ポリティカル・コレクトネスとメディア

注目

Last Updated on 2025年6月9日 by 成田滋

ポリティカル・コレクトネス(PC) の3回目の話題です。再度PCの意味を復習します。PCとは、人種、性別、宗教、障害、性的指向などに関する差別や偏見を避け、すべての人に対して尊重と配慮を持った言葉や態度をとることを意味します。つまり、他人を不快にさせたり、傷つけたりしないように、より中立で配慮のある言い方を心がける社会的姿勢です。

 PCという用語に関する今日の議論は、学問と教育におけるリベラル偏向に対する保守派の批判に端を発しています。保守派はそれ以来、この用語を「言葉狩り」に対する主要な攻撃手段として利用してきた経緯があります。2020年に発表されたある調査によりますと、アメリカの大規模な州立大学の学生は、教員が概して寛容で、多様な視点の自由な表現を奨励していると答えています。とはいえ、大多数の学生は政治的な見解を表明することの顛末を懸念し、「政治的見解を表明することへの不安や自己検閲は、保守派であることを自認する学生の間でより顕著である」と指摘されています。

 ヨーロッパの一部の保守派評論家は、「政治的正しさ」と多文化主義は、ユダヤ・キリスト教的価値観(Judeo-Christian values)を弱体化させることを最終目的とした陰謀の一部であると主張しています。この理論は、政治的正しさはフランクフルト学派(Frankfurt School)の批判理論に由来し、その支持者たちが「文化マルクス主義」と呼ぶ陰謀の一部であると主張しています。ちなみに、フランクフルト学派とは、ヘーゲル(Georg Hegel)の弁証法とフロイト(Sigmund Freud) の精神分析理論をマルクス主義と融合させてマルクス主義の問題点の克服と進化を試みた学派といわれます。2001年、保守派評論家のパトリック・ブキャナン(Patrick Buchanan)は著書『西洋の死』(The Death of West)の中で、「政治的正しさは文化マルクス主義である」と述べ、「そのトレードマークは不寛容である」と述べています。

 アメリカでは、この用語は書籍や雑誌などのメディア界で広く使用されています。イギリスでは主に大衆紙での使用に限られているといわれます。多くの著述家や大衆メディア関係者、特に右派は、メディアの偏向と見なすものを批判するためにこの用語を使用しています。ジャーナリストのロバート・ノヴァク(Robert Novak)は、エッセイ「ニュースルームにPCは必要ない」の中で、新聞社が言語使用方針を採用し、偏見の印象を与えることを過度に避ける傾向があると批判しました。彼は、言語におけるPCは意味を破壊するだけでなく、保護されるべき人々を貶めると主張しています。

 作家のデイビッド・スローン(David Sloan)とエミリー・ホフ(Emily Hoff )は、アメリカではジャーナリストがニュースルームにおけるPCへの懸念を軽視し、PC批判を古くからある「リベラルメディアの偏向」というレッテルと同一視していると主張していいます。作家のジョン・ウィルソン(John Wilson) によると、無関係な検閲については左翼の「政治的正しさ」勢力が非難されているとも主張します。タイム誌は、アメリカのネットワークテレビにおける暴力反対運動が「PC警察の監視の目」のせいで「主流文化が用心深くなり、清潔になり、自らの影を恐れるようになった一因になっている」と述べています。さらに、テレビ番組を標的とした抗議活動や広告主のボイコットは、一般的にテレビにおける暴力、セックス、同性愛の描写に反対する運動をする右翼の宗教団体によって組織されているとも主張します。

 PCは、差別や偏見を避け、公平な言葉や行動を促進することを目的とする社会的態度や言語使用のスタイルです。 差別や偏見の是正や公共の場での言語の改善、職場や学校での安心感の向上など、肯定的な社会的影響が指摘されています。他方、言論の自由との衝突、自己検閲や過敏反応、さらに表層的な対応にとどまることなど、否定的または懸念される社会的影響も論議されています。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

ポリティカル・コレクトネスと用語の言い換え

注目

Last Updated on 2025年6月7日 by 成田滋

ポリティカル・コレクトネス(PC) の2回目の話題です。PCの考え方により、用語が言い換えられる例はいろいろあります。放送用語や差別用語などで見られます。以下は、従来の用語と中立の用語のいくつかの例です。

  • 看護婦・看護士 → 看護師  2002年に保健師助産師看護師法改正で使われ、男性も職業に就いているためです。
  • 障害者 → 障がい者 「害」の字が使われていることに不満がある人の感じる悪い印象を回避するため、2001年に東京都多摩市が最初に採用しました。
  • 助産婦 → 助産師  2002年、保健師助産師看護師法改正されました。ただし現行では資格付与対象は女性に限定されています。
  • スチュワーデス → キャビンアテンダント (CA)  1996年に日本航空が従来の呼称を廃止し、他社も追随しました。世界の航空会社では男性も従事しています。
  • 土人 → 先住民  1997年に北海道旧土人保護法が廃止されました。
  • トルコ風呂 → ソープランド  トルコ人留学生の抗議により1984年に改称されました。しかし実態は?
  • 保健婦 → 保健師  2002年に保健師助産師看護師法が改正され名称が変更されました。
  • 母子健康手帳 → 親子手帳  いまも母子健康手帳という名称は使われています。
  • 保父、保母 → 保育士  1999年に児童福祉法改正されました。男性も職業に就いているためです。
  • 父兄参観 → 保護者参観  「父兄」は放送禁止用語です。
  • 肌色 → うすだいだい、ペールオレンジ  特定の色を「肌色」と呼ぶことは差別的な意識を助長したりする可能性があると指摘されています。
  • 特殊教育 → 特別支援教育  学校教育法の一部改正により、2001年に知的な遅れのない発達障害も含めた対象の拡大します。
Black lives matter.

 PCの考え方は、メディアにも影響を与えてきました。その一つが「放送禁止用語」とか「放送自粛用語」の誕生です。この現象は、法による明文化された放送禁止用語は存在せず、単なる放送事業者の表現の自主規制となっています。放送に用いない、あるいは放送に用いることに一定の制限を設ける判断と規制を行うことは、それぞれの国の歴史的経緯などが反映されています。国家として法令に「放送禁止用語」を定めている国もあれば、まったく自主的なものとしている国もあります。かつて太平洋戦争前・戦争中の日本では、国によって放送禁止用語が作られました。

 メディアでは、差別の糾弾を回避する手段が常にとられています。その一つが差別用語の言い換えや差し替えです。「言語表現」というのは、単語を並べた文章によるものであり、差別的とされる単語のみを言い換え、差し替えたとしても、文章そのものが差別を目的とするものであれば意味がありません。これがいわゆる「言葉狩り」批判の根拠となっているのです。これが「ポリティカル・コレクトネス」にあたるのです。当然なことですが、差別的とされる単語に限らず、多くの人が不快感などを覚える単語の使用は好ましくはありません。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

ポリティカル・コレクトネス

注目

Last Updated on 2025年6月6日 by 成田滋

「ポリティカル・コレクトネス(political correctness: PC)」、略して「ポリコレ」という用語は、歴史的にも社会的にも多面的な背景を持っており、単に「リベラルな言葉や行動」を表すラベルではありません。以下では、その由来や展開、批判、そして現代的な使われ方について詳しく説明します。

 以下、「ポリティカル・コレクトネス」をPCと記述します。PCとは、人種、性別、宗教、障害、性的指向などに関する差別や偏見を避け、すべての人に対して尊重と配慮を持った言葉や態度をとることを意味します。つまり、他人を不快にさせたり、傷つけたりしないように、より中立で配慮のある言い方を心がける社会的姿勢です。

 PCという用語の起源です。20世紀初頭、ソ連邦やマルクス主義運動の内部で、「政治的に正しい(politically correct)」という表現は、党のイデオロギーに忠実であるかを問う意味合いで使われました。つまり、「党にとって正しい態度や発言をしているか」という意味です。皮肉や批判の意味は強くなく、むしろ「正統性」を示すものです。

アメリカでは、1980年代以降、特にアメリカの大学キャンパスなどで、差別や偏見のない表現や態度を推奨する動きが強まり、「ポリティカル・コレクトネス」という言葉がリベラルな価値観と結びついて用いられるようになりました。その例は、人種・性別・性的指向・身体的障害などに配慮した言葉の使用があります。例えば、”fireman” → “firefighter”、”stewardess” → “cabin attendant”、”カメラマン” → “フォトグラファー”という按配です。

 次にPCには、批判や反発が存在します。言論の自由の抑圧であるとして、PCを過度に追求することで、自由な意見表明が難しくなるという懸念です。その例は、冗談や風刺も差別とされ、自己抑制 (self-censorshipが広がるという指摘です。

 さらにPCには偽善的であり形式的な配慮があると指摘されています。実質的な平等や社会改革よりも、表面的な言葉遣いにこだわり過ぎるという批判です。単に「言い換え」をすることで社会問題を解決したかのように見せてしまうのです。さらに、逆差別や過剰な被害者意識を助長しているという批判もあります。PCが行き過ぎると、マジョリティに対する抑圧や皮肉な差別が起きる、という保守派の主張もあります。その例は、「白人男性」、「金髪女性」という属性だけで偏見の対象にされる場合などです。

 PCは、リベラルのラベルなのかという問いがあります。 PCは本来、社会的に弱い立場にある人々への配慮として始まったもので、リベラルな政治哲学である多様性尊重、平等、包摂(diversity, equity, inclusion: DEI)と親和性があります。ただし、現代ではそのリベラル性自体が問題視されたり、アイロニカルに使われることも多いのも事実です。1990年代以降、保守派の政治家や評論家が、PCを「過剰な正義感」や「左派の言葉狩り」として揶揄する文脈で使うようになりました。皮肉や批判的用法として定着しています。たとえば、「それはポリコレのせいで言えないんだよ」という言い回しには、PCの抑圧的側面への不満がこもっています。

 今やPCは単なる言葉遣いの問題を超えて、「文化戦争(culture wars)」の象徴的な争点にもなっています。左派(リベラル)にとっては、PCは社会正義のために必要な倫理的配慮があるとし、社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された政策、または対策などを表すことだと主張します。他方右派(保守)にとっては、PCは自由な議論を妨げる魔女狩りのような検閲文化の一部であるというのです。現代におけるこの言葉の議論は、学術界や教育界におけるリベラルな偏見を前提とした保守派の批判に端を発しています。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

インクルーシブ教育への疑問

注目

Last Updated on 2025年6月5日 by 成田滋

統合(インテグレーション)と「完全な包括(インクルーシブ)」には違いがあります。インテグレーションでは、障害のある子どもは、同世代の障害のない仲間たちと隣同士で学習します。合衆国では、1975年に制定された全障害児教育法(PL94-142)の下で特別な支援教育を受ける権利を認められる子どもは、1週間のうち3分の2以上を通常学級で学習することができます。子どもたちは、終日通常学級にいなければならないというわけではなく、作業療法、理学療法、言語療法などの支援を受けるために「取り出し」(pull-out)の対象になることもあります。1990年に全障害児教育法は個別障害者教育法(Individuals with Disabilities Education Act : IDEA)へと名称が変更されます。

 他方、完全な包括の下では、個別障害者教育法の対象となる子どもたちは、文字通り1日中、通常学級に在籍することになります。必要な応対は「入り込み」(pull-in) を通じて行われます。つまり、専門家が教室にやってきてそこで支援を行うのです。完全な包括ではありませんが、障害のあるほとんどの子どもたちにとって妥当な取り組みであると考えられている節があります。中には自閉症、知能障害、難聴の子ども、複合障害児などの子どもたちの中には、こうした環境では適切な教育を提供できないかもしれません。

連邦政府の教育省のエンブレム

 通常学級に在籍することは、人権の尊重であるという考えが根強くあります。高等学校まで学校は障害のあるすべての子どもたちに完全な包括を提供できるように再構築するべきであると考えるのです。連邦政府の教育省によれば、個別障害者教育法の実施に関する最新の調査では、該当する子どもの約半数がほとんどの時間を通常学級で過ごしているといわれます。ただし、障害種別に見ると、その割合は非常にばらつきがあり、言語障害の子どもの90%以上が包括的な教室に在籍しています。しかしその一方で、通常学級に通う自閉症の子どもたちは、わずか29%に留まっています。つまり、教育的対応は、子どもがどこに在籍するべきかではなく、それぞれの子どもに固有な必要性によってなされるべきであるという考え方があるからです。

 インクルーシブ教育に反対する人々もいます。特別支援学校・学級を「分離教育」と捉え、障害のない子どもと同じ教室で受けさせることが正しいとする立場への反対です。障害ない子と障がいのある子を同じ教室で教えることが正しいと考える人々を批判するのです。何でもかんでも両方を一緒に教育する、という考えには反対するのです。「多様な個性の子どもが同じ場で学び、子どもは主体的に授業に参加するのが正しい」という考えを「ポリティカル・コレクトネス的」 (politically correct)として批判するのです。次稿では、「ポリティカル・コレクトネス」という話題を取り上げます。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

インクルーシブ教育と私の経験

注目

Last Updated on 2025年6月4日 by 成田滋

今でこそインクルージョン(inclusion)やインクルーシブ教育という用語は珍しくありません。もとはといえばメインストリーミング(mainstreaming)とかインテグレーション(integration)という用語と同義に近いものです。我が国では統合教育と呼ばれました。かつて私は那覇で設立した「丘の上幼稚園」で障がいのある幼児を受け容れたことがありました。そのことで沖縄が本土復帰して2年後の1974年、当時の文部省から幼児の統合教育の実践で研究指定を受けたのです。インクルージョンの「さきがけ」だったのではないかと密かに自負しています。

 ウィスコンシン大学での研究を終えてから、国立特殊教育総合研究所に就職してからも欧米のインクルージョン実践の経緯は、逐次調べては論文にまとめていきました。アメリカの個別障害者教育法もインクルージョンを全面に押し出していました。ですが、我が国の普通学校と特殊教育諸学校の分離体制は堅固であり、インクルージョンは大分先になるように考えておりました。その間、欧米の先進的な取り組みを現地で調査したり、合衆国が発表する年次報告書などを紹介することによって、分離教育に風穴を開けることができるのではないかと考えていきました。文部省の特殊教育課長補佐と一緒にアメリカのナッシュビル(Nashville)やカナダのトロント(Toronto)などの学校を訪問しては、インクルージョンの実践を調査したものです。

No Child Left Behind Act signed.

 もう一つは、裁判事例によって保護者や親の会を味方につけることでした。1986年頃だった記憶しますが、北海道は留萌市の中学校において、新設の固定学級(特殊学級)への配属を拒否した保護者と生徒が市教を相手に訴訟を起こした事例があります。原告の保護者は、娘を通常学級で学ばせたいという要求でした。留萌市教育委員会は、「原告の主張する親の選択権は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由に認められる権利というべきであって、心身障害児をどの学級に入級させるかという教育措置については、親にこれを選択する権利はなく、当該校長の権限に属する事項である」と反論したのです。

 この裁判の経過は北海道新聞の記者から聞いておりました。記者からの電話を受けながら裁判の進行は気を揉む展開となりました。そして判決は原告の敗訴。その記者より判決内容についてコメントを求められました。そこで「生徒と保護者の意思を無視する固定学級での学びを強いるのは、時代錯誤、時代遅れの判決である」と記者に伝えました。

 その私のコメントが、文部省の役人と筑波大学のM教授のものと一緒に翌日の北海道新聞に掲載されました。もとより文部省の立場は、判決は妥当なものであるというものです。M先生のコメントは中庸な内容だったと記憶しています。それを読んだ北海道教育庁の役人が、文部省の特殊教育課に知らせたらしいのです。そして文部省から研究所にそのことで問い合わせがあったようです。翌日私は研究所の上司から呼び出されて聴取を受け、その経緯を説明させられました。「時代に逆行する判決である」と伝えたと答えました。文部省直轄機関の一研究員が「お上」に逆らったのです。その聴取では、今後は報道機関からの問い合わせには事務を通すようにという軽躁なものでした。お咎めも始末書もありませんでしたが、しばらくは蟄居を余儀なくされました。時はインクルージョンの情報がじわじわ浸透し、研究所もこの趨勢に抗うことが困難であると判断していたようです。

 2013年3月に川越市が脳性麻痺の子どもを特別支援学級で受け容れると発表しました。その顛末というのは、埼玉県教育委員会が、保護者の要求に対して、「特別支援学級では医療行為ができない、もし受け容れるとすれば保護者の同伴を要求する」というものでした。しかし、保護者は、共働きでなければ生活が成り立たないと主張します。川越市教育委員会は、すでに就学が2年も遅れている実情に鑑みて、2人の看護師をつけその子どもを受け容れるということになりました。一体、特別支援教育とはなんなのか、という問題提起をする事案でありました。

 どうも私には権威に対するアレルギーのようなものがあります。苦労して勉強してきたこと、ヤワな鍛えられ方をしてこなかったという自負と自信も強く、前例とか組織の体質には疑問を抱くのでどうしても上司とは軋轢を生みがちになるのです。保護者と子どもの側に立つのが教育の基本ですから、どのような強圧的な指導が入っても終局的にはそれを論破していくことができる自負がありました。行政というのは慣例や慣行に対して内からも外からも疑問を差し挟むことが困難な体質があります。留萌の裁判事案がそうでした。多くの学校管理者などにある「つつがなくお勤めを果たす」という内向きの姿勢が、時代の趨勢に応じて変化することを難しくしているのです。

 保護者が就学が遅れたことを理由に都道府県教育委員会を訴えるとすれば、恐らく被告は敗訴するはずです。これがもしアメリカで起こった事案とすれば教育委員会は100%、間違いなく敗訴します。それほど保護者や子ども権利は法律で保護されているのです。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

インクルーシブ教育とは

注目

Last Updated on 2025年6月3日 by 成田滋

近年日本でもよく耳にする「インクルーシブ教育」(Inclusive Education)とは一体なんでしょうか? インクルーシブ(inclusive) とは日本語で「包括的な」や「包み込む」と訳され、日本ではインクルーシブ教育は、「障がいの有無に関わらずすべての生徒が受け入れられる教育環境」という意味で用いられています。以前は「統合教育」「メインスツリーミング」という用語が使われていました。分離教育の対となる用語です。障がいのある生徒が、障がいのない生徒と同じ教室で学ぶことで得られる利点はたくさんあります。例えば次のようなものです。

 さらに、インクルーシブ教育は障がいのない生徒にも同様のメリットがあることが明らかになっています。また、私たちが理解しておかなければならないことは、インクルーシブ教育は単なる教育方法のことではなく、ある信条に支えられた「思想」とか「文化」のことを指しているのです。

 実は、インクルーシブ教育には各国共通の定義というものが存在しません。アメリカでは「最も制約の少ない環境 (Least Restrictive Environment、以下LRE)」と表現されます。他方1980年代以降インクルーシブ教育が発展したイタリアでは「すべての生徒が歓迎される環境」と定義されています。どのような定義にも、「生徒たちは彼らの障がいや特性に関わらず、学年に応じた教育が受けられるべき」であり、「教育関係者のバイアスによってそれらが阻まれるべきではない」という信条が込められています。

 アメリカの特別支援教育は、この「インクルーシブ教育の文化」がベースとなっています。このベースにより、障がいのある生徒たちは可能な限り、障がいのない生徒たちと一緒に過ごすことができるように考えられています。学校はもちろん、大学でもそうです。先日のアメリカの海軍大学の卒業式で車椅子の学生が、満場の拍手を受けて証書を貰っていました。また、日本においても、生徒や保護者に限らず学校教育に関わるすべての人々が上記の信条を共有していくことが、「インクルーシブ教育への転換」に必要な条件なのです。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

学生ビザ(F-1)取得の新規受け付けを一時停止

注目

Last Updated on 2025年6月2日 by 成田滋

アメリカの政治専門サイト「ポリティコ」(Politics, Policy, Political News: POLITICO) は5月27日、トランプ政権が各国の大使館などに対して、合衆国内の大学への留学を希望する人たちの学生ビザ(visa) 取得に向けた新規受け付けを一時停止するよう指示したと報じました。この対象となるのは、一般的な学生向けの「F-1ビザ」と語学研修などの「Jビザ」と伝えています。「面接予約の停止は追って案内があるまで続く」と発表しています。ただし、すでに受け付けた面接予約はそのまま進めてよいとしています。

 合衆国の大学は8~9月にかけて新年度が始まります。留学希望者は今の時期からビザ申請を本格化させるのです。CNNテレビは「タイミングは偶然ではない。収入を留学生に頼る多くの大学に打撃を与えるためだ」との専門家の意見が伝えられています。トランプ政権は、反ユダヤ主義的な投稿を行ったり、親パレスチナの抗議活動に参加したりした学生のビザを取り消すなど、締め付けを強めています。ルビオ(Marco A. Rubio)国務長官も「ビザは固有の権利ではなく、与えられた特典だ」と述べ、審査を厳格化する考えを表明しています。5月20日の上院公聴会では、彼は現政権発足後に300件以上の学生ビザなどを取り消したと明らかにしています。

F-1 Visa

CNNニュースによりますと、トランプ大統領は5月28日にハーヴァード大学(Harvard University) は受け入れる留学生の数に上限を設け、割合を15%程度にすべきとの考えを示しました。ホワイトハウスで記者団に「ハーヴァード大学などに進学したいアメリカの学生の中には、外国人留学生がいるために入れない者がいる」などと述べ、「留学生の受け入れ上限を設け、31%ではなく15%程度にすべき」と主張しています。ハーヴァード大学によると、2024年度の全学生に占める留学生の割合は27.2%と発表しています。

 全米の大学にいる海外留学生は110万人で、そのうち中国人留学生は27万7,000人で25%を占めます。インド人留学生の次いで2番目にあたります。トランプは、28日にハーヴァード大学の中国人留学生の受け入れ資格認定を取り消すと発表しました。トランプ政権とハーヴァード大学はこのところ対立を深めています。留学生の行動についての全記録の提出や多様性に関する監査の許可などの要求を同大学がほぼ拒否したことから、政権は報復的な措置を取っています。

 こうしたトランプ政権とハーヴァード大学などとの対立を受けてか、京都大学は5月27日、トランプ政権によるハーバード大学の留学生受け入れの停止措置を受け、同大学で学べない留学生が出る事態になった場合、学生らを受け入れる方針を明らかにしました。東京大学もハーヴァード大学で学べない留学生が出るような場合、一時的に受け入れる方向で検討していることが分かりました。「ハーヴァード大学の学生に限らず、他の大学の学生でも、国籍などに関わらず、困難な状況にある若者に学びを継続できるように貢献していきたい」とコメントしています。文部科学省がこの日、各大学に出した留学生の受け入れの検討を求める依頼を受け、「アメリカの大学に在籍する留学生を受け入れるために、具体的な検討を始めている」としています。日本学生支援機構にアメリカ留学中の学生らを対象にした相談窓口を設けることも明らかにしました。若手の研究者の受け入れについても準備を始めています。

 大阪大学も5月28日、トランプ米政権によるハーヴァード大学の留学生受け入れの停止措置などを受け、アメリカ国内での学業や研究が困難になった留学生や研究者を、一時的に受け入れる方針を発表しました。渡航に必要な手続きの支援や学費の免除など、具体的な支援策を検討しているのだそうです。同大学院医学系研究科は独自に6億~10億円の財源を確保し、国籍を問わず最大約100人の研究者を受け入れる体制を整える方針と発表しています。同医学系研究科長は「世界中から優秀な研究者が集まるアメリカでいま大変なことが起きている。素晴らしい研究が継続できないことは人類全体の損失と言える。支援は未来の学術的・国際的発展のため大切なこと。安心して最先端研究に取り組める環境を提供します。」などのコメントを発表しました。関西大学も同日、合衆国内の大学に在籍する留学生や研究者を出身国に関係なく受け入れる方針を明らかにしています。

  果たして京都大学、東京大学、大阪大学などの留学生受け入れ用意は、首尾良く展開するかは見守る必要がありそうです。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

教育省を停止または廃止できるか

注目

Last Updated on 2025年6月1日 by 成田滋

 以前、この欄で「大統領令と連邦教育省の閉鎖」という話題を取り上げました。このようにトランプ政権やその他の保守派政治家が「アメリカ連邦教育省(Department of Education)の廃止」を謳っていますが、結論からいえば大統領が単独で教育省を廃止することはできません。これは、連邦議会(Congress) の承認が必須だからです。連邦教育省は、1979年に制定された連邦法(Department of Education Organization Act)に基づいて設立されました。この法律を変更または撤廃しない限り、教育省を廃止することはできません。教育省の設立は法律に基づくものであることです。教育省を廃止するには、以下のようなプロセスが必要です。

 下院か上院の議員が教育省廃止の法案を提出をします。もし上下両院で可決されるとします。それを大統領が署名すれば廃止が決まります。しかし、議会が廃止の法案を否決するとします。それに対して大統領が拒否権を発動することも考えられます。その場合、議会が再可決することによって大統領の拒否権を覆すことができます。このことによって教育省は存続することになります。このように、教育省の廃止は立法プロセスを経なければならず、議会の多数派の支持がなければ実現は不可能です。ただし、大統領は連邦政府の予算案に影響力を持っており、教育省の予算を大幅に削ることで、機能を弱体化させるという戦略は理論的には可能です。しかしこれも、最終的には議会が予算案を承認しなければならず、やはり議会の支持が不可欠です。

 過去にも教育省の廃止が議論されたことはあります。レーガン政権と第一トランプ政権のときです。ですが実際に廃止されたことは一度もなく、政治的にも現実的ではないと広く考えられています。教育は州の権限が強い分野ではありますが、連邦政府が教育支援や規制、例えば特別支援教育、タイトルIX(Title IX)、学生ローンなどに果たす役割も多く、完全廃止は非常に困難です。

 特別支援教育の分野でに有名な立法は「障がい者教育法 (Individuals with Disabilities Education Act: DEA)」です。通称、「Public Law 94-142」といわれています。障がいのある生徒一人ひとりのニーズを満たすために特別にデザインされた教育で、無償で提供されています。次にタイトルIXとは、1972年に制定されたアメリカの連邦法で、連邦政府から財政援助を受ける教育機関における性別に基づく差別を禁止するものです。具体的には、教育プログラムや活動への参加を性別を理由に排除したり、その恩恵を拒否されたり、差別を受けたりすることを禁じています。

 連邦政府が提供する学生ローンは「Direct Loan」と呼ばれています。大学などの高等教育の学費を賄うために学生自身や保護者が借り入れるローンです。奨学金と異なり将来返済義務があります。2023年9月に新型コロナのパンデミック(pandemic)の影響を受けた学生たちを救済するため3年前にトランプ政権が始め、バイデン政権が継続してきた連邦学生ローンの返済猶予(repayment deferment)が終了しました。これにより3年間学生ローンの元金と利息の返済を猶予されてきた学生たちの返済が再開されたが、返済が出来ない学生が続出し大きなニュースとなっています。

 結論としては、トランプ大統領が教育省を廃止すると宣言しても、実現には連邦議会の承認が必要です。大統領単独では法的に廃止できません。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場