「アルファ碁」(AlphaGo) その十三 呉清源九段と定石

超一流の棋士は自分だけの「悟り」があるといわれます。その一つが「いかに打つか?」と自問することだといいます。自らこの疑問を抱かないと創造力が生まれないというのです。「悟り」とは個性から生まれるのかもしれません。

「いかに?」という質問をするのが大切だという常套句は誰にもあてはまる格言です。興味とか関心は「いかに?」という問いが育むものです。碁に関していえば、ただ強い人の手を真似ても強くなれないし、勝つことは難しいのです。碁で上手になるための敵は自らの固定観念に捕らわれることだ、とよくいわれます。自分の形に執着し、その殻から抜け出せないということです。相手は、こちらが覚えている形とか定石にそって打ってはくれないのです。定石の変化を勉強していないと、間違った手を打ちがちです。

呉清源九段は、昭和の日本の棋界を風靡した偉大な棋士といわれています。氏曰く「定石は50覚えれば十分」といった名句を残しています。陰陽思想を取り入れ、「碁盤全体を見て打つ」ことを提唱します。「森羅万象のありとあらゆる物は、相反する陰と陽の二気によって消長盛衰し、陰と陽の二気が調和して初めて自然の秩序が保たれる」というのです。陰は黒石、陽は白石を表します。

定石という知識はいわば碁でいえば常識です。定石を増やすことによって、打ち方の対応が柔軟にできるのです。しかし、定石という知識は浅いとすぐ失われます。新しい定石にとって代わられる可能性があるのです。定石はしっかりと学んでさらに進化した定石を勉強することです。

「アルファ碁」(AlphaGo) その一 定石と固定観念

今年最初のブログです。本年もまたお付き合いの程お願いいたします。昨年から少々暖めていた人工知能囲碁プログラム「アルファ碁」(AlphaGo)にまつわる話題を取り上げてまいります。

私の「道落」の一つが囲碁。強いとはとてもいえないのですが、碁の深さや難しさに魅了されつつ、毎日練習するのを日課としています。囲碁には「定石」といわれる昔から度重なる研究と実践によって生まれた石の形があります。定石とは対戦者が最善を尽くして「部分的」に互角に分かれる石の形のことです。どちらかが有利なら、それは定石とはいいません。私も定石を何度も練習しています。ですがいざ実戦となるとその手順を間違えることがしばしばあります。対戦相手は定石にないような手を打ってきます。高段者は新しい定石を学び低段者を翻弄します。

1954年製作の「十二人の怒れる男」というアメリカ映画がありました。ある裁判で一人の陪審員が他の十一人の陪審員たちに、固定観念に囚われずに証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを提案します。やがて少数意見が多数意見となり無罪評決となるというストーリーでした。イスラエルでは会議をするとき、もし出席者七人のうち六人が賛成する発言をしたとき、七人目の人は無条件に反対意見を述べなければならないというのです。多数とは違う少数意見はそれ自体に価値があるというのです。

この陪審員の評決に関するエピソードを囲碁に当てはめてみますと、固定観念を捨てるとき思わぬ妙手が生まれるときある、ということかもしれません。最近は定石の考え方が変わって、新しい定石が生まれています。こうした変化には、固定観念から離れて新しい手を考えて打とうという姿勢があるからです。そういえば「定石を覚えて二目弱くなり」という定石信奉者を皮肉った川柳があります。イスラエルの格言にもう一つ。「何も打つ手がないときにも、ひとつだけ必ず打つ手がある。それは勇気を持つことである。」 私には後学のために役立ちそうな含蓄のある言葉です。