ユダヤ人と日本人 その23 スターリンによる大粛清 その3 原爆製造と軍事機密

第二の原爆製造センターはクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)の北方80キロのエニセイ河畔(Yenisei)に建設されることが決まる。この計画「クラスノヤルスク45」と名付けられた。ここにクラスノヤルスクへの鉄道を建設するために囚人収容所が建てられる。囚人の中には懲役25年以上の政治犯、犯罪人、民族闘争を扇動したとして逮捕された民間人も多数いたという。

このセンターはほぼ地下400メートルのところにいくつかの原子炉とプロトニウム製造の放射化学工場が造られることになる。そのために集められた囚人は最大2,700名にもなる。建設が終わり収容所が解放されたのは1963年という。

ソ連の核兵器の生産は、スターリン型の国家政治と経済、収容所その他の強制労働が可能にしたといわれる。原爆工場での悲惨な事故とそれに従事した労働者はいわば放射能の人柱となって工場の後片付けをしたことが「知られざるスターリン」に書かれている。1986年4月に起きたチェルノブイル(Chernobyl)原発事故と同じような事故が過去に何度もあったようだ。

亡くなった叔父のことに戻る。彼は樺太の小さな駅の助役をしていたときに捕虜となった。死亡したといわれるのがクラスノヤルスクというのであるから、鉄道建設か原爆製造センターの建設に駆り出され、その間に死亡したというの妥当な推理だと思うのである。原爆製造センターの所在は最高の軍事機密であったはずである。であるから、よしんば叔父が生きていたとしても帰還できたかは疑問である。

1945年前後のソ連におけるスパイ諜報活動と原爆製造という特殊任務は熾烈であったようである。ドイツからの戦利品のような科学者の獲得やウランの取得はソ連の原子物理学の発展に大きく寄与し、やがてソ連を超大国に押し上げたといわれる。
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