アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その43 不平等な扱いとボストン虐殺事件

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Last Updated on 2025年3月5日 by 成田滋

議会への代表権をめぐる論争での両陣営の立場は、使われている言葉にも表れています。議会主権の原則は、父権的な言葉で表現され、イギリス人は自分たちを親とし、植民地の人々を子どもと呼びました。社会の安定のためにイギリス議会の言い分を受け入れる植民地の保守主義派(Tories)も、このような用語を使いました。こうした観点から、子どもが親に反抗するのが不自然であるように、植民地の不服従は不自然なのであるという主張でした。これに対して植民地主義者たちは、権利という言葉で反論しました。彼らは、イギリス議会は植民地においては、イギリスでできないことは植民地でも何もできないのだと考えました。なぜなら、アメリカ人はイギリス人のすべての慣習法上の権利によって保護されているからであると主張します。

 植民地で開かれた1774年9月の第一回議会では、その最初の行動の一つとして、植民地にはイギリスの慣習法を適用する権利があることを確認しました。イギリスの慣習法は「コモン・ロー」(Common law)と呼ばれ、中世から国王裁判所で蓄積された判例を基に、国内の共通の法として体系化されたものです。「国王と言えども法に従うべきである」という原則に立つものです。

 ヴァジニア州のリチャード・ブランド(Richard Bland)は、1764年に発表した『罷免された大佐』(Colonel Dismounted)の中で、権利とは平等であることだと主張しました。彼は、植民地時代の不満の根源に言及しています。アメリカ人は不平等な扱いを受けており、それに憤慨しているだけでなく、自分たちの事案を自分たちで処理できなくなることを恐れていました。植民地の人々は、1761年にボストンで援助令状(writs of assistance)(基本的には一般捜査令状)が敷かれたことに法的不平等を感じます。というのはイギリスでは2つの有名な事件において「一般捜査令状」が非合法とされたからでした。タウンゼントは、1767年に植民地における援助令状を明確に合法化します。ディキンソン(Dickinson)は「農民からの手紙」 (Letters from a Farmer)の中でこの問題を取り上げています。

Boston Massacre (Wikipediaより)

 1770年初頭、ノース公爵(Lord North)が首相に就任すると、ジョージ3世(George III)はついに、自分と議会の双方に働きかけることのできる大臣を見つけます。それ以来、イギリス政府は安定を取り戻し始めます。1770年、アメリカの不輸入政策に直面し、タウンゼント関税(Townshend tariffs)は、象徴的な理由で残されていた紅茶税を除き、すべて撤廃されます。ニューイングランドの海岸線では、税関職員が地元の陪審員の支持を得られず、植民地人が反抗する事件が頻発しますが、比較的平穏な状態が戻ります。これらの事件は他の植民地からの共感は得られませんでしたが、ボストンに駐留するイギリス正規軍の増員を要求するほど深刻でした。

 最も激しい衝突は、タウンゼント税が廃止される直前にボストンで起こります。暴徒の嫌がらせに脅かされたイギリスの小隊が発砲し、5人を殺害した事件は、まもなく「ボストン虐殺事件(Boston Massacre)」として知られるようになります。兵士たちは殺人の罪に問われ、市民裁判にかけられますが、発砲した兵士8人と隊長は裁判にかけられ兵士2人が軽い罪に問われたほか全員無罪となります。ジョン・アダムス(John Adams)が被告の弁護を担当し、穏健な判決に導きます。彼は後に合衆国第二代目の大統領となります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その42 憲法上の相違

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Last Updated on 2025年3月5日 by 成田滋

 1760年代は、本国からの独立を望む植民地出身者はほとんどおらず、独立を想像することすらできませんでした。ただディキンソン(John Dickinson)は自分のエッセイの中で、明らかに苦しみながらも誠実に独立の可能性をほのめかしていました。植民地における激しい議論は、時に感情的にはなりましたが、政治機構を変えようとするものではなく、法解釈をめぐる議論でありました。植民地側の主張の核心は、イギリスの臣民として、イギリス内の臣民と同じ特権を受ける権利があるということでした。植民地人は、憲法上、自分たちの同意なしに課税されることはなく、課税を決定するイギリス議会にも代表者がいなかったため、イギリス本国の政治に同意していなかったのです。

 マサチューセッツ湾直轄植民地の法律家で政治活動家のジェームズ・オーティス(James Otis)は、2つの長い小冊子の中で、このような但し書きをつけて、すべての主権を議会に譲渡しました。しかし、議会が植民地に対する合法的な立法権を持っているかどうかについて疑問を持つ者も現れ始めます。1760年代後半には、フィラデルフィアに住むスコットランド移民の弁護士ジェームズ・ウィルソン(James Wilson)が、このテーマで小論を執筆し疑念を表明します。

Charles Townshend

 タウンゼンド諸法(Townshend round of duties)の目的は、植民地からの税収増をもって現地の総督と判事の俸給に当て、植民地のルールから総督や判事を独立させること、法の徹底による貿易統制をより効果的に推進できる体制を整えること、本国の国内法に応じようとしないニューヨーク植民地を処罰すること、本国議会が植民地に対する課税権を有するというものでした。しかし、植民地の人々は、イギリス内の臣民と同じ特権を受ける権利があることを主張し、タウンゼンド諸法に強く反対するのです。

 1770年にタウンゼント諸法(Townsend round of duties)が廃止されたため、ウィルソンはこの小論を非公開とし、1774年に新たな問題が発生した際に「英国議会の立法権の性質と範囲に関する考察」として発表します。この中で彼は、議会の合法的な主権はイギリスの海岸で止まっているのだという植民地で集めていた意見を全面的に表明していくのです。

 議会への代表権に関する植民地の訴えに対するイギリスの公式回答は次のような内容です。すなわち植民地は、投票権を持たない大多数のイギリス国民が投票権を持つ人々によって代表されているのと同じ意味で、植民地人も議会において事実上代表されているというものでした。これに対してオーティスは、イギリス国民の大多数が投票権を持っていないのであれば、彼らが投票権を持つべきだ、とからかいます。何度か提案された植民地からの議員という提案は、時間と距離の問題、そして植民地の人々にとって植民地の議員は十分な影響力を持ち得ないという理由から、解決策にはなり得ませんでした。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その41 印紙税法の廃止

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Last Updated on 2025年3月4日 by 成田滋

印紙税法の廃止に歓喜した植民地の人々は大いに喜び、大砲の音を鳴らし、宣言法は面目を保つための粉飾であるので無視しようと叫びました。しかし、ジョン・アダムス(John Adams)は、『正典と封建法に関する論文』の中で、議会がこのような権力観で武装し、再び植民地に課税しようとすることを警告します。1767年、イギリスでウィリアム・ピット(William Pitt)が率いる内閣でチャールズ・タウンゼント(Charles Townshend)が大蔵大臣に就任すると、このような懸念が起こります。問題は、イギリスの財政負担が軽減されていないことでありました。

 タウンゼントは、植民地時代の外税と内税の区別を文字通りに解釈し、鉛、ガラス、塗料、紙、家庭の主要飲料である茶など、さまざまな必需品に外税が課されていきます。その結果、植民地の人々は、イギリスは植民地を従属的な地位おこうとする長期的な展望を持っていると考えます。彼らはそれを新たな「奴隷制」と呼ぶようになります。実はグレンヴィルの政策は、慎重に検討されたパッケージとして設計されていたのでした。グレンヴィルには、いくつかの整理法案を除いて、印紙税法後に植民地に対するさらなる計画はありませんでした。グレンヴィルの後継者たちは、当初の印紙税法の延長線上ではなく、印紙税が廃止されたことを理由にさらなる措置を講じようと画策していきます。

John Dickinson (Wikipediaより)

 しかし、植民地の人々はイギリス製品の禁輸運動を行うなどして抵抗します。ペンシルベニアでは、弁護士で立法者でもあったジョン・ディキンソン(John Dickinson)が一連のエッセイを書き、1767年と1768年に『ペンシルベニアの農民からの手紙』(Letters From a Farmer in Pennsylvania)として発表し、全植民地的に名声を博し、植民地の統一した反対運動を形成する上で大きな影響を及ぼしました。イギリス議会への抗議運動になるがディキンソンは、イギリス議会が帝国全体に関わる最高権力者であることには同意しますが、植民地の内政に関する権力は否定し、植民地の忠誠心の基本は上位者への服従ではなく、対等の関係にあることを冷静にほのめかします。

 植民地人が意見で一致することは、行動で一致するよりも簡単なことでした。多くの駆け引きと交渉の末、徐々にイギリス製品に対する広範な非輸入政策が実施されるようになります。こうした際の合意形成は容易ではなく、時には非協力的な言いがかりをつけられ緊張が起こりました。また、この非輸入政策は、新たに設置された地方委員会によって執行されねばならなかったので、公務の経験があまりない地方出身者が新たな権限を持つことになります。その結果、一部の植民地では、内政干渉に対する不満の声が多く聞かれるようになります。こうした状況は、後にさらなる措置が必要となるにつれて、植民地政治の将来に影響を及ぼすことが明白となっていきます。

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