アメリカ合衆国建国の歴史 その37 新たな植民地制度

Last Updated on 2022年6月29日 by 成田滋

フランス・インディアン戦争の後、イギリス政府は、いっそう中央集権的な支配を強め、帝国全体の経費を、より公平に分散させようとします。そしてフランス系カナダ人と北米先住民の利害を考慮するような、新たな帝国の仕組みの必要性を感じていました。一方、長年にわたり高度の独立に慣れていた植民地は、自由の抑制ではなく、自由の拡大を期待していきます。また、フランスの脅威がなくなったため、植民地側は、イギリスの強力な存在は必要でなくなると考えます。こうして自治に熟達し干渉を嫌う植民地人とイギリスは対立することになります。

カナダとオハイオバレー(Ohio Valley) を治めていくために、イギリスにはフランス人と先住民族を疎外しないような政策が必要となります。しかし、イギリス政府と植民地の利害は根本的に対立し、人口が急増し、定住するための新たな土地を必要としていた植民地側は、西のミシシッピ川まで境界線を拡大する権利をイギリスに対して主張していきます。他方、部族との一連の戦争を恐れたイギリスは、もっと漸進的に土地を開拓するべきだと考えます。また、入植者の移動を制限することは、新しい植民地が形成される前に、既存の植民地に対する英国王の支配を確保する1つの手段でもありました。

ジョージ三世

1763年のイギリス国王ジョージ3世(George III)の名で発布した「国王布告」 (Royal Proclamation)により、合衆国とカナダの東部に連なる長大なアパラチア山脈の一部、アレゲーニー山脈(Allegheny Mountains)からフロリダ、ミシシッピ川、ケベックの間にまたがる西部のすべての領土が、先住民のために確保されます。これによってイギリス政府は、13の植民地による西部領土の所有請求を無効とし、西方への拡張を阻止しようとします。このイギリスの措置が、効果的に執行されることはありませんでしたが、入植者にとっては、西部の土地を占有し定住する基本的な権利を無視した高圧的な対応にほかなりませんでした。

フランス・インディアン戦争

アメリカ合衆国建国の歴史 その36 イギリスのカナダ獲得

Last Updated on 2022年6月23日 by 成田滋

帝国間の大戦でイギリスがフランスに勝利したのは、非常に大きな犠牲の上に成り立っていました。戦前は年間650万ポンド近くあったイギリス政府の支出は、戦争中は年間約1,450万ポンドに増加します。その結果、イギリスの税負担はおそらく史上最高となり、その多くは政治的に影響力のある地主階級が負担することになります。さらに、カナダという広大な領地を獲得し、諸先住部族に対しても、南と西のスペイン人に対してもイギリスの領土を保持するため、植民地の防衛費はいつまでも続くと予想されました。さらに議会は、マサチューセッツに戦費の補償として多額の資金を与えることを決議しました。そのため、イギリス世論としては、将来的な支払いの負担の一部をそれまで軽い課税と軽い統治のもとにあった植民者自身に転嫁することが合理的であると考えたのです。

アメリカ大陸と領土拡大

戦争の長期化によって、イギリス帝国に広がっていた緩んだ経済状況を強化する必要がありました。戦争の過程でそうした必要性が確認されたとすれば、戦争終結はその好機となったはずでした。カナダを獲得したことで、ロンドンの役人は、フランス占領の脅威から解放された未開拓の西方領土を維持する必要がありました。イギリスはすぐに、諸部族との関係全般を管理するようになります。1763年のイギリス王室の公布により、アパラチア山脈にイギリス植民地からの入植の限界を示す線が引かれ、その先はイギリスが任命した委員を通じて厳密に部族との貿易を行うことができるとされます。この布告は、部族の権利を尊重したものでしたが、ポンティアックを中心とする反乱の防止には間に合いませんでした。

また、ロンドンからすれば、軍隊の駐屯の少ない西部で毛皮蒐集を住民に任せることは、経済的にも商業的にも合理的でした。しかし、イギリス植民地からの入植の限界を示す布告は、2つの理由でイギリスの植民地主義者たちを困惑させます。それは、西部の土地への入植と投機の可能性に制限が設けられたこと、そして西部の支配権を植民地の人々から引き離すことだからです。植民地の野心家たちは、この公布によって自分たちの運命を左右するような権利が失われると考えます。

部族と商人

実際、イギリス政府は、西部開拓の停止が植民地の人々の恨みを買うことを大きく見くびったのです。それがアメリカ独立戦争に至る12年間の危機を引き起こした要因の一つとなります。諸部族が大陸の内陸部に自分たちのための土地を確保しようとする努力は、イギリスが勝利すれば、そのチャンスがあったかもしれません。いざ勝利したアメリカ合衆国を相手にすると部族にとっては全くの努力が報われなくなります。

アメリカ合衆国建国の歴史 その35 フランス・インディアン戦争

Last Updated on 2022年6月22日 by 成田滋

やがて先住部族とヨーロッパ人双方の対立は避けられなくなります。入植の初期には、彼らは協力することもありました。例えば、プリマス植民地の入植者をスクワント族(Squanto)が援助したり、ヴァジニア州のジョン・ロルフ(John Rolfe)がパウハタン族(Powhatan)の娘ポカホンタス(Pocahontas)と半公式結婚をしたようにです。部族は、新しい環境で生き残るための技術を入植者に教え、入植者からは金属製の道具、ヨーロッパの布地、そして特に銃器を紹介されそれらをすぐに採用していきます。

諸部族は、ヨーロッパ人の2つの利点である共通の書き言葉の利用や近代的な交換システムに対応すること慣れていなかったので、植民地の役人による諸部族からの土地の購入は、しばしば軽薄な土地の収奪になりがちでした。アメリカ先住部族と公平に接するよう特に努力したウィリアム・ペン(William Penn)とロジャー・ウィリアムス(Roger Williams)は、稀な例外的人物でした。

French and Indian War

先住部族の関与が植民地主義者に与えた影響は、特にカナダをめぐるイギリスとフランス間の争いで顕著でした。フランスは毛皮を五大湖周辺に定住するヒューロン族(Huron)に依存していましたが、ニューヨーク西部とオンタリオ南部に拠点を置くイロコイ族(Iroquois)連合はワイアンドット族(Wyandot)を制圧し、サスケハノック族(Susquehannocks)やデラウェア族といったヒューロン族の同盟者をペンシルベニア州へと追いやることに成功します。この行為により、毛皮貿易の一部がフランスのモントリオールとケベック市からイギリスの支配するオルバニー(Albany) とニューヨークに流失し、イギリスはイロコイに借りを作ることになります。

ヨーロッパと諸部族の同盟は、ルイジアナでフランスの影響を受けたチョクトー族(Choctaws)が、フロリダでスペインの支援を受けたアパラチア族(Apalachees)とジョージアでイギリスの支援を受けたチェロキー族(Cherokees)と戦う方法にも影響を及ぼします。

フランス・インディアン戦争(French and Indian War)は、植民地の人々の軍事的経験と自己の存在の自覚を強化しただけでなく、部族長であるレッド・ジャケット(Red Jacket)やジョセフ・ブラント(Joseph Brant)など、2、3カ国語を操り、ヨーロッパの競争相手との間で交渉できる指導者を輩出することになります。しかし、クライマックスのイギリスとフランス間の闘争は、諸部族にとって災いの始まりでありました。

Pontiac’s Uprising

イギリスが着実に軍事的成功を収め、カナダからフランスを追放すると、諸部族はもはや、ロンドンとパリのどちらの王を支持しても、西方への入植を抑制するという外交カードを使うことができなくなります。このことを知った部族の中には、これ以上の侵攻に対して団結して抵抗しようと考える者も出てきます。1763年、オタワの酋長ポンティアック(Pontiac)が起こした反乱(Pontiac Rebellion)がその例です。しかし、後にヨーロッパ、そしてアメリカの権力に対して先住部族が協力して挑戦したように、これだけで終わりではありませんでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その34 先住民族の反応

Last Updated on 2022年6月21日 by 成田滋

この北アメリカの支配をめぐる争いの主役は、もちろんアメリカの先住民族です。現代の歴史家は、アメリカ先住民とヨーロッパ人の出会いを、新世界の発見者が「未開人」の住む荒野を見つけるというような古いレンズで見ることはしません。その代わりに、異なる文化が相互作用し、より良い武器を持ったヨーロッパ人が最終的に現地の人々を征服する、というストーリーを描きます。しかし、その筋書きはお互いが相手から慣習や技術を取り入れるといった調和的なものではなかったのです。

Native American


イギリスは、スペインやフランスの北アメリカ植民地支配とは大きく異なっていました。南西部に広く分布するスペインの帝国は、散在する駐屯地と伝道所に依存して、先住民族を支配下におき、利用しやすいように占有することに成功しました。カナダでは、フランス人は自分たちの側の先住民族を毛皮の収集者として扱い、広大な森林を事実上所有することにしました。イギリスの植民地は、やがてその強みを発揮し、先住民族の所有地から確保した広大な土地を独占的に耕作するために、農業従事者の移住を奨励するようになります。

Native American in Colony

イギリスの植民地の役人は土地の購入から始めましたが、このような取引は、天然資源の集団または個人の「所有権」という概念そのものが異質なる先住民族にとって不利に働くものでありました。先住民族の代表者は必ずしも土地の所有者ではなかったのですが、「売買」が成立した後、先住民族は自分たちが狩猟や漁業の権利を放棄したことに驚き、入植者は先住民族の文化が認めない無条件の支配権を持つようになったのです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その33 パリ条約

Last Updated on 2022年6月20日 by 成田滋

1759年、数ヶ月にわたる散発的な戦闘の後、ジェームズ・ウルフ(James Wolfe)が率いる軍隊がモンカルム侯爵(marquis de Montcalm)の率いるフランス軍からケベック(Quebec)を奪取します。これがおそらく戦争の転機となります。1760年の秋には、イギリスはモントリオール(Montreal)を占領し、アメリカ大陸のすべてを実質的に支配することになります。イギリスが他の地域の国々を破るのにさらに2年かかったのですが、アメリカ大陸での覇権争いは決着していきます。

パリ条約よる新大陸

1763年のパリ条約(Treaty of Paris)で、イギリスはカナダ全土、東西フロリダ、アメリカ大陸のミシシッピ川以東の全領土、カリブ海のセントビンセント (St. Vincent)、トバゴ(Tobago)、ドミニカ(Dominic)を領有することになります。当時、このようなイギリスの勝利は史上最大級のものと思われました。アメリカにおけるイギリス帝国を樹立しただけでなく、領土が大きく拡大したのです。

Treaty of Paris, 1783

しかし、この戦争に勝利したことで、イギリスは帝国の最も強力な物質的接着剤のようなものを失っていきます。それは、イギリス帝国のニーズとアメリカの植民地のニーズとが異なるため、両者に深刻な対立が生じていくのです。経済的に強力になり、文化的に異なり、政治的に着実に独立しつつある植民地は、最終的にはイギリスの帝国主義に反旗を翻すことになるのです。

イギリスは北アメリカのヌーベルフランス(Nouvelle-France)と呼ばれていた地域で、東はニューファンドランド島から西のロッキー山脈まで、北はハドソン湾から南のメキシコ湾までに大半を委譲されます。さらにイギリスは、スペイン領フロリダ、西インド諸島のいくつかの島、西アフリカ海岸のセネガル植民地、インドにおけるフランス交易地に対する優越を獲得します。

アメリカ合衆国建国の歴史 その32 イギリスの勝利

Last Updated on 2022年6月17日 by 成田滋

フランスは、アメリカにおけるイギリス植民地の人口において、15対1で優っていて、フランス人は彼ら自身を保全するために十分な備えをしていました。彼らはイギリスよりもアメリカに大きな軍事組織を持っていて、その軍隊はよりよく訓練されました。彼らは先住民族との間で軍事同盟を結ぶことに成功していました。

最初の戦の遭遇はフランスが始めました。ジョージ・ワシントン(George Washington)のネセシティ砦(Fort Necessity)で、優勢なフランス軍に降伏し、モノンガヒラ川(Monongahela River)でのエドワード・ブラドック将軍(Gen. Edward Braddock)の全滅、オスウェゴ(Oswego)とウィリアム・ヘンリー砦(Fort William Henry)でのフランスの勝利は、イギリスにとって戦争が短期間で失敗したかのように見えました。しかし、こうした敗北があったにせよ、イギリス軍はアメリカへ兵員と物資の供給を増やすことができました。 1758年までに、軍隊の規模は最終的に満足できる水準に達し、イギリスはより大きな戦略を実行し始めることになります。

Fort Ticonderoga

イギリス軍は、セントローレンス(St. Lawrence)の支配権を獲得するための陸海軍と、タイコンデロガ砦(Fort Ticonderoga)を狙った大規模な陸軍を派遣してシャンプレーン湖(Lake Champlain)のフランス軍を排除する計画を持っていました。ただ、フランス軍に対するタイコンデロガ砦での最初の遠征は惨敗でした。ジェームズ・アバクロンビー将軍(

Gen. James Abercrombie

)は、軍隊が首尾良く配置される前に、15,000人のイギリス軍と植民地軍を率いてフランス軍に対して攻撃したのです。セントローレンスの鍵であるルイバーグ(Louisburg)へのイギリス軍の急襲は成功します。 1758年7月、ジェフリー・アマースト卿(Lord Jeffrey Amherst) は海軍の攻撃を主導し、彼の兵隊は小さな舟艇で海岸に上陸し海岸堡を確立し、ルイバーグの砦を占領しました。

イギリスは土地を開拓し農業を行う農業植民であったのに対し、フランスの北米植民地では先住民との毛皮交易が当初の目的でした。フランス人の支配は、交易路となる河川の「線」や、交易所、宣教師の基地、軍事要塞など「点」が中心でした。農地を広げ面的支配を意図するイギリス人はフランス人を圧倒していきました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その31 イギリスとフランスの角逐

Last Updated on 2022年6月15日 by 成田滋

アメリカの植民地は、多くの点でヨーロッパの国々から隔離されていましたが、それにもかかわらず、海外からの外交的および軍事的圧力に絶えず晒されていました。特に、スペインとフランスは常に近くにあり、アメリカ本土での商業的および領土的利権を増やすために、アメリカにおけるイギリスの弱さの兆候を利用するのを待っていました。

帝国間の第一次世界大戦、またはアメリカ人に知られているフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)は、この世紀におけるヨーロッパの主要国間の戦争のもう一つのラウンドでした。最初はウィリアム王戦争(King William’s War)(1689–97年)、次にアン女王戦争(Queen Anne’s War)(1702–13年)、そして後にジョージ王戦争(King George’s War)(1744–48年)で、イギリス人とフランス人は戦いました。先住民族の支配、アメリカ大陸の北にある領土の所有、北西部の貿易へのアクセス、西インド諸島の商業的優位性のためです。

ジャンヌ・ダルク

両国間の争いでは、フランスはスペインに助けられていました。スペインは、イギリスの植民地のすぐ南と西、およびカリブ海に独自の領土を持っていたため、イギリスの拡大を制限するためにフランスと協力することが自分たちの利益であることに気づきました。こうした争いの集大成は、1754年にヨーロッパの大戦で起こりました。アメリカでのイギリスとフランスの間の長い争いは、主にアメリカ大陸という地方の問題であり、アメリカの入植者がイギリスのために戦ってはいましたが、帝国同士の大戦では、アメリカへはイギリス軍のかなりの支援がありました。ウィリアム・ピット(William Pitt)の下でのイギリスの戦略は、彼らの同盟国であるプロイセンをヨーロッパでの戦闘の矢面に立たせることで、それによってイギリスがアメリカに軍隊を集中させるというものでした。

King George’s War

アメリカ合衆国建国の歴史 その30 信仰復興運動(リバイバル)

Last Updated on 2022年6月14日 by 成田滋

「信仰復興運動」とか「大覚醒運動」(Great Awakening)として総称される一連の宗教的リバイバルは、1730年代と40年代に植民地を席巻します。その衝撃は、1720年代にオランダ改革派教会の牧師であるセオドア・フレリングハイゼン(Theodore Frelinghuysen)が説教を始めた中部の植民地で最初に起こります。

1730年代初頭のニューイングランドでは、おそらく18世紀で最も学識のある神学者のジョナサン・エドワーズ(Jonathan Edwards)らが、宗教的な熱狂という大衆伝道にかかわっていました。1740年代後半までに、大衆伝道は南部植民地にまで拡大し、サミュエル・デイヴィス(Samuel Davies)やジョージ・ホワイトフィールド(George Whitefield)などの巡回説教者が、特に地方の田舎で大きな影響力を及ぼしました。

Jonathan Edwards

信仰復興運動は、社会の世俗化の進展や、アメリカ社会の主要な教会の商業主義、唯物論的性質に対する反発を示しています。改心を救いの道の第一歩とし、自分の罪深さを認めたすべての人に改宗の経験を味わわせるのです。大覚醒運動の指導者は、意図的に、あるいは無意識のうちに、カルヴァン主義(Calvinism)の神学を大衆的なものとしていきました。カルヴァン主義とは、すべての上にある神の主権を強調する神学体系、およびクリスチャン生活の実践の教えのことです。

信仰復興運動の説教者の多くのテクニックは、人間の罪深い生活の結果への恐れと神の全能性への敬意を聴衆に鼓舞することでした。神の凶暴さという感覚によって、世俗性の拒絶と信仰への復帰が恵みをもたらし、怒る神からの恐ろしい罰から逃れることができる、という目に見えない約束によって人々は慰められることを強調しました。

しかし、信仰復興運動がうたう神学の考え方には、ある矛盾した性質がありました。信仰復興運動のほとんどの指導者はカルヴァン主義神学の主要な信条の一つである予定説(Predestination)を強調しました。この予定説は、人間が自発的な信仰の行為によって自身の努力によって救いを達成することができるという教義とは決定的に対立するものでした。

Evangelist Billy Graham

さらに、完全な信仰への復帰と神の全能性の強調は、啓蒙思想(Enlightenment thought)とは対立する考え方でした。啓蒙思想は、信仰についての大きな疑問を呈するとともに、人間の日常の営為における神の役割は少ないということを主張するものでした。他方、アメリカの信仰復興運動の主要人物の一人であるエドワーズは宗教を合理的に理解しようとして、ジョン・ロック(John Locke)やアイザック・ニュートン(Isaac Newton)などの考えを明確に援用しました。

ここで重要なのは、信仰復興運動によって促進された福音主義の宗教的礼拝のスタイルが、疑問視された教会の宗派の多く、特にバプテスト派とメソジスト派の宗教的教義をアメリカ国民へより理解しやすくするのに役立ったことです。教会の会員数の拡大は、黒人だけでなくヨーロッパ系の人々にも拡大し、福音派プロテスタントの典礼形式は、アフリカやアメリカで行われるの宗教的礼拝の合同(syncretism)を促進することになりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その29 ドイツからの移民と再洗礼派

Last Updated on 2022年6月10日 by 成田滋

アメリカのプロテスタントも移民によって多様化していきます。 18世紀初頭に数千人のドイツ人が到着したことで、特にペンシルベニア州西部に、メノナイト(Mennonites)、モラヴィア兄弟(Moravians)、シュウェンクフェルダース (Schwenkfelders)などが実践したドイツの敬虔主義(German pietism)がもたらされました。

新たに再洗礼派(Anabaptists)の教徒もドイツの州から到着し、新しい土地にバプテスト教会の基盤を広げます。 1687年以降に新たな迫害から逃れたフランスのユグノー(Huguenots)は、パッチワークキルトのようなアメリカのキリスト教会にカルヴァン主義(Calvinism)というブランドを加えていきます。ただ、ユグノーは、1650年代にすでにアメリカ大陸に到来していました。

Huldrych Zwingli

ユダヤ人は1654年に当時のオランダのニューアムステルダムに到着し、オランダ西インド会社(Dutch West India Company)から亡命を許可されました。ピーター・ストイフェサント(Peter Stuyvesant)知事は、クエーカー教徒、ルター派、および「教皇主義者」に対する寛大さの前例になると杞憂していました。1763年までに、ユダヤの会堂(synagogues)はニューヨーク、フィラデルフィア、ニューポート(New Port)、ロードアイランド (Rhode Island)、サバンナ(Savannah)、およびユダヤ人の商人の小さなコミュニティが存在する港湾都市に設立されていきました。

Georgetown University and John Caroll

Ulrich Zwingli

1740年代のアメリカ植民地における宗教生活は、すでに独特の色彩を帯びていました。物質的な繁栄が進むと建国当時の苦労が薄れてゆき、当初の熱意は冷めていきます。こうした中で、信仰への揺り戻しが起こります。これがリバイバル(Revival)と呼ばれる信仰覚醒運動です。

アメリカ合衆国建国の歴史 その28 教会の多様性と教派の誕生

Last Updated on 2022年6月9日 by 成田滋

マサチューセッツの植民地が開かれた最初の数年間は、教義をどのように解釈するかについての清教徒の意見の不一致が起こり、分裂、亡命、そして新しい植民地の設立につながっていきました。ロードアイランドやコネチカットのように、清教徒主義に反対する人々が近隣の「荒野」の地に移動して新たに始めることができたのはアメリカだけでした。このような経験は最初から宗教の多様性を奨励することになりました。霊的体験を重んじるクエーカー教徒とか「魔女(witches)」と呼ばれたような人々を罰するという厳しい慣習は、17世紀の終わりまでにはなくなりました。

John Carroll

寛容は成長の遅い植物のようなものでしたが、植民地時代の早い段階で、寛容という種をまきがなされました。メリーランド州の創設者であり、生まれつきのカトリックカルバート家(Calvert family)は、1649年の寛容法(Toleration Act)にそって、教区民や他の非聖公会教徒に自由を拡大しました。ローマカトリック教会も設立され、その教勢を伸ばしていきます。カトリック教会で最初の「アメリカ人」の司教(Bishop)となったのがジョン・キャロル(John Carroll)でした。キャロルは教育の発展にも貢献します。高等教育を推進していくのです。

Georgetown University and John Caroll

19世紀にななると、ドイツ、アイルランド、イタリア、ポーランドからの大幅な移民がやってきて、アメリカのカトリックは独自は「メルティングポット(melting pot)」となっていきます。ペンシルベニア州は、ウィリアム・ペンのクエーカー教徒の信仰を共有する抑圧された人々のコミュニティではなく、一般的な兄弟愛のモデルとなる「連邦(commonwealth)」となります。ジョージアは、ラム酒と奴隷制の両方を禁止し、債務者に再度の機会を与えるという理想主義的で宗教的な考えで設立されましたが、どちらの禁止も長くは続きませんでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その27 教会の世俗化と民主化

Last Updated on 2022年6月8日 by 成田滋

アメリカ人の良心を形成する上で、宗教が果たした役割は、時には誇張されがちですが、今も重要ことといえます。植民地時代の最初の世紀において、集落が形成されたニューイングランドでは強く宗教が影響を及ぼしました。教会は少しずつ世俗化され民主化されていき、植民地発展の強い原動力となりました。ピルグリムファーザーズ(Pilgrim Fathers)が1620年にメイフラワー・コンパクト(Mayflower Compact)に署名し、「市民団体の政治」を決意し、はっきりと宗教的繋がりを政治的コミュニティの基盤にしました。しかし、もともと乗客リストにはライデン分離主義者(Leiden Separatist)の非会員、つまり「変わり者」と言われた人々がいて、1691年にマサチューセッツに吸収されるまでプリマス植民地での権利の着実な拡大を求めていました。

John Winthrop

清教徒は、ジョン・ウィンスロップ(John Winthrop) がコミュニティ設立の際の説教で、コミュニティを「キリスト教の慈善のモデル」、「丘の上の都市」と呼んで地上における天国にしようとしました。このテーマは、さまざまな形でアメリカの歴史の隅々にいきわたっています。マサチューセッツ州における清教徒主義という伝統的なイメージは、抑圧的で権威的なものですが、見落とされているのは、ウィンスロップと彼の信奉者の間で共有された愛と信仰によって結ばれるべきであるというコンセンサスです。皆が同意したことは正しいというのです。それは信者の間で自らが選んだ神政体制ともいうべきものでした。

しかし、神政的モデルは、参政権が認められていなかった教会の非会員には適用されず、会員を維持する上ですぐに問題が発生しました。自分たちに救いをもたらす「回心」という個人的な経験をした人だけが、教会の正会員になり、子どもたちに洗礼を授けることができました。しかし、第一世代が亡くなったとき、それらの子でもたちの多くは、回心を個人的に証することができなかったので、自分の子孫だけを教会に連れていくだけでした。

Anabaptist immersion

非会員は、最終的に1662年のハーフウェイ誓約(Half-Way Covenant)によって礼拝に出席することを許可されましたが、メンバーシップとしての完全な権利を享受していませんでした。そのような明らかな神学的な屁理屈は、コロニーが拡大し分散することを示しています。会衆がさまざまな町に広がり、他の信仰の崇拝者を呼び込み続けていくにつれ、清教徒の教義の硬直性は、風によって曲がるような有様となりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その25 植民地における文化的媒体

Last Updated on 2022年6月7日 by 成田滋

科学以外の分野でのアメリカの文化的成果は、それほど目覚ましくはありませんでした。アメリカ文学では、少なくとも伝統的なヨーロッパの形式のものはほとんど存在していませんでした。文学で最も重要なものは、フィクションでも形而上学でもありませんでしたが、ロバート・ビバリー(Robert Beverley)の著作による「歴史とヴァジニア州の現在の状態」やウィリアム・バード(William Byrd)の「分岐点の歴史」です。こうした書物は1841年まで公開されませんでした。

Robert Beverley

アメリカで最も重要な文化的媒体は、書物ではなく新聞でした。高額な印刷の費用では、最も重要なニュースを除いて書物での伝達は無理でした。したがって、求人広告や作物価格の報告などのより重要な情報が優先され、地元のゴシップや広範な投機的ニュースは後回しとなりました。新聞の次に、年鑑(almanacs) はアメリカで最も人気のある文学形式であり、1739年に刊行されたベンジャミン・フランクリンの「貧しいリチャード」は、この種の範疇で最も有名になりました。 1741年になって、フランクリンのGeneral Magazineが発行され、文芸雑誌がアメリカで始めて登場しました。しかし、18世紀のこうした雑誌のほとんどは購読者を引き付けることができず、わずか数年の発行でほぼすべて廃刊となりました。ワシントンD.C.にある議会図書館(Library of Congress)には、貴重な雑誌として貯蔵されています。

Library of Congress

南部植民地、特にチャールストンは、他の地域よりも住民のための立派な劇場を設立することに関心を持っているようでした。しかし、どの植民地でもヨーロッパの優れた劇場には追いついていませんでした。 ニューイングランドでは、ピューリタンの影響が演劇活動を広げる障害となり、国際的な都市となったフィラデルフィアでさえ、クエーカー教徒によって長い間、舞台芸術の発展が阻害されていました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その24 植民地における文化や科学の発展

Last Updated on 2022年6月4日 by 成田滋

17世紀から18世紀にかけてのアメリカの知的文化の発展は、ヨーロッパ諸国のそれと劣ることはありませんでしたが、明らかに異なる特徴もありました。野蛮な方法で土地を収奪するという問題に直面はしましたが、アメリカ人を最も興奮させたのは科学の応用技術でした。科学によって周囲の現象を説明し、それによって現象を利用する方法を見つけていくことでした。この科学的思考は市民社会の問題を解決することができますが、植民地時代のアメリカでは、多くの場合、政治や哲学においてではなく科学技術の応用に重点がおかれてきました。

John Bartram

アメリカが生んだ科学の天才は、ペンシルベニア州出身のジョン・バートラム(John Bartram)でした。彼は、新大陸で重要な植物データを収集し分類します。 1744年に設立されたアメリカ人文科学協会(American Philosophical Society)は、アメリカの優れた学術団体として知られていました。アメリカで最初のプラネタリウムを建設した天文学者はデビッド・リッテンハウス(David Rittenhouse)でした。ニューヨーク州副知事のカドウォールーダー・コールデン(Cadwallader Colden)は、植物学者および人類学者としての業績が、おそらく政治家としての業績を上回っていました。社会改革の多くの分野のパイオニアであり、植民地時代のアメリカの物理学者の第一人者の一人であるベンジャミン・ラッシュ(Benjamin Rush)は、人文科学協会の有力な会員の1人でした。人文科学協会の創設者の一人にベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)がいました。

Benjamin Franklin

彼は、電気の流れに関する実験で主要な理論的進歩を発表した数少ない科学者の一人となりました。他に効率的なストーブの製造とか避雷針の開発などの応用研究でも知られています

アメリカ合衆国建国の歴史 その23 自給から「居座り」へ

Last Updated on 2022年6月3日 by 成田滋

ニューイングランドの気候と地形の厳しさの中で、人々の経済的自立への道は貿易、船舶、漁業、または手工業へと向かいました。しかし、キリスト教に関連した第一世代の宗教的な入植者が亡くなると、個人経営による自給農業への渇望はますます強くなりました。その過程で、タウンシップによる土地の共同所有は、小さく割り当てられた家族の庭や、中世のコミュニティのスタイルである一般的な放牧地と果樹園を経営しながら、徐々にフェンスで囲んだ農場を持つようになりました。

利用可能な土地が提供され、それによって自分の生き方を求めることは魅力的なことでした。土地の所有という特権が市民に与えられたため、革命が始まる直前になると、非常に多くの男性入植者が選挙権を獲得していきました。

Sooners

奴隷制はタバコなどの作物の大規模栽培の屋台骨となり、南部植民地で最も堅固に根づいていきました。同時に、小さな面積の土地しか持たない白人もそれらのコロニーに住んでいました。さらに、小規模な奴隷制が北部に移植され、黒人は主に家事労働や未熟練労働に就くことになりました。アメリカでは自由と奴隷制の境界線はまだはっきりと描かれていませんでした。

抜け駆けする開拓者

不安定ながら、土地を取得するための一つの方法は、単に「居座る」ことでした。 入植地の西端では、植民地の管理者は、海岸郡の所有者に役に立つ不法占拠者を警察の権限を使用して追放することはできませんでした。 不法占拠者は、自分たちを無法者と見なすどころか、大きな危険と困難を伴う新しい土地を開拓するための仕事をしていると信じていました。こうして土地に居座ることは、アメリカの初期の歴史を通して西部開拓の恒常的な姿となりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その22 土地、労働力、独立

Last Updated on 2022年6月2日 by 成田滋

20世紀初期の歴史学者、フレデリック・ターナー(Frederick Turner)は、彼が1893年に著した「フロンティア・テーゼ」(Frontier Thesis)で、「アメリカの民主主義は自由な土地の豊富さの結果である」と主張しています。この主張は、長年真剣に討議され修正はされてきましたが、豊富な処女地開拓や労働者の不足が原因で、初期の植民地時代おける法制や制約が緩和されていたということがターナーの主張です。イギリスの新世界における「プランテーション」の成功への最も簡単な道が、輸出作物の栽培にあることが明らかになると、農業労働に対する絶え間ない需要が生まれ、奴隷制を除いて、厳格な階層的な社会秩序が危うくなることになります。

Frederick Turner

すべての植民地では、国王、所有者、または公認企業によって直接統治されているかどうかにかかわらず、入植者を引き付けることが不可欠でした。知事が最も豊富に提供したのは土地で、そのため時には数百以上の宗教的なコミュニティに多額の助成金が交付されていきます。時には、連れてきた家族ごとに非常に「頭割の権利」という文字通り一人当たりシステムで裕福な男性に土地が割り当てられました。イギリス人や他のヨーロッパ人は農場を完全に購入する手段を持っていなかったので、大規模な土地を与えられた者とって、農場の単純な売却は賃貸よりも一般的ではありませんでした。

しかし、個人事業主によって必要な道が整備され、それが労働力の移動を容易にしました。年季奉公として知られている契約労働の仕組みもありました。その下で、不謹慎な新移住者は、通常は7年間の土地所有者とのサービス期間でサインし、大西洋を渡って連れてきた船長への乗船賃の返済の見返りに彼を働かせるのでした。そのような移民は「購われた者」(redemptioners)と呼ばれていました。

John Punch

契約期間が終わりになると、年季奉公は多くの場合、まだ未開拓の地域にある50エーカー以上の土地の所有権である「自由会費」で植民地自体から報われることになります。この幾分聖書に書かれてあるような移民の前資本主義システムは、熟練労働者の供給に追加された経済的および社会的ツールである見習いとか徒弟のようなものでした。見習い制度とは、使用人が思春期前の少年を職人になるように「縛り付け」、自分の家に連れて行き、そこで代理親として少年に技術を教えることでした。 女の子は、将来母親となるように「家政婦」とされました。年季奉公と見習いを監督するのが使用人の任務でありました。使用人によって寛大であるか、厳しいかは異なりました。労働が厳しいときは、逃亡する逃亡するのが一般的でした。厳しい雇い主が多かったのは間違いありません。

ヴァジニアに連れて来られた最初のアフリカ人などは、年季奉公として働いていたようです。 1640年代に植民地で最初の黒人奴隷となったジョン・パンチ(John Punch)のことです。パンチは二人の仲間とともにメリーランドに逃亡しますが、捕らえられ裁判にかけられます。彼らは極めて異なる判決を受けます。パンチは終身の奴隷となり、他の二人は期限付きの年季奉公という判決となりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その21 経済的な発展

Last Updated on 2022年6月1日 by 成田滋

アメリカ各地は、次第に自給農業に依存することが少なくなり、世界市場向けの製品の栽培と製造に依存するようになります。当初は個人のニーズにしか対応していなかった土地が、経済活動の基本的な源泉となりました。独立した土地所有の農民は、特にニューイングランドと中部植民地に多くいましたが、1750年までに開拓された土地のほとんどは、換金作物(cash crop)の栽培へと転換していきます。ニューイングランドはその土地を輸出用の肉製品の生産のために利用していきます。中部植民地は穀物の主要な生産地でした。1700年までに、フィラデルフィア(Philadelphia) は年間9,450トンを超える小麦と18,000トン以上の小麦粉を輸出しました。もちろん、南部植民地は換金作物の栽培へと密接につながります。

South Carolina

サウスカロライナは、イギリスからの補助金によって、米と藍の生産に目を向けました。ノースカロライナはサウスカロライナほど市場経済を志向していませんでしたが、それでもなお、海軍物資の主要な供給地となりました。ヴァジニア州とメリーランド州は、次第にタバコの生産とそれを購入するロンドンの商人による経済的依存度を高めていきます。多くの場合、土地の一部を小麦の栽培に転用することで農業を多様化しようとした農民は無視されていきます。商人は世界のタバコの価格を完全に握るのですが、それがやがては無残な結果となります。18世紀の間、ヴァジニア州とメリーランド州の土壌は、合理的な単作システムと相まってタバコを収益性の高いものとし、十分な生産性を維持しました。

UNC-Chapelhill

アメリカが自給農業から商業農業へと進化するにつれて、影響力のある商業階層がほぼすべての植民地でその存在を高めました。ボストンはニューイングランドのエリート商人の中心地であり、経済社会を支配しただけでなく、社会的および政治的権力を発揮しました。ニューヨークのジェームズ・デ・ランシー(James De Lancey)やフィリップ・リビングストン(Philip Livingston)、フィラデルフィアのジョセフ・ギャロウェイ(Joseph Galloway)、ロバート・モリス(Robert Morris)、トーマス・ウォートン(Thomas Wharton)などの商人は、職業の範囲をはるかに超えた影響力を発揮しました。

チャールストンでは、ピンクニー(Pinckney)、ラトレッジ(Rutledge)、およびローンズ(Lowndes)の各家が、その港を通過する貿易の多くを支配していきました。強力な商人階級が存在しなかったヴァジニア州でさえ、経済的および政治的権力を持っていたのは、商人と農民の職業を最もよく組み合わさった商業農民でした。こうしてコロニーは、その商業的重要性が高まっていきます。 1700年から10年間に、植民地から毎年約265,000ポンドがイギリスに輸出され、アメリカはイギリスからほぼ同じ量を輸入しました。1760年から1770年の10年間で、その数字は、イギリスに毎年輸出される商品の1,000,000ポンド以上、イギリスから毎年輸入される1,760,000ポンドにまで上昇しました。