ヨーロッパの小国の旅 その四十六 キプロス共和国

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

地図を見ると地中海の東端、トルコの南、シリアの西に浮かぶのがキプロス島です。世界遺産の遺跡が点在する長い歴史を持つリゾートの島にあるのが、キプロス共和国(Republic of Cyprus)です。首都ニコシア(Nicosia)は、オスマン(Ottoman)トルコからの侵略を防ぐ城壁が残る都市です。世界でただひとつの2つの国に統治される首都という珍しい街です。国連がコントロールする緩衝地帯「グリーンライン」(Green Line)と呼ばれる境界線が街のなかにあるとあります。

キプロスは、長い歴史の中でギリシャ系とトルコ系の住民が住むようになります。四国の半分ほどの小さなこの島が、2つに分断されるきっかけになったのが1970年代のキプロス紛争です。ギリシャ系住民の多い南部キプロスと、分離独立を求めるトルコ系住民との衝突を抑止するために1974年にグリーンラインが引かれ、島の南部はギリシャ系の「キプロス共和国」、北部はトルコ系住民が多く住む「北キプロス・トルコ共和国」に分かれました。

1974年に南北分断された後は、キプロス共和国は南部を占め、ギリシャ系住民のみの政府となっています。公用語はギリシア語およびトルコ語です。キプロスは地理的に、古くからヨーロッパと中東を結ぶ海上貿易の拠点として栄えます。紀元前1世紀~12世紀末までのローマ帝国による支配や、16世紀~19世紀にいたるオスマントルコ帝国による支配によって、異なる文化圏を持つ国々に統治されてきます。

キプロス島は長らくイギリスの植民地でありました。独立運動の指導者はマカリオス三世(Makarios III)というキプロス正教会の有名な聖職者です。マカリオス3世は、ギリシャへの統合から独立へと志向を変え、国際連合総会で独立を訴えます。そして1960年にキプロスは独立を果たしマカリオスは初代の大統領となります。マカリオス三世の名は、しばしば報道されたのを私も鮮明に記憶しています。

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ヨーロッパの小国の旅 その四十五 大航海時代の幕開け

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

ポルトガルは、日本人にとってヨーロッパの歴史を学ぶ時には、身近に感じる国です。それは、種子島にポルトガル人によって鉄砲が伝来したこと、ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)という探検家がアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人であることを学ぶからです。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれたというのですから、ガマの貢献は偉大というしかありません。

ユーラシア大陸最西端にポルトガルは位置します。大河、テージョ川(Tejo)が流れています。その河口に位置するのがポルトガルの首都リスボン(Lisboan)です。この街の歴史は紀元前1000年頃、フェニキア人(Phoenicia)の港が築かれた頃まで遡ります。フェニキア人とはギリシア人による呼称で、地中海方面からメソポタミア、アラビア半島に渡って、海上交易をしていた人々いわれます。ギリシア人は、こうした交易などを目的に東から来た人々をフェニキア人と呼んでいました。当時リスボンはアリス・ウーボ(Alice Ubo)「穏やかな港」と呼ばれていました。

その後のローマ時代、ムーア人(Moor)による支配の時代と、支配者が変わる度に街は名前を変えました。8世紀から400年以上にわたって続いたムーア人の支配から街を解放したのがアフォンソ・エンリケス(Afonso Henriques)です。この時、街の名前がリスボンと定められました。ムーア人といえばこのシリーズの第36回で取り上げた悲劇「Othello」に登場し、妻デズデモーナ(Desdemona)の貞操を疑うヴェニスの軍人を思い出します。

そして15世紀、アフォンソ1世(Afonso I)の頃行われた西アフリカ方面への遠征が大航海時代の始まりというわけです。ガマやフェルナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)、クリストファ・コロンブス(Christopher Columbus)など国籍は違いますが、多くの探検家がこのリスボンで学んだといわれます。

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ヨーロッパの小国の旅 その四十四 ポルトガル

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歴史的に日本との関係が深いポルトガル(Portugal)へ行ってみましょう。ポルトガルの正式な国名はポルトガル共和国(Portuguese Republic)。ヨーロッパ大陸の西側にあるイベリア半島(Iberian Peninsula)の南西にあり大西洋に面しています。東隣はスペイン(Spain)です。かつてポルトガルは地中海諸国と同盟を結び、ヨーロッパ大陸で地理的にも文化的にも海上帝国として最も栄えた国です。

ポルトガルといえば思い出すのは探検家であり航海者だったヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)です。記憶しやすい名前です。ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した最初のヨーロッパ人と呼ばれています。インドに到達したのは1498年といわれます。さらに1500年には、インドを目指したペドロ・カブラル(Pedro Alvares Cabral)がブラジルを発見し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んでいきます。

1509年、インドのディーウ(Diu)の近くのアラビア海でオスマン帝国(Ottoman Empire)の海戦が起こり、ポルトガルは勝利してインド洋の制海権を確保します。そしてホルムズ(Holmes)やマラッカ(Melaka)とさらに東進したポルトガル人は、1541年から1543年にかけて日本へもやってきます。鉄砲の伝来です。

ポルトガル人の到来により、交易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えます。当時日本ではポルトガル人を南蛮人と呼んだそうです。1557年には明からマカオ(Macau)の居留権を得ます。マカオを拠点としたポルトガル商人は、中国から生糸などを積み込み、日本に運び、日本の銀と交換する貿易を始めていきます。この貿易は南蛮貿易と呼ばれるようになりました。

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ヨーロッパの小国の旅 その四十三 ルクセンブルグの歴史

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

Encyclopaedia Britannicaを参照してこの稿をまとめています。ルクセンブルクの歴史は、963年にアルデンヌ家(The Ardennes)のジークフロイト伯爵(Siegfried)がこの地にルクセンブルク城を築いたことに始まります。中世には、ルクセンブルク市は「北のジブラルタル」(Gibraltar)と呼ばれ、難攻不落の要塞といわれました。ついでですが、ジブラルタルはイベリア半島(Iberian Peninsula)の突端にある街です。地中海の出入口を抑える戦略的要衝の地で、軍事や海上交通の上で重要視されています。現在はイギリスが領有しています。

1443年にルクセンブルクはフランスのブルゴーニュ公国(Bourgogne)の侵攻を受けて陥落します。そして、ブルゴーニュ領ネーデルラントの一部に組み込まれます。その後、スペイン領やオーストリア領の南ネーデルラントとしてハプスブルク家(Haus Habsburg)の統治下に入ります。この時期にルクセンブルク城は要塞として度々強化され、当時としてはヨーロッパで最も堅固なものとなります。

1867年に永世中立国となり、城砦のほとんどの部分が取り壊されました。第一次世界大戦が勃発すると、中立宣言にもかかわらず1914年ドイツ帝国に占領されます。1940年にナチス・ドイツが侵攻し1942年には第三帝国に完全に併合されますが、1944年に連合軍に解放されます。戦後はルクセンブルクは中立政策を廃止し北大西洋条約機構(NATO)の原加盟国となります。城砦だった城壁や要塞の一部は現在も残っており、旧市街と要塞群はユネスコ世界遺産に登録されています。

ルクセンブルクの人口わずか57万人、面積も神奈川県くらいのヨーロッパの小国です。ルクセンブルクと国境を接するベルギーやドイツ、フランスに比べると、日本ではあまり知られていません。ですがこの小国が、どうやって世界でもトップクラスの豊かな国となったのかです。その最大の要因は、ヨーロッパを代表する金融センターの座を勝ちとったことにあるといわれます。1960年代からルクセンブルクの経済を牽引していた鉄鋼業の不振を受け、ルクセンブルクは金融立国へと舵を切りました。その政策が功を奏し、いまやロンドンに次ぐユーロ市場、ヨーロッパを代表する国際的な金融センターを有するまでに発展したのです。

ルクセンブルクは20年以上連続で一人あたりGDP(国内総生産)が世界一です。つまり一人あたりが稼ぎ出す富は世界一という大国なのです。

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ヨーロッパの小国の旅 その四十二 ルクセンブルグ

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ベネルクス(Benelux)を構成するのが、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルク(Luxembourg)です。Beneluxとは、それぞれの国名の初めの文字、Be, Ne, Luxから成る頭文字が集合している名称です。3つの国に共通している特徴は、立憲君主制を採用していること、国土が狭いこと、人口密度は非常に高いこと、そして国民生活が豊かであることです。ルクセンブルクの国土は神奈川県くらいの広さ、人口は50万人ほどです。3か国すべてを合わせても面積は隣国ドイツの1/5です。ルクセンブルクは東はドイツ、南はフランス、西はベルギーに囲まれている世界でも最も小さい国です。首都はルクセンブルク(City of Luxembourg)です。

ルクセンブルクの公用語は”Luxembourgish”といわれ、ドイツ語とフランス語が公文書などでも併用されています。宗教はカトリックと少数のプロテスタントで構成されています。ユダヤ教徒やムスリムの人々からも成ります。人口構成ですが、ルクセンブルクの出産率が低いために、労働力となる人口は近隣国からの移民です。ドイツ、フランス、イタリア、ポルトガル人です。170カ国から国外出身者がいるといわれます。住民の46.7%がルクセンブルク国籍を持っていないのも不思議です。多くはルクセンブルクの経済の中心である鉄鋼業や金属工業に従事しています。国民1人当たりの実質国内総生産が世界一というのですから驚きです。労働人口の41%は高等教育を受けていて、2017年6月現在の失業率は6%で、95%の世帯がコンピュータを保有し、97%がインターネットに接続しているのも特記すべきことです。

3か国の緊密な関係についてです。1948年ベネルクス3国間で関税同盟として発足したのがベネルクス経済同盟です。3国間の関税を撤廃して経済的統一体の実現をめざしたものです。経済的統一が発展し資本や労働力の自由化を実現し、やがて1967年に成立する欧州共同体(European Communities: EC)の起源となり、1993年のヨーロッパ連合(European Union:EU)へと発展していきます。

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ヨーロッパの小国の旅 その四十一 フランダースの犬

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首都ブリュッセルから電車で約1時間でアントワープ(Antwerp) に着くそうです。アントワープは「フランダースの犬」(A Dog of Flanders)という小説やアニメで我が国でも知られています。この小説の作家はイギリス人のメアリー・ラメー(Marie Louise de la Ramée)という女性です。アントワープには聖母大聖堂(Cathedral of Our Lady)があります。そこに画家ルーベンス(Peter Paul Rubens)の祭壇画があります。ルーベンスもまたアントワープの出身です。この絵画が「フランダースの犬」物語の伏線にあります。

少年ネロ(Nello) は貧しい牛乳運搬業で生計を助け、いつか画家になることを夢見ています。牛乳の運搬を助けるのが愛犬ペトラッシュ(Patrasche)です。ネロはかねがねアントワープの聖母大聖堂の二つの祭壇画を観るのを熱望していました。それを観賞するには高い観覧料が必要だったので、貧しいネロには叶わぬものでした。二つの祭壇画とは、、「キリスト昇架」(The Elevation of the Cross)と「キリスト降架」(The Descent of the Cross)です。この二つの祭壇画は、アントワープはもとよりベルギーが世界に誇る17世紀の画家ルーベンスの筆によるものです。

ダイヤモンド研磨や加工の聖地といわれるのがアントワープです。北海からの交易船を受け入れる海の玄関口であり、大きな河川が流れヨーロッパの重要都市につながるという立地に恵まれています。ユダヤ人コミュニティがあったことも金融で有利になったともいわれます。

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ヨーロッパの小国の旅 その四十 小国で大国のベルギー

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西ヨーロッパにあるベルギー(Belgium)を旅しましょう。北はオランダ、東はドイツ、南はルクセンブルグ(Luxembourg)、そして西はフランスです。国土としては最も小さい国の一つですが、人口密度は最も高い国です。独立したのは1830年。王室を擁する立憲君主共和国で首都はブリュッセル(Brussels)です。

文化的には多様な歴史を有し、ローマやゲルマン言語を母体としています。ベルギー人は3つの言語圏に分かれます。第一はオランダ語(flemish)を話す人々が1/2を占めています。「flemish」とはフラマン語とも呼ばれフランドル地方(Flanders region)の言葉といわれます。フランス北東部で話されている低地フランク語の系統の呼称ともいわれます。第二は、ワルーンズ(Walloons )と呼ばれるフランス語を話す人々が人口の1/3を占めます。第三はドイツ語を話す人々です。国民の多くは二つ以上の言語を使い分けることができるといわれます。

ベルギーは歴史と文化にあふれた国です。中世からの大学や街、交易、絵画や音楽が栄えた偉大なゴシックの伝統を擁しています。16世紀以来のルネッサンスを謳歌して発展した国です。他方、ベルギーは長い間ヨーロッパでの戦場の舞台となります。1815年のワーテルローの戦い(Battle of Waterloo)が起こります。ナポレオン(Napoleon Bonaparte)が連合軍に敗れた戦です。そして20世紀の二つの世界大戦で国土が戦場となります。

今や、ベルギーは小さい国土ながら、ヨーロッパの政治や経済で大きな存在感を示しています。欧州連合(European Union: EU)や北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization: NATO)の本部がブラッセルに置かれているのもその証左です。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十九 オランダ東インド会社と日本

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リーフデ号(De Liefde)は1600年4月、九州の豊後に来航します。といってもようやく辿り着いた航海だったようです。同船を含む5隻の船はマフ船団と呼ばれたようです。司令官はヤックス・マフ(Yax Muff)という人の名をとっていました。船団は1598年6月ロッテルダム(Rotterdam)を出航したのち、大西洋を南下し、南米最南端の難所マゼラン海峡をとおり太平洋へはいります。リーフデ号には後に江戸幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステン(Jan Joosten)やウイリアム・アダムス(William Adams)乗り組んでいました。ヨーステンは「八重洲」という地名の語源となった人物で、アダムスは後に三浦按針と名乗ります。

なぜ、オランダの商船が日本を目指してきたかということです。16世紀後半、オランダはスペインと対立し、同国と八十年戦争を行っていて貿易制限、船舶拿捕などによって経済的に打撃を受けていたといわれます。当時、東南アジアの香辛料取引で強い勢力を有していたポルトガルは1580年にスペインに併合され、オランダはリスボンなどを通じた香辛料入手も困難になっていました。そのため、オランダは独自でアジア航路を開拓し、スペインに併合されていたポルトガルに対抗する必要がありました。こうして、大航海時代のヨーロッパ勢力が香辛料貿易の利益を求めて東南アジアにあらわれるようになります。

イギリスやポルトガルが、東南アジアとの取引を本格化させるとともに、香辛料購入価格が高騰していきます。商社同士が価格競争を行ったため売却価格は下落していきます。ホラント州(Holland)のオルデンバルネフェルト(Johan Oldenbarnevelt)というやがて共和国の宰相となる政治家が中小の貿易会社を統一しオランダ東インド会社(Holland East India Company)を発足させ、諸外国に対抗しようとします。これが1602年3月の東インド会社の設立です。通称VOC(Verenigde Oost-Indische Compagnie)といわれました。

東インド会社は、世界初の株式会社といわれます。本社はアムステルダム(Amsterdam)に設置され、支店の位置づけとなるオランダ商館は、やがてジャワや平戸などに置かれます。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結、軍隊の交戦権、植民地経営権など諸種の特権を与えられた専売会社です。アジアでにおける帝国主義は植民地政策であり、その前身となる組織です。オランダは長くインドネシアを植民地とします。戦時中、日本がインドネシアを占領したことは、オランダからの独立を促す契機ともなったといわれます。インドネシア独立戦争は、1945年から1949年まで続きます。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十八 オランダ東インド会社

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私がオランダへ行ったのは、兵庫教育大学に客員研究員として招いたオランダ人との付き合いからです。彼はオランダの東、ドイツ国境に近いい街、エンシェンデ(Enshande)にあるトゥウェンテ大学(Twente University)の教育工学専門の教授でした。首都アムステルダムに一緒に行った友人は兵庫教育大学の教授です。彼は、アムステルダム(Amsterdam)にはかつてのオランダ東インド会社の本社があったと言っていました。

世界初の株式会社といわれたオランダ東インド会社の設立の経緯です。1596年6月、インドネシアにやってきたのがオランダの探検家ハウトマン(Frederik de Houtman)が率いた艦隊です。この航海の成功に勢いづけられて、オランダでは対アジアの貿易会社が林立しました。1601年末までに15の船団からなる65隻の船が東洋に派遣され、香辛料を満載にして戻ってきたといわれます。

その結果、競争が激化。東アジアでの仕入価格は高騰し、逆にヨーロッパでの販売価格は下落しました。利益確保のため、オランダの連邦議会ではこれらの貿易会社を統合する必要性が論じられました。これに先立つ1600年、北海を隔てた隣国イギリスではエリザベス1世により勅許会社イギリス東インド会社が設立されていました。このこともオランダ人の危機感を煽りました。1602年3月、中小の貿易会社が統一され、「オランダ東インド会社(通称:VOC)」が設立されました。

オランダ、ヨーロッパ最古の大学にライデン大学(Leiden University)があります。日本との間にあらゆる分野の学生や研究者の交流を行っています。アインシュタイン(Albert Einstein)や国際法「自然法の父」グロチウス(Hugo Grotius)、現在の国王ウィレム・アレキサンダー(Willem Alexander)、10人のオランダ首相をはじめ数多くの指導者を輩出する大学です。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十七 「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

オランダ(Holland)とネザーランド(Netherlands)という使い分けから始めます。公式にはネザーランド王国(Kingdom of the Netherlands)というのが正しい国名です。チューリップと水車の国とも呼ばれています。

オランダが国を樹立したのは、いろいろな地域や都市を併合して1579年にスペインからの独立を宣言したときです。 その一つがオランダ(Hollands)という地域でした。Hollandsの歴史は12世紀に遡ります。ローマ帝国の支配にあった頃です。今の首都アムステルダム(Amsterdam)やロッテルダム(Rotterdam)、ハーグ(Hague)といった都市はオランダ地域の中にあります。こうした地域は、政治や経済の中心となり、対外的にはオランダ(Hollands)と呼ばれるようになります。

ところでNetherlandsとは「低い土地」、Hollandとは「森林地帯」という意味です。中世以来の伝統を引き継ぎ、12の郡から構成されています。オランダの自治領としてカリブ海のオランダ領アンティル(Antilles)、サバ(Saba)、シント・マーテン(Sint Maarten)などがあります。

オランダは極めて平坦な国土で、湖、川、そして運河が広がります。6,500 平方キロが干拓によって造られてきました。水の管理の伝統は中世から始まり今に至っています。新しい土地はほとんどが干拓地で、今も排水が続いています。もともとは人力や馬によって排水作業がされていました。

「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」という諺があります。オランダは国土の大部分が低湿地帯です。干拓によって人の住める場所を広げてきました。さらに13世紀には風車を利用するようになり、風を動力として活用する技術を蓄積していました。電気モーターやディーゼルに代わったのは20世紀になってからです。キンデルダイク(Kinderdijk-Elshout)という水車小屋が並ぶ光景はユネスコの世界遺産として登録されています。

風車の発明や改良などにより、大航海に耐える帆船を作るのに充分な技術が生まれます。そして大西洋やインド洋へ乗り出すのです。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十六 オセロとシャイロック

Last Updated on 2020年4月13日 by 成田滋

デンマークから少し南下してイタリアのヴェニス(Venice)に行きましょう。といってもヴェニスの街ではありません。シェイクスピアが描く「オセロ(Othello)」、副題は「ヴェニスのムーア人」(The Moor of Venice)という悲劇です。今回はオセロと「ヴェニスの商人」(Merchant of Venice)に登場するシャイロック (Shylock) という劇の主人公を比較し、キリスト教社会と人種差別を話題にしてみようというのが本題です。

ベニス共和国(Republic of Venice)に仕えるムーア人(The Moor)でアフリカ系黒人の将軍オセロは、元老院議員の白人娘デスデモーナ(Desdemona)と深く愛するようになり,周りからの反対にあいながらも結ばれます。カトリック教会が定着するイタリアのヴェニスで、高官の娘を妻にしたオセロに対して、彼の部下が嫉妬を抱くという舞台設定です。

来襲するトルコ軍と戦うためにやってきたキプロス島(Cyprus)で,オセロはかねてより彼に恨みを持つ旗手イアーゴの奸計に乗せられます。奸計とは自分をさしおいて昇進した同輩でオセロの副官キャシオー(Cassio)がデズデモーナと密通しているとオセロに讒言するのです。イアーゴはオセロに言うのです。「お気をつけ下さい、将軍、嫉妬というやつに」

オセロは、デズデモーナとキャシオーへの疑念に取りつかれます。そうして二人の不義を密告した忠実で正直な旗手イアーゴを自分の副官に任命し、キャシオーも殺そうと決意するのです。イアーゴの悪巧みによってデズデモーナの不貞を確信したオセロは、彼女を絞殺するのです。しかし、その直後に妻デズデモーナの貞淑(honesty)や真実を知ってオセロは自害するのです。

「ヴェニスの商人」の主題の一つが人種差別です。ユダヤ教徒への偏見を描いた小説といわれます。貿易で栄えたヴェニスが舞台です。ユダヤ人で強欲な高利貸しシャイロックから貿易商人であるアントーニオ(Antonio)は友人のために金を借りるのです。そして指定された日までに金を返すことが出来なければ、自分の肉1ポンドを与えるという契約に合意します。

「オセロ」では、黒人を主人公として肌の色の違いによる人種差別が描かれています。「白」と「黒」という対照です。白は純粋とか純真、正直、正義、神聖といったイメージを持っています。他方、黒は権威、破壊、詐欺、闇といったイメージもあります。二つの単語は肯定的な面と否定的な意味を包含しています。シェイクスピアは、ステレオタイプ的なユダヤ人のシャイロックを虐げられた民族として描いているようです。

ヨーロッパの小国の旅 その三十五 ハムレットとデンマーク

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

デンマーク皇太子ハムレットの悲劇」(The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark)は文字通りデンマークが生んだ伝説の人物を主人公にしています。1599年から1601年にかけて書かれたとあります。ハムレット(Hamlet)という名は、Wikipediaによりますと、中世デンマークの歴史家であったサクソ・グラマティクス(Saxo Grammaticus)によって書かれたデンマークの歴史書に残る伝説の英雄「アムレート」(Amleth)に由来するとあります。

シェイクスピア(William Shakespeare)の四大悲劇「ハムレット」、「マクベス」(Macbeth)、「オセロ」(Othello)、「リア王」(King Lear)の中で、最も長いのが「ハムレット」です。この物語はデンマーク皇太子ハムレットが、父(King Hamlet))を殺し母ガートルード(Gertrude)を奪い王位に就いた叔父クローディアス(Claudias)を討ち、復讐を果たす物語です。

劇の最初ではハムレットは、父ハムレット王の死、叔父の王位継承、さらに母の早すぎる再婚という堕落ぶりにひどく憂うつになってしまいます。ある夜、父の亡霊がハムレットの前に現れ、クローディアスが王位を強奪するためにハムレット王を殺したことを告げます。そしてハムレットに父の死の復讐をするように命令するのです。

ハムレットはクローディアスが有罪かどうかを確かめるために、宮廷劇を企画します。そのために役者の一団を雇います。王の殺人劇を見せてクローディアスの反応を試すのです。そして家来であり腹心の友であるホレイシオ(Horatio)にクローディアスの反応を探らせるのです。クローディアスは劇の途中で罪悪感に耐えられず、途中で劇を中断するように命令します。クローディアスが酷くとり乱し観衆の前から立ち去ると、ハムレットは亡霊が言っていたことは正しかったことを確信するのです。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十四 デンマークとアンデルセン童話

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

中世期頃からのデンマークの歴史です。11世紀初頭の30年間にはクヌート大王(Knut I the Great)が北海帝国(North Sea)として、デンマークとイングランドを統治します。1397年にデンマーク王母のマルグレーテ(Margrete I)によって、デンマーク・ノルウェー・スウェーデンの3ヶ国による、デンマークを盟主にしたカルマル同盟(Kalmaru Union)が結ばれます。

やがて海軍も強化し、宿敵であったハンザ同盟(Hanseatic League)を破って、バルト海の盟主にもなるのがデンマークです。ハンザ同盟とは、中世後期の北ドイツの都市による都市同盟で、バルト海沿岸地域の貿易を掌握し、ヨーロッパ北部の経済圏を支配していました。こうして、デンマークは北海からバルト海をまたぐ超大国となります。

第一次世界大戦ではデンマークは中立を維持しますが、第二次世界大戦では1940年にナチス・ドイツによって宣戦されると、国王クリスチャン10世(Christian Carl Frederik)は即座に降伏を選び、デンマークはドイツの占領下に置かれることになります。初期はモデル被占領国と呼ばれますが、クリスチャン10世は反ナチ運動家を保護し、民族主義およびナチス支配へのレジスタンス運動を支援し、したたかな政治家であったと後に評価されています。

アンデルセン童話(fairy tales)でおなじみのアンデルセン(Hans Christian Andersen)の母国としてなじみがあります。「マッチ売りの少女」「みにくいアヒルの子」などの作家です。また、コペンハーゲンの有名な遊園地チボリ公園(Tivoli)は倉敷駅の北側に造られるほどです。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十三 デンマーク

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デンマーク(Kingdom of Denmark)という国から何を思い浮かべるでしょうか。政治や経済に関心のある人にはノルディック・モデル(Nordic Model)の高福祉高負担国家を、文学の好きな人にはアンデルセン童話やハムレット(Hamlet)となるでしょうか。国土は、北海の400以上の島々を含むユトランド半島(Peninsula of Jutland)が3/4を占め、首都はコペンハーゲン(Copenhagen)です。

デンマークは、フェロー諸島(Faroe Islands)というスコットランドのシェトランド諸島(Shetland Islands)、およびノルウェー西海岸とアイスランドの間にある北大西洋の諸島、そしてグリーンランド(Greenland)を自治領としています。国土の大きさからすると大国ということでしょうか。

ノルディック・モデルから始めましょう。ノルディックとは「北欧」を指します。ノルディック諸国は、高い税金によって、公共サービス、多数の社会事業、そして比較的手厚い失業給付金制度を提供するというのが特徴です。充実した育児休暇制度が女性の高い就労率を支えていることもモデルの一つです。

デンマークでは女性の国会議員は現在67人で37.43%を占めます。女性が出産する場合、100%給与が保障される出産休暇を取得することができます。フィンランドの内閣は18人の閣僚のうち12人が女性であることも既に述べました。女性の社会参加は育児休暇制度が支えています。デンマーク市民の生活満足度は高く、2016年の国連世界幸福度報告(World Happiness Report)では第1位でした。日本は53位です。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十二 スウェーデンと人々の暮らし

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

北欧の国々は国土の面積や人口をみると大国とは言えないようですが、それでも超先進国と表現して間違いありません。スウェーデンの1人あたり国民総所得(GNI)は5万8,00ドルで、世界第7位の高所得国となっています。税金は所得の50%にもなっています。社会保障、健康保険、失業保険なども整備されているので、「高福祉高負担」の社会モデルが注目されてきました。近年その影には移民政策による歪みが拡大しているといわれます。

第二次大戦後、仕事を求めて多くの人々が南部の都市に移動します。そのため過疎化が発生し、海外からの移民を受け入れてきました。そのため、犯罪や事件がなどが発生します。2018年には過去5年間の強姦犯の58%が外国生まれの移民であり、その多くが非欧州からの移民だという統計が公表されています。寛容な移民受け入れ政策を続けるのがスウェーデンの大きな悩みのようです。

スウェーデンの産業は農業や林業、畜産業や漁業です。農業でいえば、年間日照時間は南部で240日、北部ではたったの120日となっています。小麦や大麦の栽培が中心です。国土の1/10が農耕に利用されています。国土の約3/4が森林地帯となっています。建材やパルプに用いられる常緑針葉樹(spruce)は約50年で伐採されて利用されます。漁業では鮭や海老の養殖が盛んに行われています。

福音ルーテル教会がスウェーデン国教会となっています。人口の6割がルーテル教会に所属しています。国教会とは国が主体となって運営を行っているキリスト教の教会のことです。国民からは教会税を徴収し、洗礼を住民登録に代え、教会での結婚式を正式な結婚の手続きとして扱ったりします。このような手続きは北欧諸国、イギリス、ドイツなどにも残っています。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十一 スウェーデン

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

スウェーデン(Kingdom of Sweden)へ移りましょう。スウェーデンはノルウェーと同じように北欧の小国とはいえないほど、先進的な国といわれます。国家元首である国王は国家の象徴であり、立憲君主制(constitutional monarchy)を敷く国です。 首都はストックホルム(Stockholm) です。私はこの国を旅したことがありません。

スウェーデンは昔から大国の侵略を経験してきました。そのために、国策として掲げるのは専守防衛とか中立政策です。軍事同盟でなく自国の軍事力のみで達成するために、陸海空軍を備え国防への注力は怠ってはいません。特に空軍の戦力は非常に高いといわれます。世界情勢については大国の中に入り、平和中立外交で役割を果たしてきたのがスウェーデンです。

中立政策ゆえに重化学工業や精密機械工業を担う大企業はスウェーデンの軍需産業ともなっています。例えば、航空機メーカーのサーブ(Saab)は優秀な戦闘機を製造しています。自動車メーカーのボルボ (Volvo) 、通信機器メーカーのエリクソン(Ericsson)、プロ用カメラ・レンズ製造のハッセルブラッド(Hasselblad)、世界最大の家具量販店のイケア(Ikea)など伝統的に製造業が盛んな国です。世界中からスウェーデンにやってくる人々の足はスカンジナビア航空(Scandinavian Airlines)でしょう。この会社は、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーで運航されています。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十 ノルウェーの地理やサーミ民族

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

ノルウェーの地図を見ますと、多くのフィヨルド(Fjord)を持った国であることがわかります。フィヨルドは、氷河による侵食作用によって形成されたU字形の複雑な入り江のことです。ノルウェーの西部・北部にあるトロンハイム(Trondheim)やガイランゲル(Geiranger)フィヨルドは特に美しい景観といわれます。いわゆるリアス式海岸です。この海岸線には5万以上の島々が点在しています。首都はオスロ(Oslo)です。

ノルウェーの大きな都市は海岸線に発達し、人口が集中しています。ベルゲン(Bergen)やトロンハイムです。昔からノルウェー漁業や林業、農業が盛んです。これはヴァイキング(Viking)の時代からです。ヴァイキングはイギリスはもちろんロシアの海岸線まで進出しました。そしてアイスランド(Iceland)やグリーンランド(Greenland)を植民地化します。北アメリカの海岸も探検したという記録があります。ヴァイキングの精神はナンセン(Fridtjof Nansen)、アムンゼン(Roald Amundsen)、そしてヘイエルダール(Thor Heyerdahl)といったノルウェーの探検家であり人類学者、生物学者などに引き継がれていきます。

ノルウェーは伝統的にデンマークやスウェーデンの植民地でありました。1905年にようやく独立を果たします。交易が盛んとなり造船業などでも繁栄していきます。1970年代になると原油や天然ガスの発掘が始まり主要な産業となります。1990年代では主要な原油の輸出国ともなります。ノルウェーは地政学的にヨーロッパ大陸の外側に位置しているので、固有の生き方や文化を保持してきました。20世紀後半には、南ヨーロッパや南アジアからの移民がオスロ周辺に定住しますが、大多数の国民はノルディック(Nordic)です。

ノルウェーの北部にはフィンマーク高原(Finnmark Plateau)が広がり、そこにはサーミ(Sami)とかラップ( Lapps)と呼ばれる先住民族が住んでいます。サーミ民族は、スウェーデンやフィンランド、ロシアのコラ半島(Kola Peninsula)にもまたがっています。 主として林業や漁業、皮革業などですが、カリブー(caribou)やトナカイ(reindeer)の遊牧業も盛んです。サーミ民族は、北ヨーロッパ系の特徴である金髪で碧眼のゲルマン系といわれます。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十九 ノルウェーとアムンゼン

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

スカンジナビア半島(Scandinavian peninsula)の西に位置するのがノルウェー(Norway)です。私にとってのノルウェーという国は、二つの思い出があります。第一は、中学生のときに、探検家アムンゼン(Roald Amundsen)の南極探検記を読んだことです。イギリス海軍のスコット(Robert Scott)と人類初の南極点到達を競います。

南極点一番乗りを目指す「世紀の大レース」は、1911年12月に犬ゾリを駆使したアムンゼン隊の勝利に終わります。スコット隊が極点に到着すると、そこにはノルウェーの国旗が立てられ、極点から3km程離れた場所にテントが設営され、食料や防寒具、そしてメモが置かれていたといわれます。

その帰途、スコット隊は全員が死亡します。南極点でアムンゼン隊が残したメモを所持していました。このメモは、アムンゼン隊が帰途に全員遭難死した場合に備え、到達証明書として持ち帰ることを依頼し書かれたものでした。スコット隊がメモを所持していたことにより、アムンゼンの南極点到達は証明されます。「自らの敗北証明を持ち帰ろうとした」としてスコット隊の名声は後に高まるのです。

ノルウェーについての第二の思い出は、1965年に神戸にある西日本福音ルーテル教会にて3ヶ月聖書を勉強したときです。その時、この教会はノルウェー・ルーテル伝道会(Norwegian Lutheran Mission)によって設立されたことを知りました。伝道会は1949年に日本での宣教を始めるのです。ノルウェーからの宣教師は、戦前は中国大陸で宣教活動をしていましたが、国共内戦により引き揚げを余儀なくされ、日本にやってくるのです。その宣教の拠点は西日本の岡山、鳥取、島根、兵庫といった地域です。

ノルウェー・ルーテル伝道会とは、18世紀にノルウェーの農民の子で商人であったハウゲ(Hans Nielsen Hauge)という人によって設立されます。当時、ハウゲは最大の福音伝道者であったといわれます。その教えの中心は霊的覚醒運動(Spiritual arousal)とか信仰復興(Norway Revival)ということです。後にオーレ・ハレスビー(Ole Hallesby)とかカール・ヴィスロフ(Carl Wisloff)といったルター派の神学者を生みます。二人ともナチス・ドイツに抵抗して職を追われたり投獄されたりします。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十八 スナフキン

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

ムーミンの本は、日本では始めて1964年に講談社から出版されます。1969年に日本でアニメ『ムーミン』が放映されます。さらに1990年にアニメシリーズ「楽しいムーミン一家」として、暖かく親しみのある主題曲とともにテレビ放送が開始されます。

ムーミン谷に住むスナフキン(Snufkin)についてです。彼がムーミンと家族に出会うのは、1946年に出版された第2作となる「ムーミン谷の彗星」(Comet in Moominland)です。スナフキンは主人公ムーミントロールの親友であり、芸術家であり哲学者のような孤高の存在で描かれることが多いようです。嫌いなものは「~禁止」の看板です。スナフキンは、暖かい季節には川辺にテントを張って暮らし、秋が来るとムーミン谷の住人たちが冬眠に入る11月頃に南へと旅立ちます。春が来ると皆が冬眠から目覚めるのです。そしてスナフキンはムーミン谷へ戻ってきます。

いつも灰色でつばの長い帽子を被り、古びたコートをまとっています。月の明るい夜に1人で徘徊する時が好きです。思索を好む放浪者です。人との交わりは避けることはないのですが、1人で考え旅することをこよなく愛します。作者のヤンソン(Tove Jansson)も自由と孤独に向き合い続けた芸術家だったといわれます。1914年、彼女は彫刻家の父と挿絵画家の母のもとに生まれます。幼少期は第1次世界大戦の渦中で、弱冠14歳で雑誌のイラスト掲載でデビューします。そして、1945年にムーミンシリーズの最初の物語「小さなトロールと大洪水」(The Moomins and the Great Flood)を発表します。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十七 ムーミン・トロール

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

「ねえ ムーミンこっちむいて はずかしがらないで モジモジしないで、、」 この歌をご存知の方は童心に溢れる方です。フィンランドで忘れられないものに「ムーミン」(Moomin)という童話といいますか、児童小説があります。主人公は「ムーミン・トロール」(Moomintroll )。トロールは北欧の民間伝承に登場する妖精の一種です。一見するとカバ(hippopotamus)に似ています。

ムーミンの物語に登場するトロールは、作者トーベ・ヤンソン(Tove Jansson)が独自に創造した架空の生き物で、男の子という設定です。人形の登場人物も人間ではなく、架空の小人の一種のようです。『ムーミンパパの思い出』に登場するミムラねえさん(Mymble)やミイ(Little Me)らが住む丸い丘の国のに済みます。そして自由に旅することをこよなく愛し、物を所有することや何かを禁止されたり、命令されたりするのを嫌うスナフキン(Snufkin)は人間の格好をしています。

ムーミン達が住むところはムーミン谷(Moomin valley)と呼ばれます。谷の東には「おさびし山」(Lonely Mountains)がそびえ、その麓から川が流れています。川にはムーミンパパ(Moominpappa)の作った橋がかかっていて、その橋の先に「ムーミン屋敷」があります。ムーミンパパが設計図を書いて建てた理想の家です。ムーミン屋敷の北側にはライラックが咲いています。西は海に面しています。

ムーミンパパとムーミンママ(Moominmamm)は、作者ヤンソンの両親を投影しているといわれます。とりわけムーミンママの言葉と行いはヤンソンの母親の生き写しだったといわれます。1945年の第一作である「大きな洪水と小さなトロール」(the Great Flood)では、トロールたちは人間と同じ世界で共存しますが人間には感知されない存在として描写されています。

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