心に残る一冊 その152  「やぶからし」 その七 「やぶからし」

Last Updated on 2018年3月30日 by 成田滋

「やぶからし」という野草は道端や荒れ地、フェンス際、その他どこにでも生える多年草です。茎は弾力があり、高い木々に絡まり伸びていきます。植栽を覆って枯らしてしまうほど旺盛に生育します。厄介な野草で、別名ビンボウカズラともいわれます。

山本周五郎がなぜこのような題名を付けたのかは、この作品を読むとわかるのですが、皆から嫌われるほどどん欲な生活をしたり、時に狡猾な為政をして、市井で貧しく生きる人々を苦しめる者がこの世の中に多いことを主張したかったからでしょう。

主人公は十六歳になって細貝八郎兵衛とさちの家に嫁いできた「すず」です。本当の父と母は四歳のとき亡くなり、常磐家に引き取られて育ちます。常盤家三百石ばかりの扶持で、旗本を編制した部隊に所属する大御番でした。きびしい家風と家族のあいだの不思議な冷ややかさがあって、すずは本当の家とは感じないで生きてきました。

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すずは、なぜか細貝玄二郎という放蕩な生活をしてきた男と祝言をあげます。初夜から大酒を飲み、すずに乱暴を働きます。それが毎夜続く始末です。しかも無頼の仲間と喧嘩をし傷つけたり借金を溜め込むために、細貝家はとうとう玄二郎を勘当します。

見かねた細貝八郎兵衛とさち女は、はすずに郷に帰るようにと言い聞かせます。
「すずは細貝家の娘です。この家の他に郷などはございません」

佐波久弥という書院番の男を八郎兵衛は夕餉に招きます。二十六歳で背丈は高く立ち振る舞いがのびやかです。酒はあまり飲みません。八郎兵衛とは親しくしていて、すずに嫁がせようとするのです。この二人は謡を唄うという趣味があります。その頃すずは鼓を習っていたので、食事の後に三人で唄うのです。

すずは久弥と再度の祝言をあげ、やがて二人の子供に恵まれます。娘のこずえを宮参りにつれていったとき、昔の良人、玄二郎にであいます。玄二郎はそこで過去の生活を語り、あげくにすずに五両を無心するのです。それが二十両になり、すずは一人で悩んだ末にとうとう懐刀をもって玄二郎の指定する場所にいきます。玄二郎を殺め、自分もその後を追っても、良人や子供たちは仕合わせに暮らせると決心したからです。

玄二郎はやくざ者たちによって始末されます。自らの手でかつての良人を殺めることがなかったことにすずは安堵するのです。

心に残る一冊 その151  「やぶからし」 その六 「こいそ」と「竹四郎」

Last Updated on 2018年3月29日 by 成田滋

本堂竹四郎という足軽組頭がいました。城代家老、藤川平左衛門の指名で家老の助筆をつとめることになります。助筆とは秘書官のような役割です。無礼から百二十石をもらうことになります。無礼とは下士、つまり下級武士のことです。助筆は、老職席と諸役所との取り次ぎや周旋をすることから、めはしが利き、すばやい判断と洞察力が求められます。稀有の抜擢だといわれ、周りの者からは反感や妬視を受けますが、ご本人は無頓着です。

竹四郎は剣術が得意で、藩の道場で代師範をしています。彼が教えるのは、身じまい、服装、作法、正しい挙措といったことで、ほとんど技の教授はしません。まるで舞いの稽古をするかのようで、「舞い舞い剣術」と陰口が広まります。

藤川平左衛門に「こいそ」という十八歳の娘がいます。明るい性格で愛くるしいすがたです。たびたび縁談が持ち込まれますが、平左衛門は本人の判断に任せてきたので、こいそはことごとく断り続けています。

あるとき竹四郎は付け文をこいそに渡し、呼び出して対面し結婚を申し込みます。「貴方を愛している、妻として娶りたい」と云うのです。こいそは、無礼きわまりない竹四郎の言葉に席を立ってしまいます。

良家の育ちである岡田金之助というのがこいそに縁談を申し込んできます。金之助は眼に落ち着きがなく、軽薄な人間です。役目で金子を勘定方から支出させるなど、不正なことをしています。あるとき、金之助は竹四郎のところに請求書を持ってきます。
「預かっておきます」と竹四郎は云います。
「今すぐ必要なのだ、、、」
「捺印はできない、」
「無礼なことを云うな、わたしになにか不正なことでもしたというのか、」
「大きな声を出さないがいい」
「貴方はいま、告白をした、わたしが触れもしないのに、自分の口から不正、、うんうんと云った」
「実は貴方が不正をしていることは調べ上げている」
「貴方の三人の仲間もつるんでいる」

金之助は仲間と一緒に果たし状を渡し、竹四郎に向かいますが全く歯が立ちません。二人はこの果たし合いやこいそをめぐる話題はだれにも口外しないと約束します。

城代家老藤川は竹四郎を館に招き夕餉の席を設けます。そして、喧嘩のこと、こいそのことを訊きだそうとします。竹四郎は男の約束があるとして、がんとして答えようとしません。平左衛門は竹四郎をめちがいだったとして助筆の役を罷免すると云い渡します。竹四郎は国家老助筆も足軽組頭もご奉公、お役の甲乙によって自分の値打ちはかわらない、と喝破します。

竹四郎が席を立とうとすると、「まあ座れ、、話は話、酒は酒だ、、」藤川は云います。そしてこいそに給仕を命じます。こいそは隣の部屋で二人の会話をきいていたようです。藤川の前で竹四郎はこいそに云います。
「貴女に申し上げたいことがあります。私はこんど助筆を免じられ元の役にもどることになりました」
「そうなると機会がなくなりますので、今ここで申し上げます」
「私の気持ちはもうおわかりの筈です、貴女のほかに一生の妻と頼む人はありません」
「その必要はございませんわ」
「よそからの縁談は断りました、わたしは貴女のお申し出をお受けいたします」
「なにを云うか、なにをばかなことを」 父親である家老は云います。
「足軽組頭の妻でもいいのですね」
「もしかして平の足軽でいらしっても」 こいそは微笑するのです。

心に残る一冊 その150 「やぶからし」 その七 菊屋敷

Last Updated on 2018年3月28日 by 成田滋

黒川一民。藩士で儒官。朱子に皇学を兼ねた独特の教授をしていました。二人の娘がいます。志保と小松です。跡継ぎとなる息子はいません。藩主の特旨で村塾を続けるようにとの命で志保が五人扶持をもらいます。小松は塾生であった園部晋吾に嫁いでいます。晋太郎と健二郎という男の子がいます。美しく才はじけて人の眼を惹く存在でありました。志保は妹に息子がいて睦まじそうな妹夫婦を前にして激しい妬みを感じます。

杉田庄三郎は黒川一民の門下生で、村塾にて熱心に学問に傾注しています。十数名の塾生の頭です。異国の思想に渦いされず、時代の権勢にも影響されない純粋の国史を識らなければならないというというのです。さらに、日本の先人の遺した忠烈の精神、それを子孫へ伝えるべき純粋の国体観念、これを明らかにしなければならないと同志に語るのです。藩国に仕えず王侯に屈せずという考えで、当時は危険な思想だったようです。

志保はあるとき付け文をもらうのですが、もしかしたら庄三郎からのものではないかと期待するのです。付け文に記されていた逢瀬の機会は、小松夫婦の突然の訪問でふいになります。庄三郎が自分に慕情を寄せているのではないかとひそかに悩みます。

園部晋吾は蘭学を学びたいと長崎に行こうとしまします。しかし、二人の子供と一緒に長崎に行くのは難しそうなので、志保に晋太郎を養子としてもらいたいと願いでます。こうした小松の我がままな要求が志保の生き方を思わぬ方向へ向かわせるのです。小松は姉の身の上を思いやる心の持ち主ではありません。しかし、志保は小松の押しつけを受け入れ、子育てを決意し将来は侍とすべく、晋太郎を厳しくも愛情を注いで育てます。

晋吾は故あって、江戸に戻って好条件の仕官にありつきます。次男の健二郎が流行病によって失うのです。やがて志保に対して晋太郎を戻すように求めてくるのです。
「本当はここにいたいのです。友達もいるしいろいろなものもあるし、、」
「いつもお母様はこう仰っていましたね、りっぱな武士になるには、子供のうちから苦しいこと、悲しいことにたえなければいけない、からだも鍛え心も鍛えなければいけない、、」
「本当はここにいたいんですけど、そんな弱い心にまけてはりっぱな武士になれませんから、、」
「晋太郎は江戸へまいります」

晋太郎が江戸の両親の許へいくと子供心に云うのも、志保の膝元に留まりたいというのは弱い心だ、というのです。志保の真実の心が晋太郎に引き継がれていることに志保は満足します。

しかし、幕府の大目付らが村塾にやってきて「上意である、神妙になされい」といって杉田庄三郎ら塾生を捕縛しようとします。庄三郎は同志に向かって上意を受けるように云い、大剣を差し出します。別れ際に志保に向かって庄三郎は云います。
「ご迷惑をおかけしました、志保どの、」
「長い間お世話になりましたが、たぶんこれでもうお眼にかかることはないでしょう」
「ほかに心残りはありませんが、今年の菊を見られないのが残念です、」
「では、、ご機嫌よう、、」

心に残る一冊 その149 「やぶからし」 その六 避けぬ三左

Last Updated on 2018年3月27日 by 成田滋

駿河国府中の城下街で、小具足をつけた三人の若者がひそひそと囁いています。大手筋の方から、ひとりの大きな男がやって来ます。眉が太く、口の大きな、おそろしく顎骨の張ったいかつい顔です。眼だけは不釣り合いに小さいのですが、柔和なひかりを帯びています。徳川家康の武将、榊原康政の家臣の一人、国吉三左衛門常信です。いつもは向こうから来る人であろうと、戦で矢弾丸だろうとなんであろうと、避けないので「避けぬ三左」と呼ばれています。雨の日でも雪の日でも傘や簑をつけません。「ああ、いい天気だな」というほどです。それでこの綽名がついています。

三左に突然憂うつが襲うのです。大橋弥左衛門という榊原家の年寄がいます。槍組の侍大将です。三左は、弥左衛門に鷲尾家の小萩という娘を妻にしたいと仲立ちを依頼します。しかし、実のところ小萩なる娘がいかなるものかを知らないのに結婚を決意するするのです。それは小田原評定後、徳川家が関東に移封されれば、家康の天下統一は三左の孫子の代の先になるのではと心配し、あえて出陣前に妻を娶ろうときめるのです。

箱根や鷹巣城攻めに加わった三左は、例の矢弾丸を避けぬ戦法で先陣にたって名乗りを上げます。
「城の大将にもの申す、山中城すでに落ちた」
「守将松田どのはじめ諸武将それぞれ討ち死にされた、早く城門を開いて降伏せられよ」

とたんに敵城方から射かけられた矢が三左の体へ突き刺さります。彼はそれでもぐっと槍をつかみ、城門へと悠々と大股で前身します。これを見た敵兵は恐怖にうたれ、動揺がおこります。その動揺はそのまま大きく敗走へと向かいます。榊原軍は一斉攻撃にうつり、難なく落城させてしまいます。

主君榊原康政に助けられた三左は、小田原城を見たいと願い出ます。城が指呼にあり、相模野が広がります。じっと眼を凝らして晴れやかにいいます。
「ああ、いい天気だな、、」

絶えてひさしい三左の言葉に、周りの兵たちはいいます。
「鷲尾の小萩どのを見たらもっといい天気だろうぜ、、」
「なにしろあのひとが駿府のかぐや姫といわれる佳人だとは、彼はまだ知らずにいるのだから」

短期決戦否定の戦争観と粘り強く天下制覇を果たした家康ごのみの色彩がはっきりと現れる作品です。

心に残る一冊 その148  「やぶからし」 その五 鉢の木

Last Updated on 2018年3月26日 by 成田滋

主人公の壱式四郎兵衛は元鳥居元忠の家臣です。主君から不興を買い琵琶湖近くに隠棲しています。そして勘当の許しを待っています。妹、萩尾の結婚のことで土地の豪族の当主である佐伯又左衛門と諍いを起こします。それは、又左衛門が萩尾を妻にと四郎兵衛に望むのですが、四郎兵衛から婉曲に断られたのが原因です。

四郎兵衛は籔下の家で賃取りの箭竹つくっているのですが、生活苦は一段ときびしくなります。折から、又左衛門は家康が上杉征伐に出陣のあと、伏見城の留守を預かった鳥居元忠ら1,800人が、石田三成軍ら四万人の軍勢に取り囲まれていることをしります。そして馬を曳き、鎧兜を負って四郎兵衛宅に駆けつけ、出陣の餞けとして贈ります。勘当の許しが届かないのは、元忠が敵に包囲されたためでした。

四郎兵衛は萩尾と又左衛門の結婚を許し、「鉢の木」の謡を朗吟しながら、四郎兵衛は恐らく再び還ることのない戦場へ勇躍出陣していきます。
「さて合戦はじまらば、敵大勢ありとても、かたき大勢ありとても、一番に割って入り、思う敵とより合いて死なん、、」

四郎兵衛は兜の下から萩尾と又左衛門をじっと見つめ、さらばと云いながら大股で外にでていきます。馬がたかくいななき、すぐ馬の蹄の音がおこり、それが道へと出て行きます。萩尾はつよく眼をつむります。馬上の兄の顔がありありと見えるのです。

心に残る一冊 その146 「やぶからし」 その三 抜打ち獅子兵衛

Last Updated on 2018年3月24日 by 成田滋

1940年2月の「講談雑誌」に収録された作品です。抜打ち獅子兵衛こと館ノ内左内は、お家再興を願っていたのですが、幕府や主家親族諸侯の冷たい態度から、御家再興に見切りをつけます。そして、往来繁華な両国広小路で賭け試合を行って話題を撒きます。

両国広小路は、人馬旅行客の往来は絶えず、旅館、茶店、見世物小屋などが軒を並べて賑わっています。その広小路の真ん中に次のよう高札が立ちます。

賭け勝負(木剣真剣望み次第)
  試合は一本勝負
  申込みは金一枚
  うち勝つ者には金十枚を呈上
  中国浪人、天下無敵
      ぬきうち獅子兵衛

軀つきこそ逞しく堂々としていますが、年は若く色白で眉の濃いなかなかの美丈夫です。しかも恐ろしく強く、その人気はすばらしいものです。群衆の歓声を浴びながら、出雲国広瀬三万二千石、松平壱岐守の子で虎之助が三人の供をつれて左内の前に現れます。虎之助は「鬼若様」と綽名されています。その活躍振りを私かにながめていたのが倫子という女性です。柘植但馬守直知という備中新見二万石の領主がいましたが、早逝したため藩は取り潰しとなります。その遺児が倫子でした。

鬼若様の供で左内に見事に打ち負かされた綿貫藤兵衛がやってきます。
「昨日お手合わせを仕った、拙者主人の申しつけでこれより屋敷へご同行願いたく参った」
「結構です、参りましょう」
「そんな口車に乗っちあ危ね、昨日の遺恨があるんだ、殺されちまいますぜ!」
「お止めなさい、先生、」群衆が云います。

左内は支度を直したうえ、藤兵衛に導かれて松平虎之助の前へでます。そして自分の禄をはむ気はないかとたずねられます。
「お言葉、身に余る面目に存じます」
「私にお願いがございます」
「できるこなら聞いて遣わそう」
「はなはだ不躾なお願いでございますが、こなた様に奥方をご推挙申し上げたいのでございます」

このことを云いたいがために、眼に尽きやすい両国に高札をたて、虎之助が来るのを待っていたというのです。
「ほう、、そうすると賭勝負は余を誘い出す手立てだと申すか、
「左内、余に娶れというその相手はいかなる身分の者だ、」
「こなた様とお見込み申し上げます、先生、ご改易に相成った柘植但馬守でございます」

左内らはお家廃絶のあと、家中離散のなかより不退転の者たちが御後室妙泉院の御息女倫子を護ってきたことを伝えます。
「お年は十七歳、御怜悧の質にて世に稀なお美しさをもちながら、このまま生涯、日陰のお身の上かと思いますと、わたくしども臣下の身にとり残念とも無念とも申しようがざいません」

「左内、、、、、それでよいぞ」
「もうなにも申すな、、そのほうほどの者に見込まれたら逃げられまい、」

心に残る一冊 その147 「やぶからし」 その四 蕗問答

Last Updated on 2024年12月31日 by 成田滋

寒森新九郎は秋田藩年寄役筆頭です。食禄は八百石あまりですが、佐竹では由緒のある家柄です。しかし、強情でおまけに健忘家として名を売っています。物忘れはずばぬけていて「忘れ寒森」と云われていました。

江戸にいた佐竹義敦から早馬の使者がやってきます。
「秋田蕗の最も大きいものを十本、葉付きのまま至急に集めて送れ」という墨付きの上意です。
江戸城では諸国の大名があつまって、お国自慢が披露されます。義敦は茎の太さ二尺、全長一丈をこえる蕗のことを話します。しかし、万座の者からさんざん笑殺されたのです。

新九郎は眼をむいて云います。
「つまらぬ自慢話のために早馬の使者をたてるとは怪しからぬ、」
そう云って、主君に諫言するために二人の供を連れて秋田を出立します。ところが途中まできて、大変なことになります。江戸へ行く目的である諫言の仔細を忘れてしまったのです。

新九郎が出府します。数日前、義敦は諸侯たちに秋田蕗を調理してみごとにうっぷんを晴らしたのです。しかし、新九郎から小言をいわれると気づくのです。新九郎を数寄屋に招き、侍女の浪江に茶を点てさせます。浪江は「おこぜ」という綽名の醜女で年は二十六歳です。醜いながら愛嬌があります。
「急の出府はなにごとだ、、」
「は、、、真にご健勝にあらされ、、、、なんとも祝着に存じ、、、、」
新九郎の額に大粒の汗が噴き出しています。ああ、新九郎め小言の種を忘れたな、と義敦は察します。
「どうした、用向きを申さぬか、、」
「御意の如く、もちろん、新九郎といたしましても、遙々国許より、、その、、」
「なにを考えておる、押しかけ出府は筋ではないぞ、急用あらば格別、さもなくして軽々しく国許を明けるとは不埒であろう、新九郎どうだ!」
「恐れ入り奉る、実は、実は、、」

必死に顔を上げると、ふと侍女の浪江を見ます。その瞬間、苦し紛れの逃げ道をみつけます。
「我がままながら、このたび一生の妻とすべき者をみつけましたので、ぜひともお上のお許しをおね願い仕るべく、、、」
「ほう、嫁を娶りたいというのか、してその相手は誰だ」
「は、お上のお側におります者で、、、」
こうして新九郎は浪江を連れて秋田に戻ります。

浪江は秋田で主婦として手際よく家事を処理し、荒れ地を開墾し、秋田蕗を砂糖漬けにして秋田の名産として江戸に送りだそうとします。秋田蕗のことから、新九郎は諫言の中身を思い出します。再び江戸に参上して主君に忠告するという可笑味な娯楽小説となっています。

 

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心に残る一冊 その145 「やぶからし」 その二 笠折半九郎

Last Updated on 2018年3月22日 by 成田滋

「喧嘩は理窟ではない、多くはその時のはずみである」 このような書き出しで始まる短編小説が「笠折半九郎」です。

理窟のあるものならなんとか納まりもつくのですが、無条理にはじまるものは手がつけられないことが多いようです。半九郎と小次郎という二人の若侍の喧嘩がその例でした。二人は紀伊家の同じ中小姓で親友です。半九郎は西丸角櫓の番之頭を兼任し、食禄は三百石。小次郎は二百五十石をもらっています。半九郎は、生一本な直情径行派であるので対し、小次郎は沈着な理性派です。

喧嘩と和解を繰り返しながら、二人は主君紀伊頼宣の主従という隔てを超えた家臣への信愛によって絆で結ばれています。しかし他愛もない話柄が意外な方向へもつれ、ついには決闘を約して別れます。その前夜半叩き起こしたのは小次郎です。城の火事を知らせてきたのです。共に城に走り、配下を指揮して命がけで角櫓を守りとおします。

鎮火後に行われた恩賞で、持ち場を死守した半九郎だけには沙汰がありません。半九郎自身はなんとも思わないのですが、まわりが論功行賞の不平をあげつらって、半九郎をけしかける輩がでてきます。「自分は火消人足ではない」と答えた半九郎の返辞が恩賞組の反感を呼びます。仲介にはいった小次郎との勘定のもつれがまたも燃え上がって、再び決闘という次第となります。

争いの原因を知った頼宣が決闘の場に現れ、力一杯に「馬鹿者、馬鹿者、馬鹿者!」と連呼しながら半九郎を殴打して云います。
「世間の評判などはとりとめのないものだ、城は一国の鎮台として大切だ、宝物ものもまた家にとって大切だ」
「しかし、人間の命は城にも代えられぬ、予にとっては角櫓ひとつよりも、家臣のほうが大切なのだ」
「それほどの思し召しとも存ぜず、愚かな執着に眼がくらんでおりました」
「このうえは唯、、お慈悲でごさいます、わたしに腹を、」
「ならん!」
「そなたらは勝手に果たし合いをしようとした、軽からぬ罪だ、両人とも五十日の閉門を申しつける」
「小次郎も半九郎も一緒に謹慎しておれ、離れてはならんぞ、」

二人は平伏したまま泣いています。

心に残る一冊 その144 「やぶからし」 その一 入婿十万両

Last Updated on 2018年3月21日 by 成田滋

山本周五郎の作品の一つ、「やぶからし」を紹介することにします。讃岐多度津の京極藩に矢走源兵衛という槍奉行がいます。婿に迎えているのが一人娘、不由の良人である矢走淺二郎です。不由は京極藩随一の男勝りの才智容色をそなえています。

淺二郎は大坂の唐物売買商、難波屋宗右衛門の倅です。巨万の富者として知られていました。諸藩はいずれも財政難で逼迫しています。京極藩も例外でありません。淺二郎が京極藩に婿としてやってきたのは藩の財政事情があったのです。藩の財政を短期間に立て直す秘命を帯びて、見識の高い不由と祝言を挙げたにも関わらず不由は臥床を共にしません。

家中の若侍たちは、讃岐多度津の京極藩随一の娘、不由を横取りされたと怒り淺二郎に嫌がらせをするのです。出ては家中の侍に嘲笑され、入っては不由の卑めを受けるのです。
「なんだ、商人上がりの算盤才子が、、」
「あんな生白い奴に御槍奉行の跡が継がせるとは四国武士の恥辱だ」
こう云いながら嫌がらせが続きます。

ある時、淺二郎は三人の若い家中に襲われます。
「新参なれば遠慮しているのに、おのれを知らぬ無道者、、さあ参れ!」
日頃の柔和さとはがらりと変わった態度です。大きく見ひらいた双眸には犯しがたい威力と殺気が閃めいています。たまたま所用で通った不由ははからずも思いがけない淺二郎の姿を発見します。

淺二郎は恩師である岡田寒泉という人の示唆によって、京極家の家譜を閲覧して調べます。そこで京極家の家臣だった淺二郎の先祖が、唐物売買を始めるにあたり、藩祖から拝領した五千両を資本としたのが難波屋の巨富を積み上げるもとになったことを家譜から見つけます。淺二郎はその家譜を持って、ただちに生家に赴き十万両を藩家に献上させるのです。こうして藩の財政再建の目処をつけます。役目を果たした淺二郎は、槍奉行の矢走源兵衛に暇乞いをします。

「これにてお召し出しに与りましたお役目をどうやら果たしました、私を離別して頂きとう存じます」
「お嬢さまは清浄無垢にござりまする」
「殿にもお暇を願っております」
「ご承知くださいまするな」

淺二郎が立とうとするとき、不由が「お待ち下さい」と云って入ってきます。
「様子は次の間で伺いました、大坂へお帰りあそばすとのことでございますが、それならわたしもとお伴れくださいませ」
「、、、それはなぜでござるか、」
「わたしは貴方様の妻、妻は良人に従うのが道でござりまする、、、」
「それに貴方さまはわたしが清浄無垢と仰せられましたが、わたしはもはや身籠もっております」
「なにを仰せられる」淺二郎は呆れて「ご当家に参って以来、一夜たりとも閨を共にせぬこと、ご承知のはずではないか、」

彼の男らしさを知った不由は、不束を詫びて良人の膝に泣き伏します。

心に残る一冊 その143 「若き日の摂津守」 その二 町奉行日記

Last Updated on 2018年3月20日 by 成田滋

「望月どのはまだ出仕されない、その後なんの沙汰もなく、奉行職交代のようすもない」ー当番書役私記

家老や重臣を前に奉行職を任じられた望月小平太が云います。
「私は壕外をなくそうとするのではございません、長年の間、溜まっていた塵芥をかたづけ、毒草の根を断ち切るだけです、それだけがわたしの役目です」
小平太は脇においてある調書をとり、本田斉宮という重職に渡して「他の重職の方々でも回覧してもらいたい」と云います。

壕外をとりしきる三人の親方の一人、大橋の太十を小平太は訪ねます。着流しで刀をずっこけそうに差し、右手を懐にいれています。
「太十は私だが、、なにか私に御用ですか」
「おれは町奉行の望月小平太だ、」

二人は豪勢な造りの書院造りをとおり庭にでます。そこに茶と菓子が運ばれてきます。
「冗談じゃあね、おめえ大橋の大十だろう、」
「望月がどんな人間か、評判ぐれえは聞いている筈だ、おれは茶なんかほしくって寄ったんじゃね、ふざけるな」
太十は酒肴の用意を命じます。若い女が酌に座ります。どうやら太十の妾らしいようです。
「いい女だな」小平太は云います。
「お見通しでございますかな」
「いい心持ちだ、太十」
「痛み入ります」
小平太は云います。「まだそんな堅苦し口をきいているのか、こっちは兄弟分になろうと云っているんだぜ、さあ、大きいので一杯いこう」
「太十、、これはおめえとおれの、兄弟分のかための盃だ、いいだろうな」

五人の芸妓は小平太の陽気で巧みな遊び振りに、さそいこまれて、みんなすっかりはしゃぎだして無遠慮に嬌声をあげています。酔ったあげく休むと云って若い芸妓としけもむ小平太です。壕外の三人の親方、大河岸の灘八、継町の才兵衛、大橋の太十が集まり、小平太の桁外れの振る舞いを話題にします。
「あれは誰にもできるという芸じゃない、おらあすっかり惚れ込んじまったよ」灘八が云います。
「灘波屋八郎兵衛、気に入ったぞ、とても他人とはおもえねえって」

そこに小平太があらわれます。袴をさばいて上座に座り刀を置いて三人をみまます。濃い眉と一文字なりの唇とが、厳しい威厳を示しています。
「町奉行、望月小平太である」切り口上で云います。
「灘波屋八郎兵衛、継町の才兵衛、大橋の太十、こんにちはいずれも大儀であった」
三人は平伏します。
「これで挨拶は済んだ、三人とも楽にしてくれ」
小平太は手早く袴と紋付きを脱ぎ、白い下着の帯をぐるぐると巻き付け、三人の前へきてあぐらをかきます。三人はあっけにとられます。
「さあ、灘波屋のとっつあんから順に盃をもらおう」

「それはまた、どういわけです?」
「侍と町人、町奉行と壕外の親分、、こういう裃をぬいで、男と男になりたかった」小平太は云います。
「人間と人間、男と男になって頼みたいことがあったからだ」
「頼みとは?」八郎兵衛が云います。

小平太は懐から奉書紙で包んだ書状を出し、それを一通ずつ三人の前に出します。
「、、右により四月限り、壕外を立ち退くこと実正なり、万一仰せにそむき候ばあいは、いかようなる罪科に問われるとも、、、、」

同じ四月十二日の町奉行日記にはこうあります。
「壕外に住む親方三名、灘波屋八郎兵衛、継町の才兵衛、大橋の太十は、家財を処理していづれかへ立ち退いた、いかなる理由によるかわからないが、長年にわたって御政道のさまたげとなっていたことが、これでようやく落着した、藩家のために慶賀すべきことと思う」

心に残る一冊 その142 「若き日の摂津守」 その一 町奉行日記

Last Updated on 2018年3月19日 by 成田滋

「壬戌の年、正月七日
本日、新任奉行職の通達があった。江戸邸の望月小平太どのという、年寄り役武右衛門どのの長男で年は二十六才ながら小姓頭から上意によって町奉行に仰せつけられたということである、着任まで佐藤どのの代理に変わりはない」 このような当番書役の日記でこの小説が始まります。

国許では今か今かと新奉行、小平太の到着を待っていますが、なかなか着任しません。小平太は江戸邸で悪評の高い人物だといわれていました。武芸には長じているのですが、行状は放埒を極め、着流しなんとやらという仇名もつくほどです。家中の一部には新奉行の人事に反感を抱く者があり、特に徒士組の激派にはその動きが強いのです。徒士組とは将軍や藩主身辺の警固とか、行列に先駆して沿道の整備についたり、通常は玄関や中の口に詰めていました。いわば親衛隊といったような集団です。

城中大書院にて城代家老の今村掃部や他の家老が集まり、小平太の赴任披露を兼ねた重職評定が開かれます。小平太は末席から挨拶をします。
「私が町奉行に仰せつけられた仔細について、これから申し述べたいことがございざいます」
小平太は用意した調書をおいてもう一度重職を見渡します。
「おそれながら、、、故智光院さまのご他界によって、」この間諸般のご改革をすすめられましたが、お国表における壕外の問題だけが、こんにちなお放任されたままになっております」
「放任と言う言葉は承服できない」 一人の重職が云います。

この城下町の東端に船着き場があり、一方が海、他の三方は掘割りでかこまれ、港橋という橋一つで町とつながっています。この区域は町から隔絶していることと、船の出入りが多い港であることから「壕外」と呼ばれ、以前から悪徳の巣のようになっていました。宿屋はそのまま遊郭のようなありさまで、港外は抜け荷の売買が公然と行われ、そのため遠近から遊興にくる者、凶状持ち、浮浪者などがうろうろしていました。壕外には三人の親方がとりしきっていました。大河岸の灘八、継町の才兵衛、大橋の太十です。喧嘩盗賊のことから年貢運上の割府まであつかっています。
「御墨付です」小平太は云います。その書状を抜いて「上意」と云います。
「このたび、望月小平太に申しつけ候役目の儀は、藩家にとってゆるがせならぬ大事なれば、同人の望むことはすなわち余の望むところと心得べく、たとえ順序規律に違うがごときことありしとも、決して異議不服をとなえざるよう、屹と申し達するものなり」

小平太は墨付きを裏返しにして持ち、列座の人々に示します。
「御墨付けにはゆゆしき大事のように、仰せられてあったではないか」森島和兵衛という重職が訊ねます。
「町奉行のほかに特命がないなら、どうして御墨付けなのを下されたのか?」
「一口に申せば、壕外の処置がいかにむずかしいか、ということをご承知だからだとおもいます」
「壕外の処置とはという意味だ?」
「あの区域全体の掃除です」
「壕外は悪徒の巣窟です」
「抜け荷船が自由に出入りし、賭博場は大きいもので三箇所あり、宿屋は遊郭にひとしく、隠し売り女も野放しです」
「その取り締まりには三名の親方なる者が預かっており、外からの門渉をまったく受け付けない」
「こんな状態と続けていることは藩全体の恥辱です」

心に残る一冊 その141 「若き日の摂津守」 その二 君辱められるれば臣死す

Last Updated on 2018年3月17日 by 成田滋

「若き日の摂津守」の二回目です。光辰は十人ばかりの供をつれて遠乗りにでかけます。そのとき鹿を見つけます。光辰は馬を乗り捨てて、ただもう鹿に気を奪われて、斜面をすばやくのぼります。供のことはすっかり忘れるのです。一刻近く歩くと小屋の集落があり、一人の老人が土を掘っては埋めています。そこにいた老女に「喉が渇いた、」と云います。光辰は老人のことをきくと、「あれは市兵衛さんといって、気が狂ってるんですよ」
「川辺が鴨狩りのお止場になって、土地を追われて気が狂ったんです」
「ああやってなにもならない土を掘っては埋めしているんです」
「どうして、自分の田や畑がなくなったんだ」

お止場は重臣たちの直轄となり、郡奉行の支配となり、許しをえなければ立ち入ることが出来なくなります。お止場とは狩り場のことです。土地を追われた者たちは、ここに掘っ立て小屋を建て、その日暮らしの生活をしているというのです。お止場は鴨だけでなく鮎釣り場にも及び、土地の者は追い立てられたというのです。

数日の後の夜、一綴りの書類が寝所に届けられます。おたきはそこに置いてある書類を取って戻ってきます。
「いまこれを宿直の間から入れた者がございます」おたきは云います。
書類の内容は、藩主を敬して遠ざけたうえに、世襲の重臣たちが交代で政治を支配し、年々一万石以上にあたる横領を続けてきたその例がくわしく列記してあります。お止場も一例として挙げてあります。鴨は狩りごとに二万羽ちかく捕れます。名物として知られているため、高い値段でさばくことができました。

古くから、鴨も鮎も古くから湖畔の住民たちの生計を支えるものでした。お止場を指定して住民を立ち退かせ、郡奉行の支配に移し、とれた鴨や鮎を御勝手入りとして売るのです。売った代銀も藩主のものになるという名目ですが、実際は重臣達が分け取りをしています。住民は窮乏しているのです。

「重大夫!」、と光辰云います。
「他の者も聞け、侍の心得として、君辱められるれば臣死す、ということがあるそうだ、知っているか」
「殿、、、」と重大夫がするどく戒めます。
「知っているか!」
「図書はどうだ、古大夫はどうだ、知っているかいないか、民部、そのほうだどうだ?」
「おそれながら、侍としてその心得を知らぬ者はないと存じます」永井民部が云います。
「よし、」と光辰は頷きます。
「、、、ここでは家臣が領主を辱めている、重大夫、もっと寄れ!」
「お口が過ぎますぞ、殿、御座にお戻りあそばせ」重大夫が云います。

すると光辰は槍の鞘をとります。静かな手つきで鞘をとると、槍を持ち直し「無礼者!」と叫んで重大夫の胸を刺します。動作は緩慢でしたが、槍を持ち直してからの素早さは水際たっています。それまでの光辰のぼうっとした表情は消えて、凜とした姿勢です。重臣達は度肝を抜かれ、口をあいたまま声を出す者がいません。そして周りの重臣たちに光辰は叫びます。
「重大夫の罪は死にあたると思うが、一命は助けてやる、江戸に帰ったら父上に申し上げ、改めてその罪の詮議をしよう、医者を呼んで手当をしてやれ!」
「民部帰るぞ、」 

永井民部は案内にたちながら、低い声ですばやく囁きます、
「いましがた城中から使者がありました。お部屋さまには御懐妊とのことでございます。」

心に残る一冊 その その140 「若き日の摂津守」 その一 若き日の摂津守

Last Updated on 2018年3月16日 by 成田滋

山本周五郎の作品には、白痴とか唖者を装って主君に仕えるとか、家臣を欺くといった場面が登場します。既にこのシリーズで取り上げた「小説日本婦道記」に収録される「「二十三年」という短編に「おかや」という女性がいました。二十三年もの間、口が利けず白痴のふりをして新沼靭負に仕え、その息子の牧二郎の養育にあたるのでした。若き日の摂津守光辰も白痴のふりをして藩を牛耳る家老や重臣を一掃する物語です。

摂津守光辰は「うまれつき英明果断にして俊敏」ということが藩の正史にありました。けれども別の藩の記録には次のような記述もありました。
「幼少のころから知恵づくことがおくれ、体は健康であったが、意力が弱く、人の助けがなければ何一つできなかった。つねに涎をながしながら、みずから拭くすべを知らなかったし、側近のものが怠ると失禁されることも稀ではなかった」

光辰は家督相続をして摂津守に任じられ、二十一歳のとき初めて国入りをします。二の丸御殿で祝宴がひらかれます。家臣が宴に列席します。光辰は上段に座っているだけで、しもぐくれのおっとりした顔立ちで、上背のあるいい体格だが、眼つきや口許にしまったところがなく、疲れたような、寝不足なような、とらえどころのない、ぼうっとした表情をしています。後ろに小姓頭がときどきみをかがめて光辰になにごとか注意します。すると光辰はでかかっていた欠伸を半分でやめたり、袖でゆっくりと口の周りを拭きます。家老や年寄らの重臣が光辰をみる眼には憐れみと軽蔑の色があらわれています。

光辰と正室の間にはまだ子がおりません。年が違いすぎるのか体質があわないのか、結婚してからもう五年もなるので、家臣たちは国許の健康な娘を側室にあげるということに決まります。酒宴の席上給仕にでたのは側室の候補なのですが、家老の浅利重大夫から光辰に告げてあったのですが、光辰はてんで娘達を見ようとしません
「殿、、お気に召した者がございますか?」
「おれは誰でもいい」光辰は途方にくれたような顔でこころぼそくそう云います。

「民部、、」光辰は助けるように小姓頭の永井民部に訊きます。
「このおれは、誰だ」
「おそれながら、、当松城五万六千石の御領主、摂津守光辰さまであらせられます」

「だめだな、、こちらで選ぶよりしかあるまい」と家老の浜岡図書が云います。その夜、重臣達が集まり、側室の選考をします。そして吉田屋という藩の御用商人の娘を選びます。商人の娘なら、たとえ世継ぎを生んだとしても親が藩政の邪魔になるような怖れはないという理由です。年は十七歳、容貌はまず十人並みですが、体はよく発達して健康そうです。この娘はおたきといいました。

おたきは寝所にあがります。白小袖に白の帯をしめた姿で褥の上へあがります。
「いいか、」光辰が囁きます。
「はい、」
光辰は妻戸をあけ、一冊の書物を出してくると、畳のうえにじかに座ったまま読み始めます。それはおたきが伽にあがって七日めの晩から、一夜も欠かしたことのない習慣です。
「黙っていてくれるか、、」
初めての夜、光辰はおたきに云います。家臣達に知られると困る、黙っていてくれるかと云うと、小滝は黙っていると約束します。おたきはやがて、殿様はばかをよそおっているのではないかと思うのです。光辰は、おたきに触れようとしないのですが、「決して嫌いではない、お前がすきなのだ、、それまで待ってくれ、」とおたきに云います。おたきは光辰の言葉には真実を感じるのです。

心に残る一冊 その139 「若き日の摂津守」 その一 逃亡記

Last Updated on 2018年3月15日 by 成田滋

山本周五郎の作品にもどります。「若き日の摂津守」に収録されている作品を取り上げます。今回は「逃亡記」です。

溝口掃部は城代家老で禄は3,200石です。あつみ、みさをという18才と17才の二人の娘がいます。横江半四郎は長女のあつみと結婚することになっています。城代家老の片山主水正と一代交代の定まりなので、半四郎が溝口家を継いでも城代にはなれません。

  横江家は代々江戸邸の年寄り役で禄は1,520石。半四郎の兄文四郎が横江の家督を継ぎます。あつみとの祝言をあげるために、江戸から国許についた半四郎は掃部の屋敷で草鞋を脱ぎます。掃部は、新しい国絵図を作る仕事をしています。
「そこで早速だが、そこもとに国絵図の支配をやってもらう、、」掃部は半四郎に云います。

話がややこしくなるわけは、半四郎はもともと横江の子ではなく、長門守祐永が侍女に生ませた子だということです。長門守祐永の世子である与五郎祐刻が病弱のうえに暗愚というので、一藩の主たる資質がありません。そこで半四郎を世子にしようという計画が生まれます。この計画を現老職が探知し半四郎を亡き者にしようとします。表面は溝口の婿という触れだしで城下に連れ出し、ここで暗殺するという手筈です。

この謀殺計画を知った溝口では、半四郎を逃がそうとします。その助けの案内をするのが溝口家の奥に仕えるさとという女です。

国絵図を作る理由は、領地を接している諸侯の間に境界の争いが起こるからです。まだ測量が不十分であり、各藩の国絵図なども明確ではなかったのです。通常、分限帳といって郷村の草木や川魚の運上金などを記したものがあります。これには藩の勘定奉行の署名があれば、どの藩の所領かがわかるのです。

半四郎らが逃げている途中、領内でも指折りの豪農の屋敷にやってきます。当主は殿島八右衛門といい藩主の長門守から特別の待遇をうけています。そこの屋敷で半四郎は年貢や運上の分限帳のうち、八右衛門署名の文書を見つけます。長門守と八右衛門との結託を示すのが分限帳なのです。吉岡郷は隣藩の領分だったのですが、境論が表沙汰になった場合、この分限帳がなければ松井藩の言い分がとおるかもしれない、半四郎はそう推測します。半四郎やさとが分限帳を抱えて立ち去ると間もなく、分限帳の存在を消そうとして殿島はこの館に火を放ちます。

殿島と松井藩とが通牒していることを知ったのも、分限帳を手にいれることができたのもさとのお陰で逃げ回ったからです。半四郎は、分限帳によって松井藩の企みを潰すことに確実に勝目算があると見通します。

半四郎はさとに「嫁になるのはいやか」と申し込みます。そして、さとが実は溝口家の妹、みさをであることを半四郎は知ってびっくりします。半四郎はもともと、あつみと許嫁だったのです。あつみとみさをは、こうしたいきさつを可笑しく会話しています。そして半四郎は分限帳をもって松井藩に掛け合いにいきます。

心に残る一冊 その138 Intermission 「遙かなノートル・ダム」

Last Updated on 2018年3月14日 by 成田滋

「遙かなノートル・ダム」の作者はフランス文学者の森有正です。呼び捨てにするのをためらうのですが、、氏の人となり、生き方、思索の方法が織り込まれていて、私の考え方の一つの道標になっているかけがえのない一冊です。森は明治の外交官、政治家、初代文部大臣であった森有礼の孫にあたります。森有礼が英語の国語化を提唱したのは有名です。

森有正は小さい時からフランス語を学び、やがて大学などで教えながらパリに滞在し、そこが著作の場となります。パリでの生活にあって、その間数々の随想や紀行などを著します。自然や人々の息づかいが伝わるような濃密な文体で知られています。読みこなすのは容易ではありません。晩年は哲学的なエッセイを多数執筆して没します。森有正全集全14巻の第4巻が「遙かなノートル・ダム」です。

著者はフランスの教育に深い関心を示します。著者の経験と思索の中には、いつもフランスの教育が陰を落としています。フランスの教育に触れる箇所があります。

「フランスにおいては、自国の言葉の学習に大きい努力が払われている。小学校に入る6歳くらいから、大学に入る18歳くらいで行われるバカロレア(Baccalaureate)という国家試験まで、12年間にわたり緻密に行われる。その目的は単に本を読むことを学ぶだけでなく、作文すなわち表現力を涵養するために行われる。漠然と感想を綴ることではなく、読解、文法、語彙、読み方にわたって教育が行われ、その総合的は把握が作文によってためされるのである。文法にしても、しかじかの規則を覚えることではなく、その規則の適用である短い文章を書くことが無数に練習され、理解はすなわち実際に間違いのない文章を書くことによって実証される」

教育の中心課題が知識の組織的蓄積であって、そこから自分の発想を磨くという眼目を忘れてはならないと説きます。近年は問題解決学習とかアクティブ・ラーニング(AL)ということが話題となっています。ALとは、学習者が能動的(アクティブ)に学習(ラーニング)に参加する学習法の総称です。しかし、その基礎になるのは知識や語いの集積です。これが不足していてはどうにも学習は成立しません。

心に残る一冊 その137 「虚空遍歴」 その八 中藤冲也と山本周五郎

Last Updated on 2024年12月31日 by 成田滋

山本周五郎は多くの短編小説を当時の月刊誌、たとえば婦人倶楽部、主婦之友、小説新潮、オール読物、講談雑誌、キング、さらに週刊朝日などいった大衆色の強い雑誌や週刊誌に発表します。どれも珠玉のような作品だと思います。山本が大衆小説作家であるかどうかは別として、多くの読者に感銘を与えています。


他方、「虚空遍歴」や「樅ノ木は残った」という二つの大作は山本の小説家としての地位や名声を確立したものといえるのではないでしょうか。主人公の中藤冲也や原田甲斐は、なにを達成したかではなく、なにを成し遂げようとする志を抱いて生きてきたかが描かれる作品です。それは芸の理想とか主君への忠義をどう実現するかということです。

そうした生き様を示す箇所が随所にあります。例えば「虚空遍歴」では死に瀕する冲也の呟きです。
「男が自分の仕事にいのちを賭けるということは、他人の仕事を否定することではなく、どんな障害があっても屈せず、また、そのときの流行に支配されることなく、自分の信じた道を守りとおしてゆくことなんだ」

山本は冲也に次のように云わせる箇所もあります。
「才能のある人間が新しい芸を創りだすのは、古い芸にかじりついているよりよっぽど本筋だ、世間なみの義理や人情のために、創りだせるものを殺しちまうとすればそれは本当の芸人じゃあねえ、本当の芸っていうものはな、・・・ときには師匠の芸を殺しさえするもんだぜ」

原田甲斐もまた、「樅ノ木は残った」のなかで自らの命を藩に捧げるという忠義を貫きます。
「私です、私が逆上のあまり、、これは甲斐めの仕業です、久世候、、」
「こやつの非で伊達藩に累が及ばぬようお頼み申し上げます、」

ここでの古い芸とは純文学、新しい芸は大衆文学のことのようです。師匠とは当時の文壇の大御所のことかもしれません。山本は痛烈に文壇に一石を投じていきます。1943年に『日本婦道記』で直木賞に推薦されますが、これを辞退ことに山本の矜持が示されています。自分の作品が文壇から認められなくとも大衆が認めてくれるはずだ、という主張です。その後も毎日出版文化賞や文藝春秋読者賞を辞退するのは、文壇に対する一種の挑戦状のようなものだったのです。

最後に、冲也は江戸でたいそう人気のあった端唄の名人としてもてはやされ、そのまま端唄で名声を確立できたほどの名手です。しかし、冲也が目指す高みは端唄の確立ではなく、浄瑠璃作品を作ることでした。端唄が大衆小説であれば、浄瑠璃は純文学作品にあたるのかもしれません。

山本は文学に大衆文学も純文学もないといいます。「小説にはいい小説と悪い小説があるだけ」とはいいながら、純文学作品を目指していたのではないか、そんなことを考えるのです。

 

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心に残る一冊 その136 「虚空遍歴」 その七 おけいとお京との対面

Last Updated on 2018年3月12日 by 成田滋

雪の北陸路、今庄という小さな町の旅籠で冲也は、病床から呟きます。

「おれは浄瑠璃で生きる決心をし、一生を賭けても自分の浄瑠璃を仕上げようと、そのことにぜんぶを打ち込んでやって来た、これからも、生きている限りやりぬいてゆくだろう、――だが、この道には師もなければ知己もない、師にまなび、知己に囲まれているようにみえても、つきつめたところは自分ひとりだ、誰の助力も、どんな支えも役には立たない、しんそこ自分ひとりなんだ」

「おれは自分にできる限りのことをした」と冲也はまた云います。
「自分の力でできる精いっぱいのことをした、それがこんなことになってしまった、こんなみじめなざまに、――どうしてだ、どこで間違ったんだ、おれのどこがいけなかったんだ」

「男が自分の仕事にいのちを賭けるということは、他人の仕事を否定することではなく、どんな障害があっても屈せず、また、そのときの流行に支配されることなく、自分の信じた道を守りとおしてゆくことなんだ」

おけいは江戸にいるお京へ急飛脚をの手紙を出します。冲也の容態が非常に悪くなってきたからです。夜半ごろ、おけいがまだ寝床へ入る前に、名を呼ばれたように思います。いってみると、冲也は眼を大きくみはり口を開けて囁いています。
「なにかおっしゃって、」
「ああ、」といって眼が一点に向けられたまま動かなくなります。

冲也が亡くなって三日目、お京と冲也の弟子、常磐津由太夫が遺骸を引き取りにやってきます。その宿でお京とおけいが対面します。おけいは冲也の浄瑠璃に対する凄まじい執念と意志、どんなことであろうと本気でやろうとしたこと、人のおもわくなんぞ気にせず生き抜いてきた冲也を尊敬してきました。
「苦労したのね」
「できないことだわ、あたしなんかその半分もできやしないわ、、」お京がおけいに云います。
「なにか遺言のようなものはなかったかしら、、」
おけいはちょっと考えて、立ち上がって三味線をとり、調子をあわせながら遺言というのではないが、と断ってから唄いだします。
「いい唄だわ、」
「、、でもこうなってみると、しょせんうちの人は端唄作者だったのね」
おけいは口をあけ、眼をみはります。
「失礼ですが、、」とおけいは感情を抑えます。

お京は長旅で疲れたと云って宿に戻ります。おけいは遺骸に向かった座り直します。
「、、、いまのお京さんの云ったことをお聞きになりましたか、しょせんあなたは端唄作者だって、」
「ひどい、あんまりだわ、あなた、あんまりじゃありませんか」
冲也の死顔の目尻から涙のようなものが一筋、糸をひいたようにしたたり落ちます。

心に残る一冊 その135 「虚空遍歴」 その六 自分の浄瑠璃に絶望したことはない

Last Updated on 2018年3月10日 by 成田滋

江戸における興業の後ろ盾になろうとした妻、お京の親の援助も退けて、作品の価値だけで認められる自立した浄瑠璃作家になることを目指す中藤冲也です。依怙地なくらいに作品の独自性を求め、江戸を離れて大坂、金沢と、各地を転々とします。さすらう女「おけい」の献身的な介護があります。どこの土地でも認められることのない遍歴を続けます。

大坂にでて片岡仁左衛門という役者から、金沢でなら冲也の江戸浄瑠璃を上演してくれるのではと言われます。そして口入れ屋の仲山新平という者へのことづけての手紙を受取り金沢に向かいます。苦難の末、冲也は単身、金沢に着きます。口入れ屋仲山新平に会おうとします。何日も待たされて冲也は不安にかられ、四日間酒を飲み続けます。新平に会う当日はろれつさえ回らず、からだの自由さえききません。設けられた席でも、ろくに三味線も弾けず皆の笑いものになって玄関から放り出されてしまうありさまです。

そこへおけいが追ってきて、大坂に帰ろうと勧めます。だがもう彼には帰る場所はない状態です。ですが二人で雪の北陸路を大坂に向かいますが、途中で冲也は今庄という小さな町の旅籠で病に倒れます。それを介抱したのはおけいです。おけいは江戸から一緒についてきたもと芸妓です。冲也の端唄を聴いて自分が変身するような経験をして冲也の芸に傾倒し、兄妹のように尽くすのです。宿では別々に寝て、食事ではお京の陰膳をすえるような女でありました。

冲也は自分を鼓舞するかのように、自分の遍歴や放蕩じみた旅を次のように振り返ります。
「たいていの人間が、一生にいちどは放蕩にとらわれるものだ。同時に、その大部分の者がそこからぬけだし、ちょうど病気の恢復したあと、しばしば以前よりも健康になる例があるように、放蕩の経験のない者よりもはるかにしっかりした、堅実な人間になる場合が少なくない」

おけいの看病を受けながら大坂に戻ろうとしますが、病床で冲也は呟きます。
「こうしてはいられない」
「おれはこんなことをしてはいられないんだ」

暫くして、また冲也は囁きます。
「このままでは死にきれないんだがなあ」
「男が自分の仕事にいのちを賭けるということは、他人の仕事を否定することではなく、どんな障害にあっても屈せず、また、そのときの流行に支配されることなく、自分の信じた道を守りとおしてゆくことなんだ」

心に残る一冊 その134 「虚空遍歴」 その六 おけい

Last Updated on 2018年3月9日 by 成田滋

あるとき、冲也は箱根の気賀湯という湯治場にでかけ仕事をしようとします。そこにある藤屋という宿に泊まります。藤屋は大きな構えで平屋造ながら座敷も多い宿です。母屋と離れがあり、その庭に山から引いた水が溢れています。

宿にあがって三味線を取り出し調子を合わせ、静かに爪だきでふしをたどり始めます。五節ほどひいて、あとへ戻りまた初めからやり直します。今度は六節まで進み、その六節目を弾き直したのでまた元からやり直します。五節から六節めにかかると手がぴたりと停まってしまいます。
「くそっ、、」

そのとき、外で口三味線が聞こえます。彼は全身を硬くし、眼をつむったまま外からきこえてくるその口三味線の声に耳をすませます。自分の中の扉が開き、そこから広く伸びる自由な空間が見えるように感じます。彼は注意深く、そのふしを頭の中でためしてから三味線の糸に当ててみます。
「これだ、、」彼は昂奮します。
「これだ、これだ、これが捜していたふしだ、これで間違いなく伸びるぞ、、、」

冲也は三味線を下に置いて立ち窓の所へ行って障子をあけます。
庭には一人の女が立っています。
「失礼ですが、」冲也は窓から呼びかけます。
「いまの口三味線はあなたでしか、、」
女は傘の中でそっと頭を下げます。

「いまそちらへゆきます」と冲也は云います。
「ここで詳しいことは申せませんが、、いまのあなたの口三味線でひじょうに助かりました」
「失礼ですがあれはなにかの唄にあるふしですか、」
「ええ、、」
「綾瀬の月という端唄のかえ手です」
「綾瀬の月、、、端唄ですって、」

「あなたの三味線を聞いているうちに思い出して、つい知らず口から出てしまったんです」
「ご堪忍して下さいまし、」

この女は「おけい」という芸妓で、さる老旗本の囲い者のようです。おけいは芸者の頃から江戸で冲也節に惹かれていた女でした。箱根での出会いは運命的なものと冲也も感じたのですが、旗本に嫉妬されて、その家来から冲也は執拗に命を狙われることになります。

心に残る一冊 その133 「虚空遍歴」 その五 ”書物からまなぶ学問ではなく”

Last Updated on 2018年3月8日 by 成田滋

「虚空遍歴」の五回目です。浄瑠璃の台本作者、中島酒竹が冲也の家に夜遅くやってきます。酒竹は冲也のために台本を創作しています。二人は仕事仲間であり、ずけずけとものを言い合える仲です。
「このうちはあたたかすぎる」酒竹が云います。
「すきま風もはいらない、あたたかくて、穏やかで、いつも平穏無事で、心配事や不安などのかけらもない」
「酔っぱらいのくだを聞く暇もないぜ」
「ご新造さん、酒をたのみます」
酒竹は持っていた空の徳利を、トンと膳の上におき、冲也の顔を不審そうにみます。

  襖をあけてお京がはいってきます。勘徳利が二本、つまみものをいれた小さな鉢が皿にのっています。お京はいつものおっとりした笑顔で主が酒を飲まないため、接待がちぐはぐになって申し訳ない、と挨拶します。
「おかしなやつだ、」と冲也は云います。
「おまえは酒さえあればなんにもいらないようだな、もっとしごとに必要な勉強をしなくてはだめじゃないか」

「私に必要なのは」と酒竹は云います。
「書物からまなぶ学問ではなく、生きた人間と、その生活です」
「人間と生活と、それをとり巻く世間それが私の勉強の対象ですよ」

「人間のぶつかる悲劇や喜劇は、なまのままでは役にたたない、それを一度分解し、どこにしんの問題があるかをみきわめて、正しく組み直すことが必要だし、それにはまず学問をして、謝りのない観察眼や判断力を養わなければならないだろう」冲也は云います。

「私は誤ることを怖れませんね、悲劇も喜劇もなまのままで受け入れます」酒竹は手酌で飲みながら云います。
「いくら学問に精を出し、博学多識になったところで、人間の観察眼や判断力なんぞたかが知れたもんです」
「たとえば、ここである男が盗みをはたらいたとしますね」
「それを理性あるあたまで多くの判例を比較参照し、法律や常識論から詳しく検討して、その罪を裁くことはできるでしょうが、その男の内部を理解することはできない、、私が知りたいのは、その男の盗みがいかなる罪に値するかではなく、どうして盗みをしなければならなかったか、盗みをする気持ちはどんなだったか、ということです」
「これには学問も理性もいらない」酒竹はすぐ続けます。
「、、、ただその男といっしょに酒を飲む、いっしょに酔っぱらえばいいんですよ」

心に残る一冊 その132 「虚空遍歴」 その四 上方訛り

Last Updated on 2018年3月7日 by 成田滋

「虚空遍歴」には、中藤冲也の人格の形成や芸の発展にさまざまな影響を与える人物が登場します。まずはおけいです。冲也に対して唯一無二の理解を示し、彼に通じる特別な人物として描かれています。芸妓であり囲われ女なのですが、冲也の端唄を聴いて自分が変身するような経験をします。彼女が思い遣る視線や立ち居振る舞いによって、冲也の生き方が辛さにおいて一層引き立っていきます。冲也の理解者でありつつ、冲也に温かい感情の目線を与えることで、その献身さが魅力的に描かれます。

お京は冲也の妻で幼なじみです。料理茶屋「岡本」の娘で、冲也の芸を信じ彼の仕事にいっさい口をはさまぬ、彼の芸への情熱を信頼する忠実な女性です。

常磐津由太夫は本名幸次郎。常磐津を出て、冲也を弟子として〝冲也ぶし〟を教えていきます。常磐津繁太夫は冲也の兄弟子です。冲也に芸事、仕草、生活態度などにいろいろな忠告をし、冲也の成長に期待する人物です。

  中村勘三郎という芝居座元がいます。彼は江戸生まれで上方育ちです。座元は、どんな芝居をするか、誰に出演させるか、資金はどれくらいかかるか、などの総取締役です。冲也は、自分の浄瑠璃で中村座の舞台に立ちたいと考えています。それには勘三郎のような後ろ盾が必要なのです。

中島酒竹という浄瑠璃の台本作者が冲也と会話しています。冲也の浄瑠璃の台本を創作してきた男です。
「勘三郎はどこの生まれだ?」
「育ちが上方か、、」
「江戸生まれの江戸育ちですよ」酒竹が云います。
「なぜです?」
「上方訛りで饒舌ってた、初めて訊いたように思うが、今日は妙な上方訛りを使ってたぜ」と冲也が云います。
「ああ、あれですか、あれはしょうばいですよ」
「しょうばいとは?」
「つまりこうです、しょうばいをするときに、それもうまく纏める商談のときは、上方の言葉のほうがやわらかくていい、」
「江戸弁ははっきりしているから、纏まるはなしもこわれてしまうってね」
「いやならよしゃがれ、と云うよりも、あきまへんか、」酒竹は上方弁をまねます。
「そう云わんと、もう一つ思い直しとくんなはれいな、わてもしょうばいやよってな、辛うおまっせ、といったふうに云うほうが、はるかに事が荒立ちませんからね」

心に残る一冊  その131 「虚空遍歴」 その三 義太夫節

Last Updated on 2018年3月6日 by 成田滋

義太夫節の成立以前、浄瑠璃は古浄瑠璃と呼ばれていたようです。1684年ごろ、後に筑後掾となる竹本義太夫が道頓堀に竹本座を開設して義太夫節を広めるとともに、その後は浄瑠璃に新たな時代が訪れたといわれます。

名作者近松門左衛門と結びつくことによって、戯曲の文学的な成熟と詞章が洗練されていきます。義太夫節と人形浄瑠璃という新しい様式は、上方の人々から熱狂的な支持を受ます。こうして義太夫節と人形浄瑠璃は充分に芸術性が高くなったといわれます。義太夫節はそれ以前の古浄瑠璃を圧倒することになります。

古浄瑠璃時代には語り手の名を付して何某節と呼ばれていたようです。それがひとつの様式として後代に受け継がれる性格のものではなかったようです。ですが義太夫節にいたってはそのあまりに完璧な内容のために、「義太夫節」という流儀名が竹本義太夫死後もひとつの様式の名前として用いられ続けました。それが今日まで残っています。

義太夫節の特徴は「歌う」要素を極端に排して、「語り」における叙事性と重厚さを極限まで追求したところにあるようです。太夫と三味線によって作りあげられる間の緊迫、言葉や音づかいに対する意識、一曲のドラマを「語り」によって立体的に描きあげる構成力に特徴があります。そのいずれをとっても義太夫が浄瑠璃界に遺した功績は大きいといわれています。

他方、このころ竹本義太夫と同期の都太夫一中は京で一中節を創始し、その弟子宮古路豊後掾がさらに豊後節へと改めて、1734年これを江戸にもたらします。豊後節の特徴は義太夫節の豪壮な性格とは対照的に、一中節の上品な性格を生かしたやわらかで艶っぽい語り口にあり、江戸において歌舞伎の劇付随音楽として用いられたため、またたく間に大流行したといわれます。その人気は、心中ものの芝居にさかんに用いられたために江戸で心中が横行し、風俗紊乱を理由に豊後節が禁止されます。それだけ豊後節は話題を醸したということでしょう。

心に残る一冊  その130 「虚空遍歴」 その二 浄瑠璃

Last Updated on 2018年3月5日 by 成田滋

「虚空遍歴」で主人公が中藤冲也が浄瑠璃の新たな姿を追い求めた遍歴に入るまえに、「日本文化いろは事典」や「ジャポニカ 大日本百科事典」などを参照しながら、浄瑠璃とはなんぞやを考えていきます。以前、友人に連れられて大阪は日本橋にある国立文楽劇場で初めて文楽を鑑賞したときの印象も交えます。文楽劇場の座席正面右に出語り床があり、肩衣を着用する大夫という語り手と三味線弾が坐ります。見台には床本があります。

浄瑠璃は劇中の人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含み、語り口が叙事的な響きをを持ちます。このため浄瑠璃を演じることは「歌う」ではなく「語る」と言います。浄瑠璃系統の音曲をまとめて語り物と呼ばれます。

中世以来の諸音典を綜合した語り物の総称が浄瑠璃です。初めは素朴な音楽的物語で、伴奏には扇拍子や琵琶が用いられました。やがて三味線が伴奏楽器となり、太夫が詞章を語る音曲・劇場音楽となっていきます。さらに操り人形も加わり独特の語り物による楽劇形態として完成していきます。

こうした諸芸能が統合され、近松門左衛門の詞章で、豪快華麗な曲節が特徴である義太夫節によって舞台の人形が操られるとき浄瑠璃は近世的、庶民的性格をもつ音楽、文学、演劇の融合芸能として発展します。

ところで、「浄瑠璃」という名称の出所です。16世紀の室町時代、誕生した語り物の中に、牛若丸と浄瑠璃姫のロマンスを題材にした物語があり、人気を集めたといわれます。岡崎の地で、牛若丸と浄瑠璃姫が出合い、お互いに恋い焦がれ、惹かれあうものの、揺れ動く時代の中で悲恋の結末となるのが「浄瑠璃姫物語」です。

心に残る一冊 その その129 「虚空遍歴」 その一 中藤冲也

Last Updated on 2018年3月3日 by 成田滋

昭和36年3月から翌々年2月まで『小説新潮』に掲載された山本周五郎の代表作の一つといわれるものです。題名にある「虚空」とはサンスクリット語で、空間とか大地、インド哲学では万物が存在する空間、広大無辺、永遠、清浄、超越という意味だそうです。絶対者、真理との概念で結びつけられるといわれています。

「虚空遍歴」の主人公は中藤冲也という旗本の二男です。侍を捨て芸人として生きる道を選ぶのです。端唄で人気を得ますが、それに満足せず浄瑠璃作りから〝冲也ぶし〟を生みだそうと苦闘するのです。江戸で端唄の名人と評判がたった若き冲也が、そういう浮名がたつほどの人気にもかかわらず、それに満足できずに自分を嫌悪し、あえて本格的な浄瑠璃をつくろうとして苦悶する遍歴が克明に描かれる作品です。

  「ジャポニカ大日本百科事典」によりますと端唄は、江戸時代中期以降における短い歌謡の総称といわれます。大正半ばまでは小唄も端唄の名で呼ばれていたようです。その後端唄・小唄俗曲とはっきりと区別されるようになります。

才能のある冲也による浄瑠璃の第一作が、江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋、中村座にかかって好評を博します。しかし冲也はこれにも満足できずにしだいに行き詰まっていきます。周囲では「あれは金の力だ」といった噂がたてられ、冲也はそれに潔癖に対峙してしまうのです。師匠の常磐津文字太夫からも離れてしまいます。

「才能のある人間が新しい芸を創りだすのは、古い芸にかじりついているよりよっぽど本筋だ、世間なみの義理や人情のために、創りだせるものを殺しちまうとすればそれは本当の芸人じゃあねえ、本当の芸っていうものはな、・・・ときには師匠の芸を殺しさえするもんだぜ」

こうして冲也はあてどもない浄瑠璃遍歴に旅立っていきます。江戸から東海道を上り、京都へ、近江へ、さらに金沢へと変転します。その流浪に冲也に惚れる「おけい」という女がかかわって、独白の挿入が入ってきます。長い独り言です。おけいはもともとは色街育ちなのですが、冲也の芸を聞きかれの歌いに傾倒し世話をする女性です。

心に残る一冊 その123「樅ノ木は残った」 その十 仙台六十万石は安泰

Last Updated on 2018年3月2日 by 成田滋

伊達安芸宗重からの上訴により、地境争いの評定が始まります。大老酒井雅楽頭は、甲斐が実は宗重と繋がっていて、しかも自分が伊達兵部宗勝と交わした六十万石分割の密約の写しが甲斐の手元にあることを知り、大藩取潰しの野望が破れたことを察知します。

評定は板倉内膳正邸で行われる予定だったのですが、にわかに酒井雅楽頭邸に変わります。甲斐の意を受け原田家を出奔し、雅楽頭邸に勤めていた黒田玄四郎は邸内のものものしい動きを察知します。

「やむを得まい、秘策のもれるのを防ぐには知っているものをぜんぶやるほかはない、甲斐はその第一だ、彼はそれを知り六十万石を守る」
「しかしその代償は払わなければならない、評定の席に出る者にはみな、 その代償を払わせてくれるぞ」と呟くのです。

酒井雅楽頭が忙殺を命じた五人の仕手は、評定に喚問した伊達藩の四人の重臣、伊達安芸、柴田外記、古内志摩、そして甲斐を控えの間に襲って斬りつけます。それに気づいて評定の間に清直居士といわれていた久世大和守と板倉内膳正らが出てきます。瀕死の傷を負った甲斐は気力を振り絞って大和守に訴えます。
「私です、私が逆上のあまり、、これは甲斐めの仕業です、久世候、、」
「こやつの非で伊達藩に累が及ばぬようお頼み申し上げます、」
「安芸、甲斐も聞け、伊達のことは引き受けた、仙台六十万石は安泰だぞ」

公儀の裁きにより、後見の兵部と家族は所領没収の後、土佐高知藩にお預け、甲斐は「伊達騒動の首謀者」の汚名を着せられ、三人の息子は切腹、二人の嫡孫は死罪となり家名断絶となります。こうして兵部が逐われて、伊達家の禍根が絶たれます。十年余り続いた伊達騒動は幕を閉じます。

宇乃は、芝の良源院の方丈で住職の玄察と語らっています。外は雪です。宇乃は早くから、甲斐がなにごとかを為そうとしていたかを知っていました。
「おじさまは、はれがましいことや、際だつようなことはお嫌いだった」宇乃は玄察に云います。広縁に出ると伊達家の宿坊が並んでいます。昏くなり始めた庭のかなたをみます。

「雪はしだいに激しくなり、樅ノ木の枝々はいま雪を衣て凜と力強く昏れかかる光の中に独り静かにしんと立っていた」
「おじさま、、」宇乃はおもいこめて呼びかけます。すると樅ノ木がぼっとにじんでそこに甲斐の姿があらわれた、、、、、、

心に残る一冊 その122「樅ノ木は残った」 その九 甲斐と久世大和守

Last Updated on 2018年3月1日 by 成田滋

江戸幕府老中、久世大和守を甲斐は八十島主計という名前で訪ねます。ギヤマンに入った透明な赤い色合いの酒を差し出します。甲斐は自分が毒見をするといって一杯注いで飲みます。大和守は自分も飲んでみようかと云います。葡萄酒そのものはさして珍しくはいのですが、その酒のやわらかくこなれた甘みとこもったような香りとは、大和守の舌を陶酔させたようでした。
「この酒の味と香りは珍重だ、これをあじわいながら話を聞こう」
と大和守が云います。

「まずはご覧を願いたいものがございます」甲斐は懐から奉書に包んだ書状を取り出します。
「これはどいうものだ」
「まずは御披見を願います」
読み込んでいくうちに大和守の顔はゆっくりと硬ばってゆき、下唇がさがっていきます。その表情は激しい驚きと、怯えたような色があらわれます。

「この証文の主であるある一人は、おのれの職権を悪用して、人を扇動し無法にことを起こし、ついには公儀のご裁決をうけなければならぬ、という状態にまでたち至りました」
「証文は三十万石分与ということが目的ではなく、さる大名の家中を紛争におとしいれて公儀のご評定にかけ、仕置きが不取締まりというご裁決で、六十万石改易にもってゆくということなのです」

「待て、原田、待て、」と大和守が云います。
「さる候は三十万石分与という密約のあることを知って、忠告をなされた、もちろんその証文の他のお一人は、天下に並ぶものなきご威勢のある方です、しかし、、、、、いかにご威勢並ぶものなき方でも、六十万石を分割し、ご自身の縁弁にあたる者に三十万石を分与する、などということができるものでしょうか」

大和守は唾をのみます。
「仙台六十万石の取り潰しが成功すれば、加賀、薩摩にも手を付けることができるでしょう」 甲斐はそこで叫ぶように囁きます。
「その証文は六十万石改易にかけられた罠です」
「私どもはこういう事態ならぬよう、忍耐のうえにも忍耐してまいりました」
「罪無くして罰せられる者、無法に刑殺される者、闇討ち、置毒、、、幾十人となく血を流し斃れていくさまを、ただ主家大切という一義のため、堪え忍んでまいったのです」

「しかしそのかいもなく、老中ご評定ということになりました」
「ご評定の裁決によっては、一門一家あわせて八千余に及ぶ人数が郷土を追われ家を失い、生きる方途を迷わなければなりません」
甲斐は殆ど眠たそうな眼つきで大和守を見つめます。