アンドリュ・ジョンソン大統領や北部の民主党員、および南部の白人は、共和党の再建計画に拍車をかけます。大統領は1866年8月にフィラデルフィアで開催された全国連合大会(National Union Convention)で新しい政党を組織しようとします。8月から9月には、大統領は自分の政策を広め、共和党の指導者を攻撃するために、北部や西部の多くの都市を訪れます。大統領の強い要請により、テネシー州を除く南部のすべての州が圧倒的多数で修正第14条を拒否します。
議会の共和党員はジョンソン大統領に疑問を呈し、彼が度重なる拒否権を可決した再建法を大統領が施行すること疑い、可能な限り彼の権限を剥奪しようとします。議会は大統領の軍事命令はすべて軍の最高司令官であるユリシーズ・グラント(Ulysses Grant)を通じて発令することを要求します。それによって軍に対する大統領の統制を制限しようとします。そして、在職任期法(Tenure of Office Act)によって、任命される閣僚を解任する大統領の権利を制限します。
北軍の将軍アンブローズ・バーンサイド(Ambrose Burnside)はポトマック陸軍の司令官としてジョセフ・フッカー将軍(Gen. Joseph Hooker)を任命し、フッカーは1863年4月に攻勢に転じます。彼はヴァジニア州チャンセロズビル(Chancellorsville)でリー将軍の陣地を奪取しようとしますが、完全に出し抜かれ、撤退を余儀なくされます。
南北戦争における海軍の作戦は、陸上での戦争に比べれば二の次でしたが、それでもいくつかの有名な戦果がありました。合衆国海軍将校だったデヴィッド・ファラガット(David Farragut)はニューオリンズとモービル湾(Mobile Bay)での行動を正当に評価され、モニターとメリマックの戦い(Monitor and Merrimack)は、しばしば近代海戦の幕を開けたとされます。しかし、この海戦の大部分は封鎖戦争であり、北軍は南軍のヨーロッパとの通商を止めるのにほぼ成功するのです。
イギリスとの最初のトラブルは、1861年11月、チャールズ・ウィルクス大佐(Capt. Charles Wilkes)が英国の蒸気船トレント(Trent)を停船させ、ヨーロッパに向かう2人の南軍使節、ジェームズ・メイソン(James M. Mason)とジョン・スライデル(John Slidell)を強制的に連行したときでした。最終的に二人は解放されたのですが、ロンドンのパーマストン卿(Lord Palmerston)の政府との外交的断絶だけは防ぐことができました。
サムター要塞の占領後、両軍は直ちに軍隊の調達と編成を開始します。1861年7月21日、南軍の首都リッチモンドに向かって行進していた約3万の北軍は、マナサス(Manassas)で止められ、トーマス・ジャクソン将軍(Gen. Thomas Jackson)とP・ボーレガード将軍(Gen. P.G.T. Beauregard)率いる南軍によってワシントンDCに追い返されます。敗戦のショックは北軍に活気を与え、北軍は50万人の増員を要求します。ジョージ・マッケラン将軍(Gen. George McClellan)は、北軍のポトマック軍(Army of the Potomac)を訓練する任務が与えられます。
奴隷制の足がかりがあまりなかったサザン・ヒル・カントリー(Southern hill country)の住民も、同様にデイビスに対して敵対的でした。さらに、戦争を遂行するために両指導者は政府の権限を強化する必要があり、戦争をもたらした統合のプロセスをさらに加速させていきます。その結果、両政府は州知事から激しく攻撃され、州知事はその権限の侵害に憤慨し地方自治を強く支持していきます。
ミシシッピ州のジェファソン・デイビス(Jefferson Davis)を首長に、ここにアメリカ連合国(Confederate States of America)が誕生し、独自の本部と部局を設置し、独自の通貨を発行し、独自の税金を上げ、独自の旗を掲げました。いろいろな敵対行為が勃発し、ヴァジニア州が連邦政府を脱退した後の1861年5月に新政府は首都をリッチモンド(Richmond)に移しました。アメリカ連合国の軍隊は南軍と呼ばれます。
こうした南部の既成事実に直面したリンカンは、就任時にあらゆる方法で南部を和解させる準備をしていましたが、1 つの条件を除いて、合衆国が分裂する可能性があるとは考えていませんでした。彼の決意が試されたのは、次のことでした。すなわち、ロバート・アンダーソン少佐(Maj. Robert Anderson)の指揮下にある連邦軍のサウスカロライナ州のサムター要塞(Fort Sumter)の存在のことです。要塞は、当時まだ連邦政府の管理下にあった南部で数少ない軍事施設の 1 つでした。
ミシガン、インディアナ、イリノイ、ウィスコンシン州内で従属した先住民たちは、ヨーロッパ系のアメリカ人によって、まだ価値を知らなかった地域にある州内の居留地に次々と強制移住させられていきます。1832年にブラックホーク(Black Hawk)が率いるソーク・アンド・フォックスの反乱 (Sauk and Fox uprising)というブラックホーク戦争(Black Hawk War)が起こり、若き日のエイブラハム・リンカン(Abraham Lincoln)を含む地元の民兵によって鎮圧された以外は、ほとんど抵抗がなくなりました。
1832年、チェロキー族(Cherokees)は、戦ではなく裁判所に訴え、ウースター対ジョージア(Worcester v. Georgia)という訴訟で最高裁判所で勝訴します。この裁判で、州は、アメリカ先住民の土地に規制を加える権利はないとされますが、ジャクソン大統領は、ジョージアを支持して、この判決を軽んじ無視します。
政府はミシシッピ川以南のインディアン準州、後のオクラホマ州への定住政策を強引に進め、1830年にこの政策が法制化されると、南東部の先住民たちは「涙の道(Trail of Tears)」に沿って西へと追いやられることになります。しかし、セミノール族は抵抗し、フロリダの湿地帯で7年にわたる第二次セミノール戦争(Second Seminole War)を戦い、結果として1842年に降伏します。この第二次セミノール戦争は、アメリカ独立戦争からベトナム戦争の間で合衆国が関わった戦争では最も長く続いた戦争でした。後に先住民たちはこれを「インディアンのベトナム戦争」(Vietnam War by Seminole) と呼んでいます。