ヨーロッパの小国の旅 その十二 第二次大戦とラトビア

1939年に第二次世界大戦が始まると、ドイツとソ連との不可侵条約によりラトビアをはじめとするバルト三国はソ連に併合され、共産党の厳しい統治下に入ります。ラトビアはソ連との間で相互援助協定を結び、ソ連軍の駐留を認め空軍と海軍基地を提供します。1940年6月にソ連はラトビアに侵攻し、ラトビアはソ連の衛星国となります。ラトビア人もバルト系ドイツ人も厳しい迫害を受けました。35,000人以上の知識人らは追放され、北方ロシアやシベリアの強制収容所に送られたと記されています。この時代は「恐怖の年代」(Year of Terror)と呼ばれます。ドイツは不可侵条約を破りソ連に宣戦します。ラトビア人にとっては、東進してきたナチス・ドイツは自らを解放する同盟者に映ったようです。

しかしながら、ナチス・ドイツに協力しソ連に対抗しようとしたラトビアでは、多くのユダヤ人がラトビア人の監視のもとで強制収容所に送られ虐殺されます。中世にポーランドを通してラトビアに移住してきた多くのユダヤ人達です。さらにラトビア在住のユダヤ系の人々のみならず、ドイツやドイツの占領地から大量のユダヤ人が移送されてきます。1941年から1944年までのナチスドイツの侵攻によって、ラトビア人男性は徴兵されドイツ軍に編入されます。同時に国内でナチスドイツ抵抗運動が起こりますが、75,000人にのぼるラトビア人やユダヤ人が殺害されます。1944年ソ連の侵攻で2/3のラトビアが占領されます。100,000人以上のラトビア人がドイツやスウェーデンに逃れます。

戦後、連合国の協定によってラトビアなどバルト三国はソ連に併合され、スターリンの圧政を受けるのです。バルト三国は1991年にソ連が崩壊するまでソ連の共和国となります。ソ連からラトビアに大量のロシア人が移住してきます。戦争を挟む40年間に人口の3/4を占めていたラトビア人は1/2まで減ることになります。当然、国民はロシア語を使うことになります。

1980年代になり、ソ連における政治体制のペレストロイカ(perestroika) とかグラスノスチ(glasnost)といったスローガンによる改革運動の進行や1991年の共産党保守派によるクーデター(Coup detat)の失敗により、その年の8月に議会が独立を宣言し、ソ連からの完全な独立を回復するのです。

戦後、リガの旧市街は昔の趣を再現し、中世の街並みの残る地域として世界遺産(World Heritage)となり、観光都市として繁栄しています。バルト三国の発展は、戦後70年以上を経過した西ヨーロッパの未来と深く関わっているのです。バルト三国は北大西洋条約機構 (NATO)、 欧州連合(EU)に加盟しロシアからの脅威に備えています。

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ヨーロッパの小国の旅 その十一 ラトビアとは

ラトビア(Republic of Latvia)は私は訪問したことがありません。世界史が好きな私には、なぜかバルト三国は興味がひかれます。それは大国に翻弄された小国、とりわけ北東ヨーロッパの国々が大戦をくぐり抜けて独立を果たしたことへの畏敬のようなものを感じるからです。

バルト三国のラトビアについてです。首都はリガ(Riga)。リガは新市街と旧市街が歴史地区とされ、ユネスコ世界遺産に認定されています。石畳の道を踏み入れるとそこは中世の世界というわけです。ラトビアはエストニアとリトアニアの間にあり、これらの国と同じような独立、戦争、占領、独立という苦難の歴史があります。以下、Britannica百科事典にそってラトビアの歴史を翻訳してみます。

長年、ハンザ同盟(Hanseatic League)、ドイツ騎士団(Teutonic Order)、そしてラトビア内にあった自治を叫ぶ人々との争いが続きます。ドイツ騎士団はそれでもラトビア領土内の自由貿易を認めていました。ですがラトビアは以前としてドイツ人の支配にありました。

1500年代、ラトビアの地はスウェーデンやポーランドなどの支配で分割されます。 1710年にロシアのピヨートル皇帝一世(Peter Great)はバルト海に進出し、スウェーデンからやがてラトビアの首都となるリガを占領します。その後長くラトビアはロシアの支配下におかれます。

19世紀になるとラトビアの中に自治と独立の機運が起こります。それは 1905年の第一次ロシア革命と1907年の第二次革命です。独立運動は、ドイツやロシアから受けていた政治や経済の支配から脱却しようというものです。1907年にラトビア国民集会(Latvian National Political Conference of Riga)がリガで開かれるのです。しかし、ドイツがリガを占領し自治を禁止します。ドイツの占領下で1918年11月にラトビア内で農民、ブルジョア、社会主義者らが自由を宣言します。そこにイギリスがドイツを排除しようとして介入します。

1919年にドイツはラトビアとリトアニアから撤退しますが、ソビエト共産党による赤軍が後に控えたままです。1920年にソ連とラトビアは平和協定を締結し、ソ連はラトビアの権利を認め、1922年にラトビア憲法による大統領制と議会制が謳われます。そうした制度にも関わらず、民主的な国家運営はなされませんでした。ラトビアでは改革が遅れるとともに、大統領に強大な権限を与えて国家を運営しようとします。

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ヨーロッパの小国の旅 その十 リトアニアと杉原千畝

杉原千畝氏は、早稲田大学時代から特に英語に堪能だったといわれます。外務省の官費留学生として1919年にハルピンの日本総領事館に赴任しロシア語を勉強し、1932年には満洲国外交部では書記官としてソ連との北満洲鉄道の譲渡交渉にあたったようです。

1939年に、杉原千畝氏はリトアニアのカウナス(Kaunas)に開設された日本領事館の職員として赴任します。この年にナチスドイツがポーランド西部に侵攻し第2次世界大戦が始まります。翌年には日独伊三国同盟が締結され、日本はドイツとの強固な同盟国となります。

“強固な同盟”を優先した日本政府はナチスのユダヤ人迫害をどう捉えていたかです。すでにナチス・ドイツのユダヤ政策によって、大量の避難民が発生していました。日本への入国・通過を求めてビザの発給を求めて多くのユダヤ人がカウナスの領事館へやってきます。その事態に対して日本の外務省は訓令を出しユダヤ人の日本の入国や通過を非とします。政府は、ナチス・ドイツの方針におもねていたからです。

ビザを求めるユダヤ人と外務省の訓令の間にはさまれた杉原氏は指示に背いてビザを発給したのです。その数は1,300通といわれます。一家族一枚でしたから、約6,000名以上のユダヤ人がリトアニアから脱出することができたと資料にあります。この時、杉原氏が発行したビザは、ユダヤ人から「命のビザ」と呼ばれるようになります。

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ヨーロッパの小国の旅 その九 リトアニアと「シンドラーのリスト」

私はリトアニア(Lithuania)を訪ねたことはありません。リトアニアと日本との関係で忘れられないのは、後に「東洋のシンドラー」とも呼ばれる外交官の杉原千畝氏です 。彼は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアの首都カウナス(Kaunas)で、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、第三国への亡命を手助けしたことで知られています。そのことを証拠づけるさまざまな外交資料が残されています。

シンドラーのリスト」(Schindler’s List)という映画をご覧になったでしょうか。スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)監督による1993年のアメリカ映画です。主人公オスカー・シンドラー(Oskar Schindler)というドイツ人実業家は第二次世界大戦中、ドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、戦争のために必要な物資を製造する軍需工場で働いていた1,200人を虐殺から救った人物です。その時、彼がユダヤ人労働者の雇用を申請するために作成したリストは「シンドラーのリスト」と呼ばれました。

後に、日本経由でアメリカなどに渡ったユダヤ人やイスラエル政府は杉原千畝氏の功績や勇気を讃え、「諸国民の中の正義の人」と呼ぶようになります。誰が「東洋のシンドラー」と呼んだかは定かではありません。後に杉原氏は「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」と述懐したようです。

杉原氏のビザの発行や外務省による名誉回復に対する批判的な資料もあります。例えば「ロシア語に堪能だった杉原はソ連のスパイではなかったか」、「杉原のビザの給付は乱発ではなく外務省の許可を得ていた」といったことです。しかし、このような批判は杉原氏の名声を失墜させるどころか、彼の人道的な行為をさらに輝かせるものとなります。

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ヨーロッパの小国の旅 その八 エストニアの隣国リトアニア

バルト三国の二番目の国はリトアニア(Lithuania)です。後に紹介するラトビア(Latvia)、ポーランド(Poland)、ベラルーシ(Belarus)と隣あわせです。人口は約280万人で、エストニアと同様に強国の争いに翻弄された苦難の歴史があります。

近代のリトアニアの歴史です。1917年にロシア帝国で起きた2度のロシア革命(Russian Revolution)後、1918年から1920年にかけてリトアニア国内では自由と独立を求める運動が起こります。1920年には、国籍や宗教の違いを超えた最初の総選挙が行われます。1922年には最初の憲法が採択され、大規模な農地改革や教育改革が行われます。1923年にはそれまで占領されていた港湾都市のクラペダ(Klaipeda) を取り戻し、海上交通が容易になります。1920年代から1940年にかけて近代的な制度が敷かれ、カナウス(Kaunas)が首都となります。

1944年から1953年にかけては、ソビエト連邦の支配下におかれ、その間粘り強い抵抗運動が侵略者に対して続けられます。一時ナチスドイツの占領下に置かれた時期もあります。こうした苦難に直面しながらも民主的な国家樹立の精神を保持し続けます。

1988年にはサユディス(Sąjudis) と呼ばれる大集会が開かれソ連からの独立を叫びます。そしてようやく1991年の1月、独立回復宣言を発布します。最初に独立を承認したのはアイスランドでその後続々と各国が承認します。1993年にはソビエト軍を引き継いだロシア軍が撤退し、2004年3月に北大西洋条約機構(NATO)に加盟します。さらに欧州連合(EU)への加盟を果たします。

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ヨーロッパの小国の旅 その七 エストニアと電子立国

サイバー先進国として、エストニアはもはやヨーロッパの「小さな国」ではないことを説明してみます。エストニアが電子政府を構成している要素の一つに、2002年から始まった国民に対して「eIDカード」を発行する国民ID制度というのがあります。制度が開始して以来、エストニア人の98%がこのeIDカードを所有しているといわれます。

eIDカードの活用例としては、EU内の行き来のときのパスポートとなります。次ぎに国民健康保険証としても使えます。医療記録を確認したり、税務の申告で使えます。もちろん投票のときも使います。銀行口座にログインする際の身分証明書ともなるのですから、銀行毎のカードは不用となります。オンライン上で行政手続ができるメリットといえば、役所で並ぶ時間や待ち時間がなく誰にも大きな時間短縮が図られています。役所は人手を別のサービスに振り向けることができます。

エストニアは他国からの侵略と混乱の歴史から、たとえ領土を失ってもデータさえあれば国は早期に復興できるという備えの考えがあります。それを実現しているのが「データ大使館」と呼ばれるものです。エストニアは2007年4月に基幹となるサーバーが攻撃され、混乱したことがあります。有力な説ではロシアが仕掛けたサイバー攻撃といわれます。そこでエストニア国民の個人情報や政府の機密情報等のデータを、信頼できる同盟国のサーバへ分散して保存しておくことにしたのです。データ大使館を置いた国は、同じくヨーロッパの小国ルクセンブルク(Luxemburg)です。

この二つの国に共通するのはIT活用に積極的であることです。ルクセンブルクはスタートアップするIT企業を多く抱え、外国企業の受け入れにも積極的です。政府機関や国民のあらゆる情報を保存するサーバーはサイバー攻撃の対象となります。そうした苦い経験により、情報の分散化をはり、それをITの先進国であるルクセンブルクに求めたとされます。データ大使館には国を継続するために必要なデータを保管するという小さな国の大きな戦略が込められています。

ところで我が国の「マイナンバーカード」はなんの役に立っていますか。個人番号を証明する書類や本人確認の際の公的な身分証明書だけです。普及率はたったの14%。あってもなくても不自由しないので普及しないのです。典型的な行き当たりばったりの施策です。

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ヨーロッパの小国の旅 その六 エストニアの魅力

バルト三国のうちの一つエストニア。首都タリンは、中世の面影を現在まで残すヨーロッパ内でも珍しい街です。領土は九州位の大きさでありながら、意外な特徴があることを紹介しましょう。

まずはオンラインサービスが行き届いたサイバー先進国であることです。Skypeの発祥地であるエストニアはITの利用が極めて盛んです。電子政府先進国といわれ、行政サービスの99%をオンラインで手続きでき、国民がネットで納税しています。多くの人々がオンラインで投票するのです。サイバー先進国の話題は次回で紹介します。

次ぎに、エストニア人の多くが英語を話すことです。母国語を英語としない国のランキングでなんと第4位です。第1位はスェーデン、次ぎにノールウェイ、オランダと続きます。国民の英語のレベルが高いのはこの国の強みの一つといえます。このようには人々は当たり前の様にバイリンガルです。3ヵ国語も4ヵ国語も喋れる人が珍しくありません。スェーデン語、ロシア語を操るのです。

さらにEUの中では物価が安いといわれます。それは人件費が安いことも関連しています。治安が良く、行政や警察とか軍隊に多額の予算をかけていないこともあります。オンラインサービスのお陰で人手が少なくて済むのです。街並みが綺麗で治安が良いのですから観光客も多くなります。国民の物静かな人柄や親しみやすい性格も特徴といわれます。EU加盟国なので通貨はユーロです。他のEU加盟国との行き来が自由です。日本国内のように容易に隣国まで行けるので行動範囲が広がります。観光客からエストニアが人気がある理由です。

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ヨーロッパの小国の旅 その五 タリンの街ーヴィル門

エストニアの首都タリンの旧市街への入り口となっているのがヴィル門(Viru Gate)です。2つの石の塔からなるヴィル門は14世紀に建てられたとあります。昔タリンを外部からの攻撃に備えて建てられたものです。門を入ると石畳が敷かれた中世の街並みとなり、今は民芸店やレストランが立ち並びます。

さらにタリンの街を歩くと赤いとんがり帽子のような塔が見えてきます。中世はこんな時代なのかという感覚に襲われるくらいです。旧市街は13世紀後半から城壁が作られ、現在でもそれに囲まれています。幾たびの戦禍を免れてきたのはこの城壁のおかげといわれます。その城壁には20ほどの見張りとなった塔が建っていますが、特に旧市街西側は保存状態が良いので「塔の広場」と呼ばれています。

「ラエコヤ広場」(Raekoja Plats)は、旧市庁舎の前の広場で、旧市街の中心スポットとなっています。今は、周りにレストランやカフェが立ち並び、市民の憩いの場となっています。フェスティバルやクリスマス時にはマーケットが開かれます。中世当時、広場は祝いの場だけではなく、市民集会が開かれ、裁判も行われ処刑の場となり、贖罪の礼拝が執り行われた歴史があります。聖と俗が一体となった空間が広場というわけです。

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ヨーロッパの小国の旅 その四 タリンの街ーアレクサンドル・ネフスキー大聖堂

私が娘と首都タリン(Tallinn)を訪ねたのは1997年です。ヘルシンキからフェリーでタリンに着きました。旧市街は中世期のたたずまいです。塀や建物の壁には銃弾の跡が残っています。これは第二次大戦の銃撃戦の跡です。独立して6年後のことですから、街全体は復興中でした。看板には盛んに外国からの投資に期待するスローガンが見られました。

タリンで見だつものをいくつか紹介しましょう。小高い丘の上に建つドームの建物は、東方正教会「アレクサンドル・ネフスキー大聖堂」(Alexander Nevsky Cathedral)です。アレクサンドル・ネフスキー(Alexander Nevsky)は中世ロシアの英雄として讃えられている人で正教会で列聖され、正教会の聖人となっています。ビザンティン建築様式(Byzantine Architecture)のこの大聖堂は、タリンにある教会の中でも最も大きいものです。

Wikipediaによりますと、19世紀末に建築されたこの教会は、ロシアによる支配の象徴でしたが、独立を果たした後は取り壊しも一時検討されたようです。今では、当時の歴史を学ぶことができる建造物としても貴重なものとして保存され、多くの観光客を惹き付ける場所となっています。後に触れるブルガリア(Bulgaria)の首都ソフィア(Sofia)にもブルガリア正教会の壮麗なアレクサンドル・ネフスキー大聖堂があります。

ビザンティン建築のことです。紀元後330年頃、ローマ帝国のコンスタンティヌス大王(Constantine the Great)は、ボスポラス海峡要衝にある都市ビュザンティウム(Byzantium)に自らの名前をつけます。それがコンスタンチノープル(Constantinople)です。その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となります。今のイスタンブール(Istanbul)です。ローマ帝国は1453年にオットマン帝国によって滅ぼされます。

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ヨーロッパの小国の旅 その三 エストニアの独立に至る歴史

Britannica百科事典を調べながら、エストニア(Estonia)の大国に挟まれた誠に複雑な歴史を辿ります。日本のように国内の大名らの争いではなく、国外からの侵略という脅威です。エストニアは長らくドイツ騎士団(Teutonic Order)に支配され、13世紀にはデンマークが領有します。16世紀になるとリヴォニア戦争(Livonian Warというエストニアの支配を巡る争いが起こります。これによりスウェーデンが支配し、エストニア公国となります。

18世紀になると大北方戦争(Great Northern War)の結果、ロシア帝国の支配となります。この戦争はスウェーデンと反スウェーデン同盟間の戦争です。ピュートル皇帝一世(Peter the Great)はスウェーデンを駆逐し、ロシアはバルト海の覇権を握り、獲得した地にサンクトペテルブルク(St. Pertersburg)を建設します。

1917年のロシア革命により、エストニアには自治がもたらされます。20世紀になり、第一次大戦の結果1918年にドイツが降伏し、エストニアは一時独立を果たします。1939年にはソビエト赤軍がエストニアに進軍すると傀儡政権が作られます。それ以来、長くソビエトの支配が続きます。1980年代までエストニアの政治経済、社会はソビエト連邦と軍隊を後ろ盾とする共産党に支配されます。

この共産党の支配時代には、独立運動をしていた人々、自由を求めて文化活動をしていた人々は弾圧され逮捕されて拷問などを受けています。元共産党本部であった建物は歴史博物館となり、そこを訪ねますと牢獄などが保存されています。1991年のソビエト連邦における共産党保守派のクーデター失敗によりエストニアはようやく独立を宣言し、ソビエト連邦もこれを承認します。

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ヨーロッパの小国の旅 その二 バルト海の歴史とハンザ同盟

北の地中海と呼ばれたバルト海(Baltic Sea)は、古代バルト文明、中世のヴァイキングの東征、ハンザ同盟(Hanseatic League)の通商の舞台となったところといわれます。地図を見ますと、スカンジナビア諸国(Scandinavia)、デンマーク、ドイツ、ポーランド、バルト三国、そしてロシアがこの周りに位置していることがわかります。古くから海上交通に利用され、沿岸には有力な海港都市が存在しています。

バルト海貿易を最初に開拓したのは、スカンジナビアに住む北ゲルマン人(ヴァイキング)です。やがてゲルマン人の東方進出に伴い、12世紀以降はヴァイキングに代わりドイツ人が貿易の担い手となります。そしてロシアとの交易を発展させていきます。ドイツ商人はロシアから毛皮、穀物、木材、海産物、コハク(Amber)を求め、ロシアには毛織物、食糧、ワイン、生活必需品などを輸出します。

王侯貴族を顧客にしていた地中海貿易とは対照的に、バルト海貿易は投機性に乏しかったといわれます。しかも冬のバルト海の航海は厳しく、航海が絶たれます。近世に入ると大西洋や太平洋航路が国際貿易の重要な舞台となるにつれて、バルト海貿易はやがて衰退していきます。

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ヨーロッパの小国の旅 その一 エストニア

しばらくヨーロッパの旅をしてみます。地図を見てわかるようにヨーロッパ大陸には沢山の国々が存在しています。陸続きなので過去も今も人々の行き来が盛んです。交易も盛んである反面、民族のいさかいも長く続いているところこです。その中の国で、ドイツとロシアの間にあるバルト三国(Baltic States)の一つエストニア(Republic of Estonia)に行ってみましょう。

エストニアの人口はたったの160万人。首都はタリン(Tallinn)です。「北の地中海」と呼ばれるバルト海(Baltic Sea)に面しています。バルト海という名を聞くと帝政ロシアの「バルチック艦隊」が思い出されます。バルト三国とはエストニアの他に、リトアニア(Lithuania)、ラトビア(Latvia)を指します。三国は欧州連合(European Union:EU)や北大西洋条約機構(NATO)、そして経済協力開発機構(OECDに属しています。

エストニアは地政学的の条件から、大国に翻弄され、独立運動が起こっては鎮圧された長い歴史があります。ようやくソビエト連邦から独立したのが1991年です。1885年にゴルバチョフ(Mikhail S. Gorbachev)が大統領に就任し、立て直し(ペレストロイカ)、情報公開(グラスノチス)による政策を進めます。それに対して起こった共産党保守派のクーデターが失敗し、エストには独立を宣言し、ソビエトもこれを承認するのです。

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ハングルと私 その25 韓国についての誤解にどう向きあうか

この稿で「ハングルと私」は終わりとします。
世の中には、いろいろな誤った見方や考え方があります。日本人の韓国や韓国人に対する誤解もそうです。例えば韓国の人は「アグレッシブで喧嘩早い」とか「反日感情を過剰に持っている」などという風評です。そういう人もいるのは確かですが、こうした人々は5%以下でしょう。5%というのはどの国にも当てはまる数字です。大多数の韓国人は個人として付き合えば実に友好的で儒教の仁や仏教、キリスト教の教えを実践している印象を受けます。韓国はこの3つの宗教が共存している国です。人との付き合いを深めていけば、感情の機微や暖かみを体験できるのです。個人と個人、家族と家族との出会いは偏見や誤解を溶かしてくれます。

世の評論家は得てして、「日本と韓国の関係は、かくかくしかじか」とのたもうのが好きですが、そのようなご宣託はあまり役に立たないのです。どうしたら仲良くできるかです。それには、その国の言葉を学び文化を知り、できればその国を訪ねて対話し、自分の目で確かめることです。そして親しき友をつくる努力をするのです。

友だちをつくるというのは、互いに異なる考えを持ちながらも、それを柔軟に修正できる感性を育てることです。「自分の見方はもしやして偏っていないか、」と自分に問える姿勢です。未知なことを学び、考える態度を持つことです。どのような方法にせよ、何からか誰かから教えを受けるということです。文化という定義はそれを使う人の数だけあるといわれます。なにが正しいとか間違っているというのではありません。町や村の違い,国と国との違いは人々の考え方に反映します。この考え方は文化の相対性ということです。このことを理解したいものです。

ハングルと私 その24 韓流と韓国映画

2003年頃から韓国大衆文化の流行が始まり、韓流(ハルリュ)(한류)ブームが巻き起こりました。今やブームはすっかり去ったようですが、韓国についてのいろいろな影響は広まり一種の社会現象となりました。もともと韓流とは中国での韓国の流行を指した言葉といわれます。日本における韓流は、2003年4月からNHKの海外ドラマで「冬のソナタ」(겨울연가)が放送されたことが発端とされてます。ハルリュによって韓国が近い国に感じられるようになったことは良かったです。

今回は映画に限定してハルリュについて触れてみます。わたしも「冬のソナタ」は時々見ました。個人的には、なにか同じ内容のような気がして途中でやめました。その一方、宮廷女官チャングムの誓い「大長今:テチャングム」(대장금)は全部観ました。李氏朝鮮王朝の歴史や文化が描かれていて、厳しい身分制度、王朝内の権力争い、宮廷の料理、庶民の生活も随所に描かれていました。そのストーリーの展開をドキドキしながら観たものです。

ハンリュウの背景はなんでしょうか。それはなんといっても韓国は映画でもドラマでも音楽でも先進国になったということです。映画作りの技術が高くなったことです。それには国が文化活動に大いにテコ入れして、発展を支えたことが指摘されています。

個人的に好きな映画のジャンルは、朝鮮戦争や分断を題材としたものです。「ブラザーフッド(兄弟愛)」(태극기 휘날리며)という映画を紹介しましょう。戦争でソウルに戦火が迫る中、ジンテとジンソクという兄弟は、家族を救出するためにソウルに戻ります。兄ジンテの婚約者は反共自警により射殺されます。ジンソクも牢獄とらわれます。婚約者とともにジンソクが処刑されたと誤解したジンテは、上官を殺害して姿を消します。奇跡的に牢獄を脱出したジンソクは野戦病院でジンテが北朝鮮人民軍の旗部隊の隊長として活躍している事実を知るのです。結末は悲劇となります。兄弟がそろって、なぜ最後まで戦争を続けなければならなかったのかを問うています。

もう一つは「シュリ」( 쉬리)という作品です。韓国に潜入した北朝鮮工作員と韓国諜報部員との悲恋を描いています。工作員と諜報部員とのアクションも見応えがありました。分断された国と人々の緊張が伝わってきました。戦争の悲劇と人の生き様が描かれています。韓国の人にしか作ることができない作品です。是非観ていただきたい映画です。最近の話題作「パラサイト 半地下の家族」も是非観たいですね。

ハングルと私 その23 両班社会の崩壊と天主教の流布

国王が特定の人物を深く信任し、その者に王権の実質的な建言を委任することを朝鮮の歴史では、「勢道政治」と呼ばれます。国王の信任を受ける者は有力な両班であると同時に、国王または王室と血縁関係にある王室の外戚でありました。こうした政治では、政権の基盤は一つの血縁集団となり、政治の綱紀は紊乱し、儒教的な清廉潔白を重んじる政治は有名無実化します。

中央の綱紀紊乱は地方における行政や財政に乱脈をもたらし、賄賂を使い、私財を蓄えるなどの不正行為が行われます。両班社会はこうして崩壊し始め儒教は思想的な影響を喪失し、民衆の中で新しい宗教がもてはやされます。こうした宗教の力は既成の体制への挑戦となります。

天主教(천주교)と呼ばれるキリスト教のことです。16世紀の初頭、清に渡った使臣によって天主教は朝鮮に入ってきます。この新しい宗教に関心を持ったのは実学者で、他の西洋の学術を含め、広く「西学」と呼ばれ、思想的に関心が高まります。西学は、現実から乖離し党争にあけくれる当時の政治を反省し、制度改革や産業の発達を目指す思想です。18世紀末には、研究が重ねられついに布教運動まで発展します。やがて使臣らは西洋の神父より洗礼を受けて帰国すると、布教活動はますます活発化していきます。

不遇の両班だけでなく、常人、婦女子へと天主教の平等主義が受け入れられていきます。当時の身分階級は、両班、中人、常民、賎人の4つに大別されていました。常人の大部分は農民でした。1785年にはソウル市内には教会堂(교회당)が建てられます。特に現世に対して希望を持てなかった人々に天国の福音は新しい喜びを与えるのに十分だったといわれます。やがて天主教はソウル一帯から広がり、1794年には4,000名の信者に達したという記録があります。

ハングルと私 その22 日本との抗争の歴史

朝鮮の歴史では、1300年代からおよそ200年は平穏な時代だったといわれます。ところが朝鮮は1592年に秀吉の命を受けた日本軍の侵略を受けます。壬辰倭乱(임진왜란)とか文禄の役と呼ばれました。当時の朝鮮は徹底して文官中心の国であり、両班(양반)の官僚が分裂し、朱子学の研究が頂点に達し、軍事的にはほとんど無防備状態にあったといわれます。復習ですが、両班とは高麗,李朝時代にに生まれた最上級身分の支配階級の人々のことです。

文禄の役では15万の兵が釜山(부산)に上陸し、20日後にはソウル(서울)を占領、その後平壌(서울)も墜とします。日本軍の進撃は、やがて李舜臣(이순신)らが指揮する水軍により阻まれます。李舜臣は日本の水軍を撃破して制海権を掌握し補給路を断ちます。陸地では義兵と呼ばれる民兵によるゲリラ戦を展開していきます。義兵の多くは儒学生と呼ばれ、忠君愛国の思想の持ち主だったといわれます。

やがて明からの援兵が加わり、朝鮮は平壌を奪還します。日本軍はソウルに退却します。第二次の14万人の出兵は慶長の役と呼ばれます。その後は、長期戦となり明との間で何度も講話の話し合いが持たれます。秀吉の死後、五大老の命令により日本軍は撤退を開始します。そして7年間にわたる戦争が終結します。

日本軍は撤退と同時に多数の朝鮮人陶工を徴用し、その後の我が国の陶磁器製作に大きな影響をもたらします。さらに多数の書籍も押収し、朱子学をはじめ日本の学問の発展に寄与することになります。その間、朝鮮は全土が戦場となり、膨大な被害を被ります。農村が疲弊し、土地台帳や戸籍が焼失して租税や役を賦課するのが困難になったといわれます。

ハングルと私  その21  学歴社会の韓国

韓国は今も学歴社会です。日本の昭和30年〜40年代の現象のような印象を受けます。私も友人から何度も「どこの大学を卒業しましたか?」と尋ねられたことがあります。学歴社会の歴史は、中国にあった科挙という試験制度が下敷きになっています。科挙という語は「(試験)科目による選挙」を意味しています。上級国家公務員になるための登用試験です。李氏朝鮮王朝時代は、科挙の合格者や学者が政治を司る高級官僚となり、立身出世ができました。その風習が今日にまで続いているといわれます。出身大学によって就職や出世が保障される時代では、受験の結果が一生を決めるといっても過言ではありません。かつての日本のようです。

受験生は小さいときから放課後はもちろん、週末も遅くまで営業する予備校(アカデミー)に通います。深夜、予備校のそばを通りますと、勉強を終えた生徒を家まで送るバスがずらりと並んでいます。そのため受験生のストレスを解消したり保護者の負担を軽減することが課題となっています。一例を挙げますと、予備校に通ったり家庭教師による補習が可能な都市部の学生がより修学能力試験(修能試験)に有利になります。修能試験はセンター試験のようなものです。そうした格差を解消するために教育放送局が専門チャンネルで修能試験に関する講座を放送しています。予備校へ払う教育費も保護者の大きな負担です。調査によればOECD加盟国の中で韓国人は最も多くの予備校への教育費をかけているといわれています。

2004年には、修能試験における大規模な携帯電話を使ったカンニングが発覚しました。修能試験の歪んだ弊害が指摘されたのは真新しいところです。1回の試験によって人生が左右されるような構造にメスがあてられるには、まだまだ時間がかかるといわれています。

ハングルと私 その20 朱子学と諸科学の発展

朝鮮における朱子学の話題です。13世紀、高麗末に中国より伝来した朱子学は、儒教の新しい学問とされ、科挙制度の励行や四書・五経など経書を研究する学問である経学の復興とともに広く普及します。儒教的な両班社会における正統的な学風となります。経学とは異なり、実際的な法典や礼式といった典礼と詩歌とか意味や解説などの文章である詞章が重んじられます。科挙の試験でも詞章が中心でありました。

朱子学は儒教国家の政治や社会で秩序の維持で有用な編纂事業を促進させます。歴史は政治の鏡であるという観念から、史書の編纂も盛んになります。高麗の国教であった仏教は排され、朱子学は唯一の学問として国家教学となります。我が国でも江戸時代に武士が学ぶべき学問と位置づけられ、江戸幕府をささえる学問となります。信仰や武力ではなく、道徳や礼儀によって社会秩序を守ろうとするする考え方です。

李氏朝鮮王朝に戻り、歴史とともに政治や軍事に必要な地理の知識も重視されます。国家の規範としての典礼とともに諸宝典が作られ、それによって印刷技術も発展します。例えば金属活字や植字術などの出現です。1443年の「訓民正音」と呼ばれるハングルの創設がその発展の頂点に立ちます。医薬学では薬材と処方の研究が進み、科学技術では農業と深い関係がある天文学、軍事では各種火砲、火薬、兵学、さらに兵書が著されます。

近世儒学の祖といわれ、朱子学を提唱したのが江戸時代の儒教家、藤原惺窩です。惺窩の弟子が林羅山らです。

ハングルと私 その19 仏教と儒教と科挙

朝鮮への仏教伝来は四世紀後半から五世紀中葉とされています。三国に仏教は伝播し、900年代の統一新羅時代に隆盛したといわれます。仏教隆盛を代表するものは建造物や美術でしょうが、なかでも仏国寺や石窟庵は有名です。

 儒教です。仏教より先に伝来したのですが、仏教に比べて普及が遅く、盛んになったのは七世紀末です。やがて儒教の教育機関である国学が設立されます。そこでは論語や孔子の言動を記した孝経をはじめ、易経、書経、詩経、礼経、春秋経という五経が教えられます。儒教は仏教を排撃することなく「治国平天下」の手段として重視するとともに、「安心立命」の教えとして仏教を受容します。

 新羅時代になると、読書三品科を設置して、官吏登用試験である科挙が盛んとなります。呉善花著の「韓国併合への道」という文庫本によれば、科挙では受験資格には厳しい身分的な制約があり、徹底した成績主義がとられます。官吏には文官(文班)と武官(武班)があり、合わせて両班(ヤンバン)と呼ばれました。特に文科は両班階級の者しか受験できないようになっていました。

 李朝国家では軍事を司る要職のほとんどが文官によって占められており、武官は劣位な状態におかれ、武官には事実上要人への道が閉ざされていたといわれます。これは、儒教的な文治主義といわれます。文治主義というのは、官吏とか官僚独裁による統治体制です。武官の登用による国の防衛という意識が弱かったのです。

 文治主義によって、官吏の世襲による権威や権力、身分の固定化が進むのです。門閥を重視する風潮がこうして生まれていきます。たとえ官職を得られなくても両班身分は世襲されるため、金で両班の地位を買ったり、ニセの資格証を売ったりということが何代にもわたって続きます。そのため、両班の人口は1690年には総人口の7.4パーセントですが、1858年には、なんと48.6パーセントにまで増加していたという記録もあります。

 外国との間に生じる諸問題の解決は、文治主義の立場から可能な限り政治的な外交によって処理することが方針とされました。外敵からの防衛は宗主国である中国に依存するという傾向を強めたのです。同じ現象は琉球王朝でもみられました。

ハングルと私 その18 家具と李氏朝鮮王朝時代

大邱教育大学校のベエ先生が住まわれる高層マンションの話題の続きです。先生のお宅入るとその広い居間に驚きます。20畳はゆうにあります。わたしのコンドミニアムとは比較になりません。壁には家族全員が写る大きな写真が飾られています。家族の絆を感じます。そして立派な茶タンスにあたる調度品が埋め込まれています。もちろん全室オンドルです。

家具の華やかなデザインに驚きます。実に豪華なのです。家具の表面のデザインは、木目を強調したもの、あるいは貝殻などを埋め込んだものなど、職人の業で相当の時間をかけて造られたことが伺える作品です。こうした家具の伝統は1392年から500年以上に渡って栄えた李氏朝鮮(이씨조선)王朝時代に由来します。王朝という華やかな時代の文化・芸術から生まれたのが「李朝家具」といわれています。李朝家具の多くは、当時ヤンバン(양반)と呼ばれていた支配・知識階級たちの書斎道具としても用いられました。

その中でも収納ダンスは、ヤンバンだけでなく庶民にも広く行きわたった品です。このタンスはパンダジと呼ばれ、半分が前開きの扉となっています。中は空洞でかさばるものを収納するのに便利なものとなっています。この家具には金運を招くという言い伝えがあります。落ち着いた造り、その重厚な存在感は李氏朝鮮王朝時代の伝統といえるでしょう。李朝家具は、木目の風合いと真鍮金具の美しさが融合した造形美を伝えています。