ユダヤ人と日本人 その6 なぜユダヤ人に関心を抱くのか(2)

Last Updated on 2015年2月28日 by 成田滋

私がユダヤ人に関心を抱くきっかけとなったもう一つの理由は、その民族の不思議な歴史にある。これほど流浪を続け迫害を受けた人種はないであろうと思うほどである。旧約聖書にある出エジプト記にある「エクソダス」(Exodus)はユダヤ人の流浪の始まりである。そうして全世界に離散(diaspora)していく。

「エクソダス」は、旧約聖書の申命記(Deuteronomy)などで記述される「乳と蜜の流れる場所(a land flowing with milk and honey—the home of the Canaanites)」、「豊穣の地」、「 恩寵の地」、「安住の地」を求める旅である。神がアブラハム(Abraham)の子孫に与えると約束したカナン(Canaan)である。カナンは地中海とヨルダン川、そして死海に挟まれた地域といわれる。

離散された民、ディアスポラは離散先での永住と定着を示唆している。そこには偏見や差別に満ちた世界でもある。だが彼らは難民ではない。難民は元の居住地に帰還する可能性がある。ディアスポラにはそれがない。

近代の「エクソダス」は中東からヨーロッパへの大量移住がよく知られている。ユダヤ系のディアスポラのうちドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々とその子孫はアシュケナージム(Ashkenazim)と呼ばれる。語源は創世記10章3節に登場するノア(Noah)の子孫として「アシュケナズ」(Ashkenazi)である。

アシュケナージムの離散の歴史を調べると、まさに過酷さのそれといえそうである。その最たるものが、精神科医ヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl)の「夜と霧」に記される強制収容所送りであろう。この体験記の翻訳はみすず書房から1946年に出版された。
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ユダヤ人と日本人 その5 なぜユダヤ人に関心を抱くのか(1)

Last Updated on 2015年2月27日 by 成田滋

このシリーズの最初に記したが、私には留学中にお世話になったユダヤ系のアメリカ人がいる。現在、ミルウォーキー(Milwaukee)の郊外で整形外科の医師をしている。熱心なロータリークラブ(Rotary Club)の会員で週一の例会は欠かしたことがない。出張したときは、近くにある別のロータリークラブの例会に出席するのだそうだ。奉仕活動にも積極的に参加し、中南米の医療チームに加わったりした。

私は国際ロータリインターナショナル(Rotarty International)からの奨学金でウィスコンシン大学で学ぶことができた。そのスポンサーがこの人である。名前はDr. Robert Jacobsという。Jacobsとはユダヤ人の名、「ヤコブ」と日本語では表記される。

大学に入って早々、留学生を迎えるためにマディソンまでワゴン車で迎えにきてくれた。そしてご自宅にホームスティさせてくださった。その時、ご自身が長老をされているシナゴーグ(Synagogue)に連れて行ってくれた。礼拝所に入る前にヤマカ(yamaka)という帽子をちょこんと頭に載せた。Dr. Jacobsは熱心なユダヤ教徒である。

さてユダヤ教のことである。ユダヤ教がキリスト教と一線を画する点は、新約聖書(New Testament)イエス・キリスト(Jesus Christ)の誕生には言及しないことだ。旧約聖書における唯一の神、ヤハウェ(Yahwe)を拠りところとする。ヤハウェは全世界の創造神とされる。なお新約聖書では、エホバというように使われる。

ユダヤ人の精神性は二つの律法から形成されていると考えられる。一つはトーラ(Tola)である。モーゼが記したといわれる旧約聖書の最初の5つの書のことを指す。トーラは律法のことである。もう一つはタルムード(Talmud)である。ユダヤ人の生活、宗教、道徳に関する口伝で語り継ぐべき教えの集大成である。

Dr. Jacobs家の先祖は、第一次大戦後、東欧ポーランドのあたりから迫害を逃れアメリカ大陸に移民してきたのだそうだ。人種差別や迫害の歴史はユダヤ人のことであるといっても過言でないほど、翻弄されたものである。私はこのことをDr. Jacobsから教えられた。
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ユダヤ人と日本人 その4 「Le Concert」から考える(4)

Last Updated on 2015年2月26日 by 成田滋

ユダヤ系ロシア人音楽家の苦悩と喜びを描いた映画「Le Concert」の大団円である。

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そして遂に公演の夜になる。パリ市内で好き勝手なことをしてた団員は、携帯電話からの連絡で公演がリアを追悼する演奏会であることを知らされ劇場に集まってくる。だが一度もリハーサルはしていなかった。

その間、ボリショイ劇場の支配人がたまたまパリに休暇にきていた。そして偽のボリショイ楽団の演奏会のポスターを目にする。あわてて演奏を中止しようとする。マネージャーのガブリロフは支配人を清掃具入れに押し込めて演奏中止を阻止する。

公演の幕が上がる。だが練習不足やリハーサルなしのぶっつけ本番で調子っぱずれの演奏が始まる。聴衆はざわつく。それでも、団員が自主的にハーモニーを引きだそうとするアンドレの演奏の理念を団員は知っていた。そして、アンマリーの類い稀なるヴァイオリン独奏の技巧は聴衆を魅了する。彼女の技巧は、実は母親であったリアが注釈をつけた楽譜から学んだものであった。

公演は大成功裏に終わり、その後この楽団はアンドレを指揮者とする「アンドレフィリポ・オーケストラ」として再出発する。世界各地での演奏会にはアンマリーがいつも独奏者として同行するのだった。

この映画は偏見と差別、迫害を描いて残酷である。ユダヤ系ロシア人は長い厳しい道を歩んできた。それでもなお弛まなく挑戦する姿に共感と感動を与えるのである。

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ユダヤ人と日本人 その3 「Le Concert」から考える(3)

Last Updated on 2015年2月25日 by 成田滋

 

ソ連体制から”ユダヤ主義者は人民の敵”と称されたユダヤ系の演奏家の矜持を描いたフランス映画「Le Concert」の続きである。
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いよいよ、なりすましのボリショイ楽団はパリ公演にでかける。パスポートを業者に偽造させたり、楽器は借り物、演奏会用の洋服や靴をそろえるなどドタバタが続く。そしてパリにやってくる。だが団員は物見遊山ツアー気分で、パーティを楽しんだり、持参したキャビアを売ったり、タクシーの運転手などをして金儲けを始める。団員は集まらずリハーサルは流れてしまう。

このような団員のプロ意識の低さやアンドレの音楽界復帰のチャンスという意図に嫌気をさしたアンマリーは出演を断る。それをきいたチェロ奏者のアブラモビッチは、彼女に対してこの公演はアンマリーの過去や未だに会ったことのない両親を思い起こす機会となるとして出演を説得する。アンマリーは、幼い頃から両親は科学者で、アルプスで亡くなったきかされていた。

アンドレと妻のイリーナ(Irina)はユダヤ人音楽家であったリア、イヤーク・ストルム夫妻( Lea and Yitzhak Strum)の親友であった。リアはヴァイオリン奏者で、KGBによって演奏を停止させられた時のヴァイオリン奏者であり、指揮者はアンドレであった。

二人は自由ラジオヨーロッパ局やアメリカラジオ局を通じてブレジネフ政権やKGBの圧政と弾圧に公然と批判する。KGBが二人を連行しようとしたとき、二人はフランスからモスクワに公演にきていた楽団で演奏していたギレーネ(Guylene)に乳飲み子を託し、ギレーネはその赤子をチェロのケースに隠してパリに逃れるのである。その赤子こそがリアの娘アンマリーであった。
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ユダヤ人と日本人 その2 「Le Concert」から考える(2)

Last Updated on 2015年2月24日 by 成田滋

ソ連の政治体制への批判やユダヤ系ロシア人の気概がおかしみと真剣さを込めて描かれているフランス映画「Le Concert」の2番目のプロットである。

KGBのエージェントであったガブリロフ(Ivan Gavrilov)は、アンドレのパリ公演案を彼なりに注目し、一儲けをしようとしてアンドレのマネージャとなる。だがアンドレから公演を持ちかけられたかつての首席チェロ奏者アブラモビッチ・グロスマン(Abramovich Grossman)はこの計画に疑心暗鬼であったが、結局それに加わることにする。

ガブリロフとアンドレは、シャトレ劇場に対していろいろな要求をつきつける。パーティとかセーヌ川船上での夕食会などである。それは、ロスアンジェルス交響楽団を招くよりも費用が安いというのが要求の理由であった。また、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の演奏者をパリに在住するアンマリー・ジャケ(Anne-Marie Jacquet)とすることも要求する。

ところがアンマリーはこの協奏曲を一度も弾いたことがなかった。だがボリショイ楽団と演奏したかったこと、さらにロシア以外でも有名だったアンドレと一緒に演奏したかったので、演奏依頼を引き受ける。

アンマリーの付き人であるギュレーネ・リビエラ(Guylene Riviera)は実はアンマリーの養母であった。彼女はこの演奏会にアンマリーが出演することにためらっていた。その理由は、ギュレーネがアンドレの過去を知っていたからだった。

さて、なりすましのボリショイ楽団は知名度の高かったマフィアのボスから支援を受ける羽目になる。このボスは自分も技術は酷いのだが舞台でチェロを弾きたいと願い出る。
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ユダヤ人と日本人 その1 「Le Concert」から考える(1)

Last Updated on 2015年2月23日 by 成田滋

しばらく「ユダヤ人と日本人」というテーマを考えていく。私個人の留学におけるユダヤ系アメリカ人スポンサーとの交誼、戦前の杉原千畝氏の活躍や満州で近所に一緒に住んでいた白系ロシア人との付き合い、父や叔父が樺太で抑留されていたときのロシア人との交流、1970年頃読んだ「日本人とユダヤ人」と著者イザヤ・ペンダサンなどがこのテーマの下敷きになっている。

「Le Concert」という映画を観た。2009年にフランスで製作された。一見コメディ風だがロシアの政治体制や人種、マフィアなどへの風刺もきき、音楽の素晴らしさを交えながら、社会問題を掘り下げた味わい深い佳作である。特に体制への批判やユダヤ系ロシア人の気概がおかしみと真剣さを込めて描かれている。

さて本シリーズは、映画「Le Concert」のあらすじから始める。舞台はモスクワ(Moscow)のボリショイ(Bolshoi Theater)劇場である。かつてボリショイ歌劇場交響楽団(Bolshoi Theater Ochestra)で世界的な指揮者「マエストロ」といわれたアンドレ・フィリポ(Andrey Simonovich Filipov)は、今は同劇場の掃除夫として働きアル中になっている。

アンドレは30年前に、当時のブレジネフ政権(Leonid Brezhnev)によるユダヤ人楽団員の排斥に抵抗したために、チャイコフスキー(Tchaikovsky)のヴァイオリン協奏曲を演奏中にKGBのエージェントであるイワン・ガブリロフ(Ivan Gavrilov)によって中止させられ、団員とともに楽団を解雇され掃除夫となる。

劇場支配人の部屋を掃除しているとき、一枚のファックスがでてきた。アンドレはそれを手にとって読むと、パリの有名なシャトレ劇場(Chatelet Theatre)からのもので、ロスアンジェルス交響楽団(Los Angeles Philharmonic Orchestra)の代わりにボリショイ楽団にパリで演奏してもらいたいという招待状であった。アンドレはそのファックスを手にして、かつての団員に呼びかけオーケストラを組織し、ボリショイ楽団になりすましてパリで公演しようと画策する。

古いユダヤの音楽やジプシー音楽を弾いているかつての団員など、追放された仲間に声をかけてチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をシャトレ劇場で演奏しようと持ちかける。この曲はKGBによって中止に追い込まれた怨念の曲であった。
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無駄から「無」を考える その8 ゼロと帰無

Last Updated on 2015年2月22日 by 成田滋

「無駄から無を考える」シリーズの最後の稿となった。

我々が毎日使っているコンピュータは、電子計算機という別称のように計算が大得意である。電卓もそうである。だが計算は0,1,2,,,,9 という十個の数字による、いわゆる十進記数法そのままで行われるのではない。日常使う「十進法表記」をコンピュータ内部で「二進法表記」に書き換えた上で、加減乗除がなされ、その結果を十進法表記に書き戻している。

二進法表記とは、「0」と「1」という二つの記号だけであらゆる「自然数」を表す方法である。ここでも位取り記数法が使われ、十進法表記となんら変わりない。コンピュータでは、たったの二つの数字しか必要としない。「0」を「無い」、「1」を「ある」、あるいは0を「No」、「1」を「Yes」としている。「0」と「1」使う二進法の効用とは、あらゆる計算をこの二つの数字で行うことができることである。「0」がいかに重要な数字であるかをいいたいのである。

ゼロに似た語に「null」がある。英語では「ナル」と発音されるがこれは「何もない」という意味である。ラテン語で「無」を意味する「nullus」に由来し、ドイツ語でもnullは0を意味する。英語では、「null」 はzero または empty と交換可能である。例えば、零行列でいうnull matrix は zero matrix、空集合でのnull set は empty setという具合である。

統計学でも「null」が使われる。帰無仮説とされる「null hypothesis」である。帰無仮説とは、ある仮説が正しいかどうかの判断のために立てられる仮説のことだ。例えば、「男と女で読書時間に差はない」とか「二つの薬の効果は同じだ」といったことである。

帰無仮説は棄却されて始めて研究者の調査や実験の意図が達せられる。この意味で無に帰される仮説と呼ばれる。大抵、研究者は否定されることを期待する。だが帰無仮説が採択されたからといっても,必ずしも帰無仮説として立てられた内容が正しいことにはならない。確率と実際の事象には違いはある。従って「無に帰せられる」といってもゼロになるとは違う。ここが少々悩ましい。

無駄から「無」を考えてきたつもりだが、どうもテーマが複雑で筆者の理解はまだまだ十分ではない。多くの時間をかけて調べ、考えてきたことが無に帰するようなのだが、無駄ではなかったと振り返っている。
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無駄から「無」を考える その7 「ゼロということ」

Last Updated on 2015年2月21日 by 成田滋

中国への仏教の伝来は一世紀頃と推定されている。仏教伝来以前の中国、紀元前六世紀頃は老子や荘子らの道家思想でいう「無」が広く受け容れられてきた。「無」とはゼロの観念とは異なり「無と有の中間の存在」と考えられたということが日本佛教文化辞典や諸氏百家にみられる。

仏教の根本問題である「空」との関連である。数学的には「0=ゼロ」を意味するのか? XとYという座標軸に沿っている記号を根源で支える点(原点)、ゼロ記号としてのこの支点がなければ、X軸もY軸も存在しない。ゼロは抽象的な形体や世界を指示するための象徴記号として作用している。この0の発見によって無限の数列が可能になった。このような考え方は、インド仏教の根底に流れる思想といわれる。

我々が通常使っている数字は算用数字。これはアラビア数字(Arabic numerals)のことだがもともと起源はインドにあり、インド数字(Indian numerals)とも呼ばれる。それに対してローマ数字(Roman numerals)は文字の組み合わせである。ローマ数字はラテン文字(Latin)の一部を用い、例えば I, II, III, Xという具合である。ローマ数字に「0」という文字はないのも特徴とされる。1000を超える数の表記法は複雑だった思えるが、それには大きな数を扱う機会が少なかったためという説もある。ともあれローマ数字は表記が長いので数字としては限界がある。

珠算というそろばんを使った計算は誰もが一度は経験したことである。そろばんによる計算は、縦の1列が十進法の1つの桁を表していて、上の桁から順次下の桁に降りて計算を行う。これは筆算と異なる点である。十進法であるから0は存在することになる。このとき、そろばんでも筆算でも、無意識のうちに位取りを使っている。

筆算のよいことは、位取りの位置が記録に残り、正否を確認できることだ。そろばんや電卓はそうした記数法は記録に残らない。「零の発見」(岩波新書)の著者は、「アラビヤ文字の占めてきた役割は主として記数数学としての役割だった。位取りの記数方法にまさる記数法は考えにくい」という。パピルス(papyrus)から始まるといわれる紙の上での記録が記数方法の重要さを物語る。
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無駄から「無」を考える その6 サンスクリット語の「シューニャ」

Last Updated on 2015年2月20日 by 成田滋

日本佛教語辞典によれば、「空」という語は、古代から中世にかけてインドで使われていたサンスクリット語(Sanskrit)の「シューニャ(Sunya)」ということである。真に実在するものではなく、その真相は空虚とされる。空なることは空性と呼ばれる。このような見方を空観と呼ぶ。サンスクリット語は今もヒンドゥー教(Hindu)や仏教における礼拝用言語である。

アラビア語で「sifr」: シフルという語があるという。その意味は「空」と翻訳されたとある。この「sifr」が、13世紀のはじめ、アラビア記数法、後のインド記数法が伝わったイタリアでラテン語化して 「zephirum」となったようだ。そして最終的には「zero」という語に変化した。一方、中世ヨーロッパの数学界では「ゼロ」をあらわすために、もとのアラビア語とほぼ同じ語である「cifra」(数字)を長く使い続けた。ゼロ、0といったアラビヤ数字を意味する英語は「cipher」という。「cipher」は、「sifr」とか「cifra」が語源であることがわかる。

サンスクリット語の「シューニャ(Sunya)」はなかなか興味深い。この語はやがてフランス語のシニフィエ「signifie」, とかsignifierなど「意味する」とか、「表している」という語に発展したとか。記号表現、記号内容といった使われ方をする。英語の「signify」とか「significant」にあたることはいうまでもない。「意味ある」ということを指す。

「空」がゼロとなり、0が意味ある表記となったのはインド哲学の偉大な貢献の一つといえそうである。
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無駄から「無」を考える その5 「無私ということ」

Last Updated on 2015年2月19日 by 成田滋

「私」を無にすることは、無心になることであり、それは「私」を自然に近づけることであるとされる。自然に近づいた「私」が自我を離れた無心の自己になる。

無私とは心を「空」にすることでもない。心が初心であり続けること、いつも自然や他者と共鳴し続けることのできる「無心」の状態にあることである。これは漱石の文学観とも解されている「則天去私」の境地かもしれない。「天に則り私を去る」と訓読する。

総合佛教辞典によれば、仏教における空は、存在論的な虚無や空虚といったことを意味するものではない。存在と非存在、あるいは客体と主体といった二元論的な構図の中で、その一方を否定するものではない。

さらに佛教辞典によれば、事物の無常性、変化性、消滅性を表現するとき仏教では「色即是空」という。「色」とは法とか事物のことであり、それが無常であることを「空」という語によって説明している。法とは、制度、習慣、宗教、法律、道徳、正義といったことを示唆する。しかし、「空」はこの法の常性、永遠、持続の観念を否定したものではない。

佛教辞典は次のようにも云う。「法の空は、一切の現象を否定的に説明するための言表であるよりは、一切の現象を肯定的に説明するための象徴であるという順接の関係をいう。」一切の現象が有として存在するためには、空の構造において始めて可能になる、ということのようである。

非常に難解な解釈であるが、どうも数学の「零の発見」に近づいているように思える。
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無駄から「無」を考える その4 「無常ということ」

Last Updated on 2015年2月18日 by 成田滋

前回、自然のままで作為がないこと、因縁とか業によって生成されたものでないことが「無為」であるということについて考えた。それは、変化とか消滅を離れた永遠の存在、涅槃とか悟りの有り様であるらしい。仏教の説話が紹介されている今昔物語は「今となっては昔のことだが、、」で始まる。その中で作者は、「永く無為を得て、解脱の岸に至れり」と宣言している。

さて無常ということである。時の経過に伴って絶えず流動し変化するにつれて、あらゆる事もまた生滅流転する。すなわちこれが無常といわれる。このように無常観は単純にして明快な世界観のようである。

仏教文化事典によれば、日本人が無常観を受容していく過程には二つのタイプがあるといわれる。一つは自分の経験を積むなかで無常を身もって体験し認識することである。経験から帰納する認識である。二つ目は無常を絶対的な命題としてとらえ、それを無条件で受容することである。演繹的に無常を考えるのである

死とか滅亡という否定的な契機によって認識される帰納的な無常においては、無常は招かれざる客として消極的に享受される。体験という過去に注がれて感傷的な性格が顕著となる。だが、演繹的な考えでは、無常は進んで求めるべきという立場だ。なぜなら無常をテコにして将来の解脱が約束されると考えるからである。死を受容し残された時間を生きようとする態度にこの演繹的な無常観が表れている。

筆者の家族史にも、長年ガンと闘い死に向き合い死を受けとめた者がいる。

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無駄から「無」を考える その3 「無為自然」

Last Updated on 2015年2月19日 by 成田滋

今回は、中国、老子の思想からである。「無為自然」という四文字熟語である。「無為」という言葉だが、文字通りなにもしない、という意味である。だが、無為とは「知や欲を働かせず自然に生きること」とある。

総合佛教辞典によれば、「無為」とは万有を生み出し万有の根源となるもの、有と無との対立を絶したものとされる。「全力を尽くすが、その先は天地自然、気の流れに任せるのがもっとも自然で最も幸福な生き方」これが老子らの教えといわれる。

貝塚茂樹の「諸子百家」(岩波書店)には「有と無の超越」という章がある。「道は常に無為にして、しかも為さざる無し」、「故に有の利たるは、無の用をなせばなり」とある。いよいよもって複雑である。さらに「無為自然」とは、「人間や政治の理想的なあり方」とか「万物が道に順って生きる基本となる立ち位置」と云われるのだが、、、

この地球という生命体が今危機に瀕しているという説が広く行き渡ることを勘案すると、「無為自然」は首肯できる概念といわざるを得ないのである。「万物が道に順って生きる基本」からはずれた人間と国のエゴイズムが地球体を危機に陥れているとも考えられるからである。我々の次の、そのまた次の世代に引き継ぐべき地球という共同体は「無為自然」に反する人間の勝手な行為によって危機を迎えているといわれる。

だが、「なにもしないことにも意味がある」というのが中国やインド哲学の神髄のような気がしてくる。有と無の論議は、宗教なのか哲学なのか、その境目は門外漢の筆者には全く分からない。

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無駄から「無」を考える その2 「無」と「有」

Last Updated on 2015年2月16日 by 成田滋

無駄という語の他に、無学、無知、無言、無策、無頼、無礼、無粋、無情、無法、無恥、無理、無視、無能、無効、無死、無謀などの言葉を眺めてみる。「無」という漢字は、「否定や禁止を表す助字」(広辞林)とある。対立するかのような概念の「有」という助字の前にはどうも分が悪い。

だが、「無」の使われ方は必ずしも「有」に劣る概念ではないことがわかる。無欲、無性、無想、無念、無償、無益、無事、無私、無名、無常、無上などの語をよくみつめると、そこには人間の大事な生き方が現れているようにも思えるのである。「無」ということが意味のある概念であることだ。「無」が価値を有するということでもある。人間の品格を表す無垢という言葉もある。立派で並ぶものがないことを無二ともいう。

インド哲学によれば、「無」とは「存在しないこと」ではなく「無が存在する」ということらしい。単なる「non-being」ではなく絶対的な根源としての「無」があるというのである。この考えは、数学における「零0」の存在に通じるようである。「零0の発見」によって、数学において無を記述できるようになった。零0の存在は革命的ともいわれる。この零のことは後日取り上げる。

「無数」においても「countless」、「innumerable」というように、存在するが数えることはできないだけなのである。まさに無と有の対立を越えてそれを包括するような概念がここにあるように思える。無期とは有限の時間を表す。懲役100年でも200年も有期でも無期でもある。無と有は表裏一体のようである。

母校、北海道大学には宗教学インド哲学講座があるのを思い出す。

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無駄から「無」を考える その1 人生は無駄の連続か

Last Updated on 2015年2月14日 by 成田滋

「人生を無駄に生きている」とか「生きることは無駄の連続だ」としばしば云われる。これも真実なのかもしれないと思うのである。誰もが、自分は有意義に生きているだろうか、なにかのために役立っているだろうかと振り返ることがある。

「無駄」を調べると「それをしただけのかいがないこと」という意味もある。だが、ここでの難問は「なにをしたのか」ということである。今回のISによる人質殺害事件では、K.G.記者の行為に「無謀」とか「無理」とか「蛮勇の行為」という意見もあれば、「無欲」とか「無償」、「無私」とかとらえる意見もある。K.G.氏は「無畏」という泰然として畏れのない境地を悟った人という見方もできる。

だが、あえて批判を甘受するならば「なにもしないことにも意味があるのではないか」とも考えられる。我々は得てして、行動とは目に見える業と考えがちである。しかし、人を思いやったり、祈ったり、瞑想したりすることも「なにもしないこと」のようであるが、実は意味あることだと思うのである。

「無駄」を「無」と「駄」に分解すると天と地ほどの違いがあることに気がつく。この気づきが今回のシリーズの主題である。「無」という漢字を広辞苑で調べると実に沢山の用語がある。どれも我々に生き方に関わることばかりである。「無」のことを探求するのは、泥沼の中に身をおくような気分になる。だがあえて暫くこの難題に挑戦することにする。

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平家物語

旅は道連れ世は情け その18 YESとNOの使い分け

Last Updated on 2015年2月13日 by 成田滋

「旅は道連れ世は情け」のシリーズは今回で最後とします。これまで大勢の優秀な院生と一緒に学んだり教えられたりしました。院生との思い出はいろいろありましたが、なんといっても毎年実施する海外研修旅行でした。海外での研修は半年前から先方と交渉を始めます。

研修では特に学校の訪問が主たる目的です。先方というのは、友人、知人、紹介された人です。このコネがないと訪問交渉はうまく進みません。こちらがなにを調べたいか、どんな人に会いたいか、どんな資料が欲しいか、などを先方に伝えることからスタートします。

通常、ゼミ生以外にも他の講座の院生に広く呼びかけて参加者を募ります。院生のほとんどは教師なので、研修費用には不自由はしません。しかも、大学院で研究する身分ですから時間はたっぷりあります。

研修旅行に際しては、私の役割は訪問日程を決めてから航空券やホテルを予約することです。院生のこまごました世話をあまりしません。ホテルのチェックインや相部屋の決め方、訪問先への道を尋ねることなどは院生にやってもらうことにしています。皆れっきとした大人。自分でやって貰いたいのです。英語というハードルはそこにはありますが、、、今回の話題は外国の空港での手荷物カウンターでのやりとりです。

手荷物を預けるとき、空港の検査官は、旅行者がなにか不審なものを持ち込まないかを調べるます。そこで簡単な質問をします。
検査官 「おかしなものを持っていないか?」
院生 「はい(Yes)」
検査官 「なにを持っているのか?」
院生 「いいえ(No)」
検査官 「??、、、、」

院生は、「はい、持っていません」と言ったのです。

検査官は、怪訝な顔をしてやおらスーツケースを調べ始めました。そしてビニール袋に入った白い粉のようなものをとり出しました。これで一大事です。Yesと言ってしまったからです。
検査官 「これはなにか?」
院生 「これはTop,,Top,,」

院生は粉石けんという単語を知らなかったのです。ソープではなく「ディタージェント(detergent)」という単語が正解です。Topとは洗濯石けんの名前です。院生は検査官と一緒に別室行きです。それを私たち一行はニヤニヤして見つめます。わたしもあえて院生に助け船を出すようなことはしません。

やがて院生が無事解放されてスーツケースと一緒に戻ってきました。しかし、再度の検査で別な検査官とまたYes, Noのやり取りをやってしまったのです。係官の表情がおかしかったです。「この人騒がせなジャップめ」とでも思ったのでしょう。

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旅は道連れ世は情け その17 「寿司には気をつけよ」

Last Updated on 2015年2月12日 by 成田滋

ミネソタ大学の人々にはお世話になったりお世話をしたりしました。思えば誠に幸いで有り難い経験です。前回、広島でのセミナー後の懇親会と費用のことを紹介しました。

ミネアポリス(Minneapolis)に行ったときです。広島へ一緒に行ったミネソタ大学のStan Deno教授が同僚を誘い市内の日本食レストランへ招待してくれました。彼は著名なLDの研究者です。

最初は前菜(appetizer)として大皿の寿司が2枚でてきました。相当な量でした。やがてメインはスキヤキとなりました。大いに飲んで話しが弾みました。Deno教授が勘定を払いに行きましたが、なかなか戻らないのです。振り返るとなにやら交渉している様子です。

彼の同僚は皆ニヤニヤしながら見つめています。Deno教授が戻ると、「寿司の値段を聞かされなかった、あんなに高いものとは知らなかった」とびっくりした表情です。そこで大皿1枚をタダにしてもらったというのです。皆、「Your are a tough negotiator! 」 「凄い交渉人だ」といって持ち上げるのです。あとで、Deno教授は、「研究費での接待費は上限があるので、必死に交渉した」といっていました。

それからは寿司はしばらく笑いのネタとなりました。思い出すだけでもおかしみが沸いてきます。アメリカの和食レストランは一般に高いので注意することです。ミネソタ大学の先生方は日本食レストランに行っていないことがわかりました。田舎者なのでしょう。

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旅は道連れ世は情け その16 「わりかんはない」

Last Updated on 2015年2月11日 by 成田滋

ミネソタ大学の人々とはいろいろなエピソードが残っています。1986年頃のことです。私は横須賀にある国立特殊教育総合研究所、後の国立特別支援教育総合研究所で働いていました。研究所主催で「国際セミナー」が開かれました。誰を講師として招くかを協議したとき、ミネソタ大学心理教育学部の特別支援教育の先生方を招くことを提案しました。それが承認されて5人の教授を迎えることになりました。

ミネソタ大学心理教育学部が広島大学教育学部と研究の提携関係にありました。そこで、研究所でのセミナー後広島へ行きたいという先方の要望に応え、一行を連れて広島へ行きました。広島県立教育センターへに招かれて、4時間ほどの研究セミナーをしました。セミナーの開始前に参加していた研修のスタッフは「起立、礼、着席!」の声で始まり、終了後には感謝の意を込めてセンター歌を斉唱するのです。ミネソタの人たちは驚いていました。

その夜の懇親会です。誠に盛大な食事会でした。そろそろお開きと思っていると、先方の幹事が私のところにやってきて、「勘定は個人持ち」というのです。安月給の私です。一瞬クラッとしました。5人の教授から費用をもらうわけにはいかないのです。冷静さを装って6人分を幹事に渡しました。

この懇親会と立て替え費用のことは、長く彼らの間で話題となったと知らされました。その後、日光への観光では彼らは私の旅費や宿泊代をだしてくれました。広島の懇親会から、誰かが損して誰かが得したということではありません。まわりまわって皆が負担し合うというエピソードでありました。

2012012611035744e  University of Minnesota, Twin Cities

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旅は道連れ世は情け その15 台北のホテルでの忘れ物

Last Updated on 2015年2月10日 by 成田滋

中華民国の首都はもちろん台北です。市内をあちこちを歩きながら、中国と台湾の独立のことを学びました。

国立國父紀念館の他に、国立中正紀念堂も立ち寄るべきところです。「中正」とは蒋介石の本名です。紀念堂には蒋介石元総統のブロンズ像が鎮座し、その後の壁には三民主義を引き継いだ「倫理」、「民主」、「科学」という蒋介石の基本政治理念が掲げられています。公園や道路名などからも、孫文と蒋介石はこの国では最も大事にされている人物であることがわかります。

国立故宮博物院のコレクションはいうまでもないでしょう。まさに「神品至宝」で詰まっています。もともと紫禁城宮殿で所蔵された重要な文物は、旧日本軍の進出や国共の内戦の激化によって、台湾に運ばれてきたとされます。その運搬経緯はまことに奇跡のような謎に満ちたところがあるようです。

ところがこの台北市内のホテルで忘れ物をしてしまいました。朝ビュッフェで食事をしてから手洗い行きました。いつも身につけているパウチをはずして用を足したのです。部屋に戻ったとき、パウチを忘れたのに気がつきました。慌てて戻ったのですがパウチはありません。食堂にはまだ大勢の団体客が食事中でした。

急ぎカウンターに忘れ物を告げると、すでにそこに保管されていました。中年のメイドさんが届けてくれたことを知りました。その方にお礼をいいながら、なにがしかのチップを差し出しました。ところが笑いながら受け取ってくれません。ホテルの研修が徹底しているせいでしょうか。台湾も日本の「おもてなし」の感化を受けているのでしょう。

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旅は道連れ世は情け その14 「バックパックを忘れた」

Last Updated on 2015年2月9日 by 成田滋

このブログ上で忘れ物にまつわるエピソードをいくつか紹介してきました。今回は自分が忘れ物で真っ青になったときと院生の「パスポート事件」の話題です。

大学の同僚とでヴァージニア州(Common Wealth of Virginia)にあるフェアファックス教育委員会(Fairfax County School)と学校を回り、ある調査を依頼したときです。調査のほうは幸い先方が極めて協力的で、質問紙を丹念に検討してくれて「これでいいだろう」ということになり調査に応じてくれることになりました。

翌日は気分良く電車に乗って、ワシントンD.C.のモール(Mall)にあるスミソニアン(Smithonian)の博物館巡りにでかけました。スミソニアン協会は17の直営博物館や美術館を運営する世界一の学芸組織です。いくつかの博物館を回り終えて、お終いは国立アメリカ・インディアン博物館(American Indian Museum)へ入りました。そこの小さな講堂でビデオを観ての帰り、椅子にパスポートやカード、現金、カメラをいれたバックパックを置き忘れました。

忘れ物に気がついたのは博物館をでて30分くらいです。その瞬間目の前が真っ白、呆然となりました。米国では忘れ物は戻らないことが多いのです。急いで博物館に戻り係員に質すと預かっているというのです。持ち物は身から離してはならないという言葉をかみしめた時でした。

ニューメキシコの州都アルバカーキに院生らと視察旅行をしたときです。ネイティブ・アメリカンの博物館で、院生の一人がパストートがないといいだしました。皆で手分けをして探したのですが出てきません。ネイティブ・アメリカンの係員に遺失物として届けがないかをききましたが駄目です。係員は、「兄弟よ、この国に残っていいのだよ」と院生を元気づけようとしたのが忘れられません。

New Mexico  Adobesanta-fe-new-mexico-beautiful-best-places-to-retire Santa Fe

旅は道連れ世は情け その13 コロニアル・ウィリアムズバーグと夕立

Last Updated on 2015年2月7日 by 成田滋

米国の夏はキャンピングの季節です。通常、年が明けると早々にキャンプ地やコテージを予約することが多いです。キャンプ地で人気のあるのはなんといっても広大な州立公園です。非常に手入れが行き届き、清潔で安全、しかも安価なのです。

車一台分とテント張り、食事を作るスペースがあり、隣とは木々で隔てられているので気兼ねがいりません。共同トイレ、コインランドリー、シャワー室があり、薪の束も売っています。なにか野外のキャンピングというよりは、別荘にやってきたような雰囲気です。

ミシガン湖(Lake Michigan)の西岸を北上し、カナダに渡りモントリオール(Montreal)、そしてワシントンD.C.の郊外にあるヴァージニア(Virginia)の州立公園に着きました。もちろん予約済みです。テントを張り終えてから大西洋岸にあるコロニアル・ウィリアムズバーグ(Colonial Williamsburg)へ向かいました。

コロニアル・ウィリアムズバーグは、ヴァージニア州の独立市で、歴史的地区のことです。コロニアル・ウィリアムズバーグは1699年から1780年まで、ジェームズ・シティ郡(James City County)の植民の中心地となりました。ウィリアムズバーグはヴァージニア植民地時代の統治・教育・文化の中心であったとWikipediaにあります。今は多くの建物が復元されています。周囲にはウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William & Mary)が建っています。

ウィリアム・アンド・メアリー大学は1693年にイングランド王ウィリアム三世と女王メアリー二世によって認可され創設されました。ハーヴァード大学に次いで2番目に古い歴史を誇る大学となっています。ヴァージニア州の総合大学としてはヴァージニア大学に次ぐ第2位、全米の州立大学の中ではカリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、ヴァージニア大学、ミシガン大学、ノースカロライナ大学ーチャペルヒル校(University of North Carolina at Chapel Hill)に次ぐ第6位に格付けされています。「最も入学が難しい大学」(Most Selective)とされます。

夕方キャンプ場に戻ると夕立があったようで、テントの中は濡れ、寝袋や毛布が湿っていました。仕方なく近くの街のランドリーで乾かすことを余儀なくされました。夕立の備えをしていませんでした。

キャンプ生活をしていると子供たちはモーテルに泊まりたいといってきました。ボストンを通過したとき魚市場がありニシンを買いそれをモーテルの室内で焼いて食べました。匂いがきつかったので、あとからきた客に迷惑だったかもしれません。

Homes-of-Colonial-Williamsburg-Va2 Colonial_Williamsburg_Governors_Palace_Front_Dscn7232  Colonial Williamsburg

旅は道連れ世は情け その12 ナパバレー

Last Updated on 2015年2月6日 by 成田滋

兵庫教育大学の院生とはあちこちの学校へ出掛けました。旅の主たる目的は視察ですが、別な楽しみは地元の有名なところを訪ねることです。カリフォルニア州の州都サクラメント(Sacramento)を目指しました。この学校区の職業教育を視察する旅です。

まずは東京からサンフランシスコ(San Francisco)へ行き、それからサクラメントへ行くのが通常の行程です。金門橋を渡りオークランド(Oakland)を経てサクラメントへ向かいます。途中、カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)があります。全米屈指の名門校です。

このあたりはSan Francisco Bay Areaと呼ばれています。飛行機もありますが、車で行くのが楽しいのです。ナパ郡(Napa County)を目指します。ナパ郡にはニューヨーク州とともにアメリカの一大ワインの産地、ナパバレー(Napa Valey)があります。全米でワインの90%がこのあたりで製造されています。ニューヨーク州ではたったの5%なのです。

ナパバレーを通過したのは丁度日曜日でした。沢山のワイナリーがありますが、週末は所々閉店となっています。観光客のために、業者が協定して開店するところと閉店するところを決めています。院生とで開いているワイナリーに飛び込みました。立ち寄ったところはE. & J. Gallo Wineryでした。

Gallo Wineはアメリカでは広く飲まれているワインです。1933年の設立とあります。カリフォルニア産ワインで最大の出荷を誇り、家族経営のワイナリーとして全米で最も大きなシェアを持つといわれます。このとき誰が運転していたかですが、もちろん私ではありませんでした。運転事故を起こさないよう、人々は注意してワインやビールを飲みます。

napa_area_map Napa-Valley-Balloon Napa Valley

旅は道連れ世は情け その11 モスクワの空港でワイン没収

Last Updated on 2015年2月5日 by 成田滋

再びワインの話題です。イタリアへ始めて行ったときです。成田空港とローマの郊外にある国際空港、フィウミチーノ空港(Fiumicino)を往復しました。この空港は、イタリアのフラッグ・キャリアであるアリタリア航空(Alitalia)の本拠地です。しかし、私と家内は安い料金を選んだのでアエロフロート航空(Aeroflot)としました。成田からモスクワ(Moscow)のシェレメーチエヴォ国際空港(Sheremetyevo)、そしてローマのフィウミチーノ国際空港という航路です。この旅ではこの選択は間違ったことをあとで知ります。

まずは、アエロフロート航空の機内の飲み物と食事などです。ジュースは氷もなくぬるいのがきました。珈琲も熱くないのです。ビールは有料です。食事は可もなく不可もなくといったところです。フライトアテンダントはぶっきらぼう。

シェレメーチエヴォ空港では、ローマ行きへの乗り換えに2時間半ありました。珈琲を頼むと5ユーロ、600円取られました。詐欺にあった気分です。ローマのフィウミチーノ空港に着いたのは夜の9時頃です。そこには長男が迎えにきているはずです。しかし、持参した2つの大きな荷物が出て来ないのです。

1時間あまりターンテーブルのところで待ちました。待つのを諦めて係員に、翌朝に再度来るといって荷物を保管してもらうよう頼みました。その間90分くらいかかり、待ち合わせ場所にいくと長男はいません。タクシーで空港近くのホテルに行くと、長男夫婦が「待っても来ないので、明日来るのだろうと思った」というのです。

翌朝空港に行くと家内のスーツケースが届いていましたが、わたしのは行方不明です。調べてもらうとまだモスクワにあるというのです。長男夫婦と一緒に来ていた孫に、用意してきた土産が渡せません。荷物が届いたのは3日後のフィレンツェ(Firenze)のホテルでした。

思い出深い中部イタリア旅行を楽しんだのですが、帰りローマからの経由地モスクワのシェレメーチエヴォ空港でまた嫌な思いをしました。購入したトスカーナ・ワイン(Tuscany wine)の免税品証明書が袋から剥がれてないのです。税関の女性職員が、厳しい顔をして「ワインをゴミ箱に捨てなさい」と、頑として持ち出しを許しません。再三懇願しましたが、結局没収となりました。ワインは職員にプレゼントしたことになりました。ローマやフィレンツェに圧倒されたのですが、後味が悪い旅となりました。いいことばかりが旅ではありません。

san-gimignano-tuscany-cycling  San Gimignano, TuscanyMontecarlo2

旅は道連れ世は情け その10 ワインは2杯までOK

Last Updated on 2015年2月4日 by 成田滋

ニュージーランド(New Zealand)は北島と南島から成ります。年間の旅行者が240万人以上という観光立国でもあります。友人を訪ねて北島の南端近くにあるパーマストンノース(Palmerston North )という町へ行きました。まだ大地震の前でした。ここにはマッセイ大学(Massey University)があります。その友人はインド系の研究者で、兵庫教育大学の客員研究員としてお世話した方です。彼女はマッセイ大学で働き家を建てていました。

休日を利用して車で北島の最南端に位置する首都ウェリントン(Wellington)の観光に出かけました。落ち着いた港町です。観光後、クック海峡をカーフェリーで渡り、南島にあるクライストチャーチ(Christchurch)にあるカンタベリー大学(University of Canterbury)を訪れました。

大学でインタビューを受けてから、ホエールウオッチング(whale-watching)ができるという情報を得ました。鯨が出るという湾のある町に車をとばしました。船に乗ると数頭の鯨が湾を回遊していました。この湾の鯨は年中この湾に留まるので、地元の人は親しみをこめて鯨に名前までつけています。

帰りのドライブは快適でした。葡萄畑が道の両側に広がります。ワインを飲みたくなる光景です。休憩がてらワイナリーに立ち寄りますと、旅行者らしき一行がワインを楽しんでいます。店の人に聞くと看板を指しました。それには次のように書いてあります。「運転手はグラス2杯までは飲んでよい。」なんと粋なはからいなのだろうと感心しました。

真っ暗な帰りの途中、車を停めて満点の星空、南十字星(Southern Cross)とケンタウルス座(Centaurus)を眺めました。”もの凄い星座”でした。

Wine Vineyards Near Marlborough Sounds Region Blenheim New Zealand Dark_Rift_2012

旅は道連れ世は情け その9 匂いのトラブルはややこしい

Last Updated on 2015年2月3日 by 成田滋

スカンクの他に、匂いにまつわるトラブルで忘れられないこともあります。

週末、院生は友達を招いて芝生でBBQをしたりパーティをします。日頃勉強で絞られているので、つかの間の時間をくつろぐのです。

これも管理事務所に勤めていたときです。電話がかかってきました。「隣の部屋から悪臭が流れてきて耐えられない、なんと止めさせてくれ」という内容です。出掛けると確かに強烈な魚油の匂いです。「くさや」やスルメとは違った「凄い」匂いです。中西部のアメリカ人は干物などを食べませんから、こうした魚の匂いには慣れていません。

高校時代稚内で暮らしたことのある私は、魚の匂いには慣れていました。しかし、この部屋からの匂いは格別なものでした。「隣近所から悪臭で苦情がきているので料理を控えて欲しい」と伝えるので精一杯でした。

臭いものといえば、韓国の「ホンオフェ」(홍어회)という「エイ」を醗酵させたもの、スエーデンの塩漬けされたニシンの缶詰「シュールストレミング(surestromming)」、そしてくさやです。「ホンオフェ」はアンモニアの匂いが強く涙がでるといいます。ハングルでホンオ(홍어)とはエイ、フェ(회)とは刺身のことです。Wikipediaによれば、ホンオフェは韓国では高級食品のひとつであり、冠婚葬祭に欠かせないご馳走だそうです。私は幸か不幸かまだ食したことはありません。

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旅は道連れ世は情け その8 スカンクは厄介者

Last Updated on 2015年2月2日 by 成田滋

スカンクは実に厄介ものです。人間関係をぶち壊すこともあります。

日本人と韓国人がウィスコンシン大学のイーグル・ハイツ(Eagle Heights)と呼ばれる院生の家族世帯宿舎の同じ棟に住んでいました。一棟には八世帯が住みます。私はこの両者ともよくつきあっていました。韓国人留学生とは管理事務所で一緒に働いていました。

ある時、この二人がスカンクをめぐって口論となったのです。私は仲介する立場におかれました。事情をきくと、日本人夫婦が近くに住んでいたスカンクを脅かし、強烈なスプレーを辺りにかけたのです。匂いは棟全体に広がりこの日本人に非難が起こったのです。私は仲介することに竦み、両者で決着させるのが一番だと考え手を引きました。しかし、一度喧嘩しては仲直りは無理でした。私はこの両者とも今は交流が途絶えてしまっています。

スカンクは脅かされない限り、分泌液を噴射しません。スカンクの匂いを知るアメリカ人は通常は近寄らないようにして共存しています。日本人留学生はそうした知識がなかったようです。

悪臭は風向きによっては1km近くまで届くそうです。一度衣服に付着した粘液はとれないので廃棄するのが普通です。スカンクの匂いは知っていますか?言葉で表現できませんが、鼻孔にその「香り」は今もあります。なんとも形容し難い匂いです。

aerial_Eagle_Heights05_8553 Eagle Heights

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