心に残る名曲 その四十九 チャイコフスキーと日本人 その一 音楽院時代

今回はロシアの作曲家チャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky)の話題です。チャイコフスキーといえば「白鳥の湖」とか「くるみ割り人形」、「眠れる森の美女」などのバレー音楽が知られています。明るく軽やかな印象を受ける曲です。それが日本人にはチャイコフスキーが親しみやすい作曲家として定着している理由でしょう。しかし、チャイコフスキーの曲想はバレー音楽のように華やかではありません。実は絶望と歓喜というロシア独特の風土によって揺れ動いた作曲家なのです。

小さいときから家庭教師について音楽を学び、ピアノと音楽理論に触れます。母親も美しい声の持ち主で、チャイコフスキーもピアノでの即興演奏を試みていたといわれます。

1852年にチャイコフスキーは、ロシア帝国の首都であったペテルスブルグ(St. Petersburg)の法律学校で学びます。卒業後は法務省の九等文官となります。1861年にロシア音楽協会が新設した音楽学校に第一期生となり、職業音楽家の道を歩み始めます。1863年に音楽学校は音楽院(Moscow Conservatory)として改組され、音楽院の院長はルービンシュタイン(Anton Rubinstein)というピアニストで作曲家でありました。

ルービンシュタインらからは管弦楽法を学びます。その後音楽院の教師となりハンガリーの作曲家リスト(Liszt Ferenc)やフランスのベルリオーズ(Louis Berlioz)などの影響を受け、大きな楽器編成の曲を作り始めます。しかし、あまりに異端的な技法であるとして、音楽院の教師らからは不評であったようです。まだ音楽院ではそうした技法は許されていなかったからです。