世界を旅する その十 ポーランド人の移民

私がウィスコンシン(Wisconsin)の州都マディソンに住んでいたとき、ポーランドの地名や市町村名が地図に沢山あることに気がつきました。その代表はPoland, ワルシャワ(Wausau)、ワーケシャ(Wauksha), ワーパカ(Waupaca)、ワーノキ(Waunakee)、ワートマ(Wautoma)、ポーテジ(Portage)といった町です。

1900年代のStevens Point

1857年に最初のポーランド人がウィスコンシン州の東部から中西部にかけて移植してきます。南北戦争が始まる以前です。ウィスコンシンで最初のポーランド人コミュニティが形成されたところがポーテジとかスティーブンスポイント(Stevens Point)です。その定住地、コロニーは「Polonia」と呼ばれます。

ウィスコンシン州にやってきたポーランド人は、ポーランドの西部地方である「Kaszuby」付近からやってきたといわれます。「Kaszuby」はバルト海(Baltic Sea)に面するグダンスク(Gdansk)のあたりです。ウィスコンシンを選んだのは、気候や土地が母国と似通っていたことが主たる理由です。ポーテジ郡のあたりには、ドイツやアイルランドの移民もすでにいて、農地に適した肥沃な土地はすでに耕されていたようです。ポーランド人は、氷河が残した岩や石が混ざる土地を選ばざるをえませんでした。農地の開墾は、岩や石を取り除く作業から始まります。やがて、教会堂や学校をつくっていくのです。

世界を旅する その九 ポーランドと日本 魂の救済

上皇上皇后両陛下がポーランドを訪問したとき挨拶の中で、2人のカトリックの聖職者と日本との関わりを語っています。その人とは、ポーランド人のコルベ神父(Maksymilian Maria Kolbe)とゼノ修道士(Zenon Zebrowski)です。この2人が日本でどのように活動したかを紹介します。

1930年にフランシスコ修道会(Franciscan Missionaries)のコルベ神父がゼノ修道士らと長崎に到着します。コルベ神父は哲学博士号を有する学者でもありました。早速長崎教区に対して『無原罪の聖母の騎士』という布教誌の出版を願い出ます。教区はそれを認め、コルベ神父は教区の神学校で哲学を教えることになります。翌月の5月には、長崎の大浦で日本語版の布教誌を出版し、長崎の本河内に「聖母の騎士修道院」を設立します。現在は「聖コルベ記念館」となっています。1936年にポーランドに帰国したコルベ神父は、ユダヤ人をかくまった罪でナチスに逮捕さrれ、アウシュビッツ(Auschwitz)で餓死刑を受け、47歳で死去します。この惨い出来事はいろいろな本やサイトで紹介されています。

ゼノ修道士

もう1人のポーランド人の聖職者、ゼノ修道士のことです。本名の綴りは前述した「Zenon Zebrowski)」ですからゼブロフスキーと読んだ方が正確です。ですが日本では「ゼノ神父」として慕われていたといわれます。1945年8月9日に長崎で被爆する体験をします。戦後は戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に尽くし、特に浅草のバタヤ街など全国各地で支援活動を行うのです。「バタヤ」とは鉄や銅くず、縄くず、紙くず等を拾い集めて回収する日雇い労働者のことです。当時廃品回収や仕切りをする「蟻の会」という労働者の生活協同体があり、そこで人々を支援します。魂の救済活動です。それ故「蟻の街の神父」と呼ばれたようです。

世界を旅する その八 ポーランドと日本 日本文化研究

2002年7月に、現在の上皇上皇后両陛下がポーランドを訪問したとき、ポーランド大統領夫妻主催の晩餐会でなされた挨拶は、ポーランドと日本の関係を示す貴重なものです。その中で、ワルシャワ大学東洋学部日本語学科の教授をしていたコタンスキ(Wieslaw Kotanski)教授のことに触れています。コタンスキ教授は日本語や日本文化研究者で「古事記」の研究を始め,雨月物語、雪国、日本文学集などをポーランド語で紹介しています。1957年以来何度も来日し、日本における宗教発展の概要についての著作もあります。

上皇上皇后両陛下は、同じく挨拶の中でアンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda)を中心として両国の多くの人々の協力によって,古都クラクフ(Krakow)に設立された「日本美術技術センター」のことにも触れています。1987年にワイダは稲盛財団による京都賞の思想・芸術部門で受賞します。「人間の尊厳と自由精神の高揚を力強く訴えてきた」というのが受賞の理由です。ワイダは賞金を全額寄附し「京都クラクフ財団」をつくります。そしてクラクフで日本美術技術センター設立のために動きます。日本ではそれに呼応して、放送作家であり映画プロデューサで岩波ホール総支配人の高野悦子が5億円の寄付活動を始めます。日本政府もその企画を支援し、1994年に日本美術技術センターが完成します。

ワイダ夫妻や高野悦子氏ら

センターにはヤシェンスキ(Felix Yaschenski )というポーランドの美術品コレクターが集めた15,000点に及ぶ日本美術のコレクション(Felix Yaschenski Collection)が展示されて、両国の文化交流の一つの中心としてその役割を果たしているといわれます。ポーランドを訪ねたときは、是非立ち寄ってみたいところです。

世界を旅する その七 ポーランドと日本 「灰とダイヤモンド」

この映画は、アンジェイ・ワイダが1958年に制作した作品です。ポーランドは地政学的に近隣諸国から翻弄された歴史があります。123年にわたる分割占領から独立を回復したのが1918年。しかし、第二次大戦によって再び大国の支配に蹂りんされます。戦後は、ソ連の手先である統一労働者党が実権を握り、一党独裁の社会主義国家となります。そして1989年に大統領制が復活し、自由な選挙により新しい国家、ポーランド共和国ができます。

「灰とダイヤモンド」はポーランドが社会主義政府支配のもとで作られた映画です。言論が統制されていた時代です。ワイダをはじめ文化人らは、厳しい検閲などに注意を払いながら作家活動を続けたことが容易に伺えます。

「灰とダイヤモンド」は1945年5月数日のポーランドが舞台です。ポーランドのロンドン亡命政府派は、ソ連の手先である労働者党県委員会書記のシュチューカ(Szczuka)の暗殺を指示します。亡命政府派のゲリラであるマチェク(Maciek)がそれを引き受けます。誤って別人を暗殺し、人民軍によって射殺されます。この映画でワイダは、青年マチェクのポーランド独立への心意気や苦悩を下敷きにしたようです。

世界を旅する その六 ポーランドと日本 アンジェイ・ワイダ

先日 秋篠宮ご夫妻がポーランドを親善訪問されたというニュースがありました。両国は国交樹立100周年を迎えたとのことです。私は両国がそんなに長くから国交があったことを始めて知りました。1919年が国交樹立の年となります。1919年といえばソビエトが社会主義共和国が樹立し、朝鮮半島では三・一独立運動が起こり、 ガンディが非暴力・不服従運動を開始し、ヴェルサイユ条約が締結され、日本はロシア革命への干渉としてシベリアに出兵し、中国山東省のドイツ利権を日本が取得するなど、内外の情勢が緊迫する時代です。

Andrzej Wajda

今回はポーランドを代表する映画監督アンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda)のことです。私はこの監督がメガホンをとった二つの作品を観ています。一つは1956年制作の「地下水道(Kanal)」、もう一つは1958年制作の「灰とダイヤモンド(Ashes and Diamonds)」という映画です。ワイダは戦時中、対独レジスタンス運動に加わった経歴があるといわれます。この二つの作品は、そうした経験とは切り離せないようなポーランド人の苦悩とともに不屈の精神を描いています。

「地下水道」の舞台は、1944年のワルシャワです。ポーランド国内軍は占領していたドイツ軍に武装蜂起を起こすのです。しかし、銃火器で有利な攻撃で追い詰められ、ワルシャワの地下水道から市の中心部に出て活動を続けようとします。夜になって隊員は地下水道に潜っていきますが、やがて皆は離ればなれになり、ある者は暗闇と悪臭に耐え切れず、マンホールから外に出るのです。それをドイツ軍に発見され射殺されるのです。

世界を旅する その五 ポーランドと日本 分割から連帯へ

1500年代、ポーランドはヨーロッパで最も大きく強大な国家でした。1772年から1918年まで、ロシア、プロイセン(Prussia)、オーストリアといった絶対主義体制の国々が台頭します。ロシアはロマノフ家(Romanov)、プロイセンはホーエンツォレルン家(Hohenzollern)、オーストリアはハプスブルク家(Habsburg)が統治した国です。ポーランドはこの三国によって分割・併合され、ポーランドという国家が消滅するという歴史もあります。

こうした困難な時代にあってもポーランドの文化や芸術は豊かだったといわれます。思想的にもパルスキ(Kazimierz Pulaski)やコシスコ(Tadeusz Kosciuszko)といった愛国指導者が現れます。この二人の思想はやがてアメリカの建国やフランス革命にも受け継がれていきます。1791年にポーランド憲法が制定されます。この憲法はヨーロッパで最も古いものといわれます。こうした思想家の思想が国民に広く理解されるとともに、1918年に国家が再興されます。

ポーランドは二つの大戦で翻弄されます。第二次大戦は特にポーランド人民に過酷な試練を与えます。その代表はユダヤ系ポーランド人に対するホロコスト(Holocaust)で、これに並ぶ悲劇的な歴史はないと思われます。数百万人の非ユダヤ系ポーランド人も犠牲となります。ナチスの支配が終焉するとポーランドは共産圏の衛星国としてソビエトの支配下におかれます。

こうして半世紀にわたる共産主義体制での統治が続く中で、労働者やカトリック教会は、共産主義支配の経済の失敗を叫けんでいきます。1970年代後半、レフ・ワレサ(Lech Walesa)らが率いる独立自主管理労働組合「連帯」が結成され、民主化運動が全国に広がります。そして1989年にポーランドは共産主義体制から民主主義体制へとなります。

世界を旅する その四 ポーランドと日本 「戦場のピアニスト」

忘れられない映画に「戦場のピアニスト」という戦時中のポーランドの首都ワルシャワ(Warsaw)を舞台とした作品があります。監督は多くの人道的な映画を作ったポランスキ(Roman Polanski)です。ワルシャワの放送局でピアニストをしていたユダヤ系ポーランド人、シュピルマン(Władysław Szpilman)が映画の主人公です。

ドイツによる空爆の後に、ワルシャワは占領されシュピルマンと家族はユダヤ人居住区であるゲットー(ghetto)に移住させられます。やがて家族は大勢のユダヤ人とともに強制収容所行きの汽車に乗せられのですが、シュピルマンは知人の計らいで脱出します。その後友人等の助けによって工場で働くのですが、そこも追われ廃墟と化した街を転々と身を隠すのです。ワルシャワ蜂起(Warsaw Uprising)という抵抗運動が起こるのですが、鎮圧されてしまうのを目の当たりにします。

半壊したような建物に潜みながら、そこにあるピアノの前に坐り、音をたてないように鍵盤を弾き始める動作をするのです。建物の中で見つけた缶詰をあけようとするところに、ドイツ将校ホーゼンフェルト大尉(Wilm Hosenfeld)に見つかります。名前や職業を訊かれ、ピアニストだったと答えます。ホーゼンフェルトはシュピルマンになにか曲を弾くように命じます。彼はショパンのバラード第1番ト短調(Ballad I G Minor)を静かに弾き始めるのです。

それからホーゼンフェルトは寒さに震えるシュピルマンに自分のマントを与えたり、食糧を届けるようになります。ソ連軍が侵攻してワルシャワは解放され、よれよれの姿でシュピルマンも廃墟からでてきます。ホーゼンフェルトと兵士らは捕虜となり、周りを通りかかるポーランド人からののしられるのです。

世界を旅する その三 ポーランドと日本 コペルニクスと地動説

ポーランドが輩出した科学者で右の横綱といえばコペルニクス(Nicolaus Copernicus)、左の横綱はキューリ夫人(Maria Curie)でしょう。カトリック教会が支配していた宇宙論は、もちろん天動説(Ptolemaic theory)です。地球が宇宙の中心に位置するという説です。それを覆す地動説(Geodynamic theory)を提唱したのがコペルニクスです。

コペルニクスの地動説は、宇宙は神聖かつ普遍であって、生成消滅するこの世の世界とは本質的に異なるという考え方です。当時、神学や哲学、さらには常識の根底にまで浸み込んだ天動説に真向から対立するものでした。

当時の神学者らは、観測事実を証明するのに不自然な手練手管を使っていたようです。そうした状態に疑問を抱いていた天文学者がいたのです。而、実用天文学上の観点からも根本的に変える考え方が醸成していたといわれます。「コペルニクス的転回」という言葉があります。 見方や考え方が正反対に変わることのたとえのことです。この言葉を使ったのがドイツの哲学者、カント(Immanuel Kant)です。

世界を旅する その二 ポーランドと日本 ヨハネ・パウロ二世

私はポーランドを旅したことがありません。ですがなんとなく親近感を覚える国です。なぜかといいますと、音楽家のショパン(Frederic Chopin)やピアニストのルビンシュタイン(Arthur Rubinstein)などの名前を知っているからかもしれません。

Arthur Rubinstein

まずはヨーロッパの地図を見ながらポーランドのおさらいです。北はバルト海に面し、東はベラルーシ(Belarus)とウクライナ(Ukraine)、北東はロシア連邦、南はチェコ(Czech)とスロバキア(Slovenska)、西はドイツと国教を接しています。このように中央ヨーロッパの国ポーランドは、歴史上さまざな困難に遭遇してきました。戦争によって国が翻弄されてきた歴史です。調べれば調べるほど頭が混乱しそうになるくらい、複雑な政治事情がうかがい知ることができます。

日本人にとってポーランドはどのようなイメージを描くでしょうか。前回、自由化と民主化に偉大な寄与をしたレフ・ワレサのことに触れました。ポーランド人の98%はカトリック教徒です。ポーランドカトリック教徒の誇りは、1978年に第264代のローマ教皇となったヨハネ・パウロ二世(John Paul II)です。ワルシャワの出身です。史上初のスラブ系教皇としても知られています。母国ポーランドを初めとする民主化活動の精神的支柱としての役割も果たします。

1981年2月にヨハネ・パウロ二世は広島と長崎を訪問します。広島において「平和アピール」を発表します。「戦争は人間の生命の破壊である、戦争は死である」というのです。ヨハネ・パウロ二世は、他宗教や他文化間の対話を呼びかけたことでも知られています。エキュメニズム(Ecumenism)というキリスト教を含む諸宗教間の対話と協力を目指す運動のリーダーでもありました。

世界を旅する その一 ポーランドと「連帯」

先日、山友と近くの山登りを楽しみました。比較的緩やかな登りなので、会話も楽しめました。きつい登りですと黙々と歩き続けます。今回は違いました。友達がポーランド(Poland)を旅したということから会話が進みました。私は、外国の歴史や文化、人物などに興味ありますので、会話は途切れることはありませんでした。これからしばらく私が習った人々を中心に外国旅行をすることにします。

Lech Walesa

さて、ポーランドのことです。「Poland」とはポーランド語(Polish)で「平らな国」という意味のようです。山友は首都ワルシャワ(Warsaw)、クラクス(Krakau)、ヴロツワフ(Breslau)などの都市のほかに、アウシュヴィッツ=ビルケナウ(Auschwitz-Birkenau)強制収容所などを訪ねたようです。二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、ユネスコ(UNESCO)が1979年に世界遺産リストに登録したところです。

山友が私に「ポーランドで思い出す人はだれか?」と尋ねました。私は、即座に「連帯を支援したワレサ」(Lech Walesa)と答えました。グダンスカ(Gdanska)というバルト海に面した港町で労働者を組織し、1980年に独立自主管理労働組合「連帯」のリーダーとしてストライキに始まる連帯運動を推進し、当時の共産主義政府を批判します。投獄などを経験し、やがてポーランドの自由化と民主化を遂げる人です。1983年にノーベル平和賞を受賞します。

キリスト教音楽の旅 その31 日本のキリスト教と音楽  「教会福音讃美歌」

日本福音ルーテル教会の教会讃美歌委員会が編纂した「教会讃美歌」は、長い歴史があります。特にご年配の方には凝縮された古語の歌詞を懐かしく感じて歌っておられるようです。前回とりあげましたが、今は教会の礼拝様式や歌い方が変わりつつあります。それは現代的というか、コンテンポラリーな讃美歌、創作的な曲、さらに黒人霊歌などを取り入れ、しかも合唱、独唱、バンド演奏などさまざまなスタイルで歌われるようになりました。

歌詞のなかの言葉の意味をよく知らないまま讃美歌を歌っている方が大勢います。私もそうです。特に初めて教会に来る人にとっては、賛美が古臭いとか、長閑しすぎた歌い方だと思う人もいるでしょう。もっと活気のある礼拝にするために、さまざまな工夫がされています。それは讃美歌自体を見直すという試みです。

こうした教会の動向にそって、創作讃美歌を多数収録した歌いやすい讃美歌集『教会福音讃美歌』が2015年に作られました。全部で506曲の讃美歌集です。インマヌエル讃美歌、聖歌の他に海外の優れた讃美歌、現代日本の創作讃美歌を多数収録したものです。その中のひとつ、「一つのもとい、ただ主に置き (The Church’s one foundation)」という歌詞は次のようなものです。

  一つのもとい ただ主に置き
    水とことばで 建て上げられ
     十字架の血にて 贖われた
      主の教会は 主の花嫁

キリスト教音楽の旅 その30 日本のキリスト教と音楽  讃美歌の変遷

教会や礼拝で歌われる讃美歌の傾向を取り上げます。「主よ 御許に近づかん(Nearer, My God, to Thee)」は、クラッシック讃美歌320番です。歌詞を紹介しましょう。

 主よ御許に近づかん
  登る道は十字架に
   ありともなど悲しむべき
    主よ御許に近づかん
  Nearer, my God, to Thee, Nearer to Thee!
   Even though it be a cross That raiseth me;
  Still all my song shall be,

この讃美歌の歌詞は大分意訳されています。死の絶望に直面した人に力を与える讃美歌として歌われるものです。日常会話では使われない古い言葉や造語があります。「御許」、「ありとも」、「悲しむべき」といった表記です。讃美歌271番では、「勲なき我を 血をもて贖い」という歌詞となっています。キリスト教の専門用語も含まれています。意味が分からないで歌う人々もいます。

そこで歌いやすく理解しやすい讃美歌をという声が生まれます。それがポップス讃美歌を使い青少年や家族向けで人気を集める礼拝が行われるきっかけとなります。その一つの例が映画「天使にラブ・ソングを」(Sister Act)で歌われる聖歌隊の曲です。主演はメアリーを演じたウーピー・ゴールドバーグ(Whoopi Goldberg)。指揮をしていたメアリーは、退屈な聖歌をモータウン(Motown)の楽曲の替え歌にアレンジして派手なパフォーマンスを繰り広げ、厳格な修道院長と対立します。ですがモータウン風の歌は、一躍町中の人気者になります。初めは疎んじていた院長やシスターらも、若い者が教会にやってくると音楽の意義を認めポップス讃美歌に賛同していくのです。実に楽しい映画でした。

今、多くのルーテル教会はポップ讃美歌をどんどん取り上げて礼拝で歌っています。時代の変化が教会にも大きな影響を与えているのです。教会は音楽の流行を生み出すところともいえます。

キリスト教音楽の旅 その29 日本のキリスト教と音楽 ミズリー派ルーテル教会

ミズリー・シノッド・ルーテル教会(The Lutheran Church–Missouri Synod: LCMS)は, しばしばミズリー派ルーテル教会と呼ばれます。保守的で伝統的な教義と実践の一致を大事にする教会といわれます。シノッドとは「会議」という意味です。ドイツからの移民を吸収して1847年にシカゴで結成され、ドイツ福音ルーテル教会としてミズリー州、オハイオ州、ウィスコンシン州、ミネソタ州、イリノイ州などで急速に成長し地域教会を設立していきます。国内で200万人の信徒を擁しアメリカではアメリカ福音ルーテル教会(Evangelical Lutheran Church in America)に次ぐ規模といわれています。

St. Peter–Immanuel Lutheran Church and School, Indiana

ミズリー派教会の憲章によりますと、教会は宣教における調和を重んじ讃美歌や音楽、礼拝そして宣教を重視します。讃美歌は聖書や信仰告白に基づく歌詞として位置づけられます。礼拝は、式文や讃美歌を用い、奏楽にはオルガンやピアノを用います。賛美歌集は「Lutheran Hymnal 」、式文は「Lutheran Worship」と呼ばれ、伝統的な儀式を受け継いでいます。「Lutheran Confessions」という信仰告白書も用意されていて整然とした礼拝様式を守り続けています。聖書とルター派信仰告白を厳密に解釈するために、しばしば他のルター派諸教会とも衝突してきました。

しかし、20世紀にはいり、多くのミズリー派教会の地方教会は新しい礼拝形式を取り入れていきます。たとえば、青少年が好むより現代的なポップス的な曲とかギターやバンドを使い賛美するやり方です。伝統的な讃美歌はあまり歌わないようになります。危機感を抱いたミズリー派教会の本部は、声明をだし伝統的な音楽と現代的な音楽との共存を指摘しつつも、ルーテル教会は会衆による賛美と聖歌隊による歌を継承すると表明します。新しい教会の運動に対して、保守的な姿勢にしがみつくことが困難になってきたからです。多くのルーテル教会は毎月一度は、こうしたポップス的スタイルの礼拝を採用して若者や家族が一緒に礼拝に参加できるように配慮しています。

キリスト教音楽の旅 その28 日本のキリスト教と音楽 ノルウェー・ルーテル伝道会

日本におけるルーテル教会の宣教が始まったのは1949年です。ノルウェー・ルーテル伝道会(Norwegian Lutheran Mission-NLM)のルーテル教会は1891年に中国伝道会を設立し、同年8名の宣教師を中国に派遣したことから始まります。ノルウェーではルーテル教会は国教です。人口500万人余りの国がアジアに宣教師を送ることは、なんという心意気なのかと感じ入ります。

Hans Nielsen Hauge

第二次大戦を経て、中華人民共和国が成立するとNLMの宣教師は大陸からの退去を余儀なくされます。その後、アメリカを経て1949年6月に宣教師は日本に到着します。そのとき西明石に住んでいた賀川豊彦師の別荘で最初の伝道の働きを始めるのです。やがて神戸で聖書学院を創設するために2人の引退牧師ウィンテル師(Rev. Jens Mikael Winther)、スタイワルト師(Rev. A.J. Steiwalt)に指導を依頼するのです。そのときウィンテル師は75歳、スタイワルト師は70歳でありました。このお二人は聖書学院の働きで計りがたい貢献をされます。

ノルウェー・ルーテル伝道会(NLM)は、日本の農村での伝道を重視します。この理由は、NLMの創始者であったハンス・ハウゲ(Hans Nielsen Hauge)は農民の子であったことが影響しているといわれます。宣教師たちは1950年頃から松江で働きを始めます。岡山の蒜山高原などで酪農も奨励していきます。ルーテル伝道会は、信者の一人一人が積極的に教会に関与することを大事にし、素朴で熱心な敬虔主義 (Pietism)の流れを伝統としています。

蒜山高原

キリスト教音楽の旅 その28 日本のキリスト教と音楽 長老派教会

長老派教会のことです。長老派はカトリック教会の教皇権や聖職制度を認めず、聖書を重視するという広い意味で、宗教改革にも貢献した清教徒(ピューリタン, Puritan)の一派とされます。イングランドのチャールズ1世(Charles I)の専制政治に反対したクロムウェル(Oliver Cromwell)らが、議会派を勝利に導く清教徒革命の担い手としても知られる人々です。

長老派教会(プレスビテリアン)では、一般信者で経験の深い指導者として宣教長老を選び、教会を運営すべきであるという長老主義を主張します。長老と代表信徒の合議で教会を運営するのです。これは長老制度と呼ばれます。プレスビテリアンは特にスコットランドのプロテスタントに多かったようです。その指導者はスコットランド人のノックス(John Knox)です。チューダー王朝(Tudor dynasty)でメアリー (Mary I of England)が王位に就くと、彼女はローマ・カトリックを再建します。そのためノックスは大陸に亡命を余儀なくされます。

John Knox

ノックスははジュネーヴ(Geneva)でカルヴァンに学び、改革派神学と長老制の体験と知識を得て、新しい礼拝式文も作成していきます。やがてその式文はスコットランド宗教改革の教会において採用されていきます。16世紀から17世紀にかけてピューリタン運動の主力となる神学を形成したのがノックスといわれます。清教徒は新大陸に渡り、その後アメリカ各地でキリスト教の布教に大きな役割を果たしていきます。

キリスト教音楽の旅 その27 日本のキリスト教と音楽 カルヴァン主義

カルヴァン(Jean Calvin)は宗教改革初期のフランスの神学者です。神の主権を強調する神学体系を提唱し、クリスチャン生活の実践を指し示す考えを提唱した指導者です。改革派神学(Presbyterian Theology)と呼ばれるカルヴァンの教えでは、礼拝を儀式とせず、聖書の解き明かしを中心とする簡素な様式に改め、またラテン語を使わず自国語を使うことです。伝統的な礼拝形式や教会暦をやめるのも特徴となっています。

ルター派のコラールのような会衆歌唱の重要性を認めますが、聖書尊重の立場から創作讃美の使用も避けるという徹底さです。礼拝ではフランス語韻文訳の詩編歌のみを使用することとし、1539年に最初の詩編歌集を出版するほどです。カルヴァンはルターに比べ、芸術とか文化に関心が低かったようで、音楽そのものも改革派の教会では広がらなかったといわれます。

カルヴァンの名声によって、改革派教会の教理はカルヴァン主義(Calvinism)と呼ばれるようになります。カルヴァン主義者はフランスではユグノー(Huguenot)、オランダではフーゼン(Fusen)、スコットランドでは長老派、プレスビテリアン(Presbyterian)と呼ばれ広くヨーロッパに浸透していきます。

キリスト教音楽の旅 その26 日本のキリスト教と音楽 聖公会

以前、ロシア正教会の歴史や音楽などに触れました。キリスト教音楽は教派の執り行う礼拝形式と深い繋がりがあることにも触れました。例えばルーテル教会の礼拝では個人の信仰を重視し、それに表現を与えることに熱心でした。それがコラールを生むことにつながりました。音楽を尊重したことから、16世紀から18世紀にかけてコラールの聖歌隊用の編曲が無数に作られました。後年のブクステフーデ(Dietrich Buxtehude)、パッヘルベル(Johann Pachelbel)、クーナウ(Johann Kuhnau)らの作曲家です。こうした音楽家の業績はバッハ(Johann S. Bach)によって集大成され、テレマン(Georg Telemann)によって近代的に味付けられたといわれます。

ルーテル教会と同様に、比較的ローマ・カトリック教会に近いといわれる聖公会の音楽はどうでしょうか。聖公会は英国国教会(The Church of EnglandとかAnglican Church)といわれます。アメリカでは監督派教会、The Protestant Episcopal Churchと称します。ただ、監督派は必ずしもこの教派だけの呼び名ではありません。The Church of Englandはイギリスにおける宗教改革に端を発して英国国教会となった経緯があります。ローマ教会に対する国民的な反感が起こります。ただ、教理上ではローマ教皇の権威を認めないことを除けば、カトリック教会の教理を継承しています。

聖公会は、ローマ教会、ルーテル教会、東方正教会と同様に成文祈祷や典礼書が備わっていて、教理、信仰、典礼、音楽に関してはローマ教会に近く、他の要素ではプロテスタント教会に近いのも聖公会の特徴といえます。例えば典礼では自国の言葉を使うのもそうです。ローマ教会はラテン語を使用します。

キリスト教音楽の旅 その25 日本のキリスト教と音楽 讃美歌

教会の会衆によって神への感謝や祈り、癒し、励ましなどの意味がこめられた歌の総称です。自分の信仰を告白し、民衆への証し的な性格が歌詞に埋め込まれています。特にプロテスタントを中心として、西ヨーロッパに広がり成長したキリスト教諸教派で用いられる宗教歌が讃美歌(hymn, anthem)です。

新約聖書のマタイによる福音書26章30節では、最後の晩餐の光景が記されています。晩餐の後「一同は賛美歌を歌うとそこを出て、オリーブ山に向かいました」とあります。この時の讃美歌は日々の糧への感謝です。使徒パウロは、新約聖書エペソ人への手紙5章15-21節で「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」と説いています。ここでの「詩」とは詩篇(Psalm)、「賛美」は詩篇以外の旧約の歌、そして「霊の歌」は初代教会の信徒よって作られた讃美歌というように分類されるのが定説のようです。初代教会では、自分たちの信仰体験を表明するために讃美歌を創作していたといわれます。

讃美歌の分類には、霊歌とかスピリチュアル(spiritual)もあります。黒人奴隷の中に広がったキリスト教から、アフリカ独特の音楽的な感性が融合して生まれた歌、黒人霊歌を指すこともあります。教会讃美歌にくらべて、より生活に根ざした歌詞が歌われます。スピリチュアルに似たのが「ゴスペル」(Gospel)です。ゴスペルとは福音とか良き知らせという意味です。これも黒人教会文化が生んだ魂の歌ともいわれ、教会で会衆が総立ちになり、手を叩いたりステップを踏み体を揺らして歌うのです。

「ゴスペル」にはハーモニーやリズム、インプロといった特徴があります。もとの故郷アフリカの文化が色濃く反映されているようです。聖書の言葉に自分たちなりの意味を持たせて歌ったのでしょう。聖書には「自由」「解放」という言葉が多く出てきますが、これは彼らにとって「奴隷制からの解放」を意味し、自由をもとめて仲間と共に歌うことで悲惨な境遇を耐え忍んだのでしょうか。
“Let Us Break Bread Together”


キリスト教音楽の旅 その24 日本のキリスト教と音楽 ミッション・スクール

明治時代に再来したカトリック教会は、新しく布教を開始したプロテスタント教会に比べて聖歌集の数が少ないといわれます。それには理由があります。もともとカトリック教会では、ミサで聖歌を歌うのは司祭および聖歌隊など特定の人でありました。会衆は静かにそれを聴いていたのです。外国人宣教師の中に聖歌集の編纂に携わるに音楽家はいなかったことにも原因していたようです。

他方、プロテスタント教会ですが、16世紀の宗教改革運動は、ドイツ語聖書と信仰問答書と讃美歌によって進められたともいわれます。ルター(Martin Luther)から始まるコラール(Choral)という会衆賛美歌が礼拝で歌われるようになり、バッハ(Johann S. Bach)をはじめ有名な作曲家によって数々の宗教音楽が作られ今に至っています。そこから会衆が歌うという伝統がつくられたのです。会衆が歌うことによって多くの歌が生まれ、宗教的な民謡の普及も広まり、19世紀以降の讃美歌は、聖書的表現と伝統的な教理を結びつけることにより歌詞が福音的な内容になっていきます。

カトリック教会では日本語聖歌がミサの中心となることはありませんでした。ただ歌によるミサが行われたのは都市部の限られた教会で、ミサ以外では集会や日曜学校で歌われたようです。通常、朗誦ミサがほとんどを占めていたのが日本とカトリック教会です。西洋の音楽を日本人が習得するまでに、またカトリックの作曲家を生むまでにかなりの時間を要したようです。日本人によるカトリック聖歌が現れたのは、昭和初期時代になってからといわれます。時代を経て1970年代に入って新しい聖歌集「典礼聖歌」を作ます。そしてプロテスタント教会の賛美歌のように会衆も歌うようになります。

キリスト教音楽の旅 その23 日本のキリスト教と音楽 「Jesus loves me」

キリシタン禁制の高札が撤去される前年の1872年に聖書翻訳委員会を設置しようとして、第一回プロテスタント宣教師会議が横浜の居留地にあるジェームス・ヘボン(James Curtis Hepburn)宅で開かれます。当時来日していた宣教師たちが日本伝道の方策を練り、教派間の友好協力を深めるための集いです。ヘボンはアメリカの長老派教会の医療伝道宣教師で、後に明治学院大学を創立した人です。ラテン文字を使って日本語を書き表す方法のヘボン式の提唱者としても知られています。

会議には長老派、改革派、会衆派、バプテスト派、聖公会、ユニオン・チャーチ、日本基督公会からの宣教師が参加します。この会議では、各教派の違いを乗り越えてプロテスタント教会の設立を提唱した宣教師もいました。しかし、各教派宣教師の主張が激しく対立したといわれます。

明治学院大学ヘボン館

この会議で、改革派教会のバラ(James H. Ballagh)という宣教師により日本語に翻訳された讃美歌が披露されます。これが英語による讃美歌の初めての日本語訳といわれます。その一つは“Jesus loves me, this I know”です。当時アメリカの日曜学校で歌われていた讃美歌です。日本基督公会の信徒によって訳されたもので「主われを愛す」という題名で、その後最も愛唱された賛美歌です。こうした翻訳を契機に英語の讃美歌の日本語翻訳や編集、出版が始まったといわれます。

Jesus loves me! This I know,
 For the Bible tells me so;
   Little ones to Him belong,
   They are weak but He is strong