心に残る一冊 その121「樅ノ木は残った」 その八 取潰しの全体像

Last Updated on 2018年2月28日 by 成田滋

原田甲斐は常着のまま、袴もはかず、編み笠をかぶった姿で長徳寺の門前で茂庭主水と逢います。主水は伊達家重臣で松山の館主、周防定元の子です。定元は甲斐や安芸と共に伊達兵部の陰謀を防ぐために奔走してきたのです。主水もまた単衣の着流しで、やはり編み笠をかぶり、片手に釣箱と餌箱をもっています。
「父は私に遺書をのこしました」と主水は云います。
「それで一度おめにかかりたいと思っていたのです」
「会えと書いてありましたか?」
主水はそこでちょっと口ごもります。
「あなたに悪評が立ち、不審と思えるようなことがあっても、あなたを信じておれ、そして、もしもあなたからなにか頼まれたら一命を賭してやれ、という意味でした」
「父の遺書はどういう意味なのでしょうか?」主水は訊きます。
「話しましょう」

「誰かおります」主水がそういって片方をさします。一人の老人がすっとたちあがります。
「誰だ、」と老人が呼びかけます。
「ここは無用の者がくるところでない、、」
視力は全く失っているようです。甲斐は近寄りながら、穏やかな声で云います。
「久方ぶりだな、十左衛門、わたしだ、」
「船岡どのか」その老人、里見十左衛門が云います。

十左衛門はかつての伊達家家臣です。兵部の専横が強まり、これを批判した奉行家老奥山大学を失脚させます。十左衛門は甲斐を通じて兵部に諫言したため、失脚させられます。伊東七十郎という重臣伊東新左衛門の義弟と友達でした。七十郎は文武両道の才人といわれ、伊達の家来ではありませんでしたが、義兄を助けて十左衛門と共に兵部に敵対してきた男です。

「松山の主水どのが一緒だ」
「ここで話したいことがあって案内を頼んだ、ちょうどいいおりりだ、十左衛門にも聞いてもらうこととしよう」
こうして、二人は甲斐から仙台藩取り潰しの全体像を教えられるのです。
「わたしにはそのまま信じられません」十左衛門が云います。
「ことに仙台藩という由緒ある大藩に幕府が手をつける、などということがあるでしょうか」

十左衛門が納得しかねるのもむりではない、だが、事の起こりから考えてみれればわかる」
「まず綱宗さまにたいする殆ど無根拠な譴責と、跡目をきめるについての難題だ」
「そして同時に、二方面に手がうたれた、一つは酒井候が一ノ関の兵部に与えた三十万石分与の密約であり、もう一つは幕府閣老の某候が、茂庭周防を呼んでひそかにその密約を告げてきたことだ」
「よもや風聞ではごあいますまいな」
「酒井候と一ノ関とで交わした証文があり、仔細あってその一通を私が持っている」
「紛れのないものですか?」
「紛れのないものでだ」甲斐が答えます。
「幕府閣老の某候がひそかに周防を呼んで、そういう密約があることを告げたのだ」
「某候とは誰びとです?」
「名は云えない」
「名は云えないが、将軍家お側衆で、当代十善人のひとりと評された人だ」
十左衛門は俯向くのですが、すぐに「久世大和守、、、」と口の中で呟き顔をあげます。

心に残る一冊 その120 「樅ノ木は残った」 その七 「くびじろ」(2)

Last Updated on 2018年2月27日 by 成田滋

「くびじろ」を追いながら甲斐はまず弓を取って弦を張ります。それから音のしないように、手早く食糧を片づけて寝袋に入れ、それをかたく背負いながら、いま鳴き声のしたほうをうかがいます。やはりなにも見えず、なにも聞こえません。
「しかし紛れはない」

甲斐はそう呟いて、雪帽子をかぶり、藪の蔭から、そっと伸び上がってくびじろの通路にあたる山つきの低地を見やります。くびじろは阿武隈川を渡ると、正覚寺山から甚次郎山へぬけるか、谷地をまわってやまにはいり、丘陵へ向かうかのどちらかの通路を通るのがいつもの例でした。こんどは谷地を川上のほうへいったというので、いま甲斐の見張っている場所なら決して見失う心配はありません。

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甲斐は雪払いの動作を止めて息を呑みます。視野の端になにか動くものの姿を認めたからです。二段ばかり先の枯れ木林の中からすっと一頭の鹿がでてきます。粉雪のとばりのかなたにそれはなんの物音もさせず、幻のようにあらわれ、そこでじっと立ち停っています。くびじろだ、、、、、

鹿がこっちへ動き出したのです。甲斐は弓を持ち直し矢をつがえます。風は北から吹いています。くじびろは風上からこっちへきます。用心深くときどき鼻を上に上げ、周囲をうかがいながら、静かにこっちへ近づいてきます。距離は三十尺、甲斐が立ち上がったとき、くびじろもぴたりと足を止めます。甲斐は弦をひきしぼり、矢の幹がききと爽やかにきしみ、弦はいっぱいにしぼられます。その瞬間くびじろが頭を右に振り、甲斐は矢を射放します。矢はくびじろの肩に当たります。くびじろはするどく叫び、頭を振り躍り上がります。

くびじろは逃げ去ることなく、甲斐のほうに跳躍しながら雪しぶきをあげなが甲斐に跳びかかってきます。甲斐はすぐはね起き、弓を拾い矢をぬいて弓につがえながら向こうを見ます。距離は約四間。呼吸が合って、まさに矢を射放そうとしたとき、弓弦が音をたてて切断してしまいます。くびじろは甲斐に突きかかり、その角で甲斐の軀をはねとばします。甲斐の軀はおおきく跳ね上がれ、雪を被った笹の斜面へ投げ出されます。

甲斐はじぶんの肋骨の折れる音をきき、二間あまり斜面を転げ落ちるとすくに腰の山刀を抜きます。くびじろは斜面を駆け下りてきました。甲斐は立とうとしますが、激痛のためにうめき声をあげ、雪の中に横倒しになります。斜面を駆け下りてくるくびじろのみごとな大角をみながら、甲斐は左の肱で半身を支え右手の山刀の切尖をあげます。視界が一瞬ぼうとかすみます。くびじろは大角をさげ、後肢で雪を蹴たてながらとびかったきます。

心に残る一冊 その119「樅ノ木は残った」 その六 「くびじろ」(1)

Last Updated on 2024年12月31日 by 成田滋

「樅ノ木は残った」の主人公、原田甲斐は人間関係の煩わしさを避け、人との距離を上手に置こうとしていたことが伺えます。黙っていると四十五、六に見える歳です。あまりものを云わず、話をするときも饒舌ではありません。稀にしか笑わないところもあります。花を愛で、自然を愛し孤独な時を大事にする性格としても描かれています。例えば、村の娘とともに山小屋にこもって鹿やいのししを狙い続けたり、小さいとき川で釣りをしていたとき大きな鯉に引っ張られておぼれ死にするような一面がありました。その時が最も自由で人間らしく幸せだったかのようです。

「くびじろ」とは地元の人々がつけてい大きな鹿の呼び名のことです。猟小屋に籠もっていたときです。弓や矢の手入れをしているととき、粉雪といっしょに三人の娘が入ってきます。三人はそれぞれ手籠や角樽、重箱の包みを並べます。会話とともに小屋の中での小さな宴を始めます。そうしているうちに、娘たちのなかで鹿の話になり、娘の一人、きよきが云います。
「くびじろをみつけただべが、」
「くびじろだって、、」甲斐が顔をあげます。
「おら、滝沢の瀬で見たです」

そのとき、この小屋の表で人の声がして、外から引き戸があけられます。粉雪が舞い込み片倉隼人と与五兵衛という甲斐の家臣が入ってきます。
「若い牝鹿がさきに渡り、あとからくびじろが、それを追って渡ったです」
「西からか東からか?」
「東からこっちへです」

与五兵衛は云います。「殿様、くびじろはなりませんぞ」
「おれにかまうな!」甲斐が云います。
「くびじろはだめです、」と与五兵衛は繰り返します。
「あれは十五歳にもなる豪のもので、これまで大猪を二頭殺し、熊を一頭傷つけ、どんなに老練な猟師でもあれにだけは手を出しません」とい云います。
「くびじろは谷地へはいったか」
「谷地を川上のほうへいったようです」きよきは云います。

会話が終わると三人の娘は帰り支度をします。甲斐は夜の明けるまえに細谷という部落の山の中で横になります。甲斐は藪蔭を選んで斜面のほうを頭にし、寝袋のなかにすっぽりと軀をいれ、食料の包みを枕にしてじっと眼をつむっています。

甲斐は心の中で呟きます。けものを狩り、樹を伐り、雪に埋もれた山の中で、寝袋にもぐって眠り、一人でこういう食事をする、そして欲しくなれば、ふじとやなおこをこのようなむすめたちを掠って馬草のなかで思うままにねる、それがおれの望みだ、四千石の館も要らない、伊達藩の家格も要らない、自分には弓と手斧と三刀と、寝袋があれば充分だ、それがいちばんおれに似合っている、と呟くのです。

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心に残る一冊 その118 「樅ノ木は残った」 その五  毒殺計画と分割

Last Updated on 2018年2月24日 by 成田滋

大老酒井雅楽頭と組んで仙台藩分割を目論む伊達兵部宗勝は、仙台藩四代目藩主幼君の亀千代の毒殺を図るが失敗します。かつて甲斐の家臣であった塩沢丹三郎が亀千代の「鬼役」といわれる毒見役を買って出て毒にあたり殉死します。

事件のあった夜、兵部の江戸屋敷に駆けつけた甲斐は告げます。「きょう、亀千代ぎみのところで食中毒があったと聞き及びました」すると兵部は我が耳を疑いながらこう云います。
「今なんと申した、食中毒と申したか?」

亀千代毒殺計画は主君亡き後の仙台藩を乗っ取ろうとする兵部の仕組んだ陰謀でした。既に口封じも兼ね毒をもった医者を切腹に処した後だけに、このような思いもよらぬ甲斐の言葉を聞き、この男は信用に価する男だと思ったのです。もちろんこれも甲斐の芝居で、自分は兵部の味方であると思わせるゆえの策略でした。

実は甲斐は酒井雅楽頭邸に間者を送り込もうとします。中黒達弥です。甲斐はあることで切腹しようとしていた家臣の達弥にこう云います。
「人間死ぬのは簡単だ。生きることのほうがずっと大変だ」
「…」
「そちの命を私にくれぬか?」
主君のこの問いに達弥は武士らしく一言「承知しました」とだけ答えます。

酒井雅樂頭と伊達兵部が取り交わした仙台藩分割の証文を奪取すると言うのは極めて危険な仕事でありました。その証文さえあれば伊達騒動の内幕を総て白日に晒す事ができます。達弥は原田甲斐の命令で、名を中黒達弥から黒田玄四郎に変えて酒井雅樂頭の家臣となり酒井邸で勤務することになります。雅樂頭の家臣になったとはいえ、邸内の隅から隅まで歩き回れる自由はありませんでした。

幸い、滝尾という奥女中が雅樂頭と兵部が取り交わした証文が存在する事を教えてくれるのです。玄四郎は滝尾を使って雅楽頭と兵部の密約書、すなわち仙台藩内紛不祥事を理由に伊達六十二万石を召し上げ、兵部に半分の三十万石を与えるとの書状を盗み出すことに成功します。書状の内容は明らかに雅楽頭と兵部の著名が確認できるものでした。滝尾は玄四郎を私かに心を寄せていました。これで流れが甲斐の側に優位に傾くことになります。

老中の久世大和守と大老の酒井雅楽頭が密談します。この密談の前に久世大和守の屋敷を訪ねた甲斐はこの密約書を久世候に見せ、雅樂頭と兵部の企みを暴いていました。格上の大老に「このような私利が絡んだ場合、そこもとの大義が立たなくなる」と久世大和守は雅樂頭に詰め寄ります。その厳しい表情には、例え誰だろうが筋の通らないことはまかりならぬという不動の信念と毅然たる態度があらわれていました。

心に残る一冊 その117 「樅ノ木は残った」 その四  宇乃と甲斐

Last Updated on 2018年2月23日 by 成田滋

「樅ノ木は残った」には二人の特徴的な女性が登場します。一人は「おくみ」であり、もう一人は「宇乃」です。伊達家の家臣の一人、畑与右衛門の娘が宇乃です。与右衛門は汚名を着せられて上意討ちとなります。宇乃は、かつては甲斐の母であった慶月院の側に仕えました。甲斐は宇乃の後見人のようになり、成長を見守っています。「おじさま」と呼びながら甲斐に心を通いあわせています。

甲斐の屋敷は東新橋の芝口などにあります。上屋敷とか浜屋敷とよばれていたようです。藩主や家臣が住み政務をとるところです。愛宕下付近にあったのが中屋敷で藩主の妻や嫡子らが住むところです。下屋敷とか蔵屋敷もあったようです。妻の律は国許である宮城は柴田の船岡にいますが、甲斐とは不仲になっています。後に離縁されます。

甲斐と宇乃が樅ノ木について語ります。
「私はあの木が好きだ」
「船岡にはあの木がたくさんある」
「樅だけで林になっている処もある」
「静かなしんとした、なにもものを云わない木だ」
「木がものを云いますの?」 宇乃が訊ねます。
「宇乃はしらないのか」
「木はものを云うさ、木でも石でも、、みんな古くなるとものを云う」
「いまに宇乃が船岡へいったら木がどんなにものを云うか、わたしが教えてあげよう」

中屋敷では麻疹で苦しむ息子虎之助が寝ています。二人はしばし昔話などをしています。甲斐は障子をあけて廊下にでます。そこに宇乃が佇んでいます。両袖を胸に重ねて身動きもせず、雪の舞しきる庭のひとところをみています。
「なにを見ている」
「ああの樅ノ木に雪が積もっています」
「わたしは明日、船岡に帰る」

すると宇乃が彼のほうへくるりとむきなおり、大きく見開いた眼でまっすぐに彼を見上げます。その眼は見開いたままで、たちまち涙でいっぱいになりります。
「おじさま、、」宇乃はそう云って衝動的に両手で甲斐を抱きしめるのです。

心に残る一冊 その116 「樅ノ木は残った」 その三  おくみと甲斐

Last Updated on 2018年2月22日 by 成田滋

甲斐の江戸の別宅は上野の近くの湯島にありました。江戸の海産問屋である雁屋信助が原田家の回米を受け持つこととなり、信助は日本橋の石町の家に甲斐を招待します。米の回送で雁屋は繁昌します。そのとき給仕をしたのが信助の妹おくみです。一目で甲斐にひきつけられ、信助はまた妹が甲斐に気に入られたと思い込みます。信助は甲斐に心服していました。

「保養のために控え家を持ってはどうか」と信助は甲斐にすすめ、自分の費用で湯島の家を手に入れます。そして「お側の用をさせてくださるよう」と云っておくみをつけたのです。

この別宅を大老酒井雅楽頭が訪れたときです。甲斐はこの時身分を偽り浪人の身であると雅楽頭に告げるのですが、この嘘は見え見えでした。雅楽頭は八十島なる人物が原田甲斐であるのを見抜いていたのです。しかしあくまでも甲斐は偽名を使い「それがしは浪人八十島で御座います」と述べるのみでした。
この時、甲斐は時の最大権力者酒井から直につかわされた盃を受けようとしません。
「ここはそれがしの屋敷です。例えどなた様のお勧めでも盃はお受けできません」

甲斐のこの振る舞いは、酒井や兵部一味に取りこまれることを避けたうえでのものでした。甲斐のこの言葉に雅楽頭の顔がぱっと赤くなります。この場で無礼討ちにしても不思議ではありません。その時、二人の間に酌をしていたおくみが割って入ります。
「その盃、わたしがお受け致します」

おくみの器量の良さと良妻ぶりのような仕草に、さすがの雅楽頭もかろうじて冷静さを取り戻すのです。そして云います。
「そちたちはいい夫婦だ」

雅楽頭が帰ると、甲斐とおくみは次のような会話を交わします。
「どうしてあんなに強情をお張りになさいましたの」
「強情だって、、」
「お盃ですわ、どうしてあの盃をお受けにならなかったのですか、」
「候は怒りはしない」
「あたしあの盃をお投げになるかと思いました」
「えらいな」
「ですからあたしいそいで頂戴したんですわ」
「いい呼吸であった」

甲斐は頷いて、おかげで酒井候は命びろいをしたよ、と云います。
「どういうわけですの?」
「舎人と丹三郎がいるのを忘れたのか」
「わたしが辱められれば二人は黙っていない、必ず候に斬りかかる」
「もっとも、わたしはそれを待ってはいないがね」

甲斐は頭巾をかぶり立ち上がります。おくみはにわかに別れが惜しくなり、袖や袴の裾などを直しながら、また逢うことの約束をせがむのです。

心に残る一冊 その115 「樅ノ木は残った」 その二 伊達家分断の密約

Last Updated on 2018年2月21日 by 成田滋

やがて原田甲斐は、伊達兵部宗勝の推挙で国家老につきます。陸前にある金鉱山が、藩内の権力を欲しいままにする兵部宗勝に加えられます。その領分の中に伊達家の金山も含まれていました。その鉱山から産する金は兵部に属するか伊達本藩に属するかという問題が生じます。甲斐は、「その所領にあるものは領主に帰属する」と兵部に有利な評定をします。

甲斐の判断は安芸宗重、柴田外記といった伊達家重臣には不利なものでした。彼がこうした裁定を下したのは、藩内の紛争を表立てしたくないという意図がありました。もし係争が幕府に持ち込まれれば内政紊乱の口実により、伊達家の存立を危うきものとすると考えたのです。周りには甲斐の態度は煮え切らないもどかしい人物に映り、不満や疑心が高まり側近は去っていきます。甲斐は四面楚歌のような状態に置かれていきます。

甲斐はやがて、幕府の大藩お取り潰しという基本政策があることを知ります。手始めに伊達藩が目をつけら、しかも御家内のゴタゴタと見せかけての謀略であることを察知します。それゆえ、家中のいかなる紛争も幕府に提訴させることはあってはならないと考えます。甲斐は外様大名であった加賀藩や薩摩藩との連衡の可能性を探るのですが首尾良く運びません。

伊達兵部宗勝が藩体制を良からぬ方向に持っていこうとしているのを知り、甲斐は兵部の懐に潜り込んで兵部派になりすまし、取潰しの計画を食い止めようと考えます。甲斐はたまたま兵部と彼の両方に情報を売り込みにくる野心家の浪人柿崎六郎兵衛より、幕府老中酒井雅楽頭忠清と兵部との間に交わされた六十万石分断の密約証文があることをききます。柿崎六郎兵衛は兵部から金銭をもらい道場を開いていました。

伊達家の家臣、里見十左衛門が兵部弾劾九カ条をあげて国老を詰問するという事態も起こります。しかし、兵部暗殺計画ということが密告され、同家臣の伊東七十郎とともに捕縛され刑死します。甲斐の意向をうけ、原田家を出奔して雅楽頭邸に勤めていた家従の中黒達也が、雅楽頭と兵部が密契していた三十万石分与の証文を得ます。

伊達安芸宗重と伊達式部宗倫との間で領地の境界で紛争がおこります。安芸重は、「式部の領地侵入は「堪忍なり難く」と幕府に訴える所存であるから、老中評定の場で酒井と兵部の密約証文をつきつけて欲しい」との書状を甲斐に書きます。甲斐は安芸をなだめますが、安芸は決死の覚悟で供を揃えて出府します。甲斐は、伊達家分断の密約が取り交わされたことを家老首席の茂庭周防に洩らします。甲斐はさらに将軍側衆の久世大和守を訪ね、密約証文を見せて伊達藩の安堵を頼むのです。

心に残る一冊 その114 「樅ノ木は残った」 その一 原田甲斐

Last Updated on 2018年2月20日 by 成田滋

山本周五郎の傑作といわれる「樅ノ木は残った」のつかみ所などを、僭越とは承知で私なりに数回にわたって解説させていただきます。六十万石という大大名で外様藩である仙台藩、別名伊達藩が江戸幕府のお取り潰しの策謀とで、生き残りをかける歴史小説といってもよい内容です。

原田甲斐は、仙台藩家臣で宮城県柴田郡柴田町の館主四千二百石でした。国老に就任できる筋目の家柄で四十二歳にてようやく評定役の一員にすぎませんでした。甲斐は、原田家の当主として伊達藩家臣団に組み込まれていますが、権勢を求めず、奥羽山脈に抱かれた船岡の居館において「朝餉の会」という気の合う仲間との懇談を楽しみとし、穏やかな日々を過ごしていました。舘において保護をしている宇乃は、甲斐の母親であった慶月院の側に仕えます。慶月院はかつては甲斐を厳しく育て女丈夫といわれました。

万治三年というと1660年です。仙台藩第三代藩主である伊達綱宗は、幕府より与えられていた浜屋敷にいました。現在の港区東新橋のあたりです。綱宗は幕府からかねがね不作法の儀不届との理由で、突然閉塞蟄居を命じられます。江戸の吉原での放蕩三昧が理由とされますが、非難されるほどの遊興の覚えではなく、藩内の権力争いによるでっち上げでありました。

国家老首席の茂庭周防は幕府に対して、綱宗の長子亀千代を世継にと願いでます。そしてようやく、僅か二歳の亀千代が藩主となります。幼君の後見役として一門の大名で、伊達政宗の末子であった伊達兵部宗勝が任命されます。その夜、坂本八郎左右衛門、渡辺九郎左右衛門、畑与右衛門、宮本又吉のもとへ訪問客があり、上意討ちとの名で誅殺されます。吉原に同行したという畑与右衛門らの口封じのためです。ところが、伊達当主は不在であって、上意討ちを命じるものはいなかったのです。これを幕裏で指示したのは、兵部宗勝でありました。畑与右衛門の妻も暗殺されますが、かろうじて逃げ延びたのは娘の宇乃でした。

甲斐は庭にある樅の巨木の孤高を語ります。「私はこの木が好きだ。この木は何も語らない。だから私はこの木が好きだ」。宇乃は甲斐が、樅ノ木に己の生き様を重ね合わせているように思えます。

上意討ちという暗殺事件で開かれた評定役会議で、予告なしに出席した兵部は、暗殺者たちを不問にすべきと強引に弁護します。世間では、この一件の裏に大名家の取り潰しや弱体化を画策する幕府の思惑が働いていると噂が流れます。

事態は紛糾していきます。国家老の一人、奥山大学が首席の茂庭に代わろうとする策動、新たに兵部に加えられた領分に陸前の金山があり、産金は兵部に属するか、伊達本藩に所属するかの紛争もでてきます。さらに兵部に亀千代毒殺の謀略があるとも噂されます。

心に残る一冊 その113 「小説日本婦道記」 その十一 「二十三年」(2)

Last Updated on 2018年2月19日 by 成田滋

怪我で運ばれてきたおかやを治療した医者は云います。
「崖から落ちたときに頭をうったのが原因でござろう」
「口が利けなくなったのもそのためで、悪くするとこれは生涯治らぬかもしれん」

医者が去るとまもなくおかやは起き出します。そしてしきりに靭負の息子の牧二郎を背負いたがるのです。四国松山に発つための支度のできている荷物を持ち出して「ああ、、ああ、、」と外を指さします。すぐに旅立っていこうという仕草です。思いがけない奇禍で白痴になってさえ、松山へ供をしてゆく積もりです。

  「おかや、、」靭負は側に立って呼びかけます。
「、、、いっしょに松山へ行こう、おまえにはずいぶん苦労をかけるが、松山へ行って治ったら新沼から嫁に遣ろう」
「もし治らなかったら一生新沼の人間になれ、わかるか?」
おかやはけらけらと笑います。

おかやの兄、多助は云います。
「ただ、こんなお役に立たぬ者になり、また遠国のことでなにかあってもお伺いすることができません」
「どうか呉々も宜しくお頼みします」

松山への旅の途中、おかやは考えたより足手まといにはなりません。却って役に立つのです。口が利けないのと、物事の理解が遅鈍なだけです。靭負の身の回りや牧二郎の世話には欠けるところがありません。「もしおかやを伴れてこなかったら、、、」靭負はしばしばそう思うのです。

松山に着きます。然し伊世松山藩、蒲生家の老職からは、予想外の冷ややかなあしらいを受け仕官の道が絶たれます。靭負は道後村に居を定め収入の途として、道後名物の土焼きの人形づくりを始めます。それからひどい暮らしが何年も続きます。

蒲生氏のあとに隠岐守松平定行が松山に封ぜられてきます。彼は靭負が会津蒲生の旧臣であり、松山にきた目的など仔細に知っていました。そして松平家に仕官する気がないかを尋ねてきます。食録も会津の旧扶持だけは約束するというものです。靭負は仕官を決意します。牧二郎は十六歳になり学問や武芸に励み二十歳で召し出されて父とは別に百石の役料をもらいます。

やがて靭負は五十三歳で亡くなり、牧二郎が跡目を継ぎます。そして菅原いねという娘を娶ります。祝言の夜、四十三歳となったおかやを呼んで対座します。
「おかや、牧二郎もこれで一人前になった、今日まで二十三年、新沼家のためにおまえの尽くして呉れたことは大きい、、」
「明日からは妻がお前に代わる」
「おまえは牧二郎にとって母以上の者だ、」
「妻のいねにも、お前を姑と思って仕えるように云ってある」
「明日からおまえは新沼家の隠居であるぞ、、、」

牧二郎はじっとおかやの眼を見つめます。そして云うのです。
「だから、おかや、おれはお前に白痴の真似をやめて貰いたいのだ、」
おかやは顔色を変えます。
「おまえは白痴でも唖者でもない、おれはそれを知っているんだ、、」
牧二郎は激してくる感情を抑えながら云います。おかやは驚愕の余り身を震わせて大きく眼を見張り、坐りなおしてうつ伏します。

心に残る一冊 その112 「小説日本婦道記」 その十 「二十三年」(1)

Last Updated on 2018年2月17日 by 成田滋

小説日本婦道記にある最後の作品「二十三年」は1945年10月の「婦人倶楽部」に掲載された作品といわれます。この雑誌は講談社から創刊され、「主婦の友」や「婦人公論」と並んで読まれたといわれた月刊誌です。

主人公は、新沼靭負という会津蒲生家の武士です。”靭負”は”ゆきえ”と呼ばれます。靭負は御蔵奉行に属し、食録は二百石余りでした。まじめで謹直なところが上からも下からも買われて、平凡ながら極めて安穏な暮らしをしてきます。しかし、主家の改易があり、下野守忠郷が病没すると嗣子がないことが原因で会津蒲生家は改易となります。多くの者は寄る辺を頼り、また他家へ仕官して、思い思いに城下から離散していきます。1611年に起こった会津地震も藩内を大きく揺さぶります。

   下野守の弟にあたる蒲生忠知が伊予の国松山藩で、二十万石で蒲生の家系をたてているというので、会津藩の人々は松山藩に召し抱えられたいと希望します。靭負もその中の一人です。靭負は妻のみぎを亡くし乳飲み子を抱えています。貯えも多くはないので、家士や召使いには皆暇を遣りますが、「おかや」という婢は独りどうしても出て行きません。おかやには両親はいませんが、兄の多助はおかやに度々、良縁があるからお暇を頂くようにと云ってきます。おかやはまだ早すぎると答えるばかりです。

仲間が欠けていくのを見送りながら靭負は独りで松山に行くことに決めます。
「松山にお供させて頂きます」 とおかやは云います。

仕官の見通しもなく、浪人の身で給金さえ遣りかねるときがくるといって靭負はおかやへ家へ帰るように云います。
「ではせめて坊さまが立ち歩きをなさるようになるまで、、、」
靭負は多助に家に戻るよう申し訓えてくれるように頼みます。多助の訓が功を奏したのか、おかやは案外すなおに云うことをききます。靭負は牧二郎を抱いておかやと多助が出て行くのを見届けます。しかし、おかやは八幡様の崖の下で倒れているのが見つかり、戸板に乗せられて靭負の家に運び込まれます。医者は「脳の傷みがひどく、ひと口でいえば白痴のようになっている」と云います。

心に残る一冊 その111 「小説日本婦道記」 その九 「尾花川」

Last Updated on 2024年12月31日 by 成田滋

膳所藩は近江国大津周辺にあった藩で彦根藩に次ぐ譜代藩です。関ヶ原の戦のあと、幕府が全国の諸大名に命令し行わせた土木工事が天下普請。膳所城はその第一号と云われます。京都の東の守りを固める目的で築かれたようです。藩主家は本多家です。藩政安定化のため、漁民を保護してしじみの豊漁を奨励したことで知られていました。

幕末期、頻繁に異国船が渡来し各地で尊王攘夷の声があがっていた頃です。膳所藩も攘夷派と佐幕派が対立しています。河瀬太宰は尊王攘夷の波の中にいます。やがて佐幕派が藩内で力を盛り返します。あるとき、将軍家茂が膳所城に宿泊することになっていたのですが、藩内に不穏な動きがあるというので、宿泊は取りやめとなります。藩は恥をかくのです。そのため藩は尊攘派の藩士を検挙します。

河瀬宅は琵琶湖から離れ近くに尾花川が流れ、屋敷も広く幕吏の追捕を逃れる者にはいい隠れ場所でした。尊攘派の同志は河瀬の家に、我が家のようにやってきて静かな一時をすごしたり、志を語りあいます。幸子は客人を温かく迎え酒食も費用をいとわず気を配ります。客人をして「百日の労苦が一夜で癒される」と云わしめたくらいです。

太宰の妻幸子はゆったりした体つき、口数は少ないのですが、はきはきとしたなかに温かい包容力をもった婦人です。年齢からも気性からも老臣の五男に育った太宰には姉という感じで、一種の圧迫感を受けるばかりでした。太宰は膳所藩の家臣です。

やがて幸子のもてなし方がよそよそしくなります。安い鮒を買い、酒はもうないといって食事をだしたりして、吝嗇にちかいもてなしなのです。太宰がそのことを尋ねると幸子は云います。この家へ立ち寄りくださるときくらいは、身にかなうおもてなしをして、せめて一屋なりとも心からご慰労もうしたい、そう考えて至らぬながら酒肴の吟味もしてきた、しかし、この世情不安の中で、いまは禁裏でさえ食べるものに難儀しているという、事に身を捧げる志士の日夜のご辛労はどれほどか、それなのに酒肴を吟味するなど許し難い行為だ、と云うのです。

幸子は太宰に云います。「ひともわれもできるだけ費えをきりつめ、あらゆるものを捧げて王政復古の大業のお役にたてなければなりません。」

太宰は妻の言葉を聞いておのれの迂闊さを恥じ入り、決意します。どんな人間よりも謙虚に、起居をつつしみ困苦欠乏とたたかって大業完遂の捨石とならなければと、、、

成田滋のアバター

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心に残る一冊 その110 「小説日本婦道記」 その八 「風鈴」

Last Updated on 2018年2月15日 by 成田滋

主人公、弥生の良人は扶持が十五石の加内三右衛門です。息子は与一郎といって毎日剣術の稽古に励んでいます。弥生の両親は他界しましたが、妹が二人います。小松は百樹家という二百五十石の寄合いの妻に、津留は三百石の家に嫁いでいます。

二人は時々姉のところに遊びにやってきます。ひさしに古雅な青銅の風鈴をみて、この家には色彩がない、調度品もみなくすんでいるなどと指摘します。しきりに姉に対して、もっと華やかで豊かな暮らしをするように云いいながら風鈴を箪笥の引き出しにしまうのです。
「お姉様はこんなにして、一生を終わってよいのでしょうか」
「いつまでも果てしのない縫い張りやお炊事や煩わしい家事に追われ通して、これで生き甲斐があるのでしょうか」
「そしてお姉様は、やがて小さなおばあさまになっておしまいになさるのね」

三右衛門は火鉢に手をかざしながら、一冊の写本をひらいてみます。妙法寺記というものです。そこに勘定奉行の岡田庄兵衛という老人が訪ねてくきます。そして三右衛門に奉行所へ替わるよう推挙したいと云います。ところが、三右衛門は現在のお役に馴れてもいるし、自分の性に合っていると云いいます。
「はじめ御書庫の中で分類朝年代記というものを拝見しておりました」
「飢饉の条のあまりに多いことから思い切って詳しい年表を作ってみようと思いました」

庄兵衛が三右衛門に訊きます。
「然し、そこもとの多忙なからだで、どうしてこんなむつかしいことを始める気になったのだ?」 
三右衛門は答えます。
このように年次表に書き上げますと飢饉のくる年におよそ周期があるのです」
「凶作があって一年めに飢饉の続くことがもっとも多く、次に五年、ないし六年目にくる例が非常に多い、この年次表が完成して周期の波がはっきりわかるとすれば、藩の農政のうえにかなり役立つと思うのですが、」
「たしかに、、」 庄兵衛は大きく頷きます。
「そうすれば冷寒風水による原因もわかって耕作法のくふうもあろうし、荒凶に対する予備もできるだろう、」

ですが、庄兵衛は云います。
「勘定所つとめではさきも知れているし、殊にそこもとの仕事は気ぼねばかりが折れて酬われることが少ない、まったくの縁の下の力持ちで、わしも役替えするほうがよいと思うがな、、」

「役所の事務というものは、どこに限らずたやすく練達できるものではございません、勘定所の、ことに御上納係は、その年々の年貢割をきめる重要な役目で、常づね農民と親しく接し、その郷、その村のじっさいの事情をよく知っていなければならぬ、これには年数と経験が絶対に必要です、単に豊凶をみわけるだけでもわたしは八年かかりました、そして現在ではわたしを措いてほかにこの役目を任すことのできる者はおりません、」
「、、、、それとも誰かわ私に代わるべき人物がございましょうか」
「正直にもうして代わるべき者はない」 庄兵衛はそう呟きます。

三右衛門はこう続けます。
その人たちには、私が栄えない役を務め、いつまでも貧寒でいることが気の毒にみえるのです、なるほど人間は豊に住み、暖かく着、美味をたべて暮らすほうがよい、たしかにそのほうが貧窮であるより望ましいことです、」
「貧しい生活をしている者は、とかく富貴でさえあれば活きる甲斐があるように思いやすいのです」
「然しそれでは思うように出世をし、富貴と安穏が得られたら、それでなにか意義があり満足することでできるでしょうか」
「たいせつなのは身分の高下や貧富の差ではない、人間と生まれてきて、生きたことが、自分にとってむだではなかった、世の中のためにも少しは役だち、意義があった、そう自覚して死ぬことができるかどうかが問題だと思います」

隣で二人の会話を聞いていた弥生は身震いをします。
「そうだ、少なくとも良人や子どもにとってかけがえのない者にならなくては、、」
箪笥にしまっていた風鈴を弥生は思い出します。それを吊ると久しく聞かなかったチリンチリンという澄んだ音が響きわたります。

心に残る一冊 その109 「小説日本婦道記 その七 「不断草」

Last Updated on 2018年2月14日 by 成田滋

「もう少し気を働かせないといけませんね、」姑が云います。
姑は両眼が不自由です。勘が悪く、起きるから寝るまでいろいろと菊枝の介添えが必要でありました。それでも姑は息子、登野村三郎兵衛のことになるとまるで菊枝に同情がなくなります。三郎兵衛も菊枝に刺々しい言葉遣いとなります。菊枝は神経が昂ぶり、幾夜も寝られない日が続きます。

菊枝の父は仲沢庄大夫で上杉家の三十人頭です。半年後、仲人の蜂屋伊兵衛がきて離縁と決まります。そして荷をかたづけていると種子の袋を見つけます。「唐苣」、とうちぎ、またの名を不断草です。時なしに蒔き、いつでも柔らかい香気のある葉がとれます。姑にはなによりの好物でした。

上杉家の若き主君、弾正太弼治憲は非常に英名の質があり、家督を継ぐとかなり大胆な藩政の改革をします。その改革を心よからずと思う家臣がいて五十カ条にあまる訴状をもって治憲に迫るのです。治憲は果断なく機先を制し、訴状を退けます。訴状を出したもののなかに登野村におりました。そのため扶持を返上し退身します。母親は農家の預けられます。

菊枝は思うのです。良人が離縁を迫ったのは、この事件の結果を知っていてその累を菊枝に及ぼしたくなかったためかと。そして自分は登野村を出るべきではなかったと気がつくのです。

父、仲沢庄大夫の前にでた菊枝は云います。
「これから登野村の老母のもとへ行きたいのです」
「お前には、、」
「ならぬと申したらどうする、」
「わたしを義絶していただきます」
こうして菊枝は父から勘当されます。

村の名主、長沢市左右衛門に事情を包まず話し、老母のみとりをさせて貰いたいと頼みます。そして菊枝だということを内密にして欲しいとも云い添えます。市左右衛門は菊枝を連れて隠居所へ行きます。
「ようやくおまえさまのお世話をしてくれる者が見つかりました」
「わたしもこのとおり、眼の不自由なからだです」
「いろいろ面倒であろうが、よろしくお願いいたしますよ」
「もったいない仰せでございます、秋ともうします」
菊枝は気づかれないようにと、つぶやくような声でそう云います。

あくる朝、菊枝は隠居所の横にひらける畑の隅に唐苣の種子を蒔きます。やがて全部の種子が芽生え、小さな柔らかいあさみどりの双葉がびっしりと生えてきます。ある夜、菊枝は初めて唐苣を採って食膳にのぼらせてみます。
「これは唐苣ですね」
「、、、はい」
「お気に召しましてうれしゅうございます」

老母の許に一通の封書が届けられます。
「倅からきた文です」
倅とはかつての菊枝の良人です。文面は三郎兵衛の病臥の知らせです。菊枝は胸のふさがるおもいで姑に読み聞かせます。やがてしずかに盲いた面をあげて云います。
「おまえ、みとりにいってお呉れ」
「、、、、、、」
「おまえ、おどろいておいでのようだね」
「わたしおまえに気づかなかったとでも思っておいでだったの」
「でもね、わたしはね菊枝どの、わたしはここへ移るとすぐきっとあなたが来てお呉れだと思っていました」
「お姑上さま、」
「きっとお呉れだと、、、わたしはあなたのお気性を知っていましたからね」
菊枝は堪りかねて姑の膝へすがりつきます。

心に残る一冊 その108 小説日本婦道記 その六 「糸車」

Last Updated on 2018年2月14日 by 成田滋

主人公、お高の父は依田啓七郎という松代藩五石二人扶持です。二人扶持とは、1年間に二人分の生活費として米十俵の扶持米を貰える身分ということです。つつましい暮らしです。実直で温厚、しかし卒中で倒れ殆ど寝たり起きたりの生活をおくっています。十歳になる松之助という息子がいます。妻は松之助が三歳のとき亡くなります。

お高の実の父は西村金大夫で、松本藩の勘定方頭取をしていて五百五十石の身分です。実の母がお梶です。かつて西村家には子どもがたくさん生まれ、養育することにもこと欠くありさまでした。そのため松代藩の依田啓七郎にお高を遣ったのでした。その後、不思議なほど幸運に恵まれ西村金大夫は勘定方に出世したのです。

お高は依田家で木綿糸を紡いで生計のたしにしています。お高が織った糸束を会所に持って行くと係の老人が云います。
「わずかの間にたいそう上手になられたな、」
「そなたの糸は問屋でも評判になっているそうだ」
「ひとつには孝行の徳かもしれぬが、、」

夜、父の肩をもんでいると父は云います。
「おまえあした松本へゆくのでがな、」
「松本ではお梶どのがご病気だそうな、おまえさんに一目逢いたいから四五日のつもりで来てくれるよう、お使いの者がきたのだ」

お高が西村家に着くとお梶女が云います。
「依田どのからあなたにあてた手紙です」
こんど松本におまえを帰すにあたってはいろいろ考えた、西村からこれまでの養育料としてかなり多額のたいもつをくれる話があり、それだけあれば自分の田地を買って松之助と二人、安穏にくらしていける、おまえも西村のむすめとして仕合わせな生涯にはいれるだろう、という内容でした。

その手紙を読んで、お高は父から松本へゆけといわれた夜のことを思い浮かべます。お高に肩をもませながら、こちらに背を向けて自分の辛い顔をみせたくなかったのです。

実の母、お梶にお高は云います。
「思し召しはよくわかりました。ほんとうに有り難う存じますけれど、私はやはり松代へ帰らせていただきます」

「ただいま戻りました」
「どういうわけで帰った?」
「持たせてやった手紙は読まなかったのか、」
「拝見いたしました」
「おゆるしください、父上さま、」
「わかっておりますけれど、お高はいちどよそへ遣られた子でございます」
「乳ばなれをしたばかりで、母の懐からよそへ遣られたお高を父上さまは可哀そうと思ってはくださいませんか?」
「もし可哀そうだとお思いくださいましたら、ここでまたよそへ遣るようなことはなさらないでくださいまし」

「だが、西村はおまえにとって実の親だ、西村に戻ればおまえは仕合わせになれるのだ」
「いいえ、仕合わせとは親と子がそろってたとえ貧しくとも、一椀の粥を啜りあっても親と子が揃って暮らしていく、それがなによりの仕合わせです」
「お高にはあなたが真実のたった一人の父上です、亡くなった母上がお高にとってほんとうの母上です、この家のほかにわたしには家はございません」
「父上、」と叫びながら松之助が走り寄ってきます。表で二人の話を聞いていたのです。
「どうぞ姉上を家においてやってください!」

「西村どのには父から手紙を書く、もう松本には遣らぬからと」
松之助は姉の膝へとびつき、涙に濡れた頬をすりつけながら声をあげて泣き出すのです。

心に残る一冊 その107 「小説日本婦道記」 その五 「藪の蔭」

Last Updated on 2018年2月12日 by 成田滋

由紀は、八百石の大寄合という恵まれた家に生まれます。世の中の辛酸暮らしを知りません。安倍休之助との祝言の日、仲人に連れられて安倍家に向かいます。乗物をおりて六畳ほどの部屋に案内されます。新しく張り替えられた襖や障子に燭台の灯がうつっています。休之助は三百石のお納戸役で気性は温和なことで定評がありました。

急に外がざわざわとします。
「なにごとでございますか?」
「休之助がけがをして戻った、、」

大藪のところで倒れている休之助が見つけられたというのです。休之助の母が由紀に家に戻るように云います。
「わたしは家へはもどりませぬ」と由紀は凜として云います。
「おそれいりますがわたしに着替えをさせてくださいまし、常着になりたいと存じますから」
常着とはふだんぎのことです。

「でも由紀どの、それは、」
「いいえ、まだ盃こそいたしませんけれど、この家の門をはいりましたからは、わたしは安倍の嫁でございます」

休之助はござを敷いた夜具の上に仰臥しています。医者がきて傷の手当てをしますが、傷は脇腹で三十針も縫ったほどでした。すべての人が去って、はじめて二人だけになったとき、老母はそっと由紀の手をとって云います。
「ありがとうよ」
「ふつつか者でございます、どうぞいろいろお叱りくださいまして、、、」

七日になってお納戸頭が休之助の家にやってきてしばらく話ししています。その夜、休之助は床の中で由紀に、勘定方へ急ぎ八十両を届けるように指示します。由紀は晴れ着などを売り、実家にも頼んでなんとか八十両を集め納戸に届けるのです。瀬沼弥十郎という同僚がお納戸の金、百両を費消していたのです。それを休之助は知ってしまうのですが、黙っていたのです。そして弥十郎は休之助を襲うのです。

費消した金がお納戸に戻り、事件はうやむやになります。そしてあるとき瀬沼弥十郎が家に訪ねてきます。
「あのとき、大藪のほとりで闇討ちをしかけたのは、そこもとに自分の不始末をみつけられたからで、」
「そしてそこもとを斬り、そこもとに罪をなすりつけようとしたのだ」
「そこもとは拙者の不始末をひきうけて呉れた、あれだけのたいまいの金を黙って返済し、自分の名を汚した体面を捨てて罪を着てくれた」
「拙者はそこもとがよからぬ商人にとりいられて、米の売買に手をだしているらしいということを聞いていた」
「人間は弱いもので、欲望や誘惑にかちとおすことはむつかしい、誰にも失敗やあやまちはある、あのとき意見をしなかった拙者にも半分の責任があると思った」
「それが幾らかでもそこもとの立ち直るちからになって呉れればよいと思って、、、」
少しも驕ったところのないたんたんとした言葉です。

休之助は弥十郎を励ますのです。
「そこもとは立ち直った、奉行所に抜擢され江戸詰になったそうだが、しっかりやってくれ」

心に残る一冊 その106 「小説日本婦道記」 その四「箭竹」

Last Updated on 2018年2月11日 by 成田滋

「箭竹」とは矢に用いる竹のことと辞書にあります。「箭」とは矢のことです。

十九歳の家綱が弓を射ています。一本の矢が光の糸を張ったように飛び、心地良い音をたてて的に突き刺さります。その矢が気に入るのです。調べてみると弓矢には「大願」という小さな二文字が彫られています。家綱はこの矢の出所を調べるよう家臣に言い付けます。

将軍の射る矢は諸国の大名たちから献上され、精選されました。問題の矢は三河のくに岡崎藩の水野けんもつ忠善からの献納と判明します。水野けんもつの家臣に茅野面記という者がいました。面記は勤役中に刃傷沙汰があり切腹させられます。そのため妻みよと二歳の安之助は領内追放を申し渡されます。そして美濃の国、加納藩の実家に身を寄せます。やがて水野けんもつは国替えで岡崎藩へ加封されるとともに、みよも忘れ形見の安之助とともに主君の国替えについていきます。

岡崎は竹の産地。岡崎藩から献上される竹束は知られていました。竹を削って磨き箭べらにする仕事をみよはすすめられます。馴れてくるとみよばめきめきと腕をあげ、誰の作るのにも負けないような立派な箭を作る自信がついてきます。

安之助が十八歳になると母親に働きに出たいと懇願します。
「父上は不運なできごとのなめに、ご奉公なかばで世をお早めなさいました、侍にとってこれほど無念な、苦しいことはありません、どんなにおつらかったことか、、」
「ご生害のとき、父上が一番お考えになったのは、あなたのことです、あながた人にすぐれた武士になり、父のぶんまでご奉公をするようにそれだけお望になすったのです、、」
「よくわかりました母上、わたしは一心に修行いたします、そして千人にすぐれた武士になります」
「それをお忘れなさるな、道はまだ遠いのですよ」

みよは、母の愛情を込めて箭竹にきわめて小さく「大願」の二文字をつけることを思いつきます。もしかすれば、それがご主君のお手に触れるかも知れない、、どうぞこの二文字がとのさまのお眼にとまりますよう、そう祈りながら箭を作っていきます。

水野けんもつは「大願」を彫った箭がみよによって作られたことを知ります。女にもあれほどの者がいたのか、武士の妻として、良人の遺志をついで二十年、微塵もゆるがぬ一心をつらぬきとおした壮烈さは世に稀なものであると感じ入るのです。そして箭竹の顛末を記した書状を幕府に送ります。

安之助はほどなく召し出されて父の跡目を継ぎ茅野家を再興します。

 

心に残る一冊 その105 「小説日本婦道記」 その三 「梅咲きぬ」

Last Updated on 2018年2月9日 by 成田滋

加代と直輝という夫婦と姑の物語です。加代は歌作りに励んでいます。あるとき「寒夜の梅」という歌を作ります。直輝の母、かな女が数冊ある短冊を見ながら云います。
「みごとにお詠みなすったこと、本当に美しくみごとなお歌ですね」
「でももうお歌はこのくらいにして、またなにかほかの稽古ごとをおはじめなさるのですね、」

直輝は加代のようすがいつまでも沈んでみえるのに気がつきます。ある夜、そっと妻の部屋にいくと、加代は灯のかげで歌稿を裂き捨てています。
「どうしたのだ、、」
加代はだまって悲しげな眼をあげ、すがるように良人を見上げます。直輝はその眼をみて事情を了解します。
「母上が仰しゃったのか、、」
「、、、はい」
「加代は不束者でございますから、母上さまのお気に召すようには甲斐性もございませぬ、、、」
「体が弱いためお子をもうけることもできませぬし、、」
「もうおやめ、それ以上はわかっている」
直輝はやさしくさえぎります。

  母の気性がと云いかけたまま、ややしばらく黙っていた直輝はやがて妻を励ますように云います。
「ほかの事とはちがい、おまえの和歌の才だけはかくべつだ、、わたしからそれとなく母上にはなし申してみよう」
加代は良人の温かい気持ちを胸一杯にかんじながら、裂き残した歌稿をつつましく集めるのです。

明くる夜、直輝は隠居所をおとづれます。端ぎれを綴り縫いしている母はそれを仕上げているところです。なにがお出来になりましたときくと、加代にやる肩蒲団だと答えます。
「あの寝部屋は冷えますからね、それにあの人はあまりお丈夫ではないから、、、」
「それはさぞ珍重に存じましょう」

あくる朝、梅の蕾がおよそ四分がた、一斉に咲きだしています。かな女は加代を部屋に呼び入れます。
「今日はわたしの思いでばなしを聴いていただこうと思いましてね」
「はい、うかがわせて戴きます」
「自分の口からこう云っては、さぞさかしらに聞こえることでしょうけれど、わたしは茶の湯の稽古でたいそう才をみとめられました、お師匠さまからも折り紙をつけられるところまでいきました、そのときわたしは茶の湯をやめました」
「良人も惜しんでくれました、、、つぎに笛のお稽古を、笛のつぎには鼓を連歌や詩、絵などもお稽古を始めました、でもわたしはどれも奥底まではゆかず、九分どおりでやめてしまったのです」

「加代さん、わたしが芸事をつぎつぎに変えたのは移り気からだとお思いになりますか?」
「学問諸芸にはそれぞれ徳があり、ならいおぼえて心の糧とすれば人を高めます、けれどその道の奥をきわめようとするようになると「妻の心」に隙間ができます、妻が身命をうちこむのは、家をまもり良人に仕えることだけです」

「わたし、あやまっておりました」
「、、、加代さん」
「もう仰るな、年寄りのぐちがいくらかでもお役にたてばなによりです、そしてそこの覚悟さえついておいでなら、歌をおつづけなすっても結構なのですよ」

やがてかな女は加代に云います。
「こんなものを作りました」
端切れを継いでつくった肩蒲団をとってそっと嫁のまえに押しやります。
「あなたのお寝間は冷えますから、これを肩にかけておやすみなさい、」

その日、城から帰った直輝は妻の顔色が見違えるように冴え冴えとしているのにおどろきます。

心に残る一冊 その104 「小説日本婦道記」 その二「松の花」

Last Updated on 2018年2月8日 by 成田滋

主人公は佐野藤右衛門という紀州徳川家の年寄役と女達です。藤右衛門は千石の禄をもらっています。64歳となり老年をいたわる思し召しで藩譜編纂役となり、下から上がってくる素稿を点検する仕事で、以前のような煩雑な日常から解放されています。「松の花」とは烈女節婦の伝記や紀州家中、古今誉れの高き女性たちを収録したものです。これを手直しするのが藤右衛門の仕事です。

藤右衛門の妻、やす女は重態で伏せています。
「申し上げます、父上申し上げます」長子、格之助の声がします。
「病間へおいでください、母上のご様子が悪うございます」

  格之助と嫁のなみ女、次男の金三郎、婢頭のそよ、皆せきあげて泣いています。
「まことにお安らかな眠るようなご往生でございました」
脈をとっていた医者がそう云うのをききながら、藤右衛門はしずかに枕元に坐ります。そして妻の唇にまつごの水をとってやります。夜具のそばになみ女の手が少しこぼれ出ているのをみて、それを入れてやろうとそっと握ります。まだ温みがあるその手がひどく荒れてざらざらしているのに気がつきます。

半通夜がおわり、弔問客は帰って行きます。
「格之助と金三郎で伽をする、遠慮無くさがるように」と若侍や女達に云います。しばらくしても誦経の声が響きます。家氏のしもべの女房らが一夜の伽をしたいといって奥に座っているのです。亡き妻を実の親のように慕っていたのです。藤右衛門は自分の知らなかった妻の一面を知ります。

葬儀の後も、夜ごと夜ごと、彼の耳に母屋のほうで音をしのばせて誦経する人声がかすかに聞こえます。むせぶような念仏の声も伝わります。仕えていた女房たちです。その声は肺腑をしぼるようで、嘆きがこもっています。どうして妻はあれぼどの嘆きを彼らに与えるのか、彼らにとって妻はそれほど大きい存在だったのかと藤右衛門は校閲の筆を休めて、想いに耽ります。

格之助に、妻やすの形見を女房たちにわけるように命じます。女房頭のそよが箪笥をあけ引き出しからつぎつぎと衣類を取り出します。それはみな着古した木綿物です。洗い抜いて色がさめたもの、継ぎをあてたものばかりです。藤右衛門はなかばあきれて訊きます。
「そのほかもうないのか、まったくこれでお終いなのか、、」
「、、、はい、お納戸の長持にはまだお古着もありますが、継ぎはぎもならぬほどの品です」
「人の目に触れれば恥ずかしいゆえ、おりをみて焼き捨てよ、との仰せでござりました」

あまりに粗末な品々です。藤右衛門は呆然とした気持ちで格之助の顔を見ます。
「これではいかにも見苦しすぎると思うが、どうか、、」
「母上が身におつけになった品ですから、お遣わしになってよろしいかと存じます、わたしもなみに一枚頂戴いたします」

そよはすり寄って衣類を敷居ぎわに運び、平伏している女房達に云います。
「旦那様のおぼしめしで、亡き奥様のお形見わけをいたします、、」
「ここにあるのが、紀州さまご老職、千石のお家の奥様がお召しになったお品です、わたしたちには分にすぎたくだされものをあそばしながら、ご自分ではこのようなお品をお召しになっていたのです」
「、、この色のさめたお召し物をよく拝んでください、継ぎのあたったこのお小袖をよく拝んでください、」
そよの喉へ嗚咽がせき上げます。女房たちも声をころしてむせぶのです。

藤右衛門は格之助に云います。
「やすはどうしてあのような見苦しいものを身につけていたのだ、わしは少しも気がつかなかった、本当にあんなものしか持っていなかったのか?」
「母上はつましいことがお好きでございました」
「母上はいつかこのように仰せられていました、、、、武家の奥はどのようにつましくとも恥にはならぬが、身分相応のご奉公をするためには、常に千石千両の蓄えを欠かしてはならぬ、、」
「それをおまえに云ったのか?」
「いえ、なみを娶ったとき、あれにそうお諭しくださったのを隣の部屋で聞いたのです」

皮膚の荒れた手とつましい暮らしを知ったとき、これほどのことにどうして気がつかなかったのだろうかと、藤右衛門は妻のやす女に向かって呟きます。
「おまえは、わしに世にあらわれざる節婦がいかなるものかを教えてくれたぞ、、」
そして稿本の「松の花」を再び開きしずかに朱筆をとりあげます。

心に残る一冊 その103 「小説日本婦道記」 その一 直木賞の辞退

Last Updated on 2018年2月7日 by 成田滋

この小説は、松の花、箭竹、梅咲きぬ、不断草、藪の蔭、糸車、風鈴、尾花川、桃の井戸、墨丸、二十三年、という11の短編から成ります。そこに貫くテーマは男の「武士道」に対する女の「婦道」ともいうべきものです。自分らしく生き、自分以外の人々を仕合わせにすることを実践した11人の女性たちを描いた作品から成ります。妻の死をもって妻の偉大さを知る夫、夫への忠誠心を貫き、女手一つで息子を武士に育て上げる姿、夫の小言に苦しむ妻、鼓や和歌で豊かな才能を持ち縁談を断る女性など、個性的な生き様と矜持が伝わります。

この作品は、昭和十八年の直木賞にノミネートされます。しかし山本は賞を辞退します。直木賞の受賞歴で唯一彼だけが断るという異例の事態です。その後も持ち込まれる文学賞をすべて辞退するのも、ただ異をたてるのをよしとする「曲軒精神」だけではなく、作者にとって読者から与えられる以上の賞があろうとは思われぬ、という信念に発した所為だったといわれます。「曲軒」とはへそまがり。山本を「曲軒精神の持ち主」と呼んだのは先輩作家の尾崎士郎といわれます。

昭和十八年は敗戦が濃厚になる時期。誰もが耐乏生活を強いられた頃です。この小説は、山本の貧乏生活を支えた妻が難病になり、幼子を残して死に向かっている頃に書かれたようです。この小説は、世間の評価はおおむね日本女性の献身を描いたものだということのようです。山本はそうした評価に大いに不満だったといわれています。

直木賞をもらえば現金収入にもなりますが、そのような打算は許さなかった誇りが山本にあったようです。直木賞選考委員の資質にも山本は大いに不満があったようです。「そんな者達から評価を受けるのは真っ平ご免」。まさにへそまがりだったのでしょう。

心に残る一冊 その102 「寝ぼけ署長」

Last Updated on 2018年2月6日 by 成田滋

この探偵小説が書かれたのは昭和21年頃ですが、作中の時代設定は戦前ですから内務省があった頃です。戦後は警察庁となります。

主人公の五道三省はある地方都市の警察署長です。五道三省という名は、山本の本名清水五十六、周五郎からの数字をもじった名なのかもしれません。署でも官舎でも寝てばかりいるため、毎朝新聞から「寝ぼけ署長でも勤まる」などと揶揄されています。年齢は40歳くらいで独身。太っていて、二重あごで腹のせり出た鈍重そうな体つきです。青野庄助という毎朝新聞社会部の記者が「寝ぼけ署長」の名づけ親です。

   署に赴任してくる前は警視庁で13年間を過ごしますが、その際は警視総監も手を焼く横紙破りで通し、慣例に反して自分のしたい事を無理にもすること、我を通す、善しと信じたら司法大臣と組み打ちしてもやりぬいてきました。そのため、三度も官房主事に推されながら、三度とも断るのです。

一見するとぐうたらな無能者にしか見えないのですが、実は極めて有能で大概の仕事は1時間もあれば片づけてしまいます。そのため暇をもて余して寝ているのです。寝た振りをして、他人の言動を聞き、観察するという怖い面もあります。読書量も凄まじく英・独・仏の三か国語のほか、漢文も読みこなせます。愛読書は詩、詩論、文学史などの評論書です。

署内でも世間からもお人よしの無能だと思われていた署長でしたが、五年後に離任することになった際には、署内からも世間からも別れを惜しむ人々が続出し、貧民街では留任を求めるデモ行進も起こるほどでした。

五道署長の在任中、犯罪事件は前後の時期の十分の一となり、起訴件数も四割以上減少します。実は切れ者で辣腕家の署長が、「中央銀行三十万円紛失事件」などでいち早く真相を突きとめるのです。人情家であったので罪を憎んで人を憎まずの精神から、過ちで罪を犯してしまった人間を可能な限り救済しようと、違法な手を使って巧妙に工作するという按配でした。

「貧乏は哀しいものだ、、、こんな時まず疑われるのは貧乏人だから、然し、貧乏はかれらひとりの罪じゃない、貧乏だということで、彼らが社会に負い目を負う理由はないんだ。寧ろ社会のほうで負債を負うべきだ、、、」

「本当に貧しく、食うにも困るような生活をしている者は、決してこんな罪を犯しはしない、彼らにはそんな暇さえありはしないんだ、、、」
「犯罪は怠惰な環境から生れる、安逸から、狡猾から、無為徒食から、贅沢、虚栄から生れるんだ」
「決して貧乏から生れるもんじゃないだ、決して、、」山本は五道三省を通してそう云わしめます。

心に残る一冊 その101  「追いついた夢」

Last Updated on 2025年1月3日 by 成田滋

女の名はおけい。年は十七歳です。和助は風呂場で湯に温められたおけいの肌を眺めて「千人に一人もいないというのは本当かもしれない、たしかに他の女達とはちがう、他の女にないなにかがある」と呟きます。

ほどなくしておけいは風呂から上がってきます。
「こちらに来てお坐り」
「私はぜひ世話をしたいと思うが、おまえの気持ちはどうだ、私の面倒をみてくれるか?」
「はい、こんな者ですけれど、お気に召しましたらお願いします」
「私は遁世したいのだ、世間からも人間からも離れたい、煩わしい付き合いや利欲のからんだ駆け引きとすっぱり手を切りたいのだ」

こうしておけいは和助の妾宅へ引っ越すために、住んでいる長屋にやってきます。母親のおたみは三年も病床に伏しています。それを隣の女が面倒をみています。おけいは和助との約束のあらましを話します。

おけいの父、七造は植木屋の職人をしていました。以前は京橋あたりの質屋にいました。おたみはその店で養女でしたが、七造と愛し合っていました。婿をとることになったので隠しきれず、結局義絶となって二人とも追い出されてしまいます。義絶とは肉親との関係を絶つことです。酒も煙草も口にせず何の道楽もない七造は急死します。その日から暮らしの生計がおけいの肩にかかってきます。

七造のかつての同僚、職人の宇之吉がおけいの力になっていました。彼の息子があるとき木登りで遊んでいて落ち、腿骨を折ってしまいます。医者の骨接ぎがまずかったのか、折れた部分が膿み出してそれがもとで死んでしまいます。「貧乏人は医者にも満足にかかれない、病気になったらおしまいだ」と宇之吉やおけいは嘆きます。

和助は金銀地銀の売買や両替をしていました。銀座に店を構え高利の金融にも手を出していました。和助はおけいを案内し、水天宮の近くで辻駕籠を拾い、途中なんども乗り換えて目黒を経て玉川の近くにやってきます。千坪あまりの広い土地に家がありました。妾宅です。吾平ととみという老夫婦が二人を出迎えます。

和助はお茶を飲み終えるとおけいに家の中をみせてまわります。土蔵を開けると云います。
「この中に金や書き付け、大金がしまってある、私が何十年とかかって集めたものだがね、、」
「おまえがよく面倒をみてくれれば、いつかこれがみんなおまえの物になるんだよ」

和助はおけいに五、六日のうちに戻ってくるといって、銀座の店をたたむため出掛けていきます。和助にはお幸という妻と十三年連れ添ってきました。二人でつかの間の会話をします。和助はすっかりお幸との情が消えています。五、六日のうちにかえると云った和助はそれっきり姿をみせず、使いたよりもありません。和助がおけいのところに向かう途中、卒中で倒れたのです。和助は六郷在の御救小屋で身許不明のまま死んだということです。

それから二年後。おけいの調布の村におたみが引き取られて寝ています。かつての許嫁の宇之吉と妹も一緒です。吾平夫婦が一緒に暮らすことをすすめたのです。
「ここに地面を借りて、おけいちゃんの側で暮らすことができれば、おれはそれだけで十分だ」
「、、、ね泣いてもよくって宇之さん、」
「、、、いつか大島町の河岸で云ったんじゃないの、こんど二人が一緒になれたときは泣けるだけ泣きって、、」

心に残る一冊 その100  「おもかげ抄」 小房は椙江

Last Updated on 2018年2月3日 by 成田滋

「おもかげ抄」の二回目です。鎌田孫次郎のところに沖田源左衛門が訪ねてきます。荒れ果てた長屋の部屋ですが、塵一つとどめぬ行き届いた掃除、源左衛門には孫次郎の人となりが察せられます。経机の前に坐り、唱名しながら香を上げ、ふと仏壇を見上げたとき、「あっ」と低い声を上げます。仏壇に掲げてある小さな女の絵姿を暫し見つめています。
「これがご家内のお姿でござるか?」
「はあ、同郷の朋友に絵心のある者がござって、戯れに描いた似顔絵が形見となっております」
「、、、、、ふしぎに似ている」源左衛門は呟きます。

源左衛門の倅、千之助に稽古をつけて去ろうとしたとき、源左衛門が一人の娘を連れて出てきます。孫次郎は娘の顔を見るとさっと顔色を変えて立ちすくみます。
「これは千之助の姉、小房と申す不束者、お見知りおき願いたい」
「は、は、拙者こそ」
「下手ながら娘が茶を献じたいと申す、ご迷惑でなかったお上がりくださらぬか」
「他に少々お話もござるが、、」
「お邪魔仕ります」
「話といっても外でもござらぬ、鎌田氏には二百石でご仕官するお望はござらぬか?」

お茶とともにすすめられ菓子を孫次郎はじっと見つめます。そして敷紙に包むと源左衛門の「もう一杯茶を召し上がれ」と云うのを振り切るようにして暇します。家に帰ると包みを仏壇の前に供えると、崩れるように坐ります。
「椙江、、そなたの好きな蒸し菓子だぞ、そなたの好きな、、、」
「生前であれば欲しがっていた菓子が今になって手に入った、そなたが死んだ今になって二百石の仕官、、、今になってこの蒸し菓子がなんになる、出世がなんになるのだ、」
「嫁してくるが否や、主家を浪人して五年、佳き家柄に育ってなんの苦労も知らぬそなたが無残な貧に痩せてゆく姿、、、」
「薬も満足に与えられなかった貧苦の中で衰え果てたままそなたは死んだ」
「、、そして今になって、出世の緒口、そなた亡き今となって、なんのために二百石を取ろうぞ、、椙江っ、」 
孫次郎は声を忍んで泣くのです。

長屋の差配、六兵衛に当地を立退くことを伝えます。暗いうちに浪宅を引き払った孫次郎、貧しい着替えの包みにしっかりと妻の位牌をおさめ、見送りがきては面倒と足早に浜松の城下を西へ向かいます。その時です。
「お待ち申して居りました」
旅姿の女が現れ孫次郎は一歩退きます。
「どなたでござるか?」 女は笠をとります。恥じらいを含んで見上げる顔は源左衛門の娘小房です。眉をそり、お歯黒の姿となっています。
「こなたは、、、小房どの」
「いいえ、いまは椙江と申しまする」
孫次郎は自分の耳を疑います。
「椙江、、椙江、、?」

「どうぞこれをご覧遊ばして」
小房はそう云って一通の書状を孫次郎に渡します。それは源左衛門の達者な走り書きです。親切を徒にして立ち退こうする身を、武士と見込めばこそ娘の眉を落とし歯を染め名を変えるのみか、亡く人の再生と思え、とまで云い添えてあります。
「それ程までにこの孫次郎を、、」
源左衛門の身にしみる情宜に孫次郎、胸をうたれるのです。

「今は何ごとも申し上げぬ、旅の不自由ご得心でござるか」
「どこまでもお伴をいたします」
「では、、、、紀州へ参ろう」 孫次郎は手紙を巻き納めます。
「高野の霊場へ納めるものがござる、その供養が終わったら直ぐに浜松に戻りましょうぞ」
「行って帰えるまで二十日、帰ったらそこもとと改めて祝言だ」

心に残る一冊 その99  「おもかげ抄」 鎌田孫次郎

Last Updated on 2024年12月31日 by 成田滋

山本周五郎の「小説日本婦道記」に収録されている「おもかげ抄」です。
浜松の裏街道にある家作へ引っ越してきたのが鎌田孫次郎です。年の頃は二十八、九。上背があり立派な体つきで色の浅黒い、眼の涼しいこのあたりでは珍しい美男です。家作とは借家のことです。

魚売りの金八が長屋の周りの者に云います。
「まあ、聞きね、」「表へでて洗濯をしているじゃねえか」、「奥様のお加減でもお悪うございますか」と訊いたんだ。「するとその返辞がふるってら、」
「いや別にとこも悪いと申すほどでもござらぬが、ちと我がまま、まあ朝寝がしたいのでござろうよ、とかくどうも女は養い難しでござる、、あはは、、」
長屋の女房達の間に孫次郎につけられた甘次郎、甘田甘次郎先生などの綽名がたちまち付近にひろまります。

二十日あまりが経ち隠居の六兵衛が孫次郎の浪宅を訪れます。
「ようこそおいで下された」と奥へ振り返って、「これ椙江、お客来じゃ、お茶をいれ申せ」とい云います。舌打ちをしながら「しようのないやつ、また頭でも病むと申すのであろう、我がままがつのって困る」

孫次郎がご用向きをきくと、空屋を寺子屋として子どもに素読の指南し、剣術も教えて欲しいというのです。孫次郎は二つ返事で引き受けます。初秋の昼下がり空き地で子ども達に剣の心得を教えていると、子どもが叫びます。
「向こうの原っぱでお侍が斬り合いをやっていますよ」

孫次郎も剣を持ってかけつけると、一対四の真剣勝負です。訊くと御意討となった侍の犬飼研作を四人が仕留めようというのです。犬飼の剣は鋭く四人の侍は歯が立ちません。孫次郎は助太刀し犬飼を倒します。そこに一人の老武士が馬で駆ってきます。「あっぱれ、お見事」と思わず声をあげます。子ども達も空き地の隅で固まってみていました。孫次郎が戻ると「お師匠さまは強いな、、」と歓声をあげます。

二、三日経たある日、さきの老武士が前触れもなく孫次郎を訪れます。
「椙江、お客様じゃ、、」
「ご覧の如き浪宅、何のお構いもなりませぬ、どうぞお許しを」
老武士の名は沖田源左衛門という家臣の大番頭をしているという。
「お手前のほど、先日篤と拝見仕った、ご流儀は梶派でござるな」
「実は拙者も壮年の頃、梶派一刀流をわずか学びなしたので、太刀懐かしく拝見いたしました」

倅の千之助に梶派を教えて欲しいというのです。
「未熟の拙者、とても人に教え申すことなど出来ませぬが、折角の思し召しを辞するは却って失礼、宜しかったら型だけでも」
「ところでご家内はご病気でござるか?」
「はあっ、、、」

孫次郎はなぜかうつむきやがて席を立つと「ご覧ください」といって合いの襖を開けるのです。
甘次郎という綽名をきいていた源左衛門は、甘次郎と呼ばせる妻はどんな美人かとみると、次の間には小さな経机がひとつ、仏壇のまえに据えられていて、ゆらゆらと線香の煙が立ち上っています。
「これは、、、、、」
「実は三年前に死去致しまして、、」
「すると先刻、奥へ声をかけられたのは?」
「お耳にとまって赤面仕る」
「仕合わせ薄き女にて、三年浪々の貧中死なせましたが、未練とお笑いくださるな」
「手前にはどうしても死んだと思い切ることができず、、」
「面影あるうちは生きているつもりにて、あのような独り言を申し始めたのが癖となり、今日までそのまま、、、」

「いや佳きお話を承った、亡き人へのそれほどの御愛、未練どころか却ってお羨ましゅう存ずる、拙者もご回向仕ろう」

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心に残る一冊 その98  「三年目」 人情裏長屋から

Last Updated on 2018年2月1日 by 成田滋

山本周五郎が得意とする長屋に暮らす市井の人々の物語です。

友吉はいい大工職人でした。五郎兵衛町の広田屋伊兵衛という大工のもとでずば抜けた腕を発揮し、17歳のときにはすでに一人前の手間取りになっていました。広田屋は当時左前で友吉と角太郎の二人しか職人をもっていません。伊兵衛は友吉を一人娘のお菊の婿にして広田屋を盛り返そうとします。

ところが伊兵衛は大怪我をし、臨終の前に友吉をとお菊が夫婦になるように遺言をします。友吉には賭博の癖があったので、「今日限りさいころは捨ててくれ」と言い残します。友吉は悪仲間と縁を切るために江戸から上方へ行き新規まき直しをする決心をします。

三年後、友吉が江戸に戻るとお菊の安否を尋ねてあるきます。堀の棟梁の息子、仁太郎という道楽者から、お菊は角太郎と深川近辺で所帯をもったことを聞かされるです。

降り続く雨で大川の水は濁って岸に溢れかかっています。新大橋は通行止めとなり友吉は入った居酒屋でお菊が角太郎と八幡様の裏の二階屋にすんでいることを聞きます。角太郎は友吉より一つ上、腕も達者というほどではなく、男ぶりもぱっとしない、ただ愚直で間違いのない仕事をするだけが取り柄でした。

雨の街へでたとき、友吉のこころはずたずたになっています。
畜生、あの顔で騙しゃがったか、、、
「中川の水門が壊れたぞ、、、」という声が響きます。
友吉は教えられた二階屋にやってきます。
「どなた、、、、船定さんからですか、、」
「、、、、あっ、お前は」
「友吉だ、驚いたか、」
「よくも、よくもおいらを騙しやがったな、、おいらこんなことを知らねえからおいらあ上方で三年、一口の酒も呑まず稼いだぞ、、」
そういって友吉はお菊を縛り上げ、押し入れに押し込みます。

そこに角太郎が帰ってきます。そして取っ組み合いの喧嘩なります。角太郎が云います。
「兄貴、あの時の約束を忘れたのか?おらあいったはずだ、たとえどんなことがあっても、お菊さんは大切に預かっているって、、」
「そんならなぜお菊と夫婦になった!」

死んだ広田屋伊兵衛が堀の棟梁に借金があって、その金を枷に若棟梁の仁太郎がお菊を妾にしようとしたことを云います。広田屋の再興には堀一家とは喧嘩ができないので、二人で夫婦になったとみせかけるしかなかったと説明します。

一階には水が入ってきます。押し入れられぐったりしたお菊を二人で助け上げるのです「、、、おらあ鈍な生まれつきだ、兄貴にとんだ心配をかけちまって済まねえ、、勘弁してくんな」
「角、、、、生きるも死ぬも三人一緒だ、おいらの馬鹿を笑ってくれ、」
「お菊、気がついたか、友吉だ、、、」
「友さん、、、、」