旅のエピソード その24 「マウントバーノン」

Last Updated on 2021年1月30日 by 成田滋

「マウントバーノン」。なんとものんびりする響きです。英語ではMount Vernonというスペルです。全米各地にマウントバーノンという街が沢山ありますが、その中でも最も知られているのが、ワシントンDCの南、車で1時間のバージニア州(Virginia)のアレクサンドリア(Alexandria)にあるマウントバーノンです。

マウントバーノンは、合衆国初代大統領ジョージ・ワシントン(George Washington)の農場(Plantation) や邸宅があります。邸宅は、新古典主義ジョージア調建築様式と呼ばれる木造の建物です。ジョージア調建築とは、建物がシンメトリー(左右対称)を基本としていることです。その東側にはポトマック川 (Potomac River) が控え、周りは広い農場が広がります。いまは国が定めた歴史的建造物として保存され、全米からの観光客が訪れるところです。

マウントバーノンは年中無休。祝日やクリスマスでも開放されています。わたしたちはワシントン家の邸宅、納屋、物置、奴隷用宿舎、台所、厩、温室など見てあることができます。案内人がついています。この農場内の庭園や森の小道を散策することができます。当時は100人あまりの黒人奴隷が働いていて、この農場を開拓したことがわかります。

ここにワシントン夫妻の墓所があります。奴隷の記念碑や墓地もすぐそばにあります。2度目にこの墓所を訪ねたときです。なにか、得体の知れない匂いがこのあたりに漂っていました。もしかして、ワシントンのお墓から、、、などという不遜なことを考えました。実のところ、この匂いは農場に撒いている鶏糞かなにかの腐った匂いなのです。

旅のエピソード その23 「ミニットマンとチップ」

Last Updated on 2021年1月29日 by 成田滋

ボストン(Boston) の西20kmにレキシントンとコンコード(Lexington-Concord)という街があります。周りは静かな農村地帯です。この小さな街で1775年の4月に独立戦争(Independence War)における最初の大規模な戦いが植民地軍とイギリス軍とで繰り広げられます。植民地軍は正規の兵士と民兵によって組織されていました。民兵の多くは農民です。農作業や狩猟をしながら、召集されると数分(minute)で駆けつけるというので、ミニットマン(minute man)と呼ばれていました。民兵には狩猟をしていた者が多数いたので、狙撃手としても活躍したようです。

毎年7月4日の独立記念日や夏の週末になると、レキシントンとコンコードのあちこちで観光客を相手にしたツアーがあります。地元の高校生がミニットマンに扮して、観光客をガイドします。こうした高校生は、歴史を学びスピーチの仕方を覚え、やってくる人々をもてなす術を学び観光客に披露します。観光客をいかに話に乗せるか、これが勝負所です。まさにエンターテイナー(entertainer)です。その演技の出来ばえはすぐに表れます。

ミニットマンのスピーチや演技に皆引き込まれていきます。ツアーの最後には、「我々に自由と独立を、そして勝利を!」と皆で絶叫し、かぶっていた帽子をとって観光客の中に回すのです。人々は皆ニコニコして1ドルから10ドル札のチップ(tip)を入れて帰ります。チップを渋る観光客はいません。実に秀逸で飽きを感じさせない、なんとも気持ちの良いツアーです。

旅のエピソード その22 「ボストン・ティーパーティ」

Last Updated on 2021年1月28日 by 成田滋

ボストン(Boston) は味わい深い町です。アメリカの短い歴史にあって、歴史が始まった場所でもあります。ボストンには「Freedom Trail」という市内の歴史的な建造物や場所を訪ね歩くコースがあります。自分で地図を見ながら歩いて市街を巡るのです。

ダウンタウンのど真ん中には、グラナリー墓地(Granary Burying Ground)があります。政治家のサミュエル・アダムス(Samuel Adams)、コモンウェルスの初代知事となったジョン・ハンコック(John Hancock)らが眠っています。その隣にある公園がボストン・コモン(Boston Common)という広大な公園です。多くの人々が散歩しています。小高い丘、バンカーヒル(Banker Hill) は、1775年6月に起こった植民地軍とイギリス軍の戦跡です。植民地軍は激戦の末に敗れるのですが、そこでの頑強な抵抗精神はその後の戦いに受け継がれていきます。
ボストン・コモンから歩いて10分位のところにボストン・ティーパーティ(Boston Tea Party)が起こったという波止場にきます。1773年12月に、地元の人々がアメリカ・インディアンに扮装して、港に停泊中のイギリス船に侵入し、イギリス東インド会社の船荷であった紅茶箱をボストン湾に投棄した事件です。いわば独立戦争前のゲリラ戦で、アメリカ独立革命の象徴的な出来事とされています。

ティーパーティの場所には小さな船が係留されていて、そこで入場料を払って乗り込みます。案内の人は、観光客に対して当時の人々が紅茶を投げ捨てるという演技を求めます。「イギリスは出て行け!」、「われわれのお茶を盗むな!」、「われらに自由を!」こうしたスローガンを大声で叫びます。そしてお茶箱にみたてた袋を海に投げ捨てるのです。このように観光客に歴史の瞬間に引き戻そうとする趣向と仕掛けは、どの観光地でも見られることです。

旅のエピソード その21 「プリマスとメイフラワー号」

Last Updated on 2021年1月27日 by 成田滋

ボストン(Boston) の南東、車で1時間のところにプリマス(Plymouth)という街があります。港町です。ここには1620年にイギリスのブリンハム(Bringham)という港から大西洋を渡ってきたメイフラワーII(Mayflower)号のレプリカ(replica)が停泊しています。

メイフラワー号にある説明によると、清教徒(Puritan)らが長く苦しい航海を続けて、やってきたことがわかります。ヨーロッパでの宗教的な迫害を逃れて新大陸を目指した人々の心意気も伝わる船です。

このプリマスから5キロのところにプリマス・プランテーション(Plymouth Plantation)という開拓村が保存されています。1627年に人々が入植した場所です。インディアンの攻撃から護るために作られた木の柵で囲まれた広大な部落です。住居、ベーカリー、鍛冶屋、店、教会、学校、畑が点在しています。

ここで働く人々は開拓当時の服装といういでたちです。この開拓村はすべて1600年代という設定なのです。使っている道具、家財も当時を復元しています。ですから、観光客もその時代に遡って、そこで働く人々と会話することが期待されます。

「このお土産品は何ドルですか?」と観光客がたずねます。そうすると店員は「ドルって何ですか?」と逆にきくのです。さらに客が「私は日本からきた」とか「このプランテーションをインターネットで知ってやってきました。」というと店員は「日本ってどこにあるのですか?」「インターネットって何ですか?」と惚けるのです。そこで始めて観光客は、「ああそうか、、ここは1600年代なんだ、、」とわかるのです。珍妙な会話が楽しめるところでもあります。

旅のエピソード その20 「フットボールは情報合戦」

Last Updated on 2024年12月31日 by 成田滋

秋にアメリカへ行くときは是非カレッジ・フットボール(college football)を観戦していただきたいです。週末はかならずといってよいほど、どこかで試合をやっています。入場料は20ドルくらいです。

スタジアムへ行きますと、駐車場ではグリルでハンバーグやホットドックを焼いて景気をつける人々がいます。学生寮の側を通ると、ラジカセやCDプレーヤーのボリュームを一杯に上げて試合前の雰囲気をあおっています。学業からしばし解放された若い学部生がなにかを叫んでは気勢を上げています。いやがおうでも興奮が高まります。

フットボールは情報合戦のスポーツです。高いスタンドには偵察チームが陣取り、攻撃や守備のコーチに相手チームの弱点や強みを無線で教えるのです。戦争でいえば衛星を使って戦場を監視するようなものです。ラン(run)でいくかパス(pass)でいくか、キック(kick)で陣地を挽回するか、あるいはギャンブルするかなどの決定に必要な情報を与えるのです。

クォーターバック(QB)はチームの司令塔、いわば前線の指揮官です。それを動かすのが偵察チームからの情報であり、それに基づいてQBにプレイを指示するのが攻撃(offece)コーチや守備(defence)コーチです。一つひとつのプレイについて、コーチからの指令を受けたQBは円陣を組んで選手にそれを伝えます。この円陣のことをハドル(huddle)といいます。

選手は勝手な行動は許されません。一つ一つのプレイがこうした偵察チームからの情報によって決められます。戦争遂行の作戦と同じです。プレイのパタンはさまざま。それを組み合わせるのです。相手チームも同じように作戦を立てます。いかにして相手の裏をかくか、意外なプレイをするかをスタンドで予測するのがフットボールの醍醐味といえます。

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旅のエピソード その19 「フットボールとビジネスモデル」

Last Updated on 2021年1月25日 by 成田滋

アラバマ州(Alabama)の小さな街タスカルーサ(Tuscaloosa)にアラバマ大学(University of Alabama)の本校があります。1831年に創立された州立の総合大学です。タスカルーサのあたりは、南部の南部、Deep Southと呼ばれます。街を歩くと白人はあまり見かけません。なんとなく寂しさが漂う街です。「南部に来た」という気分になります。

アラバマ大学はカレッジ・フットボールでは強豪として知られています。かつてポール・ブライアント(Paul Bryant)というヘッドコーチ(監督)の指揮により、計13度にわたり全米チャンピオンとなっています。このコーチのニックネームは「ポール・ベア(Paul Bear)」として親しまれました。トム・ハンクス(Tom Hanks)主演の映画「フォレスト・ガンプ(Forrest Gump)/一期一会」はアラバマ大学フットボール部がモデルとなっているほどです。

アメリカのカレッジ・スポーツでは、フットボールが稼ぐ収入と貢献度は突出しています。多くの大学では全スポーツからの収入の6割前後をフットボールで占めるくらいです。収入の多いスポーツとしてはバスケットボール、アイスホッケーなどが続きます。それだけにフットボールのヘッドコーチの年収も桁外れです。その額は大学の総長をはるかに凌ぎます。

フットボールチームのコーチで最も高い契約金をもらっているのが、アラバマ大学のニック・セイバン(Nick Saban)で約8億5000万円、第二位はミシガン大学のジム・ハーボー(Jim Harbaugh)で約8億4000万円をもらっています。大学で最もスポーツからの収入が多いのはテキサス大学で約98億円、第五位のウイスコンシン大学も約77億円の収入があります。これが収入のない他のスポーツ活動の運営を支えています。選手達の奨学金にも振り分けられています。

カレッジ・フットボールは全米に放映され、その広告料は膨大なものです。フットボールは大学のビジネスモデルの典型です。「”ポール・ベア”・ブライアント」はビジネスモデルを全米に知らしめた偉大なコーチとして今も語り草になっています。

旅のエピソード その17 「真っ青になった経験とスリ」

Last Updated on 2021年1月24日 by 成田滋

私も忘れ物で真っ青になったことが二度あります。大学の同僚とでバージニア州(Virginia) の学校や教育委員会を回り、ある調査を依頼したときです。調査のほうは幸い先方が極めて協力的で、質問紙を丹念に検討してくれて 「これでいいだろう」 ということになりました。

翌日は気分良く電車に乗って、ワシントンDCのモール(Mall)にあるスミソニアン(Smithonian)の博物館巡りにでかけました。スミソニアン協会は17の直営博物館や美術館を運営する世界一の組織です。いくつかを回り終えて、おしまいはアメリカ・インディアン博物館(American Indian Museum)へ入りました。そこの小さな講堂でビデオを観ての帰り、椅子にパスポートやカード、現金、カメラをいれたバックバックを置き忘れました。忘れ物に気がついたのは博物館をでて30分くらいです。その瞬間、目の前が真っ白になりました。急いて戻り、係員にきくと預かっているというのです。

二度目は台北に行ったときです。ホテルの食堂でビュフェスタイルの朝食をとり、手洗いにいきました。パウチをはずしてフックにかけ用をたしたのです。そして部屋に戻りましたが、キーがないのに気づきました。その間5分くらいでしたが、、急いで戻るとトイレにパウチがありません。受付にありました。掃除婦が届けてくれたというのです。その方にお礼を渡そうとしましたが、受け取りません。持ち物は、椅子に置いてはいけない、肌身外さず持て、という教訓でした。

持っていたパウチは、スペインのバルセロナの電車内でスリ(Pickpocket) に遭いそうになりました。腰の辺りで変な感覚がしたので、見ると隣の男の指がパウチのジッパーをはずそうとしていました。ズボンのジッパーでなくてよかったです^_^; 平和や安全ぼけは日本にいる間だけ通用するようです。

旅のエピソード その16 「州の鳥はモスキート」

Last Updated on 2021年1月22日 by 成田滋

旅のエピソードにはこのジョークやユーモアを何度も取り上げています。アメリカ人との会話では、ジョークが頻繁にでてきます。

ミネアポリス(Minneapolis) には頻繁に行きました。必ずなにか話題が生まれるところです。実は、私に洗礼を授けてくれたルーテル教会の牧師先生がミネアポリスの郊外に住んでいました。かつて札幌で長く働いていた方で日本語もたいそう流暢です。一度家族でこの方を訪ねました。1980年頃です。夕食でいただいたのは初めてのラザーニア(Lazanya)でした。

道で立ち話をしていると蚊にバンバンくわれるのです。実はミネソタ州には11,000以上の湖があるのです。氷河が残したのです。自動車のナンバープレートには”The Land of 10,000 Lakes”と印字されているくらいです。道路はそのため湖を巻くように走ります。迂回せざるをえないのです。この大小たくさんの湖が蚊を「育てている」のです。

始終手で蚊を追い払わなければなりません。ミネソタ州の鳥は「蚊:モスキート」であるというジョークを教えてもらいました。どこにでもいて、いつでもみられる最も厄介なものというのを皮肉っています。

旅のエピソード その15 「ルートビアと長男の誕生」

Last Updated on 2021年1月21日 by 成田滋

私が始めて海外に行ったのは1968年5月。マレーシア(Malaysia)のクアラルンプール(Kuala Lumpur)です。ここでキリスト教の学生会議がありまして、幸い派遣されて出かける機会を得ました。生まれてはじめてパスポートをとり、 東京のマレーシア大使館でビザをもらいました。

宿舎となったのは、クアラルンプール郊外のペタリンジャヤ(Petaling Jaya) という地区にあったセミナーハウスでした。宿舎の郊外にA&Wという、いわゆるファーストフードのレストランがありました。ここで始めてハンバーガーを知りました。飲み物ででたのは「ルートビア」(Root beer)です。これは、アルコールは含まれておらず、約14種類以上のハーブを原料としたドリンクです。正露丸に似たような実に不思議な飲み物だな、と思いました。今飲んでみますと、コーラとクリームソーダを足したような味がします。

3日間の会議は、今もってなにを討議したのかは覚えていません。会議の内容を理解するには英語力が低すぎました。討議に参加するどころではありませんでした。しかし、この会議を機に英語の理解力をつける必要があることを痛感して帰りました。これが唯一のお土産です。

マレーシアからの帰り際に、北海道で地震があったことを報道で知りました。家内が臨月だったのでどうなったかが心配でした。札幌に戻りますと長男が無事生まれていました。忘れられない海外初旅行です。

旅のエピソード その14 「簡易トイレ」

Last Updated on 2021年1月20日 by 成田滋

オランダ(The Netherland)はアムステルダム(Amsterdam)での話題です。中央駅を中心に市内に網の目状に運河が広がります。17世紀の豪商の邸宅などが運河に沿って並びます。アンネ・フランク(Anne Frank)の隠れ家が今は博物館となっています。中央駅から徒歩5分にある飾り窓(Red-light zoon)も運河に沿いにあります。

オランダは自転車の国です。アムステルダムの中央駅付近には巨大な駐輪場があります。車道と歩道の間に自転車専用路が設けられています。アムステルダムでは、約50%の市民が自転車で通勤通学するのだそうです。エコを最も先取りしている国の一つといえましょう。

オランダといえば東インド会社 (East India Company) が知られています。創立は1602年。世界初の株式会社といわれています。東インド会社の発展によってオランダ本国は17世紀に黄金時代を迎えます。日本でも長崎において交易を許されていたのはご存じの通りです。しかし、欧米の国々がアジアに次々と進出するにつれてオランダの影響は衰退していきます。17世紀には3回にわたるイギリスとの戦、フランスとの戦いで国力を消耗していきます。第二次大戦中、ジャワ諸島は日本に占領されオランダは撤退します。しかし、オランダは戦後は再びインドネシアに侵攻してインドネシア独立戦争を仕掛けますが、敗れてアジアから完全に手をひくという歴史をたどります。

前置きが大分長くなりました。「簡易トイレ」の話題です。アムステルダムのダウンタウンで夕食をして、広場をブラブラしていました。そこに警察らが簡易トイレを設置していくのです。男性用だけです。四角い形をしていて四人が小用を足すことができるものです。ところが扉はなく、周りから丸見えなのです。これも文化なのだなーと、同行者とで変に感心することしきりでした。

旅のエピソード その13 「自転車と雨」

Last Updated on 2021年1月19日 by 成田滋

かつて兵庫教育大学で外国人研究員としてお世話をしていた方の大学を訪ねて、オランダのトエンテ(Twente)という街へ行きました。このときも大学院生が加わっていました。トエンテは首都アムステルダム(Amsterdam)から電車で2時間、ドイツの国境近くにあります。

オランダはネーデルラント(Netherland)とも呼ばれます。「低地地方」という意味だそうです。俗にダッチ(Dutch)とかホランド(Holland)という呼び方もされます。13世紀頃から干拓が始まり、今や海面下にある面積は国土の1/4といわれます。オランダは早くから世界へ進出し、特にアジアとの関わりはジャワ島(Java Island)を中心とするオランダ領東インドネシアの支配や日本との交易などに伺われます。その中心は東インド会社(East India Company)です。江戸の鎖国下で唯一外交関係を結んでいた国です。オランダからもたらされた学問や技術は蘭学と呼ばれました。

アムステルダムといえば、大戦中にフランク一家らがナチスから逃れて、隠れ家で潜行する姿を記録した「アンネの日記」を思い出します。ゴッホ(Van Gogh)やルーベンス(Rubens)などの画家を輩出し、その美術館も素晴らしいものです。

トエンテの街に着いて気がついたのが自転車が多いことです。子どもも結構なお年寄りも自転車に乗っているのです。そして自転車道がどこにもあるのです。かつての研究員とで夕食をすることになりました。レストランはダウンタウンにありました。その日は雨です。ややして、その方の家族がやってきました。二人の小学生の娘も一緒です。雨合羽を着ています。家から自転車でやってきたというのです。

オランダで自転車の人気が高い理由です。国土は平坦でそれほど体力を使わずにすみます。市街地は多くの場合、自転車の利用者と歩行者が自動車よりも優先されるようになっているのも興味あります。人口1人あたりの自転車台数は1台で、移動の際に用いられる交通手段としてのシェアは27%を占めるというのも、利用者への手厚い対策によるものでしょう。雨でも晴れでも安全に自転車に乗ることができる文化があるようです。

旅のエピソード その12 「グアムと食堂の青年」

Last Updated on 2021年1月17日 by 成田滋

私はどこへ行っても人に話しかける癖があります。道を聞くとき、安くて美味しい食堂を探すとき、他愛のない会話をしたいとき、英語を使いたくなるとき、なにかの評判が確かかを調べるとき、などです。

グアム(Guam)に始めて行ったとき、レンタカーで島をぐるりとまわりました。ダウンタウンから西へ走ると 太平洋戦争国立歴史公園 (War in the Pacific National Historical Park)という歴史記念公園があります。そこのビジターセンターに立ち寄りました。旧日本軍の潜水艦や魚雷が庭に展示されています。大戦開始前にはアメリカの統治下にあったのを日本軍は1941年から1944年までグアムを占領します。元日本兵横井庄一さんがグアムのジャングルで発見されたのが、氏が戦地グアムに送られてから約28年後の1972年でした。

ビジターセンターの受付で「このあたりで地元の美味しい料理を食べれるところはないか」と聞きました。「あそこの観光地はいい」とか「そこは行ってもつまらない」、といって親切に教えてくれるのです。ここのビジターセンターにはあまりに日本人観光客はやってこないのだそうです。

案内された食堂はど田舎にありました。素朴な格好をした一人のグアムの青年が調理しています。そこに友だちの若者がやってきて、屋外に並べられている食卓を一緒に囲みました。一人目は数ヶ月後にアリゾナで兵役につくこと、二人目はグアム大学(University of Guam) で農業を勉強し始めること、三人目はこの食堂を継ぐというのです。皆それぞれ自分の目標をもっていて好感がもてました。このような会話は田舎でしか出来ません。

旅のエピソード その11 「ボディは部厚く」

Last Updated on 2021年1月16日 by 成田滋

アメリカのジョージア州(Georgia) に2か月生活したことがあります。ローターリークラブ(Rotary International) からの奨学生としてそこで英語の研修を受けたときです。マスターズ・ゴルフコース(Masters Golf)のあるオーガスタ(Augusta)の東、車で1時間のところにある小さな街ステイトボロ(Stateboro)です。

1978年の7月と8月。家族との始めてのアメリカ生活です。この街にきて驚いたの、富める人と貧しい人が住み分けしていることでした。車で走ると街のたたずまいや雰囲気がはっきり違うのがわかります。富裕層と貧困層、白人と黒人の対照がはっきりしています。

日本車はほとんど目にしない時代でした。日本の製品は「安かろう、悪かろう」という言葉が流布する頃です。走っていた車のほとんどは大型のセダンです。かつて日本で働いていた宣教師から譲ってもらったGMの車はシボレーシェベル, マリブ(Chevrolet Chevelle Malibu) というのでした。ボディは部厚く、押してもボコボコしないのです。こうした車は当時「タンク」と呼ばれていました。燃費などは話題視されないほどガソリンが安い頃でした。ボンネットを開けると地面が見えるほどエンジン部分がすかすかしているのです。ですから、自分で部品交換などメインテナンスができるのです。「Do It Yourself -DIY」(自分のことは自分でやる)というフレーズを知ったのもこの頃です。

旅のエピソード その10 「座席のダブルブッキング」

Last Updated on 2021年1月15日 by 成田滋

たまにあることですが、空港のカウンターでチェックインをしようとするとき、ダブルブッキング(Double Booking)があります。最近このようなことを聞かないのは、予約システムの高性能化によるようです。こうしたトラブルがなくなると、少し淋しい気にもなります。

これまでダブルブッキングを3度経験しました。さもしい性格のせいか忘れられません。最初はバンクーバー(Vancouver)に行くとき、2度目はミネアポリス(Minneapolis)へ、3度目はバンコック(Bangkok)へ行くときです。バンクーバーへは、院生と一緒でした。満席なので、別の会社の4時間後の便に乗ってくれ、というのです。ファーストクラス(First Class)というので喜んで申し出を受けました。しかし、院生は先に行くことになりました。私がいないと困るという院生もいましたが、ホテルで会おうと言って別れました。

ファーストクラスに乗るのは始めてです。離陸前からワインやビールがテーブルに置かれます。実に快適な待遇に感心しました。フライトアテンダントは、長年勤めるベテランです。対応ものんびりして落ち着いた立ち居です。エコノミークラスのフライトアテンダントとは大違いです。「シニョリティ」(Seniority)という年功序列があって、長年勤めた者がファーストクラスを担当するのです。

2度目は、ミネアポリス行きのときです。このときはエギュゼキュティブ(Executive)の座席で、同行の教師と隣り合わせになりました。この教師は機内で美味いものを沢山食べたせいか、ホテルに入ると歯が痛い、歯が痛いというのです。ダブルブッキングではこういうエピソードも生まれるのですから面白いです。

3度目は香港からバンコックへ行くときです。チエックインをするとき、「あなたは2時間の王様です」といって、にっこりしてくれました。ジョークがうまいですね。王様です、という表現に気に入りました。ファーストクラスでは至れり尽くせりのもてなしを受けるという意味です。「旅はダブルブッキングに限る」です。

旅のエピソード その9 「ワインと運転」

Last Updated on 2021年1月14日 by 成田滋

北島と南島から成るのがニュージーランド(New Zealand) です。年間の旅行者が240万人以上という観光立国です。友人を訪ねて北島の南端近くにあるパーマストン(Palmerston) という町へ行きました。その友人はインド系の研究者で、兵庫教育大学で客員研究員としてお世話した方です。

休日を利用して車で北島の最南端に位置する首都ウェリントン(Wellington)の観光に出かけました。落ち着いた港町です。観光後、カーフェリーで南島にわたり、クライストチャーチ(Christchurch)にある約140年の歴史を誇るカンタベリー大学(University of Canterbury)を訪れました。2011年の大地震が起こる前です。23人の日本人も亡くなる出来事でした。

クライストチャーチでホエールウオッチング(whale watching) ができるという情報を得ました。1泊がてら鯨が出るという湾のある町に車をとばしました。観光船に乗ると数頭の鯨が湾を回遊しているのが見えます。説明では年中この湾に住み着いているそうで、地元の人は親しみをこめて鯨に名前までつけています。

帰りのドライブは快適でした。ブドウ畑が道の両側に広がります。ワインを飲みたくなる光景です。休憩がてらワイナリーに立ち寄りますと、旅行者らしき一行8名がワインを楽しんでいます。店の人に聞くと看板を指してくれました。それには次のように書いてあります。「運転手はグラス2杯までは飲んでよい」。なんと粋な計らいなのだろうと感心しました。帰り道に車から降りて、満天の星空に浮かぶ南十字星(Southern Cross) に家内とで見とれました。

旅のエピソード その8 「フライトアテンダントに声をかけては、」

Last Updated on 2021年1月13日 by 成田滋

どんな職業も楽なものはありません。職業を大まかに分けると主に体を動かすもの、頭を使うもの、その組み合わせのもの、というように分類されるかもしれません。国際線のフライトアテンダント(Flight Attendant)の仕事はどうでしょうか。毎回乗る人は異なりますが、仕事は主に食事の配布と片付けなどが中心です。満員のジャンボジェット内では、大変な重労働だと察します。あまり頭を使わなくてよい仕事かもしれませんが、疲れは相当でしょう。おまけに時差がつきまといます。体調の管理をどうしているのかが気になります。

アメリカでの学会発表に行くときです。機内で英語での発表資料を点検し、原稿を暗記しようとしていました。発表はできるだけ聴衆を見ながら、適度に身振り手振りで発表します。原稿の棒読みはいけません。発表の仕方は、「トーストマスター」(Toast Master)という大勢の人前で話すスキルを高めるクラブで学んだことがあります。何度も冷や汗をかきながら自分の発表の練習をしたものです。

座席で懸命に練習をしていると、女性のフライトアテンダントがやってきたので、「これから学会にいくのだ」と原稿を見せながら声をかけました。学会が開かれる町や学会の特色を説明し、たどたどしく学会発表の概要を話すと「頑張ってね」と声をかけてくれました。ややして彼女は白いフキンに包んだワインのボトルを持ってきて「グッドラック」と激励してくれ、そのワインをくれました。少々びっくりしましたが、なにか良い旅が待っているような心持ちになりました。

機内では、フライトアテンダントも乗客も退屈なので、なにかしら会話をしたいと思っています。機内でもちょっとしたことで、必ず一つや二つの楽しい思い出ができます。会話で避けたいことは、何度も「ビールを持ってきて欲しい」とか「コーヒーをお願いします」と頼まないことです。アテンダントに嫌がれます。なにか欲しい時は、自分でキャビンに行って頼むのです。

旅のエピソード その7 「パスポートは腹まきに」

Last Updated on 2021年1月12日 by 成田滋

旅をしていて最も困るのは、物を忘れたり紛失することです。特にパスポート(旅券)やクレジットカードの紛失は深刻です。かつて院生がサンフランシスコ(San Francisco)のホテルのロビーにバックパックを置いたまま手洗いに行き、無くなっていたことがあります。幸い、領事館に駆け込んでパスポートを再発行してもらい帰国できたました。

ニューメキシコ州(New Mexico)のアルバカーキー(Albuquerque) でもパスポート「事件」がありました。アルバカーキー一帯にはプエブロ(Puebro)・インディアンの人々がたくさんいます。その歴史を伝える博物館(Indian Pueblo Cultural Center)に行ったときのことです。博物館を見学をして帰りの車中で、一人の院生が「パスポートがない」というのです。

仕方なく博物館に戻って探すことにしました。受付にいたプエブロ・インディアンの男性に事情を話しましたが、案の定遺失物として届けられていません。パスポートがないと出国も帰国もできないという事情を話ますと、男性が爽やかな笑いを浮かべて 「兄弟よ、心配することはない、ここに永住すればいいんだよ」というのです。これは慰めというか、一種のジョークです。

仕方なく連絡先を告げて別の場所を探すことにしました。結局パスポートは出てきません。ホテルに戻ると院生から 「スーツケースにあった」という報告です。院生はさすがにバツが悪かったのか、「お詫びのしるしに今夜の夕食は皆さんにおごります」と宣言しました。皆、歓声を上げて「また頼むよ、、」と冷やかします。

旅のエピソード その6 「フライトアテンダントのジョーク」

Last Updated on 2024年12月31日 by 成田滋

フライトアテンダント(Flight Attendant) には、「スチュワード」(Steward)と「スチュワーデス」(Stewardes)がいます。男性と女性とで使い分ける単語です。今ではこの言葉は航空会社では使わなくなりました。スチュワードというのは、もともとは「仕える人」という意味です。仕える人になるための心掛けや礼儀作法のことをスチュワードシップ(Stewardship)といいます。

ある冬の真っ最中、ワシントンDC(Washington DC)からミネソタ州ミネアポリス(Minneapolis)の便に乗りました。座席で離陸を待っていると、スチュワードが出発の案内を始めます。窓からは地上の係員が翼に不凍液を噴射しているのが見えます。

ミネアポリスはカナダに近く、DCよりももっと寒い町です。「ただいまから当機はハワイのホノルルに向かいます。」乗客は一瞬キョトンとして、一斉に「やった、やった、、」と大騒ぎです。なにせ皆寒いミネアポリスに向かう人ばかりですから、常夏のハワイへは夢のような旅です。

彼はすまし顔で、「残念ながら、機長の判断でミネアポリスに行くことにします。」こんなユーモアは日本ではひんしゅくものでしょうが、アメリカではとても受けるのです。罰せられるどころか、「実に面白いユーモアだ」とニュースになる位です。

こんなこともありました。離陸の際にフライトアテンダントが「ただ今からこの飛行機は、、、、、本便は、、、、、、」行き先を言わないのです。「失礼しました。行き先を忘れました、、、ああ、、当機はボストンへ向かいます。」こんなすべった調子でも誰も非難しません。ユーモアですむのです。

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旅のエピソード その5 「Yes, Noとトップ!」

Last Updated on 2021年1月9日 by 成田滋

院生との研修視察旅行では半年前から、先方と交渉を始めます。特に学校の訪問が主なので、こちらがなにを調べたいか、どんな人に会いたいか、どんな資料が欲しいか、などを相手に伝えることからスタートします。視察旅行では、ゼミ生以外にも講座の院生に広く呼びかけて参加を募ります。院生のほとんどは教師なので、研修資金にはあまり不自由はしません。しかも、大学院で研究する身分ですから時間はたっぷりあります。

研修旅行に際しては、こうした院生の世話を私は余りしません。ホテルのチェックインや相部屋の決め方、訪問先への道を尋ねることなどは院生にやってもらうことにしています。皆れっきとした大人なのですから、自分でやって貰うのです。英語というハードルはそこにはありますが、、、今回の話題は外国の空港での手荷物カウンターでのやりとりです。

手荷物を預けるとき、空港の係員は、旅行者がなにか不審なものを持ち込まないかを調べます。そこで簡単な質問をします。
 係官 「おかしなものを持っていないか?」
 院生 「はい(Yes)」
 係官 「なにを持っているのか?」
 院生 「いいえ(No)」
 係官 「、、、、、、、」

係官は、怪訝な顔をしてやおらスーツケースを調べ始めました。そしてビニールに入った白い粉のようなものをとり出しました。これは一大事です。Yesと言ってしまったからです。
 係官 「これはなにか?」
 院生 「これはTop,,Top,,」

院生は粉石けんという単語を知らなかったのです。石けんのソープ(soap)ではなく「ディタージェント(detergent)」という単語が正解です。Topとは洗濯石けんの名前です。院生は係官と一緒に別室行きです。それを私たち一行はニヤニヤして見つめます。私もあえて院生に助け船を出すようなことはしません。

やがて院生がスーツケースと一緒に戻ってきました。無事解放されたようでした。しかし、再度の検査で別な係官とまたYes, Noのやり取りをやってしまったのです。係官同士であきれていましたね。「この人騒がせなジャップめ」とでも言いたかったでしょう。あとで、一行は「トップはアカン!」、「トップは持つな!」といって院生らと腹を抱えて笑いました。外国へは粉石けんは必要ありません。ドラッグと間違われます。浴室にある石けんで洗濯すべきでしょう。

旅のエピソード その4 「スピード違反で捕まる」

Last Updated on 2024年12月31日 by 成田滋

院生との研修旅行には必ずレンタカーを使います。主たる目的は学校訪問ですが、それが終わると観光、レストランでの夕食などの楽しみが待っています。そして面白いエピソードです。

ニューメキシコ(New Mexico)のアルバカーキー(Albuquerque)へ行ったときです。ここは砂漠のど真ん中にあるような街です。ビルに上がると360度の地平線が見えます。メキシコの香りが建物、土産品、食べ物などに感じられます。郊外にはロッキー山脈(Rocky Mountains)の南端が見え、そこは指折りのスキー場となっています。アルバカーキーの北には、州都のサンタフェ(Santa Fe)、原爆を製造したロスアラモス(Los Alamos)の街があります。河川、渓谷、山岳などの地形は大陸生成の歴史を見るようです。

さて、アルバカーキー市内を日本製のレンタカーで走っていますと、オートバイに乗った警官に呼び止められました。運転していたのは大阪からきた院生です。警官は制限速度を15マイルもオーバーしているとか言うのです。そこは25マイルが制限速度でした。院生は実にたどたどしい英語で応対し始めました。乗っている者は皆、始めてアメリカに来たような気分でしたから、警官とのやり取りに興味津々です。

院生は国際免許を見せながら、「アイアムソーリー、アイアムソーリー、」です。「アメリカで始めて運転した、、、」などなどたどたどしく説明します。そして、「25マイルだから40キロくらいだ、この車は、日本製だからメーターはキロメーターだろうと思った」と説明するのです。警官は、半分あきれたような顔で「この国はマイルだ。気をつけていきなさい」といって無事解放してくれました。観光客にとっては粋な計らいです。

あとで院生に聞くと「警官とのやりとりは演技でなく、真剣にやったんだ」そうです。皆、迫真の演技に感心することしきりでした。

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旅のエピソード その3 「入国審査官との会話」

Last Updated on 2021年1月7日 by 成田滋

最近の成田国際空港の出入国審査官は、すこしゆとりや笑顔を見せるようになってきたように感じます。始めてやってくる外国人にとって入国審査官とのやり取りによってその国の印象が決まるといっても過言ではありません。入国審査を受ける番になると「ようやくこの国に来たな、、」と、気持ちが高揚します。

毎日何百人もの入国者を相手にする入国審査官は、入国者との生真面目で紋切り型の会話には飽き飽きしているかもしれません。審査官も実は会話をしたいと思っているはずです。私はアメリカへ行くときは、マイレージ(Mileage)を貯めるためにNW航空を使います。今はD航空に吸収されました。このハブ(hub)はミシガン州(Michigan)のデトロイト(Detroit)国際空港です。ここではいろいろな審査官に会いましたが、二つの思い出となるやりとりを紹介します。

私「こんにちは。」
 審査官 「入国の目的は?」
私 「ビジネスです。」
 審査官 「どんなビジネスか?」
私 「学会発表です。」
 審査官 「何の学会か?」
私 「障害児教育です。ハンディキャップです。」
 審査官 「それは大事な勉強だ。」
私 「そのとおりです。その学会でこれからミネアポリスへ行きます。」
 審査官 「ミネアポリスは初めてか。」
私 「ええ、初めてです。ですがミネソタツインズという強いプロ野球チームがあるのを知っています。」
 審査官「野球好きなのか?」
私 「大好きです。ヤンキースも好きです。イチローはシアトルで活躍しています。」
私 「デトロイトに野球チームはありますか?」
 審査官 「タイガースというのがあるよ。まあ、弱いけど。」
私 「それじゃイチローやマツイを引き抜いてはどうでしょうか。」
 審査官 「それはいい考えだ。(ここでニヤリとする)」
 審査官 「ではいい旅を。」
私 「ありがとう。」

実に他愛のない会話です。同じくデトロイト国際空港で、別な機会に家内と審査官とで交わした会話を隣で聞いていたときです。
入国審査官 「アメリカになんで来たのか?」
家内 「観光です。」
 審査官 「ニューヨークへ行くのか?」
家内 「いいえ違います。」
 審査官「フロリダのディズニーワールドか?」
家内 「いいえ、そこにも行きません。」
 審査官 「では一体どこへ?」
家内 「リンカーンです。」
(審査官は怪訝な表情)
 審査官 「リンカーンはどこにあるのか?」
家内 「ネブラスカです。」
 審査官 「ネブラスカでなにを観光するのか?」
家内 「とうもろこし畑です。」
 審査官 「あんたのような日本人は初めてだ。」
家内 「ネブラスカへ行ったことがありますか?」
 審査官 「あそこはアメリカではない。」
妻「、、、、」

こんなジョークをいう入国審査官もいるという実際の小話でした。

旅のエピソード その2 「コンバーチブルに乗るときは雨傘を」

Last Updated on 2021年1月6日 by 成田滋

旅は人びととの出会いです。景色はどうだった、食べ物はどうだったというのはあまり大事ではありません。人との出会いは一期一会なのです。二度と会えないこと、経験できないことがあるのです。まさに「旅は道連れ、世は情け」です。このシリーズでは旅にまつわる失敗事、笑い事、珍事などを紹介してまいります。

旅の思い出は、やはりその国、その場所でないと起こりませんね。例えば「温泉地でカラオケをやっている人びと」というのであれば、台湾の北投(べいとう)温泉となります。アメリカでは公園でのカラオケはありえません。

私は毎年必ず研修と称してアメリカやカナダの学校へ視察に行きました。いつも院生を連れていきます。院生の大半は、教育委員会から派遣されてくる教師です。2年間大学で研究してまた元の学校に戻るのです。中には夫婦でやってくる者がいれば、家族を残して単身でやってくる者もいます。

ハワイに大学院生と一緒にいったときです。一行は8名。私の仕事は、現地の教育委員会や学校と交渉して訪問を段取りすることです。院生は航空券の手配、ホテルやレンタカーの予約、夕食の場所探しなどを担当します。8名で出かけるにはどうしてもレンタカーは2台必要です。院生は2台の車を予約したのですが、なぜか1台はコンバーチブル(convertible)となりました。たたみ込みのルーフ付き乗用車です。

学校を周りホテルに帰る途中、夕立が降り始めました。わたしは通常のセダンを運転しながら、ミラーでコンバーチブルがついてくるのを確認していました。コンバーチブルの中では、院生が屋根を広げようとあたふたしています。車を借りるとき、屋根の広げ方を確認しなかったようです。びしょびしょになりながら、ようやく屋根を広げることができましたが、雨足は弱くなっていました。

The beautiful coastline of Honolulu Hawaii shot from an altitude of about 1000 feet during a helicopter photo flight over the Pacific Ocean with Diamond Head in the foreground.

旅のエピソード その1 「小さな首都タリン」

Last Updated on 2024年12月31日 by 成田滋

私もこれまでいろいろな旅をしてきました。人生は旅ともいわれます。そこでのエピソードを紹介することにします。最初は、エストニア(Republic of Estonia)の首都タリン(Tallinn)です。元大関力士、把瑠都の出身地です。

フィンランド(Finland)の首都ヘルシンキ(Helsinki)からフェリーに乗ってバルト海(Baltic Sea)を3時間で、バルト三国(Baltic States)の一つエストニアの首都タリンに着きます。エストニアは1940年ソ連に占領され、1941年から1944年まではナチス・ドイツに占領されます。第二次大戦中、そして戦後はソ連により支配されます。ようやく1991年に独立回復をかちとり、2004年に欧州連合(EU)に加盟します。大国に翻弄された歴史を有します。他にバルト三国のラトビア(Latvia)、リトアニア(Lithuania)も同じ運命にあってきました。

Tallinn

タリンの旧市街は城壁で囲まれています。世界文化遺産に指定されたタリン歴史地区です。その中に広場があります。古い教会が建ち並び、タウンホール(Townhall)といういわば役場が広場の一角にあります。タウンホールでは、かって集会が開かれていたという説明書きがあります。街中には、商工組合の原点とされるギルトのあった建物があり、政治とは切り離された独自の商行為をしていたことがうかがわれます。その建物は今は歴史博物館となっています。

広場の朝は市場で賑わいます。物と物、人と人が出会います。昔はここで市民集会が開かれ、裁判が行われ、処刑も行われ、そして死者を弔う礼拝も行われました。いわば俗なるものと聖なるものが交わるところでありました。タリンのあちこちに銃弾の跡が残る建物があります。教会の尖塔がそびえ、街はすっかり復興し広場は活気に溢れています。

ガイドに案内されてこうした説明をきいていると、中世に勃興した自治都市というものが、広場を起点として発展したことがわかります。広場の果たした役割とその重要性がすり減った古い石畳に刻まれているようです。小さな国を歩くのも旅の楽しみです。

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