ウィスコンシンで会った人々 その63 富くじ噺

「富久」という演目は古き良き江戸の風物や庶民の姿を描いている。江戸の華といわれた火事と富くじが舞台である。富くじは、寺社にとっては大切な収入源。あちこちに広がって行ったため、江戸幕府は禁止令を出したほどだ。だが寺社普請のための富くじが再開される。幽霊話にも富くじや博打がでてくる。今も昔も宝くじは廃れることがない。

幇間の久蔵。人間は実直だが大酒のみが玉に瑕。酒の上での失敗で仕事にあぶれている。幇間とは男芸者。年の暮れ、久蔵は深川八幡の富札をなけなしの一分で買う。深川八幡は富岡八幡ともいわれる。札は「松の百十番」。一番富に当たれば千両、二番富でも五百両。ところでWikipediaによれば、一両は今の6〜10万円、一分は1〜4万円といわれる。

久蔵は長屋の大神宮の神棚に札をしまい、「二番富でも当たるように」と柏手をうつ。とある夜更けにまた半鐘の音。今度は久蔵の家がある浅草方向というのだ。久蔵急いで長屋に戻ると既に遅く、家は丸焼け。仕方なく出入り商人の居候になる。

数日後、深川八幡の境内を通ると、ちょうど富くじの抽選。「オレも一枚買ったっけ」と思い出したが、あの札も火事で焼けちまったと、諦め半分で人混みの興奮を見ている。
役人 「一番、松の百十番」
久蔵 「あ、当たったッ」

久蔵は卒倒した。今すぐ金をもらうと二割引かれるが、そんなことはどうでもいい。「冨札をお出し」と役人からせっつかれる。
久蔵  「札は………焼けちまってないッ」

「水屋の富」という演目も富くじが主役である。そして江戸時代に流行った「水屋」が主人公である。玉川上水とか神田上水がつくられたのは江戸時代。これによって水が曳かれた。それでも桶に水を入れて担いで売る「水屋」が多かったといわれる。坂の多いのが江戸の町。重くて安い料金だが、お得意さんが待っているから一日も休めない。

ある水屋が、大事な金をはたいて富くじを買う。それが、幸運にも千両が当たる。「水屋から足が洗える」と大喜びで、手数料の二割を引かれた八百両を持ち帰る。しかし、水屋はお得意さんが待っているので、代わりが見つかるまで辞めることができない。

お宝の八百両の隠し場所にも水屋は困る。持ち歩くわけにもいかず、悩んだ挙句、ボロ布でくるんで縁の下に隠す。やれ安心と商売に出てみるが、周りがすべて泥棒に見える。商売もそこそこに家に戻って、縁の下のお宝を確かめて安心して寝るのだが、今度は泥棒が夢に現れて殺される夢ばかり見る。毎日これの繰り返しで、水屋はもうフラフラ。

水屋が毎晩縁の下を確かめるのを見ていたのが隣の遊び人。何かあるなと縁の下を探して、お宝を見つけそっくり盗んでしまう。戻ってきた水屋、縁の下のお宝が無くなっている。そして一言、「これで苦労が無くなった」。

31 DSC01716-1 IMG_0012 富岡八幡

ウィスコンシンで会った人々 その62 習い事噺

人は,余裕がでてくると何か習い事をしたくなる。筆者もそうである。そこで始めたのは囲碁である。結局はものにならないということが多い。どうも真剣味が足りないというところらしい。昇段の決勝戦で何度も敗れた。それ以来、昇段ということを気にしないで、無心に打つことを心掛けている。

習い事を始める男を可笑しく取り上げた演目が「あくび指南」であり「寝床」である。今でいうカルチャーセンターに通う者が主人公である。江戸時代、茶の湯、長唄、常磐津、新内などを習うことが粋とされたようである。「欠伸」の仕方も教えるという長閑な時代だったのだろう。

「あくび指南」だが、町内に変わった看板がかけられる。黒々と「あくび指南所」とある。妙齢の女性が掃き掃除をしている。この女が教えてくれるのだろうと、若い衆はすっかり舞い上がる。いろいろな稽古処があるのだが、あくびの指南は珍しい。金を払って習う指南所なので、なにか有るに違いないと、好奇心の旺盛な男が友達を誘ってでかける。

男達は妙齢の女性が応対してくれると出掛けると、そこに指南役の旦那が現れる。名前は「長息災欠伸」。男たちはガッカリする。指南役がいうには、普段やっているあくびは、「駄あくび」、一文の値打ちもないと云う。そして「あくびという人さまに、失礼なものを風流な芸事にするところに趣があるのだ」と講釈する。男どもには、なんだかわからない。そして夏のあくびの指南が始まる。それを眺めていた同輩が欠伸をし始める。

「寝床」は大店の旦那が主人公である。義太夫を始めた旦那、どうしても習い事の成果を披露したくて、人前で騙りたくなる。店の者達は、旦那のだみ声や唄いに辟易している。最初のお披露目は、お付き合いもあって、近所の長屋連中が仕方なしにやってくる。そしておべんちゃらを振っては、「良かった、良かった、またやってくれ、、」という。それに気をよくした旦那、二回目の講談会をやろうとする。

丁稚が旦那の指示で触れ回る。だが誰一人として参加したいという者はでてこない。「旦那の義太夫をきくと義太熱にやられる」、「酒を飲んで聞かないと、神経がやられる」なんていうのもでてくる。「風邪をひいた」、「成田山へお詣りの約束がある」、「かみさんが臨月だ」、「法事に出す生揚げやがんもどきをたくさん発注されて忙しい」といった口上を述べては断る。

そこで旦那、「今回は店の者に義太夫をきかせる」と宣言する。丁稚や小僧達はこれまた「飲み過ぎた」、「眼から涙が出てとまらない」といって全員仮病をつかってでようとしない。旦那は怒って店の者は全員クビだ、長屋の住人には「店立て」、強制退去という乱暴なことをいいだす。追い出されては大変とばかり、長屋の連中は義太夫を聞きにくることになる。旦那はそれが気にくわない。そして義太夫が開始する。だが、だが神経を麻痺させようとして酒を飲んできた長屋一同、途中から居眠りを始める。

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ウィスコンシンで会った人々  その61 人情噺と「妾馬」

お馴染み八五郎が登場する演目に「妾馬」がある。別題は「八五郎出世」。人情噺にいれてよい内容で、江戸時代の庶民と殿様の生活振りも伺い知れる佳作である。

道楽男の八五郎。妹に器量よしのお鶴がいる。このお鶴は、お殿様に見染められて奥に入る。やがて男の子を産み「お鶴の方」と呼ばれるようになる。八五郎は、殿様に招かれて出掛ける。そのとき、長屋の大家に「言葉の頭に『お』の字をつけ、語尾には『奉る』を付けろ」といわれる。お世取りの意味が解らず鳥の一種か何かだと思い込んでしまう。

殿様の前で、八五郎が自分の名前に『お』の字を付けたり、『奉る』を付けるので、殿様さっぱりわからない。そこで朋友の前で使う言葉づかいにするようにと云われる。「殿様、話がわかる、、」といって八五郎の無礼講が始まる。「八五郎、そちはササを食するか?」そして、酒肴がどっさり出てくる。すっかりいい気持ちになって、ふと見ると殿様の隣に妹のお鶴が着飾って座っている。

八五郎 「お鶴、綺麗だな、赤ん坊も可愛いな、お袋が喜んで言っていたぜ。初孫なのでおしめを洗ってやりたいが身分も違うのでそれもかなわないと」
八五郎 「早く赤ん坊を抱けるような時代がくればええな、、、とお袋がいっていたぜ、」
八五郎 「お鶴、、、子供ができたからと自惚れてはいけないぞ、」

この下りが「妾馬」の最高潮の場面である。八五郎は「話が湿っぽくなったな、、」といってざっかけない自分の話題にひき戻す。「古典落語は単に笑わすのじゃなくて泣かすことも大事なのだ。」と誰かが言っている。初孫を見たいお袋の姿を演者はしみじみと語る。まるで新しい芸の境地を切り開くような落語である。

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ウィスコンシンで会った人々 その60 ドケチ噺

ドケチとかしみったれ、というのは落語の定番の話題になる。ケチは「吝嗇」ともいう。

吝嗇を笑う「味噌蔵」を取り上げる。
独り身の味噌屋の主人ケチ兵衛。嫁をもらうと子供ができれて経費がかかってしかたがないといまだに独身。心配した親類一同が、どうしても嫁を持たないなら、今後一切付き合いを断る、と脅したので、泣く泣く嫁をもらう。

やがて嫁さんは妊娠。臨月が来たらかみさんを実家に押しつけてしまえばいい。そうすれば費用はみなあちら持ちだ。ケチ兵衛はやっと一安心する。無事男子を安産の知らせが届いたので、ケチ兵衛は小僧の定吉をお供に出かけることにする。旦那が出かけると、奉公人一同、このチャンスにと、のみ放題食い放題、日ごろのうっぷんを晴らそうと番頭に申し出る。

なにしろ、この家では、朝飯の味噌汁が薄くて実なし。番頭が、勘定は帳面をドガチャカごまかすことに決め、寿司に刺身、鯛の塩焼きに酢の物と、ごちそうをあつらえる。相撲甚句に磯節と、陽気などんちゃん騒ぎ。そこにケチ兵衛が帰ってくる。
「片棒」の吝嗇は馬鹿息子の間抜けさを引き合いにした笑いが中心である。赤にし屋の主人ケチ兵衛は、身代を築いたケチな旦那。三人息子の誰かに跡目を継がそうかと考える。そこで息子達の金銭感覚を試すために、「もし私が明日にでも死んだらどんな葬式にするか」と質問した。

長男の金蔵は、立派な葬式を出すべきだ、と言う。通夜は二晩行い、本葬は大寺院を借り、50人の僧侶に読経させ、会葬客の食事は折り詰めでなく豪華な重箱詰めにし、東西の酒を揃え、客の帰りには交通費や豪華な引き出物を渡すべきだと言う。ところがケチ兵衛はカンカン。「そんな葬式なら自分もでたい」と呆れさせる。

次男銀蔵は、葬式はイキに色っぽくやるべきだと主張する。町内中に紅白の幕を張り巡らせて、木遣唄や芸者衆の手古舞ではじめ、ソロバンを持ったケチ兵衛そっくりのからくり人形を載せた山車や主人の遺骨を積んだ神輿を神田囃子に合わせて練り歩かせるというのだ。最後に花火を打ち上げて落下傘をつけた位牌を飛ばすといった葬式。銀蔵は怒った父親に部屋から追い出される。

三男銅蔵は質素で倹約家。「死骸はどこかの高い丘に置いて鳥葬にしよう」と言う。さすがに主人が嫌がると、しぶしぶ通夜を出す案を話す。「出棺は11時と知らせておいて、本当は8時ごろに出してしまえば、客への茶菓子や食事はいらないし、持ってきた香典だけこっちのものにすることができる。早桶は物置にある菜漬けの樽を使う。そうして臭い物には塩をまいて蓋をする。樽には荒縄を掛けて天秤棒で前後ふたりで担げるよう運ぶようにする。人手を雇うとお金がかかるから、片棒は自分が担ぐ。でも、一人では担げないからもう片棒は人を雇る。」ここでケチ兵衛が銅蔵を制し、「心配するな。片棒は俺が担いでやる」

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ウィスコンシンで会った人々 その59 藪医者噺

落語にでてくる医者はどれも頼りない。江戸時代には今のような免許制度なく、医術の心得がなかろう医者になろうと思えば誰でもなれた。藪医者とは「藪のように見通しがきかない」という説がある。「藪にも至らない」という意味を込めて「筍医者」というのも落語での枕にでてくる。ヘボ医者ということのようだ。

それでも真面目に医術を習得しようとする者は、医者に弟子入りする。そして師匠に腕を認められ、代診の期間を経て独立を許され開業する。治療だが、主として薬草を煎じ薬、貼り薬や塗り薬を処方したようである。そして小石川養生所ができたのが1722年。困窮者救済が主たる役目だった。山本周五郎の「赤ひげ診療譚」は、長崎で修行した医師保本登と赤ひげ、そして不幸な人々の救済物語である。

医者に関する二つの演目を紹介する。まずは「夏の医者」。夏の暑い盛りの昼間、ある村の農夫が仕事中に倒れる。村には医者がおらず、叔父に相談すると「山向こうの隣村にお医者の先生がいる」という。息子は山すそを回って長い道のりを行き、往診を頼みに向かう。

さて、息子と医者は山道を向かうが、歩き疲れて山頂で少し休憩をとろうと横になる。すると急にあたりが真っ暗になる。医者は「この山には、昔から住むウワバミがいる、これはおそらく腹の中に飲まれてしまったな。このままでは、足の先からじわじわ溶けていく」脇差を忘れてしまったので、大蛇の腹を裂いて出ることもできない。思案した医者は薬箱から大黄の粉末を取り出し、周囲にたっぷりと振りまく。胃袋に下剤を浴びせられた大蛇は苦しんで大暴れする。「薬が効いてきたな。向こうに灯が見える。あれが尻の穴だ」ふたりは、外に放り出される。ところがウワバミの中に肝心の薬箱を忘れてしまう。そして取り返そうとしてウワバミにもう一度飲み込んでくれと頼む。ウワバミは首を振って、
「夏のイシャは腹に障る。」

「代脈」であるが、尾台良玄という名医に銀南という弟子がいた。ごひいきの商家に綺麗な娘がいて療養していた。良玄はこの銀南を初めての代脈に行かせることにした。少々与太郎気味の銀南であったので、詳しく挨拶の仕方、お菓子の食べ方、お茶の飲み方から脈の取り方など、娘の対応の仕方を指南する。特に診察の仕方をこと細かに説明する。特に娘の左の腹にあるシコリには絶対触ってはならないと言い聞かせる。シコリは放屁だというのだ。

銀南は、丁寧に挨拶してひざをついて娘に近づき挨拶をする。脈を診て、舌を診て、胸から小腹を診る。銀南は、綺麗な娘がオナラをするはずがないと思い込んでいる。これが大きな間違い。止せばいいのにシコリの部分をグッと押す。たちまちものすごい音が響き渡った。銀南は、「最近のぼせの加減で耳が遠くなっているのでなにも聞こえなかった」と白をきる。娘の母親が、「大先生もそのようなことを仰ってましたが、若先生ものぼせでございますか?」
「ええ。ですからさっきのオナラも聞こえませんでした!」

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ウィスコンシンで会った人々 その58 夫婦噺

お馴染み八五郎が、町内のご隠居のところにやってきて、質屋の婿養子が死んだと伝える。気の毒なことに、これで婿養子が亡くなったのは三度目。

隠居は「婿養子が短命なのは、妻が美人なのが元だ」と言う。「タンメイ?」「早死にすることを短命という」「じゃあ逆に、長生きのことは何と?」「長命だ。」夫が短命なのは妻が美人だから、という隠居の講釈を理解できない八五郎に、隠居は次のような話をした。

「食事時だ。お膳をはさんで差し向かい。おかみさんが、ご飯茶碗を旦那に渡そうとして、手と手が触れる。おかみさんの手は白魚を5本並べたように透き通るようだ。そっと前を見る。……身震いするような、いい女だ。……短命だよ。」
八五郎は何のことだかわからない。

「そのうち冬が来るだろう。二人でこたつに入る、何かの拍子で手が触れる。白魚を5本並べたような、透き通るようなおかみさんの手だ。そっと前を見る。、、、ふるいつきたくなるような、いい女だ。、、、短命だよ。」
八五郎はこれでも何だかわからない。

ご隠居は次に、以下のような川柳で説明しようとする。
”何よりも傍が毒だと医者が言い”

ようやく八五郎は、隠居の意趣が分かる。隠居は婿養子たちは房事過多で死んだのだと言いたかったのだろうと。隠居宅から自宅に戻った八五郎は、戻るなり妻に怒鳴られる。「なぜ短命な婿養子たちと、俺はこうも違うのだろう」と幻滅する。八五郎は昼飯を食べる際、ふと思いついて妻に話しかけた。

「給仕をしろ。茶碗をそこに放り出さず、ちゃんと俺に手渡すんだ」
妻は茶碗を邪険に差し出す。夫婦の指と指が触れ、「そっと前を見る。……」妻の姿を見つめた八五郎は深くため息して、「ああ、俺は長命だ。」

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ウィスコンシンで会った人々 その57 半可通噺

笑いの中では、知ったかぶりをする者が出てきて、それをおちょくる者が出てくる。当人は、笑われていることに気がつかないところに可笑し味がある。その代表が「酢豆腐」という演目である。数年前に朝ドラで落語ブームに火をつけたのが上方落語の「ちりとてちん」である。江戸落語では「酢豆腐」となっている。

近所の男が、旦那の誕生日だというので訪ねてくる。旦那は白菊、鯛の刺身、茶碗蒸し、白飯でもてなす。出された食事に嬉しがり、「初めて食べる」、「初物を食べると寿命が75日延びる」とべんちゃらを言い、旦那を喜ばせる。そのうち、裏に住む竹という男の話になる。この竹、何でも知ったかぶりをするため、誕生日の趣向として、旦那達は竹に一泡吹かせる相談を始める。水屋で腐った豆腐が見つかり、これを元祖 長崎名産「ちりとてちん」として竹に食わせるという相談がまとまる。そうとは知らずに訪れた竹が、案の定「ちりとてちん」をよく知っていると言う。台湾旅行のときは毎日食べた大好物だというのである。そこで「ちりとてちん」食わせると、一口で悶え苦しむ。旦那が「どんな味や?」と聞くと、竹曰く「ちょうど豆腐の腐ったような味や・・・」。半可通のことを「酢豆腐」と呼ぶようになったのは、この噺からだといわれる。

既述した演目であるが「千早振る」に出てくる「先生」の異名を持つ隠居も知ったかぶりの代表だろう。百人一首の一句「ちはやふる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」の意味を知りたいといってきたのが八五郎。隠居は戸惑うのだが、頓智を働かせて八五郎に説明する。隠居は「ちはやぶる」が枕詞であることを知らない御仁なのである。それを、「千早」という女性が無男の竜田川という相撲取りを袖にする、というようにでっち上げる。それを真に受ける八五郎の反応になんともいえない滑稽さがある。

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ウィスコンシンで会った人々 その56 祭噺

現在の聖路加国際病院近くにある隅田川の対岸は、高層マンションで囲まれている。この一角に佃住吉神社がある。江戸時代には、汐入や千住の渡しとともに隅田川最後の渡し舟があったところといわれる。江戸に摂津国から移住した漁師たちが、石川島近くの砂州に築島して定住することとなり、この島を故郷である佃村にちなんで「佃島」と命名したとある。住吉神社の夏の祭礼で賑わうのが「佃祭」であった。その祭礼では雑魚を煮詰めたものを供えていた。これが佃煮である。保存性のよさと値段の安さから江戸庶民に普及した。

江戸時代から伝わる年中行事の祭や花火は今が最盛期。江戸の祭りといえば、神田明神で行われる神田祭、官幣大社の日枝神社で行われる山王祭、そして富岡八幡宮で行われる深川祭である。落語には祭りをめぐる笑い噺が結構ある。今回は東の「佃祭」と西の「祇園会 」を取り上げる。

昔、神田は岩本町に於玉ヶ池というのがあって、北辰一刀流の道場「玄武館」があったらしい。このあたりで小間物問屋を営んでいたのが次郎兵衛。佃祭に出掛け、最後の渡し舟で帰ろうとする。満員の舟に乗ろうとしたとき、一人の女に引き留められ渡しに乗りそびれる。女は詫びながら実は三年前、奉公先の金を紛失してしまい、本所一ツ目の橋から身を投げるところを次郎兵衛に助けらたと告白する。次郎兵衛は女のことを思い出し、仕方なく船頭の辰五郎と所帯をもつこの女のところに行くことになる。

辰五郎が帰ってくると、外が騒がしい。渡し舟が重みで沈没したという。一人も助かったものがなく、川岸は死体の山だという。沈んだ渡し舟に次郎兵衛が乗っていたらしいというので、次郎兵衛の住む長屋は大騒ぎ。忌中という札をだし、棺桶を用意したり、弔問客に対応したりでてんやわんや。やがて夜明けに辰五郎に送られた次郎兵衛が、そんな騒ぎとも知らずに長屋に帰ってくる。読経の声がきこえる。はておかしいと家をのぞくと、驚いたのは長屋の面々。次郎兵衛を幽霊だと勘違いして大騒ぎ。これを聞いた長屋の月番の一人与太郎、自分も誰かを助けようと身投げを探して永代橋へでかける。

東山区八坂神社の祭礼で知られるのが祇園祭である。祇園祭は数々の祭りでも豪華絢爛さで知られる京都の三大祭のひとつ。その他上賀茂神社と下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭がある。「祇園会 」は江戸からの一見さんと京男との奇妙な会話がお国自慢に発展し、はては大喧嘩になるという噺である。

江戸っ子の八五郎、祇園祭の時期に京にやってくる。話の種にと叔父の案内で祇園の揚屋の二階を借り、酒を飲みながら祭見物をすることになる。ところが、当日になって叔父が急に来れなくなり、代わりに叔父の友達だという源兵衛がやって来る。これがそもそもの間違いとなる。

京者の源兵衛はやたらとお国自慢をする男で、何かにつけて「京は王城の地」とうるさいのなんの。「酒は伏見、人は京。なんて言うたかて京は『王城の地』どすからな。江戸とは違いますわ。」ちょっとカチンときたものの、八五郎ここで怒っては江戸っ子の評判を下げるので我慢する。

それに気をよくしたのか、源兵衛とうとう禁句を口にしてしまう。
「江戸ッ子なんか、所詮は東夷の田舎者、武蔵野の国の「むさい者」どすな。」

ここで遂に八五郎の堪忍袋の緒が切れる。
「いくら古いか知らないが、こんな抹香臭い所はもうたくさんだ!!」

そこからは土地柄から食べ物、果ては祭囃子まで飛び出す壮絶なお国自慢が始まる。
「御所の紫宸殿の砂利を掴んでみなはれ、”おこり”が落ちるちぃまんにゃ。」( おこりとは悪性の流行病)
「それがどうした!? こっちだって江戸城の砂利を掴んでみろい、、、」
「どうなります?」
「首が落ちらぁ!」

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ウィスコンシンで会った人々 その55 間男噺

「間男」とは広辞苑によれば「有夫の女が他の男と密通する」とある。この間男を話題とする落語も結構ある。古今東西、不倫は人間の興味の尽きない話題である。古典落語では、間男は陰険な男女関係を描くよりも、女性のたくましさとか男性のか弱さによって健康な笑いを醸し出すようなところが多い。男性中心社会へのささやかな抵抗といった文化も感じられる。ジェンダー研究の下地になるようだ。

間男を扱う演目に「紙入れ」がある。新吉という貸本屋の丁稚がいる。この本屋に出入りするおかみさんに誘惑される。そして旦那の留守中に迫られる。だが旦那が予定を変更してご帰宅。慌てた新吉はおかみさんの計らいで辛うじて脱出する。ところが、旦那からもらった紙入れを忘れる。紙入れにはおかみさんからの誘いの書き付けが入っている。

焦った新吉は逃亡を決意するが、ともかく様子を探ろうと、翌朝再び旦那のところを訪れる。出てきた旦那は落ち着き払っている。変に思った新吉は、昨夜の出来事を語ってみるが、旦那はまるで無反応。ますます混乱した新吉が考え込んでいると、そこへ浮気相手のおかみさんが通りかかる。旦那が新吉の失敗を話すと、おかみさんは「浮気するような抜け目のない女だよ、そんな紙入れが落ちていれば、旦那が気づく前にしまっちゃうよ」と新吉を安堵させる。サゲだが、旦那が笑いながら続けて「まあ、たとえ紙入れに気づいたって、女房を取られるような馬鹿だ。そこまでは気が付くまいて。」

既にこの欄で取り上げた演目「締め込み」も間男を疑う旦那と女房と盗人との可笑し味ある対話である。ある盗人が家に入り、箪笥をあけて衣類を風呂敷で包み、さあ逃げようとするとき旦那が帰ってくる。盗人はあわてて台所の床下にもぐりこむ。風呂敷包みを開けると、そこに女房の衣類が入っている。さあ、これは女房が間男して駆け落ちしようとしているに違いないと、旦那は動転する。そこに女房が帰ってきて大騒ぎとなる。

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ウィスコンシンで会った人々 その54 盲人噺

盲人が主人公の落語も結構ある。「心眼」という演目はほろりとして、また酒と夢、女が絡む可笑し味もある古典落語である。そのあらすじだが、目が不自由な按摩の梅喜、女房のお竹に慰められ、目があくようにと薬師如来に三七、二十一日の日参をする。それが叶って眼がみえるようになる。

得意先の上総屋の旦那から、女房のお竹は醜女だが、気だてのよい貞女であることを聞かされる。梅喜はわが女房ながらそんなにひどいご面相かとがっかり。そこで昔の馴染みの芸者、小春と一緒になろうと待合で酒を酌み交わす。

二人が富士横町の待合に入ったという上総屋の知らせで、お竹が血相を変えて飛び込んでくる。梅喜の胸ぐらをつかんで、
「こんちくしょう、この薄情野郎っ」
「しまった、勘弁してくれっ、おい、お竹、苦しいっ、、」

途端に梅喜は、はっと目が覚める。
「うなされてたけど、悪い夢でも見たのかい」という優しいお竹の言葉に、梅喜我に返って、
「あああ、夢か。。。お竹、おらあもう信心はやめるぜ」
「どうして?」
「目が見えるって妙なものだ。寝ているうちだけ、よぉく見える……」

「景清」は眼を治そうと一心に清水寺に日参し南無妙法蓮華経と唱える定次郎の話である。満願の100日目になった。奇しくも観音講にあたる18日で賑わう中、いつもにも増して熱心に願を掛ける定次郎。しかしいくらお願いしても、彼の眼はいっこうに明かない。とうとう怒り出した定次郎。心配して様子を見に来ていた甚兵衛にたしなめられるが、定次郎は涙ながらに答える。「母親が満願の今日に合わせて着物をこしらえてくれた。家で赤飯と酒の用意をして待ってくれている。」にわかに、空がかき曇り雨が降ってきた。稲妻が閃き、雷鳴が轟く。そして、取り残された定次郎に雷が落ち、定次郎は失神する。その衝撃で目が開くというお目出度い噺である。

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ウィスコンシンで会った人々 その53 言葉噺

百人一首からの演目もいくつかある。その一つが「千早振る」という作品である。崇徳院が作ったという「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の、、、」というのも落語の演目となっている。今回は在原業平の「千早ふる神代も聞かずたつた川、からくれないに 水くぐるとは」がテーマである。

八五郎の娘連中は百人一首のカルタ取りをしている。取るだけでは面白くないから歌の内容を調べてみようということになった。そこで八五郎をとおして隠居のところにその歌のわけをききにくる。隠居は2〜3回読み直しているとアイディアがひらめいてきた。「竜田川、、、八五郎、この竜田川は何だと思う」、「川が付くから何処かの川だと思うかい。違うんだな、竜田川ってのはおまえ、相撲取りの名だ」。人気大関の「竜田川」が吉原へ遊びに行った際、「千早」という花魁に一目ぼれするが、肘鉄をくらう。こうなると隠居の一人舞台になって前代未聞の歌の読み解きが始まる。

「たらちね」だが、ある長屋に住む独り者の八五郎が主人公。大家に呼ばれ、「店賃の催促かい?」と勘ぐりながら伺ってみれば、何と縁談話。相手の娘だが、年は二十、それに器量良し、おまけに夏冬のものをいっさい持参という触れ込みの娘である。独り者には願ってもない縁談、しかし話がうますぎる。不審に思った八五郎、大家に問いただしてみると、やはりこの娘には「瑕」があった。厳格な漢学者の父親に育てられたせいで、言葉が改まりすぎて馬鹿丁寧なのだという。八五郎は結局その娘を嫁にもらうのだが、嫁の語り口が何が何だかさっぱりわからなくなる。なお、「たらちね」の漢字表記は「垂乳女」となっている。

「平林」もおかしみがある。丁稚の定吉は、医師の「平林」邸に手紙を届け、その返事をもらって来るよう店主から頼まれる。定吉は、行き先を忘れないように口の中で「ヒラバヤシ、ヒラバヤシ」と繰り返しながら歩くが、結局忘れてしまう。定吉は思い出すため、手紙に書かれた宛先の「平林」という名前を読もうとするが、そもそも字を読むことができなかったことに気づく。

そこで、通りがかった人に、「平林」の読み方をたずねることにする。最初にたずねられた人は「それはタイラバヤシだ」と答える。安心した定吉は、別の人に「タイラバヤシさんのお宅は知りませんか?」と聞くが、要領を得ないので手紙を見せると、その人は「「平」の字はヒラと読み、「林」の字はリンと読む。これはヒラリンだろう」と定吉に教える。また別の人に「ヒラリンさんのお宅は知りませんか?」と聞き、手紙を見せると、「平林」の書き順どおりに「イチハチジュウノモクモク(一八十の木木)と読むのだ」と定吉に教える。さらに別の人が同じように定吉に問われると、「ヒトツトヤッツデトッキッキ(一つと八つで十っ木っ木)だ」。

困った定吉は、教えられた読み方を全部つなげて大声で叫び、周囲の反応をひこうとする。叫びはやがてリズミカルになり、歌のようになっていく。「タイラバヤシかヒラリンか、イチハチジュウノモークモク、ヒトツトヤッツデトッキッキ」

やがて定吉の周りに人だかりができる。そこを通りがかった、定吉と顔見知りの職人の男が駆け寄ると、定吉は泣きながら「お使いの行き先がわからなくなった」と職人に訴える。職人が「その手紙はどこに届けるのだ?」と定吉に聞くと、
「はい、ヒラバヤシさんのところです」

「たらちね」は、和歌に見られる修辞である母を指す枕詞である。独特の情緒を添える言葉となっている。「青丹によし」は奈良を指す、というのは受験勉強でもでてきた。

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ウィスコンシンで会った人々 その52 幽霊噺

落語の定番といえるのが幽霊噺である。医術が未熟だった江戸時代は、死に対する恐怖は現代以上であったと想像する。それだけに幽霊は怖い存在であったことが伺える。それ故に、噺のネタとしてもたいそう庶民に受けたのだろうと察するのである。

「お菊の皿」という演目は幽霊と庶民の会話が中心である。筋は少し長くなるがお付き合いいただくことにする。旗本である青山主膳の番長邸にはお菊という女中がいた。美しい中にあどけなさの残る乙女で、主膳は側室にしようとした。だがお菊には許嫁がいたので、主膳の申し出を断る。どうしてもお菊は首を振らないので、お菊に管理させていた大事な皿を一枚抜いておいて、盗んだろうと濡れ衣を着せ、井戸に投げ入れて殺してしまう。ところが、夜な夜なお菊の幽霊が現れて青山主膳は狂い死にし、廃屋敷となる。

やが女中お菊の幽霊を見たいと考えた物好きな者が、怪談の舞台である番町の廃屋敷まで出掛けてゆく。果たして廃屋敷の井戸端にお菊の幽霊が現れ、恨めしそうに「一枚、二枚……」と皿を数え始めた。お菊の幽霊は恐ろしいが、妖艶で美しい。数える声を九枚まで聞くと狂い死にすると言うので、見物人たちはお菊が六枚まで数えたところで逃げ帰る。

幽霊お菊の噂が広まり、お菊を見に行こうとして見物人の数は日ごとに増えていく。やがて弁当や菓子を売る屋台ができ、客席が設けられて廃屋敷は芝居小屋のようになる。「お菊の皿数え」はまるで舞台演芸のようになり、幽霊のお菊は差し出しものも増える。お菊はふくよかになる。あげくの果てに客に愛想を振りまく。そしてお菊のファンクラブまでできるという盛況である。

今日もお菊の皿数えの上演がある。お菊は喝采を浴びて登場し、「一枚、二枚……」と皿の枚数を数え出す。お菊が六枚目を数えたところで客たちは逃げようとするが、客席が混雑していて逃げられない。ついに聞けば死ぬと言われている九枚目をお菊が数えた。しかし何も起こらず、お菊は「十枚、十一枚……」と皿を数え続ける。客たちが呆気にとられる中、十八枚まで数えたところで舞台は終わりとなった。
「なぜ十八枚まで数えたんだ」と客がお菊に尋ねる。お菊は「風邪気味で明日は休むので、いつもの倍まで数えた」と答える。

「お化け長屋」は江戸っ子は見かけとは裏腹に小心で恐がりというのたテーマ。長屋に空き店の札がでる。長屋が全部埋まってしまうと今まで空いていた部屋が自由に使えなくなる。そこで店子の古狸の杢兵衛が世話人の源兵衛と相談し、店を借りにくる奴に怪談噺をして脅かし、追い払うことにする。最初に現れた気の弱そうな男は、杢兵衛に「三日目の晩、草木も眠る丑三つ時、独りでに仏前の鈴がチーン、縁側の障子がツツーと開いて、髪をおどろに振り乱した女がゲタゲタゲタっと笑い、冷たい手で顔をサッ」と雑巾で顔を撫でられて、悲鳴をあげて逃げだす。ところが次に現れたのが怪談には全く無頓着な男。逆に二人を丸め込んで長屋をただで借りてしまうという噺である。

「死神」という演目も愉快だ。主人公は金に縁が無く、「俺についてるのは貧乏神じゃなくて死神だ」と言うと、何と本物の死神が現れる。仰天する男に死神は「お前に死神の姿が見えるようになる呪いをかけてやる。もし、死神が病人の枕元に座っていたらそいつは駄目。反対に足元に座っていたら助かるから、「オチャラカモクレン、アルジェリア、テケレッツノパ」の呪文を唱えて追い払え」と言い、医者になるよう助言して消える。この男、良家の跡取り娘の病をこの呪文で治したことで医者として有名になり、男は富豪となる。だた「悪銭身に付かず」でまた貧乏になる。

この「死神」にはさまざまなサゲがある。是非いくつかの噺家の「死神」を聞いて欲しい。

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ウィスコンシンで会った人々 その51 泥棒噺

泥棒の演目はいくつもあるが、その代表ともいえるのが「夏泥」。今の暑い時期に笑いたくなる噺である。夏のある日、貧乏長屋で男がふんどし一枚で寝ている。そこにやってきたのが盗人。おきまりのおどしで金を要求する。だが、男、貧乏三昧で死のうとしていたと告白する。食べるものがない、店賃の抵当(かた)に道具箱を持っていかれた、道具がなくて仕事ができない、着るものもないなど泥棒に身の上話をして「さあ、殺してくれっ!」と開き直られる。盗人は「声がでかいよ、」とうろたえてしまう。

困った泥棒、なにか食うものを買えといって小銭を男に渡す。だが、道具がないので仕事にでられないという。泥棒はさらに男に銭を差し出す。ところが質屋から道具を請け出すには利息が必要だといってさらに銭を搾り取る。おまけに仕事に出掛けるには仕事着が必要だといって、「この裸姿では仕事にでられない。、、貰った銭は返す、、さあ、殺せ!」と懇願する。困った泥棒、ますます深みに入っていく。まんまと金を泥棒からせびった男、、別れ際に「また来年の夏に入ってくれや、、」この泥棒は慈善事業をしたようだ。それがなんとも可笑しく共感を呼ぶ。

「締め込み」の舞台もまた長屋。戸締まりされていない長屋に賊が忍び込む。ヤカンが火にかかっていて、急いで物色した衣類を風呂敷に包む。そこへ部屋の主の男が帰ってくる足音が聞こえる。泥棒はとっさに台所の床板を上げ、縁の下に潜り込んで身を隠す。男は泥棒が残した風呂敷包みを認め、「古着屋が見本に置いて行ったのだろうか」とつぶやきながら開ける。風呂敷の中に女房の服が入っていることがわかる。

「女房は、俺の知らぬ間に間男をして、荷物をまとめて駆け落ちをしようとしているのだ」と勘違いし、激怒する。そこに女房が帰ってきて、組むつもたれつの大喧嘩となる。罵倒しあうが、女房の言い分に言い返せなくなった男は、そばにあったヤカンを投げつける。ヤカンのお湯が縁の下に隠れる泥棒のうえに注がれる。堪らなくなって泥棒は飛び出て、風呂敷包みは自分が作ったと白状する。男と女房は「お前が正直に話してくれなければ、俺たちは別れるところだった」と泥棒に感謝する。そして3人で酒を酌み交わす。

「締め込み」のサゲは読者に想像していただこう。

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ウィスコンシンで会った人々 その50 粗忽噺

「粗忽」。なんとも響きがよい。そそっかしい、あわてんぼうということである。広辞苑によると、 軽はずみとか唐突でぶしつけといった意味もある。

江戸時代、しばしば大火が起こり、そこら中に安普請のアパートが造くられた。長屋である。そのせいで宿替えとか引っ越しが日常的であったようである。「粗忽の釘」はそのような江戸の下町が舞台である。

粗忽者の亭主にしっかり者の女房が引っ越ししてくる。亭主はそそっかしいだけあって、運ぶ荷物を後ろの柱と一緒にくくってしまったり、それに気付かず担ごうとしたり、旧宅を出るまでに一騒動が起きる。女房が新宅にきちんと引っ越しても、亭主野郎はやって来ない。道に迷うわ行き先は分からなくなるわ。やっとの事で辿り着いた亭主に、呆れながらも女房は頼む。
「お前さん、ほうきを掛けたいから柱に長めの釘を打っとくれよ」
 「よしゃ、俺は大工だ、任しとけ!」

亭主はいい気になって釘を打ったが、調子に乗ってすっかり釘を打ち込んでしまう。それも柱ではなく壁に。おまけに八寸の瓦ッ釘。これが隣の家の仏壇の横に飛び出て、騒動の始まりとなる。

「転宅」という泥棒噺も粗忽の代表といえようか。大抵、落語の泥棒といえば間抜けなものと決まっている。お妾のお梅ところから旦那が帰宅する。お梅が旦那を見送りに行く。その留守にこそ泥が侵入してきた。この泥棒、旦那が帰りがけにお梅に五十円渡して帰ったのをききつけそれを奪いにやって来たのだ。

泥棒、座敷に上がりこみ、空腹にまかせてお膳の残りを食べ始める。そこにお梅が入ってきて鉢合わせる。慌ててお決まりのセリフですごんで見せるが、お梅は驚かない。それどころか、「自分は元泥棒で、今の旦那とは別れることになっている。よかったら一緒になっておくれでないか」と求婚する。

泥棒すっかり舞い上がってしまい、デレデレになってとうとう夫婦約束をしてしまう。そして形ばかりの三三九度の杯を交換する。「夫婦約束をしたんだから、亭主の物は女房の物」と言われ、メロメロの泥棒はなけなしの二十円をお梅に渡してしまう。泥棒は、今夜は泊まっていくと言い出すが、お梅がとっさに「二階に用心棒がいるから今は駄目。明日のお昼ごろ来るように」といって泥棒を帰してしまう。妾宅は平屋なのを泥棒は知らない。

翌日、ウキウキの泥棒が妾宅にやってくるとそこは空き家になっていた。近所の煙草屋に、お梅はどうしたかときくと、仕返しが怖いので引っ越したという。
「お梅は一体誰か、、」
「誰かといって、お梅は元義太夫の師匠だ」
「義太夫の師匠? 見事に騙られたぁ!」

「騙る」は「語る」を引っかけた落ちとなっている。「騙る」は「騙す」という意味ともなる。なんとも粗忽でおかしみのある泥棒である。

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ウィスコンシンで会った人々 その49 名奉行噺

鹿は春日大社の神使いとされ、誠に手厚く保護されてきた。庶民は鹿にかしずくほどであったという。ちょっと叩いただけでも罰金、もし間違って殺そうものなら、男なら死罪、女子供は石子詰めという刑が待っていた。興福寺の小僧が習字の稽古中に大きな犬が入ってきたと思って文鎮を投げたところ、それは鹿だった。当たり所が悪く死んでしまい石子詰を受けたという話もある。石子詰とは地面に穴を掘り、首から上だけ地上に出るようにして埋める罰である。

奈良の町に豆腐屋を営む老夫婦が住んでいた。ある朝、主である与兵衛が朝早くに表に出てみると、大きな赤犬が「キラズ」といわれた「卯の花」の桶に首を突っ込み食べていた。卯の花とはおからのこと。与兵衛が手近にあった薪を犬にめがけて投げると、命中し赤犬は死んでしまう。ところが、倒れたのは犬ではなく鹿だった。

当時、鹿を担当していたのは代官と興福寺の番僧。この二人が連名で願書を認め、与兵衛はお裁きを受ける身になる。この裁きを担当することになったのは、名奉行との誉れが高い根岸肥前守。お奉行とて、この哀れな老人を処刑したいわけではない。何とか助けようと思い、与兵衛にいろいろとたずねてみるが、嘘をつくことの嫌いな与兵衛はすべての質問に正直に答えてしまう。困った奉行は、部下に鹿の遺骸を持ってくるように命じる。そして鹿の餌料を着服している不届き者がいるとして、逆に代官や番僧らを責める。そして鹿が犬であることを認めさす。

「佐々木政談」はこちらも名奉行で知られた南町奉行、佐々木信濃守。非番なので下々の様子を見ようと、田舎侍に身をやつして市中見回りをする。そこで子供らがお白州ごっこをして遊んでいるのが目に止まる。面白いので見ていると、十二、三の子供が荒縄で縛られ、大勢手習い帰りの子が見物する中、さかしいガキがさっそうと奉行役で登場する。この奉行役の子供の頓智に佐々木信濃守は偉く感心してやがて子供をとり立てるという噺である。

「天狗裁き」の奉行は大分違う。家で寝ていた八五郎が女房に揺り起こされる。「お前さん、どんな夢を見ていたんだい?」八五郎は何も思い出せないので「夢は見ていなかった」と答えるが、女房は隠し事をしているのだと疑う。「夢は見ていない」「見たけど言いたくないんだろう」と押し問答になり、夫婦喧嘩になってしまう。喧嘩の仲裁に入った長屋の差配、町役人も夢の噺を聞きたがる。挙げ句の果てお白洲に訴えられ、奉行までもが夢の話を聞きたいといって八五郎を責め立てる。最後に高尾の山に飛ばされ、そこで天狗にまで夢の話を聞かせろと苛まれる愉快な話である。

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ウィスコンシンで会った人々 その48 与太郎噺

落語にはいろいろな人物が登場する。「八っぁん、熊さん、」などと並ぶ代表的なのが与太郎である。性格は八五郎に似ている。

例外なくぼんやりした人物として描かれる。性格は呑気で楽天的。何をやっても失敗ばかりするため、心配した周囲の人間から助言をされることが多い。こうしたキャラクターから、与太郎の登場する噺は爆笑ものが多く、与太郎噺と分類される場合もある。さらに「愚か者」の代名詞となっているが、決して憎めない存在だ。長屋の者は与太郎をかばうことも決して忘れない。

「孝行糖」という演目では与太郎は親孝行という筋書きになっている。孝行によって殿様から褒美の青ざし五貫文を頂戴する。五貫文とは一両一分で十万円くらいと云われる。長屋の者は、五貫文を元手に与太郎にお菓子の「孝行糖売りの行商を教える。自立させようというのだ。そして与太郎に客寄せの台詞教える。「チャンチキチ スケテンテン♪ 孝行糖、孝行糖〜」。

「錦の袈裟」という演目では与太郎にしっかりものの妻がいる。与太郎に錦の袈裟をふんどしをつけて男衆の集まりに送り出す。そして吉原に乗り込むが、与太郎は女達にすっかりもてる。与太郎を殿様だと勘違いしたからだ。周りの男は与太郎のもて振りにすっかりあてられる。

「牛ほめ」だが、新築の叔父の家を訪問し、父親に教えられた通りにほめ言葉を並べて感心されるが、最後に牛を見せられて失敗する。「大工調べ」では腕っぷしのいい大工として登場し、滞納した店賃のカタとして没収された道具箱を取り返すべく、大工の棟梁の助言で、あこぎな家主を相手に訴訟を起こす。お奉行も味方しようとするのだが、ばか正直なためになかなか決着しない。「つづら泥棒」は与太郎が泥棒を試みる数少ない噺。夜自分の家に泥棒にはいるという大失敗をする。

「佃祭」にも与太郎が登場する。佃島の祭りの帰りに渡し船が転覆して死んだと思われた近所の旦那の家に、ほかの住人たちに連れられて長屋の月番で代表の1人として弔問に訪れる与太郎。だが、悔みと嫌みの区別がついていなかったり、最初の一言が「このたびはどうもありがとうございます」だったりで、厳粛な雰囲気をぶち壊しにする。

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ウィスコンシンで会った人々  その47 世間知らずの殿様

筆者は落語の素人。まったくの後発組である。そのような訳で落語を語るには少々気恥ずかしい気分なのだが、どうしても筆を執りたくなるほど落語の世界は不思議と面白いと感じる一人である。素人の目からみた落語の内側には、人の生き様とかペーソスが充満していて、なんとしてもこうした欄で何かを書きたくなる。

落語の演目にはいろいろなモノが登場する。例を挙げると、名前では八五郎、与太郎、熊五郎、定吉、多助、三太夫、正助、三太夫、お鶴、お菊、などである。動物では犬、猫、狸、鹿、鷺、雀、ウワバミ(大蛇)、馬、魚では鰻、秋刀魚、鯛、白魚、カツオなどである。人に関しては、坊主、花魁、遊女、行商、盲人、間男、盗人、殿様、うつけ、侍、女房、妾、女中、くずや、魚屋、大工、長屋の差配、幇間、按摩、蕎麦屋、ケチ、お人好し、正直者、間抜け、世話好き、粗忽者、ほら吹き、博打好き、大酒飲み、乱暴者、藪医者、などなどきりがない。話題となると、夢、富くじ、大火、火の用心、怪談、幽霊、引っ越し、転失気、道楽、吉原、喧嘩、祭り、敵討ち、天狗、浅草寺、長屋、講中、白洲など多彩である。うつけは空け/虚けとも書く。

おおよそ落語に登場する人物には、名奉行や頓智のある子供などは例外として、真面目で頭の良い者は登場しないことになっている。こうした人物は笑いの対象にはなりにくいようである。江戸時代は士農工商の時。お侍が形の上では幅を利かしていた。町人は小さくなって歩いていた時代だ。そんなこともあってか、大名とか殿様は笑いの対象になっていた。世の中の動きに疎いこともあり、町方は殿様を茶化すのである。

そうしたぽーっとしたうつけ殿様の代表が「目黒の秋刀魚」にでてくる。自分でどうしても蕎麦をを打ちたくて、習ったばかりの蕎麦の作り方を家来に披露する。ところがその蕎麦がとても食せるような代物でない。だが、殿様の打った蕎麦を食べないと打ち首になるという。だから殿様手作りの蕎麦は「手うち蕎麦」というそうだ。

この殿様、目黒への早掛けの際に百姓が庭で焼いていた秋刀魚の味をしめる。ある園遊会があって、殿様は秋刀魚を所望する。ところが出てきた秋刀魚は、ぱさっぱさで香りがしない。おつきの者は、この秋刀魚は房州で獲れた新鮮なものだと説明する。殿様は「やっぱり秋刀魚は目黒に限る」と自慢するのである。武士をおちょくることで庶民は溜飲をさげたにちがいない。

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ウィスコンシンで会った人々 その46 「地噺」と鰍沢

落語は人情噺や滑稽噺のようにほろりとさせたり、笑わせるものだけでない。演者がストーリーを語ることを中心として上演されるものもある。これが「素噺」とか「地噺」と呼ばれる分野である。落語の多くは、登場人物の対話で話が進む。だが地噺は、演者が聴衆に人物の心理を周りの状況を説明しながら筋を進行させる。

筆者が好きなのは、名人古今亭志ん朝の地噺である。その中で、「鰍沢」と「塩原多助一代記」を取り上げる。「鰍沢」という地名は山梨県南巨摩郡にかつて存在したといわる。江戸時代には富士川舟運の拠点であった鰍沢河岸があった。今は富士川町となっている。南巨摩郡には身延町があり、日蓮宗の大本山久遠寺がある。

久遠寺での参詣を済ませたある旅人は、帰りに大雪の中、山道に迷う。たまたま見つけた一軒家で一夜の宿を頼む。応対したのが妙齢の婦人、お熊である。だがアゴの下から喉にかけて突き傷跡がある。体を暖めるためすすめられるまま卵酒を半分ほど飲む。話をするうち、お熊がかつては吉原の遊女であり、現在は猟師の妻であることが分かる。旅人はお熊と会ったことがあることを告げる。

お熊は夫の酒を都合しにと言って雪の中に出る。旅人は酔いと疲れのために道中差しを枕元において眠りに落ちた。そこへお熊の夫が帰ってきて、旅人が残した卵酒を飲み干す。だがたちまち苦しみ出す。帰ってきたお熊は夫に「旅人にしびれ薬入りの酒を飲ませて殺し、金を奪い取る算段だった」と明かす。それを聞いた旅人は、すでに毒が回った体で久遠寺の「毒消しの護符」を雪で飲み込み、吹雪の中へ飛び出し必死に逃げる。途中、体の自由が利くようになる。お熊は鉄砲を持って旅人を追いかける。

旅人は川岸の崖まで追い詰められる。そこへ雪崩が起こり、旅人は突き落とされる。運よく、川の中ではなく、岸につないであった筏に落ちそれが流れ出す。お熊の放った鉄砲の弾が旅人を襲うがそれる。急流を下りながら懸命に「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、、」。旅人は窮地を脱するという噺である。

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ウィスコンシンで会った人々 その45 扇子と「サゲ」

今日まで伝承されている話芸の落語や講談。演者が一人で何役も演じ、語りのほかは身振りや手振りのみで物語を進める独特な形式の芸能である。使うのはといえば、扇子や手拭だけ。舞台には座布団があるだけである。たまに音曲が流れてくるのもあるが、それは例外。ほとんど演者が工夫を凝らして、演目に登場するモノや人を表現する独演である。表情や視線も大事な仕草となる。扇子と手拭を使い、食べる、飲む、寝る、歩く、酔っぱらうなどを座布団に座って演じる。

古典落語のうち、滑稽を中心とし、噺の最後に「落ち」のあるものを「落とし噺」という。これが「落語」の本来の呼称であったが、のちに発展を遂げた「人情噺」や「怪談噺」と明確に区別する必要から「滑稽噺」の呼称が生まれた。今日でも、落語の演目のなかで圧倒的多数を占めるのが滑稽噺である。滑稽噺は「生業にかかわるもの」(日常性)と「道楽にかかわるもの」(非日常性)に大別されるといわれる。「片棒」という演目は冨を築いた旦那が三人の息子の誰に跡を継がせるかという展開で、困ってしまうという噺である。日常性と非日常性が見事に溶け合っている。

人情の機微を描くことを目的としたものを「人情噺」といい、親子や夫婦など人の情愛に主眼が置かれている。人情噺はたいていの場合続きものによる長大な演目である。人情噺にあっては、「落ち」はかならずしも必要ではない。「子別れ」や「文七元結」、「芝浜」などの演目はそうだ。

「落とし噺」や「人情噺」が一般に語り中心で上演されるのが「素噺」である。鳴り物や道具などを使わない。「怪談噺」のような芝居がかったものに音曲を利用するのもある。特に幽霊が出てくるような噺は、途中までが人情噺で、末尾が芝居噺ふうになっている場合が多い。怪談噺は、笑いで「サゲ」をつけるという落語の定型からはずれるのもある。

「サゲ」の特徴だが、聴衆に対し「噺はこれでおしまい」と納得させるしめである。それ故に「サゲ」は演者の創作性が出るところが聴衆にとって興味深い。「千早振る」という百人一首を題材としたパロディ調の演目もそうだ。演者が最も神経を使うところではないかと思うのである。

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ウィスコンシンで会った人々 その44 古典落語と創作落語

筆者が落語を少しは嗜むようになったのは定年後である。それまでは、仕事が特に忙しかったわけでもなかったが、他にマラソンをやったり藤沢周平の本を読んだり、カメラをいじったりして落語を楽しむ余裕がなかった。

iPodを手にしてから、さてなにを入れようかとしたとき、音楽に加えて落語が有料、無料でネット上で沢山あることを知った。それ以来購入したりしてため込んでは歩きながら、山登りをしながら楽しんでいる。

落語の楽しみが少しずつわかり始めた。それは演目もさることながら、噺家によって落語の内容が聞き手に異なって伝わることである。一つの演目をいろいろな噺家で聞くという贅沢さを楽しんでいる。

落語は、「落とし話」といわれるように大抵の場合そのお終いに「サゲ」がある。これを期待して聞き手はどんなサゲなのか、とワクワクしながら待つ。古典落語はレパートリーが決まっているので、演者の語り口の違いを楽しむことになる。さすがに名人と呼ばれる噺家の語りには聞き惚れる。最近は、新作落語とか創作落語も楽しんでいる。新作落語は、古典落語と並んで落語の大事な幹といわれる。

新作落語は年代的には若手の噺家によるものが多い。例外は、上方落語の名人、桂三枝、今の六代目桂文枝である。現在71歳だが、その創作力には驚くほどである。彼は、「新作落語はおおむね、時期が過ぎたらそのネタを「捨て」ざるを得なくなる運命にある」として、「創作落語」と呼んでいる。この発想は頷ける。柳家喬太郎の「ハワイの雪」という人情噺もある。「寿司屋水滸伝」という創作落語にもサゲが待っている。

古典落語は、滑稽噺、人情噺、怪談噺に分類されるようである。創作落語は、その時代を反映した話題をネタとする滑稽噺と人情噺が中心といえようか。どちらも落語の主柱として高度な技芸を要する伝統芸能である。もっと親しみ笑いたいものだ。

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ウィスコンシンで会った人々 その43 「定石」と「手筋」

囲碁は長い歴史がある。それゆえ、研究されてきて最善とされる形となる決まった石の打ち方がある。それが「定石」である。双方が最善を踏んだ手順であるから、部分的には双方が互角になるのである。定石に至る応酬は、相互が定石を知っていて始めて成立する。どちらかが大得するとか大損をするということはないはずである。

しかし、碁盤の他の部分の配石次第で、定石どおりに打っても悪い結果になることがある。周りの状況を見ながら定石どおりに打つのがよいかどうかを判断するのが難しい。囲碁の格言にある。「定石を覚えて二子弱くなり」である。これは、初中級者が定石の手順を丸暗記していたために起こった悪い結果のことを揶揄したものだ。囲碁は部分的と全体の関連のなかで進められる。双方の戦術がいかなるものかによって、部分的な定石で納めるか、あるいは定石を少し離れて少しくらい損をしても、全体的には得をすることを選ぶこともある。

定石の一手一手はそれ自体が「手筋」の応酬である。「手筋」であるが、平凡な発想ではなく、やや意外性を含んだ効果的な手とされる。この種の手を「筋」(すじ)と呼ぶこともある。「手筋」は勉強していないと、対局中はそれが浮かばないものである。丸暗記をしてそれを時に試してみることだ。

「手筋」にはいろいろある。自分の石が生きる手、攻め合いに勝つ手、形を整える手、連絡を図る手、相手の地を削減する手、先手をとる手などある。「手筋」は定石に似たものであるがので、良い形や結果を生むとされる。また「手筋」は業であり技であるので、これを使うことによって形勢が有利になることが多い。

一手一手の意味を考えながら「定石」と「手筋」のレパートリーを増やすことが囲碁上達の基本とされる。囲碁の稽古に早道はない。愚直に稽古を積み重ねることを心掛けたい。

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ウィスコンシンで会った人々 その42 「石の心」

「石の心」ということを強調したプロ棋士がいる。梶原武雄という人だ。この人にはいろいろな話題があるようだが、石の形、石の効率、石の働きをことさら大事にしていたことがわかる。それが「石の心」というフレーズに表れている。

「石に心はあるのか?」という野暮な問いはやめて、一つひとつの石には棋士の思いと考えが込められているという意味に解したい。石を働かせるのも腐らせるのも打ち手の読みや戦術次第である。石に意図を込める、石に役割を与える、といった調子のことだろう。

下手はどかく石を取ることに喜びを感じる。これを「取りたい病」というのだそうだ。だが、上手になると石を捨てることに喜びを感じるのだそうである。囲碁はこのように感情さえ伴うゲーム。深い読みと心が表れるのである。

地を小さく囲うのではなく、大きく広げて相手の「ヤキモチ」を待つ。入ってきた石は例え取れなくとも小さく活かす。そのことによって自然に壁ができて、活きられた分の見返りを手にする。「活きてもらうが、こちらもいただく」という呼吸が「石の心」につながる。どちらかが一方的に大もうけをすることは囲碁にはない。

このようなことを云っても、最後はどちらが地が多いかによって勝敗が決まる。筆者の場合、あまり部分にこだわらず、また地にこだわらず打つのが好きなのだが、地合いで敗れることが多い。もう少し「地に辛く」打つのを心掛けようと考えてはいる。

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ウィスコンシンで会った人々 その41 「厚みに近づくな」

囲碁の格言に「厚みに近づくな」というのがある。どんな戦いでも相手の石の多いところ、つまり強い所に近づくと危うくなる。双方がこの厚みをどう使うかが作戦の分かれ目となる。

自分が厚みを築いたならば、相手の石を自分の厚みに誘い込み、これを攻めに使うのである。厚みを効率的に使うとはこのような作戦をいう。下手は、ヤキモチをやいて厚みを荒らそうとする。壁のような厚みは壊れることがない。荒らそうとすればするほど自分の石が危うくなる。

上手は、自分の強い石に近づくと効率が悪いことを知っているので、強い石に相手を追いこみその周りに地を作る。これが効率が良い。厚みに寄った相手は生きることで四苦八苦する。周りをみると上手の石ばかりとなる。

相手の石を自分の強い石に追い込むためには、反対側である自分の弱い石から動くのが良いとされる。つまり相手の石の背後に回るのである。自分の強い石はほっといていいのである。強い石を強めるのは,屋上屋を架す最悪の状態だ。 石の働きが乏しいとか石の効率が悪いという状態である。。

序盤や中盤では、決して石を取ろうとか地を取ろうという意識は持たない。むしろ相手の弱い石を早く見つけて、攻めて自分の土俵を築くことだけに専念するのがよい。厚みとは自分の土俵のこと。こうしてできた自分の土俵だけで相撲を取るようにする。

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ウィスコンシンで会った人々 その40 スピードと馬力

ワールド・カップのフィーバーも終わり日常の静けさが戻ってきた。虚構新聞にあった「なでしこの勝利」はやはり誤報であった。「なでしこの選手はおしとやかで、清々しく、礼儀正しく、控えめな女性でなく、肉食系の怖い存在だった」というの虚構新聞の調子だった。だが、決勝まで勝ち進んだからには、相当に肉食系であるのもあながち虚構ではないといえそうだ。編集長も少しは溜飲を下げたかもしれない。

外国の選手、特にアメリカやドイツの選手のように「なでしこ」にはもっと背丈と横幅が欲しいという印象である。いくら組織的でチームワークを大事にするといっても個々の力に差があるとチームワークはずたずたに裂かれる。それが決勝戦の前半であった。組織の力は個々の強さ、スピードがあってはじめて活きる。敏捷さがあって縦のドリブルと突破力が欲しい。ネイマール、メッシはこうした技を持ち、相手を引きつけてラストパスを出す。彼らはボールの納め方やコントールが正確だ。ゴールに向かったボールを保持し、ゴールエリア内でドリブルを仕掛ける。相手はうかつに近寄るとPKをとられる。まるで獲物を狙うようである。

一度FCバルセロナの試合を観た。メッシには二人のディフェンダーがついていた。反則をとりフリーキックを成功させた。イニエスタとシャビといった選手も個人技、早さと敏捷さが凄かった。こうした選手とパス回しをするとスペースができて相手は置き去りにされる。

さて、素人ながら「なでしこ」の今後に期待することである。まずは世代交代によるFW、DFに背の高い大柄な選手が欲しい。彼らにスピードがあればもっとよい。ヘッディングが強くルーズボールを味方が拾う展開が欲しいのである。このような場面では相手はミスキックをしがちなのである。そしてオウンゴールを献上する。相手を押し込むにはスピードと縦の突破ができる選手が欲しい。

来年のリオでのオリンピックでは、世代交代によるスピードと馬力のある「新生なでしこ」をみたいものである。

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ウィスコンシンで会った人々 その39 「石の効率」

「石の効率」ということを考える。「二線敗線、四線勝線」という格言がある。十九路盤ではできるだけ中心に向かって石が打たれる。武宮正樹九段はかつて「宇宙流」という戦法を使い囲碁界に革命のような衝撃を与えた。彼は、碁盤の中心を宇宙にみたて、石が中央に向かい地を作ることを提案した。

地を取ろうとすると、どうしても隅や辺に石が向く。時に二線を必要以上にハウこともある。二線では地が1目ずつしか増えないのに相手の厚みがそれ以上に増し良くないのである。それとは対照的に四線をノビていくのは、地が3目ずつ増えていくので効率がよい。これを「石の効率」という。

四線を重視するのは、囲碁の布石の段階である。定石などが形成される。両者互角の情勢である。中盤の戦いが終わると終盤に入る。このとき、二線のハイは極めて大きなヨセとなる。だから格言はどのような場合にも当てはまるとは限らない。序盤は四線、終盤は二線と覚えておけばほぼ間違いない。

さらに、「石の効率」だが、効率が良いというのは石が働いている状態のことである。効率が悪い石とは、ダンゴのように固まった石、駄目
詰まりになったような石、「空き三角」になったような石をいう。「空き三角」の石とは相手には、全く響かない無駄になっている状態のことをさす。上手はこのような効率の悪い石の形に持ち込もうとする。

相手の厚みに近づきがちなのが下手。相手の地が大きく見えるからである。「ヤキモチ」を焼いて、相手の陣地に石を打ち込んで地を荒らそうとする。だが、大抵の場合こうした石の落下傘部隊は召し捕られるか、追い立てられてバンザイとなる。相手の石を自分の厚みに誘い込むというのが上手の戦術でもある。囲碁ではヤキモチをやくのが、最も石の効率が悪くなる実戦心理といえる。

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ウィスコンシンで会った人々 その38 「虚構新聞」から

FaceBook上でおやと思った新聞記事を読んだ。タイトルを見ると「17歳にも選挙権を、 国会前で人間の鎖」、これは嘘ニュースです、、とある。よくながめるとこのサイトは「虚構新聞」とある。すっかりはめられた気分になったが、その発想が面白かった。

「17歳にも選挙権を、、」という記事を読むと「選挙権年齢を20歳以上から18歳以上に引き下げる改正公職選挙法が成立したことを受け、23日、選挙権が与えられなかった17歳にも権利を求めるデモが行われ、17歳の少年少女6千人(主催者発表)が「人間の鎖」を作って国会議事堂を取り囲んだ」とある。なんだか本当のような話題であった。

別の嘘ニュースには次のようなのがある。「民主主義」特許使用料、各国に請求、ギリシャ」事実上の債務不履行に陥ったギリシャ政府は、同国発祥の「民主主義」を国際特許として出願、政体として採用する世界各国に使用料を求めていく方針であることが分かった。年間数兆円規模の特許収入が見込まれることから、財源確保と健全化に道筋をつけたい考えだ。財政難を救うために窮余の一策「民主主義」から特許料をとろうという発想が愉快だ。

筆者が真剣に読んだニュースがある。「安倍内閣、女性省を設置することにした。」というのである。もう少し読むと、「この省はすべて女性だけで8,000人の職員を置く」というのである。どんな業務をするのかは知らないが、「女性が輝く日本へ」という安倍内閣の成長戦略があり、「待機児童の解消」「職場復帰・再就職の支援」「女性役員・管理職の増加」と謳うのであるから、女性省の設置もまんざらでないと思うのである。

笑ったのは、「新国立競技場、CG式で決着、現行計画は破棄」である。東京オリンピック・パラリンピックのメイン会場となる新国立競技場の建設を巡る問題で、文部科学省は現行の建設計画を全面的に見直し、ゴーグル型ディスプレイを用いたバーチャルリアリティー(VR)方式で進めることを決めた。今のデザイン案を維持したまま総工費を抑えるための「苦肉の策」である。この案は実現が可能なような気がするのだが、いかがであろうか。

その他、ユニークなテーマもある。どれも風刺というかエスプリがきいて楽しくなる。
・陸自の高齢化深刻「ノンステップ戦車」開発も
・学費無料、内閣直轄のエリート大学を京都に

このようなサイトを「馬鹿馬鹿しい」といって切り捨てないで、その発想を楽しむのも一興だと思うのである。

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ウィスコンシンで会った人々 その37 「一目置く」と急所

囲碁は相手と交互に打つゲーム。時に相手の良い手には敬意を表し、引き下がるのが良い。それを勘違いして逆襲でもしようならこっぴどく痛めつけられる。だから、「一目置く」のが囲碁の基本である。一歩譲るとか遠慮するのである。囲碁の格言は人間の機微に通じて奥が深い。

囲碁にも将棋にも急所がある。相手にとっての急所は自分の急所であり、重要な着目点となる。急所をはずしては相手に楽をさせるばかりか、形勢を損じる。戦争を考えても急所の大事さは同じ。急所とは自分の弱点である。逆の場合もある。問題はどちらが先に打つかである。幅広く陣地を拡大しようととして、急所を逃しては勝機を逸する。「大場より急場」という格言も同じ意味である。

下手は得てして攻撃を優先しがちである。攻撃とは反撃を食らわないように自陣を備えることから始まる。急所とか要所を押さえておけば安心して攻撃にでることができる。自分の大切な所、相手が攻撃を狙うところが急所である。

囲碁の戦術を戦争と比較してみる。太平洋戦争の戦略上の要諦とは、南方の石油や食料資源を確保することであった。そのためには、ベトナム、フィリッピン、台湾、琉球列島を結ぶ空海圏が急所で、それを守ることであった。しかし、守備範囲が伸び過ぎてこの急所の備えを怠ったために輸送船はことごとく潜水艦の餌食となった。

囲碁ではしばしば捨石を使う。捨石によって陣形を立て直し、先手を取ることが多い。捨石には役割がある。決して無駄になるのではない。

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ウィスコンシンで会った人々 その36 「アタリ、アタリ、はヘボ碁の見本」

八王子市内の小学校での囲碁教室も三週目を迎えた。全くの初心者ばかりなので石の置き方から教えている。数人の母親も参加している。九路盤を使って「石取り」、「陣取り」から始めている。黒板に自作の大盤をおいて、黒く塗った黒と白の丸い磁石を使って説明する。オセロと勘違いしているのもいるが、それはそれでよいと思っている。辛抱強く教えるほかない。

石取りでは、どうしても「アタリ」の石をうって囲もうとする。「アタリ」は取られそうな形の石のことである。囲めば相手の石がとれるが、「アタリ」になった石が逃げれば自分の石が弱くなっている。そして取ろうとした石が取られる。だから石はできるだけ二石か三石にぴんと真っ直ぐに伸びることを教える。だがなかなか言うことをきかない。この状態に似たことを表現する格言に「アタリ、アタリ、はヘボ碁の見本」というのがある。「アタリ」はできるだけ我慢して打たないに良いことが多い。「取ろう取ろうは取られのも」という囲碁の格言をこれから教えていくことにする。

石のぶつかり合いでは、上手は真っすぐ打ち、下手は「コスム」を多用しがちだ。「コスム」とは斜めに打つことである。「コスム」のほうは、後で「空き三角」とか「ダンゴ石」という美しくない形ができやすい。真っすぐには、オシ、ノビ、一間トビなどがある。一間トビでは割り込みという手があるが、概して良い形を維持することができる。安定した石になることだ。

真っ直ぐには、一間トビ、ノビ、オシがある。一間トビではワリ込みによる切断があるものの、一般的には良い形を維持することができる。子供向けの囲碁教室にとって、少しややこしくなったので次回に譲る。

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ウィスコンシンで会った人々 その35 留萌線が廃止か 

1951年、小学校4年の時、美幌から名寄に引越した。父親の勤務が名寄駅になったためだ。名寄には、宗谷本線、名寄本線、深名線があり、当時としては交通の「要所」であった。名寄線は、名寄から遠軽や湧別を結ぶ138キロの路線であった。オホーツク海を眼前にしたのどかな鉄道であった。だが1989年5月に全線が廃止された。もう一つ、名寄と深川を結ぶのが深名線であった。こちらも122キロと結構長かった。途中人造湖の朱鞠内湖がある。山葡萄や蕗、わらびとりに出掛けた所である。父親は深川の駅長もしたことがある。路線は1995年に廃止された。

小学校6年のとき、名寄から稚内に引っ越した。当時走っていた天北線は音威子府駅で宗谷本線から分岐し南稚内駅へ至る149キロの路線である。途中、猿払原野など荒涼とした風景が展開する。そして1989年5月に廃線となった。残ったのは宗谷本線だけである。

ようやく留萌線の話題にたどり着いた。この線がまたまた廃止になるという。留萌線は深川と留萌、増毛を結ぶ67キロの路線である。留萌は日本海に面する漁業の町である。1950年代は鰊漁で非常に栄えた町である。留萌線はまだ残された赤字ローカル線の一つだ。

筆者が小さい頃生活していた美幌、名寄、稚内、深川だが、そこにあった路線がことごとく廃止されるという有様である。鉄道の廃止で街が廃するのは、廃止後の沿線の街の現在をみれば明らかだ。そして凋落という未来を物語る。街の凋落は商業活動が停止することである。モノとヒトとカネの流通がないところに繁栄はない。

40年間鉄道で働き、管理業務をこなし、組合とやりあい、貨車の手配をしで夜遅くまで忙しかった父がこの鉄道の「悲惨な」状況を目の当たりにしたら、なにを感じるだろうか。一方で新幹線の北海道上陸が近く、沿線の自治体は盛り上がる。他方、地元の人の足となっていたローカル線がまた姿を消そうとして、沿線の街が無くなろうとしている。

ウィスコンシンで会った人々 その34 ローカル鉄道とぽっぽや

またまた鉄道路線廃止のニュースに接した。長年育った北海道の話である。筆者は1945年の終戦直前に樺太から美幌に引き揚げてきた。父は抑留後1948年に無事家族に合流することができた。樺太鉄道で働いていたので、美幌の駅で再就職することになった。成田家にとって鉄道生活は「鉄道員(ぽっぽや)」ほど話題性はないが、抑留とか引き揚げという体験には、ぽっぽやの駅長以上の生々しいドラマがあったはずである。

1987年に国鉄の民営化によりJR北海道が誕生した。この新会社が最初に取り組んだ課題は経営基盤を固めるということであった。その方策として最も手っ取り早かったのが、赤字路線の廃止であった。北海道の道北や道東は人口密度が極めて薄い。

美幌は屈斜路湖や阿寒湖を控えた小さな町である。ここに相生線というのがあった。相生線は美幌駅と終点北見相生駅の間で、たったの37キロ。北見相生駅は阿寒湖やオンネトーへの玄関口で、阿寒湖まではバスで25分という近さだった。

戦後、この路線に国鉄が持っていた土地が職員に貸し出された。食料を得るためにトウキビやトウモロコシ、カボチャ、大根、人参などを作った。畑は相生線にある活汲という駅のそばにあった。線路にトロッコを乗せて道具や肥料を乗せ、帰りは収穫物を運んだ。汽車は一日数本しかなかったのでトロッコを使えた。相生線そばの畑は我が家の食糧難を救った地でもある。だが1985年に廃止された。

「鉄道員(ぽっぽや)」の撮影の舞台はどこかはわからない。だがあの吹雪や駅舎や線路のたたづまいは相生線のような気がする。単線の線路脇に立つ腕木式の信号機、転車台、切符の手動販売機など。信号機だが暗くなるとカンテラが灯される。腕木が水平なら汽車は停止、45度斜めに下がれば進行を示す。こうした作業は人手に頼っていた。それだけに信頼度の高い仕組みだったといえる。

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ウィスコンシンで会った人々 その33 実験計画の重要性

「教育の営み」ということを我々はしばしば使う。それは、過去の経験とか経験則にそって帰納的推測を信じているからである。どういうことかというと、「どうしてそのような指導法を使うのか」と問われると、「過去にいつも同じようにうまく働いた」とか「同じような結果がでた」と主張して同じ事を繰り返す。だが、将来もうまく働くと期待させるには、どのような根拠が必要なのかを問わなければならない。

我々の日常の行動は、こうした過去の行動の延長がほとんどといってもよい。学校でも大学でも企業でもそうだ。だが新しい試みはそこに何らかの見通しや予測が働き、よりよい結果や成果を期待する。そして検証という課題が待っている。これが面倒なためにどうしても繰り返しという道を選びがちになる。過去の経験と結果に拘泥していては、新し発想は生まれにくい。

ウィスコンシン大学での勉強に戻る。大学院では実験などの検証方法を学んだ。検証といってもいかに信頼しうるデータを収集するか、そのための実験計画はどうあるべきか、いかに誤差を減らすとかばらつかせるか、人の行動変容と意図した実験やカウンセリングではどのような落とし穴があるか、それにはどう対応するかなどのことである。例えば、特に子供の著しい成熟、家庭の状況、例えば両親の療育態度、子供の健康状態、大人であれば経済的な貧富や周りの交友関係があるやなしや、などが行動にいろいろと影響していくる。こうした誤差を生みやすい要因にいかに対応するかなどである。こうした授業は実験計画という科目であった。

ところで最近友人から問い合わせがあった。卒論で「部活をしている学生」と「部活をしていない学生」の間で「寂寥感」は違うかどうかを調べるには、どのような統計手法を使ったらよいかというものであった。この問いには簡単に答えるのは難しい。学生には、部活の他に毎月の経済状態とかアルバイト、健康状態、友人関係、都会か地方とかの出身、指導教官との関係、学業成績、自尊心などといった要因がある。通常、こうした要因は変数と呼ばれ「寂寥感」に影響してくるとも考えられる。今の学生のスマホを使ったSNSの利用は、部活よりも寂寥感とか孤立感を癒す要因となっているかもしれない。

「寂寥感」とか「自己効力感」などを調査するには、上述したような被験者とか調査対象者の環境から生じる属性である変数を考慮しなければならない。そのためには、テーマに関連するような調査項目や設問など精査しておくことが大事なのである。実験計画とか調査計画がしっかりしていれば、あとは統計処理に任せるだけだ。

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ウィスコンシンで会った人々 その32 大学のシーラカンス

統計上の検定にはいろいろと思い出がある。大学にいた頃の話である。そのほとんどは、「どんな検定を使ったらよいですか?」という類である。実はこうした相談は一番困惑する。大学の教員にはさまざまな人がいて、院生や学生に修論や卒論の課題を出したりする。院生のほうから「これこれしかじかの研究をしたい」という申し出もある。筆者は、その研究課題をどうして選んだのか、誰かの役に立つのかを考えさせることにした。こちらが思いもよらない素晴らしい提案をする者もいる。例えば「筋ジストフィー児の自己効力感の向上」といったテーマである。

大学では、他の指導教官が筆者を指定して院生を修論の相談に来させることがあった。そんなときは、まんざらでもないという気分になる。自分の専門分野でない問いを院生が持ち込んできたときは、筆者も知り合いの他の教官に相談するのがよいと助言して送りだす。大学にはいろいろな専門分野の人間がいるので、院生はそうした資源を活用できる特典がある。だが中には、他の教官の指導や助言を避ける者もいる。閥があるからだ。院生の囲い込みのようなことをしていては、院生が不幸である。

大学はさまざまな専門性を持った者の集団である。古い者は辞めていき、新しい血が注がれる。新陳代謝が多いのが大学だ。だが、シーラカンス(coelacanth)のような者もときにはいる。長く勤めれば勤めるほど同じ出身大学の後輩が集まり大学での発言権が高まる。差配のような存在となる。そして名誉教授などという箔が貰える。このとき研究業績などは考慮されない。これが国立大学法人の特徴である。

大学に学閥があるというは、今も昔も変わらない。シーラカンスのようなものだ。これを打破しようと文科省は大学に特徴を持たせようと大学を競わせ、競争的研究費をあてがい、組織の統廃合を進めようとしている。閥に入れなかったからといって少々ひがむのであるが、大学の発展のためには交付金の配分にメリハリをつけ、組織にメスというカツを入れることは悪いことではないと考える一人である。

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ウィスコンシンで会った人々 その31 「確からしい知識」と人間の行動

ウィスコンシンの大学院へ進んで驚いたことはいろいろある。その第一は実験計画や推測統計の授業内容が濃く、その知識の習得を調べる試験が厳しいということである。もう一つの驚きは、科学的方法という科目を履修しなければならないことであった。

筆者の所属したのは行動障害学科(Department of Behavioral Disabilitis)といった文字通り人間の行動を基本にして、様々な行動の形態や特徴をとらえ、それを変容させたり発展させることを目指して科目が設定されていた。その方法は応用行動分析とか行動療法という手法に現れている。

こうした研究分野は行動科学と呼ばれる。行動科学はなかな手強い学問である。人間の自由、その生と死、人間と環境、天賦の才能、思考や認知、知識と実在、価値と道徳、など哲学的ともされる課題や問いを扱うからである。以前、このブログで帰納推理ということを話題にしたことがある。そして「確からしい知識」とか「確実に起こりうる見込み」といった現象のことに触れた。

行動科学の本来の仕事は、経験から得た知見を仮説としてそれを検定するという演繹的なテストのことだとも述べた。集めた事例を吟味してそれを一般化にいたる合理的な方法を見いだそうとする。そのためには観察や調査、そして実験に耐えられるかどうかの合理的な方法を求めるのである。

帰納推理とは特殊から一般を推論する方法である。観察や実験から科学の法則を導き出す方法ともいえる。この方法の特徴は演繹推理と異なり、絶対確実な推理ではないという点である。何十回、何百回の観察や実験によって確かめられたといっても、あるとき別な方法によって意外な結果が表れるかもしれないのである。

従って、科学の知識とは確実ではない推論を積み重ねて構成されるものだから、確実な知識ではない、「確からしい知識」といわれる。ある事が起こり得る「見込み」である蓋然性ということが、人間界の現象、特に人間の行動上の特徴といえそうである。

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ウィスコンシンで会った人々 その30 Intermission その二 沖縄独立論の後退

「沖縄独立論」は、琉球王国時代の豊かな文化や芸術、土着の宗教や言語などにその起源があると考えられる。南方との交易によって琉球にはいろいろな文化ももたらされた。特に最大の交易相手だった中国の影響を強く受けた。琉歌や組踊りも独特である。他方で書き言葉は主に漢字かな交りの和文を用いた。

琉球の独自性は、多くの文化人といわれる人々によって研究されてきた。「沖縄学の父」と呼ばれた伊波普猷の沖縄研究は、沖縄の言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に渡る。彼の後継者といわれたのが外間守善で、生涯を琉球文学や文化研究に捧げた。比嘉春潮もまた沖縄史の研究者であり沖縄の独立を主張した社会運動家である。仲宗根政善はひめゆり学徒隊の引率教官。そして戦後は琉球方言の研究や沖縄の教育行政にあたる。

琉球・沖縄の独自性を沖縄の人々に再認識させようと挺身したのが川平朝申である。川平を含む前述の平良牧師ら多くの知識人は、当初はアメリカの施政権下からの独立を目指していた。本土復帰が決まるとことによって琉球は沖縄県となり、日本への統合が始まる。やがて沖縄民族(ウチナンチュ)の独自性や精神、文化が揺らぐことの危機意識が高まり、「反復帰」の声が地元の新聞論調にみられるようになる。

復帰後、本土からヒト、モノ、カネ、そして制度が怒とうのように押し寄せ、日本政府という権力の凄さ、恐ろしさが県民によって理解され始める。「これは夢ではないか」と錯覚するような大変化であった。だが時は既に遅し。「反復帰」の精神は運動しての高まりを生むことはなかった。沖縄の一部の人々であるが、唯一日本からの独立という途方もない発想をすることに筆者は畏敬の念を抱く。

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ウィスコンシンで会った人々 その29 Intermission その一 沖縄独立論の序章

筆者にとって琉球での7年間の生活は誠に稔り多いものだったと述懐している。アメリカの施政権、本土復帰の両方を経験しいろいろなことを考える機会となった。本土にいては決して考えられないような独立と復帰の意義を教えられたからである。

琉球の歴史だが、その独立は三度潰えた経緯がある。第一は1879年に沖縄県令として前肥前鹿島藩主が兵隊を連れて赴任したいわゆる琉球処分の始まり、第二は1945年の琉球列島米国軍政府、後の民政府による統治の開始、そして第三は1972年の本土復帰である。

琉球は1429年以来、明と清の冊封使を受け入れながらも、独立を保っていた。だが清の影響が衰退し明治政府の樹立とともに日本の治世下に入る。そして1945年の民政府による統治が始まる。

1952年に琉球政府が創設される。だが、長である行政主席は民政府によって任命された。沖縄の独立が高まったのは、1966年、第五代琉球列島高等弁務官アンガー(Ferdinand Unger)の赴任式のとき、日本キリスト教団牧師であった平良修師が沖縄の本土復帰を趣旨とした祈りを捧げたのがきっかけとされる。「アンガー氏をして最後の弁務官とさせしめたまえ」という祈りは人々に衝撃を与えたといわれる。1968年に民政府は行政主席を公選とすることを発表した。それによって当選したのが後に初代の沖縄県知事となる屋良朝苗である。

1966年前後は、ヴェトナム戦争が最も激しさを増す時期である。琉球からB52をはじめとする戦闘部隊や兵站部隊が送られた。その間アメリカ軍の兵士による婦女暴行事件が起こり、琉球全体に本と復帰の運動が広まった。1970年12月のコザ暴動はその典型である。アメリカ兵士の交通事故を発端として起こった軍の車両や施設に対する焼き討ちである。しかし、本土復帰と沖縄の独立は相反する精神の葛藤となることがやがて鮮明となっていく。

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ウィスコンシンで会った人々 その28 Intermission 琉球とランチョンミート

筆者は1970年3月にに幼児教育を始めるようにとの辞令もらい家族と一緒に琉球へ出かけた。パスポートとわずかのドルを持参し予防注射を受けた。そして1972年5月15日に那覇で本土復帰の日を迎えた。丁度雨がしとしとと降る日であった。5月15日は長男の誕生日でもある。

今年は沖縄戦の終結から70年の節目。1945年6月23日に旧日本軍の組織的戦闘が終結したことにちなみ、当時の琉球政府及び沖縄県が定めた記念日が慰霊の日である。

樺太に生まれ、北海道で暮らし、東京で勉強し、琉球に渡った。どこもそれぞれに思い出がある。琉球に着いたとき青い空、赤いデイゴやハイビスカスの花、紅型の美しさが眩しかった。幼児教育はルーテル教会活動の一環として始まった。そこでいろいろな人々と出会う。沖縄戦のとき、琉球気象台に勤めていて糸満の摩文仁に逃げる途中弾丸を足にうけて助かったという国吉昇氏である。彼は後日私のウィスコンシン大学への留学を支援してくれた恩師である。

教会にはハンセン氏病で治癒された信徒もおられた。名護の北、屋我地にある国立療養所沖縄愛楽園という施設で長らく生活された方である。日本聖公会も愛楽園で患者やその家族を支援するさまざまな活動をしていた。信徒の方の家を訪問したときである。お菓子とお茶がだされたが菓子はどうしても手をだすことができなかった。暇してから途中で手を洗った。この情けない行為は今もひきづっている。

話題はランチョンミート(luncheon meat)である。琉球で始めて出会った食べ物の缶詰である。この缶詰にはたくさんの種類があった。なぜこのような缶詰が琉球に多いのかがやがてわかった。沖縄戦が終結し、米軍がこの缶詰を持ち込んだのである。戦争当時、ランチョンミートは戦場携行食のレーション(ration)であったようだ。

ランチョンミートの缶詰をみると、アメリカやオランダ製のものが目立った。特にアメリカのホーメル(Hormel)とデンマークのチューリップ(TULIP)社のものが有名であった。琉球ではポークとかポークランチョンミートと呼ばれていた。ホーメル社のランチョンミートはもともとHormel Spiced Hamとよばれていた。それがやがてスパム(SPAM)という名前として日本でも知られるようになる。

琉球でランチョンミートを食したときは、実に美味しい肉だな、と思った。琉球ではスライスして炒めものに使っていた。琉球の味噌汁やソーキそばにも入っていた。ゴーヤチャンプルーの味はランチョンミートからでる油と出汁のようだ。こんな美味しいものはそれまで食べたことがなかった。琉球で始めて口にしたステーキも思い出だが、ランチョンミートのほうが何倍も美味しいと感じた。

その後、ハワイにでかけたとき海苔でまいたおにぎりに出会った。なんとその上にランチョンミートが載せられていた。琉球もハワイもかつてはアメリカの施政権下にあった。ランチョンミートが人気があるのは戦場携行食、レーションの名残であろうと納得したのである。

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ウィスコンシンで会った人々 その27 囲碁の基本 その三 大局観

囲碁では大局観ということがよく云われる。どんな戦術をたてるかとか、盤全体と部分を見渡すとか、石の強弱を判断するとか、といった判断力として使われる。だが云うや易くで、この奥義がわかれば今頃六段や七段になっているはずだ。

囲碁にはいろいろな格言というか味わい深いフレーズがある。ご存じ「岡目八目」もそうだ。対局者本人たちは気がつかないことでも、端で見ている第三者のほうが分かるという意味だ。傍観していても八目も先まで手を見越すという意味のようだ。目とは碁盤の目を指す。岡は「傍」という意味である。

「カス石は捨てよ」とは、用済みの石は積極的に捨てて、先手を取れという意味だ。局面をリードするには先手がとることだ大事なのである。カス石は捨石(すていし)とか、おとりとも呼ばれる。石を犠牲にすることで全体として利益を得ることという意味でもある。

「模様の接点逃がすべからず」というのもある。模様は厚みとも呼ばれ地を大きく囲うことである。盤上には自分と相手の石の接点がある。
お互いの模様の交わるところは価値の大きい手であるから、逃してはならないのである。

「分からない時は手を抜け」というのもある。打っていると、どこが大事かがわからないことがある。着手が分からないという場合だ。そのときは手を抜いて、状況を見渡してまた戻って考えてみよ、という意味である。迷って打つ手は得てして悪手になることが多いことの教訓である。

難しいのが「後手の先手」 という格言だ。この意味は、まずは後手になってもいいから自らの形を整えて、相手が手を抜いたら、その不備な点を咎めることが大事だということである。対局中はどうしても「先手は媚薬」という誘惑に駆られる手を打ちがちになる。あとでそれを後悔するというのがこの格言である。媚薬とはよくいったものだ。

格言にはまだまだ沢山あるが、筆者にとって痛い目にあったことの多いものを選んでみた。大局観が最も難しい。

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ウィスコンシンで会った人々 その26 囲碁の基本 その二 競り合いの強さ

このところ囲碁界では、中国や韓国の棋手の強さが報じられている。それだけに囲碁の盟主ともいえる日本の棋手に対する期待が大きい。中国や韓国の選手の強さは競り合いの強さとか、石の強さということにあるらしい。日本の棋手は石の形や効率を重視しがちで、サッカーでいう球際の強さではないが、厳しい石の競り合いはあまり得意でないというのだ。筆者には通暁していない高みの話題だが、、

囲碁の戦法には実利と厚みがある。自分の地となり、相手の生きがほぼ見込めない領域のことを確定地と呼ぶ。この確定地優先の戦法を実利重視という。一般に、相手の石が生きることが困難なところ、つまり自分の地になりやすいところと、模様の広さという大きな地になる可能性の大きさとの間にはトレードオフ(trade-off)の関係がある。

しかし、確定地ばかり作っていると周りが相手の石で囲まれ大模様ができることになる。勢力が強くなると、これをたやすく破ることは難しい。こうした戦法は厚み重視という。厚みの碁では相手は大抵の場合、厚みの中に打ち込んでくる。いわば敵の陣地に落下傘部隊を投下するようなものである。しかし、この場合は厚みという勢力によって相当逃げ回り、追い詰められることを覚悟しなければならない。

厚みとは大まかに囲っている地域であり、模様ともいわれる。囲碁の進行と共に、攻めと守りという景色が大きく入れ替わる。相手が囲おうとしているところに石を突入させる打ち込みだが、生きてしまえば、そこは自分の地となり、相手の陣地は小さくなる。戦いの中で相手の地や石と自分の地や石を譲り合う、「フリカワリ」という戦法もある。こちらが地を取れば、相手にも地をあげる、というトレードオフである。この時、どちらが得をするかで「フリカワリ」をするかどうかを判断する。

目前の利得を重視するのが実利重視、将来の利得を考えるのが厚み重視。経営に喩えれば、短期と長期の見通しやバランスに似たところがある。この実利と厚みの絶妙なバランスが囲碁の戦略できわめて重要であり、また難しさの奥義でもある。

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ウィスコンシンで会った人々 その25 囲碁の基本 その一 特徴

ウィスコンシンと囲碁。タイトルと内容がちぐはぐではある。留学時代にウィスコンシン大学の学生会館–Memorial Unionで囲碁を楽しんでいる中国人や韓国人の姿をよく見かけたことを数日前に紹介した。当時こちらは貧乏院生。ゆっくり立ち止まって観戦するわけにはいかなかった。その頃、囲碁を打っていればもっと強くなったかもしれないと納得はしている。

囲碁には他のゲームと同様に大事な戦略がある。この知的な作業が一番大事であり、最も難しいことである。囲碁を打つ上でのいくつかの特徴を取り上げる。布石、石の形、定石、石の働き、厚みなどである。

【布石】
序盤での石の配置のことである。中盤や後半の戦いのためにあらかじめ備えることである。基本的に序盤は隅から打ち進めるのが効率がよいといわれる。これはある一定の地を得るために必要な石数が、中央より辺、辺より隅の方が少なくて済むためである。隅は二辺を囲めば地となり、その分効率がよいとされる。近年のプロの対局では、第一手のほぼ全てが隅から始まっている。第一手を中央に打った対局も存在するが、多くの場合、打ち手である棋手の趣向といわれる。北海道旭川出身の山下敬吾九段がよく打った。

【石の形】
囲碁のルールは非常に単純であるが、そこから生まれるる効率の良い石の配置とか必然的な着手の仕方、つまり石の形を理解することが上達につながるといわれる。石の形を習得することで棋力を積み重ねることができる。効率のよい形を「好形」、悪い形を「愚形」とか「凝り形」などと呼ぶ。「空き三角は愚形」、「二目の頭見ずハネよ」など、格言になっている石の形は多く存在する。

【定石】
布石の段階で双方が最善手を打つことでできる石の配置をいう。両者が最善を尽くしている状況では、部分的には互角になる石の姿、あるいは応酬のことである。だが定石はあくまでも「部分的」に互角ということであり、他の部分の配石次第では、定石どおりに打っても悪い結果になることがある。初中級者が定石の手順を丸暗記して悪い結果になることを「定石を覚えて二子弱くなり」などと揶揄される。ただ単に定石を覚えただけではいけない。ここが囲碁の難しいところだ。

【石の働き】
囲碁は互いに着手する回数は同じである。その過程でいかに効率よく局面を進め、最終的により多くの地を獲得するかの知的ゲームである。石を効率よく打つと地を得やすくなる。この石の効率ことを「石の働き」と言い、効率が良い状態を「石の働きが良い」、効率が悪い状態を「石の働きが悪い」と言う。前述した愚形や凝り形と呼ばれる展開は、総じて石の効率も石の働きも悪い。石の働きは将来の地の大きさに響いてくる。

強い棋手が盤上を見ると、愚形や凝り形になったほうは負け、と即座に判断するという。石の効率が悪いと勝つことは難しいようだ。囲碁は石の働きや効率を競い合うゲームといえる。

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ウィスコンシンで会った人々 その24  囲碁クラブ開設チラシの配布

住んでいる八王子の家の近くに二つの小学校がある。そのうちの一つには、「放課後子ども育成事業」で囲碁クラブがないことを知った。そこで学校へ出掛け校長や教頭と会い、囲碁クラブの開設を申し出た。費用はかからないこと、ボランティアが担当すること、囲碁をするのは子どもの発達によいこと、などを熱い思いで語ってきた。その甲斐もあってか、保護者全員に開設案内のチラシを配布し回収するところこまでこぎつけた。

このチラシは、次のように誠しやかなことをうたっている。

【囲碁とは】
黒石と白石を盤上の交点ならどこに打ってもよい自由なルールで「かたち」を創り上げていくのが囲碁です。

【囲碁の効用】
子どもの人格育成を助けるのが囲碁です。囲碁は集中力が身につき、創造力を育み、発想が豊かになる頭脳ゲームです。囲碁は考える力を向上させることができます。

【囲碁で教えること】
子どもに囲碁の楽しさやスリル、囲碁のルール、囲碁をうつときの礼儀や態度などを教えます。礼に始まり礼に終わるのが囲碁です。対局のマナーが身につきます。

筆者はチラシの内容で悦に入っているが、その通りに子どもが変容するかは保障していない。偏に指導し援助するボランティアの資質や力量にかかっている。小学生には九路盤か十三路盤を使う。普通大人が使う十九路盤では広すぎる。九路盤とは九掛ける九、八十一の交点を使う。でもかなりの広さである。

囲碁には黒石と白石をどこに置いてもよいというルールがある。それによって「かたち」を作り上げていく。囲碁はこちらが打てば、相手も打つという交互のゲームだ。相手が考えているときはじっと待たなければならない。その間自分の打つ手を考える。次に自分はどのような意図や作戦によって石を盤上に置くかを考える。ここが思案のしどころだ。

「かたち」によって陣取りをするのが囲碁である。攻めては守り、陣地を広げようとする。むやみに堅い相手の陣地に入ると召し捕られる。攻めてばかりいると石が孤立し弱くなり、自陣が荒れる。石の強弱によって戦況は変わる。子どもにはこのような変化は少し難しすぎるが、どうすれば陣地を守れるか、あるいは広げられるか、相手の石を取れるかの心得が備わってくる。

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