クリスマス・アドベント その26 Intermission ネットワークとLearning Management System

学校の管理職は、それぞれの部門がどのように機能しているかを把握すること、適切な指示を出すことだ。教員は部門の目標にそって自分が行っていることを報告することが要求される。いわゆる「ほうれんそう」だが、これもグループウェアで実現できる。管理職には実に便利なツールだ。

2000年代になると大学でもグループウェアが頻繁に使われていく。学生と教員との意思の疎通、スケジュール管理、課題や試験の管理、成績管理などに使われるのである。映像、音声、教材コンテンツが遠隔でも利用されるようになった。

筆者も指導する大学院生、学部生との連絡に、そして授業科目のシラバス、受講生との連絡、授業予定、課題の指示と評価にグループウェアが必要だと考えた。

いくつかの汎用のグループウェアに刺激されて、オープンソースも登場する。こうしたソースは通常、Learning Management System, LMS と呼ばれて、いわゆるe-Learningを後押しすることになった。兵庫教育大学では始めてこれを利用した。アメリカとカナダで開発された大学用のグループウェアを購入して使い始めた。院生らとでそのグループウェアの開発会社が主催した集会にも参加し、大学におけるLMSの事例をつぶさに観察した。

LMSの活用はアメリカの大学や教育委員会、そして現場の学校視察から得た知見が役立った。

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クリスマス・アドベント その25 Intermission ネットワークが学校に

米国での話。中位以上の市には教育情報センターがある。教員の研修や講習会、ネットワークの管理や維持、教材開発、他機関や企業からのサンプル教材や教育情報の調査などが主たる業務のようである。学校での利用にふさわしいとあれば、それをリソースセンター(図書館)を通して学校へ提供する。ネットワークが張られるからできることだ。

1980年代後半になると、どの教室にも端末が置かれる。教師も教育委員会からメールアドレスをもらうようになる。こうして教師は、自分の教室で教育委員会や学校長からの連絡はで直接読むことになる。毎日のメールや連絡事項、スケジュールをいやがおうでも読まなければならない時代がやってきたのである。こうしてネットワークにつながるコンピュータが登場すると学校内の連絡網は一変する。

学校の規模が大きくなると、全員が集まって意思の疎通をはかることが困難になる。組織が部門毎に小単位で動くようになる。部門や個人を結びつけ、それぞれがなにを行っているかを把握する仕掛けがグループウェアだ。

校長からの連絡などは、各自のコンピュータ上に流れてくる。教職員のスケジュールを管理する機能も使われる。誰がどこへいつ出張するのか、どのような会議が予定されているのかがわかる。設備備品の貸し出しなどの予約、会議室の予約状況を管理できる。こうした機能は学校全体のスケジュールに連動することが多い。また、会議に参加するメンバーを指定し、必要な書類を登録しておいて各自がそれを持参する仕組みもできる。議事録を保存し欠席した者が過去の会議記録を参照することができる。参照するか否かはわからないが、、、

文書などもいちいちコピーして配るのではなく、各自が画面で確認したりプリントできるなど、校務の効率化を計ることができるようになる。グループウェアは、皆がきちんと毎日目を通したり、書き込みをすることでその役割と機能が増加する。使うことを怠ると組織にも個人にも被害が及ぶ。「知ななかった」とか「連絡を受けていなかった」という言い訳はできなくなる。

やがて個別の指導計画(IEP)作成や指導に関する情報もネットワークで管理されるようになる。

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クリスマス・アドベント その24 Intermission ITと電子黒板

12月21日の産経の記事には驚く。インターネットをはじめ情報通信技術(IT)の開発や普及が進む中、教育現場でもIT活用が広まっているというのである。国は2020年までに、学校に1人1台のタブレット端末の整備を目指しているそうである。それに呼応するかのように、教科書会社などでもさまざまデジタル教材を開発しているときく。

こんな記事を読むと、まるで1990年代に戻ったかのような錯覚にとらわれる。教師側の習熟不足で“宝の持ち腐れ”になるなどの課題が懸念されている。さらに生徒が自分のタブレットを落としたり紛失しやしないか、他のタブレットにアクセスしてデータを書き換えたりしないか、ゲームに夢中になりすぎやしないかという心配である。

コンピュータが学校に導入された頃の話である。ある業者が「学校というところは実に甘い汁を吸えるところだ」といっていた。どうしてかというと、「一旦学校に納入した機器はメインテナンスフリーだ」というのである。機器は使われないので故障もなく、やがて3、4年で機器の更新がやってきてまたいい思いをする、というのである。その例が教室にある電子黒板である。

会計検査院は今年10月、国の補助金で学校に配備された電子黒板のうち、多くが活用されていないとして、文科省に是正を求める意見を求めたそうである。2009年度の補助金で学校に配備した7,838台の電子黒板の活用状況を調査したところ、半数以上の4,215台は毎月の平均利用率が10%未満であるというのである。そのうち1,732台はDVD教材を流すだけなど、電子黒板特有の機能が生かされていなかった。

活用していない理由を教師に聞いたところ、▽「操作方法が難解」17.4%▽「活用のイメージが持てない」12.7%▽「研修などが不足」12.5%など、教師側の習熟不足にかかわる理由が4割以上を占めたという。これは、教師の研修が盛んに叫ばれた1990年代に聞いた話ではないか。

現在、次の学習指導要領の主役として「アクティブ・ラーニング」が取り沙汰されている。「能動的学習」と訳されているようだ。わざわざこのように呼ばなくても「自主的学習」でいいと思うのだが。文科省では「課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習」ということらしい。「能動的学習」は観察や実験を通じて現象を確認し、「自分の考えを図に整理し、それを教師がタブレットPCで撮影し、いくつかの案を電子黒板に映して共有、学級全体の考えを分類し自分の考えと比較する」というのだ。新しいことといえば「タブレットPCで撮影し」くらい。「総合的な学習の時間」は舞台から去るのだろう。

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クリスマス・アドベント その23 Intermission ITとOSの悩み

医療界から教育界に目を向けて情報通信技術:ITの活用を考える。1987年にハイパーカード(HyperCard)という商用アプリケーションが爆発的に市場にでまわり、それが学校にも浸透し始めた。Machintosh上でカードを用い、カードとカードをつなぐリンクとしてはボタンを用いる。カードの上にはボタンの他にテキストや画像を配置することができた。プログラムを記述するにはHyperTalkと呼ばれる言語を用いる。「デスクトップ」、「メニュー」、「ボタン」、「アイコン」などを使うので、操作性に優れ、直感的な操作が可能となった。こうした環境はGUI(グラフィカルユーザインタフェース)と呼ばれた。

HyperCardでは、プログラムを直接記述しなくても教材を作ることができた。こうして、HyperCardはマルチメディアオーサリングツールといわれた。教師も親も簡単な教材が作れたのでHyperCardは一大文化のようなものを形成した。現在のKeynoteやPowerPointを見ていると、27年前に登場したHyperCard以来、進歩してきたとはさぼど思われない。

次から次へと新しいOSが登場し、そのたびにこれまで作成してきた教材が動作するのかはいつも話題となった。懸念したとおりHyperCardで作った教材はOSの変化ですっかりお蔵入りとなっている。IT時代とはいえ、OSとアプリケーションの互換性、そして機器の性能にはいつも悩ませられる。

初等中等教育は特にITの影響を受けやすい。上手に使えることができれば教育効果も高いはずである。だが、絶えず新しいITを追いかける習性があるのか、あるいは教師のIT活用技術が低いせいか、IT機器や教材は使われずじまいとなる傾向がある。
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クリスマス・アドベント その22 Intermission ガン研究とガン治療

以前、このブログで書いたことの続きと回想である。四半世紀以上も前、沖縄へ旅していたとき家内の胸部にしこりが見つかった。急ぎマディソンに戻り、ウィスコンシン大学病院へ入院し診断の数日後手術を受けた。

主治医のDr. George Bryan教授から手術の経過を聞くと、胸の周りにある12のリンパ腺に既にガン細胞が広がっていて全て除去したとのことだった。手術の経過を二人できいた。説明によれば最悪のガンの一つで、術後一年内に死亡するのは50%だという。この数字は全米の大学病院や総合病院をつなぐネットワーク上のデータベースによってわかるというのである。ガンの種類、人種、年齢、治療法などを組み合わせることによって、患者の生存率がわかるということだった。

化学療法(chemotherapy)による抗ガン剤にはたくさんの種類があり、それを組み合わせて治療すること、投与後の患者の様態をみながら薬の配合を変えるなどとのことだった。これを多剤併用療法という。こうした多剤併用による治療の効果は、ネットワーク上のデータベースによってわかるのだという。

一つのエピソードだが、Bryan教授は私が苦学生であることを知っていたので、高い入院や治療費のことを心配してくれ、自分が受ける報酬を返上してくださった。幸い私は家族の保険に入っていたので、診断から治療まで保険でカバーされた。一セントも払わなかった。

ガン研究とガン治療もネットワークのデータベースによって後押しされていることを実感した。33年も前のことである。

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クリスマス・アドベント その21 ”Ave Maria”

教会暦では降誕祭ともいわれるクリスマスは1月6日まで続く。ケーキやサンタクロースで浮かれたクリスマスは店じまいとなり、しめ縄飾りに切り替えるのはどうも節操がないような気がする。

筆者はどんな音楽にもこだわりなく楽しめる性分である。残念ながらというか仕方がないというか、どのような教会の所属するかによって、演奏したり歌ったりする音楽とそうでない音楽がある。カトリック教会から訣別したゆえに、ルーテル教会には決して演奏することのない音楽というか曲がある。「アヴェ・マリア」(ラテン語でAve Maria)という曲がそうだ。カトリック教会もマルチン・ルターが作曲した賛美歌「神はわが櫓」を歌うことはない。

これまでアヴェ・マリアはいろいろな作曲家が作ってきた。カトリック教会ではイエスの母、マリアを聖母として崇めている。アヴェ・マリアはマリアへの祈祷を指す。直訳すると受胎告知されたマリアに対して「恵まれた女よ、おめでとう」と呼びかける言葉である。ルカによる福音書(Gospel of Luke)1章26-38節の記述にある。

グレゴリオ聖歌などのミサ曲にも登場する。その他、祈祷のための教会音楽や祈祷文を歌詞にしたものなどさまざまな楽曲が存在する。16世紀スペインの作曲家トマス・ルイス・デ・ビクトリア(Tomas Luis de Victoria)やジョヴァンニ・パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina)、19世紀フランスの作曲家グノー(Charles Gounod)、同じく19世紀イタリアのロッシーニ(Gioachino Rossini)など多くの作曲家がアヴェ・マリアを残している。
https://www.youtube.com/watch?v=zDGMJsVzWNg

シューベルト(Franz P. Schubert)の晩年の歌曲「エレンの歌第3番」がアヴェ・マリアとして知られている。この曲はもともと宗教曲ではなかった。だが誰かがこの旋律にアヴェ・マリアの歌詞を付けて曲にしたとされる。このようにラテン語による典礼文を載せて歌うことは現代でもしばしばある。前述のグノーがバッハの「平均律クラヴィーア(Clavier)曲集 第1巻」の「前奏曲 第1番」の旋律にアヴェ・マリアをつけて完成させた声楽曲もそうだ。読者も必ずどこかで聴いたことがあるはずである。なおクラヴィーアとはオルガンを含む鍵盤を有する弦楽器のことである。
https://www.youtube.com/watch?v=mz7-6hC4tUs

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クリスマス・アドベント その20 ”The First Noel”

今日は12月25日。降臨節(Advent)の4週間目、礼拝堂では日曜日の礼拝毎にローソクが1本ずつ増え4本目に点火される。

ChristmasのMasはもともとはMassであり、礼拝とかミサを表す。従ってChristmasは「キリストの礼拝」となる。古事によるとChristmasは、元々12世紀頃の古英語ではCristesmassと綴られていたそうである。

ベブル語(Hebrew)の聖書にはMessiah(メシア、またはメサイア)が登場する。Messiahとは王様とか聖職者を意味する。王様はやがてキリストがMessiah=救世主として崇められるようになる。Messiahは特別に油や香料をそそがれたもの(anointed)、それが「救いをもたらす者」となった。

Christmasは別名、ラテン語(Latin)から派生した誕生(Christ Natalis)ともいわれる。スカンディナビア半島では11世紀頃からChristmasの祝いが始まったとされている。その誕生祝いのことを「Old Norse Jol」と呼んでいた。Scandinavian Peopleという意味だそうである。

時代がくだり、14世紀になると古いフランス語でノエル(Noël、英語ではNoel、または Nael)がChristmasとして使われる。Noelとはもともとは誕生という意味である。18世紀になるとこれが「The First Noel」という讃美歌に登場し世界中で親しまれるようになる。

The first Noel, the angels say
To Bethlehem’s shepherds as they lay.
At midnight watch, when keeping sheep,
The winter wild, the light snow deep.
Noel, Noel, Noel, Noel
Born is the King of Israel. (American version)
https://www.youtube.com/watch?v=ANUV9vD1zg8

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クリスマス・アドベント その19 ”Ave Verum Corpus”

”Ave Verum Corpus”は、アヴェ・ベルム・コルプスという題名がつく。モーツアルト(Wolfgangus Amadeus Mozart)から オーストリアの都市バーデン(Baden)教区教会のオルガニストで聖歌隊指揮者であったマートン・シュトル(Marton Schutol)への贈り物といわれる。シュトルはモーツアルトの崇拝者で、彼の曲を聖歌隊ではしばしば歌っていたといわれる。カトリック教会で用いられる聖体賛美歌といわれるが、

この曲はモテット(Mottetto)といわれる楽曲で、中世からルネッサンスにかけて成立したミサ曲以外の世俗的なポリフォニー(polyphony)といわれる多声部の宗教曲である。モテットとカンタータ(Cantata)の違いだが、モテットは短い曲で器楽が独奏する部分がなく、絶えず伴奏として演奏される。他方カンタータは主題にそって長い演奏が続き、独立した器楽の声部が合唱や朗唱に混じって随所に登場する。

”Ave Verum Corpus”とは「めでたし、乙女マリアより生まれ給いしまことの御身体」という意味である。最初はニ長調で始まり、途中でへ長調、そしてニ短調へと変わり、最後はニ長調へと転調される。たった四行のラテン語の歌詞、しかも46小節という短い曲ではあるが、その旋律は信仰が純化されるような味わいの響きを持つ。

https://www.youtube.com/watch?v=HXjn6srhAlY

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クリスマス・アドベント その18 ”The Twelve Days of Christmas”

この曲のタイトルにある12日間とはクリスマスの12月25日から1月6日までの降誕節のことである。この6日は顕現祭(Epiphany)と呼ばれ、イエス・キリストが神性を人々の前で表したことを記念するキリスト教の祭日を指す。ルーテル教会でも、伝統的にこの日が祝われてきた。すでに取り上げてきたバッハのクリスマス・オラトリオ(Christ Oratorio)の第6部が、この日の讃美の音楽である。

“The Twelve Days of Christmas”は、ヨーロッパに16世紀頃から伝わるクリスマス・キャロルの一つである。1780年にイングランドで作られた詩がもととなり、やがて1909年に民謡であった旋律にイギリスの作曲家フレデリック・オースチン(Frederic Austin)が編曲した。曲の特徴としては、12番までの歌詞が付けられた一種の童謡歌であことだ。一定の韻律をもった2行以上からなる詩の単位(stanza)が歌い上げられ、それと共に1番ごとに累積的な歌詞(cumulative song)となって長くなる。

Cumulative songsはグループで歌うときが多い。韻律によってstanzaは決まっており、歌詞も覚えやすいので子供たちが好んで歌う。

12番のうちの1番、2番、3番だけの歌詞(Lyrics)を紹介しておく。歌詞の最後の部分は、贈り物として捧げる品が増えていくことがわかる。歌詞でいう12日の最初は日は12月25日である。そして1月5日の夜をもって待降節–アドベントクリスマスは終わりとなる。

▼1番 On the first day of Christmas, my true love sent to me
A partridge in a pear tree.

▼2番 On the second day of Christmas my true love sent to me
Two turtle doves and a partridge in a pear tree.

▼3番 On the third day of Christmas, my true love sent to me
Three french hens, two turtle doves and a partridge in a pear tree.

https://www.youtube.com/watch?v=QpinzLXXp14

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クリスマス・アドベント その17 Intermission 医療とデータベース

IT時代になって久しいといわれる。近年のスマートフォンやタブレット端末の普及は子供からお年寄りに及ぶ。電車やバスに乗っていても、歩いていても、はては自転車に乗りながらも画面を見ている。歩行者にも本人にも誠に危うく、はた迷惑で虫酸がでる気分である。

会社から家庭へ、そして個人に行き届いたITであるが、いまだにガラパゴスのような状態は教育や福祉、医療の世界に取り残されたように展開している。筆者もITと教育に関してはかつて苦い思いをしたことがある。

最近、医療機関の間で患者のデータがクラウド化されようと動き始めているようである。過去の病歴、アレルギーの有無、検査結果、診断、手術内容、CTやMRI画像、服用する薬剤などがネットワークを介して医師の手元に届くといった動きである。患者が別の病院に行っても、過去のデータによって診断が正確になり検査や薬の重複もなくなる。結果として検査や治療の時間が短縮され、医療費の軽減につながる。厚生省もクラウド化を推奨している。

毎年同じ病院で定期検査を受けるたびに、また別な病院でも問診票に記入させられるのは砂をかむような気分である。「ゆりかごから墓場まで」というフレーズは一人一人の健康や病気の情報が継承され活用されることを指すのではないか。ITとはこのフレーズを実現してくれるものだと思うのである。ITを使った情報の活用によって、現在のような病院や福祉機関ごとの閉じた医療福祉サービスを繋いで欲しいものだ。

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クリスマス・アドベント その16 グレゴリオ聖歌(Gregorian Chants)

グレゴリオ聖歌は、主に9世紀から10世紀にかけて、西ヨーロッパから東ヨーロッパで発展し、受け継がれてきた宗教音楽である。ローマ教皇グレゴリウス1世(Gregorius I)が編さんしたことからグレゴリオ聖歌といわれる。

もともと西方教会における単旋律聖歌(plain chants)を軸とする無伴奏の宗教音楽である。聖歌は伝統的には男声に限られ、元来はミサや聖書日課の祈りにおいては、
僧侶など聖職者によって歌われていた。

歴史的には修道会では修道僧や修道女によってグレゴリオ聖歌は唱えられてきた。ローマカトリック教会の公式な聖歌として、典礼(litergy)に基づくミサや会堂(カテドラル)の中で録画されたグレゴリオ聖歌がよく知られている。

聖歌は通常、斉唱(unison)で歌われたが、やがて聖歌に歌詞や音を追加したり即興的にオクターブである8度音程、5度、4度、3度の和声を重ねる技法が使われるようになった。メロディの中心は朗誦音(リサイティング・トーン: reciting tone)と呼ばれる。

通常、ミサでは次の6つの聖歌が歌われる。キリエ(Kyrie)、グロリア(Gloria)、クレド(Credo)、サンクトゥス(Sanctus)、ベネディクトゥス(Benedictus)、およびアニュス・デイ(Agnus Dei)はどのミサでも同じテキストを使用する。

キリエ(憐れみの賛歌)は「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れみたまえ)の三唱、「クリステ・エレイソン」(キリストよ、憐れみたまえ)の三唱、再度「キリエ・エレイソン」の三唱からなる。グロリア(栄光の賛歌)は大栄頌を唱えるもので、クレド(信条告白)はニケア信条(Nicene Creed)を唱える。これらの典礼文は長い。そのため聖歌では歌詞の切れ目に対応した構造をもっている。

サンクトゥス(聖なるかな)とアニュス・デイ(神の子羊)は、キリエと同様、典礼文に繰り返しが多く、音楽的にも繰り返し構造をとるものとなっている。
https://www.youtube.com/watch?v=Lljfmr8pHpE

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クリスマス・アドベント その15 ”O come, O come, Emmanuel”

紀元前586年頃、古代イスラエルの民にバビロン(Babylon)幽囚が始やってくる。首都エルサレム(Jerusalem)がネブカドネザル(Nebuchadnezzar)によって占領されたためである。バビロンはメソポタミア(Mesopotamia)地方の古代都市であった。やがて故国に帰れるというユダヤ人の希望は幻となり、50年に渡ってバビロニアに居住する苦しみを強いられた。それゆえに「救い主(メサイア)Messiah」待望の信仰が生まれた。旧約聖書のイザヤ書第7章14節には次のような預言がある。

“見よ、おとめがみごもって男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ぶ。”
Behold, the virgin shall conceive and bear a son, and shall call his name Immanuel.
Immanuelとは「主がともにいる」という意味である。”bear a son” は”give birth to a son”ともいえる。

この讃美歌は、「久しく待ちにし主よとく来たりて」として訳されている。元々8世紀のラテン語聖歌である。7つの詩から成っていた。夕礼拝や祈り会のときに交互に歌うしきたりであった。その後13世紀になると5つの詩が加えられた。1851年に讃美歌の作詞者であるジョン・ニール(John M. Neale)がラテン語歌詞を英訳した。

捕囚の中に光を求める讃美歌であり、救い主を待ち望む歌でもある。このように原曲が中世のグレゴリオ聖歌(Gregorian chant)であるためか、旋律も和声も静かで厳かな雰囲気を醸し出している。単旋律でも、編曲されて合唱としても歌われている。
https://www.youtube.com/watch?v=7xtpJ4Q_Q-4

O come, O come, Emmanuel
And ransom captive Israel
That mourns in lonely exile here
Until the Son of God appear
Rejoice! Rejoice! Emmanuel
Shall come to thee, O Israel.

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アドベント・クリスマス その14 ”Lo, How a Rose E’er Blooming”

日本語題名は「エッサイの根より」と付けられている賛美歌である。古くからカトリック教会で歌われた。詩も曲も15世紀頃からドイツのライン(Rhine)地方に伝わるキャロルがもとになっている。もともとは、23節から成るマリア賛歌であった。 待降節の期間に歌われる。

古代イスラエル(Ancient Israel)王国第2代王ダビデ(David)の父がエッサイ(Jesse)とわれる。その出典箇所は有名な預言書イザヤ書である。この11章1節には、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」とある。ユダ族のダビデの子孫からキリストが出ることを教えている。そのことはマタイによる福音書(Gospel of Matthew)の冒頭には「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」が書かれてある。キリストの系図がダビデを通じエッサイに由来することを語っている。

時代は下り19世紀以降、プロテスタントの歌集に収録されるようになった。二番目の歌詞ではマリヤから幼児イエスが生まれることに置き換えられている。ドイツから英米にも伝わり世界的なアドベントの歌になった。

歌詞の冒頭にある”Lo”は古英語で「見よ」といった驚きを表す単語である。”Behold”という単語にあたる。
———————————————-
エッサイの根より 生いいでたる、
預言によりて 伝えられし
薔薇は咲きぬ。
静かに寒き 冬の夜に。

Lo, how a Rose e’er blooming from tender stem hath sprung!
Of Jesse’s lineage coming, as men of old have sung.
It came, a floweret bright, amid the cold of winter,
When half spent was the night.

Isaiah ‘twas foretold it, the Rose I have in mind;
Mary we behold it, the Virgin Mother kind.
To show God’s love aright, she bore to us a Savior,
When half spent was the night.

アドベント・クリスマス その13 ”O Tannenbaum”

アドベントリース(Advent wreath)には樅の木の枝が使われることを既に述べてきた。樅の木は冬のさなかでも緑色を保つマツ科。それ故”Christmas Tree”とも呼ばれる。だが樅の木はドイツ語での響きがもっとよいような心持ちがする。”Tannenbaum”がそうである。

クリスマス・キャロルの一つで世界中で歌われる曲にO Tannenbaumがある。現在の歌詞はライプチッヒ(Leipzig)のオルガン奏者で教師、そして作曲家であったアーネスト・アンシュッツ(Ernest Anschutz)が1824年に付けたといわれる。

この歌詞をみると曲は必ずしも来る済ますや飾りがつけられたクリスマスの木のことを歌っているのではないことがわかる。だがマツ科の常緑樹は不偏さとか信仰ということのシンボルと謂われている。

アンシュッツが書き下ろした歌詞は16世紀のシレジア(Silesian)民謡からの哀しい恋の曲が元となっている。シレジアとは今のドイツ、ポーランド、チェコのあたりを指す地域である。メルクワイア・フランク(Melchoir Frank)という人が歌った”Ach Tannenbaum”という曲に依拠している。ヤヒム・ザーナック(Joachim Zarnack)が1819年に、信仰心に欠けた恋人と信仰に溢れるような常緑樹と対比させた。

19世紀になると待降節にはクリスマスの木が飾られるようになる。そしてクリスマス・キャロルも作曲され歌われていく。アンシュッツの歌詞にある”treu”とは信仰深いという意味である。歌詞の二番目は “treu” が “grun”(緑)となっている。20世紀になってこの歌がクリスマス・キャロルとして歌われるとともに変わっていったようである。

O Tannenbaum, o Tannenbaum,
wie treu sind deine Bl?tter!
Du gr?nst nicht nur
zur Sommerzeit,
Nein auch im Winter, wenn es schneit.
O Tannenbaum, o Tannenbaum,
wie treu sind deine Bl?tter!
https://www.youtube.com/watch?v=IrFqDzPPGE8

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クリスマス・アドベント その12 ”O Holy Night”

作曲者はアドルフ・アダン(Adolphe C. Adam)というフランス人である。1800年の中盤に活躍し多くの曲を作ったといわれる。中でもこの”O Holy Night” (Cantique de Noel–クリスマス賛歌)というクリスマス・キャロルは特に知られている。当時、この曲はラジオで放送され広く人々に口ずさまれるようになったという。アダンはバレー音楽(ballet)であるジゼル(Giselle)をはじめ39ものオペラも作曲した。

“O Holy Night”であるが、作曲は1847年。フランス南部の街、Roquemaureにある教会のオルガンが修復され、その祝いとして教区の司祭が詩人プラシド・カポー(Placide Cappeau)にクリスマスの詩を依頼した。カポーは”Midnight, Christians”という題を付け、それにアダンが旋律をつけたのである。

その後、”O Holy Night”はソプラノやテノールで歌われることが多くなった。それは当時、ユニテリアン教会の牧師であったジョン・ドワイト(John S. Dwight)がカポーの原詩”Cantique de Noel”をもとにして、フランス語と英語でイエスの誕生と救いについて親しみのある歌詞をつけたからだといわれる。

曲は静かな音程で始まり、やがて次第に興奮が高まるような音階となり、最後は極めて高い音階で歌われ誕生劇が”聖なる夜かな”という歌詞と共に最高潮に達する。荘厳な曲でもある。”Divine”とは厳粛な、厳かな、神々しい、という意味で使われる。

この曲は多くの人気歌手によって歌われている。例えばマライア・キャリ(Mariah Carey)、ビング・クロスビ(Bing Crosby)、ホットニ・ヒューストン(Whitney Houston)、マハリア・ジャクソン(Mahalia Jackson)である。

O holy night! The stars are brightly shining,
It is the night of our dear Saviour’s birth.
Long lay the world in sin and error pining,
‘Til He appear’d and the soul felt its worth.
A thrill of hope the weary world rejoices,
For yonder breaks a new and glorious morn.
Fall on your knees! O hear the angel voices!
O night divine, O night when Christ was born;
O night divine, O night, O night Divine.

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クリススマス・アドベント その11  “Little Drummer Boy”

「誕生」はすべての人にとって喜ばしい時。老いも若きもその時を祝う。数あるクリスマスの歌には古く伝統的なものから現代的(contempolary)なものまでいろいろとある。今回、紹介するのは一人の少年が太鼓を叩きながら、イエスの誕生の喜びに加わるという曲である。「The Little Drummer Boy」という。別名は「Carol of the Drum」。

作曲したのはキャサリン・デーヴィス(Katherine Davis)。作曲家であり教師であった。作られたのは1941年。曲の由来はチェコスロバキア(Czechoslovakia)に伝わる古い民謡である。1950年代、この曲を収録したレコードはアメリカで大ヒットしたそうだ。歌詞の内容は次のようなものだ。

”さあ行こう。一人の王様が生まれたぞ”と大人が僕に声をかけた。
”大切な贈り物をこの王様のところに届けよう。”

だが、僕はお金がないので、なにも持っていくものがない。

”マリアさん、お祝いとしてこの太鼓を叩いていいですか。”

マリアさんは優しく頷いてくださった。牛や羊はじっとしていた。
僕は一生懸命、赤ちゃんのために太鼓を叩いた。
タタタッタ、タタタッタ、、、、
赤ちゃんは僕と太鼓に微笑んでくれた。

Little Drummer Boy

Come they told me pa ra pa pam pam
a newborn King to see pa ra” pa pam pam
Our finest gifts we bring pa ra pa pam pam
to lay before the King pa ra pa pam pam
Ra pa pam pam ra pa pam pam
So to honor him pa ra pa pam pam when we come
Little baby pa ra pa pam pam
I am a poor boy too pa ra pa pam pam
I have no gift to bring pa ra pa pam pam
that’s fit to give our King pa ra pa pam pam
Ra pa pam pam ra pa pam pam
Shall I play for you pa ra pa pam pam on my drum
Marry nodded pa ra pa pam pam
the ox and lamb kept time pa ra pa pam pam
I played my drum for him pa ra pa pam pam
I played my best for him ra pa pam pam
Then he smiled at me pa ra pa pam pam me and my drum

https://www.youtube.com/watch?v=qJ_MGWio-vc

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クリスマス・アドベント その10 ”Jesu, Joy of Man’s Desiring”

前回紹介したカンタータ第147番のことである。我が国では、「主よ、人の望みの喜びよ」”Jesu, joy of man’s desiring”として知られている。バッハ(Johann Sebastian Bach)がオーケストラを伴った合唱楽章、いわゆるカンタータ(Cantata, Kantate)として作曲したものである。Cantataとは「歌われるもの」ということのようだ。バッハは、教会の毎週の礼拝のために通奏低音による声楽作品を作曲していた。通奏低音は、バロック音楽において行われる伴奏の形式で、楽譜上では低音部の旋律のみが示され、奏者はそれに適切な和音を付けて演奏する。オルガン、チェンバロなどの鍵盤楽器やチェロ、コントラバスの弦楽器が使われる。

“Jesu, joy of man’s desiring”は1723年7月の礼拝のために作られたという。いわゆるコラール(Choral)である。その後、このコラールは同じく第147番の「心と口と行いと生きざまもて」の中で取り入れられる。18世紀前半のドイツでは、コラールを取り入れたものが、一般に「教会カンタータ」と呼ばれる。その後は、小編成の器楽で演奏される「世俗カンタータ」が数多く作曲されている。例えばカンタータ第211番の「珈琲カンタータ」(BWV 211)もそうだ。

ルカによる福音書1章26節〜38節に処女懐胎の記述がある。懐妊を告げられたマリア(Mary)が親戚のエリサベト(Elisabeth)を訪ねたことを記念する「マリア訪問の日」といわれる喜ばしい雰囲気に満ちた祝日がある。そのとき、ルカによるとマリアが「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」と訊くマリアに対して、天使が「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子ととなえられるでしょう」と言って去って行く。これがマリアの讃歌、マニフィカト(Magnificat)である。

この教会カンタータ第147番は全部で10曲から成り、その6番目の曲のコラール(合唱)が”Jesu, joy of man’s desiring”である。誠にもって心に染み入るメロディである。

Jesu, joy of man’s desiring,
Holy Wisdom, Love most bright;
Drawn by Thee, our souls aspiring
Soar to uncreated light.
Word of God, our flesh that fashioned,
With the fire of life impassioned,
Striving still to truth unknown,
Soaring, dying round Thy throne.

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クリスマス・アドベント その9 カンタータ第147番

カンタータ(Cantata)第147番はバッハの作品でBWV147という目録番号がつけられている。「心と口と行いと生きざまもて(Herz und Mund und Tat und Leben)」と訳されている。前回の第140番と並んで人々に知られる教会カンタータである。この曲を広く知らしめているのが「主よ、人の望みの喜びよ」の名で親しまれているコラール(Coral)で、ドイツ語では”Jesus bleibet meine Freude”という曲名となっている。

カンタータ第147番は、新約聖書ルカによる福音書(Gospel of Luke) 1章46〜55節に依拠している。礼拝での聖書日課は「マリアのエリザベート訪問の祝日」となっていて、マリアが神を賛美した詩「マニフィカト(Magnificat)」が朗読される。マニフィカトとは、聖歌の一つ、「わたしの魂は主を崇め、わたしの霊は救い主なる神を讃える」という詩である。全部で10曲から構成されるカンタータ第147番の一部を紹介する。

冒頭の合唱は、”Herz und Mund und Tat und Leben”というトランペットが吹かれる快活な曲で気持ちの良い合唱フーガ(Fuga)である。フーガとは対立法という手法を中心とする楽曲である。同じ旋律(主唱)が複数の声部によって順々に現れる。この時、5度下げたり、4度上げて歌う。これを応唱ともいう。少し遅れて応唱と共に別の旋律が演奏される。これを対唱と呼ぶ。

次のレシタティーヴォも、オーボエなど弦楽合奏を伴うしみじみした響きで演奏される。第3曲のアリアは、オーボエ・ダモーレ(oboe d’amore)というオーボエとイングリッシュホルンに似た楽器の伴奏がつく。少々暗い響きだが雰囲気が醸し出される。これにバスのレシタティーヴォが続く。第5曲のアリアは、独奏ヴァイオリンの美しさが際立つ。ソプラノの響きも美しい。

そして第6曲がご存知、「主よ、人の望みの喜びよ」のコラール。英語では「Jesus, Joy of Man’s Desiring」。いつ何度聞いても慰められる名高い曲である。今、ウィスコンシンの北部の街Stevens Pointで、脳腫瘍を煩い化学療法を受けている親友である牧師にこの曲を捧げつつ、快復を祈っている。

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クリスマス・アドベント その8 カンタータ第140番

カンタータ(Cantata)第140番は「コラール・カンタータ」(BWV140)と呼ばれる楽曲によっている。カンタータの基礎となっているのは合唱、コラール(Choral)である。教会暦によると、聖霊降臨の1週間後は三位一体節と呼ばれる。教会では、全ての日曜日礼拝には拝読される福音書の章句が決められている。三位一体節から数えて第27日曜日の福音書聖句が、マタイによる福音書(Gospel of Matthew)25章1節から13節となっている。この箇所では、花婿の到着を待つ花嫁の譬えを用いて、神の国の到来への備えを説く。それをふまえ真夜中に物見らの声に先導されたイエスの到着、待ちこがれる魂との喜ばしい婚姻へと至る情景を描いている。

カンタータ140番は「目覚めよと呼ぶ声あり」英語では”Wake, Arise,” ドイツ語では”Wachet auf, ruft uns die Stimme”として知られる名高い曲である。カンタータに配置される独唱はレシタティーヴォ(recitative)といわれる。レシタティーヴォは前回少し説明したが、概して大規模な組曲形式の作品の中に現れる歌唱様式である。叙唱、朗唱とも呼ばれる。楽器はホルンの他、木管と弦楽器、そしてチェンバロが使われる。

バッハは三位一体節後第27主日の礼拝に合わせてカンタータ140番を作曲したといわる。カンタータ140番は次の7曲から構成されている。

・第1曲 コラール  目覚めよと呼ぶ声あり
弦楽器とオーボエが付点リズムでもって演奏され、それに行進曲風の合唱が続く。晴れやかな喜びに満ちた曲である。
・第2曲 レチタティーヴォ 彼は来る、まことに来る
イエスの姿を伝えるテノールの語りかける場面となっている。
・第3曲 二重唱  いつ来ますや
わが救いの魂(ソプラノ)とイエス(バス)の間で交わされる愛の二重唱。
・第4曲 コラール  シオンは物見らの歌うの聞けり
テノールの歌うコラールは、ユニゾンの弦が晴れやかな落ち着きのある有名な曲である。物見の呼び声が夜のしじまを破って響く冒頭の合唱曲とシオンの娘の喜びを歌うテノールのこの曲は特に名高い。
・第5曲 レチタティーヴォ
さらばわがもとへ入れといって花嫁が登場する。
・第6曲 二重唱  わが愛するものはわが属となれり
再び魂とイエスとの二重唱となる。
・第7曲 コラール  グローリアの頌め歌、汝に上がれ
簡潔ながら力強い4声部によるコラールで終わる。

筆者がカンタータ140番を歌ったのはマディソンにいた頃のルーテル教会である。聖歌隊員はみな音感も良く声量があった。オルガンの音も会堂に響き心地よい時であった。バッハの音楽は世界の宝だと思えるのである。

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クリスマス・アドベント その7 クリスマス・オラトリオ

古今、幾多の曲が作られてきた。特にクリスマスは宗教的でも世俗的でも目出度い出来事なので曲の種類も多い。これから数回にわたりアドベントやクリスマスを祝う音楽を紹介する。

「クリスマス・オラトリオ(Christmas Oratorio)」は特に演奏される曲である。この作品はヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach)が作曲したものだ。ルカによる福音書2章10節〜11節、マタイによる福音書2章1節〜2節にある聖句を基としている。あまりにも有名な曲である。

オラトリオとは、17世紀にイタリアで起こった楽曲といわれる。バロック(baroque)音楽を代表するものである。バロックとはイタリアで起こった芸術文化といわれる。バロック音楽もその一環であり、ローマカトリック教会の音楽といわれる。

オラトリオはオペラ(opera)と較べると分かりやすい。演技を伴うことはなく、また台詞もない。大きな装置も使わない。独唱、合唱、そしてオーケストラによる演奏である。新約聖書を台本としているので、歌詞は聖句が使われる。オラトリオは大規模なミュージカルのような楽曲ともいえる。叙唱とか重唱はレシタティーヴォ(recitatives)と呼ばれる。個人的な感情とか状況を描写する歌唱様式といわれる。レシタティーヴォだが、通奏低音という伴奏では、オルガン、リュート、チェンバロ、オーボエ、チェロなどが使われる。オラトリオは礼拝や典礼では使われるのではなく、教会堂やコンサートホールでの演奏が普通である。

クリスマス・オラトリオは全部で64曲からなるカンタータ集(cantate)である。17世紀後半にイタリアで作曲された「レシタティーヴォと詠唱アリア(aria)からなる通奏低音のための歌曲」がカンタータといわれる。18世紀になると、主にドイツではコラール(choral)を取り入れた「教会カンタータ」とか器楽を伴った世俗的なカンターが作られるようになる。

バッハはオラトリオを3曲作っている。その1つはがクリスマス・オラトリオである。12月25日のクリスマスから1月6日の顕現節(Epiphany)までの祝日のために作曲したといわれる。64曲の最初の曲は「歓びの声をあげよ」という合唱付きのオーケストラである。

バッハの作品には番号がつけられている。クリスマス・オラトリオは 「BWV(Bach Werke Verzeichnis)248」となっている。残る2つは復活祭のための「復活祭オラトリオ(Easter Oratorio)」BWV249と昇天祭のための「昇天祭オラトリオ(Ascension Oratorio)」BWV11である。ついでだがモーツァルト(Wolfgang A. Mozart)の作品番号にはKoechelが使われている。

bach-940x626  Johann Sebastian Bachoratorio Recitativesを歌う

クリスマス・アドベント その6 Intermission  ロゴスと言葉

いくら世界中の人々がクリスマスを祝うといえど、聖霊によるマリアへの受胎告知やイエスの誕生に納得できない人々がいるはずである。その後のキリストの受難と昇天、そして復活もそうであろう。キリスト教徒でない人々の中には聖書の中味を、「作り話」、「ファンタジ」、「空想」として捉えるから、受胎告知や復活といった奇跡にさしたる抵抗は感じない。だからクリスマスも、わだかまりもなく子供や家族と楽しむことができる。今回はその先のことを考えたいのである。

復活とか蘇りという出来事は、考えてみれば宗教の世界で通用する現象である。キリスト教徒は、そうした「出来事」にかつては困惑したり懐疑したことはあったにせよ、それを「吹っ切って」洗礼を受け信徒になったのである。こうした転機は奇跡といえることかもしれない。

「人知では到底計り知れない」ことは世の中にはいくらでもある。高い教育を受け、自然科学に触れ、進化論を知ったにせよ、こうした宗教上の現象は、この世界とは次元の越えた現象として受け容れるのである。そこには吹っ切れたという個人的な省察のような体験があったからだろうと察するほかはないのである。恐らく当人もこの内的な決断を言葉では説明できないだろう。理性には限界があるということでもある。

人の使う言葉には限界がある。愛するものの死に接したとき、哀しみを表現する言葉が浮かばない。どんな慰めの言葉も癒しにならない時がある。人間の言葉とはそいうものなのだ。語いが足りないではすまない。あまりにも表層過ぎるのである。

ヨハネによる福音書1章1節に「始めにことばありき」という章句がある。ここでの言葉は神のことばーロゴス(logos)ということである。この世界の根源として神が存在するという意味とされる。「ロゴスは世界の根幹となる概念であり、世界を定める理」とEncyclopaedia Britannicaにある。

幸いにして我々は死の哀しみの淵から立ち上がることができる。「世界を定める理」にある与えられた命を感じ、支えられていることを経験し、生きることの価値を「我と汝」との関係に見いだすことができる存在だからである。

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クリスマス・アドベント その5 クリスマスの謂われ

クリスマス(Christmas)は、ChristとMassの連語である。「キリストの誕生を祝うミサ礼拝」ということである。クリスマスの歴史は比較的新しい。

さてクリスマスの謂われであるが、もともと”Yule time”と呼ばれ、特にゲルマン(Germanic)の”jul”やアングロサクソン(Anglo Saxson)の”geol”からきたのだという。YuleとかYuletide(Yule time)というのは冬至の日を意味した。最も昼の時間が短い冬至。昔、冬至がくると人々はその日を祝うのが習慣だったようである。ヨーロッパの人にとっては日がだんだん長くなることを待望して祝ったのである。Encyclopaedia Britannicaによれば、Yuleは非宗教的な祭りだったのがいつのまにかChristmasに吸収されていったとある。

北欧のスウェーデン、デンマーク、ノールウエイでいまもクリスマスをYuleと呼ぶ。フィンランドはJouluと呼ぶ。クリスマスを意味するYuletideという英単語のことである。”tide”とは期間とか時間という意味である。Yuletideは12月24日から1月6日までの期間を指す。クリスマスの期間ということを指す。だがこのYuleは今は古英語になってしまった。冬至は英語でWinter Solsticeと呼ばれる。

ラテン語で誕生は”natalis”である。クリスマスを意味する言葉だが、このラテン語からクリスマスの言葉が生まれた。イタリア語はNatale、スペイン語はNavidad、フランス語はノエル(Noel)である。そしてドイツ語はWeihnachtenである。Weihは”聖なるかな”、そしてnachtenは”夜”という意味である。”Heilige Nacht”も同じ意味である。

クリスマスとは世俗的な祝いや祭りから発生したことをいいたかった。
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クリスマス・アドベント その4 イザヤ書とイマヌエル

さてイザヤ書(The Book of Isaiah)は、預言者イザヤ(Isaiah)の名によって残される旧約聖書中最大の書である。その成立は複数の者によるとされ,内容からみて2部に分けられる。

第1部1〜39章は、紀元前8世紀頃おもに預言者イザヤによって書かれたとされる。主の懲らしめと裁きが中心に描かれている。40章で「慰めよ。慰めよ」という言葉がある。40章から66章は、慰めと回復のメッセージといわれる。具体的には、ユダ(Judea)とエルサレム(Jerusalem)に対するメッセージとなる。ユダが主から離れているので懲らしめられるが、最後には赦され救われるという展開になっている。

北イスラエル王国(Northeran Israel)はアッシリア(Assyria)の攻撃を目前に控えていただけでなく、南ユダ王国(South Judea)も崩壊するのは時間の問題だった。そうした緊迫した情勢を背景に、イスラエル(Israel)の民の多くは一国も早く国大へ脱出することを望んでいた。アッシリア帝国による侵略の脅威に曝される中、神のみ告を信じていた。

イザヤは「神が我らとともにおられる」を意味するイマヌエル(Emmanuel)という言葉で語る。イマヌエルとは驚くべき指導者、力ある神の象徴でありイスラエルが救われて平和の道を歩むことができると説かれる。

イザヤは、「救いは主のもの」、あるいは「ヤハウェ(Yahweh、Jehovah)は救いなり」という意味とされる。人間が救われるのは、人からでも行いからでも富からでもなく、主からなのだ、ということを最初から最後に至るまで一貫して教えている。イザヤ書は読み応えのある重たい内容である。

isaia1  預言者イザヤGiovanni Battista Tiepolo - The Prophet Isaiah

クリスマス・アドベント その3 ユダヤ教とタルムード

筆者のロータリークラブ(Rotary International Club)奨学金のスポンサーにロバート・ジェイコブ(Dr. Robert Jacob)という医師がいる。日本語読みではさしずめヤコブ氏となろう。今もミルウオーキーの郊外で開業している。専門は脚の整形外科。熱心なユダヤ教徒でもある。いつも住まいの側にある会堂シナゴーグ(synagogue)で長老として活躍されている。

これまでご子息らの成人の儀式、バー・ミツヴァ(Bar Mitzvah)の案内、9月には新年ロシュ・ハシャナ(Rosh Hashana)の祝いを頂戴している。一度、ジェイコブ氏に連れられてシナゴーグを見学させていただいたことがある。シナゴーグとはユダヤ教の聖堂のことである。キリスト教の教会の前身といえる。礼拝はもちろん祈りの場であり、結婚や教育の場、さらに文化行事などを行うユダヤ人コミュニティの中心的存在である。もともとは聖書の朗読と解説を行う集会所であった。会堂に入るときは、男子はキッパ(kippa)とかヤマカ(yarmulke)と呼ばれる帽子を頭に載せる。

ユダヤ教徒はタルムード(Talmud)と呼ばれる教典を学び行動するように教えられる。タルムードは生活や信仰の基となっている。家庭では父親の存在が重要とされる。率先して子供に勉強させタルムードなどを教える。子供を立派なユダヤ人に育てたものは永遠の魂を得ると信じられている。筆者がシナゴーグに案内されていたとき、成人のタルムード勉強会が開かれていた。

ユダヤ教では、イエスキリストや聖霊に神性を認めない。であるからイエスは信仰対象ではない。クリスマスという概念もない。ユダヤ教でいう聖書は旧約聖書のことである。キリスト教では人類の救いを告げる聖書は旧約と新約聖書となる。

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クリスマス・アドベント その2 樅の木

アドベントリース(Advent wreath)には樅の木の枝が使われる。しなやかなので丸いリースを作りやすい。樅の木は、「Christmas Tree」とも呼ばれる。クリスマスのデコレーションに使う木である。有名なのは、ニューヨーク市のロックフェラーセンター(Rockefeller Center)前に立てられものだ。毎年その点火がニュースとなる。今年は本日12月3日に点火式が開かれるという。このセンター前の広場ではさまざまな催し物が演じれる。

樅の木に戻る。この常緑樹は強い生命力の象徴とされる。また「知恵の樹」とも呼ばれる。沢山の種類の飾り物がとりつけられる。子供たちの楽しみでもある。もともとはリンゴとかナッツなどの食べ物が枝にくくられたそうだ。そしてろうそくとなり今は豆電球で飾られる。ベツレヘムの星(Bethlehem)やガブリエルの天使(Gabriel)の飾りも目立つ。

樅の木がクリスマスの木として使われるようになったのは15世紀頃といわれる。ドイツ、Selestatにある St. George’s Churchがその起源とか。ブリタニカ百科事典(Encyclopedia Britannica)によると, 樅の木は常緑樹(evergreen trees)として、エジプト人や中国人、ヘブル人などが永遠の命を象徴する木として崇めていた。こうした信仰はヨーロッパの非キリスト教徒(pagan)らにも広まり、やがてスカンジナビアや西ヨーロッパに広まり、家々や納屋に立てられた樅の木は魔除けとしても、また鳥の止まり木としても飾られるようになったという。

樅の木の代わりに”Paradise Tree”という常緑樹もクリスマスでは飾られたといわれる。中世のミステリ劇に登場する。それによると12月24日はアダムとイブ(Adam & Eva)と命名された日として祝われる。そこに飾られる木には禁断の実とされたリンゴが供えられた。さらに、種なしの薄焼きパンーワッフル(wafer)も付けられた。ワッフルには聖餐(Eucharist)とか贖罪、救済(Redemption)の意味があった。

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クリスマス・アドベント その1 クリスマスリース

この季節になると、ところどころの玄関にリース(wreath)とかクランツ(cranz)と呼ばれる飾り物をつけているのを見かける。こうした家はクリスチャンの家族なのだろうと察する。

このリースは常緑樹である樅の木の枝を丸めて作る。祭壇に置くときは、柊の葉があしらわれてそこにろうそくを立てるのである。柊は季節にふさわしい漢字であり、緑々しい木である。柊が玄関の側に植えられるのは邪鬼を払うという言い伝えがある。教会で飾られるリースは特別な意味がある。リースにある先の尖った柊の葉であるが、柊は十字架上で処刑されたキリストの冠の棘を表す。ついでだが柊は英語で”holly tree”。

リースは、クリスマス・リース(Christmas wreath)とも呼ばれ11月最終日曜日からキリスト教会で飾られる。燭台となるリースの上には4本のろうそくが立てられる。この日からキリストの誕生を待ち望む期間、待降節といわれるアドベント(Advent)が始まる。アドベントはキリストの誕生までの4週間を指す。

アドベント期間の礼拝に出席すると目に飛び込んでくるのが色。例えば、ろうそくの色は悔い改めや望みを表す紫とか青である。聖職者の祭服や祭壇布、礼拝堂のタペストリーなどにも用いられる。典礼色に倣い、第三週のみピンクやローズカラーのろうそくを用いる場合が多い。ルーテル教会やメソジスト教会、聖公会などはそうである。

アドベントの礼拝や祈祷での賛美歌は、救世主メシア(Messiah)の到来を待ち望むものが歌われる。

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留学の奨め その20 マサチューセッツ州とスミス大学(Smith College) 最終回

マサチューセッツ州は、公立の小学校が全米で最初に設立されたところである。The Mather Schoolという学校で、創立は1639年となっている。 全寮制であるThe Governor’s Academyという高校は1763年に創立された。さらに全米で最も古い大学にご存知ハーヴァード(Harvard University)がある。1636年の創立である。アメリカの独立以前である。

アムハースト大学のそばの街、ノーザンプトン(Northampton)にスミス大学(Smith College)がある。全米屈指の名門私立女子大学という評判である。1960年代まで、アイビー・リーグの各大学はコーネル大学(Cornell University)を除いてすべて男子校であった。こうした男女別学の環境の中で七名門女子大学群(Seven Sisters)があって、スミス大学はその群に所属する大学の一校を構成している。

スミス大学の教授と学生の比率は1対9。全米で女子大学として最初の工学部を設置したことでも知られている。スミス大学の評価ランキングでは全米で19番目。年間の授業料と生活費が44,724ドルであるから460万円くらいとなる。

全米で最も古い女子大学としてマウントホリヨーク(Mount Holyoke College)がある。こちらの創立は1837年となっている。こうした大学の設立はヨーロッパから移民してきた人々が高等教育の必要性を知っていたからである。

なぜ1800年代に女子大学がいくつもマサチューセッツ州内に創られたのかである。その理由は、当時から男性社会にあって女性の自立のためには学問が武器となるという考えが根強かったといわれる。マサチューセッツ州の初代知事、ジョン・ハンコック(John Hancock)は女性の地位向上を支持したことでも知られている。

ジョン・ハンコックはフリーメイソン(Freemason)の会員であった。フリーメイソンとは「自由」、「平等」、「友愛」、「寛容」、「人道」の5つを基本理念とする友愛組織で、ゆるやかな政治的な結社であった。ハンコックは7月4日に独立宣言に署名した最初の人としても知られている。リベラルアーツは人間形成に欠かせない一般的な知識と知的な技能を備える学問である。カレッジはフリーメイソンの理念を教える場所でもある。

granary-burying-ground  Granary Burying Ground, Boston2004-smith-college-gatejpg-1b82459dc77a423f Smith College

留学の奨め その19 マサチューセッツ州とウィリアムズ大学(Williams College)

今回も、マサチューセッツ州(Commonwealth of Massachusetts)には有名な私立のリベラルアーツの大学がたくさんあることの続きである。マサチューセッツは教育に力をいれている州であることを伝えたい。このブログが縁で留学するのもいい。教育の質は100%保証する。

マサチューセッツ州の西部、ニューヨーク州近くにウィリアムズ大学(Williams College)がある。この大学は、マサチューセッツ州ウィリアムスタウン(Willamstown)に本部を置く私立大学で、創立は1793年。2014年のUS ニュース・アンド・ワールド・レポート”(US News and World Report)ではリベラルアーツの大学として第1位の評価を受けている。ちなみにヴァージニア州にあるCollege of William & Maryとは別の大学である。こちらの創立はもっと古く1693年となっている。

2012年にウィリアムズ大学に入学した人は志願者の16.7%であり、アイビー・リーグ(Ivy League)レベルの教育を少人数で提供しているといわれる。もともと男子だけの大学であったが、1970年に共学となった。多くの大学評価では入学の最も難しい大学のひとつとされている。学生数はたったの2,077名、授業料と生活費は年間 $48,310となっている。

マサチューセッツ州にはその他に、上智大学と提携する1843年に創立されたイエズス会のホーリークロス大学(College of Holy Cross )、1863創立のマサチューセッツ大学(University of Massachusettes)、ヒラリー・クリントンが卒業した1875年創立のウェルズリー大学(Wellesley College) 、1887年創立のクラーク大学(Clark University)、1888年創立のマウントホリヨーク大学(Mount Holyoke College), などどれも長い伝統を有している。しかも、私立大学としての特色を出している。マサチューセッツ州ほど有名な私立のリベラルアーツの大学があるのは他にはない。

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留学の奨め その18 マサチューセッツ州アムハースト大学(Amherst College)

米国の大学の学部に留学するときは、リベラルアーツ大学(College of Liberal Arts)を選ぶことを勧める。なぜなら、少人数のきめこまかい指導を受けることができる。基礎学力もつく。綜合大学では孤立感を深める心配がある。望むならプリメッド(pre-medical)という課程の科目を履修し、その後医学部への進学テストであるMedical College Admission Test (MCAT)を受けることもできる。大学院へ行きたいときは総合大学を選べばよい。

今回はリベラルアーツ大学の話題である。マサチューセッツ州(Massachusetts)にはハーヴァード大学(Harvard University)やマサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology: MIT)など名だたる総合大学に混じって、多くの私立単科大学がある。どれも1700年から1800年代に創立された由緒ある大学である。人々や基督教会は、当時人材の育成が課題で高等教育の大切さを意識していたことがわかる。そこでリベラルアーツ大学がどんな伝統や特徴があるかをマサチューセッツ州にある大学を例に紹介していくことにする。

札幌農学校の初代教頭で「少年よ大志を抱け」の言葉で知られるウイリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)が教鞭をとっていたのがアムハースト大学(Amherst College)である。長男宅から車で1時間のところのアムハースト(Amherst)という田舎町にキャンパスがある。創立は1821年。同志社大学創立者の新島襄や思想家の内村鑑三が学んだところでもある。クラークはやがて、同じくアムハーストにあるマサチューセッツ大学( University of Massachusetts)の第三代学長となる。

アムハースト大学は、「US ニュース・アンド・ワールド・レポート”(US News and World Report)」によれば、アメリカのリベラルアーツ大学としてこれまで10度も第1位の評価を受けている。2014年は、同じくマサチューセッツ州にあるウィリアムズ大学(William College)に続いて第2位となっている。大学の評価は、教官への満足度、教官一人当たりの学生数、一クラスの学生数、卒業率、基金額(endowment)など様々な観点からなされる。2012年度の志願者倍率は12倍となっている。それだけではない。年間の授業料と生活費の合算は$48,526というように極めて高い。クラスの89%は30人以下、クラスの平均は16人、教官と学生の比率は1: 8である。留学生は54カ国からきている。

もう一つ、アムハースト大学がなぜ注目されるかである。私と家族が学んだウィスコンシン大学のマディソン校は、創立が1848年。研究中心の総合大学である。2009年に大学理事会によって多くの候補からマディソン校の学長に選ばれたのがキャロライン・マーティン(Dr. Carolyn “Biddy” Martin)である。しかし彼女は、2011年にアムハースト大学からの招聘を受けて、ウィスコンシン大学を去った。学生数43,000人の総合大学学長を辞して、学生数1,785人リベラルアーツの単科大学へ移るというのは実に珍しいことで話題となった。アムハースト大学がウィスコンシン大学より創立が25年以上も古く、伝統のある魅力的な大学であるかを物語る。

Amherst+College   Amherst CollegeChaplin Hall, Amherst College HDR - Amherst, Massachusetts, USA

留学の奨め その17 ThanksgivingとSarah Hale

筆者の長男の嫁ケイト(Kate)は小学校の教師をしながら童謡を書いている。まだ作品は出版されたことがないようだが、、。かつて彼女から米国の女性作家であるサラ・ヘイル(Sarah J. Hale)のことを聞いたことがある。ケイトはヘイルを私淑しているようである。ヘイルは米国のThanksgivingの歴史では忘れられない女性である。今回はThanksgivingのしめくくりとしてサラ・ヘイルに触れる。

ヘイルは、1800年代に沢山の作品を書いた作家である。その代表作は”Mary Had a Little Lamb”という童謡(nursery rhyme)である。童謡はマザー・グース(Mother Goose)とも呼ばれ、英米を中心に親しまれている童話の総称である。

ヘイルが最初に発表した童話は”A New England Tale”。この作品の主題は奴隷制度を扱ったもので、この作品により最初の女性作家の一人と呼ばれるようになった。”A New England Tale”はニューイングランド(New England)の美徳や伝統を信奉し、国の精神的な富として大事にすることを主張した。しかも、当時いた黒人奴隷をリベリア(Liberia)の地に戻すということも主張し、この作品を一躍有名にしたとされる。

この本の二版の序文の中でヘイルは、奴隷主というのは奴隷の兄弟であり、使える者でもあること、そして博愛の精神が正しいことを求め悪を憎むということ、それを忘れていると警告したのである。奴隷制度がいかに非人道的なものであるか、人の道徳的な成長を阻害していることも書いたのである。

1828年、ある聖職者からの招きでヘイルはボストンに移り、ある雑誌の編集長になる。編集長として、彼女は女性が高等教育の機会に浴する必要性を主張し、教育によって女性一人ひとりが知的で道徳的に成長することを説いた。

前置きが相当長くなったが、ヘイルがThanksgivingにいかに関わったかである。彼女は米国で最初にThanksgivingを国民的祝日として主張した女性である。もともとThanksgivingはニューイングランドでは祝われていた。各州でも10月とか1月に設定されてはいた。彼女は歴代の大統領にThanksgivingの祝日とするように要望する手紙を出していた。そしてようやく1863年にアブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)の支持により国の祝日とする法律が制定されたのである。

Thanksgivingは、南北戦争で疲弊し分断された国を統合する象徴と考えられた。それまでは、国民の祝日だったのはジョージ・ワシントン誕生日と独立記念日だけであった。ヘイルはワシントンD.C.の郊外にあるマウントバーノン(Mount Vernon)にあるワシントン邸と農場を記念館にすることやボストンにあるバンカーヒル記念塔(Bunker Hill Monument)の完成のために多額の寄付金集めに奔走した。作家として、また運動家としての彼女の活躍は米国の歴史に記されている。
HD_haleSJ4c  Sarah J. Hale
abraham_lincoln_seated_feb_9_1864  Abraham Lincoln

留学の奨め その16 Thanksgivingの晩餐

留学生がThanksgivingを楽しく過ごすには普段から心掛けておくことがある。例えば大学の寮などで生活しているときは、米国人の学生らと親密になっておくことである。彼らはThanksgivingの週末には親元に帰って過ごす。友達づきあいをしておくと、必ず「一緒に行かないか、、」と誘ってくれる。

もし普通のアパートを借りていても隣近所の人々と仲良くしておくことだ。一緒にパーティをしたりBBQなどの会合には顔を出して会話することを心掛けておくことが大事だ。またキリスト教会などの礼拝に出席していると、必ず声をかけてくれる。自分からも飛び込むことである。求めると与えてくれるのである。毎日、独りぼっちで生活するのはいけない。

Thanksgivingは、人々が最も旅行する時期である。道路も空港も大混雑する。だが市営バスは本数を減らして運行する。学校、官庁、会社、その他の機関も4日間の休みとなる。多くの町や村ではパレードが行われる。子供も大人にも楽しみな行事である。家族や親戚、友人が集まって宴の晩餐を囲む。

料理の中心は七面鳥(turkey)である。そのほか、グランベリーソース(cranberry sauce)、パンプキンパイ(pumpkin pie)、ジャガイモ(potatoes)、スタッフィング(stuffing)、グレービー(gravy)が卓上に並ぶ。マッシュポテトにグレイビーをかけたものはアメリカ料理の定番のようだ。鳥肉料理にも欠かせないソースである。

宴の前には、必ず家の主が感謝の祈りを捧げる。招かれた者は勝手に皿をとって料理に手を伸ばしてはいけない。テレビでは寒さのさなか、フットボールが中継されている。Thanksgivingが終わるとクリスマスの待降節ーアドベント(Advent)が始まる。

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留学の奨め その15 感謝祭と植民地

Thanksgivingの頃の気候は誠に厳しい。木々の葉はすっかり散り、雪が冷たい風に吹かれて舞う。それだけに家の中の人々の高揚した雰囲気は格別なものがある。祝いの飾り付けも綺麗だ。家の主人はエプロンを着て張り切っている。

マディソンにいた頃、ミルウォーキー(Milwaukee)に住むかつての宣教師ご一家の晩餐に招かれたことがある。インターステート90(Interstate 90: I-90)を車で飛ばした。I-90は、シアトル(Seattle)からボストン(Boston)に至る4,990キロの全米で最も長い州間高速道路である。途中、シカゴ(Chicago)やクリーブランド(Cleveland)、シラキュース(Syracuse)などを通過する。道路際の至るところに「鹿に注意」の看板がでている。

午前中は教会でThanksgivingの礼拝が執り行われる。説教の題となるキーワードは平和、愛、捧げ、喜び、感謝、恵みなどである。例えば詩篇106章の1節では、
「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」
“Give thanks to the Lord, for He is good. His love endures forever.” と読み上げられる。

ボストンの南東にある半島はケープコッド(Cape Cod)と呼ばれる。ヨーロッパからの漁民が鱈を求めてきたところのようである。そこに移民しようとした人々は、砂地で水がないことからケープコッドをあきらめプリマスのあたりに植民地:コロニーをつくったとある。移民の中には干ばつや飢饉により多数の餓死者がでるほど、苦しい生活を強いられたようである。それだけに豊穣な収穫に対する感謝がThanksgivingにつながったといわれる。
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友へ

今朝、かけがえのない友を亡くした。昭和20年8月6日、広島で被爆した親友であった。そのときは9歳。それから69年間後遺症と闘ってきた。重篤な脊椎前弯症のため、家でも外出のときも毎日酸素吸入器をつけていた。5年前に同じく被爆した御母上を天国に送った。

彼の自宅には毎月一度訪ねるのを楽しみにしてきた。いろいろと語り合ってきた。その都度、被爆の体験や「ノーモアヒバク運動」などを語ってくれた。沢山の写真も見せてくれた。その中に自宅が鮮明に写る原爆投下前と投下後の写真をひろげてくれた。広島平和記念資料館にあったものを特別に複写してもらったのだという。米軍は詳細な地理を把握し、効果的に爆撃するために都市の航空写真を撮っていたのだ。誠におぞましいことである。制空権を失った日本は蹂りんされた。

写真の他に、被災者証明書の原本も見せてくれた。発行は広島市で昭和20年8月10日と刻印されてある。後年、それを資料館に持ち込むとそのコピーを欲しいというので差し上げたそうだ。それが今も資料館に展示されているという。

友人は原爆の絵を描き続けた丸木俊氏とも交友を持ち続けていた。一緒に埼玉県東松山市にある丸木美術館に連れていってもらったことがある。「原爆の図」が収められている。その前に立つと生と死が圧倒的に迫り、くらくらしそうになった。

手元に「ヒロシマ・ノート」がある。岩波新書のなかでも傑作といえる一冊である。1965年に出版された。被爆者や被爆者の治療にあたった医療関係者を取材して刊行されたノンフィクションである。戦後の平和や民主主義とはなにかを問い直している。

だが筆者には、大江健三郎氏以上に畏敬の念を抱いてきた原爆を生きる証し人であった。今、永遠の安らぎがようやく彼に与えられたと納得している。

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留学の奨め その14 感謝祭(Thanksgiving)の由来

苦しい留学生活にもつかの間の寛げる時がくる。9月に始まった学期に一息つける時である。勉強に相当疲れた頃にやってくるのが留学の奨め その14 感謝祭(Thanksgiving)の由来(感謝祭)の休暇である。11月の最終木曜日。今年は11月27日である。翌日はBlack Friday。大抵の州ではこの週末は4連休となる。

1598年に今のテキサス州(Texas) のエルパソ(El Paso)でThanksgivingが祝われたといわれる。1619年には、ヴァージニア植民地(Virginia Colony)でThanksgivingが執り行われたという記録がある。1621年にはマサチューセッツ(Masachusettes)のプリマス(Plymouth)という港町で収穫に感謝する祝いが開かれた。これが現在のThanksgivingの原型だといわれる。

しかし歴史家には別の主張をする者もいる。1623年の植民地に干ばつが長く続いた。その後に雨が降り、幸い作物を収穫できたことを人々は感謝したという。そして祝いの宴(feast)ではなく感謝の礼拝(worship service)が行われたのが原型だというのである。これもなるほどと頷ける。

11月最終木曜日が国民の祝日となったのは1789年である。そのときの大統領は初代のジョージ・ワシントン(George Washington)。すべての州がThanksgivingを祝日としたのは1863年である。

しかし、国民誰もがThanksgivingを祝うわけではない。1970年以降、一部の先住民族であるネイティブアメリカン(Native American)とその支援者は、この日を「全米哀悼の日」(National Day of Mouring)として抗議の日としている。プリマスにあるプリマスロック(Plymouth Rock)の前で記念式典を開いている。また、この日は「アメリカインディアン遺産記念日(American Indian Heritage Day)」ともされている。伝統文化や言語の遺産を再認識する日としている。プリマスロックの前にある記念碑には「1620年に清教徒団が上陸した場所」と記されている。

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留学の奨め その13 リベラルアーツ教育とサービス・ラーニング

あまり聞き慣れない用語であるが、「サービス・ラーニング(Service-Learning)」の概念が注目されるようになったのは、1970年代末以降のアメリカである。大学教育が専門性や知識の習得に偏重しているという批判がひろまり、そのような教育では公正な市民社会を築く上では不十分だと指摘されてきた。知識偏重の教育はいつどこでも叩かれる。受験勉強がそうだ。大学は幸いにして学んだことを社会で活かすことができる機会を備えることができる。それが各種の奉仕活動という体験である。

1982年に設立された非営利のサービス機関にInternational Partnership for Service-Learning : IPSLという団体がある。この組織は以来、主として米国の学部生や院生らを発展途上国にて各種の社会奉仕活動に従事させ、住民との交流を通して開発や環境などグローバルな課題や問題意識を学ぶ運動を推進している。 現在は各国の学生も受け入れている。IPSLのサイト(http://www.ipsl.org/)からService-Learningのなんたるかを簡単に紹介することとする。

サービス・ラーニングは「教室で得た知識が果たして社会生活の実践役立つのかどうかを確認する過程」とでもいえよう。インターンシップにも似ているが活字から学んだ概念や理論が実際の現場で果たして役立つのか、そうでなければ現場から学ぶこととはなになのか、、理論がなぜ適用できないのか、などを思考することではないか。それによって自分の知識の理解を再考し深化させながら、再理論化の作業をする。

次に、サービス・ラーニングはボランティア活動とは異なる。いろいろと周りが設定してくれた環境で活動する。期待されていることをやればよい。だが、大事なことは学生の主体性とか自発性を要求するのがサービス・ラーニングとされる。既存のメニュからだけでなく、学生自らが自分の問題意識にそって、コミュニティに分け入り社会に貢献しようとする気概が求められる。

さらにサービス・ラーニングは、経験の振り返り(reflection)のプロセスを強調する。そうした振り返りは、個人の日誌づけの励行とかブログなどで文字化してもよいし、グループでの討論によって経験を分かち合うことからも生まれる。振り返りは経験知をとおして既存の知識の修正にもつながり、やがて個人の成長に大きく貢献する。

リベラルアーツ教育の神髄とはこうした活字化と実践化の統合にあるように思える。そこからグローバルな視野を広げたり持続的な平和活動への関心が高まることにつながるようにも思える。

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留学の奨め その12 リベラルアーツ教育とボランティア活動の限界

最近の大学におけるリベラルアーツ大学のカリキュラムをみていると、バイリンガルな人材の養成、留学体験による他文化理解、そしてグローバルな資質の養成などなっている。そのために、他文化理解科目の設置や英語による授業、留学生との交流、留学の推進などを掲げている。一体そんな環境で国際的に活躍できる人材が育つのか? 全く「アカン」といいたい。

筆者は、留学とは学位を獲得することと定義している。英語研修とかホームステイによる異文化体験ということではない。ところが多くの大学が学生を仲介するのは、一週間とか二週間の英語研修である。そのため保護者も我が子のために数十万円の出費を強いられる。学生といえば、全くの海外旅行気分である。事前研修というのがある。小遣いはいくら位とか、パスポートの期限は大丈夫か、英語会話の練習とか、ホームステイの心構えとか、、、アホらしくなる。

最近は語学研修からボランティア体験が脚光を浴びているようだ。大学側もその準備のために相当な努力を強いられている。まずは、ボランティアを受け入れてくれるパートナー機関を探すことから始まる。機関は大学であったり現地のNPO法人であったり、政府関連機関であったりする。ボランティア体験は、主として現地での活動の観察や交流、各種の体験、話し合いなどとなる。

しかし、ボランティア体験だけではグローバルな人材を育てることには限界があることが、ようやく認識されてきた。それはボランティア活動の計画がすべて機関間で周到にお膳立てされ、学生の側の声やニーズが届いていなかったことである。受け身の姿勢からは学ぶことの果実は少ない。そこから「サービス・ラーニング(Service Learning)」という新しい発想が生まれてきた。

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留学の奨め その11 リベラルアーツ教育と国際系学部の新設

リベラルアーツを標榜する大学が日本でも増えているようだ。特に「国際リベラルアーツ」を掲げる学部の新設が相次いでいる。こうした学部のカリキュラムを国際系リベラルアーツと呼ぶのだそうだ。だがリベラルアーツの雄は国際基督教大学(ICU)。1949年に創立され、「国際的社会人としての教養をもって、神と人とに奉仕する有為の人材を養成し、恒久平和の確立に資することを目的とする」とある。戦後間もなくのことである。

かつて筆者も北海道大学の教養部で1年半を過ごした。東京大学にも教養学部があった。リベラルアーツ教育が重視されていた。だが、教養部の勉強は高校の延長のようなところもあった。目新しいことといえば、ドイツ語とフランス語のいづれかが必須であったことだ。それから哲学入門とか人生論ノートなどの本がたっぷり読めた。今思えば、筆者も海外での学びに至ったのは、この教養部時代からなんらかの影響を受けたといえる。

国際リベラルアーツのカリキュラムであるが、原則英語での授業、国際教養科目の充実などを強調している。また外国人留学生との交流とか留学を義務付けるというのもある。これといって珍しいことではない。国際系学部は私立だけでない。長崎大学が新設を検討している人文・社会科学系学部の概要だが、世界の政治や経済、文化を学べるコースを用意し、国際的に活躍できる人材を育てる拠点にするのだそうだ。

なぜこのような様相になってきているかである。それは国の指針「グローバル人材育成戦略」があり、大学はそれに沿って学部を新設しようとしている。我が国を取り巻くグローバル化は急速に進展しているといっても、1990年後半からの海外留学生数の減少、海外勤務を希望しない内向きの学生の増加が報告されてきた。そのため、政府もこのような状況を危惧し「グローバル人材育成推進会議 審議まとめ」を発表した。「高校・大学、企業、政府・行政、保護者等が積極的に若い世代を後押しする環境を社会全体で生み出すことが不可欠」と提言している。これが文部科学省の「スーパーグローバル大学創成支援事業」につながっている。

最近の報道では、大阪や山梨の私立大も「外国語・国際系学部」(仮称)をつくろうとしているそうだ。だが国際系学部は過当競争に陥りつつある。筆者には大学間の差別化が難しくなっているように思える。学生募集に奔走している姿が映る。大学が新しい学部をつくりグローバル化の牽引役になろとしても、そうたやすくことが運ぶものではないはずである。

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留学の奨め その10 米国大学への留学生の増加

米国のシンクタンク(think tank)、国際教育研究所(Institute of International Education: IIE)が発表した2013〜14年度の米国の大学や大学院への留学生の統計は興味深い。国際教育研究所はフルブライト財団の支援によるFulbright Programを主宰したり、国内外の留学生を支援する、いわば米国における国際交流教育推進の旗艦組織である。

この統計によると前年度と比較して8.1%増の約88万6千人で、留学生の総数は1,107万5千人であるという。米国は留学生で支えられているといってよいほどの数字である。率直にいって米国の大学への留学はやはり高い人気があるという印象である。

国別の留学生の数だが、第1位は5年連続して中国人で、27万4千人とあり、これは前年の16.5%の伸びで留学生全体の31%を占めた。第二位はインドで10万3千人の6.1%の伸び、第三位は韓国となっている。日本からは1万9千人。前年度より6.2%減っている。この減少は9年連続して続いている。1990年後半の留学生のピークだった頃と較べで半減してしまったといわれる。

留学生の増加の伸びでいえば、最高はサウジアラビアからの留学生の伸びが21%で5万4千人となっている。ブラジル、クエートからの留学生も大幅に増えている。この理由は国費留学生の増加であるという。

米国の大学で留学生が増加する第一の理由は、優れた高等教育を受けられる環境があるからである。留学中に学位を取得すれば、自国に帰ったときその身分が優遇され、地位や高所得が約束されている場合が多い。今も留学は大きなステイタスとなっている。

第二は派遣先の国内で、高等教育機関を十分な早さで作れないなど、人材養成が追いつかず、そのために留学生が増えているという状況である。若者の向学心を満たす教育や研究環境が不十分ということだろう。

第三は米国は伝統的に留学生の出身国がどこであれ歓迎するという姿勢をとっていることである。中国やインドだけでなく、キューバやイラン、ベネズエラからもたくさんの留学生を迎え入れている。しかも留学生の授業料は高い。大学にとっては大事な収入源ともなっている。

米国との外交関係が緊迫した状態にある国からも米国には留学生が押し寄せている。国際間の緊張が続くとはいえ、留学生を受け入れる体制、例えば人権の尊重、政教の分離、安全が整っているからだと考えられる。

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ollege of Holy Cross                                                 小村寿太郎

留学の奨め その9 研究者の仕事探しと異動

今回はアメリカの研究者の異動に関する話題である。若手の研究者とって、大学での仕事探しはどこも大変なものである。 彼らは業績やキャリアが不足しているので、誰もが通過しなければならない難関である。大学におけるポストの空きの広告がでると、自分の研究分野をにらみながら応募することになる。

はじめは、自分の研究業績のレジュメ(resume)を大学に送る。研究業績にはポスドクの経歴も入る。この書類審査を通過すると大学での人事選考委員会に招かれる。この時の旅費は招く側が負担する。ここが日本と違うところだ。首尾良くポジッションを得るしても、大抵は3年の雇用契約である。ここから終身雇用身分であるエニュア(tenure)への途が始まる。雇用契約が切れ更新がないとまた仕事探しである。まるで渡り鳥のように転々とする。その間業績を増やしていく。米国にもコネ(old boy connection)が働く。

もう一つは、大学が特定の研究者に招聘状を出す場合である。招聘する側からの一本釣りである。こうした研究者は研究業績にすぐれ、名が知れた人達である。引き抜く方の大学はその研究者の収入などを事前に調べ、それ以上の条件を提示する。例えば1.5倍の給料をだすとか、という具合である。指名された研究者は、提示された待遇、大学の所在地の環境、同僚となるスタッフの研究状況などを調べ自分の研究にプラスになるかなどを考慮する。

このとき、研究者は自分の上司や学部長などに「他大学から1.5倍の給料でオファーがきているが、もし大学が今の給料を上げてくれれば残るが、、、、」と交渉するのである。学部長が「お前に残って欲しい。給料を上げよう」といえば、他大学からのオファーを断る。「予算がないので、給料を上げるわけにはいかない」といえば、移ることになる。このように交渉が可能なのが面白いところだ。また学部長も予算やスタッフの給料を決める裁量を持っているのも驚く。

総じて米国の大学における研究者の給与は高いが、雇用契約や安定度に関しては研究職は日本よりも厳しい市場である。

tenuretrackstructure_new tenure_cartoon  “一つの扉はテニュア、もう一つはマクドナルド行きの扉だ”

留学の奨め その8 学長選び

アメリカの大学ではいろいろなことが話題となる。学長(President or Chancellor)の発言が報道されることが多い。フットボールコーチのほうが学長より年俸が高いとか、リーダーシップが強過ぎるといったことも取り上げられる。特に学長選びは新聞紙上を賑わせる。大学運営で最も大事なことだからだ。

学長を選ぶのは大学の理事会(Board of Regents)である。学内での学長選挙などない。どんなに高名な教授でも学長にはなれない。理事会は候補者をいろいろな基準をあてて、全米から探す。そしてねらいを付けた数名の候補者を大学に招いてヒアリングをやる。ヒアリングは公開される場合もある。ヒアリングの後はパーティまで開いて候補者と理事、参加者が懇談するというあっけらかんさもある。

学長は研究者から選ばれる。研究業績、政府とのパイプ、学会活動、研究費の獲得などが選考の基準となる。そして、大学運営にかかわってきた経歴も重視される。ノーベル賞受賞が学長に選ばれるなどとはきいたことがない。ほとんどの場合彼らは大学運営では全くの素人である。

かつて兵庫の小さな大学で働いていたとき、3年ごとの学長選挙を経験した。以前は、教授に投票権があってそれ以外の教員は傍観する有様であった。選挙が公示されると立候補者の推薦陣営が水面下で運動をやる。陣営の活動は、出身大学を出たものが仲間を誘い込むというものである。筆者は、こうした地元の大学出身ではない、いわば地盤も看板もないアウトサイダーのような存在であった。それゆえ、立候補者の陣営から盛んに電話がかかってきた。

そして投票日。立会人は候補者の側から選ばれる。彼等は投票行動をじっと見つめる。筆者のような「無党派層」は特に注目される。「成田」というのと「朝野」というのが学長に立候補しているとする。記名するときは、後者のほうが時間がかかる。立会人はそれを見て、「誰それは誰に票を投じた」とわかるそうだ。まるで田舎の町長や村長選挙のようである。実にくだらない話しだが、こんな学長選びが10数年前まで行われていた。蛸壺の中のような大学運営であった。今は、理事会が実質的に決める。欧米にならった学長選びだ。

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North Carolina State University Chancellor, Randy Woodson

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University of Wisconsin Chancellor, Rebecca Blank