心に残る一冊 その25 Intermission 広辞苑改訂と「はんなり」

Last Updated on 2017年11月2日 by 成田滋

このシリーズでちょっと休憩します。先日「10年振りに広辞苑改訂」という記事がありました。毎日のように図書館通いをして大分経ちます。そしてブログの素稿を書くために、きまって新村出氏編集の「広辞苑」を書架から取り出します。調べたい用語や単語を書き写すとすぐ書架に戻します。広辞苑の利用者が多いのです。漢字を調べるときは白川静氏編集の「字通」を借ります。

図書館にある広辞苑は2007年出版の第六版。定価は書いてありません。私が家で使う広辞苑は昭和44年出版の第二版です。定価は3,200円で出版年は西暦を使っていません。初版も昭和30年とあります。

辞書を手にして知りたいことは、その語がどのような意味があるかということです。さらに、語がどのように意味を変えたかを調べるのに辞書は欠かせません。古語や現代語を包括し、学術その他広くゆきわたる語いや事項を含むいわば小百科事典です。語いの多義性とか多様性、実用性を教えてくれるのも辞書です。広辞苑は用例や典拠を豊富に掲げています。語源や語法をみることによって本義や派生語を知ることも望外の楽しみとなります。こうして知的好奇心をかきたててくれます。

広辞苑では、地域語や地域の事情なども選ばれています。たとえば「はんなり」。落ち着いた華やかさを持つさま、上品に明るいさま、とあります。「はんなりとした色合い」というように使うのでしょうか。兼好法師が「今ここで見る顔はまた、はんなりとなつかしう、かわいらしう、恥ずかしう」という具合に引用されています。「花なり」が語源とか。京言葉の代表といわれているようですが、道産子のわたしには「はんなり」という言葉を調べて納得し、なにか京の出になったような気分になります。

同じく岩波書店から出ている「国語辞典」も持っています。こちらは携帯用で、さすがに「はんなり」はありません。固有名詞や外来語を掲載しないのが編集の方針とあります。

心に残る一冊 その24 「たそがれ清兵衛」

Last Updated on 2017年10月30日 by 成田滋

「蝉しぐれ」と並ぶ私の愛読書の一冊が「たそがれ清兵衛」です。この小説を読んだのは50代ですが、いつも手元に置いておきたい作品です。庶民や下級武士の悲哀を描いた時代小説にはどこか共感するものがあります。大衆小説の本筋は娯楽色が豊かなこと、という言い方がされますが、私には社会の底辺にいる人々の息づかいを豊かに描く藤沢周平の筆遣いに惹きつけられます。

主人公は下級武士の井口清兵衛。「たそがれ清兵衛」と呼ばれています。病弱な妻の世話や看病のために、同僚との付き合いを断わり、退城の合図とともに黄昏れ時に帰宅するのです。そのため「たそがれ清兵衛」と陰口をたたかれています。

海坂藩の藩主が若くして没し、ほどなく後継者争いが起こります。世継ぎが決まり、旧体制を率いてきた藩士の粛清が始まります。粛清されるべき人物の中に一刀流の使い手、余吾善右衛がいました。余吾は切腹を命じられながらもそれを拒絶し、討手の服部某を斬殺し自分の屋敷にたてこもります。海坂藩は清兵衛に新たな討手として命じます。交友があった余吾善右衛に清兵衛は自首をすすめます。

壮絶な果たし合いが終わり清兵衛は、傷だらけで自宅に戻ります。清兵衛を待っていたのは2人の娘と朋江という女性です。清兵衛は幼なじみの朋江を思い続けていたのです。やがて清兵衛は朋江を妻に迎えます。

明治維新とともに勃発した戊辰戦争で賊軍となった海坂藩は、圧倒的な官軍と戦うことになります。清兵衛は官軍の銃弾に倒れます。時代に翻弄される人々の一人にたそがれ清兵衛をみるのです。

心に残る一冊 その23 「三屋清左衛門残日録」 醜女

Last Updated on 2017年10月30日 by 成田滋

この時代小説を読んでいますと、なにか自分に思い当たることが描かれていて実に愉快な気分になります。

「さぞのんびり出来るだろうと思っていたのだ。たしかにのんびり出来るが、やることななにもないというのも奇妙なものでな。しばらくはとまどう」 清左衛門はかつての部下であった佐伯熊太にいいます。

「過ぎたるはおよばざるが如しだ。やることがないと、不思議なほどに気持ちが委縮してくる。おのれのもともとの器が小さい証拠だろうが、ともかく平常心が戻るまでしばらくかかった」

熊太は「ひと一人の命がかかっている話」を清左衛門を持ちかけ助けを求めます。おうめという女のことです。彼女は城下の貸家の娘です。行儀見習いのため城の奥御殿に奉公にはいります。あるとき藩主が何の気紛れを起こし、醜女と呼ばれていたおうめに一夜の伽をいいつけるのです。その一夜の出来事のあと、身籠ったらしいという噂で、おうめには暇が出され実家に戻り、藩から三人扶持をもらう身分となります。三人扶持とは3人の家来や奉公人を抱えることができる切米のことです。

あまり公にできないことなので、ほとほと困っている熊太は、手を貸せと清左衛門に頼みます。

「しかし、わしはもやは隠居の身でな。公けのことを手伝うには倅の許しをもらわなくてはならないだろう」
「そのことならさっき、城で又四郎どのに会った話した」 熊太ははぬかりなく言います。又四郎は清左衛門が家督を譲った息子です。

「おやじは退屈しているはずだから、かまわんでしょうと言っておったぞ」

身籠ったのは、相手がわからぬ父なし子というので、殿の威信を損なわないように、おうめを密かに処分してしまえという山根備中という組頭がいうのです。山根は権威主義に忠実な家風で育ったため、言うだけではなく、実際におうめを抹殺しかねない、と清左衛門は考えおうめを助けようと人肌脱ぐのです。

心に残る一冊 その22 「三屋清左衛門残日録」 微変化

Last Updated on 2017年11月3日 by 成田滋

一旦、老境の悲哀を感じながら,清左衛門にはわずからながら生活に変化が生じます。藩内に起こる権力を巡る動向に助けを求められるのです。隠居の身のところに、かつての部下がやって難題を持ち込むのです。うっとうしくも感じながら、まだまだ自分の経験や知恵を必要とする人々がまわりにいるのを知り、清左衛門は生活に変化を感じていくのです。「のんびり隠居などしていられない」という姿勢に、自分がまだ平衡感覚を有しているらしいとも感じます。

 

 

 

 

 

 

 

この時代小説は、いくつかのエピソードが登場します。「白い顔」では妻の多美を酔うたびに苛む25歳の藤川金吾に清左衛門は激昂します。実家に逃げ帰って離縁した多美は平松与五郎に嫁ぎます。二人は一バツなのですが、二人の縁を取りもつのが清左衛門です。それを恨んで藤川が清左衛門を待ち伏せます。

「多美を平松に片付けるのに隠居がずいぶんと骨折ったという話を聞いたぞ」
「それが何か?」清左衛門はいくらか無意味な気持ちでこたえます。
「おてまえにはかかわりがござるまい」
「そうはいかぬ。多美はまだおれの女だ」
「だまらっしゃい!」 清左衛門は一喝します。
おれの女という下卑な物言いに腹立つ清左衛門です。相手の不気味さを忘れて憤怒の声がでるのです。

藤川の柄に右手が伸びた瞬間、清左衛門は走り寄って藤川の右腰に身を寄せ、柄を握った相手の手首に気合いもろとも手刀を打ち下ろします。めまぐるしく動いたのに、ほんの僅かだけ息がはずむのです。隠居の身でありながら、道場に再び通っている甲斐があったと清左衛門は感じます。

心に残る一冊 その21 「三屋清左衛門残日録」 寂寥感

Last Updated on 2017年10月25日 by 成田滋

「日残りて昏るるに未だ遠し」に始まるこの小説は、生涯の盛りが過ぎ、老いて国元に逼塞するだけだと考えていた主人公三屋清左衛門にいろいろな出来事が起こります。その身にふりかかることは、藩の執政府は紛糾の渦中に巻き込まれるのです。そんな隠居暮らしに葛藤する老いゆく日々の命の輝きが描かれています。まるでいぶし銀にも似たような藤沢周平の筆遣いを感じる一作です。

勤めていたころは、朝目覚めたときにはその日の仕事をどうさばうか、その手順を考えるのに頭を痛めたのに、してみると朝の寝ざめの床の中でまず、その日、一日をどう過ごしたらよいかということから考えなければならなかった。」清左衛門の朝はこのようにして始まります。

藩邸の詰め所にいる時も役宅にくつろいでいる時も公私織り交ぜておとづれる客が絶え間なかったのだが、今は終日一人の客もこなかった。」 客が来なかった日は何の会話もなかったということです。

仕事のからむ一切の雑事から解放された安堵のあとに、強い寂寥感がやってきたのは思いがけないことであった。」 仕事一筋の人生のあとにやってくる自由さの中の複雑な思いです。

こうした感慨は、私も定年退職後に経験したことでした。「今日は何人の人と会話したか?」ということも考えるのです。このフレーズは父親が亡くなったとき整理していた日記から出てきたものです。彼は日記をつける習慣がありました。96歳のとき「かっての友人は一人もいなくなった」ともいっていました。

心に残る一冊 その20 「木綿触れ」

Last Updated on 2017年10月24日 by 成田滋

藤沢周平の小説には、下級武士の無念や悲劇、農民や職人のつましくも助け合い生きる姿を描いた作品が目だちます。彼の故郷は山形県鶴岡市です。東北の小京都といわれる静かなたたずまいの城下町です。山といえば、羽黒山や月山、湯殿山、金峯山などが周りにあります。そして川です。内川、青龍寺川、赤川が作品に登場します。山と川、そして橋が舞台となっています。

子を失って悲嘆にくれる妻を励まそうとする下級武士、結城友助。代官手代の上司、中台八十郎は代官所で金を吸い上げ、倹約令がでているのに絹の着物など、ぜいたくな身なりをし妾も囲っています。下士も庶民も絹を着てはならない時代です。苦しい生活の中から妻はなえに中台のために差し操って絹の着物を作らせた親切が仇となります。そして中台に妻を弄ばれるのです。はなえはそれが元で自殺を遂げるのです。はなえが身を投げたのが川です。

友助は代官手代中台八十郎の屋敷に出掛けます。

友助 「言うことをきかなければ、お上に訴える。そうなれば自分だけでなく、亭主も結城家の家名も危ういとでも言いましたか?それでは、あの臆病な家内がどう手向かえるものでもない。死んだ者同然に、言うことをきいたはずです」
中台 「それでいいではないか、結城、」
中台 「事実、そのために結城の家にも、おぬしにも、なんのお咎めもないではないか」
友助 「しかしそのために家内は死にましたぞ」
中台 「そんなことは、わしは知らん。女が勝手に死んだのだ」
友助 「あなたは、人間の屑だ」

友助は抜き打ちに中台の肩を切り、はなえの仇を討つのです。そして正座して腹をくつろげます。庭に水音が響き、家の中はなお静まりかえっています。腹を切るのを妨げる者は誰もいません。

心に残る一冊 その19 「蝉しぐれ」 その五 お福との別れ

Last Updated on 2017年10月23日 by 成田滋

「蝉しぐれ」の最終稿です。文四郎は、お福と御子を救った勲により二十石の加増となります。さらに一緒に闘った布施鶴之助の召し抱えを横山家老に願いでて受理されます。家老家を出ると文四郎は、追放された里村の刺客に襲われます。文四郎は、秘剣村雨の極意を使いかろうじて刺客を仕留めるのです。

20数年後、文四郎は郡奉行として出世します。そして父親のかつての名、助左衛門をもらい二人の父親になります。江戸では側室として仕えたお福の前藩主が亡くなり、その一周忌を前にしてお福は白蓮院の尼になることを決め、海坂藩に戻ってきます。そして、その前に助左衛門に会いたいと手紙を送ってきます。

二人はしみじみと語らい、感極まって手をとり合い抱き合うのです。助左衛門はお福の唇を求めると、お福それにも激しく応じてきます。しばらくしてそっと助左衛門の身体を押しのけ、声をしのんで泣くお福です。別れ際にお福は言います。

「ありがとう文四郎さん、これで思い残すことはありません」

権力争いの渦中にあって、主人公文四郎の凜としてさっそうたる生き方と清朗な行動、親友との一途な剣の修行と友情、市井の人々や農民への暖かい眼差しと寄り添う生き方があります。そこには抒情が漂います。

心に残る一冊 その18 「蝉しぐれ」 その四 奸計と死闘

Last Updated on 2017年10月21日 by 成田滋

ふくが蛇に咬まれたときの様子です。右手の中指がぽっくりと赤くなっていま。文四郎はためらわずその指をふくむと、傷口を強くすいます。泣くふくを文四郎は叱るのです。「泣くな」 赤くなっていた唾を吐き捨てるのです。文四郎とふくの相思の情はやがて広がります。

15歳の時、藩主の手が付いて側室となったふくはお福と名乗ります。すぐに身ごもるのですが流産してしまいます。文四郎の親友で、江戸藩邸にいて論語などの学問をしている島崎与之助は、流産は側室おふねの陰謀だという噂があると文四郎に語るのです。その後送られてきた与之助の手紙には、江戸藩邸でにわかにお福の評判が悪化し、藩主の寵愛を失ったという噂が触れられています。

海坂藩内では跡目を巡る権力争いが激化します。文四郎の父、助左衛門も義のために反逆者と烙印を押され切腹させられたのです。牧家を潰されなかった文四郎にも家老里村左内=稲垣派と横山派の派閥争いを目の当たりにしていきます。そして双方から誘いがやってきますが、文四郎は態度を決めかねています。

お福は海坂藩にある藩主の御殿、欅御殿で藩主の御子を産み、そこに隠れます。この子どもが成長し藩主になることに危惧を抱くのが里村=稲垣派です。お福と子どもを亡きものとし、それを横山派の仕業としようとします。そして里村は横山派が御子に食指を動かしている、とそそのかし文四郎に御子をさらってこいと命令するのです。里村はさらに、牧家を潰さなかった貸しがあると文四郎に伝えます。

家老里村の奸計に気づいた文四郎は、友人の逸平らとでお福と子どもを助けに御殿に向かいます。そのとき里村の一隊が御殿にやってきます。里村らの考えはこうです。文四郎を御殿に乗り込ませ、そこを襲って文四郎と御殿の人間を皆殺しにする、その罪は文四郎一人に着せ、あとでそれとなく横山派の仕業と匂わせる。さらに横山派が里村派に罪を着せるために文四郎を使って御子を奪わせようとしたが、護衛の者と斬り合いになって相撃ちに倒れた、という台本を考えていたのです。

文四郎らは死闘の結果、お福と御子を無事助けて横山家老に預けます。里村=稲垣派に対する処分が発表されます。里村らは領外永久追放や座敷牢に閉じ込める郷入り処分となります。

心に残る一冊 その17 「蝉しぐれ」 その三 父の切腹

Last Updated on 2017年10月20日 by 成田滋

文四郎は牧家に養子にきて育てられたのです。つましい牧家の暮らしながら、養父、養母から暖かい愛情をそそがれて成長します。世継ぎを巡る閥に巻き込まれた養父は、詰め腹を切らされることになります。

「しかし、わしは恥ずべき事をしたわけではない。私の欲ではなく、義のためにやったことだ。おそらくあとには反逆の汚名が残り、そなた達が苦労することは目に見えているが、文四郎はわしを恥じてはならん。そのことは胸にしまっておけ、、登世をたのむぞ、、、、」 登世は文四郎の養母です。

「夜が明けると、日はまた昨夜の嵐に現れた城下の家々と木々にさしかけ、その日射しは、六ッ半(8時)に達する頃には、はやくも堪えがたい署熱の様相をむき出しに見せ始めた。そして五ッ半になると牧文四郎の家に城から使者がきた」

「藩に対する反逆の罪により、牧助左衛門には切腹を。牧家は家禄を四分の三に減じ、普請組を免じて、家は長屋に移す。」  使者は文書を読み上げます。
「自裁し終わった遺骸は、それぞれの家で引き取って貰う。できれば荷車を支度するように」 
文四郎 「何刻までに参ったらよろしゅうございますか?」
使者 「始まるのは四ッ半、助左右衛門どのは昼過ぎになろうが、昼までには寺にきておるほうがようかろう」

予期していたように、むしろをかけられた父親の荷車は行く先々で人々の冷たい視線を集めます。軒下にたっている人々が一語も出さず、しんとして自分を見送るのを文四郎は痛いほど感じるのです。

「さあ、押してくれ!」
助けにきてくれた道蔵に一声かけると文四郎は最後の気力を振り絞って、横たわる父親の荷車を押してのぼりになる坂をはしり上がります。その姿は「蟻のごとく」、車はそれほど重かったのです。喘いで車を押す文四郎の眼に、組屋敷から小走りにかけつけて来る少女の姿が映ります。確かめるまでもなく、それはふくです。文四郎の側までくると、荷車の上の遺体に手を合わせ、文四郎に寄り添って梶棒をつかみ、涙がこぼれるのをそのままに一心な力をこめて梶棒を曳くのです。

心に残る一冊 その16 「蝉しぐれ」 その二 海坂藩

Last Updated on 2017年10月19日 by 成田滋

藤沢周平の出身地はかつての庄内藩。彼の多くの作品にでてくる城下町、領国の風土の描写は、庄内藩とその城下町鶴岡が下敷きとなっています。それが架空ですが海坂藩です。後に紹介する長編「三屋清左衛門残日録」や「風の果て」といった作品の舞台も海坂藩を伺わせてくれます。

政変に巻きこまれて父を失い、家禄を減らされた主人公、牧文四郎の成長を描いたのが「蝉しぐれ」です。小説の冒頭では文四郎は15歳。市中の剣術道場と学塾に通い、ひとつ年上の小和田逸平や同い年の島崎与之助と仲がよく、また隣家の娘ふくに不思議と心を引かれ、すこしずつ大人になっていきます。平凡な日々がおだやかに過ぎてゆくなかで、海坂藩内ではお世継ぎをめぐる政争が表面化し、これに養父助左衛門も関与していきます。

城の周りを流れる五間川が氾濫しそうになって、外出中の助左衛門の代わりに文四郎が駆けつけたことがあります。遅れて到着した助左衛門は、金井村の田がつぶれるのを防ぐために、堤防の切開の場所を上流に変更するよう、指揮を執っていた相羽惣六に進言します。金井村の人々はそのときのことを感謝し、後に助左衛門が反逆罪で捕らえられた時には、堤防切開工事に一緒に参加した青畑村の人々と共に助命嘆願書を提出します。

藩内には横山派と稲垣派との政争があり、助左衛門は横山派に加わり、特に村々を回って村方に横山派を作り上げる働きをします。しかし、文四郎が16歳の年の夏、横山派が稲垣派に敗れ、一統12名と共に藩に対する反逆の罪で切腹を言い渡されます。切腹前日、面会を赦された文四郎に助左衛門は言い残すのです。

「父を恥じてはならぬ、母を頼む」

心に残る一冊 その15 「蝉しぐれ」 その一 川と橋

Last Updated on 2017年10月18日 by 成田滋

藤沢周平の「蝉しぐれ」を数回にわたり紹介していきます。彼の作品は時代小説とか歴史小説といわれるようですが、内容や雰囲気からするとどうも新しい時代小説のようです。「蝉しぐれ」という原題ですが、蝉が亡骸を残し、晩秋の降ったりやんだりする小雨から、なんとなく憂うつな雰囲気が漂います。そして街の描写、自然のうつろい、主人公の住まいや身分などが丁寧に描かれます。なにかが起こる前兆を読者に期待させるのです。

藤沢周平の作品の中には、川や橋がよく登場します。江戸期の「橋」を舞台とした小話があります。橋は対岸へと渡るためだけではなく、人生が交差する場として描かれます。歳月が流れた橋の上で男が昔の幼馴染みにいう場面もあります。「綺麗になった。」というのです。

「蝉しぐれ」の冒頭では、次のような自然が描写されます。

いちめんの青い田圃は早朝の日射しをうけて赤らんでいるが、はるか遠くの青黒い村落の森と接するあたりには、まだ夜の名残の霧が残っていた。じっと動かない霧もあさの光をうけてかすかに赤らんで見える。そしてこの早い時刻に、もう田圃を見回っている人間がいた。

舞台は山形の海坂藩です。主人公の牧文四郎、そして小和田逸平、島崎与之助は、十五六歳の若者です。この三人が人間として成長し、また現実の厳しさに直面していきます。やがて、三人はの郡奉行、藩校の教授、御書院目付となっていきます。御書院とは藩主の身を守る防御任務のことです。

文四郎の家の隣に小柳甚兵衛の娘ふくがいます。文四郎の3歳年下です。お福は藩主正室の寧姫に仕えるため、江戸に向かうことになります。その直前に牧家を訪ねて文四郎に思いを伝えようとするのですが、あいにく文四郎は外出していて会うことができません。

「小柳のふくさんがたった今帰ったばかりだけど、、、、そのあたりで出会いませんでしたか」と落ち着かない顔で文四郎の母はいいます。
いや」 文四郎の胸にあかるいものがともります。ふくの名前を聞くのはひさしぶりだったのです。
「それがね、、急に江戸に行くことになったと、挨拶にみえたのですよ。」
「明日、たつのだそうです。江戸屋敷の奥に勤めることになったとかで、、その話はあとにして、、、、」 母は指で外をさすのです。
「ちょっと追いかけてみたらどうですか。まだその辺にいるかも知れませんよ。」
「わかりました」

文四郎はふくが帰りそうな道を探します。そしてあげくは川岸の道まで行きますがふくの姿は見えません。

 

 

心に残る一冊 その14 「小川の辺」

Last Updated on 2017年10月21日 by 成田滋

「小一里ほど歩いたとき、突然のように日光が射し、靄はしばらくの間、白く日に輝いたあと、急速に消えていった。行く手にまだ山巓のあたりに雪を残している山が見えた。海坂藩は三方を山に、一方を海に囲まれている。里に近い山は早く雪が消えるが、その陰に空にそばだって北に走る山脈には、六月頃まで斑な残雪が見られる。」

このように藤沢周平の小説には、自然や季節の情景が描かれます。絵を彷彿とさせてくれます。それは日本人の心にある自然です。高いビルやけばけばしい看板、ネオンサイン、騒がしい公園はありません。昭和の年代にあちこちに残っていた風景です。郷愁を思い起こすと詩情が漂うようようです。そして川や橋が登場します。「小川の辺」、「橋ものがたり」という小品もそうです。

脱藩して江戸へ逃亡した義弟を主命によって討手として斬らねばならない武士、戌井朔之助の不条理を描いています。佐久間森衛と共に逃亡した妻の田鶴も討たねばならなくなるという苦悩が描かれています。田鶴は朔之助の実の妹なのです

新蔵は朔之助の家で居候をしながら剣術を磨い若党です。朔之助は家老の助川権之丞の脱藩した義弟を討てとの命令で苦悩し、それを両親に伝えるのです。母親は兄弟同士の斬り合いを頑なに拒みますが、父親は「田鶴が立ち向かってくるなら二人とも斬れ!」と朔之助に言い渡すのです。

朔之助は父親に、必ず生きて連れ戻すと約束します。田鶴もまた新蔵と一緒に剣術に励み、密かに心を寄せ合う仲でありました。家族の会話を聞いていた新蔵は、朔之助に同行したいと申し出て出掛けます。

江戸の郊外で、義弟の隠れ家を探し出します。田鶴が外出したのを見計らって二人は家に近寄り、朔之助は佐久間を討ちます。そととき田鶴が帰ってきて、「討手は兄上でしたか!」「佐久間の妻としてこのまま見過ごすことはできません」と剣を抜いて朔之助に向かってくるのです。「若旦那さま、斬ってはなりませんぞ」と新蔵は叫びます。

朔之助のすさまじい気合いで田鶴の剣は巻き上げられ、川に落ちていきます。「田鶴を引き揚げてやれ」と新蔵に叫びます。新蔵の腕が田鶴の手を引き、胴を巻いて草の上に引き揚げるのを朔之助はみます。新蔵が田鶴に何か話しかける姿は、二人が本物の兄妹のように朔之助には見えます。そして、二人は、このまま国に帰らないほうがいいかも知れないとも思うのです。

「田鶴のことはお前にまかせる」といいながら、朔之助は懐から財布を抜き出して新蔵に渡すのです。「俺は一足先に帰る。お前達は、ゆっくりと後のことを相談しろ。国へ帰るなり、江戸にとどまるなり、どちらでもよいぞ。」

心に残る一冊 その13 「愛蘭土紀行」 (街道をゆくから)

Last Updated on 2017年12月1日 by 成田滋

司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズは、日本国内はもとよりアメリカ・オランダ・アイルランド(Irland)・モンゴル・中国・韓国・台湾などを紀行したときのエッセイ集です。「南蛮のみち」はフランスやスペインのバスク人(Basque)を題材としています。

アイルランドの首都はダブリン(Dublin)。アイルランドからは、ケルト文化(Celtic Culture)、アイリッシュダンス(Irish Dance)、セントパトリックデイ(St. Patrick Day)、さらには歌手で作曲家のエンヤ(Enya)が思い浮かびます。政治家や映画にもアイルランド系(アイリッシュ)の人が沢山活躍しています。例えば元ケネディ大統領やレーガン大統領、俳優のジョン・ウェイン(John Wayne)や映画監督のジョン・フォード(John Ford)などです。小説家ではサミュエル・ベケット(Samuel Beckett)、ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)、そして詩人で劇作家のウィリアム・イェーツ(William Yeats)などが輩出しています。タータン( tartan)という多色の糸で綾織りにした格子柄の織物も知られています。

アイルランドは、1650年代にクロムウェル(Oliver Cromwell)による過酷な植民地支配を受けます。クロムウェルはイングランドの政治家であり軍人でありました。彼はイングランド共和国(Commonwealth of England)初代の護国卿(Lord Protector)となります。さらにプロテスタントによるカトリック教徒であるアイルランド人への迫害が長く続きます。さらにイングランド人による搾取によっておきたジャガイモ飢饉でアイルランド人が大勢亡くなるのです。こうした植民地支配でイギリスに対して伝統的に敵対した関係が長く続きます。20世紀では特にアイルランドへの帰属を求めて、イギリス領北アイルランドではテロ行為が過激派IRAによって引き起こされたのは記憶に新しいところです。イギリスが光とすればアイルランドは影のような歴史があります。

司馬遼太郎は「愛蘭土紀行」において、アイルランドだけでなくアイルランドと関係のある国、関連する歴史を掘りおこし、アイルランドの人々に流れる精神にスポットをあてます。独自の史観や文化観によって、その地の歴史や地理や人物を克明に描写するのが特徴です。「街道をゆく」という名前から、司馬遼太郎は人や物が交流する「街道」や「海路」にこだわり、日本や世界の歴史を展望しているといえましょう。

心に残る一冊 その12 「チボー家の人々」

Last Updated on 2017年10月14日 by 成田滋

「チボー家の人々」(Les Thibault)の舞台は20世紀初頭のフランス。カトリック(Catholic)とプロテスタント(Protestant)両教徒の2家族や新旧両世代の人々、合理主義とロマン主義を信奉する兄弟が登場します。著者はロジェ・マルタン・デュ・ガール(Roger Martin du Gard) 。 翻訳したのは山内義雄氏で、1952年でに白水社から出版されています。

チボー家の父親は、厳格なカトリック教徒で、封建的な規律を子供達に教えようとします。長男のアントワーヌ(Antoine)は、社会奉仕に一生を捧げやがて医者になります。彼は父が考える「社会的な人間」としてまっとうに育っていきます。他方、弟のジャック(Jack)はそこからなんとかして逃れ出たいと願います。そして彼は違う道を選ぶのです。危うくも幸福な青春時代は去り、晴れて入学した高等師範学校を辞退し姿を消してしまいます。兄弟の国防の義務についての対立も鮮明になります。ジャックの友人でプロテスタントの家庭の息子であるダニエル(Daniel)は世の中の流れに無関心な青年です。

父チボーが亡くなり,古いフランスは過ぎ去り、ヨーロッパは大きく変わります。フランスは第一次世界大戦という大きな混乱の中に巻き込まれていくことになります。フランスにも動員令がでます。ジャックは社会の矛盾に苦しみ、やがて革命にのめり込んでいきます。徹底的に戦争に反対するために戦おうと決意します。自分の意思や生き方に共感してくれるジェンニー(Jenny)の存在との板挟みになります。アルザス(Alsace)の戦線では毒ガスが使用される悲惨な戦いが続きます。アントワーヌは毒ガスによって虫の息、ダニエルも戦場で負傷します。召集されたジャックは病に冒され臨終の時を迎えます。ジャックは病の床でいいます。

「おれの死ぬ月だ。希望を失ったということは、飢餓の苦しみよりさらに苦しい。それでいながら、おれの中にはまだ生の鼓動がある。しかも力強い。、、おれは時々物を忘れする。数分間、おれは昔の自分にかえり、他の人々同じような気持ちになり、なにか計画さえたててみる。と、とつぜん氷のようないぶき、。再びおれにはわかるのだ。」

心に残る一冊 その11 Intermission「碁と沖縄とウィスコンシン」 

Last Updated on 2017年10月13日 by 成田滋

私は樺太生まれ。1945年の終戦直前北海道の美幌に引き揚げてきました。国鉄にいた父の異動で道内を転々としました。道立旭川西高校から北海道大学へ、そして1965年に卒業し、その後埼玉で生活しながら立教大学で学び、しばらくして沖縄で幼児教育を始めるために1971年にパスポートと予防注射を受けて琉球政府統治の沖縄に行きました。本土復帰の前年のことです。琉球政府文教局の人が沖縄の幼児教育の振興のためにと、設置基準をゆるめて幼稚園を認可してくれました。

沖縄は昔から囲碁が盛んです。江戸の中期、琉球が朝貢のとき同行していた親雲上浜比嘉(ペーチンハマヒガ)が三田にあった島津藩邸にて四世本因坊道策と四子局でうったという記録があるくらいです。1970年代、沖縄の囲碁界には下地玄忠五段という地元紙沖縄タイムスの囲碁欄を40年余りも執筆していたという伝説的な棋士がおられました。現在日本棋院に所属する下地玄昭七段はそのご子息です。沖縄からは時本壱九段、その弟子に新垣武九段、新垣朱武九段、知念かおり四段がいます。残念ながら私は仕事にかまけて、囲碁を楽しむ余裕がありませんでした。これが私と囲碁のつながりでの第一の悔やまれるできごとです。

時代を経て1977年に那覇東ロータリークラブから推薦を受け国際ロータリークラブから奨学資金を頂戴しました。家族を連れてアメリカは中西部にあるウィスコンシン大学へ行くことになりました。大学構内に湖を背景とした堂々たる学生会館(Memorial Union)があります。劇場、宿泊施設、会議場、宴会場、三つのレストラン、アイスクリーム・スタンド、談話室などが完備されています。その一角で中国人か韓国人と見受けられる留学生グループが碁をうっていました。対局したいという気持ちが疼いたのはもちろんです。ですが私は研究とアルバイトで家族を支える不如意な暮らしをする留学生でしたので、この人々に加わることはできませんでした。これが第二の悔やまれることです。

幸い1983年に学位を貰い、それから横須賀にある文科省関連の研究所で10年、その後兵庫県にある小さな教育大学で10年働くことができました。ですがこの二つの職場でも囲碁をする機会はほとんどありませんでした。これが第三の悔やまれることです。「人間万事、塞翁が馬」のように運不運はつきものです

思えば棋力を伸ばす大事な時期を逃したのが、30代から40代にかけての沖縄とウィスコンシンでの生活です。今、毎日数時間は碁の本と碁盤の上を徘徊しているのですが、かつて語学やさまざまな知識をパタンとしてスイスイ獲得できたときのような興奮は体験できません。棋力も学力も小さいときからの絶え間ない学びがないと伸びないのです。「発達や進歩には時がある」ということでしょう。

心に残る一冊 その10 「桃源郷の短期滞在人」 

Last Updated on 2024年12月31日 by 成田滋

原題は「Transients in Arcadia」。「Arcadia」とは古代ギリシア語からきた理想郷という意味の単語です。ニューヨークはブロードウエイ(Broadway)。ここに夏の避暑地にあるホテルのリストから落ちこぼれたホテルがあります。ホテルロータス(Hotel Lotus)です。人々からはあまり知られていませんが部屋は落ち着いた色合いで、ホテルは木々に囲まれあたかも山間のリゾートホテルのようです。ニューヨークの暑い夏では知る人ぞ知るホテルなのです。滞在者が少なく、夕食もゆったりと楽しめるのです。

エロイーズ・ビーモント(Heloise D’Arcy Beaumont)という女性がチェックインします。気品ある振る舞いで、ホテルの従業員や他の客からもかなり高い社会的地位にある人だろうと思われていました。マダム・ビーモントと呼ばれていました。

彼女が滞在して3日目、ホテルロータスに練された服装の紳士がやってきます。世界中を旅し、いろいろな国々に精通しているかのようです。滞在期間は4日とあります。名前はハロルド・ファリントン(Harold Farrington)。

ある夜、マダム・ビーモントは夕食の後でハンカチを落としてしまいます。ファリントンそれを拾って彼女に渡すのです。それから会話が始まります。二人の会話は高級避暑地でのバカンスや豪華客船、貴族の生活といった上流階級の休暇中らしいきらびやかな会話を楽しむ二人でした。

しかし、マダムは本名がメイミー・シビター(Mamie Siviter)であると告白するのです。自分は金持ちなんかじゃなこと、必死にお金を貯めただけの貧乏人で、ケーシーマモス(Casey’s Mammoth)という店で働いていること、自分が話したヨーロッパのことは本で読み脚色した外国のことで、貴婦人のふりをしたかったのだ、と伝えるのです。

自分が夜食用に着ているドレスを指して、オダウド&レヴィンスキー(O’Dowd & Levinsky)という店で70ドルを月賦で購入し、10ドルを頭金として払い、毎月1ドルずつ返済しているとも語ります。そして彼女は財布から1ドル札を取り出して、今月の返済にあてることを告白します。明日8時で自分の休暇は終わりだとも語るのです。

 メイミー 「あなたと出会えたことは一生の想い出です。嘘をついてごめんなさい。」
 ファリントン 「驚きました。僕の他にも同じ事を考えた人がいたとはね。実は僕は、レヴィンスキーの月賦の集金係なんです。週給20ドルの給料の中から貯金してやっと実現したんです。」
そう言うとファリントンはメイミーから1ドル札を受け取り領収書をわたすのです。

 ファリントン 「だから、メイミーさん、こんどの土曜日の夜、船に乗ってコニーアイランド(Coney Island)の遊園地にでも行くっていうのはーどうです?」
 メイミー 「ご一緒します。店は土曜日は昼過ぎで終わりですから。」

二人はそれぞれの部屋に戻ろうとします。
 ファリントン 「私の本名はジム・マクマナス(James McManus)といいます。ジムと呼んでください。」
 メイミー 「ありがとう、、、お休みなさい、ジム、」

 

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心に残る一冊 その9 「賢者の贈り物」 

Last Updated on 2017年10月11日 by 成田滋

原題は「The Gift of the Magi」といいます。オー・ヘンリーの短編小説の一つです。若く貧しいジム・ヤング(James Young)と妻デラ(Della)は12月24日を迎えます。その年は特別に景気が悪く、給料も減ってしまいました。二人はいつもより厳しいクリスマスを迎えなければなりませんでした。

デラはこのクリスマス・イヴの日に愛する夫のために何かすばらしいプレゼントを買いたいと考えます。手許には、1ドル87セントしかありません。たったの1ドル87セントです。デラの目から涙がこぼれます。

しかし、デラが姿見の前に立ちお化粧を直していたとき、膝の下までとどく美しい髪の毛をみてすばらしいことを思いつきます。そして髪の毛を売る商人の元でバッサリと切ってもらいます。大事な髪の毛で20ドルを得ます。それをもってジムが祖父と父から受け継いでいた金の懐中時計に付ける「プラチナの鎖」を購入するのです。他方、ジムも愛する妻、デラのために何かすばらしいプレゼントをしようと考えていました。でもお金がありません。ジムは大切な懐中時計を質に入れ、デラが欲しがっていた「亀甲の櫛」を求めるのです。

ジムはいつもどおりにアパートに帰って来ました。扉を開いたジムは、デラの顔を見て棒立ちになります。デラのあの美しい髪の毛が無くなっていたからです。でもそれだけではありません。デラはジムの懐中時計もなくなっているのを知ります。二人はそれぞれが計画したことを話すのです。そして「私の髪はすぐ伸びるのよ!」 デラはいいます。

ジムが金時計を売って、デラの髪に飾ろうとした「亀甲の櫛」。デラが自分の髪を売って買った「プラチナの鎖」。どちらも贈りものを与え、贈りものを受けとるのです。

心に残る一冊 その8 「警官と賛美歌」

Last Updated on 2017年10月10日 by 成田滋

刑務所生活をしたことのあるオー・ヘンリーの短編小説には警官がしばしば登場します。ヘンリーは警官に対して特別な感情を持っているようです。今回は「警官と賛美歌」 (The cop and the anthem)という小説を紹介します。

主人公はソピー(Soapy)という野外生活者です。冬が近づくとソピーはブラックウエルアイランド刑務所(Blackwell Island Prison)で三ヶ月をおくることを常としています。温かい食事と寝床が用意され警官からどやされることのない快適な住み家なのです。舞台はニューヨークのマディソン・スクエア(Madison Square)のあたりです。

また冬が間近なのでソピーは刑務所生活を待望して、立派なレストランで最上の無銭飲食をしようと考えます。だがウエイターはソピーの穴の空いた靴や破れた服をみて追い返すのです。仕方なく六番街にやってくるとソピーは石を拾って窓ガラスに投げつけます。警官が飛んでくるのですが、二人の男が逃げていきます。警察はそれを追いかけるのです。またもやソピーは刑務所行きが失敗します。

今度は安っぽい食堂に入りたらふく食べて、店主に「金はない」といいます。てっきり警官に連行されるのを期待するソピーですが、二人の店員につかまれてほっぽり出されます。警官はにやにやして眺めています。次ぎに一人の若い女性がウインドウの前に立って中の品をのぞいているのを見つけます。側には背の高い警官が立っています。彼女は話しかけられるのを嫌がって警官を呼ぶだろうとソピーは考えます。
ソピー 「今晩は、Bedelia!, 一緒にあそびにいかないか?」
女 「いいわよ、Mike!」
女 「何か飲ませてくれる?あなたが話かけてくれるのを待っていたのよ。だって警官がこっちを向いているでしょう。」
そういうと女性はソピーの腕に手をまわします。次の角に来ると女は腕をといて立ち去ります。

とぼとぼと古い劇場街にやってきます。ソピーは劇場の前で酔っぱらったふりをして大声でわめき踊り出します。警官がやってきて、周りの人々にいいます。
警官 「あれは学生なんだ、怪我はさせないからやらせておけ、、」

なんど芝居をしても警官に逮捕されないソピーは、とある古い教会堂の前にやってきます。ステンドグラスから柔らかな光が溢れています。そこから賛美歌が響いてきます。ソピーが知っている賛美歌なのです。その音をききながらソピーは、昔の自分、仕事、友達、家族のことを想い浮かべるのです。自分の生き方をしみじみと振り返ります。そこに警官がやってきます。
警官 「なにをしているのか?」
ソピー 「いや、なにも、、、」
警官 「お前が考えていることは、、」

ソピーは警官と言い合いを始めるのです。
警官 「ニューヨークの警官と言い合いするのは無駄なんだ。ついてきなさい。」

翌朝、治安判事はソピーに三ヶ月のブラックウエルアイランド刑務所行きを命じるのです。

心に残る一冊 その7 「二十年後」 

Last Updated on 2017年10月9日 by 成田滋

庶民の哀歓や思いやりを描き出した短編の一つが 「二十年後」(After Twenty Years)です。オー・ヘンリーはかつて勤め先のオハイオ銀行で金を横領した疑いで服役した経験があります。ヘンリーは服役前から短編小説を書き始めていたようです。服役中にも多くの作品を密かに新聞社や雑誌社に送り、3作が服役期間中に出版されたといわれます。

刑務所での待遇は良く、獄中で薬剤師として働いていたため、監房ではなく刑務所病院で寝起きし、夜の外出許可まで出されていたようです。模範囚として減刑されやがて釈放されます。その後、本格的に短編小説を世におくっていきます。

ローワー・イースト・サイド(Lower East Side)に一人の巡査がパトロールをしてやってきます。時間はまだ夜10時になっていないのですが、小雨を含んだ冷たい風が通りから人々を追いたてていました。そこに男がやってきて、巡査に声をかけるのです。
 男 「今、友達を待っているんだが、、20年前にここで会おうと約束をしたんだ。」
 男 「おかしなことだろうと思うだろうが、、もしなんなら説明してもいいんだ。」
 男 「昔、ここにレストランがあったんだ。この店が立つ前のことだが。」
 男 「Big Joe’ Brady’sレストラン」という看板の店さ。」
 巡査 「五年前に立ち壊されたんだ。」
 男 「20年前の今夜、ここにあったBig Joe’ Brady’sレストランで友達のJimmy Wellsと夕食をしたんだ。2人ともニューヨーク育ちで兄弟のような仲だったな。やがて仕事を求めて俺はJimmyと別れ西部へ行ったんだ。その時、どんなことがあっても20年後に、ここで会おうと約束したのさ。」
 巡査 「いい話だな。その後、友達から便りがあったのか?」
 男 「しばらく手紙をやりとしたが、その後消息をつかめなくなった。」
 男 「だがJimmyが生きていれば、かならず約束を守るだろうと思って西部からはるばるここにやってきたのさ。」
 男 「10時3分前だな、、」

巡査は警棒をくるくると回しながら、仕事に戻ろうとします。
巡査 「友達は時間通りやってくるのか?」
 男 「30分は待つつもりさ。生きていればJimmyは必ずやってくるよ。」

約束の時間から20分後に長いコートを着た背の高い1人の男が路の反対側から待ち人の方向にやってきます。
 男 「Bobか???」
 背の高い男 「そういうお前はJimmy Wellsか??」
 男 「随分背が高くなったんじゃないか?」

2人は再会を喜び合うのです。そしてBobは背の高い男と腕を組み歩きながら20年間の出来事を語りだします。背の高い男は静かに聞いています。

街角の明るく輝くドラッグストアの前で2人はたちどまり、見つめ合うのです。その時男は叫びます。
 男 「お前はJimmy Wellsじゃないな、、、」
 背の高い男 「Silky Bob、お前は10 分前から逮捕されている。シカゴ警察はうちの管轄にお前が潜りこんだかもしれんと電報がきたいるんだ。だが、署に行く前にここにお前宛の言づてがある。先ほどのWells巡査からのものだ。」

「Bob、俺はお前との約束の時間と場所にいたんだが、お前がタバコをすおうとマッチをすったときに、シカゴ警察が捜している男だとわかったのだ。お前を逮捕するのは忍びなかったので、この男に頼んだ。」

心に残る一冊 その6 「最後の一葉」

Last Updated on 2017年10月8日 by 成田滋

高校の時に受験勉強を兼ねて英語で読んだもので、私の青春の忘れられない作品をいくつか紹介します。原名は「The Last Leaf」といいます。実に短い小説です。作者はオー・ヘンリー(O. Henry)。彼の本名はWilliam Porterといいます。

小説の舞台は、ニューヨークのワシントン・スクエア(Washington Square)にある芸術家が集まるアパートです。そこに二人の貧しい画家、ジョンジー(Johnsy)とスー (Sue)が暮らしています。生活は苦しいながら二人は助け合って生きています。ある日ジョンジーは肺炎を患います。医者から「生きる気力を亡くしている。このままでは回復する可能性は極めて少ない」とスーに告げます。人生に諦めかけ、なげやりになっていたジョンジーはベッドのうえで、窓の外の煉瓦の壁に這う枯れかけた蔦の葉を数えます。そしてスーに言い出すようになります。「あの葉がすべて落ちたら、自分も死ぬのだわ。」

老画家のバーマン(Behrman)が彼女たちの階下に住んでいます。酒が好きで、周りの者に「いつか傑作を描いてみせる」と言いふらすのです。そして絵筆を握らず人を小馬鹿にするような生活をしています。やがて老画家は、「葉が落ちたら死ぬ」とジョンジーが思い込んでいることを伝え聞きます。

ある夜、一晩中激しい風雨が吹き荒れ、ジョンジーは蔦の葉が一枚、また一枚と散るのを眺めます。翌朝、壁に這う蔦の葉は一枚になってしまいます。その次の夜にも激しく風雨が吹きつけます。ですが翌朝になっても最後の一枚となった葉が壁にへばりつくのを発見します。ジョンジーは奇跡的に生きる気力を取り戻すのです。

画家のバーマンは肺炎になり亡くなります。最後の一葉こそが、バーマンがいつか描いてみせると豪語していた傑作だったことをジョンジーとスーは知るのです。この一葉は息吹を与え命を奮い立たせる力があったのです。

心に残る一冊 その5 「死と愛」 

Last Updated on 2017年10月7日 by 成田滋

19世紀の後半から20世紀の中葉にかけ、社会のドグマに挑戦し人間の経験についてより豊かな理解を取り入れることを促したのがニーチェ(Friedlich Nietzsche)でありキルケゴール(Soren Kierkegaard)でありハイデッガー(Martin Heidegger)といわれた哲学者です。こうした運動は実存主義として知られています。それを精神医学に応用したのが実存分析(Existential analysis)と呼ばれ、現象学的精神病理学の一つの到達点とされています。この現象学は単一のものでなく、多くの異なった流派を内包しています。たとえばビンスワンガー(Ludwig Binswanger)の実存分析とフランクルの実存分析とは大いに異なっています。

ビンスワンガーは精神病理学の一つの観察様式や探求方法で患者の了解を深めることに役立たせようとする理論といわれます。他方フランクルの方法はロゴセラピーという臨床や治療に結びついてつけられているところに特徴があります。

本著の原題は「Aerztlich Seelsorge」。「医療的な魂のケア」とでも訳せそうです。「心理療法からロゴテラピーへ」、「精神分析から実存分析へ」、「心理的告白から医学的指導」の三章からなります。心理療法の臨床家を悩ます患者との世界観における対立の問題に洞察を与えます。

フランクは自分の患者で亡くなったつまを寂しく思うあまり悩む男を取り上げます。もし、患者が先に死んだとしたらどうなっていただろうかと問うと、「妻も同じように苦しんだろう」と答えます。

患者は自分の妻に深い悲しみを与えまいと気遣ってきたわけが、今やその悲しみを自分自身が蒙らなければならない。だがその苦しみは意味が与えられることで、耐えうるものとなっている。このようにフランクルは述べるのです。

人間像とは少しも観念的なものではなく、現実的、存在論的なものであるとフランクは主張します。従来の心理療法の彼岸にあったものを臨床心理学の領域に引き入れた功績が、こうした著作を読むと理解できてきます。

心に残る一冊 その4 「時代精神の病理学」 

Last Updated on 2017年10月6日 by 成田滋

原題は「Pathology Des Zeitgeistes」とい日本語訳では「時代精神の病理学」となっています。「Zeitgeist」とは「その時代のエートス」といった意味です。ヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl)は、フロイド(Sigmund Freud)やアドラー(Alfred Adler)の薫陶を受けた精神医学者です。後年はこの二人と袂を分かち、精神医学界にロゴテラピー(Logotherapy)という療法を創始していきます。その背景には、アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所の経験が基にあるといえそうです。

この著作は五年間にわたるラジオ番組での講演が下敷きとなっています。「精神医学の啓蒙という問題」、「老化の精神衛生」、「中年の精神衛生」、「不安神経症」、「宿命論的態度」、「睡眠障害」、「自分自身に対する不安」など、現代的な心理学や精神医学のテーマを取り上げています。大変わかりやすい内容であるのが特徴です。「科学者には表面的に分かりやすく書くか、または判りにくければ基本から書くの二つに一つしかない」というアルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)のフレーズを引用しています。

こうした講演の基調にあるのは、これまでの精神医学や精神分析学(Psychoanalysis)、個人心理学に対する強い疑念です。個人心理学は人間をただの自然物と考え、人間の精神性を見逃していると主張します。人の行動は無意識によって左右されるという基本的な仮説を退け、人間には衝動があるといっても、人間の最も本質的なものは衝動からは説明できないと看破するのです。

心に残る一冊 その3 「夜と霧」 

Last Updated on 2017年10月5日 by 成田滋

この著作は、私はこれまでいろいろな機会で紹介してきました。それほど強烈な印象を受けた一冊です。

第二次世界大戦中、何百万人というユダヤ人がナチスによって強制収容所に送られました。その一人が精神病理学者のヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl)です。収容所体験をもとに書かれたのが「夜と霧」です。原名は「強制収容所における一心理学者の体験」となっています。この本は、日本語を含め17カ国語に翻訳され多くの人々に読み継がれています。

私がこの本を読んだのは、フランクルが編み出した「ロゴテラピー(Logo Therapy)」という心理療法に関心をもったからです。彼は、収容所のなかでユダヤ人が生と死の狭間のなかで、生きていくことの意味を考えます。希望を持ち続けた者が生き延びることができたのを観察します。いうなれば、人間は様々な条件や状況の中で自らの意志で態度を決める自由を持っていると主張します。誰かが運命を決めるという決定論を否定するのです。人間は生きる意味を強く求める存在であることも強調します。意味への意志を持つ存在だ、というのです。そして、それぞれの人間の人生には独自の意味や価値が存在しているということです。

フランクルは次のように訴えます。

「人間の実存は本来決して現実に無意味になりえないことが明らかになる。すなわち、人間の生命はその意味を「極限まで」保持しているのである。従って人間が息をしている限り、また彼が意識をもっている限り、人間は価値に対して、少なくとも態度価値にたいして、責任を担っているのである。人間は意識存在をもっている限り、責任性存在をもっているのである。価値を実現化するという彼の義務は、人間をその存在の最後の瞬間まで離さないのである。」

“Say Yes to Life” それでも人生に意味がある、というのです。

心に残る一冊 その2 「三太郎の日記」

Last Updated on 2017年10月4日 by 成田滋

大学に入ると、周りの者がなにか変な思想にかぶれているように感じられました。先輩は「あれを読め、これを読め」といってせかすのです。1960年安保闘争後のことで、左翼といわれる学生が盛んにアジをとばしていました。立看が林立し学生による政治闘争がくすぶるキャンパスでした。そんな中で受験からの解放感も手伝って、手にした一冊が「三太郎の日記」です。

読んでいくうちに「三太郎」に託して語る著者、阿部次郎の内省が語られるのに新鮮さをおぼえました。主人公の三太郎は、自己を確立していく難しさを語ります。回りくどく、時に屈折している文章は青年のみずみずしい感受性や、思索のなかで迷う阿部次郎の姿そのもののようです。

「何を与えるかは神様の問題である。与えられるものをいかに発見し、いかに実現すべきかは人間の問題である。」

「弱い者は自らを強くするの努力によって、最初から強い者よりも更に深く人生を経験することができるはずである。」

「弱者の戒むべきは、その弱さに耽溺することである。自らを強くするの要求を伴うかぎり、われらは決して自己の弱さを悲観する必要を見ない。」

18歳の私には誠に新鮮な内容に思え、食い入るように読みました。

心に残る一冊 その1 定年退職後の読書

Last Updated on 2017年10月3日 by 成田滋

定年退職から十数年が経ちます。退職を機に持っていた本を整理しました。移り住むことになった東京の住み家がコンクリートの長屋なので、保管する場所があまりありませんでした。以前は研究室という誠に都合の良い保管場所がありました。

研究室を去るにあたり二つのことを考えました。「専門書は棄ててまだ読んでいない本を残す」、「学生時代に心に残った本を読み直す」ということです。いわゆる専門書のほとんどは、回収業者のところに持っていきました。中には学生時代に購入した岩波書店のものもたくさんありました。岩波書店には絶大な信頼を置いていました。

高校時代に、一教師より「沢山の小説を読むように」と言われたのが私の読書のきっかけとなります。この教師は英語の担当でした。それ以来、受験勉強の傍ら、大学での予習復習の合間に随分読むことができました。

大分すっきりした本棚には、また新しい本や書類が雑然と積まれています。捨てなかった大事な本ももちろんあります。ところで私の父も本の虫でした。定年後は部屋に閉じこもってはむさぼるように本に食い入っていたようです。そして、「”ユリシーズ”はなんど読んでもわからない」とか「”戦争と平和”はすごいけど、誰が誰だったかがわからなくなる」などといっていました。確かに、ロシア人の名前は似たところがあります。父がこんがらかったのも無理はありません。

”ユリシーズ(Ulysses)”はアイルランドの作家ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)の小説。”戦争と平和”はロシアのレフ・トルストイ(Lev Tolstoy)の作品です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来  その62  北マリアナ諸島

Last Updated on 2017年10月2日 by 成田滋

本稿で合衆国とニックネームの旅は終わりです。北マリアナ諸島自治連邦区(Commonwealth of the Northern Mariana Islands)は、ミクロネシアのマリアナ諸島のうち、南端のグアム島を除く、サイパン島(Saipan Island)やテニアン島(Tinian Island)、ロタ島(Rota Island)などの14の島から成るアメリカ合衆国の自治領です。主都は、サイパン島(Saipan)のススペ(Susupe)となっています。


北マリアナ諸島は、1919年から1945年まで日本が委任統治していました。日本からの移民は主にサトウキビやヤシを栽培していました。最盛期には3万人の日本人が生活していたといわれます。戦後、アメリカの信託統治を経て、現在は米国領の中でもコモンウェルス(commonwealth)という政治的地位にあり、北マリアナ諸島の住民は、アメリカ合衆国の市民権を有しています。他の州とは異なり連邦税の納税義務を有しない代わりに、アメリカ合衆国大統領選挙の投票権がありません。2008年よりオブザーバーの資格でアメリカ合衆国下院の委員会に代表委員を送ることが認められるようになりました。

「北マリアナ諸島連邦」と日本語訳されることがあるりますが、北マリアナ諸島は連邦制(confederation)をとっておらず、アメリカ合衆国と連邦の関係にあるわけでもありません。この連邦とは、コモンウェルス(commonwealth)とよばれる自治の形態で、他の国々と政治的、経済的につながりを持つことができます。このような扱いから準州(territory)とも呼ばれています。

北マリアナ諸島のニックネームはいろいろな資料を調べましたが見つかりません。「太平洋の真珠」(Pearls of the Pacific)とでもしておきましょうか。