ウィスコンシンで会った人々 その99 品川宿噺 「居残り佐平次」

品川は東海道の喉っ首。最初の宿である。四宿といわれた品川、新宿、千住、板橋の中でも一番の賑わい所だった。そのようなわけで庶民や旅人の岡場所ともなる。東海道を目指す旅人が品川でスッカラカンになり、家族や親戚に送ってもらった日本橋にすごすごと戻るという枕もある。

若い連中が遊廓で繰り込むことになったが、みんな金がない。そこで一座の兄貴分の佐平次が「土蔵相模」という有名な見世で乱痴気騒ぎをする。その夜、佐平次は仲間を集めて二円の割り前をもらい、「この金をお袋に届けてほしい、お前たちは朝立ちしてけえれ、、」、と申し伝える。

一同驚いて、「兄貴はどうするんだ」と聞くと、「体の具合がよくないので、医者にも転地療養を勧められている矢先。当分品川で海風を受けて、旨いものを食いのんびりするつもりだと言う。翌朝、土蔵相模の若い衆が勘定を取りに来ると、佐平次はなんだかんだいって煙にまき始める。まとめて払うからと言いくるめ、夕方まで酒を追加注文してのみ通し。蒲団部屋で居残りを決め込む。

夜になり見世が忙しくなると、酒肴の運びから客の取り持ちまで、手際よく手伝い始める。器用で弁が立ち、巧みに客を世辞で丸めていい心持ちにさせる。おまけに幇間顔負けの座敷芸まで披露する。幇間とは男芸者のこと。たちまち、どの部屋からも「居残りを呼べ!」と引っ張りだこになる。こうして佐平次はいつの間にか「居残り佐平次」と呼ばれるようになっていく。

ところが人気の出た居残りに面白くないのが他の若い衆。客は居残りに小遣い銭を渡すので「あんな奴がいたんでは飯の食い上げだ。叩き出せ!」と主人に直談判する。旦那も放ってはおけず、佐平次を呼び勘定は帳消しにするから帰れと言う。

ところが佐平次、「悪事に悪事を重ね、お上に捕まるとドテッ腹に風穴が開くから、もう少しかくまっててくれ」と、とんでもないことを言いだす。旦那は仰天して金三十両に上等の着物までやった上、ようやく厄介払いした。それでもあやつが見世のそばで捕まっては大変と、若い衆に跡をつけさせると、佐平次は鼻唄まじりでご機嫌。それを見た若い衆が問いただすと居直って、「おれは居残り商売の佐平次ッてんだ、よく覚えておけ!」と捨てぜりふ。それを聞いた旦那は地団駄踏む。

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ウィスコンシンで会った人々 その98 侍噺 「粗忽の使者」

「粗忽」。なんともとぼけたいい響きの言葉である。粗忽者は落語では一番人気の演題といえようか。町人にはこうした者が登場するが、侍の世界での粗忽は大変である。下手すると切腹を言い渡される。だが、酔狂な大名には、こうした粗忽者を可愛がるのもいたようだ。

ある大名の家臣に地武太治部右衛門という虚けの侍がいた。あだ名は「治部ザムライ」。驚異的な粗忽者だが、そこが面白いというので殿様に大層気に入られていた。

ある日、治部ザムライ大切な使者を仰せつかり、殿様の親類の屋敷に赴むこうとする。家を出る時、慌てるあまり犬と馬を間違える。馬に後ろ向きで乗ってしまい、「馬の首を斬って後ろに付けろ」と言ったりして大騒ぎとなる。

使者の間に通され、官房長官のような田中三太夫が使者の口上を問うが、治部ザムライどうしても思い出せない。思い出せないのでここで切腹すると言い出したが、三太夫が止める。幼い頃より父に居敷(尻)をつねられて思い出すのが癖になっているので、三太夫に居敷をつねるように頼む。

早速太夫が試したが、 今まであまりつねられ過ぎてタコになっているので、いっこうに効き目がない。「ご家中にどなたか指先に力のあるご仁はござらぬか」と尋ねても、指先の力は、、、と若い侍はみな腹を抱えて笑うだけ。

これを耳にはさんだのが、屋敷内で普請中の大工の留っこ。そんなに固い尻なら、一つ俺が代わってやろうと釘抜き道具を忍ばせた。三太夫に面会し、指には力があると云う。だが、大工を使ったとあっては大名家の沽券に関わるので、留っこを仮の武士に仕立て、チョンマゲも直し着物を着せる。留っこでは、しめしがつかないといって「中田留五郎」ということにし、治部ザムライの前に連れて行く。

三太夫が留五郎殿と何回呼んでも返事がない。やむなく”留っこ”と言うとすかさず返事が戻ってくる。 あいさつは丁寧に、言葉の頭に「お」、しまいに「たてまつる」と付けるのだと言い含められた留っこ、初めは「えー、おわたくしめが、おあなたさまのおケツさまをおひねりでござりたてまつる」などと言うので、三太夫は誠に当惑する。

早速、居敷をつねろうとして三太夫を次室に追い出す。留っこは治部ザムライと二人になると途端に職人の地がでて、「さあ、早くケツを出せ。なに、汚ねえ尻だナ。硬いな。いいか、どんなことがあっても後ろを向くなよ。さもねえと張り倒すからな」。

エイとばかりに、釘抜き道具で尻をねじり上げる。
治部ザムライ 「うー、キクー、・・・もそっと強く」
留っこ 「どうだこれで」、
治部ザムライ 「ウーン、あぁー、痛たタタ、思い出してござる」

すかさず次の間で控える三太夫が「して、ご口上は?」と質す。
治部ザムライ 「聞かずに参った」。

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ウィスコンシンで会った人々 その97 長屋噺 「粗忽長屋」

八公、熊公が登場する噺である。八五郎はそそっかしく無精で、熊五郎は能天気で率爾という具合。二人とも長屋の粗忽さではひけをとらない。八五郎の方は信心はまめで、毎朝浅草の観音様にお参りに行く。

観音堂の道端に人だかりができている。聞けば昨晩行き倒れが見つかったとか。八五郎は群衆の股ぐらをかきわけていくと、役人たちが通行人に死体を見せて知り合いを探している。友達も親戚もいないようだ。行き倒れは長屋に住む店子の熊五郎だと判明するが誰も引き取ろうとしない。そこに長屋の大家もいるのだが大のしみったれ。引き取りや葬式費用をだしたがらない。

八五郎は死人の顔を見るなり、「こいつは同じ長屋の熊五郎だ。そういえば今朝こいつは体の具合が悪いと言っていた」と言い出す。役人たちは「この行き倒れは今朝会ったというお前の友達とは別人だ。死んだのは昨晩だから、」と言うが、八五郎は聞く耳を持たず、「本人を呼んでくる。これは当人の熊五郎だ。」と言ってその場を立ち去る。

急いで長屋に戻った八五郎は、熊五郎をつかまえる。
八五郎 「浅草寺の近くでお前が死んでいたよ」
 熊五郎 「人違いだ。俺はこうして生きている」
 八五郎 「お前は粗忽者だから、自分が死んだことにも気が付かないんだ」

熊五郎は自分が本当に死んだのだと納得してしまう。そして自分の死体を引き取るために八五郎に付き添われて浅草観音へ向かう。途中、死骸を引き取るのは気持ちが悪いとか怖いといいだす。

浅草観音に着いた熊五郎は、死体の顔を改めて「これは間違いなく俺だ」と言う。役人は呆れて「この死体がお前のわけがない」と言うが、熊五郎も八五郎も納得しない。二人が「熊五郎の死体」を抱き起こして運び去ろうとするので、役人たちが止めに入り、押し問答になる。

 熊五郎 「どうもおかしくなった。抱かれているのは確かに俺だが、、、
 熊五郎 「抱いている俺は一体誰だろう?」

死人と本人が会話するという奇想天外な発想だが、これが落語の荒唐無稽さである。笑いは非日常性にあると思われる。

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ウィスコンシンで会った人々 その96 代書屋噺

西東京の福生市には米軍の横田基地がある。基地前の通りには英語の看板がずらりと並ぶ。いろいろな文書の翻訳を生業とする商売が今もある。運転免許申請書を作るのも現代の代書屋というか行政書士である。

江戸時代、読み書きができない者もいたようだ。大工の仲間では、読み書きができる者をおちょくる小咄もある。「てめ前、なにを書いているんか?」「兄いに手紙を書いている」「兄貴は読み書きできるんか?」「いいや、できん」

「代書屋」という演目を紹介する。履歴書の代書を頼みにきた読み書きができない男。代書屋との珍妙なやりとりが始まる。代書屋は丸い黒縁のメガネをかけ狸のような風袋である。

代書屋 「名前は?」
男 「湯川秀樹」
代書屋  ???
代書屋 「ほんとか? 湯川不出来じゃないか」

代書屋 「生まれはどこ?」
男 「産婆さんのところ」

代書屋 「生まれた場所の住所をきいている」
男 「吾妻橋のそば」
代書屋 「墨田区向島一丁目としておこう」

代書屋 「現住所は?」
男  「永田町一丁目一番地かな」
代書屋 「そこは総理大臣官邸、あんたはどうかしている、、」

代書屋 「学歴は?」
男 「尋常小学校」。「尋常小学校に二年いった」
代書屋 「尋常小学校卒業でなく中退と書いておこう、二字訂正 判」

代書屋 「職業は?」
男 「饅頭屋」
代書屋 「饅頭屋を開業す、、としよう」
男 「饅頭屋は半日でやめた」
代書屋 「なんでそれを先に言わない! 一行抹消 判」

そのうち、履歴書が訂正と抹消で真っ黒になるという噺である。

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ウィスコンシンで会った人々 その95 艶噺 「錦の袈裟」

与太郎噺のひとつに「錦の袈裟」がある。通称、与太は、少々虚け者ということになっている。町内の若者たちが吉原へ遊びに行く相談をした。隣町の若い者のいでたちが凄いということが伝わったきた。それに負けてはならじと、なんとか粋な格好をして出かけようということになった。

そこで「質屋に何枚か質流れの錦の布があり、使っていいと番頭に言われているので、それを褌にして吉原へ乗り込み裸で総踊りをしよう」と決める。ところが、布が一枚足りない。仕方なく、与太には自分で工面させることにする。

与太は家へ帰ると、しっかり女房がいう。「行ってもいいが、うちに錦はないよ。じゃ檀那寺の住職にお願いしておいで。『褌にする』とは言えないから『親類の娘に狐がついて困っております。和尚さんの錦の袈裟をかけると狐が落ちる、と聞いておりますので、お貸し願います』と言って借りてきなさい」

知恵を授けられた与太、寺へやってきてなんとか口上を言って、一番いいのを借りることができる。和尚からは「明日、法事があって掛ける袈裟じゃによって、朝早く返してもらいたい」と念を押される。帰宅して女房に袈裟を褌にして締めてもらうと、前に輪や房がぶら下がり、何とも珍妙な格好になる。

いよいよ、みんなで吉原に繰り込んで、錦の褌一本の総踊りとなる。女達に与太だけが大いにもてる。「普段、殿様は羽目をはずことができないのよ。だからああして踊っているの、」などと女の間で与太はえらい評判となる。

女達 「あの方はボーッとしているようだが、一座の殿様だよ。高貴の方の証拠は輪と房。小用を足すのに輪に引っ掛けて、そして、房で滴を払うのよ」
女達 「他の人は家来ね。じゃ、殿様だけ大事にしましょうね」

翌朝、与太がなかなか起きてこないので連中が起こしに行くと、まだ与太は寝ている。

男達 「与太、、そろそろ起きな、、帰るぞ、、」
与太 「みんなが呼びにきたから帰るよ、、」
女 「いいえ、主は今朝(袈裟)は返しません」
与太 「今朝は返さない……? ああ、お寺をしくじる」

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ウィスコンシンで会った人々 その94 洒落噺 「洒落番頭」

「洒落番頭」という演目を紹介する。さる商家の旦那、女房に「うちの番頭は洒落番頭と言われるほどの洒落の名人です」と聞かされたので、番頭を呼んで「洒落をやってみせておくれ」と言う。番頭が「ではお題をいただきます」と言うので、「庭の石垣の間から蟹が出てきた。あれで洒落を」と旦那は頼む。番頭は即座に「にわかには(急には)洒落られません」という。

洒落のわからない旦那は真面目に受けて「できないなら、題を替えよう。孫が大きな鈴を蹴って遊んでいる。あれでどうだ」と言う。番頭、すぐに「鈴蹴っては(続けては)無理です」。旦那は「洒落られません、無理ですって、なにが名人だ!」と本当に怒ってしまう。

番頭は慌てて、部屋から退散して、「旦那の前では二度と洒落はやるもんか」と捨て台詞。旦那は女房にその話をすると、女房は「それは洒落になってます」。

旦那 「できません、無理ですって断わるのが洒落かい」
 女房 「洒落になってますよ。番頭は洒落の名人なんですから」
 女房 「番頭がなんか言ったら、うまい、うまいって褒めてあげなさいよ。それを怒ったりしては、人に笑われますよ」
 旦那 「じゃあ、番頭を呼んで謝ろう」

呼ばれた番頭は旦那に謝られて盛んに恐縮する。

旦那 「機嫌を直して、もう一度、洒落をやっておくれ」
 番頭 「いえ、もう洒落はできませんで」
 旦那 「やぁ、番頭。うまい洒落だ」

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ウィスコンシンで会った人々 その93 病気と薬噺 「万病円」

「万病円」という演目は言葉遊びの噺である。登場するのは威張りくさる田楽侍、そして翻弄されるがなんとかして見返そうとする庶民である。田楽侍とは二本差しして反っくり返っている侍である。

ある一人の侍、傍若無人にも湯屋の湯舟の中で褌を洗い始める。番台に座っていた者が見つけて恐る恐る注意する。ところが侍は平然と言い返した。「男?陰?はつけたまま湯舟に入れるのに、それを包む風呂敷にもあたる褌を洗ってなぜいけないのじゃ」。侍は湯銭も踏み倒して悠然と湯屋を去る。

そのあと、侍は餅屋に立ち寄る。
小僧 「いくら食べても一文です」
侍は餅をたらふく食べて去ろうとする。
小僧 「十個食べたので十文です」
 侍 「いくら食べても一文だといったではないか。」
 小僧 「いくら食べても一個は一文です。」

ここでも屁理屈をこねて餅一個分の銭しか払わない。

次に侍は古着屋に入る。店主が「ない物はない」と言うので、三角の座布団、綿入れの蚊帳、衣の紋付きなどなど、変なものを聞いてからかう。

侍 「さっき、ないものはないと云ったではないか」
ところが、古着屋も負けずに言い返す。
古着屋 「ないものはありません。あるものはあります。」

古着屋にやり込められた侍、この店を早々に切り上げる。今度は紙屋をねらう。ここでは「貧乏ガミ、福のカミはあるか」という冷やかしに対して、店主は散り紙を震わして出して「貧乏ゆすりの紙」「はばかりで拭くの紙」とやり返す。

ふと見ると、この店では薬も取り次ぎをしているようで万病円と記した張り紙がある。「これは万病に効く薬だ」と店主がいうと、侍は「昔から四百四病。万病円などと、病いの数が万もあるはずはない」と責める。紙屋は「百日咳、疝気疝癪、産前産後」などと、数の付く病いを言い立てる。

侍 「それでも病いは万に足らんぞ」
 紙屋 「一つで腸捻転があります」

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ウィスコンシンで会った人々 その92 花魁噺 「お見立て」

落語には江戸が舞台となるものが多いので、どうしても上野や山谷、浅草、そして吉原が登場する。その一席「お見立て」である。

吉原の喜瀬川花魁の許へ、春日部から彼女をごひいきにする杢兵衛大尽がやってきた。花魁は表では客として大尽をとるが、裏では大嫌い。若い衆の喜助に「花魁は病気だ」と言って断るように伝える。喜助は、「一目でも杢兵衛大尽に会っては、、」と説得するが。花魁はどうしても首を振らない。杢兵衛は「それなら病気見舞いをする」と言う。だが花魁も花魁。「吉原の規則では、病気のときは誰にも会わせないことになっている」と喜助から杢兵衛に伝えさせる。

杢兵衛は、「花魁の兄弟だといえば会うことが許されるはずだ、、」と引き下がらない。花魁は面倒なので喜助に、「杢兵衛大尽がお顔を長らく見せなかったので、恋患いで痩せこけお亡くなりになりました」と言わせる。すると、杢兵衛は「それなら墓参りに行くべえ、案内しろ。墓はどこだ?」と言う。喜助は肥後の熊本をでも言えばいいのに、うっかり山谷と言ってしまう。仕方なく、花魁と相談の結果、杢兵衛を山谷へ連れて行き、適当に寺を見繕って入る。

煙の多い線香と花束をわんさと買い求める。墓石の字のわからなそうなのを選び「これが花魁のお墓です」と偽って、墓石が見えなくなるようにして花や線香を手向ける。だがそれは百年前の誰かの墓。杢兵衛は怒鳴る。喜助は慌てて「間違えました。お隣りでした」と花、線香を移すが、見ると童の墓。「間違えました。じゃぁ、こちらです」と移すと、これが故陸軍上等兵の墓。杢兵衛はとうとう激怒する。

杢兵衛 「喜助!、喜瀬川の墓ァいってえ、どれだ!?」
喜助 「ずらり並んでおります。よろしいのをお見立てください」

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ウィスコンシンで会った人々 その91 恋患い噺 「崇徳院」

恋患いを治せば長屋が貰えるともちかけられ、娘を探して奔走するという噺である。噺のもとは小倉百人一首。百人一首といえどもネタになるのが落語の荒唐無稽なところである。

若旦那が上野の清水観音堂へ参詣し茶店で休んでいると、歳が十七八位で水のしたたるような娘が店に入って来る。娘を見た若旦那は、娘に一目惚れをしてしまう。娘は茶店を出ようと立ち上がる際、膝にかけていた茶帛紗を落とし、気づかず歩き出してしまう。若旦那が急いで拾い追いかけて届けると、娘は短冊に「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の、」と、歌の上の句だけ書いて若旦那に手渡し去って行く。

若旦那は、歌の下の句「われても末に あはむとぞ思ふ」を思い出して、娘の「今日のところはお別れしますが、いずれのちにお目にかかれますように」と読みとる。だが娘がどこの誰なのかがわからなく再会が叶わない。そのうち食欲と体力を失い重病になる。

近所の医者が見立は、「医者や薬では治らない気の病で、思いごとが叶えばたちどころに治る。だが放っておくと五日もつかどうか、、」となった。親旦那は息子の幼なじみの出入りの職人、熊五郎に事情を話しなんとか助けてくれと相談する。熊五郎は親旦那に「医者に見放されたのなら寺を手配した方がよい」と早とちりして叱られる。熊五郎にが若旦那に会って聞き質すと、消え入りそうな声で「恋患いだ」と言う。

熊五郎はこの話を親旦那に報告する。親旦那は「三日間の期限を与えるから、その娘を何としても捜し出せ。褒美に蔵付きの借家を五軒譲り、借金を帳消しにする」と熊五郎に懇願する。熊五郎は、女房と相談し草鞋を腰に巻いて街中を走り回る。ところが全く分からない。

熊五郎の女房は呆れて、「人の多く集まる湯屋や床屋で ”瀬をはやみー” と叫んで探さんと駄目、」、「娘を探し出せなければ、家には入れないよ!」と言いくるめる。熊五郎は街中の床屋に飛び込んではで ”瀬をはやみー” と叫ぶが、客が一人もいない。ある客から「うちの娘はその歌が好きでよく歌っている。別嬪だし、清水さんにも足しげく通っている」という話を聞く。よく聞いてみるとその子は八歳だという。結局、有力な手がかりが得られないまま日が過ぎる。

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ウィスコンシンで会った人々 その90 素人芝居噺 「蛙茶番」

江戸っ子らしいはねっかえりの素人役者が出てくる芝居噺を紹介する。これまで犬や鹿が出てくる話はいくつか紹介した。今回の芝居噺には蛙と蛇が登場する。

町内の連中が集まって素人芝居のある日。芝居に付き物の「役揉め」が始まる。ガマ蛙の縫いぐるみを着るのは嫌だと、建具屋の伝法な若旦那、半次がドタキャン。そこで芝居好きの小僧、定吉が代役でガマ蛙の役をする事になって一件落着する。だが役決めで一難去ってまた一難。

今度は、番頭が場内の整理をする舞台番役に半次を指名する。「町内一の芸人」を自負する半次は役者志願だったが、「化け物芝居ならスッピンで出てもらうが、今回は舞台番に回ってもらおう」と釘をさされる。定吉は半次に舞台番になったことを伝えにいく。だが、半次に剣突を食らって定吉はすごすごと戻ってくる。

そこで機転の利く番頭が定吉に入れ知恵をつける。
番頭 「いいか、半公が岡惚れしているみぃ坊が顔をポーっと赤くして次のように言っていたといえ!」

みぃ坊 「素人がいやがる舞台番を引き受ける半ちゃんは利口なんだ。半ちゃんはいなせ 。だから、さぞかしいい舞台番ができるに違いないわ」

みぃ坊 「あたしお芝居なんかどうでもいいけど、半ちゃんの粋な舞台番を見に行こうっ!」

こうして、定吉は舞台番姿を楽しみに芝居を見に、みぃ坊がやってくると持ち上げ、何とか半次を呼び出すのには成功する。しかし、ひじり緬の真っ赤な褌を締め、それを観客に見せて注目を自分に集めようと考えた半次だが、肝心の褌を湯屋の脱衣場に忘れ芝居小屋にやってくる。舞台に姿を現わすがみぃ坊は見つからない。ガマ蛙役の定吉は「青大将が睨んでる」と言って舞台に出ようとしない。そして客席は大パニックになる。

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ウィスコンシンで会った人々 その89 恋患い噺 「幾代餅」

昔はお大名が街を通るとき、見目麗しい娘を見ると籠を止めて“あの娘を所望する”と声を上げる。すぐに飛んできたお付きの者がその娘の家に行って、「あー、そのほうの娘は、お上のお目にとまった。ご奉公にあげなさい」。綺麗な女の子を側女にするとはなんと贅沢な、自分も大名になってみたかった、というのが落語の枕にしばしば出てくる。

「幾代餅」という演目を紹介する。ある女を見て、好きだと誰にも言えないので、病うのを「恋患い」。この病はどんな名医でも、どんな高価な薬を煎じてても治せないというオチである。米屋に勤める清蔵はいたって真面目な男。ある時「大名道具」と言われる松の位の幾代太夫の看板を一目みて、すっかり魂を奪われたようにふやけてしまう。恋病である。それを周りがなんとかしようとし、最後は二人は一緒になって餅屋を開き、名物「幾代餅」を売出して繁盛するという筋書きである。

次のような噺があるが演目名を忘れた。能天熊が、兄貴分である八公のところへ顔出しすると生憎と留守。お内儀が相手する。兄貴分は裏で建増しの普請の真っ最中。

熊 「たいしたもんだ。この木口の高いときに普請とは。こちらの兄イは働き者だ、、」
お内儀 「いいえ、町内の若い衆さんが寄ってたかってこしらえてくれたようなもの」

これを聞いて、一層感心した熊。家へ帰って女房にこの話をして「お前には言えないだろう」というと「言えるよ。普請してみろ」と逆襲する始末。呆れ果てて湯屋へ出掛けると八公に会う。そこで一計を企てる。「すまねぇが今、家へ行って、かかあに家の中のことを褒めて、『こちらの熊は働き者だ』と言ってくれ。それで、かかあがどういう返事をするか、あとで聞かせてくれ」と頼む。

八公は熊の家へ行って何か褒めようとするが、何もない。気が付くと女房が臨月間近のお腹をしているので、

八公 「この暮らしの大変な時に、やや子をこしらえるなぞ、熊兄イは働き者だ」
熊の女房 「いいえ、子はうちの人の働きじゃない。町内の若い衆が寄ってたかってこしらえてくれたようなもの。」

さすがに貫禄のある女房ではある。

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ウィスコンシンで会った人々 その88 犬噺 「元犬」

犬が主人公の噺をもう一席お付き合いいただきたい。江戸の台東区には多くの寺社仏閣がある。浅草寺、東本願寺、寛永寺、待乳山聖天本龍院などが知られている。台東区は、江戸幕府の御府内となっていたので、最も人口が密集していた地域であったといわれる。寺社が多かったわけである。

江戸は蔵前の八幡宮の境内。一匹の真っ白な犬がいて、近所の人からは「シロ」と呼ばれて可愛がられていた。当時、毛並みの中で白犬はなかなかいなかった。ある時、参詣人がこの犬を見かける。皆不思議そうに眺めていた。参詣人はシロを見て「綺麗だな、」とか「可愛いな、、」と褒める。そんなことで、シロは人間に生まれ変わりたいと思うようになる。そして、その日からシロは八幡様に百日のお詣りを始める。

100日満願の日、白犬は晴れて人間に生まれ変わることができる。
ところが体を見ると真っ裸、服を探してフラフラ歩きようやく近所の人から服を貰う。周りの人々は忙しそうに働いているのを見て、自分もどこかで奉公口を見つけ働きたいと考える。そこで口入れをしている上総屋の旦那に連れられて、シロを可愛がってくれたご隠居さんのところへ連れていかれる。

ご隠居の家では、人間になったシロは地べたに座ったり、顔を足でなでたり、クンクンなりたりして注意される。台所ではお茶を沸かす
鉄瓶がちんちんなっている。それにつられてチンチンするという案配である。

ご隠居 「どうしてそんな格好をするんか?」
シロ 「自分もそれが得意なんです」

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ウィスコンシンで会った人々 その87 犬噺 「大どこの犬」

動物が主人公の噺を二席。二匹の犬が主役である。昔は、犬の名前は毛の色や表情などで付けられたものが多かった。例えば、ブチ、アカ、シロ、クロ、ボン太、など。時に小僧の名前をつけたともいう。巻八、コタロウ、豆蔵、茶々丸などである。猫ではないが、犬にも「たま」に「ソラ」というのもある。

江戸は、とある乾物屋の朝。丁稚小僧が表戸を開けようとすると、戸袋の所に箱が置いてあり、中には白と黒とぶちの子犬。大旦那になんとか頼み込んで飼うことになる。特に黒いのを小僧が可愛がり、クロと呼んで兄弟同然にして育てる。

ある時、通りがかりの商人風の男が乾物屋のクロをみる。そして大旦那にこのクロを譲ってくれぬか、と相談する。わけをきくと、大坂は鴻池の主人の一人息子が可愛がっていた黒犬が死んで、息子は悲しみ病気がちだという。それで全国を旅して黒犬を探しているというのである。事情を知った旦那は小僧が懇願するのを振り切ってクロを譲ることにする。クロは鴻池にもらわれていく。

鴻池宅にもらわれたクロには医者が3人付き、広い敷地で豪勢な暮らしを始める。下にも置かず大切にされ、エサがいいせいか、毛並みもつやつやとして、体もずんずん大きくなる。一人息子も元気になる。やがて「鴻池の大将」として近所のボス犬となる。ある時、近辺で見慣れない痩せ細った犬が、街の犬にいじめられ、フラフラと鴻池宅前まで逃げてくる。

シロ 「クーン、ウォーン、ウォーン、
クロ 「ウー、ウー、ウー、ワン!」

ここからは二匹の犬語による架空の対話である。同時通訳すると次のようになる。

シロ 「あなたは兄さんのクロではありませんか、、」
クロ 「てめえは何者だ!」
シロ 「あなたと乾物屋でブチと一緒にいたシロです。クロ兄さんじゃございませんか、」
クロ 「クロはオレだ!」
シロ 「あっ、兄さん、お懐かしゅうございます」
よく見ると、犬は末の弟のシロ。

クロ 「おお、お前はシロか、妹のブチはどうしている?」
シロ 「姉さんのブチは食べ物がなくなり、クロ兄さん、クロ兄さんと呼びながら痩せこけて死んでしまいました」
クロ 「おおそうか、それは可哀想なことをした。シロ、ここではなんでも好きな者が食べられるぞ。虎屋の羊羹、福砂屋のカステラ、神戸のステーキ、、、最近は俺は太り気味でな、、ガンマ-GTPが高い、、」
シロ 「兄さんは、犬の誇りを忘れたのですか、、」
クロ 「、、、、面目ない、、」

クロ 「、、ここは大坂一の大店、なんでもあるんじゃ、、」
シロ 「これはなんですか?」
クロ 「鯉の天ぷらでな、、美味いぞ、さあさあお食べ!」
シロ 「どこで獲れたんですか?」
クロ 「当たり前よ、鴻池からさ」

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ウィスコンシンで会った人々 その86 病院噺 「カラオケ病院」

医者という職業は、どうも洋の東西を問わずブラックジョークのネタになることが多い。大抵はおちょくる話だ。どうしてかというと、高額所得者といわれ、世間の嫉みの対象になるからだ。それに名医から藪医者までいろいろいて、どうも腕が信用できないという風潮もある。最近はセカンドオピニオンというように、患者が医者を選ぶ時代となっている。

落語でも医者、看護師、病人、病院にまつわる演目を探しては聴いたが、「カラオケ病院」と「医ー家族」という創作落語に落ち着いた。前者の作者は噺家の五代目春風亭柳昇、後者は六代目桂文枝である。二人は、創作落語では東と西の双璧のような存在。時代を風刺する演目を作っている。

「カラオケ病院」という演目である。柳昇師匠の枕では、ご自身の人間ドックの余談がでてくる。”胃カメラを飲むと蛇の気持ちが分かる”。東大病院で胃カメラ検査したとき、看護師が”フィルムを入れるのを忘れた”というのだ。二度の検査に立ち会うという噺である。本当かどうか分からぬが、、

患者が来なくなった病院で院長がスタッフを集めて鳩首協議を始める。ところが欠席者が数名いる。内科の医師は腰痛で悩み、成田の不動山へ行って神頼みしている。外科の医師は学校へ行っているという。何の勉強?ときくと、「この病院はやがてつぶれるので、それに備えて料理屋を始める」。和食屋だそうだ。洋食はいつも肉を切っているから大丈夫だというので、魚や野菜のきざみ方を学んでいるとか。

協議ではいろいろな提案がでる。終身入院はどうか、治らなかったら治療費はただ、手術代をタダにする代わりに麻酔ナシで手術する、バニーガールを雇い待合室でビールを飲ませる、などでたらめな案しか出ない

そこで待合室を改造し、カラオケ室にするという案が承認される。カラオケや笑いで病を治そうというのだ。そしてカラオケルームが晴れて開業する。しかもカラオケには健康保険がきく。大勢の客ー患者が集まる。サゲはこの演目を聴いてのお楽しみ。

次に、桂文枝師匠の「医ー家族」である。医者の跡継ぎというのが話題。ある町医者の病院で、一人息子が父親に相談があると言う。父親は、今日はこれから手術の後に診察、往診、医師会の集まりと忙しいと言って取り合わない。盲腸の手術なのだが、今時町医者で手術してくれる患者はおらず、久し振りの手術で張り切っている。御飯をかきこみながら、妻や看護師に指示を出し、手術帽が見つからないから妻のシャワーキャップをかぶって手術室へと向かう。

そこにどうしても話を聞いてほしい息子が入ってきて、医者になるのは辞めると宣言する。何年もかけて医大に入ったのに何を言うんだと、親子喧嘩が始まる。患者は不安になって、自分の手術はどうなるのかと訴えるが、息子が医者になるのを辞めて役者になりたいという。また喧嘩が再開する。すると看護師が患者の脈がおかしいことに気づき、医者は大慌て。ついには医学書を取り出しながら、どうにか手術を終わらせる。

サゲをここで書くのは少々はばかる。是非読者でお楽しみいただきたい。

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ウィスコンシンで会った人々 その85 放蕩息子噺 「唐茄子屋政談」

落語にはいろいろな人物が登場する。だが地噺にでてくる人物は別として、あまり真面目で正直者はでてこないことになっている。真面目な者は話芸によって描くには難しい人物なのだろうと察する。

放蕩息子には二種類いるようだ。自堕落で遊びまくり最後は身を持ち崩す者。「お天道様と米の飯はついてくる」というお定まりの捨て台詞を吐く。だが「米の飯はついてこない。」空腹で満たされない人生、家畜にも劣る惨めさ、誰も助けてくれる者のない孤独を味わう。

もう一種類は、放縦の限りを尽くすが、やがて悔い改めまっとうな暮らしに戻る者である。新約聖書ルカの福音書15章にも放蕩息子と父親の話がある。「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだ」。共通しているのは、現実からの逃避。この現実というのはどこにいっても必ず陰のようについてくる。それに直面し決断するか否かが問われる。

空け/虚けといった放蕩息子のほとんどは商家の若旦那。官許の吉原で道楽をして勘当される。紹介する演目は「唐茄子屋政談」。若旦那の徳三郎。吉原の花魁に入れ浸りで家の金を湯水のように使う。親父も放っておけず、 親族会議の末、道楽をやめなければ勘当だと言い渡される。

「勘当けっこう!」捨て台詞を残して徳三郎は家を飛び出る。その足で花魁のところに転がり込み相談するが金の切れ目だと、体よく追い払われる。

どこにも行く場所がなくなって、叔母の家に顔を出すと 「おまえのおとっつぁんに、むすび一つやってくれるなと言われてるんだから。 まごまごしてると水ぶっかけるよッ」 と、ケンもほろろ。

土用の暑い時分に、三、四日も食わずに水ばかり。つくづく生きているのが嫌になり、身投げの「名所」で知られた吾妻橋から飛び込もうとすると通りかかったのが、本所の達磨横丁で大家をしている叔父。止めようとして顔を見ると甥の徳三郎。

叔父 「なんだ、てめえか。飛び込んじゃいな!」
徳三郎 「アワワ、、、助けてください」
叔父 「てめえは家を出るとき、お天道さまと米の飯はとか言ってたな。 どうだ。ついて回ったか?」
徳三郎 「お天道様はついて回るけど、米の飯はついて回らない」
叔父 「ざまあみやがれ!」

ともかく家に連れて帰り、明日から働かせるからと釘を刺す。翌朝叔父は唐茄子(かぼちゃ)を山のように仕入れてきた。「今日からこれを売るんだ」格好悪いとごねる徳三郎を 「そんなら出てけ。額に汗して働くのがどこが格好悪い」 と叱りつけ、天秤棒を担がせると送りだす。徳三郎、炎天下を、重い天秤棒を肩にふらふら。浅草の田原町まで来ると、石につまづいて倒れ動けない。

見かねた近所の長屋の衆が同情し、 住人に売りさばいてくれ、残った唐茄子は二個。礼を言って、売り声の稽古をしながら歩く。田原町の田んぼに来かかると、 吉原の明かりがぼんやりと見える。後悔と回心の念が広がる。

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ウィスコンシンで会った人々 その84 心中噺 「品川心中」

心中の別称は情死。広辞苑によると「相愛の男女が一緒に自殺すること」とある。落語にも心中の演目がいくつかあるが、心中を遂げられない、どたばたした劇が展開されることが多いようだ。真剣に思いつめた男女ではない。「品川心中」もそうである。

江戸時代、品川は岡場所。道中奉行から500人の飯盛り女を置くことが許されていた。実際にはその数倍がいたらしい。品川は海のそば、東海道の宿場であった。幕末、品川の女郎屋は尊皇攘夷や倒幕を目指す志士の集まりの場としても栄えた。初代英国領事館が開設されたのも品川。海という地の利が働いたと思われる。今も江戸時代と変わらぬ道幅が「旧東海道」として残っている。

今回紹介するのは「品川心中」である。品川の筆頭女郎に「お染」がいる。歳も歳となりそろそろ「紋日」という移り代え、客寄せの集まりをしなければならない。「紋日」は自分がするのではなく、馴染みの客がしてくれる風習であった。そこでスポンサーを探すが誰も返事をくれない。勝ち気なお染は恥をかくくらいなら死のうと決心する。一人で死ぬのも情けない、誰か心中につきあってくれる者がないかを探すのである。

あれこれと客を物色する。女房子や祖父母がいない者といった心中の条件に合うのが中々いない。そこに貸本屋の金蔵に白羽の矢がとまり、手紙を書く。早速金蔵がやってきて二人は心中の約束をする。金蔵は世話になっている親分にこの世の暇乞いをする。遠い西のほうへ旅に出るという。帰ってくるのは盆の13日とか、頓珍漢なことを言う。

いざ心中の夜、お染に急かされるが金蔵はカミソリで首を切るのを嫌がる。「喉元は急所だからいけねェ」などと喚く。仕方なく二人は桟橋へ行く。風邪をひいているといってためらう金蔵をお染は突き落とす。お染も飛び込もうとするとき、店の若い衆が「紋日の金ができた、、」と知らせにくる。お染は海に向かって「ねェ金さん、あたし金ができたの。死ぬのを少し見合わせるね。いずれあの世でお目に掛かりますから、、、ここで失礼します。」失礼極まりない、、、

金蔵は桟橋の柱に捉まり、一晩中仰向けに浮いている。ところが品川は遠浅。見ると膝までしか水がない。金蔵は欺された自分にも呆れる。

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ウィスコンシンで会った人々 その83 清貧さと人情噺 「井戸の茶碗」

清廉さ、清明さ、正直さに溢れる人情噺がある。貧しいながら人それぞれの矜持を誇りとする姿は、奥深い笑いをもたらしてくれる。善意に少しも臭さがなく爽やかな話がある。その代表的なものの一つが「井戸の茶碗」という演目である。

茗荷谷に住む紙屑屋で正直者の清兵衛。いつものように流し歩いている。なりは粗末ながら上品な娘に声をかけられる。招かれて裏長屋へ行くと、その父親、千代田卜斎から、くずの他に時代のついた仏像を二百文で引き取ってもらいたいと頼まれる。仏像に目利きがない清兵衛は断るが、結局二百文で引き取り、それ以上で売れた場合は、儲けの半分を持ってくると約束する。

仏像を籠に入れ、街を流していると、若い勤番の高木佐久左衛門に声をかけられる。「カラカラと音がするから、腹籠ごもりの仏像だ。縁起が良い」と言い、清兵衛からその仏像を三百文で買い上げる。

佐久左衛門が仏像を磨いていると、台座がはがれ中から五十両もの小判が出てくる。佐久左衛門は「仏像は買ったが、中の五十両まで買った覚えはない。金で金が買えるわけがない。仏像を売るくらいであるから暮らし向きも逼迫しておられよう。元の持ち主に返したい」といって屑屋の清兵衛探しを始める。

ようやく清兵衛を探し出す。佐久左衛門から事の顛末を聞き、清兵衛は卜斎の元へ五十両を持っていく。卜斎は五十両を前にして、「仏像を売ってしまったのだから、中から何が出てきても私のものではない」と受け取らない。

清兵衛は佐久左衛門へ五十両を持って帰るが、こちらでも受け取るわけにはいかないと突っ返され、困り果ててしまう。裏長屋の家主が仲介役に入り、「千代田様へ二十両、高木様へ二十両、苦労した清兵衛へ十両でどうだろう」と提案する。

しかし、卜斎はこれを断り受け取らない。「二十両の形に何か高木様へ渡したらどうだろうか」という提案を受け、毎日使っていた汚い茶碗を形として、卜斎は二十両を受け取る。

この美談が細川家で話題になり、佐久左衛門が殿様へお目通りを許される。殿様は茶碗も見てみたいと言われる。汚いままでは良くないと、茶碗を一生懸命磨き、殿様へ差し出した。すると、側に仕えていた目利きが「青井戸の茶碗」という新羅か高句麗の産で、一国一城に値すると鑑定する。殿様はその茶碗を三百両で買い上げる。

「このまま千代田様へ返しても絶対に受け取らないであろうから、半分の百五十両を届けて欲しい」と佐久左衛門は清兵衛に頼む。しかし清兵衛は断るが、しぶしぶ卜斎に百五十両を持っていく。卜斎はまたも受け取るわけにはいかないと断る。困り果てた清兵衛を見て、「今までのいきさつで高木様がどのような方かはよく分かっておる。娘は貧しくとも女一通りの事は仕込んである。この娘を嫁にめとって下さるのであれば、支度金として受け取る」と言う。

清兵衛は佐久左衛門の元へ帰り経緯を伝えると、千代田氏の娘であればまずまちがいはないだろうと、嫁にもらうことを決める。

清兵衛 「今は裏長屋で粗末ななりをしている娘ですが、こちらへ連れてきて一生懸命磨けば、見違えるようにおなりですよ」
佐久左衛門 「いや磨くのはよそう、また小判が出るといけない」

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ウィスコンシンで会った人々 その82 親子噺 「抜け雀」

親子の情を謳った噺も落語の大事な話題となっている。「抜け雀」はその代表作といえる。絵師の親子と芸の秀逸さの話でもある。

旅の途中、若い男が小田原宿に差し掛かる。風体が貧相なせいか、呼び込みの声がかからない。ようやく小さな旅籠の主人に声をかけられ投宿することになる。この男、朝昼晩一升ずつの酒を飲み、昼間はただ寝るだけ。旅籠のかみさんが困って、内金をもらってこいと気弱な亭主の尻をたたく。ところがこの男一銭も持ち合わせていない。主人がきくと、自分は絵師だという。旦那は看板描きと勘違いする。そして「宿値賃のかたに絵を描いてやろうか」と新しい衝立に目をとめる。

衝立に描いたのは五羽の雀。宿の主人はそれを見て
 主人 「これはなんです?」
 侍  「お前の眉の下にあるのはなにか、、」
 主人 「眼です。」
 侍  「これが見えないくらいなら銀紙をはっておけ!」

そして、五羽で五両だと説明する。この衝立は、今度宿賃を払うまで誰にも売るではないと言い聞かせて出立する。

翌日、掃除をしようと二階に上がると雀の鳴き声がする。窓を開けると衝立から雀が飛び出していく。暫くすると、雀が衝立に戻ってくる。この話がひろまり、大勢の客が雀を見ようと押し寄せる。ある大名がこの衝立に二千両の値をつける。

やがて人品の良さそうな侍がやってくる。この男、かつて雀を描いた絵師であった。衝立に鳥籠が描かれ雀は元気にしている。主人から、「ある老人がきて鳥籠と止まり木がないと雀は死んでしまうといって、それを付け加えていった」というのである。それを聞いた侍、
「ご壮健でなによりです。不幸の段、お許しを」
と衝立の前にひれ伏す。きいてみると、鳥籠と止まり木を描いたのは絵師の父親であるという。
 侍 「俺は未熟で、不幸者だ、、」
 主人 「どうして?」
 侍 「衝立を見よ、俺は親父をかごかきにした。」
親子揃って名絵師という噺である。
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もう一席、「親子酒」。ある商家に共に酒好きな大旦那と若旦那の親子がいる。息子の酒癖が非常に悪いということで、父親が心配し、「お前だけに酒を止めろとは言わない。共に禁酒をしよう」と話をする。 息子も承知し、しばらくは何事もなかった。2週間ほど経つと、他に楽しみのない父親は酒が恋しくなる。息子が出かけていたある晩、女房に頼み込み、遂に一杯、二杯、三杯とせびって飲み始める。甘露、甘露と独酌の挙げ句ベロンベロンになる。

気分が良くなっているところへ、息子が帰ってくる。慌てて場を取り繕い、父親は「酔っている姿など見せない」と、息子を迎えるが、帰ってきた息子も同様にしたたかに酔い上機嫌であった。 呆れた父親が「何故酔っているんだ」と問うと、「出入り先の旦那に相手をさせられました。酒は止められませんね」などと言う。父親は
「えらいッ、その意気でまず一杯ッ」
と乗せられて、結局、二人で二升五合をやってしまう。

父親、女房に向かい、
「婆さん、こいつの顔はさっきからいくつにも見える。こんな化け物に身代は渡せない!」
すると息子は、
「俺だって、こんなグルグル回る天井の家なんていりませんよ!」

親子で酒を呑むのが一番幸せな時である。筆者にも父親と一緒に杯を傾けた大切な光景が浮かんでくる。

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ウィスコンシンで会った人々 その81 寿司屋噺

「転失気」の話題の後に食べ物の噺で、ちと憚るが読んでいただきたい。まあ、食事と「転失気」は因果関係があるのでどうしても落語の演題からはずせない。

古典落語にはいろいろな食べ物が登場する。寿司、鰻、秋刀魚、鯉の洗い、蕎麦、蒲鉾、うどん、雑炊、納豆、卵焼き、おから、おでん、湯豆腐、冷奴、煮付け、天ぷら、たくあん、さらに饅頭や羊かん、せんべいまで登場する。新作落語とか創作落語にもいろいろな食べ物がでてくる。だが「寿司」は「鰻」と並ぶダントツの人気といえよう。江戸といえば寿司。江戸の郷土料理といわれきた。

江戸っ子は刺身が好きであり屋台で売られていた。東京湾の魚介の豊富さが売り物であった。白魚もとれたという。アサリや海苔もとれた。遠浅の干潟を抱えた天然の漁場だったのが江戸前の海、東京湾である。加えて近隣の野田からは、生魚に合う濃口醤油が運ばれていた。

「寿司屋水滸伝」は握りずしを中心とした寿司屋での噺である。ある寿司屋で、唯一の寿司職人がやめると言い出す。亭主は洋食を修行したが、父の店を継ぐために帰ってきた男。粋な寿司商売にはあわない気質であった。再三の説得にもかかわらず、職人はやめてしまう。仕方なく、自分で寿司を握るが、包丁の使い方もままならない。客がそれをみて、「魚を切るなんて素人でも出来る」というと、別の客がその男をたしなめ、自分でトロを切ってみせる。素晴らしい腕前、「トロ切りの政」というプロだ。そしてこの店で働くことになる。

別の客からイカの刺身を注文されるが、政はトロしか切れないというので、客から文句が。そこへ出てきたのが「イカ切りの鉄」という男。この男も雇うことになる。このようにして、それぞれのプロを雇っているうちに厨房が狭くなってしまう。

しかし、長く続かず寿司屋は廃業。洋食屋をはじめる。ある日、カツカレーの注文。客から、「油がきれてなくて肉も固い」との文句。こんなカツカレーに金は払えないとも言い出す。聞けば客は「トンカツの秀」というプロ。逆に金を請求する始末。亭主は「そんな金まで請求した人ははじめだ。何でそんな。」「だから言ったろ、金よこせってんだよ」「トンカツの秀さん、、、そんな。ああ〜なるほど、カツアゲがうまいわけだ」

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ウィスコンシンで会った人々 その80 言葉遊び噺 「転失気」

言葉遊びというか下ネタ噺の演目である。医者が言う単語の意味がわからないのに、博学多識を自負する和尚を笑う演目である。小僧とのやりとりが絶妙だ。物事を婉曲に表現する粋な言葉を知らないで、赤恥をかくという内容だ。

体調のすぐれない寺の和尚が、往診に訪れた医師から「てんしき」があるかないかを尋ねられる。和尚は「てんしき」が何かわからず、「あったような、ないような、、」と答えてその場をとり繕う。そこに小僧の珍念を呼んで、それとなく尋ねることでなんとか「てんしき」について知ろうとする。

和尚 これ、珍念や、、、
珍念 へぇ、お呼びでございますか?
和尚 ん、今、先生がお見舞いをしてくださいましたな、
珍念 へぇ
和尚 あの折「テンシキはございますか?」と、お尋ねでしたな
珍念 へ、聞ぃておりました
和尚 で、珍念、テンシキを存知おるか?
珍念 知りません
和尚 知りません?確か、前に教えたはずじゃろ
珍念 忘れました、教えてください!

和尚は「ここで『てんしき』について教えてもよいが、それではお前のためにならない」とうそぶき、珍念を医師宅へ調合薬を取りに向かわせる。ついでに近所を回って「てんしきを借りてくる」ように命じる。

ところが聞く人がみな知ったかぶりをして雑貨屋は「珍念さん、棚の上から落ちて割れてしまった」、石屋は「鼠がでてきて壊したので味噌汁の実にして食べてしまった」など、ちんぷんかんぷんな説明をするため、「てんしき」が何であるのか珍念にはわからない。珍念が医者に聞くと、「放屁」「おなら」「屁」だという。それでもわからない珍念に医師は説明する。「てんしき」は「転失気」で、「気を転(まろ)め失う」と中国の医書に出てくるという。珍念納得し、和尚も雑貨屋も石屋も知らないくせに知ったかぶりをしていたことが分かる。

寺に戻った珍念、和尚に仕返しをしようと、「てんしきとは盃のことでした」と話す。和尚も「その通りだ、盃のことだ!”呑酒器”と書くのだ、よく覚えておけ!」と相変わらず知ったかぶり。そして大団円が待っている。

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ウィスコンシンで会った人々 その79 童の知恵噺 「真田小僧」

以前、「佐々木政談」という演目を紹介した。お白洲遊びをしている子供達の頓智に感心した南町奉行佐々木信濃守と賢しいガキとのやりとである。このガキはやがて近習に取り立てたられるという目出度い噺であった。白洲とは江戸時代の法廷。下段に「砂利敷」が設けられ、原告や被告が座る。砂利が白かったかどうかは不明ではある。

今回紹介するのは「真田小僧」という演目である。こましゃくれた子供が父親から小遣いをせびるためにあの手この手のゴマすり、それでもダメだと分るとおっかさんが父親の留守に男を家に入れたと浮気を匂わせる。その男は白い服をきてサングラスを掛け白い杖をついているというのだ。父親はすっかり欺され、小遣いを渡す。それを受け取ると、「その人はただの按摩さんでした」と言って逃げ出す。

湯から戻ってきた女房に父親が息子に銭を巻き上げられた話をする。知恵のあるのは結構だが、どうせなら真田昌幸の息子、真田幸村のように知恵で父親の絶体絶命のピンチを救うような息子になって欲しい、といって真田六文銭の旗印の由来を語る。

最初の銭を使い果たして玄関に潜んでいた子供は父親の話を一度で覚えて披露する。六文銭とはどういうものか、と父親に尋ねる。父親は銭を6枚並べて説明し始めるが、息子はその銭をかっさらって家から飛び出す。その子に向かって父親が「何に使うのか?」と聞くと息子は「焼き芋を買うんだ」と答える。そこで父親は「あいつも薩摩に落ちた、」というサゲとなる。

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ウィスコンシンで会った人々 その78 童噺 「子別れ」

古典落語の大作に「子別れ」がある。酒呑み、女房、子供、大工、弔い、神田、長屋、浮気、吉原、女郎、鰻、元の鞘、鎹等々、落語の全ての舞台が揃っている。

神田大工町の長屋に熊五郎が女房、一人息子の亀と暮らしている。腕の良い大工職人なのだが、大酒呑みである。山谷でのある弔いの帰り、その足で精進落だと吉原で遊ぶ。そして数日後長屋に戻ってくる。おかみさんは黙々と手仕事をしている。決まりの悪い熊五郎、そっと入っていくのだが、黙っていたおかみさんが「どこでお浮かれになりましたか?」「お相方の顔も覚えていないですか?」などと嫌みを言う。熊五郎は女郎の惚気話をし始める。とうとう堪忍袋の緒が切れて、おかみさんは離縁状を渡して亀坊と家をでていく。

しばらく女郎と暮らすのだが、金の切れ目が縁の切れ目。さすがに情けなる。そして心機一転。それからは人が変わったように働き出す。別れた女房は近くの長屋で仕立物の内職をして暮らしている。それから三年。

熊五郎は旦那と歩いているとき、亀坊とばったり会う。そして勉強のたしにと五十銭を手渡す。母親にはこのことを云わないようにと念を押し、翌日鰻を一緒に食べる約束をする。母親がまだ一人でいることも知る。亀坊の額に傷があるのを見て、問いただすと母親に仕事をくれる旦那の息子が意地悪して叩いたのだという。熊五郎、抗議もできない自分が情けない。我慢をするように言って聞かせる。

長屋に戻った亀坊の手に五十銭があるのを母親が見つける。なにか悪い料簡でも起こしたのではないかと疑る。亀坊はしばらくがんばり通すのだが、遂に白状する。そして熊五郎がいい身なりをして大工として働いていることも喋る。ぐうたらだった亭主が再婚もせず真面目になったことを聞いた母親の内心は揺れる。

熊五郎と亀坊は一緒に鰻屋に入る。そこに気がきでない母親もやってくる。二人はしばし気まずい会話を交わすのだが、お互いまだ一人身であることを漏らす。

熊坊 「父ちゃん、長屋に戻ってくれよ、、」
熊五郎 「言いにくいのだが、、元の鞘に戻らないか、、」
女房 「異存なんかあるものですか、、この子のためにも」
女房 「、、昔から子は鎹といいますから」

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ウィスコンシンで会った人々 その77 左甚五郎利勝噺 

落語に「竹の水仙」というのがある。「三井の大黒」、「ねずみ」とともに、伝説的な彫刻職人技を真剣に、また可笑しく取り上げている。天下の宮大工として名高い左甚五郎利勝。左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。もう一つの説は、彫り物を彫らせたら右に出るものがいないというので、それなら左にしようと名前を与えたという説である。日光東照宮の眠り猫を彫ったといわれる。宮大工の名声をほしいままにした人物である。

「竹の水仙」のあらすじである。京へ下る途中、左甚五郎は名前を隠して、三島宿の旅籠に寄る。旅籠の主は佐平。ところが、朝から酒を飲んで管をまいているだけで、宿代も払おうとしない。たまりかねた佐平に追い立てを食うが、甚五郎、平然としたもので、ある日中庭から手頃な竹を一本切ってくると、それから自分の部屋に籠もってなにやら作り始める。

心配した佐平が様子を見にいくと、なんと、見事な竹造りの水仙が仕上がっていた。たまげた佐平に、甚五郎、「この水仙は昼三度夜三度、水を替えると翌朝不思議があらわれる」「売るときは町人なら五十両、侍なら百両。びた一文負けてはならない」と託ける。

これはただ者ではないと、佐平が感嘆していると、なんとその翌朝、水仙の蕾が開き、たちまち見事な花を咲かせたから、一同仰天。そこに通った殿様の目にとまり、三太夫にこの水仙を買い求めるよう指示する。だが三太夫、「たかが水仙が百両とは無礼!たわけ!」といって佐平を面罵する。戻ってきた三太夫に殿は、「竹の水仙を買えないようなら切腹を申しつける!」と言い渡す。それからどたばた劇が始まる。

もう一席。「ねずみ」も彫り物師の噺である。奥州仙台の宿場町。左甚五郎が、宿引きの子供に誘われて「ねずみ屋」という鄙びた宿に泊まる。そこは腰の立たないような宇兵衛と十二歳の子供の二人だけでやっているという貧しい宿だった。

向かいには虎屋という旅籠がある。かつては宇兵衛のものだったが、追い出され今の物置小屋を宿としねずみ屋としている。物置に棲んでいたネズミにちなんだという。これを聞いた左甚五郎は、木片でねずみを彫り上げ、繁盛を願ってそれを店先に置いて帰っていった。するとなんとその木彫りネズミがまるで本物のネズミのように自分で動き回りはじめる。

この噂が広まるやいなや、ねずみ屋に泊まればご利益があるとして部屋に収まり切らないほどの客が入る。それを苦々しく眺めていた虎屋は別の職人に虎の木彫りを彫らせる。そしてねずみと虎の彫り物対決となる。

工匠の代名詞、左甚五郎の一席である。

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ウィスコンシンで会った人々 その76 匠噺 「三井の大黒」

江戸の古い地図を見ると「神田八丁堀」がある。町人によって鎌倉河岸東端から本町通りと神田の境に堀の長さが約八丁の堀が掘られ,浜町を経て江戸の湊と結んだ。約800m位である。神田と日本橋との境界となっていた堀である。現在は、中央区京橋付近となっている。東京駅八重洲口より東に歩き、宝町、八丁堀を過ぎると浜町堀となって隅田川に入る。この神田八丁堀によって江戸城や数々の大名屋敷をつないだ商行為が盛んになり、神田の職人町が隆盛した。今も鎌倉橋や竜閑橋や日本橋魚市場の跡がある。

「三井の大黒」という演目に匠が登場する。神田八丁堀で大工作業をしているところに半てんを着た男が現れる。そして江戸の大工仕事がやわい、下手だとけちをつける。男は怒った大工たちから寄ってたかって袋だたきにされる。棟梁の政五郎が仲裁して男にたずねると、西の国からきた番匠だ、という。番匠とは大工のこと。男は気に入られ、棟梁の居候となる。この男はぼうっとしたところがあって、箱根を越えるとき自分の名前を忘れたという。そこで若い大工たちに「ポン州」というあだ名を与えられた。「ポン州か。わしゃ、一度ポン州になりたかった。」

板を削る下働きを担当することになったポン州は、みっちりとカンナを砥いだ。ようやく削った2枚の板を重ねると、板はぴったりと重なり、若い大工が力を込めても一向にはがれない。大工達はおかしな仕事をするものだと呆れる。

上方に帰る前に、政五郎は歳の市で売る恵比寿大黒を彫って小遣い稼ぎをしていかないかと勧める。素直に応じたポン州は二階で食事も睡眠も取らず、一心不乱に何かを作る。数日後、ポン州は小僧に手紙を持たせてどこかに使いにやらせ、「湯に行ってくる」と出かける。そこに三井の使いという者が訪ねてきて、政五郎に「こちらに左甚五郎利勝様がおいでとか、、、」といって大黒様を頂戴にやってくる。政五郎はようやく得心する。

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8月19日から考える 元満蒙開拓団員と三里塚闘争

亡くなった叔父らのことに戻る。彼は樺太の大泊町で駅の助役をしていたときにソ連の捕虜となった。昭和25年頃、厚生省からの連絡によれば、死亡したところはクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)である。

クラスノヤルスクはロシア連邦シベリア中部の大都市である。戦後、クラスノヤルスクの北方80キロのエニセイ川(Yenisei)河畔に原爆製造センターが建設される。ロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedev)著「知られざるスターリン」(現代思潮新社)によると、クラスノヤルスクへの鉄道を建設するために囚人収容所が建てられる。囚人の中には懲役25年以上の政治犯、犯罪人、民族闘争を扇動したとして逮捕された民間人も多数いたという。スターリンの思想や行動、原爆製造センター建設の歴史は、メドヴェージェフの本に詳しく書かれている。

叔父は鉄道建設か原爆製造センターの建設に駆り出され、その間に死亡したのかも知れないというのが漠とした思いだが妥当な推理だ。原爆製造センターの所在は最高の軍事機密であったはずである。それゆえ、よしんば叔父が生きていたとしても日本に帰還できたかは疑問である。生前父は、「弟は現地で結婚し、まだ生きているかもしれない」と云っていた。

戦後の引揚者のことである。引揚者とは非戦闘員の呼び名である。全国各地の農村で「引揚者村」と呼ばれた移住用集落がつくられた。割り当てられた所は痩せた土地が多かった。千葉県成田市の三里塚にも引揚げ者村がつくられた。元満蒙開拓団員も三里塚にやってきた。

1966年、佐藤栄作内閣は閣議で成田空港の建設地として三里塚、芝山地区を決定する。それから国の土地強制収容に反対する半世紀及ぶ三里塚闘争が始まる。国策で欺され翻弄された元満蒙開拓団員は粛然として「怨念」のプラッカードを掲げた。土地収用と土地所有権者への補償問題が今も続く。

開拓地には、茨城県つくば市の作谷地区もある。戦後すぐに「西筑波開拓団」を組織し、払い下げられた軍用地や山林などを開拓し始めた。開拓者の多くは、引揚者や復員軍人であった。痩せた土地で栽培できる芝の生産に携わっていく。

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8月18日を考える 見捨てられた人々ー棄民

長野県と岐阜県境にある恵那山。その東側に阿智村がある。人口6,500人。中央自動車道のそばにある谷間の村である。今は昼神温泉で知られているが、戦前は農村の人口過剰によって、満蒙開拓移民を国内で最も多く送り出した地域といわれる。この村に満州移民史を語る日本で唯一の民間施設「満蒙開拓平和記念館」がある。

「満蒙開拓平和記念館」に残る開拓民募集のポスターから、「楽園幻想」を宣伝文句にしていることが伺われる。ポスターには「北満の沃野へ」という標語がある。国策に誰も抗うことが難しい時代。海外移住というと響きはよいが、阿智村をはじめ全国から北満に移住した人々は戦後、外地に取り残された。移住者を集めるために番付表まで作ったというのだから恐れ入る。

もともと開拓団は関東軍の保護の元に開拓に従事するはずであった。しかし、ソ連の参戦によって兵隊や関係者はいち早く満鉄を利用し、ハルビンや長春、大連などへ撤退し始めた。置き去りにされた開拓団は自力で逃避行をせざるを得なくなった。開拓団の逃避行の有様は、いろいろな記録に残されている。山崎豊子の小説「大地の子」にもある。「棄民」と呼ばれた人々である。満蒙開拓は、八紘一宇、大東亜共栄圏の旗印で生まれた「棄民政策」である。

棄民は満蒙開拓団だけでない。戦前、ブラジル、メキシコ、ドミニカなどの中南米諸国へ移民した人々もそうだ。移民の募集要項を信じて、こうした国々に移住していった。ところが入植地としてあてがわれのは未耕地。開墾作業から始めたという。多くの者は開拓を断念し帰国したが、もはや安住の場所は少なかった。筆者の両親や親戚が昭和の初め、親戚の反対をよそに青森は弘前から移住したのが樺太であった。だが昭和20年、すべての財産を失い「引揚げ者」、あるいは「引揚げ民」として北海道の稚内に上陸した。

女性も国策によって看護婦として満州に送られ、中にはシベリア抑留を強いられた者もいる。ソ連兵に連れ去られ暴行された者もいた。そのドキュメンタリーが放映された。やがて故郷への「ダモイー帰還」がやってくる。だが抑留という過去の経験を親戚や知人が嫌がるのではないかと思い巡らし、帰国は辛いものとなったようだ。「誰も尋ねない、誰にも語れない深い傷を背負った帰還」となった。

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ウィスコンシンで会った人々 その75 匠噺 「浜野矩随」

江戸時代、名工とか名匠と云われる人々があちこちに大勢いたといわれる。経師職人、大工、絵師,木彫り師などである。経師屋だが、城や大名の屋敷が書画の幅や屏風 、ふすまなどを表装する職人である。表具師ともいわれた。今も東京表具経師内装文化協会というのもある。文字通り表具・経師・内装インテリアという3つの大きな業種部門における人材の育成を大きな目的としている。江戸時代の「匠」の技能を今に伝え普及しようとしている。

古典落語に「浜野矩随」(はまののりゆき)という演目がある。江戸は寛政年間、浜野矩康という腰元彫りの名人がいた。その作を求めて浜野家の前に道具屋が列をなして買い競った。その名人が亡くなって女房と一人息子の矩随が残された。しかし、息子の代になって列がぱたり途絶えた。それは矩随の作が誠に未熟であったからだ。それでも商人の若狭屋は先代のよしみで、どんなものでも1分で買い上げた。

今朝も矩随が若駒を彫って持ち込んできた。眠気のために足1本を彫り落としてしまったという。若狭屋は呆れて言う。「小僧達はこれを見て笑っている。下手な作品を作るくらいなら死んだ方がイイ。これからは縁を切るから5両の金を渡す。今後はここの敷居を二度とまたぐではない。死ぬなら吾妻橋から身を投げよ。」

矩随は家に帰り伊勢詣りに行くからと嘘をついたが、母はお見通しで、若狭屋の一件を聞き出した。母親は「死にたければ死んでも良いが、最期に私に形見を彫って欲しい」と観音様を所望した。矩随は井戸の水を浴び、仕事場に入った。隣では母親が神頼みの念仏を唱えていた。4日目の朝、出来た観音を母親に渡した。感心して見とれ「もう一度若狭屋さんに行って30両びた一文まからないからと見せておいで。それでも、まけろと言ったら好きな所に行っても良いよ。」と息子に言い聞かせた。「その前に、お水を一杯ちょうだい。後の半分をお前もお飲み。ではお行き。」矩随が若狭屋から30両を持って帰ると母は自害している。

浜野矩随はその後、父親に優るとも劣らぬ名彫師になったという噺である。

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8月16日を考える

今年の戦後70年談話(Statement)の内容と表現のことが話題となっている。アメリカの家族にもこの談話を読むように伝えた。筆者もわが国の戦前の帝国主義と植民地支配が近隣諸国に与えた影響を総理大臣がいかに総括するかに関心を持っていた。日本語と英語の文章を何度も読み返してみた。文章としては官僚らが良く練って作成されたことが伺われる。長い談話であるだけに、冗長さによって内容が損なわれているのが気になる。「誰が、いつ、どこで,なにを、なんのために」日本を戦争へ導いたのかが不明なのである。

かつての大東亜共栄圏、つまり帝国主義や植民地主義の発想に対する痛烈な反省と悔悟は、時代が変遷しても続けることが大事だと思うのである。「歴史は繰り返す」とは幾たび云われてきたことである。「未来志向の戦略的互恵関係とは、既存の現実の自体が如何なるものか顧みることから始まる」のではないかと思うのである。われわれも近隣の国々の人々も今回の70年談話に反省と悔い改めを期待したはずである。

大戦では310万の日本人が亡くなったと報道されている。各地に忠霊碑も建てられた。その数12,000箇所といわれる。だが、半数は廃墟になっているという。そうした中で、一人で忠霊碑を守る人が紹介されていた。「馬鹿でなければこんなことはできない」と、この墓守は述懐する。黙々と芝を刈り庭を手入れする後ろ姿に犠牲者への思いが伝わってくる。

今年は一国会議員が質問中に「八紘一宇」の標語を引用して注目された。広辞苑には「太平洋戦争期におけるわが国の海外進出を正当化するために用いた標語」とある。「八紘」とは世界、「一宇」とは一つの家の屋根という意味であるとWikipediaにある。しばし考えてみると、「安全保障」や「集団的自衛権」の考え方の遠因には、東亜の共同防衛や共存共栄があるように思える。

「八紘一宇」の呪縛から、われわれはもはや解放されていると考えるべきではない。「八紘一宇」をデマゴーグときめてかかるのではなく、その底に潜む論理はなになのかを反芻することが大事だと思うのである。そのことこそが、「謝罪を続ける宿命を背負っている」ということである。

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8月15日を考える

私は1945年8月15日をなにも覚えていない。かつて母親がこの年の8月に樺太の大泊から引揚げ船で稚内に上陸し、親戚を頼って美幌に落ち着いたことを教えられた。弟は1歳、筆者は2歳7か月、兄は4歳であった。父親は抑留され、数年後に帰ってきた。裸一貫となり家族5人の命だけが残った。

美幌では製材所の長屋があてがわれ、生活が始まった。酷い造りの家屋である。誰もが味わった惨めな引揚げ生活である。特に食料難である。母は3人の子供を連れて農作業をやった。食べ物が少なく、一家心中も考えたことがあったと後々述懐していた。それから馬鈴薯、とうきび、カボチャ、、なんでも作ったという。真冬の最中、とぼとぼ歩いて街の銭湯に通った。帰り道、手ぬぐいはカチカチに凍り付いた。

母の話で怖ろしかったのは、樺太からの引揚げ船上でのことである。瀕死の状態の乳飲み子を抱いた一人の母親がその子を海へを投げ入れたのを目撃したというのである。この話を聞いたのは我々兄弟が成人してからである。母親を前にして「俺たちも投げ込まれなくて良かったな、、、」と冗談気味に言い交わした。

「戦後70年 安倍首相談話の全文」(Statement by Prime Minister Shinzo Abe)を読んでいる。「満州事変、国際連盟からの脱退、、、進むべき進路を誤り、戦争への道を進んでいった。そして70年前、日本は敗戦した。」 誰が加害者で誰が被害者となったのか、、為政者の責任は大きい。

国策として送り込まれた満蒙開拓団の悲惨な逃避行に比べて、樺太からの引揚げはまだましな姿だったかもしれない。だが、船上での一人の女性の苦悩や農作業の母親の労苦を偲ぶとき、そこに深い情愛を感ぜずにはおれない。

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ウィスコンシンで会った人々 その74 葬式噺

貧乏長屋の住人から疎んじられていた卯之助、あだ名は「らくだ」という。あるとき、熊五郎という「らくだ」の兄貴分が訪ねてみると、フグにあたったようで死んでいる。兄貴分は「らくだ」の葬式を出してやろうと考える。そこに屑屋の久六がとおりかかる。熊五郎は、「らくだ」の持物を方付けように久六に依頼するのだが、ろくなものがないので久六は渋る。熊五郎にある考えが浮かぶ。

久六に対して、月番のところへいって長屋の住人から香典を集めるように、と伝える。月番は「らくだが死んだか!」といって喜び、香典を集めを了承して、赤飯を炊こうする。戻ってきた久六に対して、長屋の大家のところへも行って酒と煮染めを持ってくるように伝えろ、と指示する。大家は大の吝嗇、「らくだ」の店賃が大分貯まっているのに料理なんぞ出してたまるものかと剣もほろろに断る。それを熊五郎に伝えた久六、さらに熊五郎から「死骸の置き場に困っている。大家のところに運んできて、”死人(しびと)にかんかん”踊りをさせる」と脅かす。大家は驚かない。本当に死骸が運び込まれると、慌てて酒と料理を届けるという。

さらに久六は八百屋に使いに出させられる。死骸をいれる棺桶代わりに漬け物樽を借りてこいといわれる。八百屋もまた「らくだ」に散々苦しめられていたので、「そうか、フグもよく当ててくれたか、、」といって取り合わない。そこで”死人にかんかん踊り”の話をすると、驚いて「わかった、わかった、何個でも持って行け!」。

香典、酒や肴が集まったところで熊五郎は久六にかけつけ三杯と酒をすすめる。この久六、実は大酒呑み。とうとう酔っぱらって性格が豹変する。そして、酒がなくなると熊五郎に「酒屋にいって酒をもらってこい、もしいやだというなら”死人にかんかん踊り”をやらせるといえ、、」と脅す。攻守ところが変わるのが可笑しい。

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ウィスコンシンで会った人々 その73 夫婦の情愛噺

山手線田町と品川の間に新しい駅ができる。その名前がいま話題となっている。「芝浜」が一つの候補。新品川などという洒落にもならない駅名はご免だ。車内放送で「次は芝浜、芝浜、財布を忘れないように」と流れると面白い。JR東日本の社長は粋か無粋かが注目である。

芝は金杉に住む魚屋の勝五郎。良い腕をしているのだが怠け者。年越しも近いというのに、相変わらず仕事を休み、ササを食らって寝ているばかり。女房の方はいても立ってもいられなくなり、真夜中に亭主をたたき起こして、このままじゃ年も越せないから魚河岸へ仕入れに行ってくれとせっつく。

勝五郎はしかたなく、芝の浜に出て時間をつぶすことにする。海岸でぼんやりとたばこをふかし、暗い沖合いを眺めているうち、だんだん夜が明けてくる。波打ち際に手を入れると、ボロボロの財布に触る。指で中をさぐると確かに金貨。二分金で四十二両。

こうなると、商売どころではない。当分は遊んで暮らせると、家にとって返し、あっけにとられる女房の尻をたたいて、酒を買ってこさせ、友達とドンチャン騒ぎ。そのまま酔いつぶれて寝てしまう。

不意に女房が起こすので目を覚ます。
女房 「年を越せないから仕入れに行ってくれ」
勝五郎 「金は四十二両もあるじゃねえか」
女房  「どこにそんな金があるの。おまえさん、夢でも見てたんだよ」
勝五郎  「おかしいな、金を拾ったのは夢、酒を飲んで大騒ぎしたのは本当か、、、」

今度はさすがに勝五郎、自分が情けなくなり、それから酒はきっぱりやめて仕事に精を出す。

それから三年。すっかり改心して商売に励んだ勝五郎。得意先もつき、小さいながら店も構えている。大晦日、片付けも全部済まして夫婦水入らずという時、女房が見てもらいたいものがあると出したのは紛れもない、あの時の四十二両の財布だ。

サゲは是非ご自身で確かめて貰いたい。酒と夢と夫婦の情愛が秀逸である。

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ウィスコンシンで会った人々 その72 夢噺

筆者も毎晩のように夢をみる。現実の体験のようなことが拡がる。観念や心像だが、後悔や願望も現れるようである。去る2015年7月17日に夢が元で話がこじれる笑いを取り上げた。名奉行?までもが夢の話を聞きたいというものである。▽ウィスコンシンで会った人々 その49 名奉行噺 http://naritas.jp/wp1/?p=1992

夢の分析は古代バビロニアにもあったというから驚きである。夢は何かを象徴しているとされる。その元は経験である。従って、夢を分析すれば神経症の治療にも役立つとしたのがユング(Carl Yung)である。

落語に戻る。落語に出てくる夢噺には、多くの場合現実に起こりにくい事象を夢の中で再現しようとする願望が現れている。それは、いつも尻に敷かれている旦那がなんとかして、女房を見返したいとか、酒癖が悪くそれがもとで身を持ち崩すが、たまたま品川の海辺で拾った金で酒宴を開き、目覚めたとき女房から「夢でもみたんじゃないか、、」といわれ、それから立ち直って懸命に働き始める。有名な「芝浜」の一節である。

眠りながら鼻水の提灯をつくっていて、女房に起こされ、「お前さん、いったいどんな夢を見ていたの?」と夢の話をせがまれる旦那。これが「天狗裁き」。夢の中でうなされていた盲目の旦那が「あああ、夢か。。。お竹、おらあもう信心はやめるぜ、、」「どうして?」「目が見えるって妙なものだ。寝ているうちだけ、よぉーく見える」という「景清」。

「欲深き人の心と降る雪は、積もるにつけて道を忘るる」という狂歌を枕にして始まるのが、「夢金」という演目である。船頭の熊蔵が駆け落ちをしようとした扇屋という商家の女を送り届けると、旦那が喜んで五十両の紙包み二つをお礼として差し出す。熊蔵は紙包みを両手で強く握りしめる。「ああ、痛え、、」すべては夢で、目が覚めた熊蔵は自分の大事なモノを強く握りしめていた。

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ウィスコンシンで会った人々 その71 道楽噺

伊勢屋の若旦那、吉原通いにはまっている。怖いのは親父。湯屋に出掛け帰り際にばったり出会ったのが、貸本屋の善公である。「善公、おまえ他人の声色が上手かったな、わたしの代わりをしておくれ」。若旦那は善公に代役を押し付けて吉原に出掛けようとする。

善公、駄賃として袴をくれるというので断りきれない。言われるままに若旦那の部屋に入り代役を引き受ける。一階に住む大旦那、「おい、倅、今朝がた干物をもらったはすだ。どこに置いたんだ?」善公としてもそんな細かい話は聞いていない。「干物箱でしょう。」「うちに干物箱なんてない。」そんなやりとりで何とか大旦那の追及をかわす。

ひと安心した善公は、若旦那が花魁から受取った手紙を見つける。それを元に若旦那から金をせびろうと考える。ところが手紙に書かれていたのは、善公への悪口雑言である。善公がふんどしを忘れ、その匂いが四方八方までひろがるというのだ。そこで役所がDDTを撒くというのを読んで、「ひでえな、馬鹿だ、カスだなんて。花魁、ひでえよ!!」、大声を張り上げるので、大旦那にすっかりバレてしまる。

そこへ戻ってきたのが若旦那。窓際で声を掛ける。
若旦那 「おい、善公、紙入れ(財布)、紙入れ、忘れちまった、投げてくんな!」
親父 「バカヤロー」
若旦那 「おっ、善公うめえもんだ。親父にそっくりだ」
「干物箱」という演目である。

「唐茄子屋政談」の主人公も道楽で身を持ち崩し苦労する。商家の若旦那、徳兵衛は、道楽が過ぎて勘当され、親戚を頼っても相手にされず、友人からも見放され、吾妻橋から身を投げようとする。そこへ若旦那の叔父が偶然通りかかり、若旦那を押しとどめる。叔父の家で食事をあてがわれた若旦那は、「心を入れ替え、何でも叔父さんの言うことを聞く」と約束する。

翌朝、若旦那は叔父に起こされ、「お前は今日から俺の商売を手伝え。天秤棒をかつぐのだ」と命じられる。叔父の職業は唐茄子、カボチャの行商人であった。若旦那はひとりで慣れない重い荷物をかついで歩くうち転び、カボチャをばらまいてしまい、思わず「人殺しィ!」と叫ぶ。若旦那の叫び声を聞きつけた人々が集まってくる。若旦那の身の上話を聞いた人々は同情し、カボチャを買う。カボチャは残り2個になる。

通りでは、ほかの行商人たちが売り声を張り上げている。若旦那も負けじと声を出そうとするが、勇気が出ない。人気のない田んぼ道で売り声の練習をしているうち、そこが花街の近所であることに気づき、遊女との甘い思い出に浸るうち、売り声が薄墨のようにか細くなるという噺である。

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ウィスコンシンで会った人々 その70 「舞台番」に「湯屋番」噺 

「舞台番」や「湯屋番」には、うつけ者、お目出度い者が登場するというのが一般である。決して根性が悪いのではないのだが、一本調子なのである。そこがまた可笑しい。今は、舞台小屋も銭湯も数少なくなったが、江戸の情緒はこうした場所に漂う。

「蛙茶番」という一席である。とある商店で、店内に舞台をしつらえ、店員や出入りの商人とで『天竺徳兵衛噺』を演じることになる。くじ引きで配役を決まる。当日になり、巨大なガマガエル役の伊勢屋の若旦那が、仮病を使って休んでしまった。そのため芝居の幕を上げることができず、舞台上で一切を取り仕切る役の頭取、番頭は困り果てる。番頭は丁稚の定吉を代役に仕立てることにする。定吉からは安くない駄賃と休暇を要求される。

番頭は、舞台袖で客の騒ぎをしずめる役の「舞台番」を担当するはずの建具屋の半公がいつまで待ってもやって来ないことに気づく。定吉が迎えに行くと、半公は怒っていて「いい役をやらせてもらえると思ったら、こんな裏方なんかやっちゃいれない」と定吉にこぼす。引き返してきた定吉の報告を聞いた番頭は、「半公が岡惚れしている小間物屋の娘、みい坊の名を使って半次を釣れ。『素人役者なんかより、半ちゃんの粋な舞台番を観たいわ』と言っていた、と半公に吹き込め」と半公のところに再度行かせる。それを聞いた半公はすっかりポーッとして舞台番で登場するが、とんでもないものを客に見せてしまう。

次に「湯屋番」である。吉原通いに夢中になって勘当され、出入りの大工、熊五郎宅の二階に居候中の若旦那。しかし、まったく働かずに遊んでばかりいるので、居候先の評判はすこぶる悪い。とうとうかみさんと口論になり、困った棟梁は若旦那にどこかへ奉公に行くように薦めた。
「奉公ですか? 良いですねぇ、ご飯がいっぱい食べられる」
『それでは、家で殆ど食べさせてないように聞こえるじゃないですか』と文句を言う熊五郎。
「もちろん頂いてますよ、『死なない呪い』程度にね」

何でも、熊五郎の外出中にご飯を食べようとすると、必ず御かみさんが傍に張り付き、給仕と称して嫌がらせをすると言うのだ。
「お櫃のふたを開けるとさ、おひつを濡れたしゃもじでピタピタと叩き、平たくなった上っ面をすっと削いで茶碗に乗せるんだよ。見かけは一杯だよ、だけど中身はガランドウだ、お茶をかけたらすぐ終わり!」

それじゃあ可愛そうだ。何とかすると言い、改めて奉公の話をすると「日本橋に奴湯っていう銭湯があるんだ。あそこで奉公人を募集してるって話だから、行ってみようと思うんだ」

銭湯といえば湯屋番。若旦那は喜び勇んででかけるのだが、そこでの仕事というのは町内での薪集め。火事場などから古材を買ってくるのである。江戸の華といえば火事と喧嘩。木造の長屋が多かった江戸では薪は不自由しなかったようだ。

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ウィスコンシンで会った人々 その69 「家見舞い」噺 

ある二人組男。この兄貴分が所帯をもち家を建てた。その引越祝いにと、二人の男は水瓶を贈ろうと考える。だが、銭を持たない二人。いろいろ考え、古道具屋なら安いものがあるのではと歩き回る。当然そんな水瓶があるわけがない。

困っていると、ある古道具屋の主人がこの瓶なら金はいらないという。二人は喜ぶが、なぜかその瓶には水がいっぱい張ってある。早速、差し担いで運ぼうとする。

道具屋 「あんた方、それを何に使いなさる?」
二人組男 「水瓶だよ」
道具屋 「そりゃいけねえ。見たらわかりそうなもんだ。おまえさん方、毎朝あれにまたがるだろう」
二人組男 「ん……? 毎朝またがる? 」

よくよく見ると、果たしてそれは紛れもなく、もとの肥瓶であった。しかし、タダという言葉には勝てず、二人はその瓶を引き取る。そんなわけで瓶を手に入れた二人、そのまま渡したらバレるであろうから、まず瓶に水を張り、湯屋に行ってさっぱりして兄イの新宅に瓶を持っていく。

何も知らず、もらった兄イは大喜びし、お礼にと酒を振る舞いご馳走をしてくれる。ご飯に焼き海苔、おしたし、香の物、湯豆腐。うめえ、うめえと食っているうちに、ふと気づいて二人、腰が抜けた。出される料理はどれもその瓶から汲んだ水であつらえられている。

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ウィスコンシンで会った人々 その68 講中噺 

リーダーを中心に今も昔も団体旅行は盛んである。古くは伊勢詣や熊野詣、金比羅詣りなど信心深い人々。先達というまとめ役を先頭にして何日もかけて無病息災を祈って出掛けた。

相模国、神奈川県の名山に大山がある。丹沢の山々とともに丹沢大山国定公園に属し、日本三百名山や関東百名山の一つで美しい姿をみせている。大山は江戸時代に山岳信仰で盛んになった大山詣りで知られている。江戸からは先達が中心となって講中という相互扶助組織の男達が団体で山に登った。

大山の山頂には大きな石を御神体として祀った阿夫利神社の上社があり、中腹に阿夫利神社下社、大山寺が建っている。大山は別名を「阿夫利山」、「雨降り山」ともいわれる。阿夫利神社には雨乞いの神を祀られている。大山はもともと女人禁制。大山詣りというのは表向きで、大山詣りの後には男たちの楽しみがあった。男だけの大山講になっていた。

講中噺の古典落語の代表が「大山詣り」。ホラ吹きの熊による講中の金沢八景沖における水難遭難報告から、女房連中が一斉に剃髪して尼になるという噺である。途中のエピソードは飛ばすが、主人公のホラ熊が大山詣りから長屋に一人で帰ってくる。そして残された女房達に男連中は全員溺れて死んだと報告する。そして自分は、僧侶になって菩提を弔うためといって坊主頭を見せる。それを見た女達は遭難を信じてしまう。ホラ熊に唆されて尼さんになろうとして剃髪する。

そうとは知らない講中の一行。帰ってみると、長屋中「忌中」の札が張ってある。そして百万遍が聞こえてくる。

ホラ熊 「さ〜ぁ、みなさん、死んで間もないから、亡者が入口あたりで騒いでいる、しっかりお念仏を唱えてくださいよ。」
女房達 「あら、いやだ。うちの旦那だわ。」
男達 「誰がこんな事を。熊の野郎か。お前は決め式で坊主になったのだろう。」
ホラ熊 「ワラジを履いている内は旅の最中だ。腹を立てたら二分ずつ出しな。」
男達 「う〜ぅ。先達さ〜ぁん、、、?」
先達 「これは目出度い事だ。」
男達 「あんたのかみさんも坊主なんだぞ?どこが目出度いんだ?」
先達 「お山は晴天、家へ帰ればみんなが坊主、お毛が(怪我)なくってお目出度い。」

A1903450-1_im  阿夫利神社118925619777716113779 相模の大山

ウィスコンシンで会った人々 その67 吝嗇噺

以前、「ドケチ噺」を取り上げた。ケチは吝嗇ともいう。広辞苑には「吝嗇」を過度にもの惜しみをすることとある。度を越した節約ぶり、ケチのことである。かつては、落語では「三ぼう」という言葉があった。どんな観客にも不快を催させない、といわれそれぞれの語尾からとられた。

まずは「泥棒」。落語の中ではどんなに悪く言っても、自ら名乗りでて怒鳴り込んでくる泥棒はいない。次に「けちん坊」。わざわざ金を出して噺を聴き笑いに来る客にケチな人はいない。最後は「つんぼう」。耳の聞こえない者は落語を聴きにこない。今では差別語とされるが、落語の噺なのでお許しをいただこう。

▽吝嗇にまつわる小咄がいろいろとある。ケチの人間を俗に「六日知らず」という。なぜなら一般に日付を勘定するときには、「1日、2日、、」と指を折っていくが、吝嗇家は6日目を勘定しようとすると、一度握った指を開くのが惜しくなってしまうそうだ。

▽ある男の向かい側の家が火事で丸焼けになった。それを知った男は、妻に焼け跡から種火を取って来させようとした。当然、相手は怒る。男はふてくされ、「今度こっちが火事になっても、火の粉もやらん」

▽ある大店の旦那。10人の使用人を雇っていたが、節約のために5人にする。それでも仕事に余裕があるので、その5人も解雇し、夫婦だけで経営を続ける。主人は自分ひとりでも仕事が間に合う、というので妻と離縁し、最後には自分自身もいらない、と自殺してしまう。

▽ケチの親子が散歩をしていると、父親が誤って川に落ちてしまう。泳げない息子は通行人に助けを求めるが、ケチの通行人は「助けはお代次第」という。値段交渉になり、2千円、3千円、4千円と値が釣り上がっていく。沈みかけている父親が叫んでいわく「もう出すな! それ以上出すなら、俺は潜る(または、「それ以上出すぐらいなら、もう死んでしまう」)」

▽店の内壁に釘を打つことになり、主人は丁稚に、隣家からカナヅチを借りてくるよう命じる。丁稚は手ぶらで帰ってきた。隣家の主に「打つのは竹の釘か、金釘か」と聞かれ、丁稚が金釘だ、と答えると、「金と金(金属同士)がぶつかるとカナヅチが擦り減る」と言って貸してくれなかったという。主人は隣人のケチぶりにあきれ果てて、「あんな奴からもう借りるな。うちのカナヅチを使え。」

▽男は「1本の扇子を10年もたせる方法」を考案した、と言い出す。半分だけ広げて5年あおぎ、次の5年でその半分をたたんで、残りの半分を広げて使う、というものだ。男は「始末はしてもケチはしてはいかん」と評し、「わしなら孫子の代まで伝えてみせる。扇子は動かさんと、顔の方を動かす」。

▽うなぎ屋の隣に住んでいる男。飯時になると、うなぎ屋から流れてくるかば焼きを焼く匂いをおかずにして飯を食べていた。それを知ったうなぎ屋が、月末に「匂いは客寄せに使こうてるさかい、代金を支払え」と言って家に乗り込んでくる。

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ウィスコンシンで会った人々 その66 死人噺

猛暑の時候。少しは涼しくなる話題といきたい。以前「片棒」という演目を紹介した。赤にし屋ケチ兵衛はある時三人の息子のうち一人に店の身代を譲ろうと考え、三人の金銭感覚を試すために自分が死んだらどんな葬式をだしてくれるかを話させる、という演目であった。自分が死んで入れられている棺桶の片棒を自分が担ごう、と申し出るケチの噺である。

長屋に住むのが卯之助。あだ名を「らくだ」という男。そのらくだの長屋に、ある日兄貴分の熊五郎がやってくる。返事がないので入ってみると、何とらくだが死んでいる。フグにあたったらしい。兄弟分の葬儀を出してやりたいが、熊五郎だが金がない。考え込んでいると、上手い具合に屑屋の久六がやってきた。早速、久六を呼んで室内の物を引き取ってもらおうとするが、それまで久六はらくだの家財道具はガラクタばかりを引き取らされたらしく断られる。ますます困る熊五郎。

「月番を呼んでこい」と久六を月番の所に行かせ、長屋から香典を集めてくるよう言いつけさせるの。久六は断るが、仕事道具を取られ、しぶしぶ月番の所へ。「らくだが死んだって? フグもうまくあてやがったか!」と喜ぶ月番。香典の申し出には「一度も祝儀を出してもらったことはない」と断るが、結局「赤飯を炊く代わりに香典を出すよう言って集めてくる」と了承した。

安心した久六だが、らくだ宅に戻ると今度は大家の所に通夜に出す酒と料理を届けさせるよう命令される。ところが、大家は有名なドケチ。そのことを話すと、熊五郎は「断ったらこう言えばいい」と秘策を授ける。死骸を文楽人形のように動かし、久六に歌わせて「かんかんのう」と踊らせる。本当にやると思っていなかった大家、縮み上がってしまい、酒と料理を出すと約束する。

可哀想に、またもや久六は八百屋の所へ「棺桶代わりに使うから、漬物樽を借りてこい」と言い渡される。しぶしぶ行くとやはり八百屋はらくだの死を喜び、申し入れは断わる。久六が「かんかんのう」の話をすると「やってみろ」と言われる。「つい今しがた大家の所で実演してきたばかりだ」と言うと「何個でもいいから持っていけー!」。

これで葬式の準備が整った。久六がらくだ宅に戻ると、大家の所から酒と料理が届いている。熊五郎に勧められ、しぶしぶ酒を飲んだ久六。ところが、久六という男、普段は大人しいが実はものすごい酒乱。呑んでいるうちに久六の性格が豹変する。もう仕事に行ったらと言う熊五郎に暴言を吐き始める。これで立場は逆転、酒が無くなったと半次が言うと、「酒屋へ行ってもらってこい! 断ったらかんかんのうを踊らせてやると言え!!」

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ウィスコンシンで会った人々 その65 親孝行噺

越後の小さな松山村に、18年間毎日両親の墓参りを欠かさないという百姓がいた。名前は正助。それがお上に聞こえ、褒美を貰うことになる。無欲な正助は、地頭が申し出る褒美に全く関心を示さない。「金を貰えばそれを使って働かなくなる」とか、「土地をもらっても小作人を雇わなければならない」、「新しい服をもらっても着る機会が無い」、、といって断る。地頭も正助の真面目さに少々困惑する。そして正助に云う。「それでは、お前が欲しいものを必ずかなえてやろう」

正助はそこで「18年前に死んだ父親に、夢でもいいからもう一度だけ会いたい」という。困った地頭、思案して「父親は何歳で無くなったのか」ときく。45歳であることがわかる。そして正助も45歳であった。二人は瓜二つの顔をしていたことを聞き出す。しめた、とばかり地頭は家来に鏡を持ってこさせる。松山村には鏡というものがなかった。

正助は鏡を見て「おとっつあん、、、」と感涙にむせぶ。まだ鏡というものを知らない。それを大事に持ち帰り、納屋の古葛籠中にしまっておく。それからは、毎日納屋に通い、とっつあんに会うのである。正助が蔵に出入りするのを不思議がった女房のお光が、正助のいない間、納屋に入って鏡を見つける。それを見て驚く。「何だぁ、この女は?」写った自分を夫の愛人と勘違いし、お光は嫉妬に狂って泣きだす。そして帰ってきた正助とつかみ合いの喧嘩となる。

そこに通りかかった隣村の尼。二人の話に割って入り、二人の言い分をきいてから、「その女に会ってみるべ、、」ということになる。鏡をみると二人にいう。「正さん、お光さん、喧嘩しちゃいかん、お前さんらが喧嘩するんで、この女きまりが悪いって尼さんになって詫びている、、、、」
この演目は「松山鏡」。文楽や志ん生名人の話芸は聞き応えがある。

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ウィスコンシンで会った人々 その64 地噺と「塩原多助一代記」

この落語シリーズの46で「鰍沢」という地噺を取り上げた。http://naritas.jp/wp1/?p=1969
地噺は笑いを誘うというよりは、語りで聞かせようという落語である。今回は、五代目名人古今亭志ん生が演じる「塩原多助一代記」である。演目のようにかなり長大なストーリーとなっている。落語でしばしば演じられるのは、「多助序」と「青との別れ」である。

塩原多助は実在の人物で、後に「塩原太助」となり江戸で冨をなした人といわれる。そのためか、歌舞伎や浪花節の演目としても脚色されたようである。以下、「多助序」と「青との別れ」である。
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裕福な塩原角右衛門が亡くなる。彼には後妻のお亀がいた。その腹違いの息子、多助が将来家を継ぐはずなのだがお亀には邪魔になり、色と欲に目がくらんで愛人、原丹治と一緒に多助を亡き者にしようと画策する。

ある夜、お亀は多助に隣の元村まで油を届けるように頼む。その途中で多助を殺す手はずをする。多助は愛馬、青を曳いて出掛ける。ところが隣村との境にくると青がどうしても先へと進もうとしない。なんとしても青は動かない。困っているとそこに朋輩の円治郎が通りかかる。事情をきいた円治郎が代わって青を曳いて隣村に向かう。そしての元村の庚申塚で円治郎は丹治にめった切りにされる。青は逃げ帰る。

多助が家に戻るとお亀は驚く。そして多助が円治郎を殺したに違いないとでっち上げる。馬の青が丹治を見ると激しくい鳴くのを多助は見て、丹治が円治郎を殺したことを確信する。多助はもはや塩原家に住まうことは困難だと判断し青と別れ江戸に向かう。

落語は笑うだけでない。会話や仕草といった通常の演出を避けるのが地噺。叙物語をしみじみ聴くことにも楽しみがあると思うのである。「多助序」と「青との別れ」はそれを感じさせてくれる。

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