懐かしのキネマ その39 【十二人の怒れる男】

Last Updated on 2024年12月31日 by 成田滋

父親殺しの罪に問われた16歳の少年の裁判で、陪審員(Jurists)が評決に達するまで一室で議論する様子を描いた作品「十二人の怒れる男」(Twelve Angry Men)を紹介します。地味な作品ですが、陪審員の評決に至る微妙な心情の変化を追求した名作です。この映画の舞台は陪審員室です。部屋には陪審員の12人の男たちだけです。

全陪審員一致で有罪とすれば、当然被告の死刑が待っています。法廷に提出された証拠や証言は少年に圧倒的に不利なものであり、陪審員の大半は少年の有罪を確信していました。ところが、ただ一人の陪審員だけが検察の立証に疑念を抱き、他の陪審員たちに固定観念に囚われずに証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを提案します。

陪審員の性格、信条、職業はばらばらです。率直で礼儀正しいが仲間意識を好む陪審員長、鋭い知性を持ち思慮深い者、型にはまった思考を持つ控えめな者、騒々しく興奮しやすく息子との関係に問題を抱える者、雄弁な自信家、冷静沈着で論理的に意見を者、自己中心的な威張り屋、冗談好きで野球の試合に間に合うことばかり考えている者、人種差別な側面を持つ者、自分の鋭い意見を持ち合わせていない者、知的な紳士だが気難しさを持つ者、裁判に真剣に取り組む気がない者などが陪審員として選ばれたのです。

映画の見所は、有罪だと信じ込んでいた11名の陪審員が無罪へと傾く心理的な変容です。一人の陪審員の疑問の喚起と熱意によって、少年の有罪を信じきっていた陪審員たちの心に徐々に変化が起こり、一人、また一人と無罪へと傾いていくのです。息子との関係に問題を抱えていて、被告の少年の有罪を頭から信じていた最後の一人が、遂に無罪を認めるのです。

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懐かしのキネマ その25 【用心棒】

Last Updated on 2021年5月29日 by 成田滋

マカロニ・ウェスタン「荒野の用心棒」 (A Fistful of Dollars) の元祖が1961年に製作された【用心棒】です。監督の黒澤明は「映画の楽しさ、面白さを思い切り出したものにしたかった。それをただ一気に、面白ろがらせておしまいまで見せてしまう。その徹底的な楽しさだけを追求してゆく作品、それもまた映画なのだと思いました」と述懐しています。【用心棒】には、剣豪のハードボイルド的な浪人、桑畑三十郎を登場させています。侍には「武士に二言はない」といった倫理のようなものがあります。しかし、この映画は侍ずくめの行動を強調し、人情とか仁義など心理的な側面を深追いしません。

冒頭で犬が無邪気に手首をくわえて走り去ります。木枯らしに舞う落ち葉、舞台は宿場町です。かっこいいマリンバが響きます。二大勢力の縄張り争いに明け暮れ、すっかり荒れ果てた小さな宿場町。そこに流れてきたのが豪腕の三十郎です。三十郎は用心棒となりますが、嫌気をさして両派を煙に巻き同士討ちを企てます。

セットに大量の砂を撒き、軽飛行機のプロペラ1基を含む扇風機を総動員して風を起こし荒れ果てた姿を演出します。刀の斬殺音を取り入れ、10秒で10人を切ってしまう素早い立ち回りです。それまでの時代劇に象徴される歌舞伎的な立ち回りではなく、残酷な描写も取り入れリアルな殺陣を追求した作品です。撮影には望遠レンズを多用し、遠近法を駆使して、殺陣の迫力やスピードを効果的に見せています。三船俊郎と仲代達也が競演しています。

懐かしのキネマ その37 映画と「デロリアン」

Last Updated on 2021年5月27日 by 成田滋

前回、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に触れました。この作品で登場したのがタイムマシンの車、デロリアン(DeLorean)です。1975年10月に、当時ゼネラルモーターズ(General Motors: GM)の副社長であったジョン・デロリアン(John DeLorean)が、理想の車を作るためと宣言してGMを辞職し、自らの名前を付与してデロリアン・モーター・カンパニー(Delorean Motor Company : DMC)という会社を設立します。本社はミシガン州(Michigan)デトロイト(Detroit)に、製造工場は北アイルランド(Ireland)のベルファスト(Belfast)におきます。

デロリアンが発表した車のモデル名は「DMC-12」といって、従来の車のデザインにはない2ドアを上下で開閉し、外部全体を無塗装ステンレスで覆うという奇抜なものです。初代のDeLoreanは8気筒で、6,500台ほどが販売されます。しかし、当時としては破格のデザインと67,000ドルという値段で、前宣伝の効果にも関わらず売れ行きがしぼんでいきます。デロリアンはやがて破産し、麻薬売買の疑いもかけられ倒産し生産が停止します。

デザインの希少性と生産終了後に大当たりとなった映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のお陰で、DeLoreanは、1980年代には、自動車マニアのコレクション対象であるカルトカー(cult car)となります。日本では、愛知県長久手市にあるトヨタ博物館で見学することができます。私も一度この車をアメリカで見たことがあります。

懐かしのキネマ その36 ハリウッドと映画 その2 五大映画製作会社

Last Updated on 2021年5月26日 by 成田滋

ハリウッドの歴史はアメリカの歴史そのもののような感があります。その発展を少し辿ってみます。第一次大戦のヨーロッパでは、ほとんどの国が映画製作を中止します。他方、アメリカ映画は対戦中のアメリカ資本主義の成長に劣らない勢いで膨張し発展していきます。当時、世界中の映画の80%以上がアメリカ映画だといわれます。1920年代には、ヨーロッパから才能ある監督、作曲家、俳優、技術者がアメリカに移り住んできます。こうした才能のある人々の活躍を反映してか、1920年代の末には、ハリウッドで製作されるアメリカ映画は世界映画市場の90%を占めるようになります。

ハリウッドの繁栄を評して、ハリウッドは最もアメリカ的なものの1つとなったといわれます。それを冷ややかな目で眺めていた識者もいます。例えばハリウッドを指して「蜃気楼の街」とか「夢の工場」という人々いました。次々に映画が作られる様を指摘して「まるでソーセージを生産するような所」と揶揄する人もいました。こうした批評は、映画製作の隆盛に皮肉と羨望が混じり合ったものだったろうと察せられます。

「ハリウッド映画」で、『ワーナー・ブラザース・エンターテイメント(Warner Brothers Entertainment)』や『ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ(Walt Disney Pictures)』をはじめとする6社の有名な映画制作会社が拠点を置いており、世界の娯楽産業に多大な影響力をもたらしています。その他の映画会社として『20世紀スタジオ(Twenty Century Studios)』、『ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント(Sony Pictures Entertainment)』、『パラマウント映画(Paramount Pictures Corporation)』、そして『ユニバーサル・シティ・スタジオ( Universal City Studios)』が知られています。

ウォルト・ディズニー(Walt Disney)とロイ・ディズニー(Roy Disney)は創業以来、多くの傑作アニメーション映画を生み出します。1940年の『ファンタジア(Fantasia )』や『眠れる森の美女(Sleeping Beauty)』、『アナと雪の女王(Frozen)』などを製作し、1990年代に黄金期を迎えます。ワーナー・ブラザースといえば、最近では『ハリー・ポッター(Harry Potter)』シリーズが知られています。20世紀スタジオの名作といえば、『ダイハード(Die Hard)』や『プレデター(Predator)』、『エイリアン(Alien)』といった作品です。ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントは、コロンビア映画 Columbia Pictures Industries)を傘下におき、『スパイダーマン(Spider Man)』や『パイレーツ・オブ・カリビアン(Pirates of the Caribbean)』、パラマウント映画では『ミッション:インポッシブル(Mission Impossible)」、ユニバーサル・スタジオからは『ジュラシック・パーク(Jurassic Park)』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー(Back to the Future)』などが制作されます。いずれも娯楽映画の代表作品です。

懐かしのキネマ その35 ハリウッドと映画会社 その1 なぜロスアンジェルスへ

Last Updated on 2021年5月25日 by 成田滋

ハリウッド(hollywood)といえば、映画産業の中心地とかアメリカ映画を指す代名詞です。カリフォルニア州のロサンゼルス市(Los Angels)にあります。hollyとはヒイラギ、柊という意味ですが、もともとはイチジクの果樹園だったそうです。20世紀の初頭までは、映画製作の中心地はニューヨーク州(New York)マンハッタン島(Manhattan)の北部にあるフォート・リー(Fort Lee) とイリノイ州(Illinois) のシカゴ(Chicago)でありました。ですが、映画会社は東海岸から西海岸へと移っていきます。

映画会社が東海岸から西海岸へ移った第一の理由は、東海岸やシカゴの中西部は天候に恵まれず撮影時期が限られていました。しかも当時のフィルム感度は悪く、屋外のような明るい場所でしか撮影できなかったのです。天候に左右される映画撮影は問題でした。そのため、映画会社は、地中海性気候でまばゆい太陽が輝くカリフォルニア州(West Coast)に次々に移っていきます。そこで選ばれたのがロサンゼルスです。映画製作のために、大都会はもとより雪を抱く山脈、荒涼とした砂漠にいたる自然条件に恵まれていたのです。

第二の理由は、ロサンゼルスは労働者の組合が存在していない所でした。労働力は常に過剰気味で賃金水準はニューヨークの半分くらいでした。会社は映画製作に必要なコストを節約し、技術的な条件も克服していきます。安い労働力が経営者には魅力だったのです。

第三の理由は、人種差別が微妙に影響しています。当時アメリカの支配層といわれたのは、「ワスプ」(WASP: White Anglo-Saxon Protestants) という、社会、文化、政治など諸分野を寡占していた富裕層でした。白人エリート支配の保守派を指すのがワスプでした。アメリカの保守とはワスプという構図で成り立っていたのです。イタリア系やユダヤ系などの出自を表に出しては、スターにはなれなかった時代です。しかし、西海岸は人種のるつぼであり、誰もが成功者になれる風土を醸していたのです。こうしてハリウッドは、自然、労働力、多民族という3つの条件によって映画産業が発展していくのです。それと共に他の産業も経済も大いに発展していくのがカリフォルニアです。

懐かしのキネマ その34 歌手で俳優の共演

Last Updated on 2021年5月24日 by 成田滋

1959年に製作された西部劇に【リオ・ブラボー】(Rio Bravo)があります。メキシコとの国境に近いテキサス(Texas)の町で保安官のチャンス(Chance)(ジョン・ウェイン: John Wayne)は、殺人犯の身柄を確保します。このあたりの勢力家で殺人犯の兄が、保安官に弟の身柄を移動させないよう部下に命じて駅馬車の車輪を壊し街を封鎖します。チャンスは連邦保安官が来るまで、わずかな味方とともに殺人犯一味と戦うことになります。

チャンスの部下とは、以前は早撃ちながら、アルコール依存症の保安官補デュード(Dudo)、片脚が不自由で毒舌な年寄りの牢屋番スタンピー(Stumpy)、幌馬車の護衛としてやってきた早撃ちの若者コロラド(Colorado) です。コロラドは狙撃された隊長の仇討ちでチャンスに加勢するのです。女賭博師で踊り子のフェザーズ(Feathers)はやがてチャンスの正義感にほだされて恋心を抱いていきます。リオ・ブラボー

【リオ・ブラボー】に二人の歌手が出演しています。ディーン・マーティン(Dean Martin)とリッキー・ネルソン(Ricky Nelson) です。マーティンは人気絶大な歌手、ネルソンは、ロックンロール歌手でした。保安官事務所で連邦保安官の到着を待ちながら、二人で「ライフルと愛馬」(My Rifle, My Pony and Me) を歌うシーンがあります。これは替え歌ではなく、正真正銘の二人の歌声です。さらに孤立した保安官事務所に流れてくるのが、敵が一晩中トランペットで流す「皆殺しの歌」(DE GUELLO)です。この2曲を作ったのはディミトリ・ティオムキン (Dimitri Tiomkin) です。ロシアのサンクトペテルブルク音楽院(St. Petersburg Conservatory) で学び、アメリカに帰化した後、数々の映画主題歌を作曲していきます。「真昼の決闘」(High Noon)、「OK牧場の決斗」(Gunfight at the O.K. Corral)、「アラモ」(The Alamo)、「ローハイド」(Rawhide)、ジャイアンツ」(Giants)などクラシック音楽に基づいた正統的な曲で知られています。

懐かしのキネマ その33 映画とゴーストシンガー

Last Updated on 2021年5月22日 by 成田滋

音楽映画やミュージカルでは俳優の歌唱シーンがあります。例えば、「王様と私(The King and I)」の主役デボラ・カー(Deborah Kerr)が「Shall We Dance?」を、「ウエストサイド物語(West Side Story)」のナタリー・ウッド(Natalie Wood)が「Tonight」を、「マイ・フェア・レディ(My Fair Lady)」のオードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)が「踊り明かそう」(I could have danced all night) など、名立たる女優が歌っています。ですが彼らの歌は吹き替えなのです。吹き替えを歌う人を、陰の歌い手とか「ゴーストシンガー」(Ghost Singer)と呼びます。演説を書く人を「ゴーストライター」(Ghost Writer) と呼ぶのと同じです。

吹き替えの名手は、マーニ・ニクソン(Marni Nixon) というアメリカの歌手です。数々の著名なミュージカル映画において、女優の歌唱シーンの吹き替えを担当し「最強のゴーストシンガー」として知られています。ミュージカルの全盛期である1950年代から1960年代を、その美声で支えたことから「ハリウッドの声」(The Voice of Hollywood) とも称されています。

マーニ・ニクソンの名を知る人は少ないでしょうが、その美声はミュージカル・ファンの方にはなるほどと頷かれるはずです。女優の声を勉強し、それに合わせて吹き替えをしていたというのですから、大変な努力家といえましょう。実は、ハリウッドでは、映画会社との契約の関係で、吹き替えの事実を公表することが禁止されていたのです。マーニ・ニクソンは、そのため長らく表舞台に登場できなかったのです。

「The Sound of Music」でマーニ・ニクソンは修道院の中で出てくる6名の修道女の一人ソフィア(Sophia)役で初めてスクリーンにその姿を見せます。修道女の見習いとなった主人公マリア(Maria)について皆が、順番に歌いながら彼女の行動が自由奔放で呆れるといいながらも、修道女は皆、マリアの明るい性格を好意的に説明する場面です。そして最後の場面で「すべての山に登れ!」(Climb Every Mountain!)を合唱します。

懐かしのキネマ その32 「南太平洋」

Last Updated on 2021年5月21日 by 成田滋

ハリウッド映画界を支えた2人の作曲家と作詞家を紹介します。作曲家リチャード・ロジャース(Richard Rodgers)と作詞家・脚本家オスカー・ハマースタイン2世(Oscar Hammerstein II)です。2人によって制作された「サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)」は、1959年11月からルント・フォンテン劇場(Lunt-Fontanne Theatre)で公演を開始します。そして1963年6月までの間に1,443回上演され、50年以上が経った今でもブロードウェイを代表するロングラン作品の1つとなります。

ロジャースとハマースタインは、1940年代から1950年代の「ミュージカル黄金時代」と呼ばれた頃のブロードウェイで数々の名作を生み出します。現在のブロードウェイの基盤を作り上げた伝説的なコンビとなります。2人ともユダヤ系のアメリカ人であったことも共通しています。2人によって作り出されたミュージカルは「回転木馬(Carousel)」「オクラホマ!(Oklahoma!)」「南太平洋(South Pacific)」「王様と私(The King and I)」などの名作です。2人の最高傑作といわれるのが「サウンド・オブ・ミュージック」です。「南太平洋」(South Pacific)ですが、南太平洋のある島にフランス出身の民間人で農園主と海軍の看護婦との恋の物語です。この映画の主題歌が「バリハイ」(Bali Hai’i)です。音楽が南太平洋の景色とともに存分に楽しめる映画です。

懐かしのキネマ その31 【The Sound of Music】

Last Updated on 2021年5月20日 by 成田滋

1963年にロバート・ワイズ(Robert Wise)によって製作されたのが【The Sound of Music】です。小学生から大人まで知っている「 エーデルワイス」(Edelweiss)や「ドレミの歌」(Do-Re-Mi)が歌われます。主演は、マリア(Maria) 役のジュリー・アンドリュース(Julie Andrews)、ゲオルク・フォン・トラップ大佐(Georg Von Trapp)のクリストファー・プラマー(Christopher Plummer)です。

時代は、ナチスドイツが勢力を強め第二次世界大戦が勃発した頃のオーストリア(Austria)のザルツブルク(Salzburg)。帝国海軍の退役軍人であったトラップ大佐に7人のいたずらな子どもがいます。どの家庭教師も長続きせず、何度も入れ替っていました。修道院で見習いをしていたお転婆娘のマリア(Maria)は、修道院長の勧めでの子どもたちの家庭教師をすることになります。マリアも、最初は子どもたちのいたずらに振り回されます。しかし、厳格な父親に内緒で森へ出かけたり、一緒に歌って踊ったりと、親身になって子どもたちの相談を聞きくマリアに子どもたちは次第に心を打ち明けてきます。

そんなマリアと一緒に歌を歌い喜ぶ子どたちの姿を見て、最初は躾けで厳しかった父トラップ大佐も、次第にマリアに心を打ち明け、2人は惹かれ合っていきます。トラップ大佐一家とマリアは友人の誘いで舞踏会に出演することが決定し、7人の家族による歌声とダンスは賞賛を浴び舞台は大成功を収めます。これをきっかけにマリアとトラップ大佐はマリアと結婚し新婚旅行へと旅立ちます。旅行から帰国した大佐に待ち受けていたのは、ドイツ軍のオーストリア併合(Austria)によるトラップ大佐の出頭命令でした。命令を拒否したトラップは2人は家族を引き連れてスイス(Switzerland)に亡命しようと決意します。自国オーストリアからの亡命を図り、国境を越えようとアルプスを越える場面で終わります。

懐かしのキネマ その30 【ミュージック・オブ・ハート】

Last Updated on 2021年5月19日 by 成田滋

音楽が子ども達にもたらす素晴らしさを伝える映画(Music of Heart)です。製作は1999年で舞台はニューヨーク(New York) の東ハーレム(Harlem) 地区にある荒れた小学校です。この映画は、実在の人物であるロベルタ・ガスパーリ(Roberta Guaspari)を映画化しています。ロベルタを演じるのメリル・ストリープ(Meryl Streep)です。

夫と別居し実家のニュージャージー(New Jersey)に戻ってきたロベルタは、友人のアドバイスでヴァイオリンの特技活かしてハーレム地区の荒れた小学校でヴァイオリン・クラスの臨時教員となります。初めは誰も真剣でなかった子どもたちで、ロベルタは荒れた子ども達に悪戦苦闘します。ですが徐々に子ども達もヴァイオリンを楽しむようになりロベルタの熱心な指導でみるみる上達していきます。当初約50人の子供たちに教えていたのが、好評になり10年後には同じ地区内の3つの小学校の生徒全員で150人ほどに教えるようになります。

子ども達の演奏会を開き、結果は大成功。校長や親達から絶賛されます。教育を通じロベルタも自立した強い女性へと成長していきます。それから10年間、ロベルタの授業は続きますが、市の予算の都合でロベルタは解雇勧告され、ロベルタのクラスが閉鎖されることになります。そこからクラス継続の市民運動が始まります。ロベルタはクラスを存続させるためチャリティーコンサートを開くことを決意。一流のヴァイオリニストなど様々な賛同者の協力を得てカーネギー・ホール (Carnegie Hall) でのコンサートを成功させます。

ロベルタを演じたメリル・ストリープの熱演と彼女のヴァイオリン演奏の演技が見所です。ヴァイオリニストのアイザック・スターン(Isaac Stern)も登場します。演奏シーンはカーネギー・ホール(Carnegie Hall)が使われています。学校は教師の情熱で成果を生み、それに揺り動かされる市民で支えられるというテーマです。

懐かしのキネマ その29 政治体制への批判と音楽 【Le Concert】

Last Updated on 2024年12月31日 by 成田滋

人種偏見や迫害を描く映画は残酷なイメージを抱きがちですが、必ずしもそうではありません。ユーモアとエスプリ(esprit)が効いた体制批判の映画もあるのです。それが2009年にフランスで製作された「コンサート」【Le Concert】です。ユダヤ系ロシア人が音楽を通じて長い厳しい道を歩みつつ、なお弛まなく挑戦する姿を描いた名作です。音楽好きな人も映画が好きな人にも是非観てもらいたい作品です。

映画【Le Concert】の荒筋を紹介します。舞台はモスクワ(Moscow)のボリショイ(Bolshoi Theater) 劇場です。かつてボリショイ歌劇場交響楽団(Bolshoi Theater Orchestra) で世界的な指揮者「マエストロ」といわれたアンドレ・フィリポ (Andrey Simonovich Filipov) は、今は同劇場の掃除夫として働きアル中になっています。アンドレは30年前に、当時のブレジネフ政権(Leonid Brezhnev)によるユダヤ人楽団員の排斥に抵抗したために、チャイコフスキー(Tchaikovsky)のヴァイオリン協奏曲ニ長調を演奏中に秘密警察、KGBのエージェントであるイワン・ガブリロフ(Ivan Gavrilov)によって中止させられ、団員とともに楽団を解雇され掃除夫となっています。

アンドレが劇場支配人の部屋を掃除しているとき、一枚のファックスが出てきます。アンドレはそれを手にとって読むと、パリの有名なシャトレ劇場(Chatelet Theatre)からのもので、ロサンジェルス交響楽団(Los Angeles Philharmonic Orchestra)の代わりにボリショイ楽団にパリで演奏してもらいたいという招待状なのです。アンドレはそのファックスを手にして、かつての団員に呼びかけオーケストラを組織し、ボリショイ楽団になりすましてパリで公演しようと画策するという奇想天外な展開です。

アンドレは、古いユダヤの音楽やジプシー音楽を弾いているかつての団員など、追放された仲間に声をかけてチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をシャトレ劇場で演奏しようと持ちかけるのです。この曲はKGBによって中止に追い込まれた怨念の曲でありました。なりすましのボリショイ楽団はパリ公演のためにパスポートを業者に偽造させたり、楽器は借り物、演奏会用の洋服や靴をそろえるなどドタバタが続きます。そしてパリにやってくるのです。だが団員は物見遊山ツアー気分で、パーティを楽しんだり、持参したキャビア(caviar)を売ったり、タクシーの運転手などをして金儲けを始める有様です。そんな状態で団員は集まらずリハーサルは流れてしまいます。

パリに在住するヴァイオリニストのアンマリー・ジャケ(Anne-Marie Jacquet)は、ヴァイオリン協奏曲の演奏者として出演を依頼されます。彼女は、ロシア以外でも有名だったアンドレと一緒に演奏したかったので申し出を引き受けます。かくしてパリでの公演の幕が上がります。ですが練習不足やリハーサルなしのぶっつけ本番で、調子っぱずれの演奏が始まるのです。聴衆はざわつき始めます。それでも、自主的にハーモニーを引きだそうとする団員の気持が浸透し、だんだんとオーケストラも調子がでてきます。アンマリーの類い稀なるヴァイオリン独奏の技巧にも聴衆は魅了されていきます。パリ公演は大成功裏に終わり、その後この楽団はアンドレを指揮者とする「アンドレフィリポ・オーケストラ」として再出発します。世界各地での演奏会にはアンマリーがいつも独奏者として同行するというストーリーです。

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懐かしのキネマ その28 「手錠のままの脱獄」

Last Updated on 2021年5月15日 by 成田滋

これまで人種偏見や差別を主題とした映画を紹介しています。1958年制作の【手錠のままの脱獄】(The Defiant Ones) は手錠で互いに繋がれた黒人と白人の囚人が、激しく反目し合いながらもやがて絆を深めていくストーリーです。主演はシドニー・ポワチエ (Sidney Poitier) とトニー・カーティス(Tony Curtis)。監督はスタンレー・クレーマー (Stanley Kramer)です。人種差別が激しい1950年代に製作されたところに意義がある名作といえましょう。

囚人護送車がサウスカロライナ(South Carolina) の田舎町を移動中に、真夜中に転落事故を起こしてしまいます。事故のどさくさに紛れて囚人のジャクソン(Jackson) とカレン(Cullen)の二人が脱走します。ジャクソンは白人、カレンは黒人で、お互い50cmの長さの手錠で繋がれています。二人は川を渡り、北部を走る鉄道を目指し逃亡を試みます。逃げた直後から2人の意見がまったく合いません。ジャクソンが「南へ逃げよう」と言えば、黒人カレンは「南へ行ったら黒人は酷い目に合わされるから北へ逃げよう」と言うのです。

そんな二人が手錠でつながったまま逃亡する途中、人に見られそうになって大きな穴に飛び込むのですが、その穴は粘土堀りの穴だったので二人は出ようとしますが滑り落ちを繰り返します。人種偏見からたびたび反発し合う2人ですが、追っ手から逃げるためには助け合うしかありません。どう猛なドーベルマン2頭を含む警察犬も動員され雨中の山狩りが始まります。2人の囚人は増水した谷河を渡り、崩れ易い採掘坑に身をひそめ、沼地で食用ガエルをとり、必死の逃走を続けます。鎖で繋がれた2人は心ならずも協力しなければならないのですが、互いの憎悪はつのる一方です。

夫に捨てられ、子どもと2人で暮らしてきたという女が、北に逃げたいというカレンに沼地を抜ける近道を教えます。しかし、カレンが発った後、それが流砂に埋まる死の道だと知ったジャクソンは、女を振り切って憎みあっている筈の黒人のあとを追い、カレンを助けます。しかしその時少年の撃ったライフルの弾丸がジャクソンの胸を貫きます。追手は銃声で迫り、警察犬の吠え声がします。鉄道線路にたどりついて2人は、通過する列車に飛びつきます。しかし、先にはい上がったカレンの手をジャクソンがつかみながらも、力つきた2人は車外に転落してしまいます。捜索隊が追いついた時、虫の息ながら微笑みするジャクソンを膝に、追っ手に追い詰められぐったりする2人です。黒人のカレンはジャクソンを腕に抱いて静かに民謡を口ずさむのです。

懐かしのキネマ その27 「アラバマ物語」

Last Updated on 2021年5月14日 by 成田滋

2020年は「Black lives matter.」(黒人の命は大事だ)というスローガンが全米に広がりました。アメリカにおける根深い一連の人種差別事件が基で起こった現象です。人種差別撤廃運動というのは公民権とか人権の回復ということです。「アラバマ物語」(To Kill a Mockingbird)は、1962年に作られた映画です。奴隷制度が廃止された1865年から100年以上も経てもなお続く社会問題を取り上げています。この映画の題名は、原題とは似てもにつかないものです。題名ををつけるのは難しいことは想像できます。

映画の舞台は、1920年代の大恐慌時代です。南部アラバマ州(Alabama) の小さな街メイコム(Maycomb)です。当時のアメリカ南部では、「ジムクロウ法」(Jim Crow Laws)という人種差別的内容を含む南部諸州の州法がありました。その法律のスローガンとは、「分離すれども平等 (separate but equal)」というもので、多くの人種隔離策が合法とされていました。とりわけアラバマ州は全米で最も人種差別が激しい州でした。

弁護士アティカス・フィンチ(Atticus Finch)は、白人女性への性的暴行容疑で逮捕された黒人青年の弁護を引き受けます。やがてフィンチは自身だけでなく家族まで迫害を受ける羽目に陥ります。裁判では陪審員は全員白人で、到底被告側に勝ち目はありません。ですがフィンチは自分の良心に従って弁護に臨むのです。その姿を通じて、子どもたちも身近な社会に存在する不平等や不正義について、「正義は必ずしも報われない」ということを学んでいきます。このことはフィンチの娘の視点で描かれています。

この映画の原題「To Kill a Mockingbird」の Mockingbirdとは、物まねをする鳥、マネシツグミのことですが、映画では社会的な弱者、黒人を指す喩えとなっています。主演のグレゴリー・ペック(Gregory Peck)は、この映画でアカデミー賞・最優秀男優賞を受賞します。生涯の俳優として、本当の当たり役がこの弁護士アティカス・フィンチだといわれるほどの名演技です。アメリカンヒーロー(American Hero)は誰か、と問われると、並みいるヒーローに交じって必ずフィンチの名前が挙げられるほどです。アメリカ人が理想とする「アメリカの良心」とか「アメリカの美徳」というような、なにかアメリカへの肯定的な賛歌が感じられる映画です。

懐かしのキネマ その26 「招かざる客」

Last Updated on 2021年5月13日 by 成田滋

アメリカにおける人種差別問題は奥深いものがあります。今も続く社会問題です。3月にはアジア系人種を狙った殺人事件もありました。人種差別を正面から取り上げた映画も沢山あります。前回は【夜の大捜査線】を取り上げました。今回は【招かざる客】(Who’s Coming to Dinner)という1967年の作品です。この作品は、白人と黒人の結婚観を肯定的に扱った作品の一つです。1967年といえばベトナム反戦運動が高まり、公民権運動が最高潮に達した時期です。

サンフランシスコ空港(San Francisco)に降りたった30代後半の黒人男性と20歳位の白人女性のカップルが人目を引きます。通りすがりに眉をしかめる者さえ見受けられます。男性の名は、ジョン・プレンティス(Dr. John Prentice)といい、聡明で優秀な医師です。女性の名はジョアンナ(Joanna)で大新聞編集主幹のマット・ドレイトン(Matt Drayton)の娘です。ジョアンナはジョンを連れて両親の邸宅にやってきます。2人は両親に結婚の意思があることを告げます。ドレイトンは、人種差別反対のキャンペーンなどをおこなってきた筋金入りのリベラル派です。妻のクリスティーナ(Christina)も進歩的な考えの持ち主なのですが、娘の結婚話に驚きその心中は複雑です。

そんな中、ジョンの両親も、息子のフィアンセにいち早く会いたいと、サンフランシスコへとやって来ます。しかし息子の相手が、白人の若い女性だと思ってもいなかったため大いに困惑するのです。ジャーナリストのマットの親友で、やはり進歩的な考え方を持つ神父が、「リベラルの化けの皮が剥がれたな」などと、マットをからかいます。マットは、理想を掲げて長年戦ってきたジャーナリストです。己の内部にもある差別心に真摯に対峙せざるを得なくなるのです。

「招かざる客」の監督は社会派といわれるスタンリー・クレイマー(Stanley Kramer)、主演はスペンサー・トレーシー(Spencer Tracy)、シドニー・ポワチエ(Sidney Poitier)、キャサリン・ヘップバーン(Katharine Hepburn)です。クレイマーは「渚にて」(On the Beach)、「ニュールンベルグ裁判」(Judgment at Nuremberg) 、「手錠のままの脱獄」(The Defiant Ones) を手掛けています。

懐かしのキネマ その25 人種差別と「夜の大捜査線」

Last Updated on 2021年5月12日 by 成田滋

ミシシッピ州(Mississippi)の小さな町スパルタ(Sparta)に夜行列車から一人の黒人が降り立ちます。フィラデルフィア(Philadelphia)市警殺人課の敏腕刑事ヴァジル・ティッブス(Virgil Tibbs)です。彼は、人種偏見と差別が厳しい小さな町スパルタで起きた殺人事件に偶然捜査に加わることになります。捜査で対立する白人の人種差別的な警察署長との緊張を描いたサスペンス映画が「夜の大捜査線」(In the Heat of the Night)です。

スパルタで有力者の殺人事件が発生します。うだるような熱帯夜のなか、巡回していたパトカーの警官が死体を発見します。人種偏見の強い町の駅待合室にいた「よそ者」刑事ヴァジルは警官によって容疑者として連行されます。白人警察署長ジレスピ(Chief Bill Gillespie)の前に突き出されてしまいます。

滅多にない殺人事件に手を焼く署長ジレスピは、地元市長からの圧力もあって、屈辱感を覚えつつも都会のベテラン刑事ティッブスに捜査協力を依頼します。署長はもともと頑固な差別主義です。人種偏見が根強い町であるために、捜査は暗礁に乗り上げます。ですが次第にティッブスの刑事としての能力に署長も一目置くようになります。ティッブスと署長との間には奇妙な友情のようなものが生まれます。ティッブスが町を去る日、駅には彼を晴れやかな表情で見送る署長の姿があります。

懐かしのキネマ その24 黒人俳優と「野のユリ」

Last Updated on 2024年12月31日 by 成田滋

読者にいつかは是非観ていただきたい作品に「野のユリ」(Lilies of the Field)があります。1963年の社会派作品です。黒人青年のホーマー・スミス(Homer Smith)はアリゾナ(Arizona) の砂漠を放浪していました。車の故障で砂漠の一軒家にたどり着きます。そこには東ドイツからの亡命者である5人の修道女が住んでいます。ホーマーを見た修道女マリア院長は、ホーマーを「神が遣わした者」と信じ込み、この砂漠の荒れ地にある思いを抱きます。

屋根の修理だけを引き受けることにしたホーマーですが、院長はいっこうに賃金を支払おうとしません。食事も誠に質素でホーマーの腹を満たすことはありません。それどころか、マリア院長は無理やりホーマーに教会堂(chapel)の建設を手伝うように迫るのです。ホーマーは聖書の一節を引用して、自分は正当な賃金を貰えるのだ、と主張します。マリア院長はルカによる福音書12章27節の【野のユリはいかにして育つかを思え、労せず、紡がざるなり。されど、我汝らに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだにその装い、この花の一つにも及ばざりき】と読み上げ、不満を言ってはならないと講釈するのです。この画面は実に秀逸です。

夕食が終わると、ホーマーは修道女に英語を手解きし、唄を教えます。それが「Amen」です。ホーマーは嫌々ながらも修道女たちに協力するようになっていきます。建築仕事に自信のあるホーマーはプライドを刺激され、教会の建設に執念を燃やし始めます。ホーマーは自分の作品として独りで建設することにこだわり、町の人々の協力を断わります。ですが次第に考えを改めて、町の人々と協力して教会の建設を進めるようになります。

マリア院長と修道女たちは、慈善団体に手紙を出し、寄付金を募り、地元の建設会社に資材の提供を頼み込みます。彼女たちの熱意にほだされた社長はとうとう建設資材を寄付することを申し出ます。紆余曲折、マリア院長の望んだ教会堂は奇跡的に完成します。ホーマーは自分の名を鐘の尖塔に刻みます。教会堂完成のお祝いが終わった夜、ホーマーは翌日の献堂ミサに出席することもなく、車で放浪の旅に戻ってゆきます。最後のシーンには「Amen」というテロップが流れます。

ホーマーを演じたのは、黒人俳優としては初めてアカデミー主演男優賞を受賞したシドニー・ポワチエ(Sidney Poitier)です。ハリウッド映画(Holleywood)における黒人俳優の地位を向上させた先駆者的な名優です。1968年『招かれざる客』(Who’s Coming to Dinner)、『夜の大捜査線』(In the Heat of the Night)でも主演し、社会的かつ人種差別問題に真正面から取り組んでいます。

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懐かしのキネマ その23 アクション映画「ダーティ・ハリー 」

Last Updated on 2021年5月10日 by 成田滋

1971年製作でクリント・イーストウッド(Clint Eastwood) が演じる「ダーティ・ハリー」 (Dirty Harry)は現代の西部劇のようなアクション映画です。ハリー・キャラハン(Harry Callahan) 刑事は、職務遂行のためには暴力的な手段も辞さなく、しかも組織と規律から逸脱していくアウトロー的、かつ直情径行で信念を貫徹する性格です。それゆえ仲間からは【汚い損な役回り】、ダーティ・ハリーと呼ばれています。キャラハンはアイルランド系の刑事。アイルランド人の国民性として、直情的とかおしゃべり好き、負けん気が強い、褒め言葉を素直に受け入れない、などが特徴だといわれます。少々ステレオタイプの響きがありますが、、、

ベトナム帰還兵の偏執狂的連続殺人犯との攻防を繰り広げるのが「ダーティ・ハリー」です。 その後次々とシリーズ化され、『ダーティ・ハリー2』 、『ダーティハリー3』、『ダーティ・ハリー4』、『ダーティ・ハリー5』と続きます。その後に撮影されたアクション映画にも影響を及ぼします。アウトローな性格ながら、警察規則と信念との狭間で正義を貫く様が映画ファンを魅了してきました。

主人公キャラハン刑事の使用している銃は、この映画で有名になったといっても過言ではない凄い威力の拳銃『44マグナム』です。本来は狩猟用に開発されたものといわれ、象すら倒すといわれ装填される弾丸は.44マグナム弾です。「ダーティ・ハリー」で一気に人気がでた拳銃です。

サンフランシスコで狙撃殺人事件が発生します。スコルピオ(Scorpio)と名乗る犯人は警察に対し、10万ドルを支払わなければ、次の犠牲者として黒人か神父を狙うと予告してきます。キャラハンは新しい相棒と共に、犯人の要求通り金を用意しますが、公衆電話を使った犯人の要求に振り回されます。何とか犯人を逮捕するのですが、証拠が認められずに、犯人は釈放されてしまいます。ここからハリーとスコルピオの闘いが再開です。

懐かしのキネマ その22 マカロニ・ウェスタンと日本映画

Last Updated on 2021年5月7日 by 成田滋

マカロニ・ウェスタンは日本でも大層な人気を集めました。主演俳優の個性的な演技が大いに受けたものです。ジュリアーノ・ジェンマ(Giuliano Gemma)、フランコ・ネロ(Franco Nero)、クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)といったキャラクターです。3人とも視聴者に強烈な印象を与えました。『荒野の1ドル銀貨』、『南から来た用心棒』、『星空の用心棒』。どれも流れ者が用心棒となって悪を懲らしめるのです。勧善懲悪映画の【真髄】ともいえましょうか。

日本では1970年代からマカロニ・ウェスタンの影響を強く受けた時代劇が制作されていきます。テレビドラマでは笹沢左保の時代小説『木枯し紋次郎』、池波正太郎の『必殺仕掛人シリーズ』、小池一夫の『子連れ狼』、『御用牙』、子母澤寛の『座頭市と用心棒』などです。悪を退治するだけでなく、権力者の弱みを握って己の正義を貫くという主張です。どの作品もマカロニ・ウェスタンのスタイル、演出、音楽などの要素を取り入れたものとなっています。

マカロニ・ウェスタンでは、「既成のヒーロー像の逆をいく」というのが基本コンセプトなので、『続・荒野の用心棒』のような強烈なインパクトのあるアンチヒーロー像が必要でした。その要求を満たすため様々な主人公が登場しました。聖職者のガンマン、棺桶を引きずったヒーロー、盲目のガンマンなどです。やがてガンマンという主人公のアイデアが枯渇し、1970年代に入るとそのブームは失速していきます。原作者がシナリオを作っても、興行的な見通しが立たなくなったのです。マカロニ・ウェスタンの復活は1971年の「ダーティハリー」(Dirty Harry) や1982年の「ランボー」(First Blood)まで待つことになります。

懐かしのキネマ その21 荒野の用心棒

Last Updated on 2021年5月6日 by 成田滋

セルジオ・レオーネ(Sergio Leone)監督の元祖マカロニ・ウエスタンが「荒野の用心棒」です。黒澤明の傑作「用心棒」に着想を得て製作した作品です。テレビ西部劇「ローハイド」(Rawhide) で人気が出ていたクリント・イーストウッド(Clint Eastwood) は、本作の成功で映画スターとしてブレイクします。その後、「夕陽のガンマン」、「続・夕陽のガンマン」の2作で主演し、俳優としての地位を確立していきます。

アメリカとメキシコ国境にある小さな町サン・ミゲル(San Miguel).に、葉巻をくわえ薄汚いポンチョをまとった流れ者のガンマン・ジョーが(Gunman Joe) 現れれます。ジョーは酒場のおやじから、この街では二人の保安官の2大勢力が常に縄張り争いをしていること、今やサン・ミゲルの街は荒廃しきっていて、その挙げく儲かっているのは棺桶屋だけだと聞かされるのです。ジョーはからんできたゴロツキ4人をたった1人で早撃ちで瞬殺し、スゴ腕ぶりを見せつけます。そして用心棒として雇われるのです。そして、両陣営を争わせ共倒れさせようと密かに計略をめぐらします。

マカロニ・ウエスタンの人気は、アメリカにおける大ヒットから生まれます。暴力的なシーンを多用した乾いた作風や激しいガン・ファイト(Gun fight)が、それまでのアメリカで西部劇の価値観を大きく変えたと言われています。「映画は娯楽」を徹底的に追求した新しい映画のジャンルといえましょう。

懐かしのキネマ その20 七人の侍

Last Updated on 2021年5月5日 by 成田滋

1954年に製作された「七人の侍」は、黒澤明が監督した上映時間3時間27分という名画です。後に「日本映画史上空前の超大作」と呼ばれます。アメリカの西部劇映画 「荒野の七人」(The Magnificent Seven)の下敷きとなります。「荒野の七人」は西部開拓時代のメキシコに移して描かれます。

戦国時代後期、戦に敗れた野武士が悪辣な群盗と化します。あちこちの山間に繰り返し出没し、農村を襲撃しては掠奪を欲しいままにしていました。そこで思い余った農民が野武士を撃退すべく、貧しい浪人を雇うことにします。浪人へのご褒美は腹いっぱいの白米を食べさせるという条件です。農民たちは宿場町に出て腕の立ちそうな侍を探し、村の防衛を懇願します。侍探しは難航しますが、才徳にすぐれた勘兵衛という侍に出会います。勘兵衛のもとに個性豊かな七人の侍が集まります。最初は侍を恐れる村人達ですが、いつしか団結して戦いに挑むことになります。

土砂降りの雨の中、野武士との泥まみれになる戦闘は熾烈を極めます。戦闘が終わると七人の侍のうち、四人が討ち死にします。辛くも生き残った勘兵衛ら三人は、小高い丘に並んだ四つの土饅頭の墓を見上げて、「今度もまた、負け戦だったな、勝ったのはあの百姓たちだ、我々ではない」としみじみ呟くのです。主演は三船敏郎と志村喬、その他津島恵子や島崎雪子、東野英治郎、山形勲、左卜全が共演しています。今では、皆懐かしい俳優です。

懐かしのキネマ その19 マカロニ・ウェスタン

Last Updated on 2021年5月4日 by 成田滋

日本だけの呼び名で知られる西部劇映画に「マカロニ・ウェスタン」(Macaroni Western)があります。イギリスやアメリカではスパゲッティ・ウェスタン(Spaghetti Western)と呼ばれます。1960年代前半から、イタリアの映画製作者が主にスペインの荒野で撮影した西部劇のことです。1964年に作られた「荒野の用心棒」 (A Fistful of Dollars)が大ヒットして世界中にマカロニ・ブームが巻き起こります。

マカロニ・ウェスタン映画が作られた場所は、スペインのアルメリア(Almería)の荒野です。数は多くないもののこの地でドイツやイギリス製の西部劇が作られていました。イタリアだけでなく、本場スペインも独自の西部劇を作るようになりました。こうした「ヨーロッパで作られた西部劇」は、「ヨーロッパ製ウェスタン」(European Western)と呼ぶようです。

「スパゲッティ・ウェスタン」と最初に呼んだのは、映画評論家で知られた淀川長治といわれます。少々小馬鹿の気分でつけたのかもしれません。なぜなら、アメリカ人が本場ハリウッドで作られる西部劇に対して「スパゲッティ・ウェスタン」はニセモノ西部劇だと蔑んでいたからです。1960年代には日本ではパスタ(pasta)というマカロニ(macaroni)、スパゲッティ(spaghetti)、ラザニア(Lasagna)どの食品の総称の呼び名は誰も知りませんでした。もっぱらマカロニかスパゲッティが人気の食品でした。

1965年、「荒野の用心棒」が製作されます。監督はセルジオ・レオーネ(Sergio Leone)、主演はクリント・イーストウッド(Clint Eastwood)です。この映画の下敷きは、1961年に作られた黒澤明が監督した「用心棒」です。時は世界中が激動していた頃。イギリスからはビートルズ(The Beatles)が、フランスには「新しい波:ヌーベル・ヴァーグ」(Nouvelle Vague)が、アメリカでは人種差別撤廃やベトナムの反戦運動が盛んな頃です。そんな時に、純粋な娯楽として作り出されたイタリア製ウェスタン映画が世に送りだされます。ハリウッドが作り続けてきた正統派ウェスタンへの一種の挑戦です。歴史観とか正義感、ヒューマニズムなどの教科書的なテーゼへのアンチというわけです。純粋に面白ければ良し、という娯楽アクション西部劇の元祖がマカロニ・ウェスタンです。

懐かしのキネマ その18 太平洋戦争を描いた映画

Last Updated on 2021年5月3日 by 成田滋

去る大戦で多くの人々が傷つき犠牲になりました。「挙国一致」、「堅忍持久」といったスローガンにより、誰一人勝つことしか信じない時代がありました。戦意昂揚、生活統制、精神動員などの標語が映画を通しても大衆に浸透していきます。こうした歴史からの深い反省を込めた映画が戦後に作られるようになりました。どの作品も戦場という異常な空間で極限状態に追い込まれた人々が描かれています。そのいくつかを紹介します。

まずは、1956年に作られた「ビルマの竪琴」です。原作は、竹山道雄が執筆した児童向け文学を基に描かれた作品です。終戦直前のビルマ(Burma)、現在のミャンマー(Myanmar) の戦線が舞台となっています。イギリス軍に追い詰められ、日本軍は中立国のタイ(Thailand)を目指して撤退します。その途中で、小隊が降伏し捕虜となります。やがて戦線で命を落とした大勢の日本兵を残して帰国することになります。それに耐えられず、竪琴をひきながら彼らを供養するため僧となった旧日本兵・水島上等兵の姿が描かれます。監督は市川崑でした。

次ぎに1959年に製作された「野火」です。小説家、大岡昇平のフィリピン(Philippines) での戦争体験を基に書かれたものを映画化しています。監督したのは、同じく市川崑です。舞台は日本軍の敗北が濃厚となった第二次大戦末期のフィリピン戦線です。結核を患った田村一等兵は部隊を追放され、野戦病院へと送られる。しかし、野戦病院では食糧不足を理由に田村の入院を拒否します。再び舞い戻った部隊からも入隊を拒否されてしまうのです。空腹と孤独と戦いながら、レイテ島(Leyte)の暑さの中をさまよい続ける田村は、かつての仲間たちと再会するのです。そこで彼が目の当たりにしたのは、孤独、殺人、人肉食への欲求、そして同胞を狩って生き延びようとするかつての戦友です。ことごとく彼の望みは絶ち切られ、遂に狂人化していくのです。

1983年に作られた「戦場のメリークリスマス(Merry Christmas, Mr. Battlefield)」は異色の映画です。日本、英国、オーストラリア、ニュージーランドの合作です。ジャワ(Java) 山中の日本軍捕虜収容所という、極限状況のもとで出会った男たちの抑えた友情の物語です。二・二六事件の決起に参加できずに死に遅れたエリート武官のヨノイ、彼の部下の単純で粗暴な軍曹ハラ、ハラと唯一心の通うイギリス軍中佐との友情が描かれています。東洋と西洋の宗教観、道徳観、組織論が違う中、当時の日本軍兵士の敵国捕虜の扱いや各国の歴史的な違いを大島渚監督がしっかりと描き出しています。

2006年に作られた「硫黄島からの手紙」 (Letters from Iwo Jima) は、第二次大戦における硫黄島の戦いを日米双方の視点から描いた「硫黄島プロジェクト」で日本側の視点による作品です。クリント・イーストウッド(Clint Eastwood) が監督を務めています。1944年に本土防衛最後の砦として硫黄島に降り立ったのが栗林忠道陸軍中尉と日本兵たちです。圧倒的に不利な戦況、絶望の中で、家族の元に生きて帰りたいと願いながら死闘を繰り広げた兵士がいます。届けられることのなかった家族への膨大な手紙やそこに込められた兵士一人ひとりの姿と、戦線の壮絶な戦いを描いた作品です。

懐かしのキネマ その17 映画音楽の多様化

Last Updated on 2021年5月1日 by 成田滋

無声映画の撮影中にムードを醸し出し場面を盛り上げるために、音楽がしばしば演奏されていました。専属の楽団を持っていたところもあります。フル・オーケストラの演奏とともに撮影されたともいわれます。やがて、音楽をあらかじめ録音しておき、それを撮影中に流すことによって、シーンのムードを高め、サイレント時代の音楽による演出方式を再現する試みが定着していきます。

トーキーの時代になると、1933年にハリウッドの音楽監督の草分けといわれたマックス・スタイナー(Max Steiner)の「キングコング」(King Kong)が音楽を担当し、この作品を皮切りに映画音楽の一般的なパタンが作り出されます。オープニングで音楽が映画のムードを醸し出し、その後は監督の意図や嗜好によって、音楽がサウンドトラックに見え隠れし、アクションを高めるのです。映画音楽は、ヴィクター・ヤング(Victor Young)、ディミトリ・ティオムキン(Dimitri Tiomkin)、ヘンリー・マンシーニ(Henry Mancini)、モーリス・ジャール(Maurice Jarre)といった作曲家に受け継がれていきます。

映画音楽も多様化していきます。大編成のオーケストラ演奏によるドラマチックな音楽が世界的に定着する一方で、チターやギターだけの独奏で新鮮な効果を醸し出すことに成功していきます。英国映画「第三の男」、フランス映画「禁じられた遊び」のような名作も生まれます。1950年代には雅楽や能、謡いを絡ませた黒澤明監督の「羅生門」、「七人の侍」、「用心棒」なども生まれます。独特の響きが画面上の臨場感を高めるの一役かっています。

エニオ・モリコーネ(Ennio Morricone)という作曲家も従来の音楽のスタイルを一変させます。その音楽の使い方は革命的ともいわれます。マカロニ・ウエスタ(Spaghetti western)映画で響いたシンプルで記憶に残るメロディが特徴です。アコースティックのリズムに、強い口笛が重なり、銃声や馬の蹄の音、教会の鐘、そしてひときわ激しいギターの調べなど予想外のサウンドが彩を加えています。「続・夕陽のガンマン」(For a Few Dollars More)では、ハーモニカ、コヨーテの遠吠え、ヨーデル、口笛、鞭を鳴らす音が鮮烈な雰囲気を生んでいます。映画の重要なシーンも音楽のお陰で臨場感や迫力が生まれてきます。