「アルファ碁」(AlphaGo) その十八 本筋と俗筋

碁では普通良いとされる着手は「本筋」といわれます。本筋とは条理とか道理とも呼ばれ、理(ことわり)にかなった手なのです。本筋は最も正統的かつ正しく打つ形ということになります。「美しい形」という表現もあります。お手本となるべき手ということです。「本寸法」という用語もそのことを意味します。

その対比となるのが「俗筋」です。異筋とも呼ばれ、大抵は良くない手です。「筋が悪い」手ともいわれます。プロが最も敬遠する石の運び方です。異筋は石の働きの効率が悪いのです。その例は「車の後押し」、「空き三角」、「ケイマの突き出し」といった手です。こうした異筋は、一見先手をとっているようですが、将来起こるかもしれない劫とか味などの後続手段を消してしまう手なのです。後の打つ楽しみを残すように我慢して打つのがよいのです。俗筋は我慢できなかった手といえましょう。

碁には棋理があります。碁の理、理論のことです。長い碁の歴史で育まれた経験値が棋理を作り上げてきました。「本筋」を含めて棋理を勉強しないと上達はおぼつきません。

「アルファ碁」(AlphaGo) その十七 戦いか宥和か

碁で難しいのは、局地戦で相手とどのように折り合いをつけるかを見極めることです。自分の石が強いときは、相手を睥睨したり圧迫することです。逆の場合は一旦引き下がり守りにはいることです。

しかし、石の強弱がお互いに拮抗しているときです。そのときどのような戦術をとるかです。私の提案は宥和とか融和しないことと申し上げておきます。宥和とは相手に妥協したり譲歩することです。相手は本当はびくびくしているのに強がりを主張することがあります。それをこちらが見破れるかです。

翻って今の世界の政治状況をみてみましょう。日本と韓国、日本と中国、日本とアメリカ、日本とロシアの関係です。日本と韓国、中国は対等に渡り合っています。慰安婦問題、尖閣諸島問題、南シナ海の安全などで日本政府は妥協していません。こうした主張ができるのはアメリカの後ろ盾があるからです。現に次期トランプ政権の国務長官に指名されたレックス・ティラーソン(Rex Tillerson)は中国に対し、南シナ海の航行の安全や尖閣諸島問題は日米安保の対象となると警告しています。

日本とロシアの関係では、どうも日本政府は宥和政策に終始している感があります。そのため北方四島の帰属と平和条約締結は大分先送りされている印象があります。日本はトランプ政権の外交政策に期待しているようですが、アメリカとロシアはお互いに宥和しようとしています。従って北方四島の交渉は長引くだろうと予想されます。

宥和政策の失敗は、先の大戦直前のイギリス政府の政策に現れています。ミュンヘン会談 (Munich Conference)においてイギリス首相チェンバレン (Neville Chamberlain)は、ナチス・ドイツの領土拡張要求を小国の犠牲もやむをえないとして認め、イギリスの防衛を図ったのです。小国とはポーランド(Poland) やオーストリア(Austria)、チェコスロバキア(Ceskoslovakia)などの国々です。

碁では自分の石が強いときは決して宥和してはなりません。徹底抗戦に終始するのです。置き碁ではなおさらです。もし作戦が失敗したら白旗を上げましょう。

 

「アルファ碁」(AlphaGo) その十六 碁盤と小宇宙

碁盤は、広大な宇宙を二次元で投影したものと言われています。宇宙の縮図というと大言壮語かもしれませんが、黒石という「陰」と白石という「陽」で勝負を競うのです。ですが、小宇宙といわれるだけあって、あまりにも計算できない要素が多いのが碁です。「陰」と「陽」の勝負に運が入り込む余地は無く、ほとんど芸術にも似た石の配置と形ができ上がります。盤上では、俗に「感性七割計算三割」などと言われるほど、対局者の想いが表現されます。

「陰陽思想」と碁との関連を調べてみます。ここは森羅万象の世界。すべての物質や道理は「陰」と「陽」に分けられるという中国の思想だそうです。大雑把に言うと「陰」は「物質的かつ大きく冷たくて動かない」、「陽」は「非物質的で小さく温かくて動きがある」と分類されます。二つは表裏一体。互いに影響し合い、あくまでも相対的な関係にあるというわけです。

韓国の国旗にも「陰陽思想」が表されています。赤と青を組み合わせた円が太極といわれ、太陽と月、天と地、善と悪、男と女というように、二つのものが合わさって調和を保つという中国古来の易学の宇宙観を表しています。「宇宙の万物が陰陽の相互作用によって生成し発展する、という大自然の真理を形象化したもの」が韓国国旗、別名太極旗といわれます。

碁盤ですが、九つの星があります。その中心は天元と呼ばれ大極を表します。大極はなにものも定まっていない状態です。天元を拠点として四季の回転を意味するように東から西へ、立春から大寒へと二十四節気を示します。「黒石」と「白石」の順番で打たれます。最初に現れたのが陰。陽はその後に現れたものとされています。陰のほうが尊いとされているために、黒が先に打たれると考えられます。碁を打つことは宇宙を創造すること、といったら大分大袈裟になりますね。

「アルファ碁」(AlphaGo) その十五 囲碁の世界における「考えることと思うこと」

今日はアメリカ新大統領の就任式。18か月前では「ありえなーい、考えられなーい」ことでした。話題は「考えること」と「思うこと」です。

八王子市内小学校での囲碁教室では、子供達につい「よく考えなさい」という言葉を使ってしまいます。恐らく子供は「考えよ」、といわれてもチンプンカンプンなのかもしれません。局面から一手を考えるとは、手順を考えることです。これは「読み」といわれます。碁の初心者に「読む」ことを期待するのは、少々高望みかもしれません。

私たちが行動するときは、将来の何らかの成否とか損得の見込みをたてています。「なぜ?」というよりはむしろ「いかに、」という過程や成果の見通しをたてます。なぜそこに打つのか、というよりはいかにしてそこに打つか、そのことを言葉で表すことができればかなりの棋力といえます。

碁は将棋やチェスと異なり、置いた石を動かすことができません。その石自体も、王将と歩兵といった役割とか機能を持たない全く無性の存在です。しかし、その石が捨て石となったり種石となるのですから、石に価値が付与されてくるという不思議なゲームです。極端にいえば無限の可能性を秘めているのです。

私たちは因果関係という言葉をしばしば使います。デカルト流にいえば、因果関係と考られる世界を「説明できることが科学だ」とする傾向があります。そこには数字が登場します。数字は、政治の世界でもビジネスの世界でも学問の世界でも幅をきかしています。会社で売り上げ予測の数字が示されれば企画書が採用されたり、当選何回ということで大臣に抜擢されたり、統計的に有意であるとして研究仮説が採用されます。すべて数字のなせる業といえそうです。

しかし、「思う」とか「想う」ということは、因果律では説明できない心の働きです。碁では、「どうしてそこに打ちましたか?」と周りが棋士に聞いても「そこが一番良さそうな、感じの出た手だと思いました」というでしょう。「思うだけでは科学的でない」といわれても仕方ありません。確かに科学の見方からすれば極めて旗色が悪いコメントです。ですが、石同士の関係性とか意味といった気分の世界があるのです。囲碁の面白さと難しさはここらあたりにありそうです。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その十四 悪手が悪手を

大概のアマチュア、それも低段者は石が取られるとそれで戦意を喪失しがちです。悪手によって石がお陀仏になったときです。まだ抵抗できる碁を駄目にしがちなのが悪手です。

悪手を打ったときは、冷静さを保つことです。もう一度局面を見渡し、正しく形勢を判断するとまんざら悪くはないことが多々あるのです。悪手に気がついたとき、余裕を持って全局を眺めるなら、勝負はこれからということがあるのです。特に置碁のときは、まだまだ有利で先が長いのです。

悪手を打つのは誰にもあることです。悪手で怖いのはその連鎖反応ともいうべき悪手の連続です。最初の悪手は軽傷か重傷かもしれませんが、まだ致命傷にはならないのです。局地での争いですから挽回の余地があるのです。土俵を割っていないのです。命取りになるのは、悪手が悪手を誘うことです。相撲でいえば引いて叩くことです。二つの悪手を続けて打つなら、碁も相撲も勝ち目はないでしょう。

「しまった、、」というのはよくあることです。心の動揺が起きます。それが悪手を連発するのです。深呼吸をして一旦頭を冷やして盤上をみてみましょう。「アルファ碁」ならどうすのでしょうかね、、、

「アルファ碁」(AlphaGo) その十三 呉清源九段と定石

超一流の棋士は自分だけの「悟り」があるといわれます。その一つが「いかに打つか?」と自問することだといいます。自らこの疑問を抱かないと創造力が生まれないというのです。「悟り」とは個性から生まれるのかもしれません。

「いかに?」という質問をするのが大切だという常套句は誰にもあてはまる格言です。興味とか関心は「いかに?」という問いが育むものです。碁に関していえば、ただ強い人の手を真似ても強くなれないし、勝つことは難しいのです。碁で上手になるための敵は自らの固定観念に捕らわれることだ、とよくいわれます。自分の形に執着し、その殻から抜け出せないということです。相手は、こちらが覚えている形とか定石にそって打ってはくれないのです。定石の変化を勉強していないと、間違った手を打ちがちです。

呉清源九段は、昭和の日本の棋界を風靡した偉大な棋士といわれています。氏曰く「定石は50覚えれば十分」といった名句を残しています。陰陽思想を取り入れ、「碁盤全体を見て打つ」ことを提唱します。「森羅万象のありとあらゆる物は、相反する陰と陽の二気によって消長盛衰し、陰と陽の二気が調和して初めて自然の秩序が保たれる」というのです。陰は黒石、陽は白石を表します。

定石という知識はいわば碁でいえば常識です。定石を増やすことによって、打ち方の対応が柔軟にできるのです。しかし、定石という知識は浅いとすぐ失われます。新しい定石にとって代わられる可能性があるのです。定石はしっかりと学んでさらに進化した定石を勉強することです。

「アルファ碁」(AlphaGo) その十二 碁の心理と「コウ」

囲碁の高等戦術は「コウ」でしょう。コウは漢字では「劫」と書きます。大辞林によれば劫とは、もともとインド哲学の用語で、「極めて長い宇宙論的な時間の単位」、あるいは日本大百科全書では、サンスクリット語で「非常に長い時間」といわれています。「未来永劫」という四文字熟語があります。

囲碁では、相手と自分とが互いに一目の石を取ったり取られたりすること場面が劫です。取られたあとすぐに取り返せない約束となっています。一手、他の方面の急所に打つことを劫立てといい、それに相手が応じたあと、一目を取り返して劫争いが起こります。劫は碁を複雑で面白いものにします。たまに三劫ができて双方が譲らないときがあります。その場合は引き分け、無勝負となります。

自分が不利な形勢のときや、双方の石の死活に関わる時に仕掛けるぎりぎりの手段がコウです。時にコウは起死回生の戦術ともなります。その時コウを解消することを振り替わりといいます。自分も損はするが相手も損をします。その時どちらが損の具合が大きいかを目算してコウを続けるか解消するかを決めます。

コウは最初の段階では、つぐことによって解消してはならないといいます。コウが続くと段々コウ材が少なくなりますが、石の形がきまり安定はするものです。碁は段々と打つ場所が減ってきて必ず終局するという原理があります。

「アルファ碁」(AlphaGo) その十一 碁の心理とヤキモチ

碁でも「ヤキモチ」はしばしば登場します。相手の地が大きく見えたりしてついつい深入りするのです。土足で他人様の庭に侵入するようなものです。少しは遠慮がちに入ったらどうかと、観戦者はハラハラします。

この言葉で思い出すのは先の戦争で米軍がとった作戦です。日本軍は北はアッツ島から南はニューギニアまで大東亜共栄圏を拡大していました。米軍は輸送船を攻撃し兵站を絶ちながら防衛戦の弱いところからじわりじわりと攻略していきます。そして最後は沖縄に上陸します。深入りはせずじっくりと戦機を待っていたのです。

囲碁は戦争と同じく戦術の勝負です。あせることなくじっくり攻めては守るという繰り返しです。ところが、大模様の布石には必ず弱い所があるのです。腰が伸びた所といってもよいでしょう。こうした箇所からじわじわ攻められると必ずといってよいほど破綻して、大きく囲ったはずの箇所がぼろぼろになるのです。

「ヤキモチ」は相手の陣内に深入りすることです。応援が続かず七転八倒して逃げ回るか、大石が召し捕られることさえあります。囲碁の四文字熟語の一つに「入界宣緩」というがあります。これは相手が強い所「界」には「宣」しく「緩」かに入りなさいという意味だそうです。深入りを慎むべきなのです。「ここはあなたの地としても結構です。その代わり私はこちらの地をいただきます。」という気分で打つことが大切なのです。

「アルファ碁」(AlphaGo) その十 碁の心理と「ハレ」

アマチュアの実戦心理の続きです。話題は「ヤキモチ」です。正月は餅ををいただきました。焼き餅は香ばしいものです。ところで文化人類学の用語に「ハレ」と「ケ」があります。「ハレ」は非日常、「ケ」は日常という意味です。昔は、「ハレ」の日には普段食べない餅や赤飯を食べました。私も戦後間もなく、正月には「白米」を食べてその香りと甘さに驚きました。この頃は「銀飯」と呼んでいました。新しい食器、服装などで気持ちを新たにしていたようです。晴れ着、晴れ舞台、晴れ晴れなどの言葉の由来が「ハレ」です。

「ケ」ですが、気枯れというように病気とか死を表す日常生活の「ケガレ」のことです。「ケジメ」をつけて「ハレ」を迎えるために清めとか祓いをする風習が残りました。秋田のなまはげもそうです。「誰にも生活の中に光と影の部分があります。「ハレ」と「ケ」はワンセットです。この概念を提起したのは柳田国男といわれます。

さてお隣、韓国の大学修学能力試験(修能ー수능)は11月にあります。この時期になると、街頭に合格祈願グッズが出回ります。餅や飴などの粘り気があって張り付くものが目だちます。「付く」という意味の韓国語「붙다」には「合格する」とか「志望校に受かる」という縁起が込められています。「ゲンがいい」のが餅なのです。「ハレ」の習俗は韓国でも同じです。

「アルファ碁」(AlphaGo) その九 碁の心理とキキ筋

アマチュアの実戦心理にはいろいろありまして、私の苦い経験といいますか、癖がでがちな「利かし」と、高段者が楽しみにする「フクミ」についてお話します。アマチュアの癖がでるのが利かしです。例えば、ノゾキとかアテなどです。むやみにアタリをかけたりノゾキやアテを打つことで相手の石を強め、固めるという場面です。こんな手を打っていると、後ほど説明する「コウ」が発生したとき劫材がないといったことになります。

「利かし」とは、もともとは先手で打てる手で、しかもなんらかのプラスにこそなれ損のない手です。先手であることは大事なのです。相手はそれを手抜きすることができないからです。「利かし」を打つことで何らかの利益が見込まれることが期待されます。ただ先手で打てるのですが、将来の利益や手段を失うマイナスの方が大きい場合もあります。このような利かしのことを「味消し」といいいます。

次に「フクミ」(含み)です。「フクミ」とは将来いろいろな味があって狙いを含んでいる状態のことです。「アヤ」ともいわれ、ほとんどの場合、こちらに有利に展開する可能性のある石の形です。高段者はこの「フクミ」を睨みながら打ちます。低段者はそのことに気がつかないことが多いのです。そして、局地戦が一段落すると「フクミ」に対して手を付け地を少しずつ広げてはヨセていきます。「フクミ」とは「キキ筋」といって自分のほうに少しは有利に働く石の形です。例えば石を取る手といったことです。「キキ筋」に対して、俗な手を打つとなんの儲けにもなりません。