旅のエピソード その41 琉球と風疹の流行

幼児教育を始めるようにとの指示で、私が沖縄に派遣されたのは本土復帰の2年前の1970年でした。まだ、パスポートと予防接種が義務づけられていました。沖縄が琉球と呼ばれていた頃です。

琉球にやって来て知ったことの一つに「風疹 (rubella)」が流行り、聴覚障害の子どもが多く生まれていたことでした。私はそれまで免疫のない妊娠初期の女性が風疹にかかると、聴覚や視覚に障害のある子どもが生まれることは知りませんでした。

風疹は「先天性風疹症候群」という長い名前ですが、「3日ばしか」とも呼ばれています。私も小さい時に「3日ばしか」にかかったことを親から教えてもらいました。今は1歳の時と小学校に入学する前年度の2回、ワクチン予防接種を受けることが決められています。

琉球で風疹が大流行したのは1965年です。続々と聴覚障害の子どもが生まれ、1968年は沖縄小児科専門医会と那覇保健所が九州大学との協力で風疹の発生調査をします。すると琉球本島と石垣島、西表島で282人の子どもになんらかの聴覚障害があることをつきとめます。琉球政府は日本政府に援助を要請し、1969 年より日本と琉球政府による調査・医療・教育対策が開始されます。風疹によると思われる疑いのある子どもの実態調査の結果、出生数の2%にあたる408人が聴覚障害と診断されます。その後、難聴および白内障、そして心臓疾患が風疹による三大症状であることが明らかになります。

風疹の被害が世の中に知られるのようになったのは、「風疹による聴覚障害児を持つ親の会」が結成されてからです。1969年には沖縄県内各地に風疹難聴学級として幼稚部学級が開設されます。本土復帰後、沖縄県は当時の風疹障害児のための学校を新設することを計画します。さらに、風疹障害児のために独立した学校を新設することを計画し、1978年に沖縄県立北城ろう学校、分校である宮古分校、八重山分校を設立します。1984年3月に全生徒が北城ろう学校を卒業し当校は役目を終えて、今は沖縄県立沖縄ろう学校となっています。

北城ろう学校は甲子園とのつながりがあります。高校野球にあこがれる生徒が困難を乗り越え硬式野球部を作り、甲子園を目指します。ところが、都道府県の高等学校野球連盟に加入できなかった北城ろう学校は、甲子園への道を阻まれるのです。これを取り上げた映画が「遥かなる甲子園–聴こえぬ球音に賭けた16人」です。高校野球に熱い夢を賭ける生徒と教師の姿を描いています。