イスタンブルとソフィアの旅から その18 リラ修道院 その2 フレスコ画

リラ修道院は訪ね甲斐のある歴史的な遺産です。その中心は、聖母誕生教会(St. Mary Nativity Church)の壁や天井に極彩色で燦然と輝くフレスコ画(fresco)といえます。

フレスコとは、「壁に漆喰を塗り、その漆喰がまだ「フレスコ(新鮮)」である状態で砂と石灰を混ぜて作ったモルタルで壁を塗って、その上に水だけで溶いた顔料で絵を描く方法」とあります。石灰がつくる結晶のなかに顔料の一粒一粒が閉じ込められるため、色が美しく、耐久性は抜群で非常に長期間、その色を保ち続けるのだそうです。

フレスコで想い出すのが、人類最古の絵画と言われるアルタミラの洞窟壁画(Cave of Altamira)です。我が国の高松塚古墳の壁画もそうです。時代はくだり、バチカン(Vatican)にあるシスティーナ(Sistine)礼拝堂にあるミケランジェロ(Michelangelo)が描いた「天地創造」、「最後の審判」、ラファエロ(Raphael)による「アテナイの学堂」、これらもフレスコ画です。

リラ修道院に戻ります。フレスコ画のモチーフはいうまでもなく聖書物語です。聖書の36場面が描かれています。礼拝堂内に入ると無数のイコン(icon)で飾られたイコノスタシス(iconostasis)という壁が目に飛び込んできます。金箔が施されています。この壁は「聖障」と訳されていて、正教会と東方諸教会の聖堂では、聖所と至聖所を区切るのにイコンで覆われたこうした壁が必ずあります。

神田にある通称ニコライ堂は、東京復活大聖堂(Holy Resurrection Cathedral)と呼ばれます。東方正教会の流れをくみます。聖堂内のイコノスタシスには、金と白金箔がはられています。ビザンチン様式のこの建物はあたりの景色に際立っています。神田川に架かるアーチ型の【聖橋】はこの聖堂のデザインと関連があるのではないでしょうか。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

イスタンブルとソフィアの旅から その17  リラ修道院 その1

ブルガリアの首都ソフィアの南、110キロ余りのところにリラ修道院(Rila Monastery)があります。路線バスに揺られ2時間余り。途中いろいろな人が乗り降りします。運転手は煙草を吸っています。途中のリラ村からは緑の深い森をくねくねと走ると、そこに忽然として男子の修道院が現れます。UNESCOの世界遺産、リラ修道院です。

創建は10世紀に遡ります。St. Ivan of RilaとかIoan Rilskiという僧がこの深い谷間を隠遁の地として選び礼拝堂を建てます。当時は、岩壁の洞窟を使ったと記録されています。やがて各地からやって来た若い求道者が現在の位置に教会堂などを建て始めたようです。

リラ修道院は、長い間ブルガリア帝国の支配者から厚い庇護を受けて文化や霊的な教育の中心として発展します。それはオスマン帝国の支配が始まるまで続きます。14世紀には、修道院としての規模となり充実します。リラ修道院の現存する最も古い建物は、修道院正面の門と大司教の正座、そして石造りの礼拝堂と塔でです。フレリョ塔(Tower of Hrelja)と呼ばれます。

16世紀にはいると修道院は数々の攻撃や破壊を受けます。しかし、マラ・ブランコビッチ(Mara Brankovic)というセルビア王国(Serbia)の王妃やロシア正教会などの援助で元通りに再建されるのです。修道院の宿坊は1816年に造られます。1833年、大火のために修道院は焼失しますが、当時有名な建築家アレクシ・リェッツ(Alexi Rilets)の設計と裕福なブルガリア人などからの多額の浄財とによって1862年に再建されます。修道院内の複合建築物には、ブルガリアの言語や文化を代表する書物や遺品を所蔵し、収蔵所としての役割を果たしています。

UNESCOの世界遺産に登録されたのは1983年です。今もブルガリア正教会から手厚い援助を受けています。ブルガリアの最も文化的、歴史的、建築学的に重要な遺跡の一つといわれています。

イスタンブルとソフィアの旅から その16 「ヨーロッパの火薬庫」

誠に短い時間でしたがバルカン半島の一部を旅しました。ヨーロッパとアジアの接点にある半島であるがゆえに、民族紛争や覇権争い、戦争が数多く起こったところです。バルカン半島は、「ヨーロッパの火薬庫」(European gunpowder)とも呼ばれました。遙か昔の話しですが、こうした事実は高校の北海道旭川西高校時代の世界史で学びました。バルカン半島を訪ねたときその頃を思い出しました。

バルカン半島の多くがトルコの支配下にありました。しかし、トルコの支配力低下と共に国民国家の概念がもたらされます。ギリシア正教(Greek Orthodox)やスラヴ(Slavs)民族主義の関係を利用してロシア帝国がこの地域へ勢力を伸ばそうとしたことで、ロシアとオーストリア、トルコの対立が先鋭化していきます。1914年6月、オーストリアとハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント(Franz Ferdinand)大公夫妻が銃撃されるというサラエボ(Sarajevo)事件を契機に第一次世界大戦が勃発します。

バルカン半島の地図を見れば、いかに領土や覇権を巡る争いが多いかったことは次の国々がひしめいていることでわかります。スロバキア(Slovakia)、スロベニア(Slovenia)、クロアチア(Croatia)、ボスニア(Bosnia)、セルビア(Serbia)、モンテネグロ(Montenegro)、コソボ(Kosovo)、マケドニア(Macedonia)、アルバニア(Albania)、モルドヴァMoldova)、ハンガリー(Hungary)、ルーマニア(Rumania)、ブルガリア(Bulgaria)、ギリシュ(Greece)、トルコ。皆、民族と宗教の違いが色濃く反映される地域です。民族の多様性とは一体人々を幸せにしてきたのか、と問いたくなります。バルカン半島は、これからも目を話せないかもしれないのです。特にシリア(Syria)が絡む難民問題などです。

世界史でユーゴスラビア国のチトー(Tito)という大統領のことを少し学びました。この社会主義連邦共和連邦の解体がユーゴスラビア紛争へ繋がります。そして、スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立します。1992年、セルビア共和国とモンテネグロ共和国から成るユーゴスラビア連邦共和国が成立します。その間のバルカン半島での政治闘争は悲惨なものでした。

イスタンブルとソフィアの旅から その15 ブルガリアの生い立ち

ブルガリアはWikipediaによると、東ローマ帝国、ブルガリア帝国、オスマン帝国、ロシアの保護国、ブルガリア王国、ブルガリア人民共和国を経て、共産党の崩壊とともに2001年に現在の共和国となったとあります。

以上のようなブルガリアの建国への歴史は、この国に出掛ける前に学習はしておきました。今回なぜブルガリの首都ソフィア(Sofia)を訪ねたかです。一度も行ったことがなかったこと、トルコに近いこと、そして私にはヨーグルトを除いてあまり馴染みがない国だからです。

首都ソフィアは7世紀までは東ローマ帝国領であったために、多くの歴史的な遺跡が発見され、今も城塞、教会、住居、排水溝、公共風呂などの発掘調査が続いています。宗教では、ブルガリア正教会、イスラム教、ローマ・カトリックと多彩です。公用語はブルガリア語です。ブルガリア語で用いる文字は全30文字で、ロシア語で使われるキリル文字(Cyrillic)と似ています。通貨はレフ(lev)。1レフは60円くらいです。

東欧と呼ばれる地域は、戦争の渦中に巻き込まれた歴史があります。多くの民族がひしめき、争いが絶えなかったようです。ブルガリアもそうです。政治と経済、そして宗教の違いが絡むといっそう複雑になります。それでもブルガリはヨーロッパの影響を色濃く残しています。民族、服装、食文化、、、、やがて1989年に起こった一連の東欧革命の流れの中で共産党独裁が揺らぎ、ブルガリアでも民主化要求が高まります。東ヨーロッパ全体に共産党支配と抑圧からの解放の機運がひろがるのです。

1991年にはソビエト連邦が崩壊すると共に、ブルガリア共和国が2001年に成立します。そして2007年には欧州連合(EU))に加盟し、ユーロが使えるようになりました。長く続いた共産主義の統治は終わりこれから発展しようとする気概が感じられる国です。

イスタンブルとソフィアの旅から その14 ブルガリアとバルカン半島

ブルガリア(Bulgaria)はバルカン(Balkan)半島東部にあります。南はトルコとギリシャ(Greece)、西はユーゴスラビア(Yugoslavia) とマケドニア(Macedonia)、北はドナウ川(Danube)を隔ててルーマニア(Romania)、東は黒海(Black Sea)に面する人口847万人の国です。首都はソフィア(Sofia)です。この国の公用語はブルガリア語。文字はロシア語と同じキリル文字(Cyrillic)を用います。

ブルガリアのバルカン半島における歴史を少し振り返ります。オスマン帝国に対抗するバルカン同盟(Balkan League)が、ブルガリア、セルビア(Serbia)、モンテネグロ(Montenegro)、ギリシャの間で締結されます。そして1912年10月にオスマンへ宣戦布告をします。これは第一次バルカン戦争(First Balkan War)と呼ばれています。翌年1913年6月に第二次バルカン戦争(Second Balkan War)が起こります。ブルガリアが第一次バルカン戦争での取り分に不満を抱き、セルビア、ギリシャ、ルーマニアへの宣戦布告をした戦争です。しかし、ブルガリアは敗北し、ロンドン条約(Treaty of London)やコンスタンティノープル条約(Constantinople Treaty)によって国土は大きく戦勝国に割譲する結果となります。オスマン帝国もまたこの二つの戦争の結果、イスタンブル付近を除くバルカン半島の領土を失うことになります。

かつてのオスマン領はオーストリアの汎ゲルマン主義(Pan-Germanism)とロシアの汎スラヴ主義(Pan-Slavicism)の争奪戦によって浸食され、両陣営の対立によってバルカン半島は、前稿で述べましたが「ヨーロッパの火薬庫」と言われるようになります。1914年6月のセルビア人の民族統一主義者がオーストリア=ハンガリー帝国大公を殺害し、1914年7月にはオーストリアがセルビアに宣戦布告して第一次世界大戦が勃発します。1939年9月に始まった第二次世界大戦で枢軸国陣営と連合国陣営のなかで、ブルガリアは当初は枢軸国側につき、枢軸国側が劣勢となると連合国側に鞍替えします。戦後は、共産主義国家・ブルガリア人民共和国となり、ソ連邦16番目の共和国となります。

1989年には、東欧改革はブルガリアにも及び、反体制派の連合体である民主勢力同盟が成立します。この同盟は下からの国民の改革意欲と不満を吸い上げ、共産党との対立姿勢を明確にします。1991年7月に大国民議会でブルガリアは議会制と大統領制を備えた共和国となります。それまでは長らくブルガリアは共産党中央委員会が統治の中心となっていました。ワルシャワ条約機構の解体に伴い、軍隊機構も改革され、憲法は信教の自由を認めます。他方でブルガリア共和国は伝統的宗教を東方教会であると規定しています。

イスタンブルとソフィアの旅から その13 ブルガリアへ

ブルガリア(Bulgaria)と首都ソフィア(Sofia)の旅の見聞を振り返ってみることにします。トルコの西隣にあるのがブルガリアです。「ヨーロッパの火薬庫」(European gunpowder)と呼ばれるバルカン(Balcan)半島にあり、東はトルコと黒海に面し、西にセルビア(Serbia)、南にギリシャ(Greece)、北にルーマニア(Romania)、マケドニア(Macedonia)と隣接しています。「ヨーロッパの火薬庫」については後述することにします。

トルコへの旅を計画したときは、是非とも、もう一カ国を訪ねたいと考えておりました。選んだのがブルガリです。イスタンブルから飛行機で一時間の距離です。首都は甘い響きのソフィア。ソフィアはギリシア語で叡智とか知性という意味です。哲学は英語でPhilosophy, Philosophiaですね。Philoとは愛という意味です。SophiaとかSophieなどとして使われる女性名詞です。イタリアの大女優ソフィア・ローレン(Sophia Loren)をご存知ですね。私ごとですが孫娘もSophia。この名前や都市のほか組織にも使われます。上智大学(Sophia University)がそうです。

ソフィアはヨーロッパ最古の都市の一つであり、その名はかつて東ヨーロッパ周辺に住んでいた民族トラキア人(Thracia)の集落、セルディカ(Serdica)と呼ばれていたとあります。有史以前のトラキア人集落跡が現在のソフィアの中心で見つかります。その歴史は7千年以上に及ぶとされます。紀元前29年にセルディカは古代ローマによって征服されます。

セルディカは拡大し、やぐら、防壁、公衆浴場、役所、一般の教会堂より上位にある教会堂であるバシリカ(basilica)が造られます。特に。東ローマ帝国のユスティニアヌス1世(Justinian I)の時代には繁栄を謳歌したうようです。この時のセルディカは巨大な城壁に囲まれており、その一部は遺跡としてソフィアのダウンタウンで見られます。そういえば、ダウンタウンの駅名もSerdicaで名残を留めています。セルディカの発掘と保存作業は現在も続いています。

イスタンブルとソフィアの旅から その12 トルコと日本

トルコ人は日本人に対して親しみを持ち、両国間で友好関係が築かれているといわれます。しかし、それは官僚や一部の政治家からみたステレオタイプな観察のようです。そのことが今回の話題です。

今や、トルコの経済はヨーロッパや中東諸国、そして中国に依存しつつあります。貿易で栄えたトルコは、昔から経済活動に非常に敏感で旺盛な国です。欧米や中国、韓国、日本に対して多くの投資を期待し、企業の参入を競わせているのがトルコです。日本で喧伝されるほど一般国民の日本に対する関心は必ずしも高いとはいえないようです。

1890年の和歌山県串本町沖でのエルトゥールル号(Ertugrul)遭難事件、1905年ロシアとの日本海海戦での勝利などは、多くのトルコ人の記憶から忘れられています。10月末のボスポラス海峡横断地下鉄開業にあたり、安倍首相がトルコを訪問しましたが、トルコへの企業の進出はヨーロッパや中国に比べて遅れているようです。経済連携協定(Economic Partnership Agreement:EPA)に向けた交渉は今も続いています。

経産省の資料によれば、2012年度のトルコの総貿易額は輸入が輸出を大幅に上回っています。輸出先ではEU(47%),イラク(6.2%),中国(9.0%)、ロシア(4.4%)、日本(1.5%)でこれは,第12位にあたります。輸入ではEU(37.9%),ロシア(9.9%),中国(9.0%)、日本(1.8%)となっており、輸入額の順位では第10位という状態です。いずれも中国や韓国には及びません。2016年の名目GDPは約8,600億US$であり、2020年には1兆US$を超えると予測されています。

元々親日的といわれたトルコではありますが、このような貿易高の統計や実体経済からすれば、まだまだ両国の関係は深いとはいえないのではないでしょうか。

イスタンブルとソフィアの旅から その11 トルコとEU

トルコは地理的、経済的に潜在性の高い国の1つといわれ、日本の企業にとっても耳目が集まる重要な国となっています。その例は、トルコの人口の急激な増加があります。若年層が多く消費も旺盛なのが特徴なのです。イスタンブルには大きなショッピング・モールがいくつもあり賑わっています。

しかし、トルコは輸入超過国であり、投資家がリスクを回避しようとして資本を引き揚げるという懸念も取り沙汰されています。事実、通貨であるリラと株が売られ、他の新興国ど同様に資本が国外に流失したこともあります。さらに市民の生活や雇用、住宅などの不安が広まり政権に対する抗議デモも続き、2020年のオリンピックの招致に失敗したのも事実です。

トルコはそうした国内の経済の不安定な状態から脱却することに腐心しながら、欧州連合(EU)への加盟を以前から模索しています。ですがEUは経済情勢のみならす、クルド人への人権抑圧などを理由に、トルコの加盟には慎重な態度をとっています。トルコにとっては、ヨーロッパ、アジア、中東への地政学上の有利さをいかして、貿易の振興を図るためには、米ドルに次いで信用のある第2の基軸通貨とされるユーロを導入するのが必要とされています。そのためにもEU加盟は悲願なのです。如何せんトルコリラは信用度が低いままです。2018年にリラがおよそ30%も下落しインフレ率と金利が急上昇、内需が急激に縮小し、成長が著しく鈍化しました。

イスタンブルとソフィアの旅から その10 歴史の栄華と衰退 その3 イスラム教の多様性

イスタンブルは昔から交易で栄えた都市です。街に活気があるのは、グランドバザールを始め、街頭でも賑やかに商取引が繰り広げられていることからも伺えます。

ブリタニカによりますとイスラムの教えには、公正の実現というのがあります。その代表が商取引です。不正な取引や法外な儲けなどは戒められています。儲けたものは、弱者に施すという精神も大事にされます。五行にある喜捨の考えです。つまり富める者は喜んで捧げ、助けるということでしょう。欲望を抑制することが大事なのです。

一夫多妻制(polygamy)もこの救済という精神の延長であるという説があります。今もイスラムの世界では男性は4人まで妻を娶ることができるとあります。どの妻に対しても公平に愛情を注ぐことが定められているようです。建前上は、母子家庭の救済が一夫多妻制の考えにあるという主張もあるとききます。ですが現在は、イスラムの社会では一夫一妻がほとんどとなっています。

品行を保ち、堕落を防ぐために、自由を束縛する教えもあります。女性に対して家族や女性以外の者に顔や髪を隠すことを強いるのもそうです。飲酒は理性を失わせるという理由で、酒は戒律上は禁止されています。しかし、レストランやホテル、自宅では飲酒は自由です。タバコを吸うムスリムも多くいます。

女性の服装も多様になっています。男性の視線を遠ざけるために、体は包み隠すべしという考えもあります。外出の時全身を覆う黒い服装をしたり、スカーフをする女性も多いです。他方、若い女性にはジーンズや半袖姿も見られるのがイスタンブルです。

日本や欧米には、今も一部の原理主義派の活動から、イスラム教が厳しい戒律を有し、教条的な側面が強調される傾向があります。これは偏った見方のような気がします。イスラムの世界に存在する文化的、社会的、性的な抑圧に対して、宗教的、非宗教的な手段によって抵抗するリベラルなイスラム主義者が多数存在することも忘れてはならないと思うのです。イスラムの教えの縛りは社会の変化によって緩和されているのでしょう。

イスタンブルとソフィアの旅から その9 歴史の栄華と衰退 その2 法学者とムスリム

本当に短いイスタンブルの滞在でした。にも関わらずトルコの宗教について感想を記すのは誠に口はばったいのですが、敢えてそれに挑戦してみます。トルコという国は宗教色が強く、それも多様な側面を示すというのが印象です。超越的な存在に対する態度、すなわち信仰の表れが随所に見られることです。礼拝や巡礼が盛んなのです。早朝から夕方まで5回の礼拝への呼び掛けアザーン(Adhan)がミナレット(Minaret)と呼ばれる塔から響き渡ります。モスクや寺院は町にも村のどこにもあります。そしていつでも開放されていて、ムスリム(Mulim)と呼ばれる信徒は両膝をついて拝礼する姿が見られます。礼拝前には清浄を重んじ、礼拝堂入り口付近には顔や足の洗い場があります。

モスクに入ると法学者とムスリムが礼拝堂で丸くなって対話しています。イスラムにはキリスト教会と違って聖職者はいません。いろいろな相談事を打ち明けているのでしょうか。ムスリム同士の相互扶助はイスラム教の大事な実践とされているとききます。ムスリムには五行を日常生活を通して実践する教えがあります。五行とは、信仰、礼拝、喜捨、断食、そして巡礼です。

もともとイスラム社会は正教一元論に立っています。それ故、イスラムには政教分離は存在しないはずです。しかし、トルコは憲法でイスラム教を国教とはしていません。オスマン帝国のサルタンは西欧化主義によって国を繁栄させようとしてきました。その代表はアタテュルクです。彼の影響は国の隅々まで絶大だといわれます。

興味あることは、トルコはイスラム教徒が95%といわれますが、イスラム法というものを一切使っていません。全部、ヨーロッパ法を使っています。完全に政教を分離したのです。その意味でトルコは「世俗国家」と呼ぶことできそうです。他方イランやサウジアラビアは正教一元論の国です。トルコでは政治的なイスラム主義、あるいはイスラム原理主義は極めて少数派のようです。

トルコにおけるエスノセントリズム(ethnocentrism)という自文化中心主義のことですが、他の宗教や文化を批判したり否定する態度はどうも少ないようです。寛容の教えがイスラム教にあるからだろうと察します。イスタンブルを歩くとイスラム世界というのは、私たちが抱くような峻厳な戒律の教えの国というイメージとはどうも違います。

イスタンブルとソフィアの旅から その8 歴史の栄華と衰退 その1 宗教

どの国にも栄枯盛衰の歴史があります。トルコも幾多の変遷を経た歴史があります。それが今回のテーマです。歴史は民族と宗教が絡み微妙で複雑でありますが、敢えて取り上げなければ旅は終わらないという心境です。どうぞお付き合いください。

建国の柱には宗教や為政者があると思われます。民族をまとめ、国をある方向へ導くために支柱となるのが宗教とかカリスマ的な存在です。超越的なものに対する人々の態度、すなわち信仰がそうです。宗教には必ず教義や原理があります。峻厳な戒律があれば、寛容で緩やかな縛りのものもあります。ですが他の宗教には妥協しないのが宗教たる所以でもあります。共通な教えがあったとしても、それは末梢的なことです。普遍的なこと、譲ることのないものが人々に受け入れられかどうかによって、世界宗教となるか民族宗教となるかというです。

宗教を円で表してみましょう。円の状態が全く離れている、接点がある、重なる部分があるというが考えられます。原理主義や教条的な宗教は、他とは全くの接点がないと考えられます。教義や戒律に勝手な解釈を許さず、教えの一言一句に妥協しないことが特徴です。相互理解とか寛容の精神などという妥協は許さないのです。

これが徹底すると征服とか支配という現象が起こります。支配する者と抑圧される者の緊張です。中世カトリック教会の諸国が、イスラム教諸国から聖地エルサレムを奪還することを目指して派遣した遠征軍、十字軍(Crusader)はその例です。異なる民族から成る国には、多数者と少数者の緊張が絶えず起こりがちです。この緊張が昂じると民族主義を標榜した独立運動が起こりがちです。国が強力な軍事力を持つとき運動は鎮圧されますが、一旦国の経済が疲弊し支配力が弱まると、政教のたががはずれ内部から瓦解していきます。

今もトルコには、ロシア正教(Russian Orthdox Church)、アルメニア使徒教(Armenian Apostolic Church)、ユダヤ教(Judaism)、カトリック、プロテスタントなども存在します。オスマン帝国末期からトルコ共和国成立に至る経緯で、こうした少数民族は、抑圧や排除の歴史を経て信仰を守っています。建国の父といわれたアタテュルク(Mustafa Kemal Ataturk)が、憲法からイスラムを国教と定める条文を外したことも、宗教が共存している大きな理由です。トルコの歴史は宗教の歴史ともいえそうです。

イスタンブルとソフィアの旅から その7 トルコと英語

電車、バス、地下鉄を利用しトルコの一部の地域しか旅をしませんでした。その間気がついたことがあります。東西の交通や貿易の要所であり、経済や文化、歴史の中心地であるイスタンブルは別として、地方では英語が余り通じないことでした。

初代大統領のアタテュルクはアラビア文字を廃止して、公用文字としてラテン文字(Latinum)に改める文字改革を断行したのですが、こと英語については国民の間に広まっているとは思えません。このような状態はイスラム教の影響なのか、ナショナリズムの影響なのか、学校教育の課題なのかはよくわかりません。

顧みて我が国の英語の普及についてです。2011年度より新学習指導要領が全面実施され、小学校での英語教育は、5年生、6年生で年間35単位時間の「外国語活動」が必修化されました。その内容は歌、ゲームなどをとおして英語に親しむ内容です。2020年から、5年生、6年生は英語が年間70時間の正式教科になります。なお、3年生、4年生は年35時間の「外国語活動」となり、基本担任の先生が英語を教えることになっています。果たして教員は英語の指導力をつけているのでしょうか。

ラテン文字を使わない私たちと違い、トルコの人々はラテン文字を使っているのですから、もっと英語が普及してもおかしくありません。トルコも含めて多くのアジアの国々で母国語以外の外国語、たとえば英語が人々の口から自然に出てくるならば、政治も経済も科学技術も振興し、観光客も増え、「おもてなし」 も手厚くなるのではないかと思われます。

イスタンブルとソフィアの旅から その6 トルコ共和国の誕生

1918年10月、第一次世界大戦においてオスマン帝国は連合国に降伏し、君主スルタン(Sultan)のメフメト6世(Mehmed VI)の政府は連合国との間で講和のセーヴル条約(Treaty of Sevres)を締結します。その結果、領土の大半を失うこととなりイスタンブルは連合国に占領されてしまいます。

大戦の敗北によって、ばらばらになったトルコ内では、旧帝国軍人や旧勢力、進歩派の人たちが国の独立を訴えて武装抵抗運動を起こします。1920年には中央アナトリアのアンカラ(Ankara)に抵抗政権を樹立します。大国民議会という組織が祖国解放戦争に勝利し、オスマン帝国を打倒して新たにトルコ共和国を樹立しようという一連の抵抗運動です。これはトルコ独立戦争と呼ばれています。1922年9月、ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Ataturk)を初代大統領として推戴し、現在のトルコ共和国が生まれます。

アタテュルクは、大胆な欧化政策を断行します。ヨーロッパのさまざまな法典が、古いイスラムの法律にとってかわります。1928年には憲法からイスラムを国教と定める条文を削除します。トルコ住民の95%以上はイスラム教徒で、スンニ派(Sunni)と呼ばれます。1923年の共和国樹立後における革命的な変化の結果、公的活動に及ぼす宗教の影響は低下します。

アタテュルクは、トルコ語の表記についてもアラビア文字を廃止してラテン文字(ローマ字)に改める文字改革を断行したことで知られています。学校と社会生活は、宗教から分離されます。アタテュルクの名前はイスタンブル国際空港や大学、紙幣、道路などに広く使われています。しかし、欧化政策は今もイスラム主義者から根強い抵抗があるといわれていますが、救国の英雄、近代国家の樹立者としてトルコ国民の深い敬愛を受けているといわれます。

イスタンブルとソフィアの旅から その5 オスマン帝国の栄枯盛衰

オスマン帝国(Ottoman Empire)のことです。ブリタニカ百科事典によりますと、オスマンとういう言葉には人種的な意味はないとあります。帝国の始祖とみられるオスマン一世(Ottoman I)の名に由来する王朝名です。11世紀末以来、中・東部アナトリア(Anatolia)において優勢であったトルコ人が、残存していたビザンチン帝国のアジア領の大部分を奪取し地中海沿岸へと西進してできた国です。

15世紀には東ローマ帝国をほろぼして、その首都コンスタンチノポリスを征服し、イスタンブルと改称します。スレイマン一世(Suleiman)の治世である1520年から1566年がオスマン帝国の最盛期で、アジア・アフリカ・ヨーロッパにまがたる大帝国を築きます。

いつの時代も国の繁栄を持続するのは難しいようです。栄華を極めたオスマン帝国も例外ではありません。19世紀になると、オスマン帝国の各地では、エスノセントリズム(ethnocentrism)という自文化中心主義の考えによるナショナリズム(nationalism)が台頭します。民族主義とか愛国主義(patriotism)とも呼ばれる運動です。そして次々と諸民族が独立してゆきます。

詳しい歴史ははしょりますが、オスマン帝国は第一次世界大戦の敗北によりイギリス、フランス、イタリア、ギリシャなどの占領下におかれ完全に解体されます。ギリシャは、多数のギリシャ人居住地の併合を目指して旧オスマン帝国の領土であったアナトリア内陸部へと進出します。

ところでアナトリアは文明の発祥地と呼ばれ、ヒッタイト文明(Hittites)、フリギア文明(Phrygians)、古代ギリシア文明(Greece)が栄えたところといわれます。特にヒッタイトは高度な製鉄技術によりメソポタミア(Mesopotamia)を征服します。ヒッタイトは鉄器文化の発祥といわれています。今のトルコ領土の中心はアナトリアです。

イスタンブルとソフィアの旅から その4 ビザンチン帝国とイスタンブル

鯖サンドを売る広場の波止場から、またトプカプ宮殿(Topkapi Palace)の丘から金角湾が望めます。「アジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝と知られるようになったのは、天然の良港である金角湾にある」とWikipediaに記されています。宿のバルコニーからも金角湾上に沢山の船が見えます。金角湾を出た東にはボスポラス海峡(Bosphorus)があり、ここに2013年に日本の企業等が造った海峡を横断する鉄道トンネルがあります。

歴史の教科書を調べてみます。330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世(Constantine the Great)が、古代ギリシア(Greece)の植民都市ビュザンティオン(Byzantion)の地に建設した都市、これが今のイスタンブルです。ローマからビュザンティオンに首都を移し、ここを「新ローマ」と名付けます。ローマ帝国の東半分の帝国は、この地名にちなんでビザンチン帝国(Byzantine Empire)と呼ばれました。

イスタンブルの旧名はコンスタンティノポリス(Constantinopolis) とかコンスタンティノープル(Constantinople)と呼ばれました。イスタンブルの旧市街とはこのコンスタンティノープルのことです。コンスタンティノポリスは、コンスタンティヌスの町という意味です。ポリス(polis)という言葉は都市とか街のことです。ギリシャのアテネ(Athens)にあるアクロポリス(Acropolis)は、丘の上にある街(city at the top)とあります。誰もがアクロポリスついて高校の世界史でも習いました。

イスタンブルとソフィアの旅から その3 金角湾と鯖サンド

イスタンブル滞在中は、イスラム教のお祭りである「いけにえを捧げる日」、犠牲祭で、街は人々でごったがえししていました。足が棒になるくらい歩きながら、人々の表情を観察できました。家族連れで、有名なジャーミーのモスクやトプカプ宮殿(Topkap Palace)などの世界遺産を訪れる者、田舎から出てきて買い物をする人々で一杯でした。祝祭日とは民族の違いを超えて人々の暮らしに憩いと潤いを与える時です。

案内してくれた日本人学校の教師M.K.氏が面白いところへ連れて行くというのです。金角湾の波止場にある露天のファーストフードです。船縁では、ひらいた鯖を焼いています。それをパンにタマネギやキャベツを添えてサンドイッチにして売っています。坐るところをようやく探し鯖サンドをほおばります。ほとんどが家族連れで、周りはすべてこれを食べています。一個250円位。まことに手頃な値段ですが、数年前に比べて30%も値上がりしたようです。金角湾にかかるガラタ橋(Galata)の上では大勢の人々が釣りをしています。

国民の90%がイスラム教徒(Muslim)。アルコールは巷では買えません。イスタンブルの人々が魚と鳥を大いに食する気分を味わいながら、”ビールがあればもっとよいのにな” と思いました。アルコールはレストランでは注文することができます。トルコはワインでも知られ、その味もよいです。

ガラタ橋を渡るとカラキョイ地区(Karakoy)です。しばらく歩くと高さは67メートルの石造りのガラタ塔(Galata Tower)に着きます。”ビザンチン帝国(Byzantine Empire)時代の528年、アナスタシウス帝(Athanasius)が灯台として建設させたのがその始まり”とWikipediaにあります。塔にに登るのを待つ大勢の観光客を見て、下から塔を見上げることにしました。

イスタンブルとソフィアの旅から その2 電車でウル・ジャーミへ

私は、昔からいわゆる団体パック旅行はしません。旅の自由度が制限されるという偏見があるからです。ネットや旅行会社の窓口で航空券やホテルの値段を聞いて、その情報をネット上でも調べて比較し、いつも値段の一番安いのを選びます。あまり空港やダウンタウンから遠い宿は避けるようにします。タクシー代は馬鹿になりません。

空港からホテルへは、地下鉄や電車、バスを利用して出費をケチります。乗り放題の券を買うと小銭を使って切符を求める手間が省けます。イスタンブルやソフィアでも、もっぱらこうした公共交通機関を利用しました。

イスタンブルから、オスマン帝国(Ottoman Empire)の最初の首都ブルサ(Bursa)という街へ行ったときです。高速船に乗り、次ぎにバスで電車駅まで向かい、そこからブルサ市街に電車を利用しました。バスや電車に乗るときは乗り放題の券が使えます。目指す電車に乗り込むと、座席はほぼ一杯。だが、青年が二人さっと立って席を譲ってくれました。もちろん、使い始めた「ティッシュキュル(Tesekkur)」 ”ありがとう”を使います。降りる駅を聞くと英語が通じません。側に立っていた若い女性が流暢ではないが、綺麗な英語で加勢してくれました。

1326年から1365年までにオスマン帝国が首都として選んだところがブルサです。帝国初期のスルタン(Sultan)の廟が残り、緑が溢れる街です。ブルサにある由緒あるモスク(Mosque)、ウル・ジャーミ(Ulu Camil)が目当てです。現地ではジャーミー(Camil)と呼ばれます。木製の説教壇の細工や内部の壁にあるイスラム書画(カリグラフィ)が美しいと本に書かれています。駅で出会った英語のできる女性にそのモスクへの行き方をきくと、彼女はトルコ語のメモを書いてくれ、”これを歩行者に見せるといい”と言ってくれました。

“ウル・ジャーミへ行きたいのですが” Ulu camiye gitmek istiyarum.
“オルハン・ガージィー・ジャーミへ行きたいのですが”  Orhan Gazi camil gitmek istiyarum.

女性にどこで英語を学んだかを尋ねますと、大学の看護学部で学んだそうです。今は、イスタンブルの病院で看護師をしているとのこと。この清楚で親切な女性から渡されたメモのお陰で、歴史的な遺産を存分に満喫できました。

イスタンブルとソフィアを行く その1 人々の言葉と笑顔

外国に出掛けて意思が伝わらないのは、なんとも歯がゆいものです。例えば、親子が電車やバスの隣の席に座っているとき「何歳になりましたか」と保護者にききたいのですが、英語圏以外の言葉でそのフレーズがでてきません。私は、これまで英語圏の国々への旅がほとんどでした。ドイツ語も1年半勉強したり讃美歌や歌曲、合唱曲を歌ってきたので会話はできます。ハングルも自前で数年間勉強し、簡単な読み書きや会話はできます。

言葉に関して、トルコ(Turkey)とブルガリア(Bulgaria)に行ったときの経験を記してみます。トルコ語(Turkish)とブルガリア語(Bulgarian)には少々難渋しました。ネットや「〜の歩き方」の本で一夜漬けの勉強したのですが、フレーズを一度使い10分もするとそれが出てこないのでメモに目をやるのです。幸い、イスタンブル(Istanbul)やブルガリアの首都ソフィア(Sofia)では大学生に英語で道を聞いたり、質問すると英語で答えてくれました。さすがに大学生です。大抵ビジネスマンやウーマンも英語は通じます。グランドバザールや店の経営者らしき人も、ほとんど英語はたどたどしいながら習得しています。観光客が多いので商売では英語は必須です。

それぞれの国の言語には方言もあり、そうたやすく習得できるものではありません。しかし、人々の笑顔や挙措から、言葉では通じない暖かさを感じとることができるのは万国共通です。これからトルコとブルガリアの旅にお付き合いください。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

世界を旅する その二十二 アイルランド その10 スウィフトと合理主義

「世界を旅する–アイルランド」は今回でお終いです。話題が尽きました(; ;) おさらいですが、アイルランド人はアイリッシュ(The Irish)と呼ばれます。アイリッシュであったスウィフトは、散文風刺作家であっただけでなく、教会の聖職者、一流のジャーナリストでもありました。1710年頃、イギリスは二大政党であったトーリー党(Tory)とホイッグ党(Whig)が政権争いをしていました。前者は現在の保守党の前身、後者は後の自由党です。両党とも有力貴族出身の議員を中心とする派閥の連合体でありました。

スウィフトはホイッグ党の支持者でした。トーリー党は伝統的に王権神授説(The Doctrine of Divine Right of Kings)を信奉してきました。スウィフトそれを否定し、究極の主権は国民にあると主張し、それはイギリスの政体においては国王、貴族、庶民の協力によって行使され、三者の間で権力のバランスが図られることが専制を防ぐ保証となると考えたのです。

スウィフトは1720年頃からアイルランドの政治や社会問題についてのパンフレットを数多く書きます。アイルランドの後進性を知っていたスウィフトは、それをイングランド人の責任に帰しながらも、アイルランド自身がその運命を改善する方途を考えるように注意を喚起していきます。そうした問題意識をとらえたのがガリヴァー旅行記です。

ガリヴァー旅行記の原題は「レミュエル・ガリヴァーの筆になる遠い世界の国々の探訪記」といいます。1725年に脱稿したとき、友人への手紙の中で「世間を楽しませるよりはむしろ、腹立たせるためにこれを書いた」と云っています。立腹させる対象はイングランド人だったようです。

スウィフトの思想は、17世紀後半のイギリスの合理主義(rationalism)にありました。日本大百科全書(ニッポニカ)によりますと、合理主義とは「非合理的、偶然的なものを排し、理性的、論理的、必然的なものを尊重する立場」とあります。感覚的経験によってではなく、理性的な思考によって導かれたもののみを確実な認識であるとします。強い道徳的な傾向や常識の尊重ではなく、人間行為の評価の基準と遵守すべき規範とはなにかという考えをスウィフトに与えます。ガリヴァー旅行記には、そうしたスウィフトの思いが風刺にいきいきと表現されています。

世界を旅する その二十一 アイルランド その9 ガリヴァー旅行記 その3 ”この国には乞食はいない”

第三の冒険をする場所は、ラピュータ(Laputa)という空中を浮遊する国です。ガリヴァーは、ラピュータの学問は途方もなく壮大で大仰なもので、それも実用的ではないことを知ります。例えば収穫高が100倍になるという触れ込みのラピュータ式農法は全く失敗に終わり、土地が荒廃する結果となったということを知るのです。

ガリヴァーは、ラピュータ国の陛下にイギリスの歴史を語って聴かせます。陛下は驚かれ、イギリスとは陰謀と反逆、殺人と虐殺、革命と排斥ばかりの国であると思ってしまうのです。陛下は、その理由として人間の欲望と憎しみ、不実、暗黒、狂気、嫉妬、野望といった最悪の罪によって生み出されものではないかと考えていきます。ガリヴァーの話を聴いていた陛下は、「お前はかなり腐りきった国からやって来たようだ!!」と叫ぶのです。

最後の冒険は、フウイヌム国(Houyhnhnm)です。この国は、理性のある馬が支配する国です。馬は悪徳、支配欲や物欲、憎悪や嫉妬などの非道徳的な感情も持ちません。フウイヌムには、人間によく似た卑しく忌み嫌われる動物がいます。それはヤフー(Yahoo)と呼ばれていました。それでも陛下は、フウイヌムには権力や政治、戦争というものはないこと、「うそ」という概念が理解できない国であるとガリヴァーにいいます。年をとったり病気になった場合、施設で面倒をみてもらえる、そういうわけで、この国には乞食はいないとも説明するのです。