心に残る一冊 その14 「小川の辺」

「小一里ほど歩いたとき、突然のように日光が射し、靄はしばらくの間、白く日に輝いたあと、急速に消えていった。行く手にまだ山巓のあたりに雪を残している山が見えた。海坂藩は三方を山に、一方を海に囲まれている。里に近い山は早く雪が消えるが、その陰に空にそばだって北に走る山脈には、六月頃まで斑な残雪が見られる。」

このように藤沢周平の小説には、自然や季節の情景が描かれます。絵を彷彿とさせてくれます。それは日本人の心にある自然です。高いビルやけばけばしい看板、ネオンサイン、騒がしい公園はありません。昭和の年代にあちこちに残っていた風景です。郷愁を思い起こすと詩情が漂うようようです。そして川や橋が登場します。「小川の辺」、「橋ものがたり」という小品もそうです。

脱藩して江戸へ逃亡した義弟を主命によって討手として斬らねばならない武士、戌井朔之助の不条理を描いています。佐久間森衛と共に逃亡した妻の田鶴も討たねばならなくなるという苦悩が描かれています。田鶴は朔之助の実の妹なのです

新蔵は朔之助の家で居候をしながら剣術を磨い若党です。朔之助は家老の助川権之丞の脱藩した義弟を討てとの命令で苦悩し、それを両親に伝えるのです。母親は兄弟同士の斬り合いを頑なに拒みますが、父親は「田鶴が立ち向かってくるなら二人とも斬れ!」と朔之助に言い渡すのです。

朔之助は父親に、必ず生きて連れ戻すと約束します。田鶴もまた新蔵と一緒に剣術に励み、密かに心を寄せ合う仲でありました。家族の会話を聞いていた新蔵は、朔之助に同行したいと申し出て出掛けます。

江戸の郊外で、義弟の隠れ家を探し出します。田鶴が外出したのを見計らって二人は家に近寄り、朔之助は佐久間を討ちます。そととき田鶴が帰ってきて、「討手は兄上でしたか!」「佐久間の妻としてこのまま見過ごすことはできません」と剣を抜いて朔之助に向かってくるのです。「若旦那さま、斬ってはなりませんぞ」と新蔵は叫びます。

朔之助のすさまじい気合いで田鶴の剣は巻き上げられ、川に落ちていきます。「田鶴を引き揚げてやれ」と新蔵に叫びます。新蔵の腕が田鶴の手を引き、胴を巻いて草の上に引き揚げるのを朔之助はみます。新蔵が田鶴に何か話しかける姿は、二人が本物の兄妹のように朔之助には見えます。そして、二人は、このまま国に帰らないほうがいいかも知れないとも思うのです。

「田鶴のことはお前にまかせる」といいながら、朔之助は懐から財布を抜き出して新蔵に渡すのです。「俺は一足先に帰る。お前達は、ゆっくりと後のことを相談しろ。国へ帰るなり、江戸にとどまるなり、どちらでもよいぞ。」

心に残る一冊 その13 「愛蘭土紀行」 (街道をゆくから)

司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズは、日本国内はもとよりアメリカ・オランダ・アイルランド(Irland)・モンゴル・中国・韓国・台湾などを紀行したときのエッセイ集です。「南蛮のみち」はフランスやスペインのバスク人(Basque)を題材としています。

アイルランドの首都はダブリン(Dublin)。アイルランドからは、ケルト文化(Celtic Culture)、アイリッシュダンス(Irish Dance)、セントパトリックデイ(St. Patrick Day)、さらには歌手で作曲家のエンヤ(Enya)が思い浮かびます。政治家や映画にもアイルランド系(アイリッシュ)の人が沢山活躍しています。例えば元ケネディ大統領やレーガン大統領、俳優のジョン・ウェイン(John Wayne)や映画監督のジョン・フォード(John Ford)などです。小説家ではサミュエル・ベケット(Samuel Beckett)、ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)、そして詩人で劇作家のウィリアム・イェーツ(William Yeats)などが輩出しています。タータン( tartan)という多色の糸で綾織りにした格子柄の織物も知られています。

アイルランドは、1650年代にクロムウェル(Oliver Cromwell)による過酷な植民地支配を受けます。クロムウェルはイングランドの政治家であり軍人でありました。彼はイングランド共和国(Commonwealth of England)初代の護国卿(Lord Protector)となります。さらにプロテスタントによるカトリック教徒であるアイルランド人への迫害が長く続きます。さらにイングランド人による搾取によっておきたジャガイモ飢饉でアイルランド人が大勢亡くなるのです。こうした植民地支配でイギリスに対して伝統的に敵対した関係が長く続きます。20世紀では特にアイルランドへの帰属を求めて、イギリス領北アイルランドではテロ行為が過激派IRAによって引き起こされたのは記憶に新しいところです。イギリスが光とすればアイルランドは影のような歴史があります。

司馬遼太郎は「愛蘭土紀行」において、アイルランドだけでなくアイルランドと関係のある国、関連する歴史を掘りおこし、アイルランドの人々に流れる精神にスポットをあてます。独自の史観や文化観によって、その地の歴史や地理や人物を克明に描写するのが特徴です。「街道をゆく」という名前から、司馬遼太郎は人や物が交流する「街道」や「海路」にこだわり、日本や世界の歴史を展望しているといえましょう。

心に残る一冊 その12 「チボー家の人々」

「チボー家の人々」(Les Thibault)の舞台は20世紀初頭のフランス。カトリック(Catholic)とプロテスタント(Protestant)両教徒の2家族や新旧両世代の人々、合理主義とロマン主義を信奉する兄弟が登場します。著者はロジェ・マルタン・デュ・ガール(Roger Martin du Gard) 。 翻訳したのは山内義雄氏で、1952年でに白水社から出版されています。

チボー家の父親は、厳格なカトリック教徒で、封建的な規律を子供達に教えようとします。長男のアントワーヌ(Antoine)は、社会奉仕に一生を捧げやがて医者になります。彼は父が考える「社会的な人間」としてまっとうに育っていきます。他方、弟のジャック(Jack)はそこからなんとかして逃れ出たいと願います。そして彼は違う道を選ぶのです。危うくも幸福な青春時代は去り、晴れて入学した高等師範学校を辞退し姿を消してしまいます。兄弟の国防の義務についての対立も鮮明になります。ジャックの友人でプロテスタントの家庭の息子であるダニエル(Daniel)は世の中の流れに無関心な青年です。

父チボーが亡くなり,古いフランスは過ぎ去り、ヨーロッパは大きく変わります。フランスは第一次世界大戦という大きな混乱の中に巻き込まれていくことになります。フランスにも動員令がでます。ジャックは社会の矛盾に苦しみ、やがて革命にのめり込んでいきます。徹底的に戦争に反対するために戦おうと決意します。自分の意思や生き方に共感してくれるジェンニー(Jenny)の存在との板挟みになります。アルザス(Alsace)の戦線では毒ガスが使用される悲惨な戦いが続きます。アントワーヌは毒ガスによって虫の息、ダニエルも戦場で負傷します。召集されたジャックは病に冒され臨終の時を迎えます。ジャックは病の床でいいます。

「おれの死ぬ月だ。希望を失ったということは、飢餓の苦しみよりさらに苦しい。それでいながら、おれの中にはまだ生の鼓動がある。しかも力強い。、、おれは時々物を忘れする。数分間、おれは昔の自分にかえり、他の人々同じような気持ちになり、なにか計画さえたててみる。と、とつぜん氷のようないぶき、。再びおれにはわかるのだ。」

心に残る一冊 その11 Intermission「碁と沖縄とウィスコンシン」 

私は樺太生まれ。1945年の終戦直前北海道の美幌に引き揚げてきました。国鉄にいた父の異動で道内を転々としました。道立旭川西高校から北海道大学へ、そして1965年に卒業し、その後埼玉で生活しながら立教大学で学び、しばらくして沖縄で幼児教育を始めるために1971年にパスポートと予防注射を受けて琉球政府統治の沖縄に行きました。本土復帰の前年のことです。琉球政府文教局の人が沖縄の幼児教育の振興のためにと、設置基準をゆるめて幼稚園を認可してくれました。

沖縄は昔から囲碁が盛んです。江戸の中期、琉球が朝貢のとき同行していた親雲上浜比嘉(ペーチンハマヒガ)が三田にあった島津藩邸にて四世本因坊道策と四子局でうったという記録があるくらいです。1970年代、沖縄の囲碁界には下地玄忠五段という地元紙沖縄タイムスの囲碁欄を40年余りも執筆していたという伝説的な棋士がおられました。現在日本棋院に所属する下地玄昭七段はそのご子息です。沖縄からは時本壱九段、その弟子に新垣武九段、新垣朱武九段、知念かおり四段がいます。残念ながら私は仕事にかまけて、囲碁を楽しむ余裕がありませんでした。これが私と囲碁のつながりでの第一の悔やまれるできごとです。

時代を経て1977年に那覇東ロータリークラブから推薦を受け国際ロータリークラブから奨学資金を頂戴しました。家族を連れてアメリカは中西部にあるウィスコンシン大学へ行くことになりました。大学構内に湖を背景とした堂々たる学生会館(Memorial Union)があります。劇場、宿泊施設、会議場、宴会場、三つのレストラン、アイスクリーム・スタンド、談話室などが完備されています。その一角で中国人か韓国人と見受けられる留学生グループが碁をうっていました。対局したいという気持ちが疼いたのはもちろんです。ですが私は研究とアルバイトで家族を支える不如意な暮らしをする留学生でしたので、この人々に加わることはできませんでした。これが第二の悔やまれることです。

幸い1983年に学位を貰い、それから横須賀にある文科省関連の研究所で10年、その後兵庫県にある小さな教育大学で10年働くことができました。ですがこの二つの職場でも囲碁をする機会はほとんどありませんでした。これが第三の悔やまれることです。「人間万事、塞翁が馬」のように運不運はつきものです

思えば棋力を伸ばす大事な時期を逃したのが、30代から40代にかけての沖縄とウィスコンシンでの生活です。今、毎日数時間は碁の本と碁盤の上を徘徊しているのですが、かつて語学やさまざまな知識をパタンとしてスイスイ獲得できたときのような興奮は体験できません。棋力も学力も小さいときからの絶え間ない学びがないと伸びないのです。「発達や進歩には時がある」ということでしょう。

心に残る一冊 その10 「桃源郷の短期滞在人」 

原題は「Transients in Arcadia」。「Arcadia」とは古代ギリシア語からきた理想郷という意味の単語です。ニューヨークはブロードウエイ(Broadway)。ここに夏の避暑地にあるホテルのリストから落ちこぼれたホテルがあります。ホテルロータス(Hotel Lotus)です。人々からはあまり知られていませんが部屋は落ち着いた色合いで、ホテルは木々に囲まれあたかも山間のリゾートホテルのようです。ニューヨークの暑い夏では知る人ぞ知るホテルなのです。滞在者が少なく、夕食もゆったりと楽しめるのです。

エロイーズ・ビーモント(Heloise D’Arcy Beaumont)という女性がチェックインします。気品ある振る舞いで、ホテルの従業員や他の客からもかなり高い社会的地位にある人だろうと思われていました。マダム・ビーモントと呼ばれていました。

彼女が滞在して3日目、ホテルロータスに練された服装の紳士がやってきます。世界中を旅し、いろいろな国々に精通しているかのようです。滞在期間は4日とあります。名前はハロルド・ファリントン(Harold Farrington)。

ある夜、マダム・ビーモントは夕食の後でハンカチを落としてしまいます。ファリントンそれを拾って彼女に渡すのです。それから会話が始まります。二人の会話は高級避暑地でのバカンスや豪華客船、貴族の生活といった上流階級の休暇中らしいきらびやかな会話を楽しむ二人でした。

しかし、マダムは本名がメイミー・シビター(Mamie Siviter)であると告白するのです。自分は金持ちなんかじゃなこと、必死にお金を貯めただけの貧乏人で、ケーシーマモス(Casey’s Mammoth)という店で働いていること、自分が話したヨーロッパのことは本で読み脚色した外国のことで、貴婦人のふりをしたかったのだ、と伝えるのです。

自分が夜食用に着ているドレスを指して、オダウド&レヴィンスキー(O’Dowd & Levinsky)という店で70ドルを月賦で購入し、10ドルを頭金として払い、毎月1ドルずつ返済しているとも語ります。そして彼女は財布から1ドル札を取り出して、今月の返済にあてることを告白します。明日8時で自分の休暇は終わりだとも語るのです。

 メイミー 「あなたと出会えたことは一生の想い出です。嘘をついてごめんなさい。」
 ファリントン 「驚きました。僕の他にも同じ事を考えた人がいたとはね。実は僕は、レヴィンスキーの月賦の集金係なんです。週給20ドルの給料の中から貯金してやっと実現したんです。」
そう言うとファリントンはメイミーから1ドル札を受け取り領収書をわたすのです。

 ファリントン 「だから、メイミーさん、こんどの土曜日の夜、船に乗ってコニーアイランド(Coney Island)の遊園地にでも行くっていうのはーどうです?」
 メイミー 「ご一緒します。店は土曜日は昼過ぎで終わりですから。」

二人はそれぞれの部屋に戻ろうとします。
 ファリントン 「私の本名はジム・マクマナス(James McManus)といいます。ジムと呼んでください。」
 メイミー 「ありがとう、、、お休みなさい、ジム、」

 

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

心に残る一冊 その9 「賢者の贈り物」 

原題は「The Gift of the Magi」といいます。オー・ヘンリーの短編小説の一つです。若く貧しいジム・ヤング(James Young)と妻デラ(Della)は12月24日を迎えます。その年は特別に景気が悪く、給料も減ってしまいました。二人はいつもより厳しいクリスマスを迎えなければなりませんでした。

デラはこのクリスマス・イヴの日に愛する夫のために何かすばらしいプレゼントを買いたいと考えます。手許には、1ドル87セントしかありません。たったの1ドル87セントです。デラの目から涙がこぼれます。

しかし、デラが姿見の前に立ちお化粧を直していたとき、膝の下までとどく美しい髪の毛をみてすばらしいことを思いつきます。そして髪の毛を売る商人の元でバッサリと切ってもらいます。大事な髪の毛で20ドルを得ます。それをもってジムが祖父と父から受け継いでいた金の懐中時計に付ける「プラチナの鎖」を購入するのです。他方、ジムも愛する妻、デラのために何かすばらしいプレゼントをしようと考えていました。でもお金がありません。ジムは大切な懐中時計を質に入れ、デラが欲しがっていた「亀甲の櫛」を求めるのです。

ジムはいつもどおりにアパートに帰って来ました。扉を開いたジムは、デラの顔を見て棒立ちになります。デラのあの美しい髪の毛が無くなっていたからです。でもそれだけではありません。デラはジムの懐中時計もなくなっているのを知ります。二人はそれぞれが計画したことを話すのです。そして「私の髪はすぐ伸びるのよ!」 デラはいいます。

ジムが金時計を売って、デラの髪に飾ろうとした「亀甲の櫛」。デラが自分の髪を売って買った「プラチナの鎖」。どちらも贈りものを与え、贈りものを受けとるのです。

心に残る一冊 その8 「警官と賛美歌」

刑務所生活をしたことのあるオー・ヘンリーの短編小説には警官がしばしば登場します。ヘンリーは警官に対して特別な感情を持っているようです。今回は「警官と賛美歌」 (The cop and the anthem)という小説を紹介します。

主人公はソピー(Soapy)という野外生活者です。冬が近づくとソピーはブラックウエルアイランド刑務所(Blackwell Island Prison)で三ヶ月をおくることを常としています。温かい食事と寝床が用意され警官からどやされることのない快適な住み家なのです。舞台はニューヨークのマディソン・スクエア(Madison Square)のあたりです。

また冬が間近なのでソピーは刑務所生活を待望して、立派なレストランで最上の無銭飲食をしようと考えます。だがウエイターはソピーの穴の空いた靴や破れた服をみて追い返すのです。仕方なく六番街にやってくるとソピーは石を拾って窓ガラスに投げつけます。警官が飛んでくるのですが、二人の男が逃げていきます。警察はそれを追いかけるのです。またもやソピーは刑務所行きが失敗します。

今度は安っぽい食堂に入りたらふく食べて、店主に「金はない」といいます。てっきり警官に連行されるのを期待するソピーですが、二人の店員につかまれてほっぽり出されます。警官はにやにやして眺めています。次ぎに一人の若い女性がウインドウの前に立って中の品をのぞいているのを見つけます。側には背の高い警官が立っています。彼女は話しかけられるのを嫌がって警官を呼ぶだろうとソピーは考えます。
ソピー 「今晩は、Bedelia!, 一緒にあそびにいかないか?」
女 「いいわよ、Mike!」
女 「何か飲ませてくれる?あなたが話かけてくれるのを待っていたのよ。だって警官がこっちを向いているでしょう。」
そういうと女性はソピーの腕に手をまわします。次の角に来ると女は腕をといて立ち去ります。

とぼとぼと古い劇場街にやってきます。ソピーは劇場の前で酔っぱらったふりをして大声でわめき踊り出します。警官がやってきて、周りの人々にいいます。
警官 「あれは学生なんだ、怪我はさせないからやらせておけ、、」

なんど芝居をしても警官に逮捕されないソピーは、とある古い教会堂の前にやってきます。ステンドグラスから柔らかな光が溢れています。そこから賛美歌が響いてきます。ソピーが知っている賛美歌なのです。その音をききながらソピーは、昔の自分、仕事、友達、家族のことを想い浮かべるのです。自分の生き方をしみじみと振り返ります。そこに警官がやってきます。
警官 「なにをしているのか?」
ソピー 「いや、なにも、、、」
警官 「お前が考えていることは、、」

ソピーは警官と言い合いを始めるのです。
警官 「ニューヨークの警官と言い合いするのは無駄なんだ。ついてきなさい。」

翌朝、治安判事はソピーに三ヶ月のブラックウエルアイランド刑務所行きを命じるのです。

心に残る一冊 その7 「二十年後」 

庶民の哀歓や思いやりを描き出した短編の一つが 「二十年後」(After Twenty Years)です。オー・ヘンリーはかつて勤め先のオハイオ銀行で金を横領した疑いで服役した経験があります。ヘンリーは服役前から短編小説を書き始めていたようです。服役中にも多くの作品を密かに新聞社や雑誌社に送り、3作が服役期間中に出版されたといわれます。

刑務所での待遇は良く、獄中で薬剤師として働いていたため、監房ではなく刑務所病院で寝起きし、夜の外出許可まで出されていたようです。模範囚として減刑されやがて釈放されます。その後、本格的に短編小説を世におくっていきます。

ローワー・イースト・サイド(Lower East Side)に一人の巡査がパトロールをしてやってきます。時間はまだ夜10時になっていないのですが、小雨を含んだ冷たい風が通りから人々を追いたてていました。そこに男がやってきて、巡査に声をかけるのです。
 男 「今、友達を待っているんだが、、20年前にここで会おうと約束をしたんだ。」
 男 「おかしなことだろうと思うだろうが、、もしなんなら説明してもいいんだ。」
 男 「昔、ここにレストランがあったんだ。この店が立つ前のことだが。」
 男 「Big Joe’ Brady’sレストラン」という看板の店さ。」
 巡査 「五年前に立ち壊されたんだ。」
 男 「20年前の今夜、ここにあったBig Joe’ Brady’sレストランで友達のJimmy Wellsと夕食をしたんだ。2人ともニューヨーク育ちで兄弟のような仲だったな。やがて仕事を求めて俺はJimmyと別れ西部へ行ったんだ。その時、どんなことがあっても20年後に、ここで会おうと約束したのさ。」
 巡査 「いい話だな。その後、友達から便りがあったのか?」
 男 「しばらく手紙をやりとしたが、その後消息をつかめなくなった。」
 男 「だがJimmyが生きていれば、かならず約束を守るだろうと思って西部からはるばるここにやってきたのさ。」
 男 「10時3分前だな、、」

巡査は警棒をくるくると回しながら、仕事に戻ろうとします。
巡査 「友達は時間通りやってくるのか?」
 男 「30分は待つつもりさ。生きていればJimmyは必ずやってくるよ。」

約束の時間から20分後に長いコートを着た背の高い1人の男が路の反対側から待ち人の方向にやってきます。
 男 「Bobか???」
 背の高い男 「そういうお前はJimmy Wellsか??」
 男 「随分背が高くなったんじゃないか?」

2人は再会を喜び合うのです。そしてBobは背の高い男と腕を組み歩きながら20年間の出来事を語りだします。背の高い男は静かに聞いています。

街角の明るく輝くドラッグストアの前で2人はたちどまり、見つめ合うのです。その時男は叫びます。
 男 「お前はJimmy Wellsじゃないな、、、」
 背の高い男 「Silky Bob、お前は10 分前から逮捕されている。シカゴ警察はうちの管轄にお前が潜りこんだかもしれんと電報がきたいるんだ。だが、署に行く前にここにお前宛の言づてがある。先ほどのWells巡査からのものだ。」

「Bob、俺はお前との約束の時間と場所にいたんだが、お前がタバコをすおうとマッチをすったときに、シカゴ警察が捜している男だとわかったのだ。お前を逮捕するのは忍びなかったので、この男に頼んだ。」

心に残る一冊 その6 「最後の一葉」

高校の時に受験勉強を兼ねて英語で読んだもので、私の青春の忘れられない作品をいくつか紹介します。原名は「The Last Leaf」といいます。実に短い小説です。作者はオー・ヘンリー(O. Henry)。彼の本名はWilliam Porterといいます。

小説の舞台は、ニューヨークのワシントン・スクエア(Washington Square)にある芸術家が集まるアパートです。そこに二人の貧しい画家、ジョンジー(Johnsy)とスー (Sue)が暮らしています。生活は苦しいながら二人は助け合って生きています。ある日ジョンジーは肺炎を患います。医者から「生きる気力を亡くしている。このままでは回復する可能性は極めて少ない」とスーに告げます。人生に諦めかけ、なげやりになっていたジョンジーはベッドのうえで、窓の外の煉瓦の壁に這う枯れかけた蔦の葉を数えます。そしてスーに言い出すようになります。「あの葉がすべて落ちたら、自分も死ぬのだわ。」

老画家のバーマン(Behrman)が彼女たちの階下に住んでいます。酒が好きで、周りの者に「いつか傑作を描いてみせる」と言いふらすのです。そして絵筆を握らず人を小馬鹿にするような生活をしています。やがて老画家は、「葉が落ちたら死ぬ」とジョンジーが思い込んでいることを伝え聞きます。

ある夜、一晩中激しい風雨が吹き荒れ、ジョンジーは蔦の葉が一枚、また一枚と散るのを眺めます。翌朝、壁に這う蔦の葉は一枚になってしまいます。その次の夜にも激しく風雨が吹きつけます。ですが翌朝になっても最後の一枚となった葉が壁にへばりつくのを発見します。ジョンジーは奇跡的に生きる気力を取り戻すのです。

画家のバーマンは肺炎になり亡くなります。最後の一葉こそが、バーマンがいつか描いてみせると豪語していた傑作だったことをジョンジーとスーは知るのです。この一葉は息吹を与え命を奮い立たせる力があったのです。

心に残る一冊 その5 「死と愛」 

19世紀の後半から20世紀の中葉にかけ、社会のドグマに挑戦し人間の経験についてより豊かな理解を取り入れることを促したのがニーチェ(Friedlich Nietzsche)でありキルケゴール(Soren Kierkegaard)でありハイデッガー(Martin Heidegger)といわれた哲学者です。こうした運動は実存主義として知られています。それを精神医学に応用したのが実存分析(Existential analysis)と呼ばれ、現象学的精神病理学の一つの到達点とされています。この現象学は単一のものでなく、多くの異なった流派を内包しています。たとえばビンスワンガー(Ludwig Binswanger)の実存分析とフランクルの実存分析とは大いに異なっています。

ビンスワンガーは精神病理学の一つの観察様式や探求方法で患者の了解を深めることに役立たせようとする理論といわれます。他方フランクルの方法はロゴセラピーという臨床や治療に結びついてつけられているところに特徴があります。

本著の原題は「Aerztlich Seelsorge」。「医療的な魂のケア」とでも訳せそうです。「心理療法からロゴテラピーへ」、「精神分析から実存分析へ」、「心理的告白から医学的指導」の三章からなります。心理療法の臨床家を悩ます患者との世界観における対立の問題に洞察を与えます。

フランクは自分の患者で亡くなったつまを寂しく思うあまり悩む男を取り上げます。もし、患者が先に死んだとしたらどうなっていただろうかと問うと、「妻も同じように苦しんだろう」と答えます。

患者は自分の妻に深い悲しみを与えまいと気遣ってきたわけが、今やその悲しみを自分自身が蒙らなければならない。だがその苦しみは意味が与えられることで、耐えうるものとなっている。このようにフランクルは述べるのです。

人間像とは少しも観念的なものではなく、現実的、存在論的なものであるとフランクは主張します。従来の心理療法の彼岸にあったものを臨床心理学の領域に引き入れた功績が、こうした著作を読むと理解できてきます。

心に残る一冊 その4 「時代精神の病理学」 

原題は「Pathology Des Zeitgeistes」とい日本語訳では「時代精神の病理学」となっています。「Zeitgeist」とは「その時代のエートス」といった意味です。ヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl)は、フロイド(Sigmund Freud)やアドラー(Alfred Adler)の薫陶を受けた精神医学者です。後年はこの二人と袂を分かち、精神医学界にロゴテラピー(Logotherapy)という療法を創始していきます。その背景には、アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所の経験が基にあるといえそうです。

この著作は五年間にわたるラジオ番組での講演が下敷きとなっています。「精神医学の啓蒙という問題」、「老化の精神衛生」、「中年の精神衛生」、「不安神経症」、「宿命論的態度」、「睡眠障害」、「自分自身に対する不安」など、現代的な心理学や精神医学のテーマを取り上げています。大変わかりやすい内容であるのが特徴です。「科学者には表面的に分かりやすく書くか、または判りにくければ基本から書くの二つに一つしかない」というアルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)のフレーズを引用しています。

こうした講演の基調にあるのは、これまでの精神医学や精神分析学(Psychoanalysis)、個人心理学に対する強い疑念です。個人心理学は人間をただの自然物と考え、人間の精神性を見逃していると主張します。人の行動は無意識によって左右されるという基本的な仮説を退け、人間には衝動があるといっても、人間の最も本質的なものは衝動からは説明できないと看破するのです。

心に残る一冊 その3 「夜と霧」 

この著作は、私はこれまでいろいろな機会で紹介してきました。それほど強烈な印象を受けた一冊です。

第二次世界大戦中、何百万人というユダヤ人がナチスによって強制収容所に送られました。その一人が精神病理学者のヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl)です。収容所体験をもとに書かれたのが「夜と霧」です。原名は「強制収容所における一心理学者の体験」となっています。この本は、日本語を含め17カ国語に翻訳され多くの人々に読み継がれています。

私がこの本を読んだのは、フランクルが編み出した「ロゴテラピー(Logo Therapy)」という心理療法に関心をもったからです。彼は、収容所のなかでユダヤ人が生と死の狭間のなかで、生きていくことの意味を考えます。希望を持ち続けた者が生き延びることができたのを観察します。いうなれば、人間は様々な条件や状況の中で自らの意志で態度を決める自由を持っていると主張します。誰かが運命を決めるという決定論を否定するのです。人間は生きる意味を強く求める存在であることも強調します。意味への意志を持つ存在だ、というのです。そして、それぞれの人間の人生には独自の意味や価値が存在しているということです。

フランクルは次のように訴えます。

「人間の実存は本来決して現実に無意味になりえないことが明らかになる。すなわち、人間の生命はその意味を「極限まで」保持しているのである。従って人間が息をしている限り、また彼が意識をもっている限り、人間は価値に対して、少なくとも態度価値にたいして、責任を担っているのである。人間は意識存在をもっている限り、責任性存在をもっているのである。価値を実現化するという彼の義務は、人間をその存在の最後の瞬間まで離さないのである。」

“Say Yes to Life” それでも人生に意味がある、というのです。

心に残る一冊 その2 「三太郎の日記」

大学に入ると、周りの者がなにか変な思想にかぶれているように感じられました。先輩は「あれを読め、これを読め」といってせかすのです。1960年安保闘争後のことで、左翼といわれる学生が盛んにアジをとばしていました。立看が林立し学生による政治闘争がくすぶるキャンパスでした。そんな中で受験からの解放感も手伝って、手にした一冊が「三太郎の日記」です。

読んでいくうちに「三太郎」に託して語る著者、阿部次郎の内省が語られるのに新鮮さをおぼえました。主人公の三太郎は、自己を確立していく難しさを語ります。回りくどく、時に屈折している文章は青年のみずみずしい感受性や、思索のなかで迷う阿部次郎の姿そのもののようです。

「何を与えるかは神様の問題である。与えられるものをいかに発見し、いかに実現すべきかは人間の問題である。」

「弱い者は自らを強くするの努力によって、最初から強い者よりも更に深く人生を経験することができるはずである。」

「弱者の戒むべきは、その弱さに耽溺することである。自らを強くするの要求を伴うかぎり、われらは決して自己の弱さを悲観する必要を見ない。」

18歳の私には誠に新鮮な内容に思え、食い入るように読みました。

心に残る一冊 その1 定年退職後の読書

定年退職から十数年が経ちます。退職を機に持っていた本を整理しました。移り住むことになった東京の住み家がコンクリートの長屋なので、保管する場所があまりありませんでした。以前は研究室という誠に都合の良い保管場所がありました。

研究室を去るにあたり二つのことを考えました。「専門書は棄ててまだ読んでいない本を残す」、「学生時代に心に残った本を読み直す」ということです。いわゆる専門書のほとんどは、回収業者のところに持っていきました。中には学生時代に購入した岩波書店のものもたくさんありました。岩波書店には絶大な信頼を置いていました。

高校時代に、一教師より「沢山の小説を読むように」と言われたのが私の読書のきっかけとなります。この教師は英語の担当でした。それ以来、受験勉強の傍ら、大学での予習復習の合間に随分読むことができました。

大分すっきりした本棚には、また新しい本や書類が雑然と積まれています。捨てなかった大事な本ももちろんあります。ところで私の父も本の虫でした。定年後は部屋に閉じこもってはむさぼるように本に食い入っていたようです。そして、「”ユリシーズ”はなんど読んでもわからない」とか「”戦争と平和”はすごいけど、誰が誰だったかがわからなくなる」などといっていました。確かに、ロシア人の名前は似たところがあります。父がこんがらかったのも無理はありません。

”ユリシーズ(Ulysses)”はアイルランドの作家ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)の小説。”戦争と平和”はロシアのレフ・トルストイ(Lev Tolstoy)の作品です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来  その62  北マリアナ諸島

本稿で合衆国とニックネームの旅は終わりです。北マリアナ諸島自治連邦区(Commonwealth of the Northern Mariana Islands)は、ミクロネシアのマリアナ諸島のうち、南端のグアム島を除く、サイパン島(Saipan Island)やテニアン島(Tinian Island)、ロタ島(Rota Island)などの14の島から成るアメリカ合衆国の自治領です。主都は、サイパン島(Saipan)のススペ(Susupe)となっています。


北マリアナ諸島は、1919年から1945年まで日本が委任統治していました。日本からの移民は主にサトウキビやヤシを栽培していました。最盛期には3万人の日本人が生活していたといわれます。戦後、アメリカの信託統治を経て、現在は米国領の中でもコモンウェルス(commonwealth)という政治的地位にあり、北マリアナ諸島の住民は、アメリカ合衆国の市民権を有しています。他の州とは異なり連邦税の納税義務を有しない代わりに、アメリカ合衆国大統領選挙の投票権がありません。2008年よりオブザーバーの資格でアメリカ合衆国下院の委員会に代表委員を送ることが認められるようになりました。

「北マリアナ諸島連邦」と日本語訳されることがあるりますが、北マリアナ諸島は連邦制(confederation)をとっておらず、アメリカ合衆国と連邦の関係にあるわけでもありません。この連邦とは、コモンウェルス(commonwealth)とよばれる自治の形態で、他の国々と政治的、経済的につながりを持つことができます。このような扱いから準州(territory)とも呼ばれています。

北マリアナ諸島のニックネームはいろいろな資料を調べましたが見つかりません。「太平洋の真珠」(Pearls of the Pacific)とでもしておきましょうか。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その61 ヴァージン諸島

アメリカには今も海外に自治的な未編入領域 (unincorporated area) という領有地があります。既述したグアム、プエルトリコもそうです。今回はヴァージン諸島(Virgin Islands)のことです。

1493年11月、クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)は最初にヴァージン諸島のセント・クロイ島(St. Croix Island)に到達し、やがてサンタ・クルース(Santa Cruz)と名付けます。その後、セント・ジョン島(St. John)、セント・トマス島(St. Thomas)にも到達し命名していきます。

ヴァージン諸島の先住民、アラワク族(Arawak)はかつては南米からカヌーでカリブ海の島々に渡り住んで民族です。1625年には、イギリス、フランス、オランダ、スペイン、デンマークが入植を始めます。クロイ島に入植しアラワク族を使って農業を始めた入植者達にとっては、収穫は少なく生活は豊かではなかったようです。疾病や過酷な奴隷制度でアラワク族は1600年代後半までには滅亡し、わずかなカリブ族(Caribs)しか生き残らなかったといわれます。

殆どの入植者達は島から去り、1650年にはイギリス人だけが残ります。その後、新大陸に注目していた、デンマークが1666年にセント・トーマス島とセント・ジョン島の領有権を得ます。1673年、アラワク族がいなくなると、黒人奴隷が初めて島に連れてこられます。デンマーク統治下の各島では、こうした奴隷を使ってサトウキビやタバコ農園が経営されます。後に珈琲や砂糖も生産されるようになります。

デンマークは、1733年にはフランスよりセント・クロイ島を買収し領有権を得ます。その後、デンマーク領西インド諸島と称し、デンマーク国王に任命された総督によって統治される体制となります。デンマークの王妃、シャーロット・アマリー(Charlotte Amalie)にちなみ、1691年に王妃名がつけられて主都となります。1764年にシャーロット・アマリーは自由港として公認され、西インド諸島における交易の中心地として栄えます。デンマークは三角貿易を推進し、デンマーク海上帝国の黄金期を迎えます。

三角貿易とはヨーロッパ、西アフリカや西インド諸島、およびアメリカ大陸の三カ所を結ぶ大西洋上の貿易のことです。奴隷貿易ともいわれます。その後ナポレオン戦争(Great French War)でフランス側で参戦したデンマーク王国は破れ、大西洋の貿易圏はイギリスに侵害されていきます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その60 Island of Enchantment

プエルトリコ自治連邦区(Commonwealth of Puerto Rico)も合衆国の一部です。私はこの島を旅行したことはありませんので、ブリタニカ世界大百科事典などで調べたことを記してみます。

プエルトリコは、カリブ海北東に位置するアメリカ合衆国の自治的・未編入領域であり、コモンウェルスという政治的地位にあります。プエルトリコ本島やいくつかの島々から構成され、モナ海峡(Canal de la Mona)を隔てて西にドミニカ共和国(República Dominicana)やハイチ共和国(Republic of Haiti)と隣接しています。ニックネームは「魅惑の島々(Island of Enchantment)」というものです。

プエルトリコの国土の大きさは四国の約半分です。本島は山がちで丘陵地帯がひろがり、海岸は平野となっています。主都はサン・フアン(San Juan)。住民の大半は、スペイン系の白人やアフリカ黒人の血をひいています。文化的にはスペイン植民地時代からの伝統が色濃く残っています。公用語はスペイン語と英語ですが、住民のほどんどは日常生活ではスペイン語を使っています。カリブ海の島々にいた先住民はタイノ人(Taíno)で、彼らの呼び名はではプエルトリコではボリケン(Boriken)とも呼ばれています。現在、約300万人のプエルトリコ人はアメリカ本土で暮らしています。

プエルトリコの歴史です。1493年11月にイタリアのクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)がやってきます。プエルトリコの本格的な征服は、コロンブスによる発見から15年の経過した1508年にスペインから総督としてやって来たフアン・ポンセ・デ・レオン(Juan Ponce de Leon)らのコンキスタドール(Conquistador)と呼ばれた探検家とか征服者よってなされます。3万人ほどいたといわれているタイノ人は征服され、スペインからプエルトリコへの本格的な入植がはじまります。

スペイン語の Puerto Ricoは「豊かな港」「富める港」という意味です。当初、プエルトリコ島は「聖ヨハネ島(St. John)」と呼ばれていました。やがて商人や島を訪れる人々は島そのものをプエルトリコ島と呼ぶようになり、一方でサン・フアンは港と主都を指すようになりました。

16世紀から18世紀にはイギリスやオランダの海賊の攻撃を受けますが、襲撃は失敗に終わり、プエルトリコは一貫してスペインの植民地が続きます。1898年に勃発した米西戦争で同年8月にはアメリカ軍に占領されその後はスペインからアメリカに割譲され、戦争終結のパリ条約によりアメリカ合衆国の領土となります。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その59 Land of the Chamorro

合衆国は本土の外に、未編入領域を有しています。グアム(Guam)がその一つです。太平洋上マリアナ諸島(Mariana Islands)南端の島。1521年にポルトガル(Portuguese)の探検家、フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)がヨーロッパ人として初めてグアム島に到達したという記録があります。1565年にフィリピン諸島を征服し初代フィリピン総督となったレガスピ(Legazp)が来島してスペインの領有を宣言し植民地となります。フィリピンのマニラとメキシコのアカプルコ(Acapulco)を結ぶ三角形のような航路が1568年に開かれ、スペインの大型帆船であるガレオン船(Galleon)が太平洋を往来するようになります。そして先住民チャモロ(Chamorro)と物々交換を行います

1668年にスペインのカトリック教会使節サン・ヴィトレス(St. Vitress)を中心としたイエズス会が先住民はチャモロ人に対して布教活動を始めます。チャモロは祖霊崇拝を始めとする伝統的な習慣や文化を有していましたが、教会はこうした風習を禁止します。不満を持つチャモロ人によって1669年にスペインに対する反乱が起きます。争いは20年間にわたりますが、スペインはそれを武力で弾圧します。さらにスペイン人が持ち込んだ天然痘により推定5万人近くのチャモロ人が死亡したともいわれます。この争い以降は目立ったチャモロの反抗はなく、キリスト教文化が定着するようになります。

1898年の米西戦争(Spanish–American War)後に締結されたパリ条約により、グアム島はフィリピン、プエルトリコ(Puerto Rico)とともにアメリカ合衆国に割譲され、植民地支配下におかれます。第二次世界大戦下では、日本軍が一時グアムを占領し「大宮島」と呼ばれたこともあります。
現在は、日本など海外からの外国人観光客や米軍最大のアアンダーセン空軍基地(Andersen Air Force Base)からの収入が重要な位置を占めています。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その58 The Equality State

ワイオミング州(State of Wyoming)の簡単な歴史です。北にモンタナ(Montana) 、北東にサウスダコタ(South Dakota),東にネブラスカ(Nebraska)、南にコロラド(Colorado) 南西にユタ(Utah)、西にアイダホ(Idaho)に囲まれています。「ワイオミング」という言葉はマンシー族(Munsee)の言葉で「大きな河床」を意味します。州都はシャイアン(Cheyenne)となっています。

1770年代に現在の州南西部はスペイン帝国の領土となり、後にはメキシコのアルタ・カリフォルニア(Alta California)の一部となります。さらに同年代後半にはケベック(Quebec)やモントリオール(Montreal)からフランス系カナダ人の猟師が入ってきて、ティトン(Teton)、ララミー (Laramie)などフランス語を語源とする地名を残します。アメリカ・メキシコ戦争(Mexican-American War)が終わった1848年、合衆国がこれらの地域をメキシコから譲り受けます。

同州と周辺州にまたがる「イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)」には現在、バッファロ(buffalo)が多数繁殖飼育され、多くの観光客を呼び寄せています。バッファロー・ビル(Buffalo Bill)という伝説的な人物もいました。 本名はウィリアム・コディー(William Cody)。ガンマンであり興行主として活躍します。バッファロー・ビルは1880年ころからカウボーイの拳銃さばきや駅馬車襲撃などを実演してショー化した「ワイルド・ウェスト・ショー」(Wild West Show) を立ち上げ大人気を博します。

1869年12月、準州知事ジョン・キャンベル(John Campbell)が普通選挙法に署名して、投票権が女性に拡大されます。その後、女性陪審員や治安判事、女性知事が登場します。これら女性に与えられた権利の故に、ワイオミング州は「平等の州」 (The Equality State)とか「参政権の州」(The Suffrage State)と呼ばれるようになります。またの名を「カウボーイ州 」(Cowboy State)ともいわれています。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その57 America’s Dairyland と共和党誕生の地

ウィスコンシン州は内陸のために寒暖の差が激しいことで知られています。夏は30度以上になるとおもえば、冬は零下20にもなります。いつでしたが、私は歯茎の治療が終わり自転車で帰ろうとしましたら、歯科医師が「この寒さでは危ないから送ってあげる」というエピソードもあります。降った雪は風で吹き飛ばされることが多く、そう厚くは積もりません。雪が降ると道路には塩化カルシウムの交じった融雪剤を撒きます。これは凍結防止にもなります。ですが、車体の下は真っ白くなり錆がつきやすくなります。

ライセンスプレートには「アメリカの酪農の地」(America’s Dairyland)と記されています。そして納屋とサイロが描かれています。実に綺麗なデザインです。乳製品で有名な州です。2010年度の第45回スーパーボウル(Super Bowl)を制したグリーンベイパッカーズ(Greenbay Packers)の本拠はウイスコンシン。そのときファンがかぶったのがチーズヘッド(cheese head)というチーズをかたどった帽子でした。乳製品が州の主たる産物です。その他製紙や情報産業、そして観光業が州の経済を支えています。

州都マディソンと最大都市ミルウオーキーの丁度真北の三角の頂点にリポン(Ripon)という人口7,700人くらいの街があります。なんとこの街は1854年の2月に共和党(Republican Party)の最初の集会をしたところです。それで「共和党誕生の地(Birthplace of the Republican Party)」と呼ばれています。この集会が開かれた建物は「Republican Schoolhouse」と呼ばれ、今は史跡建造物として博物館となっています。共和党は漫画化した「象」を党のマスコットとしています。ちなみに民主党のマスコットは「ロバ」。象とロバのたたかいを表すユーモアです。

ウィスコンシン州民は「Wisconsinites」と呼ばれるのですが、もともと共和党の地盤であったのがウィスコンシン州です。事実、2016年の大統領選挙ではドナルド・トランプ(Donral Trump)がヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)を破ります。その差は25,000票で.8%という僅差でした。