「アルファ碁」によって定石は変わった

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私の「道落」の一つが囲碁。強いとはとてもいえないのですが、碁の深さや難しさに魅了されつつ、毎日練習するのを日課としています。囲碁には「定石」といわれる昔から度重なる研究と対局によって生まれた石の形があります。定石とは対戦者が最善を尽くして「部分的」に互角に分かれる石の形のことです。どちらかが有利な形となるなら、それは定石とはいいません。私も定石を何度も練習しています。ですがいざ実戦となるとその手順を間違えることがしばしばあります。対戦相手は定石にないような手を打ってきます。高段者は新しい定石を学び低段者を翻弄します。

 2016年1月、Googleの完全子会社であるイギリスのGoogle DeepMind社が開発した、ディープラーニング(deep learning) の技術を用いた人工知能(AI)のコンピュータソフト「アルファ碁(AlphaGo)」が、2013年から2015年まで欧州囲碁選手権を3連覇した樊麾二段と対局しました。結果は5戦全勝し、それに基づく研究論文がイギリスの科学雑誌ネイチャー(Nature0)に掲載されました。囲碁界でコンピュータがプロ棋士に互先で勝利を収めたのは史上初のことでした。DeepMind社は「人間の棋譜を一切使わず、ルールだけを教えられた状態」からコンピュータ囲碁を強くする研究として「アルファ碁ゼロ(AlphaGo Zero)」を開発したのです。

 さて、AlphaGoにまつわる話題です。それが、「定石と固定観念」というフレーズです。これが人工知能とどう結びつくかです。 囲碁はある程度の知識が無いと盤面を見ても優劣を判断できないのですが、囲碁AIによる形勢判断を数値で表示することで優劣を分かりやすく見せることが可能となりました。NHK杯テレビ囲碁トーナメントでも第69回(2021年度)から、AIによる%表示の形勢判断が画面上部に表示されるようになりました。

 AlphaGoは従来のプロ棋士たちが「常識」として使ってきた定石の多くに対して、「必ずしも最善ではない」、「もっと勝率の高い手がある」ということを示しました。例えば、小目からの三々侵入です。かつては三々侵入は、中盤で打つものとされていましたが、AlphaGoは序盤から打つことで実利を先に確保する戦術を示しました。さらに、星の構えにおけるアプローチの順番や角の処理についても、今まで不利とされた打ち方が、AIによって再評価されました。

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「経験」と体験との違い

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森有正についての第三稿です。森は言葉には、それぞれが本当の言葉となるための不可欠な条件があるといいます。それはその条件に対応する「経験」であるというのです。経験とは、事柄と自己との間の抵抗の歴史であると主張します。福祉を論ずるにせよ、平和に論ずるにせよ、その根底となる経験がどれだけ苦渋に充ちたものでなければならないかを想起することです。その意味で経験とは体験とは似てもつかないものであると主張します。体験主義は一種の安易な主観主義に陥りやすいと警告するのです。

 「人間は他人がなしとげた結果から出発することはできない。照応があるだけである。これは文化、思想に関してもあてはまる。確かに先人の築いたその上に築き続けるということは当然である。しかし、その時、その継続の内容は、ただ先人の達したところを、その外面的成果にひかれて、そのまま受けとるということではない。そういうことはできもしないし、できたようにみえたら必ず虚偽である。」

 「変化と流動とが自分の内外で激しかったこの十五年の間に、僕のいろいろ学んだことの一つは、経験というものの重みであった。さらに立ち入って言うと感覚から直接生れてくる経験の、自分にとっての、置き換え難い重み、ということである。」

 「経験ということは、何かを学んでそれを知り、それを自分のものとする、というのと全く違って、自分の中に、意識的にではなく、見える、あるいは見えないものを機縁として、なにかがすでに生れてきていて、自分と分かち難く成長し、意識的にはあとから それに気がつくようなことであり、自分というものを本当に定義するのは実はこの経験なのだ。」

 「自己の中の生活と経験とが発展し進化されて、おのずからその経験そのものが、平和を、自由を、人間形成を定義するようにならなければ、すべてが軽薄になり混濁してくる。経験が体験と違うのは、そしてそれについての一つのもっとも根本的な点は、前者が絶対的に人為的に、あるいは計画的に、作り出すことが出来ない、ということである。」

 「日本では、自由とか、平和とか、民主主義とか、そういう言葉そのものにつかまってしまって、それらの言葉の持つ真の意味を考えない。どうも、事態がすべて逆転している。これは非常に不幸だと思います。現在、言葉というものが、非常にむなしいものになっているとしたら、それは、経験の裏づけを失った、沈黙の重みをになったものでなくなってしまった、ということでしょう。」

 このように森有正は、経験という意味を深く追求することによって、真理であると思われることを一度真剣に、徹底的に疑う勇気が生まれるというのです。

 この本に「思索の源泉としての音楽」という章があります。森はオルガン演奏をこよなく愛した人です。特にバッハ(Johann Sebastian Bach)のパッサカリア(Passacaglia)やグレゴリアン聖歌(Gregorian Chant)に心酔していました。こうした音楽の本質は、人間感情についての伝統的な言葉を、歓喜、悲哀、憐憫、恐怖、憤怒、その他を、集団あるいは個人において究極的に定義するものだとします。人間は誰しも生きることを通して自分の中に「経験」が形成されると森はいいます。自己の働きと仕事とによって自分自身のものとして定義される、それが経験だというのです。この仕事は、あらゆる分野にわたって実現されるもので、文学、造形芸術などとともに音楽もその表れだといいます。

 この著作は森有正の人となり、生き方、フランス文化や日本文化に対するに関する思索や洞察、さらには音楽の意義に至るまで、その言葉や音楽の定義力の強烈な純粋さのようなものが織りなすエッセイとなっています。私の考え方の一つの道しるべのようなものとなった、かけがえのない一冊です。

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フランスの教育と森有正

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著書「遙かなノートル・ダム」の中で、森有正は次のようにフランスの中等教育の特徴を指摘します。

 「フランスの教育の要点は、知識の集積と発想機構の整備の二つである。知識の集積とは記憶が主要な役割を果たす。それは実に徹底していて、中等教育の歴史科をとってみると、先史時代から現代まで第六学級から卒業までの七年間に膨大な量を注入する。知識は内容を省略せず、各時代の主要問題、政治、外交、経済、社会、文化を中心に、しかも頻繁なコントロールや宿題、さらに作文によって生徒自身の表現能力との関連において記憶されるようになっている。日本の中学や高校の教科書の五倍くらいの量である。」

 「フランスにおいては、自国の言葉の学習に大きい努力が払われている。小学校に入る6歳くらいから、大学に入る18歳くらいまで行われるバカロレア(Baccalaureate)という国家試験まで、12年間にわたり緻密に行われる。その目的は単に本を読むことを学ぶだけでなく、作文すなわち表現力を涵養するために行われる。漠然と感想を綴ることではなく、読解、文法、語彙、読み方にわたって低学年から教育が行われ、その定義と正しい用法が作文によって試されるのである。文法にしても、しかじかの規則を覚えることではなく、その規則の適用である短い文章を書くことが無数に練習される。読本の読解ももちろん行われる。学年が進むと、文法的分析に論理的文体論的分析が加わる。そして作文はいつも全体を総括的にコントロールするものとして、中心的位置を占めている。

 このようにフランス教育の中心課題が知識の組織的蓄積であって、そこから自分の発想を磨くという眼目を忘れてはならないと説きます。それは単なる知識の詰め込みではないということです。

 森は、人間の中心課題として経験と思考、伝統と発想、そして言葉の重みを提起します。日本人は英語の単語や語句をたくさん知り、難しい本を読むことができても、書くとなると正しい英語を一行も綴れないことを話題とします。それは、自分の中の知識に対する受動的な面と能動的な面との均衡の問題であると指摘します。たくさんのことを覚えても、記憶してもそれが自分の中にそのまま停止しているから文章を綴れないのだ、というのです。単なる作文の練習をしてもどうなるものではなさそうです。英語でもフランス語でも本当に正しい語学を身につけるためには、その国の人の間に入って経験を積むほかはないと断言するのです。

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オルガン奏者の森有正

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偶然ですが、私が一度会ったことのあるフランス文学者で哲学者が森有正です。森に会ったのは、1965年6月頃の札幌ユースセンタールーテル教会です。そこで働いていたとき、森が教会に入ってきて名刺を示し「オルガンを弾かせて欲しい」というのです。教会にはアメリカのルーテル教会青年リーグから寄贈された約400本のパイプのオルガンが設置されて礼拝やコンサートで使われていました。私はそのとき、彼が学者でオルガン愛好家であることを知りませんでした。後に「遙かなノートル・ダム」に出会ったとき、彼の深い思索や文明批評に触れて、その学識に接することになります。

 彼を呼び捨てにするのは少々ためらいますが、森は哲学者というよりもフランス文学者といったほうが適当かと思われます。彼は、明治時代の政治家で初代文部大臣となった森有礼の孫で、東京帝国大学文学部哲学科で卒論を『パスカル研究』として発表します。やがて1948年東京大学文学部仏文科助教授に就任します。第二次世界大戦後、始まった海外留学の第一陣として1950年フランスに留学し、デカルト(Rene Descartes)やパスカル(Blaise Pascal)を研究し、そのままパリに留まります。東京大学を退職しパリ大学東洋言語学校で日本語や日本文化を教えていきます。同じくフランス文学者の辻邦生とは子弟のような関係があったようです。

 パリでの長い生活で森は数々の随想や紀行などを著します。人々の息づかいが伝わるような濃密な文体で知られています。読みこなすのは容易ではありません。晩年は哲学的なエッセイを多数執筆して没します。森有正選集全14巻の第4巻が「遙かなノートル・ダム」です。彼はフランスの教育制度や内容にも深い関心を示します。著者の経験と思索の中には、フランスの教育に触れる箇所があります。それは別の稿で取り上げます。

辻邦生の世界

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フランス文学者や哲学者といわれる人々は、一種独特の気風や感性の持ち主のようです。当然といえば当然ですが、彼らは長らくフランスで生活し、風土や人々に触れ、そこから日本とは異なる啓示のようなものを経験したようです。その代表が辻邦生であり森有正です。辻は、日本の小説家・文芸評論家として、戦後日本文学界の中でも、知的で格調高い作風を持つ作家として知られています。そのことは、主な作品から伝わってきます。

辻邦生(学習院大学史料館より)

 辻の小説家としての特徴についてです。彼は、フランスの文学者、ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire)、ジッド(André Paul Gide)、プルースト(Marcel Proust)などから影響を強く受けてできました。その主張は、芸術性や精神性、死生観、自己探求といった重厚なテーマであり、一般大衆小説とは一線を画します。非常に文体が緻密かつ格調高く、哲学的な要素も多いので読み応えがあるというか、難しさもあります。

 辻の人となりです。学習院大学、東北大学、東京大学などで教鞭をとり、文学教育にも尽力します。文学おいて非常に自分に厳しく、欲望や快楽を我慢し、感情に流されずに冷静に物事に取り組む態度や生き方を求めます。そして美と死をめぐる探求を生涯のテーマと、晩年まで一貫して「芸術文学」を追求した数少ない作家といわれます。

 彼の主な作品を短く紹介します。
『背教者ユリアヌス』(1964年)→ 古代ローマの皇帝ユリアヌスを題材に、理想と現実のはざまで葛藤する人間を描いた代表作の一つである。
『嵯峨野名月記』(1975年)→ 京都・嵯峨野を舞台に、芸術と死をめぐる精神の遍歴を描く。
『春の戴冠』(1980年)→ ルネサンス期の画家サンドロ・ボッティチェリを主人公にした長編。美と芸術の意味を問う。
『一九三四年冬──パリに死す』(1982年)→ 留学先のパリでの日本人青年の死を描き、人生の不条理や美のはかなさをテーマにしている。
『若き日と文学と』(2019年)→ 北杜夫との端正でユーモアに溢れ、青春の日々を振り返る。
『地中海幻想の旅から』(2018年)→生涯を通じて旅を愛する多幸感に溢れるエッセイである。

 辻の作品を概観しますと哲学や創作の原点は、「美と死をめぐる精神の遍歴」、そして「生の意味を芸術に昇華しようとする知的・精神的欲望」にあるといわれます。彼の以上のような労作から哲学の根底にあるものが浮かび上がってきます。それは、次のようないくつかの観点からいえます。

 第一に、死と向き合うことから始まった文学を紹介していることです。辻は、若いころに戦争を体験しており、死の現実を強く意識するようになります。戦後の焼け跡の中で「人間とは何か」「生きるとは何か」という根源的問いに直面し、それを文学を通して問い直すことを自身の使命としていたことが作品から伝わってきます。彼は以下のように語っています。

私にとって小説とは、死の不在と向き合うための形式であり、死を超えるための構築物である。

生の「かけがえのなさ」とは、「死」に限られた自己の有限性をはっきり意識することでもあるからだ。しかし人はそれを通して、「より深い生」を生きることを決意するにいたる。それは遠くへの旅立ちではなく、むしろ自分の内部への、あるいは日常の「もの」たちへ向かっての、旅であるというべきかもしれない。

 つまり、彼の文学は、「死に対して美をもって応答する」試みであり、その象徴的な回答が「芸術の永遠性」にあると思われます。

 彼の創作の二つ目の柱は、「ヨーロッパ的教養と精神の継承」です。フランス留学での体験は、彼にとって決定的でした。ボードレール、ジッド、プルースト、マラルメ(Stéphane Mallarmé)、カミュ(Albert Camus)といった作家の作品を通じて、「個の精神の尊厳」「生の意味」「美と知性の融合」などを思索します。特にプルーストの『失われた時を求めて』の影響は強く、辻文学における時間・記憶・芸術の主題に深く関わっています。西洋の芸術や歴史を舞台にした作品、例えば「背教者ユリアヌス」、「春の戴冠」などは、彼の知的で精神的探究の結晶とも言われています。

 第三に、辻はまた、「物語る」という行為そのものに深い意味を見出しました。「人は、物語ることによって死を越える。記憶も人生も、物語ることで意味が与えられる。」
つまり、日常の一瞬を切り取り、それに形を与えることで、儚い人生が芸術に昇華される――それが辻邦生の創作の根本です。彼はこれを「生の詩化(ポエジー)」と呼んでいます。

 第四に、 フランス文学の影響を受けながらも、辻は後年、日本文化・風土の中に精神的な根を張ろうとします。日本的なるものへのまなざしです。「嵯峨野名月記」などに見られる、京都・嵯峨野の静謐なたたずまいに精神性を見つけ「無常」や「幽玄」など、日本的な美意識と西洋的知性との融合を図ろうとしたかのようです。辻は、西洋的論理と日本的情緒の架橋を目指し、「世界文学としての日本文学」を創ろうとしていたとも言えます。

 終わりに、辻の哲学や創作の原点は、フランス文学や哲学を通じた内的探究にあり、戦争体験から生まれた死と向き合う哲学といえます。そして芸術と物語によって人生を「美」に昇華するという難しい遍歴です。日本的情緒を理解し、西洋との融合を通じて独自の精神世界を構築しようとした文学者といえます。

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生成AIの活用

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私は、これまで教育統計などを使うことを生業としてきました。種々の調査や実験から得られるデータを統計的に解析して、なんらかの結論を導き論文とすることでした。特に利用したのが多変量解析法です。多くの変数間の関連性を分析し、データの傾向を要約したり、将来の数値を予測したりするための統計的手法の総称です。因子分析もその一つで、データの裏にある本質的な因子を統計的に推定する手法です。

 コンピュータ上での統計アプリなしに仕事はできません。そして、今は拙い文筆活動をしながらエッセイを書くときは、文法を含む修辞や用語の使い方を確認したり、間違いを探すために、AI 文法チェックというものを使っています。AI 文法チェックは、いろいろなワープロアプリやコンテンツ管理システムに埋め込まれています。自分が作る原文の質を高め、思いがけない洗練?された文章を作成してくれています。

 アメリカの大学では、ChatGPTとかGoogle Geminiなどの生成AIの活用は急速に広がっています。その際、学生と教授の間でこのツールを使うときは、学術的な誠実さ(academic integrity)を守ることが最も重要とされています。生成AIを許容される使い方では、問題となることと推奨されことがあります。

ChatGPT ロゴ

 学生が生成AIを使い方で、問題となる使い方から始めます。まず、論文本文を丸ごと生成AIに書かせることです。論文の中で、出典を確認せず、AIが出力した「フェイク引用」をそのまま使うことです。従って、提出物にAI使用の記載をせず、あたかも自分の考えとして提出することです。今、多くの大学では、AIの使用は「明記すること」を義務づけています。

 学生が生成AIの利用を許容される好ましい使い方のことです。まず、論文のテーマに関する基本的な背景情報を提供してくれます。さらに論文のアイデア出し、論文テーマを決めるための問いかけをしてくれます。そして、導入→本文→結論という流れの構成案の提案してくれます。当然ながら、文章を校正し改善してくれることです。文法ミスや語彙の修正などは生成AIの得意とすることです。そして、よりアカデミックな表現への書き換えをしてくれます。科学論文では、コーディングや数式処理のサポートをし、計算の手順を教えてくれ、プログラミングのデバッグをサポートしてくれます。引用すべき文献のキーワード探しも補助してくれます。ただ、実際の引用元は自分で確認が必要となります。

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マサチューセッツ州とリベラル・アーツ

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ハーヴァード大学に関するエピソードです。1962年の夏にハーヴァード大学から50名位の男声合唱団が札幌にやってきました。全員学部生です。1858年に創立されたアメリカで最も古い男声合唱団です。そのとき、北海道大学構内にあるクラーク会館において我が北大合唱団がジョイントで歌う機会に浴しました。合唱団の指揮者はエリオット・フオーブス(Elliot Forbes)という人でした 

 たった一回の練習で本番を迎えました。両隣で歌った学生の声量が豊かだったのに驚きました。演奏会後、私は団員に話しかけることができませんでした。会話力の不足でした。これが後に大きな転機となりました。ハーヴァード大学に長男を訪ねる機会ができたことです。彼はウィスコンシン大学から宇宙素粒子の研究で学位を得た後、ハーヴァード大学でポスドク(post doc)としてNASAからの研究費で4年間研究に従事しました。

 ハーヴァード大学男声合唱団と一緒に歌った曲名は黒人霊歌の「This Old Hammer Killed John Henry」といいました。曲の歌詞ですが、黒人奴隷ジョン・ヘンリー(John Henry)は、ウエストヴァージニア州(West Virginia)でハンマーをふるいトンネルの掘削にあたる、「このハンマーは俺を殺すのだ、主よ!」という内容です。その歌詞の一部を紹介してみます。

This old hammer killed John Henry
But it won’t kill me, Lord
No, it won’t kill me
When John Henry was a baby on his mama’s knee
He picked up a hammer and steel
He said “This hammer’s gonna be the death of me, Lord, Lord
This hammer’s gonna be the death of me”This old hammer killed John Henry
But it won’t kill me, Lord
No, it won’t kill me
When John Henry was a baby on his mama’s knee
He picked up a hammer and steel
He said “This hammer’s gonna be the death of me, Lord, Lord
This hammer’s gonna be the death of me”

 私がマサチューセッツ州で強調したいのが、リベラル・アーツ(Liberal arts) 教育機関—単科大学のことです。リベラル・アーツ・カレッジが多いのがアメリカの大学の大きな特徴の一つです。 古典、哲学、文法、修辞学などの一般教養とか基礎知識を身につけ、総合大学へ進むのです。リベラル・アーツ・カレッジに入学するのも容易ではありません。学費も高いのです。

 マサチューセッツ州にある有名な単科大学です。ウィリアムズ大学(Williams College)、アムハースト大学、ウェルズリー大学(Wellesley College)、スミス大学(Smith College)、ホーリークロス大学(College of Holy Cross)、マウントホリヨーク・カレッジ(Mount Holyoke College)があります。大学ランキングで、研究開発型大学40傑に5校(12.5%)、リベラル・アーツ・カレッジ40傑に6校(15%)が入っているのです。マサチューセッツ州の人口は644万です。国内人口の2%に満たない州で、こうした大学の数と質は驚異的なことです。

 マサチューセッツ農科大学、現マサチューセッツ大学アムハースト校を長男家族とで訪ねました。長男の家は、マサチューセッツ州西部にあるプリンストン(Princeton)という小さな街にあります。築後70年以上の白い建物で、ベランダをつける等のコロニアルスタイルです。ここから車で一時間くらいのところにアムハースト校があります。ところで、マサチューセッツ州西部には、植民地時代に交易で栄えたスプリングフィールド郡(Springfield Country)とか四季折々の自然が魅力のバークシャー郡Berkshire Countyなどがあります。世界中の音楽ファンが憧れる「タングルウッド音楽祭」(Tanglewood Music Festival)が開催される会場もバークシャーにあります。小澤征爾が指揮したボストン交響楽団の演奏は、タングルウッド音楽祭の主要な催し物でした。

 アムハースト校のホームページにリベラル・アーツ教育を次のように謳っています。

A liberal-arts education develops an individual’s potential for understanding possibilities, perceiving consequences, creating novel connections and making life-altering choices. It fosters innovative and critical thinking as well as strong writing and speaking skills. The liberal arts prepare students for many possible careers, meaningful lives and service to society.

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森有正の経験論

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森有正は20世紀日本の重要な思想家・哲学者であり、特に「経験」と「体験」という言葉の違いを通して、人間の内面の深まりや自己のあり方を問い直しました。彼のこの区別は、現代においても大きな意義を持っています。その理由を説明します。森は「経験」と「体験」の違いを、特に以下のような形でこの二つを区別しています。

 体験とは外的な出来事としての出来事や刺激のことで、個人の内面に深くは残らない一過性のものと考えていることです。現象的・表層的・情報的といえます。他方、経験とは体験が自己の存在に深く関わり、内面的な意味や変化をもたらしたと主張します。自己の歴史として刻まれる存在論的、内省的、形成的な意見というわけです 体験が自己の存在に深く関わり、内面的な意味や変化をもたらしたものです。森は、単なる出来事が「経験」になるためには、それが自己の存在に問いを生み、内面を揺さぶり、深く反省される必要があると考えました。

 一体、なぜいま「経験」と「体験」の区別が重要かという現代的意義についての問いが生まれます。「情報」や「刺激」が過剰な時代において、現代はSNSやインターネットにより、日々膨大な「体験的な出来事、例えば旅行・イベント・知識などにさらされています。しかしそれらは一過性で、すぐに消費され、忘れられてしまうものです。森の思想は、「本当の経験とは何か」を問う指針となっているように思えます。「自己の存在に関わるような出来事として、何をどう受け止めていくか」を森は問うています。

森がしばしば引用するノートルダム大聖堂

 「生きる意味の問い」が見失われがちな現代に、森の経験論は、自己と世界の関係を深く見つめる態度に根ざしています。現代のように、スピードと効率が優先される時代では、「自分はなぜここにいるのか」「この出来事は自分にとってどんな意味があるのか」という問いが後回しにされがちです。 森の思想は、「意味を問い、反省し、内面的な成長を促す」経験の大切さを再認識させてくれているようです。

 フランス文学に精通する森は、フランスでの長い生活から、フランスの学校教育や人間形成におけるヒントを提供しています。森は教育哲学にも関心があり、「経験」は人格形成や倫理観に深く関わると考えていました。 今日の教育現場で、「体験型学習」が多く行われていますが、体験が「経験」へと昇華するためには、内省のプロセスが不可欠というわけです。つまり、ただイベントに参加するだけではダメで、それがどう自分の生き方に関わるのかを問う時間や対話が重要になります。森有正の「経験と体験」という思索は「体験を経験に変える力」を私たちに問うています。

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マサチューセッツ農科大学とウィリアム・クラーク

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北米大陸は大西洋岸のニューイングランド(New England)地方の政治、経済、文化、観光の中心地がマサチューセッツ州(Massachusetts)です。州の第二の都市ウースター(Worcester)近くに長男家族が住んでいます。長男はウースターにあるイエズス会経営の単科大学、ホーリークロス大学(College of Holy Cross)で物理学を教えています。

 マサチューセッツ州の中心都市はボストン(Boston)です。ボストン周辺には、メイフラワー号(Mayflower II)がやってきたプリマス(Plymouth)、独立戦争発端の街レキシントン(Lexington)、捕鯨船に助けられたジョン万次郎ゆかりのフェアへブン(Fairhaven)、19世紀のアメリカ文学界を代表する作家の一人、ヘンリー・ソーロー(Henry David Thoreau) が暮らしたコンコード(Concord)、夏の避暑地ケープコッド(Cape Cod)など興味深い歴史に彩られた所が点在しています。

Johnson Chapell, Amherst College

 マサチューセッツ州と北海道の関係といえば、1876年に設立された札幌農学校の初代教頭になったウィリアム・クラーク(Dr. William Clark)を思い起こします。彼はマサチューセッツ農科大学(Massachusetts Agriculture College)の第三代学長でありました。1863年にボストンの西約90マイルの所にあるアムハースト(Armherst)にて創立された大学です。新島襄や内村鑑三がかつて学んだ大学であることは、すでにこのブログで35回に渡って振り返りました。今は、アムハースト校はマサチューセッツ大学(University of Massachusetts)の旗艦キャンパスとなっています。マサチューセッツ大学はアマースト校を含む5つの大学からなる州立大学システム(UMassシステム)です。

 マサチューセッツ州内には121の高等教育機関があります。研究開発型大学の代表としてボストンの郊外ケンブリッジ(Cambridge)にあるハーヴァード大学(Harvard University)とマサチューセッツ工科大学(Massachusette Institute of Technology- IMT)があります。その他USニューズ &ワールド・レポート(US News and World Report)のランキングで常に40位以内にある総合大学として、タフツ大学(Tufts University)、ボストンカレッジ(Boston College)、ユダヤ系のブランダイス大学(Brandeis University)があります。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その五 宥和政策の理由と失敗

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ミュンヘン会談の結果、ズデーテン地方のドイツへの割譲が決定され、チェンバレンは帰国後、「我々の時代の平和(Peace for our time)」と宣言します。チャーチルは当時、政権の中枢にはいませんでしたが、下院議員として会談後すぐに強い批判を展開します。特に有名なのは1938年10月5日のイギリス下院での以下のような演説です。

あなた方は戦争を避けるために屈辱を選んだ。しかし、屈辱を受けた上で戦争がやって来るだろう。
“You were given the choice between war and dishonour. You chose dishonour and you will have war.”

 このチャーチルの言葉は、先日のトランプがプーチンとの会談で示したロシアの譲歩に似ています。停戦はウクライナのゼレンスキー大統領の態度如何であると言って、プーチンになんらの警告も出さなかったのです。しかも会談中にロシアのウクライナの都市への爆撃が続くという有様です。


ズデーテン地方

 この発言は、チェンバレン政権がヒトラーに譲歩したことを「屈辱(dishonour)」と断じ、それが結局は戦争を防ぐどころか助長する結果になるだろうと警告するのです。チャーチルは、チェンバレンが国民にたいして述べた「平和」は幻想であり、ミュンヘン会談の後に宣言されたその和平は一時的なものであり、根本的な解決になっていないと断定します。そして「ヒトラーの要求は止まらない。彼はズデーテン地方だけで満足することはなく、次の侵略を計画している。その侵略がやがて起きる。」と予測します。ヒトラーの野望に対しては、力による抑止が必要であるとし、ヒトラーその野望を止めるには譲歩ではなく、早期の軍備強化と集団安全保障体制が必要だと主張します。

 結果的にチャーチルの見解は的中し、1939年3月、ドイツはチェコスロヴァキア全土を占領し、1939年9月にポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発するのです。チャーチルの警告は現実のものとなり、宥和政策の失敗が明確になります。チャーチルはミュンヘン会談における宥和政策を「屈辱的で危険な譲歩」と位置づけ、戦争を防ぐどころか逆に招く結果になると強く批判しました。彼の見解は当時は少数派でしたが、後に歴史的に正しかったと評価されています。

チェンパレンの我々の時代の平和

 チェンバレンが宥和政策を選んだ主な理由はいくつか指摘されています。それには第一次世界大戦の記憶と反戦世論がありました。イギリスを含むヨーロッパ諸国では、第一次世界大戦の記憶が生々しく、戦争による莫大な犠牲に多くの人が苦しんでいました。大戦後、「二度と戦争は起こしてはならない」という強い世論が形成されており、政府に対しても戦争回避の姿勢が求められていました。特にイギリスでは、「平和のためなら多少の譲歩はやむを得ない」と考える国民が多かったのです。

 宥和政策を選んだもう一つの理由は、軍備の不備と準備不足がありました。1930年代のイギリスは、世界恐慌という経済不況の影響もあり、軍備の再建が進んでいませんでした。特に空軍・陸軍ともに、ドイツとの全面戦争を即座に戦える状態ではなかったようです。チェンバレンは、今戦うよりも、時間を稼ぎ軍備を整えることが現実的と考えていたとも言われます。こうして、複数の歴史的、政治的、社会的要因が絡んでおり、チェンバレンの宥和政策は、「弱腰」ではなく、当時の状況下で「最善の現実的選択」と考えられた部分もあります。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その四 ミュンヘン会談と大戦の勃発

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トランプ大統領とプーチン大統領の首脳会談が開かれたのですが、詳しい会談結果は報道されていません。大統領専用機から降りて、両者の対面場所に向かうトランプの歩みはジグザクで、痴呆的(dementian)な障がいがあるようだ、というコメントもあります。共同記者会見のタイトルは、「Trump presser goes horribly wrong with Putin. Luncheon between US and Russians delegates has been cancelled. Trump will immediately return to Washington. 」首脳会談はトランプにとって悲惨な結果であるというコメントです。

「Trump has mad extraordinary concessions to Russia in exchange for nothing. Russia has repaid him by continuing the war and seeking to win it. Putin knows that Trump want the Novel Prize.」「この首脳会談は、トランプはロシアに対し何の見返りもなしに、並外れた譲歩をした。ロシアは戦争を継続し、勝利を目指すことで報いてきた。プーチンは、トランプがノーベル賞を欲しがっていることを知っている」と報道する有様です。

 共同記者会見では、両首脳は会談の内容を簡単に説明するだけで、実質的なウクライナ戦争の停戦などのディールはありませんでした。記者からの質問も受けず立ち去るのです。記者から「質問、質問、、、」という叫びを全く無視して会場を立ち去るのです。会談では全く停戦に向けた進展がなかったからでしょう。次のようなコメントも寄せられています。「プーチンがこの会談に同意したのは、トランプを当惑させ、従順な子犬のように見せるためだけだった。任務は達成された。」ロシア駐在の元アメリカ大使が会談の内容について、プーチンは何も妥協せず、トランプは何も得るものがなかったとコメントしています。


 1938年9月28日、イタリア首相ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)が仲介に入り、イギリスの首相チェンバレン、フランスの首相ダラディエ、ムッソリーニ、ドイツの総統ヒトラーが集まり会談を行う提案を行います。ヒトラーは応諾し、開戦の延期を声明します。報告を受けたイギリス議会では大歓声が起こり、戦争勃発の懸念から低迷していたニューヨーク株式市場も一斉に反発し値上がりします。翌、9月29日、ミュンヘンで4カ国の首脳による会談が行われます。チェコスロバキア代表のヤン・マサリク(Jan Masaryk)駐英大使とヴォイチェフ・マストニー(Vojtech Mastny)駐独大使は会議には参加できず隣室で待たされるのです。

 翌30日午前1時30分に会談は終了し、4か国によってミュンヘン協定(Munich Agreement) が締結されます。ドイツの要求はほとんど認められ、ハンガリーとポーランドの領土要求にも配慮された結果となります。ヒトラーは「これ以上の領土要求はしない」と約束するのです。それは英独共同宣言と呼ばれ、戦争の危機は一応は回避されます。会談の隣室で待っていたマサリクとマストニーにはチェンバレンによって会談の結果が伝えられ、協定書の写しが手渡されます。この一連の国際会議はミュンヘン会談(Munich Conference)といわれます。

 なおミュンヘン会談から帰国したチェンバレンを迎えたジョージ6世(George VI) は、チェンバレンにバッキンガム宮殿(Buckingham Palace) のバルコニーで国王夫妻とともに、国民からの歓迎を受ける特権を与えます。大衆の前で国王と政治家の友好関係を見せるのは極めて異例であったといわれます。

 しかし一連のチェンバレンによる宥和政策は、ウインストン・チャーチル(Winston L, Churchill)が指摘したように「ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与えた」と同時に「イギリスとフランスが実力行使に出るという危惧を拭えていなかったヒトラーに賭けに勝ったという自信を与え、侵攻を容認したという誤ったメッセージを送った」として、現在では歴史研究家や軍事研究家から強く非難されています。特に1938年9月29日付けで署名されたミュンヘン協定は、後年になり「第二次世界大戦勃発前の宥和政策の典型」とされ、近代における外交的判断の失敗の代表例として扱われています。

 1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻と、同日に駐独イギリス特命全権大使を通じてポーランドからの撤退を勧告した最後通告への返答がなかったことを受けて、9月3日にチェンバレンもフランスのダラディエとともに対独宣戦布告を行います。ここに第二次世界大戦が勃発するのです。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その三 ネヴィル・チェンバレン

注目

2025年8月15日にアラスカのアメリカ軍基地において、トランプ大統領とプーチン大統領の首脳会談が開かれました。ウクライナ抜きです。会談後の共同記者会見で両者が発言した内容はさして新しいものではありません。お互いに多くの点で一致をみたが、重要な点ではまだ未解決な課題があるという内容です。

 トランプとプーチンは大国の首脳ですが、双方は大事な課題については相違があるということを認め合ったようです。それはウクライナ領土のドネツク州(Donetsk)とルガンスク州(Lugansk)の割譲を要求するプーチンに対してトランプが合意していないということです。この違いはイギリス首相ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)とトランプ大統領との格の違い、チェンバレンとヒトラーとの格の違いを示しています。つまり、ヒトラーのほうが政治や軍事面で優位であるがゆえに、チェンバレンは妥協せざるを得ないという結末が待っているのです。このことは「その四 ミュンヘン会談と大戦の勃発」で説明します。

 1938年4月24日、ズデーテン・ドイツ人民党党首で指導者的存在であったコンラート・ヘンライン(Konrad Henlein)はチェコスロバキア政府に対し、ズデーテン地方でのドイツ人の地位向上と自治を求めます。1938年5月7日、イギリスとフランスの公使はチェコスロバキア政府に対し、ヘンラインの要求を受け入れるように求めます。これを介入の好機とみたヒトラーは、国防軍最高司令部のヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel)大将にチェコスロバキア侵攻計画「緑作戦」の策定を督促していきます。5月20日にこの作戦は完成しますが、軍の見通しは時期尚早とされ、ヒトラーもいったんはチェコスロバキア侵攻を見送るのです。

ナチス総統館

 イギリス首相ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)はチェコスロバキアに譲歩させて戦争を回避する腹を固め、9月18日にフランス首相エドワード・ダラディエ(Édouard Daladier)と外相ジョルジュ・ボネ(Georges-Étienne Bonnet) をロンドンに招いて協議し、ダラディエもチェンバレンの意見に同意します。9月19日にプラハ(Prague) 駐在のイギリスとフランスの公使は、チェコスロバキア大統領エドヴァルド・ベネシュ(Edvard Benes)にズデーテン地方のドイツへの割譲を勧告します。さらに現存の軍事的条約の破棄も通告されたベネシュは、一時これを拒絶します。しかし「無条件で勧告を受諾しない場合、チェコスロバキアの運命に関与しない」という強硬なイギリス政府の通告により、9月21日、チェコスロバキア政府は勧告を受諾する声明を行います。翌日チェコスロバキアのミラン・ホッジャ(Milan Hodza)内閣は総辞職し、ヤン・シロヴィー(Jan Syrovy)内閣が成立します。

ミュンヘン会談後ロンドンに戻るチェンパレン

 チェコスロバキア政府の勧告受諾を携えて、22日にチェンバレンはゴーデスベルク(Godesberg) でのヒトラーとの会談に臨みます。しかしヒトラーはズデーテン地方の即時占領を主張し、また同日にハンガリー王国がスロバキアとカルパティア・ルテニアを、ポーランドがチェスキー・チェシーン(Ceský Tesín) の割譲をチェコスロバキアに要求していることを口実にチェンバレンの調停を拒否します。こうして会談は物別れに終わります。チェンバレンはヒトラーの強硬姿勢に驚き、外交的圧力のためにチェコスロバキアに動員の解禁を通告します。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その二 ズデーテン地方

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チェコスロバキア(Czechoslovakia)でも有数の工業地帯であったのがズデーテン(Sudeten)地方です。ここにはチェコスロバキア最大の財閥であるシュコダ財閥(Skoda Works)をはじめとする多くの軍需工場が立ち並んでいました。また、この地方の約28%がドイツ系住民といわれていました。チェコスロバキア政府は、ドイツ人の独立運動を警戒し、ドイツ人を公務員に登用する事を禁止する措置をとっていました。そのため、ズデーテン地方のドイツ人政党であるズデーテン・ドイツ人民党(Sudeten German Party) は、チェコスロバキアからの分離とドイツへの併合を唱えていました。ヒトラーは、かねてからズデーテン地方のドイツ系住民はチェコスロバキア政府に迫害されていると主張しており、解放を唱えていました。ヒトラーがここで持ち出したのが、ヴェルサイユ条約(Treaty of Versailles)の基本となった十四か条の平和原則にある民族自決)national self-determination) の論理です。

Sudeten

 1937年6月24日、ドイツ陸軍参謀本部は、近隣への侵攻作戦の策定を開始します。その中でもチェコスロバキアに侵攻する計画が「緑作戦」(Fall Grün) と呼ばれました。特に西部のズデーテン地方は、ドイツにとっても重要な目標でした。当時、チェコスロバキアの東半の領土であるスロバキア(Slovakia)とカルパティア・ルテニア(Carpathian Ruthenia) はかつて北部ハンガリー(Hungary)と呼ばれており、トリアノン条約(Treaty of Trianon) によってチェコスロバキアがハンガリーから奪取した経緯がありました。

 トリアノン条約は、第一次世界大戦後の1920年6月4日に、フランスのヴェルサイユにあるトリアノン宮殿で、連合国とハンガリーの間で調印された講和条約です。この条約により、ハンガリーは領土の大部分を失い、現在のチェコスロバキア、ルーマニア、ユーゴスラビアに分割されました。それ故に、ハンガリー王国は北部ハンガリーの回復を狙い、領有権を主張していました。さらにチェコスロバキア北部にはポーランドとの係争地も存在していました。

 他方で、チェコスロバキアは1924年1月25日にフランスと相互防衛援助条約を結んでおり、1935年5月16日にはソビエト連邦とも相互防衛援助条約を結んでいました。このため、チェコスロバキアへの領土要求は世界大戦を発生させる懸念があったのです。1938年3月にドイツは、オーストリアを併合(Anschluss of Austria) し、ズデーテン問題はドイツの次なる外交目標となっていきます。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その一 トランプとプーチンの会談

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宥和政策(Appeasement)とは、戦争の回避、あるいは実用主義などに基づいた戦略的な外交スタイルの一つの形式です。敵対国の主張に対して、相手の要求をある程度受け入れることによって問題の解決を図ろうとする政策です。宥和主義ともいわれ、危機を抑止する概念といわれます。

Munich Agreement

 なぜ宥和政策の話題を取り上げるかです。今週、トランプ大統領がプーチン大統領とアラカスカで会談することになりました。この会談でどのようなことが協議され、どのような結論が出るかは興味あります。報道によりますと、トランプは、プーチンとで領土の交換をし、それで停戦しようとしているらしいとのことです。この二人の大統領の会談には、当事者であるウクライナのゼレンスキー大統領(resident Zelensky)は蚊帳の外だというのです。ウクライナはロシアの領土であるクルスク州(Kursk Oblast)の一部を占拠していますから、それを得る代わりにドンバス地域(Donbas)をロシアに渡すという案です。ウクライナはロシアが占拠するドネツク州(Donetsk)とルガンスク州(Lugansk)を渡すことには反対しています。まずは双方が停戦して、その間領土の協議をしようという計画だったようです。

チェコスロバキア領土の奪い合い

 ウクライナがアメリカとロシアの会談に臨めないとなれば、これに似た歴史が1938年に開かれたミュンヘン会談(Munich Agreement) を思い起こします。この会談は、ドイツのミュンヘンで開催された国際会議で、チェコスロバキア(Czechoslovakia)のズデーテン(Sudeten)地方帰属問題が協議されました。この会談にはイギリス、フランス、イタリア、ドイツの首脳が出席します。ドイツ系住民が多数を占めるズデーテンの自国への帰属を主張したドイツのアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler) 総統に対し、イギリス・フランス両首脳は、これ以上の領土要求を行わないことを条件に、ヒトラーの要求を全面的に認め、1938年9月29日付けで署名します。

 この会談で成立したミュンヘン協定は、戦間期の宥和政策の典型とされ、イギリスとフランスの思惑とは裏腹にドイツの更なる増長を招き、結果的に第二次世界大戦を引き起こしたことから、一般には強く批判されることが多い協定です。

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忘れ得ぬ人 その九 教育統計のジェームズ・マッカーシー教授

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ウィスコンシン大学ではいろいろな先生から指導を受けました。そのお一人が今回紹介するジェームズ・マッカーシー教授(James McCarthy)です。この先生のご専門は障がい児教育の評価と測定といういわば統計学です。特に単一被験者とか少数被験者の教育や実験計画(single subject experimental design)で得られたデータの分析です。行動科学などの分野での研究では統計が重要視されます。数量的なデータを処理し、何らかの結論を導き出す必要がある場合が多いのです。数量的なデータの処理とは、単純な集計のように事実を数値で要約することか、児童生徒の行動観察やテストの結果から成績表をつけるということもあるでしょう。

Bascom Hall

 障がい児教育の分野では、障がいのない子どもと異なり、子どもの数が少ないのです。例えば、ある科目において1学年遅れのある子どもは、母集団と呼ばれる全2年生の15%位だろうと察します。母集団の成績は、グラフで表すと釣り鐘の形をします。これは通常正規分布といいます。母集団の成績のデータには、最頻値、中央値、算術平均があります。しかし、学習に困難を示す子どものある特性は、正規分布からかなり離れていることが多いのです。

 一例として、ある県における自閉症的傾向を示す子どもの出現率は男子、女子の比は4:1であるとします。そうすると、日本全国にいる同じような行動上の特徴を示す子どもの出現率も4:1での割合で推測できるかもしれません。このような判断をするのを推測統計といいます。別な例で言いますと、2025年7月20日の参議院議員選挙で、投票所での出口調査の結果、投票が締め切られた瞬間に当選確実、と発表できるのは推測統計によるからなのです。この場合の出口での投票者数は標本と呼ばれ、全投票者数は母数と呼ばれます。つまり、標本の結果は母数の結果とほぼ一致するのです。ただし、この場合、標本と母数の誤差は5%以下といわれます。このような統計手法は、『母数による検定』、別名パラメトリック法(parametric) といいます。

University of Wisconsin, Red Gym

 しかし、標本数が限られている場合は、『母数による検定』は使えません。そこでそれに代わる検定として『母数によらない検定』、別名ノンパラメトリック法(non-parametric) があります。マッカーシー教授は『母数によらない検定』の基本的な前提、手法、検定の仕方を詳しく院生に教えてくれたのです。すこし、統計的検定のことを説明します。検定とは、ある種の仮説についての検定であり、この仮説を採択すべきか、棄却すべきかを調べます。その判定基準は適当に定めた確率である危険率によるのです。危険率とは通常.05とか5%が使われます。5%とは20回のうち1回は間違いを起こすことがあるが、それは無視してよいというのが統計です。

マスコットのバジャー

 マッカーシー教授の講義で思い出深いのは、講義の他に統計手法の使い方の実習時間をとってくださったことです。通常、大学では講義で終わりなので、実習時間をとってくれることはありません。それも朝の8時からなのです。必ずベーグルとかクロワッサンを持参して院生に振る舞ってくださるのです。この日は、院生は朝食抜きでやってくるのが通例でした。その他、ミルウォーキー(Milwaukee)での学習障害の学会にも院生を同伴してくださったり、夏はマディソン郊外でのシェークスピア(William Shakespeare)の野外劇にも連れて行ってくれるなど、実に気さくで面倒見の良い先生でした。マッカーシー教授には博士論文の審査委員のお一人にもなっていただきました。後に就職した国立特別支援教育総合研究所時代に『障がい児教育のための統計情報処理入門ーノンパラメトリック法を中心に』という120ページの小冊を刊行できました。これも先生の薫陶によるお陰です。2012年4月に逝去されたことを大学のWebサイトで知りました。

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忘れ得ぬ人 その八 合唱のきっかけ:近藤艶子先生

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ずぶの素人音楽愛好家の一人が私です。いろいろのジャンルの音楽を楽しんでいます。日本の最北端、稚内高校時代に部活の響声クラブで歌い、その後北海道大学男声合唱団で’4年間歌いました。そのこともあり、ウィスコンシン大学に留学していたとき、マディソンにあるマウント・オリーブルーテル教会(Mt. Olive Lutheran Church) の聖歌隊で歌うことにもなりました。

 こうした合唱を始めるきっかけをつくったくださった先生が稚内中学の音楽教師であった近藤艶子先生です。なぜ私を合唱団に入るように声をかけてくださったのかは、さっぱりわかりません。しかし、そのときから、なにも分からず歌を歌い始めることになりました。楽譜の読み方や発声の仕方を学び、男声と女声の混声合唱を始めました。旭川市でのNHK主催の全国唱歌ラジオコンクール、現在の全国学校音楽コンクールの中学校の部にも出場したことがあります。当時、稚内から旭川までは汽車で4時間かかりました。コンクールでは課題曲と自由曲を歌い審査されます。コンクールを控えて何度も練習を重ねたものです。近藤先生はピアノの伴奏をされました。コンクールの成績は全く覚えておりません。多分入賞圏外だったろうと察します。

リコーダ

 大会翌日、部員の一人と旭川市内で映画を見ました。題名は「八十日間世界一周」(Around the World in Eighty Days)といって、後期ビクトリア朝の一貴族が賭けをして、世界を80日間で一周しようと試みる波瀾万丈の物語です。コンクールのことは定かに覚えていないのに、この映画を見たことを覚えているとはなんと近藤先生には失礼なこととお許し願いたいです。私は大の映画きちがいでもあるのです。(差別用語をご容赦ください。)稚内にいたとき、父親と「戦場に架ける橋」(The Bridge on The River Kwai)という有名な作品を見に行ったのも覚えています。タイとビルマ国境にあった捕虜収容所が舞台です。日本人大佐と英国大佐との対立と交流を通じ極限状態における人間の尊厳や名誉、そして戦争の惨さを表現した見事な作品です。

 近藤先生からは、音楽鑑賞の時間にさまざまな西洋音楽を聴かせてもらいました。音楽室には歴代の有名な作曲家の写真が時代別に飾られていました。一番左端にはヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach)が、右端にはルートビッヒ・ベートーベン(Ludwig van Beethoven)が並んでいたものです。この音楽鑑賞をとおして賛美歌やバロック音楽等に接する機会ともなりました。マディソンでにはリコーダの工房があり、そこでローズウッド(rosewood) のアルトリコーダを購入しました。バロック音楽にリコーダは欠かせない楽器です。

 今思えば小さい時から西洋や日本の音楽を聴かせてもらうことは、必ず大人になってからも音楽に対する興味や関心を高める契機となるということです。稚内中学校は創立78年を迎えます。校舎は新築され、私が学んだところに建っています。現在生徒数は95名です。今も音楽教育が受け継がれていることを信じつつ、近藤艶子先生から指導を受けたことを思い出します。先生は、引退後は旭川の郊外にお住まいになり、そこでピアノ教室を開いて後進の指導にあたられていたとお聞きしていました。恐らく鬼籍に入られたこととお察しします。忘れ得ぬお人はいつも記憶に鮮明に残っています。

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忘れ得ぬ人 その七 洗礼を授けてくれたディーン・シュスラー牧師

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 2001年8月17日に私の恩師のお一人であるディーン・シュスラー(Rev. Deane Schuessler)牧師のジューリ・シュスラー夫人(Julie Schuessler)から夫が心臓発作で亡くなったという知らせを頂ました。享年85歳でした。前日は、次男、孫らとでミネソタ・ツインズ(Minnesota Twins)の野球試合を一緒に観戦したとのことでした。長い闘病生活がなかったのがせめてもの幸いだったとジューリさんは書いておられました。

 1965年、私は札幌ユースセンター教会でシュスラー師より洗礼を受けました。ご一緒したのは、現小樽オリーブ教会の牧師らでした。先生より「センターで働きませんか」と誘われて、就職が内定していた商社を断りセンターで青少年活動を任されました。1967年に結婚したときも司式をしてくださり、翌年長男が生まれて洗礼を施してくださいました。

 時は経て、私は1971年に那覇ルーテル教会に派遣され幼児教育を受け持ちました。丁度、ミズリー派ルーテル教会内で神学論争があった頃です。そして1976年に日本ルーテル教団がミズリー派教会(Missouri Synod)からの自給を宣言します。シュスラー師は既に帰国されていましたが、日本各地でなお宣教師をされていた方々が、自給への経緯について心配されていたのを記憶しています。

 私は1978年に国際ロータリークラブからの奨学金をいただき、ウィスコンシン大学に留学しました。その頃、シュスラー師は隣のミネソタ州のルーテル教会から招聘されておりました。一家5人でシュスラー家を訪ねました。「ミネソタ州の州鳥はなにか知っていますか?」と訊かれ思案していると「モスキートです」と片眼でウインクされました。なるほど、外で立ち話をしていると蚊の大群が襲ってきます。ミネソタ州は氷河が残した10,000以上の湖が点在しています。シュスラー師はその後、神学博士号を取得され、いろいろな著作も刊行されました。

 シュスラー師のご昇天にあたり、私は霊的な指導を受けた方々を想い出します。北海道の余市沖で溺れた高校生を助けようとして亡くなられた宣教師師、ジョージア州で車を譲ってくださった宣教師、沖縄幼稚園の園長であった宣教師、そして最初の感謝祭の晩餐に招待してくださった宣教師、前稿で就職のお世話をしてくださったジェームズ・ウィズィ宣教師などです。特にウィスコンシン大学に入るとき、マディソン市内で牧会されていたトマス・ゴーイング師からは、教授を紹介してもらい、そのまま博士課程修了まで指導を受けることができました。シュスラー師の息子のジョエル・シュスラー氏がミネアポリスのコンコーディ大学(Concordia College)で教鞭をとっていました。この大学の教師教育やインターネット活用のカリキュラムなどを見聞できたのも幸いでした。

 振り返りますと、宣教師の方々にお世話になった者で私の右に出る者はいないだろうと思います。長年日本における宣教に邁進されたお一人おひとりの先生方の訃報に接すると、「すべてに時がある」という聖句が心に浮かびます。

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忘れ得ぬ人 その六 福音派の人:ジョン・シルバーネーゲル氏

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ウイスコシンでの生活でお世話になった方のお一人にジョン・シルバーネーゲル(John Silbernagel)夫妻がいます。この方は熱心な福音派のクリスチャンで、マウント・オリーブルーテル教会(Mt. Olive Lutheran Church)の礼拝でお会いしたのがきっかけです。マディソンに着いてから知人にアパートを紹介して貰いました。アパートには家具がありません。最初の礼拝に出席したあと、牧師さんから「なにか不自由している物はありませんか?」と尋ねられました。そこでベッドや毛布、台所用品などが不足していると伝えました。数日後、牧師さん自らがピックアップトラックを運転して家財道具を運んでくれました。会員から集めたものだというのです。

Mt. Olive Lutheran Church

 教会員と会話するといろいろな話題に及びます。かつて横須賀の研究所で障がい児教育の研究をしていたことを話すと、退役した会員がいて「自分もヨコスカに住んだことがある」というのです。別の会員は「タチカワやザマにいた」というのです。共通した話題になると教会員との距離はぐんと縮まるものです。このルーテル教会には私たちのほかに日本人はおりません。そんなわけでなにかと心配してくれるのです。聖歌隊に入り毎週木曜日の練習に参加しました。隊員は初見で新しい賛美歌を歌えるのです。小さい時から日曜学校などで歌っていたのです。

 そのうち、シルバーネーゲル(John Silbernagel)夫妻から「家にあそびにいらっしゃい」というお誘いを受けました。シルバーネーゲル氏も陸軍の将校退役軍人でマディソンの郊外で酪農を経営していました。酪農業はもっぱらご長男らがとりしきっておりました。ご自宅の畑の一画を使いなさいとの申し出で、私はジャガイモ作りを始めました。酪農を営んでいたので、種の植え付け前に堆肥を十分施すことができました。ウィスコンシンは「アメリカの酪農の地」(America’s Dairy Land)と呼ばれるほど酪農が盛んなところです。戦後、北海道の美幌で父親はジャガイモやトウモロコシを育てていたので、それを思い出しました。秋になるとジャガイモが沢山とれました。

 シルバーネーゲル家がある夏に、「旅行に出かけるので、留守番をして欲しい」と頼まれました。邸宅のように広い家です。大きな冷凍庫と冷蔵庫があり買い物は全く必要ありません。子牛半分の肉が整然と並んでいるのです。トウモロコシや肉はもちろん、トマトなどをビン詰してずらりと棚にならべて保存しているのに驚いたものです。地階はビリヤードがあり、おもちゃが一杯揃っていて子ども三人は愉快そうに遊んでいました。

 シルバーネーゲル家の三女ジャネット(Janet)は私の長女と同じ年です。彼女は後にウィスコンシン大学で教授となります。今は、老人ホームで100歳にならんとしている母親を定期的に訪ねているそうです。私の二人の娘が彼女の家を訪ねて交友を暖めたようです。ジャネットとはZOOMで会話しています。

 ウィスコンシン州は大昔、氷河に覆われそれが次第次第に溶けていきました。氷河が溶けながら地面を削っていくと、モレーン(moraine) という石や岩を残していきます。地表はそのためになだらかな丘陵となります。ウィスコンシン州の大地には石や岩が多く、大平原での農業とは違って、大麦やトウモロコシを作れないのです。そのために牛を放牧し乳製品を作る酪農が盛んになります。気候が似たスカンディナビア(Scandinavia) 諸国やドイツ、ポーランドからの移民が住みつくところとなります。伝統的な福音派のキリスト教も持ち込まれ盛んになるのです。福音派とは自由主義神学に対抗して近現代に勃興した、聖書信仰を軸とする神学的・社会的に保守派のムーブメントのことです。保守的な信仰者ともいわれるのが福音派の人々です。

ウィスコンシン州議事堂

 ウイリアム・ハーバーグ(William Herberg)というジャーナリストが一般のアメリカ人を次のように形容します。『アメリカン・ウェイ」(American Way)とは人道主義的で、前向きで、楽観的である。アメリカ人は、世界で最も寛大で慈善的な人々で、進歩、自己啓発、そして熱狂的に教育を信じている。しかし何よりも、アメリカ人は理想主義的だ。』 少々、ステレオタイプな表現に聞こえますが、、、シルバーネーゲル家の人々は、ハーバーグのいう「American Way」を地でいくような存在です。霊的生活の中心としての聖書の教えを守り、伝統を重んじる良きアメリカ人の典型ともいえる方々です。当然ですが政治的には共和党を支持しています。ジョン・シルバーネーゲル氏は享年90歳でした。

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忘れ得ぬ人 その五 日本スタンフォード協会とジェームズ・ウィズィ師

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私にとって、戦後日本各地のルーテル教会で牧会されていた宣教師の先生方には格別な思い出があります。多くの宣教師がなぜ海外で活動されたのかは、いろいろな動機や使命感があったのだろうと察します。今も日本には、ノルウェイ、フィンランド、スエーデンなどスカンディナビア諸国からの宣教師が活躍されています。宣教の場所として、戦前は中国大陸が選ばれ宣教活動をしていました。大陸での戦線が拡大するにつれて活動が困難になり、日本を新しい宣教の地として選ぶのです。宣教の母体となったのは、アメリカはセントルイス(St. Louis) にあるミズーリ・シノッド(Missouri Synod)という福音系のルーテル教会です。やがて日本ルーテル教団が設立され、各地で宣教活動が開始されます。私はこうした宣教師に出会い札幌のルーテル教会で洗礼を受けました。

Rev. James Wiese

 日本ルーテル教団の宣教師のお一人がジェームズ・ウィズィ師(Rev. James Wiese)です。この方との出会いを紹介することにします。ウィズィ師は1936年10月に、インディアナ州の農村で生まれます。13歳でコンコーディア・フォートウェイン校(Concordia Fort Wayne)の牧師養成プログラムに入学します。セントルイスのコンコーディア神学校(Concordia Seminary) で神学修士号を取得します。その後、スタンフォード大学(Stanford University) で学校経営と日本研究の修士号も取得した方です。

 神学校卒業後、奥様のリタ(Rita)さんとで日本にやってきます。それから34年間、家族とともに日本で教会の様々な役職を歴任し、セントポール国際ルーテル教会(St; Paul International Lutheran Church)の牧師、日本ルーテル教団立の聖望学園(Holy Hope Schools)のチャプレン(chaplain)兼校長となります。聖望学園はウィズィ師の尽力でセントルイスにあるミズーリ・シノッド教会の婦人会の寄付によって設立された中等教育学校です。後にアメリカンスクール(American School in Japan)の開発部長などを歴任されます。その他、大阪国際学校の初代校長兼理事長、横田米軍基地牧師を務めるという経歴の持ち主です。彼はまた、在日商工会議所、東京国際交流会館、そしてロータリークラブ(Rotary Club) にも積極的に参加します。さらに日本スタンフォード協会(Japan Stanford Association)の会員でもありました。

Concordia Seminary

 ウィズィ師に私はどのような恩があるかを申し上げます。それはウィズィ師が日本スタンフォード協会の会合で横須賀にある国立特殊教育総合研究所の部長に会います。この部長もかつてスタンフォード大学で留学した経験があります。私はウィズィ師に日本のどこかの研究所や大学で仕事をしたいということを伝えておりました。彼はこの部長に私を紹介したのです。しばらくしてこの部長から連絡があり、彼にウィスコンシン大学の学位の写しや成績を手渡しました。そして面接のあとにこの研究所に就職できました。日本スタンフォード協会を通して、ウィズィ師にお世話になったことで、この同窓会の会員は絆が非常に強く、会員同士の信頼が高いということを後で知らされました。蛇足にはなりますが、東京を中心とする我がウィスコンシン大学の同窓会は、極めて凝集力が弱いことを感じます。

 私は10年あまりこの研究所で働き、その後兵庫教育大学に移りました。2012年に院生を連れてカンザスのオマハ(Omaha)の学校視察に行きました。もちろんウィズィ師を頼っての訪問です。オマハ市内の学校訪問で同行してくれたのは師の長男夫妻でした。そのとき、ウィズィ師のご両親や親戚にお会いしたことをお伝えしました。それはジョージアでの語学研修が終わり、ウィスコンシンに向かう途中、私と家族はインディアナ州のレイノルズ(Reynolds)という小さな街に住むウィズィ師のご両親宅に泊まらせていただきました。ウィズィ家は、広大な農地でトウモロコシ栽培を経営していました。地平線まで広がるようなトウモロコシ畑でした。ウィズィ師は帰国後、カンザス州(Kansas) オタワ(City of Ottawa)のフェイス・ルーテル教会(Faith Lutheran Church)、その後テキサス州のオデッサ(Odessa)にあるリディーマー・ルーテル教会(Redeemer Lutheran Church)から招聘を受けて奉仕します。

 2012年にRitaさんよりメールを頂戴し脳腫瘍で入院されていることを知りました。脳腫瘍は手術のしようのない病といわれます。そして天に召されたとの便りを貰いました。享年76歳でした。

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忘れ得ぬ人 その四 ウィスコンシン大学の恩師:ルロイ・アザリンド教授

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ハーレー・ダビッドソン(Harley-Davidson) に颯爽と乗っていた先生の紹介です。お名前はルロイ・アザリンド(Dr. LeRoy Aserlind)といいます。私のウィスコンシン大学(University of Wisconsin) での指導教授であった方です。

 1978年にロータリー財団(Rotary Foundation)が指定するジョージア州(Georgia)での3カ月の英語研修を終わってウィスコンシンへ車で向かいました。『U-Haul』という小さなトレーラーにわずかの家財道具を乗せて出発しました。初めての大陸での長旅でした。『Haul』とは「引っ張る」という意味です。ですから、”You haul”をひっかけた造語が『U-Haul』といわれます。ウィスコンシン州の州都マディソン(Madison) に着きました。ウィスコンシン大学の威厳のある構内に入ったとき、「果たしてここで学位をとれるだろうか、、」という不安がこみ上げてきました。かつて、新潟などで宣教されていたルーテル教会の牧師さんがマディソンで牧会をされていました。この先生には事前にウィスコンシン大学で学ぶことを知らせてありました。この方のお名前はトマス・ゴーイング(Rev. Thomas Going)といいます。ゴーイング牧師は、1958年から2000年の長きにわたり新潟市、加茂市、三条市、そして東京で宣教されます。

Bascom Hall

 ゴーイング牧師は、ウィスコンシン大学教育学部(School of Education) の行動障害学科の一人、アザリンド教授に私を指導してくれるよう依頼してくださっていました。アザリンド教授は1963年にウィスコンシン大学マディソン校で博士号を取得し、その後、リハビリテーション心理学・特別支援教育学科となった行動障害学科の助教授に任命されました。 1968年に准教授、1972年に教授に昇進し、1971年から5年間学科長を務めました。1965年から1970年にかけて、アザリンド教授は米国教育省のプロジェクトを指揮し、発達障害のある生徒の教師を養成する最初のプログラムの一つを提供しました。

 先生は1980年代初頭には、「特別な子ども」と題した特殊教育入門コースの指導を開始し、全国の多くの大学でそのようなコースに採用された教科書の共著者となりました。先生の入門講座は、特別支援教育を専攻する学部生だけでなく他の学生にも好評で、学内で最も受講者数の多い講義の一つとなりました。学生からは、この講座が障害に関する認識と理解に大きく影響したという感想がしばしば寄せられました。

Memorial Union

 アザリンド教授の授業を受けたときです。最初の中間試験がありました。試験問題は多肢選択と記述という問題の組み合わせでした。この結果は惨憺たるもので、先生の部屋のドアに結果の一覧が張り出されていました。私はアメリカの大学での試験問題の対策に慣れていなかったのです。これが私の奮起を促す契機となりました。大学院とはいえ講義は徹底的な詰め込み教育であることを知りました。授業が終わると、すぐさま図書館などで筆記した単語を文章化し暗記することにしました。日本の大学では多肢選択問題で試験することはありません。大抵の場合、短文により記述試験問題が主流です。この日本とアメリカの大学の試験方法の違いを知った機会でした。

 先生の授業は、スライドやビデオを使ったものでした。視覚的に受講生に講義内容の理解を促すという手法は私のその後の兵庫教育大学での授業で大いに役立ちました。当時登場した「PowerPoint」というアプリを使いスライドで授業をしたことが院生に広がりました。彼らの修士論文のプレゼンではこのスライドでの説明です。その時、ある教授はこうしたプレゼンの仕方に反論していたことが懐かしいです。ビデオやスライドを使うことで「百聞は一見にしかず」という言葉を皆が体感することになります。

 アザリンド教授には家族ぐるみでスキーに連れて行ってもらったことも思い出です。ハーレー・ダビッドソンでモンタナへ何度も旅行し、退官後はそこに永住しました。2006年1月9日、モンタナ州(Montana)のリビングストン(Livingstone)のご自宅で、55年間連れ添った奥様マーガレット(Margaret)さんらご家族に見守られながらお亡くなりなりました。

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