北海道とスコットランド Intermission NO2

国籍の話題である。ニューヨーク・タイムズ(New York Times)を始めとするアメリカのメディアは、ノーベル物理学賞の受賞者となったカリフォルニア大学サンタバーバーラ(University of California, Santa Barbara)校の中村修二教授を「アメリカ人」と紹介しているという。この記事の見出しは「2人の日本人と1人のアメリカ人がノーベル物理学賞を分け合った」となっていた。AP NewsやThe Times-Tribuneも”Japanese-born American professor”と紹介している。筆者はこれでよいと考える立場だ。

合衆国では、自らの意志で米市民権を取得した場合は、帰化の時点で日本国籍を喪失するとなっている。中村教授は「米国の市民権」を取得しているのだからアメリカ人なのである。

国籍で気になることだが、アメリカ大使館が「米国籍取得で日本国籍を離脱」と主張しても、戸籍離脱届けをしないかぎり、国籍は残存している。我が国には国籍離脱届という制度がある。それを行使しないかぎり戸籍謄本に残こる。

そこでだが、中村教授は国籍離脱届けを提出していないだろうと察する。中村氏は外国籍取得と国籍離脱届提出の間の段階に留まっており、戸籍は残存している状態にある二重国籍なのだろうと考える。それ故、我が国のメディアが中村教授は日本人とするのも得心する。

何故こんなことを主張するかといえば、筆者の次女がそうなのだ。彼女は米国籍をもつ日本人である。だが筆者の戸籍に依然として記載されている。筆者は二重国籍が望ましいのかどうなのかを尋ねるために役所に相談にいった。まず戸籍から抹消するためには、市民権の証書、それも原本を役所に持参しなければならない。複写は受けつけないとのことである。だが吏員の対応には自信があるように感じなかった。

役所は曰く。戸籍法では、国籍離脱から3ヶ月以内に提出が義務付けられている。だが外国籍を取得したことは、日本政府は知りようがないのでなんの罰則規定もあてはまらないのだと。国籍法第13条に国籍離脱の届けの規定がある。それには届け書を作成して添付書類を添えて,法務局,地方法務局又は在外公館に届け出る、とある。

我が国は「国籍単一の原則」から二重国籍を原則的に認めていない。だが中村教授も筆者の娘のように、なんの手続きもしていない事例が多々あるはずだ。手続きがややこしいのと、二重国籍でも何の不自由もないからである。わざわざ旅費をかけて日本に戻り、国籍離脱手続きをするだろうか。しかも国籍法に二重国籍への罰則規定がないから、国籍剥奪の強制執行制度もない。日本政府が中村教授や娘らの現状をかえりみて、「国籍離脱届を出すように」と説得する可能性は1%位ある。

ノーベル賞の受賞者がアメリカ人か日本人かについては、中村教授にきくのがよい。だが氏の関心は国籍ではないことははっきりしている。

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北海道とスコットランド Intermission NO1

シリーズもこれから佳境に入る。その前にちょっと珈琲タイムとしたい。

スコットランドへはまだ行ったことがない。だが、こうしてブログの話題にするのは、筆者が北海道育ちだからだと思っている。それは、この二つの地にはどこか共通点があることを「スコットランド文化事典」から学んでいるからである。この本は写真や図版が多く、読んで楽しめる。

人はその土地に住まなくとも、少なくとも想像力をかき立てられるものだ。不思議なことに、知らぬ土地のことについての活字や写真や音楽に触れることによって、それまで自分が育ってきた風土と重ね合わすことができる。そして未知の土地に対する想いと憧れがわいてくる。

小さいときから音楽という文化に触れたことも幸いしている。スコットランド民謡もそうである。アニー・ローリー、マイボニー、アフトンの流れ、ロッホ・ローモンドなど。どれも郷愁に満ちた旋律である。口ずさむとどこでいつ歌ったのかを想い出すことができるから不思議だ。

スコットランドの隣にあるアイルランドからも学ぶものがあった。それは自分の父親とつながっている。国鉄を退職後は、読書の虫であった。青年時代に読むことがなかった作品をもっぱら読んでいた。その中にジェイムス・ジョイス(James Joyce) の「ユリシーズ(Ulysses) 」がある。「何度読んでもわからない、、」と呟いていた。トルストイ(Lev Nikolayevich Tolstoy)の「戦争と平和(War and Peace)」もそう言っていた。小生は、スウィフト(Jonathan Swift)の「ガリヴァー旅行記(Gulliver’s Travels)」といった作品しか知らない。小人に取り巻かれたガリヴァーの冒険物語である。

ジョイスはアイリッシュであった。アイルランドの歴史はイングランドとの宗教や政治の複雑な経緯でもある。1100年代からのイングランドによる植民地化である。経済や貿易の中心がロンドンへと移りアイルランド経済は疲弊していく。ジャガイモ飢饉も起こる。そして北米大陸への移民によって人口が減少する。カトリック教徒が占めるアイルランド民族主義者とプロテスタント教徒が占める連合主義者との対立がたびたび激化する。この北アイルランド紛争は1998年まで続く。

小さい頃学んだ地理や人物、簡単な歴史の追体験が、やがてなんらかのことで蘇ってくるようなできごとに出会う。スコットランドやアイルランドは、司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んで「かんかーん」と響いてきた。何故か身近な国のような気がした。

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北海道とスコットランド その4 スコットランド人と日本のかかわり その2

前回、スコットランドの大学では多くの技術が実用化され、はやがて産業革命の中心地としての地位を確立していくことを簡単に述べた。実学を重視したのは、イングランドの中心、オックスフォード大学(University of Oxford)やケンブリッジ大学(University of Cambridge)との違いを強調したためかもしれないことも述べた。

全世界の産業革命の先駆的なこととして日本の教科書にでてくるのは、蒸気機関の発明である。それは工場や機関車に応用された。その発明家ジェームズ・ワット(James Watt)は、グラスゴー大学(University of Glasgow)で機械工学を学び、その後技術者として知られ産業革命の進展に多大な貢献をした。

同じく教科書に登場したスコットランド人にアレクサンダー・フレミング(Alexander Fleming)がいる。彼は細菌学者としてアオカビから抽出した世界初の抗生物質、ペニシリンの発見者として知られている。その功績で卿(Sir)の称号を与えられた。

グラハム・ベル(Alexander Graham Bell)も我々には記憶に残る人物だ。スコットランド生まれの科学者で発明家である。世界初の実用的電話器の発明で知られている。Wikipediaによれば彼は1876年のフィラデルフィアでの万国博覧会で電話を公開して国際的注目を集めたといわれる。ベルの父はマサチューセッツ州ボストンのボストン聾学校、現在のHorace Mann School for the Deafのインストラクターとして手話を教えてほしいと頼まれた。だがその申し出を辞退して代わりに息子のグラハムを推薦したといわれる。

多くのスコットランド人が1800年代に北アメリカ大陸に渡っていった。アメリカの鉄鋼王と呼ばれたアンドリュ・カーネギー(Andrew Carnegie)もスコットランド人である。1848年に両親と共にアメリカに移住した。カーネギーはU.S. スティール会社(U.S. Steel Corporation)などを創設し莫大な資産を残す。それを基金としてカーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University)、世界の音楽の殿堂といわれるニューヨークのカーネギーホール(Carnegie Hall)などの建設に使った。偉大な篤志家ともいわれる。

第13代将軍徳川家定に電話機をプレゼントしたのがアメリカ海軍提督のマシュー・ペリー(Matthew Perry)である。彼もスコットランド系である。

前述したが、スコットランドの厳しい経済や自然が移民を促した。多くのスコットランド人が北米大陸に渡る。スコットランド移民がつくったカナダの小さな州がノバ・スコシア州(Nova Scotia)である。ラテン語でNew Scotlandという意味である。New Englandの隣というか、北の方角の大西洋に面している州だ。
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北海道とスコットランド その3 スコットランド人と日本のかかわり その1

明治政府は、いわゆるお雇い外国人を招いて富国強兵のために貢献してもらおうとした。その中にスコットランド人が多かったことも判明している。北海道開拓使もスコットランド系のアメリカ人を雇った。それは何故だったかが筆者の関心事である。それにはスコットランドの地理、気候、風土、歴史を調べることがどうしても必要のようだ。

今はテレビや新聞でスコットランドの歴史や政治が頻繁に報道され、我々に身近な地となっている。通称イギリス(UK)は、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(UK)のことである。スコットランドはUKの一部である。だがスコットランドは独特の歴史を有する。

スコットランドはブリテン島の北部に位置する。スコットランドの名称は、この地を統一したスコット人(Scots)に由来する。グレートブリテン王国(Kingdom of Great Britain)が成立するまでは独立したスコットランド王国であった。イスコットランド王国のイングランド王国との争いは長く続いたようだ。13世紀から14世紀にかけて両国間の緊張を象徴するスコットランド独立戦争が起こった。それから何百年も経ち、去る9月18日のイギリスからの独立の賛否を問うたスコットランドの住民投票もその延長にある。

スコットランドはグレートブリテン島の北部3分の1を占め、南部でイングランド国境に接する。東方に北海、北西方向は大西洋、南西方向はノース海峡およびアイリッシュ海に接する。自然環境も経済環境も厳しいことが察せられる。気候や風土は北海道に似ているようである。

スコットランド人(Scots)の気質としては、独創性、独自性が豊かだといわれる。それを起業精神につなげる識者もいる。スコットランドの自然と経済環境の厳しさにも由来するとされる。1701年にイングランド王国に併合されると、スコットランド人の就労の機会は先進地域のイングラントや海外への植民地へと向かっていく。

スコットランドの高等教育機関では、主に農業、工業、土木、獣医学、医学などの実学が重要視された。その理由は、イングランドにあるオックスフォード大学(University of Oxford)やケンブリッジ大学(University of Cambridge)などは、官僚を養成することを重視したことによる。スコットランドは「大英帝国の工場」と呼ばれた時期もあったようである。今も鉄道、鉄鋼、機械、石炭、畜産、綿織、海運、造船などが盛んである。

理論を実践に移し、ものづくりに傾注することの重要性を深く認識していたようだ。多くの技術が実用化され、スコットランドはやがて産業革命の中心地としての地位を確立していく。

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北海道とスコットランド その2 民謡

網走郡美幌町の美幌小学校では文部省唱歌を歌った。教科書はすべて唱歌ではなかったかと思えるほどである。明治43年「尋常小学読本唱歌」というのが最初の音楽の教科書らしい。文部省が編集したものを唱歌というようである。

なぜ小生が歌に関心を向けたかは、小さなリードオルガンを弾く先生に小学校で教わったからだ。「故郷の空」、「麦畑」、「蛍の光」を歌った。こうした歌からスコットランド(Scotland)を意識することはなかったが、やがてスコットランドという地名だけは、終生記憶から消えることはなかった。

文部省唱歌にスコットランド民謡が取り入れられた理由はわからない。だが、センチメンタルな歌詞とともに日本人の琴線に触れるような旋律(melogy)が日本人に受け入れられたと思われる。

スコットランド民謡の「故郷の空」の旋律には、長音階のド(C)から四つ目のファ(F)と七つ目のシ(H)の音はでてこない。いわゆる「ヨナ抜き」という特徴である。ドレミファソラシは楽譜では「CDEFGAH」と書いたり読んだりする。ドイツ語読みが多い。「ヨナ抜き」では「CDEGA」となる。

後年、琉球に住むことになったが、琉球民謡というのか島唄というのが、独特の旋律であることに気がついた。それは、旋律が「ヨナ抜き」ならぬ「ニロ抜き」なのである。長音階の二番目のレと六番目のラが抜かれるので「ニロ抜き」なのである。「ニロ抜き」は「CEFGH」である。「てぃんさぐの花」を是非聴いて欲しい。歌詞も味わいがある。

筆者は音楽はずぶの素人であるが、唱歌や民謡は大好きだ。叙情歌しか教科書に載っていなかった教科書のお陰か。スコットランド民謡のような旅情に富む歌、島唄のような哀愁を帯びた曲に出会ったことは幸いなことだと思っている。

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北海道とスコットランド その1 余市とニッカ

私は樺太生まれ。育ちは北海道であるから、自分では一応道産子と呼んでいる。最も長く暮らしたところは美幌とサッポロである。

秋を迎えると北海道に自然の厳しさの前触れが訪れる。どんよりとした曇り空。気温は日に日に下がっていく。そして冬支度が始まる。大根干しや漬け物づくり、石炭やストーブの用意、野菜の台所にある土間への収納や庭への埋め込み作業である。山葡萄を一升瓶につけ、ジュースやワインをつくる。木箱にいれたリンゴも凍らないように土間に貯蔵する。今となっては懐かしい風物詩だ。

リンゴといえば小樽の西にある余市という寒村を想い出す。積丹半島の付け根に位置する。とりたてて特徴があるわけではない。かつてはニシン漁で栄えたが、人口は年々減り続け、高校を卒業するとサッポロを目指していく。余市は漁業のほか、果樹の栽培が盛んなところである。リンゴも梨もとれる。しかし、なんといっても余市を全国に知らしめたのがニッカウヰスキーである。敷地に入るトンガリ屋根の楚々としたウイスキーの貯蔵庫が建っている。

最近とみに余市が脚光を浴びるようになってきた。NHKの朝ドラ「マッサン」である。主人公は、ニッカウヰスキーの創業者であり、「日本のウイスキーの父」と呼ばれている竹鶴政孝、その妻である竹鶴リタ(Rita Taketsuru)が主人公である。

竹鶴は後に大阪大学となる大阪高等工業学校の醸造学科で学ぶ。1918年(大正7年)にスコットランド(Scotland)のグラスゴー大学(University of Glasgow)に留学し、有機化学を勉強する。1920年にリタ(Jessie Roberta Cowan)と結婚する。帰国後、寿屋、後のサントリーに入社しウイスキーの製造に従事する。

1934年、昭和9年に竹鶴は寿屋を退社し、同年ウイスキーづくりの理想郷と考えた余市に「大日本果汁株式会社」をつくる。その後名称をニッカ(日果)ウヰスキーとした。スコットランドに似た風土の北海道の余市を選んだのは竹鶴の慧眼によるものだ。

暫く、私と余市、サッポロ、スコットランドを話題としてみる。

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「公認心理師法案」に関してーー注意を喚起したい

現在、心理職の国家資格化に関するいろいろな論議が進んでいます。先月、「公認心理師法案早期実現のお願い」という文書が臨床心理職国家資格推進連絡協議会、医療心理師国家資格制度推進協議会、日本心理学諸学会連合、一般社団法人日本心理臨床学会、一般社団法人日本臨床心理士会の連名でだされました。

今年の6月16日に「公認心理師法案」が国会に提出され、9月29日からの臨時国会の文部科学委員会で審議される運びとなっています。この法案にうたわれる「公認心理師」なるものは、特別支援教育士とか臨床心理士といった資格をお持ちの方々には直接関わる事案です。既存の資格を取得するために、多くの投資をされた皆さんには大事な法案だと考えられます。すべて「公認心理師」によって、こうした資格がどうなるかです。

この法案で皆さんに大事だと思われるのは第二章の試験です。以下のような案となっています。(受験資格)にはこれまでの資格を有する方々へはなんの配慮もされていません。所定の心理学関連の単位を取得していれば受験資格があるとあります。
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第二章 試験
(資格)
第四条 公認心理師試験(以下「試験」という。)に合格した者は、公認心理師となる資格を有する。
(試験)
第五条 試験は、公認心理師として必要な知識及び技能について行う。
(試験の実施)
第六条 試験は、毎年一回以上、文部科学大臣及び厚生労働大臣が行う。
(受験資格)
第七条 試験は、次の各号のいずれかに該当する者でなければ、受けることができない。

一. 学校教育法に基づく大学(短期大学を除く)において心理学その他の公認心理師となるために必要な科目として文部科学省令・厚生労働省令で定めるものを修めて卒業し、かつ、同法に基づく大学院において心理学その他の公認心理師となるために必要な科目として文部科学省令・厚生労働省令で定めるものを修めてその課程を修了した者、その他その者に準ずるものとして文部科学省令・厚生労働省令で定める者
二. 学校教育法に基づく大学において心理学その他の公認心理師となるために必要な科目として文部科学省令・厚生労働省令で定めるものを修めて卒業した者その他その者に準ずるものとして文部科学省令・厚生労働省令で定める者であって、文部科学省令・厚生労働省令で定める施設において文部科学省令・厚生労働省令で定める期間以上第2条第1号から第3号までに掲げる行為の業務に従事したもの
三. 文部科学大臣及び厚生労働大臣が前2号に掲げる者と同等以上の知識及び技能を有すると認定した者
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社団法人日本心理学会が認定する民間資格に「認定心理士」があります。一般財団法人特別支援教育士資格認定協会の「特別支援教育士」もそうです。さらに臨床心理士があります。言うまでもなく日本臨床心理士資格認定協会が認定している資格です。こうした資格がどうなるのか、ということを提起するのが「公認心理師」です。

私なりにこの法案を調べましたが、次のような疑問が浮かんでまいります。まず「公認心理師」とは、いろいろな専門性を有する人々の民間資格をうやむやにする懸念があることです。例えば、臨床心理士の資格です。この資格は信頼性が高く、心理士系の資格の中では就職に有利と言われている資格です。臨床心理士では、認定心理士とは異なり、心理学に関し学んでいる学術のレベルが違い、クライアントに提供できる技能の質が違っています。同じように特別支援教育士も専門性のある資格です。臨床心理士側は、「公認心理師」のレベルが低く双方の資格の価値が下がることを危惧しなければなりません。しかも、現段階でイメージされる公認心理師では、臨床を経験することは困難です。

先に述べましたが、すでに民間資格をとった人は、資格をとるために多額の投資をしています。講習会の旅費、認定料、資格更新の受講料などです。その投資が今やどぶに捨てるような事態になりつつあるのです。また高い受験料や認定料を支払って「公認心理師」を取得しダブルライセンス保有者となったとしても、これまでの資格はなんの役にも立たなくなる可能性もあるのです。

海外の資格の多くで、例えば臨床心理士であるClinical Psychologistになるための要件は、博士号を有すること、そして臨床の経験があるということです。我が国の民間資格はどれも学会に属して受験資格を得るといういわば、系統的な単位を取得し専門性をつけるということを重視しないところに課題があります。いつも民間資格の質が問われるのが我が国の有様です。「公認心理師」が学部卒で取れそうだという点に大きな疑問と不安が湧きます。

「公認心理師」の出現によるメリットとはですが、皮肉にも臨床心理士も公認心理士も特別支援教育士も更新する必要がなくなることです。もしかしたら消滅するのでは、という懸念もあります。たとえ存続するにせよ、更新のための費用は「公認心理師」を含めてとられることを覚悟しなければなりません。そんな資格を持っても一体役に立つのかを自らに問う必要があると考えます。

最後ですが、「公認心理師法案早期実現のお願い」の要望書には次のようにあります。

「今日、国民のこころの問題(うつ病、自殺、虐待等)や発達・健康上の問題(不登校、発達障害、認知障害等)は、複雑化・多様化しており、それらへの対応が急務です。しかしこれらの問題に対して他の専門職と連携しながら心理的にアプローチする国家資格が、わが国にはまだありません。国民が安心して心理的アプローチを利用できるようにするには、国家資格によって裏付けられた一定の資質を備えた専門職が必要です。」

問題としたい点は、最後のフレーズです。国家資格によって裏付けられようとなかろうと、民間団体がこれまで認めてきた者は、一定の資質を備えた専門職であるということです。「国民が安心して心理的アプローチを利用する」には、高度の専門教育を受け、長い臨床実践を経た者が必要なのです。国家資格ではありません。「公認心理師って一体全体なんなのか、その専門性とは一体何か、保護者や子どもその他クライアントのことを念頭に置いているのか、、 認定団体は自己保身的ではないか、、、」を国民は問うことになるでしょう。

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文化を考える その33 「正義が川のように流れ下り」

“I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.”

冒頭から英文でお許しいただきたい。出てくる単語はすべて中学の英語で学ぶものばかりである。どうしてもこのパラグラフを引用しないと、今回のブログは体をなさないと考える。ノーベル平和賞の受賞者、マーチン・ルーサー・キング牧師(Martin Luther King, Jr.)の有名な演説の一部である。1963年8月に首都ワシントンDCで繰り広げられた大行進のとき読み上げたものである。

プロテスタントバプテスト派の牧師であるキング博士は、ペンシルベニア州のクローザー神学校(Crozer Theological Seminar)を経て父親と同じくバプテスト派の牧師となる。その後1955年にボストン大学神学部で博士号を取得した。

キング牧師は、解放宣言で明確に打ち出された奴隷の廃止に関して「それは、捕らわれの身にあった彼らの長い夜に終止符を打つ、喜びに満ちた夜明けとして訪れたのだった」と説く。この箇所は、旧約聖書詩篇30章5節(Psalm)から引用したものだ。
■その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。

次に奴隷解放に至るまでの長い道のりを回想し次のように説く。
「そうだ、決してわれわれは満足していないのだ。そして、正義が川のように流れ下り、公正が力強い急流となって流れ落ちるまで、われわれは決して満足することがない」この部分は、アモス書5章24節(Book of Amos)の次の聖句に由来する。
■公道を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ。

さらに「いつの日にか、すべての谷は隆起し、丘や山は低地となる。荒地は平らになり、歪んだ地もまっすぐになる日が来ると。」という部分はイザヤ書40章4節(Book of Isaiah)からそのまま引用している。
■すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。

イザヤ(Isaiah)は旧約聖書に登場する有名な預言者の一人。イザヤ書40章3節で「荒れ野に主の道を備えよ」と新しい国造りをイザヤは指し示す。「虚飾ではぎとられた荒れ地を耕し、権力者と驕り高ぶっている山と丘を低め、おとしめられてきた者がいる谷を埋め、主のための道を備えよう。」と説く。

文章の冒頭の語句を繰り返す反復も修辞の手段として、演説全体で用いられている。なかでも “I Have a Dream …” という表現は8度出てきており、その表現でキング牧師が描く差別のない一体化したアメリカを聴衆に訴えている。

そして演説の最後は、“Free at last ” で終わる。このフレーズは、黒人霊歌のタイトルである。キング牧師の演説草稿は深い思索と博識に裏打ちされていることを教えてくれる。

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文化を考える  その32 ”I Have a Dream” Speech

深く人々の心に刻まれる文章、魂を揺さぶられるような演説とはなにかを考えている。

これまでいろいろな作品や演説を読み聴きしてきた。作者の時代を思い起こしながら、作者の意図をくみ取ろうとする作業はまるで至福のときである。思うに文章を書くこと、草稿を練るには、その下地となる基礎知識とか時代背景を知らねばならない、ということを肝に銘じている。

ある話題を取り上げようとする。それに関した知識があれば、話題への切り込み方がちがってくる。時代考証や先行文献などに裏打ちされた文脈や内容であれば読者を引き込むことができる。

演説の草稿は、通常スピーチライター(speech writer: SW)が書く。大統領や総理大臣の演説原稿はSWによるものだ。時に演説者自身の手によって作られるのもある。その代表例が、1963年8月28日に、ワシントンDCのリンカーン記念堂(Lincoln Memorial)で行ったキング牧師(Martin Luther King, Jr.)の演説である。通称、”I have a dream.”と呼ばれる。あまたの演説の中で最高のものと称される有名な内容である。

なぜこれほどの内容の草稿なのか。それはキング博士の牧師として、運動家としての深い信仰や信念に裏打ちされていることに畏敬の念を抱くのである。とりわけ旧約聖書の理解なしに、この草稿は生まれなかったと思えるほどである。

小学生にも分かるような表現やフレーズがある。大人向けの首句反復という修辞もある。独立宣言や黒人霊歌からの引用もある。だが、黒人への偏見と差別という出来事が、旧約聖書に記述される紀元前のエジプトで起こった差別と迫害の出来事をはっきりと思い出させるような引喩が心を打つのである。紀元前から続く人種偏見をキング牧師は聖書の内容から熟知していたことに畏れ入るのである。次稿はそのことに触れる。

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文化を考える その31 街角の風景  今も人種差別が

先日、ミズリー州の街で黒人青年が警官に射殺される事件が起こった。オバマ大統領も市民に冷静さを呼びかけるほどであった。ことの顛末ははっきりしないが、根強い人種差別の歴史を思い起こす事件である。

人種差別を英語では「Discrimination」とか「Racial Segregation」という。この人間の考え方の源には、生まれつきの遺伝的な要素によって人の特徴や能力は決まっているのだから、別々に生きることが幸せなのだ、という思い込みである。そこから特定の人種に対する特別な信念や行動が生まれると考えられる。それが具体的に現れるのが人種差別とか人種の優越性の観念である。これは「レーシズム」(racism)という。

オックスフォード英語辞典(Oxford English Dictionary)によると、「レーシズムとは信念やイデオロギーのことであり、人種というのはそれぞれ共通の特性や能力を有する、それによって他の人種に対する優越性や劣等性をきめるもの」と記述されている。別の辞典では、「レーシズムとは人種によって固有の文化を形成する要素である」ともある。こうした定義で共通していることは、「遺伝」、「信念」、「特性」、「すみ分け」などが強調されることである。レーシズムによって、皮膚の色とか人種の違いが排他的な態度、優越的な態度と他人を蔑むこと、人権や自由を脅かす行為につながる。

南部アラバマ州では1950年代から「ジム・クロウ法」(Jim Crow)という人種分離法がつくられ、交通機関、駅、トイレ、映画館、学校や図書館などの公共機関、ホテル、レストラン、バーなどで白人と有色人種(the colored)を分離することが正当化された。やがて州都モンガメリー(Montgomery)で1955年に起こったローザ・パークス(Rosa Parks)逮捕事件が公民権運動の口火をきる。

パークスは、白人専用のバスに乗り込んで逮捕される。これをきっかけに、キング牧師(Martin Luther King Jr.)らがバス・ボイコットの運動で立ち上がる。運動は全米に広がり、1956年には合衆国最高裁判所が「バス車内における白人専用及び優先座席を違憲とする判決を出す。1963年8月にキング牧師に率いられたワシントン大行進。1964年7月に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、長年続いてきた人種差別撤廃運動は終わりを告げる。

今日、法的には人種差別は完全に違法である。人種、文化、言語、信条などによって差別をすることは教育、就職、表現などにおいて禁止されているが、、、。このような社会が創られるまでは、幾多の困難や障壁があった。黒人奴隷が存在した。リンカーン(Abraham Lincoln)大統領が黒人の解放を訴え、それを機に南北戦争(Civil War)が起こった。そして奴隷解放が宣言された。だが、アメリカ社会にはいまだに目に見えない人種偏見が続いている。バラク・オバマ(Barack Obama)が大統領になったときの異例の報道はそれを物語る。

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文化を考える その30 街角の風景 エリザベス・サンダースホーム

1955年にスペインで作られた映画「汚れなき悪戯(いたずら)」をご存じの方は60歳後半の人。養子縁組の話題の続きである。

19世紀前半、スペインの小さな寒村が映画の舞台である。ある年の聖マルセリーノ祭(Marcelino)の朝、教会堂の門前に赤子が置かれているのをフランシスコ会の修道士たちが見つける。彼らは赤子の里親を求めて歩き回るが見つからない。そこで修道院で育てることになる。そして名前をマルセリーノと名付ける。

5年後、マルセリーノは賢い少年に成長していく。しかし、母親がいないことや友だちができないことに修道士たちは心配する。修道士は、屋根裏部屋には決して入っていけないとマルセリーノに言いつける。ある日マルセリーノは入ってはいけない屋根裏で大きな十字架のキリスト像を見る。そこでキリストとの対話が始まるのである。そしてパンや飲み物を運ぶという「汚れなき悪戯」が始まる。

19世紀のアメリカでは、移民の増大や南北戦争によって多くのホームレスや孤児を生んだ。各州ではこうした子どもへの対応を考え始める。1917年には、ミネソタ州がはじめて養子縁組を認める法を制定する。二つの大きな戦争、朝鮮動乱、ベトナム戦争などによって多くの国々で孤児が発生した。こうした経緯で、アメリカでこのような恵まれない子どもに家庭を与えるための養子縁組制度、いわば子のための制度が広く社会に浸透していく。

「我が故郷ウイスコンシン 忘れられない人ーその30」で紹介したMr.& Mrs. John Silbernagelの娘、Karenのことだ。彼女は結婚する前にスリランカから養子を引き受けた。独身女性が養子縁組をするなど筆者には思いもよらなかった。その子を実の子として献身的に愛情を注ぐ未婚の母親姿を見て感じ入った。「生みの親よりも育ての親」である。その後彼女は結婚し、実の子どもを授かる。

1948年、岩崎弥太郎の孫、澤田美喜がエリザベス・サンダースホームを設立する。連合国軍兵士と日本人女性の間に強姦や売春、あるいは恋愛で生まれ見捨てられた混血孤児たちのため児童養護施設であった。その後ここで約2,000人の子どもが育てられ、多くは養子としてアメリカに渡った。彼女の夫は初代国連大使を務めた澤田廉三である。
img_0汚れなき悪戯」からsawadamiki2澤田美喜氏images

 

文化を考える その29 街角の風景 養子縁組み

養子縁組が多いのがアメリカ。私の息子夫婦には2人の男の子がいるのだが、3人目は養子を育てたいといっていた。8年前にサバティカルで阪大にいたとき、日本人の子どもを養子にするための手続きで関係機関を調べていた。だが外国に住んでいて、日本から養子をとるのは極めて困難であることがわかったようだ。だが今も養子を探している。

我が国は、家父長制を基本としていたので、家長の後継者を得るための養子縁組が存在していた。こうした伝統のせいだろうが、今は「子どもと家族の幸せ」という考えで養子をとることは並大抵のことではない。

養子制度は長い伝統があるす。制度を遡ると、 紀元前18世紀、古代バビロニアのハムラビ法典などに由来することが判明している。当時は養子が合法的であり、保護者の責任などが規定されていたことが伺える。Wikipediaによれば婚約、婚姻、離婚、姦通と近親相姦、遺産相続などの規定もあったようだ。ローマ帝国の皇帝というのは、養子縁組での継承というのがやたらと多かったといわれる。ローマ帝国は、一夫一妻制の社会であったため、皇帝が必ずしも継承者となる男子を持っているとは限らなからである。

中世期のヨーロッパにおける養子縁組は容易ではなかったようである。ナポレオン民法典には、養子制度も規定されたが、それは成年の養子のみであり、氏や財産の継承の目的だけに認められた。養子は18歳以上でなければならず、養親は50歳に達していることが必要であった。

だが、貧しさのために教会の門前などに幼児を置き去りにする人々が絶えなかったといわれる。そこでカトリック教会は孤児院を運営し始める。こうした博愛の精神が、やがて養子縁組を社会に定着させるための原動力となっていく。

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ナポレオン民法典
2cd0d2567ffc5558b655727e0b4e13cf Code of Hammurabi
ハンムラビ法典

文化を考える その28 街角の風景 その8 「聴衆に視線を向ける」

なくて七癖とはよくいったものである。人それぞれに癖があるが、人前では、あまりよろしくない行為はなんとかしたいものだ。先日、図書館で調べものをしているとき、前に座った外国人から「足を振るわせないように」との注意を受けた。振動が伝わって不快な思いをさせたようだ。私は足をブラブラしたり貧乏揺すりをする癖がある。

人前で話をするとき、自分は「あー」、「えー」、「えーと」、「うーんと」などというつなぎがでてくるのを自覚している。文章の末尾に「、、、、と思います」というフレーズも多い。録音を聴きながら「、、、です」と直さなければとなんども言いかせた。だがなかなか改善しない。

以前、トーストマスター(Toastmaster)という団体に属したことがある。トーストマスターとは非営利教育団体で、座を和やかにする話し方、聴衆をひきつける話し方のスキルを高めることを目的とする。世界中にトーストマスターズ・インターナショナルの支部やクラブがある。月刊雑誌を出しているほど活動が活発で、日本にも支部がある。多くは英語圏の人で構成されている。

横須賀にいたとき基地内にある学校で、トーストマスターの例会に出席していた。この例会は英語で進められた。会員は、月に数回定期的に開かれる勉強会に出席することが求められる。会合の進め方だが、司会者からスピーカーや評価者などの役割を与えられる。会員は毎回持ち回りで司会を務める。

例会は時間厳守が求められる。参加者はマニュアルに基づいて準備されたテーマについてのスピーチ、即興スピーチをしなければならない。論評はスピーチの良かったことに対する「褒め」と、建設的な「改善点」の両方を述べることが要求される。私がしばしばこの例会で指摘された改善点である。それは、原稿に視線が向きすぎる、即興で与えられるテーマでしゃべる内容に精通していないこと、流れるようなスピーチの構成となっていないこと、言葉遣いで「ああ、、えーと、」が多いこと、ジェスチャーが不十分で訴える印象が薄い、声の抑揚が平坦であること、などが指摘された。

例会の終わりには、参加者全員による投票で最優秀スピーカー、優秀即興スピーカー、評価者などの賞が与えられる。講師は存在せず、会員同士による話し方のフィードバックによって、話し方を向上するために教育しあうことを活動の柱としている。

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文化を考える その27 街角の風景 その7 終身身分保障制度

アメリカの大学では、終身身分保障を得れば定年がない。研究費をとれるならば、建前上は死ぬまで働いてもよい。これを終身身分保障制度、英語でテニュア、あるいはテニュアトラック(tenure-track)と呼ぶことは前回記した。

アメリカの大学では、通常博士号を取得すると任期付きの講師、ポスドク研究員、そしてテニュアが期待される助教授のいずれかのポジションを取得することになる。基本的にはテニュアによって「審査期間を首尾良く経過し、正当なる理由があるときは、その地位が保障される」のである。テニュアというのは、優秀な研究者に与えられる身分保障制度のこと。これによって学問の自由が保障されると同時に、経済的に安定した生活も保障される。

どの大学でもテニュアになるための基準がある。テニュアの審査応募資格としてはテニュアのポジションに在籍していて、審査期間の5年間に優れた研究業績があり、しっかりした学生指導の実績があること、学部の教務に精励していること、助教授の肩書きを持っていることなどである。テニュアをとろうとする助教授は、いくつかの学内委員会の審査を通過して、大学の理事会が承認することになる。このように研究活動、教育活動、教務活動の全てにおいて優れていることが要求される。

研究活動においては査読付き学術論文を複数発表していることも要求される。審査付学会報告などを複数持っていないとテニュアの取得は困難である。テニュアをとると海外などでのサバティカルリーブ(Sabbatical leave)という自由な研究活動が与えられる。欧米では広く普及している休暇制度である。休暇の期間は半年か一年である。半年の場合は給与は半額が支給され、一年の場合は無給というのが一般的である。

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文化を考える その26 街角の風景 その6 研究者の招聘

今、ネブラスカ大学リンカン校(University of Nebraska at Lincoln)にいる友人のD.H.教授のことである。彼との付き合いからアメリカの研究者の異動についていろいろなことを知った。

彼は小さいとき、ネブラスカのど田舎の学校をでた。どこまでもトウモロコシ畑が広がる大平原の真ん中である。学校は複式学級だったそうだ。田舎だから複式は当たり前であった。その後イリノイ大学アーバナシャンパン校(University of Illinois at Urbana-Champaign)の教授になる。

彼がネブラスカ大学から招聘状がきたとき、イリノイ大学に残るかどうかを考えた。このような「一本釣り」されるような研究者は研究業績に優れ、名が知れている。なによりも研究費を獲得する実績がある。

引き抜くほうの大学は研究者の収入などを調べているので、現在の待遇以上の条件を提示する。例えば1.5倍の給料をだすとか、これこれしかじかの研究環境を用意するなどである。招聘状をもらう研究者は、提示された待遇、大学の研究設備、、同僚となるスタッフの研究状況、子どもの教育環境などを調べ、自分の研究にも家族のためにもプラスになるかなどを考慮する。

D.H.教授は、招聘状をもらったときイリノイ大学に残りたかったそうだ。なぜならシカゴやニューヨークなどに近く研究環境として恵まれていたからだ。そこで、学部長に会い「1.5倍の給料でネブラスカ大学からオファーがきているが、もしイリノイ大学が今の給料を上げてくれれば、残りたい、、、、」と交渉したという。

残念ながら学部長は「予算がないので、給料を上げるわけにはいかない」と言ったのでネブラスカ大学へ移ることにしたという。このような交渉ができるのが面白いところだ。また学部長も予算やスタッフの給料を決める権限があるのは興味深い。

長男が、かつてボストン郊外にある今の大学にレジュメ(研究業績一覧)を送ったときである。書類審査を通過し大学での選考委員会に招かれ面接を受けた。この時、旅費は大学が負担してくれたという。首尾良くポジッションを得て6年後にテニュアトラック(Tenure-track)と呼ばれる終身身分保障を得た。テニュアをとるためにあちこちの大学を渡り歩くことも多いのがアメリの大学である。

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文化を考える その25 街角の風景 その5 電信柱

イタリアの古い街を訪ねたとき感銘したことがある。それは空が広いということだ。オリーブや葡萄畑が広がり、ローマ(Rome)の松が並んでいる。そこを車でのんびりドライブすると、丘の上に造られた城塞都市が見える。オルヴィエート(Orvieto)サンジミニャーノ(San Gimignano)などががその代表的な街である。

オルヴィエートの城門を入るとそこは旧市街。劇場、美術館、聖パトリツィオ(Patrizio)の井戸、ドゥオーモ(Duomo)を持つ聖堂がある。また街の地中を掘り進むだけで遺跡が出てくるという。エトルリア人(Etruria)の墳墓もある。

細く古い石畳を歩くと突然広場がある。人々はのんびりと会話している。お年寄りも観光客も一緒だ。しばらくぼんやりしていると、電信柱がどこにもないことに気がつく。空が広いということは電信柱や電線がないことなのだ。

電線は水道とともに下水道のある地中に埋められているという。このような古い街並みに電信柱は全くそぐわない。洗濯物がひもに吊されて干されている。花の鉢も窓際にある。石造りの街並みは改築がほとんど行われないから電線は地中に埋め込みやすいといわれる。もともと下水道が発達したのがヨーロッパ。避難路としても役割を果たしていたようである。

我が国の観光地からもだんだんと電信柱がなくってきた。例えば滋賀県長浜市の駅前の黒壁のまちづくりにより、電信柱が地中に埋められている。地中化するには時間と費用がかかる。経済性、利便性、安全面などから電信柱がまだま多いのは確かだ。道路計画の当初から地中化する発想が必要だ。美観を台無しにしているのは電信柱である。都市の景観とか美にもっと関心を持ちたいものである。

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文化を考える その24 街角の風景 その4 ガレージセール

アメリカの風物詩にガレージセール(garage sale)とかヤードセール(yard sale)がある。週末になるとあちこちの家の側にガレージセールの立て看がでる。家庭で使わなくなった品物を安く、あるいは無料で車庫の前に沢山の品を並べ提供するという「催し物」だ。隣近所が一緒になって不用になった品を出し、客を呼び込んでいるのもある。

週末、ガレージセールを訪ね歩くのも楽しい。長い冬が終わったあと、あるいは秋に行われることが多い。クリスマスの贈り物をそのまま並べるのも珍しくない。家具、玩具、自転車、芝刈り機、本、大工道具、靴、家庭内雑貨などさまざまだ。T-シャーツなどの衣料品も多い。中には古いブラジャーもパンティもある。皆洗濯はされているが、、

街には家具や衣料のリサイクルショップが結構ある。どこに行っても物を大事に使おうとする気持ちはある。リユース(resuse)という運動である。大消費社会のアメリカだが、意外とリサイクルやリユースは根強い人気がある。家庭を覗いても、古い家具を大事に使っている。一枚板のものだからだ。材木が盛んにとれる国柄からだろう。

車に相乗りするカープール(carpool)も歴史が長い。通常、近所の人など、他人同士が一台の車に乗ることを指す。交通渋滞の緩和や環境対策などの目的で、相乗りで運転手以外に一定数以上の乗員がいると通行料金が無料になったりする。カープール車の優先レーンもある。これもアメリカの公共精神の現れか。

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文化を考える その23 街角の風景 その3 ゴミ処理

我が日本人が誇るべきことはたくさんある。その最たるものは、高い公共精神である。少々古くさいが公衆道徳心と言ってもよい。外国へ行ってみればそれがすぐわかる。パリの汚さ、喫煙者の多さには目を背けたくなる。東南アジアからくる観光客は、口を揃えて日本の街は綺麗だという。時に空き缶やゴミ、煙草の吸い殻が不用意に捨てられているのを目にする。だが総じて街は清潔さを保っている。公共施設、会社やレストラン、路上での禁煙が条例で定められたことも素晴らしい。

高い公共精神の象徴は、ゴミの分別廃棄にあるのではないか。このような徹底さは外国には希である。色の違うビンのまで分けられている。これほど細かく分別されている国は知らない。

私の住む八王子もそうだ。家庭から出る資源ゴミのうち、排出頻度が高い約980品目を50音順に掲載している。資源ゴミである空きびん、ペットボトル、空き缶、紙パック、紙製容器包装、プラスチック製容器包装などの回収日が決まっている。「燃やせるごみ」、「燃やせないごみ」、「大型ごみ」は有料。可燃ゴミの中に缶やビンが誤って混じっているときは、その袋は警告紙がついてそのまま玄関脇に放置される。

こんなことばアメリカにはない。アメリカはゴミ処理では大いなる後進国である。集荷日になるとビンや缶を除き、大きなプラスチックのゴミ箱を道路側にだす。それをダンプカーのようなトラックが来て、ゴミ箱を高々と持ち上げ空にしていく。

我が国のゴミ処理の課題は放射能で汚染された「指定廃棄物」にある。汚染水、焼却灰や汚泥や土壌などなど増え続けている。どこで誰が誰が引き受けるかとなると尻込みしたり反対する。公共精神も少々自信がなくなる。

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文化を考える その22 街角の風景 その2 コロニアル様式

現在放映中のテレビ小説「花子とアン」の冒頭に、広大な平原と澄みきった青空に帽子が飛んでいるさまがでてくる。そして丘に建つコロニアル様式(colonial style)の一軒家が登場する。このシーンを見るたびに、長男の家を思い出す。あまりにそっくりなのだ。「花子とアン」では、いよいよ暗い戦時下に突入だが。

このドラマの原作は「赤毛のアン(Anne of Green Gables」。 カナダはニューブランズウィック州(New Brunswick)のプリンス・エドワード島(Prince Edward Island)にあるキャベンディッシュ(Cavendish)という街が舞台である。地図で調べるとプリンス・エドワード島はセントローレンス湾(Gulf of St. Lawrens)にある。五大湖が大西洋に流れる出口だ。このあたりもニューイングランド(New England)と呼ばれる。「赤毛のアン」は、カナダの小説家、ルーシ・モンゴメリ(Lucy M. Montgomery)によって書かれた。

さて、コロニアル様式の家についてである。名前は17世紀から18世紀にかけてイギリスやオランダ、スペインで発達した建築様式である。その特徴は、切り妻の屋根、建物の正面にポーチがつき大きな窓とベランダがつく。煙突もある。中には暖炉があるからだ。建物は二階建てで白いペンキで覆われる。二階の屋根にはアーチ型の窓がつきでている。外側の柱はギリシャ様式のような飾りがつく。

コロニアル様式の建物は、アメリカ中西部やニューリングランド(New England)に多い。住宅やアパートだけでなく教会、集会所にもみられる。その最も知られる建物は首都ワシントンの郊外、マウント・ヴァーノン(Mount Vernon) にあるワシントン邸宅(George Washington Mansion)であろう。

マウント・ヴァーノンを訪ねたのは長男が7歳の時。彼はアメリカの歴史を勉強していた。彼の希望で第3代大統領を務めたトーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)の邸宅のあるヴァージニア州シャーロッツビル(Charlottesville)のモンティチェロ(Monticello)に行った。ヴァージニア大学(University of Virginia)もある。ここの建物はほとんどがコロニアル様式である。全米で最も美しいキャンパスといわれる。

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文化を考える その21 街角の風景 その1 郵便箱

街には色々な表情があるというのが話題である。長男の家は、ボストンの郊外、Princetonという人口3,400人位の街にある。州立公園ワチューセッツ山(Wachusette Mountain)の裾野にある。夏はハイカー、冬はスキーヤーで賑わう。

田舎住まいというのは、快適さとともに不便利さもある。庭が広いので春から秋まで1週間ごとに芝刈りをしなければならない。芝刈りによって芝の生育がよくなる。それに景観もよくなる。防犯対策にもなる。冬は車道まで除雪をしなければならない。そのためにワンサイクルエンジンの除雪機も持っている。

この小さな街には郵便局は一カ所ある。だがわざわざそこまで出掛けて投函することはない。家の前の車道の脇にかまぼこ型の郵便受けの箱を置いてある。家の番地もついている。この箱は新聞も入る大きさである。箱の脇に赤いバー(旗)がついている。この郵便受けは投函箱ともなる。出したい手紙を箱に入れ、バーを立てておく。郵便物があるという印である。これは田舎だけでなく、都会の一軒家のどこにもある光景である。

郵便車のハンドルは日本と同じく右側についている。配達人は車から降りず郵便箱の側に駐車し、立ててあるバーの箱を開き郵便物を集荷する。もし、切手を貼り忘れたまま投函しているときは、その場で郵便箱に返却される。一旦郵便局に集荷されてから返却されるまでの時間が節約される。郵便物を入れると配達人はバーを立てて新しい郵便があることを住人に知らせる。

アパートや分譲マンションに住む場合、curve-side mail stationと呼ばれる道路脇共同郵便受けがあって数軒の郵便受けが一カ所にまとめられている。建物の玄関にあるのが普通であるが。大きな郵便物は1Pと書かれた大ロッカーに保管される。自分の郵便受けにはその鍵が入っている。ここに入りきらない場合は家まで直接届けてくれる。書留の場合は不在票が挟まれる。大ロッカーの上にあるのは投函用のポスト。わざわざ投函のために出かける必要がない。

請求書がきたときは小切手を郵送するので、現金がなくなることはない。だが犯罪は時々起きる。

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文化を考える その20 それぞれの家族史 その12 心筋梗塞と食生活

心臓発作はアメリカでは年間100万人以上、日本では15万人以上が襲われるといわれる。遺伝の他、食生活の違いから肥満が多いのがアメリカである。人口の割合からしても日本のほうが発症率は低い。アメリカに行って驚くのは肥満の人が多いことではないか。子どもも例外でない。多くの教育委員会にはジャンクフード(junk food)といわれるハンバーガー(hamberger)などを安易に食べないよう指導しているところもある。

脂肪、カルシウム、蛋白質などが血管に付着、蓄積し動脈硬化などを引き起こす。血栓(crot)は血流をふさぎ、酸素が心臓に届きにくくなる。そして心筋の壊死(infarction)をもたらす。

心臓発作が起きる前兆はいくつかある。脈初の以上、胸痛、冷や汗や嘔吐、呼吸困難、倦怠感、などである。こうした状態は30分くらい続くといわれる。以上のような前兆なしに突然起きる心臓発作もある。これを”silent myocardial infarction”といわれる。長男の嫁の父親はこの種の発作だという。彼は私より若いが肥満だ。にも関わらず年間300回もゴルフをしている。私も何回かつきあわされた。山歩きも大変だが、ゴルフというのは意外と体力のいるスポーツだ、という印象である。

長男との会話による父親の術後の様態である。心筋梗塞の治療には8週間くらいかかるようである。治療後は心臓のポンプ力は低下するそうだ。なぜなら心筋は再生せず元通りにならないからである。

心筋梗塞はだれにでも起こりうる疾患といわれる。糖尿病の人に発生率は高いようだ。私も心臓内科の専門医であるホームドクターのところで毎年健康診断を受けている。心電図検査では、昔から不整脈の疑いが指摘されている。

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文化を考える その19 それぞれの家族史 その11 心筋梗塞

先日のことである。朝メールを開くと長男の嫁の父親が心臓発作(heart attack)で倒れ、救急車で搬送されたとあった。ニューハンプシャー州(New Hampshire)のハンプトン(Hampton)での出来事である。早速電話すると、時差の関係でまずはメールで知らせたとのことだった。応急措置をする間、三度も心拍が停止したようだ。

発作は家で起こり、すぐ病院に運ばれ処置が速かったので心臓は蘇生した。心筋梗塞(myocardial Infarction)によるものと診断され、致死的な不整脈(arrhythmia)である心房細動(fibrillation)が誘発されたようだ。

心臓発作の英語はheart attackであるが、心筋梗塞はmyocardial infarctionと呼ばれる。myoは筋肉、cardial は心臓、infarctionとは血流不足による心筋の梗塞とか壊死という意味である。血管に血栓(blood clot)ができて閉塞し、血流が途絶えたようである。

病院では、ステント(stent)の注入の手術が二度行われた。ステントととは、閉塞した冠動脈(coronary artery)の組織を広げる細長い網状の器具である。様々な病変にあうように長さや太さのものが使われる。カテーテル(catheter)によって挿入されるステントには小さなバルーンが取り付けられ、患部にくるとバルーンが開きステントも広がる。装着が終わるとバルーンは萎んでステントだけが残る。そしてカテーテルをとりだす。この手術はもうすでに10年以上前から使われているという。

幸い命はとりとめ、呼吸器がはずされ会話しサンドイッチをほうばるくらいに回復している。筆者も医学用語辞典をひきながら心筋梗塞の原因、前兆、症状、治療方法などを調べてはノートに筆記している。

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文化を考える その18 それぞれの家族史 その10 Social Security

先日、引き出しの中を整理するとアメリカで取得したソーシャルセキュリティ・カード(Social Security: SS)が出てきた。アメリカの社会保障とか年金の受給に必要なのがこのSSカードである。

SSカードは市民だけでなく、永住権を持つ者、外国人居住者、学生などにも発行される。9桁の番号となっている。SSカードは日常生活でも大変便利なもので、例えば口座の開設、公的書類の提出、就労の際に提示を求められる。運転免許状と同じく身分証明書の代わりとなる。子どもが生まれるとSSカードを作る。これは扶養控除の申請に必要となるからである。

アメリカのSSは、国民が全て社会保障に加入しなくてもよいことになっている。人々が将来、保障を受けるためには、労働による所得から税を支払うことである。社会保障局のパンフレットによれば、所得に応じて税率が決められ、雇用主と被雇用者の双方が納める平均的な利率は7.65%となっている。31歳から42歳の場合、就労期間は5年が必要であり、この場合20ポイントが与えられる。1ポイントあたり年間1,200ドル、最大4ポイントまで支給される。62歳になるまでは最低10年間の就労で40ポイントを貯めておく必要がある。

保障の内容であるが、まずは退職年金(Retirement benefits)である。62歳以降に支給される。次に医療補助(Medical insurance: Medicare)である。そして障がい年金(Disability benefits)である。

さてSSカードが出てきたのを機に、社会保障の恩恵を受けられるかを試すため、インターネット上で支給申し込みをした。受けようとしたのは退職年金である。数ページまたがる詳細な様式に記入して送信した。すると数日後に結果を知らせるというメッセージがでてきた。案の定、「受給資格は無し」という文書が郵送されてきた。もっともウィスコンシン大学時代はアルバイトばかりをして、税を全く納めていなかったから当然である。

年金を受給しようとする意図は全くなかった。ただ、社会保障局の対応がいかなるものかを知りたかったのだった。それと申し込み結果の通知が迅速だったことには満足した次第であった。

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文化を考える その17 それぞれの家族史 その9 司書の養成の違い

図書館法による司書及び司書補の資格は、第5条に規定されている。この資格は、図書館学関係の科目が開講されている短期大学や四年生大学で、要件とされる単位を修得して卒業するか、自治体に就職して3年以上図書館勤務になった者が司書講習を受講して得られることを前回触れた。

我が国の主要な司書養成機関についてである。1979年に国立図書館情報大学がつくば市に設置された。修士課程は1984年に、博士課程は2000年に設置された。だが2002年に図書館情報大学は筑波大学に統合され、図書館情報専門学群となっている。ここが我が国の司書を養成する最も整った大学なのだが、、、

さて、アメリカの司書養成の歴史である。1887年にはじめてコロンビア大学(Columbia University)にLibrary Schoolが設立される。アメリカの大学では学部をSchoolと呼ぶのが習わしである。その後多くの大学でLibrary Schoolができる。たとえば、1928年に全米最初の図書館学の修士課程がシカゴ大学に(University of Chicago Gradute Library Science)できる。これは図書館学(Library Science あるいはLibrary and Information Studies)と呼ばれるようになる。1931年、ノースカロライナ大学(University of North Carolina-Chapel Hill)などに図書館学の大学院が、さらに1948年にはイリノイ大学(Unversity of Illinois, Urbana-Champaign)に博士課程ができる。

こうした司書養成の大学のカリキュラムは、全米図書館協議会(American Library Association-ALA)が認定機関(Accreditation)となり、設置が認められる。アメリカの大学はこうした民間機関に所属することによって、修了者に資格を付与する権限が与えられている。このように司書になるためには、Master of Library Science-MLS、あるいはMaster of Library and Information-MLIという修士号が不可欠となっている。

我が国のどれだけの司書が図書館学の修士号や博士号を持っているだろうか。司書の世話になった者としてその資質と力量に大いに関心がある。

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文化を考える その16 それぞれの家族史 その8 司書の仕事

ウィスコンシン大学での苦節の6年あまり、図書館の専門職である司書(Librarian)にひとかたならぬお世話になった。その専門性には舌を巻いた事を前々回記した。

私は北海道大学と立教大学で学び、その後は国立特殊教育総合研究所と兵庫教育大学で仕事をした。それまで図書館の世話になった思い出は全くない。利用の仕方を知らなかったというべきか。振り返ると日米の大学の違いは、大袈裟にいえば図書館の置かれている地位と司書の専門性、そして図書館学の位置づけにあるのではないかと考える。

我が国とアメリカの司書養成の仕組みや内容を調べると、そこに大きな違いがあることがわかる。まず、我が国では司書となる資格は図書館法に規定する公共図書館の専門職員となるためとなっている。しかし、公共図書館の大部分では、司書の資格を取得した者を専門職として採用する人事制度がない。事務職員としての採用制度だからである。

司書資格の取得方法は二つある。大学の正規の教育課程の一部として設置されている司書課程と、夏季に大学で集中して行われる司書講習がある。大学の司書課程はそのための全国統一的なカリキュラムが、図書館法の制定以来、現在に至るまで作成されていない。専門性に必要な科目の単位数が少なく、司書講習に相当する科目の単位の認定を受けて、大学を卒業すれば司書資格を取得できてしまう。

次に司書講習である。本来現職の図書館職員向けのものとされているため単位認定が甘く、「暇と講習料さえあれば取得できる資格」といわれるほど講習内容が貧相でいい加減、おざなりな講習会といわれる。

我が国の司書に関する根本的な課題とは。それは司書の専門性と役割を重視しない風土、そして図書館学(Library Science)の未熟さである。このことをアメリカの大学で苦労した経験から学んだ。

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文化を考える その15 それぞれの家族史 その7 ガンと次女

次女の恵美はウィスコンシン大学で生物学を学び、卒業後首都ワシントンDCにあるジョージ・ワシントン大学(George Washington University)の大学院で公衆衛生学のMAをもらっている。そして今は、ウィスコンシン大学の看護学部(School of Nursing)でターミナルケアの看護師を目指しているところである。母親のターミナルケアに就いて、訪問看護師からいろいろな処置方法を学ぶうちに、自らも看護師を目指すようになったようだ。

乳ガンの手術を受けてから幾度となく小さなガンが発生し、その都度抗ガン剤の投与を続けて30年が経った。だが、ガン細胞の根絶にはいたらなかった。今、ガン研究の最前線は、胚性幹細胞というガン細胞を作る源を死滅させる薬の研究である。この胚性幹細胞は、Wikipediaによると自らと全く同じ細胞を作り出す自己複製能と、多種類の細胞に分化しうる多分化能というまことにやっかいな性質がある。現在の抗ガン剤は胚性幹細胞を根絶することができない。世界中の研究者がこの開発にしのぎを削っている。誰が最初に開発するかは問題ではない。人類の幸せに誰が最初に貢献するかである。

沖縄の生活に時間を戻す。1981年頃、教会がつくった幼稚園で恒例の健康診断が行われた。その結果、次女の血液型がRh- であることが判明した。少々驚いたのは、やがて彼女が結婚したとき、相手がRh+の不適合妊娠でも初回なら胎児への影響はないが、2回目以降の妊娠で母児血液型の不適合が起こりえる可能性があることであった。

大きくなって次女にはRh- のことを告げた。やがて彼女高校や大学で血液型については学んだようで、今の旦那と結婚し二人の娘を育ている。旦那もRh-だから孫娘のRh-である。老婆心ながら、怪我の場合の輸血などを考慮すると、小さいときから血液型は教えておくようにと伝えている。次女の飽くなき学びの意欲には、母親の30年間のガンとの闘いという後押しがあるからだと思っている。

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文化を考える その14 それぞれの家族史 その6 闘いの始まり

家内の治療にあたる主治医は同じく地元ロータリークラブ会員であるウィスコンシン大学病院のDr. George Bryan教授であった。化学療法であるガン治療をChemotherapyという。この治療法について丁寧に説明してくれた。

それによると、抗ガン剤はたくさんの種類があり、それを組み合わせて治療すること、患者の様態をみながら薬の配合を変えるなどとのことだった。これを多剤併用療法という。こうした多剤併用による治療の効果は、前回触れた全米の病院を網羅するネットワーク上のデータベースによってわかるのだという。

手術後にすぐ、病院の廊下を歩くことが医師に勧められた。そして一週間後に退院。患者によっては、病室よりも家庭のほうが治りが早いという。Dr. Bryan教授は私が苦学生であることを知っていたので、高い入院費のことを心配してくれ、自分が受ける報酬を返上してくださった。幸い私は家族の保険に入っていたので、診断から治療まで保険でカバーされた。一セントも払う必要がなかった。保険がなかったら大変な事態になっていた。

抗ガン剤が処方され治療が始まった。投与のたびに頭髪が抜けた。小学生の次女はそれが因で登校できなくなった。母親との離別を恐れたようだ。その年、30日間不登校が続いた。我が家、最大の危機の年であった。

手術後、大学病院のチャプレンと呼ばれる牧師、そして乳ガンを患ったという女性ボランティが病室にやってきて家内を激励してくれた。ボランティアが病院にいるのもこのとき始めて知った。家内は治療が落ち着いてくると、近くのサンドイッチ店でアルバイトを再開した。母親が仕事に出かけると次女も学校へ行き始めた。私も博士論文の仕上げやアルバイトで急がしかった。

今、当時の子どもたちの心情を思い起こしている。

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文化を考える その13 それぞれの家族史 その5 次女

次女の名は恵美・ライナー(Emi Reiner)。8年ほど前にアメリカ国籍を取得した。今、マディソンで11歳と9歳の娘を育てている。長女と一緒の街に住む。旦那はドイツ系のアメリカ人で福音系のクリスチャン、連邦政府の材質研究所で研究員として働いている。

彼女は今大学に戻り、看護師になる勉強をしている。来年は念願の看護師になれると張り切っている。長い間乳ガンと闘ってきた母親を自宅で引き受けてきた。ターミナルケアである。孫娘らに看取られ一昨年の7月28日に昇天した。

母親のガンは1981年に見つかった。丁度沖縄に帰省していたときだ。すぐマディソンに戻り診察を受け、数日後に手術となった。私のロータリークラブのスポンサーであるDr. David Gilboe氏は大学病院の教授であった。その方の紹介で外科医を紹介してくれた。手術前に同意書に署名した。

手術の経過を聞くと、胸の周りにある12のリンパ腺に既にガン細胞が広がっていて全て除去したとのことだった。最悪のガンの一つで、術後一年内に死亡するのは50%だという。この数字は全米の大学病院や総合病院をつなぐネットワーク上のデータベースによってわかるのだそうだ。ガンの種類、人種、年齢、治療法などを組み合わせることによって、生存率がわかるということだった。

ネットワークといえば、論文などを書くとき、関連情報の検索によって主要な文献を集めたことである。この作業をしてくれたのが大学図書館の司書であった。いろいろなデータベースを次々と調べこちらが欲しい論文などを検索してくれる。その力量には驚いた。

ガン研究と治療もネットワークの進展に支えられている。

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文化を考える その12 それぞれの家族史 その4 ”Sage Ozawa”

長男の長男は今14歳。私の最初の孫である。今、ボストン交響楽団(Boston Symphony Orchestras)の下部組織、ボストン・ユース・オーケストラ(Boston Youth Symphony Orchestras-BYSO)に所属し、第一ヴァイオリンで弾いている。毎年、年長のオーケストラに入るためのオーディションがある。週末は、長男か嫁が自宅から1時間のところにあるボストン大学での練習に連れて行く。春や夏は集中合宿がある。長男も長らく個人レッスンを息子にしていたが、今は技能が追いつかないので別の人をレッスンに頼んでいる。費用も相当かかるようだ。この孫はボストン音楽院(The Boston Conservatory)への進学も考えているようだ。

ボストン交響楽団といえば、小澤征爾を知らぬ地元の人はいない。ボストン交響楽団の音楽監督を1973年からは2002年まで務めるというレジエンド(Legend)なのである。30年近くこのオーケストラを指揮してきたのは、小沢をおいて他にいない。彼の人気は今もボストンでは絶大である。

マサチューセッツ州西部バークシャー郡(Berkshire County)にタングルウッド(Tanglewood)という小さな街がある。長男宅から車で90分のところだ。そこでは毎年夏に世界的に有名な音楽祭、Tanglewood Music Festivalが開かれる。この音楽祭の中心はボストン交響楽団であり、小沢はその音楽監督にも就任した。その功績を記念して日系企業の寄付でSeiji Ozawa Hallというコンサート会場までつくられている。

ボストン交響楽団の指揮者では小沢を遡るが、1949年から1962まで指揮棒を振ったのがシャルル・ミュンシュ(Charles Munch)である。私が大学生のときであった。ミュンシュによってボストンやボストン交響楽団を知ったのである。忘れられない指揮者である。

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文化を考える その11 それぞれの家族史 その2 サッカー

長男の次男は地元のボストンの郊外にあるサッカークラブに所属してプレイしている。長男によると、なんらかんらで年間の費用は20万円位となるそうである。今年の4月、チームはサッカーの本場スペインのバルセロナに遠征し、地元の少年チームと親善試合をしてきた。親が同行するという条件であった。すべて本人の負担であった。そこで筆者も援助を申し出、ついでに物見遊山で出掛けた。試合の前後は観光を楽しんだ。バルセロナの少年の力量は段違いで5試合すべて完敗した。

前回の女子ワールドカップの時である。決勝戦では、長男家族は嫁の実家に出掛けて試合を観戦した。試合は最後までもつれる好試合となった。アメリカがリードすると日本が追いつく白熱のゲームとなった。最後はPK戦となり日本の勝利となった。観戦中、アメリカを応援する孫たちを日本国籍の長男は黙って観察していたという。アメリカチームの敗北に、孫たちはがっかりしたようだ。そして長男に「日本へ戦争で仕返しする」と皆にきこえるように呟いたそうだ。

女子ワールドカップの敗北は、孫にはよっぽど悔しかったに違いない。スポーツと戦争は別次元の話だ。父と子が戦争に巻き込まれるなど想像するだけでも恐ろしい。だが、心置きなく冗談がいえ、腹蔵なく話せるのも親子だからだ。とはいえ長男には日米の決戦には複雑な思いで観戦したのではないか。こんなところにも国籍の違いや日米のことが話題となる。

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文化を考える その10 それぞれの家族史 その1 永住権

異文化体験については、さまざまなことが身の回りにある。成田家の歩みは、戦後の引き揚げを哀史を交えると史実になるような話題に満ちている。私小説が書けるくらいである。今それを真剣に考えている。

子ども3人はアメリカで育ち、教育を受け、仕事を得、家庭を持っている。長男が大学院時代、1990年8月湾岸戦争が起こった。その前月、選抜徴兵法が施行された。国民の男性と永住外国人の男性に連邦選抜徴兵登録庁への徴兵登録を義務化するものだった。彼は永住権を取得していたが、兵役に志願しなかった。それ以来、市民権の申請をためらってきた。幸い職に就き、結婚して家を持つことができた。

兵役に就くことは危険と隣り合わせではあるが、アメリカでの生活を円滑にするための有力な近道である。除隊後は大学で学ぶ奨学金(Pell Grant)が与えられる。経済的に貧しい階層の兵役志願率が高くなる。兵役は市民権を申請することのできる要件ともなる。

アメリカに住み仕事を得るには永住権が必要となる。通常であれば数年から10年くらいの時間と弁護士費用がかかる。ポートピープルなど人道上、配慮されるべき外国人は別である。さらにアメリカで多額の投資をする人々は優先的に永住権が所得できる。たぐいまれな頭脳の持ち主もそうだ。だが成田家はそのどれにも当てはまらなかった。

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文化を考える その9 見捨てられた人々 その2 棄民

戦後、外地に取り残された人々は「棄民」と呼ばれた。成田家はすべての財産を失い「引揚げ者」、あるいは「引揚げ民」として北海道の稚内に上陸した。筆者3歳の時である。親戚の反対をよそに移住したのが樺太であった。そのような経緯で引揚げというのは、親戚に顔を会わせにくいという心情があったようだ。

満蒙開拓団のことに戻る。もともと開拓団は関東軍の保護の元に開拓に従事するはずであった。しかし、ソ連の参戦によって残りの兵隊や関係者はいち早く満鉄を利用し、ハルビンや長春、大連などへ撤退し始めた。置き去りにされた開拓団は自力で逃避行をせざるを得なくなった。開拓団の逃避行の有様は、いろいろな手記に残されている。山崎豊子の小説「大地の子」にも記述されている。

棄民は満蒙開拓団だけでない。戦前、ブラジル、メキシコ、ドミニカなどの中南米諸国へ移民した人々もそうだ。移民の募集要項を信じて、親族の反対を押し切って一切の財産を処分し、こうした国々に移住していった。ところが、入植地としてあてがわれのは、未耕地で開墾作業から始めたという。多くの者は開拓を断念し帰国したが、もはや安住の場所は少なかった。

戦後、全国各地の農村で「引揚者村」と呼ばれた移住用集落がつくられた。割り当てられた所は痩せた土地が多かった。千葉県成田市の三里塚にも引揚げ者村がつくられた。元満蒙開拓団員も三里塚にやってきた。1966年、佐藤内閣は閣議で成田空港の建設地として三里塚、芝山地区を決定する。国の土地強制収容に反対する三里塚闘争が始まる。国策で欺された元満蒙開拓団員は「怨念」のプラッカードを掲げ、長い闘争に参加した。

女性も国策によって看護婦として満州に送られ、中にはシベリア抑留を強いられた。ソ連兵に連れ去られ暴行された者もいた。そのドキュメンタリーが数日前に放映された。やがて故郷へのダモイー帰還がやってくる。だが抑留という過去の経験を親戚や知人が嫌がるのではないかと思い巡らし、帰国はつらいものとなったようだ。誰も尋ねない誰にも語れない、深い傷を背負った帰還となった。

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文化を考える その8 見捨てられた人々 その1 満蒙開拓民

当たり前だが、不思議なことにまた8月15日がやってきた。筆者がいつも思い起こすのは「国策としての移民」、そして「棄民」という言葉だ。私の親たちは敗戦の日、樺太と満州にいた。幸い帰国を果たしたのだが、兄弟がシベリアに抑留され、かれこれ1955年頃に外務省から死亡通知書が届いた。父は半信半疑だった。死亡地はクラスノヤルスクとあった。恐らく金鉱山で働いたか、水力発電所の建設に従事したようだ。

悲惨だったのは、国策によって満州に向かった「満蒙開拓民」の農業従事者と家族である。開拓団とか移民団と呼ばれたが、実は対ロシア防衛を目的とした「満州開拓武装移民団」であった。彼らは満州への出発前に簡単な軍事教練を受けた。

開拓団の人々は25万人とも30万人ともされる。20の都道府県から約300の開拓団が組織されたという。その中には地縁と血縁でつくられ、集落全員で組織されたのもある。最も開拓民が多かったのが長野県であった。1932年から満州への入植が始まった。割り当てられた所は今の満州吉林省である。

戦局の悪化により、満州に駐屯していた関東軍は南方へ移動する。こうしたなか、兵力を補うために14歳から17歳までの男子が青少年義勇兵として訓練を受け、開拓民団に配属された。武装農民であった。満州の邦人女性も看護婦見習いになる訓練のために赤紙を受けとる。

1945年8月9日、ソ連が日本に参戦し開拓民の大半はソ連との国境付近に取り残され、年寄りや老人は置き去りという長い辛い逃避行が始まる。助かった者の多くは抑留される。

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文化を考える その7 Cultural Studies

聞き慣れない研究の分野に「Cultural Studies」というのがあるのを最近知った。「地域へと広まっていった、文化一般に関する学問研究の潮流を指している。」とある。ハイカルチャーだけでなくサブカルチャー(大衆文化)の研究を重視するようだ。

サブカルチャーという用語を最初に使ったのはアメリカの社会学者のデイヴィッド・リースマン(David Riesman)である。彼は「孤独な大衆」(The Lonely Crowd)という著作を書き、その中で社会的性格は伝統指向型から内部指向型とか他人指向型へと変化すると論じている。リースマンは、伝統指向型の社会的性格は、はっきりと慣習が伝統によって体系化されているため、恥に対する恐れによって人々の行動は動機付けられると考える。

さらにリースマン曰く。内部指向型や他人指向型の社会的性格では、人は行動の規範よりもマスメディアを通じて、他人の動向に注意を払う。彼らは恥や罪という道徳的な観念ではなく不安とか寂しさによって動機付けられるのだと。大衆文化とはこのようにして広まるという。この考えは仮説だろうと察するが、一考に値する。

ハイカルチャーを享受するには相応の教養や金と時間が必要であった。だが、大衆が実力を持つのが20世紀。大衆社会においては、高等教育を受けた人々が増加し、ハイカルチャーも一般に楽しめれるようになる。絵画であれば、美術館に足を運ばなくとも美術書やパンフレットなどで見られる。音楽も演奏会に行かなくともラジオ・レコード・テレビで気軽に楽しむことができるように変容していった。今は電子媒体で安価で広汎に普及している。現代は、いわばハイカルチャーの大衆文化時代といえる。要は、Cultural Studiesとは以上の現象をもっと掘り下げて”難しく”研究する分野のようだ。

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文化を考える その6 文化の日のエピソード

誰かが「自分は異邦人であり、よそ者であるという視点から物事を見つめることが大事だ」といっている。この稿を書きながらこの指摘を考えている。アルベール・カミュ(Albert Camus)の小説に「異邦人」というのがあるが、こちらは「明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性」(Wikipedia)というように、文化の話題からすこしそれる。だがなぜか「異邦人」という言葉に惹かれる。

ルース・ベネディクト(Ruth Benedict)の文化観が我々にとって身近になるような気がする。それは、共同体それぞれ文化に基準があり、他の価値や伝統からでは意味を理解することが困難だ、ということである。日本人論とか日本文化ということが内外の識者によって語られるのを読むことがある。そこでの文化のとらえ方は、「日本人」とか「日本文化」でくくられる狭い意味の文化論ではなく、生活や環境全体を意識しながら重層的にとらえる見方である。徹底的にエスノセントリズム(ethnocentrism)という自文化中心主義を排除していることでもある。

先日、孫娘や娘婿らと会話しながら、日本とアメリカの公的祝日について話題となった。建国記念日や天皇誕生日、憲法記念日などは彼らには納得できる。だが、日本には成人の日、春分の日、秋分の日が祝日になっていること、みどりの日、文化の日などがあることに興味を示した。

筆者が特に説明に窮したのは文化の日の意義である。「日本の文化を大事にすること、学問に励むこと、ノーベル賞をもらった人々に勲章を与える」などと説明したのだが、得心する顔ではなかった。これではいかんと思い調べると、もともとの文化の日の制定は、明治天皇誕生日である1852年11月3日に由来するというのだ。確かに、戦後しばらくの間、両親らがこの日を「天長節」と呼んでいた。明治天皇は国民にとって偉大な存在だったようである。

みどりの日、昭和の日などを天皇の誕生日を記念する日であることも説明した。すると娘婿が、「日本は新しい天皇が生まれるたびに祝日が増えるのか?」と誠にこちらを困らせる質問をしてきた。

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文化を考える その5 サブカルチャーの回帰

サブカルチャーのメインカルチャーへの挑戦は至るところに現象として現れた。当然のように文化と考えられた歴史とか古典に対する強い関心と畏敬は、サブカルチャー(大衆文化)の側からすると一種の審美的文化観とされて、時に「マニア」、「おたく」といった独特な行動様式として揶揄することもある。しかし、おたくの本人は「伊達や酔狂」と自負するようなところがあって、むしろ孤高のような存在感を楽しむようなところもあるようだ。

サブとメインの境界が曖昧になったということは、その逆転現象がうまれてきたということでもある。例えば、活字文化は今もそうかもしれないが、メインカルチャーの旗頭であった。だが、なにもかも電子媒体としてメディア界に急速に広がるのが現在。書籍の売り上げた伸びないのは、電子媒体の流通と普及があるともいわれる。多くの書類、卒業論文、研究論文は電子媒体で提出しなければならない。悔しいことだが、手書きの論文は受け付けてくれない。

「子どもたちは夏目漱石や森鴎外を読まないのではない。読めないのだ」ともいわれる。漢字能力の低下が一因だというのである。手書きできない。それで電子辞書を使い携帯電話サイトから「ケータイ小説」をつくる。「書く」のではない。漢字が書けなくても小説が書けるという時代になった。「話し言葉が中心なので親近感があり、一文一文が短く読みやすい」という新しい文化観もそこにある。

技術革新に伴う諸々の変化は、もはや後戻りができない。革新が続くだけだ。だが、電子媒体にも寿命がある。記録したデータを保持できる期間は有限である。読み込みの処理がなくとも経年により媒体は劣化していく。そしてデータが読めなくなったり消失したりする。自分もその苦い経験はある。もっとも機械的な寿命の問題だったが、。

活字文化がサブカルチャーか、メインカルチャーかという議論はすまい。だが分かっていることは、サブとメインの逆転、そのまた逆転も起きうることである。今や「アングラ」も「ヌーヴェルヴァーグ」もという表現も目にすることはない。文化の論争は意味がなくなっているからだろう。

活字文化プロジェクトが各地で盛んになり、活字文化推進会議とか活字文化推進機構もできた。電子媒体文化とのせめぎ合いのようだが、両者が共存することも文化ではないかと思うのである。

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文化を考える その4 サブカルチャーの台頭

1960年代のサブカルチャーを誘因する大きなきっかけとなったのは、ベトナム戦争である。既成の体制やハイカルチャーに対して主として若者が怒りだす。主流の文化であるメインカルチャーの地位が揺るぎ出すのである。それまでサブカルチャーとして卑下されがちであった現象が次第に認知されていく。このことはメインとサブの境界を曖昧にしていくことを意味する。

音楽の世界ではビートルズのジョン・レノン(John Lennon)、ボブ・ディラン(Bob Dylan)、ジョーン・バエズ(Joan Baez)、ピーター・ポウル・メアリー(Peter, Paul & Mary-PPM)などである。彼らの、自由と平和を訴えるメッセージは若者だけでなく広く大衆に受け入れられていく。映画の世界でも芸術性の高い作品に混じって、大衆娯楽に徹するものとが共存していく。「ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれる”新しい波”の映画も制作される。大島渚の「愛のコリーダ」は既成の概念を打破するような演出だ。演劇もそうだ。アンダーグラウンド(Underground-culture)とかカウンターカルチャー(Counter-culture)と呼ばれ、反権威主義的な文化が芸術運動が広まった。それまで認知度が低く、水面下での活動がやがて社会的な地位を確立していく。

漫画やアニメはかつてはサブカルチャーだったが、今やすっかりメインカルチャーとして不動のものとなった。ビデオ・オン・デマンド(VOD)が有線テレビジョン(CATV)で提供されている。大宅壮一には今の社会状況がどのように写るのかは興味ある話題である。どんな流行語を使うだろうか。

alg-peter-paul-and-mary-jpg Peter, Paul & Maryimg_0愛のコリーダから

文化を考える その3 ハイカルチャーとサブカルチャー

文化の語源を調べているが、cultureを誰が文化と訳したのか分からない。中江兆民とか福沢諭吉などかもしれない。そもそも文化とは、その時代の主流な文化とされるハイカルチャー(high-culture)を意味した。知識階層に欠かすことができない素養として、古典とか歴史、文学に精通していること、それがハイカルチャーということのようだ。

ハイカルチャーは、学問、芸術、演劇、美術、音楽といった「教養ある人々、あるいは知識人」に支持されたもので、それを享受するにはある程度の知識や素養を要求された。一般芸能などを卑下し排除したりする時代精神があった。しかし、社会が大衆化するにつれて、やがてこうした文化観は変容していく。

前々回、江戸の吉原という集団の特徴について少し触れた。花魁を頂点とする遊里には、独特のしきたりに沿った秩序があった。客をもてなすために、花魁はかなりの教養や技能、所作が求められた。そのために、若い花魁に読み書きや所作を教授する者もいた。「吉原裏同心」の小説では主人公の神守幹次郎の妻、汀女がその役を担っていた。粋もいれば無粋もいる。客を飽きさせないために、繊細な知識や技能が花魁に求められたという次第だ。吉原というところは、ハイカルチャーな世界だったことが伺い知ることができる。

時代小説はさておき、1960年代に盛んにサブカルチャー(sub-culture)という言葉が広まった。その意味は、その時代の「主流文化」、別称メインカルチャー(main-culture)とは異なる、あるいはそれに反するといった文化観である。マジョリティの価値観から逸脱する思想や行動様式、言葉などを指すのがサブカルチャーであった。こうして文化の定義が難しくなっていく。

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文化を考える その2 文化とは

前回は佐伯泰英の時代小説を読みながら「文化」の一面ということを考えた。吉原という共同体は固有の生活様式で統合されており、他の文化からの基準ではこの共同体を理解することは困難だということをいいたかった。相対化という視点でこの共同体における生活内容や人々の行動様式を問うていく必要がある。だが結構難しい話題である。

文化の定義めいたことである。文化には二つの意味がありそうだ。第一は優れた芸術、学問、技術、それが醸し出す上品な雰囲気のようなことである。第二は受け継がれていく人間行動のパタンや価値観としての文化ということである。広辞苑によれば「人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果、衣食住、技術、学問、道徳、宗教、政治など生活形成の様式と内容」とある。文化とは概して好ましいもの、望ましいものと考えられてきた。その例として、以下のように「文化」がつく単語がある。

文化国家、文化庁、文化勲章、文化都市、文化村、文化広場、文化センター、文化功労、文化の日、文化映画、文化財、文化革命、文化圏、文化保存、あげくは文化住宅、文化風呂、文化食品、文化鍋、文化包丁などである。うさんくさい響きの単語だが「文化人」というのもある。

広辞苑はさらに、文化に対峙する単語は「自然」とある。なるほど、ドイツ語の Kultur や英語の culture は、本来「耕作」、「培養」、「洗練」、「教化」、「産物」という意味であり、人間が自然に手を加えて形成してきた成果といえる。

人が作ったものが文化だとして、すべての文化が人間を幸せにしたということではない。人は文化によって苦しみ、虐げられ、死に追いやられてきた事実も限りなくある。原発、武器、戦争なども文化そのもの、あるいは文化の所産といえまいか。

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文化を考える その1 時代小説から

佐伯泰英の時代小説に「吉原裏同心」というシリーズものがある。この小説の舞台は江戸の吉原である。ここに暮らす人々の夢と欲望、汚れさと純真さ、嫉妬と愛情などが描かれている。

天下御免の色里、吉原の頂点にいるのが花魁である。一見華やかな太夫、花魁の世界。その背景には、売られ買われる女性がいる。それを取り巻く大勢の人が吉原で暮らす。例えば、吉原の秩序を保つ江戸町奉行の与力や同心、廓内での騒ぎをまとめる頭取や小頭、さらに医者、仕出し屋、職人、商人、芸者がいて吉原という集団を形成している。

愛欲が渦巻く遊里にはいろいろな事件が起こる。しかし、幕府公認のこの色里には廓内のきまりがあり、それによって自治や治安が保たれるという不思議な世界である。

筆者がこの時代小説に惹かれるのは、吉原という共同体に受け継がれる行動のパタンやその背後にある価値観という文化なのである。この文化を考えるには、その文化に縛られる吉原という場を設定する必要がある。そうでなければ、吉原という「場」をステレオタイプ(固定観念)でとらえてしまう。この観念に対抗する視点を持たなければ、なぜ裏同心という存在が重要になるかがわからない。

江戸文化というと一見、茫漠としているが、それは人々が手を加えて形成してきた衣食住をはじめ、歌舞音曲、作法、詩歌など生活様式と内容という総体のことである。この総体を意識すると、吉原に暮らす人々の日常性のなかに少々大袈裟であるが、文化ということになにか原理的な意味を見つけられるような気がしてきている。

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