ヨーロッパの小国の旅 その二十六 フィンランド その2 歴史

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フィンランド共和国の歴史です。首都ヘルシンキ(Helsinki)は1894年1月に締結された露仏同盟以来、ロシアの主要都市であるサンクトペテルブルク(St. Petersburg)方面へ西側諸国が投資や往来をするための前線基地となってきました。同じく近くに位置するヴィボルグ(Vyborg)はフィンランド湾に面していて、ロシアと欧州諸国の間にある地政学的な重要性から、たびたび勢力争いの舞台や戦場になりました。ヴィボルグは今はロシア連邦の一部です。

人口や経済規模は大きいとはいえないのですが、一人当たり国内総生産-GDP(Gross Domestic Product)では豊かな国となっています。2014年の経済協力開発機構(OECD)の報告書では「世界でもっとも競争的であり、市民が生活に満足している国の一つである」と報じられたほどです。フィンランドは雇用や所得、住宅環境、保健衛生、社会保障、育児や教育、地方分権、生活の質(QOL)、個人の安全、主観的幸福の各評価において、すべての点でOECD加盟国平均を上回っているのです。2019年の幸福度調査(Happiness Survey)で156カ国・地域のうち世界第1位、日本の順位は58位とあります。

第二次大戦後、フィンランドの親ソ路線は外交政策の基本となります。それは、中立外交という政策です。大国ロシアと約1,300キロにわたり直接国境を接しているため、国家の安全を確保するための中立外交を貫いてきたのです。これが同国の「軍事的非同盟政策」といわれるものです。この外交政策は、フィンランドが今も北大西洋条約機構(NATO)に加盟しないことにも現れており、伝統的中立政策を維持していることを示します。大国に翻弄されてきた歴史の知恵ともいえましょう。しかし、ソ連の崩壊を機にフィンランド外交は西ヨーロッパと連動しています。EUには加盟していますが、NATOには当面加盟しないとの方針を堅持しています。

フィンランドは原子力の分野で先進的と言われています。国内には原子力発電所があり、高レベル放射性廃棄物を半永久的に地中に埋める最終処分場の建設がオルキルオト(Olkiluoto)という人口が極めて過疎の地域にある島で造られています。ただ最終処分場の建設反対運動も続いているようです。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十五 フィンランド その1 スオミ

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一挙にバルカン半島を離れ、バルチック海を渡りましょう。私にとってのフィンランド(Finland)とは、1952年のヘルシンキオリンピック(Helsinki Olympic)の想い出です。戦後日本が最初に参加した夏季オリンピックです。この大会で石井庄八がレスリングフリースタイルで優勝したことが報じられます。新聞やラジオで大きく報じられ、敗戦に打ちひしがれた国民に希望を与えるような快挙でした。さらにチェコスロヴァキア(Czechoslovakia)のエミール・ザトペック(Emil Zatopek)が、長距離種目の5,000メートル、10,000メートル、マラソンで金メダルを獲得する大会です。

フィンランドに関する2つ目の思い出です。1977年に国際ロータリー財団から奨学金を頂き、アメリカ南部ジョージア州(Georgia)の小さな大学に海外からの奨学生50名ほどが集まったときです。フィンランドからきた金髪の女性がいました。親睦パーティのとき彼女に「シベリウス(Jean Sibelius)のフィンランディア(Finlandia)が大好きだ」というと涙をながさんばかり喜んでいました。思いがけない会話だったからでしょう。この曲は交響詩と呼ばれ、交響組曲レンミンカイネン組曲(Renmin Kainen Suite)などとともにシベリウスの代表作といわれます。

フィンランドに関する3つ目の思い出です。1985年7月に国際精神遅滞学会(International Association on Mental Retardation)がヘルシンキでありました。そのとき論文を投稿し発表する機会に恵まれました。幸い二番目の娘もヘルシンキにやってきました。このときついでにフェリーでエストニア(Estonia)のタリン(Tallinn)へ渡りました。

フィンランドは、「フィン人の国」という意味で、フィンランドの人々は自分たちをスオミ(Suomi)と呼んでいます。国土の約70%が森林、約10%が湖沼や河川に覆われているので「森と湖の国」が代名詞となっています。北極圏内にある国土の4分の1はラップランド(Lappland)と呼ばれ、約6,000人の先住民族のサーメ(Sami)がトナカイの放牧などで暮らしています。神話や伝説が沢山あるところといわれます。神秘的なオーロラを見ようと観光客で賑わうそうです。

ヨーロッパの地図をみると、フィンランドはスカンジナビア(Scandinavia)半島の北東部に位置し、通常は北欧と呼ばれています。北側はノルウェー、西側はスウェーデンと国境を接しています。西はボスニア湾(Gulf of Bosnia)、南西はバルト海(Baltic Sea)、南はフィンランド湾(Gulf of Finland)に面しています。スカンジナビアは別名ノルディック(Nordic)とも呼ばれます。スカンジナビア諸国というときはデンマーク(Denmark)も含まれます。

フィンランドはもはやヨーロッパの小国ではありません。1980年代以降、農林水産業の経済から、携帯電話の生産量が世界1位になるなどハイテク産業を基幹とする工業先進国へと大きな変化を遂げたのがフィンランドです。その代表といえば、ノキア(NOKIA)やOSのリナックス(Linux)でしょうか。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十四 ルーマニアとチャウセスク

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バルカン半島の中央部に位置するルーマニア(Romania)に移ります。 首都はブカレスト(Bucharest) で国の人口は1,930万人とあります。北はウクライナ(Ukraine)、東は黒海(Black Sea)とモルドヴァ(Moldova)、南はブルガリア(Bulgaria)、西はセルビア(Serbia)、ハンガリー(Hungary)に囲まれています。

ルーマニアの地理をおさらいします。国土の1/3は山、1/3は森林地帯で残りが丘陵や平野となっています。平野が広く農業や酪農が盛んで。天然資源に恵まれ、原油、金銀などの採掘が行われています。多くの川では水力発電が盛んで、黒海沿岸は貿易やリゾートとしても賑わいます。

ルーマニア人の祖先はローマ時代に遡るとされます。9世紀から10世紀に侵入したマジャル人(Hungarians)、そのほかにトルコ人、ゲルマン人などの混血や同化によって、重層的に形成されたとされる説もあるようです。ルーマニア人を「Romani」、ロムニとも呼ばれ、ルーマニア人の9割を占めるといわまれます。

現代史を要約してみます。1939年8月に独ソ不可侵条約(German-Soviet Nonaggression Pact )により、ルーマニアはイギリスやフランスとの集団的安全保障(collective security)を求めます。1940年第二次世界大戦が始まると、ソ連はルーマニアの一部を占領します。列強の領土割譲要求にたいして、ルーマニアはドイツにつき枢軸国側として参戦します。ドイツの敗退により再度ソ連に侵攻され連合国側につき、国内のドイツ軍を壊滅させたあとにチェコスロバキアまで侵攻し対ドイツ戦を続けます。ルーマニアは1944年にソ連軍に占領され、1948年にはソ連の衛星国(Satellite of the Union of USSR)となります。

1948年からルーマニア社会主義共和国の指導者となったチャウセスク(Nicolae Ceausescu )は、書記長として長年にわたり独裁政権を維持します。他の東側諸国とは一線を画して、「一国共産主義」を唱え西側との結びつきも強めたのが特徴といわれます。独裁政権の最大の罪は「知識層を庶民の敵とみなして排除したこと」といわれます。1989年12月のルーマニア革命(Revolution of Romania)によりチャウセスクは逮捕後処刑されます。そして1990年に自由選挙が行われます。2004年には北大西洋条約機構(NATO)に、2007年に欧州連合(EU)に加盟します。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十三 ユーゴスラビアとチトー

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私には、セルビアという国名よりも「ユーゴスラビア」のほうが親しみがあります。この理由はなんといっても強力な指導者であったチトー(Josip Broz Tito)という人の存在があります。丁度冷戦の時代、新聞やラジオで彼の名前はしばしば登場していました。そこにアジア、アフリカの第三世界と呼ばれた国々の指導者、たとえばエジプトのエジプトのナセル大統領(Gamal Abdel Nasser)、インドのネール首相(Jawaharlal Nehru)らが現れ、冷戦の緩和に役割を果たしていく頃です。

チトーが登場したのは、1941年から1945年にわたりナチスドイツなど枢軸国(Axis units)と戦った人民解放軍(パルチザン:Partizan)の総司令官を務めたときです。その間、民主的な臨時政府の設立を宣言するのです。ドイツの敗戦により、チトーはユーゴスラビア社会主義連邦共和国首相兼国防相に就任します。1946年1月、新しい憲法によって、6つの構成共和国が定められ、ユーゴスラビア連邦が誕生します。その初代首相に選ばれるのです。6つの構成国とは、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツゴビナ、クロアチア、スロバニア、そして北マケドニアです。

チトーは、ソ連からの自立を意図し距離を置いていきます。そのため、ソ連によるユーゴスラビアの衛星国化を目指していたスターリン(Joseph Stalin)はユーゴスラビア社会主義連邦共和国を「共産党・労働者党情報局」、別名コミンフォルム(Comin form)から除名します。その後、チトーはソ連型社会主義と対峙し続け、1948年にはスターリンと断絶し、独自の政治路線を敷いていきます。チトーは1953年から1980年まで大統領を務めます。その間、企業における労働者による自主管理によって資本は労働者所有となり、経営者は労働者が選ぶとか、各共和国に大幅な自治権を与えるといったユーゴ独自の自主管理社会主義を建設していきます。これがチトー主義(Titoism)と呼ばれる考えです。

チトーは国内では新聞などによる体制批判を認め、言論の自由をある程度認めるのです。国内のインフラ整備を推し進めて、年率6%の経済成長を達成していきます。医療費はすべて無料とし、識字率は91%まで向上させるのに貢献したといわれる指導者でした。「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」という多様性を内包する国を治めるのは容易なことではなかったと思われます。

チトーが大統領になっていた時には大きな民族問題が起こることはなく、1984年のサラエボ(Sarajevo)オリンピックが終わるまでは共和国体制を維持することができます。これもチトーのカリスマによって成り立っていたといわれます。1991年にユーゴスラビア紛争が勃発し血みどろの内戦に突入します。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十二 セルビアとユーゴスラビア

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バルカン半島の地図を見ますと、セルビア(Serbia)は8つの国に囲まれています。すなわち北はハンガリー(Hungary)、東はルーマニア、ブルガリア、南は北マケドニア(North Macedonia)、コソボ、西はモンテネグロ(Montenegro)、ボスニア・ヘルツゴヴィナ(Bosia & Herzegovina)、そしてクロアチア(Croaia)となっています。首都は国際都市といわれるベオグラード(Beograd)で、ドナウ川(Danube)とサバ川(Sava)の合流地点に位置します。

セルビアは1920年代の頃、ユーゴスラビア(Yugoslavia)の一部でありました。ユーゴスラビアは、「南スラブの地」(Land of the South Slavs)と呼ばれ、セルビア、スロベニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツゴヴィナ、クロアチア、北マケドニアを含む国でありました。長らくオスマン帝国やオーストリア-ハンガリー帝国の支配にありましたが、こうした国々は1918年に「セルブ・クロアート・スロヴェーン王国」(Kingdom of Serbs, Croats, and Slovenes)を結成し、南西スラヴ人の統一国家が誕生します。1929年にセルビア王のアレクサンダル1世(Alexander I)がクーデターを起こしユーゴスラビア王国として多民族国家が生まれます。

ユーゴスラビアといえば、長年大統領として政治的な手腕を発揮したチトー(Josip Broz Tito)を思い出します。今日も優れた政治家として知られています。第二次大戦後、チトーはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の大統領となります。ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者でもあり、憲法改正によって各共和国や自治州の自治権を拡大するなどして連邦にありながら、国の自治に腐心します。ソ連のスターリンとも距離を置く共和国でした。

アメリカやソ連ソ中立的なユーゴスラビアは「第三世界」(Third World)の国といわれたこともあります。中立的な立場から国際連合平和維持活動にも参加します。労働者自主管理とか市場社会主義、非同盟外交などの独自の社会主義思想によるチトーの政治姿勢は「チトー主義」(Titoism)と呼ばれました。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十一 コソボと紛争

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コソボ(Kosovo)という国は、1990年代に新聞やテレビで内戦の悲惨な状況が報道された国です。「ヨーロッパの火薬庫」という代名詞のいわば中心ともいえる国です。人々の苦悩が詰まった国の一つといえるでしょう。小国が「ひしめく」バルカン(Balcan)半島の歴史は、島国にはない紛争と戦-いくさの歴史のような印象を受けます。

コソボは、バルカン半島にある小さな領土の国です。2008年に独立を宣言し、アメリカやヨーロッパ諸国はそれを認めるのですが、ロシアや中国、さらにEU諸国の一部、たとえばスペイン、セルビア(Serbia)、ギリシャやモンテネグロ(Montenegro)は独立を認めていません。2010年に国際司法裁判所(International Court of Justice)はコソボの主権を認める判決をだします。しかし、国際連合(UN)の安全保障理事会常任国であるロシアや中国の反対で国連への加盟は果たしていません。

コソボという呼び名は、セルビアで使われる「黒鳥の住む草原」(Field of Blackbirds)に由来します。中世期までセルビア帝国の支配にありましたが、コソボは15世紀中期から20世紀の初頭までオスマン帝国の支配下にありました。こうしてイスラム圏の拡大により、アルバニア人の人口が増えます。20世紀前半よりコソボはセルビアの一部となり、その後ユーゴスロバニア(Yugoslavia)に編入されます。イスラム教徒は東方正教会の人口を上回り、しばしば民族間の緊張が高まります。

コソボでは1991年、コソボ共和国としてユーゴスラビア連邦共和国からの独立を宣言します。ですが国際社会からはコソボは独立国と見なされず、ユーゴスラビア連邦の一自治州と見なされました。1998年にアルバニア人で結成された「コソボ解放軍」が反乱を起こし、コソボ紛争と呼ばれる内線に突入します。北大西洋条約機構(NATO)が介入しセルビア地区の空爆が実施され、セルビアによる統治はコソボから排除されていきます。

1999年のコソボ紛争後に採択された国連安全保障理事会決議にもとづきセルビア人部隊はコソボから撤退し、代わって国連コソボ暫定統治機構(UN Interim Administration Mission in Kosovo: UNMIK)の暫定統治下に入ります。2008年2月にコソボ自治州議会はセルビアからの独立宣言を採択し憲法を発布します。しかし、前述のようにロシアや中国が独立を認めず、バルカン半島における民族自決を掲げる少数民族国家、コソボのセルビアからの完全な分離独立は未だに不明な状況です。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十 ボヤナ教会のフレスコ画 

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ヨーロッパの小国巡りをしています。ところが小国とはいえ、大国にない素晴らしい文化があることに驚きます。多様な民族、交易による人の交流、紛争、そして宗教心が民族の独自性を維持する力になったようでもあります。

ブルガリアの首都ソフィアから南西に8km。ヴィトシャ山(Vitosha)の麓に建つ小さな教会がボヤナ教会(Boyana Church)です。ブルガリア正教会(Bulgarian Othodox Church)の礼拝堂です。2階建ての教会は、10世紀後半に建てられ、その後13世紀と19世紀に増築されます。ブルガリア正教会は東方正教会(Eastern Orthodox Church)の一員です。

この教会が世界的に有名なのは、礼拝堂や拝廊の内部に描かれているフレスコ画です。現存するのは、古くから描かれていたフレスコ画の上に上書きされたもののようです。礼拝堂の壁画には、240人の人物像があり、89の聖書の箇所が展開されています。東ヨーロッパの中世美術の中でも、最も保存状態の良いものとされています。

礼拝堂へつながる廊下、拝廊にある18場面は聖ニコラオス(St. Nicholas)の生涯を描いています。「海での奇跡」という画面では、船と船乗りの帽子がイタリアのヴェネツィア(Venice)の船を思わせるといわれます。「アドリア海の女王」とか「水の都」と呼ばれたヴェネツィアからの影響だろうと察せられます。

教会の北壁には、教会を巨額の浄財によって支えた有力な信徒や貴族たちの肖像画群となっています、教会のフレスコ画の中でも最も印象的で迫真的な作品とされます。その肖像画には、貴族カロヤン(Sebastocrator Kaloyan)とその妻デシスラヴァ(Desislava)、あるいはブルガリア皇帝のコンスタンティン1世(Constantine I)や皇妃イリーナ(Queen Irina)などが描かれています。

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ヨーロッパの小国の旅 その十九 フレスコ画とリラ修道院

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リラ修道院(Rila Monastery)はブルガリアに行くのでしたら是非訪れて欲しい場所です。この修道院はユネスコの世界遺産です。この修道院の見所といえば、聖母誕生教会(St. Mary Nativity Church)の壁や天井に極彩色で燦然と輝くフレスコ画(fresco)といえます。フレスコ(fresco)という言葉は、英語のfreshにあたるイタリア語です。文字通り「新鮮な」とか「爽やかな」という意味です。

フレスコ画とはですが、壁面に砂と石灰を混ぜた「石灰モルタル」を塗り、そのうえに水で溶いた顔料で絵を描いていく技法です。色の元である顔料そのものと、石灰が硬化する力で色を定着させていくので接着剤は使いません。乾燥すると石灰に膜が張られ、自然の保護膜ができるため、非常に耐久性が高くなります。さらに、石灰は元の石灰岩へと戻っていくため彩色大理石のようになり、何百年何千年と色あせない絵画ができるとも言われます。

フレスコで想い出すのが、人類最古の絵画と言われるアルタミラの洞窟壁画(Cave of Altamira)です。我が国の高松塚古墳の壁画もフレスコ画といわれます。時代はくだり、ヴァチカン(Vatican)にあるシスティーナ(Sistine)礼拝堂にあるミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti )が描いた「天地創造」、「最後の審判」、ラファエロ(Raffaello Santi)による「アテナイの学堂」、これらもフレスコ画です。2人ともルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家です。

リラ修道院に戻ります。フレスコ画のモチーフはいうまでもなく聖書物語です。聖書の36場面が描かれています。礼拝堂内に入ると無数のイコン(icon)で飾られたイコノスタシス(iconostasis)という壁が目に飛び込んできます。金箔が施されています。この壁は「聖障」と訳されていて、正教会と東方諸教会の聖堂では、聖所と至聖所を区切るのです。礼拝堂の壁、柱、梁、天井を埋め尽くす極彩色のフレスコ画はブルガリア宗教画の至宝でしょう。

リラ修道院にある博物館も見逃せないところです。そこにある秘蔵品は「ラファイルの十字架(Rafail’s Cross)」という縦横81×43 cmの木造の十字架です。その上に104の聖書の箇所が彫られ、650体の人物が描かれています。完成したのは1802年で、ラファイルという僧侶が作ったとあります。

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ヨーロッパの小国の旅 その十八 リラ修道院

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ブルガリアの首都ソフィアの南、110キロ余りのところにリラ修道院(Rila Monastery)があります。ソフィアを旅するときは、一日かけて訪ねる価値があります。バスに揺られ2時間余り。途中のリラ村からは緑の深いリルスカ峡谷(Rilska River)を走ると、そこに忽然として男子の修道院が現れます。UNESCOの世界遺産、リラ修道院です。修道院は海抜1,100mのところにあり周りの山はロドペ山脈(Rhodope Mountains)です。

創建は10世紀に遡ります。聖リラ(St. Ivan of Rila)という僧がこの深い谷間を隠遁の地として選び礼拝堂を建てます。当時は、岩壁の洞窟を使ったと記録されています。やがて各地からやって来た若い求道者が現在の位置に教会堂などを建て始めたようです。

リラ修道院は、長い間ブルガリア帝国の支配者から厚い庇護を受けて文化や霊的な教育の中心として発展します。それはオスマン帝国の支配が始まるまで続きます。14世紀には、修道院としての規模となり充実します。リラ修道院の現存する最も古い建物は、修道院正面の門と大司教の正座、そして石造りの礼拝堂と塔でです。フレリョ塔(Tower of Hrelja)と呼ばれます。

16世紀にはいると修道院は数々の攻撃や破壊を受けます。しかし、マラ・ブランコビッチ(Mara Brankovic)というセルビア王国(Serbia)の王妃やロシア正教会などの援助で元通りに再建されるのです。修道院の宿坊は1816年に造られます。1833年、大火のために修道院は焼失しますが、当時有名な建築家アレクシ・リェッツ(Alexi Rilets)の設計と裕福なブルガリア人などからの多額の浄財とによって1862年に再建されます。修道院内の複合建築物には、ブルガリアの言語や文化を代表する書物や遺品を所蔵し、収蔵所としての役割を果たしています。

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ヨーロッパの小国の旅 その十七 第一次世界大戦後のブルガリア

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1912年から1918にかけて二つのバルカン戦争(Balcan Wars)と第一次世界大戦が起こります。ブルガリアは第一次世界大戦ではドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー二重帝国、オスマン帝国といった中央同盟国側として参戦します。しかし、同盟国は敗れ87,500名の将兵が亡くなり、多額の賠償を要求されます。1912年から1929年にかけて争いの地域から25万人以上の避難民がブルガリアに流れ込みます。ブルガリアの賠償問題は政治と経済に大きな打撃を与えます。

政情の不安によってツア・ボリス三世(Tsar Boris)による王政による独裁体制が敷かれます。1941年、ボリスはナチス・ドイツと軍事同盟を締結します。次いでドイツはソビエトへ奇襲攻撃作戦を開始します。この作戦名はバルバロッサ(Operation Barbarossa)と呼ばれました。特筆すべき出来事として、ブルガリアはホロコスト(Holocaust)に抵抗して本国からの移送を阻止し、枢軸国(The Axis)勢力下では戦時中ニユダヤ人の人口を増加させた唯一の国となりました。1943年にボリス三世が突然死去するとブルガリア内では反ナチズムの運動が起こります。

1944年にはソ連の侵攻を受け、王政が廃止され共和制が成立し、ブルガリア人民共和国としてソ連の衛星国家となります。3,000以上の旧政権の指導者や戦争犯罪人が処刑されます。ソ連の計画経済が導入され、工業化も進み国民総生産(GDP)も上昇します。1989年に共産党政権が崩壊し、2001年にはブルガリアの最後の国王であったシメオン・サクスコブルクゴツキ(Simeon Sakskoburggotski)が首相に就任します。サクスコブルクゴツキはブルガリア人民共和国成立後、エジプト、スペイン、アメリカへと亡命して1996年に帰国します。彼の手腕によってブルガリアの経済改革は回復方向に転じます。そして2007年には欧州連合(EU)へ加盟します。

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ヨーロッパの小国の旅 その十六 ブルガリアの首都ソフィア

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ソフィア(Sofia)は、チェコ(Czech)のプラハ(Prague)、ポーランド(Poland)のワルシャワ(Warsaw)、ルーマニア(Romania)のブカレスト(Bucharest)、ハンガリー(Hungary)のブタペスト(Budapest)と並び、1944年に社会主義のブルガリア人民共和国の首都となります。

以下、Britannicaからの引用です。1443年以降、ソフィアはオスマン帝国のルメリア州(Rumeli)の州都となり、その後4世紀以上にわたってオスマン帝国の支配下におかれます。町にはトルコ人が住み16世紀にソフィアの都市設計と外観はオスマン様式となり、多くのイスラム教の礼拝所、モスク(Mosque)やハマーム(hammam)という伝統的な蒸し風呂の公衆浴場が設けられます。

町はブルガリア人の反乱者 (haiduk) によって1599年に数週間にわたって包囲されます。1610年、カトリック教会はルメリアのカトリック教徒のためのソフィア管区を設置し、1715年にカトリック教徒の大半が流出するまで維持されます。16世紀には126世帯のユダヤ人の世帯があり、ユダヤ教の会堂シナゴーグ(synagogue)が建てられます。

20世紀に飛びます。1989年に起こった一連の東欧革命の流れの中で共産党独裁が揺らぎ、ブルガリアでも民主化要求が高まります。東ヨーロッパ全体が共産党支配と抑圧からの解放の機運が高まるのです。1991年にはソ連が崩壊し、2001年にブルガリア共和国(Republic of Bulgaria)が誕生します。

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ヨーロッパの小国の旅 その十五 ブルガリアの歴史

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ブルガリア(Republic of Bulgaria)は、東ヨーロッパの共和制国家です。世界地図を眺めますと「ヨーロッパの火薬庫」といわれたバルカン半島(Balkans)の東に位置し、北にルーマニア(Rumania)、東は黒海(Black Sea)に面し、南にギリシャ(Greece)とトルコ(Turkey)、そして西にセルビア(Serbia)、マケドニア(Macedonia)に接しています。実に複雑な地政学的な位置にあり、その歴史も複雑です。

中世期までの歴史は省き、その後のブルガリアの歴史を辿ってみます。第一次ブルガリア帝国(First Bulgarian Empire)は11世紀に東ローマ帝国に滅ぼされ、再び東ローマ帝国領となります。12世紀末に再び独立します。しかし、第二次ブルガリア帝国(Second Bulgarian Empire)は1242年のモンゴル人の侵攻によって打撃を受けて衰退し、1393年にオスマン帝国(Ottoman Empire)に滅ぼされます。以降、485年もの間オスマン帝国の支配下に置かれます。

1877年にロシア帝国はブルガリア内の抵抗勢力と共にオスマン帝国に宣戦を布告します。1878年オスマン帝国は敗北しサン・ステファノ条約(Treaty of San Stefano)を受け入れて、ブルガリアは 1878年3月3日に自治公国(大ブルガリア公国)(Great Bulgaria Principality)として独立します。この日は現在でも自由解放記念日として国の祝日となっています。

しかしブルガリア公国は、事実上ロシアの保護国であり、その領土がエーゲ海(Aegean Sea)まで伸張しロシアの南下政策を容易にしていきます。そのことに対し、イギリスやオーストリア・ハンガリーの国々などが懸念を抱き、こうした大国はロシアとトルコ戦争の戦後処理に関する1878年のベルリン条約(Berlin Treaty)に介入し、ブルガリアの領土を縮小してロシアの南下政策を牽制します。

1908年、オスマン帝国で青年トルコ人革命が勃発したことに乗じて、ブルガリアは独立を宣言します。1909年に国際的に完全な独立を承認されブルガリア王国が成立します。

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ヨーロッパの小国の旅 その十四 ブルガリアの旅

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2016年6月に、私は家内とでトルコのイスタンブル(Istanbul)にある日本人学校で教師をしていた友人を訪ねました。地図を見ながら、イスタンブルだけを観光するのはもったいないと思いました。そこで選んだのが西隣にあるブルガリア(Republic of Bulgaria)です。イスタンブルからブルガリアの首都はソフィア(Sofia)まで飛行機で一時間の距離です。

ソフィア(Sofia)というなんとも芳しいような名前です。ソフィアはギリシア語で叡智とか知性という意味です。哲学は英語でPhilosophy, Philosophiaで、Philoとは愛という意味です。SophiaとかSophieなどとも使われる女性名詞です。私事ですが孫娘もSophia。この名詞は人名の他に都市や組織にも使われます。上智大学(Sophia University)とかアヤソフィア(Hagia Sophia)がそうです。アヤソフィアは別名Sancta Sophiaといい「聖なる叡智」という意味です。

ソフィアはヨーロッパ最古の都市の一つであり、この街はかつて東ヨーロッパ周辺に住んでいた民族トラキア人(Thracia)の集落、セルディカ(Serdica)と呼ばれていたとあります。有史以前のトラキア人集落跡が現在のソフィアの中心で見つかります。その歴史は7千年以上に及ぶとされます。紀元前29年にセルディカは古代ローマ(Ancient Rome)によって征服されます。古代ローマとは、イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家といわれます。

セルディカは発展し、やぐら、防壁、公衆浴場、役所、一般の教会堂より上位にあるバシリカ(basilica)が造られます。特に。東ローマ帝国のユスティニアヌス1世(Justinian I)の時代には繁栄を謳歌したようです。この時のセルディカは巨大な城壁に囲まれており、その一部は遺跡としてソフィアのダウンタウンで見られます。そういえば、ダウンタウンの駅名もSerdicaで名残を留めています。セルディカの発掘と保存作業は続いていました。

イスタンブルに行く前に、バルカン半島の地図を見ながらブルガリアとかルーマニアをも訪ねてみたいという気持になりました。

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ヨーロッパの小国の旅 その十三 ラトビアの歌と踊り

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バルト海の真珠”と称されるのが首都リガ(Riga)の旧市街です。世界遺産にも登録されています。一度訪ねたいものです。リガには12世紀後半ごろからバルトドイツ商人(Baltic Germans)が移住し、1282年にはハンザ同盟に加盟して貿易拠点として急速に発展を遂げます。その影響を受けてでしょうか、写真で見ますと旧市街には北ドイツ風のゴシック様式(Gothic)やロマネスク様式(Romanesque)の優雅な街並みが広がっています。厚い壁と小さな窓、細い柱や尖頭と円形のアーチ、石造天井、壁の彫刻などがこうした様式の特徴です。

バルトドイツ商人の祖先はドイツではありませんでした。やがて定着していくにつれてドイツの文化を取り入れ、上流社会を形成していきます。そしてラトビアとドイツの文化が融合していきます。20世紀になるとドイツ、アメリカ、カナダなどへ移住していく者が増えます。

しかし、土着のラトビア人は融合ではなく農民独自の文化を維持しながらキリスト教の伝統に結びついていきます。その代表といえる行事は、「ヤニ」(Jani) と呼ばれる夏至の祝いです。この祭りは聖ヨハネ(St. John)の洗礼を祝うものでもあります。自然崇拝や多神教の信仰色もあります。

ラトビアの伝統的な歌や踊りは何百年も受け継がれてきました。百二十万以上の伝承物語があり、三万以上の民族音楽が残されています。ラトビアの歌と踊りの祭典(Latvian Song and Dance Festival)は、1873年以来続いています。5年毎に開かれ30,000以上の人が集うとされます。歌と踊りのレパートリーは古典的で簡素化された教会様式アカペラ(A cappella)から現代的なものに及んでいます。

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ヨーロッパの小国の旅 その十二 第二次大戦とラトビア

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

1939年に第二次世界大戦が始まると、ドイツとソ連との不可侵条約によりラトビアをはじめとするバルト三国はソ連に併合され、共産党の厳しい統治下に入ります。ラトビアはソ連との間で相互援助協定を結び、ソ連軍の駐留を認め空軍と海軍基地を提供します。1940年6月にソ連はラトビアに侵攻し、ラトビアはソ連の衛星国となります。ラトビア人もバルト系ドイツ人も厳しい迫害を受けました。35,000人以上の知識人らは追放され、北方ロシアやシベリアの強制収容所に送られたと記されています。この時代は「恐怖の年代」(Year of Terror)と呼ばれます。ドイツは不可侵条約を破りソ連に宣戦します。ラトビア人にとっては、東進してきたナチス・ドイツは自らを解放する同盟者に映ったようです。

しかしながら、ナチス・ドイツに協力しソ連に対抗しようとしたラトビアでは、多くのユダヤ人がラトビア人の監視のもとで強制収容所に送られ虐殺されます。中世にポーランドを通してラトビアに移住してきた多くのユダヤ人達です。さらにラトビア在住のユダヤ系の人々のみならず、ドイツやドイツの占領地から大量のユダヤ人が移送されてきます。1941年から1944年までのナチスドイツの侵攻によって、ラトビア人男性は徴兵されドイツ軍に編入されます。同時に国内でナチスドイツ抵抗運動が起こりますが、75,000人にのぼるラトビア人やユダヤ人が殺害されます。1944年ソ連の侵攻で2/3のラトビアが占領されます。100,000人以上のラトビア人がドイツやスウェーデンに逃れます。

戦後、連合国の協定によってラトビアなどバルト三国はソ連に併合され、スターリンの圧政を受けるのです。バルト三国は1991年にソ連が崩壊するまでソ連の共和国となります。ソ連からラトビアに大量のロシア人が移住してきます。戦争を挟む40年間に人口の3/4を占めていたラトビア人は1/2まで減ることになります。当然、国民はロシア語を使うことになります。

1980年代になり、ソ連における政治体制のペレストロイカ(perestroika) とかグラスノスチ(glasnost)といったスローガンによる改革運動の進行や1991年の共産党保守派によるクーデター(Coup detat)の失敗により、その年の8月に議会が独立を宣言し、ソ連からの完全な独立を回復するのです。

戦後、リガの旧市街は昔の趣を再現し、中世の街並みの残る地域として世界遺産(World Heritage)となり、観光都市として繁栄しています。バルト三国の発展は、戦後70年以上を経過した西ヨーロッパの未来と深く関わっているのです。バルト三国は北大西洋条約機構 (NATO)、 欧州連合(EU)に加盟しロシアからの脅威に備えています。

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ヨーロッパの小国の旅 その十一 ラトビアとは

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

ラトビア(Republic of Latvia)は私は訪問したことがありません。世界史が好きな私には、なぜかバルト三国は興味がひかれます。それは大国に翻弄された小国、とりわけ北東ヨーロッパの国々が大戦をくぐり抜けて独立を果たしたことへの畏敬のようなものを感じるからです。

バルト三国のラトビアについてです。首都はリガ(Riga)。リガは新市街と旧市街が歴史地区とされ、ユネスコ世界遺産に認定されています。石畳の道を踏み入れるとそこは中世の世界というわけです。ラトビアはエストニアとリトアニアの間にあり、これらの国と同じような独立、戦争、占領、独立という苦難の歴史があります。以下、Britannica百科事典にそってラトビアの歴史を翻訳してみます。

長年、ハンザ同盟(Hanseatic League)、ドイツ騎士団(Teutonic Order)、そしてラトビア内にあった自治を叫ぶ人々との争いが続きます。ドイツ騎士団はそれでもラトビア領土内の自由貿易を認めていました。ですがラトビアは以前としてドイツ人の支配にありました。

1500年代、ラトビアの地はスウェーデンやポーランドなどの支配で分割されます。 1710年にロシアのピヨートル皇帝一世(Peter Great)はバルト海に進出し、スウェーデンからやがてラトビアの首都となるリガを占領します。その後長くラトビアはロシアの支配下におかれます。

19世紀になるとラトビアの中に自治と独立の機運が起こります。それは 1905年の第一次ロシア革命と1907年の第二次革命です。独立運動は、ドイツやロシアから受けていた政治や経済の支配から脱却しようというものです。1907年にラトビア国民集会(Latvian National Political Conference of Riga)がリガで開かれるのです。しかし、ドイツがリガを占領し自治を禁止します。ドイツの占領下で1918年11月にラトビア内で農民、ブルジョア、社会主義者らが自由を宣言します。そこにイギリスがドイツを排除しようとして介入します。

1919年にドイツはラトビアとリトアニアから撤退しますが、ソビエト共産党による赤軍が後に控えたままです。1920年にソ連とラトビアは平和協定を締結し、ソ連はラトビアの権利を認め、1922年にラトビア憲法による大統領制と議会制が謳われます。そうした制度にも関わらず、民主的な国家運営はなされませんでした。ラトビアでは改革が遅れるとともに、大統領に強大な権限を与えて国家を運営しようとします。

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ヨーロッパの小国の旅 その十 リトアニアと杉原千畝

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

杉原千畝氏は、早稲田大学時代から特に英語に堪能だったといわれます。外務省の官費留学生として1919年にハルピンの日本総領事館に赴任しロシア語を勉強し、1932年には満洲国外交部では書記官としてソ連との北満洲鉄道の譲渡交渉にあたったようです。

1939年に、杉原千畝氏はリトアニアのカウナス(Kaunas)に開設された日本領事館の職員として赴任します。この年にナチスドイツがポーランド西部に侵攻し第2次世界大戦が始まります。翌年には日独伊三国同盟が締結され、日本はドイツとの強固な同盟国となります。

“強固な同盟”を優先した日本政府はナチスのユダヤ人迫害をどう捉えていたかです。すでにナチス・ドイツのユダヤ政策によって、大量の避難民が発生していました。日本への入国・通過を求めてビザの発給を求めて多くのユダヤ人がカウナスの領事館へやってきます。その事態に対して日本の外務省は訓令を出しユダヤ人の日本の入国や通過を非とします。政府は、ナチス・ドイツの方針におもねていたからです。

ビザを求めるユダヤ人と外務省の訓令の間にはさまれた杉原氏は指示に背いてビザを発給したのです。その数は1,300通といわれます。一家族一枚でしたから、約6,000名以上のユダヤ人がリトアニアから脱出することができたと資料にあります。この時、杉原氏が発行したビザは、ユダヤ人から「命のビザ」と呼ばれるようになります。

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ヨーロッパの小国の旅 その九 リトアニアと「シンドラーのリスト」

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

私はリトアニア(Lithuania)を訪ねたことはありません。リトアニアと日本との関係で忘れられないのは、後に「東洋のシンドラー」とも呼ばれる外交官の杉原千畝氏です 。彼は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアの首都カウナス(Kaunas)で、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、第三国への亡命を手助けしたことで知られています。そのことを証拠づけるさまざまな外交資料が残されています。

「シンドラーのリスト」(Schindler’s List)という映画をご覧になったでしょうか。スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)監督による1993年のアメリカ映画です。主人公オスカー・シンドラー(Oskar Schindler)というドイツ人実業家は第二次世界大戦中、ドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、戦争のために必要な物資を製造する軍需工場で働いていた1,200人を虐殺から救った人物です。その時、彼がユダヤ人労働者の雇用を申請するために作成したリストは「シンドラーのリスト」と呼ばれました。

後に、日本経由でアメリカなどに渡ったユダヤ人やイスラエル政府は杉原千畝氏の功績や勇気を讃え、「諸国民の中の正義の人」と呼ぶようになります。誰が「東洋のシンドラー」と呼んだかは定かではありません。後に杉原氏は「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」と述懐したようです。

杉原氏のビザの発行や外務省による名誉回復に対する批判的な資料もあります。例えば「ロシア語に堪能だった杉原はソ連のスパイではなかったか」、「杉原のビザの給付は乱発ではなく外務省の許可を得ていた」といったことです。しかし、このような批判は杉原氏の名声を失墜させるどころか、彼の人道的な行為をさらに輝かせるものとなります。

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ヨーロッパの小国の旅 その八 エストニアの隣国リトアニア

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

バルト三国の二番目の国はリトアニア(Lithuania)です。後に紹介するラトビア(Latvia)、ポーランド(Poland)、ベラルーシ(Belarus)と隣あわせです。人口は約280万人で、エストニアと同様に強国の争いに翻弄された苦難の歴史があります。

近代のリトアニアの歴史です。1917年にロシア帝国で起きた2度のロシア革命(Russian Revolution)後、1918年から1920年にかけてリトアニア国内では自由と独立を求める運動が起こります。1920年には、国籍や宗教の違いを超えた最初の総選挙が行われます。1922年には最初の憲法が採択され、大規模な農地改革や教育改革が行われます。1923年にはそれまで占領されていた港湾都市のクラペダ(Klaipeda) を取り戻し、海上交通が容易になります。1920年代から1940年にかけて近代的な制度が敷かれ、カナウス(Kaunas)が首都となります。

1944年から1953年にかけては、ソビエト連邦の支配下におかれ、その間粘り強い抵抗運動が侵略者に対して続けられます。一時ナチスドイツの占領下に置かれた時期もあります。こうした苦難に直面しながらも民主的な国家樹立の精神を保持し続けます。

1988年にはサユディス(Sąjudis) と呼ばれる大集会が開かれソ連からの独立を叫びます。そしてようやく1991年の1月、独立回復宣言を発布します。最初に独立を承認したのはアイスランドでその後続々と各国が承認します。1993年にはソビエト軍を引き継いだロシア軍が撤退し、2004年3月に北大西洋条約機構(NATO)に加盟します。さらに欧州連合(EU)への加盟を果たします。

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ヨーロッパの小国の旅 その七 エストニアと電子立国

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

サイバー先進国として、エストニアはもはやヨーロッパの「小さな国」ではないことを説明してみます。エストニアが電子政府を構成している要素の一つに、2002年から始まった国民に対して「eIDカード」を発行する国民ID制度というのがあります。制度が開始して以来、エストニア人の98%がこのeIDカードを所有しているといわれます。

eIDカードの活用例としては、EU内の行き来のときのパスポートとなります。次ぎに国民健康保険証としても使えます。医療記録を確認したり、税務の申告で使えます。もちろん投票のときも使います。銀行口座にログインする際の身分証明書ともなるのですから、銀行毎のカードは不用となります。オンライン上で行政手続ができるメリットといえば、役所で並ぶ時間や待ち時間がなく誰にも大きな時間短縮が図られています。役所は人手を別のサービスに振り向けることができます。

エストニアは他国からの侵略と混乱の歴史から、たとえ領土を失ってもデータさえあれば国は早期に復興できるという備えの考えがあります。それを実現しているのが「データ大使館」と呼ばれるものです。エストニアは2007年4月に基幹となるサーバーが攻撃され、混乱したことがあります。有力な説ではロシアが仕掛けたサイバー攻撃といわれます。そこでエストニア国民の個人情報や政府の機密情報等のデータを、信頼できる同盟国のサーバへ分散して保存しておくことにしたのです。データ大使館を置いた国は、同じくヨーロッパの小国ルクセンブルク(Luxemburg)です。

この二つの国に共通するのはIT活用に積極的であることです。ルクセンブルクはスタートアップするIT企業を多く抱え、外国企業の受け入れにも積極的です。政府機関や国民のあらゆる情報を保存するサーバーはサイバー攻撃の対象となります。そうした苦い経験により、情報の分散化をはり、それをITの先進国であるルクセンブルクに求めたとされます。データ大使館には国を継続するために必要なデータを保管するという小さな国の大きな戦略が込められています。

ところで我が国の「マイナンバーカード」はなんの役に立っていますか。個人番号を証明する書類や本人確認の際の公的な身分証明書だけです。普及率はたったの14%。あってもなくても不自由しないので普及しないのです。典型的な行き当たりばったりの施策です。

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ヨーロッパの小国の旅 その六 エストニアの魅力

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

バルト三国のうちの一つエストニア。首都タリンは、中世の面影を現在まで残すヨーロッパ内でも珍しい街です。領土は九州位の大きさでありながら、意外な特徴があることを紹介しましょう。

まずはオンラインサービスが行き届いたサイバー先進国であることです。Skypeの発祥地であるエストニアはITの利用が極めて盛んです。電子政府先進国といわれ、行政サービスの99%をオンラインで手続きでき、国民がネットで納税しています。多くの人々がオンラインで投票するのです。サイバー先進国の話題は次回で紹介します。

次ぎに、エストニア人の多くが英語を話すことです。母国語を英語としない国のランキングでなんと第4位です。第1位はスェーデン、次ぎにノールウェイ、オランダと続きます。国民の英語のレベルが高いのはこの国の強みの一つといえます。このようには人々は当たり前の様にバイリンガルです。3ヵ国語も4ヵ国語も喋れる人が珍しくありません。スェーデン語、ロシア語を操るのです。

さらにEUの中では物価が安いといわれます。それは人件費が安いことも関連しています。治安が良く、行政や警察とか軍隊に多額の予算をかけていないこともあります。オンラインサービスのお陰で人手が少なくて済むのです。街並みが綺麗で治安が良いのですから観光客も多くなります。国民の物静かな人柄や親しみやすい性格も特徴といわれます。EU加盟国なので通貨はユーロです。他のEU加盟国との行き来が自由です。日本国内のように容易に隣国まで行けるので行動範囲が広がります。観光客からエストニアが人気がある理由です。

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ヨーロッパの小国の旅 その五 タリンの街ーヴィル門

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

エストニアの首都タリンの旧市街への入り口となっているのがヴィル門(Viru Gate)です。2つの石の塔からなるヴィル門は14世紀に建てられたとあります。昔タリンを外部からの攻撃に備えて建てられたものです。門を入ると石畳が敷かれた中世の街並みとなり、今は民芸店やレストランが立ち並びます。

さらにタリンの街を歩くと赤いとんがり帽子のような塔が見えてきます。中世はこんな時代なのかという感覚に襲われるくらいです。旧市街は13世紀後半から城壁が作られ、現在でもそれに囲まれています。幾たびの戦禍を免れてきたのはこの城壁のおかげといわれます。その城壁には20ほどの見張りとなった塔が建っていますが、特に旧市街西側は保存状態が良いので「塔の広場」と呼ばれています。

「ラエコヤ広場」(Raekoja Plats)は、旧市庁舎の前の広場で、旧市街の中心スポットとなっています。今は、周りにレストランやカフェが立ち並び、市民の憩いの場となっています。フェスティバルやクリスマス時にはマーケットが開かれます。中世当時、広場は祝いの場だけではなく、市民集会が開かれ、裁判も行われ処刑の場となり、贖罪の礼拝が執り行われた歴史があります。聖と俗が一体となった空間が広場というわけです。

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ヨーロッパの小国の旅 その四 タリンの街ーアレクサンドル・ネフスキー大聖堂

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

私が娘と首都タリン(Tallinn)を訪ねたのは1997年です。ヘルシンキからフェリーでタリンに着きました。旧市街は中世期のたたずまいです。塀や建物の壁には銃弾の跡が残っています。これは第二次大戦の銃撃戦の跡です。独立して6年後のことですから、街全体は復興中でした。看板には盛んに外国からの投資に期待するスローガンが見られました。

タリンで見だつものをいくつか紹介しましょう。小高い丘の上に建つドームの建物は、東方正教会「アレクサンドル・ネフスキー大聖堂」(Alexander Nevsky Cathedral)です。アレクサンドル・ネフスキー(Alexander Nevsky)は中世ロシアの英雄として讃えられている人で正教会で列聖され、正教会の聖人となっています。ビザンティン建築様式(Byzantine Architecture)のこの大聖堂は、タリンにある教会の中でも最も大きいものです。

Wikipediaによりますと、19世紀末に建築されたこの教会は、ロシアによる支配の象徴でしたが、独立を果たした後は取り壊しも一時検討されたようです。今では、当時の歴史を学ぶことができる建造物としても貴重なものとして保存され、多くの観光客を惹き付ける場所となっています。後に触れるブルガリア(Bulgaria)の首都ソフィア(Sofia)にもブルガリア正教会の壮麗なアレクサンドル・ネフスキー大聖堂があります。

ビザンティン建築のことです。紀元後330年頃、ローマ帝国のコンスタンティヌス大王(Constantine the Great)は、ボスポラス海峡要衝にある都市ビュザンティウム(Byzantium)に自らの名前をつけます。それがコンスタンチノープル(Constantinople)です。その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となります。今のイスタンブール(Istanbul)です。ローマ帝国は1453年にオットマン帝国によって滅ぼされます。

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ヨーロッパの小国の旅 その三 エストニアの独立に至る歴史

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

Britannica百科事典を調べながら、エストニア(Estonia)の大国に挟まれた誠に複雑な歴史を辿ります。日本のように国内の大名らの争いではなく、国外からの侵略という脅威です。エストニアは長らくドイツ騎士団(Teutonic Order)に支配され、13世紀にはデンマークが領有します。16世紀になるとリヴォニア戦争(Livonian Warというエストニアの支配を巡る争いが起こります。これによりスウェーデンが支配し、エストニア公国となります。

18世紀になると大北方戦争(Great Northern War)の結果、ロシア帝国の支配となります。この戦争はスウェーデンと反スウェーデン同盟間の戦争です。ピュートル皇帝一世(Peter the Great)はスウェーデンを駆逐し、ロシアはバルト海の覇権を握り、獲得した地にサンクトペテルブルク(St. Pertersburg)を建設します。

1917年のロシア革命により、エストニアには自治がもたらされます。20世紀になり、第一次大戦の結果1918年にドイツが降伏し、エストニアは一時独立を果たします。1939年にはソビエト赤軍がエストニアに進軍すると傀儡政権が作られます。それ以来、長くソビエトの支配が続きます。1980年代までエストニアの政治経済、社会はソビエト連邦と軍隊を後ろ盾とする共産党に支配されます。

この共産党の支配時代には、独立運動をしていた人々、自由を求めて文化活動をしていた人々は弾圧され逮捕されて拷問などを受けています。元共産党本部であった建物は歴史博物館となり、そこを訪ねますと牢獄などが保存されています。1991年のソビエト連邦における共産党保守派のクーデター失敗によりエストニアはようやく独立を宣言し、ソビエト連邦もこれを承認します。

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ヨーロッパの小国の旅 その二 バルト海の歴史とハンザ同盟

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

北の地中海と呼ばれたバルト海(Baltic Sea)は、古代バルト文明、中世のヴァイキングの東征、ハンザ同盟(Hanseatic League)の通商の舞台となったところといわれます。地図を見ますと、スカンジナビア諸国(Scandinavia)、デンマーク、ドイツ、ポーランド、バルト三国、そしてロシアがこの周りに位置していることがわかります。古くから海上交通に利用され、沿岸には有力な海港都市が存在しています。

バルト海貿易を最初に開拓したのは、スカンジナビアに住む北ゲルマン人(ヴァイキング)です。やがてゲルマン人の東方進出に伴い、12世紀以降はヴァイキングに代わりドイツ人が貿易の担い手となります。そしてロシアとの交易を発展させていきます。ドイツ商人はロシアから毛皮、穀物、木材、海産物、コハク(Amber)を求め、ロシアには毛織物、食糧、ワイン、生活必需品などを輸出します。

王侯貴族を顧客にしていた地中海貿易とは対照的に、バルト海貿易は投機性に乏しかったといわれます。しかも冬のバルト海の航海は厳しく、航海が絶たれます。近世に入ると大西洋や太平洋航路が国際貿易の重要な舞台となるにつれて、バルト海貿易はやがて衰退していきます。

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ヨーロッパの小国の旅 その一 エストニア

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

しばらくヨーロッパの旅をしてみます。地図を見てわかるようにヨーロッパ大陸には沢山の国々が存在しています。陸続きなので過去も今も人々の行き来が盛んです。交易も盛んである反面、民族のいさかいも長く続いているところこです。その中の国で、ドイツとロシアの間にあるバルト三国(Baltic States)の一つエストニア(Republic of Estonia)に行ってみましょう。

エストニアの人口はたったの160万人。首都はタリン(Tallinn)です。「北の地中海」と呼ばれるバルト海(Baltic Sea)に面しています。バルト海という名を聞くと帝政ロシアの「バルチック艦隊」が思い出されます。バルト三国とはエストニアの他に、リトアニア(Lithuania)、ラトビア(Latvia)を指します。三国は欧州連合(European Union:EU)や北大西洋条約機構(NATO)、そして経済協力開発機構(OECDに属しています。

エストニアは地政学的の条件から、大国に翻弄され、独立運動が起こっては鎮圧された長い歴史があります。ようやくソビエト連邦から独立したのが1991年です。1885年にゴルバチョフ(Mikhail S. Gorbachev)が大統領に就任し、立て直し(ペレストロイカ)、情報公開(グラスノチス)による政策を進めます。それに対して起こった共産党保守派のクーデターが失敗し、エストには独立を宣言し、ソビエトもこれを承認するのです。

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ハングルと私 その25 韓国についての誤解にどう向きあうか

Last Updated on 2025年1月3日 by 成田滋

この稿で「ハングルと私」は終わりとします。
世の中には、いろいろな誤った見方や考え方があります。日本人の韓国や韓国人に対する誤解もそうです。例えば韓国の人は「アグレッシブで喧嘩早い」とか「反日感情を過剰に持っている」などという風評です。そういう人もいるのは確かですが、こうした人々は5%以下でしょう。5%というのはどの国にも当てはまる数字です。大多数の韓国人は個人として付き合えば実に友好的で儒教の仁や仏教、キリスト教の教えを実践している印象を受けます。韓国はこの3つの宗教が共存している国です。人との付き合いを深めていけば、感情の機微や暖かみを体験できるのです。個人と個人、家族と家族との出会いは偏見や誤解を溶かしてくれます。

世の評論家は得てして、「日本と韓国の関係は、かくかくしかじか」とのたもうのが好きですが、そのようなご宣託はあまり役に立たないのです。どうしたら仲良くできるかです。それには、その国の言葉を学び文化を知り、できればその国を訪ねて対話し、自分の目で確かめることです。そして親しき友をつくる努力をするのです。

友だちをつくるというのは、互いに異なる考えを持ちながらも、それを柔軟に修正できる感性を育てることです。「自分の見方はもしやして偏っていないか、」と自分に問える姿勢です。未知なことを学び、考える態度を持つことです。どのような方法にせよ、何からか誰かから教えを受けるということです。文化という定義はそれを使う人の数だけあるといわれます。なにが正しいとか間違っているというのではありません。町や村の違い,国と国との違いは人々の考え方に反映します。この考え方は文化の相対性ということです。このことを理解したいものです。