ミュンヘン会談と宥和政策 その四 ミュンヘン会談と大戦の勃発

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トランプ大統領とプーチン大統領の首脳会談が開かれたのですが、詳しい会談結果は報道されていません。大統領専用機から降りて、両者の対面場所に向かうトランプの歩みはジグザクで、痴呆的(dementian)な障がいがあるようだ、というコメントもあります。共同記者会見のタイトルは、「Trump presser goes horribly wrong with Putin. Luncheon between US and Russians delegates has been cancelled. Trump will immediately return to Washington. 」首脳会談はトランプにとって悲惨な結果であるというコメントです。

「Trump has mad extraordinary concessions to Russia in exchange for nothing. Russia has repaid him by continuing the war and seeking to win it. Putin knows that Trump want the Novel Prize.」「この首脳会談は、トランプはロシアに対し何の見返りもなしに、並外れた譲歩をした。ロシアは戦争を継続し、勝利を目指すことで報いてきた。プーチンは、トランプがノーベル賞を欲しがっていることを知っている」と報道する有様です。

 共同記者会見では、両首脳は会談の内容を簡単に説明するだけで、実質的なウクライナ戦争の停戦などのディールはありませんでした。記者からの質問も受けず立ち去るのです。記者から「質問、質問、、、」という叫びを全く無視して会場を立ち去るのです。会談では全く停戦に向けた進展がなかったからでしょう。次のようなコメントも寄せられています。「プーチンがこの会談に同意したのは、トランプを当惑させ、従順な子犬のように見せるためだけだった。任務は達成された。」ロシア駐在の元アメリカ大使が会談の内容について、プーチンは何も妥協せず、トランプは何も得るものがなかったとコメントしています。


 1938年9月28日、イタリア首相ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)が仲介に入り、イギリスの首相チェンバレン、フランスの首相ダラディエ、ムッソリーニ、ドイツの総統ヒトラーが集まり会談を行う提案を行います。ヒトラーは応諾し、開戦の延期を声明します。報告を受けたイギリス議会では大歓声が起こり、戦争勃発の懸念から低迷していたニューヨーク株式市場も一斉に反発し値上がりします。翌、9月29日、ミュンヘンで4カ国の首脳による会談が行われます。チェコスロバキア代表のヤン・マサリク(Jan Masaryk)駐英大使とヴォイチェフ・マストニー(Vojtech Mastny)駐独大使は会議には参加できず隣室で待たされるのです。

 翌30日午前1時30分に会談は終了し、4か国によってミュンヘン協定(Munich Agreement) が締結されます。ドイツの要求はほとんど認められ、ハンガリーとポーランドの領土要求にも配慮された結果となります。ヒトラーは「これ以上の領土要求はしない」と約束するのです。それは英独共同宣言と呼ばれ、戦争の危機は一応は回避されます。会談の隣室で待っていたマサリクとマストニーにはチェンバレンによって会談の結果が伝えられ、協定書の写しが手渡されます。この一連の国際会議はミュンヘン会談(Munich Conference)といわれます。

 なおミュンヘン会談から帰国したチェンバレンを迎えたジョージ6世(George VI) は、チェンバレンにバッキンガム宮殿(Buckingham Palace) のバルコニーで国王夫妻とともに、国民からの歓迎を受ける特権を与えます。大衆の前で国王と政治家の友好関係を見せるのは極めて異例であったといわれます。

 しかし一連のチェンバレンによる宥和政策は、ウインストン・チャーチル(Winston L, Churchill)が指摘したように「ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与えた」と同時に「イギリスとフランスが実力行使に出るという危惧を拭えていなかったヒトラーに賭けに勝ったという自信を与え、侵攻を容認したという誤ったメッセージを送った」として、現在では歴史研究家や軍事研究家から強く非難されています。特に1938年9月29日付けで署名されたミュンヘン協定は、後年になり「第二次世界大戦勃発前の宥和政策の典型」とされ、近代における外交的判断の失敗の代表例として扱われています。

 1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻と、同日に駐独イギリス特命全権大使を通じてポーランドからの撤退を勧告した最後通告への返答がなかったことを受けて、9月3日にチェンバレンもフランスのダラディエとともに対独宣戦布告を行います。ここに第二次世界大戦が勃発するのです。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その三 ネヴィル・チェンバレン

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2025年8月15日にアラスカのアメリカ軍基地において、トランプ大統領とプーチン大統領の首脳会談が開かれました。ウクライナ抜きです。会談後の共同記者会見で両者が発言した内容はさして新しいものではありません。お互いに多くの点で一致をみたが、重要な点ではまだ未解決な課題があるという内容です。

 トランプとプーチンは大国の首脳ですが、双方は大事な課題については相違があるということを認め合ったようです。それはウクライナ領土のドネツク州(Donetsk)とルガンスク州(Lugansk)の割譲を要求するプーチンに対してトランプが合意していないということです。この違いはイギリス首相ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)とトランプ大統領との格の違い、チェンバレンとヒトラーとの格の違いを示しています。つまり、ヒトラーのほうが政治や軍事面で優位であるがゆえに、チェンバレンは妥協せざるを得ないという結末が待っているのです。このことは「その四 ミュンヘン会談と大戦の勃発」で説明します。

 1938年4月24日、ズデーテン・ドイツ人民党党首で指導者的存在であったコンラート・ヘンライン(Konrad Henlein)はチェコスロバキア政府に対し、ズデーテン地方でのドイツ人の地位向上と自治を求めます。1938年5月7日、イギリスとフランスの公使はチェコスロバキア政府に対し、ヘンラインの要求を受け入れるように求めます。これを介入の好機とみたヒトラーは、国防軍最高司令部のヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel)大将にチェコスロバキア侵攻計画「緑作戦」の策定を督促していきます。5月20日にこの作戦は完成しますが、軍の見通しは時期尚早とされ、ヒトラーもいったんはチェコスロバキア侵攻を見送るのです。

ナチス総統館

 イギリス首相ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)はチェコスロバキアに譲歩させて戦争を回避する腹を固め、9月18日にフランス首相エドワード・ダラディエ(Édouard Daladier)と外相ジョルジュ・ボネ(Georges-Étienne Bonnet) をロンドンに招いて協議し、ダラディエもチェンバレンの意見に同意します。9月19日にプラハ(Prague) 駐在のイギリスとフランスの公使は、チェコスロバキア大統領エドヴァルド・ベネシュ(Edvard Benes)にズデーテン地方のドイツへの割譲を勧告します。さらに現存の軍事的条約の破棄も通告されたベネシュは、一時これを拒絶します。しかし「無条件で勧告を受諾しない場合、チェコスロバキアの運命に関与しない」という強硬なイギリス政府の通告により、9月21日、チェコスロバキア政府は勧告を受諾する声明を行います。翌日チェコスロバキアのミラン・ホッジャ(Milan Hodza)内閣は総辞職し、ヤン・シロヴィー(Jan Syrovy)内閣が成立します。

ミュンヘン会談後ロンドンに戻るチェンパレン

 チェコスロバキア政府の勧告受諾を携えて、22日にチェンバレンはゴーデスベルク(Godesberg) でのヒトラーとの会談に臨みます。しかしヒトラーはズデーテン地方の即時占領を主張し、また同日にハンガリー王国がスロバキアとカルパティア・ルテニアを、ポーランドがチェスキー・チェシーン(Ceský Tesín) の割譲をチェコスロバキアに要求していることを口実にチェンバレンの調停を拒否します。こうして会談は物別れに終わります。チェンバレンはヒトラーの強硬姿勢に驚き、外交的圧力のためにチェコスロバキアに動員の解禁を通告します。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その二 ズデーテン地方

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チェコスロバキア(Czechoslovakia)でも有数の工業地帯であったのがズデーテン(Sudeten)地方です。ここにはチェコスロバキア最大の財閥であるシュコダ財閥(Skoda Works)をはじめとする多くの軍需工場が立ち並んでいました。また、この地方の約28%がドイツ系住民といわれていました。チェコスロバキア政府は、ドイツ人の独立運動を警戒し、ドイツ人を公務員に登用する事を禁止する措置をとっていました。そのため、ズデーテン地方のドイツ人政党であるズデーテン・ドイツ人民党(Sudeten German Party) は、チェコスロバキアからの分離とドイツへの併合を唱えていました。ヒトラーは、かねてからズデーテン地方のドイツ系住民はチェコスロバキア政府に迫害されていると主張しており、解放を唱えていました。ヒトラーがここで持ち出したのが、ヴェルサイユ条約(Treaty of Versailles)の基本となった十四か条の平和原則にある民族自決)national self-determination) の論理です。

Sudeten

 1937年6月24日、ドイツ陸軍参謀本部は、近隣への侵攻作戦の策定を開始します。その中でもチェコスロバキアに侵攻する計画が「緑作戦」(Fall Grün) と呼ばれました。特に西部のズデーテン地方は、ドイツにとっても重要な目標でした。当時、チェコスロバキアの東半の領土であるスロバキア(Slovakia)とカルパティア・ルテニア(Carpathian Ruthenia) はかつて北部ハンガリー(Hungary)と呼ばれており、トリアノン条約(Treaty of Trianon) によってチェコスロバキアがハンガリーから奪取した経緯がありました。

 トリアノン条約は、第一次世界大戦後の1920年6月4日に、フランスのヴェルサイユにあるトリアノン宮殿で、連合国とハンガリーの間で調印された講和条約です。この条約により、ハンガリーは領土の大部分を失い、現在のチェコスロバキア、ルーマニア、ユーゴスラビアに分割されました。それ故に、ハンガリー王国は北部ハンガリーの回復を狙い、領有権を主張していました。さらにチェコスロバキア北部にはポーランドとの係争地も存在していました。

 他方で、チェコスロバキアは1924年1月25日にフランスと相互防衛援助条約を結んでおり、1935年5月16日にはソビエト連邦とも相互防衛援助条約を結んでいました。このため、チェコスロバキアへの領土要求は世界大戦を発生させる懸念があったのです。1938年3月にドイツは、オーストリアを併合(Anschluss of Austria) し、ズデーテン問題はドイツの次なる外交目標となっていきます。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その一 トランプとプーチンの会談

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宥和政策(Appeasement)とは、戦争の回避、あるいは実用主義などに基づいた戦略的な外交スタイルの一つの形式です。敵対国の主張に対して、相手の要求をある程度受け入れることによって問題の解決を図ろうとする政策です。宥和主義ともいわれ、危機を抑止する概念といわれます。

Munich Agreement

 なぜ宥和政策の話題を取り上げるかです。今週、トランプ大統領がプーチン大統領とアラカスカで会談することになりました。この会談でどのようなことが協議され、どのような結論が出るかは興味あります。報道によりますと、トランプは、プーチンとで領土の交換をし、それで停戦しようとしているらしいとのことです。この二人の大統領の会談には、当事者であるウクライナのゼレンスキー大統領(resident Zelensky)は蚊帳の外だというのです。ウクライナはロシアの領土であるクルスク州(Kursk Oblast)の一部を占拠していますから、それを得る代わりにドンバス地域(Donbas)をロシアに渡すという案です。ウクライナはロシアが占拠するドネツク州(Donetsk)とルガンスク州(Lugansk)を渡すことには反対しています。まずは双方が停戦して、その間領土の協議をしようという計画だったようです。

チェコスロバキア領土の奪い合い

 ウクライナがアメリカとロシアの会談に臨めないとなれば、これに似た歴史が1938年に開かれたミュンヘン会談(Munich Agreement) を思い起こします。この会談は、ドイツのミュンヘンで開催された国際会議で、チェコスロバキア(Czechoslovakia)のズデーテン(Sudeten)地方帰属問題が協議されました。この会談にはイギリス、フランス、イタリア、ドイツの首脳が出席します。ドイツ系住民が多数を占めるズデーテンの自国への帰属を主張したドイツのアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler) 総統に対し、イギリス・フランス両首脳は、これ以上の領土要求を行わないことを条件に、ヒトラーの要求を全面的に認め、1938年9月29日付けで署名します。

 この会談で成立したミュンヘン協定は、戦間期の宥和政策の典型とされ、イギリスとフランスの思惑とは裏腹にドイツの更なる増長を招き、結果的に第二次世界大戦を引き起こしたことから、一般には強く批判されることが多い協定です。

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この人を見よー内村鑑三 その十五 ペンシルヴァニアでの看護人生活

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1885年、内村鑑三は渡米しメソジスト派の宣教師メリマン・ハリス(Merriman C. Harris)の紹介で、ペンシルヴァニア州(Pennsylvania)のエルウイン(Elwyn)にある州立白痴児養護院長のアイザック・カーリン(Issac N. Kerrlin) という方に「拾い上げられます。」この院長は実行家型の慈善事業家でした。彼は内村の性格を調べてから保証人となることを引き受けるのです。そして彼の「看護人」に加えるのです。内村は、「帝国政府の官吏から急転して白痴院の一看護人」となります。内村それを転落とは感じなかったと述懐しています。まるでナザレ(Nazareth) の大工の子によって今や全く新しい人生観を与えられた、と受けとめるのです。

ペンシルヴァニア州立白痴児養護院

 この病院勤めはマルチン・ルター(Martin Luther)のエルフト(Erfurt) 僧院行きとほぼ同じ目的によるものだと言います。ルターは、エルフトにおいて「神の永遠の義が、人間のいかなる努州立精神薄弱児養力によっても強制できない、イエス・キリストへの信仰によってのみ与えられる純粋な恵みの贈り物である」ということを感得するのです。内村は、「来たらんとする怒りから逃れる唯一の避難所として、そこを選び、そこで自分の肉を屈服させ、霊的な清浄に達しうるように訓練して、天国を継ぐ血と考えた」のでした。それゆえに、実のところ自分の病院勤めの動機は自己本位だったと認めるのです。

 心の葛藤は別として、内村は病院内の生活は少しも不愉快なものではなかったと言います。院長は自分の幸福を心から願い、わが子に対するような真の愛情で世話してくれたようです。院長は、「肉体を正しい状態にしておくことが、品性を行為をも正しくすることだ」と信じていました。「院長は私の霊魂よりも胃の腑のほうに多く心を配ってくれた。本格的な食事を十分にとって元気をつけるようにと言って、しばしは実質的な援助を送ってくれた。彼を知らぬ人は、彼を狂人じみた唯物論者だと思っていた。特に彼が「道徳的低能」なる特異の題目について語るとき、ひとしおその感を深くするのであった。」「道徳的低能とは、両親の犯す過ちや悪い環境が原因となって興る体質上の堕落を意味する。」というのです。しかし、院長は唯物主義者でも無神論者でもなく、堅く摂理を信じ、神の御手が彼の全生涯を導いていたのです。

 院長は聖書に関して広い知識を持っていました。彼の告白する信仰は厳密な意味での「正統信仰」ではなかったのですが、彼は心なき知識偏重過ぎを憎み嫌い、ユニテリアン主義(Unitarianism) をさして「最も偏狭な、最も無味乾燥な教派だ」と公言していました。しかし彼の妻はユニテリアン信者でした。内村は、彼の宗教や音楽のゆえに彼の讃美者また忠実な弟子となったのではないと語ります。「人類の中の最も不幸な人々のために、そこに盛んな集団居住地(コロニー)を造り上げた。目標をあやまたぬその意志、700人余りの狂人を治め、導き、従わせるその管理の手腕、これらすべてが、この人を私の驚嘆と研究との的とした」と言います。

 このような人物は、自分は故国においても外国においても見たことがなかったと述べます。当時、内村は自身が悩んでいた激しい宗教上の懐疑を解くことはできなかったのですが、生活と信仰をといかに活用すべきかを教えてくれたのはこの病院長であったと述懐するのです。「慈善なるものは、どれほ高貴で繊細な感情に支えられていようとも、それを悩める人類の福祉とするための明晰な頭脳と鉄石とを欠くならば、この実際社会では役に立たぬ」ということを、彼は教えてくれたのです。

 「まことに彼こそは私に人間性を与えてくれた人である。もしも私が書物と大学と神学校だけでキリスト教を学んだのであったなら、私のキリスト教は冷たい、堅い、実行性を欠いたものとなっていただろう。この実際家の生きた実例は、実践神学のどんな課程よりも、適切にまた感銘ぶかく、この貴重な授業を自分に授けてくれた。」 (注:白痴という単語は今は使いませんが、本稿では内村鑑三の書いた文章からそのまま引用しています。)

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この人を見よー内村鑑三 その十四 キリスト教国にて

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「山にある者は山を見ず」は、「鹿を逐う者は山を見ず」という故事成語のことで、利益や目的ばかりに気を取られていると、周りの状況や全体像が見えなくなることの譬えです。内村鑑三は「山というものの真に調和のとれた姿は、ただ遠方からのみ望むことができる」と言います。同じことが各々の祖国についても言えるというのです。「その中に住んでいる間は、人は祖国の真の姿を知らない。統一総体としての祖国を理解するためには、祖国から遠く離れて立たねばならない。」

 内村はアメリカで滞在しながら次のように述懐します。「そこに住んでいる間は極端に一方的であった。まだ異教徒だったころの自分は祖国は宇宙の中心であり、世界の羨望の的だと考えていた。」、「神々みずからそこに住み、実に光明の源泉であるというのが、異教徒だったころの自分に写っていた祖国の姿であった。しかし、ひとたび回心した自分はその考えに疑問を持ち始めた。」

Huldrych Zwingli

 内村は、多くの大学やカレッジのあるアメリカについて、清教徒の本国なるイギリスについて、ルーテル(Martin Luther)の祖国なるドイツについて、ツイングリ(Huldrych Zwingli) の誇りなるスイスについて、ノックス(John Knox) のスコットランドについて語り聞かされていきます。そうしているうちに、わが祖国は全く「とりえのない国だ」という考えにとらわれていきます。日本の道徳的、社会的の欠陥に話が及ぶたびに、アメリカやヨーロッパではそんなことはないと語りきかされるのが常だったようです。こんな国が果たしてマサチューセッツ(Massachusetts)やイギリスのような国となり得るかと、自分は心から疑ったと回想します。

 しかし、遠く離れて波浪の異郷から眺めたとき、祖国はもはや「とりえのない国」ではなくなっていきます。それのみか、類いまれなほど美しく見えた始めたのです。それも異教徒だったころの美しさではなく、「その固有の歴史的使命によって宇宙間に確固たる地位を占める、真に均整のとれた調和の美しさである」というのです。そして、祖国日本こそは、高遠な目的と高貴な野心をもって世界と人類とのとのために存在する神聖な実在であると受けとめていきます。

 そればかりでなく、内村にとって外国旅行のもたらしたな収穫は、こうした体験のみではなかったようです。「人は異郷の空の下で暮らすとき、いかなる境遇にあるときにもまさって、自分自身の中へ、深く追い込まれる」というのです。逆説的に言えば、「我々は自分自身についてより多く学ぶために、広い世界へと出て行くのだ。世界とは、他の国民、他の国家と接触する場所以上に、自分自身をはっきりと示される所はない」と断言します。

Martin Luther

 ただ外国滞在にあたっては、自分は次の三つのことを経験したと言います。第一は異郷にあるかぎり孤独は避けがたいということです。そこで最善の交友の機会があっても、その国の言葉を自由に操ることができたとしても、自分は依然として一人の他国者であるというのです。楽しく面白い会話でも、時制や規則に合わせて動詞を正しく変化させたり、単数の名詞には単数の動詞を使ったとしても、似たり寄ったりの多くの前置詞の中から適切なものを選び出したして、余計な精神力を使わねばならないために、煩わしいものとなるというのです。友情のこもった晩餐会に招かれても一定の食卓作法にあわせたり、フォークとナイフを使って噛んだり飲み込んだりせねばならいために、おおかたの楽しみは失せるというのです。

 第二の経験は、人は国外へ一歩踏み出すとき、自分以上のものとなるというのです。海外では、自分の国と民族とを揃えて行くのです。自分の言行はもはや自分自身のものではなく、種族と国家のものとして批判されるというのです。外国に滞在する者は、ある意味において各自が祖国の全権公使であり、国と国民を代表するというのです。そして世界は、彼を通して彼の国を批判するのです。こうして高い責任感ほど人間をしっかりさせるものはないことを自覚するのです。この身が卑しくふるまうか気高くふるまうかによって、祖国が非難されたり賞賛されたりするのです。このことを知れば、あらゆる軽率や軽薄さは、直ちに自分から離れていくと言います。

 第三の経験です。それは郷愁がどんなものかを知るということです。それは性に合わぬ環境に対する自然な反動といえそうです。「見慣れた顔や山や野はもや目に映らない。聞こえる言葉は祖国のものではない。新しい環境に馴染もうと努めるにつれ、故郷はその妬み深い愛をもって、ますます我らを懐かしい思い出に結びつける」のです。その結果、憂鬱になり、心は時に涙に沈むのです。「故郷(ふるさと)は遠きにありて想うもの」を実感するのが海外での生活経験になるのです。

 まだまだ外国旅行や留学が珍しい時代に内村は異教徒の国アメリカに滞在します。彼の三つの体験は時代を経ても今の我々にも伝わる心情です。

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この人を見よー内村鑑三 その十三 シナ人とアイルランド人

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「ジョン公」(John Chinaman)という呼称は、19世紀から20世紀初頭のアメリカで中国系移民に対して使われた蔑称です。この呼び名の由来や背景には、当時の人種差別的な風潮や文化的な無知や偏見が深く関連しています。なぜ「ジョン公」と呼ばれたのかです。アングロ・サクソン系(Anglo-Saxon)アメリカ人にとって、「John」はごく一般的な男性名で、無個性な「誰でもない人」を象徴する名、たとえば 「John Doe」のように使われます。「John Doe」とは、「本名が判らない」、「本名を出したくない」、「身元不明死体」など何らかの理由で男性を仮名で指すときの「呼び名」です。これを中国人にあてがうことで、彼らの個人性や固有の名前を無視し、ひとくくりにする意図がありました。

Anglo-Saxonの由来

 「公」という訳語の由来ですが、「公」は、英語の “Mister” にあたるような敬称風の言い回しですが、文脈によっては皮肉や揶揄を含んでいます。つまり「偉そうな顔をしているが、本当は蔑まれている」というニュアンスです。背景にある歴史的文脈では、19世紀後半、特にカリフォルニアなどの西部地域では、多くの中国人労働者が鉄道建設や鉱山労働に従事しました。彼らの勤勉さや低賃金労働が白人労働者の脅威と見なされ、反中感情が高まりました。この時期に風刺画や新聞などで「John Chinaman」が頻繁に登場し、しばしば吊り目、小柄、長い辮髪などのステレオタイプ的な描写とともに嘲笑されました。

 風刺とカリカチュア(caricature)における「ジョン公」は、風刺画や新聞で中国人労働者を象徴するキャラクターとして登場しました。カリカチュアとは、人物の顔や体の特徴を故意に歪めたり、誇張したりして描くことで、ユーモラスな印象や風刺的な意味合いを持たせる人物画です。滑稽や風刺の効果を狙って描かれるため、しばしば戯画、漫画、風刺画などと言われます。「ジョン公」という呼称は、アメリカ社会における中国系移民に対する差別意識や文化的ステレオタイプの象徴でした。

中国系移民の分布

 「ジョン公」についての逸話があります。若い日本人技師の一行がニューヨークに架かるブルックリン橋(Brooklyn Bridge)を視察に行った時の事です。橋脚の下に立って、吊鏈の一本一本の構造と張力とについて論じ合っていると、シルクハットをかぶり、眼鏡をかけた立派な身なりのアメリカ紳士が寄ってきました。そして「やあ、ジョン」と言いながら、日本科学者の中に割り込んできたのです。「シナからやってきた君たちは、こんなものを見ると、びっくり仰天するだろうな、ウン、、」。この無礼な問いに、日本人技師の一人がしっぺがえしを食らわせて言いました。「アイルランドからやってきたあなたもご同様でしょうよ」。すると紳士は怒って「ノー、とんでもない。わしはアイルランド人じゃない」と言ったのです。そこで「われわれだってシナ人じゃありません」と静かに答えたのです。これは見事な一撃でした。シルクハット氏は仏頂面をして立ち去ったそうです。彼はアイルランド人と呼ばれることを嫌っていたのです。

 アイルランド人、別名アイリッシュ(irish) はカトリック信徒です。新生アメリカでは、カトリックに対するに偏見や恐れが強く、アイリッシュは宗教的理由で差別されることが多かったのです。当時、主流の白人アメリカ人、特にアングロサクソン系は、アイリッシュを劣った民族、白人とは違う下等人種とみなしていました。彼ら移民は非常に貧しく教育水準も低かったため、すぐに安価な労働力として工場や建設現場などで働くようになります。こうして既存の白人労働者との競争が激化し、反感も買ったのです。新聞やポスターなどでアイリッシュが猿に似た姿や酒に溺れる乱暴者として描かれることも多かったといわれます。

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この人を見よー内村鑑三 その十二 キリスト教国におけるシナ人

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内村は、インディアンとアフリカ人に対するアメリカ人の感情は、極めて強硬で非キリスト教的だと断定します。同時にシナ人の子孫に対する彼らの偏見、嫌悪、反感に至っては、我々異教国にも類をみないほどのものであるとも言います。シナ全土のいたる所に宣教師を送り出して、彼らの子女を孔子の不条理や仏陀の迷信からキリスト教に改宗させようとしている国、その同じ国が、国土の上に一人のシナ人の影の落ちるのをさえ憎んでいると言明します。こんな逆説がかつてこの地上にあったのかと嘆くのです。

Don Quixote

 これほどまでに嫌いぬく国民に対して宣教師を送る外国伝道とは、そもそも」セルバンテス(Cervantes) の「真の勇気というものは、臆病と無鉄砲との中間にある」という機知から生まれた騎士道なのか、はたまた子どもじみた騎士道なのではないか、とも指摘します。セルバンテスは、騎士道本を読み過ぎて妄想にとらわれ、古ぼけた甲胄に身を固め、やせ馬ロシナンテ(Rocinante)に跨って旅に出るドン・キホーテ(Don Quixote)を描きます。その時代錯誤と肉体的脆弱さで、ドン・キホーテは行く先々で嘲笑の的となるという物語です。

 内村は、アメリカ人がこれほまでにシナ人を嫌う理由は主として三つあると指摘します。第一はシナ人は貯蓄を全部本国へ持ち帰ってアメリカを貧乏にするからであるというのです。彼らは働きの三分の一を国内で消費し、その残りはすべて本国で安楽と幸福とを贖うために持ち去るではないか、そしてシナ人は持ち去る金額に相当する事業をあとに残していくというのです。黄金はすでに彼らのものに違いないのですが、しかるにこの正直な勤労の人々に対して、その神聖な所有権を拒もうとするアメリカ人は一体なにものなのかと強く迫るのです。「祝福されしクリスチャン」なるアメリカ人は、あざけりの言葉と共に我らを外に蹴り出すのでしょうか。「ああ、復讐の神よ、こんなことが一体あっていいものでしょうか。」と内村は慨嘆するのです。

移民排斥の漫画

 第二に、シナ人は自国の風俗や習慣を固執するから、キリスト教社会では見苦しいといわれていたようです。「それにシナ人は不潔でまた狡猾だ」と諸君はいう。諸君に次の点をたずねたい。シナ人が市警察へ爆弾を投じたり、白昼アメリカ婦人を襲ったりした例を諸君は今日までにきいたことがあるか。もし、社会の秩序と品位とを保つのが諸君の目的ならば、なぜドイツ人排斥法やイタリア人排斥法をも同時に制定しないのか。なんの反抗もしないあわれなシナ人を、そも何の罪ありとで、かほどまでに迫害するのか。われらの国に滞在するコーカサス人の不正がシナ人のそれと比較考慮されることこそ望ましい。」

 第三に低賃金で働くシナ人は、アメリカ人労働者を不利におとしいれると考えられていました。この理由は第一、第二の理由よりもはるかにもっともらしくきこえるようです。これは、アメリカ人労働者を保護するために、シナ人の輸入労力に適用された悪しき「保護政策」がありました。内村は次のようにも言います。

「こんなに従順な、こんなに不平をつぶやかぬ、こんなに勤勉な、そしてこんなに安価な労働者階級を、諸君は世界のどこで見いだすことができるか。彼らをその独自の業種に振り向けて利用せよ。そのことが、ただに諸君のキリスト教の信仰にふさわしいばかりでなく、諸君の財布にとっても有利なことは明白なのだ。諸君と同じ人間を幸福にすることをなぜ拒むのか。律法と福音とを信じる君たちが、なぜ他国人に親切と情とを与えないのか。シナ人排斥法の全体の調子は、非聖書的、非キリスト教的、非福音的、非人道的だということである。不条理といわれる孔子でさえ、これより遙かに善いことを教えているではないか。」

 内村はさらに言います。「私はシナ人ではないことを告白せねばならない。この世界最古の国民と人種的に近親関係にあることを決して恥じたことのない私である。孔子と孟子を世界に送り、ヨーロッパ人が夢想もしない数百年も前に、羅針盤と印刷機械とを発明していた彼らである。しかし、広東出のあわれな苦力(クーリー)がアメリカ人から受ける侮辱や虐待のすべて我が身に受けるに及び、私はただただ、クリスチャンの忍耐によって辛うじて頭と心との平静を保っている。彼らはすべて「ジョン公」(John Chinaman)と呼ばれている。ニューヨークの親切な巡査までが我々をその名で呼ぶのである。」
(注:内村鑑三の原著にある「シナ人」という用語はそのまま引用します。)

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この人を見よー内村鑑三 その十一 キリスト教国という異教国

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アメリカでは金銭が万能の力であることを内村は経験していきます。サンフランシスコに着いたとき、一行の者に降りかかった災難によってそれを知るのです。五ドル金貨の入った財布をすられたのです。「キリスト教国にも異教国同様にスリがいるぞ」と互いに戒め合ったというのです。シカゴでは拝金主義(mammonism)を体験するのです。それは、駅の食堂で食卓を囲んでいたとき、ハム族(Ham)とおぼしい黒人の給仕がやってきて、食前の祈りをしている内村らに「皆さんは信心深いですね、本当に。」といって寄ってきたのです。そして、自分達もメソジスト派の信者であるとか、教会の執事をしているなどと語るのです。

セム族の分布図

 ハム族とは別名セム族と呼ばれ、旧約聖書に登場するノア(Noah)の息子セム(Sem)の子孫とされる人々、またはセム語を話す民族の総称です。古代には、メソポタミア(Mesopotamia)、シリア(Syria)、アラビア半島などに住む民族が含まれていました。現在では、主にユダヤ人とアラブ人がセム人とみなされています。

 この黒人信徒や執事は実に親切で、彼らの信仰との共通の話題に興味ありげで、まる2時間聞いていたのです。別れ際になると彼は黒い手を差し出して「いくらかくださいよ、、、」とせがむのです。しかたなく、50セント銀貨を取り出して彼の手に握らせたというのです。この国では親切さえも物々交換なのかと嘆くのです。内村らはチップの事は知らなかったようでした。内村は後に渡し船の中で絹の洋傘を盗まれたりします。そして自分が異教徒であることの無邪気さに戻ったと述懐するのです。

 キリスト教国において所持品の安全さが守られぬ事を知って、内村は不思議がるのです。キリスト教国民の間で見られるほと大がかりな鍵の使用を驚くのです。キリスト教国では、あえて金庫やトランクはいざしらず、あらゆるドアや窓、タンスや引き出し、冷蔵庫にいたるまで鍵が掛けられていて、主婦は腰に一束の鍵をガチャガチャさせながら働いているというのです。

 自分の故国では、最も疑い深い人が言い出したと思われるような言葉があるといいます。「火を見たら火事と思え、人を見たら泥棒と思え。」しかし、内村は、くまなく鍵のかかったアメリカ人の家庭以上に、この戒めを文字通り実行しているところを知らないと述べます。「セメント造りの地下室と石造りの金庫とを必要とし、ブルドッグと警官とによって守らねばならぬ文明なるものは、果たしてしてキリスト教文明と呼び得るであろうか。公正なる異教徒の自分はそれを疑わざるを得ない。」

John Brown

 このように、キリスト教国と考えていたアメリカで、内村はこの国の人々に広まる強烈な人種的偏見の現実を体験します。残忍非道の方法で土地を奪われ、罠に掛けられ狩り回され連れてこられた黒人を目の当たりにするのです。彼らはアフリカからの輸入です。彼らにたいして相当の同情とキリスト教的友愛とが示され、サクソン(Saxon)の義人ジョン・ブラウン(John Brown)も虐殺されねばならなかった国です。キリスト教国民は今では「黒ん坊」として同じ客車に乗るほど寛容になったとえは、黒人との間に相当の距離をおくのを体験するのです。デラウエア州(Delaware)のある街の一区画が黒人専用になっているのを見て驚き、こんな厳重な人種的分け隔ては実に異教的なやり方だと知人に漏らすのです。

 ジョン・ブラウンのことです。彼は白人の奴隷制度廃止運動家で、奴隷にされていたアフリカ系アメリカ人の解放のためにバージニア州(Virginia)ハーパーズ・フェリー(Harpers Ferry)で奴隷制度廃止運動を始めます。この町で武器庫を襲撃しますが失敗に終わり、捕らえられて後に反逆罪として絞首刑に処せられます。国中を震撼させた運動といわれます。

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この人を見よー内村鑑三 その十 キリスト教国の第一印象

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内村鑑三の当時のアメリカについての印象は、興味ある話題です。彼は1884年に私費でアメリカに渡ります。11月24日に「金門橋を過ぎると視界にはいる煙突や帆柱はみな天を指す教会堂の尖塔かと疑われた。」そしてサンフランシスコに到着します。あるアイルランド人のホテルに馬車で乗りつけます。それまで彼が会った白人種はおおかた宣教師だったので、その観念が深く心に食い入って、道すがら会う人は皆キリスト教の高い目的を抱く教役者のように思われたのです。これまで彼はキリスト教国と英語国民とを特別な尊敬の念もって眺めていたのです。やがて「この子どもぽい考えから私は徐々にきわめて徐々に抜け出したのである。」

 内村は高貴なもの、有益なもの、向上的なものをすべて英語を媒介物を通して学んでいきました。もちろん聖書を英語で読破していました。前稿で書いたバーンズの聖書註解書も英語でした。キリスト教国アメリカに関する彼の概念は、高貴な、信仰的な清教徒的なものでした。清教徒は、日曜日の娯楽などを避け、労働・節制・家庭の秩序を重視しました。家庭は「小さな教会」とされ、信仰教育の場と考えられていました。個人の生活にも厳格な道徳基準を求めました。しかし、内村が上陸後に知ったのは拝金主義や人種差別の流布したキリスト教国の現実です。

 ヘブル語法(Hebrew)が、少なくともある意味でアメリカにおける日常の言葉遣いであることを知ります。それは人々は皆ヘブル風の名前を持っていることでした。つまり、旧約聖書や新約聖書にでてくる固有名詞が、人々の名前として残っているのです。Andrew、Bartholomew、David,、James、 John、 Joshua、Luke、Mark、Martha、Mary、Michael、Paul、Peter、Philip、Simon、Stephen、 Thomasなど枚挙に暇がありません。こうした名前が馬にも付けられていることに驚くのです。

12使徒と最後の晩餐

 ところで、ヘブル語法が英語に与えた影響は、生成AIによれば、一般的な文法構造のような直接的な影響というよりも、聖書翻訳、特にキング・ジェームズ訳(King James Version)を通じた語彙・文体・表現の影響という形で見られることです。例を挙げますと、感嘆や呼びかけの構文、たとえばヘブル語の呼びかけや感嘆の語法が英語表現に残されています。 “Holy, holy, holy is the Lord of hosts”という例です。ヘブル語的並列法・反復法特徴(パラレリズム: parallelism)も英語に引き継がれています。さらにヘブル語の宗教概念を英語に採用した「covenant(契約)」「redemption(贖い)」「sin(罪)」「righteousness(義)」などの概念語は、日常語にまで浸透しています。ヘブル語では主語+述語の順序よりも、強調したい語を文頭に置く語順の自由さがあります。”Great is thy faithfulness.”といった按配です。

ヘブル語の一例(テトリスの海外旅行より引用)

 内村は、人々が不快な気持ちになるとき、宗教上の呪いが伴うことを知ります。「神にかけて、やつは悪魔だ」(By God!, he is a devil.) 、「こん畜生」(Jesus Christ ! ) (damn-devi l )といった言葉を見聞きするのです。そして立派な職業に従事する者までが、我々が極度に畏れ敬いながらようやく口にする言葉を平気で発するのを体験するのです。そして、これらのすべてのヘブル語法の根底に横たわる深刻な冒涜罪を発見し、それを十戒(Ten Commandments)の三、すなわち「神の名をみだりに唱えてはならないこと」に対する明白な違反と断言するのです。内村はこうして、アメリカでヘブル語法の英語の体験を通して、「キリスト教文明」に対する信頼に疑問を抱いていきます。

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この人を見よー内村鑑三 その九 新しき教会

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1881年7月9日、土曜日に農学校の卒業式が行われ、その後卒業演説会が開かれます。第二期生が入学したときは21名でした。病気その他で、卒業の時は12名に減っていました。そのうち7人がクリスチャンとなります。卒業時、上位の七席を占めていたのはこの7人でした。内村は首席、二番は宮部金吾、六番が新渡戸稲造だったとあります。特に内村の成績は抜群で空前であったばかりでなく、絶後だったといわれます。卒業後、開拓使御用掛として北海道開拓使民事局勧業課に勤め水産を担当します。月俸は30円だったようです。

北海道開拓使

 宮部金吾は札幌農学校で教鞭をとるために東京大学に行き、新渡戸稲造も農学校で教鞭をとることになります。内村は勤務の傍ら、教会堂を建て、それを独立させることに奔走します。そして、1882年に南2条西6丁目にあった古い家屋を購入して、札幌基督教会,、後の札幌独立キリスト教会を創立するのです。教会堂は安い木造建築なので、雪が吹き込んできて、ある日は婦人席は使えなかったとあります。婦人達の乗ったソリは雪の中で動きがとれなくなり、家までたどりつくのに酷く苦労をしたようです。

 全教会員が出席して総会を開いた時です。今や実社会という荒波に乗りだした内村らは、人生なるものが教室の中で想像した以上に現実で真剣なものだということに気がついていきます。すでに400ドルの借金をしている上、説教者には一銭の謝礼も払っていない中、一般経費は相当な額にのぼり、そうした難題に取り組むのです。そこにニュー・イングランドに住む「イエスを信じる者の誓約」の起草者から100ドルの小切手が送られてくるのです。この方こそ恩師ウイリアム・クラークだったのです。「神は備えたもう、兄弟達よ、うなだれた頭を上げよ、天の父は我らを見捨てたまわなかった。」この吉報は教会員の間にたちまちひろがり、一同は希望を取り戻すのです。

札幌農学校農場

 新しい教会ができると、教会規則を作ることになります。信仰個条は使徒信条(Apostle’s Creed)で、教会規則書の基になったのは「イエスを信じる者の誓約」という簡単なものでした。教会は5人からなる委員会で管理されていきます。会計は複式簿記で整理したという先駆的なものでした。ただ規則書が触れていない問題、たとえば教会員の入会、退会などは、全教会員を招集し全員の2/3の投票で決めるというものでした。この教会は一人ひとりが教会のために何らかの働きをすることを要請しました。一人として怠けることは許されなく、誰も彼もが教会の発展と繁栄とについて責任を持つのだということを確認するのです。

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この人を見よー内村鑑三 その八 芽生えの教会

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メリマン・ハリス(Merriman C. Harris)宣教師より洗礼を受けた二期生、特に結束が強かった7人は「新しい人」となったことを自覚し、やがて自分たちの教会を作ろうと考えていきます。寄宿舎の私室に作ったのがそれです。この小さな教会はどこまでも「民主的」で、各自はみな教会員として同じ資格をもっていました。それが真に聖書的であり使徒的であると思っていました。集会の指導役は順番に皆に廻ってきました。順番に当たった者は牧師であり教師であり、小使いでもありました。牧師は開会を宣して祈祷し、聖書を朗読します。次に自分で短い話をしてから、羊の群れを一人ひとり順に呼んで感話をさせるのです。

 当番の牧師は日曜日の朝、第1に会費を集めて集会のためになにか甘い物を用意するのです。感話をさせる間に、甘い物を配り、その茶菓に元気づけられている間に感話は進行するという按配です。会員はそれぞれ自分の特質を示す感話をしました。例えば「不信心について」、「慈悲深い神の摂理」、「神にたいする畏敬と尊崇」などでした。

Albert Barnes, pastor of the First Presbyterian Church Philadelphia, 1837

 そうした礼拝の持ち方に加えて、学生は聖書研究の参考書を探していました。そのため主としてイギリスやアメリカの出版物を頼ることになります。例えばアメリカ伝道小冊子協会の出版物を手に入れたり、「週刊絵入りキリスト教雑誌」などでした。ボストンのユニテリアン協会(American Unitarian Association) が彼らにキリスト教関連の刊行物を送ってくれたりしました。そうした雑誌を学生達は熟読していきます。その中で最も感化を与えたのはフィラデルフィア(Philadelphia)の長老教会 (Presbyterian Church) のアルバート・バーンズ師(Rev. Albert Barnes)が著した「新約聖書注解」(Notes on the New Testament)です。

 内村は、この注解書が世にも有益な魅力のあるものとして、学校を卒業するまでに新約聖書に関するこの註解を一字もあまさず読破していたと記しています。「註解の各巻にあふれる深い霊性、簡潔で明瞭な文体、その中にみなぎる清教徒の精神に感動する」のです。「この偉大な神学者によって押された神学の刻印は、自分の心から永久に消え去ることはない」とも述懐するのです。

 いよいよ学生達は新しい教会を作ることになります。そのとき宣教師から、アメリカのメソジスト監督派 (Methodist Episcopal Church) は新教会堂建設のために400ドルを援助するという手紙を受け取ります。しかし、学生らは貰うことにちゅうちょし、返済の難しさを考えるのです。ですが教会堂の土地に100ドルかかるので、残りの300ドルを建築費用に充てようと考えていきます。やがて大工がきて新しい教会堂建築の見積書を提出してきます。建築の設計にわくわくするのですが、借金をすることの苦悩、やがて返済の困難さに直面していきます。

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この人を見よー内村鑑三 その七 洗礼を受ける

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1878年6月2日、内村鑑三はアメリカから来ていたメソジスト派(Methodists)のメリマン・ハリス(Merriman C. Harris)宣教師より洗礼を受けます。内村17歳のときです。ハリス師とは終生の親友となります。

Rev. Merriman C. Harris

 「彼の前に我々がどんな具合にしてひざまずいていたか、また我々の罪の為に十字架につけられしキリストの名を告白せよといわれたとき、堅い決心のうちにもどんなに震えながらアーメンと応えたかを、私は今でもよく覚えている。ところで我々は、日々との前にクリスチャンたることを告白すると同時に、おのおの洗礼名をつけるべきだと考えた。そこで、ウェブスター字典の付録を調べてそれそれ自分にふさわしいと思う名前を選びだした。」 内村は『旧約聖書』の「サムエル記」(Books of Samuel) 20章に登場するダビデ(David)に対するヨナタン(Jonathan)の友愛にいたく動かされていたので、ヨナタンと名乗ることになります。

 「サムエル記」に登場するサウル王(King Saul)は、ダビデがイスラエルの王位に就くことを望んでいるのではないかと疑い、ダビデを殺害しようと目論むのです。しかし、ヨナタンは父の意図を知ると、 ダビデの身に危険が迫っていることを知らせるという記事があります。内村は洗礼の感動を次のように記します。

Gaius Iulius Caesar

 「ルビコン川を渡る」とは、ある重大な決断・行動をすることのたとえです。ルビコン川は、古代ローマ時代、ガリア(Gallia)とイタリアとの境をなした川です。ローマ時代、ルビコン川より内側には軍隊を連れて入ってはならないとされており、違反すれば反逆者として処罰されたのです。しかし、ユリウス・シーザー(Gaius Iulius Caesar)が大軍を率いてこの川渡り、ローマに向かうのです。

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この人を見よー内村鑑三 その六 「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」

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『内村鑑三信仰著作全集』全25巻の第2巻目がこのタイトルとなっています。第一章の「異教」に始まり第十章の「キリスト教国の正味の印象」で終わっています。内村がこの章に記そうとしたのは、自分がいかにしてクリスチャンになったかということです。なぜなったかということではありません。「なぜ、なったか」というのは「回心の哲学」ということですが、これが本題ではないと言います。彼は自分自信を綿密な観察の対象としてきたとも述べます。そしてその観察は、神秘に充ちていることを発見します。

左は新渡戸稲造、右は内村鑑三

 内村は多くの日記を書いています。その日記を「航海日誌」と呼んでいます。自分という憐れな小舟が罪と涙と多くの悲哀とを通過して、上なる天を目指して進む、日ごとの進歩を記録していく、とも言うのです。もう一つの例えは、この日記は「生物学者の写生帳」とも呼んでいることです。一個の霊魂が稲から成長して熟した穀物になるまでの、発生学的成長に関する、形態学上と生理学上のあらゆる変化がここに書き留められているというのです。

 第一章の「異教」は内村の血統から始まります。内村家は代々高崎藩表用役をつとめ禄高は50石で儒教を信じていました。父親は中国聖賢の書物や言葉をほとんどそらんじていたほどです。「自分には聖賢の政治道徳的な教訓はよく理解できなかったが、しかし儒教のおおよその気分は深く心に染みこんでいった」と述懐しています。儒教の「孝は諸徳のもとなり」と教えるのですが、これは「主を恐れることは知識の始まりである」というソロモンの箴言(Proverbs)(1章7節)と似ているといいます。長上に対する服従と尊敬とを強く教え込む東洋思想に言及し、同輩や目下との関係にも触れます。すなわち交友における誠実、兄弟の融和、目下の者に対する寛容さを言うのです。こうした儒教の教訓は、多くの自称クリスチャンに授けられている教訓に比べて少しも劣るものではないと言います。しかし、当時の内村は、武士の家からの多くの欠点や迷信にとらえられていたことも告白しています。

 第二章の「キリスト教への入門」は、ある朝学友が内村を外人居留地への礼拝に誘ったことから始まります。そして日曜日ごとに、教会に通うのですが、当時の内村はこのような常習的行為のもたらす怖ろしい結果を知らなかったのです。自分に英語の手解きをしてくれる英国婦人は、内村の教会通いを喜んでくれるのです。彼にとっては教会通いは「物見遊山」だったのですが、、、。キリスト教は、それを信ぜよと迫られないうちは、内村にとって楽しいものでした。さらに教会の信者の示す親切は彼をいたく喜ばせたのです。小さい時から祖国を他のすべての国にまさって尊び、祖国の神々を拝して他国の神を拝してはならないと教えられてきた内村です。武家たる父親らから異国に興った宗教を信じるものは、祖国に対する反逆、国教に対する背教者となる、と信じ込まされていたのです。

 やがて札幌農学校に入学する内村らに対して、上級生らは下級生を回心させようと試みるのです。周りの同窓生は皆回心していきますが、内村は一人それに抗して「異教徒」として孤立します。学内の世論があまりに強く内村は、ついに「イエスを信じる者の誓約」に署名するのです。当時内村は16歳であり、「加入せよ」との上級生からの力に屈せざるを得なかったようです。こうして、内村のキリスト教への第一歩は自らの意志に反して強制された、言い換えれば、自分の良心に反したものだった、回想するのです。

アマースト大学時代の内村鑑三

 この誓約書はもともと英語で書かれていました。ウイリアム・クラークが書いたものだったのです。誓約書に署名したのは総数30名を超えていたといわれます。新しい信仰のもたらす益は、宇宙には唯一の神がいますのみであることを教えられたと述懐します。キリスト教的一神教が自分のすべての迷信を根本的に断ち切ったと言います。そして自分は「イエスを信じる者の誓約」に強制的に署名させられたことを悲しまなかったとさえ断言するのです。それほど誓約の内容は霊感的(inspiring)だったと回想します。

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この人を見よー内村鑑三 その五 「イエスを信じる者の誓約」

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札幌農学校の第一期生は、初代の教頭となったウイリアム・クラークの薫陶によって受洗しクリスチャンとなります。内村ら第二期生も一期生であった佐藤昌介らの熱心な奨めによって級友とともに改宗を受け入れ「イエスを信じる者の誓約」に署名するのです。

 クラークは元はアメリカ合衆国軍の陸軍大佐であり、科学者でもあったので、教派とか信条、教義などにはこだわらなかったといわれます。当時の札幌の人口は数千人といわれ、札幌農学校が建てられた石狩平野はいわば原始林と原野のような姿だったようです。宣教師も牧師も教会もない時代で、学生は校内で祈祷会や聖書研究会を開いていたようです。皆信仰に充実で励まし合い、まるで初代教会のような集まりだったといわれます。そうした絆に結ばれた彼らの集まりはやがて「札幌バンド」と呼ばれていきます。内村はその信仰の代表者として宣教を始めるのです。

 「札幌バンド」の中心となったキリスト教にいくつかの特徴があります。それはクラークの清教徒的(ピューリタン–puritanism)の信仰態度にありました。ピューリタンという名称は清潔、潔白などを表す「purity」に由来し、転じて頑固者や潔癖者を意味することもあります。「札幌バンド」の第一の特徴は、従って倫理的ということです。クラークは、自ら禁酒し、禁欲主義を教え、日曜礼拝や聖書の学習を徹底させたといわれます。それが「紳士的であれ」(Be gentlemen)という教えに現れています。

 第二の特徴は、聖書的(biblical)ということです。クラークは札幌農学校に数十冊の英語の聖書を持参し、それを学生に読ませては聖書の研究を大事にします。聖書研究会は日常化していきます。聖書的とは、聖書全体、書簡全体、その箇所の前後の文脈に従い、書かれた当時の人々が理解したように聖書を読み理解するヘブル的視点(Hebrish)に立って解釈していくという姿勢です。ヘブル的視点をもう少し説明しますと、古代イスラエル民族、特に聖書のヘブライ語聖書、つまり旧約聖書に記されている思想に基づいた、独特な世界観・神観・人間観・歴史観などを指す概念です。これは、「ギリシャ的思想(ヘレニズム的思想)」といわれる哲学、知的・内省的な追求と対比されます。

 札幌バンドのキリスト教の第三の特徴は、「福音的」(evangelical)ということです。「福音的」とは、聖書を信仰の中心に置き、個人の救いや福音の宣教を重視することを指します。「福音」つまり”良き知らせ”(Good News)を伝えることを使命とすることです。信仰の証としてクラークが学生と共に歌った讃美歌が知られています。「いさおなきわれを」(讃美歌271)、「北のはてなる」(讃美歌271番)といった歌です。学生は教室でも声高々に唱和したようです。

Oldship Church, Massachusetts

 第四の特徴は、「独立的」(independent)ということです。いずれの教派にも属さない教会(単立教会)です。独立とは、他の教派への反抗ではなく、独立することが信仰の自由のために本質的に必要だったと考えたのです。それゆえに教会は必然的に、外国宣教師や宣教師団からの資金提供に依存せずに、日本人信徒による独自の宣教を行うことを是とするのです。「外国人の扶助を借りずして我国に福音を伝播するは我国人の義務なりと知りたる事」と信徒の一人で内村との同期生、宮部金吾は述べています。

 第五の特徴は、「科学的」(scientific)ということです。クラークはキリストの愛を伝えながら、原始林の深い札幌の地において自然科学の研究にも没頭したようです。専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えていきます。ダーウィンの「種の起源」も教科書のように英語で熟読させ、近代科学を敬遠するのではなく、科学をもって聖書の天地創造を理解しようとするのです。

 第六の特徴は、「愛国的」(patriotic)です。「愛国的」「Patriotic」の語源は、ギリシャ語の「patriōtēs」(同国人)に遡ります。父祖の地とか祖国という意味となります。内村は、日本や日本人への強い愛情や誇り、忠誠心を大事にした人です。決して排他的なナショナリズムではなく、キリストによって救われねばならないのが日本人だというのです。札幌農学校を卒業するにあたり、同窓の新渡戸や宮部とともに、「生涯を二つのJ、すなわちイエス(Jesus)と日本(Japan)に捧げよう」と誓うのです。 

 札幌バンドのキリスト教の第七の特徴は、「友愛的」(fraternity)です。友愛とは、友人に対する親しみの情です。友情、友誼という他に対しての深い思いです。内村は、同窓生らと強い絆に結ばれて友愛の精神を育みます。友愛についての個人の責任,個人および社会の福祉のための自発的協同という理念は、キリスト教において人間の神への愛と人間相互の愛「アガペ」(愛)から生まれると信じたのです。

 こうした札幌バンドの特徴が内村鑑三の信仰を形成した精神(エートス)であったといえそうです。

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この人を見よー内村鑑三 その四 「余の北海の乳母」

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 『内村鑑三信仰著作全集』は全25巻からなります。そのうちの19巻に「余の北海の乳母ー札幌農学校」というエッセイがあります。19巻は95篇の論説からなり、信者にとって最も重大な関心事である信仰生活の諸問題について内村がいかに考え、いかに対処したかたを語っています。内村が信仰生涯を論じ、それを語るにあたって、教義や信条に基づいて思考した結果ではなく、自分自身の体験に基づいてそのまま語り、説いていることがわかります。

札幌農学校

内村は、札幌農学校から多くのことを学んだと述べています。例えば、「農学校は余に多くの善き事を教えてくれた。馬について、牛について、豚について、じゃがいもについて、砂糖大根について教えてくれた。これみな貴い知識であることは明らかである。」しかし、私たちにとって次のような驚くような記述もしています。「しかしながら、農学校は最も善き事を教えてくれなかった。」と述懐するのです。

 さらに、「余は札幌農学校の卒業生である。そのことは事実である。しかしながら、余は札幌農学校の「産」ではない。」卒業はしたが、産ではないというのです。そして「神について、キリストについて、永生については、少しも教えてくれなかった。これは余が札幌農学校以外において学んだ事である。」と書いています。これは興味ある記述です。

 内村は次のようにも言います。「余の札幌農学校に対する関係は、子がその母に対する関係ではない。乳児がその乳母に対する関係である。札幌の地を去って、マチューセッツの地、ペンシルヴァニアの丘において、人に由らざる教えを受けた。札幌は余をこの世の人にしてくれたかもしれない。しかしながら、神の子たるの資格を世に授けてくれたところは札幌ではない。余が札幌農学校の産ではないというのは、これがためである。」

  札幌農学校を乳母に譬えて、内村は農学校を女性名詞を使います。

「彼女を囲む天然は日本国第一等である。彼女の南にそびゆるエニワ岳、彼女の東を流るる石狩川、彼女の北を洗う日本海、彼女の西をさすテイネ山、彼女を見舞う渡り鳥、彼女を飾る春の花と秋の実、これありて、余は彼女を囲む天然に養われたる者である。」

「しかしながら、余は摂理の神が余を、余の乳母、札幌農学校に託したまいしを感謝する。余は余の青春時期を北海の処女林の中に経過するの機会を与えられしを感謝する。」

札幌農学校

 内村は札幌農学校に育てられたとは言わず、むしろ農学校を囲む自然に養われた者だ、というのです。このような述懐は、内村が農学校の教育に傾倒し心酔していた、という一般の見方を変える必要があると思われます。

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この人を見よー内村鑑三 その三 ウイリアム・クラークからの薫陶

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内村鑑三が札幌農学校に入学した時には、ウイリアム・クラーク(William Clark) はすでに日本を離れていたので、直接の師弟関係はありません。クラークが札幌農学校に在任したのは1876年のわずか8か月間でした。ですが彼は学生たちにキリスト教的道徳観と「高潔な志を持て」という信念を強く植え付けたといわれます。その象徴が「Be gentleman」、「Boys, be ambitious」という言葉です。内村はこの言葉とその精神を先輩たちから聞き、強く感化されていきます。

 クラークは札幌農学校でキリスト教の集会を行い、多くの学生を洗礼に導きます。彼の影響で、札幌農学校には「バイブルクラス(聖書研究会)」や信仰共同体が形成されており、内村が在学した頃にもその雰囲気が濃厚に残っていたといわれます。クラークが残した「イエスを信ずる者の契約」に一期生佐藤昌介らとともに署名します。佐藤は日本初の農学博士で後に北海道帝国大学初代総長となります。内村はこの環境の中でキリスト教に接し、1878年にメソヂスト監督教会のメリマン・ハリス(Merriman Colbert Harris)より洗礼を受けます。この経験は後の内村の「無教会主義」や独立した信仰姿勢の基礎となったといわれます。彼の生涯を貫いた「良心の自由」や「自己の信仰に忠実に生きる」という姿勢は、クラークの残した理想主義に通じます。

 一期生の佐藤昌介らは、自主独立の教会を持ちたいとの気運が高まります。彼らが教会の独立に熱心だったのは、教派への反抗ではなく、独立することが信仰の自由のために本質的に必要だと考えたのです。当然ながら教会は外国宣教団に依存せずに、日本人信徒による独自の宣教活動を始めます。これが世に言う「札幌バンド」です。

初代の札幌独立教会堂

 内村鑑三は札幌農学校卒業後、農商務省等を経てアメリカへ留学します。1885年、アマースト大学(Amherst College)の三年次に編入し、ジュリアス・シーリー学長(Julius H. Seelye)らの指導で回心を体験し、福音主義信仰に立っていきます。後に同志社大学を創立する新島襄もアマースト大学で学んでいます。帰国後の1890年に第一高等中学校嘱託教員となります。1891年に教育勅語奉戴式で拝礼を拒んだ行為が不敬事件として非難され退職を余儀なくされます。以後著述を中心に活動していきます。

 1900年に『聖書之研究』を創刊し、聖書研究を柱に既存の教派によらない無教会主義を唱えていきます。日露戦争時には非戦論を主張します。田中正造が中心となって反対運動を展開した足尾鉱毒事件では、内村鑑三もその運動を支援します。主な著作は1894年の『日本及び日本人、1895年の『余は如何にして基督信徒となりし乎』を英文で刊行します。その後精力的に著作や伝道活動に専心します。

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この人を見よー内村鑑三 その二 札幌農学校

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内村鑑三と新渡戸稲造は,1876年(明治9年)に開学した札幌農学校に第二期生として入学します。彼らの青春時代の思想形成となった場所です。「文明開化」を旗印に、近代国家をつくりあげようと突き進んだのが明治といわれます。この時代は,司馬遼太郎のいう「この国のかたち」が形成されてゆく時代です。

 かなり多くの日本人が抱いている明治のイメージは,新生日本が世界の強国として成長していく明るく逞しい時代というものです。このイメージを定着させたのが司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』かもしれません。この小説は日露戦争で日本を勝利に導いた軍人秋山真之と秋山好古兄弟を主人公にして,国の目標と個人の目標が一致し,誰もが「坂の上に白く輝く雲を目指して上っていく」希望の時代,いわばこの国の青春時代を描いているようです。

 いわゆる「司馬史観」の近代日本認識では,昭和になると明治期の健康な時代と人が次第に破滅に至る国家主義の道へ向かう歴史です。司馬は、徹底して軍国主義を批判していきます。底抜けに明るい明治から、薄暗い昭和のイメージを司馬は近代日本像として描くのです。昭和の前半が軍国主義の暗い時代であったことは確かですが,明治はそんなに明るい時代だったのかという疑問もあります。昭和の破滅に至る道は明治期にすでに準備されていたともいえそうです。

司馬遼太郎

 「和魂洋才」の危うさを見抜き、軍国主義を批判して日本の真の近代化のために闘った人々がいます。元東大総長の矢内原忠雄は、1940年5月に岩波新書からの『余の尊教する人物』の中で次のように述べています。「内村鑑三と新渡戸稲造とは私の二人の恩師で,内村先生よりは神を,新波戸先生よりは人を学びました。両先生は明治初期の札幌農学校で同級の親友でありましたから,その意味では私も札幌の子であります。」この二人が奇跡のように出会って同級生となった札幌農学校とはどのような学校だったのでしょうか。

 矢内原は、1961年7月、札幌市民会館において北海道大学の学生のために「内村鑑三とシュヴァイツァー」と題してを講演し、「立身出世や自分の幸福のことばかり考えずに、助けを求めている人々のところに行って頂きたい」、そして「畑は広く、働き人は少ない」という聖書の言葉で結んだそうです。初期の札幌農学校はこの二人の外にも日本の近代化にかかわった優れた人物を輩出していますが,この学校は,学士号を授与出来る大学としては東京大学より1年早く,わが国初の大学となりました。かつて蝦夷地といわれた北海道という僻遠の地にそれまでの日本的伝統から解放された近代精神が育っていくのです。

矢内原忠雄教授辞表の報道

 明治に時計を戻します。札幌農学校といえばウイリアム・クラーク(William Clark) をおいて他に出る者はいません。クラークはもともとアメリカの南北戦争(Civil War) を戦った合衆国軍(北軍)の大佐でした。マサチューセッツ農科大学(Massachusetts Agricultural College)、現在のマサチューセッツ大学アマースト校(University of Massachusetts Amherst)の学長であり,熱心なプロテスタンティズムのキリスト者でした。明治政府は,このお雇い外国人に学生の知育,徳育,学術を委ねたのです。当時、マサチューセッツ農科大学はアメリカでも最先端の学府であり,札幌ではそのカリキュラムそのままを英語で学生に講義しました。キリスト教はいうまでもなく、西欧近代精神の骨格をなすものです。我が国では、1873年(明治6年)に正式にキリスト教禁制が解除されます。

 明治政府は国家神道を基盤に置きつつも、近代国家建設のために、西洋の制度や思想を積極的に取り入れようとしていきます。こうした方針は、近代化の方向性と同化していたといえます。教育や国際関係の面でキリスト教をある程度容認していく姿勢をとっていくのです。クラークの教育方針は、キリスト教的倫理、個人の尊厳、勤勉の精神などです。学生はクラークの教育方針に感化されていきます。

 終わりにキリスト教と資本主義の関係です。経済の資本主義化は「近代化」の重要な要素ですが,問題はここでもそれを支える人間の精神です。マックス・ウェーバー(Max Weber)な社会学者が1905年に著した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus) という本にも関連しますが、ここでは札幌農学校にもたらされたプロテスタンティズムのキリスト教は単なる宗教思想としてではなく、日本の近代化につながる精神ーエートス(ethos)であったということです。

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この人を見よー内村鑑三 その一 近代精神

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馬槽の中に』」というタイトルの讃美歌があります。別名(この人を見よ)と呼ばれています。この賛美歌から本稿のタイトルをいただきます。「馬槽の中に 産声上げ、大工の家に 人となりて 貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ」という歌詞です。作詞したのは由木 康という方で、日本の讃美歌の発展の中心的な役割を果たし、賛美歌「きよしこの夜」の訳者として知られています。

 北海道大学の前身、札幌農学校の大先輩というと内村鑑三と新渡戸稲造、植物学者宮部金吾の名前が出てきます。新しい紙幣が出ていますが、これまで使われ今も通用している紙幣は1万円札が福沢諭吉,5千円札が新渡戸稲造,千円札が夏目漱石です。この3人の共通点は何でしょう。そのキーワードは「近代化」です。当然ですが、紙幣の人物を選ぶときには、テーマがあるのです。それ以前の紙幣は聖徳太子,伊藤博文,板垣退助で,このテーマは「憲法」でした。

札幌農学校校舎

 明治期の日本にあって,日本の近代化はどうあるぺきかをそれぞれの立場から真剣に考えたのが福沢、新渡戸、夏目です。この3人が生きていた時代は、日本の近代化の推進であり、物質的で技術的な「文明開化」が先行していたといわれます。それを支える人間の精神が旧態依然とし、当時の人々は「和魂洋才」といって「文明開化」を正当化したのです。それでは本当の近代化は出来ないと考えたことです。

 福沢が1872年に『学問のすすめ』をはじめとする多くの啓蒙書を書いたのも「文明開化」に共通する危機意識からです。夏目は1911年の有名な講演で「現代日本の開化は皮相上滑りの開化である」と言っています。日本の真の文明開化はもっと思想的なものでなければならないと言うのです。福沢も夏目も近代化を訴えるよりも、根源的な「近代精神」を問題にしていたと言ってよいようです。

内村鑑三

 そしてこの問題をさらに徹底して追及したのが新渡戸稲造です。新渡戸は札幌農学校,京都大学,東京大学の教授を歴任した学者,教育者として,また国際連盟の事務次長を務めた国際人として活躍しました。1899年に著書『武士道』を刊行します。流麗な英文で書かれ、長年読まれています。新渡戸がこの本を刊行した時、世界は日本人の道徳を賞賛したといわれます。日本人が近代国家へと歩みを続ける理由に納得したからです。こうした経歴を通して彼が一貫して日本国民に訴え続けたテーマが「近代精神」だったのです。そして彼の力強い同伴者が,札幌農学校の同期生で親友の内村鑑三でした。

 私は内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾の末席の末席、またの末席にいた北海道大学卒業生の一人です。

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忘れ得ぬ人 その九 教育統計のジェームズ・マッカーシー教授

注目

ウィスコンシン大学ではいろいろな先生から指導を受けました。そのお一人が今回紹介するジェームズ・マッカーシー教授(James McCarthy)です。この先生のご専門は障がい児教育の評価と測定といういわば統計学です。特に単一被験者とか少数被験者の教育や実験計画(single subject experimental design)で得られたデータの分析です。行動科学などの分野での研究では統計が重要視されます。数量的なデータを処理し、何らかの結論を導き出す必要がある場合が多いのです。数量的なデータの処理とは、単純な集計のように事実を数値で要約することか、児童生徒の行動観察やテストの結果から成績表をつけるということもあるでしょう。

Bascom Hall

 障がい児教育の分野では、障がいのない子どもと異なり、子どもの数が少ないのです。例えば、ある科目において1学年遅れのある子どもは、母集団と呼ばれる全2年生の15%位だろうと察します。母集団の成績は、グラフで表すと釣り鐘の形をします。これは通常正規分布といいます。母集団の成績のデータには、最頻値、中央値、算術平均があります。しかし、学習に困難を示す子どものある特性は、正規分布からかなり離れていることが多いのです。

 一例として、ある県における自閉症的傾向を示す子どもの出現率は男子、女子の比は4:1であるとします。そうすると、日本全国にいる同じような行動上の特徴を示す子どもの出現率も4:1での割合で推測できるかもしれません。このような判断をするのを推測統計といいます。別な例で言いますと、2025年7月20日の参議院議員選挙で、投票所での出口調査の結果、投票が締め切られた瞬間に当選確実、と発表できるのは推測統計によるからなのです。この場合の出口での投票者数は標本と呼ばれ、全投票者数は母数と呼ばれます。つまり、標本の結果は母数の結果とほぼ一致するのです。ただし、この場合、標本と母数の誤差は5%以下といわれます。このような統計手法は、『母数による検定』、別名パラメトリック法(parametric) といいます。

University of Wisconsin, Red Gym

 しかし、標本数が限られている場合は、『母数による検定』は使えません。そこでそれに代わる検定として『母数によらない検定』、別名ノンパラメトリック法(non-parametric) があります。マッカーシー教授は『母数によらない検定』の基本的な前提、手法、検定の仕方を詳しく院生に教えてくれたのです。すこし、統計的検定のことを説明します。検定とは、ある種の仮説についての検定であり、この仮説を採択すべきか、棄却すべきかを調べます。その判定基準は適当に定めた確率である危険率によるのです。危険率とは通常.05とか5%が使われます。5%とは20回のうち1回は間違いを起こすことがあるが、それは無視してよいというのが統計です。

マスコットのバジャー

 マッカーシー教授の講義で思い出深いのは、講義の他に統計手法の使い方の実習時間をとってくださったことです。通常、大学では講義で終わりなので、実習時間をとってくれることはありません。それも朝の8時からなのです。必ずベーグルとかクロワッサンを持参して院生に振る舞ってくださるのです。この日は、院生は朝食抜きでやってくるのが通例でした。その他、ミルウォーキー(Milwaukee)での学習障害の学会にも院生を同伴してくださったり、夏はマディソン郊外でのシェークスピア(William Shakespeare)の野外劇にも連れて行ってくれるなど、実に気さくで面倒見の良い先生でした。マッカーシー教授には博士論文の審査委員のお一人にもなっていただきました。後に就職した国立特別支援教育総合研究所時代に『障がい児教育のための統計情報処理入門ーノンパラメトリック法を中心に』という120ページの小冊を刊行できました。これも先生の薫陶によるお陰です。2012年4月に逝去されたことを大学のWebサイトで知りました。

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