英語あれこれ その22 聞き返すことをためらわない

英語で赤恥をかいた経験はすでに披瀝した。そんな体験からもう一稿を綴ってみる。外国人と話をしていて意味がわからないことがしばしばある。今もある。そのとき、ニコニコしたり、安易に頷いたりすると赤面することがあるという教訓である。特に質問されたとき、その意味を一定程度、確認することが大事だ。そうでないと質問にきちんと答えることができない。

理解出来ないときは、聞き返すことをためらわないことだ。次のような丁寧な尋ね方の決まり文句がある。以下、すべて中学で学ぶ言い回しである。

「もう一度言ってください。」 I beg your pardon?
「おしゃることがわかりませんが、、」 I cannot follow you. Could you tell me again?
「わかりやすく言ってください。」 Could you paraphrase it?
「すみませんが、もう一度言ってください。」 Will you say it again?

すこしくだけた表現もある。次のように聞き返してもOKである。
「もう一度お願いします。」 Say it again please.
「もう一度どうぞ。」 Pardon? Beg pardon?
「済みませんが判りません。」 I don’t understand what you mean.

次のような独特な尋ね方もある。
「チンプンカンプンです。」 I’m in the air. Could you,,,,?
「意味がわかりません。」 I’m lost. Could you,,,,?
「わからないんですが、、」 I can’t follow you.

分からないときは、「なにか例がありますか、」とか「例を示してください」と食い下がることである。聞き返すことにためらわないことが上達への道。そして「あなたともっと会話したい」と意思表明する。すごすごと引き下がるとあとで必ず後悔する。
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英語あれこれ その21 英文は直接話法で

この春、バルセロナを旅していたとき、兵教大の同窓生から英文要約を点検して欲しいというメールが入った。その要約を直して、同行していた長男の嫁Kateに見せると「受身形」に赤線が入った。直接話法にすることだ、というのである。

筆者の英語には特徴がある。その特徴は、日本人としての典型的なものといえそうだ。例えば、遠回しに表現したり、間接的にあることを伝えようとすることである。そのために間接話法というのを使う傾向がある。

間接話法の文章には説得力が欠けるというのである。「誰かかがそう言った、誰かがそのように考えている、研究結果がよく暗黙の了解がある」ということが間接話法で表現される。今時でいえば「KY」というのである。しかし文章を書くとき、KYは全くよくない。暗黙知といっても、間合いや言い表さない余白、舌足らずなどの部分を補ってくれるものが必要となる。文章では、舌足らずは舌足らずであり、相手に通じない。

日本人の思考の特徴は「ら旋型」と呼ばれる。その意味は、遠巻きに巡り巡りながら物事の核心へと向かっていくことだそうだ。当然、まわりくどくなったり同じことを繰り返すことにもなる。時間が未来となったり過去となったりする。単刀直入に核心を衝く表現は望まれないことがある。「趣がない」とか、「強すぎる」などといって好まれない。むしろ文章には、余韻や余白などの「遊び」が必要だといわれる。詩歌がそうだ。だが英語で文章を書くとき、特にペーパーを書くときはこの遊びは全く通用しない。

文章には簡潔さが大事である。そのために必要なスキルとは、理路整然とした文章を書くための修辞法を学ぶことである。修辞法とは、文節と文節、文と文をつなぐ接続の手法、比較対照の事例の使い方、文章のリズム、適切な語彙の使用といったことである。

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英語あれこれ その20 対話の技巧

対話はいうまでもなく、相手とのやりとり。そこで勧めしたいのは、相手とのやりとりを最低5回くらい続けることである。やりとりとは「ターン」ともいわれる。ターンには、相手に逆に質問することも含まれる。「あなたの質問の意味がわからないので、別の表現で説明して」というリクエストも含まれる。

対話でのタブーは「I don’t know.」という発言だ。これは「自分には関心がない」と同じこと。I don’t know.で終わればそれで対話は終了。それ以降は相手にしてくれない。「I don’t know about it, but I know ,,,,,,,,,,,,」というように関連した話題にもっていくこと、つまり相手を自分のペースに引きづり込むことが大事である。「お前はどう思うか?」と相手の回答を求めることがターンを増やし、対話を深めることにつながる。

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プラトン
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アテネの学堂

外国人は、会話の中でしばしば「I mean,,,」「Let’s see,,,」というフレーズを使う。これは、「それは、、つまり、、」とか「たとえば、、」という対話のつなぎのようなフレーズである。「、、、、because」という表現もそうだ。相手は理由を説明したり、こちらの意図を知りたいのである。これは文章を繋ぐ「修辞(rhetoric)」といわれるものである。別の言い方をすることによって相手の質問に答えられるようになると、対話が充実するのは請け合いである。

修辞となる単語を使い、対話を引き延ばしていくこと、結果として話題が広がり対話が深まるのである。対話の上達の秘訣は決して難しいものではない。

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英語あれこれ その19 語学力をいかに高めるか

外国語の理解には、その国の文化や政治についての基礎知識が必ず必要である。こうした知識や未知の話題に対する好奇心によって対話が成立する。「安倍首相の人気はどこにあるか?」と尋ねられたとする。「英語ができるから」、「彼の政治スタイルは外国人に理解しやすいから」、「親米主義だから、、」。こんな説明では、この者は安倍を知らんな、と相手はすぐ感じる。

「中国や韓国には領海や領土問題で妥協しない姿勢だから」、「女性の社会進出に積極的な政策を打ち出している、、」。こうした答えには相手は納得するはずだ。対話をするには、話題をある程度まで煮詰めた知識があること、これが第一の対話の条件である。

次に要求されるのは、話題の内容を理解し説明できる語彙や単語を力を持っていることである。先ほどの例では難しい単語が必要な場合もあるが、会話のレベルでは専門用語を知らなくても結構対話は成立する。話題の内容を知っていて、普段からなにがしかのことを考え、意見を持ちあわせていると文章はつくれる。

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専門家はその筋の話題については難しい用語を使うのは当然だが、我々にはそこまで要求されない。むしろ、「家族や友だちにそのことを研究している者がいる」、「日本でも話題となっている、その理由は、しかじか、、」くらいが説明できればよい。中学や高校の英語力で対話ができるのは間違いない。自信を持つことだ。

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ネット上でのBBC、USA TODAYなどのニュースに毎日目を通すことも大事だ。新しい知識を身につけると同時に、世の中の動きに疑問を持つことがもっと大切である。不可解なこと、理不尽なこと、いくらでもある。英語力とは実は、こうした物事への好奇心の高まりと相まってつくものである。「語学を学ぶ」と同時に「語学で学ぶ」という姿勢も大事にしたい。

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英語あれこれ その18 沈黙はNo Good

外国人と会話すると、「これでもか、これでもか、」としゃべってくる。なにか、彼らは絶えずしゃべることによって、心理的な安定を得ているのではないかと思われるふしがある。沈黙は苦手なようだ。KYは通じない。

「物言えば唇寒し秋の風」と芭蕉は歌う。寒い地方の人の口は重たい、いわれるが北海道育ちの筆者には頷ける。古代ヨーロッパでは、金よりも銀が珍重された時代がある。「雄弁は銀、沈黙は金」。だが雄弁のほうが沈黙に勝ると思うのである。

関西では「口では大阪の城も建つ」、「金も出すが口も出す」という言い方もある。ときに「口は災いの元」となることもあるだろう。おもろくないことを語るよりは黙っていた方がいいだろう、コミニュケーションは語り合うことで成立。粋な話題の一つや二つで関西人と関東人の会話も盛り上がる。今は、「祇園祭」の真っ最中だが、落語にもこの演目がある。橘家圓太郎のはええ。

友達でも知人でも会話を交わすには、話題が必要なことは誰でも知っている。話題がないときまずい沈黙が漂う。会話のきっかけとして、家族のこと、趣味のこと、仕事のこと、食べ物こと、故郷のこと、などが会話のきっかけとなる。外国人の場合はなおさら、どの話題を引き合いにするかが大事だ。外国人との会話のきっかけとして「日本の印象はどうか」ではありきたり過ぎる。

日本の印象、ということでは対話はすぐ途切れる。そして沈黙がすぐやってくる。そこで提案だが、「日本で食べたもので一番苦手の料理はなにか」これが一押しの話題だ。どうして美味しくなかったのか、どんな味がしたのか、どうしてレシピが口に合わなかったのか、などで会話が続く。食の話題は文化にも及び、会話に花が咲くのは万国共通である。

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英語あれこれ その17 松本 亨氏

筆者にはいろいろな先輩がいる。その一人が松本亨氏である。1913年、網走郡美幌町生まれ。筆者も1945年に、樺太から命からがら引き揚げてきたのが美幌なのである。美幌に小学校5年まで暮らした。そのような訳で彼は育った故郷の大先輩ということになる。

松本は、戦前14年もの間アメリカで神学を勉強したり英語教育を勉強した経歴がある。戦時中は日本人が拘留されていた敵性捕虜収容所で生活した経験もある。戦後はコロンビア大学から教育学博士号を授与され、その後明治学院大学、日本女子大学、フェリス女子学院大学にて教鞭をとったときく。

日本の英語会話の草分けとなったNHKラジオの「英語会話」の講師を22年間努めた。「英語会話」はラジオから幾度となくきいた。テレビがない時代であった。その独特な太い声と発音にはしびれたものである。

氏の著作には次のようにある。「英語教育の基本は “Think in English” ということばにある。英語を話すとき、聞く時、読み書きする時に、日本語に訳しながら話そうとしても素早く対応できないし、そもそも不自然な英語になる。」

日本語で考えてそれを英訳するとどうしても関係代名詞はどうか、話法はどうするか、現在完了形はどうか、などと英文法が頭に浮かぶ。そうこうしているうちに、相手の質問の内容や話すべき主題が吹っ飛んで頭は真っ白になる。

“Think in English”とは英語を最終目的にしないということだろう。我々は英語屋になることではない。コミュニケーションをする人間になりたいのだ。英語を使って何をやるのかということである。

松本の「英語会話」は、筆者が英語に興味を持つことになった原点である。

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英語あれこれ その16 Southern American English

1978年、アメリカは南部ジョージア州(Georgia) のステイトバロ(Stateboro)という小さな街に家族と出向いた。国際ロータリークラブから奨学金を頂戴し、小さな州立の単科大学で2か月の集中的な英語研修を受けるためであった。ウィスコンシン大学での研究に備えてである。ジョージア州を含む近隣はアメリカ深南部(Deep South)と呼ばれるところだ。

そうこうするうちに、周りの人々の発音に独特な響きがあることに気がついた。一度留学生と一緒に地元のたばこ市場を見学に出かけた。セリをやっていたのだが、しゃべっているかけ声の意味が全く分からない。それが南部英語(Southern American English)の訛りであることを知った。

丁度、ジェイムス・カーター(James E. Carter)が第39代大統領に就任した翌年であった。テレビも新聞雑誌もカーター大統領のことをいろいろと報じていた。彼の演説だがなんとなく単語を引っ張るような独特のアクセントなのである。その発音を「drawl」と呼ぶことを知った。Drawlは和訳しにくい単語だ。「南部訛り」とでもしておく。

Drawlとは、鼻にかかり、ゆっくり、少々重々しく単語を引っ張るような特徴なのである。しかも、なんとなく気だるく、気が抜けたような感じでもある。「鈍くてなまくらな調子だ」と揶揄する記事を読んだことがある。

こうした南部訛りの英語は、もともと17世紀から18世紀にかけてイギリスからの移民が持ち込んだものといわれる。アイルランド(Irland)の北東部に位置するアルスター(Ulster)地方とかスコットランド(Scotland)の南部から移住してきた人々の訛りだといわれる。大恐慌後や第二次大戦後、アメリカ大陸の南部にこうした移民が定住し、drawlも広まった。


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南部訛りの英語は、聞き馴れれば暖かい響きがある。張りのある東海岸の発音と違い、心地よさが感じられる。たった2か月であったが、南部のもてなし”Southern Hospitality”も家族と十分楽しむことができた。

「注釈」 カーター元大統領は2024年12月30日に100歳で天に召されました。合掌

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英語あれこれ その15 ピディン・イングリッシュ(Pidgin English)

ヘブル語などの古典語から離れた話題である。自分は英語を勉強する過程でいろいろ苦い経験をし、冷や汗をかいてきた。それが今は良薬となったと断言できる。今回は語学を習得するときの心構えである。

ハワイの話だ。ハワイ流ブロークンな英語と標準英語を混ぜたのが、俗にいう「ピディン・イングリッシュ」(Pidgin English)。ハワイの人も会話が好きだ。訛りがあって郷土色がぷんぷんする暖かさが伝わる。

インド人の英語もピディン・イングリッシュと呼んで冷やかすことがある。独特の表現や機関銃のように速い発音は真似ができない。同時に、なにかを伝えようとする気持ちも伝わる。その気迫にはこちらがタジタジとなる位だ。恥も外聞もない、というのはこのことだ。彼らと会話していると、まるで文法などには無関心なところがある。伝えようとする意欲が伝わる。

実は日本人の英語もピディン・イングリッシュと呼ばれる。戦後、占領軍が基地のなかで話す日本人の英語をこのように揶揄したようだ。これが「Bamboo English」である。さらに朝鮮動乱のとき、日本から韓国に「輸出」されたのがこの英語であるという。確かに韓国人と我々の発音は似ている。

文法を思い出し文章を作ろうとする口から文がでてこない。単語を並べると相手には意味は通じる。日本語を母国語としない人に会うとき、彼らのたどたどしい説明でも理解できるのと同じだ。顔の表情、身振り手振りにもメッセージが現れくる。

ウィスコンシン大学での障害児の性教育の授業にでていたときだ。大教室だったせいもあり、なぜかいくつかの単語が聞き取れない。その単語の発音に慣れていなかった。辞書を持ち歩いていたのだが役に立たない。隣に女性が座っていたので、その単語のスペルを尋ねました。すると、私の辞書をめくってくれた。無言でここだと指示しました。はて、、、とみるとその単語のスペルは「penis」。授業中、その発音はピーニスときこえたのだ。彼女にThank youというので精一杯だった。自分もBamboo Englishを操る当の本人だった。

苦い経験をしたものだと感じ入っている。

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英語あれこれ その14  ヘブル語とユダヤ人 その4 アシュケナズ

親しい知人で大先輩、Dr. Robert Jacob医師の家系はアシュケナズ(Ashkenaz)であることを伺っている。ご先祖はオーストリア、バルト三国、ボヘミア(Bohemia)、ポーランドなどの地域を転々としていたそうである。そして定住したのがポーランドであった。ポーランドはユダヤ人にとって非常に住みやすい地だったという。だが時代は変わる。

ポーランドのユダヤ人であるが、第二次世界大戦の前後に正統派ユダヤ教徒の多くが差別や迫害から逃れるために、イスラエルやアメリカ合衆国へ渡った。多くの科学者や芸術家、金融業者、思想家、学者や医者などが含まれる。Jacob家もその中にあった。イスラエル共和国は建国において「メシア信仰」から距離を置き、政教分離という近代国家の原則を採用した世俗国家とされる。こうした考えは、超正統派ユダヤ教徒から批判されてきた。

また他方で非正統派ユダヤ教徒のポーランド人やさらに世俗的なユダヤ系ポーランド人の多くはポーランドに残った。時代は下りポーランドの民主化運動は1980年代に盛んになる。そして1990年、大統領に選ばれたのが「連帯」をスローガンにしたレフ・ワレサ(Lech Walesa)である。

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民主化以後ユダヤ系のポーランド人は、自分たちの先祖の出自を表に出すようになっている。こうした民主化運動はポーランド社会のユダヤ系への偏見を取り除くのにも大いなる貢献をしたといわれる。

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民族主義を復興し国家を築くべきというシオニズム(Zionism)を調べているが、内容はなかなか難しい。さまざまな血が混じり、宗教観の違いも政治に複雑に絡みいっそう事を難しくしている。だがホロコストの経験から、イスラエルの「戦って生き抜く」という方針は変わらないようである。

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英語あれこれ その13  ヘブル語とユダヤ人 その3 Diaspora

ディアスポラ(diaspora)とは、「散らされた者」という意味のギリシャ語に由来する。生まれ育った所や民族の居住地を離れて暮らす国民や民族の集団、ないしコミュニティを意味する。その他、ディアスポラは、離散すること自体を指す。ディアスポラと難民との違いだが、前者が離散先での定着と永住を示唆しているのに対し。後者は、元の居住地に帰還する可能性を含んでいる。

旧約聖書時代からの歴史によって、イスラエルやパレスチナの外で離散して暮らすユダヤ人集団のことを固有名詞の「Diaspora」と呼んでいる。民族等を指定せず一般の離散や定住集団の場合は、「diaspora」となり、他の国民や民族を含めたを意味する。大文字と小文字では意味が異なる。

ユダヤ系のディアスポラのうちドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々、およびその子孫をアシュケナジム(Ashkenazim)指す。語源は創世記(Genesis)10章3節とか歴代誌(Book of Chronicles)上1章6節に以下のように登場するアシュケナズ(Ashkenaz)である。”The sons of Gomer: Ashkenaz, Riphath and Togarmah.” 「ゴメルの息子の一人がアシュケナズである」という記述だ。

アシュケナジムは、ヨーロッパやイスラム圏の直接交易が主流になる貿易商人として活躍した。しかし、次第にユダヤ人への迫害が高まる。反ユダヤ主義である。交易の旅が危険になるとともに定住商人となっていく。貿易で栄えたヴェニス(Venice)は定住地の一つといわれる。

反ユダヤ主義者の主張とは、「ユダヤ教は強烈な選民思想であるがゆえに排他的な思想であり、キリスト殺害の張本人であり、金融業で財を成した」などがある。こうしたキリスト教中心主義的な発想がエスノセントリズム(ethnocentrism)、自文化中心主義や自民族中心主義を醸成し人種差別(racial discrimination)を正当化していく。

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英語あれこれ その12  ヘブル語と英語 その2

今や、イスラエルを中心に多くの人々がヘブル語を日常的に使っている。ポーランドでもユダヤ系の人々が話しているとWikipediaにある。主にアメリカ、アルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、カナダ、フランス、ドイツなど、740万人のユダヤ人がヘブル語を使っている。

世界に離散した(Diaspora)ユダヤ人が戦後、イスラエルに帰還し建国に寄与した。ユダヤ人の多くは、まずウルパン(Ulpan)という教育機関でヘブル語を学び、イスラエル社会に同化するように奨励される。

ヘブル語が英語に与えた影響についてである。それは、なんといっても旧約と新約聖書の記述、特に登場する人物や場所、出来事などが今も使われていることだ。人物に関してであるが、アルファベット順に名前を列記してみる。Adam, Abraham, Ann, Benjamin, David, Daniel, Deborah, Elizabeth, Emmanuel, Esther, Eva, Gabriel, Hannah, Isaac, Isaiah, Jeremiah, Jesse, Joel, John, Jonathan, Joseph, Joshua, Mary, Matthew, Michael, Moses, Naomi, Nathan, Rachel, Rebecca, Ruth, Samuel, Sarah, Simon Susanna。こうした名前はヘブル語から由来している。どこかで必ず聞いたことのある名前があるはずである。

人名ではないが、救世主はMessiah、ジーンズのブランドとなっているLevi、神であるJehovahなどなど。旧約聖書の最初は「モーセ五書」で、トーラ(Torah)と呼ばれている。トーラはユダヤ教の教義全体を指すともいわれる。ともあれ旧約聖書の影響は絶大だ。

ヘブル語の特徴としてアラビア語と同様に、この言語は文章で書くときは右から左に書く。筆者はまったくヘブル語を知らない。だが日本語とヘブル語の発音と意味には似たものがあるとはきいている。偶然なのか、はたまたどんな関連があるのかは知りたいところだ。

山などで叫ぶ「ヤッホー」はヘブル語では偉大な神というのが語源。「ヤーウェ」(Yahweh)とか「エホバ」ともいわれ、福音系の教会では「主」として使われる。ミカド(帝)はヘブル語でミガドル、高貴な人というらしい。ワラベ (子供)はヘブル語でワラッベン(子供)と発音するそうだ。どこか似ている。

(終わり)はアハリ(終わり)と発音すると辞書にある。この稿もここらでアハリとする。

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英語あれこれ その11 ヘブル語と英語 その1

筆者の友人で先輩のお一人、Dr. Robert Jacobがいる。今はミルオーキー(Milwaukee)の郊外で整形外科の医師をしている。Jacobという姓のとおり、彼は敬虔なユダヤ教徒(Jewish)で熱心な国際ローターリークラブの会員でもある。筆者が国際ローターリクラブから奨学金を頂戴したとき、ウィスコンシン大学にやってきた留学生の面倒をみてくれた人でもある。ユダヤ系のアメリカ人と交わったのはこの時である。ロータリアンとして中南米への医療チームに参加する活動家だ。

ロータリの留学生は皆地元でホームステイを楽しんだ。筆者はDr. Jacobの家で過ごした。奥様は小学校の音楽の教師をしていた。ご家族に連れられてシナゴーグ(synagogue)に行った。ダビデの星(Star of David)や7枝に分かれたしょく台(menorah)が目についた。聖堂に入る前にヤムカ(yarmulke)という帽子をちょこんと被った。これが習慣だそうだ。丁度旧約聖書の研究会が開かれていて、皆英語で議論していた。

さて、ヘブル語(Hebrew)である。紀元前580年頃セム語(Semite)といわれた古語がカナン(Cannan)という地方にいたヘブル人によって使われはじめたとある。しかし、紀元前200年頃になるとヘブル語は日常会話としては使われなくなったが、宗教上の儀式などでは使われていた。

歴史は19世紀の中頃、エリエゼル・ベン・イェフダ(Eliezer Ben Yehuda)という人が、自宅でヘブル語を使うことを実践し、それが地域にひろまり学校でも教えることを奨励した。イスラエルの建国と共に、ヘブライ語も現代に復活する。長い間話されなくなった言語が、再び人々の日常の言語として復活した。このことは言語学的にも奇跡と言われている。
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英語のあれこれ その10 身近なラテン語

若いときは関心がさしてなかった語学であるが、齢を重ねるとともに古典であるラテン語やギリシャ語に関心が向くのは不思議だと思っている。英語の語源を調べると、どうしてもこの二つの偉大な言語に行き着く。ブログを書くために、ラテン語辞典とギリシャ語辞典は毎日通う図書館で重宝している。

ラテン語の単語が我々の身近なところで使われている。アドリブは”ad lib”、学術はars、ソロバンはabacus、接近はaccessio、順応は accommodatio、腹はaddomen、告訴はaccusatioといった具合だ。”Propagare”はプロパガンダ、”taxare”は量るとか税金、”congregatio”は組織とか会衆、”mercator”は商人。”Panacea”は万能薬、こうしたラテン語から英語が派生してきた。

オリオン(0rion)、アンドロメダ(Andromeda)、カシオペア(Cassiopeia)など88の星座の名称もラテン語だ。Wikipediaによれば1919年創立の国際天文学連合(International Astronomical Union: IAU)がラテン語表記と決めたからだ。ラテン語はいわば国際的な公用語であることを示す。IAUは国際科学会議(ICSU)の下部組織として惑星、小惑星、恒星などの命名権を有するという。

ラテン語で愛はamor、カサエルはCaesar、珊瑚礁はcorallium、三角州はdelta、家族はfamilia、女性はfemina、ローマ神であり太陽系惑星の木星はJupiter、正義はjustitia、月はlunar、海はmare、大洋はoceanus、象徴はsymbolus、女神はVenus, ばい菌はvirusなどから、ラテン語から英語となったことがよくわかる。

誠に「学術は果てしないが、生涯ははかない。」
Ars longa, vita brevis.

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英語のあれこれ その9 ラテン語と英語

ラテン語(Latin)と英語との関係である。ヨーロッパの教会では長い間ラテン語で礼拝式が執り行われていた。なぜならラテン語はもともとイタリアで生まれ、ローマ帝国の公用語として使われてきた経緯がある。今もバチカン市国(Vatican)の公用語はラテン語である。教会でラテン語が使われてきたことは納得できる。

学問の中心はヨーロッパであったが故に、今もラテン語が活用されている。例えば、生物の学名がそうだ。また教会音楽でもラテン語の歌詞で歌われている。”Agnus Dei”は神の子羊、アニュスデイと発音する。”Magnificat”(主を崇め)はマニィフィカトと発音。綴りにある”g”は発音しないのがラテン語である。”Sanctus”(聖なるかな)”Gloria Patri”(小栄唱)というラテン語も思い出される。

“A priori”は先験的という意味で使われるラテン語。例えば、時間とか空間はあらゆる経験的認識に先立って認識されること、演繹的とされる。他方、”A posteriori”は後天的とか経験的、あるいは帰納的という科学哲学の大事な考え方である。演繹と帰納の話題は少々ややこしい。この稿はひとまずこの辺で終わりとする。


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学問はラテン語そのものともいえる。例えば、大学などのエンブレム(emblem)にラテン語が印字されていることだ。ハーヴァード大学(Harvard)の紋章には”VERITAS”とある。「真理」とか「真実」という意味である。筆者の母校ウィスコンシン大学の紋章には”NUMEN LUMEN”とある。”God our Light”。「神こそ我が光」という意味である。学問や知性の源泉はラテン語にありといったところか。ラテン語に非常に敬意を払っていることを示す。

我々が日常接するラテン語であるが、”aqua” は水、”de facto” は事実上の、”pax”は平和、”pater”は父親、”patronus”は後見人、ハイブリット車の名称”prius”は先駆け、等々ラテン語があちこちにある。

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英語のあれこれ その8 Fighting Irish–Notre Dame

インディアナ州(Indiana)のサウスベンド(South Bend)にノートルデイム大学”University of Notre Dame”がある。名前からわかるようにカトリック系の大学である。そこのスポーツチームには”Fighting Irish”というニックネームがついている。

アメリでは、どの大学にもニックネームがついている。Fighting Irishとは少々過激な印象を受けるが、ノートルデイム大学の創立の歴史をみればなるほどと首肯したくなる。

南北戦争(Civil War)のとき、北軍(Union)に”Irish Brigade”という3,000名の兵士からなる旅団があった。この戦争の天王山といわれたゲティスバーグの戦い(Battle of Gettysburg)では、Irish Brigadeの500名が生き残ったという激戦であった。この旅団に従軍していた司祭がWilliam Corbyである。戦争の終結後、彼は第三代の大学総長としてその発展に貢献した。

Fighting Irishとは、アイリッシュの気概を示す。それは、”never-say-die fighting spirit”というのである。その精神とは勇気を示す”grit”、決断力をあらわる”determination”、そして辛抱強さを意味する”tenacity”。アイリッシュの心意気ということのようである。

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英語あれこれ その7 ケルトとBoston Celtics

ボストンにはボストン・セルティックス”Boston Celtics”というNBAに所属するプロバスケットチームがある。「ボストンのケルト人」というわけである。アイリッシュが沢山住むボストン。そこでCelticsと名付けられた。

1980年代にセルティックスには、ラリー・バード(Larry Bird)という名選手がいた。黒人選手が圧倒的に多い中で、「白人」のバードは人気が非常に高かった。「白人の希望」という嬉しくない称号ももらった。バードは極めて正確なシュートをうつ名人で、セルティックスをNBAのチャンピオンに三度導いた。まさに黄金時代を築くのに貢献した。

植民地時代のアイリッシュのイギリスに対する抵抗は、ボストン市内の各所にある旧所名跡に残る。例えばボストン茶会事件(Boston Tea Party)である。当時、植民地であったNew Englandの中心、ボストンは紅茶や綿花の本国へ送る港であった。抑圧されていたアイリッシュは独立のために立ち上がる。バンカーヒルの戦い(Bankerhill) 、レキシントン・コンコードの戦い(Lexington & Concord)などを経てイギリスから独立を勝ち得たのは1789年である。

独立戦争はセルティックス—ケルト人の精神が反映されているとも考えられる。被征服という恥辱や汚名を雪ぐ戦いでもあった。

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英語あれこれ その6 ケルト語系と英語

なぜ筆者がケルト語(Celtic)に関心があるかである。それには三つの理由がある。第一は1961年1月にJ. F. ケネディ(J.F. Kennedy)が大統領になったこと、第二は長男家族がボストンにいること、第三は司馬遼太郎の「愛蘭土紀行」を読んだことである。司馬の作品から時代考証の方法と文章の修辞法も学んだ。

J. F. ケネディの家系はアイリッシュ(Irish)である。アイリッシュは、イギリスで被征服民とみなされ、カトリック教徒であるために忌避感を持たれてきた。そのためアメリカでも偏見と差別に苦しめられた。しかし、ケネディ、そしてロナルド・レーガンが大統領となりその社会的認知度は確立した。ケネディは1963年11月22日に暗殺されたが、今も最も人気のある大統領の一人として記憶されている。

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長男の家族はボストン市内で長く暮らした。長男はハーヴァード大学(Harvard University)でポスドクとして研究し、嫁はダウンタウンの小学校でスパニッシュの子どもたちを教えてきた。今はボストンの郊外に住んでいる。ボストンでたまたまセントパトリックデー(St. Patrick’s Day)に遭遇したことがある。通りがかりの人々は皆、緑色のものを身につけて祝っていた。バグパイプ(bagpipe)のもの悲しい音色もいい。奏者の服装もあでやかであった。

「愛蘭土紀行」にはアイルランド語や文化のことが書かれている。司馬は、小泉八雲の生涯や著作からアイリッシュに関心をいだいたことがうかがわれる。アイルランド語はゲール語(Gaelic)と呼ばれている。もともとアイリッシュの固有の言語であったケルト語である。アイリッシュはケルト人でもある。

イギリスによって被支配民となりアイルランド島全土が植民地化されてからは英語にとって代わられた。だが、今はアイルランドの公用語は英語とともにアイルランド語となっている。

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英語あれこれ その5 do、get、give、have、make、take

中学校や高校で習う単語のほとんどがゲルマン語系(German)の英語だそうだ。ゲルマン語系とは、黒海からヨーロッパ北部で使われた言語集団をゲルマン語派と言うそうである。ゲルマン語系の言語とは、現在の英語、ドイツ語(German)、オランダ語(Dutch)、北欧(Scandinavian)での言語のことである。オランダ語やスエーデン語(Swedish)、ノールウエイ語(Norwegian)は知らないが、単語を目にすると英語になったのが沢山あることに気がつく。発音は違うが、単語の綴りから意味は容易に理解できる。

現在使われる英語は、時代によって古英語ーOld English、中英語ーMiddle English、そして近代語ーModern Englishと呼ばれてきた。基本の動詞であるdo、get、give、have、make、takeなどはOld Englishそのものである。従ってその様々な使い方には伝統があり、それを知って使い分けるとゲルマン語圏内では意思が伝わる。日常会話だけでなくメールを書くときもそうだ。上記のゲルマン語系の動詞使いこなせば英語らしいものとなる。特にgetの使い方は大事だ。

新聞や雑誌などを読みこなし、リスニングをかなり正確に聞き分けるには、ゲルマン語系の動詞の基本構文を意識することを勧める。例のS+V+C+Oなどである。ラテン語系といわれるフランス語・イタリア語・スペイン語などに由来する英語の語彙を構文の中で使うと良い文章となる。ただし、ラテン語系の単語の綴りは結構ややこしい。手書きできればもっと良い。それと修辞法を学ぶことだ。

英文抄録作成法という拙稿を1999年に掲載したことがある。修辞法を解説している。参考になれば幸いである。
http://www.ceser.hyogo-u.ac.jp/naritas/abstract-e/abstract.htm

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英語のあれこれ その4 民主主義とギリシャ語

我々に馴染みの英語を取り上げる。すべてギリシャ語から派生したものである。それは「crat」という接尾辞がつく単語である。どれも国や為政の骨格を示すようなものとなっていて、好奇心をそそられる。

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民主主義は”democracy”。この単語を分解すると、”demo”は民衆とか大衆という意味。”crat”は支持者とか統治者という意味である。従って、”democrat”は民主主義者ということになる。”cracy”は「〜階級社会、統治」ということである。このように”crat”の部分を”cracy”に置き換えると、「〜主義、〜政治」という単語ができるというわけである。ちなみに、アメリカの議会は民主党と共和党の二大政党からなる。”Democrat”とは民主党、民主党員というわけだ。

昔、ギリシャでは上流階級や貴族は”aristocrat”と呼ばれた。この単語を分解すると”aristo”は最も上のという意味であり、その語尾に”crat”がつくと最高位の人々となるわけである。アリストテレス(Aristotle)の業績は、やがて啓蒙主義やルネッサンスへ継承されたといわれる。その名前にふさわしい哲学者であった。

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君主制というのがある。語源は古代ギリシャ語である。かつてのロシア帝国の皇帝とか大日本帝国の天皇のこと。これを”autocracy”という。”auto”とは自己の、己の、という意味である。従って”autocracy”は一人の者に権力が集中する制度、”autocrat”は独裁者に近い皇帝とか王となる。 “autocracy” は”dictatorship”, “totalitarianism”に極めて近い。

官僚主義もギリシャ語からきている。”bureau”は役所の部局のこと。そこで立案するのが”bureaucrat”である官僚だ。人民のニーズに対応する政策を考えるのではなく、特権的な人間の判断が幅をきかす制度が”bureaucracy”ある。

“Technology”も大事な単語だ。技術は”techno” 技術の専門家とか官僚のことはテクノクラト”technocrat”という。

能力主義という英語は “meritcracy”。接頭部分の”merito”とは美点とか、成果ということである。知的エリートのことをを”meritocrat” という。財産や階級の特権を振り回すのではなく、己の才能でのし上がった者だ。成果や働きに応じた報酬を”merit pay”という。

終わりに、偽善とか偽善主義を意味する”hypocrisy” がある。偽善者は”hypocrat” というように使われる。”hypo”とは低いとか下位の、といった接頭辞である。”hypothesis”は検証されるべき仮説や仮定ということになる。

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英語のあれこれ その3 サイコとソマト

精神身体医学の歴史は長いようだ。心と体のつながりは昔からいわれてきた。たとえば、中世はイスラム圏では、ペルシャの精神科医師が病の原因と治療には心と体が深く繋がっていることを指摘している。心や気のありようが身体と関わることを知っていた。

昔から「気は心」とか「病は気から」などといわれる。気を病んでしまうことで病気になってしまうこと、科学的な根拠はわからない時代でも、人々は長い間の経験と知恵から心と体の関係を知っていた。

今回の話題は、「精神と身体」のことである。サイコとソマトと呼んでおく。繰り返すがサイコ(psycho)は精神、ソマト(somato)は身体である。World English Dictionaryによれば、psychoと同様にsomatoはギリシャ語の「soma」から生まれたとある。


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「Psychosomatic」という肝要な単語がある。その説明には、「disese caused by mental stress」という記述があり、 病人の身体と心理に因果関係があると指摘している。精神的なストレスが最も病気を誘発しそうである。それを究明した学者の一人にオーストリア精神科医のジクムント・フロイド(Sigmund Freud) がいる。

フロイトは神経症(nervous disorders)、性的外傷論(sexual trauma)、自由連想法(free association) 、無意識(the unconscious)などの研究と実践により精神分析(psychoanalysis)を創始したことで知られる。フロイドのことはここではあまり触れない。サイコとソマトを通してギリシャ語が英語と深い関わりがあるということを説明したかった。

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英語のあれこれ その2 ロゴス(Logos)

英語のアルファベット(alphabet)はギリシャ語から生まれている。ギリシャ語の最初はアルファ(α-alpa)、ベータ(β-beta)と続き、最後がオメガ(Ω-omega)である。聖書の黙示録1:7に「わたしはアルファであり、オメガである」という有名な聖句がある。

英語の母体の一つが古代ギリシャ語である。ギリシャ語を語源とする単語には、 論理(logic)、 民主主義(democracy)、貴族(aristocrat)、科学技術(technology)などたくさんある。前回、心理学(psychology)に少し触れた。今回はギリシャ語の論理(logic)にまつわる英語である。

論理学はlogicと呼ばれる。「論理的に話したり書いたりする」ということは、説明や文脈や明確にし、結論に導くことである。思考の形式とか法則のことである。このように論理学は、人間の思考や表現などあらゆる分野において重要な役割を果たしているといえる。

さて、logicに関する単語である。Psychologyの語尾「logy」は英語の大事な接尾辞の一つである。「〜学」、「〜説」、「〜論」、「〜話」、「〜学」、「〜科学」などを意味する単語についている。「logy」のもともとは、ロゴス(Logos)である、Wikipediaによれば、古代ギリシア語では、概念、言葉、意味、論理、理由、理論、思想などとある。ちなみに、キリスト教では神のことば、歴史の始まりから終りまでを司るイエス・キリストを意味する。

少しややこしくはなるが、概念、言葉、論理などのことである。ロゴスは哲学の流れである論理と思弁を重んじることにより、「語られる力ある言葉」ということで理解されるのが一般的といわれる。
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英語のあれこれ その1 古代ギリシア語と英語

漢字の偏に関する熟語など勉強をしたきたので、これからは英語の勉強を始めることにする。身近な話題、自分の体験した英語との苦闘や発見などを取り上げる。だが、決して難しい内容とはならない。英語学のプロではないので、それを保証しておく。

英和辞典なしに小説や新聞を読むことができるためには、2万語の語彙が必要となるといわれる。そんなことは不可能に近い。筆者の経験から言えば、2,000語から3,000語を知っていれば、ほとんど意味はわかってくるのではないか、、単語の意味を理解するにはどうしても方略を駆使する必要もある。語源から辿るという方略である。

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語源を知ることによって名詞と形容詞などの派生語の意味も理解でき、語彙が増える。「派生した単語の多い語源から学習することが効率的な英語の語彙習得に役立つ」とある学者がいっている。単語の語幹や接頭辞、接尾辞に注目するのである。

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例えばである。このブログの多くの読者は心理学はどこかで学んできた。心理学は「Psychology」である。語源はギリシャ語の「Psyche」プシケーといわれる。英語読みでは「P」を発音せず、「サイコロジ」となる。ここが英語の不規則性という特徴である。古代ギリシア語で心・魂・霊などを意味する。派生語としてPsychologist, Psychiatric, Pseudo, Psychic, Psychogenic, Psychotic, Psychosis, Psycho-analysis, Psycho-therapyなどなど多岐にわたる。

面白いのは「Pseudo」という単語である。これは「にせの,まがいの」という意味である。心とか魂というのは、複雑でとらえようがない、というニュアンスもある。心理学というのもいろいろな人がいろいろな仮説をもとにして作った体系である。それ故、まがいものもあるのではないかと冷ややかに受けとめる必要がある。「Pseudo」は「スード」と発音する。

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手書き その20 漢字を覚える方略–とりへん・ひよみのとり

漢字の偏を取り上げ、漢字を覚える方略を考えるこの拙稿も今回が「トリ」である。

とりへん・ひよみのとりは酉部と呼ばれる。十二支のとりである。とりへんの漢字を調べると、発酵にかんするものが目立つ。酒や酢、醤油など調味料などである。

醸造の歴史は深いようである。紀元前5000年頃のバビロニア(Babylonia)ですでに存在していたとある。酒の醸造と同じ時期に酢も作られるようになったと考えられている。酢は食品に酸味をつけたり増強し清涼感を増す。夏のおかずに酢は欠かせない。バルサミコ(Balsamico)酢はブドウの濃縮果汁から作られる。昔から葡萄はワインの醸造とともになくてはならないものだったに違いない。

毎年、ウィスコンシンに住む末娘には何種類かの麹を送っている。麹を入れた料理は亡くなった母親から教わったようだ。孫娘にも受け継いで欲しいものだ。日本酒、味噌、食酢、漬物、醤油、焼酎、泡盛などに麹が使われる。

「醍醐」は、牛乳からのほのかな甘味と濃厚な味わいのあるジュースのようなもの。醍醐味とはそんな味なのだろう。仏教用語でも使われるとWikipediaにある。飲むヨーグルトやチーズに近いようだ。筆者も365日、欠かさず自家製のヨーグルトをいただいている。

晩酌はもっぱらお湯割り焼酎。夕方5時くらいから手書きしたこの原稿のワープロ作業をしながらチビチビやるのが楽しみだ。酩酊することはないが、ちょっぴり量が増えてはいるので気をつけている。

「配」はとりへん、「酒・酔」はひよみのとり、とあるがその違いは分からない。「醜」という漢字と酉部の関連も残念ながら調べる時間がなかった。
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手書き その19 漢字を覚える方略–いぬ・けものへん

四足歩行する哺乳類に関する漢字につくのが「けものへん」とか「いぬへん」。犬に始まり、猫、狐、狸、猿、猪、狼など。「狗」とは犬のこと。まわしものとか間諜を意味する。羊頭狗肉という四文字熟語もある。

獣の性質を示すのが狂や猛。しかし、獣は本来は穏やかな性質ではないのか。子を守る本能が狂や猛に見られる。最近、子殺しとか女性の殺傷事件が報じられる。獣でもしないようなこうした行為に暗たんたる想いがする。現代の狼藉者である。こうした者は、独、狭、犯といった漢字から連想される生活をしているのだろうか。

狩りは獣を狙い捕獲となる。献は差し出すとか献上すること。「猶」とは以前の状態がそのまま続くこと。猶予という熟語がそれを示す。

「夷狄」という異民族を野蛮人といった蔑称に用いた熟語もある。民族間の根深い対立には優位、劣位の意識がある。戦争にはこうした誤った「大義」を国民に植えつける教育がある。

八王子の郊外にある高尾山には、天狗の言い伝えがある。もともとは慢心の権化とされ鼻が高いのが特徴。山伏姿で赤ら顔をしている。だが高尾山とか他の霊山では山の神として人々の信仰の対象となっている。

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手書き その18 漢字を覚える方略–ころもへん

「ころもへん」は衣服や布製品などを示す漢字が多い。衣装とか衣裳、袈裟はその典型である。「衣」には「裂」や「裁」のように下部に置かれるときはそのまま「衣」が使われる。「表」や「褒」などは漢字の下に同じく変形してつけられる。「初」や「袖」、「補」のように左の偏の位置に置かれるときも衣の変形が使われる。

敷き布団のことは「褥」。「褥そう」という熟語があるが、これは英語では”Pressure sore”。圧迫されて痛むこと、となる。英語のほうがわかりやすくてよい。

最近「褌」が男女に人気が出ていると報じられている。親父もつけていた。これは簡単でよい。衣服を脱ぐことは裸。筆者は「袴」を持っていない。袴をつけるという精神と経済面の余裕がなかったからだ。奈良の友人へ「一着いただきたい」と申し入れているが、背丈が違うといって断られている。

「襖」や「衾」もある。そういえば佐伯泰英の時代小説にはこの二つの漢字がしばしば使われる。「同衾」もそうだ。舞台は江戸。深川、浅草、吉原など下級武士や庶民の生活の場である。

片寄らないことは「衷」。心の中という意味もある。それが衷心である。折衷も納得できる熟語である。

我々はいつまでも若くはない。やがて衰え「喪」がやってきて次世代に役割を譲る。「禅譲」というと大袈裟だが、いつまでも先輩ぶらないで静かに舞台から退いていくのがいい。

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手書き その17 漢字を覚える方略–のぎへん

国語辞典と広辞苑を長く使っているが、いずれも岩波から出版されている。なぜか昔から信頼が置ける出版社という観念がある。大学で使った参考書などずいぶんお世話になった。新書も充実している。「広島ノート」、「憲法とはなにか」など忘れられない。

「のぎへん」である。穀物の総称とか代表して使われたとある。後々、稲を意味するようになった。

家の近くにある和食堂の名前が「穣」。毎日のように通りすがるので漢字を覚えて書けるようになった。「豊穣」という熟語は米のなり具合を農民が喜ぶ様を示すようだ。画数も多いが大事な漢字だ。

「私」とか「和」は画数が少ない。「禿」とくると少々辛い気分だ。

穀物を意味するだけあって、「租」、「税」という漢字も関連している。「租」はもともと「みつぎ」という意味である。米で年貢を払っていた。土地の大小、年貢の量などは日本の封建制度を支えていた石高と関連している。玄米の収穫量のことが石高。

「稽古」という熟語は穀物と関連はないようだ。「稽」という漢字を調べると、「考える」、「比較する」という意味もある。「とどこおる」ともあって少々驚く。毎日囲碁の稽古に余念がないのだが、上達への「径」は厳しいものがある。

穀物に戻るが、今春は稀代の大雪が見舞ったので水は十分だと思うが、、穏やかな秋になって稲穂が垂れるのをみたい。

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手書き その16 漢字を覚える方略–みみへん

耳偏の漢字はそうは多くない。

「聞く」と「聴く」の使い方について時に考え込むことがある。ただ、熟語にするとその意味が違うことがわかる。静聴、拝聴、傾聴などの熟語がそれを物語る。最近、大学にでかけて聴講する機会がない。

教会などで聖職者を呼ぶときのことを「招聘」という。「聘」とは賢者を招くという意味らしい。このことを文書化したのを招聘状という。「是非おこしいただきたい、そしてお働きいただきたい」という書類である。英語でいえばCalling(招き、天職)である。

口偏かみみへんかは分からぬが、「囁」は誠に当を得た漢字だ。
「”まったく下々の事情をよ、ご老中はわかっていねえぜ”と江戸の町々でこんな会話が囁かれていた。」と佐伯泰英の時代小説にでてくる。天保の改革で、江戸の町と民を疲弊させいく様子を描いている。

「耽溺」は一つのことに夢中になること、他を顧みないことである。ときにこうした状態にふけったりのめり込むのも悪くはない。耽美主義(aestheticism)とか審美主義という熟語もある。伝統にとらわれない新しい芸術主義のようだが、退廃的な印象もあり筆者にはわかりにくい。

耳が聞こえないことは「聾」。以前、こうした生徒が学ぶところを聾学校といった。聴覚に障がいがある生徒の学舎である。

「聡」は、賢い、耳がよくとおる、すばやくわかる、わかりがよいとある。しばしば名前にも使われたが最近はあまり見ないのが寂しい。

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