旅のエピソード その27 「ハワイの日系アメリカ人」

日系アメリカ人の活躍は前々回に少し述べました。ハワイに移民した最初の人々は一世(Issei) 、そして今や四世(Yonsei)から五世(Gosei)へと受け継がれます。ちなみに、こうした単語はすっかり英語として定着しています。

日系アメリカ人は、長い間偏見と差別に苦しみました。そのために生活も苦しかったようです。懸命に働き、教育を大事にし、善良なアメリカ市民になろうと努力しました。ハワイ大学より兵庫教育大学に客員研究として招いたカーティス・ホー(Dr.Curtis Ho)教授は、中国人と日本人との間に生まれた方です。小さな島で育ち、やがて奨学金をもらい本土の大学で学び、研究者となりました。父親は厳しい労働に従事し、稼いだお金を彼の教育のために注いだそうです。

日系人がアメリカ社会での地位を確立するには、「勤勉な働き者」「清潔好き」「礼儀正しい」「約束をきちんと守る」といった矜持の定着が必要でした。こうして日系人は確実に善良な市民としてのイメージをアメリカ社会に定着させていきます。

日系人の活躍です。1963年にダニエル・イノウエ氏(Daniel Inoue) が初の日系上院議員となります。ジョージ・アリヨシ氏(George Ariyoshi) が1974年に第3代ハワイ州知事に就任することで、日系人の地位や役割が不動のものとなります。1978年 エリソン・オニズカ氏(Elison Onizuka) が日系人として初の宇宙飛行士に選ばれます。ですが、乗り込んだチャレンジャー(Challenger) が爆発し亡くなります。1988年には、第40代のロナルド・レーガン(Ronald Reagan)大統領が、大戦中に人種差別政策により日系人を強制収容所に連行した歴史に謝罪し、一人につき2万ドル(約200万円)を補償したのは目新しいことです。

旅のエピソード その21 「プリマスとメイフラワー号」

ボストン(Boston) の南東、車で1時間のところにプリマス(Plymouth)という街があります。港町です。ここには1620年にイギリスのブリンハム(Bringham)という港から大西洋を渡ってきたメイフラワーII(Mayflower)号のレプリカ(replica)が停泊しています。

メイフラワー号にある説明によると、清教徒(Puritan)らが長く苦しい航海を続けて、やってきたことがわかります。ヨーロッパでの宗教的な迫害を逃れて新大陸を目指した人々の心意気も伝わる船です。

このプリマスから5キロのところにプリマス・プランテーション(Plymouth Plantation)という開拓村が保存されています。1627年に人々が入植した場所です。インディアンの攻撃から護るために作られた木の柵で囲まれた広大な部落です。住居、ベーカリー、鍛冶屋、店、教会、学校、畑が点在しています。

ここで働く人々は開拓当時の服装といういでたちです。この開拓村はすべて1600年代という設定なのです。使っている道具、家財も当時を復元しています。ですから、観光客もその時代に遡って、そこで働く人々と会話することが期待されます。

「このお土産品は何ドルですか?」と観光客がたずねます。そうすると店員は「ドルって何ですか?」と逆にきくのです。さらに客が「私は日本からきた」とか「このプランテーションをインターネットで知ってやってきました。」というと店員は「日本ってどこにあるのですか?」「インターネットって何ですか?」と惚けるのです。そこで始めて観光客は、「ああそうか、、ここは1600年代なんだ、、」とわかるのです。珍妙な会話が楽しめるところでもあります。

旅のエピソード その20 「フットボールは情報合戦」

秋にアメリカへ行くときは是非カレッジ・フットボール(college football)を観戦していただきたいです。週末はかならずといってよいほど、どこかで試合をやっています。入場料は20ドルくらいです。

スタジアムへ行きますと、駐車場ではグリルでハンバーグやホットドックを焼いて景気をつける人々がいます。学生寮の側を通ると、ラジカセやCDプレーヤーのボリュームを一杯に上げて試合前の雰囲気をあおっています。学業からしばし解放された若い学部生がなにかを叫んでは気勢を上げています。いやがおうでも興奮が高まります。

フットボールは情報合戦のスポーツです。高いスタンドには偵察チームが陣取り、攻撃や守備のコーチに相手チームの弱点や強みを無線で教えるのです。戦争でいえば衛星を使って戦場を監視するようなものです。ラン(run)でいくかパス(pass)でいくか、キック(kick)で陣地を挽回するか、あるいはギャンブルするかなどの決定に必要な情報を与えるのです。

クォーターバック(QB)はチームの司令塔、いわば前線の指揮官です。それを動かすのが偵察チームからの情報であり、それに基づいてQBにプレイを指示するのが攻撃(offece)コーチや守備(defence)コーチです。一つひとつのプレイについて、コーチからの指令を受けたQBは円陣を組んで選手にそれを伝えます。この円陣のことをハドル(huddle)といいます。

選手は勝手な行動は許されません。一つ一つのプレイがこうした偵察チームからの情報によって決められます。戦争遂行の作戦と同じです。プレイのパタンはさまざま。それを組み合わせるのです。相手チームも同じように作戦を立てます。いかにして相手の裏をかくか、意外なプレイをするかをスタンドで予測するのがフットボールの醍醐味といえます。

旅のエピソード その6 「フライトアテンダントのジョーク」

フライトアテンダント(Flight Attendant) には、「スチュワード」(Steward)と「スチュワーデス」(Stewardes)がいます。男性と女性とで使い分ける単語です。今ではこの言葉は航空会社では使わなくなりました。スチュワードというのは、もともとは「仕える人」という意味です。仕える人になるための心掛けや礼儀作法のことをスチュワードシップ(Stewardship)といいます。

ある冬の真っ最中、ワシントンDC(Washington DC)からミネソタ州ミネアポリス(Minneapolis)の便に乗りました。座席で離陸を待っていると、スチュワードが出発の案内を始めます。窓からは地上の係員が翼に不凍液を噴射しているのが見えます。

ミネアポリスはカナダに近く、DCよりももっと寒い町です。「ただいまから当機はハワイのホノルルに向かいます。」乗客は一瞬キョトンとして、一斉に「やった、やった、、」と大騒ぎです。なにせ皆寒いミネアポリスに向かう人ばかりですから、常夏のハワイへは夢のような旅です。

彼はすまし顔で、「残念ながら、機長の判断でミネアポリスに行くことにします。」こんなユーモアは日本ではひんしゅくものでしょうが、アメリカではとても受けるのです。罰せられるどころか、「実に面白いユーモアだ」とニュースになる位です。

こんなこともありました。離陸の際にフライトアテンダントが「ただ今からこの飛行機は、、、、、本便は、、、、、、」行き先を言わないのです。「失礼しました。行き先を忘れました、、、ああ、、当機はボストンへ向かいます。」こんなすべった調子でも誰も非難しません。ユーモアですむのです。

旅のエピソード その3 「入国審査官との会話」

最近の成田国際空港の出入国審査官は、すこしゆとりや笑顔を見せるようになってきたように感じます。始めてやってくる外国人にとって入国審査官とのやり取りによってその国の印象が決まるといっても過言ではありません。入国審査を受ける番になると「ようやくこの国に来たな、、」と、気持ちが高揚します。

毎日何百人もの入国者を相手にする入国審査官は、入国者との生真面目で紋切り型の会話には飽き飽きしているかもしれません。審査官も実は会話をしたいと思っているはずです。私はアメリカへ行くときは、マイレージ(Mileage)を貯めるためにNW航空を使います。今はD航空に吸収されました。このハブ(hub)はミシガン州(Michigan)のデトロイト(Detroit)国際空港です。ここではいろいろな審査官に会いましたが、二つの思い出となるやりとりを紹介します。

私「こんにちは。」
 審査官 「入国の目的は?」
私 「ビジネスです。」
 審査官 「どんなビジネスか?」
私 「学会発表です。」
 審査官 「何の学会か?」
私 「障害児教育です。ハンディキャップです。」
 審査官 「それは大事な勉強だ。」
私 「そのとおりです。その学会でこれからミネアポリスへ行きます。」
 審査官 「ミネアポリスは初めてか。」
私 「ええ、初めてです。ですがミネソタツインズという強いプロ野球チームがあるのを知っています。」
 審査官「野球好きなのか?」
私 「大好きです。ヤンキースも好きです。イチローはシアトルで活躍しています。」
私 「デトロイトに野球チームはありますか?」
 審査官 「タイガースというのがあるよ。まあ、弱いけど。」
私 「それじゃイチローやマツイを引き抜いてはどうでしょうか。」
 審査官 「それはいい考えだ。(ここでニヤリとする)」
 審査官 「ではいい旅を。」
私 「ありがとう。」

実に他愛のない会話です。同じくデトロイト国際空港で、別な機会に家内と審査官とで交わした会話を隣で聞いていたときです。
入国審査官 「アメリカになんで来たのか?」
家内 「観光です。」
 審査官 「ニューヨークへ行くのか?」
家内 「いいえ違います。」
 審査官「フロリダのディズニーワールドか?」
家内 「いいえ、そこにも行きません。」
 審査官 「では一体どこへ?」
家内 「リンカーンです。」
(審査官は怪訝な表情)
 審査官 「リンカーンはどこにあるのか?」
家内 「ネブラスカです。」
 審査官 「ネブラスカでなにを観光するのか?」
家内 「とうもろこし畑です。」
 審査官 「あんたのような日本人は初めてだ。」
家内 「ネブラスカへ行ったことがありますか?」
 審査官 「あそこはアメリカではない。」
妻「、、、、」

こんなジョークをいう入国審査官もいるという実際の小話でした。

文化の日を考える その一 文化の定義とは

be14a071-396a-892f-0fa3-5722fc7d7fd0siba meiji_emperor sim「文化の日」が近づいています。再び「文化とは」ということを考えたくなる候です。文化とは誠に味わいのある言葉です。紛争や事件が耐えない今日、武力や刑罰などの権力を用いず、学問や教育によって人々を導くことが「文」。学芸は諸文物が進歩し、世の中が発展することが文明開化と呼ばれます。人間の理想の実現のために果たしてきた精神的な活動とその所産の総称が「文」といわれます。

「文化とは」を考える切り口は人によって違うでしょうが、私は愛読する佐伯泰英の時代小説と司馬遼太郎の「アメリカ素描」に書かれてある「文明」と「文化」の定義、そしてルース・ベネディクト(Ruth Benedict)の文化観に切り口を求めたくなります。

昨年、八王子にやってきた娘婿や孫娘らと会話しながら、日本とアメリカの公的祝日が話題となりました。もっとも日本はアメリカに比べて祝祭日が多いということが話題の端緒でした。建国記念日や天皇誕生日、憲法記念日などは彼らには納得できます。アメリカにも似たような歴史的なことを記念する祝日があるからです。私はさらに、日本には成人の日、春分の日、秋分の日、みどりの日、文化の日などが祝日になっていることを説明しました。

娘婿が興味を示したのは文化の日です。実は筆者も文化の日を説明するのに窮したのです。「日本の文化を大事にすること、学問に励むこと、ノーベル賞をもらった人々に勲章を与える」などと説明したのだが、娘婿の顔は得心するものではありませんでした。これではいかんと思い文化の日の謂われを調べました。もともとの文化の日の制定は、明治天皇誕生日である1852年11月3日に由来するとあります。そういえば戦後しばらくの間、両親らが文化の日を明治節とか天長節と呼んでいたのを思い出しました。

みどりの日、昭和の日などを天皇の誕生日を記念する日であることも娘婿に説明しました。すると彼が、「日本は新しい天皇が生まれるたびに祝日が増えるのか?」と誠に答えにくい質問をしてきました。このままでは、何十年後毎に祝日が増えるわけです。
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留学を考える その71—アメリカの酪農の中心と留学

大自然といえば、「Big Sky Country」“蒼穹の空”とも呼ばれるのがモンタナ州です。「Peace Garden State」はノースダコタ州、コロラド川が何億年もかけて削った谷「Grand Canyon」はアリゾナ州です。海のような五大湖を控えるので「Great Lakes」呼ばれるのがミシガン州です。「Green Mountain State」はヴァモント州。「Garden State」はニュージャージー州。「Ocean State」といえばロードアイランド州となります。いずれも大西洋岸にある小さな州です。「Sunshine State」”太陽が一杯”というのがフロリダ州です。

果物や農産物にまつわるキャッチフレーズを見てみましょう。その代表は「Peach State」といわれるジョージア州です。ここにはスイカやメロンも有名です。ルイジアナ州は「Sugar State 」” 砂糖の州”です。少々地味ですが、「Famouse Potatoes」のアイダホ州です。ここのジャガイモは大きいので知られています。

観光や産業にあたるキャッチフレーズもあります。ミズリー州のナンバープレートのモットーは「Show Me State」です。さしずめ、「証拠を見るまで信じない」といった感じです。この州は東海岸からみれば田舎の州。人が馬鹿にする傾向があったことに対する反論のような印象があります。メーン州は「Vacation Land」、そして「Aloha State」はもうお分かりですね。「Heart of Dixie」と呼ばれるのがアラバマ州です。「Dixie」とは南という意味です。ジャズの本場というわけです。

私の第二の故郷であるウイスコンシン州のは「アメリカの酪農の中心」というものです。北海道のような緯度にありまして、酪農に適したところです。土地があまり肥沃ではないのです。田舎道を運転していると糞尿の匂いが伝わります。「ウイスコンシンの香水」だと揶揄されています。最後は、アラスカ州です。「The Last Frontire」、最後の開拓地というフレーズで知られています。わざわざ「Prison Made」と印字されていたのがカリフォルニア州のものでした。

アメリカのライセンスプレートは、州や郡ごとに独自のデザインで発行されており、非常に色彩豊かです。各州の特徴を表現するキャッチフレーズのほかに、追加の手数料を支払えば自分のカラフルなナンバープレートを作ることもできます。通常2年ごとにナンバープレートのデザインは変わります。ですから一つの州には沢山のプレートがあり、蒐集家を喜ばせます。この国の多様性を感じる機会がここにもあります。

「留学を考える」シリーズは今回で終わりです。

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留学を考える その70—ライセンスプレートと留学

ライセンスプレートの特徴を取り上げて合衆国の大学を概観してきました。ライセンスプレートから各州の歴史や文化を伝ってきます。そして大学の成り立ちも伺い知ることができます。

我が家の小さな倉庫にライセンスプレートが80枚位あります。すべてアメリカ留学中に集めたものです。どうしてライセンスプレートに興味をもったかといいますと、そのデザインにあります。州の形をしたもの、州の特産物や自然のイラストを入れたもの、州の歴史やスポーツ、イベントを思い起こさせるものなどがあります。州の名前は必ず入るのですが、ナンバーは3から7文字程度のアルファベットと数字で構成されます。その中でも私の最も好きなのが州のキャッチフレーズやモットーが付いていることです。

ライセンスプレートにあるキャッチフレーズは、歴史、人、自然、特産物、観光などに分けることができます。まずは歴史からまいりましょう。アメリカで最初に定められた州はデラウエア州で「First State」。合衆国憲法が起草されたことを記念する州はコネチカット州で「Constitution State」と呼ばれています。面白いのは、「Live Free or Die.」 “自由を、さらば死を“とうたうのがニューハンプシャー州です。マサチューセッツ州は「Spirit of America」というキャッチフレーズです。これは、独立の精神を意味するようです。「Empire State」という少々いかついのはニューヨーク州です。

次に、人にまつわるキャッチフレーズをみてみましょう。イリノイ州はエイブラハム・リンカーン大統領が生まれた地です。「Land of Lincoln」と呼ばれています。ノースカロライナ州は、ライト兄弟が最初に飛行機に乗ったところです。それで「First in Flight」というフレーズで知られています。インディアナ州 は「Hoosier State」”不器用な人の州”というのは滑稽です。オクラホマ州 は「Boomer State」、”一時的な人気者の州”というものです。オクラホマ州は「Sooner State」、”抜け駆け者の州”といって、我先に土地を所有しようとした人のことをいいいます。開拓時代を思わせます。”トウモロコシの皮を剥く人の州 ”「Cornhusker State」というのはネブラスカ州、トウモロコシ畑が続く大平原の州です。
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留学を考える その69—Pennsylvania Avenue

ワシントンD.C.には、建設以来大量の黒人が住むようになりました。今も全米の都市でも最もその割合が高い街となっています。そのようなわけで、ワシントンD.C.はアフリカ文化の普及や公民権運動の中心となりりました。市内の東側を流れるアナコスティア川(Anacostia River)付近には黒人をはじめとする低所得者が多く住んでいます。

第二次大戦後、白人はこの地区から大挙して郊外へと移住します。高速道路ができて通勤が便利になったこともその一因です。白人が居住し始めた地区は、コロンビア特別区とジョージタウン(George Town)に囲まれたあたりです。この辺りは、合衆国でも最も裕福な人々が住むところとなっています。

ランファンの都市計画によって造られた現在のペンシルヴァニア通り(Pennsylvania Avenue)は、幅が122mで大統領府と議事堂を1.9 kmで結んでいます。そのためアメリカのメインストリート(America’s Main Street)と呼ばれるようになりました。この通りで大統領就任式のパレードが行われます。ペンシルヴァニア通りは、メリーランド州(Maryland)のプリンスジョージ郡(Prince George’s County)まで続き、その長さは56.5 kmとなっています。

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591_1051925147 Pierre L’EnfantL'Enfant_plan  District of Columbia

留学を考える その68—Pierre L’Enfant

ワシントンD.C.の三回目です。合衆国の首都は、1776年の英国からの独立後、第一回と第二回の連邦議会の始まりとともにペンシルヴァニア州(Pennsylvania)のフィラデルフィア(Philadelphia)に置かれました。フィラデルフィアでは、独立戦争時、議事堂で大陸会議が開かれ独立宣言が起草されます。現在独立記念館となっている建物でです。ですがこの街の首都は10年あまりで移ることになります。

1783年6月、独立戦争で闘ったかつての兵士が大挙して議会ホールに集まり、兵役に対する報酬を要求して決起します。それを押さえようとして連邦議会は、ペンシルヴァニア州知事のディキンソン(John Dickinson)に対して軍を出動させて鎮圧するように要請します。しかしディキンソンは兵士らの要求を正当と考え議会の要請を拒否します。その結果、ニュージャージ州のプリンストンに首都が移ることになります。

大統領のワシントンは、ランファン(Pierre L’Enfant)という都市計画家を新しい連邦首都の意匠を担うように指名します。ランファンは後にコロンビア特別区(District of Columbia)となる10平方マイルの連邦地域の計画立案と土地開発を監督します。そして1791年にランファンはポトマック川の北岸から東岸にかけて長方形の区画を首都として設計します。それが現在の首都ワシントンD.C.の基礎となります。

コロンビア特別区のあたりは、もともとアルゴンクイン族(Algonquian)というネイティブアメリカンが住んでいたところです。彼らはナコッチタンク(Nacotchtank)という名前で呼ばれていました。1812年に米英戦争というのが起こります。英国及びその植民地であるカナダ及びイギリスと同盟を結んだアルゴンクイン族ら諸部族とアメリカ合衆国との間の植民地戦争のことです。米英戦争終盤の1814年8月、イギリス軍がアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.を攻撃し、市内を占領しホワイトハウスや議会議事堂など多くの政府関係の建造物に放火します。これが「ワシントン焼き討ち」(Burning of Washington)と呼ばれる事件です。

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2006-07 Tuition and Fees: $37,820 2007-08 Tuition and Fees: $39,210

Pelham_Hall_UP_JMC_2010-8124_0 George Washington University