ハングルと私 その18 家具と李氏朝鮮王朝時代

大邱教育大学校のベエ先生が住まわれる高層マンションの話題の続きです。先生のお宅入るとその広い居間に驚きます。20畳はゆうにあります。わたしのコンドミニアムとは比較になりません。壁には家族全員が写る大きな写真が飾られています。家族の絆を感じます。そして立派な茶タンスにあたる調度品が埋め込まれています。もちろん全室オンドルです。

家具の華やかなデザインに驚きます。実に豪華なのです。家具の表面のデザインは、木目を強調したもの、あるいは貝殻などを埋め込んだものなど、職人の業で相当の時間をかけて造られたことが伺える作品です。こうした家具の伝統は1392年から500年以上に渡って栄えた李氏朝鮮(이씨조선)王朝時代に由来します。王朝という華やかな時代の文化・芸術から生まれたのが「李朝家具」といわれています。李朝家具の多くは、当時ヤンバン(양반)と呼ばれていた支配・知識階級たちの書斎道具としても用いられました。

その中でも収納ダンスは、ヤンバンだけでなく庶民にも広く行きわたった品です。このタンスはパンダジと呼ばれ、半分が前開きの扉となっています。中は空洞でかさばるものを収納するのに便利なものとなっています。この家具には金運を招くという言い伝えがあります。落ち着いた造り、その重厚な存在感は李氏朝鮮王朝時代の伝統といえるでしょう。李朝家具は、木目の風合いと真鍮金具の美しさが融合した造形美を伝えています。

ハングルと私 その17 DMZツアーと臨津閣

現在アメリカと北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)とは政治的に微妙な関係にあります。トランプ大統領と金正恩主席との関係です。韓国(大韓民国)の立場も不明な状態です。なにか政はだだっ子遊びのようなところもあります。

韓国と北朝鮮の軍事境界線上にある村が板門店(판문점ーパンムンジョム)です。現在も北朝鮮と国連軍との間に「停戦」状態が続いています。板門店長く冷戦の象徴で、今も数少ない「冷戦の最前線」といわれています。軍事境界線とは非武装地帯のことでDemilitarized Zone:DMZといます。朝鮮半島の38度線をまたぐ幅2キロの軍事境界線のことです。

ソウルから車で1時間くらいのところにあるのが臨津閣( 임진각ーイムジンガク)です。軍事境界線付近を見渡すことのできる場所です。ここは板門店と異なり、一般市民が北朝鮮に最も近づける地です。韓国の人は離散家族が北朝鮮にいる家族を思って訪れる場所ともされています。案内と説明はソウル教育大学校教授の趙先生でした。ここを見学するには、パスポートなどを所持してツーリストの車でしか行かれません。

臨津閣は、南北統一の重要さを知るために建てられたと書かれています。一帯は広大な観光地となっており、平和の鐘閣、自由の橋、望拜壇とそれにまつわる展示などを見て回ることができます。臨津江(임진강 )が眼下に見えます。統一への願いが展示物に現れています。臨津閣には、1978年に発見された「南侵第3トンネル」があります。北朝鮮軍が韓国への侵入用に掘った本物のトンネルです。見学ができるのは、深さ73m、長さ245mの部分です。全長は1,635mあるといわれています。観光化のために整備されてはいますが、このトンネルを頭をかがめて通ると韓国が未だに戦時下にあるということが実感できます。

トンネルをでると、韓国軍の兵士数名が休んでいました。声をかけるとソウル出身で脱走とか不測の事故が起きないように、厳重な審査で選ばれてここに派遣されているとのこと。大学生のとき徴兵され、いわば軍人のエリートとして駐留しています。兵役が終わると然るべき職業や地位が保障されていると兵士が語ってくれました。そういえば大邱教育大学校のキム夫妻のご長男もここの米軍本部付きで駐屯していたそうです。

ハングルと私 その16 大邱教育大学校とキム先生

慶州(경주 キョンジュ)を最初に訪れたとき、大邱教育大学校(대구교육대학교)のキム・ヨンスク(김연숙)教授が案内してくれました。かってキム教授を兵庫教育大学の客員研究員に招聘したことがあります。それから長いつきあいが家族ぐるみで続いているのは有り難いことです。彼女の旦那はソウルの国民銀行の役員である柳氏です。彼のプロフィールはこのブログの第8話で取りあげています。

キム先生の専攻は英語教育です。韓国は、小学校から英語教育に力を入れています。英語を小学校から指導すべきか、などという議論は30年以上前の話です。キム先生は韓国の英語教育のリーダーのお一人です。ミッション系である梨花女子大学校(이화여자대학)の卒業です。学生数20,000人で女子大学としては世界最大規模とされています。ソウル大学と並んで韓国を代表する大学だけに「修能(수능)スヌン」では高得点を取らなければこの大学に入ることはできません。キム先生はこの大学の英語教育学科を最優秀で卒業した才媛です。やがて英国のヨーク大学(University of York)で博士号を取得し、現在は大邱教育大学校で教鞭をとっておられます。

大邱教育大学校は小学校の教師を養成する大学で、そこでは小学校で英語を指導する教師の養成もしています。メディアを使った英語教育は知られています。カリキュラムでは、教師はコンピュータやインターネットを使った指導力をつけることが強調されています。兵庫教育大学とも姉妹提携し、教授や学生の交流、共同研究をしています。

ハングルと私 その15 ベエ先生のお宅

ベエ(배한극)先生ご夫妻は、大邱市の高層マンションにお住まいです。韓国の中都市以上には、どこも高層マンション群が立ち並びます。土地が少ないので住宅は高層化しています。

こうしたマンションの特徴は、まず間取りがゆったりしていて4DK, 5DKはざらにあることです。部屋の大きさ、特に居間の広さは驚きます。次に、すべてが集中冷暖房であることです。お湯はいつでもでます。温水床暖房であるオンドル(온돌)がすべての家に普及しています。

朝鮮の家屋は、かつては薪やわらなどの煙で床を温めていました。1960年代から80年代にかけ練炭を燃料としたオンドルが主流となったのですが、床にできたひび割れから一酸化炭素が室内に漏れて、就寝中の家族が中毒死する事故が頻発しました。それ以来、温水床暖房に代わります。煙で2階建ての家を温めることが困難なために、韓国では平屋の建物が主流となりました。日本の民家は蒸し暑い夏に備えて、造りが開放的なのが特徴とされますが、他方朝鮮半島の民家は寒い冬に備えて、オンドルを用いて出入口や窓をできるだけ小さくする造りになっています。

ベエ先生のお宅は全室オンドル。全員寒い冬でも半袖姿ですごしています。オンドルのお陰で蒲団や座布団は薄くなっています。それに引き替え、我が国のアパートやマンションは、各戸で暖房や冷房を備えるという不便なありさまです。日本は住環境では後進国といえます。

ハングルと私 その14 ベエ先生とハーヴァード大学

兵庫教育大学の姉妹提携校である大邱教育大学校からベエ・ハンキョク(배한극)という教授も客員研究者として兵庫にお招きしました。既に紹介したキム先生と同様に一年間、学校教育研究センターで公私ともにご一緒しました。

この先生の専攻はアメリカ史です。いつも英語の論文をお読みの学者です。院生を連れてアメリカの学校を視察したとき、ベエ先生をお誘いしましたら同行されました。未だにアメリに行ったことがないというのです。少々驚きました。長男が研究者として働くハーヴァード大学(Harvard University)を訪ねました。ハーヴァード大学は、1636年に設置されたアメリカ最古の大学で、ボストンの隣にあるケンブリッジ(Cambridge)という街にあります。その隣はマサチューセッツ工科大(MIT)というこれまた世界トップの大学のキャンパスがあります。そばをチャールズ川(Charles River)が静かに流れています。

長男の案内で院生とベエ先生らとハーヴァードのキャンパスを散策しました。ベエ先生はさすがにアメリカの研究者で、ハーヴァードには13の博物館や美術館があること、ワイドナー記念図書館(Widener Memorial Library)には、グーテンベルク(Johann Gutenberg)の印刷機で最初に印刷された聖書の一つが保存されていることなどをこと細かく説明してくれました。

ハーヴァードヤード(Harvard Yard)とよばれる学生街に大学生協があります。ベエ先生は、一行と別れて生協の本屋に行きました。宿に戻るとスーツケースに一杯の本が入っています。「どうしても沢山の本が買いたかったのでスーツケースごと購入した」とのこと。このハーヴァード大学の旅にはたいそうご満悦で喜ばれたものです。ご夫婦とも敬虔な長老派(Presbyterian)という教会の信徒です。私淑し尊敬するお一人です。

ハングルと私 その13 大邱と慶州

韓国の大都会といえば、ソウル(서울)と釜山(부산)ですが、大邱(대구)も覚えていただきたい都市です。韓国第三の都会です。ソウルから新幹線のKTX (Korea Train eXpress) に乗って南に下り2時間。これまでの高速鉄道であるセマウル号(새마을호)も走っています。韓国の鉄道運賃は日本に比べて安く便利です。鉄道だけでなく高速バスも安いです。

KTXは東大邱駅で停まります。大邱の人口は250万人、大阪と同じくらいでしょうか。山に囲まれた盆地にあるのが大邱です。その周りにあるパルゴンサン(팔공산)という山からの景色はお奨めです。ケーブルカーで行きます。パルゴンサンは山脈の総称で最高峰は海抜1,192メートル。昔から霊山として千年以上の歴史を持つ把渓寺、桐華寺などのある仏教の山です。なんとなく雰囲気が京都の比叡山に似ています。

かつての新羅(신라)の首都であった慶州(경주)は、大邱の東へ50kmのところにあります。ここはどうしても訪ねたい場所です。新羅、高句麗(고구려)、百済(백제)という朝鮮の三つの国があったのを私たちは歴史で学びました。慶州は新羅のかっての首都です。街並みが当時のまま残っているので、観光地にきたという印象はありません。

仏国寺ープルグクサ(불국사)と石窟庵ーソックラム(석굴암)が1995年に世界遺産登録されていて、どうしても訪れる価値があります。仏国寺は石垣で固めた盛土の上に伽藍が配置され、伽藍は大きく3つの区域に分かれて回廊で区切られています。石窟庵は、東向きに作られており、日の出、月の出の名所とされています。Wikipediaによりますと、プルグクサとソックラムは、新羅美術の最高峰という呼び声があるそうです。私は幸い3度訪ねていますが、奈良に来たような落ち着きを感じます。

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ハングルと私 その12 スポーツと大学修学能力試験

韓国の最近のスポーツはとても賑やかです。それはなんといっても野球、サッカー、柔道、フィギアースケート、ゴルフなど、韓国選手の国際的な活躍が光ります。

いつだったか山手線の電車で韓国人のグループと同乗しました。ハングルの練習と思い、話しかけました。「韓国はどこから来ましたか?」「韓日サッカーの試合を観ましたか?」サッカーという英語が通じなかったので「チュック」というと、笑っていました。韓国選手も欧州で活躍しています。たとえば、イングランド・プレミアリーグの名門マンチェスター・ユナイテッド(Manchester United)nにいたパク・チソン-朴智星(박지성)というフォワードは素晴らしい選手です。ピッチの中盤を超えてあらゆるところでプレーするユーティリティープレーヤーと(utility player)しても知られました。多くのスポーツ選手と同様に、今も慈善活動にも積極的に参加しています。

韓国の子ども海外で勉強するものが多くなっています。ある程度経済的に恵まれた家族のようですが、母親が同行して海外の英語を使う学校へ入り、父親は一人韓国に残って仕送りをするのです。こうした父親はキロギアッパ(기러기아빠)と呼ばれています。기러기(雁)と아빠(お父さん、パパ)の造語です。小さいときからの英才教育のようなものです。そして、大学に入るための「大学修学能力試験」が待っています。日本の大学入試センター試験に例えられるのですが、その激しさや熱気はけた外れです。

大学修学能力試験は略して「修能(スヌン)(수능)」。受験生にとっては本試験以上に重要な試験で、「修能」の結果次第で希望の大学に行けるかどうかが決まります。一流大学へ入ると就職も保障されたようなものですから、スヌンは将来を約束されるかの最初で最後の登竜門です。かっての日本のように帝国大学に入る受験のようなものです。科挙もそうした試験でした。後輩や同郷の者、家族親戚が受験生を歌をうたったり、「頑張れ!」のプラカードを作ったりして応援します。チャンゴ(장고)という伝統的な打楽器を叩きながら激励する姿はまさにお祭りのようです。修能は1日で全ての試験を行い、今年は11月14日に行われました。

ハングルと私 その11 韓国と儒教

韓国の宗教は、儒教が中心だと思われがちですが、町の中に教会が多いので、キリスト教が盛んであることがわかります。Wikipediaによりますと、韓国の宗教人口は総人口の53.1%を占め、非宗教人口は46.9%となっています。このうち、仏教が22.8%、プロテスタントが18.3%、カトリックが10.9%、儒教0.2%とあります。プロテスタントとカトリックを加えたキリスト教全体では29.2%となっています。ソウル市内にも巨大な教会堂があります。例えばヨイド(여의도)にある汝矣島純福音教会もそうです。この礼拝堂はキリスト教の新教に属するペンテコステ(Pentecost)という福音教会で、通常メガチャーチ(mega church)と呼ばれています。建物が壮麗の壮大さとともに信徒数の大きさを示しています。

かつて、儒教は両班階級や軍人の間で信念の基本的支柱とされました。李氏朝鮮の時代、儒教は「宋明理学」と呼ばれていました。趙光祖 (조광조)という学者は、宋明理学を確立したといわれます。韓国では「私は儒教の信者です」と答える人はいませんが、その影響は人々の生活に深く根付いています。その儒教の教えとはなんといっても「長幼の序」でしょう。年齢、地位、先後輩などによる序列がとても厳しこと、組織の上司だけでなく身内の両親や兄、姉に対しても同様に敬語をつけることは、すでに述べました。儒教は教育を大事にします。韓国の進学率は日本以上で、その他先生を敬う態度も我が国ではみられない所作です。大学の教授の待遇は破格だといわれます。羨ましいことです。

ハングルと私 その10 キム医師

「金」という苗字は韓国ではダントツに多いですね。キム(김)と発音します。続いて李(イ) (이)、そして朴(パク)(박)という名前が御三家のようです。同姓不婚のしきたりが韓国にあります。それでもこのような苗字が多いのは不思議な感じがします。いとこや親戚はもちろん、全く知らない人でも事情によっては結婚できない場合があります。そのせいかも知れませんが、夫婦は別姓となっています。

金先生のことです。先生は旧京城帝国大学医学部を卒業し小児科の医師として活躍されます。京城帝国大学は、朝鮮総督府の管理下で1924年に6番目の帝国大学として、現在のソウル(서울)市につくられます。朝鮮総督府は、武断政治という武力を中心として朝鮮を治めていましたが、それがうまくいかなくなり、やがて文化政治への政策へと転換します。この文化政治は「内地延長主義」と呼ばれます。それによって「内鮮共学」となり朝鮮の人々も大学に入れるようになります。金先生はたいそう優秀だったそうです。医学部に朝鮮人として入学するために大変な努力をされたはずです。

実は、私は金先生の息子さんとアメリカで知り合います。そのきっかけはある教育とテクノロジーの活用に関する学会で彼と会ったことです。学会会場で名刺を交換しながらわかったことは、ソウルからやってきてノックスビル(Knoxville)にあるテネシー大学(University of Tennessee) の博士課程にいるということでした。彼の専門と私の専門が近かったので、アメリカの著名な研究者のことをお互いに知っていて、話しがはずんだものです。その後、何度か別な学会で会いました。彼はやがて、ソウルに戻り研究者として活躍します。彼が東京にきたとき、私のアパートに泊まったりしました。そのとき金先生からの土産も頂戴したりしました。

ハングルと私 その9 柳さん

柳さんという方の話題です。ハングルでは柳を「ユー」と発音します。この方は、ソウル市内にある国民銀行(クンミン バンク)の取締役をしています。彼の奥さんは、大邱教育大学校教授のキム・ヨンスク氏です。ユーさんは韓国ナンバーワンのソウル大学の卒業で、専攻は経済学だったようです。

ユーさんからは取締役という印象を感じません。顔は色黒で労働者のように愛嬌があります。まず、スポーツが大好きでそれもジョギングとバトミントンが得意です。市内の南山公園で友人等と毎週楽しんでいます。一度一緒に走ったのですが、身長が180センチ、体重が85キロがあろうという体躯ですが結構な走りでした。英語はたどたどしく、それでも愉快な会話をわたしとやります。

私が毎回ソウルへ行くと空港には会社の車が迎えにきてくださり、必ず彼の重役室に連れて行かれます。女性の秘書がいて、結構「ぞんざい」に指示を出しています。週末は、大邱市より奥様のキム教授がソウル市内の高層マンションへ帰ってきます。ご夫婦のやりとりをみていると、ユーさんはなんとなしに態度が高圧的で、他方キム教授はユーさんのいうことに従順なような印象を受けます。ハングルの響きもあるからだろうと察します。料理でもキム教授が一人で作り、ユーさんは手伝うことはありません。でも二人の子どもを育てる仲の良い夫婦です。

韓国では年齢・地位・先輩後輩などによる序列が厳しいものがあります。会社の社長を「社長様」と呼びます。身内の両親や兄・姉に対しても敬語をつけるのです。

ハングルと私 その8 孫先生の運転マナー

孫教授を大邱教育大学校に訪ねたときです。大邱市は韓国では第四の大きな町です。先生の運転で大邱市内をあちこち回りましたが、大いに驚きました。その運転マナーです。運転が実に荒いのです。クラクションを絶えず鳴らし、多分ハングルで「そこどきなさい」と大声で隣の車に怒鳴るのです。

ナリタ 「孫先生は道徳の先生なのですから、ゆっくりあわてないでいきましょう。クラクションは鳴らさないでください。」
孫先生 「、、運転手のマナーが悪い。」 

孫先生は全く聞き入れてくれません。「酷い運転手だ」とブツブツいいながら運転するのです。1990年当時の韓国車のバンパーは、ぎざぎざのついた高質のプラスチックでした。バンプ(bump)とは英語では「揺さぶる、ぶつける」という意味です。バンパー(bumper)はぶつかるもの、ぶつけるものだという感覚です。ですから、駐車のときスペースがないときは、前後の車をやおらバンパーで押しながら駐車するのをよく見かけました。アメリカでも何度も見たことがあります。

「道徳学の専門家だから、、、、、」という規準では理解できない行動です。ですが結構お年の方でしたから、そのような「堂々たる」態度は許される国なのか、、、とも思いました。道徳とはなにかをしばし考えさせてくれた先生です。

ハングルと私 その7 孫先生と買い物

阪神淡路大震災の前後に、兵庫教育大学には韓国から一人の教授が客員研究員として赴任していました。大邱教育大学校からきていた孫教授という方です。専攻は道徳学です。震災後、大阪から大学の宿舎に中国道の高速バスで帰るのに6時間かかったエピソードの持ち主です。

孫先生は車を持っていなかったので「ナリタ先生、買い物に連れて行ってください」という電話がしばしばきました。そして大好きなDスーパーに行っては「ナリタ先生、これを買いなさい、安いですよ、買いなさい」というのです。
「先生、安物買いはいけませんよ、」と私が「諭しても」意に介しません。「買いなさい、買いなさい、」です。

あるとき、大学の副学長が孫先生の研究室のあった学校教育研究センターにやってきました。私は偶然そこに居合わせました。次のような会話が副学長とで交わされました。なんでも孫先生はある学会に参加したいということを伝えているようでした。

孫先生 「私は招かれているのですから、東京の学会に先生が私を招待するのは当然ですよ。」
孫先生 「韓国では、副学長先生をお招きするときはどこにでもお連れします。それが礼儀なのです。」
副学長 「そうですか、、、韓国と日本の文化や習慣の違いですね。」といって苦笑していました。人を招いたときは「もてなしで徹底する」のが韓国人の考えなんですね。

ハングルと私 その6 支払いと割り勘

客へのもてなしはどこの国にもある言葉です。韓国人のもてなしで気がついたこと、それは「徹底している」ということです。前回の食事の際のマナーなどの習慣もそうです。食事の際の支払いもそうです。

「先生、いろいろとお世話になっております。今夜の夕食は私が招待させていただきます。」といっても駄目なのです。客がホストを招いても、支払いはホストがするということのようです。お土産を一緒に買いにいっても、ホストが払ってくれるのです。スーパーマーケットにいったとき、土産品をレジに持って行くとどうしても私に払わせないのです。

それから、韓国人同士では食事を計画し誘ったものが支払うという習慣です。「ワリカン」はないといって間違いありません。誰かが順番に食事に誘うことによって、結局は皆が支払うことになるのです。日本では、食事の前後に幹事が一人ひとりから集金します。韓国では、若い人同士の場合は除いてこのような習慣はありません。年上の者、上司が払うのも当たり前です。目上の人への態度にも気をつけるのが韓国です。

ハングルと私 その5 チゲとマナー

最初の韓国訪問は1998年頃だったことは以前述べました。そのとき一緒に行ったのは当時外国人研究員として兵庫教育大学に招いたアメリカの友人、Ray Myers氏です。若い頃、平和部隊員として数年インドの貧しい田舎で英語を教えていた経験があります。Myers氏はその後、連邦教育省で働きました。インドの貧しさを知っていたので、アジアの人々に共感的でした。このときは彼も韓国訪問は初めてでした。同行したもう一人の方は、兵庫教育大学附属小の教師でした。

ソウルの金浦国際空港(김포국제공항)で出迎えてくださった方は、同じく兵庫教育大学でかって客員研究員をされていた趙という方でした。専門は社会科教育で当時はソウル教育大学校の教授でした。ソウルの公園などを案内してくださり、公園の側にあった韓国風の庵のようなレストランへ昼食に招いてくれました。まず、二人のウエイターで運ばれてきたのは、料理が一杯に並べられた大きなテーブルです。全ての料理が小鉢に盛られています。味噌汁は鍋に盛られています。一種のバフェスタイル(バイキング)です。

一人ひとりのお膳スタイルではありません。皆、好きなものを手を伸ばしていただくのです。味噌汁はいわゆるチゲ(된장찌개)なのですが、これも皆で自分のスプーンで手を伸ばしてすくってはいただくのです。皿などを手にとって口をつけたりしません。料理が一通りなくなると次のテーブルが運ばれてきます。これが続くのです。料理が無くなるのは客に失礼なので、残り物がでるまで出てくるというのです。「趙先生、もうお腹が一杯です」といって、テーブルの料理を残すとそれで食事は終わりとなります。この「残す」ということが客のマナーであることを後に知りました。これこそカルチャーショックでした。「残すのはもったいない」のですが、、、

ハングルと私 その4 ユージン君

ウィスコンシン大学の家族寮にいた頃です。寮のすぐ向かいにソウルから来ていた留学生家族と親しくなりました。この院生は政府から派遣された優秀な人でした。政府の奨学資金をもらうのを大変誇りにしている様子でした。こうした留学生は学位をとると、国に帰って「サイエンティストー科学者」として遇される恵まれた人々です。それに引き替え、わたしのほうは不如意な院生でアルバイトに精を出す有様でした。

この家族に一人の息子がいまして、その名を「ユージン」といいました。英語で書くとEugeneとなります。時々見かける名前です。この家族との付き合いがやがて他の韓国人留学生とつきあうきっかけとなります。キャンパスには中国本土からきた留学生と同様に、多くの韓国人が学んでいました。韓国人の新婚カップルも宿舎の二階に住んでいました。こちらも同じく政府派遣の「エリート」でした。このカップルに招待されて焼き肉をご馳走になりました。「プルゴギ」(불고기)です。ちなみにコギとは肉の意味で、牛肉はソコギ(소고기)、豚肉はトエジゴキ(돼지고기)と発音します。

夕食の後に、韓国の結婚式の写真を見ながら韓国の習慣を教えてくれました。このカップルも大変裕福な家庭で育ったようで、式の服装や贈り物の豪華さに驚きました。相手を選ぶときは、家系、姓などを詳しく調べて、風水師とも相談して結婚するそうです。祖先を大事にし、男尊女卑のような習慣も残っていること、ヤンバン(양반)という特権的な国家公務員となる人々がいること、支配階級の人々です。なによりも儒教の精神が社会を包むことを留学生から教えてもらいました。愉快な付き合いをさせていただきました。

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ハングルと私 その3 ハングルの特徴

朝鮮語は構造上は日本語に似たアルタイ(Altai)語型といわれます。アルタイ地方とは、西シベリア(Siberia)南部のオビ川(Obi River)の流域に広がる地域です。アルタイにはロシア帝国時代の政治犯らの流刑地であったクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)という都市があります。戦後樺太で抑留された私の叔父が昭和28年頃ここで亡くなったという通知を父が貰ったのを覚えています。

朝鮮語の文章の要は述語にあるといわれます。述語は文末に位置します。アルタイ語は(主語-目的語-動詞)の語順をとること、文法では名詞の格や動詞の活用を示す語尾を語幹末に付着させて示すことなど、日本語とよく似た類型を示します。

ハングルは1443年に「訓民正音」の名をもって李朝第四代の国王、世宗のもとで作られます。ハングルは表音文字で要素文字24字はそれぞれ単音を示します。ローマ字と異なり要素文字の結合で一つの単位をつくり、一音節を表します。要素文字24字中、14文字は初声(終声)で子音を表し残りの10文字は母音を示します。

朝鮮語の子音体系で特徴的なのは、初声の場合、閉鎖音、p、t、k、及び破裂音cに無気音、有気音、濃音の3種類があることです。濃音とは子音の発音のとき、咽頭に激しい緊張を伴い、日本語でいう促音のような響きを持ちます。朝鮮はかつては古中国文化圏に属していたといわれます。従って漢字を書くのが知識人の資質でありました。その結果、日本と同様に漢字を長く使ってきました。漢字は必ず朝鮮独特の漢字音で音読し、日本のように訓読することはありません。

ただ、漢字を朝鮮語に順応させようとした試みがあったようです。日本のように漢字から仮名を作り上げるようなことは韓国ではありませんでした。今日の韓国は漢字廃止の方向にありますが、全廃には至っていません。新聞や雑誌などには依然として漢字が使われ、ハングルと併存しています。現代の文学作品では漢字は用いられていません。

ハングルと私 その2 日本との歴史

ソウル(서울)市内には、日本と韓国の関係を示す公園や史跡があります。日本が韓国を併合したのが1910年。それが終戦まで続きます。長い日本による統治でしたから、史跡はどうしても反日色や独立運動の足跡が強くでているところとなっています。

ソウル市内にある王宮の一つが景福宮(경복궁)です。ここにはかっての朝鮮総督府の建物がありました。朝鮮総督府庁の完成によって、街から景福宮はみえなくなります。総督府の建物は戦後は長らく中央博物館として利用されていましたが、いかにも重厚な建築物といわれても、忌まわしい植民地時代の象徴とされてきました。そうした国民感情から1995年に撤去されました。

ソウルの中心部にはタプゴル公園(탑골공원)があります。1919年に「三・一独立運動」が起きます。タプゴル公園はこの抗日独立運動の発祥地となった場所です。そのとき独立宣言書が読まれ、それがレリーフとなっています。 ソウル市内の中心部の南にある南山(남산)一帯に市民の憩いの場、南山公園があります。公園の中腹に安重根( 안중근)義士記念館があります。韓国独立の英雄として知られています。

西大門独立公園(서대문독립공원)はソウルの西の郊外に位置しています。ここには西大門刑務所というのがあって、抗日独立運動で捕らえられた政治犯などが収容されたり処刑された場所です。「西大門」は、日本政府の弾圧を象徴する地名となっています。

ハングルと私 その1 「ジョッパリ」

令和元年は我が国と大韓民国(韓国)との間の関係がぎくしゃくしています。それは政府と政府の関係であり、国民一人ひとりからの側からみれば、そんな不幸な関係とはなっていません。両国は持ちつ持たれつの関係にあるのです。今日からしばらく私と韓国、ハングルのことをエピソードから紹介することにします。

私は小さい時、母親から叱られるときに「ジョッパリ!」といわれました。母親の言うことに反抗したり従わない時に浴びせられました。父親は津軽の出身。津軽弁でも「ジョッパリ」があり、「頑固者」「意地っ張り」という意味で使われます。津軽の人の気性を表した方言です。後に韓国には「チョッパリ」という語があることを知りました。「チョッパリ」から「ジョッパリ」が生まれたという説もあります。「ジョッパリ」とは日本人の蔑称であることも知りました。母がそれを知っていて使ったかは定かではありません。

日本が韓国を併合したのが1910年(明治43年)。それが終戦まで続きます。その間、いろいろな言葉、たとえば、「チョッパリ」のような短かく、「便利な」言葉が入ってきます。「チョンガ」。これは結婚をしない、もしくは独身男性を馬鹿にするときに使われる言葉といわれます。私たちの周りには朝鮮語が沢山あることを意識したのは、なんといっても韓国の人と接し、ハングルを勉強し始めてからです。

私は隣国の韓国を随分遠い国だと思っていました。始めて訪れたのは1998年頃です。最初に韓国を訪れたとき、ソウル教育大学校の先生とお会いしました。私はハングルを全然知らないで行ったので英語で表敬の会話を交わしました。訪問の終わり頃、この方が「成田先生、私たちは日本語を知っています。先生もハングルを勉強してください」というのです。韓国人と私とが英語で会話するというのは、確かにおかしいものです。このとき、ハングルを学ぶことの大切さを痛感したものです。

イスタンブルとソフィアの旅から その21 宗教と文化相対主義

二つの都市を訪ねながら宗教の及ぼした複雑な影響を考えています。特にイスラムによる統治が色濃く表れたバルカン半島のほんの一部を訪ねただけですが、学ぶことの多い旅でした。

「イスラム教とかイスラム主義は教条的で原理主義的なもの」ととらえる見方が強いのですが、それは誤解のようです。いろいろな考え方のイスラム主義者(ムスリム)が存在します。戒律を日常生活、政治や制度にも厳格に適用しようとする人々から、イスラム教の信仰を個人の生き方に留めようとする人々もいます。イスラム圏に存在する文化的、社会的、またジェンダーに関する生活上の制限に対しては、宗教的、非宗教的な手段によって抵抗するムスリムもいます。このようにイスラム主義を習慣、制度、パタン化された思考で理解しようとすべきではないと思われます。

アメリカの人類学者、ボアズ(Franz Boas)が文化相対主義(Cultural relativism)ということを提唱します。彼は、自身の文化を相対的に把握したうえで、異文化と相手側の価値観をとらえ、その文化、社会のありのままの姿を理解しようとすることを提唱します。文化の洗練さは外部の価値観によって測ることはできない、と考えのです。このような文化相対主義に基づいて、イスラム主義の多様性という側面を理解することも大事だと思うのです。

トルコは政治から宗教色を排除している国であることは既に述べました。宗教と政治の関係は複雑で微妙です。ただ明白なことは政教分離の原則は、近代社会の特徴であるということです。たとえば、国教を廃止したフランス。国の宗教的活動及び宗教への援助を禁じ、宗教の特権や政治上の権力行使を認めない日本もそうです。アメリカは、「宗教と国家の分離」ではなく「教会と国家の分離」を掲げ、教会と公権力の癒着を禁止しています。宗教団体に政治上の権力を行使させないだけではなく、公の場から宗教色を排除することで、宗教の領域と政治の領域を分けています。

しかし、今世紀はすでに自文化中心主義(ethnocentrism) という 民族、人種の文化を基準として他の文化を否定的に判断したり、低く評価したりする態度や思想が台頭しています。「Racism」という語を定着させた人類学者にMargaret Mead がいます。歴史は繰り返す、と云われます。”History repeats itself.”

イスタンブルとソフィアの旅から その20 リラ修道院 その4 色彩の競演

リラ修道院は海抜1,100mのところにあります。空を仰ぐとバルカン半島の峰で既に雪をかぶった標高2,729mとあるマリョヴィツァ山(Malyovitsa)が遠望できます。丁度、季節は紅葉の真っ最中。青い空、白い峰々、縞模様のアーチ型をした修道院の回廊や教会の柱や壁の白と黒。そしてフレスコ画。こうした素晴らしい色の競演をよそに、僧院は静かなたたずまいをみせています。

修道院に関して、前回イコンで飾られたイコノスタシスという壁のことを記しました。この壁は「聖障」と呼ばれています。聖所と至聖所を区切るのが聖障でです。聖所は礼拝堂内のことで、信者や観光客が案内されるところです。だが至聖所の中は見ることも入ることもできません。至聖所は天国をあらわすというのだそうです。リラ修道院を見学するのに拝観料はありません。だがいくばくかの献金(喜捨)をするのがマナーというものです。

修道院内にも宿坊があり、観光客は宿泊できます。一泊40〜45レフですから3,000円くらい。修道院の裏側に数件のホテルとレストランがあります。レストランは屋外テラスで暖かい日差しを受けながら食事を楽しむことができます。名物はこの地方の特産、鱒料理です。薄切りレモンが添えられ焼かれた大きな鱒がでてきます。それにワインを注文して賞味するのはなんともいえない気分になります。ワインはキリストの血を象徴するものです。