心に残る一冊 その119「樅ノ木は残った」 その六 「くびじろ」(1)

「樅ノ木は残った」の主人公、原田甲斐は人間関係の煩わしさを避け、人との距離を上手に置こうとしていたことが伺えます。黙っていると四十五、六に見える歳です。あまりものを云わず、話をするときも饒舌ではありません。稀にしか笑わないところもあります。花を愛で、自然を愛し孤独な時を大事にする性格としても描かれています。例えば、村の娘とともに山小屋にこもって鹿やいのししを狙い続けたり、小さいとき川で釣りをしていたとき大きな鯉に引っ張られておぼれ死にするような一面がありました。その時が最も自由で人間らしく幸せだったかのようです。

「くびじろ」とは地元の人々がつけてい大きな鹿の呼び名のことです。猟小屋に籠もっていたときです。弓や矢の手入れをしているととき、粉雪といっしょに三人の娘が入ってきます。三人はそれぞれ手籠や角樽、重箱の包みを並べます。会話とともに小屋の中での小さな宴を始めます。そうしているうちに、娘たちのなかで鹿の話になり、娘の一人、きよきが云います。
「くびじろをみつけただべが、」
「くびじろだって、、」甲斐が顔をあげます。
「おら、滝沢の瀬で見たです」

そのとき、この小屋の表で人の声がして、外から引き戸があけられます。粉雪が舞い込み片倉隼人と与五兵衛という甲斐の家臣が入ってきます。
「若い牝鹿がさきに渡り、あとからくびじろが、それを追って渡ったです」
「西からか東からか?」
「東からこっちへです」

与五兵衛は云います。「殿様、くびじろはなりませんぞ」
「おれにかまうな!」甲斐が云います。
「くびじろはだめです、」と与五兵衛は繰り返します。
「あれは十五歳にもなる豪のもので、これまで大猪を二頭殺し、熊を一頭傷つけ、どんなに老練な猟師でもあれにだけは手を出しません」とい云います。
「くびじろは谷地へはいったか」
「谷地を川上のほうへいったようです」きよきは云います。

会話が終わると三人の娘は帰り支度をします。甲斐は夜の明けるまえに細谷という部落の山の中で横になります。甲斐は藪蔭を選んで斜面のほうを頭にし、寝袋のなかにすっぽりと軀をいれ、食料の包みを枕にしてじっと眼をつむっています。

甲斐は心の中で呟きます。けものを狩り、樹を伐り、雪に埋もれた山の中で、寝袋にもぐって眠り、一人でこういう食事をする、そして欲しくなれば、ふじとやなおこをこのようなむすめたちを掠って馬草のなかで思うままにねる、それがおれの望みだ、四千石の館も要らない、伊達藩の家格も要らない、自分には弓と手斧と三刀と、寝袋があれば充分だ、それがいちばんおれに似合っている、と呟くのです。