ウィスコンシンで会った人々 その23 囲碁と子どもたち 

ウィスコンシン大学の学生会館はMemorial Unionという。宿泊施設、講演や宴会場、会議室、ラウンジ、カフェテリア、キャッシュバー、アイスクリームスタンドなど大抵のものは揃っている。教職員の憩いの場となっている。Lake Mendota湖畔のテラスでは、のんびりと日光浴をしながら本を読んだり、子どもを遊ばせている。

久しぶりでMemorial Unionに出掛けワインを飲みながらボーッと湖を眺めていると口元が綻ぶ。ジョギングをする者、ウィンドサーフィンをするものもいる。大学は夏休みに入り静けさが戻っている。ラウンジに戻り誰か囲碁を打っている人がいないかと探す。かつては必ず碁盤を囲む中国人や韓国人の留学生がいた。だが誰も囲碁をする者はいない。

囲碁の話題である。毎週木曜日の放課後、近くの小学校で囲碁の手ほどきをしている。小学一年から四年までの生徒が三々五々集まってくる。「放課後子ども育成事業」という活動の一環だ。囲碁を教えるというよりは、碁盤で石取りや陣取りのゲームをしているようなものだ。少し黒石や白石の置き方や石の取り方などに慣れてきた子どもには、囲碁のルールを教えることにしている。だが、こちらが工夫したりしないと「面白くない、、、」といって立ち去っていく。塾があるとか外で遊びたいという。

市ヶ谷に日本棋院がある。そこに学校普及事業というのがあって、青少年の健全育成として囲碁を学校教育に取り入れるよう自治体の教育委員会に働きかけている。そのために学校囲碁指導員を育成している。筆者もその講習会に参加し資格を得た。だが、いざ子どもを前にして囲碁を教えようとすると、一筋縄ではいかないことを体験している。子どもは、黒石と白石を前にすると、大変な創造性が働く存在であることを感じている。とんでもない遊びを始める。オセロに似たようなゲームである。囲碁はそっちのけで、つきあうようにしている。そして囲碁に仕向ける。

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ウィスコンシンで会った人々 その22 「ペアハラ」と看護師辞職の事態

鳥取の県立養護学校で2015年5月、看護師6人全員が一斉に辞め、ケアが必要な児童・生徒に支障が出たというのは、異常事態としか思われない。一部の保護者からは、痰の吸引時間の遅れや点滴の仕方などに関し批判の声が寄せられていたという。看護師不足で時間通りに対応しきれない事情、さらには学校側の保護者対応の拙さもあるようだ。鳥取県の看護師にとっては、時間給が1,180〜1,460円というのだから、アホらしくてやっていられないという気分になったのだろう。同情したくなる。ちなみに、東京都は時給1,800円、大阪府は1,890円である。

看護師が全員辞めた理由だが、ある保護者による暴言に近い対応への反発だそうだ。そこで報道ではいわゆる、「モンスター・ペアレンツ」が盛んに話題とされた。これを「モンペ」というそうだ。もし保護者が「怒ったことは事実だ」とすれば、それは「ペアハラ」といわれるかもしれない。ペアレンツによるいやがらせ、ハラスメント(harassment)である。6人が一斉に辞めたという実態の背景には、保護者の言動、看護師の身分の不安定さといった問題性が考えられる。

子どもの対応が、少ない看護師に任され担任教師や学年主任などとの連携が不十分だったのではないか。看護師は威圧的な保護者を前にして孤立していたのではないか。子どもの対応については保護者を交えて個別の指導計画などを皆で話し合い、役割を分担することを確認していなかったのではないか。さらに看護師は指導計画すら知らなかったのではないかと危惧する。加えて看護師は、保護者からのクレームや要望に対応するためのマニュアルも知らされていなかったのかもしれない。

そこで、今回のような事態を回避するにはどうしたらよいかである。第一に保護者と教職員が遵守すべき行動の規範(Due Process)のようなものを作ることである。保護者には不満や不服の申し立てができる手順を明確にしておくこと、言動はどうあるべきかを伝えることである。学校側も保護者の言動が不適切な場合を想定して弁護士や最悪の場合、訴える権利を留保することを保護者にきちんと文書で伝えておくことである。

第二は、看護師を常勤とし個別の指導計画づくりや、その他学校業務において教師と対等に役割を分担することである。学校は、教師だけの単一集団では保護者の期待や不満に対応できない。看護師を孤立させないためにも看護師の常勤化は必須の措置である。現在の時間給は医療的ケアという仕事にしてはあまりに酷い。

第三は、第一で提案した行動規範を保護者と学校、地域社会に公開し、学校の姿をより可視化することである。毎月学校は「学校だより」とか「学校ニュース」を町内会組織などをとおして配布している。その中に、教師や保護者のハラスメントを防ぐためのお互いの了解事項など、行動規範を地域でも知って貰うことである。

第四は、看護師には男性も採用すべきである。全員が女性看護師であるために母親との対応がこじれたふしもある。本来、全面的な介護が必要な男子生徒には男性看護師が対応し、女子生徒には女性看護師が対応すべきなのである。生徒への導尿などの措置など,生徒の人権を今一度再点検すべきなのだ。「看護婦」の世界は過去のものとなったはずだが。

もしこのような対応を教育委員会も学校もとれないとすれば、「ペアハラ」はこれからも発生するかもしれない。そして学校は頑なに内部のハラスメントを隠そうとするに違いない。

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ウィスコンシンで会った人々 その21 集団的自衛権行使の事例

集団的自衛権の行使と称して大国はどのように振る舞ったのかを次の五つの事例を振り返りその特徴を考える。紹介するのは、いずれも1950年代から1970年代の内戦である。

1. ハンガリー動乱
1956年10月にハンガリー(Hungary)で発生した大規模反政府デモに対し、ソ連が「ハンガリー政府の要請に基づき、ワルシャワ条約(Warsaw Pact)に従って」デモを鎮圧した事件だ。ワルシャワ条約機構はソ連を中心とする東ヨーロッパ諸国が結成した軍事機構である。北大西洋条約機構 (NATO)に対抗する。ワルシャワ条約は1955年につくられ集団的自衛権に基づく加盟国間の相互軍事援助を主な目的としている。だがハンガリーの内政に関与したとして、ソ連は国際的な非難を受けた。

2. チェコスロバキア動乱
1968年8月に、チェコスロバキア(Czechoslovakia)で起こった自由化運動の影響拡大を恐れたソ連および東欧諸国によるワルシャワ条約機構軍が改革運動を鎮圧した事例である。この変革運動は「プラハの春」とも呼ばれ女子体操の花と呼ばれたベラ・チャスラフスカ(Vera Caslavska)、人間機関車と呼ばれたエミール・ザトペック(Emil Ztopek)らによる改革への支持・期待の表明、「二千語宣言」に署名し運動は盛り上がる。鎮圧されたが民主化を取り戻したのは1989年である。

3. ヴェトナム戦争(Vietnam War)
南ヴェトナム解放民族戦線(ベトコン)がヴェトナム共和国政府軍に対する武力攻撃を開始した1960年12月が戦争の始まりといわれる。南北に分裂したヴェトナムで発生した戦争である。米ソの代理戦争ともいわれる。合衆国議会は国連憲章、及び東南アジア集団防衛条約(SEATO)に基づく義務に従い派兵することを承認した。SEATOの主要構成国である大韓民国、タイ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドも南ヴェトナムに派兵した。他方、ソビエト連邦や中華人民共和国は北ヴェトナムに対して軍事物資支援を行い多数の軍事顧問団を派遣した。

4. コントラ戦争
1981年、米国のレーガン政権(Regan)がニカラグア(Nicaragua)の反政府勢力であり親米反政府民兵組織であるコントラ(Nicaraguan Contras)を支援したことである。ニカラグア政府によるエルサルバドル(El Salvado)、ホンジュラス(Honduras)、コスタリカ(Costa Rica)への武力攻撃に対する集団的自衛権を行使した事案である。ニカラグアの民主化はそれ以降長い年月を要する。

5. アフガニスタン紛争
2001年の9・11テロを受けてタリバン(Taliban)政権下のアフガニスタン(Afganistan)に対する米軍の攻撃とそれに伴うNATO加盟のヨーロッパ諸国のとった軍事行動である。

9・11のテロ攻撃などについては集団的自衛権は発動できないという法学者もいる。事実、アフガニスタン紛争は国連決議を必要としない集団的自衛権の発動という論理をアメリカなどは採用している。

以上の動乱や紛争は、内戦状態の国に対する大国の干渉が特徴である。集団的自衛権の行使はいかようにも理由づけられるという危険性を示す事例といえよう。2003年3月に始まったイラク戦争は米国とイギリスなどが「イラクの自由作戦」として始まる。日本は航空自衛隊を派遣し、後方支援と称して兵員の輸送にあたった。名古屋高等裁判所は2008年4月に「自衛隊イラク派兵差止訴訟」において憲法違反であるとする判決を出す。

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ウィスコンシンで会った人々 その20 集団的自衛権の復習

これまで歴代の政府は、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであること、そして集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないとしてきた。

ここでのキーワードは「わが国を防衛する」と「必要最小限度」というフレーズだと思われる。集団的自衛権とは、政府の解釈によれば「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」となっている。

現行憲法には自衛隊という言葉はない。だが、「独立国である以上は当然に自衛権を持っていて、それを行使するために必要最小限度の実力は憲法で否定されていない」という論拠が自衛隊の存在となっていて、自衛隊の合憲性を支える「つっかえ棒」となってきた。さらに自衛権を発動する要件の一つに、「わが国に対する急迫不正な侵害があること」が挙げられてきた。個別の自衛権で対処できるのではないか、という議論が交わされている。集団的自衛権を持ち出す必要はあるのか、ということである。

もし集団的自衛権を行使できるとなれば、それは実は自衛隊の合憲性を支える「つっかえ棒」を外そうとすることなのだ。「わが国を防衛する」と「必要最小限度」を再解釈して集団的自衛権の行使を容認しようとするのが現政府の方針のようだが、どうも納得するのが困難である。

集団的自衛権の行使と称して大国はどのように振る舞ったのかを考える。いずれも1950年代から1970年代の冷戦時代に起こった内戦に端を発するという特徴がある。この事実は看過できないと考えられる。

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ウィスコンシンで会った人々 その19  憲法と宮沢俊義

活字文化で育った筆者ら、といっても1960年代に人文科学系の学生だった者には、いくつかの出版社に随分お世話になった時代がある。例えば、辞書といえば岩波書店や研究社、法律であれば有斐閣、心理学であれば平凡社や誠心書房。貧乏ながら教科書に参考書に、こうした出版社から沢山購入したものだ。

中でも思い出に残るのが「憲法」という法律書である。もちろん著者は宮沢俊義。出版社は有斐閣である。この書店は「六法全書」の刊行で知られている。1957年の創業80周年には、「法律全集」を出しているいるから、今年で138年の歴史を有する文字通り出版業界の老舗である。

宮沢俊義のこの本だが、法学部の学生はこぞって読んだはずだ。特に憲法の制定について「八月革命」という画期的な理論を発表する。これは1945年八月にポツダム宣言(Potsdam)を受諾することによって主権が天皇から国民に移譲したというのである。これが「八月革命」である。それゆえ、日本国憲法は国民が制定したのだという立場である。

今や日本国憲法は揺れている。その最たる議論は「現行憲法は押しつけられたものだ」という論題である。自主憲法をという声は根強い。現在の内閣もこうした立場をとっていると考えられる。しかし、自主憲法の制定は以下の述べるが法理上の大きな課題がある。そのためか部分的な改訂で対応しようとしている。もっと云うならば現行憲法条項の解釈を広げて国の平和と安全を保つことに腐心している。その最たる条項が憲法第九条の二項である。

ポツダム宣言の第十項には、民主主義、言論・宗教・思想の自由、基本的人権の尊重がうたわれている。これは従来の「国体」から180度の転換であり、「革命」であると宮沢は説いた。玉音放送と呼ばれた終戦の詔勅は天皇による国民への主権の同意であり承認である。この時点で大日本帝国憲法は国民主権と矛盾する。よって帝国憲法は効力を失ったという論理である。

そこで自主憲法の制定だが、かつてのポツダム宣言の受諾とそれによる帝国憲法の失効というような事態は当面起こりえない状況である。現行憲法の廃止と自主憲法の制定には、なにか革命的な出来事が必要なのである。ここに憲法制定の法理的な困難が立ちはだかるのである。

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ウィスコンシンで会った人々 その18 TEDと教育の改革

毎日のようにTED(Technology, Entertainment and Design)というサイトで教育講演を聞いている。「Ideas worth spreading」(拡がって欲しいアイディア)というキャッチコピーで視聴者を惹きつけている。 講演者はノーベル賞受賞者のような人ではない。だが専門性の豊かな若者、クリティカルシンキングに長けた女性、脱北してきた女性、鯨の資源保護活動にあたる人、数学はいかに面白いかを説く教師、など講師陣は幅広い分野にわたっている。筆者もこの講演に共鳴する一人。なにせ飽きさせない内容でしかも味わいがある。

TEDが組織されたのは1996年。Sapling Foundationという非営利団体が運営している。この団体を創設したのは、Chris Andersonという出版社の起業家である。1,658以上の講演がネット上で無料で視聴することができる。TEDでは教育問題に関する講演が多い。それだけに世界的に教育への関心、教育の問題が深刻であることを物語る。特に教育問題ではケン・ロビンソン(Sir Ken Robinson)という教育評論家の講演が目立つ。子どもは創造性(human creativity)や知的好奇心(curiosity for learning)が旺盛であり、それを引き出すのが学校や教師の仕事だ。だが今の学校制度は子どもの創造性を殺してしまっていると主張する。

ロビンソンの講演だが、学校という土壌には子どもが学べる適切な条件が必要であること、特に教師に裁量を与え子ども可能性や創造性をひきのばす土壌を学校に育てることを強調する。そのためには教育委員会が管理統制をしてはいけない。教育は人間的な仕組みであり、機械的な組織(mechanical system)であってはならないという。

ロビンソンはさらに云う。科学や数学の重要性はいうまでもないが、人文(humanities)、芸術(arts)、体育(physical education)の教育も欠かせない分野である。演劇などを取り入れた斬新な教育方法を実施し、子どもにはできるだけ多様なカリキュラムを用意し個別的な対応をすることだという。

是が非でも次の講演を聴いて欲しい。
●「学校教育は創造性を殺している」

●「教育の死の谷を脱するには」
http://digitalcast.jp/v/17388/

●「学習することに革新を」

ユーモアに溢れ、エスプリがきいて深い洞察に富む。講演でロビンソンが語るのは、我々が直面している教育の危機をいかに脱することができるかということだ。

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ウィスコンシンで会った人々 その17 成年後見制度と人権

今新宿区で、発達障害者の人権活動について母親の学びの集まりに参加している。そこでの話題となっているのが「Where human rights begin」(人権とはどこから出発するのか)という冊子である。これは、第三回世界成年後見制度大会(The 3rd World Congress on Adult Guardianship)での基調報告である。編集したのは、The Guardianship Association of New Jersey, Inc. (GANJI)という団体である。

障害者の親は、障がいというハンディキャップを負って生を享けた子を残して先に死ねない、という思いを誰もが持つ。だがそうは言え、親が先に死ぬことのほうが多い。「願わくば親亡き後、グリーン車に乗せて天国まで行かせたい」と云う親もいる。そのためには、まずは親が法定後見人になることが多いようである。

しかし、「人権とはどこから出発するのか」という成年後見制度の冊子を読むと、人権の大切さや重要さが溢れんばかりにわかりやすい表現(plain text)で強調されている。ちなみに法務省の「成年後見制度」を読むと、不動産や預貯金などの財産を管理したり,身のまわりの世話のために介護などのサービスや施設への入所に関する契約を結んだり,遺産分割の協議など、判断能力の不十分な方々を保護し,支援するのが成年後見制度とある。障害者の人権などは一言も触れていない。

人権は、1215年のイングランドの自由の大憲章(Magna Carta or Great Charter of the Liberties of England)に始まる。その後1948年に国連本部で世界人権宣言が採択された。我が国は当時、国連に加盟していなかったので批准していなかった。この宣言を起草した一人がエルノア・ルーズベルト(Eleanor Roosevelt)である。彼女は、合衆国第32代大統領のフランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)の妻であった。彼女は合衆国国連代表、婦人運動家、文筆家として知られている。

エルノア・ルーズベルトは次のように訴える。
結局のところ人権はどこから始まるのでだろうか?それは、家庭に近い小さな場所から始まる。その場所は、家庭にとても近くにあり、あまりにも小さいので世界地図上で見ることはできない。地図に載っていなくとも人々にはそれぞれの世界がある。それは、住んでいる自宅周辺、通学する学校や大学、働いている工場や農場、あるいは事務所である。そのような場所で、男性、女性、子供の誰もが差別されずに同等の正義、機会、平等を求めている。これらの権利は、地図に載っていないような小さな場所で守られなければ意味がない。家庭の近くで人権が守られるよう市民が共に活動しなくては、人権が守られている場所をあてもなく広いこの地球上で探すことになる。

人権は誰にとっても共通なもの。人権は発達障害のある人が被後見人であってもなくても適用される。人権と義務は教えられ、サービス計画と日常生活での様々な機会や実践で個人が学びとるものだ。世界人権宣言は、普遍的な人権についての素晴らしい考え方とそれに基づく宣言である。このようなことを学んだのが母親の学びの集まりであった。

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ウィスコンシンで会った人々 その16 「東京圏の高齢者は地方へ移住を」

このようなかけ声は欧米諸国ではきいたことがない。それは何故かを考えている。合衆国の地方とか田舎の規模は日本の比ではない。人口200人という町もあちこちにある。こうした町の行政だが、近辺の町と一緒になって学校を運営し、ゴミを処理し、図書館を運営し、病院を経営している。それでいて独立した自治体なのは不思議だ。

日本は小さな国土なのだが、どうして過疎化とか人口減少が起こるのかである。それは地場産業を振興してこなかったことのツケが回っているからだ。農業や林業、酪農、漁業などに対する政策が貧困だったというしかない。ひたすら輸入に頼り地元で獲れる作物や魚に関心を向けてこなかったのだ。

民間有識者でつくる日本創成会議というのがある。座長は元総務相である増田寛也氏である。この会議が6月1日に「東京圏高齢化危機回避戦略」と題する提言をまとめた。この会議は、東京など1都3県で高齢化が進行し介護施設が2025年に13万人分不足するとの推計結果をまとめた。

この推計に基づく戦略では、施設や人材面で医療や介護の受け入れ機能が整っている全国41地域を高齢者の移住先の候補地として示していることである。大都市に住む高齢者が元気なうちに地方に移住することを促す専用施設がいろいろな県や市にあると指摘している。政府はこうした施設を市町村が整備することを資金、税制面で支援することを今後検討するのだとか。

東京への一極集中をもたらしたのは誰なのか。このような状況に至っては歯止めをかけるのは至難の業である。高齢者が持つ知識や技術を地方での仕事やボランティア活動に役立て、地方活性化に貢献してもらうというのだ。だが、高齢者は地方の活性化に役立ちたいなどとは考えない。快適な終の棲家を探しているのである。果たしてどのくらいの人が地方に移住するだろうか。その地方はどんな魅力があるのかである。

筆者なら次のような地方に住みたい。若い農家がいて新鮮な作物を作り子どもを育ている町や村である。そこにある学校は毎日ボランティアを歓迎する。そして自分もまだ役立つという実感を得ることができる町である。スポーツや文化活動も活発なのがいい。

次に病院や店舗や図書館がバスや車で30分くらいのところにある町だ。病気は避けることができないので、それくらいの距離ならなんとか通える。こうした施設はWiFiなどで繋がっていることも必須の条件だ。メディカルソーシャルワーカーが常駐していればもっとよい。このような投資なら行政はすぐできるだろう。人がいてインターネットがあれば快適な田舎暮らしができる。

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ウィスコンシンで会った人々 その15 ワシントンD.C.詣り

孫達は、この夏は親の支援でワシントンD.C.(Washington District of Columbia)旅行を計画している。上の孫息子Andersは既にD.C.旅行を楽しんだようだ。ウィスコンシンといういわば田舎にいると、D.C.とかニューヨーク(New York)は眩しいような都会である。Andersらはボストン(Boston)の近くに住むので首都詣ではさほどの感激はないかもしれない。ボストンはアメリカ建国の歴史を刻む町ではある。

D.C.の中心にあるナショナル・モール(National Mall)にはスミソニアン博物館(Smithsonian Museums) をはじめ、国立アメリカ歴史博物館(National Museum of American History), 国立自然博物館(National Museum of Natural History), 国立航空宇宙博物館(National Air and Space Museum)、その他リンカーン・メモリアル(Lincoln Memorial)、ワシントン記念塔(Washington Monument), マーチン・ルーサー・キング・メモリアル(Martin Luther King, Jr. Memorial)などなど、とてもとても一週間でも回りきれない。

夏になると多くの子ども達がバスを連ねてD.C.にやってくる。こうした旅行は、学校の主催ではない。教師に負担をかけることはない。旅行会社が企画し、交通、宿、食事、保険などを扱う。孫娘はこの旅行に参加するようだ。ウィスコンシンからD.C.まではバスで片道一泊二日、そしてD.C.に五日間滞在し、費用は一人1,000ドルくらいだそうだ。親に経済的なゆとりがないと子どもを参加させることは困難である。

アメリカに修学旅行という学校行事はない。その功罪はあるだろうが、教師はこうした団体旅行にはそもそも賛成しない。子どもの行動に責任をもちたくないというのが本音だろう。恵まれない家庭も多い。修学旅行はそうした家庭の子どもが参加する貴重な機会とはなる。だがそうした習慣がないのがアメリカ。我が子の教育は家庭に責任がある。学校ではない。「Our culture holds the values of individualism, self-reliance, and cooperation.」というフレーズを思い出している。

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ウィスコンシンで会った人々 その14 日本の教員と「イクボス」

6月2日、滋賀県内の中学校、高校、特別支援学校の校長を集めた研修会が大津市内であったと報道された。研修の話題は「イクボス」。NPO法人代表理事の講演を聞き、出席者全員が「教職員の仕事と家庭の両立を応援しながら自らも仕事と私生活を楽しむ「イクボス」となる」などと書かれた宣言書にサインしたというのだ。笑いを堪えられなかった。

「イクボス」という造語を知ったのは最近のことである。「男性の従業員や部下の育児参加に理解のある経営者や上司のこと」とある。新語や造語には弱い。この造語にあたる英語は知らない。そもそもないはずである。なぜなら、父親も母親も働くのが当たり前。両方が育児をしないと仕事は成り立たない。皆が「イクボス」なのだ。

わが国で「イクボス」が話題になる要因には、女性の職場での地位が不安定なこと、男性の就業時間が長いこと、就業開始や終了時間、職場が均一であることによるものと思われる。

第一の女性の職場での地位だが、昔からその地位は不安定であった。妊娠、出産、子育てに対する配慮が誠に不十分だったこと、それによる男性に比べての昇任や待遇での差別がはっきりしていた。

第二の男性の就業時間である。教員を引き合いにしてみる。2012〜2013年の経済協力開発機構(OECD)の調査では、日本の中学校教員の一週間の仕事時間は53.9時間で、参加34カ国や地域で最も長かったというのである。

第三の就業開始や終了時間、職場が均一ということとである。誰もが同じ就業時間であっては子育ては難しい。例えば保育所に誰が送り迎えするかである。職場についても、自宅やサテライトオフィスでの仕事が可能であれば子育てはかなり改善される。

学校の教員であるが、授業の開始や終了時間はどの学校も同じであるからこれを変えることはできない。だが4時半とか5時半に帰宅できることは可能なはずだ。OECDによる調査で、一週間の仕事時間は53.9時間というのは異常な事態なのである。むしろ労働協約や契約によって下校時間をきちんと守ることが大事だ。公立学校の教員には特例法で時間外手当を支給する必要がない。従って残業は駄目だということである。

そこで提案だが、教職員は5時帰宅を遵守することだ。校長や教頭は「イクボス」になる必要は全くない。むしろ教職員組合との協約を学校内で履行するように気を配ることだ。教職員は、時間外手当がでないのだから残業をする必要がないと決めてかかることだ。

まぜっ返すようだが、どうしても残業をしなければならないときは、管理職に時間外手当を要求すべきなのである。協約や契約を遵守すること、授業以外の校務などで仕事量を減らすこと、不毛な会議を減らすことを実行することが必要だ。

「イクボス」よりも就業規則にうるさい管理職にならなければならない。「イクボス宣言書」に署名したという校長は、なんとアホなのかとさえ思えてくる。労働協約や契約のことを知らないことを露呈している。教員の「働き過ぎ」という実態に一刻も早くメスをいれなければならない。そのためには先進国の教職員の働き方を参考にすべきだ。

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ウィスコンシンで会った人々 その13 マディソンの学校で

マディソン(Madison, Wisconsin)の学校の話題である。孫娘二人は近所の小学校と中学校に通っている。上の娘は自転車通学である。ヘルメットは必携となっている。教室を覗くと多種多様な髪と皮膚の色の生徒がいる。二人の校長はアフリカ系アメリカ人である。マディソン教育委員会は長年、少数民族出身の子どもの教育にも力を入れてきた。こうした子どもが増えたのはヴェトナム戦争以降である。

異なった言語や文化を背負った子どもたちは、英語を習得して同化しようとしている。そこに流れる精神は自由と平等を自覚する善良な市民になろうとすることである。アメリカというところは、長く住めば住むほど永住したくなるような不思議な魅力を持っている。それを海外からやってくる者は一種の幻覚のように感じるのだ。幸せを実現してくれるといった目眩のようなものである。

アメリカという磁石に惹きつけられて人々が集まり多民族国家を形成している。学校だけでなく大学や企業も多くの人種が学び働いている。誰もが永住権(Green Card)を取得しようと努力している。高等教育を受けた優秀な人々は安定した暮らしをしていることが伺える。先日パーティであったカンボジア系アメリカ人もウィスコンシン大学で会計学を学び、大手保険会社に勤めているということだった。

話題は少し変わる。2015年の春、大阪市内の小学校に入学しようとしたダウン症の子どもの両親に対して、教育委員会は門前払いにしようとしたことが報道された。父親はニュージーランド人、母親は日本人。両親は子どもを地域の学校で学ばせようとした。学校がどような支援をしてくれるのかを相談した。だが学校側の対応は冷淡であったようである。

特別な支援はなく受け入れには消極的な態度だったという。そして特別支援学校を紹介したのだ。父親はニュージーランドの学校を引き合いに出し、地元の学校に入れることを強く主張した。「可能な限り障害のない子どもとともに教育を受けられるように配慮する」ということを聞いていたからである。この両親の主張が功を奏したのか、後日校長と教頭が謝罪の申し入れをしてきた。大阪は「障害の有無に関わらず地域の学校で学ぶことが基本である」というフライヤーを作っている。

いわゆる先進国の教育事情が系統的に日本に紹介されて60年以上が経つ。ようやく、子どもが地域の学校へランドセルを背負って通う姿が当たり前のようになってきた。だが筆者が住む八王子市内で、いまだに多くの子どもが特別支援学校のバスに乗って通学している。果たして地域に友達がいるのだろうかとバスを眺めながら考えるのである。

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ウィスコンシンで会った人々 その12  2016年の大統領選挙とウィスコンシン

このところウィスコンシン州はいろいろと話題に上っている。その一つが2016年の大統領選挙の共和党候補者の一人として、現在の知事スコット・ウォーカ(Scott Walker)が噂されるからだ。だが彼は現在、ウィスコンシン州検察当局から2011年のウィスコンシン州上院選挙、および2012年の知事解任選挙の期間に選挙資金集めによる不法調整が行われたとして調べを受けている。

検察官の調査報告は、ウォーカが保守派の複数のグループと資金集めを調整し、その犯罪行為の中心人物であるととしている。犯罪行為の一つは、虚偽のキャンペーン財務報告をしたとされる。この不法資金集めと調整には、ブッシュ政権下で次席補佐官、大統領政策・戦略担当上級顧問を務めたカール・ローブ(Karl Rove)が関与したとされる。彼は「影の大統領」ともいわれたことがある。しかし、どの程度まで関与したのか詳細は不明のようだ。

知事のスコット・ウォーカだが、2011年1月ウィスコンシン州知事として就任する。早々に労働組合の団体交渉権や賃金交渉権を制限するなど、対立勢力に対する強硬な手法で注目されるようになる。反対派から解職請求が行われた結果、2012年にリコールが成立した。その後、再選挙では全米の保守派の富裕層からの支持で再選された。この選挙は「ウィスコンシンでのカネの力対市民の力の戦い」 (Money Power or Citizen Power)といわれ全米の注目を集めた。

2012年における大統領選挙では、ウィスコンシン州選出の下院議員であるポール・ライアン(Paul Ryan)が共和党の副大統領候補としてミット・ロムニー(Mitt Romney)大統領候補から指名された経緯がある。ロムニーはマサチューセッツ(Massachusetts)州知事をつとめ、オバマ政権の医療保険制度導入を批判してきた。これがオバマケアである。

ウィスコンシンは伝統的に民主党と共和党が拮抗する州である。南北戦争の頃のウィスコンシン州は共和党を支持する州だった。もっとも、共和党が生まれたのはウィスコンシン州である。1945年以後は共和党と民主党がしのぎを削っている。2008年の大統領選挙では州民はイリノイ州(Illinois)選出の民主党候補のバラク・オバマ(Barack Obama)を支持した。

また長い大統領選挙運動が始まり、市民の会話にのぼってきた。「暑くて長い夏」がやってくる。

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UNITED STATES - OCTOBER 19:  Sen. John F. Kennedy and his wife, Jackie, wave to crowds as they proceed up lower Broadway in a parade.  (Photo by Frank Hurley/NY Daily News Archive via Getty Images)

UNITED STATES – OCTOBER 19: Sen. John F. Kennedy and his wife, Jackie, wave to crowds as they proceed up lower Broadway in a parade. (Photo by Frank Hurley/NY Daily News Archive via Getty Images)

 

ウィスコンシンで会った人々 その11 自家製造の葡萄酒と麦酒

娘の旦那は連邦政府の研究機関で働いている。材木やチップの研究をしているようだが、詳細な研究内容は聞いたことがない。研究施設はウィスコンシン大学に隣接している。

彼は自宅で赤葡萄酒と麦酒を作っている。それがまた香りといいコクといい素晴らしい出来なのである。特に葡萄酒は自分でラベルを作りそれを瓶に貼り付けている。「Reiner Brewery Co」などと茶目っ気のある会社名としている。Reinerは彼の姓。葡萄酒は隣近所や友達に進呈している。もちろん値段を付けているわけでない。

ウィスコンシンでは自分で飲む分の葡萄酒と麦酒を作ってよいことになっている。自宅での作り方は本やネット上で沢山紹介されている。旦那は、自宅の地下で作業している。いろいろなキットを購入し、注意深く醸造している。特に温度管理は大事だという。そのために、温度センサーも買い自動で温度と湿度を管理している。

麦酒の苦味、香り、泡を出すホップはウィスコンシン州でも沢山獲れる。それもあって、ウィスコンシンでは多くの麦酒が作られ販売されている。葡萄酒だが、主として黒ブドウや赤ブドウを原料とする。その成分が販売されている。葡萄酒渋みの成分であるタンニンを多く含み長期保存が可能である。「Reiner Wine」は実に濃厚な風味のものに仕上がっている。

英語の表現で「Do It Yourself Fan」というのがある。「自分で出来ることは自分でする」という意味だが、自宅の改装工事、電気、水道などの工事、車のメインテナンスも自分でやることが多い。そのために道具も揃えている。長男の家のガレージも道具が揃っていて多くのことを自分でやっている。葡萄酒と麦酒も自分で作り楽しむのは面白い文化である。

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ウィスコンシンで会った人々 その10 国旗掲揚と国歌斉唱と大学

国立大学法人化の大学は、今入学式とか卒業式で国旗掲揚と国歌斉唱を文科省から奨励されている。決して強制ではなく要請という内容と伺う。国からの依頼であるから、無視するわけにもいかないようだ。それにはいろいろと理由がある。

第一は、運営交付金を国から受けていることだ。大学の予算の大半はこの交付金で賄われている。大学がいかに学問の自由とか大学の自治をうたっても、首の根っこを交付金によって抑えられている以上、国の要請を蹴るわけにはいかないのである。

第二は、大学の改革が進んでいることである。学部の統廃合も行われている。こうした動きはすべて大学の自主的な判断でなされているのではなく、国の方針で進められている。こうした方針に沿わない大学はないといってもよい。国立大学の法人化以来、大学改革はどんどん進んでいる。教授会は経営とは切り離され、もはや腑抜けのようなありさまである。学長の権限は一段と強まった。

第三は、第一の事由と重なるのだが、大学の自治とは国から独立した財政があってはじめて成り立つのである。従って大学は、独自のルールによって入学金や授業を決め、民間や個人からの寄付を仰ぎ、産学協同研究を進めて、財源を確保することが必要なのである。だが、大学法人の大学に経営能力があるとは思えない。

しかして、今の大学はグローバルな環境で立ち向かえる一握りの大学を除き、ほとんどは運営交付金に頼らざるをえない。憲法第23条にある「学問の自由は、これを保障する」をいかにかざしても、それは犬の遠吠えなのだ。

文系学部の統廃合が盛んに云われ、危機感が漂っている。教員養成の学部も危ういといわれる。大学運営の危機に輪をかけているのが入学者の減少だ。どの大学も生き残りをかけていて、束になって国とやり合う力はない。自立の精神が欠けている。これが今の大学危機の最大の姿だ。

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ウィスコンシンで会った人々 その9 フリースクールが義務教育の場に

かつて通信制高校で働いたことがある。そこで学ぶ生徒だが、過去にいろいろな苦労をしたか、今も苦労している者であった。中には非行によって高校を退学させられた者、保護観察処分の生徒もいた。また、長年不登校になっている生徒もいた。そしてフリースクールに通う生徒もいた。こうした生徒に共通することは、まだどこかに学びたという動機があることである。高校卒の認定を受けたいというのが通信制高校を選んだのである。

ようやくフリースクールなど、小中学校以外にも義務教育の場としようとする法案が、7月中の国会提出を目指して動き出した。超党派の議員連盟が5月27日、総会を開いて概要を了承し6月中に条文としてまとめることを決めた。今国会で成立させ、施行を2017年4月としようとしている。この法案だが「多様な教育機会確保法」となるようである。

現在は、公的にはフリースクールに通わせても就学義務を果たしたとみなされていない。その一方で1992年には不登校の増加を受け文部省が、フリースクールで勉強した場合も在籍先の校長の判断で出席と扱えるよう通知した。あけすけな言い方だが、学校に来ていなくても出席扱いにして卒業させている。制度と実態は矛盾しているのである。このズレを解消するのが今回の提案といえる。

義務教育の歴史であるが、1886年の小学校令では尋常小学校修了までの4年間を義務教育期間とした。1941年初等教育と前期中等教育を行う国民学校令が定められ8年間の義務教育となった。現在の義務教育はそれ以来続いる。それ故、フリースクールなど学校以外での学習の機会を制度化するという新しい段階に入るといえる。

アメリカやカナダで盛んに行われるホームスクール(home school)は、フリースクールの一形態とも考えられる。ホームスクールでは「個別の指導計画」をつくり、市町村の教育委員会に提出することになっている。また、学びの成果を確認するために、学力テストも受けるように指導される。このようにして、保護者が子供に教育を受けさせる就学義務を果たすことが科せられている。

フリースクールの授業料を賄うために、国からの支援としてバウチャー制も取り入れられるだろうと察する。フリースクールの経営者や保護者には、学校に代わって子供に「多様な教育の機会」を提供する特徴ある学習メニューを用意する責任がかかってくる。

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ウィスコンシンで会った人々 その8 仕事探しと交渉

娘は念願の看護師として本日6月1日より働く。どのようにして職を探したのかを訊いたのだが、面白い話をしてくれた。仕事を探す過程でいろいろと周到に準備してきたこと、交渉術のようなことである。以下は娘が語ってくれたことである。

就職活動にあたっては、まず指導教官に相談して、レジュメ(resume)、レファレンス(references)を作ることから始めた。レジュメはいわば履歴書のようなものである。彼女は、既にウィスコンシン大学で生物学で学士号をとり、ジョージ・ワシントン大学(George Washington University)で公衆衛生学の修士号を取得している。そうした教育歴の他に、教会での活動歴、NPOでのボランティア、また大統領選挙のボランティア活動なども事細かに記入した。

レファレンスは身元保証人とか指導教官などの氏名や役職、連絡先などを記したものである。所属する牧師やボランティアをしている学校の校長などを加えた。雇用しようする者が、本人の能力や資格、リーダーシップなどを確認するために問い合わせるのである。雇う側にとってレファレンスは大事な情報だ。

娘は、指導教官から面接の仕方を学んだ。特に待遇面での交渉に必要な知識である。「看護師の初任給は通常、自給24ドルくらいだが、あなたは28ドルを貰える」と云われた。面接では、最初に24ドルを提示されたという。しかし、自分の教育歴や諸経歴をもとに娘は28ドルを要求した。交渉の末に27ドル50セントで折り合いをつけた。医療保険や有給休暇も双方が了承して決まった。

彼女は働くところは、マディソンの東隣にあるジェファソン・カウンティ(Jefferson County)という人口84,000の小さな自治体である。ウィスコンシン大学ホワイトウォーター校(UW-Whitewater)がある。主に貧しい人々やお年寄りなどの家庭を回り、健康上の相談に乗る。当然、ソーシャルワーカーや理学療法士、医師などと連携して仕事をするという。

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ウィスコンシンで会った人々 その7 卒業パーティ

娘の卒業式とパーティに出掛けてきた。パーティの案内状はもちろんRSVP(request for response)となっていて「お返事をお待ちしています」とある。案内状には小さく「No Gift」とも印字されている。50名の出席予定となった。ところが当日は60名を越える人が集まった。出席と答えた友人が別な友人や家族などを誘ったらしい。途中で急ぎ料理を追加注文することになった。

パーティといっても司会者がいて、いろいろな挨拶があるわけでない。乾杯の音頭もない。立食であり三々五々集まり、食べて飲んで会話して、疲れたら座り、好きなときに帰っていく。服装もまったく自由。結婚式のパーティとは違い、個人のパーティとはそんなものだ。

話の中心は当の娘と家族である。彼女たちを囲んで他愛もないことを会話している。彼女は一通りすべての参会者と会話したらしい。小生も50年振りと20年振りの友人夫妻を招いた。いずれも我が家にとって留学の際に大いにお世話になった方々である。もう一組の友人も参加してくれた。家内の終末を看取ってくれた方である。

パーティには親子連れが目立った。娘は小さい子供たちのためのコーナーをつくり、そこにおもちゃ、折り紙、絵本などを用意していた。皆勝手に遊んでいた。孫娘は折り紙で周りの子供にツルの作り方を教えていた。作ったものはもちろん持ち帰える。

日頃のお付き合いに感謝するのがこうしたパーティである。これも「おもてなし」のアメリカ版といえようか。

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ウィスコンシンで会った人々 その6 病院や学校や図書館を明るく

最近、「ポルトガル、ポルトの訪ね歩き」という番組で子供病院のことが紹介された。そこに病院の廊下や待合室、病室にタイルを貼ってきたという職工が登場した。タイルを組み合わせて動物園、植物園、公園などが描いてきたのだという。この職工は修理にやってきたようだ。

タイル画についてインタビューに答える患者の付き添いらしき人が、こぞって「病院内が明るく楽しい雰囲気となった」という。大人だけでなく、子供の情動をも高揚させるようでだ。むべなるかなと思うのである。真っ白な壁で囲まれ清潔な内部に接すると、「果たしてこの病院では病気は治るだろうか」と自問する患者が多いのではないか。病気は体や心、感情が一体となっている。不安を持たせてはいけない配慮が大事だと思うのである。

わが国の学校のことだ。冬は寒く夏は暑い。廊下には雑巾がづらりと並び、弁当箱の袋などがぶらさがっている。まるで刑務所かどこかのような雰囲気がある。画一的な造りで、子どもをワクワクさせるような設計とはなっていない。トイレも相変わらず和式で薄暗く匂いが漂う。もう少し明るく楽しさを醸し出すような雰囲気を出せないものか。もっとも大分改善はされ明るくはなってきている。

図書館もそうである。時々親子連れがやってくる。背負った乳飲み子が泣きじゃくり館内に響く。母親はいそいそと閲覧室からでて赤ん坊をなだめている。どうして公共の図書館には授乳室や遊戯室がないのか。親子連れには不親切で配慮が足りない。幼い子供を連れた母親や父親は、図書館で育児をしばらく離れてゆっくり、読書をしたいのではないか。若い親と小さな子供の図書館離れは不幸なことだ。図書館は本を借りる場所だけではない。子供を育てるところなのだ。

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ウィスコンシンで会った人々 その5 母親も父親も教育で忙しい

日本でもアメリカでも子供の教育に熱心である。だがその違いは面白い。日本では、子供達は夕方から夜にかけて塾通いするのが多い。アメリカでは夜は子供を学ばせない。都内では「働くママの教育塾過剰」という現象が生まれている。「幼児教室はアフター6」というのが流行りつつあるようだ。

フルタイムで働く母親は午後5時から6時にかけて仕事を終え、その足で保育所や託児所に子供を迎えに行き教室にくる。子供は8時まで学ぶ。その間、夕食の買い物、準備、洗濯や掃除をするので、この時間は貴重だ。送り迎えや食事の支度に関しては、夫の存在は全く影が薄い。

ウィスコンシン(Wisconsin)のマディソン(Madison)では音楽やスポーツをやらせる家庭が目立つ。小生の長男には16歳と14歳の息子がいる。その長男はヴァイオリン、そして陸上競技をやっている。特に中距離で州の大会にでるくらい頑張っている。ヴァイオリンは、ボストン交響楽団の少年オーケストラクラブで弾いている。次男はもっぱらサッカークラブで活躍している。その間、ピアノの個人レッスンを受けている。

土曜日はボストン(Boston)での少年オーケストラの練習がある。長男が送り迎えしている。大学で教えているので朝食作りは長男の仕事となっている。妻は小学校の教師をしているが、5時には帰宅できる。残業などは全くない。

次に娘達である。次女の長女にはピアノとヴァイオリンを、その妹には体操とサッカーをやらせている。特に次女の体操は週2回、1回2時間という長さだ。学習のことは、長男も次女も気にしていない。もっとも、マディソンには教育塾はない。長女の一人っ子はまだ2歳半なのでもっぱら一緒に遊ぶことに専念している。旦那の出勤は朝6時、そして2時に帰宅する。それを待って長女は経営する洋裁店で7時まで働く。息子の朝食と昼食は長女が、夕食は旦那というように役割が決まっている。

次女の家庭に戻る。朝娘二人に朝食を食べさせ弁当を作り学校に送りだす。次女は6月よりフルタイムでの看護婦業であるが、夕方5時には家に帰り夕食を作る。彼女の旦那は朝6時に自転車かバスで職場へ行き、帰宅は3時である。従って二人の娘の音楽や体操の送り迎えを担当する。

妻と夫はこのように出勤時間をずらすことができるので、どちらかが放課後の活動に子供の送り迎えや買い物や食事の準備ができる。マディソンやその他の都市でも早朝出勤は当たり前なので、夫婦が育児を心配なく一緒にできるのである。

IMG_0843  右から二人目が孫娘のLilianIMG_0852  左側が孫娘のSophia

ウィスコンシンで会った人々 その4 大学選び

5月の卒業式も終わり、アメリカの大学構内はしばし静かな時が漂っている。ツタの枝葉が建物をはい、芝生の木々の緑が眩しい。構内をグループで歩いているのは、周辺からやってきた高校生。院生に引率されて9月からの入学に備えて建物やその歴史の説明を受けている。看護学部をでた娘も6月よりフルタイムの仕事が待っている。

アメリカ留学とか大学選びについてはごまんと紹介本がある。体験談に基づく本の中には、自分の子供がいかに猛勉強したか、優秀な成績で卒業したとか、親として相当投資したといった自画自賛のような内容で溢れ、途中で閉じたくなる。留学とは、学位を取得するのが目的の学びのことである。「語学留学」というのは「語学遊学」のこと。短期間の遊学は語学を磨く上で全く効果がない。

アメリカの大学はピンからキリまである。なにもハーヴァード大学(Harvard)やエール大学(Yale)のようなアイヴィーリーグ(Ivy league)だけが優秀なのではない。こうした大学は研究中心の大学で秀でている。学部から行くのはあまり推薦しない。日本の4年制の大学でみっちり勉強してから出掛ける。

4年制大学の学部選びは、懇切丁寧な指導を受けることができるか、という物差しで考えることだ。多くの大規模な州立大学や私立大学では劣等感や疎外感をもつ。なぜなら留学生は大勢の新入生の一人でしかなく、孤立することなる。相談する人がいないとストレスがたまり、勉強が遅れていく。こうした孤立感を避けるには、小規模の大学を選ぶことである。友達もできやすい。学業の合間に文化系の部活をやることによって、より語学を磨くこともできる。

もしアメリカの大学で学士号を取得したら大学院へ行きたくなる。その理由は、アメリカの大学はそういう磁石のような力を持っているからだ。当然大学院での学びに自信がついたからである。もちろん就職のためにも修士号は有利である。給料が当然違う。日本において修士号や博士号は一般にはあまり尊重されないのとは対照的である。

アメリカの生活には相当の資力が必要だ。大学の寮に入るとしても授業を含めて年間4万ドル、500万円位必要となる。奨学金を得ることは至難の業であるからはじめから諦めることだ。大学院では奨学金の途は拓けてくる。大学院を志望する場合は、日本で相当の預貯金を用意してから出掛けるのが賢明である。アメリカへ行けば何とかなる、などという見通しは全くの幻想である。

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ウィスコンシンで会った人々 その3 「お口に合いましたでしょうか」

そう沢山ではないが、いろいろな航空会社を利用して旅をした。思いもよらないことが機内で起こったことが何度もある。生温い珈琲を飲まされたり、服に水をこぼして無頓着のフライト・アテンダントもいた。忘れられないのはこうしたハプニングの後の対応が冷淡だったことだ。

機内のフライト・アテンダントとかキャビンクルーの業務は繰り返しである。マニュアルがあり、その通りにこなすことが要求されるのだから、さして仕事に工夫は必要ない。あとはアテンダントの性格や仕草が少しは反映される。それにひきかえ作家、音楽家、画家などの芸術家はマニュアルのない職業といえる。己の動機や資質、そして表現力が欠かせない。

教師だが、同じ内容のことを毎日、毎週生徒や学生に向かって伝えている。虎の巻がある。幸いに教え方の工夫は教師の資質が加わる。大学では用意した資料は毎年学生が違うのだから、そのまま使える。教師の端くれとして、こんな楽な職業はないと思ったことが何度もある。しかし、大学が法人化され運営交付金なるものが減ってくるにつれ、それまでのような生温い研究や指導に危機感がでてきた。職階による研究費の自動配分が実質無くなった。そのためそれまで眠っていたような教師が、尻を叩かれて科学研究費補助金を申請し始めた。

フライト・アテンダントのことに戻る。国際線の乗客は様々な人種や年代の人で一杯だ。300人も400人も乗る狭い機内に皆は暫しの忍耐を強いられる。乗客は一回のフライトだが、アテンダントにはフライト後は二日の休暇はあっても、また同じ仕事が待っている。時差ボケと体調管理はさぞ大変だろうと察する。

今回の旅行で始めて経験したことがある。それはアテンダントが食事の後、「食事はお口に合いましたでしょうか」と訊いてきたことだ。このなにげない一言は、大きな驚きであった。食事の内容は、もちろん何千円もするようなものではないが航空会社は、相当自信をもって用意していることがこの一言に込められているような気がする。

かつてフライト・アテンダントはスチュワーデス(stewardess)とかスチュワード(steward)と呼ばれていた。 「The steward of God」というフレーズが新約聖書の「テトスへの手紙」などにある。もともと 「steward」とは仕える者、僕、執事、世話役という意味である。アテンダントの口から出た言葉、それはマニュアルにあるとは思えない。今や消えたような 「steward」を考えながら、アテンダントの一言が「おもてなし」なのか、と感じ入ったのである。

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ウィスコンシンで会った人々 その2 「ヴァンクーヴァー朝日」

長い飛行機の旅の楽しみに機内での映画を観ることである。葡萄酒を飲みながらしばし退屈な時間を楽しむ。今回は4本を見ることができた。その内の一本が「ヴァンクーヴァー朝日(Vancouver Asahi)」という佳作である。

戦前、北アメリカの西海岸沿いに多くの日本人が移住していった。カナダへの移民は、1877年にブリティッシュ・コロンビア州(British Columbia)に渡ったのが最初といわれる。移民の多くは製材業、農業、漁業に従事した。西海岸は豊かな天然資源に恵まれているところである。だが、苦しい移民生活を強いられたことも事実である。それは移民につきものの人種偏見や差別である。そのことを題材とした小説に「ヒマラヤ杉に降る雪(Snow Falling on Cedars)」というのがある。この小説を書いたのはガターソン(David Guterson)。1995年にフォークナー賞(Faulkner Awards)を受賞している。フォークナー賞はアメリカの小説家、William Faulknerを記念して作られた賞だ。ヘミングウェイ(Ernest Hemingway)と並び称される20世紀アメリカ文学の巨匠といわれる。

「ヴァンクーヴァー朝日」だが、このタイトルは日系カナダ移民の二世を中心とした野球チームのことである。このチームは1914年から1941年までヴァンクーヴァーで活動していた。チームの監督は、ハリー・宮崎である。宮崎はブリティッシュ・コロンビア州の各地から選手を集め、小さい体格の選手に堅い守り、バントやエンドランなどの機動力を植え付ける。こうしたプレイは「Brain Ball」、頭脳的野球と呼ばれた。この戦術を駆使して地元のチームを破っていく。

頭脳的野球の他に、監督の宮崎は選手に対して、ラフプレーを禁じ審判への抗議も一切行わないよう指導した。人種偏見の強かったブリティッシュ・コロンビア内で、日系人と白人との軋轢を考えての対応だったと思われる。こうした真摯な野球に対する姿勢が白人の共感をえて、彼らも朝日を応援するようになっていく。そして朝日は1926年にリーグで優勝を果たし、その後1930年と1933年にもリーグ制覇を打ちたてる。

だが第二次世界大戦が始まると、選手も含めて日系カナダ人は、戦時捕虜収容所や強制収容所などに送られ朝日はチームとしての歴史を閉じる。

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ウィスコンシンで会った人々 その1 古いミシンのこと

短い旅をウィスコンシンで楽しんできた。いくつかのエピソードを紹介したい。

長女はマディソン(Madison)のダウンタウンで洋装店を母親から継いで経営している。彼女のパートナーは日系米国人で、葛飾は柴又の出身である。店はウィスコンシン大学と州議事堂との中間にあってState Streetという最も人気のある通りに面している。人通りが多くひっきりなしに客がやってきて、洋服の加工や修理を依頼していく。丁度卒業式のシーズンなので華やかなドレスやガウンの修繕で大童である。

店内には誠に時代物のようなミシンが三台ある。どれもBERNINAというスイス製のものだ。その一台は100年前のものだというが、今も立派に現役である。洋服の修繕だが、客は昔の洋服も大事に使うようで持ち込んでくる。「まさかこんなものが、、」というのもあるという。こうした客は、金持ちや立派な職業についている人だというのだ。古い洋服でも愛着が強いのだろうとこのパートナーは語る。貧乏人は安い者を買い、古くなればすぐ捨ててまた新しい安物を購入するのだと。

洋服の修繕業はアメリカでは廃業することはないだろうという。こうした古いが質の良いものを購入する人が多い限り、洋装店は立派に生業をたてられるという。日本では修繕業はなかなか大変だと云われる所以は、安いものを買い換えることが多いせいだろう。

同じことは家具についてもいえる。最近は安い家具を揃えた店があちこちで増えている。高価な家具はなかなか売れないようである。そんなこともあってか、新聞紙上で大手家具店の経営が話題になった。住宅の造りも変わり、クローゼットつきのマンションやアパートが多くなったので、家具の置き場がない。そのため高価な家具は売れないのだそうだ。結局合板の安く小さな家具を購入する。

衣と住の購入の変化が著しいのは、生活様式の変化と消費社会の流れによるものだろう。だが良いものは結局すたれることはない。

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Big History その11 宇宙の進化と論争

宇宙の進化に関しては、いくつかの理由で論争が生まれてくる。進化ということについては、生得的にそれを誹謗する者が現れる。例えばファンダメンタリスト(fundamentalist)と呼ばれる宗教者である。あらゆる現象は神の摂理にある業と考える人々である。ファンダメンタリストとは、保守的な宗教上の指導者のことを指す。宇宙の進化は宇宙と人類の起源を説明するものであるが、人間の情動性をかき立てることになる。進化の理論は、伝統的な生命に関するテーマに挑むものだからである。進化の理論は変化を要求する。多くの人々はそれを嫌悪したり不信感を抱いたりする。だが進化の概念に関する幅広い解釈は歓迎されてきた。

進化とか分化という自然の現象は、一定のきまりに従って起こる因果関係
(cause and effect)で、この因果は自然の出来事同士の間で成り立つ関係と考えられる。超越的なものとの関係ではないとれる。ニュートン(Isaac Newton)の物理学あたりからようやく因果は科学上の法則として学問的な形をとるようになったと考えられる。自然現象がいかに複雑であっても質点の運動として数学的な法則に従って行われるとされる。それゆえ力学的に記述されるという。

因果であるが、天体においてある出来事Aが起これば、続いて必然的に次の出来事Bが起こる。これは天体運動の軌道計算によって知ることが出来るように、数学的な計算によって正確に予測できるとする。この考え方は「決定論的自然観」(deterministic view of nature)と呼ばれる。しかし、こうした決定論に対して反論したのが18世紀、イギリスの哲学者、ヒューム(David Hume)である。ヒュームは、必然的な因果関係というものは元来ありえない。ただ、同じことが何度も起こったとき、人間はそのような起こり方に必然的な因果関係があると思い込む傾向があると主張する。因果というものは、人間の主観や信念の産物なのだという。こうした考え方は、一般に経験論(empiricism)の底流となっている。

だが、時間と空間という絶対的な記述上の枠組みによって、物理的な現象は必ず「ある時」、「ある場所」で起こることが定説となり経験論は廃れていく。

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Big History その10 宇宙の進化

WikipediaからBig Historyについてのサイトの訳を引き続き紹介している。大邱教育大学校の西洋史の研究者、Dr. Bae教授からBig Historyを紹介されて触発されている。「現代の科学哲学」という本も傍らにおきながら、科学とはそもそもどのような学問なのかを考えている。

宇宙の進化(Cosmic evolution)は宇宙に関する科学的研究の分野のことである。Big Historyはまさにそうである。宇宙生物学といった分野も関連する領域である。ある科学者の中には、宇宙の進化はBig Historyよりも広大なものであると云う者もいる。Big Historyは主として科学的歴史的な旅を究明する分野である。それはBig Bang—>天の川—>太陽—>地球、そして人類の起源という道のりである。

宇宙の進化はあらゆる複雑なシステムを取り扱う。宇宙の生成から人類に至る過程だけではない。このシステムは宇宙史とか宇宙の歴史(Universal history)とかと呼ぶべき分野で天体学者や天体物理学者によって研究されてきている。

Big Bangから人類に至るシナリオは、きわめて精緻に組み立てられており、1990年代からはBig Historyと呼ばれるようになった。宇宙の進化は英知を集めた枠組みを有し、多くの変容を壮大な角度から説明されてきた。そして、宇宙の歴史を通して放射線とか天体現象、生命の集合や合体などが説明されてきた。

人類は、いつどこからきたのかという時間に対する崇高な問い(time honored queries)である。この学際的なテーマは、諸科学を統合する試みでもある。自然の歴史という全体性の中で包括的な科学的な説明として、あらゆる現象の起源や進化を140億年前に遡り説明するのである。言い換えれば宇宙の起源から地球の現在に至るまでの時間を説明するのである。

宇宙の進化という考え方のルーツは、2000年以上もの前に遡る。古代ギリシャの哲学者ヘラクレトス(Heraclitus)が「万物は流転し自然界は絶えず変化している」と考えた。だが、宇宙に関する現代の推理は19世紀後半に始まった。Robert Chambers, Herbert Spencer, Lawrence Hendersonなどがその先駆者である。20世紀の半ばになると宇宙の進化というシナリオが研究上のパラダイムとして普及する。そして星雲、星、天体、生命に関する実証的な研究となっているく。こうして物理学、生命科学など文化的進化をいわば綜合する広がりを持つ学問分野となっていくのである。

Harlow Shapleyは、20世紀中盤にこうした学際領域を”Cosmography”と提唱するのだが、広くゆきわたるきっかけは、NASAが20世紀後半に、限定的ではなったが「宇宙生命学プログラム」の一環として取り組み始めたことである。同じ頃、Carl Sagan, Eric Chaisson, Hubert Reeves, Erich Jantsch, Preston Cloud、その他の学者が宇宙の進化を華々しく提唱していく。それは1980年代頃である。

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Big History その9 「革新的な変容」

WikipediaからBig Historyについてのサイトの訳を紹介している。

これまでの歴史学は、賢くなった人間が先の尖った槍をが作り、それを別な人間が複製するというような継承の過程を説明するのだという。しかしBig Historyは、そうした穂先を持つ槍は偶発的な産物であり、自然の進化の過程でそうした道具によって賢い狩猟者が生まれてきたのだと考える。たとえ人類がそうした発明をしなかったとしても、やがていつか発明するはずだと考える。

Big HistoryはBig Bang以来の138億年の間に繰り返し起こったパタンを発見しようとする研究分野である。こうしたパタンの一例だが、「混沌性が創造性を引き起こした」(Chaos catalyzed creativity.)と考えるのもそうである。隕石によって恐竜が絶滅したというようなパタンを発見することである。

Big Historyでは異なる時間軸を使い、人語、生物、宇宙などの成り立ちにまつわる類似性や相違性を「時間軸上のゲーム」(the play of scales)という手法を使って比較することができるとマクワリ大学のクリスチャン教授はいう。クリスチャン教授はこのような「革新的な変容」(radical shift)によって自然や生態学上の論争から環境や自然の変化について、新しい展望をもたらすと主張する。

「革新的な変容」の考え方は、人類の存在がいかに変化したかを説明しようとする。さらに人間という要因とか自然という要因から、例えば自然の過程は40億年以上も前に起こり、その例として星の爆発などによって鉄分が生成され、それによって人間は硬質な金属を作り、狩猟や戦の道具を作り上げることができた。

「革新的な変容」によれば、次のような問いがうまれる。
「我々はどのようにして今日に至ったのか」
「いかにしたら信じることができるかを決めることができるのか」
「地球はいかにできたのか」
「生命とはなにか」

こうした「革新的な変容」の考え方は、科学上の主要な認識の枠組(パラダイム: paradigm)において壮大な旅へと我々を誘うのだという。「革新的な変容」という仮説は、学生が科学上のリテラシーを分かりやすく理解するのを手助けする。

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Big History その8 「壮大な物語」

Big Historyは従来の歴史観や方法が異なり、様々な分野の研究領域にまたがっていることを特徴としている。Big History派の人々は、これまでの歴史を「微視的歴史」(microhistory)と呼んでいる。中には「浅い歴史」(shallow history)と呼ぶ者もいる。歴史学者の2/3は、過去250年の間の歴史に特化した研究をしているというのである。確かに人間誕生からの歴史は、そんな短期間のものではないのである。

しかし、ある歴史学者は云う。Big Historyの原則は、あまりにも巨大な視点を過剰に捉えすぎていると。さらに”Big Historyは「壮大な物語」(grand narrative)を演じ、いわば大きな剣を振り回しているようなものだ”と批判する。他方、Big History派も従来の歴史はあたかもナッツをひいて上等な粉をつくるかのような作業をしていると主張する。なにはともあれ、Big Historyは長い展望に基づく傾向とか過程に主眼を置き、歴史を形成した人物や出来事を究明するような従来の手法による歴史研究ではない。

シカゴ大学(University of Chicago)のチャクラバティ教授(Professor Dipesh Chakrabarty)が云うには、Big Historyは従来の歴史観に比べて政治色が薄いのが特徴だという。何故ならBig Historyは人々過去へ誘う性格があるという。より、証拠とか確証となるものを重視するからであると。従来の歴史研究者が重視する記録や文献、その他化石とか道具、生活用具、絵画、構造物、生態学的な変容や遺伝的な多様性といったことではない。

Big Historyのテーマであるが、クリスチャン教授によれば、これまで現代に至る期間は140億年のことを理解しようとする。Big Historyはこの140億年という「人類の物語」(human story)を科学の進歩に照らして考え、炭素元素や遺伝子の分析などの方法を用いることである。時に、数学のモデルを使い社会構造の仕組みの相互作用を究明しようとする。コネチカット大学(University of Connecticut)のターチン教授(Professor Peter Turchin)は数学モデルによる学際的研究の手法である「クリオダイナミックス」(cliodynamics) を唱道している。クリオダイナミックスは数学モデルによって帝国の隆盛や社会不満、市民戦争、国の滅亡などを究明する。個人の行動と社会や環境という要素の混合を数学モデルによって説明する。

2008年に発行された”Nature誌”でターチン教授は、「我々が健全な社会現象の発展を学ぼうとするなら、歴史をより分析的かつ予測的な科学から学ばなければならない」といっている。難しい提案だが興味をそそる話題である。

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Big History その7 石器時代とは歴史の序章

さてBig Historyに戻る。Wikipediaからの訳であることをお断りしておく。http://en.wikipedia.org/wiki/Big_History (出典)

Big Historyは20世紀の特定の領域で自己完結的な歴史の分野を超えた研究をしようとする意図から生まれた。歴史を総体として捉え、歴史における学際的で共通なテーマを探求しようとする試みである。これまでの歴史は、文字の発明によって始まり人類の歴史ということに特化し、過去の事象を取り扱うのが主流である。

Big Historyの研究者によれば、従来の歴史はたかだか5000年の過去に遡る研究である。従って人類誕生の頃の事柄は捨象されてきた。Big Historyはそうした様相とは異なり、情報化時代の産物であって、書くこと、語ること、印刷することの時代に続くものである。Big Historyは宇宙の生成、星や星座をはじめ生命の誕生をも研究の対象とする。人類が狩猟をしていた数10万年前に遡る。Big Historyは、文明の進化の営みは原因と結果という過程で進んできたと考える。Big Historyは、洞窟における原始的な生活から、文明化した農業を主体とする生活へと急激に変容する姿として捉えるのではない。

初期の人類が背中が曲がり額が扁平で、体中が毛深かったといわれる。彼らは火を使い肉を焼いて食していた。そのため槍を携えていた。住んでいた洞窟に岩を削り絵を描いていた。我々はこうした古代人の生活のことを小学校の教科書で学んだ。

だが、歴史とは洞窟に住んでいた人類の誕生から始まるものではない。石器時代は歴史そのものではない。石器時代とは歴史の序章にしかすぎない。幸せな文明以前に混沌とした時代が存在していたである。やがて馬車につけられた車輪、爆薬、印刷機、、、そしてGoogleなどへと至る。歴史は農業から始まり国が成立し、記録文献が残される。歴史は紀元前4000年前のメソポタミア(Mesopotamina)の豊かな土壌から生まれた。やがて古代の遺産を残しながら、人間の文化が生物界を支配するようになった。

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Big History その6 仮説演繹方法というもの

科学は、もともと帰納推理によると考えられてきたが、現代の科学はこの帰納を生の形で使っているわけでない。理論の信頼度を高めるために、この推理方法をいろいろな仕方で洗練しているといわれる。それが仮説演繹方法である。この方法によれば、まず観察や実験の結果を集約して一つの仮説をつくる。次にこれとは別に演繹的な体系を用意して、もしこの仮説が正しいとすれば、その結果どのようなことが起こるかを推論し、その結果を一つの予想として引き出すのである。

観察や実験による仮説の検証は、人間の行動や予測に応用されるようになる。 科学の方法として仮説の設定、実験観察が可能な命題の演繹、命題の実験と観察による検証、そして仮説の採択や棄却という帰納的推理が重視される。言い換えれば、観察された個々の事例や現象を総括し、それらの事例の規定が必然的にそこから導き出される一般的な主張である、と判断するのである。こうした手続きは行動科学でも主流となっている。

ポパーには、「歴史主義の貧困(The Poverty of Historicism)」という著書がある。簡単に言えば、「物事は一定の法則にしたがって歴史的に発展していく」とする歴史法則主義あるいは社会進化論を批判する。これは唯物弁証論への批判でもありソビエトの共産主義体制への批判でもあった。そして反証可能性を基軸とする科学的方法を提唱する。反証されえない理論は科学的ではないというのである。

ポパー曰く科学の進歩は、ある理論に対する肯定的な事例が蓄積してこれを反証不可能たらしめていくところで起こるのではなく、否定的な事例が反証した或る理論を別の新しい理論がとって代わるところで起こるというのだ。ものごとを鵜呑みにすのではなく、距離を置いて時に疑問視しながら考える(critical)姿勢が求められる。今の日本のさまざまな状況を考えるときは、こうした態度が求められると思われる。ポパーの「反証されえない理論は科学的ではない」という主張は興味深い。

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Big History その5 歴史の方法とKarl Popper

安倍首相の演説草稿には過去の歴史、それも1940年代から現在までの特に日米関係の推移や展望が語られている。それだけに限定された時間軸によって両国間の歴史にしか触れられていない。そこが「歴史認識」への踏み込みが不足していると指摘される所以であろうと考えられる。だが、歴史認識とは相当手強い概念である。

Big Historyに戻る。歴史は人文科学とか社会科学の分野の研究とされる。1950年代にカール・ポパー(Karl Popper)らが、科学哲学の方法論を展開するにつれて科学そのものの考え方が複雑化する。いわるゆる自然科学や社会科学といった分類が曖昧になっていく。さらに人間科学とか行動科学といったように人間の思考や感情、行動が研究の対象となりその方法も複雑になる。

歴史科学が対象とする歴史は、反復が不可能である一回限りで、個別的なもの、特殊なものと関わるという観点から、個性記述的さが特徴とされる。だが、歴史の記述の中には著者による歴史観や経験にもとづいた「主観性」が入り込むという特徴もあることは既に指摘した。それ故に、歴史上の推理は幅広く許されるものと考えられる。

推理には二つの古典的な方法があることが指摘されてきた。演繹推理と帰納推理である。演繹推理であるが、一般的に成り立つことを前提としてそこから特殊なことがらについてもそれが成り立つことを推論する。「全ての動物は死ぬ」と「人間は動物である」という前提から「人間は死ぬ」とい結論づける推論である。この種の推論を行う限り、絶対に誤りに陥ることはない確実な推論である。こうした推論で作りあげられるのが演繹体系といわれる。数学はそうである。歴史は演繹推理に向かない。

次に帰納推理である。これは特殊から一般を推論する方法である。観察や実験から科学の法則を導き出す方法である。この方法の特徴は演繹推理と異なり、絶対確実な推理ではないという点である。何十回、何百回の観察や実験によって確かめられたといっても、あるとき別な方法によって意外な結果が表れるかもしれないのである。従って、科学の知識とは絶対確実ではない推論を積み重ねて構成されるものだから、確実な知識ではない、「確からしい」知識といわれる。ある事が起こり得る「見込み」である蓋然性ということが歴史とか史実の特徴ではないかと思うのである。

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Big History その4 演説の修辞の素晴らしさと演説の貧弱さ

アメリカ上下両院合同議会における安倍首相の演説草稿を筆者なりに分析している。この草稿がアメリカ人に好意的に受け容れられる内容となっているのが面白い。前稿ではスピーチライターのセンスの良さを四つ取り上げた。その続きである。ただし、首相の英語による演説能力はおぞましいほど下手である。英語教育の貧困さが伝わるのだが、続けよう。

第五はアメリカ史の一端を紹介するくだりである。安倍(Abe)とアブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)の並列である。リンカーンの愛称はエイブ(Abe)であった。彼が南北戦争の激戦地、ゲティスバーグ(Gettysburg Address)で人種平等と民主主義の尊さについて演説したことを引用する。

第六は戦争犠牲者とその家族や友人、退役軍人に対して配慮を示していることである。アメリカ人はことさら兵役に就くことの意義を大事にする。真珠湾(Pearl Harbor)、コレヒドール(Corregidor)、バターン(Bataan)、珊瑚海(Coral Sea)、硫黄島などでの激戦で倒れた夢大かったはずの若者に言及し、それを「深い悔い改め(deep repentance)」という表現で伝える。Repentanceとはもともと罪の悔い改めという聖書的な言葉であり、それを知るアメリカ人の心情に触れる言葉である。

第七は暗喩の使い方が演説の内容にふさわしいことである。戦争記念碑の自由の壁に4,000の金色の星が輝いている。一つひとつの星は大戦で散った100名の兵士を意味しているというのだ。多くの若者の家族の痛みや悲しみを伝えるのに戦死者の数をそのまま言わなくても、十分にその犠牲の大きさと意義が伝わる。

第八はアメリカ人の好きな歌や歌手を引用し時代を回顧するくだりである。キャロル・キング(Carole King)の”You’ve Got A Friend”を引き合いに出し、”When you’re are down and troubled, and you need some loving care, and nothing, nothing is going right,,”と続ける。ベトナムでの泥沼の戦いに疲れていた1971年の頃の歌だ。両国はお互いに大事な友人であると強調する。キングは1960-70年代に広く日本でも知られた歌手である。

第九は長文と短文を効果的に混ぜて文章にメリハリをつけていることである。たとえば、学生時代のカリフォルニアでの生活が自己の形成に役だったというくだりを、「This culture intoxicated me.」と表現。また日米の激戦地を振り返えりながら、”歴史は過酷である”「History is harsh.」と回想する。さらにTTP-環太平洋経済連携協定に触れ、農業や医療、エネルギー問題の解決について、”自分はその先頭にたつ「I am the spearhead.」”と決意を表明する。”Spearhead”とは槍の穂先のことだ。

演説草稿の修辞の素晴らしさ、そして演説の仕方の貧相さ。この対照がたまらなく滑稽な演説である。

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Big History その3 上下両院議会での演説

アメリカ上下両院議会における安倍首相の演説草稿を読んだ。すこぶる感心する内容と文章であった。もちろん専門のスピーチライターが素稿を書いたことがありあり伺える。わかりやすく清々しさを感じた。もし首相自らがこの草稿を書きあげたとすれば、雄弁な宰相の一人として名を残すのが、、そして英文の読み方が中学生みたいで演説が色あせたのが惜しまれる。間の取り方、文章の区切り方が全くなっていない。それはそれで仕方ないとしておこう。

Big Historyが今は話題であるが、この演説には従来の歴史とBig Historyの違いのようなことが表れていて興味深いものがある。何故、この演説草稿が格調高いものであったかにはいくつかの理由がある。その最たるものは、アメリカ人受けする表現が散らばっていることである。

アメリカ人がヤンヤの拍手をおくる第一は、ユーモアとエスプリがきいていることである。演説の冒頭で、議事進行を妨げる長時間演説(filibuster)、フィリバスタという表現を使い、「自分はフィリバスタをするつもりはない」といって場内を笑わせるのである。法案を時間切れにするとき使うのがフィリバスタである。議場内の議員は、まさか長時間の演説にならないだろうと安堵したに違いない。

第二はアメリカ人を心地よくゆさぶる表現を使っていることである。とりわけ議員の琴線に触れる内容が出てくる。それは駐日大使として活躍した元議員の名前を挙げる。マイク・マンスフィールド(Mike Mansfield)、ウォルター・モンデール(Walter Mondale)、トマス・フォーリ(Thomas Foley)、ハワード・ベイカー(Howard Baker)などである。いずれも議会の中枢で活躍した者ばかりである。そして現駐日大使のキャロライン・ケネディ(Caroline Kennedy)の名前を挙げるのも忘れない。

第三はアメリカンヒーロー(American Hero)と呼ばれる者を引用することでアメリカ人の心を揺さぶろうとする。先の大戦の激戦地であった硫黄島で戦ったローレンス・スノーデン(Lawrence Snowden)海兵隊中将を引用する。この中将は議会に招待されて演説をきいていた。彼は日米合同の慰霊式典で平和の尊さを語ったことを安倍首相は引用する。

第四は市井のアメリカ人について引用する。学生時代、首相はカリフォルニア州でいたときある寡婦の家で生活していた。その婦人が亡くした夫のことを「ゲーリー・クーパー(Gary Cooper)よりも男前だった」と語っていたことを紹介する。こうした修辞はアメリカ人に受けるのである。この普通の人とヒーローとの対照は素晴らしい。共鳴し感動する微妙な心情をくすぐるスピーチライターの博識と修辞のセンスを感じる。

View of the Washington DC Capitol building, unique full view of the building and lawn in front of it

View of the Washington DC Capitol building, unique full view of the building and lawn in front of it

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Big History その2 これまでの歴史の認識の方法

このところオーストラリアだけでなくアメリカでもビッグ・ヒストリ(Big History)が注目されている。ビル・ゲイツ(Bill Gates)が高校生用の学習プロジェクトを後押しし、広くインターネット上で歴史を学ぶ機会を提供している。それはそれでよいのだが、、、https://www.bighistoryproject.com/home
TED(Technology Entertainment Design)という様々な分野の人物が講演するサイトでも取り上げられていっそう世間の耳目を集めている。こちらは分かりやすい。
http://www.ted.com/talks/david_christian_big_history?language=ja

Big Historyとはなにか、であるが定義は筆者の能力を越える。だがどうも従来の歴史の考え方やアプローチとは違った角度からとらえる必要がありそうである。Big Historyでは、ビッグバン以来、今日に至る長いスパンの人類の歴史を研究する分野である。科学から人類に至る多くの学際分野を総合し、人類の存在を究明する学問といわれる。宇宙、地球、生命、そして人間を原因と結果に焦点をあてて経験的な証拠に基づいて究明するのである。

Big Historyは高校で教えられ始めている。それも主としてインターネットのWeb上で双方的に学習できる分野となっている。Big Historyを提唱したのは、オーストラリアのマクワリ大学(Macquarie University) のデビッド・クリスチャン教授(David Christian)である。彼が提唱するのは、様々な分野の学者がこれまでにない共同作業によって歴史を作り上げるというものだ。

従来の歴史の手法は、農業や文明の発祥に遡る。記録に残されたものを調べ上げる。そこから共通するテーマやパタンを取り出そうとして人類の歴史は解明される。そこにはかつての王国とか文明が登場する。他方、Big Historyは様々な時間軸を駆使してビッグバン(Big Bang)から現在に至る歴史を解明しようとする。ビッグバンとは、「宇宙には始まりがあって、爆発のように膨張して現在のようになった」とする仮説である。Big Historyの研究手法を理解するには、これまでの歴史の見方を変える必要がありそうだ。

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Big History その1 王仁博士と歴史

筆者は、「歴史研究では、対象とすることは反復が不可能である」という前提に興味を抱いている。反復可能な一般的法則を追求する自然科学とは対極をなしている。しかし、新しい研究では歴史はより複雑で宇宙や生命にいたるものであることが提唱されている。これではなおさら歴史とは、を考えなければならなくなる。

1962年にエドワード・カー(Edward H. Carr)が書いた「歴史とは何か(What is History?)」が注目された。歴史の記述の中には著者による歴史観や経験にもとづいた「主観性」が入り込んでおり、むしろ時代背景などを理解することの重要性を指摘している。また、歴史小説家の陳舜臣は、「歴史は勝者によって書かれることが多く、勝者に有利な記述が行われる傾向にある。敗者の歴史記述や秘匿された文書の方が比較的信頼に足る」と言及している。なかなか興味深い指摘である。

最近、韓国は大邱市から友人が八王子にやってきた。彼は長年大邱教育大学校で歴史を研究して定年退職された。埼玉県日高市にある高麗神社や聖天院などにお連れした。聖天院は高句麗から渡来した高麗王若光の菩提寺である。在日韓民族無縁仏の慰霊塔がある。慰霊塔が建つ広場の周囲には、広開土王、太宗武烈王、王仁博士、申師任堂などの石像が配してある。いずれも韓国人の自尊心を高揚した偉人たちである。

それについてだが、ソウル市内にパゴダ公園を思い起こす。3.1.独立運動の発祥地である。そこに八角亭が建っている。聖天院の慰霊塔のそばには、韓国の建材を使用し同胞によって施工された八角亭が建てられている。友人は、日本の、それも埼玉の田舎にこのような建造物と施設があることにたいそう驚くとともに、日本人の懐の深さを感じると述懐していた。

韓民族無縁仏の慰霊塔の側には王仁博士の石像がたっている。百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたとされるのが王仁である。王仁の姓である「王」は、姓からみて高句麗に滅ぼされた楽浪郡の漢人の王氏系の学者ではないか、韓国では民族史観によって「王仁は日本に進んだ文化を伝えた」といわれていると友人が説明してくれた。漢字と論語を伝えた王仁のことは、もっとわが国で知られてもよいのではないか。

この友人はアメリカ史を研究する歴史学者である。高麗神社や聖天院を案内しているときに、「Big History」–巨大歴史という概念を語ってくれた。そのことを紹介するのがこれからのブログである。
IMG_0417 聖天院
IMG_0413  高麗神社

どうも気になる その23 教員免許が国家資格になるのか

政権与党というのは、ときに面妖なことを考えるものだ。そこには驕りに似た姿勢が伺える。文教政策にもそのことがあらわれている。「教員制度改革」を検討しているのが教育再生実行本部。ここでは今、学校の教員免許の「国家資格化」を提言する方針を固めたようである。

その提言とは、大学における教員養成課程を履修した後に国家試験を科し、一定の研修期間を経て免許を取得する内容といわれる。なんとなく医師免許の取得過程を思わせる。一体その意図はなにかというと、教員の資質向上を図るのが狙いのようである。教員の資質や力量が不十分だということらしい。大学の教員養成課程は、設置基準を満たすかどうかが国によって審査されて認定される。さらに修了生に国家資格を与えるという仕組みはどう見ても屋上屋を架すようなものだ。

復習だが、現行制度では教員免許は大学で教員養成課程を修了すれば卒業時に大学が所在する都道府県教育委員会から教員免許が与えられる。そして都道府県や政令都市の教育委員会が実施する採用試験に合格すればその自治体の学校で勤務する。採用試験は教職教養や論文試験のほか、面接、集団討論そして模模擬授業が科せられる。教員採用試験に合格し、採用候補者名簿に登載された者から正規職員になる教諭と年度ごとに雇用契約を結ぶ常勤講師から構成される。このように教師になるには結構、茨の道なのである。

教員の資質や力量に問題があるのかということだが、少子化に伴う学校の統廃合も進んでいるなかで、正規教諭の採用数を抑え、その分を常勤や非常勤講師を恒常的に任用することで人員を補う傾向にある。資質の課題はこうした講師が増加することや専門分野を深める修士課程を経ない教員が多いのが問題なのである。

さらに教員採用試験の問題は文科省と都道府県教委などが共同で作る共通化を教育再生実行会議が提言する方針だともいわれる。教員免許を国家資格にするという意図は不可解なことといわなければならない。

提言で注目すべきことは、スクールソーシャルワーカーとスクールカウンセラーを「基幹職員」として学校に常駐させること方針であることだ。多様な授業方法の習得やいじめ、不登校などの課題への対応が求められる中、教員の資質向上と学校のサポート体制を構築するのが狙いである。

教員免許を国家資格とするよりも、ソーシャルワーカとスクールカウンセラを正規職員として常駐させるほうが学校の文化が向上することは間違いない。教員だけの単一集団では発展が期待できない。専門性に溢れる多様な教職員集団ができることは望ましい。中央教育審議会はこうした制度の導入でどのような判断を下すかが注目される。

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どうも気になる その22 旧ユダヤ人街が世界記憶遺産へ

4月19日日曜日の朝刊に「旧ユダヤ人街 上海の歴史紡ぐ」という記事があった。筆者はユダヤ人の歴史や日本との関わりについて関心がある。ユダヤ系の人との個人的なつながりがりによる。

第二次大戦中、上海でユダヤ人が暮らした記録を世界記憶遺産に登録しようとする動きが出ているというのである。迫害で国を追われたユダヤ人にとって上海は一時、数少ない安住の地となり、その後は狭い区域で隔離生活を強いられたといわれる。かつての居住者らへのインタビューや資料収集が進められており、関係者は「遺産登録を実現し、上海の知られざる歴史を世界に伝えたい」と意気込んでいるそうである。是非実現してもらいたいものだ。

旧日本軍が占領した上海は当時国際都市で、パスポートやビザがなくても上陸できる世界唯一の場所だったという。上海の北東部に旧日本人街があった。そこに上海ユダヤ人難民記念館がある。このあたりは上海随一の観光エリア、バンド(The Bund)に近く、煉瓦造りの建物が今も残っているようである。第二次大戦中、ナチスの迫害を逃れて大勢のユダヤ人が上海にたどり着いた。その数、18,000人ともいわれる。リトアニア領事代理であった杉原千畝氏が発行した通過ビザを所持していたユダヤ人もいたようである。

上海には米英の租界地ができていた。日本人租界地もそうである。そこにヘブライ語の新聞が発行され、シナゴーグや学校、いろいろな店が建ち並んだ。旧日本軍が上海を占領した1937年以降、こうした姿が上海にできた。だが、1942年、第二次大戦が始まりナチスのユダヤ人迫害が上海にも迫る。日本は日独伊防共協定を結ぶことによりユダヤ人の自由な活動を制限せざるをえなくなる。

日本本土にもドイツ、ポーランド、チェコスロヴァキア、オーストリア、リトアニアでの迫害から逃れてきたユダヤ人がいた。だが、“無国籍難民の定住と商売の制限に関する声明”によって日本占領下の上海に移住させられる。そこで日本政府は無国籍難民隔離区という上海ゲットー(Shanghai Ghetto)をつくる。そこに全てのユダヤ人が集められた。外出には許可が必要となる。このゲットーには、貧しい100,000人の中国人も定住していたという。

1941年頃までの上海のユダヤ人社会だが、アジア・アフリカ系のユダヤ人であるスファラディム(Sephardim)社会と東欧系ユダヤ人であるアシュケナジム(Ashkenazim)社会があった。この二つのユダヤ社会の二大勢力のことは既述した。スファラディム系のユダヤ人の中にイギリス国籍を取得していた富豪がいた。銀行家・商人であったサッスーン家(Sassoon Family)だった。サッスーン家の家長ビクター・サッスーン (Victor Sassoon)は、上海を中心とした大富豪であった。

もともと東インド会社(East India Company)からアヘンの専売権を持ったサッスーン商会は、中国でアヘンを売り払い、とてつもない利益を上げたといわれる。イギリス政府に代わって徴税や通貨発行を行うなど植民地経営にもあたったというからその威光は絶大であったようである。ロシア革命やポグロムが発生するたびに、ユダヤ人が満州へ流出し、そこから上海へ向かった。ロシア系ユダヤ難民は上海に根をおろし、多くは交易で栄えた。だが第二次大戦により上海のユダヤ人もまた流浪の民、ディアスポラ(diaspora)となる。上海ゲットーは1945年9月に解放され、ほとんどのユダヤ人は上海から去ったといわれる。

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どうも気になる その21 「プラウダ」と「イズベスチヤ」

「国の見解に反するような放送をする自由はない」という質問が国会で取り上げられた。「公共電波を使って国内外に反日自虐番組をし続けたのだ誰か」という国会での発言もある。NHK会長のハイヤー代の支払いを巡り、情報がリークされるようなガバナンスとかコンプライアンスも取り上げられた。「政府が右ということに対して左とはいえない」というこの会長の発言も大いに注目された。

「行き過ぎた表現の自由を問題視し、表現の自由を濫用して虚偽、歪曲、捏造、印象操作など偏向した恣意的な放送をしている」といったことも国会で取り上げられている。「国家のプロパガンダを流す国営放送であることを求める」とは、恐ろしい発言だといわざるをえない。

今、放送法第一条二項にある「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送の自由を確保する」が揺らいでいる。広辞苑には、「不偏不党」とは「いずれの主義や党派にくみしないこと、公正で中立の立場をとること」とある。一体、報道や放送における言論の自由とはなにか、である。それについて小さな思い出がある。

バルセロナ(Barcelona)の中心街からカタルーニャ鉄道(Catalunya)に乗り、モンセラット山(Montserrat)の中腹に向かったときだ。そこの標高720mに壮大な修道院がある。この修道院へ向かう電車内で隣り合わせた夫婦である。身なりは質素である。旦那はむっつりし、終始眠ったふりをして視線が合わなかった。婦人に話しかけるとサンクトペテルブルク(Saint Petersburg)から休暇で来たという。もちろん筆者は一度も訪ねたことのない街だが、ドキュメンタリーなどでこの街の歴史は少しは知っていた。かつてのレニングラード(Leningrad)で、大戦中ナチスドイツにより900日にわたる包囲を受けたところである。

この婦人は経済関連の記者や編集をしているという。「プラウダ紙(Pravda)か?」と尋ねると、プラウダは形や内容を変えてしまったと説明してくれた。そして「プラウダ」とは「真実」という意味であることも教えてくれた。ちなみにイズベスチヤ(Izvestia)という機関誌もあった。こちらはソ連政府の政府見解が発表される公式紙だった。イズベスチヤとは「ニュース」という意味である。

ご婦人は会話で次のような小咄を紹介してくれた。プラウダ紙は無味乾燥な公式発表と標語ばかりで、読みにくい新聞であった。共産党にとって都合の悪い事は極力書かれず、時には事実が歪曲されて、捏造も行われた。多くの国民もそのようなことはわかっていたので、行間を読みながら真実を探ろうとしたそうである。市民の間で次のようなやりとりがあったとか。

「プラウダとイズベスチヤの違いは何か?」
「プラウダにイズベスチヤ(ニュース)はなく、イズベスチヤにプラウダ(真実)はない」

この婦人が紹介してくれた車内での小咄から今のわが国の公共放送のあり方を考えさせてくれるヒントがある。

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どうも気になる その13 「学習環境貧困家庭」とスマートフォン

困窮家庭と教育とスマートフォンの話題である。私事だが昭和36年大学受験を北海道旭川市で迎えた。三人兄弟の真ん中の筆者だが、家が貧乏だったので大学は道内、しかも公立校しかなかった。北大の授業料は年間7,000円、毎月の仕送りは5,000円で祖母の所に下宿した。兄は東京の私立大学に行っていた。国鉄勤めの父は鉄道弘済会から借金していた。

当時は空前の予備校ブーム。どこの予備校も繁昌していた。筆者は浪人もできなかった。幸い予備校で学ばないですんだが。日本育英会から無利息の奨学金を借り、バイトは家庭教師、ビルの床清掃やガラスふきをやった。

世の中には、経済的に困窮する貧困家庭の若者が大勢いる。彼らに学習の機会を備えるには、高校までを義務教育とすることだ。そうすれば大学教育を受ける機会が増える。さらに奨学金制度を充実し低所得者の子弟に安心して学校へ行けるようにすることも大事である。

さて、貧困家庭とスマートフォンの利用である。一日平均男子高生は4.1時間、女子高生は7.0時間と長時間化する傾向にあるとか。若年の不眠症の原因の一つが長時間、画面を見ることだそうだ。光により脳が活性化し、眠りを妨げるといわれる。親の通信料金負担もあるはずだ。スマートフォンをやる中高校生とそれを黙認する親の家庭は「学習環境貧困家庭」として、経済的に困窮する家庭と区別すべきである。

次のような記事を読んだ。「スマートフォンやPCを利用している時は表情筋がほとんど動かず、またばきの回数も半分以下になる。スマートフォンを使いすぎると老け顔のブサイクになる。無意識に眉間に皺がよったり、表情を変えることが少なくなるので筋力も衰える。」電車やバスの中でスマートフォンを「いじる」のを観察しているとすると、前屈みの姿勢になっていることがわかる。自転車に乗っていても乳母車を押していても下向きで器用に操作している。本人達も乳飲み子も歩行者も危ない。貧困家庭には、学習環境貧困家庭の他にこうした「育児環境貧困家庭」も増えているような気がする。

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どうも気になる その12 フリーカメラマンと旅券

フリーカメラマンと自称する人が、外国人記者クラブでの記者会見をしたとか。席上、「旅券返納で仕事を失い、人生そのものが否定された」、「これがあしき前例になり、報道や取材の自由が奪われることを危惧している」と訴えたそうである。

報道陣は殺到していたのに日本のメディアでほとんど扱われなかった点が気になる。なんらかの報道規制などの圧力が官邸などから入ったいるのだろうか。圧力をもろともせず、自由に報道しているのは外国人記者クラブくらいなのかもしれない。

われわれ多くの者は政府から旅券を与えられていると思っている。だが外国人には、渡航や移動の自由や権利を保証するのが旅券だという考えがあるそうだ。その権利を国家が奪うなんてあり得ないと指摘している。英国の記者も政府に迷惑をかけてはいけないという日本人の自制心に首をかしげているようである。

どの戦場にも従軍記者というのが同行した。ベトナム戦争もそうだ。そしてロバート・キャパ(Robert Capa)や沢田教一が命を落とした。かれらは、危険を承知で取材にでかけたのである。外務省が、危険だから取材に入らないようにという勧告をしたとすれば、一体誰が報道するのかという疑問は残る。

今回のフリーカメラマンのシリア行きがどうしてわかったのか。旅券申請のとき、誰が「シリアへ行く」なんて書くだろうか。真面目にそう書いたのだとしたらずいぶんと間抜けな話である。本当にシリアへ行くつもりなら、渡航先を「フランス」とでも書いておけばいいことだ。報道の自由なんぞをわざわざ振り回す必要もない。どうもこのフリーカメラマンの出自が気になるのだが。

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どうも気になる その11 議員資格のこと

議員の資格と公職選挙法にはなにかしっくりしないものがある。最近、また国会議員の私的な行動が話題となり、それが週刊誌やネット上で炎上して所属する政党から除名処分を受けた。比例代表制によって当選した本人は議員を続けるようだ。

比例代表制度は、特定の政党を支持する割合を国会議員の選出に反映させようとする合理的な仕組みである。これまでの中選挙区制度は大政党には有利に働いてきた。少数政党への支持は議員の選出に反映されてこなかった。それを改めたのが小選挙区制であり比例代表制である。

比例代表制はいうまでもないが、候補者名ではなく政党名を選ぶ。各政党は事前に候補者名簿をつくり、所定の得票率にそって上位に記載された者から当選させる。復活当選するのだから、有権者には、「この人は一体誰?、」ということになる。選挙公約も聞いたことがないはずである。

そもそも国会議員は一部の人の利益を代表するのではない。「全国民を代表する」ことが建前となっている。従って当選した者は支持者、支持団体、政党に関係なく国民全体の利益を考えて活動する、というのだ。選良としての誇りや責任の自覚が要求されるのだが、このようなフレーズは死語に近くなっている。

党利党略がまかりとおり、私利私欲に走って大臣を辞任したり、議員辞職を勧告されたりする。このような者は次回の選挙では落選するはずなのだが、不思議なことに往々にして再選される。有権者の責任は大きいといわなければならない。

比例復活議員は、党が作成した名簿に掲載されていたからこそ議員になれたのである。こうした議員が、除名された場合は議員資格を失うという法改正が必要ではないか。それにしても、前経産相や前農相のような政治資金の還流、公金の隠匿など政治資金規正法違反で告発されかねない事例が多すぎやしないか。

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