植民地政府へのイギリスの介入は、植民地の他の各地を脅かす可能性があり、団結して行動することによって対抗できるというのが広く一般的な見方でした。植民地間の多くの協議の結果、大陸議会(Continental Congress)が設立され、1774年9月にフィラデルフィア(Philadelphia)で会合が開かれます。ジョージア州を除くすべての植民地議会は、代表団を派遣します。ヴァジニア州の代表団の提案はトーマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)が起草し、後に『A Summary View of the Rights of British America (1774)』として出版されます。
1773年、ノース公爵が東インド会社(East India Company)をある困難から救おうとしたときにも、イギリスの植民地経済への介入は起こります。紅茶法(Tea Act)は、インドで紅茶を生産していた同社に、植民地での流通を独占させるものでした。同社は、商人による競売での販売制度を廃止し、自社の代理店を通じて茶葉を販売することを計画します。仲買人のコストを削減することで、広く買われている粗悪な密輸茶を安く売りさばくためでありました。この計画は当然ながら植民地の商人たちに影響を与え、多くの植民地人は、この法律はアメリカ人に合法的に輸入された茶を買わせ、その税金を払わせようとする陰謀であると非難しました。課税された茶の樽を拒否すると脅したのはボストンだけではありませんでした。その拒否は最も劇的で挑発的な行動となります。
ヴァジニア州のリチャード・ブランド(Richard Bland)は、1764年に発表した『罷免された大佐』(Colonel Dismounted)の中で、権利とは平等であることだと主張しました。彼は、植民地時代の不満の根源に言及しています。アメリカ人は不平等な扱いを受けており、それに憤慨しているだけでなく、自分たちの事案を自分たちで処理できなくなることを恐れていました。植民地の人々は、1761年にボストンで援助令状(writs of assistance)(基本的には一般捜査令状)が敷かれたことに法的不平等を感じます。というのはイギリスでは2つの有名な事件において「一般捜査令状」が非合法とされたからでした。タウンゼントは、1767年に植民地における援助令状を明確に合法化します。ディキンソン(Dickinson)は「農民からの手紙」 (Letters from a Farmer)の中でこの問題を取り上げています。
タウンゼンド諸法(Townshend round of duties)の目的は、植民地からの税収増をもって現地の総督と判事の俸給に当て、植民地のルールから総督や判事を独立させること、法の徹底による貿易統制をより効果的に推進できる体制を整えること、本国の国内法に応じようとしないニューヨーク植民地を処罰すること、本国議会が植民地に対する課税権を有するというものでした。しかし、植民地の人々は、イギリス内の臣民と同じ特権を受ける権利があることを主張し、タウンゼンド諸法に強く反対するのです。
1770年にタウンゼント諸法(Townsend round of duties)が廃止されたため、ウィルソンはこの小論を非公開とし、1774年に新たな問題が発生した際に「英国議会の立法権の性質と範囲に関する考察」として発表します。この中で彼は、議会の合法的な主権はイギリスの海岸で止まっているのだという植民地で集めていた意見を全面的に表明していくのです。
しかし、植民地の人々はイギリス製品の禁輸運動を行うなどして抵抗します。ペンシルベニアでは、弁護士で立法者でもあったジョン・ディキンソン(John Dickinson)が一連のエッセイを書き、1767年と1768年に『ペンシルベニアの農民からの手紙』(Letters From a Farmer in Pennsylvania)として発表し、全植民地的に名声を博し、植民地の統一した反対運動を形成する上で大きな影響を及ぼしました。イギリス議会への抗議運動になるがディキンソンは、イギリス議会が帝国全体に関わる最高権力者であることには同意しますが、植民地の内政に関する権力は否定し、植民地の忠誠心の基本は上位者への服従ではなく、対等の関係にあることを冷静にほのめかします。
イギリス内閣の交代は、課税政策の変更を促します。イギリス議会は植民地の無法状態に怒りを表すのですが、イギリス商人はイギリスの輸入の禁止を懸念していまた。グレンヴィルの後を継いだロッキンガム侯爵(Marquis of Rockingham)は、植民地の抗議に同調するためではなく、国内の理由から印紙税を廃止するように説得し、1766年に印紙法の廃止が可決されます。しかし同日、議会は宣言法(Declaratory Act)も可決します。宣言法は、議会が「いかなる場合においても植民地を統治し、立法する権限を有する」と宣言したのです。
独立革命から南北戦争(1760年〜1788年代)後及び、独立戦争で大半の先住民部族がイギリスと同盟し、独立派軍に対抗します。そのうち五大湖周辺の北西部諸部族は、1763年のポンティアック戦争から1794年のフォールン・ティンバーズの戦い(Battle of Fallen Timbers)の敗北まで、本国からの独立革命を遂行しつつあった植民地人に対して、自らの自由と解放のために戦います。
フォールン・ティンバーズの戦いとは、合衆国軍よる北西部領土侵略に対抗して、諸部族が大同盟を組んで挑んだインディアン戦争のことです。この戦いは、1812年戦争といわる英米戦争の際にショーニー(Shawnee)部族長テクシム(Tecumseh)によって受け継がれ、彼は部族の大同団結を提唱しますが、大望を果たせず、ハリソン将軍( William Harrison)に敗れ戦死します。
同じ頃南部ではチェロキー族(Cherokee)などが文明化政策を受け入れて農業化や文明化への道を歩み、黒人奴隷制度も導入します。しかし、アンドリュー・ジャクソン軍(Andrew Jackson)と戦って敗れ広大な領土を奪われます。こうしてミシシッピー川以東における優位を確立した政府は、1830年にインディアン強制移住法(Indian Removal Act)を制定し、ミシシッピー川以東の諸部族に同川以西への移住を強制します。諸部族は多大の犠牲者を出しながら長い「涙の旅路」(Trail of Tears)を辿ります。
南北戦争後の1870年代をピークとして合衆国軍と諸部族との最後の決戦が西半分の各地で展開されます。諸部族は、1866年のフェッターマン大尉(William Fetterman)以下81名を殲滅し、1876年にカスター連隊(George Custer)を殲滅するなどの戦果を上げます。リトルビッグホーンの戦い(Battle of the Little Bighorn)でカスターは率いていた「第七騎兵隊」とともにスー族やシャイアン族に敗れるのです。しかし、軍事力の格段の違いで部族は戦いを継続できず、保留地に封じ込められます。
フランス・インディアン戦争(French and Indian War)は、植民地の人々の軍事的経験と自己の存在の自覚を強化しただけではあるません。先住民族であるレッド・ジャケット(Red Jacket)やジョセフ・ブラント(Joseph Brant)など、2、3カ国語を操り、先住民族とヨーロッパの競争相手との間で交渉できる指導者を輩出することになります。しかし、クライマックスとなるイギリスとフランス間の闘争は、先住民族にとって災いの始まりでありました。
1763年のパリ条約(Treaty of Paris)で、イギリスはカナダ全土、東西フロリダ、アメリカ大陸のミシシッピ川以東の全領土、カリブ海(Caribbean)のセントビンセント (St. Vincent)、トバゴ(Tobago)、ドミニカ(Dominic)を領有することになります。当時、このようなイギリスの勝利は史上最大級のものと考えられました。アメリカにおけるイギリス帝国を樹立しただけでなく、領土が大きく拡大したのです。
最初の戦の遭遇はフランスの攻撃からでした。ジョージ・ワシントン(George Washington)はネセシティ砦(Fort Necessity)で、優勢なフランス軍に降伏し、モノンガヒラ川(Monongahela River)ではエドワード・ブラドック将軍(Gen. Edward Braddock)の全滅、オスウェゴ(Oswego)とウィリアム・ヘンリー砦(Fort William Henry)でのフランスの勝利は、イギリスにとって戦争が短期間で失敗したものかのように見えました。しかし、こうした敗北があったにせよ、イギリス軍はアメリカへ兵員と物資の供給を増やすことができました。 1758年までに、軍隊の規模は最終的に満足できる水準に達し、イギリスはより大きな戦略を実行し始めることになりました。
イギリス軍は、セントローレンス(St. Lawrence)の支配権を獲得するための陸海軍と、タイコンデロガ砦(Fort Ticonderoga)を狙った大規模な陸軍を派遣してシャンプレーン湖(Lake Champlain)のフランス軍を排除する作戦でした。ただ、フランス軍に対するタイコンデロガ砦での最初の遠征は惨敗でした。ジェームズ・アバクロンビー将軍(Gen. James Abercrombie)は、軍隊が適切に配置される前に、15,000人のイギリス軍と植民地軍を率いてフランス軍に対して攻撃します。セントローレンスの鍵であるルイバーグ(Louisburg)へのイギリス軍の急襲は成功します。 1758年7月、ジェフリー・アマースト卿(Lord Jeffrey Amherst) は海軍の攻撃を主導し、彼の兵隊は小さな舟艇で海岸に上陸し海岸堡を確立し、ルイバーグの砦を占領しました。
1759年、数ヶ月にわたる散発的な戦闘の後、ジェームズ・ウルフ(James Wolfe)が率いる軍隊がモンカルム侯爵(marquis de Montcalm)の率いるフランス軍からケベック(Quebec)を奪取します。これがおそらく戦争の転機となります。1760年の秋には、イギリスはモントリオール(Montreal)を占領し、アメリカ大陸のすべてを実質的に支配することになります。イギリスが他の地域の国々を破るのにさらに2年を要したのですが、アメリカ大陸の支配権争いは決着していきます。
最初の戦の遭遇はフランスの攻撃からでした。ジョージ・ワシントン(George Washington)のネセシティ砦(Fort Necessity)で、優勢なフランス軍に降伏し、モノンガヒラ川(Monongahela River)でのエドワード・ブラドック将軍(Gen. Edward Braddock)の全滅、オスウェゴ(Oswego)とウィリアム・ヘンリー砦(Fort William Henry)でのフランスの勝利は、イギリスにとって戦争が短期間で失敗したものかのように見えました。しかし、こうした敗北があったにせよ、イギリス軍はアメリカへ兵員と物資の供給を増やすことができました。 1758年までに、軍隊の規模は最終的に満足できる水準に達し、イギリスはより大きな戦略を実行し始めることになりました。
イギリス軍は、セントローレンス(St. Lawrence)の支配権を獲得するための陸海軍と、タイコンデロガ砦(Fort Ticonderoga)を狙った大規模な陸軍を派遣してシャンプレーン湖(Lake Champlain)のフランス軍を排除することが含まれていました。ただ、フランス軍に対するタイコンデロガ砦での最初の遠征は惨敗でした。ジェームズ・アバクロンビー将軍(Gen. James Abercrombie)は、軍隊が適切に配置される前に、15,000人のイギリス軍と植民地軍を率いてフランス軍に対して攻撃したのです。セントローレンスの鍵であるルイバーグ(Louisburg)へのイギリス軍の急襲は成功します。 1758年7月、ジェフリー・アマースト卿(Lord Jeffrey Amherst) は海軍の攻撃を主導し、彼の兵隊は小さな舟艇で海岸に上陸し海岸堡を確立し、ルイバーグの砦を占領しました。
帝国間の第一次世界大戦、またはアメリカ人に知られているフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)は、この世紀におけるヨーロッパの主要国間の戦争のもう一つのラウンドでした。最初はウィリアム王戦争(King William’s War)(1689–97年)、次にアン女王戦争(Queen Anne’s War)(1702–13年)、そして後にジョージ王戦争(King George’s War)(1744–48年)で、イギリス人とフランス人は戦いました。先住民族の支配、アメリカ大陸の北にある領土の所有、北西部の貿易へのアクセス、西インド諸島の商業的優位性を保つためにです。
ユダヤ人は1654年に当時のオランダからニューアムステルダム、現在のニューヨークに到着し、オランダ西インド会社(Dutch West India Company)から亡命を許可されました。当初ピーター・ストイフェサント(Peter Stuyvesant)知事は、ブラジル北部からニューアムステルダムに恒久的な入植を目指し、パスポート無しのユダヤ人を受け容れませんでした。クエーカー教徒、ルター派、および「教皇主義者」に対する寛大さの前例になると杞憂したからでした。しかし、1763年までに、ユダヤの会堂(synagogues)はニューヨーク、フィラデルフィア、ニューポート(New Port)、ロードアイランド (Rhode Island)、サバンナ(Savannah)、およびユダヤ人の商人の小さなコミュニティが存在する港湾都市に設立されていきました。