北方領土を考える その十三 アイヌ語と美幌とレーション

Last Updated on 2016年12月31日 by 成田滋

はじめに。今年最後のブログ記事となりました。来年もどうぞお付き合いください。

子供時代の北海道のことを回想しながら、今年一年のブログも終わりとします。私は昭和20年、樺太から引き揚げて落ち着いたところが美幌です。親戚を頼って着の身、着のままやってきました。母と兄弟の四人でした。父は樺太で抑留されました。

美幌とはアイヌ語の「ピ・ポロ」。響きが素敵です。”水多く大いなる所ところ”という意味だそうです。生活し始めた美幌の家は長屋でした。風呂もなく週一度は街の銭湯へ歩いていきました。帰りは手ぬぐいがかちかちに凍るのです。板のように平べったくなります。布団の襟が吐く息でうっすらと凍り付いていたことを覚えています。

近年、市町村合併が進展し新しい名前を冠するところもあります。「つくば市」とか「さいたま市」です。これではいけません。美幌に新しい名前をつけるとすれば、「ピ・ポロ」とか「ピリカ」がふさわしいようです。私が町長になれば必ずそうするでしょう。地域の伝統と歴史を伝えるのが地名です。

美幌には色々な思い出があるのですが、その一つは昭和20年の秋に駐留軍が元の海軍航空隊施設にやってきたことです。チョコレートやチューインガムを兵隊がトラックからばらまいていました。ガキの私もそれをもらい、なんと甘いものかとむしゃぶりつきました。それとともにパイナップルの缶詰も珍しいものでした。レーション (ration) もそうです。携帯食品ともいえるでしょうか、乾パンから粉の珈琲、タバコまで入っていました。摂取すべきカロリーが計算されていたというのですから驚きです。

レーションを思い出すと、日米の彼我の差を感じざるをえません。戦争に負けて当然だったのです。戦争の唯一の楽しみは食事です。食事を通して命を大事にするかしないかが勝敗の分かれ目です。武士道精神だけでは足りないのです。旧海軍航空隊基地は、今は陸上自衛隊美幌駐屯地となっています。
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北方領土を考える その十二 松前藩と「シャクシャイン」

Last Updated on 2016年12月30日 by 成田滋

昔の北海道は稲作が不可能でした。人々はせいぜい馬鈴薯や小麦、トウキビによって生計をたてていました。漁業や狩猟の他、牛や馬、羊を飼っていました。細々と砂金とりも行ったいたようです。和人とは交易によって、獣皮や鮭、鷹羽や昆布などを鉄製品や漆器、米や木綿などと交換していました。

今でこそ北海道の米の生産量は作付面積とともに全国一位です。その中心は石狩、空知、上川といった平野です。しかし、この姿を明治の時代、誰が予測しえたでしょうか。 米作の先駆者に中山久蔵という人がいました。明治四年に広島から札幌郡広島村に入植した中山は、地米の「赤毛」と「白髭」を水田に植えます。これが米作の開始となります。その後改良を加えて日本一の生産量を誇るまでとなります。

少し遡って江戸時代の松前藩の歴史に触れます。江戸幕府は松前藩に蝦夷に対する交易独占権を認めた黒印状を慶長9年 (1604年)に発給したといわれます。黒印状とは墨を用いた印判を押した武家文書です。ブリタニカ国際大百科事典によると、朱肉を用いた朱印状が将軍の発行した文書に限られたのに対して,黒印は旗本や大名の発行するものに用いられた、とあります。

江戸時代の初期までは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていました。松前城下や津軽や南部方面まで交易舟を出してぶつぶつ交換していました。しかし、幕藩体制が進むにつれ幕府の黒印状により対アイヌ交易権は松前藩が独占して他の大名には禁じられることとなります。アイヌ民族にとっては対和人交易の相手が松前藩のみとなり、自由な交易が妨げられることとなります。

さらに、不利な交換条件を嫌い交易を拒否するアイヌに対し和人が無理やり交易を強要し、アイヌには和人への不満が広がっていきます。 不利な取引きや搾取が深刻化するにつれ、アイヌ惣大将同士による地域集団の争いが起こります。日高地方の静内川流域の領分や和人による砂金採取の保護を巡る争いです。やがて多数のアイヌ民族集団による対松前藩蜂起へと発展していきます。1669年6月に「シブチャリ」の英傑といわれた「シャクシャイン」を中心として起きた松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起です。シブチャリとは、北海道は日高にある新ひだか町付近の地名です。
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北方領土を考える その十一 松前藩と蝦夷

Last Updated on 2016年12月29日 by 成田滋

樺太生まれで北海道育ちの私には、北方諸島の話題をどうしても回顧したい気持ちに駆られます。父方の成田家、母方の吉田家はこの地で働き生計(たっき)をたててきました。戦後、抑留や引き揚げというヨレヨレの姿から平成に至るまでしぶとく生きてきました。引き揚げ以来、両親や親戚が島に一度も踏み入れる機会がなかった無念さのような心持ちを、ここで代わって回想しております。

古代のエミシは,主として奥羽地方以北の住人を指した語で,アイヌそれ自体を指した語ではないという説もあります。ただし、アイヌ人は奥羽地方にも散開してしていたはずですから、エミシはアイヌ人といってよいでしょう。

さて、室町時代になり津軽の豪族、安東氏を引き継いだのが渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏です。蝦夷地の総代官となります。渡島半島は道南部の松前や渡島、檜山地方のあたりです。1599年には蠣崎氏は支配地にちなんで松前氏と改名します。徳川幕府により、蝦夷全島の行政や交易に関する支配権を与えられ、松前藩となります。松前藩は石高による格付けを持たない例外的な藩となります。そしてエゾと和人との貿易を政治的に支配するのが松前藩です。

松前藩の行政権では、エゾの自由な往来や交易権の保障が規定されていたようです。それは「夷人に対する非文の儀」というもので、道理にはずれたこと、分不相応な対応をしてはならぬというものです。エゾは昆布や馬、毛皮や羽根などの特産物を和人にもたらし、代わりにエゾは米や布、鉄を得ていました。

そのためエゾは松前藩主からも賓客扱いされ、それまでの「ウイマム」という朝貢貿易を続けることができました。しかし、蝦夷地の奥地に入り込んだ和人の貿易商らの悪辣な搾取が積み重なるとともに東蝦夷における小さな反乱が起こります。廻船業者で海商である高田屋嘉兵衛らが箱館を拠点として活躍する少し前の時代です。淡路島出身の嘉兵衛は地元で酒や塩などを仕入れて酒田に運びます。酒田では米を購入し箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売るのです。嘉兵衛は稀代の商人です。詳しくは「菜の花の沖」でどうぞ。
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北方領土を考える その十 蝦夷の歴史

Last Updated on 2016年12月28日 by 成田滋

今、蝦夷開拓の歴史をアイヌの人々の生き方をとおして調べています。アイヌの古称は「エミシ」とか「エビス」と呼ばれていたことは既に述べました。エミシはもともと「勇者」の意味です。同時に「東の抵抗する勇者」ともされていました。「あらぶる人たち」、「まつろわぬ者たち」とされたエミシは「あずまびと」への賤称でありました。

国語辞典に「夷」はヒナともあります。漢字は「鄙」とも書けます。「鄙」とは卑しいとか田舎という意味です。「あずま」もヒナ=辺鄙ということになります。エミシは「ヒナ人」とされました。エミシは中央に従わない無法や無道と民とされていました。律令国家の統一に抵抗し、その支配と文化を受け入れなかったのです。体制側からすれば、政治的、文化的異民族で未開で野蛮な人たちであります。けだし人種上の異民族であったかどうかは議論されるところです。

平安時代の末、東北の人たちによって「夷」とは最北部の人たちだけについて呼ばれていました。北海道は「奥夷」の「胡国」でありました。ちなみに「胡国」とは野蛮な国という意味です。奥夷の島、夷狄の島、夷島が蝦夷でした。東北にとっては蝦夷は全くの外国です。

近世になるとアイヌの人々、エゾは「ウイマム」と称するいわば御朱印船で朝貢貿易を行っていました。中国は元や明王朝の頃です。その頃は、朝鮮は中国の支配下にありました。「ウイマム」とは「お目見え」という日本語に由来するようです。エゾには「ニシバ」と呼ばれる首長がいて、その中国からさまざまな貢物を受け、その品を下賜してその物資で交易します。この交易形態によって、「シャモ」と呼ばれた和人はエゾの支配を始め、それを継承していきます。シャモとは、海を渡ってきた新参者のことです。エゾはやがて和人領主と交易を巡って争いを起こします。

鎌倉時代、蝦夷地は流刑地とされていました。渡島半島南部は「渡党」と呼ばれ、その後の松前藩の中心となっていきます。鎌倉幕府は蝦夷地を津軽の土豪、安東氏に支配させます。安東氏の城下は津軽十三湊で、夷船や京船が集まって賑わったといわれます。この湊は今の五所川原市です。

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北方領土を考える その九 単冠湾と山本五十六

Last Updated on 2016年12月27日 by 成田滋

通常ならばとても「ひとかっぷわん」とは読めない地名が単冠湾です。択捉島の太平洋に面しています。湾口の幅は約10kmといわれ、天然の良港といわれます。ヒトカップとはアイヌ語で「山葡萄の樹皮」を意味します。hat(山葡萄)とkap(樹皮)の合成地名です。

1941年11月23日に大日本帝国海軍第一航空艦隊という機動部隊が密かにこの湾に集結し、同26日に真珠湾攻撃のため部隊がハワイへ向け出港した場所として知られています。当時の連合艦隊司令長官であった山本五十六らが練りに練った戦術が真珠湾攻撃という先制攻撃です。

山本五十六のことです。1918年から、当時から世界的に流布していたナショナル・ジオグラフィック(National Geographic)を購読していたというのですから並の軍人ではありません。1919年4月に35歳の若さでアメリカ駐在を命じられ、ハーヴァード大学(Harvard University)に留学します。アメリカ滞在中は各地を見聞し、多くの油田、大規模な自動車産業や飛行機産業など、彼我の物量の圧倒的な差にショックを受けたといわれます。アメリカの国力を知ることとなった留学経験がアメリカとの戦争に反対するきっかけとなります。

1929年11月には海軍少将に昇進し、ロンドン軍縮会議(Conference of the Limitation of Armament, London)に次席随員として参加し、軍縮案に強硬に反対するような気骨ある軍人だったようです。軍縮案の採択によってアメリカと日本の軍備力や国力の差が開くことを予見していたはずです。

帝国海軍の劣勢とアメリカ海軍の優秀さを知っていた山本は、もしアメリカ戦うとしたら、空襲による先制攻撃をし、然る後全軍を挙げて一挙決戦に出るほか勝ち目はないと考えていたといわれます。戦争が長引けば圧倒的な国力の違いで日本は負けると見通していたのです。こうした正確な判断によって、山本の慧眼さはやがて各国から賞賛されることになります。1905年5月の日本海海戦でバルチック艦隊(Baltic Fleet) を迎え敵前回頭と丁字戦法を考えた秋山真之参謀らの活躍も思い出されます。

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北方領土を考える その八 アイヌと北海道旧土人保護法

Last Updated on 2016年12月26日 by 成田滋

北方領土や北海道をもっと知るためには、どうしてもアイヌ語やアイヌ文化を知る必要があると考えています。北海道の市町村の名前はおよそ八割がアイヌ語に基づくといわれます。現在の地名は、アイヌ語で呼ばれていた地名がカタカナなどで記録され、類似する音の漢字が当てはめられたものです。

アイヌ社会においてはアイヌ語を文字表記しなかったようです。現在では北海道アイヌ協会が教科書で使用したラテン文字表記がある程度知られています。カタカナ表記はラテン文字の近似的な発音を表したものです。

道央の白老町にアイヌ民族博物館があります。ここにはアイヌ民族の歴史が伝えられています。アイヌの社会の特徴の一つとして、活発な交易を行っていたことが、近年明らかにされつつあります。13世紀後半の中国の資料には、黒竜江、アムール川下流域に勢力を伸ばしてきた「元」と、交易上のトラブルが原因で交戦したと記録されています。17世紀初頭のキリスト教宣教師の記録にも、北千島産の高価なラッコ皮をもたらす道東のアイヌや、中国製の絹織物を運ぶ天塩のアイヌの来航により、松前が繁栄している様子が記されています。また津軽海峡を渡って、自由に和人社会との交易も行われていました。

北海道旧土人保護法というのがありました。この法律は「貧困にあえぐアイヌの保護」が目的とあります。和人(シャモ)の進出や開拓政策のためにその生活圏を侵食され,窮迫するアイヌの人々に対し,土地の確保と農耕の奨励,教育の普及などを目的として制定された法律です。旧土人とは1878年の開拓使の達しによって統一されたアイヌに対する呼称です。農業に従事するアイヌに対して1万5000坪以内の土地を無償で払い下げること,土地の売買や譲渡、質入れを禁止することが規定されます。アイヌの集落には小学校を設置すること,などが法律の骨子ですが、結果的に次のようなことも強いられます。
・アイヌ固有の習慣や風習の禁止
・日本語使用の義務
・日本風氏名への改名による戸籍への編入

 

北方領土を考える その七 「蝦夷」とは

Last Updated on 2016年12月23日 by 成田滋

「蝦夷」とはアイヌの古称と言われます。白川静氏の「字通」にこの記述があります。もともと「エビス」、「エミン」又は「エミシ」とも言われます。「蝦」はエビという漢字です。ブリタニカ国際大百科事典によりますと「夷」は「エミシ」と呼ばれ、本来勇気ある者を指し、多く男性の美称として用いられたとあります。このように「蝦夷」とは東北北部から北海道、千島方面にかけての先住民に限られた使い方です。もともともは地名ではないのです。

「夷」についてもう少し触れます。この漢字の構成からして、「夷」は「弓人」の意味ではないかという説があります。弓と大との組み合わせで、大は人の意味。「大に従い、弓に従う」という意ともなります。ですから「夷」、「エミシ」は勇者となるというのです。

昔は「毛人」という用字がありました。古代「エゾ」は本来は「毛人」と書かれていました。このことは中国の史書である「宋書」にあるそうです。「蝦夷」という文字の日本語読みとしては「エミン」というのは古い使い方で、「エゾ」というのは新しい用字だったようです。日本書紀にも唐帝に蝦夷の男女二人が使節の中に随員として同行していたという記述があるそうです。やがて日本では、「毛人」 が 「蝦夷」という言い表し方をするようになります。

「蝦夷」についての中華思想は興味あります。「世界民族問題事典」(平凡社)によれば、中国では「夷」は狭い意味があって、「勇武な蛮族についてのみ用いられる」というのです。古代の蛮夷思想によれば、「蝦夷」という人々は政治的、文化的に「蛮族」の観念とされます。政治的に中央の権力に奉じない、文化的にも「華風」になじまないというのです。そのような理由で蛮族は「化外の民」として扱われてきました。「化外」と「辺境」が蛮民の住むところと考えられてきました。

「化外」の民は本州にもいました。東国の古名「あずま」は、「田舎」とか「辺鄙」の意味です。東北の古名は「道奥」で文字通り「道の奥」であり、政治や文化の外、「化外」の意味となります。東国、道奥の人々は古代の辺民、蛮族を代表することとなり、「エミシ」といえばそれは東夷、特に奥夷を意味し「蝦夷」となったという説です。

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北方領土を考える その六 択捉島の産業

Last Updated on 2016年12月22日 by 成田滋

ロシアによる北方四島の実質的な支配とその強化は、現地企業の成長にも表れているようです。その筆頭は択捉島に本社がある「ギドロストロイ社」(Gidrostroy) という企業です。自前の船団を有し漁業や水産加工から建設業、さらには金融まで手がけています。かつては洋上で、獲れた魚を日本の業者と直接取引していた会社です。サケマスやカニなどを択捉島や色丹島に4つある工場で缶詰加工しています。そのため需要が急速に伸びている中国や日本の他かに、欧米や韓国にも輸出するという成長振りです。

ギドロストロイ社はロシア政府から優先的に漁業権の割当を受けているといわれ、豊富な水産資源を押さえています。ロシアの産業はすべて政府の許認可によるものです。お役所仕事には賄賂や接待、汚職がつきものです。日本の企業も許認可に必要な書類の作成や待ち時間に悩まされていると報道されています。円滑に事を運ぶために、恐らくは袖の下を使っているはずです。

会社の規模ですが、10年前は500人ほどだった従業員の数は3,000人を超え、択捉島では就労人口の大半がギドロストロイ社で働いているといわれます。島内には直営のホテルやスポーツジム、温泉まであります。建設業は、空港、港、道路、住宅、軍事施設など多岐にわたります。こうした工事を請け負うのもギドロストロイです。高い賃金や安定した仕事を求めて出稼ぎ労働者が集まります。

ギドロストロイ社の成功に深く関わっているのが、性能の良い日本製の機械の導入といわれます。そのため日本人技術者がビザで入国しています。冷凍機のほか、水産物の加工用の切断機やイクラの分離をする機械、缶詰の生産プラントが必要です。機械の操作や加工技術の指導、さらに修理や部品交換のため日本人技術者がかかわっています。水産加工場の写真を見ると、昔稚内にあった沢山の加工場の姿を思いだします。スケソウダラの肉で竹輪を焼いたり缶詰を作っていました。

2013年には島に渡るために1,450メートルの滑走路を有する空港も造られました。サハリンを経由して飛行機で択捉島へ行くのが一般的なようです。

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北方領土を考える その五 Intermission 度忘れとアルツハイマー病の兆候

Last Updated on 2016年12月21日 by 成田滋

北方領土の話題を少し離れます。先日の朝、突然、それも全く思いもよらない経験をしました。朝食前にいつもどおりゴミをだし新聞をとりに行きました。そのとき、くらくらっとして新聞受けの暗証番号が浮かばなかったのです。四桁の数字で最後の数字は9であることは思い出しました。数字をいろいろと組み合わせましたが、どうしても開けることができません。仕方なく家に戻りました。暗証番号はもう9年間も毎日誤りなく使っていたので、ぞーっとしました。

少し冷静に考えてパスワードのリストにないかと探しましたがありません。四桁の番号は小さいほうから大きいほうに連なることは知っていました。そこで四桁の組み合わせをメモってみました。このとき[2]と[3]から始まり、大きい数字へ続くという思い違いをしていました。ですからどうしても開かなかったのです。[4]から始まる数字を試みるべきだったのです。

このように何度も数字の組み合わせを試みましたが開きません。新聞受けの前にあるエントランスには、数週間前に防犯カメラが設置されました。このカメラが気になりました。どうしても開かないので管理会社に連絡したところ番号を教えてくれました。実にあっけない数字の組み合わせだったのですが、ほんの僅かな違いだったのです。「2と3から始まる」という固定観念が四桁の数字の組み合わせを妨げてしまいました。

ただ単に組み合わせを覚えるだけでは、また同じ間違いをするはずです。そこで記憶と想起のための方略をと考えたのが、メモ帳に書きこんでおくという、なんていうこともない方法です。もう一つ、二つの偶数、二つの奇数が組み合わされるということをブツブツと繰り返すことでした。ついでに自宅と携帯の電話番号、郵便番号を何度も復唱しました。このような「度忘れの体験」 や記憶の障害がアルツハイマー病 (Alzheimer’s disease) の前兆なのかと思った次第でした。

ユダヤ人の名言に次のようなフレーズがあります。
「失敗とは、 あきらめてしまったときにのみ起こる現実なのだよ。」

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北方領土を考える その四 択捉島とニイタカヤマノボレ

Last Updated on 2016年12月20日 by 成田滋

択捉島の中部に単冠湾(ヒトカップワン)があります。太平洋戦争では忘れることのできないところです。1941年11月20日、日本海軍によりあらゆる船の島への入出港が禁じられます。厳しい情報統制下の単冠湾に南雲忠一中将率いる航空母艦6隻を含む軍艦30隻の機動部隊が集結します。この島外との徹底した情報の遮断は太平洋戦争が開戦した12月8日まで続けられたとあります。そして、大本営より機動部隊に対して真珠湾攻撃の「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が発信され、部隊は11月26日にハワイへ向け単冠湾を出港していきます。

ワシントンDCでは、日本とアメリカとの戦争回避のための条件を日本に発した文書、いわゆる「」ハル・ノート(Hull Note) を巡り、外交交渉が続けられていました。日本側は野村吉三郎駐米大使、来栖三郎特命大使、アメリカ側はコーデル・ハル (Cordell Hull) 国務長官でした。

1907年の第2回ハーグ会議で「開戦に関する条約」が作成され、締約国は最後通牒の形式なくして相互間に戦争を開始してはならないと定められました。山本五十六連合艦隊司令長官は、真珠湾攻撃の前にアメリカに対して外務省が交渉の打ち切りと大使らの引き揚げといった最後通牒をしたかどうかを懸念したはずです。「不意打ち」を避けようとしたのです。宣戦布告の前に最後通牒をすることが外交の礼儀でありました。

17 Nov 1941, Washington, DC, USA — Saburo Kurusu, (right) Japan’s special envoy for a “final attempt at peace”. Secretary of State Cordell Hull and Kichisaburo Nomura. (left) Japanese ambassador to the United States, arrive at the White House, November 17th, for an hour and ten minute conference with President Roosevelt. The President told Japan’s trouble-shooter that he hoped that a major conflict in the Pacific could be avoided. — Image by © Bettmann/CORBIS

戦争とはその始まりも終わりもスパイなどによる情報合戦です。1993年に択捉島を題材にした著作物に基づくテレビ番組「エトロフ遥かなり」という番組がNHKで四回わたり放映されました。大戦前夜、日本海軍の動向を探るため、憲兵に追われながらも単身択捉島に潜入した日系アメリカ人スパイの賢一郎と島で暮らす娘ゆきが恋に落ちます。彼女は賢一郎の正体を知らないのです。そして彼らを取り巻く、様々な思いを抱く人々。開戦前の緊張が伝わりました。演じていたのは沢口靖子や阿部寛です。

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北方領土を考える その三 択捉島

Last Updated on 2016年12月19日 by 成田滋

とても読むのが難しい地名が「択捉」です。「択捉島」という名称で始めて読める漢字ではないでしょうか。択捉島は「北方領土」の中で最大の島であり、島の大きさは、本州・北海道本島・九州・四国に次ぎます。英語名では「Iturup」。何となく「単冠」という当て字から由来するような英語です。後述しますが、択捉島の単冠湾(ヒトカップ)は歴史的に有名な地域です。

Ìåñòî äëÿ îòäûõà òóðèñòîâ íà ãîðÿ÷åì èñòî÷íèêå ó ïîäíîæèÿ âóëêàíà Áàðàíñêîãî. Êóðèëüñêèå îñòðîâà, îñòðîâ Èòóðóï.

@–k•û—Ì“y@‘𑨓‡

さて、択捉島は国後島の2倍、沖縄本島のおよそ2.7倍もあります。北方諸島の中でも最大の島です。日本の島々と比較すると次のようになります。択捉島>国後島>沖縄本島>佐渡島>奄美大島>対馬>淡路島という順になるほど大きいのです。火山の島で温泉に恵まれ、今も地熱発電による電力が供給されています。漁業資源はもとより金鉱などの地下資源もあり、その開発が待たれているといわれます。

第二次世界大戦末期、1945年8月28日に日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍により武力占領され、現在はロシア連邦の不法な実効支配下にあります。ロシア側行政区においては、国後島や色丹島とは別の行政単位であるサハリン州クリル管区に位置付けされています。

1946年1月、連合国軍最高司令部 (GHQ)から命令が下ります。日本の北方四島を含む千島列島の施政権を停止させるものです。しかし、この命令は日本の千島列島の領有権の放棄を命じたものではないことを知っておくべきです。かつての琉球や小笠原諸島のアメリカによる施政権の行使と同じです。

ソ連の占領後は、同島における日本人とロシア人との混住状態が1年以上続きます。日本人の本土引き揚げは、1946年12月から本格的に始まり1948年までにおおむね終了します。

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北方領土を考える その二 国後島と択捉島とアイヌ語

Last Updated on 2016年12月17日 by 成田滋

プーチン大統領と安倍総理との山口と東京における鳴り物入りの会談が終了。ロシアは「人たらしの術」によって北方領土はにべもなく、双方は四島については「特別制度による検討」、「共同経済活動」とやらで合意したそうです。経済協力先行を主張するロシアの手練手管に翻弄されたようです。

日露首脳会談

北方諸島の名称のことです。アイヌ語で「草の島」を意味するのが「国後」。アイヌの人々は「キナシリ」と呼んでいました。アイヌ語で「岬のあるところ」を意味するのが「択捉」。アイヌの人々は「エトゥ・ヲロ・プ」と呼んでいました。

択捉島の中心は紗那、しゃな、という部落でした。アイヌ人は「流れ下る川」を意味する「サンナイ」と呼んでいたとされます。戦前生まれの人なら択捉島を知らなくて単冠湾を知っているでしょう。そうです。真珠湾攻撃前に極秘裏に帝国海軍の連合艦隊が集結した場所です。アイヌ語で「ヒトカップ」と呼ばれました。ヒトカップとは「山葡萄の樹皮」を意味したようです。

国後島に住んでいたアイヌ人が「チャチャ」、または「チャチャヌプリ」と呼んでいた山があります。チャチャには「爺々」という当て字がついています。「チャチャヌプリ」とはアイヌ語ではお爺さんの山という意味だそうです。

樺太ですが、樺太アイヌ語では、「陸地の国土」を意味する「ヤンケモシリ」と呼ばれ、 北海道アイヌ語では「カラプト」と呼ばれたようです。江戸末期、松前藩の記録には「唐渡之嶋」とあるようです。

私が樺太で生まれた町は真岡(まおか)の由来です。真岡はアイヌ語で「マオカ」。その意味は「静かな場所」、もう一つは「マ・オカ」で川口が入江になっている海岸という意味だそうです。今はホルムスクと呼ばれています。最も大きな町は豊原でした。豊原の旧名は「オロコトイ」です。アイヌはウイルタ族をオロッコと呼んでいました。オロッコ・トイ(オロッコ族・原)からきた地名とあります。

先住民族のアイヌ、オロッコ(Orok)、ギリアーク (Gilyak)は北方諸島の地名と切っても切り離すことができません。

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北方領土を考える その一 北方諸島とアイヌ語の地名

Last Updated on 2016年12月16日 by 成田滋

ウラジミール・プーチン (Vladimir Putin)大統領が来日しています。山口と東京における安倍総理との会談がどんな成果を生むかが注目されます。会談の一つに北方問題を取り上げられるようです。日ロの平和条約に関して安倍総理は「新しいアプローチに基づく交渉」とか「特別制度による共同経済活動」とやらで臨んでいるようです。経済協力先行を主張するロシアは領土問題を棚上げしたいのは目に見えています。

国家の主権の大事な要素は領土、そしてそこに住む民族です。領土の帰属を主張する根拠とは、誰が見つけて占有を宣言するかではなく、誰が先住していたかということが20世紀以降の国際通念です。北方領土問題は占有と先住を巡る解釈、そして力関係です。そうたやすく解決する問題ではなさそうです。100年はかかるかもしれません。樺太生まれの北海道育ちの私も日ロの平和条約と北方問題の解決には大いに関心を持っています。

北方領土における千島や樺太、そして北海道にはアイヌ語を語源とする地名などが沢山あります。私が生まれた樺太の真岡は、アイヌ語の「マオカ」で静かな場所、「マ・オカ」という呼び名もあり、これは「川口が入江になっている海岸」という意味だそうです。小さいとき育った美幌はアイヌ語の水多く、大いなる所を意味する、「ピ・ポロ」、稚内はアイヌ語の「冷たい飲み水の沢」を意味する「ヤム・ワッカ・ナイ」、名寄はアイヌ語の渓流に注ぐ口という意味の「ナイオロプト」、旭川はアイヌ語で忠別川を指す「チュプ・ペッ」と呼ばれていました。「チュプ」は「日」、「ペッ」は川の意味でやがて「旭川」となったという説です。

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木枯らしの季節 その三十 「さまよえるオランダ人」

Last Updated on 2016年12月15日 by 成田滋

リチャード・ワーグナー(Richard Wagner) 作曲のオペラに「さまよえるオランダ人」 (The Flying Dutchman) があります。「楽劇王」と呼ばれたワーグナーです。「ニーベルングの指輪」(The Ring of the Nibelung)、「タンボイザー」(Tannhäuser)、「ローエングリン」(Lohengrin)、「トリスタンとイゾルデ」 (Tristan and Isolde) などを作曲しています。ブリタニカ国際大百科事典によりますと、楽劇とは 「ギリシア悲劇への復帰を理念とし,神話や伝説に題材を求め,言葉,音楽,身ぶりの融合によって総合的な劇作品となったもの」 とあります。私には歌劇と楽劇の違いはよく判別できませんが、、、

「さまよえるオランダ人」の話です。アフリカ最南端の喜望峰(Cape of Good Hope)で、オランダ人船長ファン・デル・デッケン(Hendrik van der Decken)が風を罵って呪われます。そして船は幽霊船となり、船長はたった1人で最後の審判の日まで彷徨います。船は今も湾に入れず近海をさまようという物語です。1780年代の話で、オランダは大航海時代のときで、世界を席巻していた貿易大国の裏話のようです。

「さまよえるオランダ人」のドイツ語は「Der fliegende Holländer」とあります。 “Holländer”には「オランダ人」のほかに「幽霊船」という意味があるそうです。”fliegende”とか”flying”が形容詞となっていますから「さまよえる幽霊船」 と訳すのも可能です。

“The Flying Dutchman”ですが、これを「空飛ぶオランダ人」と意訳してサッカー選手にも使われました。オランダの世界的な元サッカー選手にヨハン・クライフ (Johannes Cruijff) がいます。位置はフォワードとミッドフィールダー。柔軟なボールタッチで相手のタックルをはずし、フェイントで飛び越えたプレーに「空飛ぶオランダ人」とニックネームがつきました。さしずめ日本では釜本邦茂といったところでしょう。柔道や卓球、スピードスケートなどスポーツの盛んなオランダです。

これで「木枯らしの季節とオランダ」の話題は尽きました。

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木枯らしの季節 その二十九 ヨハネス・フェルメール

Last Updated on 2016年12月14日 by 成田滋

日本人好みというか、親近感の高い画家として挙げられるのがフェルメール (Johannes Vermeer) のような気がします。どこでも見られるような庶民の生活を描いた風俗画や街や田舎の風景が描かれています。オランダ絵画の黄金期17世紀オランダにおいて最も傑出した画家の一人で、Encyclopedia Britannicaでは、「たった36の絵画しか現存しないが、レンブラントと並ぶ17世紀オランダ人画家の最高峰とあまねく認められている」とされています。

その絵画ですが、人物では「レースを編む女」(Lacemaker)、「ギターを弾く女」(Guitar Player)、「牛乳を注ぐ女」(Milkmaid) 、「真珠の耳飾りの少女」(Girl with a Pearl Earring)、水差しを持つ女 (Young Woman With a Water Jug)、青衣の女 (Woman in Blue Reading a Letter)、窓辺で手紙を読む女 (Lady Reading a Letter)、手紙を書く女(Lady Writing a Letter) など女性がしばしば描かれているような印象を受けます。「娼婦」(The Procuress)の絵もあります。

どれも室内で描かれているせいか、なんとなく弛緩した時間の中に、庶民の暮らしが切り取られているような感じがします。どの絵からも日常の姿が描かれています。そしてどれも暖かい息遣いが伝わってきます。風景画に「デルフトの眺め」(View of Delft)がありますが、住んでいたデルフトの自宅からの風景のようです。自宅にある家具や食器が別な絵にも描かれているそうです。

宗教絵画の巨匠ともいわれるのがフェルメールです。なかでも有名なのが「マルタとマリアの家のキリスト」(Christ in the House of Martha and Mary) です。この絵の下敷きは、ルカによる福音書10章38~42節 (Luke 10:38-42)のエピソードです。ベタニア村(Bethany)に住む 姉マルタ(Martha) と妹マリア(Mary) の家に主イエスが訪れた時、主の説教に聞き入り、もてなしの手伝いをしない妹マリアを姉マルタが咎めるも、イエスは「マリヤはその良いほうを選んだのだ。彼女からそれを取り上げてはいけない」といってマルタに言い含めるのです。

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木枯らしの季節 その二十八 フィンセント・ファン・ゴッホ

Last Updated on 2016年12月13日 by 成田滋

私は絵画でも素人ですが、鑑賞は好きです。アムステルダムでは国立美術館とともにファン・ゴッホ美術館 (Van Gogh Museum) も立ち寄るべき所です。彼の描いた200点の絵画、風景画、静物画、沢山の手紙類が展示されています。

ポスト印象派の画家。日本ではヴァン・ゴッホ (Vincent van Gogh)と呼ばれていました。わたしも高校時代にはそう習いました。ですがオランダ人は「ファン・ゴー」と発音します。姓の一部であるVanは省略しないのです。ちなみにアルファベットの [V] はファ、[J] はイャというように発音します。オランダ語、ドイツ語、英語が混在して「Vincent van Gogh」の読みが日本では混在している印象を受けます。ここではオランダ表記とします。

ファン・ゴッホの主な作品の多くは1886年以降のアルル (Arles)とサンーレミ (Saint-Remy)にあったサンポール・ド・モゾル修道院 (St. Paul de Mausole)の精神病院での療養時代に制作されたといわれます。アルル地方は地中海性気候で、暑く乾燥した長い夏、穏やかな冬で知られています。療養しながら制作に打ち込むのに適した土地だったようです。ファン・ゴッホは感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、後期印象派を代表する画家といわれます。

印象派の絵画は、時間や季節の中に輝く光と色彩の変化を細かく描写します。人々が日常生活で醸す動きなどを詳細に描くことなどにも特徴があります。モネ (Claude Monet) やルノワール (Pierre-Auguste Renoir) などの作品をみるとそれがわかります。ところがブリタニカ国際大百科事典によればファン・ゴッホなどの後期印象派とは、 「印象派絵画の批判を継承しつつ、厳密な形態の復活、原始的な題材や激しい色彩の導入など」 に独自の特徴があるといわれます。

絵画のことは私にはよく分かりませんのでこの位とします。

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木枯らしの季節 その二十七 レンブラント・ファン・レイン

Last Updated on 2016年12月12日 by 成田滋

アムステルダムに行ったとき、ダウンタウンにある国立美術館に立ち寄りました。そこでレンブラント (Rembrandt van Rijn)の「夜警」 (De Nachtwacht)をみました。市民の自警団が集団の肖像画を発注した絵の一つです。描かれて人物は銃や槍、太鼓、旗を手にしています。各団員はそれぞれ表情を見せて異なった方向に体を向けています。皆帽子を被り服装もまちまちです。火縄銃に弾を込める団員もいます。子どもや犬も描かれています。完成は1642年とあります。光と影の明暗を明確にする技法を駆使したバロックの黄金期を代表する絵画の傑作といわれています。

バロック絵画の時代は宗教画や歴史画が頻繁に描かれます。当然レンブラントも宗教画、歴史画をたくさん描いています。例えば「放蕩息子の出戻り」(Return of the Prodigal Son)があります。ルカによる福音書15章11節(Luke 15:11-32)が主題です。この絵はただの宗教画ではありません。キリストもマリアも弟子も十字架も描かれていません。息子を抱く慈愛に満ちた父親、冷ややかに弟の帰りを見つめる兄弟がいるだけです。聖書のエピソードを情感を込めて描いた新しい宗教画といえましょう。

「夜警」を描く頃、レンブラントは家族の不幸に見舞われます。妻のサスキア(Saskia)との間に生まれた四人のこどものうち三人を亡くします。彼の子供のうち、成人を迎えられた者は1641年に授かった息子だけだったようです。「夜警」が制作された1642年にサスキアも亡くなります。画家としての名声を確立するのですが、家族との別れや経済的な困窮に苦しめられた晩年生活であったと記録されています。光と影の絵にレンブラントの生涯が描かれているのでしょうか。

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木枯らしの季節 その二十六 ピーテル・パウル・ルーベンス

Last Updated on 2016年12月10日 by 成田滋

ピーテル・ルーベンス(Peter Paul Rubens) のことは、本ブログ[その十八 オランダとフランドル]で児童文学書「フランダーズの犬」の物語に少し触れました。 オランダを代表する不世出のバロック期のフランドル(Flandern) の画家といわれています。祭壇画 (altarpiece)、肖像画(portrait)、風景画 (landscape painting)、神話画 (mythology)や寓意画 (allegory)も含む歴史画 (history paintings) など、様々なジャンルの作品を生みます。ルーベンスはアントワープ (Antwerpen) で大規模な工房を経営し、そこで作品を生み出します。それらはヨーロッパ中の貴族階級や蒐集家間でも高く評価されたようです。残した作品はスケッチを除いて1,403といわれます。

壁掛けなどに使われる室内装飾用の織物、タペストリー(tapestry)やそれを印刷したもの、自画像(self painting)、さらには自分の家までも設計しています。ルーベンスは画家としてだけではなく、古典的知識を持つ人文主義学者、美術品収集家でもありました。八ヶ国語に精通し、社交家として外交官としても活躍します。宮廷や富裕層から注文が殺到したといわれます。スペイン王フェリペ四世 (Felipe IV) とイングランド王チャールズ一世 (Charles I) からナイト (Knight) の爵位を受けています。

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木枯らしの季節 その二十五 バールーフ・デ・スピノザ

Last Updated on 2016年12月9日 by 成田滋

私は哲学や神学についてずぶの素人。一介の信徒として神学には僅かに関心があります。個人的な興味からオランダ人であり神学に触れているスピノザの汎神論を調べることにします。

バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza) は、オランダが輩出した哲学者です。デカルト (Rene Descartes)やライプニッツ(Gottfried Leibniz)と並ぶ合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論者(pantheism) と考えられてきました。

さてスピノザは、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのだというのです。どういうことかといいますと神とはすなわち自然のことで、自然とは人や物も含めたすべてのものと主張します。神と世界は相即的であって、それは同一の実在の二つの名称であると考えます。これは一元論的(monism)汎神論と呼ばれます。

スピノザが1677年に著した倫理学の哲学的研究書にエチカ (Ethica) があります。邦訳「エチカ-倫理学」として岩波書店から発行されています。これによりますと、彼の一元論が明快に描かれています。万物に原因があり、またそれ以上探求することができない究極的な原因が存在するとします。この究極的な原因が自己原因と定義されるものであり、これは実体、神、自然と等しいという立場です。神は無限の属性を備えており、自然の万物は神が備える無限の属性の様態であるというのです。こうした一元論はキリスト教やユダヤ教神学者から猛烈な批判を受けるのは必至でありました。

スピノザは、デカルトらの二元論 (dualism)を批判します。二元論とは原理としては善と悪、要素としては精神と物体などといった構成からなります。機械論的な存在である物質と思推といった実体が持つ能動性、いいかえれば自由意志の担い手という構成です。スピノザは、神即自然という一元論の立場から、自由な意志によって感情を制御する思想を認めません。心身合一という帰結として、独立的な精神に宿る主体的で自由な意志が受動的な身体を支配する、という構図を破棄するのです。スピノザは、個々の意志は必然的であって自由でないのだ、意志とか理性を個々の意志発揚の原因として考えられないのだ、とさえ断言します。誠に強烈な主張です。

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木枯らしの季節 その二十四  デジデリウス・エラスムス

Last Updated on 2016年12月8日 by 成田滋

オランダと日本との通交や「蘭学事始」から少し離れます。時代は16世紀のことです。オランダの著名な人文学者、ヒューマニストにデジデリウス・エラスムス (Desiderius Erasmus) がいます。 彼はカトリック(Catholic)の司祭、神学者、哲学者でありました。ロッテルダム (Rotterdam)の出身です。当時、ラテン語名には出身地をつける慣習があったそうで周りから「ロッテルダムのエラスムス」(Erasmus of Rotterdam)とも呼ばれました。

エラスムスは1509年にエッセイの 「愚者礼賛」(The Praise of Folly)を著します。愚かしい女神モリア (Moriae) が主人公です。彼女は雄弁、軽妙で洒脱、貴族や聖職者、神学者、哲学者ら権威者をやり玉にあげます。ローマカトリック教会の迷信を悪用する堕落したありさま、さらに人間の営為の根底には痴愚の力が働き、人間は愚かであればこそ幸せなのだ、と痛烈な風刺を交えた荒唐無稽ながらまじめな内容です。このエッセイは、聖書伝説やギリシアやローマの古典からの詳しい引用が根拠になっています。

文献に基づく確かな知識が大切であることを主張したのがエラスムスです。そのことは1516年に刊行した「校訂新約聖書」にも示されています。ギリシア語やラテン語の原典に立ち戻って新約聖書を改訂するという作業であります。彼は聖書を忠実に文章化し、地位や貧富、老若男女、言語の相違を越えて誰でもが聖書を読み、聖書にもとづく生活をできるようにするべきだと考えます。当時としては画期的な主張です。ラテン語で書かれた聖書を民衆は読むことはできなかったのです。

このようなエラスムスの主張はルターの改革理念である「万人祭司主義」(Universal Priesthood) を先取りしていたのです。聖書を民衆のものとすることをルター( Martin Luther)に先立って叫んだのです。ルターが1517年に提起した「九十五ヶ条の論題」 (The Ninety-Five Theses)で始まった宗教改革(Reformation)をして、「エラスムスが産んだ卵をルターがかえした」といわれる所以です。忘れてはならないオランダを代表する世界的な人文学者です。

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木枯らしの季節 その二十三 江戸幕末のオランダ人ーヘンドリック・ハーデス

Last Updated on 2016年12月7日 by 成田滋

ヘンドリック・ハーデス (Hendrik Hardes) は、幕末に来日したオランダ海軍の軍人で、日本最初の近代工場である長崎製鉄所の建設を監督した人です。カッテンディーケとともにやってきたオランダ第二次派遣隊の一人でありました。

幕府は、1855年12月に長崎海軍伝習所を開きます。やがて大型の造船所や修理所の建設が必要となってきます。当時伝習所の総監であった永井尚志はオランダに対し、建設要員の派遣を要請し、機械や類などの資材を発注します。永井は、外国奉行に任じられてロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約調印を行なった人物です。その功績で軍艦奉行として伝習所の総監になります。

fig1-01 43b1244f 20150219190501_21857年9月には、ヤーパン号(咸臨丸)と共にハーデスを始めとする建設要員11人も到着し、同年8月に長崎の浦上村に造船所の建設が始められ1861年5月に完成します。25馬力という蒸気機関で工作機械を稼動させたと記録されています。この造船所の建物用にハルデスは煉瓦作りを指導します。「こんにゃく煉瓦」、後にハーデス煉瓦と呼ばれます。明治初期の洋風建築にもよく使われた煉瓦です。

創設時は「長崎鎔鉄所」という名称でした。名前の通り、幕府の意図としては兵器生産などに必要な製鉄所としての機能を期待したようです。実際には練習船などの修理を行う造船所としての機能が大きかったようです。

長崎鎔鉄所では、幕府軍艦としては初の国産蒸気砲艦「千代田形」が建造されます。全長は31.3m、排水量は140トンで、装備は150mm砲一門というものでした。明治維新後、長崎鎔鉄所は長崎造船所と改称され、その後三菱重工業長崎造船所へと発展していきます。日本の造船業がやがて盛んになるきっかけとなります。

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木枯らしの季節 その二十二 江戸幕末のオランダ人ーー”ポンペ” ・ファン・メールデルフォールト

Last Updated on 2016年12月7日 by 成田滋

ヨハネス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johannes Pompe van Meerdervoort) は、オランダ海軍の二等軍医です。ユトレヒト (Utrecht)大学で医学を学びます。幕末に来日し、オランダ医学を伝えた人です。そのとき28歳でした。松本良順ら弟子達12名に最初の医学講義を行なったのが1857年11月12日と記録されています。場所は長崎奉行所西役所医学伝習所。やがて伝習所は長崎大学医学部へと発展していきます。伝習所では治療もしていたようです。患者の身分にかかわらず診療を行ったことでも知られています。そのためでしょうか、その後日本人からは親しみを込めて「ポンペ先生」(Dr. Pompe!)と呼ばれていたといわれます。

277 42f8c532 f2046c94ポンペは母校のユトレヒト大学医学部では所定の課程を経たのではなく、短期の植民地医官養成過程とでもいうべきコースを受けたといわれます。ただ篤実で熱心な学生であったようで、残したノートには講義の内容を綿密に記載していたといわれます。物理学、解剖学、組織学、生理学総論及び各論、病理学総論及び病理治療学、調剤学、内科学及び外科学、眼科学など広範囲に教えたというのですから摩訶不思議な医師です。

近代医学史関係資料「医学は長崎から」によりますと、1849年に長崎のオランダ人医師オットー・モーニケ (Otto Gottlieb Mohnike) や佐賀藩の医師であった楢林宗健らが長崎で始めて牛痘種痘を始めます。ですがポンペは種痘法が日本に紹介されて10年ほど経過しているにも拘わらず,依然として長崎では多くの人々が天然痘で苦しんでいることに驚きます。行政当局に対して強制的に接種をしなければならないと説いたのがポンペです。
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木枯らしの季節 その二十一 江戸幕末のオランダ人ーーヘルハルト・ライケン

Last Updated on 2016年12月5日 by 成田滋

幕末に来日してその後の日本の発展に寄与した三人のオランダ人を取り上げています。今回は二人目のヘルハルト・ペルス・ライケン(Gerhard Pels Rijcken)です。

220px-gcc_pels_rijcken_1860 pompekaikan nagasakinavaltrainingcenterオランダの海軍軍人のライケンは、幕府の軍艦建造の要望に基づきオランダ国王が幕府に寄贈した蒸気船スームビング号 (Soembing) の艦長であります。スームビング号は蒸気船で長崎海軍伝習所の練習艦となります。長崎海軍伝習所とは、幕府海軍士官の養成を目的としたものです。軍艦の操縦の他に造船や医学、語学などの様々な教育が行われたことが記録に残っています。

ライケンは大尉として1855年7月に長崎に到着し、スームビング号を幕府に引き渡します。この船はなぜか「観光丸」と名付けられます。幕府は同大尉以下22名の乗組員を教官として雇い入れ、長崎に海軍伝習所を開設します。教育班長となったライケンは正式なお雇い外国人として、二年間勝海舟らの幕臣や佐賀藩、福岡藩、熊本藩、鹿児島藩などの藩士に海軍の学科・技術などを教えます。また、オランダ海軍ピラール (J.C.Pilaar) の航海術書を教科書に用いて航海術に必要な基礎算術、代数、幾何、三角関数なども自ら教授します。藩士はオランダ語での教授をどこまで理解できたかどうか、はなはだ心配です。

次回紹介するメーデルフォールト(Johannes Pompe van Meerdervoort) は医学全般を教えます。これが日本における近代医学の始まりとなります。

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木枯らしの季節 その二十 江戸幕末のオランダ人ーーカッテンディーケ

Last Updated on 2016年12月3日 by 成田滋

幕末に来日してその後の日本の発展に寄与した三人のオランダ人を取り上げます。ウィレム・ヨハン・カッテンディーケ (Willem Johan van Kattendijke)、ヘルハルト・ペルス・ライケン(Gerhard Christiaan Coenraad Pels Rijcken)、ヨハネス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johannes Pompe van Meerdervoort)です。

220px-kattendijke 20140426122818898 20150202-2最初はカッテンディーケです。彼は徳川幕府が発注した軍艦ヤーパン号を長崎に回航したオランダの軍人です。ヤーパンとはJapanのこと、後の咸臨丸です。幕府が開いた長崎海軍伝習所の第一代教官ペルス・ライケンの後任として第二代教官となります。海防意見書を出した勝海舟、オランダへ留学し帰国後、幕府海軍の指揮官となった榎本武揚などの幕臣に航海術・砲術・測量術など近代の海軍教育を精力的に教えて日本海軍の基礎を築きます。

カッテンディーケが著した『長崎海軍伝習所の日々』(水田信利訳)によると、カッテンディーケは日本人の女性を観察しています。この本にはなかなか面白い内容が記述されてます。

「日本では婦人は、他の東洋諸国と違って一般に非常に丁寧に扱われ、女性の当然受くべき名誉を与えられている。もっとも婦人は、社会的にはヨーロッパの婦人のように余りでしゃばらない。そうして男よりも一段へり下った立場に甘んじ、夫婦連れの時でさえ我々がヨーロッパで見馴れているような調子で振舞うようなことは決してない。」

「しかし、そうだといって、決して婦人は軽蔑されているのではない。私は日本美人の礼賛者というわけではないが、彼女らの涼しい目、美しい歯、粗いが房々とした黒髪を綺麗に結った姿のあでやかさを誰が否定できようか。」

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木枯らしの季節 その十九 オランダと上野恩賜公園

Last Updated on 2016年12月2日 by 成田滋

なぜかオランダという国に惹かれる理由を考えてみました。一度の訪問、オランダ人研究者との交誼と紐帯、メイフラワー号の経緯と歴史、大航海に必要な地図の作製、航海術や帆船技術、蘭学の日本人への影響、シーボルトの探査と開国、司馬遼太郎の街道をゆく「オランダ紀行」などでしょうか。

ueno35 30751_fullimage_voc_overwinning_560x350_560x350 2be9403953f25dc657295fe01570cd9d「鎖国時代の日本にとって、暗箱にあいた針穴から射しこむほどのかすかな外光がオランダだった」と司馬はいいます。「プロテスタンチズムと資本主義の精神」の発露たる自律的で合理的な国民性が商業活動が育て、それが東インド会社につながりオランダに繁栄をもたらします。17〜18世紀のことです。江戸幕府も鎖国で唯一の交易相手国オランダに利権を与えながら、オランダの軍人や医者、技術者がもたらす西洋の文化をしぶとく吸収していくのが幕末と明治維新です。

アントニウス・ボードワン (Anthonius Bauduin)という軍医のことです。彼は長崎養生所、医学所教頭としてオランダ医学の普及に努めます。東京大学医学部の前身である大学東校と病院で働きます。さらに本国から後輩であるコーンラート・ハラタマ (Koenraad Gratama)を招聘して長崎および大阪で物理学や化学を教え日本の理化学教育の創始に貢献します。ボードワンは上野の自然の中に大学病院を立てる計画が持ち上がったときに、貴重な緑が無くなることを危惧し、一帯を公園にして残すことなども提言します。ボードワンらの努力で本郷に大学病院ができることになります。上野の恩賜公園にボードワンの業績を顕彰する「ボードワン博士像」が立っています。

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木枯らしの季節 その十八 オランダとフランドル

Last Updated on 2016年12月2日 by 成田滋

木枯らしの候、なんともいえない心地良い響きの地名にフランドル (Vlaanderen、Flandern) があります。フランドル地方は、オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域といわれます。日本では英語由来のFlandersですが、「フランダース」よりも「フランドル」の読みから暖かさを感じます。

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ORLANDO DI LASSO: MUSIC. Fastnachtslied, a German Leid, or solo song, composed by Franco-Flemish composer, Orlando di Lasso, 1547.

ORLANDO DI LASSO: MUSIC.
Fastnachtslied, a German Leid, or solo song, composed by Franco-Flemish composer, Orlando di Lasso, 1547.

nello-en-patrasche-3音楽では15世紀から16世紀にかけて、フランドル楽派と呼ばれる音楽家が輩出します。フランドル楽派は、ルネサンス(Renaissance) 音楽を代表する作曲家達の総称で、ネーデルランド(Netherlands)楽派と呼ばれていました。後のバロック (baroque)音楽の礎となりました。フランドル楽派の特徴は、複数の独立した声部からなる音楽、ポリフォニー(polyphony) にあります。ヤコブ・オブレヒト (Jacob Obrecht)、ジョスカン・デ・プレ (Josquin Des Prez)、ジョバンニ・パレストリーナ (Giovanni da Palestrina)、オーランド・ラッソ (Orlando di Lasso) らが作曲したミサ曲(mass)、モテット(motet)が有名です。

オランダにおける絵画も有名です。特にフランドル絵画は、毛織物業を中心に商業、経済が繁栄したことを背景にフランドル地方で発展したといわれます。バロック期にかけてルーベンス(Peter Paul Rubens) 、レンブラント (Rembrandt Harmenszoon van Rijn)、フェルメール(Johannes Vermeer)らが活躍します。

児童文学書で知られたのが「フランダースの犬 (A Dog of Flanders)」。舞台は19世紀のベルギー北部のフランドル地方です。少年ネロ(Nello)、祖父のダース老人(Jehan Daas)、忠実な老犬パトラッシュ(Patrasche)が主人公です。吹雪の中、ネロとパトラッシュはアントワープ (Antwerp)にある聖母大聖堂で憧れのルーベンスの二枚の絵の前にやってきます。キリストが十字架から降ろされる絵です。そして叫びます。

 ” I have seen them at last ! ” he cried aloud. ” O God, it is enough ! “

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