初めに言葉があった その36 主観性と世界の理解 「科学的とか実証的とか」

主観に関して行動ということを話題としてみます。私たちの行動は、まだ幼い子供は別ですが、外在物や刺激によって直接引き起こされるのではなく、私たち自身がそれをいかに経験し知覚するかによって規定されています。

前回錯視を例にあげて、私たちが世界をどう見るかを考えました。「私にとっての見える世界と他者にとっての見える世界は同じ世界なのか? それとも二つの世界はまったく違う世界なのか?」という疑問を錯視の現象は問いかけています。ですがこの問いに誰もが納得する説明を下すことが困難なことも事実です。

この世界は、私にとってさまざまに絡み合って存在しています。世界のうちのある物事、たとえば一定の色や特定の音が独立しながら存在していることや、色が見えることと音が聞こえるということは、それぞれに「意味」をもっているともいえます。人によって視覚や音感が異なるからです。好みや嫌いという感覚もあります。

従って個人の行動の意味と原因を理解するためには、外的な要因を分析するだけでは不十分なのです。どういうことかといいますと、高齢者の徘徊も子供のいじめもガン患者の死への恐怖も、当事者が大事だと考えている状態、言い換えれば内的な準拠枠とは何だろうかということを理解する態度が必要なのです。年寄りだから徘徊は仕方ないと考えるのではなく、もしかして徘徊を楽しんでいるのではないかと考えてみるのです。自宅を出て電車に乗ってある駅で保護された認知症の人がいます。これは目的的な行動であり、徘徊といえるかどうかです。広辞苑によると徘徊とは「どこともなく歩きまわること」とあります。これは徘徊という行為を一面的にとらえた説明です。

エドムント・フッサール (Edmund Husserl) という哲学者が興味あることを曰っています。「19世紀の後半に近代人の世界観がもっぱら実証的学問によって規定され、その学問に負う繁栄によって眩惑され、他者による知覚や言動によって客観的世界の実在性を確信させ、世界に現実感を与えていることは明らかだ」というのです。徘徊という行為にも他者による知覚や言動によって規定され、本人は登場していないのが気になるのです。フッサールが言いたいことは、この世界があまりに客観的とか実証的といった「科学的態度」に価値を置きすぎているせいか、人間はそれを自明のこととしているということです。

フッサールはまた、日常的に私たちは、自分の存在や世界の存在をなぜ疑ったりはしないのか問いかけます。私たちは自分が「存在する」ことを意識しており、私の周りの世界もそこに存在していることを疑いません。フッサールは、この人間の自然な態度を以下の3点から批判します。

1 認識の対象の意味合いとか存在すること自体を自明としていること
2 客観的な世界の存在を不断から確信し、そうした関心の枠組みを暗黙の前提としていること
3 世界へ関心を向けることによって、意識の本来的機能である我を忘れるということが起こっていること

このフッサールが指摘した人間の態度は、ナチズムに心酔した指導者にも、現代の私たちにももしかして当てはまっているかのようです。


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