旅のエピソード その22 「ボストン・ティーパーティ」

ボストン(Boston) は味わい深い町です。アメリカの短い歴史にあって、歴史が始まった場所でもあります。ボストンには「Freedom Trail」という市内の歴史的な建造物や場所を訪ね歩くコースがあります。自分で地図を見ながら歩いて市街を巡るのです。

ダウンタウンのど真ん中には、グラナリー墓地(Granary Burying Ground)があります。政治家のサミュエル・アダムス(Samuel Adams)、コモンウェルスの初代知事となったジョン・ハンコック(John Hancock)らが眠っています。その隣にある公園がボストン・コモン(Boston Common)という広大な公園です。多くの人々が散歩しています。小高い丘、バンカーヒル(Banker Hill) は、1775年6月に起こった植民地軍とイギリス軍の戦跡です。植民地軍は激戦の末に敗れるのですが、そこでの頑強な抵抗精神はその後の戦いに受け継がれていきます。
ボストン・コモンから歩いて10分位のところにボストン・ティーパーティ(Boston Tea Party)が起こったという波止場にきます。1773年12月に、地元の人々がアメリカ・インディアンに扮装して、港に停泊中のイギリス船に侵入し、イギリス東インド会社の船荷であった紅茶箱をボストン湾に投棄した事件です。いわば独立戦争前のゲリラ戦で、アメリカ独立革命の象徴的な出来事とされています。

ティーパーティの場所には小さな船が係留されていて、そこで入場料を払って乗り込みます。案内の人は、観光客に対して当時の人々が紅茶を投げ捨てるという演技を求めます。「イギリスは出て行け!」、「われわれのお茶を盗むな!」、「われらに自由を!」こうしたスローガンを大声で叫びます。そしてお茶箱にみたてた袋を海に投げ捨てるのです。このように観光客に歴史の瞬間に引き戻そうとする趣向と仕掛けは、どの観光地でも見られることです。

英語あれこれ その6 ケルト語系と英語

なぜ筆者がケルト語(Celtic)に関心があるかである。それには三つの理由がある。第一は1961年1月にJ. F. ケネディ(J.F. Kennedy)が大統領になったこと、第二は長男家族がボストンにいること、第三は司馬遼太郎の「愛蘭土紀行」を読んだことである。司馬の作品から時代考証の方法と文章の修辞法も学んだ。

J. F. ケネディの家系はアイリッシュ(Irish)である。アイリッシュは、イギリスで被征服民とみなされ、カトリック教徒であるために忌避感を持たれてきた。そのためアメリカでも偏見と差別に苦しめられた。しかし、ケネディ、そしてロナルド・レーガンが大統領となりその社会的認知度は確立した。ケネディは1963年11月22日に暗殺されたが、今も最も人気のある大統領の一人として記憶されている。

長男の家族はボストン市内で長く暮らした。長男はハーヴァード大学(Harvard University)でポスドクとして研究し、嫁はダウンタウンの小学校でスパニッシュの子どもたちを教えてきた。今はボストンの郊外に住んでいる。ボストンでたまたまセントパトリックデー(St. Patrick’s Day)に遭遇したことがある。通りがかりの人々は皆、緑色のものを身につけて祝っていた。バグパイプ(bagpipe)のもの悲しい音色もいい。奏者の服装もあでやかであった。

「愛蘭土紀行」にはアイルランド語や文化のことが書かれている。司馬は、小泉八雲の生涯や著作からアイリッシュに関心をいだいたことがうかがわれる。アイルランド語はゲール語(Gaelic)と呼ばれている。もともとアイリッシュの固有の言語であったケルト語である。アイリッシュはケルト人でもある。

イギリスによって被支配民となりアイルランド島全土が植民地化されてからは英語にとって代わられた。だが、今はアイルランドの公用語は英語とともにアイルランド語となっている。

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