ユダヤ人と日本人 その8 サルトルの反ユダヤ主義への批判

フランスの哲学者、サルトル(Jean Paul Sartre)は、「ユダヤ人」(岩波新書)の中でユダヤ人迫害の原因を指摘する。聖書に始まりホロコストに至るまで、反ユダヤ主義とか反セミティズム(Anti-semitism)は、すべての社会悪の責任をユダヤ人になすりつけ、選民的全体主義をつくる手段であるという。

「もしユダヤ人が存在しなかったなら、反ユダヤ主義者はそれに代わるものをつくりあげただろう。それは黒人であり有色人種であったりする」。そしてサルトルは、反ユダヤ主義にあっては、被害者側にはその理由は見あたらず、加害者側にあったことを断言する。

反ユダヤ主義に耽溺する者は、ユダヤ人から金銭と暗さを連想する。シェイクスピア(William Shakespeare)の「ヴェニスの商人」(The Merchant of Venice)に登場する守銭奴のシャイロック(Shylock)のような陰険な存在、フリーメーソン(Free Mason)をはじめとする秘密結社を結ぶ反社会的勢力と考えがちである。

呪われたユダヤ人は、呪われながらも欠くことのできぬ職業についていた。土地をもつことも軍隊に加わることもできなかった彼らは、金銭の取引を行っていたが、それはキリスト教徒が近寄ることのできぬ職業だったからである。伝統的な宗教的嫌悪という呪いに加えて、経済的な呪いが加わったのである。こうした金銭に関する職業という非生産的な職業についていることを反ユダヤ主義は軽蔑し非難するが、反ユダヤ主義者こそがユダヤ人に対して、全ての職業を禁じたからに他ならない。「キリスト教徒がユダヤ人を創造した」とサルトルは云う。

不幸にして、こうしたユダヤ人に対する否定的な概念は、物理学者のアインシュタイン(Albert Einstein)やオッペンハイマー(Robert Oppenheimer)、小説家のカフカ(Franz Kafka)、作曲家や音楽家のガーシュイン(George Gershwin)やスターン(Isaac Stern)、俳優や映画監督のチャップリン(Charles Chaplin)やスピルバーグ(Steven Spielberg)、哲学者アーレント(Hannah Arendt)といった輝かしい人物をもってしても拭い去ることは困難なほどである。

日本にまでこうした否定的な反ユダヤ主義が染み込んでいるのは、論理的、経験的な理由からではない。日本はどうか。戦争中、中国人や朝鮮人に対してどのような態度でどのように臨んだかを考えてみる。果たしてどのような根拠があって大東亜共栄圏なるものを作りあげたのか。決して反ユダヤ主義は人ごとではないことがわかる。反ユダヤ主義は理性的な思想とは全く別物である。むしろ情熱であるとサルトルは云う。
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ユダヤ人と日本人 その7 ユダヤ人の遍歴 その2

前回に続き、「ユダヤ人の遍歴その2」である。中世に追放されたユダヤ人の多くは東方へと移民した。ポーランド(Poland)、オーストリア(Austria)、ボヘミア(Bohemia)、モラヴィア(Morabia)などの地域へ拡散したことを記した。特にユダヤ人が多かったのがポーランドであった。

Wikipediaによれば、1025年から500年間続いたポーランド王国(Kingdom of Poland)は立憲君主制の先駆けといわれる。民族や宗教の多様性が顕著で、宗教的な寛容さが実現していたといわれる。その一例が「ユダヤ人の自由に関する一般憲章」発布である。これによってユダヤ人の安全と個人の自由を保障し、ユダヤ人らは安心して自分たちの信仰を守り、商売を行い旅行することができたといわれる。

その間、イスラム教徒(Muslim)によって「聖地」が冒涜されているとか、巡礼者への冷たい対応に対する救援を依頼するようになる。そこで異教徒より聖地を取り返すことを目的として二世紀の間、8回の十字軍(Crusade)が派遣される。キリストの流した血は、彼を殺したユダヤ人の血を流すことで仇討ちするということにも発展するのである。だが、イスラム教徒の攻撃により壊滅し逃走を余儀なくされたり、奴隷になったり死亡する者も大勢いた。異端への布教とか討伐という十字軍が失敗するのである。ユダヤ民族の殉教の時代を迎えるのである。

アーサ・ケストラー(Arther Koestler)の「ユダヤ人とは誰か」によれば、西ヨーロッパのユダヤ人が定住したのは、今のフランスとドイツにまたがるラインラント地域(Reinland)ある。だが第一次十字軍においては、ラインラントで多数のユダヤ人が十字軍運動に熱狂したドイツ人などにより虐殺されたと云われる。さらに1290年にはイングランドから、1394年にはフランスからユダヤ人が追放された。15世紀になるとドイツ諸邦でも、神聖ローマ帝国やドイツ騎士団、大司教などによってユダヤ人は迫害や虐殺されたりした。

ユダヤ人はヨーロッパとイスラム世界とを結ぶ交易商人だったが、ヨーロッパ・イスラム間の直接交易が主流になったこと、自分たちへの迫害により長距離の旅が危険になったことから、定住商人へ、さらにはキリスト教徒が禁止されていた金融業(銀行業)へと進出していく。キリスト教社会では、金融業は「身を汚さずには近寄ることもできない」卑しい職業=金貸しと見なされていたのである。やがて「ユダヤ人高利貸」というステロタイプな呼び方はこうして定着するようになる。
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ユダヤ人と日本人 その7 ユダヤ人の遍歴 その1

紀元前17世紀、アブラハム(Abraham)、イサク(Isaac)、ヤコブ(Jacob)などユダヤ民族の族長らがイスラエルの地に定住する。もともとユダヤ人は農耕や牧畜に従事していた。しかし飢饉によりユダヤ人はエジプトへの移住を余儀なくされる。

紀元前13世紀頃、イスラエルの民はモーセ(Moses)に率いられてエジプトを脱出しシナイ半島(Sinai)の砂漠を40年間流浪し、やがてイスラエルの地に定住しユダ王国(Kingdom of Judah)を建設する。首都はエルサレム(Jerusalem)、初代王はサウル(Saul)となる。このあたりは地中海とアラビヤの砂漠に囲まれた肥沃な土地であった。この史実は出エジプト記(Exodus)の1章から4章に詳しい。有名な十戒(Ten Commandaments)は同記20章に記述されている。

だが紀元前597年、ユダ王国がバビロニア(Babylonia)の王ネブカドネザル(Nebuchadnezzar)によって滅び、捕虜となったユダヤ人が現在のイラクの南部にあたるメソポタミア(Mesopotamia)に移住を強いられる。これがバビロン捕囚(Babylonian Captivity)である。エジプト脱出が序章とすればバビロン捕囚はユダヤ人流浪の第二章といってもよい。

時代は中世に移る。追放されたユダヤ人の多くは東方へと移民した。まずはオーストリア(Austria)、ボヘミア(Bohemia)、モラヴィア(Morabia)、ポーランド(Poland)などの地域へ移住する。ポーランド王国は1264年にポーランド中央部の都市カリシュ(Kalisch)において「カリシュの法令」、別名「ユダヤ人の自由に関する一般憲章」を発布してユダヤ人の社会的権利を保護した。こうしてポーランド地方はユダヤ人にとって非常に住みやすい国となった。彼らは後にポーランド・リトアニア(Lithuania)共和国の全地域へと拡散した。

こうして大きなユダヤの民族集団が東ヨーロッパや地中海を端から端まで移動することになるのだが、シースル・ロス(Cecil Roth)は「ユダヤ人の歴史」の中で「その特徴は自分たちの宗教だけでなく、自分の文明も一緒にもって移動することに成功した」と指摘する。この事実が、幾多の迫害を受けてきたにも関わらず、今に至るまで宗教的伝統や生活を高度に維持し、世界に存在感を示しているというのである。
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ユダヤ人と日本人 その6 なぜユダヤ人に関心を抱くのか(2)

私がユダヤ人に関心を抱くきっかけとなったもう一つの理由は、その民族の不思議な歴史にある。これほど流浪を続け迫害を受けた人種はないであろうと思うほどである。旧約聖書にある出エジプト記にある「エクソダス」(Exodus)はユダヤ人の流浪の始まりである。そうして全世界に離散(diaspora)していく。

「エクソダス」は、旧約聖書の申命記(Deuteronomy)などで記述される「乳と蜜の流れる場所(a land flowing with milk and honey—the home of the Canaanites)」、「豊穣の地」、「 恩寵の地」、「安住の地」を求める旅である。神がアブラハム(Abraham)の子孫に与えると約束したカナン(Canaan)である。カナンは地中海とヨルダン川、そして死海に挟まれた地域といわれる。

離散された民、ディアスポラは離散先での永住と定着を示唆している。そこには偏見や差別に満ちた世界でもある。だが彼らは難民ではない。難民は元の居住地に帰還する可能性がある。ディアスポラにはそれがない。

近代の「エクソダス」は中東からヨーロッパへの大量移住がよく知られている。ユダヤ系のディアスポラのうちドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々とその子孫はアシュケナージム(Ashkenazim)と呼ばれる。語源は創世記10章3節に登場するノア(Noah)の子孫として「アシュケナズ」(Ashkenazi)である。

アシュケナージムの離散の歴史を調べると、まさに過酷さのそれといえそうである。その最たるものが、精神科医ヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl)の「夜と霧」に記される強制収容所送りであろう。この体験記の翻訳はみすず書房から1946年に出版された。
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ユダヤ人と日本人 その5 なぜユダヤ人に関心を抱くのか(1)

このシリーズの最初に記したが、私には留学中にお世話になったユダヤ系のアメリカ人がいる。現在、ミルウォーキー(Milwaukee)の郊外で整形外科の医師をしている。熱心なロータリークラブ(Rotary Club)の会員で週一の例会は欠かしたことがない。出張したときは、近くにある別のロータリークラブの例会に出席するのだそうだ。奉仕活動にも積極的に参加し、中南米の医療チームに加わったりした。

私は国際ロータリインターナショナル(Rotarty International)からの奨学金でウィスコンシン大学で学ぶことができた。そのスポンサーがこの人である。名前はDr. Robert Jacobsという。Jacobsとはユダヤ人の名、「ヤコブ」と日本語では表記される。

大学に入って早々、留学生を迎えるためにマディソンまでワゴン車で迎えにきてくれた。そしてご自宅にホームスティさせてくださった。その時、ご自身が長老をされているシナゴーグ(Synagogue)に連れて行ってくれた。礼拝所に入る前にヤマカ(yamaka)という帽子をちょこんと頭に載せた。Dr. Jacobsは熱心なユダヤ教徒である。

さてユダヤ教のことである。ユダヤ教がキリスト教と一線を画する点は、新約聖書(New Testament)イエス・キリスト(Jesus Christ)の誕生には言及しないことだ。旧約聖書における唯一の神、ヤハウェ(Yahwe)を拠りところとする。ヤハウェは全世界の創造神とされる。なお新約聖書では、エホバというように使われる。

ユダヤ人の精神性は二つの律法から形成されていると考えられる。一つはトーラ(Tola)である。モーゼが記したといわれる旧約聖書の最初の5つの書のことを指す。トーラは律法のことである。もう一つはタルムード(Talmud)である。ユダヤ人の生活、宗教、道徳に関する口伝で語り継ぐべき教えの集大成である。

Dr. Jacobs家の先祖は、第一次大戦後、東欧ポーランドのあたりから迫害を逃れアメリカ大陸に移民してきたのだそうだ。人種差別や迫害の歴史はユダヤ人のことであるといっても過言でないほど、翻弄されたものである。私はこのことをDr. Jacobsから教えられた。
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ユダヤ人と日本人 その4 「Le Concert」から考える(4)

ユダヤ系ロシア人音楽家の苦悩と喜びを描いた映画「Le Concert」の大団円である。

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そして遂に公演の夜になる。パリ市内で好き勝手なことをしてた団員は、携帯電話からの連絡で公演がリアを追悼する演奏会であることを知らされ劇場に集まってくる。だが一度もリハーサルはしていなかった。

その間、ボリショイ劇場の支配人がたまたまパリに休暇にきていた。そして偽のボリショイ楽団の演奏会のポスターを目にする。あわてて演奏を中止しようとする。マネージャーのガブリロフは支配人を清掃具入れに押し込めて演奏中止を阻止する。

公演の幕が上がる。だが練習不足やリハーサルなしのぶっつけ本番で調子っぱずれの演奏が始まる。聴衆はざわつく。それでも、団員が自主的にハーモニーを引きだそうとするアンドレの演奏の理念を団員は知っていた。そして、アンマリーの類い稀なるヴァイオリン独奏の技巧は聴衆を魅了する。彼女の技巧は、実は母親であったリアが注釈をつけた楽譜から学んだものであった。

公演は大成功裏に終わり、その後この楽団はアンドレを指揮者とする「アンドレフィリポ・オーケストラ」として再出発する。世界各地での演奏会にはアンマリーがいつも独奏者として同行するのだった。

この映画は偏見と差別、迫害を描いて残酷である。ユダヤ系ロシア人は長い厳しい道を歩んできた。それでもなお弛まなく挑戦する姿に共感と感動を与えるのである。

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ユダヤ人と日本人 その3 「Le Concert」から考える(3)

 

ソ連体制から”ユダヤ主義者は人民の敵”と称されたユダヤ系の演奏家の矜持を描いたフランス映画「Le Concert」の続きである。
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いよいよ、なりすましのボリショイ楽団はパリ公演にでかける。パスポートを業者に偽造させたり、楽器は借り物、演奏会用の洋服や靴をそろえるなどドタバタが続く。そしてパリにやってくる。だが団員は物見遊山ツアー気分で、パーティを楽しんだり、持参したキャビアを売ったり、タクシーの運転手などをして金儲けを始める。団員は集まらずリハーサルは流れてしまう。

このような団員のプロ意識の低さやアンドレの音楽界復帰のチャンスという意図に嫌気をさしたアンマリーは出演を断る。それをきいたチェロ奏者のアブラモビッチは、彼女に対してこの公演はアンマリーの過去や未だに会ったことのない両親を思い起こす機会となるとして出演を説得する。アンマリーは、幼い頃から両親は科学者で、アルプスで亡くなったきかされていた。

アンドレと妻のイリーナ(Irina)はユダヤ人音楽家であったリア、イヤーク・ストルム夫妻( Lea and Yitzhak Strum)の親友であった。リアはヴァイオリン奏者で、KGBによって演奏を停止させられた時のヴァイオリン奏者であり、指揮者はアンドレであった。

二人は自由ラジオヨーロッパ局やアメリカラジオ局を通じてブレジネフ政権やKGBの圧政と弾圧に公然と批判する。KGBが二人を連行しようとしたとき、二人はフランスからモスクワに公演にきていた楽団で演奏していたギレーネ(Guylene)に乳飲み子を託し、ギレーネはその赤子をチェロのケースに隠してパリに逃れるのである。その赤子こそがリアの娘アンマリーであった。
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ユダヤ人と日本人 その2 「Le Concert」から考える(2)

ソ連の政治体制への批判やユダヤ系ロシア人の気概がおかしみと真剣さを込めて描かれているフランス映画「Le Concert」の2番目のプロットである。

KGBのエージェントであったガブリロフ(Ivan Gavrilov)は、アンドレのパリ公演案を彼なりに注目し、一儲けをしようとしてアンドレのマネージャとなる。だがアンドレから公演を持ちかけられたかつての首席チェロ奏者アブラモビッチ・グロスマン(Abramovich Grossman)はこの計画に疑心暗鬼であったが、結局それに加わることにする。

ガブリロフとアンドレは、シャトレ劇場に対していろいろな要求をつきつける。パーティとかセーヌ川船上での夕食会などである。それは、ロスアンジェルス交響楽団を招くよりも費用が安いというのが要求の理由であった。また、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の演奏者をパリに在住するアンマリー・ジャケ(Anne-Marie Jacquet)とすることも要求する。

ところがアンマリーはこの協奏曲を一度も弾いたことがなかった。だがボリショイ楽団と演奏したかったこと、さらにロシア以外でも有名だったアンドレと一緒に演奏したかったので、演奏依頼を引き受ける。

アンマリーの付き人であるギュレーネ・リビエラ(Guylene Riviera)は実はアンマリーの養母であった。彼女はこの演奏会にアンマリーが出演することにためらっていた。その理由は、ギュレーネがアンドレの過去を知っていたからだった。

さて、なりすましのボリショイ楽団は知名度の高かったマフィアのボスから支援を受ける羽目になる。このボスは自分も技術は酷いのだが舞台でチェロを弾きたいと願い出る。
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ユダヤ人と日本人 その1 「Le Concert」から考える(1)

しばらく「ユダヤ人と日本人」というテーマを考えていく。私個人の留学におけるユダヤ系アメリカ人スポンサーとの交誼、戦前の杉原千畝氏の活躍や満州で近所に一緒に住んでいた白系ロシア人との付き合い、父や叔父が樺太で抑留されていたときのロシア人との交流、1970年頃読んだ「日本人とユダヤ人」と著者イザヤ・ペンダサンなどがこのテーマの下敷きになっている。

「Le Concert」という映画を観た。2009年にフランスで製作された。一見コメディ風だがロシアの政治体制や人種、マフィアなどへの風刺もきき、音楽の素晴らしさを交えながら、社会問題を掘り下げた味わい深い佳作である。特に体制への批判やユダヤ系ロシア人の気概がおかしみと真剣さを込めて描かれている。

さて本シリーズは、映画「Le Concert」のあらすじから始める。舞台はモスクワ(Moscow)のボリショイ(Bolshoi Theater)劇場である。かつてボリショイ歌劇場交響楽団(Bolshoi Theater Ochestra)で世界的な指揮者「マエストロ」といわれたアンドレ・フィリポ(Andrey Simonovich Filipov)は、今は同劇場の掃除夫として働きアル中になっている。

アンドレは30年前に、当時のブレジネフ政権(Leonid Brezhnev)によるユダヤ人楽団員の排斥に抵抗したために、チャイコフスキー(Tchaikovsky)のヴァイオリン協奏曲を演奏中にKGBのエージェントであるイワン・ガブリロフ(Ivan Gavrilov)によって中止させられ、団員とともに楽団を解雇され掃除夫となる。

劇場支配人の部屋を掃除しているとき、一枚のファックスがでてきた。アンドレはそれを手にとって読むと、パリの有名なシャトレ劇場(Chatelet Theatre)からのもので、ロスアンジェルス交響楽団(Los Angeles Philharmonic Orchestra)の代わりにボリショイ楽団にパリで演奏してもらいたいという招待状であった。アンドレはそのファックスを手にして、かつての団員に呼びかけオーケストラを組織し、ボリショイ楽団になりすましてパリで公演しようと画策する。

古いユダヤの音楽やジプシー音楽を弾いているかつての団員など、追放された仲間に声をかけてチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をシャトレ劇場で演奏しようと持ちかける。この曲はKGBによって中止に追い込まれた怨念の曲であった。
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無駄から「無」を考える その8 ゼロと帰無

「無駄から無を考える」シリーズの最後の稿となった。

我々が毎日使っているコンピュータは、電子計算機という別称のように計算が大得意である。電卓もそうである。だが計算は0,1,2,,,,9 という十個の数字による、いわゆる十進記数法そのままで行われるのではない。日常使う「十進法表記」をコンピュータ内部で「二進法表記」に書き換えた上で、加減乗除がなされ、その結果を十進法表記に書き戻している。

二進法表記とは、「0」と「1」という二つの記号だけであらゆる「自然数」を表す方法である。ここでも位取り記数法が使われ、十進法表記となんら変わりない。コンピュータでは、たったの二つの数字しか必要としない。「0」を「無い」、「1」を「ある」、あるいは0を「No」、「1」を「Yes」としている。「0」と「1」使う二進法の効用とは、あらゆる計算をこの二つの数字で行うことができることである。「0」がいかに重要な数字であるかをいいたいのである。

ゼロに似た語に「null」がある。英語では「ナル」と発音されるがこれは「何もない」という意味である。ラテン語で「無」を意味する「nullus」に由来し、ドイツ語でもnullは0を意味する。英語では、「null」 はzero または empty と交換可能である。例えば、零行列でいうnull matrix は zero matrix、空集合でのnull set は empty setという具合である。

統計学でも「null」が使われる。帰無仮説とされる「null hypothesis」である。帰無仮説とは、ある仮説が正しいかどうかの判断のために立てられる仮説のことだ。例えば、「男と女で読書時間に差はない」とか「二つの薬の効果は同じだ」といったことである。

帰無仮説は棄却されて始めて研究者の調査や実験の意図が達せられる。この意味で無に帰される仮説と呼ばれる。大抵、研究者は否定されることを期待する。だが帰無仮説が採択されたからといっても,必ずしも帰無仮説として立てられた内容が正しいことにはならない。確率と実際の事象には違いはある。従って「無に帰せられる」といってもゼロになるとは違う。ここが少々悩ましい。

無駄から「無」を考えてきたつもりだが、どうもテーマが複雑で筆者の理解はまだまだ十分ではない。多くの時間をかけて調べ、考えてきたことが無に帰するようなのだが、無駄ではなかったと振り返っている。
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無駄から「無」を考える その7 「ゼロということ」

中国への仏教の伝来は一世紀頃と推定されている。仏教伝来以前の中国、紀元前六世紀頃は老子や荘子らの道家思想でいう「無」が広く受け容れられてきた。「無」とはゼロの観念とは異なり「無と有の中間の存在」と考えられたということが日本佛教文化辞典や諸氏百家にみられる。

仏教の根本問題である「空」との関連である。数学的には「0=ゼロ」を意味するのか? XとYという座標軸に沿っている記号を根源で支える点(原点)、ゼロ記号としてのこの支点がなければ、X軸もY軸も存在しない。ゼロは抽象的な形体や世界を指示するための象徴記号として作用している。この0の発見によって無限の数列が可能になった。このような考え方は、インド仏教の根底に流れる思想といわれる。

我々が通常使っている数字は算用数字。これはアラビア数字(Arabic numerals)のことだがもともと起源はインドにあり、インド数字(Indian numerals)とも呼ばれる。それに対してローマ数字(Roman numerals)は文字の組み合わせである。ローマ数字はラテン文字(Latin)の一部を用い、例えば I, II, III, Xという具合である。ローマ数字に「0」という文字はないのも特徴とされる。1000を超える数の表記法は複雑だった思えるが、それには大きな数を扱う機会が少なかったためという説もある。ともあれローマ数字は表記が長いので数字としては限界がある。

珠算というそろばんを使った計算は誰もが一度は経験したことである。そろばんによる計算は、縦の1列が十進法の1つの桁を表していて、上の桁から順次下の桁に降りて計算を行う。これは筆算と異なる点である。十進法であるから0は存在することになる。このとき、そろばんでも筆算でも、無意識のうちに位取りを使っている。

筆算のよいことは、位取りの位置が記録に残り、正否を確認できることだ。そろばんや電卓はそうした記数法は記録に残らない。「零の発見」(岩波新書)の著者は、「アラビヤ文字の占めてきた役割は主として記数数学としての役割だった。位取りの記数方法にまさる記数法は考えにくい」という。パピルス(papyrus)から始まるといわれる紙の上での記録が記数方法の重要さを物語る。
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無駄から「無」を考える その6 サンスクリット語の「シューニャ」

日本佛教語辞典によれば、「空」という語は、古代から中世にかけてインドで使われていたサンスクリット語(Sanskrit)の「シューニャ(Sunya)」ということである。真に実在するものではなく、その真相は空虚とされる。空なることは空性と呼ばれる。このような見方を空観と呼ぶ。サンスクリット語は今もヒンドゥー教(Hindu)や仏教における礼拝用言語である。

アラビア語で「sifr」: シフルという語があるという。その意味は「空」と翻訳されたとある。この「sifr」が、13世紀のはじめ、アラビア記数法、後のインド記数法が伝わったイタリアでラテン語化して 「zephirum」となったようだ。そして最終的には「zero」という語に変化した。一方、中世ヨーロッパの数学界では「ゼロ」をあらわすために、もとのアラビア語とほぼ同じ語である「cifra」(数字)を長く使い続けた。ゼロ、0といったアラビヤ数字を意味する英語は「cipher」という。「cipher」は、「sifr」とか「cifra」が語源であることがわかる。

サンスクリット語の「シューニャ(Sunya)」はなかなか興味深い。この語はやがてフランス語のシニフィエ「signifie」, とかsignifierなど「意味する」とか、「表している」という語に発展したとか。記号表現、記号内容といった使われ方をする。英語の「signify」とか「significant」にあたることはいうまでもない。「意味ある」ということを指す。

「空」がゼロとなり、0が意味ある表記となったのはインド哲学の偉大な貢献の一つといえそうである。
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無駄から「無」を考える その5 「無私ということ」

「私」を無にすることは、無心になることであり、それは「私」を自然に近づけることであるとされる。自然に近づいた「私」が自我を離れた無心の自己になる。

無私とは心を「空」にすることでもない。心が初心であり続けること、いつも自然や他者と共鳴し続けることのできる「無心」の状態にあることである。これは漱石の文学観とも解されている「則天去私」の境地かもしれない。「天に則り私を去る」と訓読する。

総合佛教辞典によれば、仏教における空は、存在論的な虚無や空虚といったことを意味するものではない。存在と非存在、あるいは客体と主体といった二元論的な構図の中で、その一方を否定するものではない。

さらに佛教辞典によれば、事物の無常性、変化性、消滅性を表現するとき仏教では「色即是空」という。「色」とは法とか事物のことであり、それが無常であることを「空」という語によって説明している。法とは、制度、習慣、宗教、法律、道徳、正義といったことを示唆する。しかし、「空」はこの法の常性、永遠、持続の観念を否定したものではない。

佛教辞典は次のようにも云う。「法の空は、一切の現象を否定的に説明するための言表であるよりは、一切の現象を肯定的に説明するための象徴であるという順接の関係をいう。」一切の現象が有として存在するためには、空の構造において始めて可能になる、ということのようである。

非常に難解な解釈であるが、どうも数学の「零の発見」に近づいているように思える。
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無駄から「無」を考える その4 「無常ということ」

前回、自然のままで作為がないこと、因縁とか業によって生成されたものでないことが「無為」であるということについて考えた。それは、変化とか消滅を離れた永遠の存在、涅槃とか悟りの有り様であるらしい。仏教の説話が紹介されている今昔物語は「今となっては昔のことだが、、」で始まる。その中で作者は、「永く無為を得て、解脱の岸に至れり」と宣言している。

さて無常ということである。時の経過に伴って絶えず流動し変化するにつれて、あらゆる事もまた生滅流転する。すなわちこれが無常といわれる。このように無常観は単純にして明快な世界観のようである。

仏教文化事典によれば、日本人が無常観を受容していく過程には二つのタイプがあるといわれる。一つは自分の経験を積むなかで無常を身もって体験し認識することである。経験から帰納する認識である。二つ目は無常を絶対的な命題としてとらえ、それを無条件で受容することである。演繹的に無常を考えるのである

死とか滅亡という否定的な契機によって認識される帰納的な無常においては、無常は招かれざる客として消極的に享受される。体験という過去に注がれて感傷的な性格が顕著となる。だが、演繹的な考えでは、無常は進んで求めるべきという立場だ。なぜなら無常をテコにして将来の解脱が約束されると考えるからである。死を受容し残された時間を生きようとする態度にこの演繹的な無常観が表れている。

筆者の家族史にも、長年ガンと闘い死に向き合い死を受けとめた者がいる。

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無駄から「無」を考える その3 「無為自然」

今回は、中国、老子の思想からである。「無為自然」という四文字熟語である。「無為」という言葉だが、文字通りなにもしない、という意味である。だが、無為とは「知や欲を働かせず自然に生きること」とある。

総合佛教辞典によれば、「無為」とは万有を生み出し万有の根源となるもの、有と無との対立を絶したものとされる。「全力を尽くすが、その先は天地自然、気の流れに任せるのがもっとも自然で最も幸福な生き方」これが老子らの教えといわれる。

貝塚茂樹の「諸子百家」(岩波書店)には「有と無の超越」という章がある。「道は常に無為にして、しかも為さざる無し」、「故に有の利たるは、無の用をなせばなり」とある。いよいよもって複雑である。さらに「無為自然」とは、「人間や政治の理想的なあり方」とか「万物が道に順って生きる基本となる立ち位置」と云われるのだが、、、

この地球という生命体が今危機に瀕しているという説が広く行き渡ることを勘案すると、「無為自然」は首肯できる概念といわざるを得ないのである。「万物が道に順って生きる基本」からはずれた人間と国のエゴイズムが地球体を危機に陥れているとも考えられるからである。我々の次の、そのまた次の世代に引き継ぐべき地球という共同体は「無為自然」に反する人間の勝手な行為によって危機を迎えているといわれる。

だが、「なにもしないことにも意味がある」というのが中国やインド哲学の神髄のような気がしてくる。有と無の論議は、宗教なのか哲学なのか、その境目は門外漢の筆者には全く分からない。

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無駄から「無」を考える その2 「無」と「有」

無駄という語の他に、無学、無知、無言、無策、無頼、無礼、無粋、無情、無法、無恥、無理、無視、無能、無効、無死、無謀などの言葉を眺めてみる。「無」という漢字は、「否定や禁止を表す助字」(広辞林)とある。対立するかのような概念の「有」という助字の前にはどうも分が悪い。

だが、「無」の使われ方は必ずしも「有」に劣る概念ではないことがわかる。無欲、無性、無想、無念、無償、無益、無事、無私、無名、無常、無上などの語をよくみつめると、そこには人間の大事な生き方が現れているようにも思えるのである。「無」ということが意味のある概念であることだ。「無」が価値を有するということでもある。人間の品格を表す無垢という言葉もある。立派で並ぶものがないことを無二ともいう。

インド哲学によれば、「無」とは「存在しないこと」ではなく「無が存在する」ということらしい。単なる「non-being」ではなく絶対的な根源としての「無」があるというのである。この考えは、数学における「零0」の存在に通じるようである。「零0の発見」によって、数学において無を記述できるようになった。零0の存在は革命的ともいわれる。この零のことは後日取り上げる。

「無数」においても「countless」、「innumerable」というように、存在するが数えることはできないだけなのである。まさに無と有の対立を越えてそれを包括するような概念がここにあるように思える。無期とは有限の時間を表す。懲役100年でも200年も有期でも無期でもある。無と有は表裏一体のようである。

母校、北海道大学には宗教学インド哲学講座があるのを思い出す。

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無駄から「無」を考える その1 人生は無駄の連続か

「人生を無駄に生きている」とか「生きることは無駄の連続だ」としばしば云われる。これも真実なのかもしれないと思うのである。誰もが、自分は有意義に生きているだろうか、なにかのために役立っているだろうかと振り返ることがある。

「無駄」を調べると「それをしただけのかいがないこと」という意味もある。だが、ここでの難問は「なにをしたのか」ということである。今回のISによる人質殺害事件では、K.G.記者の行為に「無謀」とか「無理」とか「蛮勇の行為」という意見もあれば、「無欲」とか「無償」、「無私」とかとらえる意見もある。K.G.氏は「無畏」という泰然として畏れのない境地を悟った人という見方もできる。

だが、あえて批判を甘受するならば「なにもしないことにも意味があるのではないか」とも考えられる。我々は得てして、行動とは目に見える業と考えがちである。しかし、人を思いやったり、祈ったり、瞑想したりすることも「なにもしないこと」のようであるが、実は意味あることだと思うのである。

「無駄」を「無」と「駄」に分解すると天と地ほどの違いがあることに気がつく。この気づきが今回のシリーズの主題である。「無」という漢字を広辞苑で調べると実に沢山の用語がある。どれも我々に生き方に関わることばかりである。「無」のことを探求するのは、泥沼の中に身をおくような気分になる。だがあえて暫くこの難題に挑戦することにする。

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平家物語

旅は道連れ世は情け その18 YESとNOの使い分け

「旅は道連れ世は情け」のシリーズは今回で最後とします。これまで大勢の優秀な院生と一緒に学んだり教えられたりしました。院生との思い出はいろいろありましたが、なんといっても毎年実施する海外研修旅行でした。海外での研修は半年前から先方と交渉を始めます。

研修では特に学校の訪問が主たる目的です。先方というのは、友人、知人、紹介された人です。このコネがないと訪問交渉はうまく進みません。こちらがなにを調べたいか、どんな人に会いたいか、どんな資料が欲しいか、などを先方に伝えることからスタートします。

通常、ゼミ生以外にも他の講座の院生に広く呼びかけて参加者を募ります。院生のほとんどは教師なので、研修費用には不自由はしません。しかも、大学院で研究する身分ですから時間はたっぷりあります。

研修旅行に際しては、私の役割は訪問日程を決めてから航空券やホテルを予約することです。院生のこまごました世話をあまりしません。ホテルのチェックインや相部屋の決め方、訪問先への道を尋ねることなどは院生にやってもらうことにしています。皆れっきとした大人。自分でやって貰いたいのです。英語というハードルはそこにはありますが、、、今回の話題は外国の空港での手荷物カウンターでのやりとりです。

手荷物を預けるとき、空港の検査官は、旅行者がなにか不審なものを持ち込まないかを調べるます。そこで簡単な質問をします。
検査官 「おかしなものを持っていないか?」
院生 「はい(Yes)」
検査官 「なにを持っているのか?」
院生 「いいえ(No)」
検査官 「??、、、、」

院生は、「はい、持っていません」と言ったのです。

検査官は、怪訝な顔をしてやおらスーツケースを調べ始めました。そしてビニール袋に入った白い粉のようなものをとり出しました。これで一大事です。Yesと言ってしまったからです。
検査官 「これはなにか?」
院生 「これはTop,,Top,,」

院生は粉石けんという単語を知らなかったのです。ソープではなく「ディタージェント(detergent)」という単語が正解です。Topとは洗濯石けんの名前です。院生は検査官と一緒に別室行きです。それを私たち一行はニヤニヤして見つめます。わたしもあえて院生に助け船を出すようなことはしません。

やがて院生が無事解放されてスーツケースと一緒に戻ってきました。しかし、再度の検査で別な検査官とまたYes, Noのやり取りをやってしまったのです。係官の表情がおかしかったです。「この人騒がせなジャップめ」とでも思ったのでしょう。

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旅は道連れ世は情け その17 「寿司には気をつけよ」

ミネソタ大学の人々にはお世話になったりお世話をしたりしました。思えば誠に幸いで有り難い経験です。前回、広島でのセミナー後の懇親会と費用のことを紹介しました。

ミネアポリス(Minneapolis)に行ったときです。広島へ一緒に行ったミネソタ大学のStan Deno教授が同僚を誘い市内の日本食レストランへ招待してくれました。彼は著名なLDの研究者です。

最初は前菜(appetizer)として大皿の寿司が2枚でてきました。相当な量でした。やがてメインはスキヤキとなりました。大いに飲んで話しが弾みました。Deno教授が勘定を払いに行きましたが、なかなか戻らないのです。振り返るとなにやら交渉している様子です。

彼の同僚は皆ニヤニヤしながら見つめています。Deno教授が戻ると、「寿司の値段を聞かされなかった、あんなに高いものとは知らなかった」とびっくりした表情です。そこで大皿1枚をタダにしてもらったというのです。皆、「Your are a tough negotiator! 」 「凄い交渉人だ」といって持ち上げるのです。あとで、Deno教授は、「研究費での接待費は上限があるので、必死に交渉した」といっていました。

それからは寿司はしばらく笑いのネタとなりました。思い出すだけでもおかしみが沸いてきます。アメリカの和食レストランは一般に高いので注意することです。ミネソタ大学の先生方は日本食レストランに行っていないことがわかりました。田舎者なのでしょう。

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旅は道連れ世は情け その16 「わりかんはない」

ミネソタ大学の人々とはいろいろなエピソードが残っています。1986年頃のことです。私は横須賀にある国立特殊教育総合研究所、後の国立特別支援教育総合研究所で働いていました。研究所主催で「国際セミナー」が開かれました。誰を講師として招くかを協議したとき、ミネソタ大学心理教育学部の特別支援教育の先生方を招くことを提案しました。それが承認されて5人の教授を迎えることになりました。

ミネソタ大学心理教育学部が広島大学教育学部と研究の提携関係にありました。そこで、研究所でのセミナー後広島へ行きたいという先方の要望に応え、一行を連れて広島へ行きました。広島県立教育センターへに招かれて、4時間ほどの研究セミナーをしました。セミナーの開始前に参加していた研修のスタッフは「起立、礼、着席!」の声で始まり、終了後には感謝の意を込めてセンター歌を斉唱するのです。ミネソタの人たちは驚いていました。

その夜の懇親会です。誠に盛大な食事会でした。そろそろお開きと思っていると、先方の幹事が私のところにやってきて、「勘定は個人持ち」というのです。安月給の私です。一瞬クラッとしました。5人の教授から費用をもらうわけにはいかないのです。冷静さを装って6人分を幹事に渡しました。

この懇親会と立て替え費用のことは、長く彼らの間で話題となったと知らされました。その後、日光への観光では彼らは私の旅費や宿泊代をだしてくれました。広島の懇親会から、誰かが損して誰かが得したということではありません。まわりまわって皆が負担し合うというエピソードでありました。

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旅は道連れ世は情け その15 台北のホテルでの忘れ物

中華民国の首都はもちろん台北です。市内をあちこちを歩きながら、中国と台湾の独立のことを学びました。

国立國父紀念館の他に、国立中正紀念堂も立ち寄るべきところです。「中正」とは蒋介石の本名です。紀念堂には蒋介石元総統のブロンズ像が鎮座し、その後の壁には三民主義を引き継いだ「倫理」、「民主」、「科学」という蒋介石の基本政治理念が掲げられています。公園や道路名などからも、孫文と蒋介石はこの国では最も大事にされている人物であることがわかります。

国立故宮博物院のコレクションはいうまでもないでしょう。まさに「神品至宝」で詰まっています。もともと紫禁城宮殿で所蔵された重要な文物は、旧日本軍の進出や国共の内戦の激化によって、台湾に運ばれてきたとされます。その運搬経緯はまことに奇跡のような謎に満ちたところがあるようです。

ところがこの台北市内のホテルで忘れ物をしてしまいました。朝ビュッフェで食事をしてから手洗い行きました。いつも身につけているパウチをはずして用を足したのです。部屋に戻ったとき、パウチを忘れたのに気がつきました。慌てて戻ったのですがパウチはありません。食堂にはまだ大勢の団体客が食事中でした。

急ぎカウンターに忘れ物を告げると、すでにそこに保管されていました。中年のメイドさんが届けてくれたことを知りました。その方にお礼をいいながら、なにがしかのチップを差し出しました。ところが笑いながら受け取ってくれません。ホテルの研修が徹底しているせいでしょうか。台湾も日本の「おもてなし」の感化を受けているのでしょう。

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旅は道連れ世は情け その14 「バックパックを忘れた」

このブログ上で忘れ物にまつわるエピソードをいくつか紹介してきました。今回は自分が忘れ物で真っ青になったときと院生の「パスポート事件」の話題です。

大学の同僚とでヴァージニア州(Common Wealth of Virginia)にあるフェアファックス教育委員会(Fairfax County School)と学校を回り、ある調査を依頼したときです。調査のほうは幸い先方が極めて協力的で、質問紙を丹念に検討してくれて「これでいいだろう」ということになり調査に応じてくれることになりました。

翌日は気分良く電車に乗って、ワシントンD.C.のモール(Mall)にあるスミソニアン(Smithonian)の博物館巡りにでかけました。スミソニアン協会は17の直営博物館や美術館を運営する世界一の学芸組織です。いくつかの博物館を回り終えて、お終いは国立アメリカ・インディアン博物館(American Indian Museum)へ入りました。そこの小さな講堂でビデオを観ての帰り、椅子にパスポートやカード、現金、カメラをいれたバックパックを置き忘れました。

忘れ物に気がついたのは博物館をでて30分くらいです。その瞬間目の前が真っ白、呆然となりました。米国では忘れ物は戻らないことが多いのです。急いで博物館に戻り係員に質すと預かっているというのです。持ち物は身から離してはならないという言葉をかみしめた時でした。

ニューメキシコの州都アルバカーキに院生らと視察旅行をしたときです。ネイティブ・アメリカンの博物館で、院生の一人がパストートがないといいだしました。皆で手分けをして探したのですが出てきません。ネイティブ・アメリカンの係員に遺失物として届けがないかをききましたが駄目です。係員は、「兄弟よ、この国に残っていいのだよ」と院生を元気づけようとしたのが忘れられません。

New Mexico  Adobesanta-fe-new-mexico-beautiful-best-places-to-retire Santa Fe

旅は道連れ世は情け その13 コロニアル・ウィリアムズバーグと夕立

米国の夏はキャンピングの季節です。通常、年が明けると早々にキャンプ地やコテージを予約することが多いです。キャンプ地で人気のあるのはなんといっても広大な州立公園です。非常に手入れが行き届き、清潔で安全、しかも安価なのです。

車一台分とテント張り、食事を作るスペースがあり、隣とは木々で隔てられているので気兼ねがいりません。共同トイレ、コインランドリー、シャワー室があり、薪の束も売っています。なにか野外のキャンピングというよりは、別荘にやってきたような雰囲気です。

ミシガン湖(Lake Michigan)の西岸を北上し、カナダに渡りモントリオール(Montreal)、そしてワシントンD.C.の郊外にあるヴァージニア(Virginia)の州立公園に着きました。もちろん予約済みです。テントを張り終えてから大西洋岸にあるコロニアル・ウィリアムズバーグ(Colonial Williamsburg)へ向かいました。

コロニアル・ウィリアムズバーグは、ヴァージニア州の独立市で、歴史的地区のことです。コロニアル・ウィリアムズバーグは1699年から1780年まで、ジェームズ・シティ郡(James City County)の植民の中心地となりました。ウィリアムズバーグはヴァージニア植民地時代の統治・教育・文化の中心であったとWikipediaにあります。今は多くの建物が復元されています。周囲にはウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William & Mary)が建っています。

ウィリアム・アンド・メアリー大学は1693年にイングランド王ウィリアム三世と女王メアリー二世によって認可され創設されました。ハーヴァード大学に次いで2番目に古い歴史を誇る大学となっています。ヴァージニア州の総合大学としてはヴァージニア大学に次ぐ第2位、全米の州立大学の中ではカリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、ヴァージニア大学、ミシガン大学、ノースカロライナ大学ーチャペルヒル校(University of North Carolina at Chapel Hill)に次ぐ第6位に格付けされています。「最も入学が難しい大学」(Most Selective)とされます。

夕方キャンプ場に戻ると夕立があったようで、テントの中は濡れ、寝袋や毛布が湿っていました。仕方なく近くの街のランドリーで乾かすことを余儀なくされました。夕立の備えをしていませんでした。

キャンプ生活をしていると子供たちはモーテルに泊まりたいといってきました。ボストンを通過したとき魚市場がありニシンを買いそれをモーテルの室内で焼いて食べました。匂いがきつかったので、あとからきた客に迷惑だったかもしれません。

Homes-of-Colonial-Williamsburg-Va2 Colonial_Williamsburg_Governors_Palace_Front_Dscn7232  Colonial Williamsburg

旅は道連れ世は情け その12 ナパバレー

兵庫教育大学の院生とはあちこちの学校へ出掛けました。旅の主たる目的は視察ですが、別な楽しみは地元の有名なところを訪ねることです。カリフォルニア州の州都サクラメント(Sacramento)を目指しました。この学校区の職業教育を視察する旅です。

まずは東京からサンフランシスコ(San Francisco)へ行き、それからサクラメントへ行くのが通常の行程です。金門橋を渡りオークランド(Oakland)を経てサクラメントへ向かいます。途中、カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)があります。全米屈指の名門校です。

このあたりはSan Francisco Bay Areaと呼ばれています。飛行機もありますが、車で行くのが楽しいのです。ナパ郡(Napa County)を目指します。ナパ郡にはニューヨーク州とともにアメリカの一大ワインの産地、ナパバレー(Napa Valey)があります。全米でワインの90%がこのあたりで製造されています。ニューヨーク州ではたったの5%なのです。

ナパバレーを通過したのは丁度日曜日でした。沢山のワイナリーがありますが、週末は所々閉店となっています。観光客のために、業者が協定して開店するところと閉店するところを決めています。院生とで開いているワイナリーに飛び込みました。立ち寄ったところはE. & J. Gallo Wineryでした。

Gallo Wineはアメリカでは広く飲まれているワインです。1933年の設立とあります。カリフォルニア産ワインで最大の出荷を誇り、家族経営のワイナリーとして全米で最も大きなシェアを持つといわれます。このとき誰が運転していたかですが、もちろん私ではありませんでした。運転事故を起こさないよう、人々は注意してワインやビールを飲みます。

napa_area_map Napa-Valley-Balloon Napa Valley

旅は道連れ世は情け その11 モスクワの空港でワイン没収

再びワインの話題です。イタリアへ始めて行ったときです。成田空港とローマの郊外にある国際空港、フィウミチーノ空港(Fiumicino)を往復しました。この空港は、イタリアのフラッグ・キャリアであるアリタリア航空(Alitalia)の本拠地です。しかし、私と家内は安い料金を選んだのでアエロフロート航空(Aeroflot)としました。成田からモスクワ(Moscow)のシェレメーチエヴォ国際空港(Sheremetyevo)、そしてローマのフィウミチーノ国際空港という航路です。この旅ではこの選択は間違ったことをあとで知ります。

まずは、アエロフロート航空の機内の飲み物と食事などです。ジュースは氷もなくぬるいのがきました。珈琲も熱くないのです。ビールは有料です。食事は可もなく不可もなくといったところです。フライトアテンダントはぶっきらぼう。

シェレメーチエヴォ空港では、ローマ行きへの乗り換えに2時間半ありました。珈琲を頼むと5ユーロ、600円取られました。詐欺にあった気分です。ローマのフィウミチーノ空港に着いたのは夜の9時頃です。そこには長男が迎えにきているはずです。しかし、持参した2つの大きな荷物が出て来ないのです。

1時間あまりターンテーブルのところで待ちました。待つのを諦めて係員に、翌朝に再度来るといって荷物を保管してもらうよう頼みました。その間90分くらいかかり、待ち合わせ場所にいくと長男はいません。タクシーで空港近くのホテルに行くと、長男夫婦が「待っても来ないので、明日来るのだろうと思った」というのです。

翌朝空港に行くと家内のスーツケースが届いていましたが、わたしのは行方不明です。調べてもらうとまだモスクワにあるというのです。長男夫婦と一緒に来ていた孫に、用意してきた土産が渡せません。荷物が届いたのは3日後のフィレンツェ(Firenze)のホテルでした。

思い出深い中部イタリア旅行を楽しんだのですが、帰りローマからの経由地モスクワのシェレメーチエヴォ空港でまた嫌な思いをしました。購入したトスカーナ・ワイン(Tuscany wine)の免税品証明書が袋から剥がれてないのです。税関の女性職員が、厳しい顔をして「ワインをゴミ箱に捨てなさい」と、頑として持ち出しを許しません。再三懇願しましたが、結局没収となりました。ワインは職員にプレゼントしたことになりました。ローマやフィレンツェに圧倒されたのですが、後味が悪い旅となりました。いいことばかりが旅ではありません。

san-gimignano-tuscany-cycling  San Gimignano, TuscanyMontecarlo2

旅は道連れ世は情け その10 ワインは2杯までOK

ニュージーランド(New Zealand)は北島と南島から成ります。年間の旅行者が240万人以上という観光立国でもあります。友人を訪ねて北島の南端近くにあるパーマストンノース(Palmerston North )という町へ行きました。まだ大地震の前でした。ここにはマッセイ大学(Massey University)があります。その友人はインド系の研究者で、兵庫教育大学の客員研究員としてお世話した方です。彼女はマッセイ大学で働き家を建てていました。

休日を利用して車で北島の最南端に位置する首都ウェリントン(Wellington)の観光に出かけました。落ち着いた港町です。観光後、クック海峡をカーフェリーで渡り、南島にあるクライストチャーチ(Christchurch)にあるカンタベリー大学(University of Canterbury)を訪れました。

大学でインタビューを受けてから、ホエールウオッチング(whale-watching)ができるという情報を得ました。鯨が出るという湾のある町に車をとばしました。船に乗ると数頭の鯨が湾を回遊していました。この湾の鯨は年中この湾に留まるので、地元の人は親しみをこめて鯨に名前までつけています。

帰りのドライブは快適でした。葡萄畑が道の両側に広がります。ワインを飲みたくなる光景です。休憩がてらワイナリーに立ち寄りますと、旅行者らしき一行がワインを楽しんでいます。店の人に聞くと看板を指しました。それには次のように書いてあります。「運転手はグラス2杯までは飲んでよい。」なんと粋なはからいなのだろうと感心しました。

真っ暗な帰りの途中、車を停めて満点の星空、南十字星(Southern Cross)とケンタウルス座(Centaurus)を眺めました。”もの凄い星座”でした。

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旅は道連れ世は情け その9 匂いのトラブルはややこしい

スカンクの他に、匂いにまつわるトラブルで忘れられないこともあります。

週末、院生は友達を招いて芝生でBBQをしたりパーティをします。日頃勉強で絞られているので、つかの間の時間をくつろぐのです。

これも管理事務所に勤めていたときです。電話がかかってきました。「隣の部屋から悪臭が流れてきて耐えられない、なんと止めさせてくれ」という内容です。出掛けると確かに強烈な魚油の匂いです。「くさや」やスルメとは違った「凄い」匂いです。中西部のアメリカ人は干物などを食べませんから、こうした魚の匂いには慣れていません。

高校時代稚内で暮らしたことのある私は、魚の匂いには慣れていました。しかし、この部屋からの匂いは格別なものでした。「隣近所から悪臭で苦情がきているので料理を控えて欲しい」と伝えるので精一杯でした。

臭いものといえば、韓国の「ホンオフェ」(홍어회)という「エイ」を醗酵させたもの、スエーデンの塩漬けされたニシンの缶詰「シュールストレミング(surestromming)」、そしてくさやです。「ホンオフェ」はアンモニアの匂いが強く涙がでるといいます。ハングルでホンオ(홍어)とはエイ、フェ(회)とは刺身のことです。Wikipediaによれば、ホンオフェは韓国では高級食品のひとつであり、冠婚葬祭に欠かせないご馳走だそうです。私は幸か不幸かまだ食したことはありません。

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旅は道連れ世は情け その8 スカンクは厄介者

スカンクは実に厄介ものです。人間関係をぶち壊すこともあります。

日本人と韓国人がウィスコンシン大学のイーグル・ハイツ(Eagle Heights)と呼ばれる院生の家族世帯宿舎の同じ棟に住んでいました。一棟には八世帯が住みます。私はこの両者ともよくつきあっていました。韓国人留学生とは管理事務所で一緒に働いていました。

ある時、この二人がスカンクをめぐって口論となったのです。私は仲介する立場におかれました。事情をきくと、日本人夫婦が近くに住んでいたスカンクを脅かし、強烈なスプレーを辺りにかけたのです。匂いは棟全体に広がりこの日本人に非難が起こったのです。私は仲介することに竦み、両者で決着させるのが一番だと考え手を引きました。しかし、一度喧嘩しては仲直りは無理でした。私はこの両者とも今は交流が途絶えてしまっています。

スカンクは脅かされない限り、分泌液を噴射しません。スカンクの匂いを知るアメリカ人は通常は近寄らないようにして共存しています。日本人留学生はそうした知識がなかったようです。

悪臭は風向きによっては1km近くまで届くそうです。一度衣服に付着した粘液はとれないので廃棄するのが普通です。スカンクの匂いは知っていますか?言葉で表現できませんが、鼻孔にその「香り」は今もあります。なんとも形容し難い匂いです。

aerial_Eagle_Heights05_8553 Eagle Heights

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旅は道連れ世は情け その7 スカンクに注意

車には色々な思い出があります。日本ではあまり経験しないようなエピソードを紹介します。

野生の動物が多いのがアメリカ大陸です。自然保護、動物保護が厳しいところです。インターステイト(Interstate: IS)などの高速道路には「鹿注意」の標識があちこちに立っています。

長男からきいた話です。彼が運転し友達とミルウオーキーでのアイスホッケーの試合を観に行った帰り、IS90を運転中に鹿を轢いてしまいました。飛び出してきた鹿を避けきれなかったそうです。車の前部は大破。この場合、鹿を持ち帰ることはできますが、道路脇にひきづり、帰ってきたといっていました。

冬場、厳しい寒さを避けるためにあらいぐま(racoon)やスカンク(skunk)はいろいろなところを寝蔵にします。大学の職員宿舎の管理室で夜勤のアルバイトをしていたときです。学生は平日の夜と週末に雇われて応急措置に対応します。例えば、台所のシンクやトイレが詰まったとか、鍵を落として入れないので開けて欲しいといったことです。子育て中の院生が多いので、子供が玩具をトイレに流してつまらせるのです。

ある時、車のエンジン部分に潜んでいたスカンクがファンに巻き込まれ車が動かないという電話が事務室にきました。出掛けてみるとスカンクの残骸とともに、もの凄い匂いが駐車場に漂っています。手の出しようがありません。こうなったらいくら洗車してもなんの効果もありません。後日、持ち主は廃車にしたことをききました。業者も大変だったろうと察します。

走っているとときどき轢かれたスカンクを見かけます。窓をすぐ閉めなければいけません。あの匂いは近寄りがたいほど強烈なのです。

旅は道連れ世は情け その6 北投温泉と美空ひばり

台北市内からMETROで50分ほどのところに北投温泉があります。この温泉は、台湾有数の湯治場です。明治38年に地質学者岡本要八郎が微量のラジウムを含む「北投石」という鉱石を発見します。瀧乃湯で入浴した帰りに付近の川で見つけたとあります。今は天然記念物で採掘が禁止されているそうです。

北投温泉は、天然のラジウム泉として知られています。また硫黄の成分も多く、町には硫黄の臭気が漂っています。北海道登別温泉のような雰囲気です。この温泉に浸かりたいとかねがね考えていました。

途中METRO内で、家内と下車する駅のことを思案していると、前に座っているお年寄りが日本語で「北投温泉はあと三つ目です、瀧乃湯がいいですよ」と教えてくれました。小学生のとき、世田谷区から派遣されていた日本人の女性教師に教えを受けたとか。毎年、この恩師を招いて同窓会を開いているということに感じ入りました。親切で礼儀正しい方でした。

瀧乃湯は銭湯の気分です。台湾に現存する浴場の中では最古の一つだそうで、脱衣場は浴槽の隅にあり扉の仕切りはありません。また洗い場には水道水が出るシャワーがありますが温水は出ません。本当に素朴な湯治場の気分です。

帰りにブラブラ散歩していると、歌謡曲が流れてきました。聞き耳をたてると美空ひばりの歌です。数人の老人がラジカセを中心に歌っているのです。そして持っているひばりのカセットテープ集を見せてくれました。美空ひばりが湯治場の北投温泉でも人気があるのは、首肯できました。

旅は道連れ世は情け その5 孫文と国立國父紀念館

台湾は私の好きな国の一つです。温暖な気候のせいか、人々の表情が柔和なような気がします。他のアジアの国々と比べ、街全体に清潔感があります。「中華民国」が台湾の国名です。

孫文という偉大な思想家、政治家は今も台湾でも尊敬の的になっています。国立國父紀念館に行くとそれが現れています。孫文は一般的に「孫中山」と呼ばれています。1時間毎に行われる紀念館での衛兵の交代はみものです。衛兵交代は蒋介石の顕彰施設である中正紀念堂や忠烈祠でも行われます。國父紀念館を囲むのが静かな中山公園です。

孫文が1905年に発表した中国革命の基本理念には「三民主義」と「五族共和」があります。「三民主義」とは、民族主義、民権主義、民生主義のことです。現在の台湾政府の基本理念となっています。五族共和は、漢の周辺の五族との宥和を意味します。中国革命の父、近代革命の先達ともよばれる所以です。海峡をはさんで本土と台湾の両国で尊敬されているのが孫文です。

孫文は偉大な革命家ともいわれます。国共合作やソ連との提携も実現します。モスクワ中山大学の設立も成果の一環です。この大学は日本や海外列強の植民地支配に対する独立運動と人材育成のためです。後に蒋介石は毛沢東とも手を組みます。

革命と独立に至る運動で、孫文の行動は日和見的であるという見方も一部にあったようです。原理原則の欠如といった理由で批判されるのです。ですがこうした批判は、複雑な国内事情や権力争いのゆえにやむを得なかったとする見解が一般的です。孫文の業績が偉大であったことは誰もが認めるところ、中国本土や台湾で尊敬を一心に集めるのはそのためです。

日本と孫文の関係ですが、1913年から数年間日本に亡命もします。そして欧米列強の帝国主義に対して東洋の王道とか平和の思想を説き、日中の友好を訴えたことでも知られています。

旅は道連れ世は情け その4 大学生活の開始

U-Haulを引っ張ってジョージアからようやくウィスコンシンに着きました。ウィスコンシン大学の構内に入ると、落ち着いた煉瓦色の建物、古城のような体育館、博物館や図書館、大学カフェテリアなどがありました。そのとき、「果たしてついていけるのだろうか、、」という不安に襲われました。大学の雰囲気があまりにピリピリし、威圧感があったからです。ですが物思いに耽る場合ではありませんでした。

大学院の授業といっても詰め込みです。授業にでても半分くらいしか理解できません。思い切って留学生の相談室に行きました。そこで「授業中のノートテーキングでは単語を書き並べ、授業後にすぐ文章化するように」というアドバイスでした。記憶が鮮明なうちに筆記する方法です。

授業では、休む院生はほとんどいません。授業前に教官は教室にいて学生を待っています。休講もありません。ただ一度だけ、ある冬の夜間授業のとき、教官が教室にやってきて「今夜は調子がわるいので休ませて欲しい」というのがあっただけです。これが最初で最後の休講です。

最初の中間試験があり、結果は教官室のドアに学生番号が掲示されました。自分の点数をみてガツンと頭をなぐられたような気分になりました。試験なんてたいしたことがないだろうとたかをくったのが間違いでした。完全な落第点でした。試験問題は、マルバツ、多肢選択、単語の記入、エッセイから構成されていました。このような問題形式に全く慣れていませんでした。授業中に教官が講義した内容が問題としてでることを知りました。それからは試験前にはノートを何度も読み直し暗記に務めました。

半年くらい経ってからようやく自信のようなものが生まれてきました。とにかく時間をかけて読み、書くことに心掛けました。小論文の作成を支援する大学のサービスも頻繁に利用しては英文を添削してもらいました。一対一で添削してくれるのは英文科の院生です。論文書きのコツをここで学んだのは後々に役に立ちました。学生の支援が手厚いことに感じ入りました。このような論文書きの支援は、学んだ北海道大学でも立教大学でも、兵庫教育大学でもありませんでした。

旅は道連れ世は情け その3 車がスピンしたとき

1979年のウィスコンシンの真冬、零下20度の日が何日もありました。マリブを運転していたときです。路面が凍結している時間帯でした。アメリカの高速道路は、大きく分ければインターステイト(Interstate: IS)とUSハイウエイ(US Highway)の二種類があります。両方とも日本の高速道路にあたります。高速料金はありません。両方ともは四車線で雑草と芝の広い中央分離帯があります。

当時、ISの制限速度は65マイル、USのほうは55マイル位です。USを走っていたとき、突然車がスピンしてブレーキが効かなくなりました。強く踏みすぎたためです。そのときスピンした方向とは逆にハンドルを回した記憶があります。路上で一回転してようやく停まりました。幸い前後に車はありません。心臓が止まるほどの経験です。気持ちを切り替えてゆっくりと車を回転してその場を離れることができました。後続車がいたら大変なことでした。

こうした冬の運転の反省ですが、第一は冬の路上は凍結していることを忘れないことです。交通局のようなところは、夜中に砂と塩化カルシウムの混じった融雪剤を散布します。それでも体感温度が下がって路上が凍結するのです。昼間気温が上がり、夜は零下に下がるので溶けた雪は凍るのです。

第二は制限速度より20%下げて運転することです。スピードの出し過ぎほど怖いものはありません。スノータイヤでも凍結している路上ではどうにもならないのです。

第三は昼間でもライトをつけて走ることです。バッテリーは走行中に充電されるので、節約する必要は全くありません。夜、交差点でライトを消す習慣はアメリにはありません。

第四はブレーキをこまめに踏むことです。これによって滑りを防ぐとともに、ブレーキランプで後方車に自分の位置や車間距離を知らせるのです。

厳冬の時、野外に長く駐車しておくとバッテリーの能力が極端に低下します。”Battery is dead.”と呼ぶ状態です。ですからバッテリー・チャージャー・ケーブルを持参しておくことも大事です。零下が続くときは、夜は車からバッテリー外して翌朝に戻して運転することもありました。

旅は道連れ世は情け その2 「U-Haul」と野宿

1978年8月に語学研修で過ごしたジョージア州(Georgia)からウィスコンシン(Wisconsin)のマディソン(Madison)まで、僅かの家財をU-Haulに積んで家族と移動しました。車はジョージアにいたとき、ルーテル教会の牧師から譲り受けたシボレーはマリブ(Chevrolet Malibu)という連結器のついた六気筒のセダンでした。車体の屋根は押してもびくともしません。「タンク」という愛称で呼ばれていました。この牧師はかつて宣教師として足立区での勤労青少年の伝道にあたっておられました。梅島、西新井、竹の塚、草加あたりが伝道の中心でした。

マディソンへの途中、テネシー州南東部にあるチャタヌガ(Chattanooga)という街を通りました。なぜか「チャタヌガ・チュー・チュー」(Chattanooga Choo Choo)というグレン・ミラー(Glenn Miller)の楽曲を思い出しました。”Choo Choo Train”とは、「汽車ぽっぽ」という意味です。その後ニール・セダカ(Neil Sedaka)も「恋の片道切符」(One Way Ticket)という曲で”Choo Choo Train”を歌っていました。この曲も流行りました。

インディアナ州(Indiana)の小さな街で車の調子が悪くなりました。トレーラーを引っ張るとエンジンに無理がかかります。とくにトランスミッションはそうです。修理屋にきくと部品は明日にしか来ないというのです。仕方なく修理屋に許可を得て工場の隣で野宿することにしました。

修理屋はガソリンスタンドを経営しています。幸い水をもらったり手洗いを使うことができました。夏の盛りでしたので、クーラーボックスからハムと野菜やチーズでサンドイッチを作って一夜を過ごしました。夜パトカーがやってきました。事情を話しましたが不安な一夜を過ごしました。2泊3日の初めての大陸横断のような旅でした。

旅は道連れ世は情け その1 「U-Haul」と「You haul」

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人生は旅に喩えられます。目的があるようでないような、行き先が定かで定かでないようなのが人生です。生きることとは、その目的や行き先を探す旅ということです。これから私の可笑しくも苦しかった旅の話を披露します。暫く旅にお付き合いのほどを。

U-Haul。ユーホールと発音するこの単語は、登録商標でもあります。移動が好きなアメリカ人にはU-Haulは馴染みのものです。引越の際は、貸しトラックか自家用車につける荷物運搬車(トレーラー)に家財道具を積んで目的地に向かいます。このトレーラーの代名詞がU-Haulです。Haulとは「引っ張る」という意味です。ですから、”You haul”をひっかけた造語であります。

U-Haulの大きさは様々です。今もU-Haulをとりつける連結器がついた中型のセダンを見かけます。田舎を走るピックアップトラックには必ずといってよいほどついています。U-Haulの事務所は小さな街にも必ずあります。このトレーラーを借りて自分で引っ越しするのです。そういえば専門の引越業者のようなものはアメリカには珍しいのです。

大型のU-Haulは自分で運転して家財を運びます。運転手が一人ですむという案配です。U-Haulをつけてバックするときは少し経験が必要です。駐車するとき、ハンドルを右に切るとU-Haullは左側に回ります。ハンドルとは逆にU-Haulは回るのです。慣れると面白いように操作できます。引越の途中はもちろんモーテルを利用します。移動や引越にU-Haulは切っても切り離せません。「お前が引っ張っていく」という考えがU-Haulの発展にみられます。これが俗語にある、”Do It Yourself Fan.”(自分でやれることは自分でする)にあたります。

「幸せとはなにか」を考える その19 いろいろ悔いはあるが、

「My Way」という歌を引き合いに、「幸せとはなにか」を考えてきた。この稿を終わるにあたり、もう一度「My Way」の歌詞をつぶやきながら筆を取る。

「I did it my way」を「人生悔いなし」と訳してみた。だが、極めて浅はかな訳だったと思っている。現に歌詞には、”Regrets, I’ve had a few”とある。筆者もこれまでの、そしてこれからの人生も悔いの連続であることは予想される。「I did it my way」という感慨にも似た表現には「やるべきことはやった。だがそれが義にかなったかどうかはわからない」というように解釈すべきだと思うのである。

人間は多くの場合、独りよがりである。物事を都合のよいように解釈する。「悔いなし」と決め込むのは、少々ごう慢で嘆かわしいことである。「やるべきことはやらせてもらった、だがやっぱりなにかが足りない」のが人生ではあるまいか。

「幸せとはなにか」について、架空の人物や現存した人々を手本にしながら考えてきた。お上さんによって自堕落さから立ち直る亭主、筆を口にくわえて珠玉の文章を書く人、命令に反して困る人々に手を差し伸べた人、戦地に向かう教え子に生きて帰れと諭した教師、人一倍友達想いの選手や監督、パンと葡萄酒を密かに運ぶ純粋な子供、、、誰も精一杯、誠実に生きてきた。それ故、端からみると皆幸せだったかのように写る。しかし、本人らがどう感じたのかはわからない。

「幸せ」とは一人ひとりの内にある価値意識であることだ。他人の物差しではなく、自分の物差しの中にある現象である。そしてその物差しにどこか狂いはないかを問いただしてみるのである。そうであれば、物の見方や考え方の軸が定まり、物事や自分を冷めた目で見つめることができのではないか。このように境地こそが「幸せ」ではないかと思うのである。

「幸せとはなにか」 その18 杉原千畝氏のことー日本のオスカー・シンドラー

現在、外務省が保管する杉原千畝氏がビザ発給者の名を記したリスト「杉原リスト」には 通過ビザを発行した2,100名以上のユダヤ人の名前があるといわれる。公式記録から大勢の人が抜けているとうことがわかり、杉原氏が実際にビザを発給したユダヤ人は6,000人にものぼるといわれている。戦後、杉原氏がユダヤ人から「日本のオスカー・シンドラー(Oskar Schindler)」といわれた所以である。

話柄を変えるが、「シンドラーのリスト(Schindler’s List)」という映画が1994年にスティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)によって作られる。オスカー・シンドラーのユダヤ人救済を描いたものだ。シンドラーはナチス党の党員ではあった。ポーランドのクラカウ(Krakau)の町へやってきて、潰れた工場を買い取って“軍需工場”であるほうろう容器工場の経営を始める。ポーランド占領のドイツ軍から特別の格付けを受けたのである。

シンドラーは、手練手管を使いこの工場では労働者が生産ラインに不可欠だと主張する。このようにして、強制収容所へ移送される危険が迫ったユダヤ人を雇用することができた。有能なユダヤ人会計士アイザック・シュターン(Isaac Stern)に工場の経営を任せ、安価な労働力としてゲットーのユダヤ人を雇い入れるという筋書きである。

さて、杉原千畝氏のその後に関してである。外務省の訓令に反し、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。そのため戦後、訓令違反ということで外務省を辞めざるをえなくなった。

「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」という述懐が残っている。2000年、当時の外務大臣河野洋平の演説によって、杉原千畝氏の日本政府による公式の名誉回復がなされた。戦後55年も経ってからのことである。

「幸せとはなにか」 その17 杉原千畝氏のことー通過ビザの発給

ナチス・ドイツは、1940年にベルギー(Belgium)、チエッコ(Czech)、デンマーク(Denmark)、フランス(France)、オランダ(Holand)、ルクセンブルグ(Luxembourg)、ノルウェー(Norway)、ポーランド(Porland)、を占領しソ連との戦を始めようとしていた。リトアニア在住のユダヤ人の脱出は日本の通過ビザを取得し、そこから第三国へ出国するという経路であった。

日本の通過ビザを取るには受入国のビザが必要であった。幸いリトアニアにあったオランダ領事館は、カリブ海にあるオランダの植民地キュラソー(Curasao)行きのビザの発給を始める。「キュラソー・ビザ」をとったユダヤ人が日本領事館に押し掛けたのは、1940年7月18日といわれる。日独伊三国間条約が結ばれる直前である。ヨーロッパ各国はナチス・ドイツに占領され、そこを経由することは絶望だったからである。リトアニアにまだ残っていた日本領事館で通過ビザを取ろうとした。日本経由で脱出しようとしたのである。

ユダヤ人が日本へ行くために、ソ連国内通過がどうして可能だったかである。Wikipediaによると当時ソ連は共産党の支配とされていたが、実際には裏の組織である国家保安省、後の国家保安委員会:KGBが支配していたとされる。そして国家保安省の幹部のすべてがユダヤ人だったという事情が働いていた。

領事代理の杉原氏のビザ発行に対する打診に外務省は「ビザ発給拒否」と回答する。杉原氏はソ連領事館に出向き、日本通過ビザでソ連国内通過は可能かを打診し、問題なしとの回答を得る。そして発給を決意する。”I did it my way.”を実行した稀有の外交官であり人道主義者であった。

「幸せとはなにか」 その16 杉原千畝氏のこと-ユダヤ人の運命

世界史が好きな筆者にはなぜかバルト三国のことが忘れられない。バルト三国の一つ、エストニア(Estonia)の首都タリン(Tallinn)を訪れたのは1995年である。ヘルシンキ(Helsinki)での学会のついでにフェリーで次女と一緒にフィンランド湾を渡った。

エストニアのソビエト連邦からの独立は1991年であるから独立を回復して4年目であった。あちこちの建物の壁に銃弾の跡が残っていた。ラトビア(Latvia)、リトアニア(Lithuania)と並んでエストニアはバルト三国(Baltic states)の一つである。

地図を見るとこの三国はドイツとロシアに囲まれている。そのため第二次世界大戦でほんろうされた歴史がある。ロシア帝国、プロイセン、ハプスブルク帝国、ポーランド、スエーデンがバルト三国を席巻したことがある。大戦中はナチス・ドイツとソ連にじゅうりんされた。

第二次世界大戦前にリトアニアはスイスと同じように中立国と考えられていた。そのためナチス・ドイツに迫害されていたポーランドのユダヤ人はリトアニアに移住していたのである。ところがソ連がリトアニアを併合することが確実となる。1940年7月、親ソ政権がリトアニアに誕生する見通しとなり、いずれはドイツとソ連の戦いが始まることが予想されるようになる。

そこでユダヤ人らは、リトアニアを出国する自由は奪われてしまうと考えソ連に併合される前にリトアニアを脱出しようとしたのである。その頃、リトアニアの日本領事館で領事代理をしていたのが杉原千畝氏であった。