歩を訴える言論活動そのものが「救国論」と言われています。彼は国粋主義的な愛国心に批判的で、むしろ個人の良心に従い、精神的に成熟した日本人の集合体として国を救うことを目指したのです。

 1894年に出版された「代表的日本人」は、日本の歴史上の偉人をキリスト教の精神と照らし合わせながら紹介し、日本人が普遍的な価値観を持つことで、自らを高め、国を救う道を示しました。彼は、Japan(日本)とJesus(キリスト)という二つのJ という愛すべきものを大切にすることを唱え、キリスト教の信仰と日本への愛が両立することを説きました。

 日露戦争に際しては非戦論を唱え、足尾鉱毒事件で田中正造らとで公害問題を告発するなど、政府の政策や当時の風潮に批判的な言動が多く、一部からは「非国民」「国賊」と見なされることもありました。精神的独立の重視し、真の救いは外的な力ではなく、個人の良心に基づいた精神的な独立と自律性にあると考えました。この考え方は、国家の力に依存することなく、日本人一人ひとりが人間として成長することで国が救われるという信念に繋がっています。

父親らと

 内村の「救国論」とは、日本の真の救い(救国)とは、政治や軍事ではなく、個人の道徳的・宗教的な内面の改革によって実現されるべきだという思想を指します。これは、彼のキリスト教信仰、特に無教会主義と深く結びついており、西洋の「国家中心主義」や「権力主義」に対する鋭い批判を含んでいます。明治・大正期における日本の急速な近代化や、軍国主義的な傾向に強い危機感を抱いていました。

 彼の救国論の主張は、「後世への最大遺物」のエッセイで以下のようにまとめられます。

国を救うのは「外的な力」ではなく「内的な力」であり、軍事力や経済力では真の国の安泰は得られない。国の土台を支えるのは「国民一人ひとりの道徳心と宗教的良心」である。「魂の改革」こそが国家の再生につながる。国を救う者は、政治家にあらず、軍人にあらず、実業家にあらず、教育家にあらず、宗教家にして、しかも真の宗教家なり。

キリストの教えという信仰に基づいた人格の養成が国家の礎である。プロテスタントの聖書主義に立脚し、形式的な宗教よりも「信仰の本質」を重視。国家のために命を捧げるよりも、真理のために生きる人格者こそが、結果的に国を救う。真理を行い得る者、義のために命を賭ける者、これこそ救国の士なり。

軍国主義・愛国主義の盲信へ警鐘を鳴らし「愛国」という言葉のもとに行われる国家主義的な動きに警戒。国家を神のように崇拝する「国家神道」的傾向に反対する。

個人の内面的成長が、結果として国の成長につながる。「国家のために個人がある」のではなく、「個人が成長することが国家の救いになる。」

現在のAmherst College

 内村鑑三の救国論の現代的意義ですが、軍国主義の時代や物質文明の危険性を批判し、精神・倫理の再評価の必要性を説いたことです。さらに国家中心の教育ではなく個人の良心を重視し教育の根本に「人格形成」を据えたことです。そして、政治への依存を脱却し、信仰と良心による改革を訴え、草の根的な社会改革の重要性を説いたことです。

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この人を見よー内村鑑三 その三十六 「札幌の子」と戦後改革

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戦後民主主義のオピニオンリーダー(opinion leader)の一人が東京大学総長であった矢内原忠雄です。彼は「続 余の尊敬する人物」岩波書店刊行において内村,新渡戸の二人を師とし、自らを「札幌の子」と言っています。1937年に中央公論の9月号にて「国家の理想」と題する評論を寄せます。矢内原はこれを書いた後にある主張のために,東京帝大教授を追われます。その主張とは、国家が目的とすべき理想は正義であり、正義とは弱者の権利を強者の侵害圧迫から守ることであること、国家が正義に背反したときは国民の中から批判が出てこなければならないことを訴えたのです。この論文は大学の内外において矢内原排撃の格好の材料として槍玉に挙げられます。1936年6月に岩波書店から発行されていた「民族と国家」は、1937年12月、矢内原が辞職した当日に内務省により発禁処分となります。

中央は河合栄治郎、右が矢内原忠雄

 敗戦により矢内原は復帰して、南原繁に次いで二代目の東大総長となります。また戦後最初の文部大臣前田多聞,その後継者安部能成,さらに,天野貞祐,森戸辰雄と戦後歴代の文部大臣がすべて「札幌の子」だったのです。こうした人達は東京帝大経済学部または法学部出身であり,新渡戸の直接の教え子なのです。内村との接点はどこにあったのかです。

 新渡戸教授の家には多くの教え子が押しかけていたのですが,その中にはキリスト教に強い関心をもつ者も少なくありませんでした。新渡戸は彼らに「その勉強がしたいのなら私よりずっと偉いやつがいる」と内村を紹介していたのです。こうして新渡戸→内村ルートを歩いた一群の一人、矢内原は「内村の柏木聖書研究会である「柏会」、聖書之研究の「白雨会」などのグループをつくり,自分たちを「札幌の子」と自認していきます。

 彼らは,新渡戸の直接の後継者として植民政策学講座の教授となった矢内原がそうであったように,二人の師の亡き後それぞれの立場で軍国主義への抵抗を続けます。そして敗戦と共に戦後改革の先頭に立ち,戦後民主主義のオピニオンリーダーとなっていきます。上に挙げた名前以外にも経済学者の大塚久雄,最高裁判所長官田中耕太郎などがいます。彼らの活躍はまさに内村,新渡戸の思想,さらには札幌農学校の精神の力強い復活だったといわれています。

石橋湛山

 「札幌の子」は東大ルート以外からもたくさん生まれました。一例として後に総理大臣となった石橋湛山を挙げておきます。石橋は早稲田大学出身ですが,甲府中学時代の校長だった大島正健の強い影響を受けます。大島は札幌農学校の1期生で「クラーク先生とその弟子たち」と著作を発表し、自ら「札幌の子」と称しました。戦前は気骨のジャーナリストとして知られ「非戦論」、「小国主義」など内村と驚くほど似た主張を展開しています。1956年に総理大臣となりますが,間もなく病気のため総理を岸信介に譲ります。石橋が健康であったならば,その後の日本は今とはずいぶん異なった姿になっていたろうと言われています。

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この人を見よー内村鑑三 その三十五 「興国史談」

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内村鑑三の名著と呼ばれる「興国史談」は、1918年に刊行された彼の歴史講演や論文をまとめたものです。日本の歴史の中から特定の人物や事件を取り上げ、そこに神の摂理(providence)を見出そうとするキリスト教的歴史観に基づいて書かれています。

 この著作の主な論点やテーマはいくつかあります。第一は「興国」とは何かです。単なる経済的、軍事的な発展ではなく、「道義的・精神的な興隆」こそが真の興国であると主張します。国の繁栄とは、国民一人ひとりが倫理的・宗教的に高められることだという主張です。

中田重治らと

 第二は、歴史上の人物を再評価していることです。北条時宗、徳川家康、吉田松陰などの人物を取り上げ、彼らの生き方に内在する「義」や「信仰」に着目します。偉人崇拝ではなく、その精神的側面を重視して評価します。

 第三は、国家と宗教の関係を説きます。神の摂理が歴史を導いているという「摂理史観」(Providence History)を日本史に適用するのが特徴です。忠君愛国とキリスト教信仰は矛盾しないとし、国家の道徳的再生を信仰により促そうとしていることに注目したいです。

 この著作の意義と評価ですが、内村は、西洋的な進歩史観でも日本の儒教的道徳史観でもない、キリスト教的な道義史観に基づき日本史を読み直していることです。これは当時の国粋主義や唯物史観とは一線を画す思想であり、日本の歴史と信仰の新しい接点を模索するものだったといわれます。明治・大正期の日本が急速な近代化と軍国主義に傾く中で、「道徳なき国の繁栄は長続きしない」という警鐘を鳴らした点で意義があるように思われます。道徳と国家の結びつきを再考し、特に日露戦争後の日本に対して、内村は国家の精神的荒廃を批判しています。

 本著は戦前の良心的知識人、特にキリスト教や非戦思想に関心をもつ人々に影響を与えていきます。その代表的人物として賀川豊彦、矢内原忠雄、そして戦後の平和思想にもその精神が受け継がれていることです。賀川豊彦は、大正・昭和期のキリスト教社会運動家であり、関西を中心に戦前日本の労働運動や農民運動、生活協同組合運動などを担い、大正デモクラシーの機運を盛り上げた人物です。矢内原は第16代の東京大学総長となり、1960年に北海道大学の学生に向けて「内村鑑三とシュヴァイツァー」と題する講演をしています。

 「興国史談」は、日本の歴史を「神の目」から見ることで、真の国家的興隆とは何かを問うた思想的な挑戦です。内村は、物質的、軍事的成功ではなく、信仰と道義によって国家が築かれるべきだと説きました。その思想は、国家主義と宗教、歴史と倫理の関係を考える上で、現代にも通じる意義を有していると言えます。

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この人を見よー内村鑑三 その三十四 「代表的日本人」の序文

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少し遡りますが、日清戦争当時、内村鑑三が記した「代表的日本人」の中に「国土と国民」というエッセイがあります。この一文は、代表的日本人とは何かという問いの下敷きになっているものです。日本の国土の特色が国民性を創りあげ、代表的な日本人を輩出したという主張です。それを紹介することとします。

 内村は次のような序文から始めます。

「偉大」とは日本に縁のない言葉であろうか? 四千万人の日本人の多くは、大西洋岸に住まいする二千七百万人の異教徒のように「大方愚か」で「改宗」させねばならぬ「哀れな異教徒」であり、独創性がなく、他のまねをするよりほかに能のない国民、多民族に滅ぼされるために作られた「劣等な民族」であろうか?このように指摘するのは、生かじりの批評家であり、善意は持ちながら「真理の異教徒的反面」を知らぬ感傷的なキリスト教徒、すなわち宣教師である。

ゲルマン民族

 我らの国民性を公正に観察した人たちが、ひとしく述べるところを受け継げば、我々も、典型的な日本人とは「日本の国土が精神と化した者」であると内村は言うのです。それは、日本人が人種として偉大であるというのではありません。それは国土の構造が、雄大というよりは、むしろ画のようであり、繊細で愛らしく、美しいのと同様であるというのです。

ヘブライ民族

 ヘブライ民族(Hebrew) の深さ、ゲルマン民族(germanic) の重厚さは、我々のものとは違うかもしれません。しかし、ギリシャ人の有する感受性、イタリア人特有の明るさこそは、日本人にも共通する性格であるというのです。ギリシャ人、イタリア人と同様に、日本人は、人生の明るい面をみるように創られており、世界における日本の天職もこの方面にあるというのです。

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この人を見よー内村鑑三 その三十三 コロンブスと彼の功績

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1893年に内村鑑三は、「コロンブスと彼の功績」という著述を記しています。自身の信仰であるキリスト教的信仰に照らして、歴史上の人物や出来事を評価しています。彼にとって重要なのは、神の意志に従い、信仰をもって行動したかどうかという点のようです。本稿は、なぜ内村がクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)を評価するのかを具体的に説明することにします。

 コロンブスは、大航海時代の探検家、航海者、コンキスタドール(Conquistador)、そして奴隷商人です。コンキスタドールとは、スペイン語で「征服者」を意味し、特に15世紀から17世紀にかけてスペインからアメリカ大陸へ渡り、原住民の国家を征服したスペインの兵士を指します。

ジェノヴァのコロンブス像

 定説ではコロンブスはイタリアのジェノヴァ(Genoa)の出身です。やがて、彼は積極的にスペイン語やラテン語などの言語や天文学・地理、そして航海術の習得に努めます。仕事の拠点であるリスボン(Lisbon)でパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ(Paolo dal Pozzo Toscanelli)というイタリアの地理学者、天文学者、数学者と知り合う機会を得て、手紙の交換をしています。当時はトスカネッリはすでに地球球体説を主張していました。

 コロンブスは、「東方見聞録」の語り手であるマルコ・ポーロ(Marco Polo)の考えを取り入れ、トスカネッリの地球球体説を合わせて、ここに西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出したといわれます。また、現存する最古の地球儀を作ったマルティン・ベハイム(Martin von Behaim)とも交流を持ち意見を交換した説もあります。ベハイムはポルトガル王に仕えたドイツ人の天地学者、天文学者、地理学者、探検家でした。大航海時代には、ポルトガルが様々な海図を買い漁っていることはよく知られています。従って、ポルトガル王ジョアン2世(Joao II)と親交のあったベハイムが地図や海図を売っていたことも考えられます。これらの収集情報や考察を経てコロンブスは西廻り航海が可能だとする理論的な根拠に行き着くのです。

 ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)は、ポルトガル王国の探検家で、熟達した航海術と外交手腕を買われヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人といわれます。こうした探検の先駆者らによって、コロンブスは航海の成功きた期待するとともに、その使命を「神の導き」によるものと信じていました。内村はこの点に強く共鳴し、コロンブスが「神の召命」に従って新世界を発見した人物として評価します。信仰による探検という意気込みに感じるものがあったようです。

イザベル一世とコロンブス

 内村は、偉人の条件として「高い道徳性」と「信仰に基づく行動」を重視しており、コロンブスが困難を乗り越えつつも信仰を貫いた点を賞賛します。内村は、コロンブスの新大陸発見を「神の摂理の一部」と捉えています。つまり、単なる地理的発見ではなく、神が人類史において新たな展開を与えるために用いた人物として見ているのです。世界史的使命を成就したのがコロンブスというわけです。

 特に、コロンブスの航海によってキリスト教がアメリカ大陸に伝わったことを、福音の拡大という視点で肯定的にとらえています。コロンブスは、多くの人々に反対されながらも自らの信念を貫き、航海に出ました。内村はこのような「信念による行動力」を高く評価します。内村自身も、日本でキリスト教を信じるという少数派の立場に立ち、自らの信仰を貫いていたため、コロンブスに自己を重ねて見ていた節もあります。

 内村がコロンブスを高く評価しているのは、彼が単なる探検家としてではなく、神の召命に従い、信仰をもって偉業を成し遂げた人物として見ていたからです。彼にとってコロンブスは、信仰と勇気と使命感によって「神の御業を歴史に実現した人」であり、そうした生き方をこそ人間の理想像として評価しているのです。

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この人を見よー内村鑑三 その三十二 「日蓮上人」

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『代表的日本人』のなかで、内村鑑三は日蓮上人をその一人に挙げています。内村は自らのキリスト教信仰に生涯をかけて生きた人物であり、信仰のために社会的・経済的損失を厭わなかった人物です。日蓮もまた「南無妙法蓮華経」の信仰を絶対視し、命の危険にさらされながら、流罪や迫害にも屈しませんでした。このような「信仰のために命を懸ける姿勢」に、内村は強く共鳴したようです。1261年には、「立正安国論」などの過激な発言により鎌倉幕府によって拘束され、伊豆国伊東に流罪になります。

 日蓮は仏法による国の立て直し、いわゆる立正安国を唱えます。そこでは、法然の「専修念仏」を批判の対象に取り上げます。「専修念仏」とは南無阿弥陀仏と唱えることです。貴族階級から民衆レベルまで広がりつつあった「専修念仏」を抑止することが自身の仏法弘通にとって不可欠と判断するのです。こうして他宗を激しく批判・否定する等の過激な発言を行い、鎌倉幕府3代執権の北条泰時が制定した御成敗式目第12条「悪口の咎」の最高刑で1271年に佐渡へ流罪となるほどです。そして1274年に佐渡流罪を赦免され鎌倉に戻ります。赦免の理由は、蒙古襲来の危機が切迫してきたためであるといわれます。

 内村は「無教会主義」を提唱し、組織や権威に頼らず、個人として神との関係を築くことを重視しました。日蓮もまた、当時の仏教宗派や権力者に阿ることなく、自己の信念に従って独自の宗教運動を展開しました。権力や世間の流れに迎合しない道徳的・精神的な独立は、内村にとって理想的な宗教者像だったと思われます。日蓮は単なる宗教者ではなく、国家と社会への責任感を持った「宗教的社会改革者」だったようです。このように、信仰と社会との関係を重視する姿勢に、内村は宗教者の理想像を見たのです。

本立寺(品川区)

 内村は旧約聖書の預言者たちに強い影響を受けており、「真理を語る者」としての預言者的使命に強い共感を抱いていました。日蓮もまた、迫害を受けつつ真理を訴える姿が、預言者に通じるものと映りました。内村は、日蓮を「日本の預言者」として見ており、その生き様に「真理のために生き、真理のために死す」という信仰者の理想を重ねていたと思われます。信仰に対する絶対的な忠誠心と不屈の精神が二人に共通するものといえそうです。

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この人を見よー内村鑑三 その三十一 「西郷隆盛」

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内村鑑三が『代表的日本人』の中で西郷隆盛に深く共鳴した理由は、彼が西郷に理想的な道徳的人格とキリスト教的精神を見出したからです。以下にその具体的な理由を整理します。

 内村は西郷の生涯を通して示された誠実さ、正義感、そして自己犠牲の精神に強く共鳴しました。特に西郷が私利私欲を求めず、常に公のために尽くした姿勢を理想的な「日本的キリスト者」として評価しました。 西郷は明治政府で高い地位にありながらも、権力に固執せず辞職し、最終的には西南戦争で命を落とします。高い道徳性と誠実の生き方は、内村にとって「信仰による義」の実践でした。

 西郷は形式的な宗教ではなく、内面において深い敬神の念を持っていた人物でした。これは内村の「無教会主義」と非常に親和的でした。内村は、西郷の精神性を「自然なキリスト教精神の体現」と見なしました。西郷が語ったとされる「天を敬い、人を愛す」という言葉は、内村の宗教観と重なります。神を畏れる宗教性に共鳴したのです。

 西郷は子弟の教育にも尽力します。設立した私学校は、当初は西郷隆盛によって不平士族の暴発を抑えるための教育機関となります。教務は主に漢文の素読と軍事教練でした。設立の真の目的は不平士族の暴発を防ぐ事にあったとされます。そのため入学できるのは士族、それも元城下士出身者に限られました。しかし、やがて生徒が暴発して西南戦争の直接的原因が生まれ、薩軍の軍事拠点となります。今は、門と壁のみが史跡として残されています。

私学校の門

 内村は、日本の歴史や文化の中にもキリスト教的価値である愛、誠実、謙遜などが内在していると考えており、西郷はその好例だと捉えていました。西郷はキリスト教徒ではありませんが、その人格や生き方がキリスト教的倫理にかなっていたのです。 日本的精神とキリスト教精神の融合を感じたのです。

田原坂の戦い

 要約しますと、西郷は常に民衆に寄り添い、彼らの幸福を第一に考えたといわれます。これもまた内村が理想とするリーダー像に一致します。特権階級ではなく「庶民の中の英雄」としての西郷の姿に、内村は強く感銘を受けるのです。内村にとって西郷は、宗教的・道徳的・社会的に理想的な人物像であり、日本人としてキリスト教の精神を体現した「代表的日本人」だったのです。

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この人を見よー内村鑑三 その三十 「二宮尊徳」

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内村鑑三は敬虔なキリスト教徒であり、無教会主義の指導者でもありました。彼は江戸時代後期の経世家、農政家、思想家であった二宮尊徳の生き方や思想に、キリスト教の精神、特に「隣人愛」や「奉仕精神」と共通するものを見出したようです。わたしどもは、一般に二宮尊徳を「二宮金次郎」と呼んでいました。小学校の庭に薪を背負いながら本を読んで歩く姿の像がありました。内村は、キリスト教精神との親和性を見いだしたのです。尊徳の報徳思想である「徳に報いる」「徳をもって徳に報いる」は、利他的な行動を重視する点でキリスト教的な倫理観と通じると考えます。貧しい農民のために尽くし、荒廃した村を再興していった尊徳の姿は、「行動する信仰者」として、内村の理想像と一致するようです。

 内村は、単なる信仰の言葉や理念ではなく、それを実際の生活と社会に活かすことを重視しました。尊徳は神仏に対する敬虔さという信仰心を持ちながらも、現実的で有用な農業・経済の改善策を実行した人物でした。信仰と実践の一致を強調します。尊徳は、貧しい農民に働く意義を説き、勤労・倹約・積善によって村々を再建します。このように、道徳と経済を両立させた姿勢は、内村が唱える「信仰と行動の一致」すると言うのです。

 内村は、日本人が持つ伝統的な美徳と、普遍的なキリスト教的倫理が両立可能であることを示そうとしました。尊徳は、日本の伝統的価値観である孝、忠、誠、節などに基づきながら、それを普遍的な道徳である倫理・経済・教育へと昇華させた人物でした。尊徳の生き方に日本的精神と普遍的道徳の融合を見いだしたのです。 

一円札の二宮尊徳

 彼は武士ではなく農民出身でありながら、実践的知恵と倫理によって国家に貢献します。これは、身分や出自に関わらず、人格によって人は偉大になれるという内村の思想と重なります。内村が尊徳に深く共鳴した理由は、「信仰と実践を一致させた人物として、また日本的精神とキリスト教的倫理を調和させる模範」として尊徳を見たからです。そのため、内村は尊徳を「代表的日本人」として世界に紹介するにふさわしい人物と考えるのです。

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この人を見よー内村鑑三 その二十九 「上杉鷹山」

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上杉鷹山は、江戸時代中期の米沢藩、現在の山形県の藩主で、名君として広く知られる人物です。鷹山の主な特徴と功績の一つに米沢藩の財政再建があります。鷹山が家督を継いだ当時、藩は深刻な財政難に直面していました。彼は倹約を徹底し、贅沢を禁じ、自らも質素な生活を実践したといわれます鷹

上杉鷹山

 鷹山の功績は、農業改革、織物業の奨励、養蚕など地場産業を興して藩の立て直しをしたことです。教育機関「興譲館」を再興し、人材育成に力を注ぎました。人を育てることで藩を支えようとしたのです。民を思う政治姿勢、つまり自ら農民の暮らしに寄り添い、領民の幸福を第一に考える政治を行ったといわれます。鷹山は「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」という有名な言葉を遺しています。これは努力と行動の大切さを説くものです。

 内村が鷹山を『代表的日本人』に選んだ理由です。鷹山は私利私欲を捨てて民のために尽くした人物です。内村はこれを「真の道徳的指導者」の在り方として高く評価しています。「無私の精神」に共鳴しているのです。鷹山は理想を語るだけでなく、それを自らの行動で示しました。この実践的な姿勢は、内村が理想とした「信仰と行動の一致」と合致します。実践に裏打ちされた信念の持ち主です。鷹山の自己犠牲的な生き方は、キリスト教の愛や犠牲の精神とも通じるものがあり、内村の宗教観とも深く重なります。

 明治の近代国家形成の中で、内村は「道徳的リーダー」の必要性を訴えていました。鷹山はその理想像としてふさわしいと考えたのです。鷹山は「民のために尽くした、自己犠牲的な名君」であり、内村はその高潔で実践的な生き方に深く共鳴しました。『代表的日本人』において内村は、鷹山のような人物こそ、日本が誇るべき真のリーダー像であると示そうとしたのです。

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この人を見よー内村鑑三 その二十八 「中江藤樹」

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内村鑑三は「代表的日本人」の一人としてが中江藤樹を紹介しています。藤樹の生き方に感動した理由は、宗教的信条の違いを超えて、藤樹の「誠実な生き方」「内面的道徳の実践」「自己犠牲の精神」に深く共鳴したからです。その経緯を調べてみましょう。

 藤樹は、近江国出身の江戸時代初期の陽明学者です。最初は朱子学に傾倒しますが、次第に陽明学の影響を受け、その説く所は身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく農民、商人、職人にまで広く浸透し江戸の中期頃から、自然発生的に「近江聖人」と称えられました。

中江藤樹

 内村はキリスト教を日本に紹介するにあたって、形式や教義よりも「内面の信仰」や「誠実な生活」を重視しました。彼の「無教会主義」も、形式的な教会制度より「個人の内なる信仰」を大切にする立場です。 藤樹も、儒教者でありながら、朱子学などの形式的儀礼よりも「孝」を中心とした心の道徳を説き、自己の行動でそれを実践しました。たとえば、母のために職を捨てて故郷に帰った話などは、単なる儒教の教義ではなく、実生活に根ざした徳行の表れです。こうした藤樹の内面の誠実さと道徳の実践に内村は共鳴したのです。

 自分の信仰を行動で示すことを内村は何より重視しました。言葉での信仰告白よりも、「どのように生きるか」が大切だと考えます。藤樹も、儒学者としての教えを、日常生活の中で一貫して実行しました。村人に無償で教えを説き、困っている人には自分の米を分け与えるなど、まさに「信ずるところを実行する」生き方をしていました。藤樹の「儒教の信仰と行動の一致」にキリスト教的人格を見たのです。

 内村は「真のクリスチャンは名乗るものではなく、生き方に現れる」と考えました。彼にとって、藤樹はたとえキリスト者でなくても、その「神に近い生き方」を体現している人物だったのです。彼はこうした人物を「無名の聖徒(anonymous saint)」と呼ぶことがあります。つまり「名前はクリスチャンではないが、行いにおいて神に近い人」という意味です。宗教の枠を超えた「神に近い人格」の藤樹に共鳴したのです。

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この人を見よー内村鑑三 その二十七 「代表的日本人」

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この著作は内村が英語で書いたものです。原題は「Reprezentative Men of Japan」といいます。内村の語学力を示す作品です。相当の語学がなければ著すことは出来ません。この著作はもともと「日本及び日本人」(Japan and Japanese)という作品が下敷きとなっています。その後、「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」(How I became a Christian)も著し、ドイツ語やデンマーク語に翻訳され、ヨーロッパ大陸で多くの読者を得たといわれます。

 「代表的日本人」では五人の評伝が記されています。五人とは中江藤樹、上杉鷹山、二宮尊徳、日蓮上人そして西郷隆盛です。この本の目的は,「わが国の主要人物を正しく評価し、この国民特有の多くの美点、この国民の優れた特質を外国に知らせる」とあります

。日本人の美点や特質は、盲目的な忠誠心や好戦的愛国心として海外に知られているものとは異なる特質であるというのです。このことを世界に向かって明らかにし、さらに進んでクリスチャンを含めて世界の人々は、むしろ彼ら日本人に学ばねばならないと次のように説こうとします。

最近わが国の偉人の伝記を読んでいますが、その中の幾人かは実に偉大であり、クリスチャンと呼ばれる多くの人より、はるかに偉大であり、英雄的で慈悲深く、誠実で真摯です。私はずっと以前から彼らを、異教徒とか、神に棄てられし輩とか呼ぶことを差し控えてきました。異教徒を「哀れむ」ところのクリスチャンたちは、少しく自分で自分を哀れまんがために、「異教徒」の偉人について、大いに学ばねばならぬのです。

 生涯を二つのJ(イエスと日本)に捧げることを終生の目的、また喜びとした比類のない愛国者が内村です。この目的と意気込みとをもって、真の日本人がいかに偉大であったか、彼らの美点たり、特質たる勇気、愛、誠実、真摯などがどのような性質のものであり、かつどれほどすぐれていたか、なにゆえにそれらは、いわゆるキリスト教信者のそれにさえまさるのであるか、などを語り、説き、明らかにしたのがこの「代表的日本人」という著作です。

 内村の日本観と日本人観は、著者が終生堅持して変わらなかった根本的な精神に基づくもので、それゆえに宣教師やその追随者らから偶像信者、異教徒、ユニテリアンなどと非難されるのです。しかし、内村は屈しません。著者のこの精神と確信は微動だもしなったのです。

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この人を見よー内村鑑三 その二十六 伝記愛好家としての内村

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内村鑑三信仰著作全集の6巻には、「代表的日本人」、「コロンブスと彼の功績」、そして「ルーテル伝講演集」が収録されています。これを読みますと内村はこよなき伝記の愛好家だったように伺えます。その姿勢は終生変わらなかったようです。その基になったのは若き頃、トマス・カーライル(Thomas Carlyle)の「クロムウェル伝」(Oliver Cromwell’s Letters and Speeches)を愛読して影響を受けたからだと言われます。

Oliver Cromwell

 オリヴァ・クロムウェルは、イギリスの内戦であった清教徒革命期(Puritan Revolution)において、強い信仰心に基づいて行動した人物といわれます。内村は、クロムウェルの中に「神の義を地上に実現しようとする者」の姿を見たようです。クロムウェルは、聖書に根差した信念をもとに革命を主導し、イングランドに共和制を樹立した人物です。これは「信仰が現実を動かす」という内村の思想と重なります。信仰と行動が一体であることを理想とした内村にとって、クロムウェルの人生は「信仰をもって現実に働きかけることの模範」となったようです。

 「クロムウェル伝」を書いたカーライルことです。彼の歴史観は、「英雄崇拝思想(Hero Worship)」に基づいており、歴史を動かすのは神に選ばれた「英雄」であると説きます。内村は、自身の思想の中で「真の英雄」とは何かを模索しており、クロムウェルに「信仰によって世界を動かした英雄」の典型を見たようです。内村はこのような人物に深く心を動かされ、「信仰的行動者」としてのクロムウェル像をカーライルの筆致から強く受けとったことが伺えます。

 内村は明治・大正という急速な近代化・西洋化が進む時代に生きる中で、道徳や信仰が軽んじられる風潮に強い危機感を抱いていました。クロムウェルのように、「信仰によって国のかたちを作る」人物像は、信仰と倫理に基づいた国家や社会の理想像として、内村にとって励ましとなったのです。単なる宗教的観念ではなく、信仰を現実に生かすべきであるという内村の「無教会主義」のエートスとも一致しています。カーライルが描いたクロムウェルは、制度や権威よりも、神の導きを第一とする信仰者であるということです。これは内村鑑三の理想の宗教人像と重なります。

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この人を見よー内村鑑三 その二十五 免罪符とは

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マルティン・ルター(Martin Luther) は、元々保守的な人で、同時に学問の人であったと言われます。それゆえに、明白な背理には耐えられず、良心の持ち主であったようです。彼は明白な虚偽には服従することができず、当時の教会が背理と虚偽とをもって彼に迫まらなかったならば、彼は永久に沈黙を守っただろうと言われます。

 当時のローマ天主教会(Roman Catholic Church) は、教会はドイツ人を侮り、教会の命令さえあれば、彼らはなんでも服従する者であると信じていたようです。ドイツにルターのごとき者の存在を知りませんでした。ゆえに時の法王レオ十世がローマに「聖ペテロ」の大会堂を建築せんとするや、レオ十世はドイツ人の信仰心を利用し、人々の間に免罪符(贖宥状)を販売し、もって大いに資金を募らんとしたのです。

免罪符の販売

 マインツ(Mainz)の大司教、アルベルト・フォン・ブランデンブルク(Albert von Brandenburg)は、大いにこの免罪符の発行に賛成し、自らもその利益に預からんとし、彼の監督管内において広く免罪符を奨励します。アルベルトはドイツの枢機卿(Cardinal)であり選帝侯(Elector)でもあり、長年マクデブルク大司教(Archbishopric of Magdeburg)を務めた人物です。 彼は悪名高い免罪符の販売を通じて、マルティン・ルターの宗教改革のきっかけを作り、その強力な反対者となりました。

 免罪符の直接の販売の任に当たったのは、ドイツのドミニコ会修道士(Dominican friar)であり説教者でもあったヨハン・テッツエル(Johan Tetzel)という僧侶でした。彼はローマ教皇庁が約束した50 パーセントの手数料を受けとり、この販売に並々ならぬ関心を抱いていたといわれます。テッツエルはポーランドとザクセン(Saxony) の異端審問官(inquisitor)に任命され、後にドイツにおける免罪符の大弁務官(Grand Commissioner for indulgences)となる人物です。

 免罪符とはそもそもなんであるかです。免罪符は、ローマ法王庁によって発行される券、いわば手形で、これに多くの宗教的な利益が付いていました。アルベルト監督の説明によれば、免罪符は次のようなものでした。

この券を贖うものは、罪の完全なる赦免を得、神の恩恵にあずかり、煉獄より赦免せらるるを得べし。しかして、人は自身これらの恩恵にあずかるを得るのみならず、あるいは彼の友人、あるいは親戚にして、今や死して煉獄に鍛錬の苦痛をなめる者といえども、もし地上にありて彼らに代わりて、これを贖う者ある時は、彼らは直ちに試練の火を去りて、天堂の安息に入るを得べし。

 テッツエル大弁務官も次のように伝えるのです。

代金の寄進と同時に、霊魂は煉獄の外に飛び去るべし。免罪符の功徳はキリストの十字架のそれに等し。この券を贖うものは、たとえ聖母マリアを辱むるの罪を犯すことありといえども、その罪よりまぬかるを得べし。

 憐れむべき無知の民は喜んで券を購い、これによって、自己と死者との罪の赦免を得んとしたのです。迷信に乗じて起こる腐敗が、当時の中世の暗黒時代に起こったのです。やがて教会における免罪符の乱用は、ルターが「95ヶ条の論題」を執筆する大きな要因となるのです。

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