旅のエピソード その47 「U-Hall」

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

U-Hall。ユーホールと発音するこの単語は、登録商標でもあります。引越の際は、車で引っ張るトレーラーに家財道具を積んで目的地に向かいます。このトレーラーの代名詞がU-Hallです。移動が好きなアメリカ人にはU-Hallは馴染みのものです。

U-Hallの大きさは様々です。今もU-Hallをとりつける連結器がついた大型のセダンを見かけます。田舎を走るピックアップトラックには必ずといってよいほどついています。U-Hallの事務所は小さな街にも必ずあります。このトレーラーを借りて自分で引っ越しするのです。そういえば専門の引越業者のようなものはアメリカには珍しいのです。U-Hallには車の電源から流れて点滅するテールランプが付いています。

大型のU-Hallは自分で運転して家財を運びます。このとき、大型U-Hallに自分の車を取り付けて移動するのをよく見かけます。運転手が一人ですむという案配です。U-Hallをつけてバックするときは少し経験が必要です。駐車するとき、ハンドルを右に切るとU-Hallは左側に回ります。ハンドルとは逆にU-Hallは回るのです。慣れると面白いように操作できます。引越の途中はもちろんモーテルを利用します。移動や引越にU-Hallは切っても切り離せません。自分のことは自分でやる(Do It Yourself: DIY)という考えがU-Hallの発展にみられます。

旅のエピソード その46 「ニシンと窓口のイチゴ」

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

私が10歳のときです。「ヘルシンキ・オリンピック」(Helsinki)の様子がラジオや新聞で報道されていました。1952年に開かれた第15回オリンピックです。日本にとっては、敗戦から立ち直りつつある時代です。ヘルシンキはフィンランド(Finland) の首都です。フィンランドのフィンランド語での正式名称はスオミ(Suomi)。語源は「湿地」を意味する「suomaa」です。フィンランドは湖や森に覆われているのでこの語源も頷けます。

このオリンピックでは石井庄八という選手が、レスリングのフリースタイルバンタム級にて戦後初の金メダルをとります。このときの報道はすごかったのを覚えています。もう一つ、当時のチェコスロバキア(Ceskoslovensko)のエミール・ザトペック(Emile Zatopek)という選手が陸上競技で3つの金メダルをとります。その頃、彼は「人間機関車」と呼ばれていました。

私にとっては、ヨーロッパを知ったきっかけはこのオリンピックであり、ザトペックであり、ヘルシンキなのです。どこの街よりも思い出に残る地名です。そして、1995年頃学会の発表でこの街を訪れることになりました。ダウンタウンにある小さなホテルを宿にしました。丁度7月で白夜でした。午後11時になっても、外では若者がサッカーをするのが見えました。

宿の朝食にはニシンのマリネが並んでいます。稚内の生活時代、ニシンは飽きるほど食べていましたが、その後ニシンはぷっつりと獲れなくなり、長い間食べていませんでした。懐かしくて毎食マリネをたらふくいただきました。

ヘルシンキでは学校や障害者施設を訪ねました。どこへ行っても受付のカウンターにはイチゴがバスケットに盛られています。もちろん訪問者をもてなすためです。市場では山のように並べられたイチゴが売られています。イチゴがこんなに採れるものとは知りませんでした。フィンランドの豊かさの一端を味わったときです。今や通信設備メーカーのノキア (Nokia)や航空会社のフィンエア(Finnair)が国の代名詞になっているようですが、豊かな教育や福祉の水準もそれに劣りません。この国の豊かさは、バスケットに盛られたイチゴにあるのではないかと感じるくらいです。

旅のエピソード その45 「ロンドンの駅にて」

Last Updated on 2021年2月24日 by 成田滋

ロンドン中心部の少し北にユーストン(Euston)という主要な鉄道駅があります。ロンドンで6番目に乗降客数が多いといわれるターミナル駅です。この駅は、ロンドンからウェスト・ミッドランド(West Midland)、ウェールズ(Wales)、そしてスコットランド(Scotland) への向かう際の玄関口です。別名、頭端式ホームといわれるように発着駅であり終着駅です。「東京駅」とは違い「ロンドン駅」というのはありません。ロンドン駅グループの一つがユーストン駅です。この駅には16のトラックがあります。

ユーストンからバーミンガム(Birmingham) へ向かうときです。バーミンガム市の小学校を見学にいくことになっていました。そこで案内してくれるのはバーミンガム大学(University of Birmingham)の先生です。バーミンガムは人口100万人ほどの工業都市です。首都ロンドンに次ぐ第2の大都市です。最初の蒸気機関を発明したジェームズ・ワット(James Watt)の出身地です。

ユーストン駅には切符売り場があちこちにあります。鉄道会社がいくつかあるからです。運賃は乗り降りする時間帯によって違います。ラッシュアワーが最も値段が高く設定されています。切符を購入して目指す電車に乗ろうとして改札口へいきますと、大勢の乗客が出発時刻表を眺めています。皆、自分が乗る電車がどのホームに入ってくるかを注目しているのです。ようやくホームの番号がでると、人々は小走りにホームに向かいます。もちろん座る席を確保するためです。我々はグリーン車に近い切符を買っていたのでゆっくりと歩きだしました。

乗りたい電車が何番ホームに入るかは、出発直前になるとわかることを始めて経験しました。通常、どのホームからはどの路線の電車がでる、という習慣で育ってきたからです。しかし、空いているホームに電車が入って出て行くという合理的な考えに納得したものです。

旅のエピソード その44 「天井画から考えたこと」

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

人間が創造したものとは思われない絵画、彫刻、建物を目の前にして、くらくらするような体験をしました。茫然自失というのはこうした状態なのか、と思いました。ヴァティカン美術館 (Musei Vaticani) のシスティーナ礼拝堂(Sistine Chapel)での出来事です。まさに神がかりとしかいいようがない作品で一杯です。一体、なぜ、どのようにして、人間はこのような造形物を思いついたのか。床に座ってじっと30メートルは続くような天井画を眺めます。いつまでも飽きない時間が過ぎます。そして自問自答をしました。

「自分が絵画に惹きつけられるのでなく、絵画が自分を惹きつける」。天井画の画家は、不自然な姿や格好で何年も何年も描き続けたにちがいない。横に寝そべって描いたのではないだろうか。パレットの絵具を筆につけ、頭を持ち上げる、絵を描く、それを繰り返し繰り返しやったのだろう。いや、もしかしたら地上でパネルに描いてそれを組み合わせて完成させ、それを天井に張り付けたのかもしれない。しかし、天井画のどこを眺めても張り合わせたような痕跡は見つからない。とすれば、やはり寝そべって完成させたのか。

もう一つの憶測。それは大勢の画家が分業して完成させたのかもしれないということだ。ある画家は女性だけを描き、他の者は男性だけを描き、別な者は静物などの背景を描く。そうすれば絵全体の調和はとれるはずだ。しかし画家はそんなことをするだろうか。一人の画家が一つの作品を作るのが普通だろう。一つの絵画に複数の画家の名が並ぶ話はきいたことがない。だが、天井画には画家の名前は見あたらない。もしかして、画家は誰にも見えない箇所に、しかも小さな文字で「Michelangelo」と書き残したのかもしれない。自分の命は絶えても、誰もが名前を残したくなるものだから。
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旅のエピソード その43  「シカゴ美術館で知人とばったり」

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

2010年秋に横浜美術館でドガ展(Edgar Degas)が開催されました。ドガで思い出すのは、娘たちとパリのオルセー美術館(Muse’e du Orsay)、ロンドンのテート美術館(Tate Britain)を訪れたとき、そしてシカゴ美術館(The Art Institute of Chicago)に立ち寄ったときです。それまでは絵画の鑑賞にはあまり興味が無かったのですが、だんだん美術館に惹かれるようになりました。ですが私には絵の鑑賞眼などは未だにありません。

シカゴのダウンタウン、ミシガン通り(Michigan Avenue)にシカゴ美術館があります。隣は美しいグランドパーク(Grand Park)があり、その東にミシガン湖(Lake Michigan) が広がります。そこから少し南に下がるとシカゴ・ベアーズ(Chicago Bears)の本拠地ソルジャー・フィールド(Soldier Field)があります。

ネットでこの美術館を訪ねると、印象派作品が充実しているとあります。モネ(Claude Monet) の「睡蓮」連作は大きさも種類も充実しています。ゴーギャン(Eugene Gauguin)、セザンヌ(Paul Cezanne)、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir) などの作品が多いようです。シカゴ美術館は全米の3大美術館の一つといわれます。ニューヨークのメトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Art)、そしてボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)です。アメリカの美術館には、日本から購入した多くの古典作品が所蔵されています。残念ながら明治時代に日本から流失したものです。

ドガは、印象派の画家といわれています。アトリエの中で制作した裸婦像や家族などの作品から、劇場の舞台の踊り子や歌い手、パリの町中の人々、田舎で描いた馬など親しみのある作品で知られています。それぞれの一瞬の動きを切り取っています。日本人に好まれる印象派の特徴である明るく詩情あふれる世界がカンバスに展開しています。

シカゴの郊外で長男の結婚式があり、その帰りにシカゴ美術館を訪ねたくなりました。看板では、毎週木曜日の午後5時以降は入場無料と書いてあります。通常は18ドルですから、なかなかのサービスではあります。ドガ展を観てからショップでドガのポスターを3枚購入しました。よく知られる踊り子や女性像などのものでした。ふと目を上げると、かって飯田橋のルーテル教会で一緒に活動した家族が居るではありませんか。お互いにぽかんとしてしばし見つめ合い、そして「ヤア、ヤア、、」です。そして、「ポール、こんなところで会うなんて、、、」、「シーボ、元気か、、」とお互いの名前がすぐ浮かんできました。

旅のエピソード その42 「空が広い」

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

旅の楽しみ一つは景色と空気です。特に田舎へ行くと景色とともにその薫りも漂ってきます。今回はイタリア中部の話題です。周りをぐるりと見渡すと日本の景色と違うことに気がつきます。空が違うのです。どこへ行っても空は同じはずです。しかしどこか広いのです。

車で田舎道を走るとなだらかな丘陵にぶどう畑とオリーブ畑が見渡せます。その間に背の高い松が並んで植えられています。「これがローマの松(Pini di Roma)か」とブツブツつぶやきながら、「さて”ローマの松”の作曲家は誰だったっけ、、」 それを考えるのですがなかなか思い浮かびません。1時間くらいでようやく思い出します。レスピーギ(Ottorino Respighi) です。

イタリア中部のオルヴィエート (Orvieto) やサン・ジミニャーノ( San Gimignano) は城塞に囲まれた街です。教会の尖塔に混じって四角な塔のような建物が林立しています。大勢の観光客とともに大きな門をくぐると、「中世ってこんなところだったのか」という思いがこみあげてきます。狭い道と石畳、石造りの建物がぎっしり並んでいます。ところどころの窓際に洗濯ロープが向かいの建物の窓にむすばれ、洗濯物がぶら下がっています。花のポットもつり下げられています。時間がゆったりと流れるような風情です。

中世では明かりをオリーブ油でとっていたことがわかります。今も街には電柱は一本もないのです。この街には電気はきているのか、そんなことを考えながら小高い丘のてっぺんから緑のしたたる景色をぼんやりと眺めます。不思議ですが、どこを見渡しても高圧線や電信柱はないのです。空が広く感じたのはそのせいです。昔から下水道が発達していたので、電線は地下を走っているのです。

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綜合的な教育支援の広場

旅のエピソード その41 琉球と風疹の流行

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

幼児教育を始めるようにとの指示で、私が沖縄に派遣されたのは本土復帰の2年前の1970年でした。まだ、パスポートと予防接種が義務づけられていました。沖縄が琉球と呼ばれていた頃です。

琉球にやって来て知ったことの一つに「風疹 (rubella)」が流行り、聴覚障害の子どもが多く生まれていたことでした。私はそれまで免疫のない妊娠初期の女性が風疹にかかると、聴覚や視覚に障害のある子どもが生まれることは知りませんでした。

風疹は「先天性風疹症候群」という長い名前ですが、「3日ばしか」とも呼ばれています。私も小さい時に「3日ばしか」にかかったことを親から教えてもらいました。今は1歳の時と小学校に入学する前年度の2回、ワクチン予防接種を受けることが決められています。

琉球で風疹が大流行したのは1965年です。続々と聴覚障害の子どもが生まれ、1968年は沖縄小児科専門医会と那覇保健所が九州大学との協力で風疹の発生調査をします。すると琉球本島と石垣島、西表島で282人の子どもになんらかの聴覚障害があることをつきとめます。琉球政府は日本政府に援助を要請し、1969 年より日本と琉球政府による調査・医療・教育対策が開始されます。風疹によると思われる疑いのある子どもの実態調査の結果、出生数の2%にあたる408人が聴覚障害と診断されます。その後、難聴および白内障、そして心臓疾患が風疹による三大症状であることが明らかになります。

風疹の被害が世の中に知られるのようになったのは、「風疹による聴覚障害児を持つ親の会」が結成されてからです。1969年には沖縄県内各地に風疹難聴学級として幼稚部学級が開設されます。本土復帰後、沖縄県は当時の風疹障害児のための学校を新設することを計画します。さらに、風疹障害児のために独立した学校を新設することを計画し、1978年に沖縄県立北城ろう学校、分校である宮古分校、八重山分校を設立します。1984年3月に全生徒が北城ろう学校を卒業し当校は役目を終えて、今は沖縄県立沖縄ろう学校となっています。

北城ろう学校は甲子園とのつながりがあります。高校野球にあこがれる生徒が困難を乗り越え硬式野球部を作り、甲子園を目指します。ところが、都道府県の高等学校野球連盟に加入できなかった北城ろう学校は、甲子園への道を阻まれるのです。これを取り上げた映画が「遥かなる甲子園–聴こえぬ球音に賭けた16人」です。高校野球に熱い夢を賭ける生徒と教師の姿を描いています。

旅のエピソード その40 「成熟と運転」

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

だんだん齢を重ねるにつれ、周りから「車の運転に注意しなさい」と言われるようになります。おまけに、「免許証を返上しては」というお節介が入ります。記憶が少しずつ衰え、反射神経と動作が鈍くなるからでしょう。しかし、運転技能というのは若いときの運転と比べて上達するということを言いたいのです。それはどういうことかといいますと、運転というのは単なる車の操作技能だけではないということです。

多くの車の事故はスピードの出し過ぎ、脇見運転などの不注意によるものです。運転中の事故は24歳までの初心者ドライバーに多いことも報告されています。運転手はたいがい、自分の車の空間が外界とは隔離した自由な世界だという錯覚に陥りがちなのです。ですから、運転中の車線の変更などで、周りからみていると危なかしく、まるで傍若無人のような追い越しをするのです。実に迷惑このうえない運転です。

アメリカには、高齢者のドライバー用のクローバーマークやシルバーマークなどはありません。運転する時、前方の車両の動作を見ながら「あの運転手はお年寄りだな、」と感じ、余り側に寄らないとか、ゆっくりついていくという運転をします。それと、サイドミラーやリアミラーを頻繁にみながら、状況を把握するように努めるのです。

サイドミラーとリアミラーに後ろの車全体が写ったときは、車間距離をとっている状態です。このとき、車線変更をするのです。これはマナーというよりも安全運転の大事な原則です。アメリカで免許をとるとき、このことをきちんと教えられました。若いときにくらべて、危機を予測できるという成熟による智恵がついています。私は自分の運転は若いときに比べて格段に向上していることを断言できます。

旅のエピソード その39 「車がスピンした朝」

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

ウィスコンシンの2月は真冬の真っ盛りです。高速道路を運転していたときです。路面が凍結している時間帯でした。アメリカの高速道路は、大きく分ければインターステイト (Interstate) とUSハイウエイ(US Highway) の二種類があります。USハイウエイは、通常四車線で広い中央分離帯があります。

速度は40マイルですから60キロを少し超えた程度です。突然車がスピンしてブレーキが効かなくなりました。強く踏みすぎたためです。そのときスピンした方向とは逆にハンドルを回した記憶があります。路上で一回転してようやく停まりました。幸い前後に車はありません。心臓が止まるほどの経験です。気持ちを切り替えてゆっくりと車を回転し、その場を離れることができました。

こうした冬の運転の反省ですが、第一は冬の路上は凍結していることを忘れないことです。道路管理局は、夜中に砂と塩化カルシウムの混じった融雪剤を散布します。それでも体感温度(Wind Chill)が低くなって路上が凍結するのです。

第二は制限速度より20%下げて運転することです。スピードの出し過ぎほど怖いものはありません。スノータイヤでも凍結している路上ではどうにもならないのです。

第三はブレーキをこまめに踏むことです。これによって滑りを防ぐとともに、ブレーキランプで後方車に自分の位置や車間距離を知らせるのです。

第四は昼間でもライトをつけて走ることです。バッテリーは走行中に充電されるので、節約する必要は全くありません。夜、交差点でライトを消す習慣はアメリカにはありません。車社会のアメリカから今も学ぶべきことは沢山あります。

旅のエピソード その37 「ドルの話 その二 100ドル札」

Last Updated on 2024年12月31日 by 成田滋

那覇東ローターリークラブの国吉昇氏は、私をロータリーインターナショナルの奨学生に推薦してくれました。そのお陰で約1万ドルの奨学金を貰うことができました。1977年頃ですから200万円くらいです。それと共に嘉手納基地の米軍将校夫人クラブからも1,700ドルの奨学金が提供されました。これにはルーテル教会の宣教師が仲立ちしてくれました。勉強してから沖縄の幼児教育に寄与することが期待されたようです。お陰で1978年に家族を連れてアメリカに向かうことになりました。

この頃になると、為替レートは円高へと進みました。沖縄の物価はどんどん上がっていきました。復帰前にフィレ(Filet Mignon) の部厚いステーキが4〜5ドルくらいで、1,300円くらいでしょうか。復帰後はあっというまに2,000円、3,000円へ値上がりしていきました。沖縄の人は長い間ドルで生活していたので、所持していた相当のドル預金が目減りしたのです。それを回避しようとして物価が急に上昇したのです。住んでいたアパートの家賃も2倍に上がりました。

沖縄の人々は、「本土復帰とは一体なんだったのか」という疑問を投げかけ始めました。しかし時既に遅しです。復帰によって本土からさまざまな人と物、法律や組織が入ってきました。中央省庁から役人がやってきて、沖縄は完全に本土並となりました。国家権力がいかに凄いか、恐ろしいかを思い知ったといわれました。

ドルの話の続きですが、国吉氏は私の渡米を前に100ドルの餞別をくださいました。始めて見る100ドル札でした。アメリカに行きまして、あるとき買い物の際にこの札を女性のキャッシアに渡すと、彼女はそれを事務所へ持っていきました。100ドル札を見たことがないのか、偽札を心配したのかです。通常買い物で100ドル札を出す人は全くいません。皆小切手を使います。大学の授業料を支払うときも現金は受け付けません。わたしの現金と小切手の見方が変わった出来事といえます。

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旅のエピソード その36 「ドルの話 その一 1ドルが360円」

Last Updated on 2021年2月12日 by 成田滋

始めて沖縄に行ったのは本土復帰の2年前、1970年です。那覇市内で幼児教育の一環として幼稚園を開設する仕事を命じられました。まだパスポートと予防注射が必要なときでした。1ドルが360円のときです。

当時琉球政府のお役人とで、幼稚園作りのためになんども打ち合わせをやりました。幸い、幼児教育の必要性が高い沖縄でしたので、設置基準を満たさないことに目をつむってくれ、設置にこぎ着けることができました。1972年に本土復帰を果たし、1ドルが300円となりました。

園児を募集すると障害のある二人の幼児がやってきました。この幼児を担当するのが私の仕事ともなりました。みよう見真似で懸命に指導したのですが、やがてもっと障害児教育を学ぶ必要を感じてきました。ひよんなことで、ロータリーインターナショナル(Rotary International) という国際組織が、障害児教育の勉強で奨学金を出していることを知りました。ロータリーの会員はロータリアンと呼ばれます。ロータリアンは、それぞれの地域社会および世界社会において、人々の生活の向上を計るためにボランティアとして奉仕することを求められています。

沖縄には1966年に設立された那覇東ローターリークラブがありました。そこでの奨学金を担当している国吉昇氏と出会いました。この方は、沖縄戦のときまで沖縄地方気象台に勤務されていて、気象情報を軍に提供するという仕事をされていました。九死に一生を得たご体験の持ち主です。ロータリアンとして50年以上も毎週の例会に欠かさず出席する熱心な会員でした。今は、那覇市内の高齢者施設で暮らしています。2020年1月に国吉氏を訪ねることが出来ました。コロナ感染が広まる前でした。

旅のエピソード その35 「教育委員会の金曜日の午後」

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

旅には食べること、飲むことにまつわるエピソードが多いようです。旅先で1日中調査をしながら歩き回わるとおなかはペコペコになります。なにを食べようか、これがその日のご褒美です。特に夕食の楽しみは格別です。

同行した京都の校長先生とでシカゴ・オヘア空港側にある教育委員会で教育長にインタビュをしました。それが終わって地元の学校に案内されました。どの学校も自分たちのカリキュラムはいかに優れているかを自信たっぷりに語ります。自分たちはNO1だといってはばからないのがアメリカの校長です。その点、日本の校長は自分の学校が他の学校に比べて優れているなどと言わないのとは対照的です。

昼食時になり、教育長は近くのレストランに連れていってくれました。そこには、12名くらいの部下や管理職の教員が待っていました。ワインも飲んでいます。昼間からワインを飲むのは決して珍しいことではありません。午後の仕事に差し障りがあるのではと心配するのが日本人のサガのようなものです。

昼食が終わったのが午後2時過ぎ。その日は金曜日でした。気分はすでに週末の休暇が始まっています。”Thank God, it is Friday:TGIF”(神様、ようやく楽しみな金曜日がきました)という台詞があります。アメリカ人の間で金曜日に使われるフレーズです。それにしてもゆとりのある教育委員会の面々だな、と感心しました。管理職はいかに平日は懸命に働くかということを示すエピソードです。

旅のエピソード その34 「楓と中禅寺湖」

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

立春が過ぎたばかりなのに、楓の話をするのは少々気が引けます。紅葉はまだまだ先の話ですが、今回はこれを話題とします。ただぶらぶら歩いたり山歩きの好きなわたしには紅葉がたまりません。今まで訪れたことのある京都の東福寺、友人に案内してもらった滋賀県の永源寺、和歌山県の高野山、そして地元高尾山、、。国中が紅葉に包まれるのが日本です。

以前の職場にミネソタ大学(University of Minnesota-Twin Campus)から3名の教授を招いたときです。障害児教育のセミナーを開き、それが終わってから日光に案内しました。もちろん中禅寺湖にも足を伸ばしました。丁度紅葉が盛りなので、遊覧船で沖にでました。実に繊細な紅色が小さめの楓の葉に広がるのが日本の紅葉の特徴です。標高2,500m位の男体山を背景に湖面に映る真っ赤な楓に、さすがのミネソタの客人も感嘆していました。

ミネソタは中西部の北、カナダに面します。中西部の秋は短く冬の足音がかけっこのようにやってきます。ウイスコンシン、イリノイなどもそうです。中西部の紅葉は、日本のそれとは趣が異なります。大地一面が黄色がかった紅に染まるのです。その理由は、カナディアンメープル(Canadian maple)の葉は日本の楓と違い大きいのです。

冬を前に紅葉はあっという間にやってきます。紅葉がひときわ鮮明なのはカナディアンメープルです。カナダ国旗の中央に楓の葉があしらわれています。年に1度だけ、この自然からの贈り物を楽しまない手はありません。大自然に抱かれるような気持ちに浸りながら心ゆくまで歩く。こんな贅沢を楓は運んできてくれます。

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旅のエピソード その33 「塾の加熱ぶり」

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

韓国の受験対策は、日本からすると尋常ではないほど過熱しているようにみえます。このブログで登場しているソウル在住のユ・キム夫妻の娘さん、名前はキリヨン(키리욘)の受験生活を紹介することにします。キリヨンはかつて兵庫教育大学附属小学校に一年間勉強したことがあります。キム氏が同大の客員研究員として滞在していたときです。彼女はそのため日本語が達者で、日本語検定試験の3級に合格しています。

彼女はソウル市内の公立の高校で学びました。普段は3時まで学校で授業を受けます。一度家に帰り、一時間くらいの午睡をとりそれからお手伝いさんの作る夕食を食べます。そして塾(アカデミー)に迎えのバスで通います。授業は10時まで続きます。平日はこのような日課なのですが、土曜日と日曜日は午前中、時に午後も塾に通います。夜10時頃になると、塾の前は沢山の送迎バスが並びます。

韓国はご存じ、日本以上に学歴社会の国です。中国の科挙の影響です。科挙は、中国の6世紀頃から始まった高級官僚の登用試験です。ヨーロッパでは、貴族の世襲が当たり前だったの対して、中国は優秀であれば官僚になれたのです。その点では誰もが官僚になれる優れた制度だったようです。韓国人から「どんな大学をでましたか?」と何度も聞かれたことがあります。どの大学を卒業したかによって、わたしの能力を確かめるのですね。

さて韓国の受験の仕組みですが、まずは大学修学能力試験(수능-スヌン)というセンター試験のようなものがあります。韓国ではどの大学に入れるかはスヌンの成績で決まります。内申書および2次試験と合わせて総合評価をしますが、大学修学能力試験が最大の比重を占めるのです。スヌンが終わると国公立、私立、一つずつ受けることがでます。スヌンは入学前年11月中の木曜日に設定されて1日で終わります。一時、慶応大学への留学も考えていたキム夫妻のキリヨンですが、結局韓国外国語大学校に入学し、日本語や英語に磨きをかけたようです。

旅のエピソード その32 「宮廷料理と失敗」

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

またまた、銀行の重役をしている柳(유-ユ)さんとの話題です。奥様は何度も紹介していますが、大邱教育大学校の英語学のキム・ヨンスク(김영숙) 教授です。

いつか宮廷料理を一度試食したいと思っておりました。「チャングムの誓い」(대장금)をずっと観ていた影響もあります。宮廷料理はこの韓国ドラマでしばしばてきました。水剌間(수라간-スラッカン)で女官のチャングムが卓越した料理の腕を振るうという話しです。水剌間とは厨房のことです。そして私がユさんに、主演女優のイ・ヨンエ(이영애-李英愛)氏に会いたいのでアポをとってもらえないだろうか、という難題を出しました。彼は苦笑いをしていました。

そんなこともあってかソウル滞在中、ユ・キム夫妻に宮廷料理に招待されました。ヨンスーサン(영스산) というレストランです。光化門駅から徒歩5分位のところにあります。チラシには、韓國の料理の古來の正味と伝統を受け継いでいるとあります。ユさんは一番高いコースの14品とデザートがついた定食を注文しました。 一人150,000ウォン、14,000円位だったはずです。

ご存じの通り、韓国料理では器を手に持って食しません。テーブルに並ぶ品を皆で手を伸ばしていただきます。はじめの内は違和感があるかもしれません。手で直接掴んだり、ペチャクチャと音を立てるのは不作法とされています。

後でわかったのですが、私はこの席で失敗をしてしまいました。食事のペースは、年配者に合わせることを知らなかったのです。ユさんが先に食事をし終わったのですが、私は食事を続けたのです。年配者が食事を終えたら、その時点で食事を終わるというのがマナーだというのです。私のほうが年配なのですが、ユさん私の「先輩」であり「ホスト」なので彼の動作に沿うべきでした。韓国では、ホストの所作を観察しながら食べるのが大事なようです。

旅のエピソード その30 「南山公園でのバトミントン」

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

大邱教育大学校のキム・ヨンスク教授のご主人柳(ユ)さんは銀行の重役をしています。重役室に招かれると客がいて、紹介されました。その方に私が「ユよさんは私の先輩です」といいますと、「先輩」という言葉は最近あまりきかなくなった」、というのです。私は親しみを込めて重役のユさんを先輩と呼びます。ハングルの発音も「ソンペ」(선배 )です。

韓国語(-朝鮮語)には、固有語と漢字語があります。漢語(한자) の使用頻度はあまり高くなく、通常はハングル (한글) のみで表記され、今の韓国では漢字語のみに漢字が使われるようです。1970年から始まった漢字廃止政策の結果だといわれています。ちなみに、ハングルのハンは偉大な、クルは文字という意味です。我が国のひらがな、カタカナにあたります。

ユさんはスポーツが好きです。朝、ソウル市民の憩いの場、南山公園(ナムサンコンウォン–남산공원 )に案内してくれました。ソウルのランドマーク、ソウルタワーもここにあります。南山公園を楽しめるハイキングルートはいくつかあります。

そこをユさんと一緒に20分ほど走りましたが、大柄なユさんについて行くのは大変でした。公園の一角にバトミントンをするグループがいまして、ユさんがそこにも案内してくれました。一緒にやろうというのです。彼はこの同好会に入っていて、毎週仲間とやるのだそうです。会員は40代から50代の人です。

しばらくすると鍋が運ばれてきて、チゲ(찌개)が振る舞われます。当番になった仲間が作ってくるそうです。「たくさん食べてください」 と声をかけられて嬉しくなりました。汗をかいたあとのチゲは格別です。味がよいのです。スポーツは韓国でも中年以上の人々にも浸透していることを感じたものです。

旅のエピソード その29 「カメラの置き忘れ」

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

ソウル(서울)の北70キロくらいのところに1992年に開館した烏頭山(オドゥ山)統一展望台(오두산 통일전망대) があります。臨津江(イムジン川-이무진강 )を隔てて北朝鮮と向かい合っています。板門店-판문점 や非武装地帯 (DMZ) とは異なり、外国からの観光客も韓国人も自由に訪ねることができます。この展望台は、漢江(ハンガ-한강 )と臨津江が合流する地点にあり、北朝鮮の農村地帯を展望することができます。ここを2度訪ねたのですが、最初は客員研究員でお招きしたソウル教育大学校のチョウ先生、そして2度目は大邱教育大学校のキム先生がそれぞれ案内してくださいました。

統一展望台から見える北朝鮮の農村ですが、かなり立派なアパート群が建ち、公民館、小学校なども見えます。しかし、夜になると電気はつきません。韓国からの脱走者を受け入れる宣伝に造られているのだそうです。望遠鏡で眺めてみましたが、人一人見当たりません。

面白いことに、この展望台の売店では北朝鮮名産の高麗人参酒や北朝鮮の切手、工芸品などのお土産も買うことができます。わずかながら、南北間で貿易も行われていることがわかります。しかし、展望台への道の海側には鉄条網が延々と続き、厳重に警戒されています。そしてところどころに歩哨が立つ小屋があります。

展望台の売店で家内がカメラを手洗いに忘れました。気がついて戻りましたが見あたりません。すぐ数名の警備員に連絡して探してもらいました。先を歩いていたグループの人々を追いかけるのですが、すでにバスは出発したあととのことでした。カメラを紛失し大事な想い出をなくして残念でしたが、親身となってくれた韓国人警備員と触れた旅となりました。お土産を残したと思えばと家内を慰めましたが、、、

旅のエピソード その28 「万里の長城と検閲」

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

北京と上海にそれぞれ一度行きました。同窓生である留学生のSHさんを頼っての研修旅行です。こうしたコネクションによって、旅は円滑につつがなく進むものです。留学生は富山大学を卒業後、兵庫教育大学院を修了し、広島大学院博士課程を終えた異色の中国人です。今は成都市の大学で教えています。

SHさんですが留学中はあちこちで中国語を教え、生計を支えていました。ご家族とで兵庫県の加西市に住んでいました。中国人の奥様はアパレル関連の会社に入り、社長の秘書として頻繁に北京や上海を行き来していました。ご子息は加西市の小学校に入り、その優秀さは抜きんでていたようです。

北京にいきますとSHさんが空港に迎えにきてくれました。ミニバンをチャーターしてくれてホテルに向かいましたSHさんのお父さんは、かつては中国政府の経済担当の上級公務員であったようです。高度経済成長の最中、日本にたびたびやってきては日本の経済成長の姿を調べていたというのです。鉄鋼会社やその工場をまわり経営の実態をつぶさに視察したそうです。

SHさんのお父さんが我々一行を夕食会に招待してくださいました。紹興酒を何度も酌み交わしました。北京ダックも食卓に並びました。今は引退されて年金で悠々自適の生活を送っていると話されていました。日本での調査のことについてもエピソードを語ってくれました。

翌日、ミニバンに乗って万里の長城へ向かいました。到着すると警察が車を一台一台調べているのです。許可をもらって万里の長城に来たかを調べているのです。そこに日本人学生を乗せた別のミニバンが来ました。その運転手は許可をもらっていなかったようです。多額の罰金を科せられるそうです。SHさんは我々のためにきちんと許可をもらっていたので、なんのお咎めもありませんでした。中国の検閲体制を垣間見た旅でした。

周りに観光客がいないのを見計らい万里の長城の上を、100メートルほど走ってみました。長城のもう一つの思い出といえば素朴なトイレでした。同行していた家内ら女性は面食らったようです。

旅のエピソード その27 「ハワイの日系アメリカ人」

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

日系アメリカ人の活躍は前々回に少し述べました。ハワイに移民した最初の人々は一世(Issei) 、そして今や四世(Yonsei)から五世(Gosei)へと受け継がれます。ちなみに、こうした単語はすっかり英語として定着しています。

日系アメリカ人は、長い間偏見と差別に苦しみました。そのために生活も苦しかったようです。懸命に働き、教育を大事にし、善良なアメリカ市民になろうと努力しました。ハワイ大学より兵庫教育大学に客員研究として招いたカーティス・ホー(Dr.Curtis Ho)教授は、中国人と日本人との間に生まれた方です。小さな島で育ち、やがて奨学金をもらい本土の大学で学び、研究者となりました。父親は厳しい労働に従事し、稼いだお金を彼の教育のために注いだそうです。

日系人がアメリカ社会での地位を確立するには、「勤勉な働き者」「清潔好き」「礼儀正しい」「約束をきちんと守る」といった矜持の定着が必要でした。こうして日系人は確実に善良な市民としてのイメージをアメリカ社会に定着させていきます。

日系人の活躍です。1963年にダニエル・イノウエ氏(Daniel Inoue) が初の日系上院議員となります。ジョージ・アリヨシ氏(George Ariyoshi) が1974年に第3代ハワイ州知事に就任することで、日系人の地位や役割が不動のものとなります。1978年 エリソン・オニズカ氏(Elison Onizuka) が日系人として初の宇宙飛行士に選ばれます。ですが、乗り込んだチャレンジャー(Challenger) が爆発し亡くなります。1988年には、第40代のロナルド・レーガン(Ronald Reagan)大統領が、大戦中に人種差別政策により日系人を強制収容所に連行した歴史に謝罪し、一人につき2万ドル(約200万円)を補償したのは目新しいことです。

旅のエピソード その26 「マウナ・ケア山とすばる」

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

ハワイ島は火山の島です。そこには広大な国立公園があり、沢山のハイキングコースがあります。その総延長は150マイルといわれています。230キロくらいでしょうか。今も火山が活発に活動しています。噴火の跡の溶岩(ラーバ)はまだ弾力があって、足の裏に伝わってきます。風で運ばれた種が育ち、あちこちに草木が地面を覆っています。ビジターセンタを訪れると、大噴火のすさまじさが映像と写真で紹介されています。最近の大噴火は1984年に起こりました。

ハイキングコースを歩きますと、噴煙や蒸気が沸き上がっています。歩く途中では、水平線から水平線にまたがる完全な半円形をした虹をみることができます。日本では見られない光景です。

島最大の街ヒロ(Hilo)から四輪駆動のワゴン車を借りて、島の最高峰マウナ・ケア山(Mauna Kea)4200メートルに向かいました。マウナ・ケアの山頂付近は天候が安定し、空気が澄んでいます。晴天日は年間300日にのぼるといわれます。世界11ヶ国の研究機関が合計13基の天文台を設置しています。日本の国立天文台が1999年に設置した光学赤外線望遠鏡の「すばる」もここにあります。天文台からのデータは、山裾にある研究施設に送られ分析されています。

事前に三鷹にある国立天文台から見学許可をもらい、兵庫教育大学の院生らとでこの国立天文台を見学する機会を得ました。中の施設に案内されたのですが、同行した院生には理科の教師がいて、天文台の偉容に圧倒されたようでした。