リベラルアーツ教育  その14 ヴァリニャーノの偉大な貢献

20151007062203 kakured Ganjin_wajyo_portrait司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano) の九州や京都、大阪における宣教活動を「日本巡察記」という著作から振り返っています。ポルトガルやイタリアから大西洋を南下し、喜望峰からインド洋を通り、マラッカ海峡から北上して島原半島に上陸するのです。その航海は「波涛千里洋々と、東にうねり西に寄せ日出ずる国へ」の旅だったろうと察します。バルチック艦隊のようですが、いかんせん帆船で風まかせです。時に遭難しそうになり、港に戻るということもあったようです。

そうした困難を克服して、アジアの東端日本にやってくるのですから、宣教師らの心意気が伝わります。もちろん貿易上の利権争いや植民地化などの覇権争いが陰にはあったろうと察しますが、命がけの航海は重大な使命感がなければなし得ない事業であったはずです。

私がこの著作に惹かれるのは、ヴァリニャーノがいかに日本伝道で苦心し、日本人の会衆を導いていったかということです。異境の地での伝道は冒険です。文化も言語も全く異なる世界で、いかに人々を改宗させるか、その戦略を考えるとき、禅宗の教えに宣教の鍵を見いだすという彼の非凡さには驚くほどです。

日本には、古くから海外から渡来した人々によって文化や宗教がもたらされました。たとえば、百済からやってきて千字文と論語を伝えたとされる王仁、奈良時代に日本への渡海を5回にわたり試み、日本における律宗の開祖とされ、やがて唐招提寺を建立する鑑真、1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル (Francisco Xavier) など国の制度の確立や民族の精神性や文化の発展に寄与した人々がいました。

ヴァリニャーノの「日本巡察記」は、江戸幕府によってキリスト教徒がやがて禁教や迫害など、辛い時代を迎えることを予見する比類のない資料価値を有する著作であり、安土桃山時代と江戸時代を研究するうえで不可欠な資料であるのは間違いありません。

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リベラルアーツ教育  その13 セミナリオでの日課とラテン語の学習

img_0 15eu102_3143 800px-Pcs34560_IMG_1985安土桃山時代、司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano) は、イエズス会によって日本に最高監督者として派遣されます。巡察師という職命を受けたヴァリニャーノは、日本伝道という使命を果たすためには、同僚のイエズス会宣教師の態度や行動が極めて大切であることを理解していきます。そして日本人と親交を結ぶにはどのような心得が必要なのかと腐心するのです。やがて、行動の規範とすべき基は禅宗であることにゆき着きます。

さて、ヨーロッパからの宣教師によって指導される若き日本人はセミナリオやコレジオでどのように学んでいたかです。夏の間は4時半に起床し、祈祷してからミサ聖祭に参加します。その後、座敷の清掃です。6時から7時半までは学科の勉強。年少の者は教師の指示でラテン語の単語を学びます。暗誦したかどうかは、読み聞かせによって確認し、宿題も点検されます。年長者は年少者の学習を点検したりします。

9時から11時までは食事と休養です。11時から2時までは日本語の読み書きをし、すでに習得している者は日本文の書状を認めたりします。2時から3時までは唱歌や楽器の演奏を学び、その後休養です。3時から5時までは生徒は再びラテン語の勉強にはいり、文章を書いたり朗読したりします。5時から7時までに夕食をとり休息します。7時から8時まで再びラテン語を復習し、年少者は日本の古典を学びます。8時には夕べの祈りをし就寝となります。

土曜日の午前中は、その週に学んだラテン語や日本語の読み書きなどの復習にあてられ、その後は自由時間となり散髪、入浴、告白の時間となります。日曜日や祝日は別荘か野外で休養したり自由時間を楽しみます。団体生活は規律に従って行われていたことがわかります。

やがてミナリオを修了した者から、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノが選ばれ、ヴァリニャーノらに率いられて1582年にローマ教皇、スペインとポルトガル両王に謁見することになります。彼らは大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代でありました。これが天正遣欧少年使節です。

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リベラルアーツ教育  その12 「日本巡察記」と日本人の風習と形儀

iiqajtirvN images 20130531094501イエズス会の司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano) は、イエズス会が日本に最高監督者として派遣した巡察師です。安土桃山時代のことで、織豊時代ともいわれます。まだ各地に戦国大名が割拠していた時代です。織田信長が存命中は、イエズス会は筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、畿内などで宣教を許されていました。

宣教活動が可能になったのは、大村純忠、松浦隆信、有馬鎮貴族、大友宗麟、小西行長、高山右近らの切支丹大名から厚い庇護を受けていたからです。しかし、同時にヴァリニャーノはこうした大名から、在日イエズス会宣教師の非日本人的態度について注意を受けていました。そのため、同僚の宣教師を教導するために日本の風習や形儀に関する心得書を著す必要を認めていました。

イエズス会員の間では、日本で仏教の僧侶のような習慣や儀礼を守ることが適切であるかどうかが討議されます。日本の風習はヨーロッパのそれと異なり、日本国内では欧風では無礼にあたることが生じて、順調に伝道できないことがわかってきます。そこで巡察師ヴァリニャーノの名によって日本人自身の手で適当な心得書が作製されるべきことが決められます。

ヴァリニャーノは日本の習俗や習慣を深く調べ、日本の宗教から範例を採用するにあたり禅宗を選びます。禅宗こそが日本の社会ともっとも密接な関係があり、参考とするにもっともふさわしいと考えたのです。他にも、大友宗麟がもともと禅宗に帰依していたことも知っていました。織田信長の時代は禅宗は勢いを失っていましたが、なお、日本での仏教の中で有力な宗派と考え、臨済宗をもって日本のおけるイエズス会の秩序を定める際の規範として選びます。

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リベラルアーツ教育  その11 「日本巡察記」と日本人の宗教的素質

A-Valignano worldheritage u01-1ローマイエズス会の司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano) 「日本巡察記」の二回目です。この書物はイエズス会が日本に最高監督者として派遣したヴァリニャーノのイエズス会総長にあてた日本伝道に関する報告書です。時代は1580年代です。

ヴァリニャーノは、当時の日本人の宗教に対する素質や宗教的な生活を立派に続けていく素質を疑っていません。日本人が宣教師と必要な素養を三つあげます。第一は天分、第二は堅固な根気強さ、第三は徳操と学問です。ヴァリニャーノはこの三つの素養が日本人に備わっていると断言します。短い滞在ながらその観察眼には驚かされるほどです。

特に取り上げたいのは学問についてです。セミナリオやカレジオではラテン語が重視されます。ローマの公用語であり学問で必須の科目でありました。聖書がラテン語で書かれていたからです。日本人にとって極めて新しい言語で、用語が日本語にないこと、文法が日本語とは異なることなど、習得にがはなはだ困難であったにもかかわらず、日本人は非常に鋭敏かつ懸命で思慮深く、よく学ぶ態度に驚嘆した、とヴァリニャーノは記します。子供でも大人と同様に3、4時間も席から離れず熱心に勉強する姿勢にも心がうたれたようです。

日本語の習得が難しいのと同様にラテン語を日本文字で書いて習得し、楽器を奏でたり歌うことを学び、意味が分からなくても容易に暗誦するとも記しています。ヴァリニャーノは、こうした日本人の天性や根気強さ、学問の高い吸収力などを観察しながら、ラテン語文法が日本語で説明され、将来辞書や参考書が作られれば、ラテン語を短期間で習得するのは間違いないとさえ断言しています。

それと同時に、イエズス会の修道士や教会の奉仕する人々とは通訳を介して話をしなければならず、ポルトガル語を話したり理解できる者がいないことを嘆いていました。そこで、ヨーロッパからの司祭達が日本語を学べるようにすることの必要性を感じます。そうした動機によって日本文典と日本とポルトガル語 (葡萄牙) 辞典を作製します。

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リベラルアーツ教育  その10 「日本巡察記」とヴァリニャーノ

135_201511292200473fd 20090821164253 02_1photo02現在、1579年から三度に渡り来日したイエズス会の司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano) 「日本巡察記」を読んでいます。この書物はイエズス会が日本に派遣した最高監督者であったヴァリニャーノが、ローマのイエズス会総長にあてた機密に属する報告書です。

本書は、当時の日本のキリスト教内部の深刻な諸事情や宣教師達の想像を超える苦悩、解決を迫られる日本とヨーロッパの風俗や習慣、文化の違いにいかに順応しなければならなかったという問題、日本人宣教師の養成とその難しさなど、宗教学的にも文化史的にも極めて興味ある日本の切支丹史の内面を描いています。

三度に渡って来日し、巡察師としての職命を帯びるということは、日本が宣教の地として可能性を秘めながらも困難な異教の地であることを知っていたからだと考えられます。巡察師というのは、布教先における宣教師や会衆を指導し、布教事情を調査し報告するために派遣される職名です。ローマと極東の間の通信や連絡は容易なものではなく、報告を作りその回答をローマから得るには数年かかったと思われます。そのために、巡察師の使命は強大な権限が与えられていました。

日本イエズス会布教区の責任者はフランシスコ・カブラル (Francisco Cabral) という司祭でした。日本人の性格について偏見に満ちた見解を持ち、日本文化に対して一貫して否定的であり差別的でありました。やがて日本人信徒と宣教師たちの間に溝ができていきます。カブラルは日本語を不可解な言語として、宣教師たちに習得させようとせず、日本人に対してもラテン語もポルトガル語も習得させようとしなかったとされます。しかし、巡察師ヴァリニャーノは、日本文化の尊重という姿勢をとり、外国人宣教師が日本語と日本人の礼儀作法を学ぶことの重要性を指摘し、カブラルを強く批判して、やがて布教長のカブラルを解任します。

日本のイエズス会は、早くからマカオにあったイエズス会に報告書を送っていたといわれます。ヴァリニャーノ は、大友宗麟、有馬晴信らの切支丹大名や織田信長、豊臣秀吉らに謁見しています。その後、本能寺の変以降、豊臣秀吉の統治下になると日本の教会が不安定な状態に置かれるようになることを察知していきます。それゆえ、重要な文書を国内に留め置くことを避け、マカオで保存する措置をとったことが記録されています。「日本巡察記」はヴァリニャーノが書いた「日本諸事要録」といった報告書の一部であり、将来の布教の方針を決める際の重要な資料となっていきます。

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リベラルアーツ教育  その9 セミナリオから学制へ

a0123372_8283463 DSC_0310 meiji1500年代のヨーロッパは人文主義 (Humanism) と文芸復興 (Renaissance) の時代といわれます。「普遍的な教養や知識によって、それまでの世界観とされた非人間的な抑圧から人間を解放し、人間性の再興をめざした運動」といわれます。セミナリヨやカレジオでの教育内容も古典教育に力が入れられていました。それはラテン語で書かれた古典と日本の古典を学ぶことでした。「日本キリスト教文化事典」 (原書房) によりますと、1579年、日本にやってきたイエズス会の巡察師ヴァリニャーノは、日本独自の風習が障壁となり布教の難しさを痛感したといわれます。

そこでヴァリニャーノは、日本で宣教師を養成するためには、ヨーロッパの文化を押し付けるのではなく、日本独自の文化を尊重しながら布教する方針を示したようです。例えば、日本文学を学ぶことが必須と考え平家物語などをテキストにして古典を学ばせたといわれます。

日野江城下に開設された有馬のセミナリヨでは、ポルトガルからきた宣教師が、ラテン語などの語学、基督教、天文学 (地理学) などルネサンス期の西欧学問が教えられていたといわれます。

ラテン語は当時のカトリック教会の公用語です。ラテン語は学問のための言語であったので、セミナリヨやコレジヨでは必ず教えられました。音楽と体育も科目となりました。音楽はフルート、オルガンなどの器楽、およびグレゴリオ聖歌 (Gregorian Chant) などポリフォニー (polyphony)やモノフォニ(monophony) などの練習がありました。夏は水泳が奨励され、体力を培ったという記録もあります。

セミナリヨやコレジヨで行われていた教育は、宣教師の養成ではありましたが、日本の近代教育の先取りともいえるものではなかったかと思えるほどです。リベラルアーツ教育そのものです。明治以降、日本がとりいれた西欧式の教育システムはセミナリヨから始まった、といえます。それを示すのが明治五年の「学制」の公布です。その学事奨励書には、法律、政治、天文、医療の言葉がでてきます。

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リベラルアーツ教育  その8 「セミナリオとコレジヨ」

2b9869137170bb7e76d084431fd981f4 s2-19-seminario imgedb72b1dzik2zj私は、宗教学や神学について全くの素人です。一介の信徒です。ですがリベラルアーツ教育のルーツを調べていくと神学とか哲学という分野にたどりつきます。特に中世のヨーロッパにおける学問では、どのような人を育てそのために何を学ばせるかが教育機関の使命だったようです。その中心は聖職者の養成にありました。それを担っていたのがセミナリヨ(ポルトガル語: seminario、英語: seminary)とコレジヨ(ポルトガル語: seminario、英語: college) です。

日本にキリスト教がもたらされたのは1549年。イエズス会が派遣したザビエル (Francisco de Xavier) らによって布教が始まったとされます。1579年に同じイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano) 神父は、日本における布教の成否は、日本人の司祭や修道士を育成することにかかっていると考えます。こうして作られた教育機関がセミナリヨ(初等教育)とコレジオ(高等教育)です。

イエズス会は滋賀の安土城や南島原の日野江城にセミナリオを造ります。切支丹大名だった4万石の城主、有馬晴信は日野江城のセミナリオの建設を奨励します。コレジヨは大分県臼杵市に最初に造られます。コレジヨは、当時は修道院とか修練院を意味する ノビシャド( ポルトガル語: noviciado )と呼ばれていました。

こうして豊後国である府内に開設されたコレジオでは、一般教養の教育と聖職者育成の専門教育の両方が行われ、キリシタンに改宗した士族や布教を志す者に対して、キリスト教、ラテン語、音楽、数学などの講義が行われます。有馬晴信とともに切支丹大名であった大友宗麟はノビシャドの開設に協力します。コレジオの教育は、日本におけるリベラルアーツ教育の先駆けではないかというの私の考えです。
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リベラルアーツ教育 その7 「合理的配慮」の「reasonable」

o0531041110285641187 url Disability_symbols一般に詩や哲学などの古典、ラテン語 (Lain) やギリシャ語(Greek)などの語学、歴史を学ぶことも教養といわれているようです。誠に雑ぱくな定義でありますが、、こうした分野における知識を蓄積しても日常生活や仕事にはじかに役立つということはありませんが、専門誌や雑誌にでてくる用語を吟味することには、自分の疑問を解くのに大いに参考になります。

この拙いブログでは外来語がでてくるときは、特に英語やドイツ語、ラテン語の綴りを付記することにしています。そのほうが、日本語の意味をより深く知ることの助けになると思うからです。また日本語であっても意味がいろいろと違います。それを外国語、特に英語の場合はラテン語やギリシャ語から由来するものが多数あるので、日本語となっている単語の理解に役立つことが多いのです。同時に日本語訳がはたして確かなのかを考える機会となります。

一体、「合理的配慮」という用語をあてたのは厚生労働省や文部科学省の官僚なのか、あるいは英語学者なのかは分かりません。いずれにせよ、英語のフレーズと日本語訳とを対比しながらその意味を考えていくと、「深く合理的な配慮の意味を伝えない」用語であることに気がつきます。私の疑問が深まるばかりです。

まずは「reasonable」という単語です。辞書を調べると、「reasonable」はラテン語の「ratio」とか「rationabilis」に由来し、その同義語として「mediocris」、「prudent」などとあります。ともあれ「ratio」からrationalという英語が生まれたことが容易に理解できます。「rationabilis」や「justus」からは、適正なという「legitimate」、公平なという「equitable」、細心なという「prudent」という単語もこれにあてはまります。

他方、注意すべきことは、「rationabilis」から、「並の」とか「平凡な」という意味の「mediocris」という派生語もあることです。これは、凡庸なとか平均的なといった「average」、さらにいい加減なとか手頃なといった「tolerable」という単語につながるのです。

このように「合理的ーreasonable」という単語は意味が深いのです。その使い方は日常の事象にあてはめると次の三つにわけられそうです。

1) 〈思考・行動などが〉
適正な,  当然な,  正当な,  筋の通った,  尤も至極な,  妥当な,   応分な,  順当な,  道理をわきまえた,  分別のある
2)  〈物事が〉
無理のない,  手ごろな,  穏当な,  当り前の
3) 〈値段などが〉
いい加減な,  あたぼう,  聞き分けのよい,  話のわかる,  手頃な,  格安な

さて、「reasonable accommodation」を「合理的配慮」としたのは果たして妥当なのかという疑問です。「道理をわきまえ筋の通った」内容か、はたまた「いい加減な聞き分けのよい」内容かどうかです。
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リベラルアーツ教育 その6 「自由七科」

georg-wilhelm-friedrich-hegel-03 curse-magic-graffiti-eyecatch-01-620x377 73ce447c「Liberal Arts」ということの続きです。「専門分野の枠を超えて共通に求められる知識や思考法などの知的な技法の獲得や、人間としての在り方や生き方に関する深い洞察、現実を正しく理解する力」というのが平成14年2月に中央教育審議会が答申した教養ということの定義です。「専門性につなげる、あるいは専門性にとらわれない幅広い教養や知識」といった人が持つ必要がある実践的な知識・学問の基本のこととあります。

定義はさておき、中世の西欧において必須とされたのが「自由七科」(septem artes liberales) というものです。その内訳ですが、主に言語にかかわる3科目の「三学」(trivium)と数学に関わる4科目の「四科」(quadrivium)の2つに分けられます。三学は文法・修辞学・弁証法(論理学)、四科が算術・幾何・天文・音楽と規定されていました。幾何学は図形の学問であり、天文とは円運動についての学問で現在の地理学に近いと考えられます。ラテン語で「tri」とは三、「quad」とは四、「septem」は七を意味します。この接頭語がついた英語は沢山あります。

哲学(Philosophia)ですが、以上の自由七科を統合しその上位に位置すると考えられました。ギリシャ語(Greek)で英知を意味する「sophia」、愛することを意味する「philo」から成ります。一切の思想的前提を立てない理性の学といわれる哲学は、弁証法によって思考を深めることを教えるものとされました。弁証法とはギリシア語でいう対話「dialektike」です。

哲学はさらに神学の予備学とされたというのですから、なんだかこんがらがってきます。神学は「理性によっては演繹不可能な信仰の保持および神の存在を前提とする」というのです。どうも神学が中世の学問の中心であったようです。ここまで思索してくるとヘーゲル(Georg Hegel) の「弁証法的論理学」とか「止揚」ということの内容、そしてなによりも神学の神髄を学ぶ必要を感じます。

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リベラルアーツ教育 その5 コミュニティ・カレッジ

iStock_000047714610XLarge large_matc_0 madisonclg_logo我が国のリベラルアーツの雄は国際基督教大学( International Christian University: ICU)といってもよいでしょう。単科大学という性質からみればInternational Christian Collegeと名付けるのが正しいと思われます。ICUはベラルアーツ・カレッジ(liberal arts college)として「平和」、「学術基礎」、「専門知識」を統合しながら、バイリンガリズムによる世界基準の「全人教育」という理想を掲げて1949年に創立されます。「国際的社会人としての教養をもって、神と人とに奉仕する有為の人材を養成し、恒久平和の確立に資することを目的とする」とあります。アメリカの長老派教会 (Presbyterian Church) によって支援され、財界からの寄付を受けて、リベラルアーツ・カレッジの伝統を踏襲しています。

「多様性」はアメリカの大学の特徴です。アメリカの大学はもともとは単科大学であるカレッジ(college)として創設された経緯があります。例えば聖職者を養成し、町や村のリーダーを養成することを主たる目的として定めました。そのために教養を幅広く身につけ、決断力を養い、リーダーシップをとれる人間になる基礎教育をするようになりました。これがリベラルアーツ教育です。そして、リベラルアーツ・カレッジが誕生します。

1636年に創立された牧師養成の機関がハーヴァード大学(Harvard University)です。ハーヴァードはアメリカ最初のカレッジです。やがて新しい専門分野を加えていきながら、大学院レベルの研究に力を入れている総合大学として発展してきました。世界で最も入学が難しいといわれています。

アメリカには州立、私立を含めて4,000以上の大学があります。その大半は小さなカレッジであることをご存じでしょうか。4年制のリベラルアーツの大学です。少人数のコミュニティのゆえ、手厚い指導のもとで幅広い知識を習得できます。美術や音楽のカレッジ、コンピュータ操作、歯科技工、機械、教師養成、軍の士官養成大学などもあります。あえて大きな総合大学を選ばずこうしたカレッジで勉強し、総合大学の大学院へ進む者が多いのがアメリカのカレッジの特徴です。

どうしても職業技術を身につけたい者には、コミュニティ・カレッジ(Community College)、あるいはテクニカル・カレッジを選び最低限の教育や職業訓練を受けることができます。ここで語学研修するのも賢い選択です。コミュニティ・カレッジは中小都市には必ずあります。

リベラルアーツ・カレッジなど多くのアメリカの大学は、できるだけバラエティの富んだ学生たちを入学させようという観点から入学審査を行います。リベラルアーツ・カレッジで有名なところは極めて授業料が高いです。そのため高所得者の子弟が多いのも事実です。そのために大学は多くの奨学金を用意して優秀な学生を集めようとします。大学がどの位の基本財産(Endowment)を有するかが大学発展の大きな要素となります。

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リベラルアーツ教育 その4 学部の廃止や再編を憂う

220px-Septem-artes-liberales_Herrad-von-Landsberg_Hortus-deliciarum_1180 150416101124-harvard-campus-780x439 logo人文社会科学系の学部がある国立大学の8割が、学部の再編や定員削減などを検討していると報じたのは、2015年7月のNHKの調査です。今、全国の地方にある多くの国立大学は、研究などはそっちのけで改組のために会議やタスクフォースに多大な時間をかけて、改編に奔走しているといえる状況です。

この調査によれば、人文社会科学系の学部がある大学42校のうち、「再編して新たな学部などを設ける」が11校、「具体的な内容は未定だが、再編を検討する」が8校、「定員を減らす学部などがある」が6校、「教育目標を明確にした」が3校、「国の方針を踏まえたものではないが、再編を盛り込んだ」が7校といわれます。

文部科学省の高等教育局長は次のように言います。
「大学は、将来の予想が困難な時代を生きる力を育成しなければならない。そのためには今の組織のままでいいのか。子どもは減少しており、特に教員養成系は教員免許取得を卒業条件としない一部の課程を廃止せざるをえない。人文社会科学系は、専門分野が過度に細分化されて、たこつぼ化している。養成する人材像が不明確で再編成が必要だ。」

こうした文部科学省からの学部の廃止や再編を促す通知に対して、25校が「趣旨は理解できる」と答え、「不本意だが受け入れざるをえない」が2校、「全く受け入れられない」が2校ということです。「全く受け入れられない」という勇気ある表明をしているのは滋賀大学の位田隆一学長です。人文社会科学系学部の改組や廃止を求めた文部科学省の通知に対して、「世界の教育後進国と言われても仕方がないほど嘆かわしい」と手厳しく批判しています。

「人文・社会系学部や教育系学部の廃止や再編成」というのは、国立大学にとって激震ともいえる出来事です。ひいては我が国の大学教育にとってもそうです。それは、自由に考え自由に判断する能力を獲得するには、教養課程の一年半では到底足りないにも関わらず、例えば、即戦力を育てるといううたい文句で、例えば記憶中心の4年間の教育課程で教員を学校に送り出す教育が行われています。6年間の教育課程が必要なのです。「教員養成の高度化」というかけ声はおぞましいほど稚拙な行為といわなければなりません。

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リベラルアーツ教育 その3 高等学校の登場

Bankara_students_in_1949 220px-The_first_gymnasium_in_Tokyo._Before_1902 images旧制高等学校とは、1894年に高等学校令から1950年まで存在した日本の高等教育機関です。1918年の高等学校令改正により各地で次々に高等学校が増設され、7年制高等学校が出現し大学予科は高等科に改称されていきます。これが略して旧制高校です。

戦前の旧制高校は第一高等学校から始まり、全国で30数校しかありませんでした。リベラルアーツ教育をする場所であったのは明白なのですが、なにぶん数が足りずいわばエリートの育成にならざるを得ませんでした。入学が極めて難しかったのです。

戦後日本の民主主義という新時代にそうしたエリート教育はふさわしくないという考えから、3,700余りの新制高等学校が誕生することになります。ですが新制大学を含め大学入試が知識の記憶がものをいうために、高等学校は再び記憶偏重の教育課程となってしまいます。予備校や塾も大いに繁盛しました。私は貧しかったために、一度も予備校通いや家庭教師についたことはありませんでした。なんとか北大に入れたという幸運者でした。

現在の大学も一般教養として教育している一年半余りの課程は、いわばリベラルアーツ教育ともいうべき重要な役割を持っています。ですが課題も背負っています。リベラルアーツ教育の目標を十分に達成するにはいくつかの考慮すべきことがあります。

第一は、クラスの編成が大規模であることです。現在のようにマイクを使って200人や300人の学生に講義するのでは、知識を注入することで精一杯です。第二は講義よりも演習、演説よりも討論中心のクラス、が望ましいことです。対話という形式をとらず、一方向による講演や講義では担当者の自己主張に終わってしまいます。第三は、あまり専門性に偏らない文明史的なものの見方ができるような講義や演習が大事だと思います。第四は、就職活動に奔走し勉強すべき時間が少ないような有様は改善すべきです。このような状態では、大学は短大に成り下がっているといわざるを得ません。

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リベラルアーツ教育 その2 旧制高等学校

img20140324135618260 clip_sap-fall007 2010111402-7db44我が国におけるリベラルアーツ教育の足跡は、旧制高等学校の歴史にみることができます。旧制高等学校は1894年に高等学校令から1950年まで存在した日本の高等教育機関です。女学校も中等教育から高等教育を実施して女子教育に貢献します。1918年の高等学校令改正により各地で次々に高等学校が増設され、7年制高等学校が出現し、大学予科は高等科に改称されていきます。これが旧制高校です。

教育内容は現在の大学教養課程に相当します。現在の高等学校と混同されることもありますが、現在の高等学校は旧制の学制においては旧制中学校がそれに相当します。

旧制高校では、帝国大学への予備教育を行う高等中学校本科は高等学校大学予科に名称を改められ、修業年限が2年制から1年延長された3年制となります。専門学部は3年制から4年制に移行します。1894年以降、第一高等学校 (一高)の修学期間は3年となり帝国大学の予科と位置づけられました。仙台の二高、京都の三高、金沢の四高、熊本の五高などもそうです。後に学部は帝国大学へと昇格したり、専門学校として分離されます。

1949年の新制国立大学設置当初から「教養学部」という学部を有するのは、全国の国立大学では東京大学教養学部が唯一のものです。東京大学教養学部の設置は旧制高校の教養主義的な伝統を継承しようとしたことです。北海道大学の教養部は1995年に廃止されてしまいました。

私学のリベラルアーツ・カレッジの雄である国際基督教大学(ICU)ですが、戦後その設立に携わったのは旧帝国大学卒の有力者です。旧制高等学校の伝統を継承しようと設立に尽力した経緯があります。

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リベラルアーツ教育  その1 カレッジと北大教養部時代 

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Max Weber German sociologist 1864-1920 born in Erfurt educated at universities of Heidelberg Berlin and Gottingen chair of sociology in Vienna 1918 chair of sociology at Munich 1919 one of the founders of sociology best known for his work Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus

Max Weber
German sociologist 1864-1920 born in Erfurt educated at universities of Heidelberg Berlin and Gottingen chair of sociology in Vienna 1918 chair of sociology at Munich 1919 one of the founders of sociology best known for his work Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus

 

 

 

 

 

 

ご承知かもしれませんが、アメリカではリベラルアーツ教育(Liberal Arts Education :LAE) が今でも盛んです。伝統のある有名な単科大学 (college)が各地に沢山あります。こうしたカレッジから総合大学へと進む学生が大勢います。LAEをきちんと受けている学生を総合大学は受け入れるのです。

LAEとは個人の知性を伸ばし、将来の専門分野を見定めるための準備とする教育のことです。知識を覚え込む普通教育と研究に独自の貢献をするための専門教育の中間に位置することです。教養課程といわれています。しかし、知識を蓄積することが、そのまま教養につながるとはいえないのが学ぶことの難しさです。

私も北海道大学に入学したときは、一年半は教養部に属し、その後法学部へ進みました。文科系では経済学部や文学部、教育学部もあり、同輩はそれぞれ専門分野を選んでいきました。教養部では、知識の詰め込みというよりも、学生に自由に学ばせる雰囲気がありました。休講はしばしばありました。そのおかげでカール・マルクス (Karl Heinrich Marx)だ、マックス・ウエーバー (Max Weber)だといった人物を話題とした議論をしばしば聴きました。河合栄治郎の「学生に与う」とかロジェ・マルタン・デュガール (Roger Martin du Gard) の「チボー家の人々」、阿部次郎の「三太郎の日記」など青春のバイブルといわれた作品、他に内村鑑三の著作を競うように読んだものです。こうした書物に親しむ機会は、学生としての一つの洗礼のようなものでした。

Liberal Artsの語源を調べると、教養がいかなることかが分かります。ラテン語で「Liber」とは書物という意味です。図書館 (library)や図書館司書 (librarian) という用語がここから生まれます。「Liber」のもう一つの意味は「自由」ということです。ヨハネの福音書8章31‐36節に「真理はあなたを自由にする」とあります。聖書によっては”The truth will set you free.” (New International Version)  とか“The truth shall make you free.”(King James Version)とあります。

教養課程とは、学問とはなにか、真理とはなにか、科学とはなにか、職業とはなにか、といった未知の世界を考える時間のことかもしれません。そして将来の専攻を決めていくのです。専攻を考えるためには、幅広い基礎的な知識や教養が求められます。

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音楽の楽しみ 合唱曲の数々 その53 ノルウェーとペイガニズム

7b31bfb61b8077bb32b99ab659cbf32d scaletowidth maxresdefaultかつて神戸にあった葺合区は生田区と共に、中央区になりました。葺合区にあった聖書学院というところで半年学んだことがあります。この運営はノルウェー (Norway)の福音ルーテル伝道会でした。教文館発行の「日本キリスト教歴史大事典」によりますと、ルーテル伝道会の日本での宣教開始は1949年とあります。

この伝道会の前身は1891年に設立された「ノルウェー・ルーテル中国伝道会」で、この年8名の宣教師を中国に派遣したようです。さらに1900年には、フィンランド(Finland) のルーテル福音教会は、最初の宣教師を日本に派遣し長野県を中心に伝道したという記録もあります。スカンディナヴィアの小さな国から「東の果て」ではあり「日の昇る国」でもある日本に「福音を聞き主を受け入れ信仰の道を歩む体験をする」というスカンディナヴィア人の心意気を感じます。

戦後、中国から引き揚げたノルウェーの宣教師は賀川豊彦の協力を得て、兵庫県西明石を宣教の出発点とします。賀川豊彦は大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動の指導者として活躍します。神戸のスラム街での無料の巡回診療よって「貧民街の聖者」とも呼ばれました。自伝的小説「死線を越えて」の印税はすべて社会運動につぎ込まれたといわれます。

ノルウェーにキリスト教が入ったきたのは西暦1000年時代といわれます。アイルランド (Ireland)やブリテン(Britain) などへの侵略争いがヴァイキング (Viking) を通してキリスト教がもたらされます。その頃のノルウェーには自然崇拝や多神教の信仰であるペイガニズム (Paganism) がありました。ノルウェー人はノース人 (Norse) とも呼ばれていました。彼らの中にあった信仰に基づく神話が「Norse mythology」です。キリスト教化される前の神話のことです。当初キリスト教はペイガニズムや神話によって退けられてしまいます。やがてアングロ-サクソン (Anglo-Saxons) の宣教師がイングランドやドイツからノルウェーにやってきます。

アングロ人というのは、ドイツ北部よりグレートブリテン島 (Great Britain) に渡ってきた民族、同じくサクソン人はニーダーザクセン地方からの民族です。加えて北海 (North Sea) とバルト海 (Baltic Sea) を分かつユトランド半島 (Jutland) に住んでいたジュート人 (Jutes) がグレートブリテン島に渡ってきますJutland とは「ジュート人が住むところ」という意味です。こうしたアングロ人、サクソン人、ジュート人は先住のケルト系(Celtic) のブリトン人を支配しその文化を駆逐していきます。

アングロ-サクソン人のノルウェーにおける宣教活動は前述した前述したペイガニズムや土着の神話などに阻まれて困難だったようです。しかし、国王オラフ一世 (Olaf I) の改宗により全土にキリスト教が宣撫することになります。

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音楽の楽しみ 合唱曲の数々 その52 コラル(聖歌隊)

purple-tree the-academy English_Choral_855755758今回は、素人ですがルーテル教会の音楽について知っていることを少し説明します。もともとカトリックの司祭であったマルチン・ルター(Martin Luther)らの宗教改革 (Reformation) によって、キリスト教会の礼拝に大きな変化がもたらされたといわれています。その最も大きい変化とは、礼拝に集う会衆全員が讃美歌を歌うようになったことです。中世のカトリック教会では聖歌隊員とか司祭など特定な者、あるいは専門家だけが礼拝で歌うことが多かったのです。

ここにコラル(Choral)が登場します。Choralとは、声をそろえてとか、一斉の、あるいは合唱隊のといった意味です。会衆が一斉に歌うことが次第に広まっていき、教会音楽が会衆の中に親しまれていきます。コラルで歌う賛美歌の旋律は多くの場合、四分や八分音符が中心で歌うのはそう難しくはありません。

ルターは、教職者中心の礼拝執行という長い伝統を破り、聖書のみことばを伝えるために音楽の意義を強調し、礼拝における音楽を大事にしたのです。振り返りますと、ヨーロッパの中世から音楽の地位は確立していました。大学には、「自由七科」という学問分野があって、おもに言語にかかわる3科目の「三学」 (trivium)とおもに数学に関わる4科目の「四科」(quadrivium)の2つに分けられていました。三学の内訳は、文法学、修辞学、論理学 (弁証法)、四科の内訳は、算術、幾何、天文、そして音楽でした。なお天文学は円運動についての学問で現在の地理学にも近いといわれます。リベラルアーツ (Liberal Arts) の原型です。ついでですが、triviumの「tri」は三、quadriviumの「quad」は四という意味のラテン語です。

作曲家でもあった改革者のルターは、自ら「神はわがやぐら」などの讃美歌を書いています。またカトリック教会の聖歌の中から聖書に基づいて作られた音楽をドイツ語に翻訳して礼拝で用いるようにしたのです。例えば「いざ来ませ、異邦人の救い主よ」、、「来たり給え、創造主なる聖霊よ」等のラテン語で歌われていた聖歌です。こうした曲はルーテル教会の賛美歌集にとり入れられています。新しい教会では会衆が賛美をしない礼拝を考えることはできない」とまで言ったとされています。今に至るような皆が共に歌い、祈り、朗読する伝統が始まるのです。

音楽の楽しみ 合唱曲の数々 その51 マディソンでの生活と我が家のこと

f6d89827ed2748aa84313f6161d596dd 122616_1fe58dd84c_toppage_image Anders-Corbin NY私の合唱の話の続きです。マディソンでの生活が落ち着くと、早速Mt. Olive Lutheran Churchの聖歌隊 (Choir) に入ることにしました。毎週木曜日の夜に練習がありました。北大の男声合唱団で歌っていた宗教曲も偶然練習することもありました。男声合唱団というのはカトリックからプロテスタント教会の歌まで幅広く歌うという「節操」のなさでした。ですがルーテル教会の聖歌隊ではカトリック(旧教)や正教会の曲は歌いません。例えばアヴァ・マリア (Ave Maria) もそうです。マリアを賛美するか否か、といった信条の違いによるものだからです。Ave Mariaは「おめでとう、マリアさん」という意味で「天使祝詞」ともいわれます。ルカによる福音書 1章28節にある受胎告知の場面です。

毎週の礼拝で聖歌隊は2曲から3曲歌います。パイプオルガンを伴奏にして歌うのは実に心地良いものです。会員の多くは家族も歌っていたようで、大抵は楽譜を初見で歌うことができました。体格や喉のつくりが違うせいか、声量が違うな、とも感じました。会衆にはいろいろな楽器を弾く人がいて、時々室内楽の雰囲気で礼拝の前後に演奏していました。私の長男も室内楽でヴァイオリンを弾く機会がありました。

マディソンでは音楽をする者の層が幅広いと感じました。小学校では4年から弦楽器を選び弾き方を学びます。学校は楽器を保有していて子どもに貸し出しています。長男は、小学校から高校までヴァイオリンをやり、大人になってからボストンでは市民オーケストラで弾いていました。

長男は毎朝学校へでかける前に息子 (孫) のヴァイオリンレッスンをやっていました。技量が高まるにつれ、もう息子に自分で教えることはできないといって、新たに個人レッスンを受けさせ始めました。今、息子はボストン交響楽団の下部組織である「Boston Youth Symphony Orchestras」で演奏しています。何度もオーディションを受けて段々と上のレベルの組織に上がっていきます。アジア系の団員が多くいます。

長男の音楽活動からいえることですが、親に音楽に対する適度な関心、そして時間やお金がないと子どもの音楽活動を続けることは困難だということです。

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音楽の楽しみ 合唱曲の数々 その50 Mt. Olive Lutheran Church

israel-jerusalem-mount-of-olives-garden-of-gethsemane-ebdjb1 searchresult_watermark Israel-2013-Aerial-Mount_of_Olives1978年にわずかの奨学資金を基に、家族を連れてウィスコンシン大学(University of Wisconin-Madison)へ入りました。ウィスコンシン州都マディソン(Madison) にある研究中心の大学です。その後、この大学で私を含めて3名の子ども、彼らの嫁や婿全部で学士から博士号まで10つの学位を頂きました。大分投資もしましたが、その果実も図りしれません。私の家族の故郷です。娘二人の家族は今もマディソンで働き子育てをしています。

ウイスコンシン州はスカンジナビア (Scandinavia) やドイツ (Germany) からの移民が多いことは既に述べました。ルーテル教会があちらこちらにあるのはそのためです。デンマーク (Denmark) とノルウェー (Norway) ではルーテル教会が国教会となっています。お隣のスウェーデン (Sweden) は政治と宗教を分離しています。それでも国民の85%が信徒といわれます。ですが礼拝にきちんと出席するのは25%以下といわれます。だんだん少なくなっているようです。

ドイツからの移民の多いコミュニティ、例えばミルウォーキー (Milwaukee) には、今もドイツ語での礼拝を守っている教会があります。同じことがマディソンから車で南に20分のところにあるノルウェー移民の多いストートン (Stoughton)という町でもノルウェー語の礼拝が行われています。この町は五月の第二日曜日にノルウェーの独立記念日の祝い「Syttende Mai」を毎年開催しています。

大学の家族寮から車で10分くらいのところにMt. Olive Lutheran Churchがありました。会員は800名ほどで中くらいの規模の教会です。スポンサーになってくれたルーテル教会の牧師さんから紹介してもらいました。このルーテル教会は、Lutheran Church Missouri Synod (LCMS) という会派に属しています。

アメリカのルーテル教会のうち、LCMSは19世紀のドイツのザクセン王国 (Kingdom of Saxony) からきた教職者や信徒で作られたといわれます。LCMSは伝統的に独立を重んじ、保守的な福音主義教会といわれます。保守的というのは、聖書のテキストや教えに忠実であるというです。例えば女性の教職者は認めないこと、他のプロテスタント教会とのキリスト教の教派を超えた結束を目指すエキュメニズム (Ecumenism) の考えをとらないなどです。そのために今も批判されていますが、なんら意に介さないという姿勢です。「恩寵のみ (Sola gratia)、聖書のみ (Sola scriptura)」を信じてやまないのです。

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音楽の楽しみ 合唱曲の数々 その49 「 St. Thomas Boys Choir」

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私はまだドイツへ行ったことはありません。書籍や写真、音楽、その他教会聖歌隊の活動でドイツの歴史や政治、思想、ルターの宗教改革、バッハなどの作曲家のことを学んでいるだけです。この目で確かめる実体験がないので少々筆を持つことにためらいがあります。

聖トーマス教会 (St. Thomas Kirche)と聖ニコライ教会 (St.Nikolai Kirche)が、ライプツィヒ (Leipzig)のシンボル的な教会といわれます。それは、音楽分野の発展と東西ドイツの統一において重要な役割を果たしてきたからです。中でもトーマス教会は作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハゆかりの場所、そしてトーマス教会少年合唱団の活動の舞台として世界的に知られているルーテル教会です。

ニコライ教会のことです。もともと東ドイツ領であったライプツィヒでは、冷戦の真っ只中に、この教会で平和のあり方を考える「平和の祈り」 (Friedensgebete) と呼ばれる集会が毎週月曜に開かれるようになりました。東ドイツにおける民主化運動の出発点です。時代は経て1989年11月10日のベルリンの壁の崩壊につながり1990年11月に東西ドイツの統一が成ります。

聖トーマス教会の創建は1212年の聖トーマス修道院設立まで遡ります。同時期に創設された聖トーマス教会聖歌隊は変声前の子どもによって組織され、教会と共にその歴史を歩みます。現在の建物は1496年に献堂されたもので、マルティン・ルター (Martin Luther) は1539年の聖霊降臨日 (Pentecost)に説教を行い、教会はプロテスタント・ルター派としてその信念と伝統を受け継ぎます。

ニューグローヴ世界音楽大事典 (New Grove Dictionary of Music and Musicians) によりますと、熱心なルター派信徒であったバッハ (Johann Sebastian Bach) は1723年から1750年まで市の音楽活動を統括する聖トーマス教会音楽監督(楽長)(Thomaskantor)を務めました。バッハは少年たちの音楽指導にあたりながら数々の傑作を書き上げ、その代表作、かつ西洋音楽史上の最高峰といわれる「マタイ受難曲」(Matthew Passion  BWV 244) を作曲します。1727年にこの教会で初演されたとあります。

ライプツィヒを拠点とするゲヴァントハウス管弦楽団 (Gewandhaus Orchestra) は、 聖トーマス教会やライプツィヒ歌劇場での演奏も担っています。楽団が三つに分かれて演奏しているようです。

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音楽の楽しみ 合唱曲の数々 その48  「Escolanía de Montserrat」

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カトリック教会(Catholic church)というのはいくつかの教派から成ります。聖書に基づく教義の解釈には大きな違いはありませんが、どこで誰が宣教活動をしたか、どのように礼拝するかなどによって教派が生まれるのです。

カトリック教会の男子修道会がイエズス会 (Society of Jesus) です。我が国には、1534年にイグナチオ・デ・ロヨラ (Ignacio de Loyola) やフランシスコ・ザビエル (Francisco de Xavier) らが宣教活動を始めます。ジェズイット (Jesuit) 教団とも呼ばれます。教皇ピウス10世 (Pius X)がイエズス会に対し高等教育機関の設置を要請し、その結果上智大学 (Sophia University) が設立されます。なおイエズス会は全米に28の単科、総合大学を擁しています。

フランシスコ会 (Order of Friars Minor)は日本では比較的なじみのあるカトリック教会です。宣教師ルイス・ソテロ (Luis Sotelo) が来日して徳川家康らに謁見します。その後、日本での布教に従事し伊達政宗との知遇を得て東北地方にも布教開始します。さらに1613年には洗礼を授けた支倉常長らを引率して慶長遣欧使節団の正使としてローマに派遣されます。

カトリック最古の修道会がベネディクト会(Benedictine Order) です。その教えは「服従」、「清貧」、「純潔」とされます。ベネディクト会士は黒い修道服を着るこから「黒い修道士」とも呼ばれます。日本でも北斗市にあるトラピスト修道院 (Trappists)や当別町にある「灯台の聖母トラピスト大修道院、函館市にある「天使の聖母トラピスチヌ修道院」などを運営する教会です。

前振りが随分長くなりましたが、サンタ・マリア・モンセラート修道院 (Monasterio de Santa María de Montserrat) もベネディクト会の経営による教会です。ここにヨーロッパ最古の少年合唱団といわれているモンセラット・エスコラニア (Escolanía de Montserrat) があります。10歳から14歳までの声変わりする前の少年が、平日13時と18時45分から聖歌を2曲ほど披露してくれます。

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