木枯らしの季節 その九 「和蘭陀」の感謝祭とPieterskerk

「感謝祭の原形はライデンから」を振り返っています。駐日オランダ大使館のサイトによりますと、オランダは、「森の地」とか「窪地」を意味するHoltlandからきています。Hollandという呼び方もありますが、「西海岸にある“ホラント”と呼ばれる一部の地域の呼称」ともあります。

leiden_pieterskerk_postcard bollenveld-klein san-pedro-y-san-pablo_672-458_resizeオランダの正式国名は「Kingdom of The Netherlands」。「低地の王国」といってもよいでしょう。したがって「Netherlanders」 とは「低い土地の人々」となります。13世紀以降に海面下地帯の干拓を進め、国土の20%が干拓地です。オランダは漢字による当て字で和蘭、和蘭陀と表記されます。ともあれホラントに韻を踏んだ「蘭」が割り当てられたようです。

司馬遼太郎の「街道をゆく〈35〉オランダ紀行」は、興味あることがいろいろと紹介されています。堤防を造り、風車で水をくみ上げてつくられた土地は極めて平坦ですが、司馬はユーモアを交え、この国の平坦さや自転車の普及を表現しています。オランダは農業生産物の世界三大輸出国の1つでもあります。

・「南に下れば八百屋さんの店先に一盛二百円ほどの山はある。」
・オランダ人は茶目っ気がある。海抜101メートルの山を「マウンテン」と読んでいる。」
・ 「トラック一杯の薬よりも、一台の自転車」

アメリカの感謝祭の起源はオランダにあることは既に触れました。ライデンでは毎年、感謝礼拝が行われます。場所は1100年に建てられたSt. Peter’s Churchというゴシック様式 (Gothic)の教会です。この教会はオランダ語では「Pieterskerk」と呼ばれています。Pieterとはペテロ、St. Peterです。kerkはドイツ語のKirche、英語はもちろんChurchにあたります。St. Peter’s Churchには初代のピリグリム・ファーザー(Pilgrim Father)の指導者であったJohn Robinson牧師が埋葬されています。

日本のプロテスタント教会やカトリック教会の神学者によって1987年に刊行された新共同訳聖書では、Peterに「ペテロ」が使われています。ヨハネによる福音書1章42節でイエスはペテロを 「ケファ(Cephas)」、岩のかけら、石という意味で呼んでいます。「私はこの岩の上に私の教会を建てる」という言葉に由来しています。Cephasはアラム語(Aramaic language)という古語だそうです。

木枯らしの季節 その八 感謝祭がアメリカ引き継がれる

多くのアメリカの人はオランダで感謝祭が始まったことは知りません。巡礼始祖ーピルグリム (Pilgrims)のイングランドからオランダのアムステルダム(Amsterdam)を経由してライデン(Leiden)への移住、ライデンのスペイン軍の包囲からの解放、そして感謝礼拝の挙行といった歴史のことです。

embarkationofthepilgrims3 31b1c1862369c999e9bd7378f9dab925 cape-cod-1100301_960_720_pixabayロンドン市内のカルヴァン派教会の牧師で著作家であったロビンソン(Rev. John Robinson)は1619年頃、35名の会衆、そして無信教の者など66名などとメイフラワー号(Mayflower II)に乗り込みイングランドのスクロービィ(Scrooby)を出発してオランダのアムステルダムとライデンに渡り、そして新大陸のニューヨーク(New York)へと航海します。メイフラワー号がマサチューセッツ(Massachusetts)のケープカッド(Cape Cod)の先端に到着したのは1620年、節季は11月です。ところがこの地が農業に適していないことがわかり、プリマス(Plymouth)付近に開拓地コロニーをつくります。「Plimoth Plantation」です。

新大陸での最初の収穫と感謝祭は1621年であったと記されています。幸い1621年は豊作だったようです。プリマスの辺りに住んでいたWampanoag部族というネイティブアメリカンとの交流が始まり感謝祭に一緒に参加したといわれています。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その七 ライデンからプリマスへ

北米における感謝祭(Thanksgiving)は、ヨーロッパ(Europe)のオランダ(Netherland)の歴史に遡ることができます。感謝の日の起源について諸説があるようですが、バングス(Jeremy Bangs)という歴史家でライデン・アメリカンピルグリム博物館長(Leiden American Pilgrim Museum)の仮説が有力なようです。バングスはシカゴ大学を卒業し、ライデン大学 (University of Leiden)からPh.D.を取得します。やがてライデン市立ピルグリム文書館 (Leiden Pilgrim Documents Center of the Leiden Municipal Archives)の主任学芸員となり、その後1997年にライデン・アメリカンピルグリム博物館を創設します。

image506 %e3%83%a1%e3%82%a4%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%af%e3%83%bc%e5%8f%b7 plymouth10バングスによると、1573年から74年にかけてスペイン軍がライデン(Leiden)を陥落させようと包囲した史実が基となっています。スペイン軍の包囲からライデンが解放されたことを記念し、感謝礼拝を執り行ったことが感謝祭に発展したのではないかというのです。この祝いが毎年ライデンで開かれる「10月3日祭」 (Oktober Feest)という祭りです。「10月3日祭」 の伝統がアメリカに移住した巡礼始祖と呼ばれるピルグリム(Pilgrim)によって引き継がれたというのは頷けます。

ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)と呼ばれた巡礼始祖を乗せたメイフラワー号 (Mayflower)が イングランド(England)のプリマス (Plymouth)を出帆したのは1620年9月6日。そして11月9日にマサチューセッツ(Massachusetts)、ボストン(Boston) の南に位置するケープカッド(Cape Cod)のあたりに到着します。66日の航海です。しかし、メイフラワー号のピルグリムはもともとニューヨーク(New York)のハドソン川(Hudson River)沿岸を目指していました。そこでケープコッドを離れ南下するのですが、天候が悪くケープコッドに戻ります。ところがケープコッドは塩分を含んだ土地であり、農作物の耕作に不適であるという理由でボストンの東のプリマス(Plymouth)に上陸し、そこにプリマス開拓地(Plimoth Plantation)を定めます。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その六 最初の感謝祭

中西部(Midwest)や東海岸のニューイングランド(New England)は紅葉も終わりに近づいています。感謝祭 (Thanksgiving Day)が近づいています。私の最初の感謝祭は1977年。ミルウォーキー(Milwaukee)のルーテル教会のLeRoy Hass牧師さん宅に招かれたときです。この先生は長く関東や上越で宣教活動に励まれておられ、日本語はもちろん達者です。日本語で説教ができるくらいですから、その努力はたいしたものです。奥様のSaraさんは暖かいお母さんタイプ。日本生まれの娘のDeborahさんはウィスコンシン大学で看護学を学んでいました。Deborahとはヘブライ語で蜜蜂という意味です。Hass家は代々靴作り職人だったそうです。

edward-frascino-turkey-with-sign-the-world-will-end-nov-27-new-yorker-cartoon1 h54 59578f678263f71832ae79e247fd013fマディソン(Madison)から東にインターステイト94(Interstate 94)を70分ほど走るとミシガン湖です。晩秋の湖は寒々としています。木枯らしの寒さではなく冷たさそのものです。粉雪が風で舞う日でした。お家はこじんまりした小さ目の造りです。中西部の一軒家には必ず地下があり、子供の遊び部屋やロンドリーとなっています。

アメリカでは11月の第4木曜日、カナダではすでに終わりましたが10月の第2月曜日です。多くの州は感謝祭の翌日の金曜日も祝日扱いとして4連休となります。慈善団体などがホームレスなどの人々に温かい七面鳥料理を振る舞うのも恒例となっています。

感謝祭の夕食は感謝の祈りから始まります。
  O God, when I have food,
    help me to remember the hungry;
  When I have work,
     help me to remember the jobless;
  When I have a home,
     help me to remember those who have no home at all.

会話がはずむ食卓です。ですが成田一家にとっては最初の感謝祭です。周りを見ながら食事するのは緊張するものです。それを解くには少し時間がかかりました。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その五 為替に変動が

番狂わせ (Upset)の大統領選挙後は、株や為替に変動があるだろうといわれていました。私は、トランプが勝利したら為替が動きドルを買おうと考えていました。自由貿易主義から保護貿易主義に転換するとアメリカの成長は阻害され、それによりドルが安く、円が高くなるだろうという筋書きです。経済の動向に全く土素人の私ですら理解できそうな展開です。ところが 「トランプ勝利=円高」 というシナリオは吹っ飛んでしまったようです。11月14日は1ドル108円という円安です。輸出産業にはホクホクです。経済現象はそんな単純なものではなさそうです。

%e6%9c%ac%e5%91%bd%e3%81%aetpp%e9%96%a2%e9%80%a3%e9%8a%98%e6%9f%842 map bauer-fertilizer選挙直前、クリントンが3ポイントリードといった報道でした。これは総得票率のことをいったのです。選挙人の獲得は勝者総取り方式 (Winner-take-all)ですから、選挙人の多い州で勝利するかによります。オハイオ(Ohio)、フロリダ(Florida)、ペンシルヴァニア(Pennsylvania)、ノースカロライナ(North Carolina)といった州をトランプは得票数で上回りました。これが勝敗を分けたのです。

選挙人の数は州の人口によって定められています。一票の格差というものは問題になりません。勝者総取り方式を改めよう、といった声はほとんど聞きません。投票日ですが、「11月の第1月曜日の後の火曜日」、1日が火曜日となる日を除く11月の第1火曜日となっています。今年は1日が火曜日だったので11月8日となりました。この投票日は建国直後から定められています。11月としたのは建国時代は農業が主要産業ですから11月が農閑期だったからです。いまもアメリカは農業が主要な産業であることは間違いはありません。

マサチューセッツに住む長男からは、今回の結果に驚いたとのメールが来ています。この選挙結果は自分たちの生活になんの支障もないといっています。いわゆる「No Problem,,」というやつです。ちょっと呑気すぎやしないか、という心配もあります。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その四 情報収集の貧困さ

大統領選挙後の話題は尽きません。テレビや新聞に登場する「評論家」、「有識者」はこぞって「こんなはずではなかった、、」と歯切れが悪いコメントです。「トランプさん、どうして勝ったんですか?」と困惑しているかのようです。

20141208201915 18005378_bg2 26b78ca89dbcfeb091c506fb416b3a1eこうした予想はずれは、外国の報道ソースに頼る現地の日本人特派員や日本大使館などから伝わる情報を鵜呑みにしていた結果です。特に責任を問われるのが日本大使館の情報収集の貧困さ。駐米大使は更迭されても仕方ありません。

オハイオ州やミシガン州は工業の盛んなところ、ウィスコンシン州やペンシルバニア州は農業が主要な産業です。いずれも労働者が多いのです。特派員や記者は自分の足で周りの人々の意見を集めなければならなかったのです。

ハイテクが盛んなカリフォルニアは単純労働者の雇用を奪っているといわれます。農業には多数の人出が必要なのです。フロリダも農業が中心の州です。多くの高所得者が退職して暖かい土地で余生を送る州でもあります。65歳以上の人々はトランプに投票しています。南部諸州はカトリック教会やプロテスタント教会の信者が多く、聖書地帯 (Bible Belt)と呼ばれています。伝統的保守主義(Traditional conservatism)が強いのです。

現在のアメリカの経済状況のことを多くの経済学者が「ああだ、こうだ」と指摘しています。日本車の優秀さは30年以上前から認められています。韓国の高い技術や中国の低賃金による生産性はアメリカの脅威となり、多くの雇用を国内で失ってきました。アメリカの劣等産業に従事する労働者は自由貿易に耐えられなくなっているのです。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その三 ”Stunning Upset”

大統領選挙後の話題を有力紙や放送局のヘッドライン (Headline)から考えてみました。私の大分錆び付いた英語の勉強にもなります。

Republican vice-presidential nominee Gov. Mike Pence, right, and Democratic vice-presidential nominee Sen. Tim Kaine speak during the vice-presidential debate at Longwood University in Farmville, Va., Tuesday, Oct. 4, 2016. (Andrew Gombert/Pool via AP)

Republican vice-presidential nominee Gov. Mike Pence, right, and Democratic vice-presidential nominee Sen. Tim Kaine speak during the vice-presidential debate at Longwood University in Farmville, Va., Tuesday, Oct. 4, 2016. (Andrew Gombert/Pool via AP)

249902cd-s img_0f23d60eaed166b1481db8676a1dd87139624最初はNew York Times紙です。開票結果の終盤では次のような見出しとなっています。
Trump is closing in on a stunning upset.

“Stunning” とは、「気絶させる」とか「ぼうっとさせる」、「唖然とさせる」という強い調子の単語です。続いて“Upset”が続きますが、「予想を覆す」とか「転覆する」、「気が動転する」という意味です。“Upset”は怒る、という意味で使われることが多いですが、この場合はその意味ではありません。とまれTimes紙の編集等らも開票結果に相当驚いたことが伺えるような表記です。

次にWashington Post紙です。
Clinton, Obama urge backers to accept Trump’s victory.

トランプ(Trump) の勝利を潔く受けとめよう、というニュアンスです。結果が出た以上それに従うのが民主主義というわけです。

ニュース専門放送局であるCNN (Cable News Network)は次のように報じています。
Hillary Clinton lost the election but is winning the popular vote.

クリントン(Clinton) は獲得選挙人数では破れたが一般投票の総得票数では勝ったという意味です。勝者総取り方式(Winner-take-all)という選挙方法では、こうした逆転現象が起こります。2000年の選挙でも民主党候補のゴア(Al Gore)が総得票数で共和党のブッシュ(George Bush)に勝ったのですが、獲得した選挙人数では足りませんでした。

今日のTimes紙の見出しは次のようです。
Clinton and Obama Plead for Unity as Trump Gets to Work.

クリントンとオバマは、新しい大統領の始動のために協力しようと呼びかけています。”Plead”とは擁護するとか弁護するという意味です。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その二 大統領選挙の主人公

ウィスコンシン大学時代、奨学金も底をつき、蓄えが少なくなってきたのでいろいろなアルバイトをして糊口を凌ぐことになりました。

0511tv ec26bfd7 669236597-%e9%81%b8%e6%8c%99%e7%b5%90%e6%9e%9c-%e5%a4%a7%e7%b5%b1%e9%a0%98%e9%81%b8%e6%8c%99-%e6%b0%91%e4%b8%bb%e4%b8%bb%e7%be%a9-%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e6%ac%a1%e4%b8%96%e7%95%8c%e5%a4%a7%e6%88%a6そんな中で最も長く働いたのが大学内にある院生の家族と研究者の世帯アパートの管理事務所でした。夏は芝刈りや植え込みの手入れ、冬はアパートの掃除や除雪作業でした。一緒に働くのは大学の職員です。大学の職員は教授からメインテナンス作業をするこうした人々まで様々です。会話の端々から分かったことは、アパートなどの管理業務にあたる彼ら白人は高卒であることでした。

会話といっても実に他愛のない内容です。卑猥な言葉、汚いスラング、人種差別語が混ざる全く歯牙にかけない話題ばかりです。海外から来る院生に対しての羨望や引け目などもあるようでした。

さる10月26日に「常民」という話題を掲載しました。知識人とか文化人とは対極的な生活様式をもつのが「常民」。一般に庶民、民衆という意味です。文化の基底を担う人々の意を込めて柳田国男は「常民」を用いたといわれます。「常民」とは普通の人、エリートでない人という意味です。

今や大卒といっても安泰な地位を維持できるわけではありません。レイオフが待っています。今度の大統領選挙の主人公はこうした「労働者」とか大卒の経歴がありながら仕事を失い木枯らしにさらされるアメリカの多くの「常民」です。「常民」が大富豪を大統領に選ぶところにアメリカという国の不可思議な一面があります。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その一 山口誓子

300px-battle_of_sakhalin tomariorutantetu 一段と寒くなってきました。

海に出て木枯らし帰るところなし

この句は詩集「遠星」に所収されている山口誓子の作品です。昭和19年11月に作られたとあります。太平洋戦争は敗戦が濃厚になり、日本軍は特攻とか回天といった命を犠牲にする無残な攻撃を始めます。今のIS (Islamic State)と同じ戦法です。二度と帰ることのない若者の命を歌ったのがこの句といわれます。誓子のぎりぎりの反戦的な態度だったのでしょう。

誓子の作品に「凍港」という樺太の情景を叙情的に詠んだ詩集もあります。
   探梅や遠き昔の汽車にのり
   氷海や月のあかりの荷役そり

200px-yamaguchi_seishi私は樺太の真岡生まれですが、樺太生活や風景になんの記憶もありません。誓子の句から成田家が過ごした樺太という風土の想像を巡らすだけです。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

文化の日を考える その十四 ムーミン谷の人々

読書の秋、食欲の秋、旅行の秋、運動会や文化祭の秋といった文化が日本にあります。「天高く馬肥ゆる秋」は漢書を原典とする故事とありますが、、秋は馬で敵が襲ってくるから警戒せよという意味だそうです。四季の移ろいを楽しむのは日本人も中国人も同じです。

秋の夜長に読みたい本にムーミン (Moomins) の童話があります。フィンランドの女性イラストレータであり作家であるトーヴェ・ヤンソン(Tove Jansson)の作です。この童話シリーズはスウェーデンとフィンランドで1945年頃から1993年にかけて出版され、世界中で読まれています。童話は九冊の本から成ります。我が国で紹介されたのは1969年頃といわれます。私がムーミンを知ったのはテレビ番組です。

fd68c403474ed85292db3856a0c4a1ea 9780312608897_Web.pdf c52365f8d62eace6899d1b7c266bd335主人公は、MumintrollとかMuumiと呼ばれます。一般にはムーミンと呼ばれる「男の子」です。頬が膨らんで白く丸い体をしていて動物のサイにそっくり。妖精のような生物で人間と呼んでよいかどうか、、、そんなことはどうでもいいのが童話の世界です。

ヤンソンは祖先がボヘミヤ(Bohemia)。今のチェコの中部と西部のあたりを指すようです。自然に恵まれ多様な民族との交流があったところといわれます。ヤンソンはそうした風土の影響を受けて創作活動をしたことがうかがわれます。今もフィンランドはヨーロッパで最も深い森に包まれた国といわれます。

ムーミンの家族らはフィンランドのとある谷、ムーミン谷 (Moominvalley)と呼ばれるところに住んでいます。森があり灯台や小劇場もある村です。とても安全な谷なのですが、いろいろハラハラする冒険を子供たちが引き起こします。

Moomintrollです。好奇心が強くやる事なす事話題となります。誰とも仲良くし、ときに勇ましく振る舞い両親をハラハラさせます。丸高帽子をかぶっているのがMoominpappa。子供のように冒険好きなお父さんです。豊かな教養がありいつもきちんと子どもを諭し、教えを授けています。物事をしっかりと考えて家族を育てます。次ぎにMoominmamma。いつもエプロンをして家庭を安全で暖かいところにする優しいお母さんです。誰かの誕生日を知っていてデザートをつくってやるという気の遣いようです。みんなが幸せになるように願っています。

登場人物には、ときに詩的な台詞や哲学的な発言をさせています。その代表がSnufkin。ハーモニカを吹いては思索する孤独な旅人です。子供には理解できるのかと思われるような台詞を語ります。しかし、人生を簡素に、ものごとを楽天的にとらえ、そこに自分の喜びを探求してムーミン谷の人々から信頼と尊敬を集める哲学者です。子供といえども大人の素養が備わっている、だから大人に向けに語られるような深い意味の言葉は子供にも理解できるのだという信念がヤンソンにはあるようです。

本稿で「文化の日を考える」シリーズは幕とします。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

文化の日を考える その十三 エストニアの文化と民謡

エストニア(Estonia)はラトビア (Latvia)、リトアニア(Lithuania)とともにバルト三国 (Baltic states)を形成しています。バルト三国といえば意外と我が国とは結びつきが深いところです。日露戦争で1905年2月にバルチック艦隊 (Baltic Fleet) がウラジオストック (Vladivostok) に向けて航海したところ、さらに第二次世界大戦中、杉原千畝氏がリトアニアのカウナス (Kaunas)にあった日本領事館で外務省の訓令に反しておよそ6,000人のユダヤ系難民に通過ビザを発給しその命を救ったことなどが知られています。

sugihara_b aa74d34d75649cc8e17574865a3d5517 _dsc9089ヴァイキング(Viking)の時代から中世を経て今日まで、長い歴史を有しています。中世時代にはドイツ、スウェーデン、ロシアの貿易商らの商人の祖先が定住したところといわれています。エストニアは豊かな自然と相まって多民族が織りなす異教徒の精神とヨーロッパ人の精神の有り様とされる考え方や言動のさま、そのメカニズムを受け継ぎ、現在はEUやNATOの加盟国となっています。

紀元前9000年頃に氷河期が終わるとエストニア人がバルト海(Baltic Sea)の沿岸に定住します。紀元後800年頃までは、エストニアの町や村が形成され自治を始めていきます。古代エストニアから今に至る最も特筆すべき文化は詩と歌にあるといわれます。特にエストニアの伝統音楽とされる民謡(folk song)は同一旋律の多人数による歌唱、斉唱 (unisonまたは monophonic) が特徴です。古代民謡は、「runo-songs」とか「runic songs」と呼ばれ、古代北欧風民謡ともいわれます。

ニューグローヴ世界音楽大事典 (New Grove Dictionary of Music and Musicians)によりますと、「Runo songs」の特徴は、もともと死の悲しみや嘆きを表すことにあります。死者を弔うのが民謡であったようです。エストニアは世界で最も民謡の数が多いことで知られ、その数133,000余りが記録として残されています。豊かな自然に対する畏敬の精神が民謡に示され、エストニアの歴史と文化の源となっているといわれます。木や大地は生命力を象徴し大事に保護されています。森は命の源泉として崇められ、聖なる所、霊が宿るところとされています。

Britannicaによれば、ソ連の占領下ではエストニアの民謡を歌うことは禁止されていたとあります。しかし、1988年9月にタリン近郊の野外コンサート会場「歌の原」に約30万人が集まり独立への機運が高まります。そして1991年に独立を達成します。このことからエストニアの独立は後に「歌による革命」と呼ばれたようです。五年に一度のエストリア最大の祭りでは歌と踊りが「歌の原」で開かれます。エストニアは今も「歌の国、Singing nation」と呼ばれています。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

文化の日を考える その十二 広場と市民と文化

一度、娘とエストニア(Estonia)の首都タリン(Tallinn)を訪れたことがあります。ヘルシンキからフェリーでバルト海峡を三時間。ソ連崩壊後の1991年に独立を宣言した新しい国です。ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデンなどに翻弄された独立に至る長い歴史があります。

url beograd-talin-avio-karte imagesタリンの街には古い教会が建ち並び、城壁で囲まれた広場があります。タウンホールといういわば役場が広場の一角にあり、説明書きによるといろいろな集会が開かれたとあります。さらに広場には、商工組合の原点とされるギルトのあった建物があり、政治とは切り離された独自の商行為をしていたことがうかがわれます。その建物は歴史博物館となっています。

広場が文化の形成にどのような役割を果たしたかを考えています。人との出会いの場、それが広場の役割です。「人」と「もの」と「情報」が混じり合うのが広場です。今でいうファーズマーケット(Farmer’s Market)が何世紀にもわたって開かれたところです。「情報」とはものの値段を決めるものです。こうした人々の行動を左右するのが文化の総体ということのようです。

文化を生み出した広場の歴史は、赤の広場 (Red Square)、天安門広場、トラファルガー広場 (Trafalgar Square)、シャルル・ド・ゴール広場(Place Charles-de-Gaulle)など人間のエゴがプンプン臭うようです。魔女狩りが行われ、火あぶりやギロチンなどのみせしめの処刑が行われ、国威高揚のような戦車やミサイルのパレードが繰り出すところです。広場の所産ともいえる文化の一面です。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

文化の日を考える その十一 広場と市民の生活

mercato-delle-cascine-tuesday-market-at-le-cascine-florence-tuscany-aew2k7 img_2 firenze037
ヘルシンキ市内の大きな広場にやってきます。側にある案内板には、古今、政治も経済も祭りごとなど貴族や庶民の生活は、この空間で繰り広げられたと記されています。議会が開かれ、政治が語られ、裁判も行われ、処刑者へのとりなしの礼拝が行われたとあります。いわば神も市民もこの広場に集まっていたようです。

中世に勃興した自治都市の成立と発展は広場とともにあるようです。広場に立ちながら、しばし広場が市民の生活や文化の形成にどんな役割を果たしたのだろうと考えます。

街の賑わいは広場にあることです。どこの広場もこと食べ物に関しては、例外なく賑わいが演出されています。毎日早朝から市場が広場にできます。近隣の農家が競って新鮮な野菜や果物を山のように並べます。広場は、生活の場。そういえば、マーケット広場とかマーケット通りという地名が必ずといってよいほど大きな街にはあります。ここヘルシンキも、あとで訪れることになるタリン(Talin)も例外でなはありません。広場は食の交流の場のようです。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

文化の日を考える その十 ヘルシンキ・オリンピック

フィンランドの思い入れの話題です。ヘルシンキの街中に立ったときです。それは北海道の片田舎で小さな私が経験した興奮の瞬間のような時です。ラジオや新聞で初めて文化の祭典、オリンピックに接したのです。

paavonurmi_500 856fd60a03dba893ea4c4b8ece2153d8404683ca 20150727-3-emilこのとき私は10歳。新聞やラジオからのオリンピックの話題はひとつも漏らさず、今も鮮明に記憶にあります。戦後の日本にとって、フィンランドは記憶に残る国です。それは1952年にヘルシンキで開かれた夏季オリンピックです。その前の1948年のロンドン・オリンピックには戦争責任のために日本は参加できませんででした。フィンランドは第二次世界大戦後初の夏季オリンピックへの復帰です。

復興しはじめた日本が国際舞台で再出発する大きな転機となります。聖火を点火したのは、パーヴォ・ヌルミ(Paavo Nurmi)。1920年から1928年の間、オリンピックで陸上の中長距離で合計9個の金メダルを獲得した彼は今も国民的な英雄です。

新聞で大賑わいだったのが、チェコスロヴァキア(Ceskoslovenska)のエミール・ザトペック (Emil Zatopek)です。ヘルシンキでは陸上競技長距離種目で3つの金メダルを獲得したのです。彼はそれまで「人間機関車」というニックネームがつくほどの驚異的なランナーでした。5,000m、10,000m、マラソンでの優勝は前人未踏の偉業となりました。

それにもまして、日本人を驚喜させた活躍が選手がいました。唯一の金メダルを獲得したのが、レスリングバンタム級の石井庄八でした。決勝戦の相手は、優勝確実との下馬評の高いソヴィエトの選手。フィンランドの選手らは雑巾のように叩きつけられたと報じられました。

その他、水泳1,500m自由形の橋爪四郎が銀メダルをとります。彼のライバルは古橋廣之進。「フジヤマのトビウオ」の異名で世界中の水泳界で知られ、1,500mで泳ぐたびに世界新記録を塗り替えてきました。ロンドンオリンピックに出場していれば、金メダル確実といわれました。古橋はヘルシンキ五輪ではすでに峠を越えていました。
[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

文化の日を考える その九 鰊漬けと馬鈴薯

ヘルシンキでの二日目の朝。宿の朝食では沢山の種類の鰊漬けが並んでいました。マリネとどう違うのかは分かりませんが、鰊漬けをたらふく食べたのは稚内時代以来のことでした。

81cc6cda1849d5c2562eb78a9468947c-608x456 123c13c9a4da4e853b050c55475f81f8 dee61c9f914f1727efb233ba17a712b2街頭に繰り出しました。時折、地図やガイドブックを手にする地元の人を見かけるだけです。多分田舎から汽車でやってきたかと思われる家族連れなどに出会います。身なりが質素なのと、なんとなく酪農や畑仕事を生業とする風情が感じられる旅人です。ダウンタウンにはこうしたお上りさんやまわりの国からの旅人が行き交っていますが、東洋からの若くて元気の良いギャルの群は見かけません。

通りに面したカフェやレストランは、競うように色鮮やかなパラソルをひろげ、テーブルや椅子を並べて客を迎えています。丁度待ちに待ったつかの間の夏。街のあちこちに広場があります。大道芸人のアクロバットや道化師のパントマイム(pantomime) 、弦楽三重奏をかなでるアマチュア音楽家、そうした芸術を楽しむ通りがかりの人々がいます。

野外のマーケットがあり、数時間前に掘り出したかのように土がべっとりとついている馬鈴薯を人々はせっせと買っています。日本人では米のない食生活が考えられないように、北欧諸国は馬鈴薯なしに食文化は語れないようです。アメリカも馬鈴薯が主食のようなところがあります。

そして白夜という舞台が用意されています。なんとも贅沢な光景です。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

文化の日を考える その八 ヘルシンキの白夜

1985年7月のことです。タラップを下りるとオランダ (Netherlands) 最大の都市アムステルダム(Amsterdam) の空港でした。乗り換えのためです。初めてのヨーロッパでした。静かな緊張が襲ってきました。田舎者の気分です。それを鎮めようと、空港のカフェに入りました。これからフィンランド(Finland) のヘルシンキ(Helsinki) へ向かうつかの間の待合時間です。田舎者を気づかれまいとして、できるだけのんびりと振る舞おうと気取るさもしい自分を感じました。会計を済ますと金髪の店員が「お金を落としましたよ」と英語で呼び止めてくれた。笑顔が印象的で、なにかこの旅はいいことがありそうな気がしました。

%e3%83%98%e3%83%ab%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%82%ad%e3%82%bf%e3%83%aa%e3%83%b3 o0600078311032506175 4939_sub_027550aa9356cae44-45903077フィンランドの代名詞はスオミ-Suomi。フィンランド語もSuomiと呼ばれます。お隣スエーデン(Sweden) やロシア(Russia) の統治にあって、独立したのは1917年。その後も戦争はこの国を翻弄した。2007年5月、天皇陛下が訪問したバルト(Baltic)三国の一つ、エストニア(Estonia) は北海を挟んだ向こう側にあります。

ヘルシンキで泊まったのはダウンタウンに近い三流ホテル。カウンターには若い女性一人がテキパキと客をさばいています。ここには客の荷物を無理に運ぼうとするいんぎんなホテルボーイなどは宇なせん。部屋に入りテレビをつける。ポルノビデオをやっていました。この類のテレビ番組はアメリカでも見たことがありません。フィンランドとはこれほど性表現が自由な国なのかと考えました。

白夜 (White Nights) というものを始めた経験することになりました。シベリウス (Jean Sibelius) とフィンランディア (Finlandia) のことが思い浮かんできました。なにせ午後11時になっても外は明るいのです。窓からサッカーをする人を眺めながら、睡魔がくるのを待ちました。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

文化の日を考える その七 文化とルース・ベネディクトと土居健郎

今も昔も、日本人論とか日本文化ということが内外の識者によって語られています。アメリカで最初に日本文化を論じた人にルース・ベネディクト(Ruth Benedict)がいます。彼女の文化観を考えることにします。

ruth-benedict-1-728 camp3candy 933-1ベネディクトは、共同体それぞれ文化に基準があり、他の価値や伝統という尺度からは文化の意味を理解することが困難だと主張します。ベネディクトの文化のとらえ方は、「日本人」とか「日本文化」でくくられる狭い意味の文化論とも違うようで、生活や環境全体を意識する見方のようです。彼女の文化観は、文化というものは相対的なもので、共同体に独自の規範があり、それを理解していくと文化の比較は生産的でないと主張します。つまり共同体の文化は、意味や価値を有しておりそれを標準化するような性質のものでないという立場なのです。

ベネディクトは日本で研究したことはないのですが、戦時中日系アメリカ人や日本人捕虜との接触から日本文化を調べ、「菊と刀」(The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture)という著作をあらわします。そして日本人の心性とか人間関係の基本が「恥の文化」(Shame Culture)にあるという仮説をたてるのです。

日本人捕虜との遭遇から一つのエピソードがあります。戦時下ではアメリカの捕虜は尋問に際して、敵方の軍事情報は決して明かさず、故郷や家族のことを語るの対して、日本人捕虜は軍事作戦に関することは白状しても家族のことは決して語らなかったいうのです。家族に捕虜になったことを知られたくなかったといいます。ベネディクトはそうした精神を「恥の文化」と呼んだわけです。「罪の文化」 (Sin Culture)というキリスト教のとらえ方と対峙させたのです。「罪」というのは内に感じて外に向かい、恥というのは外に感じて内に向かうと一般にいわれます。

日本人の人間関係を「他人依存的自分」、あるいは「受身的愛情希求」としてとらえるのが精神科医師の土居健郎です。その著作「甘えの構造」 (英訳:The Anatomy of Dependence)の中で、日本人は周囲の人に好意を持ってもらいたいとか、他者に対して「好意を持って優しくして欲しい」という他者依存があると主張します。内と外という関係に登場するのが「遠慮する」という考え方です。遠慮がない身内は文字通り内であるが、遠慮のある義理の関係は外であると規定します。「遠慮」とは「美徳」だというのです。人間関係を円滑にする大事な手段と考えます。内的な良心を意識する「罪の文化」とか「近代的自我の欠如」の態様が「恥の文化」であるととらえるベネディクトの主張に対して、「そうではない、甘えという美徳が行動の規範なのだ」というのが土居の文化観です。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

文化の日を考える その六 不条理という文化

誰かが「自分は異邦人であり、よそ者であるという視点から物事を見つめることが大事だ」といっています。この稿を書きながら、集団の規範や組織のしきたりに疎かった自分を振り返えると、この言葉になんとなく共感を覚えます。

relativismcriticism

icamusa001p1

icamusa001p1

img_0アルベール・カミュ(Albert Camus)の小説に「異邦人」というのがあります。アルジェリア(Algeria)に住むムルソー (Meursault) が主人公です。養老院での母親の葬儀に参列するのですが、ムルソーは深い悲しみを押しとどめるかのよう無表情です。周りは不思議がります。

あるときムルソーはトラブルに巻き込まれ、アラブ人を射殺します。裁判では、肉親がが死んでからも普段と変わらない行動を問題視されます。人間味のかけらもないと糾弾され死刑を宣告されます。懺悔を促す司祭を獄から追い出し、人々から罵られながら処刑されます。なんとも「不条理」な生き様です。

不条理 (absurd, absurdity)とは馬鹿げているとか滑稽だ、という意味です。人とうまく調和しないこととか、常識を外れた行動または思想といわれる有り様のことです。それは周りに「耳をかさない」孤高の姿のようです。普遍的とか普遍性とは相容れない考えのようです。しかし、そうした生き方もあるのが人生です。不条理とは「文化」の一部なのかもしれません。ナチズムや国粋思想を振り返りますと、そこには高い教育を受けた者が「明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性」(Wikipedia) という側面があるのに気がつきます。

今も「極端」というか「過激」な自文化中心主義(ethnocentrism)が幅をきかせています。国際関係における紛争や対立は、表現や報道の自由、難民対策、薬物対策などをめぐる人権問題、サイバー攻撃といった目に見えない紛争となっています。弱者を蔑視する猟奇的なヘイトクライムも身近に起こる時代です。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

文化の日を考える その五 「文化鍋」とは?

img_04111 11121442_50a08c3a4f826 rdn_50d155c1cd90f前回は佐伯泰英の時代小説から「文化」の一面を考えました。吉原という共同体は固有の生活様式で統合されており、他の文化からの基準ではこの共同体を理解することは困難だということをいいたかったのです。相対化という視点でこの共同体における生活内容や人々の行動様式を問うていく必要があるように思えます。ですがこれが結構難しい話題です。

文化には二つの意味がありそうです。第一は優れた芸術、学問、技術、それが醸し出す上品な雰囲気のようなことです。広辞苑によれば「人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果、衣食住、技術、学問、道徳、宗教、政治など生活形成の様式と内容」とあります。文化とは概して好ましいもの、望ましいものと考えられてきました。

その例として、以下のように「文化」がつく単語があることです。文化国家、文化庁、文化勲章、文化都市、文化村、文化村通り、文化広場、文化センター、文化功労、文化の日、文化映画、文化遺産、文化財、文化保存、あげくは文化住宅、文化風呂、文化食品、文化鍋、文化包丁などです。実にうさんくさい響きの語に「文化人」というのもあります。

広辞苑はさらに、文化に対峙する単語は「自然」としています。なるほど、ドイツ語の Kultur や英語の culture は、本来「耕作」、「培養」、「洗練」、「教化」、「産物」という意味であり、人間が自然に手を加えて形成してきたものです。

文化の第二の意味です。すべての文化が人間を幸せにしたということではありません。人は文化によって苦しみ、虐げられ、死に追いやられてきた事実も限りなくあります。戦争、武器、原発、偏見や差別なども文化の所産です。「文化大革命」もありました。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表しません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

文化の日を考える その四 時代小説から

oiran_with_yarite_and_kamuro_1 img_0 z0164-168「吉原裏同心」という佐伯泰英のシリーズものがあります。この小説の舞台は江戸の葦の原ー吉原です。吉原に暮らす人々の欲望と夢、汚れさと純真さ、嫉妬と愛憎、生と死などが描かれています。

天下御免の色里、吉原の頂点にいるのが花魁です。一見華やかな太夫、花魁の世界。その背景には、売られ買われる女性がいます。それを取り巻く大勢の人が吉原で暮らします。例えば、吉原の秩序を保つ江戸町奉行の役人、廓内での騒ぎをまとめる頭取や小頭、さらに医者、仕出し屋、読売屋、三助、職人、商人、船頭、幇間と呼ばれる太鼓持ち、芸者がいて吉原という集団を形成しています。

幕府公認のこの色里には廓内の決まりがあります。所司代の元にある与力という下級役人の下で警護を司るのが用心棒の裏同心です。裏同心らの働きによって自治や治安が保たれるという不思議な世界です。ヤクザが秩序を保っているといえばわかりやすいです。

筆者がこの時代小説に惹かれるのは、吉原という共同体に受け継がれる行動のパタンやその背後にある価値観という文化です。吉原という「場」を色街とか色里という固定観念でとらえると、花魁がなぜ客をもてなすために古典や書道、和歌、誹諧、茶道、箏、三味線などの芸事に修行したのかが分からなくなります。そしてなぜ裏同心とか遊女に読み書きを教える者が存在が吉原に必要だったのかは、「おもてなしの文化」とか秩序とか決まりを維持するためであることが首肯できます。

江戸文化というと一見、茫漠としていますが、それは人々が手を加えて形成してきた衣食住をはじめ、歌舞音曲、作法、詩歌など生活様式と内容という総体のこと、それが江戸文化といえます。この総体を意識すると、吉原に暮らす人々の日常性のなかに少々大袈裟ですが、なにか原理的な意味を見つけられるような気がしてきます。
[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]