素人のラテン語 その十八 シソーラスの例 「Abandon」から

Last Updated on 2018年4月26日 by 成田滋

最近では,外国人の学習者に特化したシソーラスも出てきています。Longman Language Activatorや Oxford Learner’s Thesaurus等がその例です。英語を母国語とする者向けのシソーラスにくらべ、類語の数を厳選し,類語間の意味の違いを英英辞典のような平易な定義で解説するのが特徴です。口語的な表現を重視したLongmanと学術的な表現を意識し,フォーマルな語を豊富に収録したOxfordには、それぞれの特徴があります。英語学の研究者や英語教員ならこの二つのシソーラスを必ず座右におくべきものでしょう。

無味乾燥なアルファベット順に単語を並べ意味を載せているだけでは、退屈するものです。しかし、「意味」という観点で単語を並べ替え,それぞれの語の間に有機的なつながりをもたせたシソーラスは,単語の羅列のように見えますが,じっくり読むと意外と面白いものです。シソーラスを使いこなすと,一見同じような顔をしている単語も,よくよく見ると姿形はそれぞれ異なり、独特な個性があることに気づきます。その例を【Abandon】という単語で調べてみましょう。【Abandon】には5つの異なった意味と使い方があるという例です。

1) give up, yield, surrender, leave, cede, let go, deliver, turn over, relinquish
文例
I can see no reason why we should abandon the house to thieves and vandals.
泥棒などに入られる家を放置する理由がわからない。

2) depart from, leave, desert, quit, go away from
文例
The order was given to abandon ship.
船から待避する命令がでた。

3) desert, forsake, jilt, walk out on
文例
He even abandoned his financee.
彼は投資家を見捨てた。

4) give up, renounce, discontinue forgo, drop, desist, abstain from
文例
She abandoned cigarettes and whisky after the doctor’s warning.
医者の忠告で煙草とウィスキーをやめた。

5) recklessness, intemperance, wantonness, lack of restraint, unrestraint
文例
He behaved with wild abandon after he received the inheritance.
遺産を受け取ると自由奔放に振る舞った。

素人のラテン語 その十七 Roget’s Thesaurus of English Words and Phrases その二 語のラベル

Last Updated on 2018年4月25日 by 成田滋

夏目漱石の授業は、極めて魅力的な授業であったというエピソードがあります。漱石は第五高等学校や第一高等学校、その後東京大学で教えます。彼の授業の魅力は、使われた語や文章解釈が的確であったことだといわれます。授業で使われた個々の語が強く若者に訴えたという反面、講義があまりに分析的で硬いものだったという不評もあったようです。授業が硬いか柔らかいかの違いこそあれ、授業には特色があったのだろうと察します。

Roget’s Thesaurusでは、語には必ず文例が掲載されています。特に、同義語の数は極めて多く、その文例を読むとそのまま自分の文章を作れるほど親切です。語によって共通した意味の例文と異なった意味の例文となっています。一つの語でもその使い方が異なるということを読者に理解させようとしています。

次ぎに索引が充実していることです。その量はシソーラスの半分を占めるほどとなっています。同類語、異義語などが網羅されています。交叉索引もあり、それを辿っていくと新しい意味や使い方が理解できるように工夫されています。以下は交叉索引の一例で「supercilious (ごうまんな、横柄な)」がありますが、つぎのような索引が伴っています。 これは「super」とう接頭辞から由来することがわかります。
superior (上級の 上質の)
superior (指導者、監督者)

語のラベルもしっかりと付けられています。たとえば、口語体(colloquial)、俗語(slung)、昔風(archaic)、流行遅れ(old-fashioned)、技術的(technical)、読み書き能力(literacy)、国別の使い方、綴り方(spelling)といったことです。例えば、「subway」をみると、アメリカ英語では地下鉄、イギリス英語では地下トンネル、といった説明です。

素人のラテン語 その十六 Roget’s Thesaurus of English Words and Phrases その一 使用頻度の高いもの

Last Updated on 2018年4月27日 by 成田滋

これまでなんども引用してきたロジェ・シソーラス (Roget’s Thesaurus of English Words and Phrases) の肝心な内容を説明することにします。ロジェはスウェーデンの動物・植物学者であった(Carl von Linne)ロジェの階層分類体系を参照してこのシソーラスを作ったとされます。

最初に行った分類作業ですが、まず1,000の概念をおおむね6つに分類します。そして、単語の上位や下位関係、部分や全体関係、同義関係、類義関係などによって単語を分類していきます。

Roget inventing the Thesaurus – “Roget, it’s wonderful; amazing; incredible, but where do you get the idea form?”

単語の選び方は、次のように分類しています。
I 抽象的関係 (Abstract Relations
II 位相・空間 (Space)
III 序と時間 (Matter)
IV 人間性 知性 (Intellect)
V 意志、望むこと (Volition)
VI 愛情 (Affections)

以上の大まかな分類で、「V 意志、望むこと(Volition)」というのは少々理解が難しいですが、ロジェが思考して提案したことですからよしとしましょう。

アルファベット順に単語を並べ,意味を載せ簡単な文例を挙げる辞書とは異なり、類語の数を厳選し,類語間の意味の違いを平易な定義で解説しているのがわかります。語は、使用頻度の高いものが選ばれていて、他の辞書のようになんでもかんでも載せることはしません。専門用語 (jargon) も省いています。語は同義語や反義語が多いものも選ばれています。

素人のラテン語 その十五 シソーラスは全文検索システム

Last Updated on 2018年4月23日 by 成田滋

リンネ(Carl von Linne)の分類学の貢献は、ピーター・ロジェ (Peter Mark Roget ) が「Roget’s Thesaurus of English Words and Phrases」を著作するとき、言葉を同義語や意味上の類似関係、包含関係などによって分類することに役立ったといわれます。

  シソーラスとは、言葉を同義語や意味上の類似関係、包含関係などによって分類された辞書、あるいはデータベースです。一般的な辞書では、言葉はアルファベット順や50音順に整理されますが、シソーラスでは言葉が大分類から小分類にかけて体系的に整理されるのが特徴です。それによって同義語から広義・狭義の類義語、反義語などを効率的に調べることが可能となるのです。

私たちが日常的に使っている自然言語をコンピュータに処理させる一連の技術に「自然言語処理」があります。今は人工知能(AI)と言語学の一分野といわれます。自然言語処理においては、シソーラスは全文検索システムなどにおいて利用されています。例えば、日本を表す表現としては、「アメリカ合衆国」の他にも「米国」、「アメリカ」、「USA」、「US」など複数の表記があります。シソーラスにこれらの言葉が登録されていれば、「USA」と検索した場合でも「米国」をキーワードとした文書を検索することができます。逆に、シソーラスの処理が介在していないと、意味は同じ「米国」でも「US」と表記している文書を検索から漏らしてしまうのです。

シソーラスでは、対象の語意義素を次のように分類して構成されます。一定の関連のもと共に扱われることが多い表現として、 関連語とか関連表現があります。次ぎに、対象の語と何かしら関連のある表現があります。 類義語(synonym) 、対義語、反義語(antonym) 、 さらに上位概念や下位概念、 同一概念、 同位語 、連想語 、近接語、上位語や下位語といった関係です。

素人のラテン語 その十四 リンネの分類学上の貢献とシソーラス

Last Updated on 2018年4月21日 by 成田滋

「Roget’s Thesaurus of English Words and Phrases」という「英語語句宝庫」についてです。この辞典についての特徴を説明することにします。18世紀の生物学者、植物学者であったカール・フォン・リンネ(Carl von Linne)というスウェーデン人がいました。彼は後に「分類学の父」と称されるようになります。分類学(taxonomy)は、事象などについて互いの関係を位置づけるための体系を構築する学問のことです。

リンネの分類学上の功績は、二名法という植物の階層分類体系を創設したことであるといわれます。リンネ以前には,生物に名前をつける命名法は記述的なものであって,属名のうしろに形容詞などをつけて種の形質を記述して生物名としていたようです。しかし,このような方法では,後になって似かよった種が発見されたとき,この二種を区別するためには,さらに新しい形容詞をつけ加える必要が生じ,複雑な生物名となって実用上困ることになることになります。

そこで,リンネは属名(generic name)と種名(specific name)をつなげた学名(scientific name)で種の名前を二つの言葉の記号によって表現する二名法を考案します。これが、現在世界の学会で使われる「リンネ式階層分類体系」です。オリーブ(olive)という樹の表記を調べると、次のようにいくつかの階層に分類されています。

界 : 植物界 Plantae
階級なし : 被子植物 angiosperms
階級なし : 真正双子葉類 eudicots
階級なし : キク類 asterids
目 : シソ目 Lamiales
科 : モクセイ科 Oleaceae
属 : オリーブ属 Olea
種 : オリーブ O. europaea
学名 : Olea europaea

こうした世界共通の分類の仕方によって学術研究や調査の結果の分析が可能になるのです。リンネの分類体系によって、言葉を同義語や反義語、意味上の類似関係、包含関係などを網羅するシソーラスの開発につながっていきます。

素人のラテン語 その十三 シソーラスと類語辞典

Last Updated on 2024年12月31日 by 成田滋

私は文章を書くとき、辞典や百科事典を必ず使います。それで思い出す二つの出来事があります。高校の英語の授業で英文の訳を指名されたときです。”Power of Hitler became gradually strong” といった文章を翻訳するときです。私は「ヒットラーの力が頭をもたげてきました」と訳したのです。すると先生が、「頭をもたげてきたというのより、”台頭してきた”という文章にしなさい」というのです。もう一つは北海道大学での教養部での英語の時間で、教授が「大学生になったのだから英英辞典を使いなさい」という言葉です。

  「頭をもたげる」というは、なんとなくが単調な響きがあります。「台頭してくる」という文章のほうが、的確な表現であることに気がつきます。このように、高校生から大人になると当然ながら言い換えが可能な違う単語を使うことが期待されてきます。

英英辞典についてですが、日本語で文章を作るときと同じように、英語でもそれ相応の単語を使い文章化しなければなりません。例えば論文は、専門用語とか業界語を使うのは当然としても、文章自体が洗練されていなければなりません。中学校で習う単語は専門用語になりません。しかし、より大人の単語を使うとしてもその語彙を知っていないと使えません。あるアメリカ人から「交際する」という表現の場合、「intercourse」という単語を使うのは誤解を受けると云われたことがあります。確かに辞典には「交際」という説明もありますが、「性交」が「intercourse」の主たる意味なのです。

Peter Mark Roget 

単語とか語彙の使い方を学ぶには辞書だけでは不十分です。どうしても英語語句辞典とか類語辞典などが必要となってきます。こうした辞典には、単語を使った文章が例として掲載されています。単語の正しい使い方を学ぶには英和辞典とか和英辞典では不十分なのです。

英語語句辞典の代表が「Roget’s Thesaurus of English Words and Phrases」です。1852年、英国でピーター・ロジェ (Peter Mark Roget ) が、語彙を意味によって分類します。この辞典は通称、「英語語句宝庫」といわれ英語語句辞典の始まりといわれています。”Thesaurus”とはギリシャ語で宝物庫という意味だそうです。我が国では、通称「シソーラス」と発音されています。

成田滋のアバター

綜合的な教育の支援ひろば

素人のラテン語 その十二 聖書の翻訳の歴史

Last Updated on 2018年4月19日 by 成田滋

聖書の成り立ちは、翻訳作業の繰り返しの歴史と云えます。ある言葉で書かれたものを他の言葉に翻訳する必要が絶えずあったからです。ヘブライ語(Hebrew)を読めないギリシア語圏のユダヤ人、また改宗ユダヤ人が増えると、聖書はギリシャ語で翻訳されます。ラテン語からドイツ語へ、英語へというように翻訳によって読者が広がります。文書が翻訳されるということはいつの時代、どこでも行われてきたのです。

ヒエロニムスが新旧約聖書のラテン語翻訳を行ったことを前回述べました。彼が旧約聖書については「七十人訳聖書」を基本としながらそれを遡るヘブライ語聖書を参照したと言われています。「七十人訳聖書」はギリシア語に翻訳された聖書であると伝えられ、紀元前3世紀中頃から紀元前1世紀間に徐々に翻訳され改訂された集成の総称で、現存する最古の聖書翻訳の一つといわれています。

ヒエロニムスの共通訳聖書であるウルガータ(Vulgata)は、長く西方教会で権威を持ち続けます。そして他言語への聖書翻訳が行われるときも、ラテン語標準訳といわれるウルガータから翻訳されることも多かったようです。ウルガータは、それからも事実上の聖書の原典として扱われてきました。

しかし、宗教改革でルター(Martin Luther)がドイツ語訳聖書を参照したとき、ウルガータが底本とした「七十人訳聖書」を退け「マソラ本文(Masoretic Text)」というユダヤ社会に伝統的に伝えられてきたヘブル語(Hebrew)聖書本文を基にしたといわれます。「マソラ」とはヘブル語で伝統を伝えることを意味するとされます。宗教改革の影響にあるプロテスタント諸教会では、「七十人訳聖書」にのみ含まれる文書を旧約外典と呼んでいて、聖書に含まれない文書とみなしています。私にはこうした神学上の論争の背景はよくわかりません。

素人のラテン語 その十一 ヒエロニムスとラテン語訳聖書

Last Updated on 2018年4月18日 by 成田滋

今のスロヴェニア(Slovenia)で347年頃に生まれたヒエロニムス(Eusebius Hieronymus)は、キリスト教の聖職者で神学者です。四大ラテン教父の一人と叙され、ギリシャ正教会、カトリック教会、聖公会、さらにルーテル教会で聖ジェローム(Saint Jerome)という名で叙階され崇められています。

ヒエロニムスは叙階されたあと、ローマへ行って第37代ローマ教皇ダマスス1世(Damasus I) に庇護され、ラテン語訳聖書の決定版を生み出すべく、全聖書の翻訳事業にとりかかります。すでに紀元1世紀には、聖書は断片的に多くのラテン語訳が存在していたといわれます。

5世紀になるとヒエロニムスは、初めに新約聖書にとりかかります。四福音書といわれるマタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書は、古ラテン語訳を他の文書に関してはほぼそのまま古ラテン語訳を用いたといわれます。こうして新約聖書の最初の校訂版が完成します。旧約聖書はヘブライ語並びにアラム語原典から翻訳したというのですから、凄い語学の持ち主だったことが伺われます。

ヒエロニムスの業績は、原語であるギリシャ語テキストを参照しながらすでに存在していた聖書の誤っている部分を訂正し、ラテン語訳の決定版を完成させたことにあります。ラテン語で翻訳したウルガータ(Vulgata)という聖書を世に送り出した人としてキリスト教界では知られています。ウルガータとは「共通訳」とか「公布されたもの」の意とされます。この聖書こそが中世から20世紀の「第2バチカン公会議 (Concilium Vaticanum Secundum) 」にいたるまでカトリック教会の標準の聖書となります。

付け加えますが、1962年に当時のローマ教皇ヨハネ23世や後を継いだパウロ6世によって遂行されたカトリック教会の公会議が「第2バチカン公会議」と呼ばれます。この公会議の目的は、「教会の信仰の遺産を現代の状況に適合した形で表現し、信徒の一致・キリスト者の一致・世界と教会の一致をはかること」とありました。聖書がその結節点であります。

素人のラテン語 その十 中世ヨーロッパとチャールズ大帝とラテン語

Last Updated on 2018年4月17日 by 成田滋

ENCYCLOPÆDIA BRITANNICAを資料として、ラテン語の歴史と中世ヨーロッパについて勉強します。中世ヨーロッパは、六世紀頃から十五世紀くらいとしておきましょう。その頃、ラテン語は唯一の公用語として法令や証書、史記などの重要な公文書では必須のものでした。聖書ももちろんラテン語訳でありました。教会関連の著作、講解、典礼、説教などすべてラテン語が使われました。

ラテン語の教育は社会文化の基礎となります。フランク王国(Frankenreich)のカロリング朝(Carolingian)における一般教育政策や教会附属学校における初等中等教育などでは、なににもましてラテン語の読み書きを課したのは当然です。フランク王国は、フランス,ドイツ西部,イタリア北部にまたがる西ヨーロッパの中核地域を統一した最初のキリスト教的なゲルマン国家といわれます。その中心都市がアーヘン(Aachen)でした。

フランク王国の為政者、カール大帝(Karl der Große)は英語読みではチャールズ大帝(Charles)といわれます。チャールズ大帝は、後に初代の神聖ローマ皇帝として君臨します。内外から高名な学者や知識人、修道士を宮廷に招聘し、一般にカロリング朝ルネサンス(Carolingian Renaissance) と呼ばれるラテン語の教育に基づく文化運動を提唱したともいわれています。特にカロリング小文字が標準の書体として採用され、王国全体で使用されるようになったのもチャールズ大帝の功績といわれています。

一般社会の状況とは別に、知的な営為の中でラテン語は自由七科の基礎となったといわれます。自由七科とは、中世のヨーロッパにおいて必須の教養科目とされた学科のことで、文法学,修辞学,弁証論からなる初級の三科と,算術,天文学,幾何学,音楽学の上級四科からなります。リベラルアーツ(Liberal Art)の原型です。

文法学は、狭義のラテン語学として、語法規則を集成した初等学校から大学に至るまで、ラテン語法は古典ラテン語の基準に従って教えられたようです。弁証論は形式論理の表現手段で、時制、法、態、接続詞などの形式的な特質が論じられます。さらに修辞学としては、ラテン語の統辞法(syntax-シンタックス)が論述の展開の基礎として援用されます。

素人のラテン語 その九 ラテン語と弁論術と教育

Last Updated on 2018年4月16日 by 成田滋

ギリシャの弁論術がローマ人の演説に影響を与えたのは前二世紀頃といわれます。政治の場や法廷での演説は、ローマで公人として世に処するためには不可欠の要素でありました。公衆を前にした演説では精緻な論議よりも、大仰な表現による感情的論議のほうが群衆を動かしやすいことがありました。当時広められた弁論術のスタイルは感情的で律動的、修辞的な傾向があったようです。

ローマ帝政の確立とともに、弁論術は政治的な意義を失っていきます。だんだんと平明なスタイルとなります。それでもそれまでの慣習的な影響によって弁論術は、依然として要の地位を保ちます。現代における平明なスタイルの弁術は、マーチンルーサーキング(Martin Luther King Jr.)博士が演説したワシントン大行進における「I have a dream」でしょう。中学2年で教わる単語を用いて誰にでもわかるような内容の不滅の演説といえます。ジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)大統領の就任演説もそうです。

ヨーロッパにおいて大人だけでなく、子弟の教育においても、きわめて重視されたのが弁論術です。子どもたちに材料を明確かつ論的な方法で整理し、自分の意見を相手に納得いく形で述べさせることを教えたといわれます。思考力や記憶力の訓練の手段ともみなされ、近代教育理論の体系に充分に適合しうると考えられていきました。

イギリスの初等教育学校、グラマースクール(grammar school)でも当初はラテン語初等文法を教授されたという歴史があります。こうした流れはやがて現代の学校における作文教育とか知的好奇心を深める遊びと探索学習、そしてその成果を発表するというように教育界に大きな影響を与えることになります。

素人のラテン語 その八  ラテン音楽とクラーヴェ

Last Updated on 2024年12月31日 by 成田滋

数回前のブログで、ラテン音楽には大まかにメスティーソ系(Mestizo)とムラート系(Mulatto)の音楽があることを述べました。この話題で書き残したことや付け加えたいことがあります。ラテン語が音楽にまで影響を及ぼしたとはこれいかに、ということです。

Perez Prado

メスティーソ系とムラート系とも、雑種な文化から生まれ、根強い生命力と大衆性を備えています。ラテン・アメリカには、ヨーロッパのような独自のエリート文化は存在しないと云われます。ラテン音楽は文化の多様性によってヨーロッパやアジアにも浸透し、アングロ・アメリカのムラート音楽といわれるジャズ(Jazz)やロック(Rock)などのポピュラー音楽の主流を占めるようになります。ルンバ (Rumba)、マンボ (Mambo)、サンバ(Samba)、メレンゲ(Meringue)、チャチャチャ(Cha cha)、レゲエ(Reggae)、カプリ(Capri)、タンゴ(Tango)などはムラート系の音楽です。

サルサ (Salsa)は、カリブ海のキューバやプエルトリコ発祥のダンス音楽に、ジャズ、ソウル、ロックなどの要素が融合したラテン音楽の一つです。1970年頃までにニューヨークで確立され、その後、北米、中南米、ヨーロッパ、日本など世界中に広まります。中南米、北米では一般的なラテン移民の庶民のダンスとして溶け込んでいます。

南米の情熱あふれるリズムの基本となるのは、ラテン音楽特有の「クラーヴェ(Kurave)」という単位です。1クラーヴェとは、8拍の音楽に6ステップを合わせて踊ります。クラーヴェとはスペイン語で「基本」とか「鍵」と言う意味だそうです。

昔、ペレス・プラド(Perez Prado)という楽団がありました。プラドはキューバのバンドリーダーでマンボ王と呼ばれていました。ルンバにジャズの要素を取り入れた新しいリズムがマンボといわれます。ムラート音楽の系統を継いでいたようです。

日本の代表的なサルサのアーティストが「オルケスタ・デ・ラ・ルス」という楽団です。歌手がクラーヴェのリズムにのり、ベースやピアノが加わりコンガ、ボンゴなどのパーカッションやトランペットなどで構成されています。

成田滋のアバター

綜合的な教育の支援ひろば

 

素人のラテン語 その七 論文などで使われるラテン語

Last Updated on 2018年4月13日 by 成田滋

数回前に、「日常使われるラテン語」を簡単に紹介しました。それに付け加えたいラテン語のことです。特に研究職探しや研究論文などで使われるラテン語です。

履歴書のことを略して”CVーcurriculum vitae”といいます。単に”vitae”というようにも使われます。このラテン語は、”the course of my life”という意味となります。学歴・職歴・資格などを網羅し大学志願や職探しに”CV”はなくてはならぬ書類です。このように口語では略して言うことが圧倒的に多いです。

学問研究では、物事の研究方法論として使われるのがラテン語です。“a posteriori“は帰納的なとか後天的なという意味です。経験や実験によって仮説を検証するやり方です。”a” はラテン語で「~へ・の状態で」の意味で、”posteriori” は「後から」ということです。

他方、“a priori“というのは、演繹的とか先験的という意味です。「はじめに言葉があった」とか「はじめに神が存在した」というテーゼから万物の創造を考えるといった方法のことです。”priori ”は「前から」という意味のラテン語です。

“bona fide“ 真実の、誠意ある、合法的な、という意味となっています。”bona” はラテン語で「良い」の意味で、”fide” は「信念に(から)」(= faith) の意味。例文として、”bona fide proposal”とは「誠意ある提案」となります。

“ibidem“とは、前掲引用箇所を示す語です。ラテン語で「同じ場所で」の意味で、すでに引用した書名などの繰り返しを避けるときに使います。通常、論文内では “ibid.“、“ib.“ などと略語で表記するのが一般です。

“i.e.“もしばしば論文などで見られます。ラテン語の “id est” は英語の “that is to say” という意味で「すなわち」をあらわします。一度述べたことを言い換える場合に使われたりするとても目にする略語です。“&“は”ampersand”、アンパサンドといわれ、”and”という意味で使われます。

素人のラテン語 その六 学問とラテン語

Last Updated on 2018年4月12日 by 成田滋

学問の世界においては、ラテン語はなお権威ある言葉であり世界的に高い地位を有する言語です。現在でも学術用語にラテン語が使用されるのには、そうした背景があります。ラテン語の知識は一定の教養と格式を表すものであり、大学のモットーにラテン語が使われます。例えばウィスコンシン大学マディソン校(University of Wisconsin-Madison)の紋章には ”Numen Lumen” というラテン語が使われています。“God, Our Light”と訳され “神は我が光なり” という意味です。ハーヴァード大学(Harvard University)の紋章には ”Veritas”というラテン語が印字されています。こちらは真理 “Truth” という意味です。

21世紀の今日、言語学的にラテン語は「死語(dead language)」と呼ばれますが、文化的に死語では決してありません。漢字の誕生は紀元前の中国に遡ることができます。漢文化の影響を受けた日本人は、今も漢字を用いることによって新しい文化を創造し続けています 。同様に、ラテン語の圧倒的な影響を受け続けたヨーロッパ人は、自国の言語を用いながらも、ギリシアやローマ文化の影響を陰に陽に今を語り未来に遺産を伝えているといえます。

ラテン語を勉強してなにか良いことはあるのか、という問いを考えましょう。それは漢字を学ぶことがヒントとなります。白川静氏が常用漢字の基本字典である字統や字訓を著し、漢字の偏と旁にそれぞれ意味が込められていることを解説しています。そして漢字をその文化の歴史的な展開の中で学ぶことを示しました。それと同じです。ラテン語を学ぶことは、私たちが日々接している英単語や、広い意味でのヨーロッパ文化の源流が、ギリシア・ローマ文化であることを知ることになるのです。英語という川を遡ると、その源流がラテン語であることを見つけることできるのです。

大学教員の肩書きに出てくるPh.D. (博士号)は、doctor philosophiaeというラテン語の略語で、「哲学を教える資格をもつ人」の称号とされます。Ph.は「哲学」のことで、医学・法学・神学以外の全学問を意味します。哲学が学問の代名詞とみなされた時代の名残です。一見見慣れた英単語の一つひとつにも歴史があります。英単語の成り立ちを語源に即して調べるのは、一種の知的な遊びといえましょう。

素人のラテン語 その五  ラテン・アメリカとラテン語

Last Updated on 2018年4月11日 by 成田滋

ラテン・アメリカ(Latin America)とは、北アメリカと南アメリカの諸地域を指します。メキシコ以南の大陸とカリブ海地域の諸島の総称です。こうした地域では、ラテン語系のスペイン語、ポルトガル語、フランス語などが公用語となっています。「中南米」という地理学的な呼び名もあります。その名のとおり、スペイン、ポルトガルによって代表されるラテン系ヨーロッパ文化がこの地域の文化的な骨格を形成しています。

  イタリア人、コロンブス(Christopher Columbus)の到着以前から住んでいた先住民族は、いまも原住民語を話しています。インディオ(Indio)の先住民文化、奴隷として連れてこられたアフリカ人の文化、そしてヨーロッパ人の文化が葛藤したり融合することによって独自の文化形成に役割を果たしてきました。宗教においてもカトリック教会の影響が卓越しています。

ラテン音楽についてです。世界大百科事典によりますと、先住民の音楽、アフリカの音楽、ヨーロッパの音楽が融合したのが、通称ラテン音楽と呼ばれます。ラテン音楽はメスティーソ系(Mestizo)とムラート系(Mulatto)に分けられます。メスティーソ系とはヨーロッパ系とラテンアメリカの先住民の混血である人々であり、ムラート系とはヨーロッパ系白人と、アフリカ系黒人との混血を指す言葉です。当然、ラテン音楽はこのメスティーソ系とムラート系があることになります。

メスティーソ系音楽は、ヨーロッパの要素が強く、ギターが楽器の中心となります。民族舞踏と結びつき、6/8拍子のリズムが多くなります。ペルーやボリビヤなどのアンデス高原の先住民族の伝統が残り、ケーナと呼ばれる笛など、スペイン人侵入以前のなごりを留める楽器が使われます。

ムラート系のラテン音楽はヨーロッパとアフリカの音楽の融合が特徴といわれます。カリブ海の島々、パナマ、コロンビア、ベネズエラ、ブラジルなどの分布しています。ギターも盛んに用いられますが、打楽器が中心となり、1/2拍子のリズムが多く、踊りとも結びついています。即興的で自由であり1/2, 2/4拍子の単純なパタンの反復ものが多いのも特徴といえます。

素人のラテン語 その四  ラテン音楽とラテン語

Last Updated on 2018年4月10日 by 成田滋

ラテン音楽とかラテン文学という言葉に出会うと、中南米(Latin America)の音楽や文学を想像するかもしれません。あながち間違いというわけではなさそうです。それを説明しましましょう。

ブリタニカ国際大百科事典によりますと、ラテン語は、スペイン語(Spanish)、ポルトガル語(Portugue)、フランス語(French)、イタリア語(Italian)、ルーマニア語(Rumanian)、カタロニア語(Catalan)といったロマンス諸語(Romance Languages)を生み出す母胎となる言語といわれます。

ヨーロッパは大雑把ですが、基本的にゲルマン系(German)、スラブ系(Slavic)、そしてラテン系の3つの言語で分けることができます。その中でラテン系に入るのが、フランス、スペイン、イタリア、ポルトガル、ルーマニアなどとなります。フランスやイタリアのことを「ラテン・ヨーロッパ」(Latin Europe) と呼んだりするのも、これらの国の言語がラテン語から生まれた事実に基づいています。

中南米諸国が植民地であった時の宗主国はポルトガルやスペインです。言語も含めた文化が、今でも中南米でしっかりと根付いてることから、これらの地域が中南米とか「ラテンアメリカ」と呼ばれているのです。「ラテン音楽」もそういうわけでスペイン語やポルトガル語の影響ということになります。ちなみに、ブラジルはポルトガル語が公用語、またその他の中南米のほとんどの国ではスペイン語が公用語となっています。ハイチはフランス語が公用語です。ラテン語が音楽にしろ文学にしろ、中南米諸国の文化の母胎となってきたのです。

素人のラテン語 その三 日常使われるラテン語

Last Updated on 2018年4月9日 by 成田滋

私たちが日常で、なにげなく使う英単語や略語がラテン語(Latin)であることを説明します。ラテン語は特にヨーロッパ諸国で使われる言語の源となって今も多くの影響を与えています。その例を説明します。

AM 4:00 とかPM 6:00 といった表記をポスターなどで見ます。正しくは4:00AM とか6:00PMと書くすべきです。“AM “は “ante meridiem “というラテン語の短縮形で、 before noonというので午前となります。“PM“ は “post meridiem “というラテン語で、 after middayつまり午後ということです。

同じように西暦を示す“AD“は「 Anno Domini」で紀元後を意味し、“BC“は「Before Christ」というように紀元前を表します。“per cent“, パーセントも “per centum“ というラテン語です。 “vs“という「…対…」で使われる単語は“versus“でこれもラテン語です。その他、“etc.“「エトセトラ」は “et cetera“、“e.g.“は「例えば」 “exempli gratia“の略語であり、“vice versa“ は「逆もまた同様に」というラテン語です。

“per capita“ 一人当たりとか一人につきという意味です。“per“ はラテン語で「~につき」、“capita“ は「頭をに対して」となります。これと同じ使い方が“per diem“で、一日につき、日当というようになります。“diem“は日という意味ですね。

“per se“は、それ自体とか本来はという意味で使われます。 “se“は“itself“という英語にあたります。
“de facto“もラテン語です。de はラテン語で「~から、~にしたがって」、facto は「事実に」の意味。“de facto standard“とは 「事実上の標準」とか「業界標準」というように訳されています。

“nota bene“は、よく注意せよ、つまり“Note well“ の意味で、nota は「注意せよ」、bene は「よく」となります。”NB”という略語が使われます。“&” という単語は”ampersand”(アンパサンド)と発音するラテン語です。”and”という意味です。

素人のラテン語 その二 レクイエム-Requiem

Last Updated on 2018年4月7日 by 成田滋

昭和36年に北海道大学に入ると同時に男声合唱団に加入しました。幸い、中学や高校でも歌っておりました。合唱団での合唱曲のレパートリ(repertoire)は多種多様でした。そこでいろいろな言葉の歌詞に出会いました。その一つがラテン語(Latin)です。ラテン語の歌詞の多くは宗教曲にありました。例えば、「Gloria」、「Agnus Dei」、「Sanctus 」、「Credo」、「Kyrie」といった曲です。こうしたラテン語から英語がうまれていることを知って英語にますます興味が湧くとともに、ラテン語にも興味を抱くようになりました。

その後、私は札幌ユースセンター教会で洗礼を受けました。この教会はルーテル派です。そこで学んだことは、マルチン・ルター(Martin Luther)という神学者のことです。宗教改革(Reformation) の先駆者です。宗教改革当時の礼拝はすべてラテン語で執行されていました。聖書もラテン語で書かれ、よっぽどラテン語を勉強した人でないと理解できませんでした。司祭といわれる聖職だけがラテン語の読み書きができた時代です。ルターはこうしたカトリック教会の典礼という礼拝のやり方に疑問を呈していくのです。そして「万人が祭司」(universal priesthood)であるということを主張するのです。

今もカトリックの総本山であるバチカン市国(Vatican City) の公用語はラテン語です。ラテン語はスペイン語(Spanish)やフランス語(French)、ポルトガル語(Portuguese)、プロバンス語(Provence)、カタルーニャ語(Catalunya)などロマンス諸語(Romance)の母体となった古典語でもあり、現代語では同じイタリアで話されるイタリア語が最も近いといわれます。

カトリックやプロテスタントを問わず聖歌や賛美歌には、つぎのような聖句が登場します。
Dona nobis pacemは、「われらに平和を与えたまえ」
Gloria in excelsis Deoは、英語ではGlory to God in the Highestといいます。「いと高きとこでみ栄えあれ」と歌われます。

素人のラテン語 その一 「進駐軍がやってきた」

Last Updated on 2024年12月31日 by 成田滋

私は外国語に興味を持つ人間の一人です。そのきっかけを振り返ると、昭和21年の秋に北海道は美幌に進駐軍がやってきたことにありそうです。美幌には第41海軍航空基地があったので、進駐軍があのカーキー色のトラックでやってきました。トラックからチューインガムやチョコレートが投げられ夢中で拾いました。チョコレートの甘さは忘れられません。レーション(ration)と呼ばれた携帯食も珍しいものでした。

Christina Rossetti

それから中学生になって英語がとても大好きになりました。名寄中学校で眉毛の太い藤田という先生に英語を教わりました。教科書の文章は不思議と頭にすらすら入りました。「Who Has Seen the Wind?」という教科書にあった詩も今も覚えています。この詩の作者はChristina Rossettiというイギリス人の女性です。

Who has seen the wind?
Neither I nor you:
But when the leaves hang trembling,
The wind is passing through.

Who has seen the wind?
Neither you nor I:
But when the trees bow down their heads,
The wind is passing by.

後に、この詩がいろいろなレトリック(rhetoric)と呼ばれる修辞法を使っていることを知りました。韻を踏んでいること、対比や反復をつかっていることです。例えば、wind、trembling というような語尾の韻、passing through、passing by という前置詞の使い方、 I nor you、you nor I といった倒置、the leaves、the trees という対比です。真にほれぼれする詩です。

この修辞法は、大分あとに研究者として文章を書くときに大いに役立ったことはいうまでもありません。学生や院生の論文を読むときにも文章を修正してやるときにも、修辞を大切にするよう指導しました。

成田滋のアバター

綜合的な教育の支援ひろば

心に残る一冊 その156  「山椿」 その四 「ゆだん大敵」

Last Updated on 2025年1月3日 by 成田滋

長岡藩に老田久之助というが「侍読」がいます。藩主は牧野忠辰で、彼に学問を教授するのが久之助の役割です。時に四書五経などの儒教の経典も教えています。侍読とは、このように主に仕えながら御読書始を担う者のことです

久之助は原田義平太という志士から三留流の刀法を修行しています。手筋の良さが認められ代稽古さえしています。義平太は久之助に云います。
「なんの道にも天成の才というものがある」
「そこもとの刀法がそれだ」
「学んで得られないもの、教えて教えられないものをそこもとはもっている」
そして義平太は久之助に秘奥とされているものを伝授するのです。

同じ藩の士に鬼頭図書という類のない偏屈者がいました。
「おれには尋常なご奉公はできない」と云って、城内外の草取りを役目に乞うのです。
「草取りをしようと下肥を汲もうとご奉公の一念に誤りがなければよいはずだ」
図書は、たとえ老臣であろうと足軽であろうと、理に合わない者にはあたり構わず怒鳴りつけます。久之助は図書の噂をきいて心が惹かれます。会えばなにか得るものがありそうだと考えます。

図書が久之助に云います。
「みな、一身一命を捧げると口では容易く云う」
「しかし、その覚悟を活かすことははむずかしい」
「鍛錬は家常茶飯のうちにある、掃き掃除、箸の上げ下げ、火桶の炭ののつぎ方、寝ざま起きよう、日常瑣末な事の中に性根の鍛錬がある」

二十三歳のとき久之助は主君の命で刀法修行のために江戸に向かいます。そして柳生家に入門します。それから三年。長岡に戻ると道場の師範の役に就きます。門人はたった五人と限って受け入れます。それ以上では鍛錬できないと考えるからです。

門人の一人に横堀賢七というのがいます。一刀流をやりかなり腕にも自信があります。門人は道場で寝起きし、そこから城にでかけます。朝は三時に起き、素裸で水を浴び道場内外の掃除、薪割り、炭作り、稽古は一時だけ、そして黄昏れるまで畑での蔬菜作りです。食事は極めて簡素です。横堀は不満をあらわします。柳生流の刀法を学べないと不平を云い、道場を出たいと申し出ます。久之助は「ならぬ」と冷ややかに云います。

一年目に和田藤吉郎という門人が免許をとります。五人の中で最も栄えない存在です。みな驚きます。
「そこもとにはもはや伝授すべきものはない」
「修行をわすれずご奉公なさるように、これは免許のゆるし書である」
いかなる秘伝が記してあるかとゆるし書を開くとそこに「ゆだん大敵」とあります。一同、唖然とします。

次々と門人は免許のゆるし書を貰います。一刀流の腕も相当だし、稽古ぶりも抜きんでいるのに、賢七一人だけ二期の門人の中に取り残されます。

神道流の武芸で淵田主税助というのが仕官したいとやってきます。御前で久之助は対戦します。しかし脆くも負けて師範としての面目を失いそうになります。
「先刻の勝負はどうした、余にはまこととは思えないが事実はどうなのだ」忠辰はきりっと眼を怒らせます。
「おめがねどおりでございます」
「譲ったのか?」
「要もないことでございます」久之助は穏やかに答えます。
「ああいう者には負けてやるのが武士のたしなみだと心得ます」
「勝ってもそれだけのはなしで、悪くすると他国へまいってあらぬことをいい触らしかねません」

忠辰は頷きます。主税助を召し抱えたものかどうか訊ねます。久之助はすぐに否と答えます。
「たしかにすぐれた技倆はあると存じますが、神に純粋でないものがあり、眼光も真っ直ぐでありません」
「お取立てはご無用でございましょう」

久之助のはっきりした態度に、忠辰には快かったようで、それまでの不機嫌な顔色を解いて「たいぎであった」と幾たびも頷くのです。

心に残る一冊 その155  「山椿」 その三「橋の下」

Last Updated on 2025年1月3日 by 成田滋

果たし合いや決闘をとおして和解や友情を描くのが山本の一つの作風のように思われます。「橋の下」もそうです。

練馬場に一人の若侍がやってきます。白装束のいでたちで、目鼻立ちのきりっとして年は二十四、五歳くらいです。寒さが厳しい朝です。近くに伊鹿野川が流れていて、土合橋が架かっています。侍は橋のあたりに焚き火を見つけます。

暖を求めて近寄ると老夫婦が焚き火に鍋をかけています。城下では夫婦乞食と呼ばれています。身なりはさっぱりして、道ばたで物乞いはしません。銭にも決して手をだしません。筵を取り出して石垣と橋桁の間に三尺ほどの隙間があり、そこが寝場所のようです。二、三の包みが見えます。刀の柄もみえます。

刀を見て侍は老人に訊ねます。
「さよう、私はもと侍で、国許は申しかねるが、、、」
「私まで八代続いた家柄だそうで、その藩主に仕えてから四代になり身分も上位のほうでした」
老人は若侍に粗茶を差し出しながら、語り始めます。四十年前に一人の娘のために親しい友を斬ってその娘と出奔したというのです。

父は病死したあと、縁談が二十一歳のとき、その娘を嫁にと望みます。
「彼女の年は十七歳。当人も私の妻となることを承知していました」
娘の親は、仲人に「せっかくであるが娘にはもう婚約した相手がいる」と云います。
「その相手の名を訊ねると友達でありました」
「友達は婚約したことを認め、私はかっとなりました」
「彼は幼い頃から私と娘のことをよく知っていました」
「娘の親に、ぜひと懇望されたと云います」
「私と娘のことを知っている以上、断るのが当然ではないか、そう詰問し、私はそこで彼に果たし合いを申し込みました」

「介添えもない二人だけの決闘です」
「私は初太刀で彼の方を斬り、二太刀で腰を存分に斬ります」
友達は云いました。
「人の来ないうちに医者をよんできてくれ、早く!」

「刀にぬぐいをかけるとそこを去り、娘を呼び出して始終を話し、そのまま二人で城下を出奔しました」

「僅かばかりの金を持ってだけで、すくに窮迫しました」
「ですが自分たちは恋に勝ったという喜びと若い頃の無分別さとで、ただもうその日その日を夢中ですごしておりました」
「友達を憎むことが、いっとき私どもの愛情をかきたてたようでした」
「この橋の下には人間の生活はありません」
「ここから見る景色は、恋もあやまちも、誇りや怒りや、悲しみや苦しみさえも、いいものにみえます」
老人は頭を垂れ、垂れた頭を左へ右へゆり動かします。「ただひとつの思い出すたびに心が痛むのはあの果たし合いで、友を斬ったことです」

「あやまちのない人生というのは味気ないものです」
「心になんの傷ももたない人間がつまらないように、生きている以上、つまずいたり転んだり、失敗を繰り返したりするのがしぜんです」
「私が果たし合いを挑んだ気持ちはのっぴきならぬと思い詰めたからのようです」

「私が斬った友達はその後出世したようです」
「私には嫉む気持ちも、特に祝う気持ちはありません」

若侍は老人の眼をみつめます。礼を述べて岸の上にあがります。そして練馬場のほうへ歩き出します。
「もう刻限だろう、」「まだ来ていないようだな、」

一人の侍が土塀をまわって大股で寄ってきます。下は白支度で手早く刀の下緒を外します。
「おーい、待ってくれ!」
「話すことがある、待ってくれ!」
彼は相手のところに駈けより、右の脇に抱えた両刀をみせながらなにか云います。彼は熱心に話ししていくと、相手のきびしい顔つきがほぐれていきます。

心に残る一冊 その154  「山椿」 その二「屏風はたたまれた」

Last Updated on 2025年1月3日 by 成田滋

吉村弥十郎は九百五十石の中老で、槍組と鉄砲組を預かっています。頭がよく、容姿も抜きんでいます。十四歳のとき、論語の講義を受け一年間の講義が終わった時は短刀と銀二十五枚をもらいます。十五歳になって「みちあけの式」が済んでからは、すべてに磨きがかかってきます。
「みちあけの式」は吉村家に伝わる独特の家法です。事前になにも知らされず、式の間という部屋に寝かされます。闇の中で寝ているとやがて女がきて、同じ夜具の中にはいります。
「わたしのするとおりなさいまして、ようございますね」
「さあ、ゆったりとなすって」
初めての夜、女はそう囁きます。そして夜の明ける前にでていきます。

弥十郎は学問と同時に武芸にも身を入れ、めざましく上達しますが、決して他人に気づかれず、総試合のときもつねに中軸の位置を保ちます。弥十郎に北島という家との縁談話がおこります。ところが祝言を間近にして、娘の健康がすぐれないので、祝言を延ばしてもらいたいといってきます。弥十郎は他から紹介されたことでもあり、急ぐこともないので了承します。

中村座に「ゆき」という年増の女中がいます。弥十郎は茶屋に時々でかけます。ゆきが一人の女を紹介します。そして云います。
「川西という茶屋があります、そこにお越し下さい」
「わたしのお仕えするお嬢様でお名は千夜と仰います」
「どうぞおらくにあそばして、、」

弥十郎は川西で千夜と七たび会います。二人の間はだんだんと密になります。「もうおまえの他に妻を娶る気持ちはない」
「どんなことをしても約束のほうは破談にする」
「うれしゅうございます」千夜は囁き返して云います。
二人は再会を約束するのですが、それ以来、千夜はぴたりと消息を絶ちます。

弥十郎が仕える藩主は信濃守政利です。十七歳で結婚するのですが、夫人や側室が二、三人いても四十七歳まで子どもがいません。やがて藩公に世子が生まれたという知らせがまわります。「ひなというお部屋様の手柄だ、、」と藩の重臣たちは喜びます。ひなはやがてその一字をとって「奈々の方」と呼ばれるようになります。しかし、世子が藩主の胤であるかどうは疑わしかったのです。

弥十郎はやがて「奈々の方は千夜と同じ人ではなかったのか、」と思うようになります。吉村家には藩公の血が続いているという父親の言葉が弥十郎をとらえます。

心に残る一冊 その153  「山椿」 その一「饒舌り過ぎる」

Last Updated on 2018年4月2日 by 成田滋

近習頭で百三十石という小野十大夫と奉行職記録所の頭取心得で役料は十人扶持の土田正三郎の友情がこの短編小説の主題です。

近習頭は常に主君の身辺警護にあたる役で、奉行職は家老の補佐役といったところです。二人は、飲み友達であり剣術の師範格といってよいほど、腕がたけています。「道場で一本つきあってくれ」とか「一杯やりにいこう」という間柄です。熱が入って「饒舌り過ぎる」のです。枡兵という料理茶屋があります。代銀が高価で、主に中以上の侍とか金回りのいい商人が利用しています。この茶屋におみのという娘がいます。年は二十二歳で、時々十大夫と正三郎に酌をするのです。彼女に対して二人は慕情を寄せています。

あるとき十大夫が正三郎に本心を訊きます。正三郎はびっくりして十大夫の顔をみまもり、ついで微笑しながらそれは逆だ、と答えます。十大夫も正三郎がおみのを好いていることに気がついています。おみのは十大夫にのぼせているのですが、なるべく二人の邪魔をしないようにしています。

おみのは、「お二人とも同じくらいに好き」「お二人を別々にかんがえることできない、」とさも困ったように告白します。男二人に女一人ではどうにも片付けようもありません。しばらくこのままでようすをみようとお互いに合意します。この三竦みの関係は丸三年続きます。

十大夫は安川しずと祝言します。しずは剣術道場で凄腕の安川大蔵の妹です。正三郎も、城代家老の姪にあたる篠原しのぶという女性と結ばれます。二人が共に好いていたおみのではありません。

二人が三十二歳になったとき、十大夫が吐血して倒れます。その後なんどか吐血し十大夫が正三郎に会いたがっているという知らせがきます。しかし、正三郎は見舞いにいきません。周りの者は、あれほど仲が良かったのにどうしたことか、兄弟よりも親密で離れたことがなかったではないか、、そうした非難がひろまります。そして十大夫が危篤になります。

「しかし万が一のことがあったら」と安川大蔵がいいます。
「なにができる、」正三郎は大蔵の言葉を遮って反問します。
「二人の医者がついていて、それでもだめならものなら、私がいったところでどうしょうもないではないか、うろたえるな!」

正三郎は、十大夫の危篤が伝えられたとき、仏間にこもって夜を明かします。十大夫の死後も七日毎の供養をひそかに行います。家人の誰にもしれないように仏間で誦経してすごします。

しかし、そうしたことも正三郎に対する反感をたかめる役にしかたたず、かれの評判は少しもよくなりませんでした。そして六年が経ちます。正三郎が十大夫の墓参りをしたとき、十大夫の妻、小野しずが立っています。

しずはどうして良人を生前に見舞いをしてくれなかったのかを正三郎に訊ねます。正三郎はそれにこたえます。
「十大夫は私に道場の師範役を継がせるつもりでした」
「師範の次席には安川大蔵がいるし、彼は師範なる十分な腕をもっていました」
「十大夫は安川の妹であるあなたを娶りました」
「十大夫はあなたの兄に自分の役目を継がせることはできません」
「もし危篤の病床で私に師範を引き受けてくれと頼まれれば、いやとは云えません」
「それで見舞いに行けなかったのです」

正三郎はさらに云います。
「無情な奴だ、というような噂はずいぶんききました」
「見舞いに行けないという辛さは耐え難いものでした」
「あなたならわかってくれるでしょう、」

こうして正三郎は師範役を辞退したのです。