イスタンブルとソフィアの旅から その8 歴史の栄華と衰退 その1 宗教

Last Updated on 2025年1月3日 by 成田滋

どの国にも栄枯盛衰の歴史があります。トルコも幾多の変遷を経た歴史があります。それが今回のテーマです。歴史は民族と宗教が絡み微妙で複雑でありますが、敢えて取り上げなければ旅は終わらないという心境です。どうぞお付き合いください。

建国の柱には宗教や為政者があると思われます。民族をまとめ、国をある方向へ導くために支柱となるのが宗教とかカリスマ的な存在です。超越的なものに対する人々の態度、すなわち信仰がそうです。宗教には必ず教義や原理があります。峻厳な戒律があれば、寛容で緩やかな縛りのものもあります。ですが他の宗教には妥協しないのが宗教たる所以でもあります。共通な教えがあったとしても、それは末梢的なことです。普遍的なこと、譲ることのないものが人々に受け入れられかどうかによって、世界宗教となるか民族宗教となるかというです。

宗教を円で表してみましょう。円の状態が全く離れている、接点がある、重なる部分があるというが考えられます。原理主義や教条的な宗教は、他とは全くの接点がないと考えられます。教義や戒律に勝手な解釈を許さず、教えの一言一句に妥協しないことが特徴です。相互理解とか寛容の精神などという妥協は許さないのです。

これが徹底すると征服とか支配という現象が起こります。支配する者と抑圧される者の緊張です。中世カトリック教会の諸国が、イスラム教諸国から聖地エルサレムを奪還することを目指して派遣した遠征軍、十字軍(Crusader)はその例です。異なる民族から成る国には、多数者と少数者の緊張が絶えず起こりがちです。この緊張が昂じると民族主義を標榜した独立運動が起こりがちです。国が強力な軍事力を持つとき運動は鎮圧されますが、一旦国の経済が疲弊し支配力が弱まると、政教のたががはずれ内部から瓦解していきます。

今もトルコには、ロシア正教(Russian Orthdox Church)、アルメニア使徒教(Armenian Apostolic Church)、ユダヤ教(Judaism)、カトリック、プロテスタントなども存在します。オスマン帝国末期からトルコ共和国成立に至る経緯で、こうした少数民族は、抑圧や排除の歴史を経て信仰を守っています。建国の父といわれたアタテュルク(Mustafa Kemal Ataturk)が、憲法からイスラムを国教と定める条文を外したことも、宗教が共存している大きな理由です。トルコの歴史は宗教の歴史ともいえそうです。

イスタンブルとソフィアの旅から その7 トルコと英語

Last Updated on 2025年1月3日 by 成田滋

電車、バス、地下鉄を利用しトルコの一部の地域しか旅をしませんでした。その間気がついたことがあります。東西の交通や貿易の要所であり、経済や文化、歴史の中心地であるイスタンブルは別として、地方では英語が余り通じないことでした。

Bursa, Turkey – February 04, 2017: People are having a tea in the courtyard of Koza Han silk market. Koza Han was built as a foundation for historical works in 1491.

初代大統領のアタテュルクはアラビア文字を廃止して、公用文字としてラテン文字(Latinum)に改める文字改革を断行したのですが、こと英語については国民の間に広まっているとは思えません。このような状態はイスラム教の影響なのか、ナショナリズムの影響なのか、学校教育の課題なのかはよくわかりません。

Bursaの市場

顧みて我が国の英語の普及についてです。2011年度より新学習指導要領が全面実施され、小学校での英語教育は、5年生、6年生で年間35単位時間の「外国語活動」が必修化されました。その内容は歌、ゲームなどをとおして英語に親しむ内容です。2020年から、5年生、6年生は英語が年間70時間の正式教科になります。なお、3年生、4年生は年35時間の「外国語活動」となり、基本担任の先生が英語を教えることになっています。果たして教員は英語の指導力をつけているのでしょうか。

ラテン文字を使わない私たちと違い、トルコの人々はラテン文字を使っているのですから、もっと英語が普及してもおかしくありません。トルコも含めて多くのアジアの国々で母国語以外の外国語、たとえば英語が人々の口から自然に出てくるならば、政治も経済も科学技術も振興し、観光客も増え、「おもてなし」 も手厚くなるのではないかと思われます。

Bursaの下町

イスタンブルとソフィアの旅から その6 トルコ共和国の誕生

Last Updated on 2025年1月3日 by 成田滋

1918年10月、第一次世界大戦においてオスマン帝国は連合国に降伏し、君主スルタン(Sultan)のメフメト6世(Mehmed VI)の政府は連合国との間で講和のセーヴル条約(Treaty of Sevres)を締結します。その結果、領土の大半を失うこととなりイスタンブルは連合国に占領されてしまいます。

大戦の敗北によって、ばらばらになったトルコ内では、旧帝国軍人や旧勢力、進歩派の人たちが国の独立を訴えて武装抵抗運動を起こします。1920年には中央アナトリアのアンカラ(Ankara)に抵抗政権を樹立します。大国民議会という組織が祖国解放戦争に勝利し、オスマン帝国を打倒して新たにトルコ共和国を樹立しようという一連の抵抗運動です。これはトルコ独立戦争と呼ばれています。1922年9月、ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Ataturk)を初代大統領として推戴し、現在のトルコ共和国が生まれます。

Mustafa Kemal Ataturk

アタテュルクは、大胆な欧化政策を断行します。ヨーロッパのさまざまな法典が、古いイスラムの法律にとってかわります。1928年には憲法からイスラムを国教と定める条文を削除します。トルコ住民の95%以上はイスラム教徒で、スンニ派(Sunni)と呼ばれます。1923年の共和国樹立後における革命的な変化の結果、公的活動に及ぼす宗教の影響は低下します。

アタテュルクは、トルコ語の表記についてもアラビア文字を廃止してラテン文字(ローマ字)に改める文字改革を断行したことで知られています。学校と社会生活は、宗教から分離されます。アタテュルクの名前はイスタンブル国際空港や大学、紙幣、道路などに広く使われています。しかし、欧化政策は今もイスラム主義者から根強い抵抗があるといわれていますが、救国の英雄、近代国家の樹立者としてトルコ国民の深い敬愛を受けているといわれます。

イスタンブルとソフィアの旅から その5 オスマン帝国の栄枯盛衰

Last Updated on 2025年1月3日 by 成田滋

オスマン帝国(Ottoman Empire)のことです。ブリタニカ百科事典によりますと、オスマンとういう言葉には人種的な意味はないとあります。帝国の始祖とみられるオスマン一世(Ottoman I)の名に由来する王朝名です。11世紀末以来、中・東部アナトリア(Anatolia)において優勢であったトルコ人が、残存していたビザンチン帝国のアジア領の大部分を奪取し地中海沿岸へと西進してできた国です。

15世紀には東ローマ帝国をほろぼして、その首都コンスタンチノポリスを征服し、イスタンブルと改称します。スレイマン一世(Suleiman)の治世である1520年から1566年がオスマン帝国の最盛期で、アジア・アフリカ・ヨーロッパにまがたる大帝国を築きます。

いつの時代も国の繁栄を持続するのは難しいようです。栄華を極めたオスマン帝国も例外ではありません。19世紀になると、オスマン帝国の各地では、エスノセントリズム(ethnocentrism)という自文化中心主義の考えによるナショナリズム(nationalism)が台頭します。民族主義とか愛国主義(patriotism)とも呼ばれる運動です。そして次々と諸民族が独立してゆきます。

詳しい歴史ははしょりますが、オスマン帝国は第一次世界大戦の敗北によりイギリス、フランス、イタリア、ギリシャなどの占領下におかれ完全に解体されます。ギリシャは、多数のギリシャ人居住地の併合を目指して旧オスマン帝国の領土であったアナトリア内陸部へと進出します。

ところでアナトリアは文明の発祥地と呼ばれ、ヒッタイト文明(Hittites)、フリギア文明(Phrygians)、古代ギリシア文明(Greece)が栄えたところといわれます。特にヒッタイトは高度な製鉄技術によりメソポタミア(Mesopotamia)を征服します。ヒッタイトは鉄器文化の発祥といわれています。今のトルコ領土の中心はアナトリアです。

イスタンブルとソフィアの旅から その4 ビザンチン帝国とイスタンブル

Last Updated on 2025年1月3日 by 成田滋

鯖サンドを売る広場の波止場から、またトプカプ宮殿(Topkapi Palace)の丘から金角湾が望めます。「アジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝と知られるようになったのは、天然の良港である金角湾にある」とWikipediaに記されています。宿のバルコニーからも金角湾上に沢山の船が見えます。金角湾を出た東にはボスポラス海峡(Bosphorus)があり、ここに2013年に日本の企業等が造った海峡を横断する鉄道トンネルがあります。

歴史の教科書を調べてみます。330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世(Constantine the Great)が、古代ギリシア(Greece)の植民都市ビュザンティオン(Byzantion)の地に建設した都市、これが今のイスタンブルです。ローマからビュザンティオンに首都を移し、ここを「新ローマ」と名付けます。ローマ帝国の東半分の帝国は、この地名にちなんでビザンチン帝国(Byzantine Empire)と呼ばれました。

コンスタンティヌス1世

イスタンブルの旧名はコンスタンティノポリス(Constantinopolis) とかコンスタンティノープル(Constantinople)と呼ばれました。イスタンブルの旧市街とはこのコンスタンティノープルのことです。コンスタンティノポリスは、コンスタンティヌスの町という意味です。ポリス(polis)という言葉は都市とか街のことです。ギリシャのアテネ(Athens)にあるアクロポリス(Acropolis)は、丘の上にある街(city at the top)とあります。誰もがアクロポリスついて高校の世界史でも習いました。

イスタンブルとソフィアの旅から その3 金角湾と鯖サンド

Last Updated on 2025年1月3日 by 成田滋

イスタンブル滞在中は、イスラム教のお祭りである「いけにえを捧げる日」、犠牲祭で、街は人々でごったがえししていました。足が棒になるくらい歩きながら、人々の表情を観察できました。家族連れで、有名なジャーミーのモスクやトプカプ宮殿(Topkap Palace)などの世界遺産を訪れる者、田舎から出てきて買い物をする人々で一杯でした。祝祭日とは民族の違いを超えて人々の暮らしに憩いと潤いを与える時です。

案内してくれた日本人学校の教師M.K.氏が面白いところへ連れて行くというのです。金角湾の波止場にある露天のファーストフードです。船縁では、ひらいた鯖を焼いています。それをパンにタマネギやキャベツを添えてサンドイッチにして売っています。坐るところをようやく探し鯖サンドをほおばります。ほとんどが家族連れで、周りはすべてこれを食べています。一個250円位。まことに手頃な値段ですが、数年前に比べて30%も値上がりしたようです。金角湾にかかるガラタ橋(Galata)の上では大勢の人々が釣りをしています。

国民の90%がイスラム教徒(Muslim)。アルコールは巷では買えません。イスタンブルの人々が魚と鳥を大いに食する気分を味わいながら、”ビールがあればもっとよいのにな” と思いました。アルコールはレストランでは注文することができます。トルコはワインでも知られ、その味もよいです。

ガラタ橋を渡るとカラキョイ地区(Karakoy)です。しばらく歩くと高さは67メートルの石造りのガラタ塔(Galata Tower)に着きます。”ビザンチン帝国(Byzantine Empire)時代の528年、アナスタシウス帝(Athanasius)が灯台として建設させたのがその始まり”とWikipediaにあります。塔にに登るのを待つ大勢の観光客を見て、下から塔を見上げることにしました。

Galata Tower

イスタンブルとソフィアの旅から その2 電車でウル・ジャーミへ

Last Updated on 2019年8月19日 by 成田滋

私は、昔からいわゆる団体パック旅行はしません。旅の自由度が制限されるという偏見があるからです。ネットや旅行会社の窓口で航空券やホテルの値段を聞いて、その情報をネット上でも調べて比較し、いつも値段の一番安いのを選びます。あまり空港やダウンタウンから遠い宿は避けるようにします。タクシー代は馬鹿になりません。

空港からホテルへは、地下鉄や電車、バスを利用して出費をケチります。乗り放題の券を買うと小銭を使って切符を求める手間が省けます。イスタンブルやソフィアでも、もっぱらこうした公共交通機関を利用しました。

イスタンブルから、オスマン帝国(Ottoman Empire)の最初の首都ブルサ(Bursa)という街へ行ったときです。高速船に乗り、次ぎにバスで電車駅まで向かい、そこからブルサ市街に電車を利用しました。バスや電車に乗るときは乗り放題の券が使えます。目指す電車に乗り込むと、座席はほぼ一杯。だが、青年が二人さっと立って席を譲ってくれました。もちろん、使い始めた「ティッシュキュル(Tesekkur)」 ”ありがとう”を使います。降りる駅を聞くと英語が通じません。側に立っていた若い女性が流暢ではないが、綺麗な英語で加勢してくれました。

1326年から1365年までにオスマン帝国が首都として選んだところがブルサです。帝国初期のスルタン(Sultan)の廟が残り、緑が溢れる街です。ブルサにある由緒あるモスク(Mosque)、ウル・ジャーミ(Ulu Camil)が目当てです。現地ではジャーミー(Camil)と呼ばれます。木製の説教壇の細工や内部の壁にあるイスラム書画(カリグラフィ)が美しいと本に書かれています。駅で出会った英語のできる女性にそのモスクへの行き方をきくと、彼女はトルコ語のメモを書いてくれ、”これを歩行者に見せるといい”と言ってくれました。

ブルサの街

“ウル・ジャーミへ行きたいのですが” Ulu camiye gitmek istiyarum.
“オルハン・ガージィー・ジャーミへ行きたいのですが”  Orhan Gazi camil gitmek istiyarum.

ブルサの遠望

女性にどこで英語を学んだかを尋ねますと、大学の看護学部で学んだそうです。今は、イスタンブルの病院で看護師をしているとのこと。この清楚で親切な女性から渡されたメモのお陰で、歴史的な遺産を存分に満喫できました。

イスタンブルとソフィアを行く その1 人々の言葉と笑顔

Last Updated on 2019年8月18日 by 成田滋

外国に出掛けて意思が伝わらないのは、なんとも歯がゆいものです。例えば、親子が電車やバスの隣の席に座っているとき「何歳になりましたか」と保護者にききたいのですが、英語圏以外の言葉でそのフレーズがでてきません。私は、これまで英語圏の国々への旅がほとんどでした。ドイツ語も1年半勉強したり讃美歌や歌曲、合唱曲を歌ってきたので会話はできます。ハングルも自前で数年間勉強し、簡単な読み書きや会話はできます。

言葉に関して、トルコ(Turkey)とブルガリア(Bulgaria)に行ったときの経験を記してみます。トルコ語(Turkish)とブルガリア語(Bulgarian)には少々難渋しました。ネットや「〜の歩き方」の本で一夜漬けの勉強したのですが、フレーズを一度使い10分もするとそれが出てこないのでメモに目をやるのです。幸い、イスタンブル(Istanbul)やブルガリアの首都ソフィア(Sofia)では大学生に英語で道を聞いたり、質問すると英語で答えてくれました。さすがに大学生です。大抵ビジネスマンやウーマンも英語は通じます。グランドバザールや店の経営者らしき人も、ほとんど英語はたどたどしいながら習得しています。観光客が多いので商売では英語は必須です。

それぞれの国の言語には方言もあり、そうたやすく習得できるものではありません。しかし、人々の笑顔や挙措から、言葉では通じない暖かさを感じとることができるのは万国共通です。これからトルコとブルガリアの旅にお付き合いください。

世界を旅する その二十二 アイルランド その10 スウィフトと合理主義

Last Updated on 2019年8月16日 by 成田滋

「世界を旅する–アイルランド」は今回でお終いです。話題が尽きました(; ;) おさらいですが、アイルランド人はアイリッシュ(The Irish)と呼ばれます。アイリッシュであったスウィフトは、散文風刺作家であっただけでなく、教会の聖職者、一流のジャーナリストでもありました。1710年頃、イギリスは二大政党であったトーリー党(Tory)とホイッグ党(Whig)が政権争いをしていました。前者は現在の保守党の前身、後者は後の自由党です。両党とも有力貴族出身の議員を中心とする派閥の連合体でありました。

スウィフトはホイッグ党の支持者でした。トーリー党は伝統的に王権神授説(The Doctrine of Divine Right of Kings)を信奉してきました。スウィフトそれを否定し、究極の主権は国民にあると主張し、それはイギリスの政体においては国王、貴族、庶民の協力によって行使され、三者の間で権力のバランスが図られることが専制を防ぐ保証となると考えたのです。

スウィフトは1720年頃からアイルランドの政治や社会問題についてのパンフレットを数多く書きます。アイルランドの後進性を知っていたスウィフトは、それをイングランド人の責任に帰しながらも、アイルランド自身がその運命を改善する方途を考えるように注意を喚起していきます。そうした問題意識をとらえたのがガリヴァー旅行記です。

ガリヴァー旅行記の原題は「レミュエル・ガリヴァーの筆になる遠い世界の国々の探訪記」といいます。1725年に脱稿したとき、友人への手紙の中で「世間を楽しませるよりはむしろ、腹立たせるためにこれを書いた」と云っています。立腹させる対象はイングランド人だったようです。

ダブリンにあるスウィフトの墓

スウィフトの思想は、17世紀後半のイギリスの合理主義(rationalism)にありました。日本大百科全書(ニッポニカ)によりますと、合理主義とは「非合理的、偶然的なものを排し、理性的、論理的、必然的なものを尊重する立場」とあります。感覚的経験によってではなく、理性的な思考によって導かれたもののみを確実な認識であるとします。強い道徳的な傾向や常識の尊重ではなく、人間行為の評価の基準と遵守すべき規範とはなにかという考えをスウィフトに与えます。ガリヴァー旅行記には、そうしたスウィフトの思いが風刺にいきいきと表現されています。

世界を旅する その二十一 アイルランド その9 ガリヴァー旅行記 その3 ”この国には乞食はいない”

Last Updated on 2019年8月15日 by 成田滋

第三の冒険をする場所は、ラピュータ(Laputa)という空中を浮遊する国です。ガリヴァーは、ラピュータの学問は途方もなく壮大で大仰なもので、それも実用的ではないことを知ります。例えば収穫高が100倍になるという触れ込みのラピュータ式農法は全く失敗に終わり、土地が荒廃する結果となったということを知るのです。

ガリヴァーは、ラピュータ国の陛下にイギリスの歴史を語って聴かせます。陛下は驚かれ、イギリスとは陰謀と反逆、殺人と虐殺、革命と排斥ばかりの国であると思ってしまうのです。陛下は、その理由として人間の欲望と憎しみ、不実、暗黒、狂気、嫉妬、野望といった最悪の罪によって生み出されものではないかと考えていきます。ガリヴァーの話を聴いていた陛下は、「お前はかなり腐りきった国からやって来たようだ!!」と叫ぶのです。

最後の冒険は、フウイヌム国(Houyhnhnm)です。この国は、理性のある馬が支配する国です。馬は悪徳、支配欲や物欲、憎悪や嫉妬などの非道徳的な感情も持ちません。フウイヌムには、人間によく似た卑しく忌み嫌われる動物がいます。それはヤフー(Yahoo)と呼ばれていました。それでも陛下は、フウイヌムには権力や政治、戦争というものはないこと、「うそ」という概念が理解できない国であるとガリヴァーにいいます。年をとったり病気になった場合、施設で面倒をみてもらえる、そういうわけで、この国には乞食はいないとも説明するのです。

世界を旅する その二十 アイルランド その8 ガリヴァー旅行記 その2 不死人間

Last Updated on 2019年8月14日 by 成田滋

ガリヴァーが漂着した最初の場所が、約15センチくらいの小人が住むリリパット(Lilliput)という国です。ガリヴァーはやがて縄を解かれ、徐々に彼らの言葉を覚えます。しばらくすると、リリパット国と隣のブレフスキュ国(Blefuscu)が戦争状態であることを知ります。それも些細な理由です。『卵の殻は大きい方の端から割るか、小さい方から割るか』という論争なのです。戦争というのはちっぽけな理由で始まり、多くの犠牲者を出すものだとガリヴァーは云うのです。

リリパット国では詐欺は盗みより罪が重く、恩知らずな行為には極刑もあるのです。人々は73か月ほど国の法律を守ったことが証明されれば報奨金が与えられ、さらに順法卿(Sir)という称号が与えられるというのです。イギリスの叙勲制度における栄誉称号を風刺するのがこのくだりです。

次に上陸したのはブロブディンナグ国(Brobdingnag)という一つ目の大きい巨人の国です。ガリヴァーはたびたびその国の指導者と学問や歴史について話をします。そこは不死の人々が存在する国です。ガリヴァーは、不死と聞いて死に怯えることもなくなる、なんと素晴らしいのだと思うのです。自分が不死だったらこうもしたい、ああもしたいと目を輝かせて語るのですが、その国の住人は、それを冷ややかな目でみるのです。

実際に不死の人と出会ったガリヴァーが、彼らから遠回しに言われたのは「金をくれ」ということでした。というのは、90歳になれば、ただ生きているだけの状態になり、周囲からは厄介者としかみられなくなっているからでした。この不死人間の悲惨な境遇を見たガリヴァーは、死が救済なのではないかと思うようになります。それでガリヴァーは永遠の生への興味を失ってしまいます。

世界を旅する その十九 アイルランド その7 ガリヴァー旅行記 その1 遭難

Last Updated on 2019年8月13日 by 成田滋

ルミュエル・ガリヴァー(Lemuel Gulliver)という主人公の16年7か月にわたる航海を描いた奇想天外な冒険小説です。実はこの小説は1700年代のイギリス人の社会や慣習に批判的な視点からの風刺文学でもあることは前稿で述べました。当時、イギリスの統治下でアイルランドは極度の貧困にあえいでいたという事情を知っておく必要があります。

この物語は、おいおい展開していきますが、第3話には、ガリヴァーはラグナグ(Luggnagg)という港を出航して日本の東端の港、ザモスキ(Xamoschi)に上陸し、江戸で「日本の皇帝」に拝謁を許されるという場面があります。オランダ人に課せられる踏み絵の儀式を免除してほしいと申し出る、といった挿話もあります。日本の地名としてザモスキという地は「東端の港」という記述から横須賀の「観音崎(Kannonsaki)」ではないかという説もあります。ガリヴァー・ファンタジーは風刺とは別な世界ですが、作家スウィフトの空想力を楽しむことができます。

さて、本題のガリヴァー旅行記ですが、4つの渡航記からなります。ガリヴァーは船医となって旅に出ます。しかし、猛烈な嵐に見舞われ船は難破してしまうのです。目が覚め周りを見回すと、岸辺で小人に手足や体中を縛られているのです。ここからガリヴァーの不思議な国々での冒険が始まります。

世界を旅する その十九 アイルランド その8 スウィフトとアングロ・アイリッシュ文学

Last Updated on 2019年8月9日 by 成田滋

アイルランドが英語による文学、つまりアングロ・アイリッシュ文学(Anglo Irish literature)のすぐれた作品を生み出したのは、イギリスの統治が進み英語が十分に日用語化した17世紀後半といわれます。18世紀以降に現われたアイルランド人による英語で書かれた文学作品は、皮肉にもイギリスに対する痛烈な批判や社会風刺でありました。

ブリタニカ百科事典によりますと、19世紀初頭のアングロ・アイリッシュ文学は、民族主義と自由主義、そして革命がこの時代の空気であり、一方ロマン主義の影響も現われ初めていたといわれます。長い間、イギリスの統治という忍従に耐えてきたアイルランドは自らの足で立ち上がり、特異な生き様を文学作品において語り初めたのです。

Jonathan Swift

ケルト民族の伝統を継いだ文学者で、アイルランド古典文学再生の先駆をなしたのが、ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)といわれます。スウィフトはアイルランドで生まれダブリン大学で教育をうけます。そして不朽の名作「ガリヴァー旅行記(Gulliver’s Travel)」を世に送ります。

この冒険小説は、我が国でも童話として広く紹介されるほど、面白いストーリーと展開です。しかし、全体を読んでみますと単なる空想的な冒険談でないことがよく分かります。スウィフトが選んだテーマはイギリス政府の過酷なアイルランド政策による屈辱であり、それを痛烈に非難し、イギリス社会にどっぷりと根ざした精神性や伝統を冒険談にくるんで風刺しようとしたことなのです。

世界を旅する その十八 アイルランド その7 独立戦争とアイリッシュ

Last Updated on 2019年8月8日 by 成田滋

アイルランドは、1650年代にクロムウェル(Oliver Cromwell)による過酷な植民地支配を受けます。クロムウェルはイングランドの政治家であり軍人でありました。彼はイングランド共和国(Commonwealth of England)初代の護国卿(Lord Protector)となります。その後、プロテスタントによるカトリック教徒であるアイルランド人への迫害が長く続きます。さらに1845年から4年間にわたって起こったジャガイモの疫病による食糧不足でアイルランド人が大勢亡くなります。

Boston Tea Party

アメリカに移住したアイリッシュの歴史は東海岸のボストンにみられます。1700年代の初頭、植民地支配が続くボストンあたりでイギリスからの抵抗運動が起こります。植民地時代のアイリッシュのイギリスからの独立運動はボストン市内の各所にある旧所名跡に残っています。例えばボストン茶会事件(Boston Tea Party)です。当時、植民地であったNew Englandの中心、ボストンは紅茶や綿花の本国へ送る港でした。抑圧されていたアイリッシュは独立のために立ち上がったのが、バンカーヒルの戦い(Bankerhill) 、レキシントン・コンコードの戦い(Lexington & Concord)などです。やがて独立をなしえたのは1789年です。

Bankerhill
Lexington & Concord

司馬遼太郎は「愛蘭土紀行」において、アイルランドだけでなくアイルランドと関係のある国、関連する歴史を掘りおこし、アイルランドの人々に流れる精神にスポットをあてます。独自の史観や文化観によって、その地の歴史や地理や人物を克明に描写するのが特徴です。「街道をゆく」という名前から、司馬遼太郎は人や物が交流する「街道」や「海路」にこだわり、日本や世界の歴史を展望しているといえましょう。

世界を旅する その十七 アイルランド その6 ケルト人とガリア人

Last Updated on 2019年8月7日 by 成田滋

ヨーロッパの先住民族は、ケルト人(Celtic)と呼ばれていました。Celticは、「ケルト人の」とか「ケルト語の」を意味する形容詞です。名詞としてはケルト語を意味します。別名ケルティックとも呼ばれます。ローマ帝国のローマ人はケルト人をガリア人(Na Gaeil)と呼んでいたといわれます。昔、フランスやベルギー、スイス、オランダおよびとドイツの一部はガリア(Gallia)地域といわれ、そこに住む諸部族はガリア語あるいはゴール語(Gaule)を使っていました。

Celtic

ブリタニカ百科事典によりますと、ケルト人はローマ人からは野蛮人と見下され、ローマ帝国の支配を受ることによって独自性を失い、さらにゲルマン人(German)に圧迫されたためアイルランドやスコットランド、ウェールズなどの一部に移住を余儀なくされたとあります。その間のケルト人の歴史や生活、宗教、神話などは後日取り上げていきます。

Celticがいたころのヨーロッパ

ケルト人はもともと精悍な騎馬民族として行動してきました。中央アジアの草原から馬と車輪付きの馬車を持ってヨーロッパに渡来した民族です。彼らは木で作った車輪の寿命を延ばすために、動物の皮や木のタイヤの代わりに鉄のタイヤを取りつける方法を発明します。4輪の馬車を考案したのもケルト人です。しかも前輪によって舵取りができるようにしたといわれます。戦車や馬車が武器とが使われていきます。

Galliaの古地図

世界を旅する その十六 アイルランド その5 「アイリッシュ・ディアスポラ」

Last Updated on 2019年8月6日 by 成田滋

「アイリッシュ・ディアスポラ」 (Irish diaspora) は、アイルランド島外に移住したアイルランド人をさす言葉です。「ディアスポラ」の語源ですが「散らされた民」といって、イスラエルを離れて異邦の地で暮らす離散したユダヤ人を指すギリシア語です。典拠はイザヤ書(Isaiah)。その49章6から9節などに記述があります。『 わたしは捕えられた人に「出よ」と言い、暗きにおる者に「あらわれよ」と言う。彼らは道すがら食べることができ、すべての裸の山にも牧草を得る。』Isaiah49:9

1845年から起こった国難にジャガイモ飢饉(Potato Famine)があります。この食糧事情などの悪化によってアイルランド人口の少なくとも20%が餓死および病死したといわれます。ジャガイモ飢饉によって、人口の10%から20%が世界各国に移住します。移住先としてはアメリカ合衆国、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドです。現在の合衆国では、アイリッシュは約3,600万人、総人口の12%を占めるといわれます。今でいえば難民といえるでしょう。

Potato Famine

現代の「ディアスポラ」の一例は、モン族(The Hmong)でしょう。軍事政権初期にミャンマー国内が内乱状態に陥いると、独自の王国を復古させようとする運動は弾圧され、タイ北部に逃れた数多くのモン族が難民がタイ側へ脱出します。その後アメリカのミネソタ州やウィスコンシン州に難民として受け入れられています。

モン族

世界を旅する その十五 アイルランド その4 街道をゆく「アイリッシュの気質」

Last Updated on 2019年8月4日 by 成田滋

アイルランドはイギリスを含む周辺諸国からの侵略や差別などの苦難に耐え抜いてきた歴史があります。17世紀にイギリス本土での清教徒革命(Puritan Revolution)で実権を握ったオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)が行なったアイルランド侵攻もそうです。プロテスタントによるカトリック弾圧から続いてきた「アイルランド人に対する抑圧」が前回登場したIRA成立の背景にあります。

Oliver Cromwell

そうした逆境の影響からか非常に辛抱強く負けん気も強く、大胆で誇り高い民族という見方もできそうです。アイリッシュには努力家の人も多い傾向があるといわれます。民族意識や民族性は、歴史により育まれた産物であるともいえそうです。

司馬の「愛蘭土紀行」では「アイルランド人の気質」について次のようなことが書かれています。アイルランド人としての典型的性格は、映画化しやすいというのです。例として、クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)が演じている映画「ダーティ・ハリー」(Dirty Harry)という刑事ものをあげています。非常に頑固な性格で、正義感や責任感も強く、情に深い一面があり、自分を曲げない芯の強さがあるというのです。ダーティ・ハリーの名はHarry O’Callahanといってアイルランドの名前です。チームワークを嫌い、悪をはなはだしく憎み、独力で悪に挑戦し、時に法さえ超えてしまう行動です。

Dirty Harry

アイリッシュをステレオタイプ化した性格でとらえるのは、はなはだ危険ではありますが、一般には組織感覚が少なく、統治されることを忌み嫌うもといわれます。「ダーティ・ハリー」は、その典型のようなところがあります。「演劇化しやすいのがアイリッシュだ」というのも、あながちうがった見方ではなような気がします。

世界を旅する その十四 アイルランド その3 街道をゆく「愛蘭土紀行」

Last Updated on 2019年8月2日 by 成田滋

司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズは、日本国内はもとよりアイルランド・アメリカ・中国・オランダ・韓国・モンゴル・台湾など旅の紀行集です。その30巻が「愛蘭土紀行」です。「愛蘭土」という漢字を誰がどのような理由で付けたかはわかりません。司馬は、国々の特徴や民族や文化などについて幅広い知識で記録しています。「雑学」に長けていると揶揄する評論家もいますが、そうした評論家が果たして「街道をゆく」のような紀行文を書けるかとなると疑問です。それほど司馬は知的な好奇心が強く、かつ博識だったといえましょう。

アイルランドの首都はダブリン(Dublin)。アイルランドの歴史の中で重要な役割を果たしてきたところです。スコットランドの対岸に面しています。ジェイムズ・ジョイスは小説「ユリシーズ」においてダブリンの街を克明に記述しているため、ジョイスは「たとえダブリンが滅んでも、ユリシーズがあれば再現できる」と語ったという逸話があります。

司馬遼太郎

もともともアイルランドはイギリス領でした。1916年4月24日といえば、キリスト教でいう復活祭(Easter) の時期です。「イースター蜂起」と呼ばれる7日間に渡る武装蜂起をきっかけに独立運動が起こります。これがアイルランド独立戦争(Irish War of Independence)のきっかけで、1919年から1921年まで続きます。このイースター蜂起で主要な役割を担ったのがカトリック系武装組織であるアイルランド共和軍(Irish Republican Army) 、略称IRAです。「愛蘭土紀行」にはアイリッシュの気質に触れている箇所があります。アイリッシュの典型的性格、チームワークを嫌い、組織感覚がなく独力で戦うという記述もあります。こうした描写はなぜか読者を惹き付けるものです。そういわけでアイリッシュの気質は次号で触れます。

Dublin, Irland

世界を旅する その十三 アイルランド その2 親父とジェイムズ・ジョイス

Last Updated on 2019年8月1日 by 成田滋

父親は96歳で八王子は高尾の地で他界しました。趣味の中でことの他、読書が好きで書斎に閉じこもってはお気に入りの小説を読んでいました。疲れたときはクラッシック音楽を聴くのがおきまりの日課でした。なぜか親父はアイルランド人、アイリッシュ(Irish)である作家ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)の「ユリシーズ」(Ulysses)を読んでいたようです。私と会う度に、「ユリシーズは難しい小説だ」といっていたのを記憶しています。不肖の私はまだこの小説を読んでおりません。

James Joyce

ジョイスの他にアイルランドの文芸復興を促したといわれ、日本の能の影響を受けた詩人に劇作家のウィリアム・イェーツ(William Yeats)がいます。同じくアイルランド出身の劇作家、小説家、詩人にサミュエル・ベケット(Samuel Beckett)もいます。ベケットはフランスのレジスタンスグループに加入。ナチスに対する抵抗運動をしたという経歴を有します。1923年にイェーツはノーベル文学賞を、ベケットは1969年に同じく文学賞を受賞します。童話でも知られる強烈な風刺作品「ガリヴァー旅行記(Gulliver’s Travel)」を書いたジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)もアイリッシュです。

Samuel Beckett

日本で知られるアイルランド出身の小説家でジャーナリストといえばラフガディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)でしょう。父はアイルランド出身でプロテスタント・アングロ=アイリッシュ(Angro-Irish)です。両親とともに首都ダブリン(Dublin)で幼少時代を同地で過ごします。あちらこちらを遍歴し、さまざまな職業に就きますが、1890年に来日し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く遺したことで知られています。1896年に日本に帰化し奥方の姓で「小泉八雲」と名乗ります。

Lafcadio Hearn

アイリッシュがなぜ不朽の傑作を世界中に残したのか、それが知りたくなります。