心に残る名曲 その百九十四 日本の名曲  岡野貞一と「ふるさと」

鳥取市の鳥取城跡にある久松公園入り口に作曲家、岡野貞一と「ふるさと」の歌碑が建っています。 鳥取城は、元鳥取藩主池田家の居城がですが、現在天守閣などの城はなく、石垣や壕が残っています。近くには洋風建築で国の重要文化財となっている仁風閣があります。

岡野貞一は1878年に鳥取で生まれます。1895年東京音楽学校に入学し、その後1918年より文部省の尋常小学校唱歌の作曲委員となります。1932年まで東京音楽学校で教鞭をとり、数々の曲を作っていきます。東京のメソジスト教派、本郷中央教会のオルガニストや聖歌隊の指揮者として実に実に43年間、礼拝奏楽を担当します。

岡野貞一

この教会にカナダ製の最初のパイプオルガンが設置されたのが1890年。英国ウェールズから東洋英和学校の教師として赴任していたジョージ・ガントレット(George E. Gauntlett)が初代の聖歌隊長、オルガニストとなります。彼はオルガン技師でもありました。妻は山田耕筰の姉の山田恒子でした。その後、岡野貞一を本郷教会のオルガニストとして指名するのです。

岡野の作品も最も知られているのが「ふるさと」です。1914年に尋常小学唱歌の第六学年用として採用されます。作詞は高野辰之で、その後も高野と一緒に作ったのが「おぼろ月夜」、「春の小川」、「春が来た」、「紅葉」などです。「ふるさとを思い起こす歌」の人気投票では、岡野の「ふるさと」が常に第一位の地位を保っています。

 こころざしをはたして いつの日にか帰らん
  山はあおき故郷 水は清き故郷

心に残る名曲  その百九十三 ヨハネス・オケゲム Qu’es mi vida, preguntais

中世ルネッサンス音楽に戻り、しばらく西洋の音楽家から離れることにします。ヨハネス・オケゲム(Johannes Ockeghem)は、中世ルネッサンス音楽を席巻したといわれるフランドル楽派(Franco-Flemish school)の作曲家です。すでにこのブログで取り上げてきたデュファイ(Guillaume du Fay)やジョスカン・デ・プレ(Josquin des Pres)と同じく15世紀の半ばに活躍した作曲家といわれます。

現存する作品はごくわずかで、14のミサ曲、レクィエム、9つのモテット、バンショワ追悼のシャンソン・モテット、21のシャンソンだけです。オケゲムのミサ曲のうち13曲は、15世紀後期の筆写譜集「キージ写本」(Chigi codex)によって伝承されています。「キージ写本」とはフランドル(Flemish)地方の音楽原譜集のことです。

オケゲムの曲です。「死者のためのミサ曲」(Missa pro Defunctis)は、現存する最古のポリフォニックなレクィエムといわれています。多声部の響きが敬虔さ伝えています。ごくわずかの現存する作品の中で技巧を凝らした36声部のための「主に感謝せよ」 (Deo gratias)、「私の愛する人」(Ma maitresse)は、オケゲムの表情豊かな音楽と作曲技法を伝えてくれています。

デ・プレに強い影響を与えたように、カノン(canon)という複数の声部が同じ旋律を異なる時点からそれぞれ開始して演奏する様式用いた「キリエ」(Missa Prolationum-Kyrie)は美しい音を響かせています。オケゲム自身が著名なバス歌手で聖歌隊指揮者でもあったことから、オケゲムの多声部におけるバスの旋律はかなり込み入っており、複雑な響きを与えています。

心に残る名曲  その百九十二 レハール 「金と銀」

ワルツ「金と銀」(Gold and Silber)やオペレッタ「メリー・ウィドウ」(Merry Widow)などで知られるハンガリーの作曲家がフランツ・レハール(Franz Lehar)です。オペレッタについては、どこかで喜劇とか小喜劇と呼ばれ、ハッピーエンドで終わる歌劇のようなものであることを述べました。レハールの父親は軍楽隊長で、12歳のときプラハ音楽院(Prague Conservatory)に入学し,ヴァイオリンを学びます。ドヴォルザーク(Antonin Dvorak)らに作曲技法を学び、軍楽隊長を経てウィーンでオペレッタ作曲家としてデビューします。1902年からウィーンの劇場で指揮者として活動を始めます。

1905年に「メリー・ウィドウ」を発表するとウィーンを熱狂させたといわれます。この作品は,以後ドイツ各地,ペテルブルグ(St. Petersburg),ミラノ(Milan),ロンドン(London),ニューヨーク(New York)などで相次いで上演されます。「金と銀」ですが、ワルツのリズムに乗った流麗な旋律がオペレッタの特徴です。当時流行していたダンスのリズムや民族的な素材を取り入れ、和声的、対位法の技巧を駆使し旋律をいっそう豊かにしています。

心に残る名曲 その百九十一 バルトークと「Divertimento」

バルトーク(Bartok Bela)はルーマニアで生まれハンガリーの作曲家です。ハンガリーのブダペスト王立音楽アカデミーに学びます。ブラームスの影響を受けた作曲活動にも取り組んでいたバルトークは、1898年にはウィーン音楽院に入学を許可されます。

しかし国際色豊かなウィーンよりもハンガリーの作曲家としての自分を意識すべきだという、同じハンガリーの作曲家ドホナーニ(Ernst von Dohnanyi)の助言に従い、翌年ブダペスト王立音楽院(Royal Academy of Music,)、後のリスト音楽院に入学します。1903年にシュトラウス(Richard Strauss)から強い影響を受けて、1848年に起こったハンガリー独立戦争を題材にした交響詩「コッシュート」を作曲します。ハンガリー独立運動の英雄コシュート(Kossuth Lajos)への賛歌であったため世論を騒がせたといわれます。

1905年からはコダーイ・ゾルタン(Koday Zoltan)とともにマジャール民謡,近隣諸民族の民謡の採譜と研究を開始します。その調査はやがてトルコや北アフリカにも及んだといわれます。これらの民謡の徹底した分析を通じての多くの民族音楽の特性を発見しますが、保守的なハンガリー音楽界にあってコダイとともに苦闘したようですが、研究成果はその後の創作上の源泉となっていきます。1907年、26歳でブダペシュト音楽院ピアノ科教授となります。

1920年代後半から1930年代にかけて創作力は絶頂期を迎え,「弦楽四重奏曲第3番」、「同第6番」、「Divertimento」などを作曲していきます。第二次世界大戦が勃発し、ハンガリーももはや民俗音楽を研究できる環境ではなくなります。ナチスの文化政策などを嫌い、バルトークは1940年にファシズムの脅威が迫る祖国をあとに米国に亡命します。

心に残る名曲 その百九十 エネスク 「Oedipe」

ルーマニア(Romaniaの作曲家にジョージ・エネスク(George Enescu)がいます。ルーマニアといえば、1989年12月にニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceausescu)の独裁政権が市民革命によって打倒され、民主化へ踏み出した記憶に新しいことです。ですがその後の民主化の道のりは今なお険しいようです。

エネスクは7歳のときにウィーン音楽院(Vienna Conservatoryに入りヴァイオリンを学び始めます。1894年にはブラームス(Johannes Brahms)と親交を結び、本格的な古典音楽のスタイルを学びます。1895年にパリへ聴き、パリ音楽院では和声、対位法、古楽など作曲に関して幅広く学びます。1899年にパリ音楽院(Paris Conservatory)のコンクールでヴァイオリン部門において最高賞を受賞します。

演奏家として幅広いレパートリーを持ち、ほぼ全ての作品を暗譜で演奏、指揮することができるほど、音楽史上の音楽家の作品を研究していたといわれます。バッハ(J. Bach)やワーグナー(R. Wagner)への傾倒するような作品や、新古典主義の風潮、半音階による複雑な旋律などの作風を表していきます。

エネスクの器楽曲では技巧に彩られた多彩な旋律が伸びやかに演奏されます。ルバート(rubato)というテンポにとらわれず、自由に感情表現を行う演奏の仕方を駆使して作曲します。祖国ルーマニアの音楽を題材にした作品も多く創作しています。「パルランド・ルパード」(Parlando rubato)というルーマニアの民族的哀歌の旋律は全作品を通じて現れ、その装飾的な音の動きはエネスクの特徴の一つといわれます。「Balada pentru vioara」、「Rumanian Rhapsody」、「Legende」、「Oedipe」などの作品にそれが伺えます。

心に残る名曲 その百八十九  ロッシーニ 「ウィリアム・テル」序曲

ジョアキノ・ロッシーニ(Gioachino Rossini)はイタリアの作曲家。多数の歌劇(オペラ)を作曲しています。父はトランペット奏者、母は舞台での袖役の歌手でした。そのようなわけで、劇場で少年時代を過ごしたようなものです。同時に怠け癖の多い少年だったといわれます。14歳のときにボローニアの音楽学校(Bologna’s Philharmonic School)に入学します。ヴァイオリン、ホルン、ハープシコード(harpsichord)を習います。やがて指揮者の見習いとなり、ハイドンやモーツアルトに感化されていきます。それから20年の間、40余りの歌劇を作曲するのです。

多くの歌劇のなかで「セビリアの理髪師」(The Barber of Seville)、「セミラーミデ」(Semiramide)、「アルジェの女」(The Italian Woman in Algiers)、「シンデレラ」(Cinderella)、「泥棒かささぎ」(La gazza ladra) などが有名です。なかでも「ウイリアム・テル」(William Tell)は劇的な歌劇として、序曲が広く演奏されています。

「ウイリアム・テル」はロッシーニの最後の歌劇となります。この歌劇は、スイス人の民族主義と自由、そして独立ということをテーマにしています。弓矢の名手、ウィリアム・テルはハプスブルク家の支配に立ち向かい、やがて彼は英雄として迎えられます。これをきっかけに反乱の口火を切り、スイスの独立に結びつくという伝承を元にしています。

しかし、歌劇「ウイリアム・テル」は、権力に抵抗する革命的な人物を賞賛しているという理由でイタリア人検閲官と摩擦を起こし、イタリアでの上演が制限されたといわれます。それだけ「ウイリアム・テル」という人物もこの曲もイタリアの庶民の間で好感を呼んでいたということでしょう。

心に残る名曲 その百八十八 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第五番「皇帝」

Krystian Zimermanのピアノ、ウィーンフィル(Wiener Philharmoniker)の演奏、Leonard Bernsteinの指揮によるピアノ協奏曲第五番「皇帝」(The Emperor Concerto) は、聴いていて誠にしびれを感じるようです。この演奏を生で聴いた人は幸いなるか、といいたいほどです。

この曲名「皇帝」とは、もちろんナポレオン(Napoleon Bonaparte)を指すと思われます。しかし、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)はドイツ人ですから、どのような心境でこの曲を作ったのかは興味あることです。Emperorという響きからベートーヴェンは、彼なりに英雄としてのナポレオンに敬意を表していたのではないかと想像できます。

第1楽章はアレグロ(Allegr)変ホ長調で、独奏協奏曲式ソナタ形式です。驚くことに、いきなりピアノの独奏で始まります。このような出だしは他に知りません。展開部は木管が第1主題を奏して始まり、豪快に協奏しながら第1主題を中心に展開してゆきます。

第2楽章はアダージョポオモッソ(Adagio un poco mosso)と付けられ、穏やかな旋律が響きます。全体は3部からなっており、第3部は第1部の変奏となっています。章の最後で次の楽章の主題を変ホ長調で予告するかのようで、そのまま続けて3楽章に流れていきます。

最終楽章はロンドアレグロ(Rondo Allegro)といわれ、ソナタ形式で快活なリズムで始まります。ホルンの通奏低音が入り、終わり近くでティンパニが同音で伴奏する中で、ピアノが静まっていきます。

心に残る名曲  その百八十七 オッフェンバック 「天国と地獄」序曲

ジャック・オッフェンバック(Jacques Offenbach)は1819年、プロイセン王国(Kingdom of Prussia)のラインラント州(Rhineland)ケルン(Cologn)に生まれます。父親はユダヤ教シナゴーグの聖職者でした。一家はユダヤ人に対して寛容であったフランスに移住し、1833年には、オッフェンバックはパリ音楽院(Paris Conservatoire)のチェロ専攻の学生となります。1844年にはカトリック教徒に改宗します。そしてフランス劇場(Theatre Francais)の指揮者となり本格的な作曲活動に入ります。

Jacques Offenbach

オッフェンバックは、歌詞と踊りのあるオーケストラ付きの音楽「オペレッタ」(Operetta)の原型を作り、音楽と喜劇との融合を果たした作曲家といわれます。オペレッタは、基本的には喜劇であって軽妙な筋と歌をもつ娯楽的な作品が多く、終りはハッピーエンドとなるようです。オペレッタ「地獄のオルフェ」(Overture From Orpheus in the Underworld)の別題が「天国と地獄」です。通常は序曲の第3部を指すことが多いといわれます。 ホフマン物語からのホフマンの舟唄( The Tales of Hoffmann)は実に優雅なワルツです。

絶世の美女スパルタ王妃ヘレネの話をパロディー化した「美しきエレーヌ」 (La Belle Helene)は見ていて楽しい喜劇です。プロイセン帝政下で問題となっていた社会的地位のある人々の不倫などを風刺しているようです。「 La Périchole」という喜劇は二人の貧しい女性歌手を愛人にしよとする好色な総督の物語です。

心に残る名曲 その百八十六  ムソルグスキー 「展覧会の絵」

ロシアの作曲家ムソルグスキー(Modest Musorgskii)はロシア国民楽派五人組の一人ロシアといわれます。地主の子として生まれ,軍人を志して陸軍士官候補生となりますが、1858年に退役します。そしてバラキレフ(Mily Balakirev)に師事して作曲法を学びます。

Modest Musorgskii

この頃のロシアですが、1861年の農奴解放令により身分的規制は解消されたにみえますが、土地取得は有償のままでした。そのため農民の大半は債務を負って地主に対する隷属が強められ,また離村して都市労働者となるものも多かったといわれます。農村や農民は疲弊します。帝政末期が近づき革命が迫る頃です。

農奴解放による経済的打撃で、ムソルグスキーは1863年より官吏となりますが、飲酒癖から健康を害しながらも作曲を続け,ピアノ曲,交響曲,オペラ,歌曲などを作曲します。ロシア固有の旋法や大胆な和声,変則的なリズムを豊富に使った独自なスタイルは,印象派のドビュッシー(Claude Debussy)をはじめ,近代音楽の作風に大きな影響を与えたといわれます。主な作品はオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」(Boris Godunov),交響組曲「展覧会の絵」(Pictures at an Exhibition)、その他交響詩「はげ山の一夜」(Night on Bald Mountain) ,歌曲集「子供部屋」(The Nursery, The Cycle of Songs)などで知られています。

心に残る名曲  その百八十五 シューマン 交響曲第1番 変ロ長調 「春」

再び古典派の音楽に戻ります。文学に造詣が深い作曲家の一人に、ロベルト・シューマン(Robert Schumann)がいます。文学から得た詩的な幻想を創作に活かすのです。作品に様々な題名を付けたのがシューマンです。ピアニストのクララ(Clara Wieck-Schumann)との恋愛と結婚は、シューマンの創作活動に多大な影響を及ぼしたといわれます。

ピアノソナタ第3番「子供の情景」(Kinderszenen)のように、大人が見た子どもの日常の様子を精密に綴ったもの、ピアノソナタの「フモレスケ」(Humoreske)変ロ長調は詩として劇として展開されている曲です。交響曲第1番 変ロ長調 「」は、春というイメージを言葉ではなく、音によって詩にしたようです。壮大で壮麗な第一楽章は長い冬が明けた喜びや草花の息吹を感じさせてくれます。

ピアノ曲「謝肉祭」や「交響的練習曲」、「詩人の恋」など、詩は主題や対象を説明するのではなく、暗示的に表現するものとなっています。す。「謝肉祭」では、小品の集まりが一つの曲として構成されていて、文学的で幻想的な構成となっています。音楽は描写するのではなく、主題を暗示するものだと考えていたようです。

作曲家の中には、自然や生活の細部を描写する表題的な音楽としたり、技巧を追求する構成とする音楽を作る人もいます。シューマンは少し違うようです。詩は着想を得る契機とするのであり、詩を音楽で表現するのではないと主張しているようです。このあたりの解釈は私にはわかりかねます。

心に残る名曲 その百八十四 ジェームズ・ホーナー「2001年宇宙の旅 」

あまり聞き慣れない作曲家ですが、「2001年宇宙の旅」(2001: A Space Odyssey)の映画音楽作者といえば思い出されるかもしれません。ジェームズ・ホーナー(James Horner)はカリフォルニア州・ロサンゼルス出身。英国王立音楽アカデミー(Royal Academy of Music University of London)‎においてユダヤ系ハンガリーの作曲家ジェルジ・リゲティ(Ligeti Gyorgy)の元で作曲を学びます。

その後南カリフォルニア大学にて学士号を習得し、UCLAの大学院に進み修士号を取得した後、同大学で教鞭をとっていたロジャー・コーマン(Roger Corman)という映画監督に見出され「ジュラシック・ジョーズ」(Up from the Depths)といったスリラー映画の曲を作ります。「宇宙の7人」(Battle Beyond the Stars)というSF映画で作曲も手がけます。「エイリアン2」(Aliens)、「タイタニック」(Titanic)、「アバター」(avatar)などの映画でも作品を作ります。、1968年作のスタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick)監督の名画「2001年宇宙の旅」のサウンドトラックが有名です。

UCLAで音楽理論を教えていた強みからか、シンフォニックなものから「コクーン」(Cocoon)や「ニューヨーク東8番街の奇跡」(Batteries not Included)のジャズ風のものまで幅広い作風を駆使します。その意味で現代音楽の作曲家ともいわれ、クラシック音楽で実験的な作品を多く残します。民謡研究の延長線上で作曲した初期の管弦楽曲「ルーマニア協奏曲」(1951年)などがそうです。1961年の管弦楽曲「アトモスフェール」(Atmospheres)、1965年のソプラノとメゾソプラノの独唱、合唱、管弦楽のための「レクイエム」(Requiem)などの代表作を残します。

心に残る名曲 その百八十三  ビー・ジーズ 「Massachusetts」

1970年代後半に活躍したビー・ジーズ(The Bee Gees)は、イギリスとオーストラリア出身のポップーロックバンドです。当時最高の売り上げを誇り、その音楽スタイルを変化させながら、高いハーモニー、精錬された旋律、そして華麗な伴奏を従えて音楽界に多くのヒット曲を送りだします。

両親はオーストラリアに移住するのですが、子ども三人、バリ・ーギブ(Barry Gibb)、ロビン・ギブ(Robin Gibb)、そしてモーリス・ギブ(Maurice Gibb)はイングランドに戻ってビー・ジーズを結成します。別名、「Brothers Gibb」と呼ばれました。彼らの歌い方ですが、三声部の微妙なハーモニー、ロビン・ギブのビブラートをきかせたリードボーカル、そしてバリー・ギブのリズム/ブルース調の裏声(falsetto)が特徴です。1967年に大ヒットした「Massachusetts」という曲にそれがよくでています。

ビー・ジーズは映画音楽も作ります。1971年制作の「小さな恋のメロディ」(Melody)というワリス・フセイン(Waris Hussein)監督の映画では「Melogy Fair」というテーマ曲が流れます。11歳のダニエル(Daniel)、同じ学校に通うメロディという少女との恋を瑞々しく描いた作品でした。

ロビン・ギブは2012年5月に亡くなります。その時の葬儀の様子がYoutubeにあります。彼がいかにイギリスの人々から親しまれていたかが描かれています。2012年に「タイタニック・レクイエム」を製作します。生涯、菜食主義(vegan)を通したのですが、、、

心に残る名曲 その百八十二 エンニオ・モリコーネ 「夕陽のガンマン」

エンニオ・モリコーネ(Ennio Morricone)は 928年ローマ生まれの作曲家です。ローマのサンタ・チェチーリア音楽院(Conservatorio Santa Cecilia)で現代音楽の作曲家ゴッフレド・ペトラッシ(Goffredo Petrassi)に作曲技法を学んだ後、作曲家としてテレビ・ラジオ等の音楽を担当します。

1950年代末から映画音楽の作曲、編曲、楽曲指揮活動に入ります。1961年のルチアーノ・サルチェ(Luciano Salce)監督の「ファシスト」(Il Federale)が処女作となった映画音楽となります。1960年代はセルジオ・レオーネ(Sergio Leone)監督とのコンビで、いわゆる「マカロニ・ウェスタン」作品で存在感を増していきます。1965年には「荒野の用心棒」の「さすらいの口笛」を、「夕陽のガンマン」、1966年の「続・夕陽のガンマン」(The Good, the Bad, and the Ugly) は迫力あるサウンド・トラックとして知られます。

「マカロニ・ウェスタン」には善玉、悪玉、卑劣漢が必ず登場します。さしずめクリント・イーストウッド(Clint Eastwood)、ジュリアーノ・ジェンマ(Giuliano Gemmma)、フランコ・ネロ(Franco Nero)などが善玉とすれば、リー・ヴァン・クリフ(Lee van Cleef)は悪玉でした。リー・ヴァン・クリフのような悪役がいてこそ盛り上がる映画です。彼の演技はしばしば語られるところです。

レオーネとのコンビはレオーネの遺作となった1984年の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(Once Upon a Time in America)まで続きます。1986年のイギリス映画「ミッション」(The Mission)で新境地を開拓、それ以後はイタリア国外でも評価が高まり、1987年には「アンタッチャブル」(Untouchables)でグラミー賞を受賞します。映画そのものよりも、サウンドトラック音楽で映画の人気を高めたものがモリコーネです。「マカロニ・ウエスタン」は、もともとは「Spaghetti Western」からの造語です。

心に残る名曲 その百八十一  ニーノ・ロータ 「ゴッドファーザー」

毎週楽しんだ「日曜洋画劇場」。その解説者だった淀川長治は「それではまた次回をお楽しみに、さよなら、さよなら、さよなら」と締め括っていました。「水曜ロードショー」の水野晴郎、「いやぁ、映画って本当にいいもんですね~」も忘れられない台詞です。今回は、作曲家のニーノ・ロータと映画「ゴッドファーザー」をとりあげます。

北イタリアのミラノ(Milan)出身の作曲家にニーノ・ロータ(Nino Rota)がいます。11歳でオラトリオ、13歳でオペラを作曲し、ミラノ音楽院(Conservatorio di Milano)で学びます。この学校は別名ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院(Giuseppe Verdi di Milano)とも呼ばれます。ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Maria Puccini)、ピエトロ・マスカーニ(Pietro Mascagni)などの作曲家、そして指揮者のクラウディオ・アバド(Claudio Abbado)を生んだ学校です。後にサンタ・チェチーリア音楽院(Conservatorio Santa Cecilia)で学びます。

その後米国に渡り、カーティス音楽学校カーティス音楽学校(Curtis Institute of Music)でも修行します。イタリアに帰国後ミラノ大学(University of Milan)に入学し、文学と哲学を並行して専攻するという努力家です。大学卒業後は音楽教師となり、1942年以降、映画音楽の作曲も始めます。1951年、当時新進映画監督として注目を集めたフェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)と出会い、彼のほとんどの映画音楽を手懸けます。1950年から1978年にかけて、リセ音楽院(Liceo Musicale)の教師ともなります。

フェリーニ監督以外の映画音楽も多数手がけます。1956年作の「戦争と平和」(War and Peace)、1960年の「太陽がいっぱい」の音楽を作曲します。この映画は巨匠といわれたルネ・クレマン(Rene Clement)が監督を努めました。1972年に作られたフランシス・コッポラ(Francis Ford Coppola)監督の「ゴッドファーザー」(God Father)の音楽は、ロータの代表作となります。「愛のテーマ」は多くの人々に親しまれました。

心に残る名曲 その百八十 マックス・スタイナーと「タラのテーマ 」

マックス・スタイナー(Max Steiner)はオーストリア系のユダヤ系アメリカ人です。ウイーン(Vienna)で生まれます。14歳でオペレッタを作曲したといわれています。やがてウィーン国立音楽大学(Universität für Musik und darstellende Kunst Wien)で作曲法を本格的にまなびます。そのとき、グスタフマーラー(Gustav Mahler)の師事を得ます。スタイナーは持ち前の才能で4年の課程を1年で終えたと記録にあります。

1914年にアメリカに移民し、ニューヨークの劇場指揮者となります。その後ハリウッドに移り本格的な映画音楽の作曲活動を始めるのです。それ以来、スタイナーは映画音楽作曲家の草分けといわれます。作品といえば、「キングコング」(King Kong) (1933)、Jezebel(1938)、「風と共に去りぬ」(Gone With The Wind)(1939)、「カサブランカ」(Casablanca) (1942)、Now Voyager (1942)、The Fountainhead (1949)など多数あります。

中でも「風と共に去りぬ」映画黄金期を代表する音楽です。南北戦争の前後の南部を舞台とし、 アイルランド系移民で一代で成功した農園主の娘スカーレット・オハラ(Scarlett O’Hara)という美貌と商才でたくましく生きる姿を描きます。この映画のメイン・テーマは壮大で抒情詩的スケールで悲壮感も漂います。「タラのテーマ 」が情感たっぷりに奏でられていました。

心に残る名曲 その百七十九  ヴァンゲリス 「炎のランナー」

ギリシャ人作曲家ヴァンゲリス (Vangelis)については、詳しいことがわかりません。小さい時からピアノを弾き、作曲もしたようです。高校時代からジャズバンドでピアノを弾き、音楽学校ではなく美術学校で映画と美術を学んだようです。

1981年に作られた映画「炎のランナー」(Chariots of Fire)の音楽を担当したヴァンゲリスは、1982年にアカデミー賞作曲賞を受賞します。ヴァンゲリスの音楽の特徴としては、旋律はシンプルで美しいことです。それだけに強く印象に残るものとなっています。この楽風は、ギリシャや地中海東部地域に古くから伝わる五音階旋法に基づいているようです。五音階旋法とは「ド」から「ソ」への飛躍とその逆です。この手法を好んで使うことが多いのは「炎のランナー」の序奏部分にそれがよく表れています。ヴァンゲリスはシンセサイザーを使うのも得意としていたようです。

「炎のランナー」は1924年のパリオリンピックを目指すイギリス青年の生き方を描きます。二人の陸上選手がオリンピックに出場します。その古い時代のエピソードを素材とした映画なのですが、現代的な楽譜にそってテーマ曲が流れます。

心に残る名曲 その百七十八 ポール・サイモンと「Bridge over Troubled Water」

ポール・サイモン(Paul Simon)といえば「Bridge over Troubled Water」でしょうか。1953年にサイモンとアート・ガーファンクル(Art Garfunkel)はニューヨークのブロンクス区(Bronx)の小学校で出会い、やがて親友同士となり 「Tom & Jerry」という名でデュエットを組みます。二人の最初にヒットした曲が「Hey Schoolgirl」です。1965年にサイモンは「The Sound of Silence」を作曲します。この曲は、電子ギターとドラムで弾かれていたのですが、やがてラジオやビルボード誌で爆発的な人気を得ます。特に思春期の初々しい心情を込めた調べで、学生や若者の心をとらえます。

1970年、ゴスペル調で讃美歌のような曲「Bridge over Troubled Water」を発表し、これも大ヒットします。ガーファンクルのテノール歌手のような歌い振りが特に受けたようです。「スカボロ・フェア」(Scarborough Fair)や「ボクサー」(The Boxer)のようなシンプルでフォーク調の曲は、ボブ・ディランの影響を受けたようなところもあります。サイモンは1970年にガーファンクルと別れ、シンガーソングライターとしてアフリカや南米などの伝統音楽をモチーフとした曲を作っていきます。

ガーファンクルと親交のあったマイク・ニコルズ(Mike Nichols)という監督が「卒業」(The Graduate)で「The Sound of Silence」を主題歌として採用します。この映画でこの曲はさらに広まりました。「卒業」は、ダスティン・ホフマン(Dustin Hoffman)主演で共演はキャサリン・ロス(Katharine Ross)の青春映画でした。ホフマン演じる大学生ベンジャミン・ブラドックが故郷へ帰ってくる空港のシーンで流れてくるのが「The Sound of Silence」です。映画の最後には、結婚式の礼拝堂から恋人だった花嫁と一緒に逃げる場面がありました。

心に残る名曲 その百七十七 ディランとエスニシティ

ボブ・ディランの生き方の下敷きとなっている宗教とかエスニシティ(ethnicity)を振り返り、このシリーズを終わりとします。エスニシティとは、「民族性」とかある民族に固有の性質や特徴のことです。ただ、この話題は少々微妙なところがあります。ディランの個人的な信仰や民族的な背景は複雑です。もしかしたら、彼の歌詞の語り手の原点にかかわることかもしれません。

ディランの祖父母はウクライナ(Ukraina)のオデッサ(Odessa)の出身で、その家族はアルメニア(Armenia)やコンスタンチノープル (Constantinople)に住んでいたユダヤ人です。19世紀後半からロシアで起こったポグロム(pogrom)というユダヤ系の人々に対する計画的な集団虐殺から逃れてアメリカに移住し、ミネソタ州ダルース近くのヒギンス(Higgins)という町に定住します。ミネソタに定住してからディランの父母は親族を呼び寄せたといわれます。ヒギンスにも反ユダヤ主義は強かったようです。ですがディランは当然ながら、ユダヤ法を守る宗教的・ 社会的な責任を持った成人男性となる儀式、バーミツワ(Bar Mitzvah)を受けます。

アメリカに移住した人々は、しばしば主流社会の人々から偏見を持たれてきました。こうしたエスニックなルーツを持つことにディランはどのような態度で音楽活動に臨み、そのエスニシティが音楽に顕れたが気になります。ディランの元の姓は「Zimmerman」でしたが、これを意図的に改姓するのです。自己否定とはいわないまでも、彼の屈折した態度が改姓に顕れているような気がします。アメリカの主流社会に同化しようとしたのかもしれません。

ディランの歌詞を読んでみると、アメリカ主流の福音的な人々などの聴き手が容易に共感できるような語り口でないようなところも感じます。「意味不明」という世評です。ですがディランは、特定の宗教やエスニシティに即した感情や思想を持とうと持つまいと、あまり憶することなく歌うという姿勢が感じられます。たとえ仏教徒でもカトリック教徒でもイスラム教徒でも、黄色人種でも黒人でも受け入れられているような気がします。

通常、歌詞の語り手は、エスニシティを特定できるように自己を提示することはしません。多くのアメリカ人が共鳴できる、特定不能な超越的な自己による語り手を目指すものです。ディランの歌には、反体制的な志向とか若者文化へ寄り添うような歌詞はそう多くはないといわれます。社会の規範や道徳に対して、あからさまに挑戦するような歌い手でもないようです。放浪者のイメージや抑圧や拘束を嫌う自由人のイメージはありますが、アメリカ主流社会の感性をなで切りにするものでもありません。それが世界中から彼の歌が受け入れられている理由のようです。

心に残る名曲 その百七十六 ディランの歌詞と翻訳の難しさ

英語を母国語としない私は、英文を翻訳するときも日本文を英文にするときも苦しみます。ディランの歌詞を把握するのにはもっと大きな壁があります。翻訳するときはいくら文章を直訳しても、歌詞の響きや連想される他の言葉や印象は伝わらないのです。歌詞には韻を踏むという修辞も翻訳を難しくします。さらに難しくするのはディランの歌詞には、英語としても「意味不明」なものがあることです。それは言葉の表面的な意味だけではなく、その言葉が思い起こさせるイメージや感情などが秘められているだろうからです。そこが解明できなく居心地が悪いのです。

Half wrecked prejudice leaped forth
Rip down all hate,” I screamed
Lies that life is black and white
Spoke from my skull I dreamed

このような意味不明さと預言のような歌詞を前にして、それを翻訳しようとするのは容易ではありません。訳したとしても自分は意味がつかめないのです。そのときは開き直るほかありません。「言葉によってディランを理解する必要はない」というようにです。わたしたちが葬儀でお経を聴くとき、その言葉や内容を理解できなくても、死者への弔いの言葉であることが分かるのと同じです。

幸いにして、「Blow in the Wind」の歌詞には戦争の空しさと同時に自由への憧れが伝わり、時空や文化を超えた普遍性や預言者のようなメッセージを感じます。「Forever Young」という歌詞には祈りが込められています。誰が歌っても不自然にきこえません。小さな子どもでも年寄りが歌ってもよいようです。「We Are the World」もそうです「正しく、勇気を抱いて強くいきることが若さだ」というのです。Blow in the windとForever young の歌詞です。

How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
How many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?
Yes, ‘n’ how many times must the cannon balls fly
Before they’re forever banned?
The answer, my friend, is blowin’ in the wind
The answer is blowin’ in the wind

 May you grow up to be righteous
  May you grow up to be true
  May you always know the truth
  And see the light surrounding you
 May you always be courageous
  Stand upright and be strong
  May you stay forever young
  Forever young, forever young
 May you stay forever young.

心に残る名曲 その百七十五  ボブ・ディランとウディ・ガスリー

ミネソタ州のダルース(Duluth)はカナダの国境近くにありスペリオル湖(Lake Superior)の側にある小さな町です。ディランは、この地で育ちフォークソングライターであったウディ・ガスリー(Woodrow Guthrie)の音楽の中に、一生でも歌い続けることができると感じるほどの大きな衝撃を受けます。

ディランは「曲作りを通して社会を変革しようと考えたことは一度もない」と云っています。彼の目的は、それまでのロックスターと違い、ヒットチャートで成功を収めることではありませんでした。「ぼくはひたむきに打ち込むアーティストを賞賛し、彼らから学ぶ」というのです。ウディ・ガスリーはアメリカの理想と現実の隔絶を自分が体験し、それを歌にして雄弁に語ります。ディランは続けます。「ガスリーの歌はいちどきにたくさんのことを語る。金持ちと貧乏人、黒人と白人、人生のよいときと悪いとき、学校で教えていることと実際におこっていることの違いについて歌う。ガスリーは歌の中ですべてを語り尽くしているとぼくは感じる。なぜそう感じるかはわからない。」

ディランの歌詞(lyrics)について、「なにを云いたいのかがわからない、独りよがりのただのことば遊びのようだ」と批判する者もいます。例えば、1960年代の半ばに作られた「Just like a woman」の歌詞の出だしは次のようです。

Nobody feels any pain
 Tonight as I stand inside the rain
  Ev’rybody knows
   That Baby’s got new clothes
  But lately I see her ribbons and her bows
   Have fallen from her curls

【直訳】
自分は今夜、雨の中に佇んでも誰も傷みを感じない
 誰もがその赤児が真新しい服を着ているのを知っている
  だがリボンと蝶々結びが髪の毛から落ちてくる