ヨーロッパの小国の旅 その五 タリンの街ーヴィル門

エストニアの首都タリンの旧市街への入り口となっているのがヴィル門(Viru Gate)です。2つの石の塔からなるヴィル門は14世紀に建てられたとあります。昔タリンを外部からの攻撃に備えて建てられたものです。門を入ると石畳が敷かれた中世の街並みとなり、今は民芸店やレストランが立ち並びます。

さらにタリンの街を歩くと赤いとんがり帽子のような塔が見えてきます。中世はこんな時代なのかという感覚に襲われるくらいです。旧市街は13世紀後半から城壁が作られ、現在でもそれに囲まれています。幾たびの戦禍を免れてきたのはこの城壁のおかげといわれます。その城壁には20ほどの見張りとなった塔が建っていますが、特に旧市街西側は保存状態が良いので「塔の広場」と呼ばれています。

「ラエコヤ広場」(Raekoja Plats)は、旧市庁舎の前の広場で、旧市街の中心スポットとなっています。今は、周りにレストランやカフェが立ち並び、市民の憩いの場となっています。フェスティバルやクリスマス時にはマーケットが開かれます。中世当時、広場は祝いの場だけではなく、市民集会が開かれ、裁判も行われ処刑の場となり、贖罪の礼拝が執り行われた歴史があります。聖と俗が一体となった空間が広場というわけです。

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ヨーロッパの小国の旅 その四 タリンの街ーアレクサンドル・ネフスキー大聖堂

私が娘と首都タリン(Tallinn)を訪ねたのは1997年です。ヘルシンキからフェリーでタリンに着きました。旧市街は中世期のたたずまいです。塀や建物の壁には銃弾の跡が残っています。これは第二次大戦の銃撃戦の跡です。独立して6年後のことですから、街全体は復興中でした。看板には盛んに外国からの投資に期待するスローガンが見られました。

タリンで見だつものをいくつか紹介しましょう。小高い丘の上に建つドームの建物は、東方正教会「アレクサンドル・ネフスキー大聖堂」(Alexander Nevsky Cathedral)です。アレクサンドル・ネフスキー(Alexander Nevsky)は中世ロシアの英雄として讃えられている人で正教会で列聖され、正教会の聖人となっています。ビザンティン建築様式(Byzantine Architecture)のこの大聖堂は、タリンにある教会の中でも最も大きいものです。

Wikipediaによりますと、19世紀末に建築されたこの教会は、ロシアによる支配の象徴でしたが、独立を果たした後は取り壊しも一時検討されたようです。今では、当時の歴史を学ぶことができる建造物としても貴重なものとして保存され、多くの観光客を惹き付ける場所となっています。後に触れるブルガリア(Bulgaria)の首都ソフィア(Sofia)にもブルガリア正教会の壮麗なアレクサンドル・ネフスキー大聖堂があります。

ビザンティン建築のことです。紀元後330年頃、ローマ帝国のコンスタンティヌス大王(Constantine the Great)は、ボスポラス海峡要衝にある都市ビュザンティウム(Byzantium)に自らの名前をつけます。それがコンスタンチノープル(Constantinople)です。その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となります。今のイスタンブール(Istanbul)です。ローマ帝国は1453年にオットマン帝国によって滅ぼされます。

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ヨーロッパの小国の旅 その三 エストニアの独立に至る歴史

Britannica百科事典を調べながら、エストニア(Estonia)の大国に挟まれた誠に複雑な歴史を辿ります。日本のように国内の大名らの争いではなく、国外からの侵略という脅威です。エストニアは長らくドイツ騎士団(Teutonic Order)に支配され、13世紀にはデンマークが領有します。16世紀になるとリヴォニア戦争(Livonian Warというエストニアの支配を巡る争いが起こります。これによりスウェーデンが支配し、エストニア公国となります。

18世紀になると大北方戦争(Great Northern War)の結果、ロシア帝国の支配となります。この戦争はスウェーデンと反スウェーデン同盟間の戦争です。ピュートル皇帝一世(Peter the Great)はスウェーデンを駆逐し、ロシアはバルト海の覇権を握り、獲得した地にサンクトペテルブルク(St. Pertersburg)を建設します。

1917年のロシア革命により、エストニアには自治がもたらされます。20世紀になり、第一次大戦の結果1918年にドイツが降伏し、エストニアは一時独立を果たします。1939年にはソビエト赤軍がエストニアに進軍すると傀儡政権が作られます。それ以来、長くソビエトの支配が続きます。1980年代までエストニアの政治経済、社会はソビエト連邦と軍隊を後ろ盾とする共産党に支配されます。

この共産党の支配時代には、独立運動をしていた人々、自由を求めて文化活動をしていた人々は弾圧され逮捕されて拷問などを受けています。元共産党本部であった建物は歴史博物館となり、そこを訪ねますと牢獄などが保存されています。1991年のソビエト連邦における共産党保守派のクーデター失敗によりエストニアはようやく独立を宣言し、ソビエト連邦もこれを承認します。

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ヨーロッパの小国の旅 その二 バルト海の歴史とハンザ同盟

北の地中海と呼ばれたバルト海(Baltic Sea)は、古代バルト文明、中世のヴァイキングの東征、ハンザ同盟(Hanseatic League)の通商の舞台となったところといわれます。地図を見ますと、スカンジナビア諸国(Scandinavia)、デンマーク、ドイツ、ポーランド、バルト三国、そしてロシアがこの周りに位置していることがわかります。古くから海上交通に利用され、沿岸には有力な海港都市が存在しています。

バルト海貿易を最初に開拓したのは、スカンジナビアに住む北ゲルマン人(ヴァイキング)です。やがてゲルマン人の東方進出に伴い、12世紀以降はヴァイキングに代わりドイツ人が貿易の担い手となります。そしてロシアとの交易を発展させていきます。ドイツ商人はロシアから毛皮、穀物、木材、海産物、コハク(Amber)を求め、ロシアには毛織物、食糧、ワイン、生活必需品などを輸出します。

王侯貴族を顧客にしていた地中海貿易とは対照的に、バルト海貿易は投機性に乏しかったといわれます。しかも冬のバルト海の航海は厳しく、航海が絶たれます。近世に入ると大西洋や太平洋航路が国際貿易の重要な舞台となるにつれて、バルト海貿易はやがて衰退していきます。

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ヨーロッパの小国の旅 その一 エストニア

しばらくヨーロッパの旅をしてみます。地図を見てわかるようにヨーロッパ大陸には沢山の国々が存在しています。陸続きなので過去も今も人々の行き来が盛んです。交易も盛んである反面、民族のいさかいも長く続いているところこです。その中の国で、ドイツとロシアの間にあるバルト三国(Baltic States)の一つエストニア(Republic of Estonia)に行ってみましょう。

エストニアの人口はたったの160万人。首都はタリン(Tallinn)です。「北の地中海」と呼ばれるバルト海(Baltic Sea)に面しています。バルト海という名を聞くと帝政ロシアの「バルチック艦隊」が思い出されます。バルト三国とはエストニアの他に、リトアニア(Lithuania)、ラトビア(Latvia)を指します。三国は欧州連合(European Union:EU)や北大西洋条約機構(NATO)、そして経済協力開発機構(OECDに属しています。

エストニアは地政学的の条件から、大国に翻弄され、独立運動が起こっては鎮圧された長い歴史があります。ようやくソビエト連邦から独立したのが1991年です。1885年にゴルバチョフ(Mikhail S. Gorbachev)が大統領に就任し、立て直し(ペレストロイカ)、情報公開(グラスノチス)による政策を進めます。それに対して起こった共産党保守派のクーデターが失敗し、エストには独立を宣言し、ソビエトもこれを承認するのです。

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ハングルと私 その25 韓国についての誤解にどう向きあうか

この稿で「ハングルと私」は終わりとします。
世の中には、いろいろな誤った見方や考え方があります。日本人の韓国や韓国人に対する誤解もそうです。例えば韓国の人は「アグレッシブで喧嘩早い」とか「反日感情を過剰に持っている」などという風評です。そういう人もいるのは確かですが、こうした人々は5%以下でしょう。5%というのはどの国にも当てはまる数字です。大多数の韓国人は個人として付き合えば実に友好的で儒教の仁や仏教、キリスト教の教えを実践している印象を受けます。韓国はこの3つの宗教が共存している国です。人との付き合いを深めていけば、感情の機微や暖かみを体験できるのです。個人と個人、家族と家族との出会いは偏見や誤解を溶かしてくれます。

世の評論家は得てして、「日本と韓国の関係は、かくかくしかじか」とのたもうのが好きですが、そのようなご宣託はあまり役に立たないのです。どうしたら仲良くできるかです。それには、その国の言葉を学び文化を知り、できればその国を訪ねて対話し、自分の目で確かめることです。そして親しき友をつくる努力をするのです。

友だちをつくるというのは、互いに異なる考えを持ちながらも、それを柔軟に修正できる感性を育てることです。「自分の見方はもしやして偏っていないか、」と自分に問える姿勢です。未知なことを学び、考える態度を持つことです。どのような方法にせよ、何からか誰かから教えを受けるということです。文化という定義はそれを使う人の数だけあるといわれます。なにが正しいとか間違っているというのではありません。町や村の違い,国と国との違いは人々の考え方に反映します。この考え方は文化の相対性ということです。このことを理解したいものです。

ハングルと私 その24 韓流と韓国映画

2003年頃から韓国大衆文化の流行が始まり、韓流(ハルリュ)(한류)ブームが巻き起こりました。今やブームはすっかり去ったようですが、韓国についてのいろいろな影響は広まり一種の社会現象となりました。もともと韓流とは中国での韓国の流行を指した言葉といわれます。日本における韓流は、2003年4月からNHKの海外ドラマで「冬のソナタ」(겨울연가)が放送されたことが発端とされてます。ハルリュによって韓国が近い国に感じられるようになったことは良かったです。

今回は映画に限定してハルリュについて触れてみます。わたしも「冬のソナタ」は時々見ました。個人的には、なにか同じ内容のような気がして途中でやめました。その一方、宮廷女官チャングムの誓い「大長今:テチャングム」(대장금)は全部観ました。李氏朝鮮王朝の歴史や文化が描かれていて、厳しい身分制度、王朝内の権力争い、宮廷の料理、庶民の生活も随所に描かれていました。そのストーリーの展開をドキドキしながら観たものです。

ハンリュウの背景はなんでしょうか。それはなんといっても韓国は映画でもドラマでも音楽でも先進国になったということです。映画作りの技術が高くなったことです。それには国が文化活動に大いにテコ入れして、発展を支えたことが指摘されています。

個人的に好きな映画のジャンルは、朝鮮戦争や分断を題材としたものです。「ブラザーフッド(兄弟愛)」(태극기 휘날리며)という映画を紹介しましょう。戦争でソウルに戦火が迫る中、ジンテとジンソクという兄弟は、家族を救出するためにソウルに戻ります。兄ジンテの婚約者は反共自警により射殺されます。ジンソクも牢獄とらわれます。婚約者とともにジンソクが処刑されたと誤解したジンテは、上官を殺害して姿を消します。奇跡的に牢獄を脱出したジンソクは野戦病院でジンテが北朝鮮人民軍の旗部隊の隊長として活躍している事実を知るのです。結末は悲劇となります。兄弟がそろって、なぜ最後まで戦争を続けなければならなかったのかを問うています。

もう一つは「シュリ」( 쉬리)という作品です。韓国に潜入した北朝鮮工作員と韓国諜報部員との悲恋を描いています。工作員と諜報部員とのアクションも見応えがありました。分断された国と人々の緊張が伝わってきました。戦争の悲劇と人の生き様が描かれています。韓国の人にしか作ることができない作品です。是非観ていただきたい映画です。最近の話題作「パラサイト 半地下の家族」も是非観たいですね。

ハングルと私 その23 両班社会の崩壊と天主教の流布

国王が特定の人物を深く信任し、その者に王権の実質的な建言を委任することを朝鮮の歴史では、「勢道政治」と呼ばれます。国王の信任を受ける者は有力な両班であると同時に、国王または王室と血縁関係にある王室の外戚でありました。こうした政治では、政権の基盤は一つの血縁集団となり、政治の綱紀は紊乱し、儒教的な清廉潔白を重んじる政治は有名無実化します。

中央の綱紀紊乱は地方における行政や財政に乱脈をもたらし、賄賂を使い、私財を蓄えるなどの不正行為が行われます。両班社会はこうして崩壊し始め儒教は思想的な影響を喪失し、民衆の中で新しい宗教がもてはやされます。こうした宗教の力は既成の体制への挑戦となります。

天主教(천주교)と呼ばれるキリスト教のことです。16世紀の初頭、清に渡った使臣によって天主教は朝鮮に入ってきます。この新しい宗教に関心を持ったのは実学者で、他の西洋の学術を含め、広く「西学」と呼ばれ、思想的に関心が高まります。西学は、現実から乖離し党争にあけくれる当時の政治を反省し、制度改革や産業の発達を目指す思想です。18世紀末には、研究が重ねられついに布教運動まで発展します。やがて使臣らは西洋の神父より洗礼を受けて帰国すると、布教活動はますます活発化していきます。

不遇の両班だけでなく、常人、婦女子へと天主教の平等主義が受け入れられていきます。当時の身分階級は、両班、中人、常民、賎人の4つに大別されていました。常人の大部分は農民でした。1785年にはソウル市内には教会堂(교회당)が建てられます。特に現世に対して希望を持てなかった人々に天国の福音は新しい喜びを与えるのに十分だったといわれます。やがて天主教はソウル一帯から広がり、1794年には4,000名の信者に達したという記録があります。

ハングルと私 その22 日本との抗争の歴史

朝鮮の歴史では、1300年代からおよそ200年は平穏な時代だったといわれます。ところが朝鮮は1592年に秀吉の命を受けた日本軍の侵略を受けます。壬辰倭乱(임진왜란)とか文禄の役と呼ばれました。当時の朝鮮は徹底して文官中心の国であり、両班(양반)の官僚が分裂し、朱子学の研究が頂点に達し、軍事的にはほとんど無防備状態にあったといわれます。復習ですが、両班とは高麗,李朝時代にに生まれた最上級身分の支配階級の人々のことです。

文禄の役では15万の兵が釜山(부산)に上陸し、20日後にはソウル(서울)を占領、その後平壌(서울)も墜とします。日本軍の進撃は、やがて李舜臣(이순신)らが指揮する水軍により阻まれます。李舜臣は日本の水軍を撃破して制海権を掌握し補給路を断ちます。陸地では義兵と呼ばれる民兵によるゲリラ戦を展開していきます。義兵の多くは儒学生と呼ばれ、忠君愛国の思想の持ち主だったといわれます。

やがて明からの援兵が加わり、朝鮮は平壌を奪還します。日本軍はソウルに退却します。第二次の14万人の出兵は慶長の役と呼ばれます。その後は、長期戦となり明との間で何度も講話の話し合いが持たれます。秀吉の死後、五大老の命令により日本軍は撤退を開始します。そして7年間にわたる戦争が終結します。

日本軍は撤退と同時に多数の朝鮮人陶工を徴用し、その後の我が国の陶磁器製作に大きな影響をもたらします。さらに多数の書籍も押収し、朱子学をはじめ日本の学問の発展に寄与することになります。その間、朝鮮は全土が戦場となり、膨大な被害を被ります。農村が疲弊し、土地台帳や戸籍が焼失して租税や役を賦課するのが困難になったといわれます。

ハングルと私  その21  学歴社会の韓国

韓国は今も学歴社会です。日本の昭和30年〜40年代の現象のような印象を受けます。私も友人から何度も「どこの大学を卒業しましたか?」と尋ねられたことがあります。学歴社会の歴史は、中国にあった科挙という試験制度が下敷きになっています。科挙という語は「(試験)科目による選挙」を意味しています。上級国家公務員になるための登用試験です。李氏朝鮮王朝時代は、科挙の合格者や学者が政治を司る高級官僚となり、立身出世ができました。その風習が今日にまで続いているといわれます。出身大学によって就職や出世が保障される時代では、受験の結果が一生を決めるといっても過言ではありません。かつての日本のようです。

受験生は小さいときから放課後はもちろん、週末も遅くまで営業する予備校(アカデミー)に通います。深夜、予備校のそばを通りますと、勉強を終えた生徒を家まで送るバスがずらりと並んでいます。そのため受験生のストレスを解消したり保護者の負担を軽減することが課題となっています。一例を挙げますと、予備校に通ったり家庭教師による補習が可能な都市部の学生がより修学能力試験(修能試験)に有利になります。修能試験はセンター試験のようなものです。そうした格差を解消するために教育放送局が専門チャンネルで修能試験に関する講座を放送しています。予備校へ払う教育費も保護者の大きな負担です。調査によればOECD加盟国の中で韓国人は最も多くの予備校への教育費をかけているといわれています。

2004年には、修能試験における大規模な携帯電話を使ったカンニングが発覚しました。修能試験の歪んだ弊害が指摘されたのは真新しいところです。1回の試験によって人生が左右されるような構造にメスがあてられるには、まだまだ時間がかかるといわれています。

ハングルと私 その20 朱子学と諸科学の発展

朝鮮における朱子学の話題です。13世紀、高麗末に中国より伝来した朱子学は、儒教の新しい学問とされ、科挙制度の励行や四書・五経など経書を研究する学問である経学の復興とともに広く普及します。儒教的な両班社会における正統的な学風となります。経学とは異なり、実際的な法典や礼式といった典礼と詩歌とか意味や解説などの文章である詞章が重んじられます。科挙の試験でも詞章が中心でありました。

朱子学は儒教国家の政治や社会で秩序の維持で有用な編纂事業を促進させます。歴史は政治の鏡であるという観念から、史書の編纂も盛んになります。高麗の国教であった仏教は排され、朱子学は唯一の学問として国家教学となります。我が国でも江戸時代に武士が学ぶべき学問と位置づけられ、江戸幕府をささえる学問となります。信仰や武力ではなく、道徳や礼儀によって社会秩序を守ろうとするする考え方です。

李氏朝鮮王朝に戻り、歴史とともに政治や軍事に必要な地理の知識も重視されます。国家の規範としての典礼とともに諸宝典が作られ、それによって印刷技術も発展します。例えば金属活字や植字術などの出現です。1443年の「訓民正音」と呼ばれるハングルの創設がその発展の頂点に立ちます。医薬学では薬材と処方の研究が進み、科学技術では農業と深い関係がある天文学、軍事では各種火砲、火薬、兵学、さらに兵書が著されます。

近世儒学の祖といわれ、朱子学を提唱したのが江戸時代の儒教家、藤原惺窩です。惺窩の弟子が林羅山らです。

ハングルと私 その19 仏教と儒教と科挙

朝鮮への仏教伝来は四世紀後半から五世紀中葉とされています。三国に仏教は伝播し、900年代の統一新羅時代に隆盛したといわれます。仏教隆盛を代表するものは建造物や美術でしょうが、なかでも仏国寺や石窟庵は有名です。

 儒教です。仏教より先に伝来したのですが、仏教に比べて普及が遅く、盛んになったのは七世紀末です。やがて儒教の教育機関である国学が設立されます。そこでは論語や孔子の言動を記した孝経をはじめ、易経、書経、詩経、礼経、春秋経という五経が教えられます。儒教は仏教を排撃することなく「治国平天下」の手段として重視するとともに、「安心立命」の教えとして仏教を受容します。

 新羅時代になると、読書三品科を設置して、官吏登用試験である科挙が盛んとなります。呉善花著の「韓国併合への道」という文庫本によれば、科挙では受験資格には厳しい身分的な制約があり、徹底した成績主義がとられます。官吏には文官(文班)と武官(武班)があり、合わせて両班(ヤンバン)と呼ばれました。特に文科は両班階級の者しか受験できないようになっていました。

 李朝国家では軍事を司る要職のほとんどが文官によって占められており、武官は劣位な状態におかれ、武官には事実上要人への道が閉ざされていたといわれます。これは、儒教的な文治主義といわれます。文治主義というのは、官吏とか官僚独裁による統治体制です。武官の登用による国の防衛という意識が弱かったのです。

 文治主義によって、官吏の世襲による権威や権力、身分の固定化が進むのです。門閥を重視する風潮がこうして生まれていきます。たとえ官職を得られなくても両班身分は世襲されるため、金で両班の地位を買ったり、ニセの資格証を売ったりということが何代にもわたって続きます。そのため、両班の人口は1690年には総人口の7.4パーセントですが、1858年には、なんと48.6パーセントにまで増加していたという記録もあります。

 外国との間に生じる諸問題の解決は、文治主義の立場から可能な限り政治的な外交によって処理することが方針とされました。外敵からの防衛は宗主国である中国に依存するという傾向を強めたのです。同じ現象は琉球王朝でもみられました。

ハングルと私 その18 家具と李氏朝鮮王朝時代

大邱教育大学校のベエ先生が住まわれる高層マンションの話題の続きです。先生のお宅入るとその広い居間に驚きます。20畳はゆうにあります。わたしのコンドミニアムとは比較になりません。壁には家族全員が写る大きな写真が飾られています。家族の絆を感じます。そして立派な茶タンスにあたる調度品が埋め込まれています。もちろん全室オンドルです。

家具の華やかなデザインに驚きます。実に豪華なのです。家具の表面のデザインは、木目を強調したもの、あるいは貝殻などを埋め込んだものなど、職人の業で相当の時間をかけて造られたことが伺える作品です。こうした家具の伝統は1392年から500年以上に渡って栄えた李氏朝鮮(이씨조선)王朝時代に由来します。王朝という華やかな時代の文化・芸術から生まれたのが「李朝家具」といわれています。李朝家具の多くは、当時ヤンバン(양반)と呼ばれていた支配・知識階級たちの書斎道具としても用いられました。

その中でも収納ダンスは、ヤンバンだけでなく庶民にも広く行きわたった品です。このタンスはパンダジと呼ばれ、半分が前開きの扉となっています。中は空洞でかさばるものを収納するのに便利なものとなっています。この家具には金運を招くという言い伝えがあります。落ち着いた造り、その重厚な存在感は李氏朝鮮王朝時代の伝統といえるでしょう。李朝家具は、木目の風合いと真鍮金具の美しさが融合した造形美を伝えています。

ハングルと私 その17 DMZツアーと臨津閣

現在アメリカと北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)とは政治的に微妙な関係にあります。トランプ大統領と金正恩主席との関係です。韓国(大韓民国)の立場も不明な状態です。なにか政はだだっ子遊びのようなところもあります。

韓国と北朝鮮の軍事境界線上にある村が板門店(판문점ーパンムンジョム)です。現在も北朝鮮と国連軍との間に「停戦」状態が続いています。板門店長く冷戦の象徴で、今も数少ない「冷戦の最前線」といわれています。軍事境界線とは非武装地帯のことでDemilitarized Zone:DMZといます。朝鮮半島の38度線をまたぐ幅2キロの軍事境界線のことです。

ソウルから車で1時間くらいのところにあるのが臨津閣( 임진각ーイムジンガク)です。軍事境界線付近を見渡すことのできる場所です。ここは板門店と異なり、一般市民が北朝鮮に最も近づける地です。韓国の人は離散家族が北朝鮮にいる家族を思って訪れる場所ともされています。案内と説明はソウル教育大学校教授の趙先生でした。ここを見学するには、パスポートなどを所持してツーリストの車でしか行かれません。

臨津閣は、南北統一の重要さを知るために建てられたと書かれています。一帯は広大な観光地となっており、平和の鐘閣、自由の橋、望拜壇とそれにまつわる展示などを見て回ることができます。臨津江(임진강 )が眼下に見えます。統一への願いが展示物に現れています。臨津閣には、1978年に発見された「南侵第3トンネル」があります。北朝鮮軍が韓国への侵入用に掘った本物のトンネルです。見学ができるのは、深さ73m、長さ245mの部分です。全長は1,635mあるといわれています。観光化のために整備されてはいますが、このトンネルを頭をかがめて通ると韓国が未だに戦時下にあるということが実感できます。

トンネルをでると、韓国軍の兵士数名が休んでいました。声をかけるとソウル出身で脱走とか不測の事故が起きないように、厳重な審査で選ばれてここに派遣されているとのこと。大学生のとき徴兵され、いわば軍人のエリートとして駐留しています。兵役が終わると然るべき職業や地位が保障されていると兵士が語ってくれました。そういえば大邱教育大学校のキム夫妻のご長男もここの米軍本部付きで駐屯していたそうです。

ハングルと私 その16 大邱教育大学校とキム先生

慶州(경주 キョンジュ)を最初に訪れたとき、大邱教育大学校(대구교육대학교)のキム・ヨンスク(김연숙)教授が案内してくれました。かってキム教授を兵庫教育大学の客員研究員に招聘したことがあります。それから長いつきあいが家族ぐるみで続いているのは有り難いことです。彼女の旦那はソウルの国民銀行の役員である柳氏です。彼のプロフィールはこのブログの第8話で取りあげています。

キム先生の専攻は英語教育です。韓国は、小学校から英語教育に力を入れています。英語を小学校から指導すべきか、などという議論は30年以上前の話です。キム先生は韓国の英語教育のリーダーのお一人です。ミッション系である梨花女子大学校(이화여자대학)の卒業です。学生数20,000人で女子大学としては世界最大規模とされています。ソウル大学と並んで韓国を代表する大学だけに「修能(수능)スヌン」では高得点を取らなければこの大学に入ることはできません。キム先生はこの大学の英語教育学科を最優秀で卒業した才媛です。やがて英国のヨーク大学(University of York)で博士号を取得し、現在は大邱教育大学校で教鞭をとっておられます。

大邱教育大学校は小学校の教師を養成する大学で、そこでは小学校で英語を指導する教師の養成もしています。メディアを使った英語教育は知られています。カリキュラムでは、教師はコンピュータやインターネットを使った指導力をつけることが強調されています。兵庫教育大学とも姉妹提携し、教授や学生の交流、共同研究をしています。

ハングルと私 その15 ベエ先生のお宅

ベエ(배한극)先生ご夫妻は、大邱市の高層マンションにお住まいです。韓国の中都市以上には、どこも高層マンション群が立ち並びます。土地が少ないので住宅は高層化しています。

こうしたマンションの特徴は、まず間取りがゆったりしていて4DK, 5DKはざらにあることです。部屋の大きさ、特に居間の広さは驚きます。次に、すべてが集中冷暖房であることです。お湯はいつでもでます。温水床暖房であるオンドル(온돌)がすべての家に普及しています。

朝鮮の家屋は、かつては薪やわらなどの煙で床を温めていました。1960年代から80年代にかけ練炭を燃料としたオンドルが主流となったのですが、床にできたひび割れから一酸化炭素が室内に漏れて、就寝中の家族が中毒死する事故が頻発しました。それ以来、温水床暖房に代わります。煙で2階建ての家を温めることが困難なために、韓国では平屋の建物が主流となりました。日本の民家は蒸し暑い夏に備えて、造りが開放的なのが特徴とされますが、他方朝鮮半島の民家は寒い冬に備えて、オンドルを用いて出入口や窓をできるだけ小さくする造りになっています。

ベエ先生のお宅は全室オンドル。全員寒い冬でも半袖姿ですごしています。オンドルのお陰で蒲団や座布団は薄くなっています。それに引き替え、我が国のアパートやマンションは、各戸で暖房や冷房を備えるという不便なありさまです。日本は住環境では後進国といえます。

ハングルと私 その14 ベエ先生とハーヴァード大学

兵庫教育大学の姉妹提携校である大邱教育大学校からベエ・ハンキョク(배한극)という教授も客員研究者として兵庫にお招きしました。既に紹介したキム先生と同様に一年間、学校教育研究センターで公私ともにご一緒しました。

この先生の専攻はアメリカ史です。いつも英語の論文をお読みの学者です。院生を連れてアメリカの学校を視察したとき、ベエ先生をお誘いしましたら同行されました。未だにアメリに行ったことがないというのです。少々驚きました。長男が研究者として働くハーヴァード大学(Harvard University)を訪ねました。ハーヴァード大学は、1636年に設置されたアメリカ最古の大学で、ボストンの隣にあるケンブリッジ(Cambridge)という街にあります。その隣はマサチューセッツ工科大(MIT)というこれまた世界トップの大学のキャンパスがあります。そばをチャールズ川(Charles River)が静かに流れています。

長男の案内で院生とベエ先生らとハーヴァードのキャンパスを散策しました。ベエ先生はさすがにアメリカの研究者で、ハーヴァードには13の博物館や美術館があること、ワイドナー記念図書館(Widener Memorial Library)には、グーテンベルク(Johann Gutenberg)の印刷機で最初に印刷された聖書の一つが保存されていることなどをこと細かく説明してくれました。

ハーヴァードヤード(Harvard Yard)とよばれる学生街に大学生協があります。ベエ先生は、一行と別れて生協の本屋に行きました。宿に戻るとスーツケースに一杯の本が入っています。「どうしても沢山の本が買いたかったのでスーツケースごと購入した」とのこと。このハーヴァード大学の旅にはたいそうご満悦で喜ばれたものです。ご夫婦とも敬虔な長老派(Presbyterian)という教会の信徒です。私淑し尊敬するお一人です。

ハングルと私 その13 大邱と慶州

韓国の大都会といえば、ソウル(서울)と釜山(부산)ですが、大邱(대구)も覚えていただきたい都市です。韓国第三の都会です。ソウルから新幹線のKTX (Korea Train eXpress) に乗って南に下り2時間。これまでの高速鉄道であるセマウル号(새마을호)も走っています。韓国の鉄道運賃は日本に比べて安く便利です。鉄道だけでなく高速バスも安いです。

KTXは東大邱駅で停まります。大邱の人口は250万人、大阪と同じくらいでしょうか。山に囲まれた盆地にあるのが大邱です。その周りにあるパルゴンサン(팔공산)という山からの景色はお奨めです。ケーブルカーで行きます。パルゴンサンは山脈の総称で最高峰は海抜1,192メートル。昔から霊山として千年以上の歴史を持つ把渓寺、桐華寺などのある仏教の山です。なんとなく雰囲気が京都の比叡山に似ています。

かつての新羅(신라)の首都であった慶州(경주)は、大邱の東へ50kmのところにあります。ここはどうしても訪ねたい場所です。新羅、高句麗(고구려)、百済(백제)という朝鮮の三つの国があったのを私たちは歴史で学びました。慶州は新羅のかっての首都です。街並みが当時のまま残っているので、観光地にきたという印象はありません。

仏国寺ープルグクサ(불국사)と石窟庵ーソックラム(석굴암)が1995年に世界遺産登録されていて、どうしても訪れる価値があります。仏国寺は石垣で固めた盛土の上に伽藍が配置され、伽藍は大きく3つの区域に分かれて回廊で区切られています。石窟庵は、東向きに作られており、日の出、月の出の名所とされています。Wikipediaによりますと、プルグクサとソックラムは、新羅美術の最高峰という呼び声があるそうです。私は幸い3度訪ねていますが、奈良に来たような落ち着きを感じます。

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ハングルと私 その12 スポーツと大学修学能力試験

韓国の最近のスポーツはとても賑やかです。それはなんといっても野球、サッカー、柔道、フィギアースケート、ゴルフなど、韓国選手の国際的な活躍が光ります。

いつだったか山手線の電車で韓国人のグループと同乗しました。ハングルの練習と思い、話しかけました。「韓国はどこから来ましたか?」「韓日サッカーの試合を観ましたか?」サッカーという英語が通じなかったので「チュック」というと、笑っていました。韓国選手も欧州で活躍しています。たとえば、イングランド・プレミアリーグの名門マンチェスター・ユナイテッド(Manchester United)nにいたパク・チソン-朴智星(박지성)というフォワードは素晴らしい選手です。ピッチの中盤を超えてあらゆるところでプレーするユーティリティープレーヤーと(utility player)しても知られました。多くのスポーツ選手と同様に、今も慈善活動にも積極的に参加しています。

韓国の子ども海外で勉強するものが多くなっています。ある程度経済的に恵まれた家族のようですが、母親が同行して海外の英語を使う学校へ入り、父親は一人韓国に残って仕送りをするのです。こうした父親はキロギアッパ(기러기아빠)と呼ばれています。기러기(雁)と아빠(お父さん、パパ)の造語です。小さいときからの英才教育のようなものです。そして、大学に入るための「大学修学能力試験」が待っています。日本の大学入試センター試験に例えられるのですが、その激しさや熱気はけた外れです。

大学修学能力試験は略して「修能(スヌン)(수능)」。受験生にとっては本試験以上に重要な試験で、「修能」の結果次第で希望の大学に行けるかどうかが決まります。一流大学へ入ると就職も保障されたようなものですから、スヌンは将来を約束されるかの最初で最後の登竜門です。かっての日本のように帝国大学に入る受験のようなものです。科挙もそうした試験でした。後輩や同郷の者、家族親戚が受験生を歌をうたったり、「頑張れ!」のプラカードを作ったりして応援します。チャンゴ(장고)という伝統的な打楽器を叩きながら激励する姿はまさにお祭りのようです。修能は1日で全ての試験を行い、今年は11月14日に行われました。

ハングルと私 その11 韓国と儒教

韓国の宗教は、儒教が中心だと思われがちですが、町の中に教会が多いので、キリスト教が盛んであることがわかります。Wikipediaによりますと、韓国の宗教人口は総人口の53.1%を占め、非宗教人口は46.9%となっています。このうち、仏教が22.8%、プロテスタントが18.3%、カトリックが10.9%、儒教0.2%とあります。プロテスタントとカトリックを加えたキリスト教全体では29.2%となっています。ソウル市内にも巨大な教会堂があります。例えばヨイド(여의도)にある汝矣島純福音教会もそうです。この礼拝堂はキリスト教の新教に属するペンテコステ(Pentecost)という福音教会で、通常メガチャーチ(mega church)と呼ばれています。建物が壮麗の壮大さとともに信徒数の大きさを示しています。

かつて、儒教は両班階級や軍人の間で信念の基本的支柱とされました。李氏朝鮮の時代、儒教は「宋明理学」と呼ばれていました。趙光祖 (조광조)という学者は、宋明理学を確立したといわれます。韓国では「私は儒教の信者です」と答える人はいませんが、その影響は人々の生活に深く根付いています。その儒教の教えとはなんといっても「長幼の序」でしょう。年齢、地位、先後輩などによる序列がとても厳しこと、組織の上司だけでなく身内の両親や兄、姉に対しても同様に敬語をつけることは、すでに述べました。儒教は教育を大事にします。韓国の進学率は日本以上で、その他先生を敬う態度も我が国ではみられない所作です。大学の教授の待遇は破格だといわれます。羨ましいことです。