ナンバープレートから見えるアメリカの州ヴァジニア州・Mother of Presidents

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ヴァジニア州(Virginia)のナンバープレートにもいろいろなデザインがあります。うっそうとした豊かな森や清流など自然の生態系を反映してデザインには野鳥などを配置しています。ヴァジニアは、「アメリカ大統領の母なる地」「Mother of Presidents」の名にふさわしい風格のある州です。

License Plate of Virginia

ヴァジニア州東部の大部分に最初に定住したヨーロッパ人はイングランド人(English)で、イングランドの中部および南部の郡、特にロンドンとその周辺地域からやって来ました。1700年代には、ウェールズ人(Welsh)とフランスのユグノー人(Huguenots)が移民の中で目立っていて、スコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)とドイツ系(German)の人々がペンシルベニア(Pennsylvania)からシェナンドー渓谷(Shenandoah Valley)に移住してきました。特に西部と南西部の郡では、スコットランド系アイルランド人とイギリス人の祖先を持つ人々が今でも多数派を占めています。

Map of Virginia

ヴァジニア州は、清教徒連邦(Puritan Commonwealth)と1653年から1659年の間に保護領(Protectorate)亡命したイングランド王チャールズ二世(Charles II)への忠誠心からオールド・ドミニオン(Old Dominion)と呼ばれました。17世紀初頭のジェームスタウン(Jamestoewn)入植以来、アメリカの州の中で最も長く続いている歴史の1つです。処女女王エリザベス一世(Elizabeth I)にちなんで名付けられ、当初の憲章では、大西洋岸の入植地からミシシッピ川、さらにその先まで西に広がる土地のほとんどが与えられましたが、ヨーロッパ人には未踏の領域でした。ジョージ ワシントン(George Washington)、トーマス ジェファソン(Thomas Jefferson)、ジェームズ マディソン(James Madison)などのヴァジニア人の貢献はアメリカ合衆国の建国に極めて重要であり、共和国の初期の数十年間、この州は大統領誕生の地として知られていました。

Alexandria, VA

1607年にイギリス初のアメリカ植民地がジェームズタウン(Jamestown)に設立された時、ヴァジニア州にもネイティブ・アメリカンが住んでいました。ヴァジニアからはアメリカ独立革命の指導者を生み、後にアメリカ最初の大統領5人のうち4人を輩出していきます。1788年には合衆国憲法を批准した10番目の州となります。

奴隷制度はヴァジニア州経済の重要な部分を占めていました。1831年にナット・ターナー(Nat Turner)の奴隷反乱がここで起こりました。奴隷であり反乱の指導者ナットは数人の信頼する仲間の奴隷と決起します。反乱は家から家へと伝わり、奴隷を解放し、見付けた白人全てを殺したといわれます。最終的に反乱に加わった奴隷は自由黒人を含めて50名以上になります。ナットとその反乱部隊が白人民兵の抵抗に遭った時、既に57名の白人男女や子どもが殺されていました。

Nat Turner Rebellion

Governor’s Palace, Williamsburg

南北戦争が始まってすぐの1861年に、ヴァジニア州は連邦(Union)から離脱します。リッチモンド(Richmond)は南部連合(Confederacy)の首都となります。そしてヴァジニアは戦争を通じて主な戦場となります。ただヴァジニア州西部は連邦からの離脱を拒否します。1863年に分離してウェストヴァジニア州ができました。ヴァジニア州は1870年に連邦への再加盟を認められました。その後数10年間、州の債務をめぐる争いが政治生活を引き継ぎましたが、第一次世界大戦後、州の繁栄は増大していきます。

第二次世界大戦により、数千人の捕虜がヴァジニア州の軍事キャンプに収容され、港町のノーフォーク(Norfolk)地域は急速な成長を遂げます。ヴァジニア州にとっては、連邦政府は州最大の雇用主であり、製造業は二番目に大きい規模となっています。州南東部の海域およびそれを取り囲む陸域であるハンプトン ローズ(Hampton Roads)は、国内有数の港の1つであり一大観光地域でもあります。

ヴァジニア州は正式には「Commonwealth of Virginia」と呼ばれます。植民地時代から地域がそれぞれに共通した目標である独立に向けて共に発展するという意思を表しています。歴代4名の大統領とは、ジョージ・ワシントン、トマス・ジェファソンらです。それゆえに「アメリカ大統領の母なる地」とも言われるほどです。ワシントンDCの対岸の州内にはアメリカ国防総省(Pentagon)やCIA本部もあります。

Monticello,VA

観光は州の重要な産業です。ヴァジニア州には、植民地時代のウィリアムズバーグ(Williamsburg)、ジョージ ワシントンの邸宅であるマウント・バーノン(Mount Vernon)、トマス・ジェファソンのモンティチェロ(Monticello)、南北戦争の戦場、現在のアーリントン国立墓地(Arlington National Cemetery)の敷地内にあるロバート・リー(Robert E. Lee)将軍の家など、多くの史跡があります。特に、ウィリアムズバーグは是非訪れたいところです。1690年代には植民地時代の首都でありました。2.25キロ平方の地域に入植当時の建物はすっかり復元されて、植民地時代の面影を感じることができます。

Jefferson Memorial

1693年設立のウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William and Mary)は、この国で2番目に古い大学です。この大学は、イングランド国教会によって設立され、イギリス国王の勅許状を持つ最初のアメリカの大学となりました。ハーヴァード大学に続いてアメリカで最も由緒のある、また優れた学部教育のカレッジとして知られています。研究機関の中心はなんといってもヴァジニア大学です。創立は1819年、ジェファソンらによって創建されました。学内のすべての建物がコロニアルスタイル(colonial style)で統一され、全米で最も美しい大学キャンパスと称されています。これらの大学は、「最も入学が難しい大学」 (Most Selective)となっています。

College of William & Mary

ナンバープレートから見えるアメリカの州ネブラスカ州・The Good Life

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ネブラスカ州(Nebraska) のナンバープレートには「The Good Life」とあります。「楽しく住めるところ」といった感じですね。「Give a good life」「Beef State」「Cornhusker State」というフレーズのもあります。。「Cornhusker」 とは「トウモロコシの皮をむく人とか機械」という意味です。ネブラスカ州人の俗称です。プレートには、小麦や鳥、大平原と煙突のような岩山が描かれていて素敵なデザインです。

License Plate of Nebraska

ネブラスカ州は合衆国のほぼ真ん中に位置しています。北はサウスダコタ(South Dakota)に、東はアイオワ(Iowa)とミズーリ(Missouri)に、西はワイオミング(Wyoming)とコロラドに、南はカンザス州に囲まれています。州都はオマハ(Omaha)。州の大部分は平坦な大平原が広がります。トウモロコシを中心とする穀物地帯です。牛肉や豚肉の生産でも知られています。

Map of Nebraska

ネブラスカ州は合衆国中西部の州の一つであり、第一次世界大戦中、主に北部と西部の豊かな罠猟の国、および山岳地帯と太平洋地域の入植地と鉱山の辺境に移住する人々の中継地でした。19世紀の半ば、南北戦争(1861~1865年)後の鉄道の発展とそれに伴う移民により、ネブラスカ州の肥沃な土壌が耕され、その草原では牧畜産業が生まれました。その結果、同州は発足以来主要な食料生産国となります。

紀元前8000年頃には先史時代のさまざまな民族がこの地域に居住していたといわれます。この地域に住むネイティブ・アメリカンの部族には、東部と中央部にポーニー族(Pawnee)、オト族(Otho)、オマハ族(Omaha)、西部にオグララ族(Oglala)、スー族(Sioux)、アラパホ族(Arapaho)、コマンチ族(Comanche)が住んでいました。アメリカは1803年にルイジアナ購入の一部としてフランスからこの領土を買い取ります。

ヨーロッパの探検家がネブラスカ州に到着する何世紀も前に、ネイティブ・アメリカンがこの地域に住んでいました。1854年の入植地開放に伴い、連邦政府はネブラスカ州北東部にオマハ族(Omaha)の保留地を設け、その後その一部はウィスコンシン州から避難してきたホーチャンク族(Ho-Chunk)の保留地となります。ミネソタ州のサンティー・スー族(Santee Sioux)の一部はネブラスカ州北東部の居留地への移住を余儀なくされます。オマハ・ホーチャンクおよびサンティー・スーの居留地は今も存在しています。さらに、アイオワ族(Iowa)、ソーク族(Sauk)およびフォックス族(Fox)のそれぞれの居留地が州の最南東の隅にあります。21 世紀初頭までに、州人口の約1パーセントがネイティブ アメリカンで構成され、オマハ(Omaha)とリンカーン(Lincoln)に住んでいました。

Chimney Rock

1804年、ルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition)がミズーリ川(Missouri River)のネブラスカ側を訪れます。1854年のカンザス・ネブラスカ法によりネブラスカ準州の一部となります。ネブラスカ州は1867年に37番目の州として連邦に加盟します。その後まもなく人口が増加し、開拓時代のインディアンの抵抗がなくなると、入植地はネブラスカ州の細長く伸びたパンハンドル(panhandle)にまで広がります。

ネブラスカ州には国東部からの白人入植者に加えて、19 世紀後半に多数のヨーロッパ人移民がネブラスカ州に定住しました。最大の移民グループはドイツ人で、1890年には72,000人を数えました。スカンジナビア諸国(Scandinavia)、特にスウェーデン、ボヘミア(Bohemia)、ブリテン諸島(British Isles)からの移民、そしてアメリカに移住する前に最初にロシアに移住した別の異なるドイツ人グループもネブラスカ州に定住しました。

Old Gas Station

ボヘミア、ドイツ、アイルランドからの多数の人々はローマカトリック教徒(Roman Catholics)でした。ドイツとスカンジナビア出身のルーテル派の教徒、そしてドイツ系ロシア人移民の中のメノナイト(Mennonites)は、ネブラスカ州の宗教的や世俗的な生活に多様性をもたらしていきます。非英語を話すグループの言語的アイデンティティは世代ごとに薄れてきましたが、彼らの多様な文化遺産は今も生き残っています。

川はネブラスカ州の地理と居住地にとって重要でした。ネブラスカ州人の大多数はミズーリ川とプラット川(Platte River)の近くに住んでおり、州の大部分は人口が少ないです。ミズーリ川は、19世紀初頭、ミシシッピ州西部へ向かう主要幹線道路であり、プラット川はネブラスカ州の歴史においても重要な役割を果たしてきました。実際、州の名前はオトインディアンOto Indianの言葉で「平らな水」(Flat Water)という意味のネブラスカ(Nebrathka)(に由来しています。

Corn Field

20世紀に入ると、短期間ではありましたがポピュリスト運動という政治変革が起こります。改革を目指す勢力が、既成の権力構造やエリート層を批判し、人民による政治を目指す運動のことです。1937年には国内唯一の一院制議会を設置したのもネブラスカ州です。州の大部分は農業で、食品加工や機械産業が盛んです。主な鉱物資源は石油で、リンカーン(Lincoln) のほか、オマハが州の文化・産業の中心地となっています。

ネブラスカに関するエピソードがあります。学校の教師らとでネブラスカへ行ったとき、入国手続きをしたデトロイト空港でのことです。家内の番になりまして審査官との間で次のような会話が交わされました。

 審査官 「入国の目的は?」
 家内 「観光です」
 審査官 「これからどこへ行くのか?」
 家内 「ネブラスカです」
 審査官(けげんな表情で)「ネブラスカのどこで観光するのか?」
 家内 「リンカーンです」
 審査官 「観光でネブラスカへ行く日本人に会ったのはあんたが初めてだ、、、」

デトロイト経由の乗客の中で、観光でやってくる日本人の99%はニューヨークとかボストンとかフロリダへ行くのです。審査官も驚いたのでしょう。「ネブラスカに観光へ」には審査官は苦笑いしていましたね。

ネブラスカの西部にはチムニー・ロック(Chimney Rock)など巨大な岩で知られています。このあたりはでは沢山の恐竜が発掘されています。きわめて保存状態が良く恐竜の骨格がはっきりしています。それを展示しているのがネブラスカ大学リンカーン校(University of Nebraska-Lincoln)です。ここの恐竜博物館(Dinosaur Museum)は圧巻ものです。大勢の児童生徒が社会勉強であるフィールドトリップにあの黄色い車体のスクールバスでやってきます。

Soy Bean Field

ネブラスカ大学にDlwyne Harnischという教授がいました。兵庫教育大学にも客員教授として6か月間招いたことがあります。教育統計学の専門で多くの日本人研究者を暖かく招いてくれました。。ネブラスカ大学のフットボールチームはBig Ten Conferenceで何度も優勝した強豪です。そのときのコーチはのちにレジェンドと呼ばれたトム・オズボーン(Tom Osborne)で255勝49敗という戦績を残します。後にネブラスカ州からの共和党の連邦下院議員となります。
(2024年3月14日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューハンプシャー州・Live Free or Die

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ニューハンプシャー州(New Hampshire)のナンバープレートには「Live Free or Die」と描かれています。「自由を与えよ、さらば死を」という意味です。いわゆるニューイングランド地域の一部で、北部及び北西部でカナダのケベック州(Quebec)、東部はメイン州(Maine)、南部はマサチューセッツ州(Massachusetts)、そして西部はヴァモント州(Vermont)と隣り合っています。

License Plate of New Hampshire


1623年に最初のイギリス人がポーツマス(Portsmouth)近郊に定住したとき、この地域にはアルゴンキ語(Algonquian)を話す人々が住んでいました。この地域は1641年にマサチューセッツ州の管轄下に入り、1679年に独立した王家の植民地となります。ニューハンプシャーは最初にイギリスの統治を離脱し独立への歩みを踏み出します。1776年にイギリスからの独立を宣言した最初の植民地です。独立宣言後、最初の13州の一つともなります。合衆国の州として最初に憲法を制定した州となります。

Map of New Hampshire

花崗岩の州(Granite State)として知られるニューハンプシャー州は、さまざまな多様性の研究対象の州としても知られています。19世紀後半以来、連合内で最も工業化が進んだ6州の1つでありながら、農業と牧畜が盛んな州として描かれることがよくあります。ニューハンプシャー州は、ヴァモント州と同様に、白人でアングロサクソン系プロテスタント(White-Anglo-Saxon Protestants: WASP)が多数を占める「ヤンキー王国」(Yankee Kingdom)を構成しているといわれます。同州にはフランス系カナダ人、ドイツ人、イタリア人、ポーランド人、その他非英国人を祖先に持つ住民が多数住んでいます。

その政治的評価ですが、ビジネス寄りで保守的ですが、唯一最大の州の資金源は企業利益税となっています。さらに、同州は同性カップル(same-sex couples)のシビル・ユニオン(civil unions)を合法化した最初の州の一つとなっています。 ニューハンプシャー州の地域区分は非常に複雑なので、メイン州(Maine)、ヴァモント州、マサチューセッツ州をほぼ同じ割合で加えて3分の1に分割することを多くの人が提案しているのは興味深いことです。

Downtown Portsmouth

こうした議論はありますが、この州ははっきりとした特徴とかアイデンティティ(identity)を発展させてきました。そのアイデンティティの中心となるのは州政府の倹約のイメージです。ニューハンプシャー州には一般消費税や個人所得税がありません。州レベルでの倹約は町への責任の分散を強調した。市政府はニューイングランドのすべての州に存在しますが、ニューハンプシャーほど独自のサービスを提供する権限や責任を負っている州はありません。

そのアイデンティティのさらにもう1つの要素は、伝統への強いこだわりです。これは、「山の老人」(Old Man of the Mountain)として知られるフランコニア・ノッチ(Franconia Notch)の岩の輪郭によって長い間力強く象徴されているといわれます。 倹約、地方分権、伝統主義、工業化、民族性、地理的多様性の組み合わせにより、ニューハンプシャー州は多くのアメリカ人にとって非常に魅力的な都市となっています。ところでフランコニア・ノッチとは、州立公園のことで、キャノン山(Cannon Mountain)の州営スキー場が起点となっています。キャノン山は頂上の岩の形が山の老人に似ていたそうです。

Colonial Style House

建国後、ニューハンプシャー州は急速に発展します。農業が栄え、河川沿いで製造業が発展します。ポーツマスは造船の中心地となります。現在は主に製造業と観光業が経済の基盤となっていますが、酪農と花崗岩の採石も重要です。合衆国で最も早く大統領予備選挙が行われるので、多くの候補者の最初の試練の場となっています。その後の各州での大統領選挙を予測するうえで重要な選挙となっています。

ニューハンプシャーの州都はコンコード(Concord)という小さな街です。コロニアルスタイルといわれる町並です。植民地時代の木造家屋のデザインを示します。この州で忘れられないところがポーツマスという街です。日露戦争が終わり、当時の大統領ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の仲介でポーツマス条約(Portsmouth Peace Treaty)が締結された街、それがポーツマスです。実に小さな港町です。こんなところで条約が結ばれたのか、と頭をかしげたくなるようなのんびりとした所です。街全体がコロニアルスタイルです。

Treaty of Portsmouth

日露戦争後、講和条約締結交渉の日本の代表は外務大臣の小村寿太郎、ロシアは元大蔵大臣のセルゲイ・ウイッテ(Sergei Witte)です。ポーツマスの博物館に当時の交渉の様子を報道した写真や新聞記事が飾られています。大男のウイッテが小男の小村を威圧するイラストがあります。当時ロシアはヨーロッパの大国、日本はアジアの小国でした。アメリカは太平洋の利権があって日本に同情的な姿勢であったことを伺わせます。

当時日本は戦争のために財政が逼迫して、また、ロシアでは国内で革命運動が起こるなど両国ともこれ以上、戦争を続けることはむずかしい状況にありました。交渉にあたり困難を極めたのは、日本の国民が戦争に勝利したとして、戦勝国としての見返りを期待していたのに対し、ロシアには敗戦国としての認識はなかったようでした。こうした中で、小村寿太郎らは戦争終結のため、困難な外交努力を重ねて条約をまとめ上げていったといわれます。

日本への風刺画

ポーツマス条約では、ロシアは北緯50度以南の樺太(サハリン)を日本に譲渡する、日本の韓国における軍事・経済上の卓越した利益を承認し、日本が韓国に指導・保護・監理の措置をとるのを妨げない、日露両国は満州から同時に撤退し、満州を清国に還付する、ロシアは、清国の承認を得て、長春・旅順口間の鉄道を日本に譲る、ロシアはロシア沿岸の漁業権を日本に譲る、などが定められました。

講和前と講和後の日本地図

交渉の会場となったポーツマス海軍工廠(Portsmouth Naval Arsenal)では、1994年3月に会議当時の写真や資料を展示する常設の「ポーツマス条約記念館」が開設されます。

アメリカにはNewが付く州や町がたくさんあります。州ではNew Mexico, New Jersey, ご存じNew York, New London, New Berlin, New Heavenという街もあります。イギリスやヨーロッパ各地からの移民が開拓したことを伺わせます。1769年創立のダートマス大学(Dartmouth College)とニューハンプシャー大学(University of New Hampshire)は州の2大教育機関となっています。

私にとってのニューハンプシャーとの繋がりは、長男の嫁の両親がポーツマスの隣町に住んでいることです。ポーツマスは実に長閑とした綺麗な港町です。条約交渉を伝える博物館は興味ありました。
(投稿日時 2024年3月11日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューメキシコ州・Land of Enchantment

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ニューメキシコ州(New Mexico)のナンバープレートには「Land of Enchantment」(魅了してやまない地)とあります。晴天に恵まれた気候と風光明媚な観光スポットが観光客を惹きつけます。山々や高原にはバケーション・リゾート(Vacation resorts)がたくさんあります。カールスバッド洞窟(Carlsbad Caverns)やホワイトサンズ国立公園(White Sands National Parks)では、ユニークな自然の驚異が見られます。史跡や手つかずの自然が広がる地域は、他の国立公園地域や州立公園、国定記念物に保存されています。

License Plate of New Mexico

この地域への人類の定住は、おそらく1万年前に及ぶといわれます。15世紀にナバホ族(Navajo)とアパッチ族(Apache)がやってくる前に、プエブロ(Pueblo)インディアンの農耕文明が灌漑システムや断崖住居を発展させます。その遺跡が州内の至る所に残っています。16世紀にメキシコからのスペイン人がこの地域をスペイン領とし、1540年にフランシスコ・バスケス・デ・コロナド(Francisco Vazquez de Coronado)が探検してきました。最初の入植は1610年のサンタフェ(Santa Fe)だったようです。

Map of New Mexico

ニューメキシコ州は最も若い州の1つですが、米国西部で最も古い白人入植地です。ヴァジニア州(Virginia)ジェームスタウン(Jamestown)の設立から3年後の1610年、スペイン人入植者がサンタフェを設立します。スペイン人は16世紀に征服したメキシコから北に来て、リオグランデ川(Rio Grande)の北の土地を「ヌエボ メキシコ」(Nuevo Mexico)、またはニューメキシコ(New Mexico)と呼びました。「メキシコ」という呼び名は、スペイン人が到着したときにそこを支配していたアステカ族(Aztec)の別名である「メキシカ」(Mexica)に由来しています。

1600年代にはキリスト教の宣教師が活躍します。1821年にメキシコの一部となり、米墨戦争(Mexican-American War) 終結後の1848年にアメリカに割譲されます。ニューメキシコ準州は1850年に連邦議会によって設立され、1912年にアメリカの47番目の州となり、フロンティアのイメージを保持していきます。第二次世界大戦は経済と社会の変化に拍車をかけ、ロスアラモス(Los Alamos)を含む研究施設ができます。今日の経済は原材料の輸出と連邦政府の支出に大きく依存しており、石油と天然ガスも重要となっています。観光業はニューメキシコの主要産業となっています。

Santa Fe

ニューメキシコを訪れた人の多くは、再びそこに定住し、ネイティブアメリカン、ヒスパニック系(Hispanic)アメリカ人、アングロアメリカンといった多様な人口構成となり、3つの文化が融合しています。この州は、英語とスペイン語の2つの公用語がある唯一の州です。しかし、この巨大な州には依然として人口がまばらです。面積では50州中5位ですが、人口密度では45位にすぎません。

平野の大部分は牛や羊の放牧に使用されています。国土の約5分の1が森林となっています。水が利用できる場所では、ニューメキシコ州の支えて非常に肥沃な土壌がトウモロコシや小麦などの生産を支えています。しかし、重要なダムや灌漑プロジェクトが完了したにもかかわらず、水の保全は依然として州にとって大きな問題となっています。

Los Alamos

この州の最大の都市はアルバカーキー(Albuquerque)です。今では伝説的となりましたが、かつてビル・ゲイツ(Bill Gates) がパソコンのOSを開発した町です。現在、人口の45%がヒスパニックです。加えて、今でもネイティブ・アメリカンが全米で第三位を占める位、多く住んでいます。ですが面積からするとアメリカで最も人口密度が低い州といわれています。州都は、かつてメキシコの総督府が置かれていたサンタ・フェです。歴史・芸術・文化の豊かな州都です。観光はサンタ・フェの経済を支えています。温暖な気候や、冬のスキー、夏のハイキングなど野外活動の機会に恵まれています。

芸術の町サンタフェには、ジョージア・オキーフ美術館(Georgia O’Keeffe Museum)があります。アメリカを代表する画家の一人です。彼女は高校時代をウィスコンシンのマディソン(Madison)で育ち、その後シカゴとニューヨーク市で美術を学ます。そこで写真家のアルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz)と結婚しました。1920年代初頭までに、『Black Iris』(1926年)などに代表される、非常に個性的な画風を示します。

Georgia Okeefe

オキーフの主題は、動物の頭蓋骨やその他の骨、花や植物の器官、貝殻、岩、山、その他の自然の形態の拡大図などでした。遠近感のない空間を背景にした彼女の神秘的で暗示的な骨や花のイメージは、エロティック、心理的、象徴的なさまざまな解釈にインスピレーションを与えてきました。彼女の後期の作品は、1946年に夫の死後に移住したニューメキシコ州の澄んだ空と砂漠の風景を称賛しています。批評家からは、彼女は最も独創的で重要なアメリカの芸術家の一人とみなされており、彼女の作品は一般大衆の間でも非常に人気があります。

Museum of Art

サンタフェのダウンタウンの歴史地区、特に総督府に隣接するプラザ(Plaza)にはメキシカンフードの人気レストランが立ち並んでいます。町並みは日干しの土で作られた建築物アドービ(Adobe)です。砂、砂質粘土とわらなどの素材でつくられる建材です。熱を吸収してもゆっくりと放出するので建物の中は涼しく、ニューメキシコのような暑くて乾いた地に適しているといわれています。ニューメキシコ州は、そびえ立つ山々、赤い岩、不毛の砂漠が広がる風光明媚な高地です。その自然の美しさの中に、歴史的なアメリカ先住民の村、スペインの伝道所、そして初期の祖先プエブロ族が残した素晴らしい崖の住居があります。

Downtown Santa Fe

ナバホ、プエブロ、アッパチインディアンが住む居留地で作られる民芸作品、各地にある大小の博物館の展示物、そして大自然が観光客を魅了しています。ネイティブ・アメリカンとメキシコの文化と芸術を最も身近に接することができる州といえましょう。これらの観光スポットは観光産業の繁栄を支え、この州の「魅惑の国」というニックネームを不動のものとしています。

ニューメキシコは日本にとって忘れることのできない州です。砂漠のど真ん中にある町、ロスアラモスは巨大な研究都市です。国防総省が武器を開発しています。ここで製造された原子爆弾(Little Boy)が博物館に展示されています。複雑な思いのする場所です。私はこれまで二度ニューメキシコ州を訪れました。ウィスコンシンから家族を呼んで再会した所でもあります。
(投稿日時 2024年3月2日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州サウスカロライナ州・Smiling Faces, Beautiful Places

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サウスカロライナ州(South Carolina)のナンバープレートには「Smiling Faces, Beautiful Places」とあります。このモットーは他には見られないほど輝いて珍しいです。北部でノースカロライナ州、南部と西部でサバンナ川(Savannah River)を境に位置するジョージア州、及び東部で大西洋と接している、いわば南部の州です。州都で最大の都市はコロンビア(Columbia)です。サウスカロライナ州は温暖な気候に恵まれています。イギリスの植民地下の影響が、建物などにもその面影があちこちに残っています。ウスカロライナ州は広い海岸平野と、内陸のなだらかな山麓地帯(piedmont)から成ります。

License Plate of South Carolina

17世紀後半に白人ヨーロッパ人がこの地域に定住するまで、先住民は現在のサウスカロライナ州に何千年も住んでいました。ヨーロッパとの接触後、人口は急速に減少しましたが、数千人のアメリカ先住民が今でも州内に住んでいます。カトーバ族(Catawba)とピーディー族(Pee Dee)は、サウスカロライナ州のアメリカ先住民グループの中で最大ではありませんが、連邦と州の両方から認められています。カトーバ族は、サウスカロライナ州の北中部に居留地を有する唯一のネイティブ・アメリカン・グループです。

1521年にサウスカロライナ州を最初に訪れたヨーロッパ人は、イスパニョーラ島(Hispaniola)出身のスペイン人探検家サント・ドミンゴ(Santo Domingo)でした。1526年、ルーカス・バスケス・デ・アイヨン(Lucas Vásquez de Ayllo)は、1526年にサウスカロライナ州に最初の白人ヨーロッパ人入植地と考えられる拠点を定めますが、このスペイン植民地は数カ月以内に崩壊します。ジャン・リボー(Jean Ribaut)率いるフランスのプロテスタントは、1562年にポート・ロイヤル(Port Royal)の地域を占領しようと試みましたが失敗します。数年後の1566年にスペイン人が戻り、近くのパリス島(Parris Island)にチャールズフォート-サンタエレナ(CharlesFort-Santa Elena)を建設しました。ここは1587年まではスペインの重要な拠点でした。チャールズ・フォート-サンタエレナ遺跡は、フランス人の入植地の考古学的遺跡が含まれていて、1562年に定住し、翌年に放棄されます。後のスペインの遺跡には、放棄されたチャールズ要塞の遺跡の上に直接建てられた砦が含まれています。この砦と他の近くの建造物非常に良い保存状態なので、初期のフランスとスペインの植民地生活を理解する上での重要性から、2001年に国定歴史建造物に指定されます。

Charlesfort SantaElena

1665年、初代クラレンドン伯爵(Clarendon)のエドワード・ハイド(Edward Hyde) と他の7人のイギリス貴族は、チャールズ2世(Charles II)から緯度29度から36度30分の広大な領土にカロライナ植民地を設立するという勅許状を受け取ります。これら8人の譲受人はカロライナの領主所有者として知られ、土地を自由に処分することができました。イギリス人は1670年にこの地域で最初の定住地をアルベマール ポイント(Albemarle Point)地域のアシュリー川(Ashley River)西岸に作りました。10年後、政府とほとんどの住民はチャールズ・タウン(Charles Town)に建設され、それが今日のチャールストン(Charleston)となります。

植民地は次第に成長し、1720年までに人口は約19,000人になり、ほぼ海岸沿いに定住しました。先住民との貿易と鹿皮の輸出が主な収入源であり、1710年以降は海軍の物資であるテレビン油、タール、その他の松製品が盛んに輸出されました。

Map of South Carolina

1729年、植民地は北と南の2つの州に分割されました。ジョージア州は1731年に南部から切り離されて設立されます。王室統治下でサウスカロライナ州は繁栄し、アメリカと藍色の染料であるインディゴ(indigo)の輸出がその富の増大に貢献しました。この貿易の成功に基づいて、チャールストンは黄金時代を迎えます。次第に洗練された文化的な都市として認識されるようになりました。

ペンシルベニア州から陸路に流入したスコッチ系アイルランド人(Scotish Irelander)の入植者が1760年以降に内陸部で急増し、その後の政治的代表の要求により、海岸側のローカントリー(Low Country)のプランテーション所有者と内陸側のアップカントリー(Up Country)の小規模農民との間で紛争が発生しました。アメリカ独立戦争中にイギリス軍がチャールストンを占領しますが、サウスカロライナ州では、主にイギリスからの自由を要求する愛国者と王室を支持する忠誠派の間の内戦が起こりました。アメリカの2つの大きな勝利は、キングス・マウンテン(Kings Mountain)とカウペンズ(Cowpens)での戦いです。

18世紀後半から19世紀初頭にかけて綿花プランテーションが拡大したため、数万人のアフリカ人が奴隷としてこの若い地に運ばれてきます。南北戦争の後、特定の地域の解放された奴隷は自分たちが働いていた土地を所有することができました。それによって何世代にもわたって自分たちの伝統とコミュニティを定着させることができました。

Brookgreen Gardens

サウスカロライナ州の海の島々(Sea Islands)の大部分は20世紀になっても地元のアフリカ系アメリカ人の手に残り、21世紀初頭になっても黒海の島民(Black Sea Islanders)の中には英語から派生したガラ語(Gullah)を話すことができる人もいました。ガラ語とは、プランテーション時代にまで遡る西アフリカの言語です。19 世紀後半には、サウスカロライナ州の総人口の約5分の3が黒人でしたが、特に20世紀の大移住の間、大部分が都市化された州への北方への大量の移住により、この割合は大幅に減少しました。20世紀後半以来、アフリカ系アメリカ人はサウスカロライナ州の人口の約10分の3を占めています。

Fort Sumter

アメリカ独立戦争の間、いくつかの軍事作戦がサウスカロライナで戦われました。イギリスから最初に独立した13州のうちの一つがこのサウスカロライナ州となっています。1788年にサウスカロライナは合衆国憲法を批准した8番目の州となり、1860年には連邦から離脱した最初の州となりました。1860年に共和党のリンカーンが大統領となります。そして黒人差別の撤廃政策などを訴えます。それに反対したサウスカロライナ州は連邦から離脱し、アメリカ連合国(Confederate States of America: CSA)を結成します。これに賛同した州はミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州です。そして南北戦争(Civil War)が始まります。

南北戦争の最初の行動は、CSA軍によるサムター要塞(Fort Sumter)攻撃で起こりました。4年間続いた戦争は合衆国の北軍の勝利となります。この戦争では、両軍合わせて50万人近くの戦死者を出し、民間人死者を合わせると70~90万人に上るとされています。これは今日に至るまで、戦争における合衆国史上最大の死者数といわれます。連合国は1868年に連邦に再加盟します。しかし、1895年の憲法改正で州のほぼすべての黒人の権利が剥奪され、人種隔離の厳格な政策が1960年代半ばまで続きました。サウスカロライナは合衆国の繊維製造業のリーダーであり、大規模な産業基盤を持っています。観光業は第2位の産業となっています。農業も経済に貢献しており、主な作物はタバコ、大豆、綿花などです。

Charleston


南部の人種差別の強い州ではありましたが、最近は海外企業の招致に積極的で経済発展に著しい面をみせ、人口の増加が著しい州となっています。チャールストンは聖なる市(The Holy City)としても知られています。当初の13植民地の中で、信教に対する寛容さを認めていた数少ない都市という歴史があります。そのためでしょうか、合衆国南部で最古のユダヤ教正統派のシナゴーグ(synagogue)(会堂)があります。チャールストンには一大海軍基地もあります。

「Smiling Faces, Beautiful Places」というライセンスプレートのフレーズは珍しいです。この言葉だけでどの州の車かはわからないですね。椰子の木が真ん中にあるので、南部の州だろうとは想像できます。
(投稿日時 2024年2月24日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ケンタッキー州・Bluegrass State

注目

ケンタッキー州(Kentucky)のナンバープレートには「Bluegrass State」とあります。草原を遠くから眺めると青紫色のつぼみが一面広がり、「青い草」に見えたので名付けられたとあります。ブルーグラス・ミュージック(Bluegrass Music)です。スコットランドやアイルランドの音楽を基にしています。アップテンポの曲が時代と共に多くなり、速弾きなどのインプロヴァイズ(即興演奏)もあります。お隣テネシー州でもこの音楽は盛んです。

License Plate of Kentucky

ケンタッキー州は、1769年にダニエル・ブーン(Daniel Boone)や他のヨーロッパの開拓者が到着するまで、長い間、さまざまなネイティブ・アメリカンの人々の本拠地でした。その名前の由来ですが、一説は、チェロキー族(Cherokie)が狩猟を行っていたこの地域を「カトブ」と呼び、先祖伝来のこの狩り場を売却することに反対し、「暗い血にまみれた大地」を買おうとしていることを警告してそう呼んだという説です。他の説にはイロコイ語(Iroquois)で「草原(prairie)」を意味する言葉に由来しているというものです。

1792年にケンタッキー州がアパラチア山脈以西では初で15番目の州としてとして認められるまでに、73,000 人近くの入植者が集まりました。1800年までにこの数は約22万人に増加し、その中には約4万人の奴隷も含まれていました。

Map of Kentucky

ケンタッキーはイリノイ州、インディアナ州、オハイオ州、ミズーリ州に囲まれ、オハイオ川とミシシッピ川で州境をなしています。東側にはアパラチア山脈が聳えていて、豊かな自然に恵まれています。この州はなんといっても「ブルーグラスの州」と呼ばれ、肥沃な土壌からの多くの農産物がとれます。州都はフランクフォート(Frankfort)。最大の都市はルイビル(Louisville)となっています。

ケンタッキー州というと、炭鉱、バーボン郡(bourbon) にちなんで命名されたといわれるバーボン・ウイスキー、登山家、違法酒の蒸留業者、夏のベランダでミント・ジュレップ(mint juleps)をすすりながら白衣を着た大佐や女性、ケンタッキーダービー(Kentucky Derby)などで知られています。肥沃なブルーグラスは馬の飼料として栄養価が高いので、馬の生産が盛んになったと言われます。

バーボン・ウイスキーの主原料は51パーセント以上のトウモロコシ・ライ麦・小麦・大麦などで、これらを麦芽で糖化させ、さらに酵母を加えてアルコール発酵させるのです。バーボンという名前はフランスの「ブルボン朝」(Bourbon dynasty) に由来するという説もあります。その他タバコの生産も盛んです。

Kentucky Derby

ケンタッキー州には、興味深いことに独特の地域と特徴が混在しています。レキシントン(Lexington)周辺のなだらかなブルーグラス(Bluegrass)地域にある、白いフェンス、パドック(paddocks)、タバコ畑、牧草地がどこまでも続く風景は、ケンタッキー州の立場を反映しながら、南北戦争前の南部とのつながりを彷彿とさせるような、ゆったりとして上品な生活様式を示唆しているといわれます。その反面、タバコや麻が名産だったので、奴隷制度の中心ともなりました。奴隷市場が置かれ、川を下って運ばれる奴隷の出発地がルイビルだったのです。

対照的に、ケンタッキー州の最北端は、主にドイツの伝統があり、郊外の開拓への傾向があり、オハイオ州シンシナティの大都市へ向いていることことから、州と北部の都市部とのつながりが特徴的となっています。ケンタッキーは自動車産業も盛んです。フォード、GM、トヨタの工場があります。トヨタはアメリカで最もポピュラーな車「カムリ」をジョージアタウン(Georgetown)という街で組み立てています。

ケンタッキー州は、過去と未来を見つめる州として、西部への拡大の岐路として、そして1861年から1865年までの南北戦争中に忠誠心が分かれたことがあげられます。南北戦争の大統領である北軍のエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)と反対側の南軍の大統領となったジェファソン・デイビス(Jefferson Davis)は両方ともケンタッキー州生まれです。

Country Road

ケンタッキーといえば、スティーブン・フォスター(Stephen Foster)がいます。1848年に、アンクル・ネッド(Uncle Ned)やオー・スザンナ(Oh! Susanna)などのバラードのいくつかが出版されます。曲が知られるようになると、彼は作曲活動に従事します。さらにクリスティ・ミンストレルズ(Christy Minstrels)のために曲を書くよう依頼されます。その中で最もよく知られているのが「オールド・フォークス・アット・ホーム」(Old Folks at Home)とか「スワニー・リバー」(Swanee River)で、1851年にエドウィン・クリスティ(Edwin P. Christy)の名前で発表し、彼は1879年までクリスティの名前で活動を続けます。

1852年にニューオーリンズ(New Orleans)への旅行中に、フォスターはケンタッキー州に立ち寄り、バーズタウン(Bardstown)という街の近くにあるフェデラル・ヒル(Federal Hill)に住むいとこの家を訪れます。そこで彼は「My Old Kentucky Home」を書いたと言われています。この曲はケンタッキー州の州歌になりました。フェデラル・ヒルには州のフォスター記念碑があります。

Stephen Foster

フォスターは、生涯経済的にはあまり恵まれなかったようです。1857年に曲のすべての権利を1,900ドルで出版社に売却します。利益は主に出版社と出演者に支払われたようです。1860年に彼はニューヨーク市に移ります。やがて妻と別居し、貧しく気ままに暮らします。そして1864 年1月13日にニューヨークで亡くなります。

彼は生前に約200曲を残しています。ほとんどの曲は、自分で歌詞と音楽の両方を書いています。最も人気のある曲の中には、「Old Black Joe」、「Jeanie with the Light Brown Hair」、「Come Where My Love Lies Dreaming」、「Beautiful Dreamer」などがあります。さらに賛美歌も作曲しています。彼は「アメリカの音楽の父」と呼ばれています。

「My Old Kentucky Home」の一節です。
  Oh, the sun shines bright in the old Kentucky home
 ’Tis summer, the darkies are gay
The corn top’s ripe and the meadows in the bloom
While the birds make music all the day

ケンタッキー州政府は、南部の心の温かさという概念に基づいて、他から州内により多くの人々を惹き付けようと考え、「こんなに友好的だ」(”It’s that friendly”)というスローガンを提唱したこともあるようです。州境地域にある「ケンタッキー州にようこそ」(Welcome to Kentucky)という看板に、(Unbridled Spirit)「自由奔放な精神」というフレーズも印字されています。

ケンタッキー州は、民主党は19世紀半ば以来、州政と連邦政界の両方をほぼ支配してきました。実際、2002年にアーニー・フレッチャー(Ernie Fletcher)がケンタッキー州知事に選出されたとき、彼は36年ぶりに共和党員として当選しました。大統領選挙では、1896年、1924年、1928年の例外を除いて、州は南北戦争後、ほぼ1世紀にわたって民主党に投票してきました。しかしながら、1950年代以降、同州は連邦レベルで共和党を支持する傾向にあり、現在も共和党支持州の一つとなっています。

私と家族はかつてジョージアからウィスコンシンへ向かう途中、ケンタッキーをとおりました。「ケンタッキーの我が家」のメロディが浮かんだのはいうまでもありません。ですが公式な州歌であることを知ったのは、ずっと後のことではあります。
(投稿日時 2024年2月21日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州オハイオ州・Buckeye State

注目

オハイオ州(Ohio)のナンバープレートに関する話題です。州の大都市デイトン(Dayton)は、ライト兄弟(Wright Brothers)が初めて有人動力飛行機を組み立てたところで知られています。そのために、ナンバープレートには「Birthplace of Aviation」(飛行機発祥の地)とあります。別名「バッカイヤ州」(Buckeye)とも呼ばれています。

Ohio License Plate

初期のヨーロッパ人探検家たちは、この地域にマイアミ族(Miami)、ショーニー族(Shawnee)、その他のインディアンたちが住んでいるのを発見します。フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)の後、この地域はフランスからイギリスに割譲されます。やがて1803年に17番目の州となります。19世紀には、その立地、輸送施設、石炭、石油、天然ガスなどの天然資源により、最初の大工業州のひとつとなります。製造業が最も重要な経済活動ですが、州の3分の2近くは依然として農地となっています。

Map of Ohio

ところで、「Buckeye」とは州の木のことです。針葉樹の一種で、なんとなく木形といい大きさといい、北海道に多いカシワに似たところがあります。ドングリも秋になると沢山落ちます。州都で最大の都市はコロンバス(Columbus)です。他の大きな町はクリーブランド(Cleveland)、デイトン、トレド(Toledo), シンシナティ(Cincinnati)です。オハイオ州の経済は、工業製品などの製造業です。オハイオは、五大湖の一つエリー湖(Lake Erie)に面して、その岸は500キロに及びます。この地の利を使って製造業や海運業が盛んです。東はペンシルベニア、南はケンタッキー、イリノイ、西はミシガンに接しています。

オハイオ州の人口動態についてです。1830年以前は、ペンシルベニア州(Pennsylvania)のドイツ人やスイス人(Swiss)が北西部の地域から東中部地域にやって来ました。1830年以降、ドイツとアイルランドから直接入植者がやって来ます。多くのアイルランド人がオハイオ運河(Ohio canals)で働きに来て定住し、鉄道が建設されるとアイルランド人とドイツ人の労働者が定住者として残っていきます。北西部の湿地帯から排水を行ったドイツ人は、その結果生じた農地を開発するために残ります。

1830 年以降、南アイルランドからのローマ・カトリック教徒(Roman Catholic)の移民がクリーブランド(Cleveland)、コロンバス(Columbus)、シンシナティなどの都市に定住し、1850 年までに外国生まれの住民の中でドイツ人に次ぐ数となります。しかし、ドイツ人移民とアイルランド人移民は両方とも広範囲に分散し、ランカスター(Lancaster)といった小さなコミュニティに定住することも多く、そこで都市を設立したペンシルベニアドイツ人(Pennsylvania Germans)に加わっていきます。

Ohio State University

19世紀初頭にには、ウェールズ人(Welsh)が、オハイオ州のいくつかの地域で鉱物資源を開発するために到着します。ウェールズ人は、特に南東部のジャクソン郡(Jackson County)に多く定住します。実際、ジャクソン郡は長い間ウェールズ文化との結びつきがあり、多くのコミュニティでウェールズ語が三世代に渡って存続していきます。

このように1850年では、州の主な人口はスコットランド系アイルランド人でしたが、ドイツ人とイギリス人のコミュニティも重要でした。しかし、1870 年までに、オハイオ州の総人口の14 パーセント、クリーブランドの総人口の 40 パーセントが外国生まれだったといわれます。やがて、それぞれの移民グループが独自の新聞、クラブ、社交生活、教会を設立するにつれて、初期のオハイオ州北部のニューイングランドの性格は変化していきます。

オハイオ州の大学はどこも優れた教育や研究をおこなっています。州都コロンバスにはオハイオ州立大学(Ohio State University)があります。この州の学術研究の中心的な大学です。多くの人材を輩出しています。宇宙飛行士のジョン・グレン(John Glenn)、ニール・アームストロング(Neil Armstrong) もオハイオの出身です。中西部には「Big Ten」という大きな大学の連合があります。ウィスコンシンやミシンガン、イリノイ、ミネソタなどの大学とともにBig Tenの一つとして、オハイオ州立大学は研究開発を競っています。スポーツもまた然りです。

Apollo 11 Crews

以前どこかのブログでノースカロライナ(North Carolina)を紹介したとき、世界で初の有人動力飛行に成功したのがノースカロライナと紹介しました。飛行機の発明と飛行については、ノースカロライナとオハイオとの論争がありました。これを紹介することとします。

1世紀以上前、オハイオ州のライト兄弟は最初の動力付き飛行機を製造し、世界を変えたいわれます。それ以来、オハイオ州は数多くの先駆的な飛行士の発祥の地であり、数え切れないほどの航空発明の本拠地となってきました。

しかし、1903年12月17日にライト兄弟がノースカロライナNorth Carolinaで初めて飛行を行って以来、ノースカロライナは航空発祥の地であると主張したのです。ノースカロライナは「ファースト・イン・フライト」(First in Flight)をのフレーズを導入し、そう主張したのです。これが州のナンバープレートとなります。オハイオ州は数年後に「航空発祥の地」(Birthplace of Aviation)というプレートを導入し、これに対抗します。ライト兄弟はデイトン出身で、その飛行機を自分たちの自転車屋で製造したのです。議会は2003年にオハイオ州がノースカロライナ上空の航空発祥の地であると宣言し、この論争に終止符を打ちます。造った所と飛ばした所が違うというのが両方の主張のようです。どちらが元祖かは、いろいろな話題で論争しあいますが、このようなライト兄弟の飛行話も可笑味があります。

Birthplace of Aviation

オハイオ州から7人の共和党員がアメリカ合衆国大統領に選ばれており、「大統領の母」というニックネームはヴァジニア州と分け合うものです。南北戦争では、功績の高い北軍の3将軍がオハイオ州から出ています。後に大統領となったユリシーズ・グラント(Ulysses Grant)、ウィリアム・シャーマン(William Sherman)、フィリップ・シェリダン(Philip Sheridan)という軍人です。

オハイオ州は産業分布や人種構成が全米平均に近く「アメリカの縮図」としても知られています。選挙の度に共和党・民主党両党に勝利者が変動する「スイング・ステート」(Swing State)(振り子の州)として知られ、1964年から2016年までオハイオ州で勝利した者が大統領に当選しています。それ故に「オハイオ州を制するものが大統領選を制す」といわれるほどです。ただし、2020年はトランプがオハイオ州で勝利したものの全米では民主党のジョー・バイデンが勝利し大統領に当選しました。過去に遡り、1960年の選挙では、民主党のジョン・ケネディ(John F. Kennedy)は、オハイオ州で共和党のリチャード・ニクソン(Richard Nixon)破れながらも当選した大統領となります。まさに(振り子の州)の呼び名に相応しい州です。
(投稿日時 2024年2月15日)

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十三 ワシントン州 「ヒマラヤ杉に降る雪」(Snow Falling on Cedars)

この小説の作家はグッターソン(David Guterson)というアメリカ人です。これを今回は紹介します。小説の舞台はワシントン州北西部の小さな湾のジュアン・デ・フカ(Strait of Juan de Fuca)に浮かぶ、人口5千の移民の島サンペデロ島(San Piedro)です。1954年12月、日系アメリカ人漁師のカブオ・ミヤモトは、同僚カール・ハイン(Carl Heine)を殺害したとして第一級殺人容疑で罪に問われます。カールは強い絆で結ばれる人々の中で慕われていた漁師でありました。カールの死体は漁網の中で発見され、彼の腕時計は午後1時47分を指していました。島全体を包む吹雪の中、戦争後の反日感情が広がっている時代です。

Ishmael & Hatsue

裁判を取材するのは、元海兵隊軍人であるイシュマエル・チェンバース(Ishmael Chambers)です。彼は、地元新聞サンペデロレビュー紙(San Piedro Review)の記者です。戦争中は激戦地タラワ島(Tarawa Island)で同胞の死に遭遇しています。幼い頃、イシュマエルは、高校時代にハツエという日系女性と同級で、ヒマラヤ杉の洞で愛を育くみます。青い目のイシュマエルと黒髪の美しいハツエは、密かに情を交わす関係にあったのです。しかし、二人の関係は太平洋戦争の勃発と共に打ち砕かれてしまいます。

検察側は、刑事のモーガン(Art Moran)と検察官のフックス(Alvin Hooks)です。カブオを擁護するのはグッダモドソン(Nels Gudmondsson)という老練弁護士です。何人かの証人の中でカブオが犯人であると主張するのがカールの母親のエッタ(Etta) で、人種差別や偏見の強い人物です。

裁判では、他に検死官(coroner)のワリー(Horace Whaley)やカールにイチゴを売る老人のジャーゲンセン(Ole Jurgensen)らです。裁判ではイチゴ畑が争点ともなります。この畑はもともとカールが持ち主でした。この土地に住んでいたのはミヤモトという一家で、ハイン家の人々にイチゴを売っていました。カブオとカールは幼馴染みでした。カブオの父親は、広いイチゴ畑を購入したいとハイン家に持ちかけます。しかし、エッタは反対しますが、カールは売ることに賛成します。支払いは10年間払いというものでした。最後の支払いが近づいた頃、真珠湾攻撃により大戦が勃発します。島に住んでいた日系人は強制収容所行きとなります。

Snow Falling on Cedars

1944年、カールの父親は心臓麻痺で亡くなります。エッタはジャーゲンセンにいちご畑を売却します。カブオが収容所から解放されて帰ると、エッタが土地を他人に売ったことを知り、酷く怒ります。ジャーゲンセンが脳卒中で倒れると、カブオが土地を買い戻そうとする前に、カールは土地を購入したいと申し出ていたのです。裁判ではこうした土地を巡る家族や住民の間の確執が、カブオに対する殺人の容疑の背景となります

記者のイシュマエルは、カブオの容疑を晴らす可能性の高い証拠をつかみます。しかし、カブオの妻であり彼自身の幼馴染のハツエとの間の過去の恋愛関係に対する感傷の想いが断ち切れないでいます。また、日系アメリカ人への厳しい偏見と大戦という厳しい出来事によって、成就できなかった自分達の関係についてイシュマエル自身は心が整理できないでいます。彼がつかんだカブオが犯人でないという証拠をどのように扱うべきかで悩んでいたのです。

イシュマエルはポイントホワイト (Point White) という灯台付近で、午前1時42分頃、カールが釣りをしていたこと、丁度その頃、付近に大きな貨物船が通りかかったことをつかみます。カールの時計が指していたのは1時47分でした。カールの小舟が貨物船の航跡を受けて沈没したことを知ったのです。カールは小舟のマストに登り、灯を降ろそうとしたとき、貨物船の波で倒れてきたマストに頭を打ち、海に投げ出されたことも判明します。幼馴染のハツエにふられたイシュマエルは、カブオへの容疑が晴れる証拠をつかんでいたのです。

カブオは無罪として釈放されます。カブオと結婚していたハツエは、昔の恋人だったイシュマエルに、無実の証言をしてくれたことに感謝するのです。イシュマエルは、自分の不可解な感情が無神論者であったためだと考えるのです。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その四十三 ペンシルベニア州–その1 Amishとは

ペンシルベニア州といえば、キリスト教との一派であるアーミッシュ(Amish)と呼ばれる人々の文化と生活で知られる州です。これから3回に渡ってアーミッシュの文化や生き方の特徴を考えていきます。

Amish Family

アーミッシュとは、キリスト教の再洗礼派(アナバプテスト–Anabaptist)と呼ばれる人々です。成人してから自らの意志で洗礼を受けることを特徴とする一派です。こうしたキリスト教徒はメノナイト(Mennonite)とも呼ばれています。政教分離を唱え、政治的な宣誓や戦争を拒否します。良心的兵役拒否という姿勢です。

ヨーロッパの再洗礼派の教徒は、カトリック教会はルーテル教会などのプロテスタント教会から、異端とか熱狂主義者と呼ばれ非難され、反宗教改革的な存在として迫害を受けます。再洗礼派が次第に教会本来の純粋さを失ってゆくとともに、17世紀後半にスイス人のヤコブ・アマン(Jakob Ammann)がメノナイトを離れアーミッシュと称していきます。アマンは当時の正統的なキリスト教会やその教えに対して異議を唱え、迫害を受けます。彼とその信奉者は、フランス北部のアルザス(Alsace) やドイツ、オランダなどで布教活動を始めます。教会から異端視され迫害を受けていきます。

Amish quilts

迫害が止まないために、18世紀の前半に信徒達はアメリカ大陸に移住を開始します。最初に植民地として選んだのが東部ペンシルバニア州です。その後オハイオ州、インディアナ州、イリノイ州、ウィスコンシン州、ネブラスカ州などの中西部に移動し入植します。アーミッシュは、ドイツ系移民で、ペンシルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)とも呼ばれています。ダッチ(Dutch)は、オランダ語のことではなく、ドイツ語の”Deutsch”に由来し、古くはドイツ人のことを指しました。

ナーンバープレート その四十二 ペンシルベニア州–Keystone State

ペンシルベニア州(Pennsylvania)の名前の由来から始めます。この地にイギリスからやってきた商人でクエーカー教徒(Quaker)であったWilliam Pennという人がいました。やがて貿易などで成功したPennにイギリスは領地を分け与えます。そして植民地とします。ペンシルベニアには豊かな森が広がります。ラテン語で森を意味する「Sylvania」にPennをつけたというわけです。

Map of Pennsylvania


その後、ペンシルベニアは開拓されて植民地化されていきますが、Pennらはその地の自治を求めて自由憲章の草稿を書き、イギリスからの独立を目指していきます。信教の自由、公正な裁判、主権を持つ人民により選ばれた代表、三権分立などの精神を訴えます。こうした考えは、後にアメリカ合衆国憲法の基本になる考えとなります。

ペンシルベニア州は北東部の州と南部の州、大西洋岸と中西部を結ぶ地点にあることから、キーストーン・ステート(Keystone State)「礎石の州」とも呼ばれます。エリーやオンタリオ湖に面し、北はカナダとニューヨーク州に接し、東はニュージャージーにつながっています。形は横長の州です。

州都はハリスバーグ(Harrisburg)。州の西には重要な河港を持つピッツバーグ市(Pittsburgh)、東には自由の鐘や独立記念館で有名なフィラデルフィア市(Philadelphia)があります。フィラデルフィアは独立後、1790年から1800年まで連邦政府の首都となります。南北戦争の激戦地でリンカーン大統領(Abraham Lincoln)の演説で有名はゲティスバーグ(Gettysburg)など史跡が多い州でもあります。ピッツバーグ一帯や東部のベツレヘム(Bethlehem)一帯には多くの製鉄都市があり、鉄鋼、機械、化学、繊維、食品などの製造業が発達しています。製鉄を支えるのはアパラチア(Appalachia)炭田で、全米の無煙炭の大部分を産出しています。

National Independence Park

教育研究の中心は、カーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University)、ペンシルベニア州立大学(Pennsylvania State University)、アイビーリーグ(Ivy League) の一つペンシルベニア大学などです。ペンシルベニア大学は1765年にアメリカで最初の医学部を設置します。今も医学や公衆衛生の分野でアメリカの開拓者的存在として知られています。日本でも人気のあるフィラデルフィア管弦楽団(Philadelphia Orchestra) はこの州にあります。