木枯らしの季節 その2 ライデンからプリマスへ

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感謝祭の由来

 北米における感謝祭(Thanksgiving)は、ヨーロッパ(Europe)のオランダ(Netherland)の歴史に遡ることができます。感謝の日の起源について諸説があるようですが、バングス(Jeremy Bangs)という歴史家でライデン・アメリカンピルグリム博物館長(Leiden American Pilgrim Museum)の仮説が有力なようです。バングスはシカゴ大学を卒業し、ライデン大学 (University of Leiden)からPh.D.を取得します。やがてライデン市立ピルグリム文書館 (Leiden Pilgrim Documents Center of the Leiden Municipal Archives)の主任学芸員となり、その後1997年にライデン・アメリカンピルグリム博物館を創設します。

 バングスによると、1573年から74年にかけてスペイン軍がライデン(Leiden)を陥落させようと包囲した史実が基となっています。スペイン軍の包囲からライデンが解放されたことを記念し、感謝礼拝を執り行ったことが感謝祭に発展したのではないかというのです。この祝いが毎年ライデンで開かれる「10月3日祭」 (Oktober Feest)という祭りです。「10月3日祭」 の伝統がアメリカに移住した巡礼始祖と呼ばれるピルグリム(Pilgrim)によって引き継がれたというのは頷けます。


メイフラワー号

 ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)と呼ばれた巡礼始祖を乗せたメイフラワー号 (Mayflower)が イングランド(England)のプリマス (Plymouth)を出帆したのは1620年9月6日。そして11月9日にマサチューセッツ(Massachusetts)、ボストン(Boston) の南に位置するケープコッド(Cape Cod)のあたりに到着します。66日の航海です。しかし、メイフラワー号のピルグリムはもともとニューヨーク(New York)のハドソン川(Hudson River)沿岸を目指していました。そこでケープコッドを離れ南下するのですが、天候が悪くケープコッドに戻ります。ところがケープコッドは塩分を含んだ土地であり、農作物の耕作に不適であるという理由でボストンの東のプリマス(Plymouth)に上陸し、そこにプリマス開拓地(Plimoth Plantation)を定めます。

プリマス開拓地はボストンから車まで一時間のところにあります。ボストンに行かれたときは、是非ともこの自然博物館を訪れることを強くお勧めします。プリマスはPlimothとかPlymouthと綴られます。その違いの理由は分かりません。


木枯らしの季節 その1 山口誓子の詩

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 一段と寒くなってきました。「海に出て木枯らし帰るところなし」 という句は詩集「遠星」に所収されている山口誓子の作品です。昭和19年11月に作られたとあります。太平洋戦争は敗戦が濃厚になり、日本軍は特攻とか回天といった命を犠牲にする無残な攻撃を始めます。今のISと同じ戦法です。二度と帰ることのない若者の命を歌ったのがこの句といわれます。誓子のぎりぎりの反戦的な態度だったのでしょう。

 誓子の作品に「凍港」という樺太の情景を叙情的に詠んだ詩集もあります。この句の舞台は、樺太南部の港町、大泊です。明治34年に京都で生まれた誓子は、明治45年に樺太日日新聞社の社長であった祖父の住む樺太へと渡ります。そして、大正6年に大泊中学から京都府立一中に転校するまでの約5年間を樺太で暮らしています。

探梅や遠き昔の汽車にのり
   氷海や月のあかりの荷役そり

 私は樺太の真岡生まれですが、樺太生活や風景になんの記憶もありません。誓子の句から成田家が過ごした樺太という風土の想像を巡らすだけです。誓子が療養中に詠ったのがこの句は、敗戦間近で反戦文学などの流行に警戒していた官憲の検閲にひっかからなかったようです。

国政選挙の予測 その九 戦略とキャンペーン

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日本の国政選挙とアメリカの大統領選挙キャンペーンには、いろいろな違いがあります。その一つは、資金の集め方です。現在日本では、政治家個人への献金は原則として禁止されており、政治家に献金する場合は、一政治家が一つだけ指定できる資金管理団体や候補者の後援会などを通じて献金することになります。日本国籍を持つ個人のみ献金が可能で、一政治団体に対して年間150万円迄の政治献金が認められています。これが選挙資金の中心となります。こうして党に寄せられる政治献金などをもとにして、党より公認されると候補者へ選挙資金が配られます。

 アメリカでは、組合などは政党や政治家へ直接献金することが禁止されているため、PAC(Political Action Committee)という政治資金管理団体を設立して資金を調達し、それを通じて政治献金を行なっています。特定の候補者に属して選挙活動を行うPACへの献金は、一人当たり年間5000ドルに制限されています。献金すると税制上も優遇されるため、主に富裕層からの政治献金の受け皿となっています。マイクロソフト共同創業者ビル・ゲイツが今回の大統領選で、民主党候補のハリス副大統領の支持に回り、5000万ドル(約75億円)を民主党のPACに寄付したといわれます。

 アメリカ大統領選挙戦をみますと、集まった献金を使ってテレビCMやSNSなどで他の候補を中傷する「ネガティブキャンペーン(negative campaign)」に用いるなど、特定の政党や候補者への批判や支援につながっている場合が多いようです。例えば、相手を誹謗するような、堕落した(corrupted Joe)、眠りこける(Sleepy Joe)、不正な(crooked Hilary)、変人(weirdo)、精神異常(mental collapse)、精神病質(psychopat)といった言葉遣いです。ネガティブキャンペーンは日本の選挙でもしばしばなされていますが、個人の人格などへの批判や攻撃は少ないです。

Harris vs Trump

デジタル・メディア・コンテンツの台頭
 今日の選挙戦の一つの特徴は、これまで以上にデジタル・メディア・コンテンツが台頭してきたことです。ある調査によれば、テレビの生放送を見る時間は減っています。録画番組を視聴する時は、CMを飛ばすのが常です。全国向けのテレビにおける候補者討論会の生放送でも、視聴しなかった者は若年層に顕著だったようです。投票しそうな有権者の1/3がテレビ生放送は見ないとか、映像を見る際にも45%人々が見ているのは、テレビ生放送以外の内容ともいわれます。少し古い統計ですが、2012年のバラック・オバマ(Barack Obama)とミット・ロムニー(Mitt Romney)による大統領選挙におけるテレビ選挙広告は30億ドル市場といわれ、依然として大手マスメディが広告の最大の出資先となりました。ただどれだけの有権者が選挙広告を見ているかは調査しなければなりませんが、、、

ポジショニング
 トランプは2017年1月の大統領の就任演説において、「何も行動をしない政治家とワシントンDCから権力を奪い、忘れ去られた国民にその権力を取り戻す」と宣言しました。この言葉には彼の選挙戦略が凝縮されています。
I will take power away from inaction politicians and Washington DC and give it back to the forgotten people.

 トランプは自らを「成功した起業家で、過去に政治・行政における一切のキャリアを持たない、史上初の米国大統領候補」という立場を鮮明にしました。あらゆる共和党内候補や民主党候補のビル・クリントン(Bill Clinton)から自らを差別化したといわれます。他の候補者を「不誠実(dishonest)で堕落した(corrupted)候補」として攻撃する一方で、自分自身をその対極にある、「正直(honest)で成果を創出する(entrepreneurial)変革者(change agent)」と自認したのです。こうしたポジショニングは、過去の大統領選挙にはない新たな戦略で、選挙の主導権争いに勝利したといわれます。奇抜な発言や政策、駆使したメディアなどがトランプの勝因だったというわけです。

 候補者は通常、支持基盤を広げるにあたって投票頻度の低い有権者と投票先が揺れる有権者(Swing Voter)の両方をターゲットに据えます。その中で、もともとZ世代を中心とする若者は民主支持が多いとみられてきましたが、トランプ陣営も若い男性に支持を広げ、2024年10月25日現在では予断を許さない情勢だといわれます。トランプ陣営はこのところ投票頻度の低いZ世代に重きを置いているようです。最近は時給20ドルで若者を雇い在宅訪問などによって、ヒスパニックなど白人以外の有権者へも働きかけているといわれます。しらみつぶしのドブ板の選挙戦ともいえそうです。

メディアの活用とポピュリズム
 資金が豊富なハリス陣営はトランプ陣営と対照的に、より幅広い有権者層で票を獲得しようとしているといわれます。選挙イベントや登録推進活動を通じて、トランプを支持していない女性や黒人などの層を取り込む戦略を取っているといわれます。両候補が活用するメディアでも違いが見られています。トランプは、もともと若年層の支持率が低いこともあり、その改善策としてソーシャルメディアに注力しています。他方、ハリスは反トランプ派の支持を広く集めようとして、ソーシャルメディアよりも情報の伝達範囲が広いマスメディアを重要視しています。ワシントン・ポスト(Washington Post)やニューヨーク・タイムズ(Newyork Times)などの全国紙、その他ABC、CNN、NBC、CBSなどのケーブルテレビといった、いわゆる既存の大手マスメディア(mainstream media)を積極的に活用しています。

 今、アメリカでは大きな懸念がメディアに登場しています。それは「フェイクニュース」(fake new)という現象です。フェイクニュースとは「偽り」だけを意味しているのではありません。自身にとって不都合で納得のいかない、情報に対して、「デマ」というレッテルを貼る意図的な政治的な PR 情報のことです。自分に対して厳しい立場のメディアをたたく常套句がフェイクニュースです。もっと懸念することは、フェイクニュースを信じ拡散しやすいのは、自分で情報を検証したり、情報を疑ったりする資質のない人々が大勢いることです。

 我が国では、フェイクニュースはあまり話題とはなりませんが、ポピュリズム(populism)という「固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治スタイル」になびきやすい層が大勢いるのです。先の東京都知事選挙で、SNSに乗ってポピュリズムに影響を受けた多くの人々の投票行動が話題となりました。各党の戦略とキャンペーンは複雑になり、有権者の選択肢も増えた反面、決断することも難しくなっています。それだけにさまざまな教育的な機会による判断力などの資質の養成が大事な時代となっています。
(投稿日時 2024年10月27日)

国政選挙の予測 その八 投票率

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「若者の投票率はなぜ低下したのか」という津田塾大学での研究を引用してみます。若年層と高齢層の投票率の差は、日本では1970年代は10%程度であったものが、1990年代には20~30%程度、2010 年代は30~40%程度に拡大しています。若者が投票に行かなくては、ますます政治に若者の意見が反映されなくなってしまうのは確かです。なぜ若年層の投票意欲が低いかです。それには「政治的有効性感覚(Political Efficacy)」の観点が欠かせないといわれます。政治的有効性感覚とは、若者は「自分の一票に影響力がない」と感じることです。ここが高齢の有権者の意見と異なるところです。

 有権者は、自分の地域の政治的・経済的状況が変化しつつある時は、政治的有効性感覚の有無にかかわらず、投票という行動に移ると考えられています。このことは特に高齢者にいえることのようです。帰属意識の高い若者が多い地域では、若者の政治的有効性感覚が高く、多くの若者が投票に行くともいわれています。

 公益財団法人「明るい選挙推進協会」の調査によれば、「自分には政府のすることに対して、それを左右する力はないか」という質問に、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と答えたZ世代の割合は約7割に上っているとあります。これは一種の「政治的無力感」といえます。Z世代とは、1990年代半ばから2000年代に生まれた世代」を指します。同じ調査では、国会議員・地方議員・首長について、Z世代は「全く信頼できない」と「あまり信頼できない」と回答した割合は7割近くに達しています。

投票意欲

 アメリカの著名な政治学者であるリップハルト(Arend Lijphart)は、選挙における低投票率は問題視しなければならないと主張しています。その理由の第一は低投票率を「不均衡な投票率の結果だ」と指摘するのです。不均衡な投票率によって政治的影響力の差異を生み出していると主張します。金持ちや高学歴層などの「恵まれた人たち」はさまざまな形で政治に関与し、政治的な影響力を行使しがちです。それに対して、「恵まれない人々」は政治的な影響力をそれほど行使しない傾向があり、その結果として投票という政治参加には「階級バイアス」がかかっているというのです。

 Z世代も高齢者も含め、すべての有権者が政治に対する関心を保ち主権者としての意識を有するためには、政治に対する一定の知識も必要と考えます。こうした必要性は、若者に対する学校教育にとどまらなく、有権者となった人々に対しても、継続的な主権者教育への機会を提供し、政治に対する知見をさらに深めることを目指すべきでしょう。
(投稿日時 2024年10月26日)

国政選挙の予測 その七 地域の人口動態

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 各地の過疎地域は、山間部や離島などを中心に日本全国に広がっています。全国の市町村の約半数が過疎の問題を抱えており、日本面積で言えば、国土全体の6割弱の割合となっています。人口の減少とともに、税収が減少し行政サービスの廃止や有料化が起こります。人口が減少し過疎化が進むと、必要な人口規模を確保できなくなり、金融機関や病院、飲食店、小売店などのサービスが縮小や撤退につながる可能性が起こっています。

廃校

 それにもまして、気掛かりなことは、コミュニティが希薄化することです。人が少なくなると消費需要が減少し、地元の商店や飲食店も廃業に追い込まれる場合も見られます。商店街がなくなれば、買い物の利便性が低下するだけでなく、住民同士の交流の場も失われてしまいます。

 さらに、地方から流出した人口が都市部へと集中することで、都市部の「過密化」が進みます。都市部は、地方からの労働人口が増え、政党の岩盤層と呼ばれる者の票と若年層を中心とする浮動票とに分かれると思われます。高齢者は概して、保守政党の大事な基盤ですが、若年層はどのような将来設計を立てれるかによってどの政党を選ぶか、あるいは政治に無関心になり投票率が下がることが予想されます。

寂しい商店街

 若年層が都会にやってくると、まずは仕事探しで苦労します。多くの場合、非正規雇用者として仕事に従事しがちです。働く機会がないため非正規労働に就いているのです。賃金が低く、社会保障や福利厚生面で不利な立場にあるため、生活安定や将来への不安が高まります。家を待つとか結婚するなどの夢は大分先のこととなります。企業にとってみれば、非正規雇用者を雇う場合、安い賃金で雇用できますが、人材育成が進まない、業務が限られる、そして従業員が定着しないという課題に直面します。

 デフレといった一種の社会不安が続くならば、有権者の投票行動へも影響します。ましてや裏金事件や裏公認料の配布などによる政治不信が高まるときは、人口動態の如何に関わらず選挙結果に影響すると予想されます。
(投稿日時 2024年10月26日)

国政選挙の予測 その六 経済や景気動向

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内閣府のサイトによりますと、今や日本経済は、緩やかなデフレの状態にあると報道されています。そのデフレの要因は、(1)安い輸入品の増大などの供給面の構造要因、(2)景気の弱さからくる需要要因、(3)銀行の金融仲介機能低下による金融要因、の3つがあげられるというのです。私なりに以上の3つの要因は次のように解釈してみます。

第一の「安い輸入品の増大などの供給面の構造要因」とは、安い輸入品の増大によって、国内の原料を使った製品の製造価格が上がり、そのため価格も高くなり売れないということです。ブランド品とかは高くても売れますが、一般の消費者にとっては高値の花ということになります。

第二の「景気の弱さからくる需要要因」とは、実質賃金の上昇が緩やかなために、消費者はモノやサービスを買え控えに走り、需要が供給よりも低くなる状態のことです。需要が高まらないと生産という供給も滞り、企業は製造を抑制するなどして受益が下がるのです。

物価上昇率

第三の「銀行の金融仲介機能低下による金融要因」とは、預金などの資金を借り手や企業に貸し出すことで、資金の流れを仲介する役割です。こうした金融仲介機能を発揮することで、お金を経済の血液として循環させ、地域や経済を活性化することができるのです。しかし、モノを供給する企業の内部留保が増え、銀行の企業への融資などの金融仲介機能が振るわないために、経済の好循環が滞るのです。銀行には、質の高い金融商品とかサービスを提供するといった積極的な金融仲介業務が期待されているようです。

AIによりますと、日本経済の景気回復は、2024年度後半から2025年度にかけて緩やかに進むと予想されています。実質GDP成長率は2024年度は+0.6%、2024年度は+1.1%、そして消費者物価上昇率(生鮮食品を除く総合)は2024年度は+1.9%、2025年度は+1.4%と予想されています。物価値上げの伸びが落ち着くことで、実質賃金がプラスに転じ、個人消費は緩やかに増加すると予想されています。

新聞などは、AIの予測のように持続的に下落するデフレの状況から潮目が変わってきたとも報道されています。賃金は物価の伸びに追いつかず物価が上がっていても、賃金が上がっていれば大きな問題とはなりません。ですが日本全体で見れば、賃金の上昇率は物価の伸び率を下回っています。物価上昇を考慮に入れた賃金のデータは「実質賃金」と呼ばれています。日経新聞によりますと、2024年4月の実質賃金は前年同月と比べて0.6%減っています。減少は22カ月連続です。このような状況にあっても、消費税増税とか社会保険料の値上げという声が与党や一部の野党から何故でるのかが理解できません。

実質賃金と名目賃金

現在、与党内では2025年度の基礎的財政収支、いわゆるプライマリーバランス(PB)の黒字化目標が大きな焦点の一つとなっています。つまり、2025年度PB黒字化目標を堅持し、財政規律を維持する財政規律派と、2025年度PB黒字化目標を見直すことで、財政出動の余地を広げることを主張する積極財政派との対立が続いています。この対立を国民はどのように受け止めるかが選挙結果に表れると思われます。
(投稿日時 2024年10月25日)

国政選挙の予測 その五 メディアの多様化

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 最近のいろいろな報道は放送や新聞メディアの他に、SNSといったインターネット上で人々がつながり、コミュニケーションや情報共有を行うためのプラットフォームが頻繁に使われています。インターネットの活用は今後ますます広がり、やがてインターネットでの電子投票も進むかもしれません。投票形式が多様化すると、投票率もアップすることが期待されています。しかし、電子投票に躊躇するのは、高齢者などの支持が強い与党とか一部の野党です。電子投票は家や職場から投票できるのですから、本来ならば投票所が遠い田舎に住む人々にとっては便利なはずです。ですが、これにより投票率が高まると、それを歓迎しない党があるので、未だこの方法は実現していないのです。新しいことをやりたがらないのが今の行政です。それでもインターネットの利用は今後もますます浸透するので、時代の趨勢に逆らうことは困難になるでしょう。

ポスター掲示板

 今年の都知事選挙で大いに支持を伸ばした候補者がいました。SNSを大いに駆使してそれまで浮動票といわれた若者などに支持されたといわれます。実際は、今回の国政選挙でもYoutube上での政見放送やPRが盛んに行われています。こうした手法は、今のNHKで実施されている各党の政見放送よりははるかに、視聴者が高いと思われます。紙などのチラシを配布するという方法はやがて廃れていくでしょう。候補者のポスターを貼る掲示板もやがては姿を消すはずです。ポスターでは候補者の政策が全くつたわらないのです。時代遅れな手段といえましょう。改正公職選挙法では、「政治活動、例えば新聞紙又は雑誌による広告、テレビ、ラジオ等による政治活動は、選挙運動期間中、誰でも自由に行うことができる」に加えて、「インターネット上でのすべてのメディアで政治活動を行うことができる」となりました。

選挙七つ道具

 「インターネット等を利用する方法」とは、「放送を除く電気通信の送信により、文書図画をその受信をする者が使用する通信端末機器の映像面に表示させる方法」です。改正公職選挙法第142条の3第1項にウェブサイト等を利用する方法も規定されています。具体的には、インターネットのほか、社内LANや赤外線通信などであっても、「インターネット等を利用する方法」に含まれるとされました。

 インターネット上では、各地の街頭演説の様子が映し出されています。全国の街頭演説の様子がわかるのですから実に便利な時代になりました。候補者がどんな考えで政策を訴えているのかが机上のパソコンやスマホ画面でわかるのです。このようなテクノロジーは、高齢者や僻地に住む人々に大きな恵みとなるはずです。

 選挙運動用の自動車からの候補者の連呼行為は実にうるさく、迷惑な行為です。政策などは全く語られず、ただただ候補者名を連呼するだけです。選挙事務所の看板類では、「ちょうちん1個及び立札・看板の類を通じて3個」といった笑いがでるようなことが規定されています。こうしたアナログの規制は、時代遅れです。候補者のノボリやポスターにはQRコードなどが印刷されると、その人の訴えたい政策が有権者に伝わるはずです。しかし、こうのような提案を与党などは採用しようとしません。公職選挙法を変えるのを躊躇しているのです。それには理由があります。投票率が高くなると困るからなのです。
(投稿日時 2024年10月24日)

国政選挙の予測 その四 選挙制度とゲリマンダー

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2016年6月19日以降の国政選挙から、選挙年齢が「満18歳以上」に引き下げられました。現在の日本では、満18歳以上の有権者は全人口の80%以上を占めています。かつては選挙権はごく一部の限られた人たちだけが持てる権利でした。1890年までは、投票資格は 「満25歳以上の、直接国税を15円以上納める男子」に限られていました。その数は、全国の人口のたった1%だったといわれます。

 1994年3月4日に公職選挙法が改正され、衆議院選挙に小選挙区比例代表並立制が導入されました。それで思い出すのは、「ゲリマンダー」(Gerrymander)という巧妙というか狡猾ともいえる区割りの戦術です。選挙において特定の政党や候補者に有利なように選挙区を区割りするやり方です。本来的に、その選挙区割りが地理的レイアウトとして変わった形をしています。一選挙区から一人しか当選しない小選挙区制を採用している場合、特定の政党に投票する傾向の強い地区を分割します。別の政党に投票する傾向が強い選挙区にその分割した地区を吸収させることによって、特定の投票を無効化することができるのがゲリマンダーです。つまり、選挙区割りを変えることで一方の側に有利な選挙結果を生み出すのです。

ゲリマンダーという用語の由来についてです。Wikipediaによりますと、1812年頃マサチューセッツ州(Massachusetts)のエルブリッジ・ゲリー(Elbridge Gerry)という知事が、自分の所属する政党に有利なように選挙区を区割りした結果、幾つかの選挙区が不自然な形となります。そのうちの一つがサラマンダー(salamanderートカゲ)のような異様な形をしていたことから、ゲリーとサラマンダーを合わせた造語「ゲリマンダー」が生まれたといわれます。こうした区割りのことをゲリマンダリング(Gerrymandering)とも呼ばれます。

Gerry-Mander

 小選挙区制はこのゲリマンダーの考えを元に作られています。「日本にある全47都道府県ごとに人口比で割り当てられた定数289人の議員数の人を選挙で選ぶ」という方法です。しかし、小選挙区では一人しか当選しないので、多くの票が死票となります。それを防ぐために比例代表制も併設されています。比例代表は「全11のブロック(北海道・東北・北関東・南関東・東京都・北陸信越・東海・近畿・中国・四国・九州)に分かれた選挙区で、定数の176人を選挙で選ぶ」という方法です。

 小選挙区制のメリットとしては、以下の3点が挙げられます。「安定した政権をつくれる」、 「有権者との距離が近くなる」、 「 選挙費用の負担が小さい」。ところが小選挙区制は、支持者の多い、大きな政党にとって有利な選挙になります。そのため政権与党が頻繁に入れ替わることがなく、政局が安定する傾向にあります。また小選挙区制では選挙の活動エリアが狭くなるため、候補者と有権者1人ひとりとの距離が近くなり、向き合える時間が増えます。その結果、地元の意向をくみ取った政策を実現することができるようになります。さらに、候補者にとっては、選挙費用を安く抑えることができるというメリットもあります。小選挙区制の選挙では、選挙運動による候補者へのアピールは、選挙区内だけで済みます。したがって、活動範囲が限定的になり、選挙費用の負担も小さくなるというわけです。

 小選挙区制のデメリットは、「死票が多くなる」、「一票の格差が生じる」、「地元への利益誘導」といったことです。死票とは、選挙で落選した候補者へ投票された票のことです。得票数が2位以降の候補者に投票された多くの票は無駄になり、少数意見が反映されにくくなります。また、選挙区の人口が異なるために、有権者の持つ一票の価値が平等ではなくなってしまう「一票の格差」も深刻な問題です。小選挙区制の区割りは、各都道府県の人口に応じて決められています。

 しかしそれでも、人口の多い都市部と人口の少ない地方では、一票の価値に差が生じてしまいます。さらに、小選挙区制の選挙区エリアは小さいため、地元の有権者の支持を一定数集めることができると、当選の確率が大きく上がります。このような仕組みを利用し、地元の自治体や企業に利益誘導を行うことで、選挙区における支持基盤を固めようとする候補者が出てくることが懸念されるのです。ついでですが、アメリカの上院議員の選挙では、各州は定員が2人と定められているため、ゲリマンダーは生じません。

 衆議院では、一つの選挙区から原則3~5人を選出する中選挙区制を長らく採用してきたため、元来の意味でのゲリマンダーはほとんど発生しませんでした。その理由は、第一に人口変動が生じても各選挙区の定数を増減させることによって概ね対応でき、区割りを変更する必要性が小さかったこと、第二に各選挙区の規模が大きく、概ね市区町村などの境界に従って設定されていたため、恣意的な区割りを行う余地がもともと少なかったことからです。1980年までは「地方区」ならびに全国一円の「全国区」として固定されていました。この選挙制度の運用上はゲリマンダーの危険性は存在しませんでした。ついでですが、1983年以降は「小選挙区」と「比例区」となりました。

 地方議会では、市区町村は原則として単一選挙区とし、都道府県では原則として市・郡を基本単位として区分された選挙区です。政令指定都市は行政区を基本単位として区分されています。従って、衆議院と同様に、ゲリマンダーはほとんど発生しないといえます。
(投稿日時 2024年10月23日)

国政選挙の予測 その三 知名度や認知度

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 先日ある選挙区での街頭演説会に出会いました。この候補は、いわゆる「裏金議員」の一人でした。聴衆は多く、歩道橋にも人が溢れるほどです。演説場所は開始前から物々しい雰囲気で、荷物チェックに多数の警察官やSPが目を光らせる厳戒態勢です。この候補は衆議院議員として長く務めますが、2024年5月の政治倫理審査会へ出席しなかったことから、世間からは説明責任を果たしていないと指摘されていました。それでも地元では非常に知名度が高いといわれる人です。

 候補者の演説を聴いていると、地元に自分がどれほど貢献してきたかを高らかにうたい、一住民として気恥ずかしくなるほどです。どうして候補者というのは、自分を過剰にPRするのでしょうか。選挙は、自分の信念や公約を有権者に訴えるものであるはずです。政治改革、経済や外交の課題についての考え方を聴衆は期待しているのです。しかし、演説は終始いかに地元で汗を流してきたかを叫ぶだけです。

街頭演説

 長らく国政を務めると知名度は絶大なはずです。なにも大袈裟は街頭演説は必要ないはずですが、どうも裏金議員の烙印を押され、おまけに公認を得られないというのですから、ご本人は必死に活動するほかないのでしょう。周りの応援演説者は地元の議員や首長で、演説内容はこれまた候補者がいかに地域に貢献したか、という話題で満載です。なにか、田舎の蛸壺のような選挙でさっぱり心に響きません。拍手をするのは、街頭演説車の前に陣取る者だけ。あとは白けたような表情の人々です。国政選挙ですから、政治とカネ、外交と安全保障、経済、少子高齢化、一極集中と過疎化、所得、物価、社会保障など、国が劣化しつつある問題などについての大所高所からの演説を期待したいのです。

 知名度とは、人、企業、ブランド、商品などの「名前」が知られている度合いのことで、 アンケートで「名前を聞いたことがある」「名前は知っている」と回答する人が多ければ多いほど、知名度が高いといわれます。しかし、一般的な知名度は大抵、マスコミらによる宣伝活動やCMなどによって操作される煽動型情報であることも多いのです。知名度より認知度が大事だといわれます。有権者や消費者が人、商品、サービスの内容や価値を理解できている度合いのことです。多額の裏金議員であるとか、ある特定の宗教団体との癒着があったという報道により、知名度は広がっても認知度や支持率とは一致しないのも確かです。投票率が知名度を反映するというのも確かです。選挙では特に重視されるのが、俗に「地盤、看板、カバン」の三バンです。このうちの看板が知名度のことを指します。

Growth of Popularity

 人気は知名度や認知度と違い、世間からの受けのことを指します。多くの人に好まれことを意味します。しかし、人気とは流行であり、その時代の嗜好をも意味します。人気が高いからといって人望があるとは限りません。「人気が一挙にガタ落ち」というのは知名度が高いといわれる裏金議員にも当てはまりそうです。

 投票日が近くなると、新聞などで当落の予想が行われますが、例えば誰が当選するかについて人気投票があるとします。この場合、公職選挙法では、選挙に関する人気投票の公表を禁止しています。ただ、調査員が面接調査をし、その結果を公表するのは、人気投票には当たらないと解釈されています。選挙期間中に、個々の選挙区の情勢記事を報じることによって、有権者の投票行動が影響を受けることは確かです。その報道により、投票に出かけるか、出かけないかは有権者に委ねられることです。
(2024年10月22日)

国政選挙の予測 その二 最新の世論調査結果

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 2024年10月に発足した石破新内閣について時事通信社が実施した調査の結果を引用します。それによると、「末期、石破政権の船出」という見出しで、「支持するは28.0%、支持しないは30.1%」とあります。調査は10月11日から14日に、全国の18歳以上の男女2,000人を対象に個別面接方式で実施し、有効回答率は58.6%で1,172人からの回答とあります。こうした結果は、衆議院の解散時期をはぐらかしたり、総裁選時の発言を翻したり、裏金議員の公認問題の対応が批判されたりしたことが有権者の回答に反映したようです。ただし、「全国の18歳以上の男女2,000人」をどのようにして抽出したかが分かりません。ここが調査結果が正確か否かの分岐点となります。

内閣支持率の推移

 次に、NHKは10月12日から3日間で行った石破新内閣についての世論調査を引用します。それによりますと、「10月発足した石破内閣を「支持するは44%、支持しないは32%」とあります。NHKの調査方法ですが、全国の18歳以上を対象にコンピュータで無作為に発生させた固定電話と携帯電話の番号に電話をかける「RDD」という方法で世論調査を行っています。そして調査の対象となったのは、5,489人で、46%にあたる2,515人からの有効回答です。

 この二つの調査結果には大きな違いがあります。支持するは28.0%と44%、支持しないは30.1%と32%という按配です。支持しないはほぼ同じ率ですが、支持するが大きく分かれていることが気になります。この違いは、一つは、1,172人と2,515人という標本数の違いと、標本の選び方にあります。時事通信社がどのようにして回答者を選んだのかが不明なことです。それに対してNHKはコンピュータで無作為に抽出したとあります。ただ時事通信社は個別面接方式で回答を得たのに対して、NHKは固定電話と携帯電話によって回答を得たことにも注目すべきと思われます。

 調査方法に関する考察です。NHKと同様に朝日新聞でもRDD方式を採用しています。RDD調査の先進国はアメリカです。ABC、 CBS、ピュー・リサーチセンター(Pew Research Center)などもRDDを使っています。電話による調査は、対面にくらべて安価で便利ではあります。ですが、携帯電話しか持たない人が増え、固定電話調査だと有権者全体をカバーできないという問題があります。これをカバレッジ誤差(coverage error)といいます。

スマートフォン保有率

 選挙調査は選挙区単位の調査となります。そのため電話番号には地域情報が必要となります。電話番号に地域の情報を持たない携帯電話に対しては調査が行えないので、地域情報を持つ固定電話に対してのRDD調査となります。少々不便で集計に際しては誤差が生じるる可能性があります。対面と電話では、どちらか正確な情報を得られるかです。私の考えでは、対面での回答のほうが電話よりも正確ではないかと思われます。

 最後に、選挙調査では、選挙の序盤より終盤の方が、回答率が高く正確な情報が得られます。これは二つの要因が考えられます。一つは、序盤調査という経験を通して、電話オペレータの電話調査でのトークのスキルが上がること、二つ目は、選挙投票日に近づくにつれ有権者の選挙に対する意識が高くなり、投票行動がほぼ確定するからです。
(投稿日時 2024年10月20日)

国政選挙の予測 その一 過去の選挙の投票率

注目

国内や海外でのいろいろな選挙戦が各種のメディアで報道されています。そして、選挙戦の予測が伝えられています。選挙結果予測するためには、多角的な分析が必要です。そのために必要となるのが予測のパラメータ(変数)です。パラメータに沿って、予測を裏付ける資料とか過去のデータを集めると選挙の内実が理解できます。

 予測にはいろいろな見方や立場から、様々な組織や団体が世論調査をします。調査というのは、母集団であるすべての有権者に対して行うのは不可能ですから、どうしてもサンプルといわれる標本を抽出しなければなりません。その際、人口構成から同じ比率でどの位のサンプルを抽出するかなど、最も難しい作業が待っています。

 選挙予測の正確さを期するために、次の9つのパラメータが有力でないかと思われます。すなわち「過去の選挙投票率」、「最新の世論調査結果」、「知名度や人気」、「選挙制度」、「メディアの報道」、「経済や景気動向」、「地域の人口動態」、「投票率」、「戦略とキャンペーン」です。もちろん他にもあるかもしれません。「過去の選挙投票率」から選挙の予測を考察していきましょう。

過去の選挙投票率
 過去の選挙における有権者の投票行動は、投票後の統計から分かります。これは変えようがありませんので、最も信頼できるパラメータといえます。選挙における年代別投票率とか都道府県の投票率、各党が獲得した投票率などです。投票率は選挙結果に大きく影響します。

 過去のアメリカ大統領選挙の結果を振り返ってみます。1980年の大統領選挙では 「小さな政府」 という明確な保守主義を掲げた共和党のドナルド・レーガン(Donald Reagan)が当選します。後に「レーガノミクス」と呼ばれる大幅減税と積極的財政政策を実施し、経済の回復と共に双子の赤字をもたらしたといわれます。外交面では、イラン革命やニカラグア(Nicaragua)でのサンディニスタ(Sandinista)政権成立によって親米独裁政権が失われ、この失地を挽回すべく強硬策を貫き「強いアメリカ」を印象付けた大統領です。

 その後、1989年にはジョージ・W.ブッシュ(George Busch)が、1993年にはビル・クリントン(Bill Clinton)が選ばれます。クリントンは“ニュー・デモクラット”(New Democrat)を旗印に民主党を中道寄りに導き、「大きな政府の時代は終わった」と、新しい民主党の理念を訴えて当選します。2001年には、ジョージ・ブッシュ Jr.が選ばれます。彼の支持者は、宗教的右派、社会的保守派など共和党の枠を越える保守層でした。

 2009年のバラク・オバマ(Barack Obama)の当選では、「オバマ連合」”が健在であることが明らかになりました。オバマ連合とは民主党リベラル派とヒスパニック系、アフリカ系などの少数派、さらに浮動票といわれていた若者層のことです。

 2017年にはドナルド・トランプ(Donald Trump)が勝利し、在任中の4年間は「アメリカ第一」を前面に出して政権を運営し、不法移民がアメリカの労働者の職を奪っているとして激しく非難しました。さらにTPP(環太平洋パートナーシップ)協定やNAFTA(北米自由貿易協定)についても国益にならないと否定的な見解を示して支持をえました。主に労働者の浮動票を集めて当選したのです。

 最近では2021年にジョー・バイデン(Joe Biden)が黒人や女性、ヒスパニックの支持を得て当選します。選挙戦では、こうしたマイノリティと呼ばれる人々の投票率が大きく伸びたことが分かっています。ちなみにヒスパニック系アメリカ人の有権者は、ニューメキシコ州では35%、カリフォルニア州では27%、テキサス州では21%強、フロリダ州では18%強、アリゾナ州では12%、ニュージャージー州では10%強に達しています。こうした人々の多くは浮動票と呼ばれがちでした。激戦州(Swing State)と呼ばれる州の選挙では、浮動票が選挙結果を左右したといわれます。2024年の大統領選挙戦では、過去の投票率や投票結果を参照しながら、さまざまな予測がたてられるのはお分かりのとおりです。

“Swing Vote”

 浮動票の投票行動が、どのように選挙に与えたかを描くアメリカ映画があります。2008年制作の「Swing Vote」というコメディ映画です。トレーラーハウスに住む飲んだくれの父親とその父の世話をやく小学生の娘モリーが主人公です。「選挙で投票なんかしたって、貧乏は変わらない」というダラダラの父親に対して、モリーは「自分たちの一票には力がある」と語ります。大統領選挙が近づき、モリーは同行して父親の有権者登録を手伝います。そして、投票日には自分と一緒に投票所に行くことを約束させるのです。しかし、投票前日に父親は飲み過ぎて、投票所に現れません。そこで、モリーは投票用紙を持って父親に代わり、こっそりと投票しようとするのです。この一票こそが、やがて次期大統領を決めるものとなる、という非常に真面目なストーリーの映画です。

ウィスコンシン州とマッカーシズムの終焉 その四

注目

 1954年の陸軍とマッカーシーの公聴会が大々的に報道されます。同年、マッカーシーによって不当にも糾弾されていたワイオミング州(Wyoming)選出の上院議員レスター・ハント(Lester C. Hunt)が自殺します。この事件でマッカーシーの支持と人気は急落していきます。1954年12月、上院は67対22でマッカーシーを非難する決議を可決し、マッカーシーはこうした懲戒処分を受けた数少ない上院議員の一人となります。マッカーシーは共産主義と社会主義に反対する運動を続けますが、その後48歳で死去します。マッカーシーの死亡診断書には死因として「急性肝炎、原因不明」と記されました。

Joseph_McCarthy

 マッカーシーの伝記作家たちは、上院での彼への非難の後、彼は悪い方向に変わったという点で一致しています。肉体的にも精神的にも衰え、「以前の自分とはかけ離れた青白い亡霊」(pale ghost of his former self)になっていたといわれます。マッカーシーは肝硬変(cirrhosis of the liver)を患い、アルコール中毒(alcohol abuse)で頻繁に入院していたと報告されています。上院補佐官やジャーナリストを含む多数の目撃者が、上院で彼が酔っ払っているのを見たとも報告しています。そして、ジャーナリストのリチャード・ローヴェレ(Richard Rovere)は次のように書いています。

 「彼は常に大酒飲みで、不満の時期にはこれまで以上に飲むこともあった。しかし、常に酔っていたわけではない。彼は何日も何週間も禁酒していた 。彼にとっては、ウイスキーの代わりにビールを飲むことを意味した。晩年の問題は、酒に我慢できなくなったことだった。2杯目、3杯目を飲むと気が狂いそうになり、すぐには立ち直れなかった。」

おわりに
 リチャード・ロービア(Richard H. Rovere)が書いた『上院議員 ジョー・マッカーシー』という著作に次のようなフレーズがあります。「多くの点でアメリカが生んだもっとも天分豊かなデマゴーグだった。われわれの間をこれ程大胆な扇動家が動きまわったことはかつてなかったj。社会学者のタルコット・パーソンズ(Talcott Parsons)は「マッカーシズムは一部の既得権益分子に支持された運動であり、同時に上流階級に対する民衆の反抗である」と説明したことも知られています。マッカーシズムが果たして民衆の反逆であったかは理解しかねますが、いずれにせよ、第二次大戦後の冷戦の副産物であったといえるようです。

参考資料
・Senator Joe McCarthy (1959) Richard H. Rovere
・Affidavit of February 23, 1954, Talcott Parsons

(投稿日時 2024年9月24日)

ウィスコンシン州と陸軍への調査やハリウッドへの追求 その三

注目

 1953 年秋、マッカーシーの委員会はアメリカ陸軍に対する不可解な調査を開始します。これはマッカーシーが陸軍通信部隊の研究所の調査を開始したことから始まります。彼は陸軍の研究者の間に危険なスパイ組織があるというニュースでいくつかの見出しを飾ります。しかし、数週間の公聴会の後、彼の調査は何も成果をあげることができませんでした。国務省の外交政策に関わった中国学者オーエン・ラティモア(Owen Lattimore)、元陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル(George Marshall)らもマッカーシーからにらまれます。マッカーシーの赤狩りは政界だけではありませんでした。ハリウッドの映画界のスターであったチャーリー・チャップリン(Charles Chaplin)、ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda)、グレゴリ・ペック(Gregory Peck)、さらには物理学者のロバート・オッペンハイマー(Robert Oppenheimer)も遡上にあげられます。

チャーリー・チャップリン

Julius Robert Oppenheimer

 陸軍とマッカーシーの公聴会が開かれます。1954 年初頭、米陸軍はマッカーシーとその主任顧問ロイ・コーンが、マッカーシーの元補佐官でコーンの友人で、当時陸軍に兵卒として勤務していた デイビッド・シャイン(David Schine)に有利な待遇を与えるよう陸軍に不当に圧力をかけたと告発します。共和党の上院議員カール・ムント(Karl Mundt)が委員長に任命され、陸軍とマッカーシーの公聴会は 1954年4月に開催されます。公聴会は36日間続き、ABCとテレビネットワーク会社のデュモント(DuMont)によって生放送され、推定2000万人が視聴します。32人の証人と200万語の証言を聞いた後、委員会はマッカーシー自身はシャインのために不適切な影響力を行使しなかったが、コーンは過度に執拗または攻撃的な努力を行った、と結論付けます。

マッカーシズムの後退
 マッカーシーにとって、委員会の結論の出ない最終報告書よりもずっと重要だったのは、この公聴会に関する報道が彼の人気にマイナスの影響を与えたことです。聴衆の多くは彼を横暴で無謀で不誠実だとみなし、新聞でも毎日の公聴会の要約もしばしば不利な報道がなされます。公聴会の終盤、スチュアート・サイミントン(Stuart Symington)上院議員はマッカーシーに対して怒りと予言に満ちた発言をします。マッカーシーから「あなたは誰も騙せません」と言われると、サイミントン議員は「上院議員、アメリカ国民は6週間もあなたを見てきました。あなたもまた、誰も騙せません」と答えたといわれます。1954年1月のギャラップ世論調査(Gallup Poll)では、回答者の50%がマッカーシーに対して肯定的な意見を持っていました。6月にはその数は34%に減少します。同じ世論調査で、マッカーシーに対して否定的な意見を持つ人は29%から45%に増加していきます。

 共和党員や保守派の間では、マッカーシーを党と反共産主義にとっての不安な人物だととみなす人が増えていきます。ジョージ・ベンダー(George H. Bender)下院議員は「共和党に対する不満が高まっている。マッカーシズムは魔女狩り(witch-hunting)、市民の自由の否定と同義語になっている」と指摘していきます。長年にわたり頑固な反共産主義者として名声を博してきた記者フレデリック・ウォルトマン(Frederick Woltman)さえも、ニューヨーク・ワールド・テレグラム紙(New York World-Telegram)にマッカーシーを批判する5回シリーズの記事を書きます。ウォルトマンはマッカーシーが「反共産主義の大義にとって大きな重荷になっている」と述べ、「事実や事実に近いことを極端にねじ曲げて、その分野の権威を反発させている」と非難するのです。

リコール運動と非難決議
 やがてマッカーシーに対するリコール運動が始まります。リコールは無謀だという批判にもかかわらず、「ジョーは去らねばならない」という運動は勢いづき、他の共和党指導者、民主党員、実業家、農家、学生を含む多様な連合の支持を得ていきます。ウィスコンシン州憲法は、リコール選挙を強制するために必要な署名数は、選挙で集められた署名数の4分の1を超えなければならないと規定していました。反マッカーシー運動は 60日間で約 404,000の署名を集める必要がありました。労働組合や州民主党からの支援がほとんどなかったため、大まかに組織されたリコール運動は、特に陸軍とマッカーシーの公聴会が同時に行われていた間、全国的な注目を集めました。

 マッカーシーは非難を受けた後も、さらに 2 年半、上院議員としての職務を続けます。しかし、大物公人としての彼の経歴はもはや通用しなくなります。上院の同僚たちは彼を避け、上院議場での彼の演説は、ほとんど人がいない議場で行われたり、あからさまに無関心な態度で受け取られたりしました。かつては彼の公の発言をすべて記録していた報道機関は彼を無視し、外での講演依頼はほとんどなくなりました。ついにマッカーシーの政治的脅迫から解放されたアイゼンハワーは、閣僚にマッカーシズム(McCarthyism)は今や「マッカーシズム」(McCarthywasm)であると皮肉を言うほどでした。

 それでも、マッカーシーは共産主義と社会主義を非難し続けました。彼はソ連との首脳会談に大統領が出席することに対して警告し、「暴政と殺人の大義を推進することなく、暴君や殺人者に友情を示すことはできない」と述べます。彼は「共産主義者との共存は不可能であり、名誉あることではなく、望ましいことでもない。我々の長期目標は、地球上から共産主義を根絶することであるべきだ」と宣言するほでした。上院での最後の行動の1つとして、マッカーシーはアイゼンハワー大統領によるウィリアム・ブレナン(William J. Brennan)の最高裁判所判事への指名に反対します。これは、ブレナンが直前に行った演説でマッカーシーの反共産主義調査を「魔女狩り」と評したからです。しかし、マッカーシーの反対は支持を得ることができず、彼はブレナンの承認に反対票を投じた唯一の上院議員となります。
(投稿日時 2024年9月19日)  成田 滋

ウィスコンシン州とジョセフ・マッカーシー その一

はじめに
 ウィスコンシン州の政治で忘れられないのは、極右と呼ばれた上院議員の存在です。その人物は、ジョセフ・マッカーシー(Joseph R. McCarthy)。1947年から1957年に48歳で死去するまで、ウィスコンシン州選出の共和党上院議員(Republican U.S. Senator)を務めたアメリカの政治家です。1950年以降、冷戦の緊張により共産主義による破壊活動が国内に広まるのではないかという恐怖がアメリカで高まっていた時期に頭角を現した政治家です。これから四回にわたり、合衆国の政治でマッカーシーがどのような影響を与えたかを考えていきます。

 冷戦状態が高まるにつれて、多数の共産主義者とソ連のスパイやシンパがアメリカ連邦政府、大学、映画業界などに潜入していると主張し、いわばレッドパージ(red purge)しようとしたのがマッカーシーです。1950年にマッカーシーの行為に関連して作られた「マッカーシズム」(McCarthyism)という用語は、反共産主義活動に適用されるようになりました。今日では、この用語はより広い意味で、扇動的で無謀で根拠のない非難、および政治的反対者の性格や愛国心に対する公的な攻撃を意味します。最終的に、マッカーシーは、彼が非難されるべきかどうかを調査するために設置された委員会への協力を拒否し、委員を攻撃したとして1954年に上院から非難され政界から追われます。

Joseph R. McCarthy

マッカーシーの経歴
 ウィスコンシン州グランドシュート(Grand Chute)生まれのマッカーシーは、1942年に海兵隊(Marine Corps)に入隊し、急降下爆撃機中隊の情報報告担当官を務めます。第二次世界大戦の終結後、少佐に昇進します。砲手観測員として12回の戦闘任務に志願します。これらの任務は概ね安全で、後に彼の英雄的行為の主張のいくつかは後に誇張または偽りであることが判明し、「テールガンナー・ジョー」(Tail-Gunner Joe)というあだ名がつけられ揶揄されたようです。テールガンナーとは爆撃機の最後尾に備えられた攻撃機を狙う機関砲の射手のことです。

 マッカーシーは1944年、現役軍人(active duty)でありながらウィスコンシン州で共和党上院議員候補指名選挙に立候補しますが、現職のアレクサンダー・ワイリー(Alexander Wiley)に敗れます。太平洋戦争が終結する1945年9月の5か月前の1945年4月に海兵隊を退役した後、マッカーシーは巡回裁判所判事(circuit court judge)に無投票で再選されます。その後、ウィスコンシン州共和党の政治ボスであるトーマス・コールマン(Thomas Coleman)の支援を得て、1946年の共和党上院議員予備選挙でより組織的な選挙活動を開始します。この選挙でマッカーシーが挑んだのは、ウィスコンシン進歩党の創設者で、ウィスコンシン州知事兼上院議員のロバート・M・ラフォレット・シニア(Robert M. La Follette Sr)の息子で、3期務めたロバート・M・ラフォレット・ジュニア(Robert M. La Follette Jr)上院議員でした。

(投稿日時 2024年9月12日) 成田 滋

ウィスコンシン州とマッカーシズム その2

注目

 マッカーシーは選挙運動で、真珠湾攻撃のときラフォレットは46歳だったにもかかわらず、戦争中に入隊しなかったとしてラフォレットを攻撃します。また、マッカーシーが祖国のために戦っている間にラフォレットは投資で莫大な利益を上げたと主張します。実際、マッカーシー自身も戦時中に株式市場に投資し、1943年に4万2000ドル、現在の価値で73万9523ドルに相当の利益を上げていました。マッカーシーがそもそも、その投資資金をどこから得たのかは謎のままとされています。ラフォレットの投資はラジオ局への部分的な投資で、2年間で4万7000ドルの利益を上げたといわれます。

Harry Truman

 1944年まで民主党員だったマッカーシーは、1946年に共和党員として上院議員選挙に立候補し、ウィスコンシン州共和党予備選挙で現職のロバート・ラフォレット・ジュニアを破り、当時の民主党候補ハワード・マクマリー(Howard McMurray)を61%対37%の差で破り上院議員となります。上院議員として3年間目立った活躍はありませんでしたが、1950年2月にマッカーシーは、国務省(State Department)に雇用されている「共産党員とスパイ組織のメンバー(members of the Communist Party and members of a spy ring)」のリストを持っていると演説し、突如全国的に有名になります。

赤狩りの開始
 1950年の演説の後の数年間、マッカーシーは国務省(State Department)、ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)大統領の政権、ボイス・オブ・アメリカ(Voice of America)、および米軍への共産主義者の浸透についてさらに非難しはじめます。彼はまた、共産主義、共産主義者への共感、不忠、性犯罪などさまざまな容疑を使って、政府内外の多くの政治家やその他の個人を攻撃していきます。これには、同性愛(homosexuals)の疑いのある人々に対する同時進行の「ラベンダーの恐怖」(Lavender Scare)も含まれていました。当時、同性愛は法律で禁止されていたため、同性愛は脅迫の危険を高めるとも考えられていたのです。「ラベンダーの恐怖」とは、共産主義者を標的にした赤狩りの一環として、政府内の同性愛者とおぼしき人間を粛清する大規模な取り組みのことです。いわば、アンチゲイパージ(Anti-Gay Perge)のことです。

ハリウッドの赤狩り反対運動

 新聞コラミストであったジャック・アンダーソン(Jack Anderson)によると、マッカーシーの選挙資金はラフォレットの10倍で、その多くは州外からの資金だったとされます。マッカーシーへの票はラフォレットに対する共産党の恨みによるものでした。ラフォレットが戦争中に不当利得を働いたという指摘は大きなダメージとなり、マッカーシーは予備選挙で勝利します。この選挙運動中にマッカーシーは戦時中のニックネーム「テールガンナー・ジョー」を宣伝し始め、「議会にはテールガンナーが必要だ」というスローガンを掲げて選挙戦を展開します。ジャーナリストのアーノルド・ベイクマン(Arnold Beichman)は後に、マッカーシーが「共産党が支配する全米電気・ラジオ・機械労働組合(CIO)の支援を受けて上院議員に初当選した」と述べます。同組合は反共産主義者のラフォレットよりもマッカーシーを推薦したのです。民主党の対立候補ハワード・マクマリー(Howard J. McMurray)との総選挙では、マッカーシーは61.2%の得票率で勝利します。

 1953年1月に上院議員としての第2期の初めに、マッカーシーは政府事業(Government Operations)に関する上院委員会の議長になりました。いくつかの報告によると、共和党の指導者たちはマッカーシーの手法を警戒し、内部のセキュリティ小委員会ではなく、この比較的平凡なパネルとされていた共産主義者の調査に関与している委員会に権限を与えました。上院多数党の指導者ロバート・タフト(Robert A. Taft)の言葉によれば、政府事業に関する委員会には、調査に関する上院恒久小委員会(Senate Permanent Subcommittee)が含まれており、この小委員会の任務は、マッカーシーが政府の共産主義者の彼自身の調査にそれを使用できるようにするのに十分な柔軟性を備えていたといわれます。マッカーシーは、ロイ・コーン(Roy Cohn)を最高顧問に、27歳のロバート・ケネディ(Robert F. Kennedy)を小委員会の助言補佐官に任命します。
(投稿日時 2024年9月16日) 成田 滋

ウィスコンシン州のフランク・ロイド・ライト

注目

 アメリカの建築家、フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wight)はウィスコンシンの出身です。フランスのル・コルビュジエ(Le Corbusier)、ドイツのミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe)とともに「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる世界的に著名な建築家です。建築好きな人に限らず、多くの人々は彼の作品には魅了されています。

Frank Lloyd Wight

 ウィスコンシン州の田舎で育ったライトは、ウィスコンシン大学で土木工学(civil engineering)を学び、その後シカゴでジョセフ・シルズビー(Joseph L. Silsbee)のもとで短期間、その後アドラー・アンド・サリバン社(Adler & Sullivan)でルイス・サリバン(Louis Sullivan)のもとで徒弟として働きます。ライトは 1893年にシカゴで自身の事務所を開き、1898年にはイリノイ州オークパーク(Oak Park)の自宅にスタジオを構えます。

 ライトは、建築家はもちろん、デザイナー、作家、教育者でもありました。70年間の創作活動で800以上の建築物を設計します。ライトは20世紀の建築運動において重要な役割を果たし、作品を通じて世界中の建築家に影響を与えます。「タリアセン・フェローシップ」(Taliesin Fellowship)という建築塾で何百人もの弟子を指導します。 「タリアセン」とは、ウイスコンシンのスプリング・グリーン(Spring Green)という町にある工房であり、弟子や学生と自給自足の共同生活を営みながら、建築の教育と実践を行なったところです。スプリング・グリーンは、州都マディソンの西約55キロにありウィスコンシン川沿いに位置する1,566人の街です。

 ライトは、人間と環境との調和を考えた設計を信条としており、これを有機的建築(organic architecture)と呼びます。この哲学は、1935年に設計されたフォーリング・ウオーター(Fallingwater)という建物に示され、「アメリカ建築史上最高の作品」と呼ばれています。この建物は、ペンシルベニア州のピッツバーグ(Pittsburgh)から南東に80キロほどの地に今も建っています。ニューヨーク市マンハッタン(New York, Manhattan)にある「グッゲンハイム美術館」(Solomon R. Guggenheim Museum)も傑作の一つとされています。「かたつむりの殻」と形容される螺旋状の構造をもった建築で、美術館施設の概念を根本から覆した作品として知られています。

Solomon R. Guggenheim Museum


 ライトは、後にプレーリー派(Prairie School movement)と呼ばれるようになった建築運動の先駆者です。プレーリー派とは、屋根を低く抑えた建物が地面に水平に伸び広がる設計手法で、草原様式とも呼ばれています。建物は自然に調和するというのが彼の信条です。都市構想である電化、機械的機動性、有機的建築というブロードエーカーシティ(Broadacre City)の考え方による、コンパクトで魅力に満ちた小住宅であるユーソニアン住宅(Usonian home)のコンセプトも考案し、アメリカの都市計画のビジョンを示します。また、独創的で革新的なオフィス、教会、学校、高層ビル、ホテル、美術館、その他の商業プロジェクトの設計も手がけていきます。マディソン市にあるユニテリアン教会(Unitarian Church)も独特な設計で有名です。

Unitarian Church, Madison,WI


 ライトの設計では、内装要素である鉛ガラスの窓、床、家具、さらには食器などが構造物に取り入れられています。ライトは数冊の本と多数の記事を執筆し、アメリカやヨーロッパで人気の講師でもありました。ライトは1991年にアメリカ建築家協会から「史上最も偉大なアメリカ人建築家」として認められます。2019年、彼の作品の一部が「フランク・ロイド・ライトの20世紀建築」(20th-Century Architecture of Frank Lloyd Wright)として世界遺産に登録されるのです。

Fallingwater


 ライトの建築物は我が国でも見られます。兵庫県芦屋市の丘の上にある「ヨドコウ迎賓館」は、1918年に灘五郷の造り酒屋、櫻正宗の八代目当主山邑太左衛門の別邸として設計されました。西池袋に所在する「自由学園明日館」は、1997年に国の重要文化財として指定され、歴史ある建物となっています。世田谷区にある旧林愛作邸もライトの設計によるものです。旧知であった帝国ホテル初の日本人支配人、林愛作の住宅です。

帝国ホテル、明治村

 最後に紹介するのは、博物館明治村にある「帝国ホテル中央玄関」です。1923年に、4年間もの大工事を経て2代目として開業した帝国ホテル・ライト館です。ライトが日本で初めてホテルの建築を手がけ、彼の代表作の一つとも言われています。旧帝国ホテル解体と保存は、株式会社帝国ホテル、日本建築学会、帝国ホテルを守る会、博物館明治村らによって17年間もの歳月を要して実現します。”東洋の宝石”と称される帝国ホテルのデザインは、まさに造形美の粋といわれ、現在は愛知県犬山市の博物館明治村でその雄姿を見ることができます。
(投稿日時 2024年9月9日) 成田 滋

ウィスコンシン州の政治とロバート・ラフォレット

注目

 ウィスコンシン州の政治の歴史を取り上げることにします。20世紀になるとウィスコンシン州にロバート・ラフォレット(Robert M. La Follette)という政治家が登場します。やがて彼は州知事となります。1916年にはウィスコンシン州では女性参政権運動家の選挙運動が認められ、さらに合衆国憲法第19修正条項(Nineteenth Amendment)を批准した最も早い州の 1つとなりました。この条項は、女性の参政権を認め、性別による選挙における差別を禁止するものです。

Robert M. La Follette

 20世紀初頭は、ラフォレットが推進した進歩主義政治の出現が注目されました。1901年から1914年にかけて、ウィスコンシン州の進歩主義共和党は、国内初の包括的な州全体の予備選挙制度、初の有効な職場傷害保障法、および初の州所得税を創設し、実際の収入に比例した課税を行いました。

 第一次世界大戦中、ウィスコンシン州は中立の立場にありました。その理由はウィスコンシン州の共和党員、進歩主義者、および州人口の 30~40パーセントを占めるドイツ人移民が多かったことからです。そのためにウィスコンシン州は「反逆者州(Traitor State)」というあだ名をつけられ、国内にいる多くの過激な愛国者(hyper patriots)によって非難されるという経過を辿りました。

 ヨーロッパで戦争が激化する中、ウィスコンシン州の反戦運動のリーダーであるラフォレットは進歩派の上院議員のグループを率いて、商船に銃を装備するというウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)大統領の法案を阻止しました。しかし、エマニュエル・フィリップ(Emanuel L. Philipp)やアーヴィン・レンルート(Irvine Lenroot)などウィスコンシン州の共和党政治家の多くは、アメリカの忠誠心を二分していると非難されていきます。

 州内に戦争に公然と反対する人々がいたにもかかわらず、戦争が始まると、多くのウィスコンシン州民は中立を破棄します。やがて企業、労働者、農場はすべて戦争による繁栄を享受していきます。118,000人以上の若者が兵役に就き、ウィスコンシン州は米軍が実施した全国徴兵(national drafts)に最初に応募した州となります。

Woodrow Wilson

 進歩的な州の発展原理であるウィスコンシン・アイディア(Wisconsin Idea)は、このときウィスコンシン大学エクステンション・システム(statewide expansion)を通じてウィスコンシン大学の州全体への拡張の推進力となります。その後、ウィスコンシン大学の経済学教授ジョン・コモンズ(John R. Commons)とハロルド・グローブス(Harold Groves)は、1932年にウィスコンシンが米国初の失業手当プログラムを作成するのに貢献します。同大学の他のウィスコンシン・アイディアを支持する学者は、ニューディール政策(New Deal’s)の1935年社会保障法(Social Security Act)となる計画を考案します。この計画を推進したのはウィスコンシンの法律学者であったアーサー・アルトマイヤー(Arthur J. Altmeyer)で、彼は重要な役割を果たします。

第一次世界大戦のヨーロッパ戦線

 第二次世界大戦直後、ウィスコンシン州民は、国連の創設、ヨーロッパの復興支援、ソ連の勢力拡大などの問題で分裂していました。しかし、ヨーロッパが共産主義陣営と資本主義陣営に分裂し、1949年に中国共産主義革命が成功すると、共産主義の拡大から民主主義と資本主義を守ることを支持する方向に世論が動き始めていきます。
(投稿日時 2024年9月8日) 成田 滋

ウィスコンシンは多民族のるつぼ

注目

 2022年のウィスコンシン州で実施されたアメリカ人コミュニティ調査(American Community Survey)によりますと、ヨーロッパ系の祖先が最も多かったのは5つのグループで、ドイツ系(36%)、アイルランド系(10.2%)、ポーランド系(7.9%)、イギリス系(6.7%)、ノルウェー系(6.3%)となっています。ドイツ系は、メノミニー(Menominee)、トレンパロー(Trempealeau)、ヴァーノン(Vernon)といった郡を除く州内のすべてで最も一般的な祖先となっています。ウィスコンシン州は、ポーランド系の住民の割合がどの州よりも高いのも特徴です。その他、ウィスコンシン州の人口の7.6%はヒスパニック(Hispanic)やラテン系(Latino)です。最大のヒスパニック系の祖先グループは、メキシコ系(5.1%)、プエルトリコ系(1.1%)、中央アメリカ人(0.4%)、キューバ系(0.1%)で、0.9%がその他のヒスパニック系またはラテン系の起源であるといわれています。

民族のお祭り

 ウィスコンシン州はもともと、民族的に多様性に富んでいる州です。フランスの毛皮商人が活躍した時代が過ぎた後、次の移住者の波は鉱山労働者で、その多くはコーンウォール人(Cornish)で、州の南西部に定住します。コーンウォール人とは、イングランド南西端に位置する地域から移民でやってきた人々です。次の波はニューイングランド(New England)とニューヨーク州北部からのイギリス系移民である「ヤンキー(Yankee)」が支配的でした。州成立初期には、彼らは州の重工業、金融、政治、教育を支配していました。1850年から1900年の間、移民は主にドイツ人、スカンジナビア人で最大のグループはノルウェー人(Norwegian)、アイルランド人(Irish)、ポーランド人(Polish)でした。20世紀には、多くのアフリカ系アメリカ人とメキシコ人がミルウォーキー(Milwaukee)に定住し、ベトナム戦争の終結後にはモン族(Hmongs)の流入が特徴的です。

ノルウェー人の独立記念祭

 モン族は中国からラオスまで国境をまたいで拡がっている民族ですが、ベトナム戦争により、アメリカに避難してきた人々です。ウィスコンシン州のアジア系人口の約33%はモン族であり、ミルウォーキー(Milwaukee)、ウォソー(Wausau)、グリーン ベイ(Green Bay)、シュボイゲン(Sheboygan)、アップルトン(Appleton)、マディソン(Madison)、ラクロス(La Crosse)、オークレア(Eau Claire)、オシュコシュ(Oshkosh)、マニトワック(Manitowoc)に重要なコミュニティがあります。ウィスコンシン州では 61,629人、つまり人口の約 1%がモン族であると自認するほどです。

 さまざまな民族グループが州のさまざまな地域に定住しました。ドイツ人移民は州全体に定住したのですが、最も集中していたのはミルウォーキーで付近です。ノルウェーからの移民は北部と西部の林業と農業地帯に定住しました。アイルランド、イタリア、ポーランドからの移民は主に都市部に定住していきました。グリーンベイの北部に位置するメノミニー郡(Menominee County)はアメリカ東部で唯一、ネイティブアメリカン(Native American)が多数を占める郡となっています。

モン族の人々

 アフリカ系アメリカ人(African American)は、特に1940年以降、ミルウォーキーに移住します。工業が盛んなので就労が容易だったからです。ウィスコンシン州のアフリカ系アメリカ人人口の86%は、ミルウォーキーやラシーン(Racine)地域に住んでいます。

 終わりにウィスコンシン州の住民のうち、71.7%はウィスコンシン州で生まれで、23.0%はアメリカの他の州で生まれ、0.7%はプエルトリコ、アメリカの島嶼部で生まれたか、またはアメリカ人の両親のもとで海外で生まれ、4.6%は外国生まれという調査結果となっています。まさに人種のるつぼがウィスコンシンなのです。
(投稿日時 2024f年9月6日)  成田 滋

ウィスコンシン州の地理的な特徴

注目

 ウィスコンシン州の地理や地図を紹介することにします。日本人の多くは、「一体、ウィスコンシンってどこにあるの?」と聞き返すでしょう。それも仕方がありませんね。ミシガンやイリノイ(Illinois)に比べて知名度はいまちといったところです。ですが、最近の2025年大統領選挙戦の報道で一躍その名が知られています。

Map of Wisconsin

サイロ

 ウィスコンシン州は、アメリカ中西部に位置し、五大湖(Great Lakes)地域と中西部北部(Upper Midwest)の両方にまたがっています。州の総面積は169,630 km2です。ちなみに日本378,000 km2です。ウィスコンシン州は、北はモントリオール川(Montreal River)、スペリオル湖(Lake Superior)とミシガン州、東はミシガン湖(Lake Michigan)、南はイリノイ州、南西はアイオワ州(Iowa)、北西はミネソタ州(Minnesota)と接しています。ミシガン州との国境紛争は、1934年と1935年の2つのウィスコンシン州対ミシガン州訴訟で解決しました。ウィスコンシン州の境界には、西はミシシッピ川(Mississippi River)とセント・クロワ川(St. Croix River) 、北東はメノミニー川(Menominee River)が流れています。

 五大湖とミシシッピ川の間に位置するウィスコンシン州には、多様な地形が広がっています。州は 5つの地域に分かれています。北部のスペリオル湖低地は、スペリオル湖に沿った一帯を占めています。そのすぐ南の北部高地には、61 万ヘクタールのチェワメゴン・ニコレット国有林(Chequamegon-Nicolet National Forest)を含む、針葉樹と広葉樹が混在する広大な森林があり、数千の氷河湖と州最高地点のティムズヒル(Timms Hill)があります。

 中央平原には、豊かな農地に加えて、ウィスコンシン川のデルズ(Dells)のようなユニークな砂岩層があります。南東部のイースタンリッジ(Eastern Ridges)とローランド地域(Lowlands)には、ウィスコンシン州の大都市の多くが集まっています。尾根には、ニューヨークから伸びるナイアガラ断崖(Niagara Escarpment)、ブラックリバー断崖(Black River Escarpment)、マグネシアン断崖(Magnesian Escarpment)などがあります。南西部のウェスタンアップランド(Western Upland)は、ミシシッピ川沿いの多くの断崖を含む、森林と農地が混在する険しい地形となっています。この地域はドリフトレス・エリア(Driftless Area)の一部であり、アイオワ州、イリノイ州、ミネソタ州の一部も含まれています。全体として、ウィスコンシン州の陸地面積の46%は森林に覆われています。

なだらかな平原と酪農

 ウィスコンシン州には、30億年以上から数千年にわたるさまざまな地質構造と堆積物があり、ほとんどの岩石は数百万年前のものといわれます。最も古い地質構造は、6億年以上前の先カンブリア時代(Precambrian)に形成され、その大部分は氷河堆積物の下にあります。バラブー山脈(Baraboo Range)の大部分はバラブー珪岩(Baraboo Quartzite)とその他の先カンブリア時代の変成岩で構成されています。この地域は、最も最近の氷河期であるウィスコンシン氷河期には氷河に覆われていませんでした。ラングレード郡(Langlade County)には、アンティゴ・シルト・ローム(Antigo silt loam)と呼ばれる砂・シルト・粘土がほぼ等分の土壌が堆積しています。郡外ではあまり見られない土壌といわれます。

Summer of Wisconsin

 氷河が後退するとき、谷を削りながら時間をかけて流れ、削り取られた岩石・岩屑や土砂などが土手のように残ります。この岩石や岩屑のことをモレーン(moraine)といいます。ウィスコンシンの平原は氷河の影響でなだらかになっていますがモレーンが多いのです。酪農が盛んになったのは、気候の他にこうしたモレーンのために土壌が小麦やトウモロコシなどの大規模農業に敵さず、人々は酪農に従事することになります。
(2024年9月4日) 成田 滋
 

ウィスコンシンの経済発展

 ウィスコンシン州の経済は、州成立初期から多様化していきます。鉛採掘が衰退する一方で、農業が州の南半分で主要な職業となります。穀物を市場に輸送するために州全体に鉄道が敷かれ、ミシガン湖畔の都市ラシーン(Racine)の J.I.ケース会社(J.I. Case & Company) のような産業が農業機器の製造のために設立されました。ウィスコンシン州は 1860年代に一時的に国内有数の小麦生産地となりました。

盛んだった林業

 他方、森林が密集したウィスコンシン州北部では製材業が主流となり、ラクロス(La Crosse)、オークレア(Eau Claire)、ワソー(Wausau)などの都市に製材所が出現しました。しかし、これらの経済活動は環境に悲惨な影響を及ぼしてしまいます。19世紀末までに、集約農業は土壌の肥沃度を破壊し、製材業は州の大部分の森林を伐採しました。これらの状況により、小麦農業と製材業はともに急激に衰退します。

レッドオーク

 1890年代初頭、ウィスコンシン州の農家は、土地をより持続可能かつ収益性の高い方法で利用するために、小麦栽培から酪農生産へと転換します。多くの移民がチーズ作りの伝統を受け継いでいき、この伝統とウィスコンシン大学(University of Wisconshin)のスティーブン・バブコック(Stephen Babcock)が率いた酪農研究が相まって、ウィスコンシン州は「アメリカの酪農地帯」という評判を築くのに役立ちます。

 他方、アルド・レオポルド(Aldo Leopold)などの自然保護論者は、20世紀初頭に州の森林の再生を支援し、より再生可能な製材および製紙産業への道を開き、北部の森林地帯でのレクリエーション観光を促進します。20世紀初頭には、ヨーロッパからやってきた膨大な移民労働者によって、ウィスコンシン州で製造業も急成長します。ミルウォーキー(Milwaukee)のような都市の産業は、醸造や食品加工から重機製造や工具製造まで多岐にわたり発展します。やがてウィスコンシン州は1910 年までに総生産額で米国の州の中で第8位にランクされます。

Aldo Leopold


(投稿日時 2024年9月3日) 成田 滋